2007年8月26日 (日)

俗流若者論ケースファイル85・石原慎太郎&宮台真司

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 他山の石書評雑記(フリーライター小林拓矢のブログ):[雑記][社会学]社会学の嫌われ者
 冬枯れの街~呪詛粘着倶楽部~:大澤真幸の憂鬱
 女子リベ  安原宏美--編集者のブログ:“子どもたちが危ない”…数字的には「?」

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 世代論が権力を免責する、という構造を、私はこのシリーズの一つ前の回(「俗流若者論ケースファイル84・河野正一郎&常井健一&福井洋平」)で述べた。要するに、例えば若年層の労働環境をめぐる問題などに関して、非正規、派遣労働者の待遇や賃金の問題であるとか、あるいは学校から労働市場への参入の問題などが取り沙汰されるべきなのに、それをぼかして「日本人の働き方に関する見方が変わりつつある」と述べて、「根本的な」解決策や、「メタ的な」議論のほうが尊重されるという傾向は、まさにそれである。客観的に観測できるような問題を無視して、個々人の内面ばかりを問題視するというのは、根本的にもっとも残酷な日和見主義に過ぎない。

 さて、ブログ開設2年9ヶ月、「俗流若者論ケースファイル」シリーズ85回目にして、ついにこの人を批判することになろうとは思わなかった。首都大学東京教授、宮台真司である。今回検証するのは、宮台と石原慎太郎(東京都知事)による対談「「守るべき日本」とは何か」(「Voice」平成19年9月号)である。この対談は、どちらかといえば、東京都の青少年政策の宣伝という側面が強いが、それを推し進めるための前提として、現代の青少年が置かれている「現実」を語る、という趣旨のように見える。

 ところが、石原も宮台も、青少年問題についての基本的な認識が欠落しているとしかいいようがない代物なのだ。本書で取り扱われている青少年問題は、「ニート」についてと、「セカンドライフ」に付いてであるが、のっけから石原と宮台は、以下のようにいってしまう。

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石原 ニートがニートとして生まれた、いちばんのゆえんは何ですか。彼らはただの穀潰しだと思うね。要するに、抱えている家庭に余裕がなかったらあんな存在なんて成立しえないでしょう。

宮台 そのとおりです。でも、ひきこもりは人から「穀潰し」といわれ、自分でそう思っても前に踏み出せず、社会に復帰できません。彼らが「反社会的」であれば「穀潰し」の批判が有効ですが、「脱社会的」なのです。問われるべきは若い世代から大規模に社会性が脱落した理由です。(石原慎太郎、宮台真司[2007](以下、断りがなければ全てここからの引用)pp.80)

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 少なくとも私は、私と宮台と宮崎哲弥、そして内藤朝雄の対談において、宮台が「ニート」は疑似問題であり、むしろ「ニート」を、それこそ穀潰しであると批判している方こそ問題であると述べていたはずだ。以下、引用する。

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宮台 (略)僕から付け加えると、まず旧来の「今時の若者は」的攻撃に加えて、昨今目立つのは、流動性不安がもたらす「多様性フォビア」としての若者フォビアです。処方箋は流動性フォビアの手当て。次に、本家英国と違い「失業者を含まない」日本版ニート概念は初期のフリーター批判と同じく怠業批判ルーツで、「こいつらが日本を滅ぼす」と言いつつ馬鹿オヤジが10年後の年金を心配する俗情がある。(略)最後に、スキル上昇(フリーター対策)から動機づけ支援(ニート対策)に自立支援策を拡げ、ポストと予算を獲得した公務員がいる。(略)(宮台真司、宮崎哲弥[2007]pp.100-101)

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 このような分析に、少なくとも私は大筋で同意する。また、宮台も『「ニート」って言うな!』を読んだはずであれば、我が国において「ニート」と呼ばれている人たちのおよそ半分が、「非求職型」すなわち就労意欲はあるものであるということも御存知であるはずだし、昨今増加した「ニート」もこの層の増加が原因であるということも知っているはずだ。

 さらに宮台は、《ひきこもりは人から「穀潰し」といわれ、自分でそう思っても前に踏み出せず、社会に復帰できません。彼らが「反社会的」であれば「穀潰し」の批判が有効ですが、「脱社会的」なのです》と述べるが、少なくとも最近の井出草平の著書などに見られるように(井出草平[2007])、「ひきこもり」=「脱社会的」と安易に断じることはできない。井出は、むしろ規範に対して敏感であるからこそ不登校から「ひきこもり」に至った事例もある、ということを示している。

 もう一つ言うと、「ニート」や「ひきこもり」について宮台の言う、「彼らは「反社会的」ではなく「脱社会的」である」という物言いは(ついでに言うと、このような物言いは、芹沢一也が指摘するとおり(浜井浩一、芹沢一也[2006])、平成10年ごろから、宮台が少年犯罪を説明するために活発に使用していたものだ)、一見すると彼らに対して「理解」を示すようなそぶりを見せながら、実際には単なる説教(それこそ「穀潰し」批判みたいに)よりも実害が大きいと私は考えている。なぜなら、第一に、少年犯罪については、過去の事例を探せば「脱社会的」と言えそうなものなどいくらでも見つかる(例えば、昭和40年10月に起こった、中学2年生の少年が、異性に対する興味から近所の主婦を殺した、というもの。詳しくは赤塚行雄[1982]を参照されたし)。第二に、そのような「定義づけ」をさせることによって、例えば統計的な状況(少年犯罪は増えていない、など)を無視する口実として使われるからである。第三に、第二の理由を引き金として、根本的に間違った政策が構築されてしまう可能性があるからだ。

 現にそのような危険性は、以下の発言にも表れている。

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石原 ニートの悪いところはそういう依存性、甘ったれた考え方だよね。それは何が醸し出したんですか。

宮台 郊外化です。第一段階の郊外化が一九六〇年代の「団地化」。「地域の空洞化」を埋め合わせる「家族への内開化」が内実です。専業主婦の過剰負担ですね。第二段階の郊外化が八〇年代の「ニェータウン化」。「家族の空洞化」を埋め合わせる「市場化&行政化」が内実です。コンビニ化ですね。これに今世紀に拡大した「ネオリベ(新自由主義)化」が加わり「貧しくても楽しいわが家」どころか「豊かでないかぎりコミュニケーションから見放された環境で子供が育つ」。脱社会化の背景です。(pp.81)

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 少なくともそのような戯れに興じているのであれば、少なくとも多くの「ニート」論の多くが的外れであることを証明したほうがいいのではないか、と思うのだが。言うまでもなく、このような物言いは、例えば労働法をめぐる問題などを隠蔽する。

 同様の危険性は、以下のような発言にも表れる。

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宮台 それをどう呼ぶかは別にして、「世間の空洞化と母子カプセル化を背景に、親に抱え込まれ、社会を生きる力を失った存在」にどう規範や価値を伝えるかです。今期青少年問題協議会の冒頭、「ニート問題は規範や道徳の伝達の問題ではなく、伝達のベースになる台がなくなる『台なし』の問題だ」と申しあげました。

 友達や家族と一緒に映画を見て、周りが「ダメな映画だ」と語り合うのを聞き、映画が再解釈される経験が年少者によくあります。そこに注目したのがクラッパーの限定効果説。「子供がもつ素因が刺激の有害性を決める」という仮説と「子供の周囲の人間関係が刺激の有害性を決める」という仮説の複合です。刺激が素因を育てるのではないとします。

 要は情報は単独で有害無害を論じられず、情報をやりとりする「社会的基盤=台」によって意味や意義が変わります。穀潰しだと非難しても、ニートが「穀潰しですが、なにか?」と非難の意味を理解できない可能性があります。道徳や価値を伝える言葉一般にいえますが、自分も相手も同じ台の上に乗っていると感じられるからこそ説教を聞く。そうした台がない「台なし」では道徳的説教は無効です。(pp.83)

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 要するに宮台は、「ニート」については、例えば若年層の過酷な労働環境を解決したり、あるいは「ニート」を問題化する方を問題化するのではなく、まず《「世間の空洞化と母子カプセル化を背景に、親に抱え込まれ、社会を生きる力を失った存在」にどう規範や価値を伝えるか》どうかの問題として考えていると言うことか。私が聞いた発言と、どちらが本音なのだ。そもそも宮台が、「ニート」について《規範や道徳の伝達の問題》と《伝達のベースになる台がなくなる『台なし』の問題》を対立軸に置いているのが気になる。また、以下のような発言もある。

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石原 やっぱり僕は親子三代で住まなくなったことが、日本の家族にとって致命的な欠陥になったと思うね。

宮台 柳田国男ですね。日本の農村では両親が生産労働に生活時間の大半を費やすので、爺ちゃん婆ちゃんが孫を育てることで社会性が伝承される、と。広田照幸のいうように、日本には親が子供を躾ける伝統がなく、世間の空洞化と母子カプセル化でむしろ躾は増大してきた。でも同時に窓意性(世間と関係ない親の勝手)も増大するから、親のいうことに従わなくなるか、従った結果かえって社会を生きられなくなる。先の依存的暴力にも関連する問題ですね。(pp.82)

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 とあるが、少なくとも広田照幸を引き合いに出すのであれば、「家庭の教育力の」低下という言説が虚構であることくらい知っていると思うのだが。

 この対談においては、宮台が石原に対して、青少年の「現実」を説明し、それを石原が解釈する、という形式で話が進んでいる。ただし、その宮台の「現実」の解釈が極めて恣意的というか、客観的、あるいは統計的な広がりや内容よりも、まず「現実」のヴィヴィッドさ、あるいは見た目の新奇性が優先するようで、それについては、以下に採り上げる「セカンドライフ」をめぐる言説にも現れている。少々長くなるが、引用しよう。

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宮台 はい。ソニーが「ホーム」という新しいメタヴァースを発表しました。こちらはユーザーの自由度が小さい配給制的空間です。こうした事例は公共性論として重大な問題を提起します。「この社会に意味があるか」にも関連します。要は「この現実が嫌なら『セカンドライフ』に出て行け」「『セカンドライフ』が嫌なら『ホーム』に出て行け」といえるのです。すると第一に、この現実を公正なものにすることや面白いものにすることへの需要が減ります。それでよいのか。第二に、そのぶんセカンドライフに「逃亡」する人が増えますが、今日の物差しでは「ひきこもり」に該当する彼らをどう評価すべきか。

 石原 感覚的にはわかるけれど、バーチャルゲームだけやっていて食べていけるの?

 宮台 彼らは「セカンドライフ」上では活動的なのです。生活保護を受けながら「セカンドライフ」で億万長者として暮らす者もいます。二十四時間中睡眠に五時間、食事に一時間使い、残りを「セカンドライフ」内の経済活動に充てて専用通貨を稼ぎ、換金してカップラーメンを買ってすするという生活です。

 石原 しかし、バーチャルな世界で味わう満足感は結局、いつか崩れて消えてしまうでしょう。

 宮台 それでもこれからはそういう人が増えます。そうした流れを認識することがニート問題に近づく一歩です。ニートには、「現実に怯えて前に踏み出せない者」と、「わざわざ訓練して社会に出ることに意味を認めない者」が含まれます。前者は、経験値を高める訓練で不安を克服すればOKです。後者は「自分が自分であるために社会や他者が必要」と感じないように育ち上がっており、簡単に引き戻せません。愛国教育や道徳教育が足りないのでもない。国にコミットする以前に、社会にコミットしないのですから。(pp.85)

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 ソースは忘却したが、少なくとも我が国の「セカンドライフ」についての評判は、広告や起業の盛り上がりばかりが先行しすぎて、我が国のユーザーはむしろ置いてけぼりにされている、という話が聞いたことがあるが、それはさておき、宮台は「セカンドライフ」を引き合いに出しておきながら、それをめぐる我が国の客観的な情報(加入率、評判など)を採り上げることは一切ない。

 いや、それは以下に挙げる問題に比べればたいした問題ではないのかもしれない。この言説における宮台の最大の問題点は、例えば《生活保護を受けながら「セカンドライフ」で億万長者として暮らす者》がいることは採り上げるけれども、そこから一気に跳躍して《それでもこれからはそういう人が増えます。そうした流れを認識することがニート問題に近づく一歩です》などと語ってしまうことだ。要するに、宮台の「社会分析」みたいなものに必要なのは、客観的、あるいは統計的なデータよりも、自分が見聞きした(見た目的に)新規な事例のほうが優るということか。内田樹とどこが違うのだ。「脱社会的存在」をめぐる言説と同様、底が知れた、というべきか。

 宮台の語る、「「ひきこもり」などに代表されるような「脱社会的」な人たちが、現実での承認に嫌気がさして「セカンドライフ」や「ホーム」に逃げ込む」という言説は、例えば香山リカの「精神的にも肉体的にも劣化した存在が、「セカンドライフ」に逃げ込む」などといった言説と同様に、利用者の社会的な属性などと照らし合わせて検証される必要がある(なお、既存のインターネット・コミュニティに関する研究については、例えば池田謙一[2005]や、宮田加久子[2005]がある)。佐藤俊樹だっただろうか、情報社会に関する未来予測というのは、それがいまだに実現していない未来を語っている故、未来に託して結局のところは自分の思想を語っているに過ぎない、という言説を述べていた人がいたが、宮台の「セカンドライフ」論はまさにそういうものだ。

 ところで、この対談の終盤において、石原は以下のように語っている。

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石原 やはり、日本文化の独自性、個性をどうやって抹消させずに維持するかという問題に繋がってくると思う。人間というのは、精神や感性、情念のある不思議な動物だから、それぞれ違った風土や文化を生み出し、それが時間と空間に撫でられることで文明がかたちづくられたわけだけれど、結局、文化までもが個性を喪失すれば、その国はキンタマを抜かれた男みたいな存在にしかならない。(pp.88)

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 このような認識は宮台にも共有されているようで、この直後に、

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宮台 三島由紀夫がそんな状況を「博物館的文化主義」と呼びました。歌舞伎や能を残しても、魂を残さなければ意味がない。魂とは入れ替え不可能性であり、大英博物館に陳列できるような文物が魂であるはずがないというわけです。統治権力としての国家はクーデターや敗戦で簡単にひっくり返る程度の存在です。国家に連なる者でなく、国家によって守られるべき「何か」に敏感な者だけが国士です。「何か」とは日本人なら思わずミメーシス(感染)してしまうもの。だから国士に不可欠な要素は「感染力」です。

 都内のホテルで石原都知事とご面会したあと一緒に歩いていたら、おばさんたちが「慎太郎知事だ!」と黄色い声で騒いでいました。私なぞに目もくれず(笑)。これぞポピュリズムと揶揄されるものとは別次元の「感染力」だと思います。そんな「感染力」をもつ人が昔は身近にたくさんいました。勉学動機も、自称保守が推奨する競争動機や、自称左翼が推奨するわかる喜びだけでなく、あの人みたいになりたいと感染して箸の上げ下ろしまで真似する感染動機こそ重要でした。そうしたコモンセンスの継承に鈍感な輩が保守を名乗る昨今は笑止です。彼らが文化から「感染力」を奪っています。「凄い奴」に感染して自分も「凄い奴」になる。これがミメーシスです。テクノロジーのネガティブ面を指摘しましたが、あえてポジティブ面をいえば「凄い奴」の数が減るなかでメディアが「凄い奴」を媒介する可能性ですね。(pp.88)

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 と述べている。この対談におけるコンセンサスとは、昨今の青少年問題が、我が国が国家としての「感染力」を喪失したことと、そのような状況に真剣に向きあおうとしないものたちの問題である、ということだろう(ついでに言うと、先の都知事選において、石原が当選したとはいえ前回よりも大幅に得票数及び得票率を減らしたのはどういう理由によるのでしょうね?)。然るに、冒頭でも述べたように、このような物言いなど、権力を免責するものでしかなく、大規模な文化的状況を語っているように見えて、実は何も語っていないに等しいのである。

 それにしても象徴的というか衝撃的なのは、かつて宮台は、例えば「援助交際」をめぐる言説において、そのような行動をとる少女は一部だが特別ではない、という理由で、新しい状況がきている、と言って、上の世代に退場を促していたのだ。そして、この対談においては、同様のロジックが、権力にすり寄るための口実として使われている。これは宮台の得意とする戦略的な立ち位置の転換によるものなのか、あるいは単に首都大学東京のポストが恋しいだけなのか、またあるいは権力者として政治を動かす立場になりたいのか、それとも天然なのか、それは判断しかねる。しかし、このような宮台の「転向」(?)について、宮台をカリスマとして崇め奉っていた人たち――かつての私もその一人であったことは否めないが――は、いかにして宮台を捉えるつもりなのだろうか。

 近年においては、例えば浅野智彦や本田由紀などに代表されるように、今までステレオタイプに捉えられてきた事象――例えば、若年層の道徳・規範意識や、自意識、あるいは就業、逸脱などの行動――について、できるだけ客観的に捉え、またその上でいかに若年層を社会学的に考えるか、という研究や著作が蓄積されている。そのような状況にあって、宮台などが行なってきた、何らかの新奇な「概念」をでっち上げて、そこから大上段から「現実」を語る、という行為が以下に相対化されていくのか、あるいはされるべきか、ということを考える必要があるのではないか、と思う。

 まあ、とりあえず、このエントリーで言いたいことは、以下の一言に尽きるわけで。

 「絶望した!宮台真司に絶望した!!」

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 宮台がらみで、もう一つ、おもしろい発言があったので、紹介しよう。平成17年に行なわれたという、宮台と田口ランディとの対談だという。

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 宮台 殺したいと思えば殺せるし、犯そうと思えば犯せるのに、それだけは絶対にしたくないと思う「脱社会的存在」がいるのは、なぜでしょうか。これは解かれなければいけない問題です。〈世界〉の根源的未規定性を受け入れ可能にする機能をもつ「宗教的なるもの」の真髄に関わる問題でしょう。

 (http://www.miyadai.com/index.php?itemid=541

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 《殺したいと思えば殺せるし、犯そうと思えば犯せるのに、それだけは絶対にしたくないと思う「脱社会的存在」がいるのは、なぜでしょうか》とは…。単に「脱社会的存在」なる定義付けが間違っていた、という考えには至らないのだろうか?

 文献・資料
 浜井浩一、芹沢一也『犯罪不安社会』光文社新書、2006年12月
 井出草平『ひきこもりの社会学』世界思想社、2007年8月
 池田謙一(編著)『インターネット・コミュニティと日常世界』誠信書房、2005年10月
 石原慎太郎、宮台真司「「守るべき日本」とは何か」、「Voice」2007年9月号、pp.80-89、PHP研究所、2007年8月
 宮台真司、宮崎哲弥『M2 ナショナリズムの作法』インフォバーン、2007年3月
 宮田加久子『きずなをつなぐメディア』NTT出版、2005年3月

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2005年8月 7日 (日)

トラックバック雑記文・05年08月07日

 夏本番というか、なんというか…。暑すぎる!

