2006年2月24日 (金)

トラックバック雑記文・06年02月24日

 今回のトラックバック:加野瀬未友/安原宏美/本田由紀/木村剛/「アキバの王に俺はなる!」/「冬枯れの街」/大竹文雄/「ニート・ひきこもり・失業 ポータルネット」/小林美佐/保坂展人

 始めに、このブログの右の「参考サイト」に「ジェンダーフリーとは」と、「深夜のシマネコ」を、また「おすすめブログ」に「保坂展人のどこどこ日記」と「成城トランスカレッジ!」を追加しました。

 少々考えさせられる記事が。
 ARTIFACT@ハテナ系:[個人サイト]はあちゅう氏の発言にみる「ブロガーの病」(加野瀬未友氏:オタク文化研究家)
 自戒を込めてトラックバックしておきます。というのも、加野瀬氏の問題提起が、ネット上で文章を書いているものにとっては避けて通ることのできない問題だからです。

 加野瀬氏は、以前のエントリー([個人サイト][教育]美少女革命家はあちゅう)で触れたある文章(私も「はてなブックマーク」で呆れてみせましたが)における極めて世俗的な「憂国」的な物言いに関して、「発言したい欲望」という言葉を用いて以下のように表現しております。

はあちゅう氏の発言からは、「発言したい欲望」によって、ただ単に突き動かされ、私はよく知らないんだけど何か言わなといけない!という衝動にかられているのを感じる。これも「ブログ」という場所があるからこそ加速している訳で、「ブロガーの病」だろう。

 この文章を読んで、ジャーナリストの日垣隆氏の著書『使えるレファ本150選』(ちくま新書)の、カバーに書かれてある紹介文を思い出しました。

 メールやブログなど、今やだれも「書く」時代だ。せっかく書いても、それが事実に反していたり、何の新味もなかったりしたら、説得力を失うばかりか、大恥をかきかねない。

 文章を書く以上、少なくとも相手を説得するために様々な資料を用いたり、あるいは反論に耐えうるような論理を搾り出したりと、ある程度の努力はしないといけない。少なくとも、勝ち馬に乗るような言論は控えたほうがいいのかもしれません。そのためにも、まずは多くの本や雑誌やサイトを読み、様々な言説に触れたほうがいいのでしょう。私もまだまだ修行が足りません。

 もう一つ、加野瀬氏の文章で気になったところが。

興味深いのは、使っている言葉は「国民」とか「国家」とか大文字なのに、社会問題の発生をすべて個人の内面にしてしまうところだ。だから、その内面を変える方法として「教育」が出てくるのだろう。もちろん、教育も必要だが、雇用問題などはすべてすっとばされてしまう。

 これは私が現在やっている仕事と深く関わってくるのですが(あるテーマに関する共著の本。4月か5月ごろには出版予定?)、「国民」とか「国家」という(空疎な)大文字は、ある意味では自らを高みにおいて、相手をバッシングするための方便になりえているのではないか、ということを、主として保守論壇の若者論を読んで思うわけです。私は、単なる私憤を「国家」と結び付けて、(自分の理想としての)「国家」に同一化しないからお前たちみたいなバカになるんだ!などといった具合にバッシングしてしまう行為はできるだけ避けたい。また、俗流若者論は、私憤がそのまま国家論や社会論につながっている感じが強い。

 この点でもっとも繋がりが強いのはやはりこれか。
 女子リベ:少年犯罪には先進国中一番厳しい日本(安原宏美氏:フリー編集者)
 浜井浩一氏(龍谷大学教授。過去に犯罪白書の執筆経験あり)が行なった調査に関する安原氏の感想です。

 さらに少年犯罪が注目である。
 参加先進国中、少年犯罪には厳罰をもって処すべしという態度は、堂々の1位という結果である。
 ようするに、犯罪にあう確率は少ないのに、大げさで、とくに少年が罪を犯したら、「許さ~ん!」と過剰反応してしまう国となっているのである。
 浜井教授の分析についてはとても興味深いのが、そちらは本稿をあたっていただきたい。
 しかし少年になぜそこまで厳しいのかというと、やはり90年代後半からの「少年犯罪」大ブームが大きいだろう。こちらの考察分析については、わたしが編集として関わらせていただいた芹沢一也さんの「ホラーハウス社会」に詳しいのでぜひそちらを見ていただきたい。