 仙台ではいよいよ七夕が始まりました。東北三大祭の一つで、商店街の各店舗や各企業の努力による色とりどりの吹流しがアーケードに並びます。機会があればどうぞ。

 東京脱力新聞:ブログの実力 きょう発売の「論座」で(上杉隆氏:ジャーナリスト)
 えこまの部屋:kuriyama爺からTB届いた(黒ヤギさんの節で♪)

 現在発売中の「論座」平成17年9月号の特集の一つに「ブログの実力」があります。タイトルに違わぬ濃い内容で、一読をお勧めします。
 この特集における、ライターの横田由美子氏の論文において、「東京脱力新聞」の上杉隆氏も紹介されています。そこで、上杉氏がブログを始めたきっかけとして、上杉氏が書いた週刊誌の記事に関して国会議員の平沢勝栄氏が上杉氏を提訴し、平沢氏が上杉氏に対する批判キャンペーンを張ったので、それに対する保身の為にブログを作ったとか。
 以前にも書きましたけれども、ブログの台頭によって「書き手」になる敷居は低くなっています。もちろんインターネットの登場により、個人がサイトを持てるようになって、その時点で「書き手」への敷居は低くなっていますが、それでもある程度の知識か道具が必要だった。それが、企業がテンプレートを提供するブログの台頭により、誰でも掲示板感覚で自らのサイトを作れるようになった。つまり現在は、インターネットにつなげられる環境さえあれば自分のサイトが持てるようになっているのです。

 しかし、ブログと鋏は使いようです。もちろん日記形式のブログ、というあり方も私は否定しませんけれども、だからといって個人情報を過剰にばらしてしまうと、自分、あるいは他人が多大な迷惑を被ってしまうこともある。ですから、ブログにおいて(もちろん普通のサイトを利用する場合もそうですが)個人情報の取り扱いには注意しなければならない。

 それだけではありません。文章や写真をインターネット上に公開する、ということは、世界中の人がそれを見ることになる、ということに他ならないのです。ですから、インターネットで文章を書くには、それなりの覚悟が必要になります。

 ブログの方向性を決めておくことも必要ですね。私はこのブログの方向性を「巷に溢れる「今時の若者」をめぐる言説を斬る」(旧ブログ)「俗流若者論から日本社会の一面をのぞく」(新ブログ)としており、基本的にこのブログを若者論を扱うサイトとしています。で、余興としてその他の時事問題、読書、建築、都市計画、音楽、声優の話題を入れる。

 なぜ私がこのようなことを言おうと思ったかというと、もちろん「論座」のブログ特集とか上杉氏の記事を読んだこともそうなのですが、もう一つ、「えこまの部屋」に以下のような疑問が書いてあったからです。

 それにしてもkuriyamaさん(筆者注:「千人印の歩行器」の栗山光司氏)にご紹介いただいた後藤さんによる俗流若者論批判テクストの「追求度」には頭が下がりますが、そのテクスト内容よりも、何がそこまで彼を執拗に俗流若者論で若者批判する著名人斬りに駆り立てるのか、個人的にはそちらのほうが興味があります。(苦笑)

 私は高校時代から趣味で社会時評を書いていました。当然、社会に関して何か不満を持っており、どうにかしたいという殊勝な動機で。雑誌にも投稿せずに日記形式で書いていて社会を変えられるわけがない(苦笑)。そもそも私が若者論というものの存在を意識するようになったのは、平成12年(私が高校1年のときです)に、所謂「17歳の犯罪」が多く報じられていた。そのような情報環境において、私は世間から犯罪者として見られているのではないか、という強い強迫観念に囚われており、17歳には絶対になりたくない、その前に死にたいとも思っていたのです。ただ、それでも(惰性で)17歳まで生きてきた。私が若者論の分析を本格的に始めたのは、朝日新聞社の週刊誌「AERA」の成人式報道(後田竜衛「成人式なんかやめよう」=「AERA」2001年1月22日号)を読んだとき、あまりにもひどい、批判するしかない、と思ったので、批判に着手した。これが17歳になる1ヶ月前です。そして平成15年3月に卒業するまで、高校時代は(大学受験期でも)成人式報道の研究ばかりやっていた(それでも東北大学には現役で合格しました)。大学に入ってからは「論座」の読者投稿に積極的に投稿するようになり(成人式報道に関する苦言が「論座」平成14年12月号に掲載されたことがあるので「論座」を選定しました)、批判の範囲を成人式報道から若者論全般に広げていった。最初はその辺の若者論に感情的に反論していた程度ですが、大学2年の後半あたりから社会における青少年の捉えられ方、及び若者論が生み出すナショナリズムや歴史修正主義、疑似科学、メディア規制を気にかけるようになり、我が国の思想的状況における若者論というものを意識して書くようになった。

 ちなみに「俗流若者論」というのは、ただ単に「俗流~~論」という呼び方の「~~」に「若者」を代入しただけの話です。他に適切な呼び方がなかったので、「俗流」というのがわかりやすいかな、と思ったわけです。

 ついでに「論座」の今月号についても触れておきますと、ブログ特集以外でも戦後60年特集とか、群馬大学教授の髙橋久仁子氏による「こんなにおかしい!テレビの健康情報娯楽番組」や、大阪府立大学専任講師の酒井隆史氏による「「世間」の膨張によって扇動されるパニック」は特に読ませます。しかも、編集長の薬師寺克行氏が、来月号からリニューアルすると公言しております(329ページ)。リニューアル後の「論座」がどうなるか、楽しみです。

千人印の歩行器:[働く編]おたく/フィギュア/ペット(栗山光司氏)
 堀田純司『萌え萌えジャパン』(講談社)という本を買いました。この本では、いまや2兆円市場となっている「萌え産業」の現状をルポルタージュしたもの。一応私はこの本は声優の項から先に読みました。声優の清水愛氏とか、大手声優プロダクションの一つである「アーツビジョン」社長の松田咲實氏や、漫画家の赤松健氏などのインタヴューも掲載されています。あと、ベネチア・ビエンナーレ国際建築展の「おたく:人格=空間=都市」のパンフレットも借りて読んでいます。

 ところで、マスコミが「萌え」を発見するときは、大きく分けて2つの場合があります。一つが、「萌え」が一大市場と判断されたとき。もう一つは、残虐な犯罪(特に少女が被害者となる性犯罪)においてその犯人がアニメやゲームや漫画に異常な嗜好を示していたとされるとき。しかし私は、どちらの見方に組しても理解(それが無理でなければ許容)には辿り着けないかと思います。

 なぜか。これは特に後者の形で「萌え」が発見されるときにいえることですが、よほどオタク的なものに理解のある記者(例えば、朝日新聞社「AERA」編集部の福井洋平氏や有吉由香氏など)が書いていない限り(大半のマスコミ人がそうですね)「オタクの世界は仮想現実で、それに没頭する人は異常であり、現実に生きることこそが至上である」と考えている節が大きいからでしょう。故に凶悪犯罪を起こすのは現実と空想の区別がついていない「異常な」奴であるから、という論理が形成される。

 まあ、確かに「萌え」で腹が膨れないことは誰にでもわかる。しかし、「萌え」というのは相手(キャラクターでもアイドルでも声優でもいいです)のある部分あるいは全体がその人にとって「萌える」と認識しているからこそ起こる。さらには虚構に対して欲望を持つことができるので、精神科医の斎藤環氏が指摘するとおり、こういう人たちこそ虚構と現実の区別が厳格である、とも言えるでしょう。マスコミは、そういう人たちが現にかなりの割合で存在するということをまず理解する、そこまでできないなら少なくとも許容する、という態度を持つべきです。もし誰かが現実の少女に対して政敵にか害してしまったら、その犯人は少なくともオタク的な性的嗜好からは逸脱している、と考えるほかないのです。

 石原慎太郎氏や日本経団連などは、オタク経済効果は認めていますけれども、オタクメディア規制も推進すべきだ、という考えの持ち主です。結局のところこのような人たちは、国民は経済的な成長だけにまい進していればよろしい、と考えているのでしょうね。しかしオタクの先駆性は経済とは別なところにあります。そもそも規制論の根本は自分が気に食わないから、という単純な理由でしょう。

 ちなみに「AERA」に関しても触れておきますけれども、「AERA」は平成17年5月30日号において、他の週刊誌が今年5月に起こった少女監禁事件に関してオタク・バッシングを書いていたのに、「AERA」はそれに関する記事はなしで、編集部の福井洋平氏が「メイド掃除でモテ部屋に」なる記事を書いていた。まあ、メイド喫茶ならぬメイド掃除サーヴィスの体験記ですが、ここまでやってしまう「AERA」はある意味すごい。

性犯罪報道と『オタク叩き』検証:フィンランド憲法・『may be』、アイルランド憲法・『shall be』
 海外のメディア規制の例が紹介されています。例えばフィンランドでは、憲法では青少年に有害だと思われる情報の規制は法律で可能である、としておりますが、実際には規制の対象になるのは映画やテレビだけで、また法律で規制できるといっても現状は業界の自主規制に任せていたり、さらには厳格な情報公開制度が整っていたりとか。あと、アイルランドがイギリスから独立した国であることを知らないでいる人とか。

保坂展人のどこどこ日記:佐世保事件から1年、長崎の教育は異常事態に(保坂展人氏:元国会議員・社民党)
 「心の教育」とは一体なんなのでしょうか。そもそも彼らの考えている「心」とはなんなのか。「心の教育」を推進すべきだ、という人たちは、現在の青少年の「心」は異常であり、彼らに正常な「心」を涵養しなければならない、といいます。しかし、正常な「心」とはなんなのでしょうか。殺人を犯さない?少年による凶悪犯罪(殺人・強盗・強姦・放火)は、昭和35年ごろのほうが現在に比して数倍深刻です。

 「心の教育」を推進すべき人たちは、結局のところ人々の心と現在を生きる青少年をイデオロギー化しているに過ぎないのです。彼らにとって青少年とは単なる人気取りの道具に過ぎない。そして俗流若者論の蔓延により、青少年をイデオロギー化する傾向が高まり、政治がそれと結託すると、青少年に対する敵愾心を煽ることがそのまま政治的な人気の高さになる。政治から実態としての青少年が消えるとき、我々は政治に何を見出すのか。青少年の意見を代弁する政治家よ現れよ、とは私は言わない。「青少年の意見」なるものを代弁できる人などいない。しかし、せめて「今時の若者」を冷静に見ることのできるような政治家は、ぜひとも現れて欲しい。

 お知らせ。まず、ブログで以下の文章を公開しました。

 「正高信男という斜陽」(7月25日)
 「俗流若者論ケースファイル39・川村克兵&平岡妙子」(7月27日)
 「俗流若者論ケースファイル40・竹花豊」(7月29日)
 「俗流若者論ケースファイル41・朝日新聞社説」(7月30日)
 「統計学の常識、やってTRY!第4回&俗流若者論ケースファイル42・弘兼憲史」(同上)
 「俗流若者論ケースファイル43・奥田祥子&高畑基宏」(8月2日)
 「俗流若者論ケースファイル44・藤原正彦」(8月5日)
 「俗流若者論ケースファイル45・松沢成文」(8月6日)

 また、bk1で以下の書評を公開しました。

 正高信男『考えないヒト』中公新書、2005年7月
 title:俗流若者論スタディーズVol.4 ~これは科学に対する侮辱である~
 岡留安則『『噂の眞相』25年戦記』集英社新書、2005年1月
 title:雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケズ
 斎藤美奈子『誤読日記』朝日新聞社、2005年7月
 title:皮肉に満ちた「書評欄の裏番組」
 赤川学『子どもが減って何が悪いか!』ちくま新書、2004年12月
 title:少子化を「イデオロギー」にするな
 二神能基『希望のニート』東洋経済新報社、2005年7月
 title:「希望」としての若年無業者問題

 さて、前から喧伝していた夏休み特別企画を次回更新からスタートします。企画の内容は、「俗流若者論大賞・月刊誌部門」です。要するに、平成12年から平成15年にかけて、月刊誌で発表された俗流若者論の中でも、特にひどいものに関する論評です。

 対象となる雑誌:文藝春秋、諸君!(以上、文藝春秋)、中央公論(中央公論新社)、現代(講談社)、世界(岩波書店)、論座(朝日新聞社)、正論(産経新聞社)、Voice(PHP研究所)、潮(潮出版社)、新潮45(新潮社)

 今日、以上の全ての雑誌のチェックが終わったのですが、平成12年・13年は大豊作(笑)でした。逆に平成14年は不作だった。厳選した結果、グランプリと準グランプリは以下の通りに決定しました。

 ・グランプリ
 平成12年
 「文藝春秋」平成12年11月号特集「「なぜ人を殺してはいけないのか」と子供に聞かれたら」、文藝春秋

 平成13年
 小林道雄「少年事件への視点」第3回・4回=「世界」2001年2・3月号、岩波書店
 小林道雄「Q49.少年犯罪」=「世界」2001年4月増刊号、岩波書店

 平成14年
 該当作なし

 平成15年
 山藤章二(編)「山藤章二の「ぼけせん町内会」いろは歌留多」=「現代」2004年1月号、講談社

 ・準グランプリ
 平成12年
 石堂淑朗「こんな「十七歳」に誰がした」=「新潮45」2000年6月号、新潮社
 武田徹「プログラム人間に「心」を」=「Voice」2000年11月号、PHP研究所
 澤口俊之「若者の「脳」は狂っている――脳科学が教える「正しい子育て」」=「新潮45」2001年1月号、新潮社
 長谷川潤「「ワガママ・テロル」の時代が始まった」=「正論」2000年7月号、産経新聞社
 工藤雪枝「平成“美顔男”たちへの憂鬱」=「正論」2000年9月号、産経新聞社
 工藤雪枝「ミーイズム日本の迷走」=「中央公論」2000年10月号、中央公論新社

 平成13年
 澤口俊之「「スポック博士」で育った子はヘンだ」=「諸君!」2001年8月号、文藝春秋
 ビートたけし「バカ母世代」=「身長45」2001年4月号、新潮社
 佐藤貴彦「残虐なのは誰か?」=「正論」2001年4月号、産経新聞社
 佐々木知子、町沢静夫、杢尾堯「検挙率はなぜ急落したのか」=「中央公論」2001年7月号、中央公論新社
 花村萬月、大和田伸也、鬼澤慶一「電車で殴り殺されないために」=「文藝春秋」2001年7月号、文藝春秋
 遠藤維大「自傷行為「リスカ」と日教組」=「正論」2001年9月号、産経新聞社
 片岡直樹「テレビを観ると子どもがしゃべれなくなる」=「新潮45」2001年11月号、新潮社
 清水義範「あたり前が崩れている恐ろしさを考える」=「現代」2001年11月号、講談社
 林真理子「この国の子どもたちは」=「文藝春秋」2001年12月号、文藝春秋

 平成14年
 「諸君!」平成14年2月号特集「日本を覆う「怪しい言葉」群22」から、林道義「子どもの自己決定権」、文藝春秋
 正高信男「日本語の「乱れ」とルーズソックス」=「文藝春秋」2002年9月臨時増刊号、文藝春秋
 田村知則「警告!子どもの「眼」がおかしい」=「新潮45」2002年10月号、新潮社
 野田正彰「「心の教育」が学校を押しつぶす」=「世界」2002年10月号、岩波書店

 平成15年
 藤原正彦「数学者の国語教育絶対論」=「文藝春秋」2003年3月号、文藝春秋
 和田秀樹「日本はメランコの中流社会に回帰せよ」=「中央公論」2003年6月号、中央公論新社
 清川輝基「“メディア漬け”と子どもの危機」=「世界」2003年7月号、岩波書店
 香山リカ、テッサ・モーリス=スズキ「「ニッポン大好き」のゆくえ」=「論座」2003年9月号、朝日新聞社
 小林ゆうこ「「母子密着」男の子が危ない」=「新潮45」2003年10月号、新潮社
 中村和彦「育ちを奪われた子どもたち」(聞き手:瀧井宏臣)=「世界」2003年11月号、岩波書店

 以上の記事を次回から論評します。ちなみに同じ著者のものは一つの論文にまとめて検証します。平成14年準グランプリの正高信男氏の記事は、この企画とは別のところ(正高信男批判の企画で検証します)で検証しますので、夏休み特別企画は「俗流若者論ケースファイル」25連発(!)になります。なお、論評の順番に関しては、まず各年の準グランプリを一通り検証したあと、最後に各年のグランプリを検証します。

 ちなみに、石堂淑朗氏の連載「平成餓鬼草子」(「正論」)は、相変わらず俗流若者論連発でしたが、別のところで検証するので採り上げませんでした。また、「世界」で連載されていた、瀧井宏臣氏の「こどもたちのライフハザード」も問題が大きかったのですが、これも既に書籍化されているので、そちらを批判するときに検証します(ただし書籍版では、事実上連載の最終回となる中村和彦氏へのインタヴューが掲載されていないので、こちらで採り上げました)。

 そういえば次回の更新でもって丁度このブログの100本目の記事になるので、このブログの新たなるスタートを飾るにふさわしい企画になるように極力努力します。

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2005年6月14日 (火)

俗流若者論ケースファイル28・石堂淑朗

 私はこれまで、俗流若者論の、「今時の若者」の発生した「原因」に関して、その「原因」を何かに特定し、そしてそれに対する悪影響論をしきりに唱える、という態度に対して、まるで陰謀論のようだと指摘してきた(罵ってきた)。しかし、俗流若者論の研究において、まさか本物の陰謀論に出会えるとは思わなかった。

 その主張とは、昨今推し進められている「教育改革」は、なんと我が国を衰亡させるイスラームの陰謀だというのである!もっとも、正確に言えば、現在推し進められている「教育改革」の推進派とイスラームが手を組めば、我が国が滅びる、というものだが(これでも驚愕ものであろう)。提唱しているのは、産経新聞の月刊誌「正論」で「平成餓鬼草子」なる、俗流若者論の頻度がかなり高い連載を執筆している、脚本家で評論家の石堂淑朗氏だ。今回採り上げるのは、石堂氏のこの連載の第88回と89回(「正論」平成17年3月号、4月号)である。

 なにせ石堂氏、第88回の最初からいきなり《9・11の犯人の事を考えているうちに、イスラム人は本質的に全員過激派ではないかとの思いを強く持つようになった》(石堂淑郎[2005a]、以下、断りがないなら同様)と断定してしまっているのだから。まあ、この雑誌のスタンスが明らかに「親米保守」だから、キリスト教がいかなる状況であるか、ということを持ち出すと、キリスト教原理主義者に牛耳られている米国を批判することになりかねないから、キリスト教、あるいは他の宗教との比較をしないのだろう。ちなみに、キリスト教に関しては、最近、ドイツの哲学者、フリードリッヒ・ヴィルヘルム・ニーチェの著書『アンチクリスト』が会話調の現代日本語で講談社から出版されているから、そちらを参照していただきたい(フリードリッヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ[2005])。

 さて、石堂氏の問題意識がどのようなものであるかを観察するには、86回の189ページの下段が参考になろう。曰く、《出稼ぎに繰る貧しいフィリピン人には、一日五回跪いてメッカを向いて祈るイスラムもいる。アラーアクバル(偉大なり)である。アラーのほかに神は無し!日本人の医療行為よりお祈りが優先するだろう。ラマダン(断食月)の日だと大変だ。彼らは朝から晩まで食わない。食うと言えばそもそも豚は食わない。民族のアイデンティティーが絡む故にこの種の課題は小直しが利かない》。《日本人の医療行為よりお祈りが優先するだろう》とは、単なる邪推でしかないのだが。ちなみに石堂氏は、190ページの上段で次のように記述する。曰く、《私はその国の基本を知るには先ず小中学校を知ることだろうとずっと思っている。……過激派が理系の勉学にストップを掛けるという話を知った今、……》と。石堂氏は、米国の小中学校でも、キリスト教原理主義に基づき進化論を教えることが禁止されている事例がある、ということをご存知なのだろうか(マーティン・ガードナー[2003])。それだけでなく、キリスト教原理主義による勢力は、進化論だけでなく性教育も禁じている(ジュディス・レヴァイン[2004])。

 そして192ページにおいて、石堂氏はついに本音を語ってしまう。何でも、イスラーム人は理系科目ができないから、過激派なのだそうな。曰く、《自然科学を拒否するとは粗雑で直ぐに切れる頭を作ろうという事に他ならない。思うにイスラム過激派が血の気が多く直ぐに人殺しをやるのは自然科学不勉強の結果なのだ》と。ここまでぶっ飛んだ論理を開陳できるのも、石堂氏がこのようなタコツボ化したオピニオン雑誌の典型とでも言うべきメディアで日々俗流若者論を開陳しているからに違いない…、と、少々口が滑ってしまったことをここで謝罪したいが、少なくとも、石堂氏は、《自然科学不勉強の結果》がいかに《粗雑で直ぐに切れる頭》を作るか、ということに関して論証的な研究を提示すべきであろう(理系科目の成績と犯罪率の相関関係とか)。さもないと、単なるカタルシスのためのレイシズムに過ぎない…、いや、この石堂氏の連載それ自体がカタルシスなのだから、しょうがないか。また口が滑ってしまった。

 それでも、石堂氏のこのような論証立てに対して、今の我が国の(!)マスコミがいかに自然科学や統計学に無知であるか、ということを立証すれば、石堂氏は立ち往生するのではないか。精神科医の斎藤環氏を始め、私を含めて多くの人が批判している、日本大学教授の森昭雄氏の「ゲーム脳」理論が、マスコミや俗流若者論において、その「理論」が科学的に穴だらけであるにもかかわらず、無批判に受け入れられている、という現象を見れば、今の俗流若者論がいかに《自然科学不勉強》であるかがわかるであろう。それ以外にも、マスコミには、初歩的な自然科学や統計学の間違いが数多く存在する。そもそも石堂氏は理系科目ができるのであろうか。一度、学力テストでも受けてみるがいい。そしてその成績を開示してほしい。

 ちなみにこの文章において、石堂氏は京都大学教授の小杉泰氏を批判するのだけれど、この小杉氏に対する批判もまた、石堂氏の妄想から来ているものである、ということを指摘しておきたい。曰く、《過激派が一過激派である所以は物の神を軽視し、神学という名の屁理屈ばかり捏ねている結果である、という風な私の疑問と言うか一般人の疑問に小杉教授は答えるように番組を進めて行くのがマトモナ学者の四つ相撲であろう。同教授もイスラムはプロダクト(物作り)に弱い面があると口走りはするのだが、一番肝心な教育問題には触れようとしないのだ。何か怖がっている、腰が引けている。過激派が怖いか》(192ページ)と。

 石堂氏が石堂氏である所以は論理と実証を軽視し、陰謀論という名の《屁理屈ばかり捏ねている結果である、と言う風な私の疑問と言うか一般人の疑問に》石堂氏は答えるように文章を進めて行くのが《マトモナ》評論家の《四つ相撲であろう》。石堂氏は《一番肝心な》その点には《触れようとしないのだ》。《何か怖がっている、腰が引けている》。産経新聞社や、編集長の大島信三氏が怖いか。

 閑話休題、石堂氏はついに本音を語ってしまう。192ページ下段において石堂氏曰く、《この悲惨な結果(筆者注:我が国において理系科目の成績の低下が進行していること)を齎しつつあるゆとり教育の推進者が自然科学の勉学中止を要求するイスラム過激派と結託したら日本はどうなるかというのが私の不吉な予感なのである》と。ここまで妄想によって自分で自分を盛り上げることのできる石堂氏に、ほとほと感服するほかないのであるが、何も《イスラム過激派》でなくとも、キリスト教の過激派だって自然科学を敵視している。というのは枝葉末節であるが、このような石堂氏の論理が、単なる妄想の産物でしかなく、しかもいわれなきレイシズムにも満ちている、ということについては指摘しなければなるまい。

 それはさておき、ついに石堂氏はこのような陰謀論に走ってしまった、というのは事実なのだから、この次の回を楽しみにすることにしよう。ここから、石堂氏の連載の第89回の検証に映るのだが、ここにおいて石堂氏は数多くの事実誤認をやらかしている。

 例えば、89回の184ページから185ページにかけて、

 そこへ持ってきて駄目押しさながらに大阪寝屋川の小学校で起きた教師刺殺事件の発生である。犯人の少年は中学を止めた後大検に合格、大学受験を狙いつつ、相当程度ゲームに嵌っていたようである。事は旧聞に属しつつあるが長崎で起きた少女による少女の頸部切傷が原因の殺人事件、これはメール交換がついに殺意の増幅を生んだとされており、インターネットによる集団自殺事件は言うに及ばず、飛躍するがライブドアのホリエモン(筆者注:ライブドア社長の堀江貴文氏)が起こした世にも世知辛い株買占め事件など薄ら寒い事件は全てコンピューター無くしては起き得ない種類の事ばかりである(石堂淑朗[2005b]、これ以降は断りがないなら同様)

 と言っている。もちろん、過去にあった《世にも世知辛い事件》を無視して、だ。ここまでマスコミが叫びまくった事例を提示しまくったら、「正論」の読者なら安易にインターネット有害論に引き込めるかもしれないが、皮肉屋の目は騙せない。原因をひとつのものに求めたがるのは、俗流若者論の基本である。ちなみに、いい加減うんざりしているのだが、文中の長崎の事件について、安易に《メール交換がついに殺意の増幅を生んだ》と書いているのだけれども、実際にはチャットである。しかも、このような暴論を振りかざす人たちは往々にして無視するのだが、この事件の犯人と被害者は以前から親密な繋がりがあり、それと思春期の心情に即して考えたほうがよほど説得力がある(ちなみに明治学院大学専任講師の内藤朝雄氏が、この二つの側面からアプローチを行なっている。内藤朝雄[2004])。

 しかも石堂氏は、185ページにおいて相当な事実誤認をやらかしている。曰く、

 パソコンすなわち個人専用コンピューターの本質が使用者の大脳無差別破壊につながる可能性ありということを、発明者はじめ科学者が誰も言わなかったのは不可解千万だと、今頃喚いてももう遅い。パソコン関連の諸活動は儲かるからだ。金が倫理より強いと言うことをライブドアの実践が日々示しつつある。

 拙者、ギター侍じゃ…。

 俺は石堂淑朗。

 このごろの、不可解な、事件はみんな、コンピュータが原因だ。

 コンピュータの使用が、大脳の、破壊を、もたらすのを、どうして誰も指摘しない!!

 …って、言うじゃな~い…。

 でも、そんなことは、とっくに日大の教授・森昭雄が喧伝してますから!!残念!!

 ついでに言うと『ゲーム脳の恐怖』は、第12回日本トンデモ本大賞次点、斬り!!!

 所詮、この世は、お金です。

 倫理は、この世にゃ、無用です。

 問題の多いインターネットを誰も批判しないのも、全ては金のため!

 …って、言うじゃな~い…。

 でも、「理解できない」若年犯罪が起こるたびに巷はインターネット批判で溢れかえり、しかもそのようなインターネット批判にこそまったく倫理が見当たりませんから!!残念!!

 インターネット批判こそ、自称「識者」にとっては最大のドル箱、斬り!!!

 まあ、所詮私の如きが「ギター侍」の真似事をやっても、本家の足下にも及ばないのだが、読者諸賢には、石堂氏の物言いがいかに間違いに満ちているかがお分かりになるだろう。それにしても、前回の冒頭でもそうだったけれども、石堂氏は安易に《本質》という言葉を使いすぎる。所詮この《本質》と言うことが、石堂氏の妄想の産物に過ぎない、ということは、我々は覚えておいて然るべきだろう。

 ついでに言うと石堂氏は188ページ下段において同様の記述を行なっている、ということもここで指摘しておく。

 この文章には、他にも事実誤認、論理飛躍がそこらじゅうに見られるのだが、この石堂氏の連載の89回目において言えることは、石堂氏が我が国をここまで堕落せしめた原因としてコンピュータを「発見」し、それを壊すことこそが我が国を救う近道だ、という安易な「憂国」に走っていること、また、石堂氏が自分の論じたいことに対してろくに取材や調査(新聞記事レヴェルの調査すらも)行なわず、ただ自分の思い込みだけで物事を語り、そこに事実誤認があっても気にしない、という、物書きとして犯してはならない過ちを抱えていることだろう。

 石堂氏は、自分こそが現代の問題の本質を知っている、と思っているだろうが、所詮は自らの妄想の産物でしかない「本質」なるものを無批判に信奉し、それに退治している自分を盛り上げることによってヒロイズムに浸っているしかないのである。しかも、先ほども指摘したとおり、石堂氏は、特定の民族に対する差別や、事実誤認を多く抱えており、もはや言論を生業とするものとしての倫理をかなぐり捨てているのではないか、と思えるほどだ。

 ついでに言っておくと、自分こそが現代の問題の本質を知っている、という叙述方法は、明らかに陰謀論のものである。また、陰謀論は、自分以外を問題の「本質」を知らない者として貶めることによって成り立つため、他者に対する自己の優位性を誇示するための最も簡単な、しかし最も問題の大きい方法でもある。また、陰謀論は、自分を「正義」に設定して、誰か「悪」を決めてしまえば、後はそれに従ってひたすらその「悪」を叩けばいいから、誰だって書けるものである。

 現代の抱える問題は、所詮、コンピュータを破壊しただけで解決できる代物ではないことぐらい、石堂氏には理解していただきたい。自分を「正義」と夢想する石堂氏は、自らの安易な歴史観と問題意識を一度捨て去ってみてはどうか。

 それにしても、石堂氏のこの連載には、俗流若者論がかなり頻繁に出没する。機会があったら、集中的に採り上げることにしよう。

 参考文献・資料
 石堂淑朗[2005a]
 石堂淑朗「褌を締め直そう!」=「正論」2005年3月号/石堂淑朗「平成餓鬼草子」第88回、産経新聞社
 石堂淑朗[2005b]
 石堂淑朗「豆炭心中」=「正論」2005年4月号/石堂淑朗「平成餓鬼草子」第89回、産経新聞社
 マーティン・ガードナー[2003]
 マーティン・ガードナー、市場泰男:訳『奇妙な論理』全2巻、ハヤカワ文庫、2003年1月
 内藤朝雄[2004]
 内藤朝雄「「友だち」の地獄」=「世界」2004年12月号、岩波書店
 フリードリッヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ[2005]
 フリードリッヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ、適菜収:訳『キリスト教は邪教です!』講談社+α新書、2005年4月
 ジュディス・レヴァイン[2004]
 ジュディス・レヴァイン、藤田真利子:訳『青少年に有害!』河出書房新社、2004年6月

 B・R・アンベードカル、山際素男:訳『ブッダとそのダンマ』光文社新書、2004年8月
 大川玲子『聖典「クルアーン」の思想』講談社現代新書、2004年5月
 酒井啓子『イラク 戦争と占領』岩波新書、2004年1月
 カール・セーガン、青木薫:訳『人はなぜエセ科学に騙されるのか』新潮文庫、2000年11月
 寺島実郎、小杉泰、藤原帰一(編著)『イラク戦争 検証と展望』岩波書店、2003年7月
 日垣隆『世間のウソ』新潮新書、2005年1月
 宮台真司『亜細亜主義の顛末に学べ』実践社、2004年9月

 石川雅彦「アメリカ帝国の神々」=「AERA」2005年4月4日号、朝日新聞社
 諸永裕司「日本人ムスリムの暮らしぶり」=「AERA」2001年7月2日号、朝日新聞社
 山本弘「君にもユダヤ陰謀論が書ける」=と学会(編)『トンデモ本の世界』宝島社文庫、1999年2月

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2005年6月 6日 (月)

壊れる日本人と差別する柳田邦男

 私が俗流若者論に対して違和感を持つようになったのは高校1年の頃だ。私が高校1年だった平成12年5月、マスコミで「17歳の殺人」が喧伝され、私が世間から殺人者として見られているのではないか、という恐怖心に駆られていた。そして、私が俗流若者論に対して本格的に批判的検証を行うようになったのは、高校2年のとき、17歳になる数ヶ月前であった。最初の頃は、感情論的な「反論」ばかりであったが、大学生になってからは疑似科学批判や俗流若者論が生み出すナショナリズムやレイシズム(人種差別)に対して批判を行なうようになった。

 俗流若者論を読んでいると、吐き気を催すほどの空疎な言葉ばかりが飛び交う。国家、愛国心、日本人、心、伝統、文化、道徳、本質、堕落、失敗、そして崩壊。これらの言葉は、単なる自らの自意識の発露でしかなく、そこから読み取れるのはただ自分だけを肯定した上で若年層をしきりにバッシングしようとする残酷な意識である。

 もちろん、彼らにとっては「正義」なのかもしれない。しかし、その「正義」が現実に生きる青少年にいわれなき誤解をかぶせられ、彼らが亡国の鬼胎として不当に「政治利用」されることを正当化しているのであるから、当の青少年にとっては迷惑千万であろう。

 彼らが「日本の崩壊」を好んで語るとき、限りなく10割に近い人たちが「今時の若者」をしきりに嘆く。しかし、彼らの「憂国」は、所詮はマスコミで興味本位に報じられているような表層的なものでしかなく、マスコミの報道に対して疑ったり、あるいはマスコミが報じないような青少年の「現実」を探り当てようとする人は、この分野においては皆無である。なぜか。そのような試みは地味であるから、たとえ実りのある結果が出たとしても、人々はマスコミの喧伝する「今時の若者」なるバーチャルリアリティーに踊らされている。なので、ほとんどの人が気づかない。

 作家の柳田邦男氏の最新刊、『壊れる日本人』(新潮社)も、所詮はマスコミの「憂国」にただ乗りしたものでしかないのである。なぜ私がそう考えるのかといえば、柳田氏の問題意識が同書のあとがき(217ページ)にこのように記されているからである。

 超一流企業のエリート経営者がなぜあのようなおろかな判断を下したのかと理解に苦しむような企業不祥事が続発する。若者たちが見ず知らずの相手とネットで交信して、ある日あるとき、集合して集団自殺をする。少年や少女による残忍な殺人事件が相次いで起こる。

 この国が変になっている。この国の人々がおかしくなっている。それは確かなことだ。だが、日本人のどこがどのようにおかしくなっているのか。なぜそうなったのか。そう問いかけても、根源にあるものは見えにくく、答を見出すのは難しい。(柳田邦男[2005]、以下、断りがないなら同様)

 極めてデ・ジャ・ヴュに満ちた文言である。この程度の「憂国」言説において、問題視されるのが《超一流企業のエリート経営者》と《若者たち》と《少年や少女》であることはもはや定番としか言いようがない。しかも《なぜあのようなおろかな判断を下したのかと理解に苦しむような企業不祥事》と《集合して集団自殺》にはかなりの飛躍があると思うのだが、柳田氏にとっては同列のものなのであろう。

 なぜか。それは、柳田氏が《この国が変になっている。この国の人々がおかしくなっている。それは確かなことだ。だが、日本人のどこがどのようにおかしくなっているのか。なぜそうなったのか》と語っている通り、これらの問題は柳田氏にとっては日本人の根源において精神構造が崩壊していることの証左だからである。個人や企業構造の問題を解決する前に、一足飛びに「日本人」全体の精神病理として批判してしまうことは、短絡的なナショナリストの常套手段である。

 そして、柳田氏は、このような日本人の精神構造の崩壊をもたらしたものが、《「人間を壊す見えない魔手」「二十一世紀の『負の遺産』は心と言葉にかかわる見えないもの」「IT時代がかかえこむ見えないジレンマ」》であると推測する。もちろん、他のファクターは無視されている。柳田氏は、218ページから219ページにかけてこのように書いている。曰く、

 IT革命による情報化は、言葉の世界に直接的に影響をおよぼす。同時にIT機器とりわけメディアへの長時間の接触と依存は、心の影響を与えないわけがない。とくに子どもの場合は、心の発達と人格形成に影響をおよぼす危険性が高い。いずれにせよ、IT革命という二十一世紀型の科学技術の担い手の「負の側面」は、情報処理やコミュニケーションという見えにくいものによってもたらされ、その結果も、心と見えない世界に生じる現象なのだ。

 極めて興味深い指摘である。特に、柳田氏が《言葉の世界に直接的に影響をおよぼす》だとか《心の影響を与えないわけがない》だとか《心と見えない世界に生じる現象なのだ》だとか、定量化が難しい事例に対してただ憶測だけを重ねて警鐘を乱打していることが(しかし空回りしてばかり)。これは現代における「非社会的な若者」への不安を扇動する言論に共通して言えるもので、「反社会的な若者」が既存の「世間」によって与えられた境界線の枠組みにのっとって反社会的行動をしているのに対し、「非社会的な若者」は既存の境界線の枠組みに関わる行動をしているので、「世間」の境界線を死守するだけの俗流若者論は、彼らを「世間」の枠組みの中に再び囲い込め、としか言うことができない。「非社会的な若者」は、「反社会的な若者」とは違い、不可視的であるから、好きなように不安を扇動することが可能だ。柳田氏は、まさに「不可視的なものに対する過剰な不安扇動」をやってのけている。

 そして、詳しくはこの後の議論に譲るが、柳田氏にとっての「言葉」だとか「心」だとかいった文言は、所詮は「想い出の美化」イデオロギーに満ちたものでしかなく、それが現実の青少年をいかに苦しめるものであるか、ということに対する柳田氏の想像力は、完全に放棄されている。これは、昨今の憲法や教育基本法の改正論にも共通するものでもある。柳田氏は、いつから御用ジャーナリストになったのか。

 以下、柳田氏の著書における、特に問題の多い箇所を検証していくことにしよう。

 ・7~22ページ「見えざる手が人間を壊す時代」…見えざる手が柳田邦男を壊す時代
 7ページにおいて、柳田氏はテレビで見た《東京の山の手の住宅街にある有名幼稚園の話題》について述べる。そのとき、柳田氏は、その幼稚園の多くの子供が高級車で一人一人送られる、という事実に驚愕した。確かに、柳田氏が驚いた理由もわからぬでもない。しかし、柳田氏は8ページにおいて、《子育てに関して、何か凄いことが、この国を覆いつつあるように思えた》と、一つの特殊な事情を持った(柳田氏は8ページにおいて《所得水準の高い過程であるのは確かだ》と言っていたはずだが)幼稚園における情景を元に、日本全体に関して論じてしまうのである。おかしくはないか。