 とりあえず、ここで採り上げられている芹沢一也氏(京都造形芸術大学非常勤講師)の最新刊『ホラーハウス社会』(講談社+α新書)は、芹沢氏の前著『狂気と犯罪』(講談社+α新書)とあわせて必読です。

 少年犯罪の「凶悪化」が云々されるようになってから、そのような議論の高まりに比例して少年犯罪は本当は凶悪化していないのではないか、という議論も生まれました(例えば、広田照幸「メディアと「青少年凶悪化」幻想」(平成12年8月24日付朝日新聞/広田『教育には何ができないか』(春秋社)に収録)、宮崎哲弥、藤井誠二『少年の「罪と罰」論』(春秋社)、パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』(イースト・プレス)、小笠原喜康『議論のウソ』(講談社現代新書)、など)。ただ、いまだにマスコミにおいては「少年犯罪凶悪化論」が大手を振っており、「少年犯罪凶悪化幻想論」は、マスコミではせいぜいエクスキューズ程度に使われるか、あるいは専門的な雑誌や論壇誌に掲載される程度。新書でもいくらか出ているが、それらの本がベストセラーになったという声は余り聞かない(せいぜい『反社会学講座』くらい?)。「凶悪化論」が今なお平然とまかり通っているのは、「少年は自分の世代(中高年世代)よりも凶悪であって欲しい」という世論があるからではないか、とうがった見方をしてしまいたくなる。

 浜井氏に関しては、『犯罪統計入門』(日本評論社)という本が出ているので、こちらもチェックしてみる必要がありそうです。

もじれの日々:若者バッシングに抗う本(本田由紀氏:東京大学助教授)
 本田氏が採り上げている、社会学者の浅野智彦氏らによる『検証・若者の変貌』(勁草書房)という本は、平成4年と平成14年に若年層に行なったアンケートから、昨今の若年層バッシング――例えば、礼儀を知らない、とか、携帯電話に依存することで関係性が希薄化しているとか――は本当に正しいのか、ということを検証した良書です。できるだけ多くの人に買って読んで欲しいのですが、いかんせん値段が高い(税込み2520円)。ただし、買っておいて、更に座右に置いておいて決して損のない本です。
 また、最近買った本に関しては、政策研究大学院大学教授の岡本薫氏の『日本を滅ぼす教育論議』(講談社現代新書)もお勧め。本書は、我が国における教育言説の海外との比較から、なぜわが国において「教育改革」が失敗したか、ということを検証した良書です。こちらは新書なので、値段も手頃(税込み756円)。

 更に、念願だった、赤塚行雄『青少年非行・犯罪史資料』全3巻(刊々堂出版社、1・2巻昭和57年、3巻昭和58年)もやっと手に入りました。問題は収納するスペースか…。
 とはいえ、今月の講談社現代新書の新刊で『他人を見下す若者たち』なる本が出ているからなぁ…。立ち読みでチェックした限りでは、とっとと浅野氏の本を読んで出直して来い、という代物だった。本格的にチェックしてみるか…。

 以前、ある人から、「このブログはテレビのことを採り上げない」と指摘されたことがありました。理由としては、私はテレビのニュースをあまり見ない、ということがあるのですが。

 週刊!木村剛:[ゴーログ]ニュースは作られているのか?(木村剛氏:エコノミスト)

 このエントリーを読んで、次のエントリーを思い出した。

 アキバの王に俺はなる!:子供、若者は大人の敵といったような番組を見て
 冬枯れの街:緊急大激論SP2006!“子供たちが危ない”って危ないのはあなたたちの妄想ですから!