 しかも11ページにおいて、柳田氏は、そのような状況にある現代の子供たちに関して(もちろん、柳田氏の誇大妄想だろうが)《今の子どもはそういう状況の中にあっても、なぜか気が変にならない。いや、実際には変になっているにちがいないのだが、みんなが同じように変になっているので、変であることに気づかないだけのことなのだろう。最近変な事件が頻発しているではないか》とさらに妄想を深化させてしまう。はっきりいって、この短い文章の中に《変》という言葉が繰り返し、しかもなんの躊躇もなく使われていることが、私にとっては恐ろしいことである。しかも《最近変な事件が頻発しているではないか》と書いて、読者の感情に訴える形をとっているけれども、柳田氏はいかなる事件を指してそういっているのか、開示を望む。

 また、柳田氏は、14ページにおいてある疑似科学について好意的に触れる。もちろん、ゲームをやると脳が異常になって、子供たちの社会性の発達を阻害する、という「ゲーム脳」理論だ。この理論に対する論理的検証、さらに思想的な検証は、精神科医の風野春樹氏が行なっているのでそちらを参照してもらうとして(風野春樹[2002])、柳田氏が、「最近の子供たちは異常だ」という一点張りでこの問題の多い「ゲーム脳」理論を信奉していることが恐ろしい。しかも、15ページから16ページにかけて、科学的検証など無用だ、と開き直っているのだからさらに戦慄する。

 その上17ページにおいて、柳田氏は、次のように述べている。

 そこで私は情報環境の変化に焦点をあてて考察しているのだが、テレビやゲームはバーチャルリアリティ(仮想現実)の世界だ。ところが、社会生活の経験が少なく、情報への批判力もない子どもが、毎日長時間テレビを見たりゲームにふけったりしていると、その子にとっては、仮想現実の世界と現実の世界の区別がつかなくなるばかりか、やがて仮想現実の世界のほうに現実味を感じるという逆転現象が起きてくる。そういう点で“先駆的”と言える世代が、すでに二十代になっている。

 で、柳田氏がその証左として17ページから18ページにかけて述べているのが、結局のところ《若い女の子》の行動。当然、私は腰が抜けた。柳田氏にとっては、その行動が《脳が仮想現実の世界から抜け出していない、つまり自宅のソファーでテレビを見ているのと同じ感覚で電車に乗っているからだととらえたほうが納得できる》のだそうだ。柳田氏は、ここまでわけわからずのアナロジーでも、相手が「今時の若者」ならば通用するとでも高を括っているのか。いい加減、マスコミが興味本位で採り上げたがる「今時の若者」の「問題行動」から、空疎な「時代の病理」を読み取って悦に入ることをやめてはくれないか。

 当然の如く、柳田氏は、20ページから21ページにかけて、平成12年の佐賀のバスジャック事件にかこつけて、《本来なら心の中だけの幻想で終わってしまうこういう想いを、仮想現実で終わらせないでそのまま現実世界に持ち込んでいく。「バーチャルな多重人格」においては、仮想現実が現実世界を圧倒してしまうのだ》と平気で論じてしまう。マスコミと俗流若者論によって意図的に捏造された仮想現実が、現実世界を圧倒しているのは、柳田氏のほうであろう。

 ・23~39ページ「広がるケータイ・ネット依存症」…「敵」はどこにいる?
 この章において、柳田氏は明確に携帯電話とインターネットを「敵」として「発見」する。柳田氏は、25ページにおいて、壮大な差別言説を開陳してしまっているのである。

 私などの目から見ると、今時の若者たちは気の毒だなと思う。ファミリー・レストランなどに入ると、あちこちの席に若い男女の二人連れが座っている。ところが、お互いに顔を見つめ合って話しにはずみをつけているカップルは、少ない。何をしているのかと思って見ると、二人がそれぞれに手許のケータイでピコピコとやっている。私はそういう若者たちを不思議な動物だなと思うのだが、若者たちはいまや総ケータイ依存症になっているから、自分たちを変だとは思わない。

 ここまでひどい差別はあるまい。何せ、柳田氏にとっては現代の若年層は《不思議な動物》、すなわち人間以外のものとして認識されているのだから。これは明白なレイシズムであろう。いつから柳田氏はレイシズムを許容するようになったのか。しかも《若者たちはいまや総ケータイ依存症になっているから、自分たちを変だとは思わない》と、検証もなしに自らの思い込みだけでものを語ってしまっているのだから、救いようがない。もう一つ、このようなことが、どこまで広がっているのか、ということについて、柳田氏は検証したのだろうか。

 このような態度だから、柳田氏は《ビジネス界の「人の砂漠」》(26ページ)だとか《患者の顔を見ない医師》(28ページ)も、全て携帯電話とインターネットのせいにしてしまえるのである。

 笑ってしまったのは32ページで紹介されている「事例」だ。曰く、聴診器と間違えてパソコンのマウスを患者の胸に当てようとしたという。このような事例は、患者にとっては「しっかりしてくださいよ」と言いたくなるような単純なミスであるし、単にこの医者がおっちょこちょいだった、という可能性もある。しかし柳田氏にとって、こんな些細なことですらも《コンピュータ化時代ならではの問題点が見えている》のだそうだ。では聞こう。もし、ここで間違って患者の胸に当ててしまったのがメモ帳とか文鎮だったら?柳田氏は口が裂けても《コンピュータ化時代ならではの問題点》などとは言うまい。結局、柳田氏の問題意識は、この程度のものでしかないのだ。それ以外にも、柳田氏は、36ページにおいて、《四国八十八ヶ所の霊場をクルマでいかに早く回ったかを自慢する人がいるほど、効率化の価値を重視する時代だ》と、一部の(柳田氏にとって)衝撃的な事例を「時代の病理」と短絡してしまっている。

 他にも、この章においては、医療を始め、さまざまなことが、コンピュータ化時代の「負の側面」として描かれているのだが、コンピュータ以前の時代の状況がどうであったか、ということについては一切触れずじまいだ。

 結局のところ、この章は、柳田氏が携帯電話とインターネットを「敵」と見なして、それを潰すために的はずれな「批判のための批判」を重ねているだけの下らない章であり、そのような態度でいいのか、という根本的な疑問は一切放棄されているのである。

 柳田氏は、これ以降において、「非効率主義」「あいまい文化」の重要性について論じる。それについて述べたところは、私も共鳴するところは少なくない。だが、しかし。柳田氏が本書で開陳している俗流若者論は、明らかに白と黒を明確に線引きし(当然自分は「白」である)、グレーゾーンはまったく存在しない。しかも、柳田氏の文章からは、ある事象に対して多面的に検証する、という態度がまったく欠けており、「非効率主義」「あいまい文化」とは明らかに相反する執筆姿勢であることには疑いはないだろう。

 ・58~74ページ「「ちょっとだけ非効率」の社会文化論」…単なる憂国的妄想の開陳
 この章は要するに、カーナビゲーションシステムに対する柳田氏の恨み節だけで終始しているのだが、ここにも《人間同士や人と環境(街や自然)とのコミュニケーションに電気機器が介入すると、深いところで本質的なコミュニケーションはむしろ阻害されてくるのではないか》(61ページ)と、《深いところ》や《本質》などといった空疎なアナロジーが安易に使用されている。

 また、《現実とバーチャルの倒錯》というアナロジーは、この章にも出現する(70~74ページ)。しかし、ここで採り上げられている事件に関しても、そのようなアナロジーを持ち出すのは、それこそ倒錯した論理ではないか。結局のところ、柳田氏は、コンピュータ化によって日本人の「本質」が壊されている、という妄想に浸りたいだけなのかもしれない。

 ・145~161ページ「人の傷みを思わない子の育て方」…人の傷みを思わない俗流若者論の育て方
 柳田氏は、145ページにおいて、《人が人を殺すのは、極めて人間的だ》と述べる。ここで言う《人間的》という言葉は、《他の動物には見られない人間特有》という意味である。柳田氏は、146ページにおいて《これほどまでに殺人が日常化し、システム化しているのは、この地球上にヒト科を措いて他にない》と述べているのだが、見方によっては、柳田氏が145ページにおいて述べているハヌマンラングール(サルの一種)の子殺しもシステム化されたもの、ということができるだろう。このような安易なアナロジーの使用は、論理を崩壊させる力を持つ。

 柳田氏は、147ページから、現代の少年や少女による殺人事件について述べる。しかし、《子どもが同じ子どもを殺すという事件が、しばしば起こるという状況はかつてなかった》だとか、《凶悪事件を起こす少年少女の低年齢化も不気味だ》と事実に反することを言う。実際問題、犯罪白書を見ればわかるとおり、少年による凶悪犯罪(殺人、強盗、強姦、放火)はすべてにおいて昭和35年ごろの数分の一に減少しており(強盗に関しては近年増加が認められるが、これは実数が増加したというよりも強盗罪の基準が低くなったことに起因する。土井隆義[2003]、浜井浩一[2005])、各事例に関しても、子供が子供を殺す、という事件は少なくなかった(宮崎哲弥、藤井誠二[2001])。このような事実が存在することを、柳田氏はどう考えているのか。柳田氏は、青少年の凶悪犯罪について、過去にさかのぼって調査したのか。

 しかし、柳田氏は、少年による凶悪犯罪の「増加」を前提として語っているので、しばらくはその前提を受け入れることにしよう。149ページからその原因論に入るのだけれども、そこにも(当然の如く、というべきか)過度な図式化や線引きが目立つのである。
 柳田氏は、151ページにおいて、「普通」の家庭について述べているのだが、これもまた柳田氏の妄想の産物に過ぎない。曰く、

 家計を受け持つ妻は、家賃の負担を感じながら、早く持ち家に住みたいと思い、その頭金作りの一助にと、パートに出ている。おしゃれのために、自分で自由になるお金もほしいという理由もある。時折娘に絵本を買い与えることはしても、自ら読んで聞かせることはしていない。読み気加瀬をすることが、母とこのスキンシップを深めることによる安定のためにも、幼い子の感性と物語の楽しさを味わう力を身につけるためにも、非常に重要だということを知らない。

 子どもはといえば、留守番の多い鍵っ子。ひとりでテレビを見たり、ゲームで遊んだりしている。ケータイも使える。母親が留守がちなので、連絡のためにケータイを買い与えたのだ。絵本を落ち着いて読む習慣がない。保育園では、協調性が乏しく、すぐに友達を手でぶつと、保育士から言われている。

 これは今の日本では、まさに「普通」の家庭だ。つまり「一般的」という意味で「普通」なのだ。しかし、このような状態を、子育ての条件として「正常」と言えるだろうか。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」とよく言われるが、大部分の家庭や家族が「赤信号」の中で暮らしていると、それが「普通」となり、誰も危険を意識しなくなってしまう。

 このような図式化が今の俗流若者論では、《まさに「普通」の》若者論だ。《つまり「一般的」という意味での「普通」なのだ。しかし、このような》暴論を、青少年に関する言説として《「正常」と言えるだろうか。《「赤信号、みんなで渡れば怖くない」とよく言われるが、大部分の》自称「識者」が《「赤信号」の中で》馴れ合って暴論を開陳していると、《それが「普通」となり、誰も危険を意識しなくなってしまう》。

 結局のところ、これは、「批判のための批判」としか言いようがない。つまり、あらかじめ「犯罪を簡単に起こす子供達を育てる家庭」なるものを批判するために、このような図式をでっち上げているのである。柳田氏よ、貴方もジャーナリストであれば、現代の家庭に関しても綿密な取材・調査を行うべきではないか。

 当然、151ページの最後から152ページの最後においては、柳田氏の生まれ育った環境と現在の家庭環境の比較を行なうのだが、これを印象操作という。要するに、柳田氏の生まれ育った環境は過度に美化されているのに加え、現在の家庭環境は過度に醜悪化されているのである。

 そして、案の定、153ページから154ページにかけてこのようなことを述べてしまう。曰く、《どのようにすれば子供の心が真っ当に育つのかという問題に対し、国も地域も親たちも具体的で有効な対応策を見つけ出せないまま立ちすくんでいるという状況を、私は論じているのだ》と。「真っ当な心」など、イデオロギー的な妄想に過ぎないのに。

 また、柳田氏は、155ページから157ページにかけて、今規制が推し進められている「有害な」映画について述べているのだが、そこにもただ不安を煽るだけの論理だけが繰り返されるばかりだ。現在、柳田氏が問題視したがる「有害な」映画やゲームへの規制が東京都、神奈川県、埼玉県を中心にさまざまなところで行なわれているのだが、もしそのような規制が行なわれたら、柳田氏は喜ぶのだろう。「表現の自由」という、もの書きにとってもっとも大事なこともかなぐり捨てて。

 しかも柳田氏は、157ページにおいて《凶悪事件を起こした少年(少女)のほとんどが、他者の痛みを思っても見ない完璧なまでの自己中心の精神構造になっている》と言っているのだが、なぜそのような考えているのか、ということに関しては、平成16年6月の佐世保の事件における、犯人の日記、小説、ホームページでの書き込みしか触れられていない。さらに、柳田氏は、160ページにおいて、《幼少期のテレビゲームへの熱中による脳の発達のゆがみ》と書いている。幼少期からテレビゲームに熱中していた子供が、果たしてどれほどいるのだろうか。

 俗流若者論は、人の傷みを思わない。

 ・162~180ページ「ノーケータイ、ノーテレビデーを」…敵愾心の産物に期待が持てるか
 高校時代、私は教室掃除をしていたとき、友達と、「漢字を覚えてしまったら、漢字がない文章はとても読みづらくなる」ということを笑いながら話していたことがある。

 そして、そのような漢字を使わない文章が、まさか社会的に一定の地位を得た作家が、現代人に対する罵詈雑言に使うだろう事など、夢にも思わなかったのである。

 そう、柳田氏は、162ページから、165ページにかけての節で、《ケータイはカミサマ》と題して、柳田氏の携帯電話に対する敵愾心たっぷりの文章を、漢字をまったく使わないで書いているのである。読んでいて、激しい怒りが私の中に募った。これこそ俗流若者論の暴走だ、と私は確信した。このような漢字のない文章にすることで、《ケータイ》なるものに(私がこのような表現を使ったのは、《ケータイ》というのはもはやイデオロギーでしかないからであり、携帯電話及び携帯端末とは極めて乖離した存在であるからである)侵された者がいかに貧困な思考しか抱き得ないか、ということが極めて残酷に描かれているのである。柳田氏は、最初から「敵」を決めて、それに対する狼藉は、たとえ不当なものであってもいとわない、という考え方を暴走させ、ついにこのような暴挙に出てしまったのだ。本書のタイトルは《壊れる日本人》だが、壊れているのは確実に柳田氏だ。

 柳田氏は《ノーケータイデー》《「ノーゲームデー」「ノーテレビデー」「ノーインターネットデー」「ノー電子メディアデー」》が必要だ、と述べる。しかし、私はこれらには反対である。
 なぜか。柳田氏がこのような結論に至る過程には、さまざまな狼藉と誹謗中傷がある、ということは今まで述べたとおりであり、そのようなものから生まれた思索を、到底認めることなどできないのである。

 柳田氏は、当然の如く電子メディアの悪影響について自信満々で述べて、そしてそれらの「ノー○○○デー」がいかに子供たちにいい影響を及ぼすかを、実例を引いて述べている。しかし、柳田氏の視点に決定的に欠落しているものがある。それは、子供はどこまで親の監視監督下におかれるべきか、ということと、ある不安を抱えており、それに対する脱却にインターネットが大いに役立つこともある、ということの二つである。

 前者について言うと、柳田氏が述べている通り、現代の子供たちは昔以上に親の監視監督下におかれている。だからこそ、インターネットが、彼らの唯一の「居場所」になっていることがあるのだ。柳田氏は、そのような環境におかれた子供たちに対する想像力を、果たして持っているのか、問い詰めたい。柳田氏は、インターネット以外にも子供たちが「居場所」を探し出せるような環境作りという極めて大事なことを忘れて、電子メディアから子供を引き離せ、と主張しているのだから、柳田氏の論理が時代遅れだ、ということ以前に、柳田氏の論理は極めて暴力的なのである。

 また、精神科医の斎藤環氏によると、「ひきこもり」の解決にはむしろインターネットが有効だという(斎藤環[2003])。電子メディアの負の側面ばかりを強調して、それらを突き放すことによってよい面だけを生かすようにしよう、と柳田氏は述べているけれども、そんなことは単なる幻想に過ぎない。使用する過程で、いい側面も悪い側面も出てくるものだ、それは電子メディアに限ったものではないが。

 とにかく、敵愾心にまみれた汚れた「対策」に、何の期待が持てようか。

 ・181ページ~198ページ「異常が「普通」の時代」…そもそも「異常/普通」とは?
 182ページ、柳田氏は、前出の佐世保の事件について、《ケータイ・ネット時代ならではの側面に絞って詳しく分析した》と書いている。あれが《詳しく分析した》結果なのだ、と言われると、へそで茶を沸かしてしまう。これまで述べたとおり、柳田氏は、マスコミで報じられているあらゆる事件事象から、日常の些細な失敗まで、全てをコンピュータ化時代の病理に強引に結び付けて述べているのだから、本書は最初からアンフェアなスタンスで書かれている、ということを我々は自覚すべきだろう。

 183ページから184ページにかけて、柳田氏は、佐世保の事件の犯人の、長崎家庭裁判所佐世保支部による「審判決定要旨」を引用して、さらに185ページにおいて教育評論家の尾木直樹氏のある調査も引用して、この犯人の人格特性と絡めつつ、現代の子供たちがいかに危険であるかについて警鐘を鳴らす(書き飛ばす)。

 しかし、この尾木氏の調査に問題がある。尾木氏の調査は、平成10年に行われたもので、東京、京都、福島、長野の保育士456人に対して「子どもと親の最近の変化」についての調査をした、というものである。それによると、《1、夜型生活、2、自己中心的、3、パニックに陥りやすい、4、粗暴、5、基本的しつけの欠落、6、親の前ではよい子になる》という傾向が見られたらしいが、このような調査は、そのような答えを示した保育士が何を基準に語っているか、ということが問われるべきだろう。そもそもこのような回答には、「想い出の美化」というものが関わっている可能性もなくはないだろう。尾木氏、そして柳田氏は、そのことに関してコントロール(影響を排除すること)を行なったのか。しかし、柳田氏は、そのような疑問をはさむことはない。

 これ以外の内容は、柳田氏が以前に書いていた内容と大部分で重複するので、検証は控える。しかし、これだけは言いたい、柳田氏は、過去の自分を過剰に美化し、さらに現代の子供たちに過剰なまでの敵愾心を煽ることによって、差別や短絡的なナショナリズムの復活に貢献しているのだ、貴方はいつからそのような御用ジャーナリストになったのか、と。

 とりあえず、個々に関する検証はここで終わりにしよう。

 実を言うと、私は柳田氏のこの文章を、新潮社の月刊誌である「新潮45」に「日本人の教養」として連載していたときから愛読していた(もちろん、突っ込むことを楽しみにして。「日本人の教養」は、今も連載中)。柳田氏は、ノンフィクション界では相当の業績を残した人である、ということは知っていたし、また柳田氏の文章もいくつか読んだことがあるので、柳田氏がこのような文章を書いていることに、この連載の第1回を読んだ私は強い衝撃を覚えた。

 柳田氏のこの文章は、決して人間の視点で書かれたものではない。それでは、何の視点で書かれたものなのか。神の視点なのか。いや、違う。

 それは、政治の視点である。柳田氏は、過度に政治言説化された「今時の若者」のイメージを疑うことをせず、それどころかそれにただ乗りする形で、「今時の若者」の「政治利用」、要するに「今時の若者」を異物と見なして、それに対する「対策」をこそ至上の政策課題とする形で、本書は書かれている。そのようなスタンスで書かれた本書を、どうしてフェアーな書といえようか。本書は、限りなく政治に隷属された、人間味のない、罵詈雑言ばかりが繰り返された文章としかいえない。

 確かに、本書で問題のある部分として採り上げた以外の場所には、納得できる、あるいは共感できる部分もある。しかし、本書の中で「今時の若者」を敵視した文章に触れると、それ以外の部分で得た感動を一挙に裏切られてしまう。考えてみれば、本書で問題視しなかった部分でも、うわべだけの空疎な美辞麗句が頻出していた。

 このような、「今時の若者」を個々まで堕落せしめた「原因」を探し出し、それを排除する、あるいはそれに対する敵愾心を煽ることによって、子供たちを「今時の若者」にしないために、それらを過剰に敵視する。このような「残酷な温情主義」が、実在の子供たちを囲い込み、問題の解決を遅らせて、青少年から「居場所」を奪う。そして、このような残酷な温情主義と、子供たちを「国家」に従わせることによって自立心と社会性を育もうとする倒錯した論理が、戦略なき憲法と教育基本法の改正、あるいはメディア規制として析出している。

 そうでなくとも、今、手軽な社会批判として、多くの自称「識者」がインターネットを敵視し、自分の「理解できない」事件は何でもインターネットが原因と決め付ける。そして、インターネットを過剰に問題視し、「今の社会はここまで駄目になってしまった」とのコメントを流せば、マスコミは好意的にそれを紹介し、事件の真相を掘り起こすことを放棄して、そのような「憂国」に終始してしまう。

 なるほど、確かにインターネットや携帯電話といった存在、あるいはひきこもりや不登校といった存在は、強固な共同幻想によって結び付けられた「世間」にとっては「境界線の撹乱者」だ。そして今、その「境界線の撹乱者」に対して起こっている過剰なバッシングが、少年犯罪や「オタクの犯罪」にかこつけて行なわれている。しかし、我々にとって必要なのは、そのような「境界線の撹乱者」に対してどう向き合うか、ということではないか。

 俗流若者論は逃避の論理だ。俗流若者論は、自分の持っている幻想と、「世間」という幻想に逃げ込むことにより、自分を絶対化して、他者の痛みに気づくことを阻害させる。まさに、俗流若者論に感化した人こそ、他者の痛みを思わない存在である。柳田氏もそうだ。

 今、この文章を書いているときに、ラジオを聴いている。声優がパーソナリティを務めているラジオで、最近のものはメールでやり取りするものも多くなったが(小森まなみ氏の番組など、メールを使っていないものもある)、これらのラジオに共通するものは、あらゆる作業の手を止めて静かに、あるいは勉強や作業をしながら、リスナーはパーソナリティの発言を楽しみ、番組にあてられる手紙やメールをを媒介して、電波によって多くの人がその空間を共有できる。そこには確かに「人間」がいる。このように、一人一人のリスナーに即しつつ、しかし不特定多数のリスナーにも、電波の向こうの情景を楽しむことができる。俗流若者論が決して実現し得ない、メディアを通じた濃密な時間が、そこにはある。「人間」によってつむがれる言葉は、強く、深く、美しい。

 柳田氏のこの文章は、元々は手書きでかかれたものであろうが、その言葉が「政治」と強く結びついており、「人間」の入る余地がなくなっている。「政治」に隷属させられた言葉は、輝きを失い、魂を殺し、弱く、浅く、醜い。

 もう一度言おう。

 貴方は、いつから、このような物言いを許された、御用ジャーナリストになったのか、と。

 参考文献・資料
 風野春樹[2002]
 風野春樹「科学的検証はほぼゼロで疑問が残る「ゲーム脳の恐怖」の恐怖」=「ゲーム批評」2002年11月号、マイクロマガジン社
 斎藤環[2003]
 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 土井隆義[2003]
 土井隆義『〈非行少年〉の消滅』信山社、2003年12月
 浜井浩一[2005]
 浜井浩一「「治安悪化」と刑事政策の転換」=「世界」2005年3月号、岩波書店
 宮崎哲弥、藤井誠二[2001]
 宮崎哲弥、藤井誠二『少年の「罪と罰」論』2001年5月、春秋社
 柳田邦男[2005]
 柳田邦男『壊れる日本人』新潮社、2005年3月

 五十嵐太郎『過防備都市』中公新書ラクレ、2004年7月
 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 姜尚中『ナショナリズム』岩波書店、2001年10月
 斎藤環『「負けた」教の信者たち』中公新書ラクレ、2005年4月
 芹沢一也『狂気と犯罪』講談社+α新書、2005年1月
 谷岡一郎『「社会調査」のウソ』文春新書、2000年5月
 内藤朝雄『いじめの社会理論』柏書房、2001年7月
 中西新太郎『若者たちに何が起こっているのか』花伝社、2004年7月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月
 宮台真司『宮台真司interviews』世界書院、2005年2月
 ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』岩波文庫、上下巻、1987年2月

 石田英敬「「象徴的貧困」の時代」=「世界」2004年7月号、岩波書店
 小熊英二「改憲という名の「自分探し」」=「論座」2005年6月号、朝日新聞社
 渋谷望「万国のミドルクラス諸君、団結せよ!?」=「現代思想」2005年1月号、青土社
 内藤朝雄「「友だち」の地獄」=「世界」2004年12月、岩波書店
 内藤朝雄「お前もニートだ」=「図書新聞」2005年3月18日号、図書新聞

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2005年5月 7日 (土)

俗流若者論ケースファイル22・粟野仁雄

 前回の続きで、昨年6月に起こった佐世保の同級生刺殺事件を採り上げよう。ここで急いで付け加えておくが、社会学者の北田暁大氏がウェブ上で指摘している通り、この事件に関する各種総合月刊誌の反応は、比較的冷静であった。この事件に関して古典的(というか、道徳的)なメディア・リテラシー論や教育論を前面に押し出していたのは少なく、北田氏によれば「潮」と「月刊現代」くらいであった(「諸君!」ですら結構興味深い文章を書いていた。「麹町電網観測所」なる醜悪な連載はいつもどおりだったが。ちなみにこれらは北田氏は採り上げていない)。ただし、前回採り上げた「新潮45」の、小学校教諭の樽谷賢二氏の文章は、北田氏はノーマークであったが、間違いなくこの類に入る。

 また、私がこの事件に関する論評でもっとも評価したいのは、これも北田氏が見落としていた(というより、この事件に関する論評として見なしていなかった?)ものであるが、精神科医のなだいなだ氏が「論座」平成16年8月号に寄せた「役人の子ども観」であった。この文章において、なだ氏はこう述べている。

 子どもの事件だと、すぐにこういう談話(筆者注:この文章の直前の段落にある《「学校では人を傷つけてはならないとか、命を大切にする教育を進めている。学校関係者は教育の原点に立ち返って考えてほしい」という文部科学相の談話》)を発表する。だが、大人の殺人事件の時はどうなのだ。何もいわない。ここに文部科学省官僚の官僚の子ども観が表れている。もちろん自分でそれが偏見とは思っていないだろう。だが、かれらは、子どもを、大人と同じ人間だとは見ていない。(なだいなだ[2004])

 特に《かれらは、子どもを、大人と同じ人間だとは見ていない》(前掲)というのは言い得て妙であるが、このような考え方をしているのは、官僚だけでなく、一部の自称「識者」もそうであろう。そして、このような「線引き」を可能にしたのが、間違いなくインターネットだとかゲームだとか映画だとかいった「「有害」社会環境」であった。彼らは、このような凄惨な事件が起こったら、現実には少年による凶悪犯罪が減少しているのを無視して「自分たちの世代はこのような事件など起こさなかった」と飛躍して考え、青少年に特有の「病理」を追求するという名目で「「有害」社会環境」の悪影響と、それに対する規制論を堂々と唱え、それらを撲滅すればこのような犯罪は防げる、と妄想を語る。

 このような考えは、何も考えていないのと同様であり、さらにはレイシズムの論理によって裏付けられているのは明白であろう。

 このような考えを念頭において、今回検証するのは、ジャーナリストの粟野仁雄氏による「「ネット」の闇」である。この文章は「潮」平成16年8月号に掲載されていて、北田氏も《こういう論が少なかったのがけっこう意外だった》(北田氏のブログより)と言っている通り、この事件においては意外と「少数派」であった道徳論に終始している。それにしても、この立場に立つ人というものは、「闇」という言葉が好きであることよ。

 閑話休題、粟野氏の文章の検証に入る。粟野氏は146ページにおいて、この事件における犯人の弁護人の談話を引く。弁護人曰く、《『バトル・ロワイヤル』……について聞いたが答えない。そういうところは口が堅くなる》(粟野仁雄[2004]、以下、断りがないなら同様)と。この『バトル・ロワイヤル』は、この犯人が事件の前に見ていたとされるものだけれども、どうしてこの弁護人はわざわざこれを引き合いに出し、さらに粟野氏もその不自然さを問い詰めないのだろうか。しかも、この弁護人は《答えない。そういうところは口が堅くなる》と言っているけれども、本当にそうであれば、この『バトル・ロワイヤル』に関してこの犯人が特に執着心を抱いてはいない、ということの証左にもなるのではないか?

 案の定、粟野氏もインターネット有害論に走る。私が笑ってしまったのは、147ページ、長崎大学の宮崎正明教授(ところで、粟野氏はこの教授が何を専攻しているか、ということを明記していないのだが、それでいいのだろうか)の言葉を引いたくだりである。宮崎氏の指摘は、はじめのほうはいいものの、後半、すなわち147ページ2段目の中ごろから事実誤認と牽強付会が目立つ。例えば、147ページの3段目において、《犬や猫を攻撃するような少年も、そうした場面をフィルムとか、漫画とかで模倣学習していた子のほうが、そうでない子よりも残虐になれることが証明されている。『バトル・ロワイヤル』などのリアルな部分をバーチュアルに、混沌と取り込み、仮想現実で残虐性が増した。先天的でなく、獲得的な異常性格では》と恬然と述べている。嗤うべし。宮崎氏の引き合いに出している研究では、その逆因果が証明されているのだろうか。すなわち、「元々残酷な性格を持っている→残酷な作品にはまる」というものである。また、この研究においては、どのような事柄でもって《残酷になれる》ということの基準になっているかもわからないし、いかなる条件で実験されたものであるかどうかもわからない。

 同じ段において宮崎氏曰く、《文科省も、コンピュータを小、中学校にとりいれたが、道徳心とか、健康な心を子供の頃から育むことをしないと大変です》と。道徳心が大切なのは宮崎氏のほうだろう。そもそも《道徳心》だとか《健康な心》だとかいった美辞麗句は、至極曖昧なものであるし、しかもそれらのような物言いは、自意識と深く結びついており、結局のところ今の「善良な」自分を肯定する者にしかなりえない。要するに、結局のところ宮崎氏のような考え方を持った人にとっての「癒し」にしかなり得ないのである。それにしても、宮崎氏は《道徳心》だとか《健康な心》を涵養するために、何をするのだろう。今流行りの「心の教育」か?

 しかも宮崎氏は、148ページ1段目においてさらに飛躍してしまう。曰く、《文章もほとんど模倣。こうしたものは、服装などと同様、ティーンの間ではファッションでしかない。これらに染まるうち、観念的で現実感のない人間になる。深く考える必要のないアニメやゲームが影響しているのは、昨年の長崎の男児の事件と同様です》と。そこまでくるか!もし、宮崎氏の物言いが正しいのであれば、渋谷だろうが秋葉原だろうが、特定の属性の人が集まる場所における若年はおしなべて《観念的で現実感のない人間》になり、《昨年の長崎の男児の事件》と同様、殺人事件をしでかしてしまうだろう。大谷昭宏氏の「フィギュア萌え族」概念も、この意味において肯定されてしまうし、俗流若者論が得意とする渋谷への疎外言説も、もちろん裏付けられる。しかも、《昨年の長崎の男児の事件》の犯人が、どれほど《深く考える必要のないアニメやゲームが影響している》のか、宮崎氏は判断したのだろうか。深く考えていないのは宮崎氏であり、それを追及しない粟野氏もジャーナリストとして失格ではないか。

 しかし、粟野氏が宮崎氏の暴論を批判しないのは、もちろん理由がある。それは、粟野氏が、宮崎氏と同じ考えを持っているからである。事実、粟野氏は、最後の3段落(149ページ2段目から3段目)において、このような空論を堂々と述べている。曰く、

 事件が、一つの要因では説明できないが、メールやCHATなどの「新型コミュニケーション」が大きく影響している。文科省は小学生にホームページの作り方などを導入するという。そんな必要はない。コンピューターメーカーの思惑の代弁にしか見えない。

 そんな暇があったら、もっともっと体当たり教育をすべきだ。週休二日で、教師と生徒の接触時間は激減しているのだ。メールやCHATなどは、裸の人間付き合いを十分体験した上で「道具」として使うならいいが、子供の場合、画面が人間関係のすべて、と思い込むことが怖い。筆者の愚息は、パソコンはおろか、ゲーム、ファミコン、携帯も持っていないし、ほとんど扱えない稀少なる中学三年だ。「そんな暇あったら外で友達と遊べ」と言い続けた。

 日本中の教育者や親は今こそ、ビデオやテレビ、パソコンなどに依存せずに子供と裸の付き合い、体当たり教育を本当にしているのか、問い直してほしい。

 呆れてものも言えない。勝手にほざいているがいい。このような根拠なき空論、そして「私語り」が、いかに現実の家庭を囲い込むものであるか、粟野氏にはそのような想像力はないのか。

 この粟野氏の暴論は、《一つの要因では説明できないが、メールやCHATなどの「新型コミュニケーション」》に対する敵愾心が《大きく影響している》。粟野氏はテレビやゲームを排した《裸の人間付き合い》を導入せよという。《そんな必要はない》。俗流若者論を垂れ流す「大本営発表」マスコミの《思惑の代弁にしか見えない》。

 《そんな暇があったら、もっともっと》子供たちの現実を見据えるべきだ。俗流若者論的な認識で、粟野氏の思考の活性度は《激減しているのだ》。《メールやCHATなど》に対する敵対的言説は、それに関する実証的な言説を《十分》踏まえた上で《使うならいいが》、俗流若者論の場合、報道が若年層の《すべて、と思い込むことが怖い》。私は、「ゲーム脳」は《おろか》、「ケータイを持ったサル」、「フィギュア萌え族」も真に受けないし、それらをほとんど知り尽くした《稀少なる》大学三年だ(そうかな?)。これらの議論を振りかざす人たちには、「《そんな暇あったら》少年による凶悪犯罪が減っていることぐらい知っておけ」と《言い続けてきた》。

 《日本中の》マスコミやマスコミに頻繁に露出する自称「識者」は《今こそ》、安易なアナロジーや悪影響論に《依存せずに》子供を《裸の付き合い》の精神でもって彼らの現実を直視しているのか、《問い直してほしい》。

 参考文献・資料
 粟野仁雄[2004]
 粟野仁雄「「ネット」の闇」=「潮」2004年8月号、潮出版社
 なだいなだ[2004]
 なだいなだ「役人の子ども観」=「論座」2004年8月号、朝日新聞社

 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月

 内藤朝雄「「友だち」の地獄」=「世界」2004年12月号、岩波書店

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2005年5月 5日 (木)

俗流若者論ケースファイル21・樽谷賢二

 ちょっと時期はずれな気もするが、今回は平成16年6月に起こった長崎県佐世保市の女子児童殺傷事件を採り上げる。どうもこの事件に関する「分析」の大半が、この事件における犯人がインターネット上のチャットでの書き込みが癪に障ったので犯行に及んだ、という経緯があるせいなのか、「今時の若者」はインターネットなどといったヴァーチャルな空間でばかり存在できず、それで想像力が失われてこのような残忍な事件を起こした、というものであった。

 そうだろうか。現実には、この事件における犯人と被害者は、事件前からかなり仲のいい関係だった、ということが事実として報じられている。しかし、やはりこのような情報の主たる受け手である「善良な」人たちにとって「理解できない」ものであるインターネットを「原因」として祭り上げたいという動機があってか、このような背景を無視した単なる「分析」ばかりが横行していた。しかし、このように、例えば「インターネット」などを槍玉に上げる理論は、単なる責任の押し付けの理論に過ぎず、単に偏見を生み出すだけに過ぎない。想像力が足りないのはどちらのほうだろうか。ちなみに、良心的な人ほど、この事件の犯人と被害者における「関係性」の苦しさを問題にしていた。

 今回採り上げるのは、大阪府堺市立深井小学校教諭の樽谷賢二氏が新潮社の発行する月刊誌「新潮45」平成16年8月号に掲載した文章「文科省推進「小学生パソコン教育」の惨状」である。樽谷氏のこの事件に対するスタンスは、《コンピュータだけが少女を殺人に駆り立てたと思っているわけではない。小学校高学年の児童の交友関係は把握しにくいものだ》(樽谷賢二[2004]、以下、断りがないなら同様)としながらも、《しかしコンピュータがなかったらあれほどの惨劇は起こらなかったことは断言できる》というものであった。確かにこのような分析は外れてはいないのだけれども、この事件に対して深く触れるようになる文章の最後のほうで、なぜか前者のほうは完全に忘れ去ってしまうのである。

 樽谷氏は、235ページにおいて《今改めて小学校の〈情報教育〉が問い直されている》と書いている。しかしながら、このような問題提起は、問題の本質から逆に遠ざけてしまう者に過ぎない。これについては、最後のほうで詳しく述べることにして、今は樽谷氏の言説の分析に集中しよう。

 樽谷氏の文章における問題点が本格的に表出するのは237ページからである。例えば樽谷氏は237ページの最後から238ページにかけて、

 私は今小学4年生を担任しているが、授業に退屈していると、女子児童は小さなメモの紙に遊ぶ約束の話や、時には自分たちの共通の趣味に関する話を書いてこっそりまわしていることがある。発見すると「こらっ、授業中にメール(メモのこと)を送るな!!」と注意をして取り上げるのだが、少々きつく注意してもあまり悪びれる様子のないのが今の子供達である。休み時間にでも話せばすむことなのに、メールにするのは教師の目を盗むスリルと同時に、直接顔が見えない世界だけに表現しやすいのだろう。Eメールの予備軍である。

 と書いているが、腐臭が漂っている。第一に、樽谷氏は《授業に退屈していると、女子児童は小さなメモの紙に遊ぶ約束の話や、時には自分たちの共通の趣味に関する話を書いてこっそりまわしていることがある》という事態に対して《「こらっ、授業中にメールを送るな!!」》と注意しているようだけど、どうしてメモを《メール》として表現する必要があるのだろうか。「メモ」でいいのではないか。もっとも、この点に関して検証するのは枝葉末節を突くようなものであり、ただ私が気になったのでちょっと採り上げた。

 それでも問題のある記述は、この段落だけを見ても多々ある。例えば樽谷氏は《少々きつく注意してもあまり悪びれる様子のないのが今の子供達である》などと断定しているけれども、それなら過去との比較を行なっていただきたい。そもそも、授業中に児童(特に女子児童)が教師に隠れてメモを渡す、ということは過去にもあった。樽谷氏は《少々きつく注意してもあまり悪びれる様子のない》というところを問題視しているのだろうが、そのような児童が最近になって表れたということを少しは証拠立てしていただけないものか。しかも《直接顔が見えない世界だけに表現しやすいのだろう》などと樽谷氏は書いているけれども、樽谷氏のクラスの児童は首すら回せないのだろうか。というのは冗談であるが、少なくとも《直接顔が見えない世界》が構成されるのは極めて短い時間で、これは樽谷氏が結局のところ《Eメールの予備軍である》と強引にメールの「闇」に結び付けたいがための論理立てではないか、と疑わざるを得ない。

 樽谷氏の論理はさらに混乱を極める。樽谷氏は、237ページにおいて《私の友人で、大阪府でもコンピュータ指導の第一人者の教師が、彼の学校の6年生児童全員を対象にインターネットに関する調査を行った》ことの結果を274ページで公開し、同じページで再び触れているけれども、ここではサンプル数が明示されていない。統計調査を引用するのであれば、まずその調査が信頼に足るものであるかどうかを検証するために、サンプル数ぐらいは公開しておいたほうがいいだろう。しかし樽谷氏は、この統計データからさらに恣意的に《彼(筆者注:件の大阪府の教師のことだろう)も言っていたことであるが、顔を見せずにすむし、氏素性も隠せるのだから、無責任なことの書き放題である》と「分析」してしまう。《無責任なことの書き放題》というのは、むしろ樽谷氏ではないか?ついでに、この調査において、掲示板に書き込みをしているか否か、という質問に対してイエスと答えたのはたったの3%だった。

 そして239ページ。この文章の最後にあたるのだが、このページは、もう全部が論理飛躍や暴走といってもいいくらいである。例えば樽谷氏はこのページの冒頭において、《本来人と人とのコミュニケーションとは……》と語っているのだが、結局のところ単なる感情的なインターネット批判に終始しているのはどういうことか。特に1段目から2段目にかけてのこの段落に関しては笑ってしまった。曰く、

 仮定のことをいっても仕方のないことであるが、佐世保の同級生殺害事件の加害児童が、メールではなく直接顔を見て表情や息吹を伴った会話をしていれば、いくら喧嘩になったとしても、殺人という最悪の結果にはならなかっただろう。

 と。嗤うべし。《メールではなく直接顔を見て表情や息吹を伴った会話をしていれば》などと樽谷氏は言っているけれども、この事件における加害者と被害者はしょっちゅう《直接顔を見て表情や息吹を伴った会話》をしていたのだが、樽谷氏はそれを忘れているようだ。しかも、このような論証立て自体、本当に人間関係に苦しんでいる人を囲い込むことにしかならない。第一、《直接顔を見て表情や息吹を伴った会話》でこのような事件が防げると考えるのは、あまりにも甘い考え方としか言いようがない。

 しかも、樽谷氏はその点に気づいていないらしく、239ページ2段目から3段目にかけて、このような妄想をぶちまけてしまう。

 10年くらい前から、公立小中学校が〈学校開放〉の名のもとに、すっかり市民社会化してしまった。世間で起きている凶悪事件が、そのまま学校へ持ち込まれてしまった。大きな事件としては、黒磯市での中学生による教師の視察、大阪教育大池田小での青年による児童殺傷、長崎での中学生によるビルからの小児突き落とし殺人、ごく最近では新潟の学校への包丁を持ち込んだ小学生による傷害事件。ここまでセンセーショナルにはならなくても、学校現場での凶悪事件と紙一重の事例を私もいくつか見てきたし、教師仲間が集まれば物騒な話題には事欠かない。  パソコンや、携帯電話がここまで普及し、事件に一役かうようになってしまった現代社会では、佐世保のような事件を防止できないことを肝に銘じるべきである。文部科学省の推進する〈情報教育〉=コンピュータ遊びなどは屁のツッパリにもならない。

 大いに嗤うべし。事実誤認、論理飛躍、論理の混乱、とにかくたくさんの問題点がここから検出できる。第一に、《世間で起きている凶悪事件が、そのまま学校へ持ち込まれてしまった》と樽谷氏は言っているけれども、少なくとも《長崎での中学生によるビルからの小児突き落とし殺人》は学校の中で起こったものではない。また、《大阪教育大池田小での青年による児童殺傷》と書いているが、この事件の犯人は当時37歳だった。どこが《青年》だろうか。しかも、このように過去との比較もなく、簡単に現在の事件を嘆いてしまうというのは、教師としてあるまじき行為ではないか。このような論証立てには、過去の事例に関する「想い出の美化」のような現象が関わっているとも言えるだろう。

 しかも《パソコンや、携帯電話がここまで普及し、事件に一役かうようになってしまった》と言っているのだが、本当にそうなのか、検証立てが必要であろう。確かに、佐世保の事件に関してはそういいきることもできなくもない(というより、できる)のだけれども、他の事件に関しても、無理やりそのような図式に当てはめるのは酷であろう。しかも、このような不安言説の垂れ流しが、さらに人々を不安に陥れる、ということに、樽谷氏は終始無頓着であった。もう一つ言うけれども、前の段落においては《学校開放》が凶悪事件の増加の「原因」としていたのに対し、後ろの段落においてはパソコンや携帯電話の普及がその「原因」と子弟いるのは、矛盾ではないか。

 インターネット叩きで佐世保の殺人事件のような事件が減らせるのであれば、どんどんやるがいい。しかし、現実には、そのような行為で減らせるというのは単なる幻想に過ぎないだろう。

 また、このような論証立てには、事件を起こした犯人どころか、現在の子供世代が自分とは違う「人種」であるという(森昭雄や正高信男や大谷昭宏などの過剰なる線引きに代表されるような)考え方に即しているのではないか。

 なんだか、インターネットに対する批判が自己目的化し、「インターネットに毒された「今時の若者」」を批判することによって社会に警鐘を鳴らしている自分を表出することによって満足感を得ているような文章に、樽谷氏のこの文章がなっているような気がしてならない。

 今回の事件では、明らかに直接顔の見える関係性の中で起こった事件である。その点を見過ごしてはいけないのではないか。この事件の直後に行なわれた、評論家の宮崎哲弥氏と、ライターの藤井誠二氏、そしてライターの渋井哲也氏の座談会において、藤井氏が《あるシンクタンクが15歳以下の男女を対象に》(宮崎哲弥、藤井誠二、渋井哲也[2004]、この段落に関しては断りがないなら全てここからの引用)行なった《ネットについての意識調査》を引いて(とはいえ、ここでもサンプル数が明示されていないので、その信憑性に関しては疑う必要があるが)《われわれが普通考えるネット利用時の怒りというと、相手の顔が見えない関係を思い浮かべますが、この調査結果を見ると碇を感じているのは、佐世保の事件同様、顔の見える関係のある人に対してなんです》と述べて、それを受けて渋井氏が《小学校では、ネット利用時に知らない人には気をつけようと教えるので、どうしても知っている人同士のコミュニケーションばかりになる。知らない相手なら、嫌なら無視したり、受信拒否したりすればいいけど、知っている人だったら簡単に切るわけにもいかないですから》と述べたことに関して、宮崎氏は《ヴァーチャルな経験が増えて生の体験が不足したのが問題だ》という言説を《戯言》と退けて、藤井氏と渋井氏の意見をまとめる形で《問題の本質は、生の体験とヴァーチャルな経験の境界がなくなり、両者が本質的に等価であるという認識が定着しつつあるということです》と指摘している。

 宮崎氏はこの座談会において「学校世間」という語句を使っているけれども、そこからの逸脱を許さないような不文律がこのような事件を引き起こした、という背景も無視できないだろう。しかし、もう一つ付け加えておく必要がある。この事件に関して、私も何度も引用している作家の重松清氏による報告に書いてある通り、この犯人が公立の中高一貫校の受験に際して、本人の意思に反してクラブ活動をやめさせられた、ということが事件へのトリガーになっている、という側面もある(重松清[2004])。この2つのキーワードを重ね合わせると、見えてくる一つの言葉は「管理化」である。

 要するに、「友達」関係による横の管理と、「親」による縦の管理が犯人を精神的に追いつめた、ということである。とりわけ「友達」による横の管理は、携帯電話によってさらに加速されるのは否めないだろう。それだけでなく、例えば中部大学助教授(当時。現在は東北大学助教授)の五十嵐太郎氏が指摘するとおり、GPS携帯電話(人工衛星による位置情報確認システムを搭載した携帯電話)が「防犯」のためと称して親が子供たちに持たせることにより、《物理的な拘束のメカニズムではなく、絶えず接続されたコミュニケーションによって、われわれは管理される》(五十嵐太郎[2004])事態が生じる。それだけでなく、例えば神奈川県の松沢成文知事や横浜市の中田宏市長が主張するように、少年の「問題行動」に関して「親の責任」を問うような条例の横行など、現在の青少年を「監視されるべき存在」として扱うべき、という言説が横行している。

 これと歩調を合わせているのが「心の闇」騒動である、といってもいいだろう。重松氏がこの騒動に関して《子どもの心は本来おとながすべて見通せるはずのものだ、という「見ること」の傲慢さ》(重松清[2004])を嫌っているが、結局のところこのような言説の横行は、青少年の「心」が統制されるべき、という考えの延長上にある。そして、日本大学教授の森昭雄氏が盛んに唱えている「ゲーム脳」理論や、京都大学霊長類研究所教授の正高信男氏の擬似「ワーキングメモリー」仮説など、まさに「ポスト「心の闇」」というべき言説に関しては、もはや青少年はそれだけで「異常」を抱えている存在として見なされるという、監視化のさらに先鋭化した形のものと言わざるを得ない。

 このような状況を冷静につかめぬまま、樽谷氏の如き恐ろしく牧歌的(そして自分の「理解できない」ものばかりを凶悪犯罪の「原因」と祭り上げてしまうように陰謀論的)な言説ばかりが横行する状況を危惧する(ただし、社会学者の北田暁大氏がウェブ上で指摘するとおり、少なくとも月刊誌の世界では冷静な意見が目立った)。しかし、このような暴論に類似した議論は、この種の事件が起こるたびに絶えず噴出する。次回も、この問題に付き合うことにしよう。

 参考文献・資料
 五十嵐太郎[2004]
 五十嵐太郎『過防備都市』中公新書ラクレ、2004年7月
 重松清[2004]
 重松清「少女と親が直面した「見えない受験」という闇」=「AERA」2004年7月19日号、朝日新聞社
 樽谷賢二[2004]
 樽谷賢二「文科省推進「小学生パソコン教育」の惨状」=「新潮45」2004年8月号、新潮社
 宮崎哲弥、藤井誠二、渋井哲也[2004]
 宮崎哲弥、藤井誠二、渋井哲也「大人の想像を超えた「戦争状態」」=「中央公論」2004年8月号、中央公論新社

 斎藤環『「負けた」教の信者たち』中公新書ラクレ、2005年4月
 数土直紀『自由という服従』光文社新書、2005年1月
 中西新太郎『若者たちに何が起こっているか』花伝社、2004年7月
 山本七平『日本はなぜ敗れるのか』角川Oneテーマ21、2004年3月

 齋藤純一「都市空間の再編と公共性」=植田和弘、神野直彦、西村幸夫、間宮陽介(編)『(岩波講座・都市の再生を考える・1)都市とは何か』岩波書店、2005年3月
 内藤朝雄「「友だち」の地獄」=「世界」2004年12月号、岩波書店

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2005年4月21日 (木)

トラックバック雑記文・05年04月21日

 ン・ジュンマ(呉準磨)の備忘録:私も社説批評にトライ!!アルゼンチン「借金踏み倒し=造反有理」かもよ!?
 カマヤンの虚業日記: [政治]「東アジア」的統治
 読売新聞の社説に挑戦しています。私の家でも読売新聞をとっているのですが、私の目が肥えてきたせいなのかもしれませんが、最近の読売の社説はどうもつまらない。最近では、中国の反日暴動を何度も採り上げていますけれども、どうも過去に我が国が中国に対してひどいことをした、という認識を忘れているのではないか、という気がしてなりません。もちろん、過去の侵略戦争と現在の中国の反日デモは割り切って考えなければなりませんけれども、我が国がアジア諸国に対して行った加害の事実を忘れてはならないと思います。

 読売は中国の反日愛国主義教育を批判します。そのことに関しては大賛成です。しかし、他方で読売は、現代の青少年が国旗と国歌に対して愛着をさほど持っていないことについて盛んに嘆いています。どこか矛盾していないでしょうか。私が教育基本法に「愛国心」を盛り込むことに対して最も懸念していることが、現在の中国の反日デモのようなことが起こることです。現在の我が国はある種のアノミー状態にあるので、なし崩し的に「愛国心」を教えるようになったら、かえって有害ではないか、と思うからです。

 いや、「愛国心」教育推進論者の語る「愛国心」は、むしろ「国粋主義」でしかありません。そのことをまず衝くべきではないか、と思います。

 ところで、「ン・ジュンマ(呉準磨)の備忘録」の著者から、次のようなコメントをいただきました。

 後藤さん、「オニババ化する女性たち」とかいうのにツッコミは入れましたか? 期待してるんですが(若者論とは見てない?)

 三砂ちづる『オニババ化する女たち』(光文社新書)ですか。ごめんなさい、《若者論とは見てない?》以前に、読んですらいません。このテーマに関してはまったく興味がないので、手にとることすらしていなく、「論座」平成17年2月号における、鍼灸師の田中美津氏による批判で、その内容を軽く知っているくらいです。でも、いろいろなところで話題になっているらしいので、読んでみましょうか。

 minorhythm:インスタントカメラ(茅原実里氏:声優)
 今日、仙台市の隠れた桜の名所として知られる遠見塚小学校に行ってきました。そのときの光景を、しっかりとカメラに収めてきました。

 ところで私が使っているカメラは、デジタルカメラです。しかしこのカメラは、今年の初売りで買ったものなので、それ以前は、写真を撮るときはもっぱらインスタントカメラを用いていました。しかしインスタントカメラは、フラッシュの融通が利かなかったりとか、ズーム機能がなかったりとか(当然か)、安いだけに使いづらい面もあります。そのような想い出もあり、私はほとんどデジカメを使っているのですが、茅原氏は、《でもなんか両方を比べてみると、私はもしかしたらインスタント派かも!》として、こう書いています。

 極上の笑顔でバッチリ成功した写真も、ピントがズレてたり、知らぬまにシャッター押しちゃったりして失敗した写真も、全部現像されちゃうわけです!

 だけど、その1枚1枚に写されてる一瞬がなんだかとっても愛しいんですよね☆

 「何この写真~!!最悪なんだけど~!?」

 なんて笑い合える仲間に乾杯っ♪

 こういうのもいいかな、と。

 弁護士山口貴士大いに語る:一連の美少女アニメ・ゲームバッシングについて(山口貴士氏:弁護士)
 週刊!木村剛:[BLOG of the Week]プロの書き手の正念場が来る!(木村剛氏:エコノミスト)
 木村氏のブログで、「BLOG of the Week」として採り上げられているのは、実は私の文章です。木村氏は私の文章に対して《言論の自由に関する一考》と評価してくださっています。

 ここ最近の「トラックバック雑記文」「俗流若者論ケースファイル」において、私は何回か「有害環境」「有害メディア」規制を批判してきました。しかし、このような歪んだ施策がポピュリズムとなりうるのは、要はそれを求める人がたくさんいるからに他なりません。

 そして、そんなものが受け入れられるようになる背景には、特にマスコミの影響が大きい。例えば、マスコミは「現実の女性ではなく、ゲームの中の女性にしか恋愛感情を持たない「今時の若者」」を攻撃します。しかし、だからといってそれが精神病理だとか、さらには犯罪だとか(大谷某の「フィギュア萌え族」なんてまさにこれですよね)に結びつける必要があるのでしょうか。あるいはこんな「今時の若者」ばかりだから少子化が進むのだ、という向きもあるのでしょうが、少子化の何がいけないのか。まあ、少子化のことについて言及するのは少ないですけれども。

 彼らは精神病理だとか犯罪的だとか虚飾していますけれども、結局、それらの批判は、彼らが「そう思いたいだけ」だからでしょう。精神病理云々、犯罪云々は単なる虚飾の言葉に過ぎない。底流にあるのは「気持ち悪い」という感情だけです。でも、彼らはそのような感情と同時に、多くの人とそのような感情を共有することによって、自分の気に食わない人(例えばオタク)にマイナスのイメージを与えたい、だから犯罪とか精神病理だとかいった言葉を用いているのでしょう。少々うがちすぎかもしれませんが。

 最近、ライターの本田透氏が『電波男』という本を書いたそうです。聞くところによると、なんでもこの本は「現実の恋愛は2次元の恋愛より勝っているか」ということに関して書かれた本らしいです。機会があったら手にとってみたいのですが、あいにく近くにおいている書店がないので。アニメ専門店だったら置いているだろうか?

 お知らせ。まずbk1で新しい書評が掲載されています。
 ジュディス・レヴァイン、藤田真利子:訳『青少年に有害!』河出書房新社、2004年6月
 title:「有害」排除の先に見えてくるもの
 菊池昭典『ヒトを呼ぶ市民の祭運営術』学陽書房、2004年11月
 title:真価が問われるのはこれから
 どちらもお勧めです。上は、東京都の石原慎太郎知事他「有害」規制を推し進めている人に、下は楽天の三木谷浩史社長にはぜひ読んでほしい本です。あと、三木谷氏には、来月の半ばごろに開催される「仙台青葉まつり」もぜひ見てほしい。

 また、「俗流若者論ケースファイル13・南野知恵子&佐藤錬&水島広子」「俗流若者論ケースファイル14・大谷昭宏」を公開しました。前者は本気ですが、後者は少し力を抜いています。

 また、過去の文章に以下の加筆を施しました。
 「俗流若者論ケースファイル02・小原信」について:

 《幻実が現実になると、ミッキーマウスをネズミだとは思わない》なぜ?《アキバ系の若者は現実の女性よりキャラクターグッズに「いやし」を見出すという》だと、《という》で片付けないでいただきたいものだ。しかし、小原氏はそれで片付けても構わないのだろう。

 この箇所を、以下の文章に置き換えました。

 小原氏は、《幻実が現実になると、ミッキーマウスをネズミだとは思わない》などと意味不明なことを言い出す。これには正直言って、数回ほどへそで茶を沸かした。《ミッキーマウスをネズミだとは思わない》というのは、決してそのような人が《幻実》に翻弄されているわけではなく、むしろ《幻実》を受け入れることによって、ミッキーマウスというキャラクターの背後にある「大きな物語」に同一化しているからである。小原氏にとって、このような物言いは、自分の生活圏内だけが「現実」であると言っているのに等しいのだが、小原氏にとってはそれでいいのだろう。同じ段落にある、《アキバ系の若者は現実の女性よりキャラクターグッズに「いやし」を見出すという》などという物言いも然り。このような物言いは、ジャーナリストの大谷昭宏氏の「フィギュア萌え族」概念にも共通する危険性をはらんでいるのだが、現実と戯れることができない奴は病気である、という思考は、かえって現実との関わりを放棄した、ある層に対する弾圧につながりかねないし、多様な感受性を否定するものでもある。現実の女性に残酷な性犯罪をやらかす輩よりも、《幻実》と戯れて萌える人のほうが、社会にとっては無害だろう。《幻実》を最初から「悪」と決め付ける小原氏は、ここでとんでもない勘違いと倒錯をしているのである。もう一つ、このような物言いは、小原氏の想像力が極めて狭いことも意味するのだが、小原氏はそれで構わないのだろう。

 「俗流若者論ケースファイル11・石原慎太郎」について:

 

…赤枝氏が自分にとって衝撃的だったことを知らず知らずのうちに誇張して石原氏に言っている可能性もある。それに、そのような状況にある家族に対する支援は、それこそ政治の役割ではないか、という気もするのだが。石原氏が《真顔でいうそうな》と書いているのは、そのような家族に対する社会保障や性教育の不備を正当化するように見えてならない。

 この文章の直後に、以下の文章を加筆しました。

 ついでに性教育に関しても触れておこう。20世紀の終わりごろ、米国では、子供の「性」をタブー視し、学校では性教育よりも「純潔」さらには「禁欲」を高く掲げた教育が正義とされ、適切な性教育でさえも保守系の団体に糾弾された。また、宗教保守からフェミニストまで、性表現の規制に躍起になり、マスコミは青少年の「性」に関する過剰な報道で溢れかえった。それを告発した米国の作家のジュディス・レヴァインによると、しかしそれでも青少年の「性」を巡る問題はまったく解決しないどころか、むしろ問題を深刻化させた(ジュディス・レヴァイン[2004])。レヴァインは、青少年を「性」に関する情報から遠ざけてしまったあまり、「性」に関する知識は希薄化し、無防備な性行為が蔓延してしまったことを指摘している。我が国でも一部の自称「保守」が性教育攻撃に奔走しているのであるが(石原氏もその典型であろう)、性教育を禁止してしまったら米国と同じ事態を招きかねないのではないか。また、特に赤枝氏は、中学生までの性行為を法律で禁止しろ、といっているけれども、自由な行動が保障されている我が国において、それが実を結ぶためには、我が国が北朝鮮並みの言論統制国家及び監視国家にならなければならない。

 それにしても、「俗流若者論ケースファイル」ばかり回を重ねて、本来の目玉だった正高信男批判はどうも尻すぼみ気味です。もっとも、最近になってさまざまなところから俗流若者論が顔を出したり、あるいは過去の俗流若者論を引っ張り出してきたりと、この勢いはとどまるところを知りません。このシリーズで今後採り上げる予定の文章はこれだけあります。

 ・近いうちに採り上げる予定のもの
 平成17年3月16日付読売新聞社説「元気がないぞ日本の高校生」
 荷宮和子「私が団塊ジュニア世代を苦手だと思う理由」=大塚英志・編『新現実Vol.2』角川書店、2003年3月
 藤原智美「目をつむれない子どもたち」=「文藝春秋」2005年5月号、文藝春秋
 浜田敬子「テレビが子供の脳を壊す」=「AERA」2002年7月15日号、朝日新聞社

 ・判断を留保しているもの
 和田秀樹「日本はメランコの中流社会に回帰せよ」=「中央公論」2003年6月号、中央公論新社
 小原信「不安定なつながりが逆に孤独を深めている」=「中央公論」2004年4月号、中央公論新社
 陰山英男「「学力低下」世代が教師になる日」=「文藝春秋」2005年5月号、文藝春秋
 役重真喜子「「一億総評論家」」=「論座」2004年9月号、朝日新聞社
 吉田裕「台頭・噴出する若者の反中国感情」=「論座」2005年3月号、朝日新聞社
 林道義「家庭が子供の脳を育てる」=「諸君!」2003年8月号、文藝春秋
 中村和彦、瀧井宏臣「育ちを奪われた子どもたち」=「世界」2003年11月号、岩波書店
 下嶋哲朗「再び「後悔の土壌」とならないために」=「世界」2004年10月号、岩波書店

 しかし、「ケースファイル」ばかりでは面子が立たないので、本流の正高信男批判も充実させるつもりです。来月7日でこのブログは開設半周年を迎えるのですが、その記念論文は「正高信男という堕落ZERO(仮題)」で企画しています。「正高信男という堕落」で採り上げた文章(平成16年11月22日付読売新聞の「学びの時評」欄に掲載されたもの)以前の文章を検証するつもりです。

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2005年4月13日 (水)

トラックバック雑記文・05年04月13日

 週刊!木村剛:[ゴーログ]『Google八分』や『Yahoo八分』は本当に起こるのか?(木村剛氏:エコノミスト)
 このブログの横に「参考サイト」として登録されています「奈良女児誘拐殺人事件における、マスコミのオタクバッシングまとめサイト」の姉妹サイトにあたる、「「フィギュア萌え族(仮)犯行説」問題」(管理人は古鳥羽護氏)というサイトがあるのですが、このサイトが一時期Yahoo!から「利用規約違反」との理由で強制的に閉鎖されてしまいました。現在でこそ復活しておりますけれども、なぜこのサイトが閉鎖されたか、というのは私にはどうもその理由が分かりません。おそらく、件のサイトで大谷昭宏氏(この人をジャーナリストと呼ぶことは、大先輩の黒田清氏に失礼ではないかと思う)をテレビの映像つきで批判して、それが著作権法違反にあたる、という見方もできるでしょうが(これはあくまでも推測であって、古鳥羽氏のサイトが著作権法に抵触しているか、ということについては議論されるべきでしょう)、このサイトよりもテレビの映像を晒しているサイトはほかにたくさんあるような気がします(同日午後9時35分追記:サイトの閉鎖に関しては、広告が表示されていなかったのではないか、という指摘がありましたので、可能性としてはこちらのほうが高いのではないかと思いますので、訂正いたします/同月16日午後7時42分修正:実際、件のサイトが閉鎖された原因は大谷氏サイドからの苦情だった、という指摘がありましたので、再修正します)。

 木村氏のブログでは、インターネットの検索サイトから外されることに対して「表現の自由」に対する侵害だ、という主張が引用されていますけれども、インターネット時代だからこそ「言論」というものを深化させなければならないのではないか、と私は思います。現在発売中の経済週刊誌「エコノミスト」で、ジャーナリストの日垣隆氏が、ブログが普及することによって「書き手」になるための敷居が低くなったことを指摘しています。日垣氏はこのことに関して「有益なこと」と言っており、ここで正念場になるのはプロの書き手だ、と述べております。私も、ブログを開くことによってさまざまな賛同や批判を目にしてきました。中には至極まっとうな批判もあり、考えさせられる文章もあったのですが、とりわけ痛感するのは、私も「言論」の担い手になってしまっている、ということです。これはもう不可逆なことです。

 ブログが普及することによって「書き手」が増えると、既存の書き手市場も含めて言論は大淘汰の時代になるのではないか、と思います。これにより、既存の「論壇誌」はますます危機に晒されることになるでしょう。でも、この危機の炎を乗り越えてこそ、言論のプロが活躍する洗練された「論壇誌」になると、私は確信しております。

 木村氏のブログにおいては、読売新聞が発行する週刊誌「Yomiuri Weekly」に掲載された記事にリンクが張られておりますが、この記事を読んだ私の感想は、とにかく問題をブログの責任になすり付けているな、ということ。「Yomiee」の記事においては、ブログは所詮「2ちゃんねる」と変わらないのだ、と言いたいのでしょうが、ブログの可能性を狭めているのは、むしろこの「Yomiee」の記事ではないか、と思われます。私はこのブログの機能を用いて、匿名での投稿ができないようにしておりますが、悪質な「煽り」に対して、技術的な面でそれを排除できるようにするシステムも必要なのではないか、と思います。あと、注意しなければならないのは、このようなネット上の反道徳的行為を奇貨として、政治家がネット規制に走ることでしょうか。

 千人印の歩行器:[読書編]bk1投稿書評(栗山光司氏)
 オンライン書店の「bk1」がリニューアルオープンしました。栗山氏の書評において、最も多く投票されたのは『アホでマヌケなアメリカ白人』の書評だそうです。ちなみに私のもので一番多かったのは、正高信男『ケータイを持ったサル』で、次が荷宮和子『声に出して読めないネット掲示板』でした。いずれも批判書評なのですが、私の書評を読んでみると、どうも批判書評が多く読まれる傾向にあるようです。しかも私が批判するのは、たいていベストセラーとなっている俗流若者論ですから、多くの人の目に映るのでしょう。あと、斎藤美奈子氏の本に書いた書評も多くの人が投票していました。

 半分お知らせになるのですが…

 「若者論」で国家論!
 ハイ!ハイ!ハイ、ハイ、ハイ!
 あるある探検隊!あるある探検隊!あるある探検隊!!
 (「レギュラー」のお二方、ごめんなさい)

 というわけで、現東京都知事の石原慎太郎氏が、「仮想と虚妄の時代」と称して、「今時の若者」から国家の衰退を嘆いた85枚にも及ぶ文章が「文藝春秋」05年5月号に掲載されたのですが、これがまた問題ばかりで、思わずその検証として「俗流若者論ケースファイル11・石原慎太郎」という文章を書いてしまいました。ついでに、これの長さを測ってみるとなんと原稿用紙30枚分だとか。ちなみにこの文章は昨日4時間かけて書いた文章なのですが、まさかそんなに書いているとは思ってもいませんでした。

 走れ小心者 in Disguise!:「エール送っとくわ」(克森淳氏)
 目に映る21世紀:これから行くイベント:⑰「トーク・イベント『僕たちの下北沢を救え!!』」

 この文章を公開するとき、多くの人に読んでほしかったので、私がよく見るブログの中でも、石原都政や自民党政治を批判的に見ているブログ(ここにリンクを貼った「走れ小心者 in Disguise!」「目に映る21世紀」にも送りました。ちなみにこのサイトの横の「おすすめブログ」に「目に映る21世紀」を追加しました)にトラックバックを送ってみたわけですが、反響は上々でした。

 それにしても、現在の石原都政を宮城県民の目から見ていると、この人はこれから先の人口減少社会に適合した政策を構築できるのか、と思ってしまいます。たとえば、五十嵐敬喜、小川明雄『「都市再生」を問う』(岩波新書)という本があり、この本では主に東京都で推し進められている「都市再生」がいかに地域を圧迫しているか、ということが告発されています。そしてこれを推し進めているのが、小泉純一郎首相、日本経団連、そして石原知事であるわけです。しかし、人口は確実に減少するのですから、いずれビルは過剰供給の事態に陥ってしまうのは見え見えです。小泉首相、石原知事、経団連は、このような「都市再生」を起こすことによって土地の値段を高騰させて、バブルの夢再び、といきたいようですが、この低成長時代において、経済的な成長が全てを叶えてくれる、という幻想はとっくに潰えているはずなのですが。

 「有害環境」規制だってそう。結局このような政策が起こる背景には、「今時の若者」をそのまま「悪」だとか「エイリアン」「モンスター」だとか決め付けており、その「原因」を「有害メディア」「有害環境」に求めたがる、という思惑があるからでしょう。しかし、このような規制は、青少年が多様なメディアに触れる自由と、親がそれを判断させる自由を奪うものに間違いありません。こういう人たちは、自分が「気に入らない」ものなら国家権力を使って排除してもいい、と思っているのかもしれませんが(「人権擁護法案」への質の低い反論もこの類でしょう。ちなみに私は、現在の「人権擁護法案」は真の人権擁護たりえない、という立場から反対です)、あんたらの身勝手な発想を国政に反映させないでいただきたい。
 しかも「有害メディア」「有害環境」規制には、なにも石原知事だけではなく、神奈川県の松沢成文知事や横浜市の中田宏市長も賛成しているのです。今年の初めのほうで、千葉県知事選がありましたけれども、ここで堂本暁子氏が当選したのが唯一の救いだった。対抗馬として立候補していた森田健作氏が当選したら、「有害メディア」「有害環境」規制の首都圏連合が完成するところだったのですよ。千葉県民に私は最大の敬意を示したい。もし東京・神奈川・千葉が「有害」対策の首都圏連合を実施したら、そのようなことをしてもいい、という「空気」が生まれてしまい、全国の保守的な首長が一斉に規制に乗り出すことも考えられなくもない。今、「言論の自由」は正念場を迎えているのではないかと思います。東京都民・神奈川県民の皆様にも、それを理解して、石原・松沢の両知事に憲法理念を守らせていただきたいです。東京・神奈川・千葉の人たちを、私は応援します。

 私が最近書いた文章はもう一つあり、赤子にかこつけ国家論を書いたジャーナリストの筑紫哲也氏の文章を批判した「俗流若者論ケースファイル10・筑紫哲也」も公開しております。それにしても、筑紫氏にもこんな保守反動的な側面があったとは。
 いいですか。少子化の時代においてもっとも大切なことの一つに、「子供」をイデオロギー化しない、ということが挙げられます。「子供」やその「親」を過度に敵視するのではなく、それらに「寛容」であること。もし「寛容」でいられないならば、せめて「子供」に歪んだ「関心」を持つことをやめてくれませんか。

 それにしても、
 minorhythm:★HappyなNews★(茅原実里氏:声優)
 このような文章を読んでいると、「子供」をイデオロギー化することがなんと愚かなことか、と思ってしまいますよね。

 あと、「この「反若者論」がすごい!01・内藤朝雄」もよろしくお願いします。これからは「若者論」に限らず、それに抗うための「反若者論」も随時紹介していく予定です。

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2005年3月25日 (金)

俗流若者論ケースファイル08・瀧井宏臣&森昭雄

 ヨーロッパを資本主義という妖怪が徘徊している、と言ったのはカール・マルクスであるが、現代の我が国において徘徊している妖怪の一つとして、曲学阿世の徒・日本大学文理学部体育学科の森昭雄教授が挙げられるだろう。森氏に関しては前回、「潮」(潮出版社)平成17年4月号に掲載された森氏の文章を批判したが、その文章の最後のほうで、森氏が平成16年9月に新たに発明した「メール脳」という珍概念について軽く触れた。この概念は、ジャーナリストの瀧井宏臣氏の筆による、平成16年9月30日付東京新聞の「痴呆のような「メール脳」」という記事で紹介されている。ある人の脳波の波形が痴呆症の人と似ているからといって、その人を痴呆症ないしそれに類似した症状であると断定することはできない、ということをは精神科医の斎藤環氏をはじめさまざまな人が指摘しているのだが、いまだに脳波の形だけでその人の人間性・社会性を判断してしまう、という気風が瀧井氏をはじめ、特に「ゲーム脳」に肯定的なメディアやジャーナリスト、さらには学者にまでいまだにはびこっているので、それを徹底批判しておく必要があると思う。
 瀧井氏は冒頭で、《森教授は一九八〇年から痴呆者の脳を研究し、ブレインモニタという簡易型の脳波計を開発した》(瀧井宏臣[2004]、以下、断りがないなら同様)と述べている。このことに関しての詳しいことは斎藤環氏による「ゲーム脳」批判に譲るが、この計測器が、国際基準に準拠した測定を行いうるものか、という疑問が、多方面から投げかけられている。斎藤氏は、《脳波異常を論文化に耐える水準でしたければ、まず国際基準に準拠した測定を行い、そのデータを示すのが先である。次に、森氏が「発明」したと称する「ブレインモニタ」の測定結果の妥当性、信頼性を検証する必要がある。この手順を踏んだ上で、検査を簡略化する目的でブレインモニタを用いるのが、ギリギリ学問的に許容できる範囲であろう》(斎藤環[2003])と批判している。
 瀧井氏によれば、森氏がゲームよりも問題に感じていたのは《携帯電話だった。電車の中などで、小さな画面を見ながら親指でボタンを押し続ける若者の姿だった》というのである。そこで瀧井氏は、森氏が《二年間、携帯メールに熱中している中高校生の調査を進めた。今回、首都圏を中心とした全国二百十人について調査、結果をまとめた》ことを紹介する。その結果というものが、《それによると、全体の60%にβ波の低下が見られ、ゲーム脳と同等かそれ以上にひどい若者が目立ったという。β波の低下している中高生には、教科書を十分間以上集中して読めない、簡単な漢字が思い出せない、忘れ物が多いなどの傾向があった》という。
 さて、この「結果」と称するものに、いくつもの問題が見られる。まず、全国210人に調査した、というけれども、そのうち携帯電話使用者と非使用者は何人いるのか、ということが明示されていない。また、《全体の60%にβ波の低下が見られ》たというけれども、それはあくまで全体の平均であって、携帯電話使用者と非使用者の間に統計的に有意な差が見られた、ということを瀧井氏は突っ込むべきだった。また、この調査に関しては中高生しかサンプリングされていないけれども、それより上、あるいはそれより下の世代に関してサンプリングされていないところ、つまり、比較の対象がないことも、この統計データを疑う要素になりうる。森氏は、結論ありきでこの調査を行い、瀧井氏もその恣意性を疑うことをしなかった(できなかった?)としか考えられない。簡単に言えば若年層バッシングのための調査としか考えられない。
 瀧井氏は、その直後で、《ある高校三年の女子の場合、メールを一時間に四十通ほどのペースで、毎日六時間から八時間も送受信し続けていた。帰宅後、朝食の内容を聞いても思い出せなかった》と事例らしきものを出す。しかし、《メールを一時間に四十通ほどのペース》というのはあまりにも忙しすぎるとはいえまいか。だから、《朝食の内容を聞いても思い出せなかった》というのは十分にありうるケースのように思える。そもそもこの《高校三年の女子》のβ波はどうだったのだろうか。瀧井氏はその点をはっきりすべきである。
 また、森氏はメールを打つことが脳を使っていないことを指摘しているけれども、はっきり言ってこの発言は100パーセントが誤解であるといっても過言ではない。曰く、《一見、メールで文章を作っているので脳が働いているように思えますが、実際は一覧表から言葉を選んで文章を作っており、ほとんど前頭前野は働いていません。指の筋肉を収縮させているだけです》と。《一覧表から言葉を選んで文章を作って》いる人が、果たして何人いるのだろうか。これは、森氏のステレオタイプでしかないのではないか。1億歩譲って、メールで文章を作っている人が実際に《一覧表から言葉を選んで文章を作って》いるとしても、《一覧表》から言葉を選ぶということに関しても確実に何かを考えているだろう。森氏にとって最初から「悪」とその原因が決まっている。これでは陰謀論ではないか。
 瀧井氏は言う、《東京都の調査では、高校生の85%が携帯電話を持ち、71%が毎日のようにメールのやりとりをしている》と。しかし、その調査が、果たして森氏の「調査」にどれほど影響を及ぼしているのであろうか。さらに瀧井氏は《東京・渋谷の街頭で、ごく普通の服装をした二人の女子高生に聞いてみた》と書いているけれども、これでは基準が曖昧すぎやしまいか。《ごく普通の服装》とはいかなる服装なのか。瀧井氏のイメージの中にある「今時の若者」の服装なのだろうか、それとも?それにしても渋谷とは。何でこの手の記事・報道は渋谷にばかり向かうのだろうか。もっとも、私自身渋谷に行った経験から言ってみると、渋谷に行けば「今時の若者」という「記号」が見つかりやすいのだが。
 瀧井氏は、再び事例らしきものを出して(それがどこまで一般性を持ちうるか、というのは分からずじまいであるが)《返事を出さないと不安になり、いつの間にか依存症的になる。森教授は、このような携帯電話漬けのケースがよく見られると指摘する》と書く。しかし、これはむしろ脳科学ではなく心理学と社会学のほうが説明がつくのではないか、と思えるし、実際結構納得の行く解説がいくつか存在している(例えば、土井隆義[2003]など)。森氏は《メール脳の予防》について《携帯電話でメールをする場合、用件だけにすることです。続けても十五分以内。一日のトータルで十五分程度にするようアドバイスしています》と言っている。あまりにも安直過ぎる。さまざまなところで単純な悪影響論を語りまくってきた森氏のことだから、その「解決策」もまたあまりにも単純になってしまうのも当然といえるかもしれないが。
 はっきり言っておくが、脳波におけるβ波の低下は脳機能の低下を意味しない。また、脳機能の低下は、社会性の低下を意味しない。このことについては、私なんかよりも遥かに優れた森氏への批判があるので、そちらを参照していただきたいのだが、せめてこれだけは何度でも言っておきたい、森氏のように脳機能を人間性のメタファーと考えることは、脳に障害のある人たちへの差別を暗に容認している、ということを。
 もはや一国の宰相よりも権力が大きくなってしまった森氏と、それを疑わずに疑似科学を垂れ流す瀧井氏。「メール脳」概念は、権力とジャーナリズムの腐敗のミクスチュアによって生まれた暴力なのである。
 蛇足だが、瀧井氏は、この記事を《十月二日、東京都世田谷区の日本大文理学部で開催される「日本健康行動科学会」の公開特別講演で、森教授がメール脳について報告する》という文章で結んでいる。しかし、この「日本健康行動科学会」は、森氏が設立した学会で会長は森氏であり、森氏の学説の唯一の発表の場となっている。

 参考文献・資料
 斎藤環[2003]
 斎藤環『心理学化する社会』PHP研究所、2003年10月
 瀧井宏臣[2004]
 瀧井宏臣「痴呆のような「メール脳」」=2004年9月30日付東京新聞
 土井隆義[2003]
 土井隆義『〈非行少年〉の消滅』信山社、2003年12月

 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 カール・セーガン、青木薫:訳『人はなぜエセ科学に騙されるのか』新潮文庫、上下巻、2000年11月
 ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』岩波文庫、上下巻、1987年2月

 大和久将志「欲望する脳 心を造りだす」=「AERA」2003年1月13日号、朝日新聞社
 斎藤環「「知の巨人」にファック!もうやめようよ「なんでも前頭葉」」=別冊宝島編集部・編『立花隆「嘘八百」の研究』宝島社文庫、2002年7月

 参考リンク
 「All About Japan」内「ゲーム業界ニュース

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2005年3月24日 (木)

俗流若者論ケースファイル07・森昭雄

 長らくお待たせしました、今最もホットな曲学阿世の徒、日本大学文理学部体育学科教授・森昭雄氏の登場です。森教授といえば、2002年に著書『ゲーム脳の恐怖』(NHK出版生活人新書)を世に問い、「ゲームをやりすぎると前頭前野の機能が低下して、少年犯罪や青少年の問題行動が激増する!」という説を発表して、社会の、特に教育関係者とPTA関係者に絶大な支持を得た。しかし、この本に対する疑問の声もそこらじゅうで囁かれ、ネット上ではその言説がいかに間違っているか、というサイトが多数出現した。さらに最近では、ネット上ではなく出版でも「ゲーム脳」を疑問視する声が出始め、寝屋川の少年犯罪では「週刊ポスト」などが「ゲーム脳」を復活させたのに対し、「週刊朝日」は当初から「ゲーム脳」を批判していた精神科医の斎藤環氏のコメントを掲載して「寝屋川の事件を「ゲーム脳」と結びつけるのはおかしい」という内容の記事を書いた。週刊誌上で、「ゲーム脳」理論が否定された最初の記事であった。それ以外にも、宮崎哲弥(評論家:朝日新聞社の月刊誌「論座」で平成12年5月号から平成15年3月号まで連載されていた週刊誌時評の、平成14年9・12月号、平成15年1月号、及び文藝春秋の月刊誌「諸君!」で平成15年7月号から連載中の「今月の新書完全読破」の平成16年9月号、平成17年2月号)、風野春樹(精神科医)、川島隆太(東北大学教授)、山本弘(作家:山本弘[2004])、香山リカ(精神科医:香山リカ、森健[2004])、「切込隊長」こと山本一郎(経営コンサルタント)各氏などが出版やウェブ上で森氏を批判し、特に山本氏が会長を務める「と学会」は、『ゲーム脳の恐怖』を平成15年のトンデモ本大賞候補にノミネートした(結局、次点で終わったが)。平成16年8月には、『ゲーム脳の恐怖』の続編にあたる『ITに殺される子どもたち』(講談社)が出たが、このようなムーヴメントの影響か、それほど部数を伸ばすことはなかった(私はこの本を平成17年1月下旬に書店に取り寄せてもらって買ったが、1回も増刷されていなかった)。
 それでも森氏は絶好調である。創価学会系の出版社である潮出版社が出している月刊誌「潮」の平成17年4月号に、森氏が「“ゲーム脳”に冒される現代人」なる記事を書いている。この記事も、ほかの森氏の著書・論文と同様に、いたずらにゲームを敵視するような杜撰な論証立てが目立っている。
 森氏は82ページから83ページにかけて、「ゲーム脳」について、《テレビゲームをやりすぎることによって前頭前野の機能が低下し、脳波のうちリラックスしているときに出るα波より、計算をしたり、考えたり、精神活動をしているときに出るβ波が低下する状態》(森昭雄[2005]、以下、断りがないなら同様)としている。これが《高齢者の認知症(筆者注:痴呆症のこと。私はこのような言い方は単なる思考停止にしか思えないので、本文中では引用部分を除き「痴呆症」と表記する)の進行状態を数値化する実験をしていたときに、コンピュータに長時間向かっている人たちの脳波が認知症の人の脳波とよく似ていることに気付いた》というので、さらにテレビゲームを夢中にやっているときとか、あるいは携帯電話のメールを打っているときにもβ波が低下したというから、森氏は《このまま放置しておくと、キレやすく、注意力散漫で、創造性を養うことのないまま大人になっていく子どもがますます増えるのではないか》といってしまっている。これは間違いなく痴呆症のかたがたに対する差別であろう。森氏は84ページにおいても同様の論証立てをしているけれども、このような言い方では、痴呆症の人は社会性がない、といっているに等しい。また、ロルフ・デーゲン『フロイト先生のウソ』(文春文庫)の348ページでは、古典的なテレビゲームの一種である「テトリス」に関して、初心者は脳神経をフル活用していたけれども、熟練者になるにつれて脳の活動範囲が狭くなっていることが示されている。同書では、頭脳労働(ゲーム以外にも、ここでは複雑な計算が例として示されている)に関して熟練度に反比例して脳のエネルギー消費量が少なくなる、ということも示されている(ロルフ・デーゲン[2003])。なので、ゲームに熟練していればゲーム中に脳の活動が活発にならない、というのは必然なのであるが、そのことを理解しないで森氏はゲームが社会性を奪う、と断じてしまう。森氏は本当に脳科学の専門家なのだろうか。
 森氏は85ページから87ページにかけて、ゲームの悪影響をこれでもかこれでもかと論じている。しかし、ここにはいくつもの疑問がある。例えば森氏は《テレビゲームをやると「反射神経がよくなる」》と言われることに対して、《反射というのは基本的には脊髄レベルや納棺レベルで起こるもので、大脳皮質とは直接関係ない》と書いているが、ゲーム経験者として言うと、まったくのデタラメである。確かにある程度熟練すると、反射的にボタンを押すようになることもできるかもしれないが、それでも最初のほうはしっかりと目の前の情報を大脳でもって判断するほかないし、そもそもこのようなことが起こるのは一部のアクションゲームくらいであろう。ゲームにもいろいろ種類があり、ロールプレイングゲームやパズルゲームはかなり思考を要する。森氏は86ページにおいて《指を動かす機能はよくなっても、ある意味ではロボット的になってしまうのだ》と言っているけれども、これも根拠薄弱な「お話」に過ぎない。大体《ロボット的》という言い方が、森氏の感覚を表しているように思える。
 86ページ、森氏は《テレビゲームは「集中力を高める」というのも誤解である》と言っている。しかし、その根拠として出すのが、《これまでの実験でも「ゲーム脳」という結果が出た子どもの多くは忘れ物が多く、勉強にも5分か10分ぐらいしか集中できないと、本人たち自身が訴えている》というものである。このようなものを科学的な実証結果として提示できる森氏とは一体何なのか。これらの子供たちは、ただ勉強が嫌いなだけかもしれないのだが、森氏はそのように考えなかったのだろうか。それに、忘れ物が多い、というのも、それが脳機能の低下を表している、とは言えないし、そもそも「ゲーム脳」であるかどうか以外の要素をコントロールしていない(影響を排除していない)のはどういうわけか。
 しかし、これだけで止まる森氏ではない。86ページから87ページにかけて、ゲームが《空想と現実の境目があいまいになってくる》理由として、なんと《ある高校で公演したとき、生徒から「僕はゲームでは女の子とデートできるのに、実際には話すこともできません」といわれて愕然とした》自らの経験だけで済ませてしまうのである。《空想と現実の境目》に関しては後で述べるとするが、これだけではもはや根拠不明確どころの騒ぎではないし、そもそもいかなる状態を《空想と現実の境目があいまいになってくる》状態と指すのか森氏は開示する義務がある。しかしも利子はさらに暴走する。なんと《これでは近年多発している“女の子の連れ去り事件”のような犯罪が減るはずもない》と断言してしまうのである。愕然とするのは私のほうだ。第一、我が国ではペドファイルに殺される子供の数よりも児童虐待で殺される子供の数のほうが遥かに多く、児童虐待で殺される子供の数よりも自動車に殺される子供の数のほうが遥かに多いのだが。それにしても《減るはずもない》とは…。
 森氏は87ページから88ページかけて「ゲーム脳」の解決法を示している。曰く、ゲームは即刻やめるべし。なんて安直なのだろうか。それにしても、87ページと88ページにおける森氏の行動はすさまじい。87ページでは、《「この子は覚えることや考えることが苦手なんです。どうしたらいいでしょうか」と、小学生の子どもをつれて相談にきたお母さん》に関して、《検査してみると、やはり「ゲーム脳」だった》とし、さらに森氏はその子供に対して《このままゲームをやっていると脳が働かなくなっちゃうよ。お父さんやお母さんの顔がわからなくなってもいいの?》と言ってしまうのである。自分の子供の記憶力や思考力に問題があるように見える子供を脳科学の専門家(ということはかなり怪しいのだが)である森氏に相談する母親も母親だが、安直にゲームを悪玉視し、さらに《脳が働かなくなっちゃう》だとか《お父さんやお母さんの顔がわからなくな》る、と恫喝する森氏も森氏である。脳波がたとえ痴呆症の人と同じであっても、その人が痴呆症であると断じられる根拠はないのである。88ページでは《テレビゲーム歴10年の大学生》に関してもその学生に「ゲーム脳」とプロファイリングするのだが、その大学生は《結婚して子どもができたら、子供にはテレビゲームは絶対させません》と答えたのだという。
 森氏にとって「ゲーム脳」とは万能の言葉であり、その一言で人や世間を動かすことができる魔法である。
 斎藤環氏や山本弘氏が指摘している通り(斎藤環[2003]、山本弘[2004])、森氏の「ゲーム脳」理論は、子供がゲームに熱中することを快く思わない人が多いからこそ広まったという側面は無視できない。また、多くのマスメディアは、「脳科学の専門家が「ゲームをやると脳に悪影響が出る」と言っている」という一点張りでこの疑似科学を支持しているような気がしてならないのである。しかし、「ゲーム脳」といった安直なプロファイリングは、何かに悩んでいる人に対する根本的な解決策を提示せずに、悪しき甘えや諦めを蔓延させることにならないか。また、「ゲーム脳」という「人種」を捏造してしまうことによって、差別や迫害まがいののことが起こっているのも、また事実である。これは森氏だけでなく、森氏の珍説を懸命に広めている学者やジャーナリストも責任を追うべきである(この代表格は、北海道大学教授で大脳生理学者の澤口俊之氏と、ジャーナリストの草薙厚子氏と、朝日新聞記者の浜田敬子氏であろう。澤口氏は自身のホームページ上で「ゲーム脳」への支持を明確にしている。草薙氏は平成15年7月のの長崎の少年犯罪で「ゲーム脳」の危険性を「週刊文春」誌上で訴えていた(現在手元にないので確認できない)。浜田氏は平成14年に「AERA」で2回も「ゲーム脳」関連記事を書いていた:浜田敬子[2002a][2002b])。そうでなくとも、最近では、青少年問題を即刻脳の問題に摩り替えることが蔓延しているようで、斎藤氏は、その一種である「算数障害」(他の教科はできるのに、算数しかできないのは脳の異常だ、という珍概念)なる言葉に関して《なんとも言えない違和感は忘れないようにしたい》(斎藤環[2003])と言っている。
 脳の障害を社会性の喪失と規定することも問題である。最近は、福祉工学の発達により、身体のある部位に障害が生じても、社会生活を取り戻せるような技術が進んでいる(伊福部達[2004])。また、そのような規定は、即刻障害者差別につながる危険な論理ではないか。
 脳科学の俊英として注目されている、ソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャーの茂木健一郎氏は、著書『脳と仮想』(新潮社)の第5章において、テレビゲームについて論じている。茂木氏は、廣松渉氏(哲学者・故人)や養老孟司氏(北里大学教授)がテレビゲームに熱中したことがある、ということを紹介しつつ、テレビゲームという新たな仮想の世界が人間の意識に及ぼす影響を考察し、《現実をこそ良く見ろ、というゲームに対する批判》(この段落は、全て茂木健一郎[2004]からの引用)に対して《人間というものが、必然的に仮想と現実の間を行ったり来たりする存在であるという本質を忘れてしまっている》と反論し、テレビゲームによる「仮想」の体験を《そこに立ち表れるのは私たちが現実と言い、仮想と言っている意識の中の脳内現象の二つの相の関係についての、なにやら不可思議なものの感触である》と論じている。
 テレビゲームはある意味では親子間や友達間のコミュニケーションのツールにもなりうる。確かに、そのやりすぎで実生活に悪影響が及んでしまったら問題だけれども、徒にゲームを敵視し、巷で(ワイドショー的に)報じられている青少年の凶悪犯罪や「問題行動」に関して即刻「ゲームの悪影響」と喧伝し、「ゲーム脳」なる疑似科学によって子供たちからゲームという貴重な体験を奪ってはならない。「ゲーム脳」理論を真に受けている人は、もう一度その言論の暴力性と差別性を考えてほしい。
 ちなみに、さまざまなサイトによると、森氏は各種の講演会で少年犯罪や「恥知らず」どころかひきこもりやフリーターさえも「ゲーム脳」だと断じているという。東京新聞では、ジャーナリストの瀧井宏臣氏が森氏の新たな珍説「メール脳」を好意的に紹介している(瀧井宏臣[2004])。森氏にとって脳は神である。脳が全てを決定するらしい。さらに、森氏はゲームをやると自閉症になるという説(当然、これも珍説である)までも発表し、日本自閉症協会東京都支部がこれに遺憾の意を示した、という事態も起こっている。私が密かに楽しみにしているのが、森氏はいつブッシュやフセインや金正日や小泉純一郎を「ゲーム脳」と断じるのだろうか、ということである。

 参考文献・資料
 伊福部達[2004]
 伊福部達『福祉工学の挑戦』中公新書、2004年12月
 香山リカ、森健[2004]
 香山リカ、森健『ネット王子とケータイ姫』中公新書ラクレ、2004年11月
 斎藤環[2003]
 斎藤環『心理学化する社会』PHP研究所、2003年10月
 瀧井宏臣[2004]
 瀧井宏臣「痴呆のような「メール脳」」=2004年9月30日付東京新聞
 ロルフ・デーゲン[2003]
 ロルフ・デーゲン、赤根洋子:訳『フロイト先生のウソ』文春文庫、2003年1月
 浜田敬子[2002a]
 浜田敬子「TVが子供の脳を壊す」=「AERA」2002年7月15日号、朝日新聞社
 浜田敬子[2002b]
 浜田敬子「携帯メールが脳を壊す」=「AERA」2002年10月7日号、朝日新聞社
 茂木健一郎[2004]
 茂木健一郎『脳と仮想』新潮社、2004年9月
 森昭雄[2005]
 森昭雄「“ゲーム脳”に冒される現代人」=「潮」2004年5月号、潮出版社
 山本弘[2004]
 山本弘「現代のナマハゲ――森昭雄『ゲーム脳の恐怖』」=と学会・編『トンデモ本の世界T』太田出版、2004年5月

 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 近藤康太郎『朝日新聞記者が書いたアメリカ人「アホ・マヌケ」論』講談社+α新書、2004年7月
 カール・セーガン、青木薫:訳『人はなぜエセ科学に騙されるのか』新潮文庫、上下巻、2000年11月
 芹沢一也『狂気と犯罪』講談社+α新書、2005年1月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月
 廣中直行『やめたくてもやめられない脳』ちくま新書、2003年9月
 茂木健一郎『意識とはなにか』ちくま新書、2003年10月

 大和久将志「欲望する脳 心を造りだす」=「AERA」2003年1月13日号、朝日新聞社
 斎藤環「「知の巨人」にファック!もうやめようよ「なんでも前頭葉」」=別冊宝島編集部・編『立花隆「嘘八百」の研究』宝島社文庫、2002年7月
 品川裕香「「ADHD」にとまどう教育現場」=「論座」2002年11月号、朝日新聞社
 山内リカ「高次脳機能障害とは何か」=「論座」2005年2月、朝日新聞社

 参考リンク
 「All About Japan」内「ゲーム業界ニュース

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