 今月15日にTBS系列で放送された番組「緊急大激論SP2006!“子供たちが危ない”こんな日本に誰がした!?全国民に“喝”!! あなたは怒れますか?キレる子供…守れますか?こわれる子供」(つくづく長えタイトルだな)に関しては、上の2つのエントリーのほか、「2ちゃんねる」の大谷昭宏スレッド(私が2chで唯一覗いているスレッドで、現在は事実上オタクバッシング批判スレッド)と「DAIのゲーマーズルーム」を読んだのですが、いずれも評価は最悪だったなあ。私はとりあえずヴィデオに撮ってあるので、あまり乗り気ではないのですが、近いうちにチェックします。余りにひどいなら雑誌に抗議文を投稿するか。

 ただ、ジャーナリストの草薙厚子氏が、テレビで堂々と「ゲーム脳」を言った(らしい)ことにはやはり戦慄した。草薙氏に関しては、私の「子育て言説は「脅迫」であるべきなのか ~草薙厚子『子どもが壊れる家』が壊しているもの」をご参照あれ。

 新たなる問題発言登場…なのかな。

 大竹文雄のブログ:待ち組(大竹文雄氏:大阪大学教授)

 ニート・ひきこもり・失業 ポータルネット:待ち組?なんだそりゃ。
 ずいぶん前の話になってしまうのですが、小泉純一郎首相やら猪口邦子氏やらが「待ち組」なる変な言葉使ったことが批判されています。私は基本的に、大竹氏の以下の記述に賛成。

 でも、フリーターやニートの中には好んでそうなっている人もいるのも事実だが、大多数の人たちは、学校卒業時点の就職活動でうまく行かなかった人たちか、うまく行きそうにないとあきらめた人たちだ。あまりにも可能性が低かったり、何度も失敗が続くとやる気を失うのは自然ではないだろうか。就職氷河期に卒業した人たちは努力不足や挑戦しなかったというよりも、運が悪かったというべきだ。そういう人たちに「反省しろ」というのは酷ではないか。

 とりあえず、フリーターや若年無業者に対する、小泉首相や猪口氏の認識の甘さは批判されて然るべきでしょう。このような認識は、所詮はマスコミが面白がって取り上げたがるような、それこそ「働いたら負けかなと思ってる」(笑)に代表されるような「ベタ」な「ニート」像でしかないわけで。責任のある立場の人なのですから、もう少し勉強してください。

 オリンピック開催中ですが。
 ☆こばみ~だす~☆:☆おめでとう☆(小林美佐氏:声優)
 トリノ五輪で、日本勢の初めてのメダルとなったフィギュアスケートの荒川静香選手ですが、私の家で購読している読売新聞の宮城県版では、地方面で荒川氏の特集や荒川氏への応援メッセージが掲載されていたことがある。なぜなのか、と考えていたところ、どうやら荒川氏は東北高校の出身らしい。仙台のメディアが沸き立つのも無理はないか。

 この問題も見逃してはならない。
 保坂展人のどこどこ日記:共謀罪、ふたたび攻防が始まった(保坂展人氏:衆議院議員・社民党)

 今のところ我が国の政治は所謂「偽造メール」事件で紛糾中です。もちろんこの問題も悪くないのですが、共謀罪とか、少年法の改正とかにも、もう少し興味を持ってもいいのではないか、と思います。

 これからの予告ですが、少々忙しくて更新が停滞していたので、雑誌が大量にたまっております。そのため、「論座」平成18年3月号、「諸君!」平成18年3月号、「世界」平成18年3月号、「中央公論」平成18年2月号と3月号、「ユリイカ」平成18年2月号の「論壇私論」をこれから逐次公開していく予定です。

 最後に、平成18年2月24日付で「この「反若者論」がすごい!02・河北新報社説」に投稿されたコメントが、明らかに荒らしだったので削除しました。

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2006年2月 5日 (日)

コメントへの返答・06年02月05日

 平成18年2月5日付で「反スピリチュアリズム ~江原啓之『子どもが危ない!』の虚妄を衝く~」投稿された以下のコメントにお答えします。

筆者へ

あなたはこう書かれていますが、その俗説ではなくどう思われているのですか?お聞かせ下さい。

-------------------------------

蛇足ながら、本書4ページで、《子どもたちが心にトラウマを抱えたまま成人すると、今度は自分の子どもに虐待を繰り返してしまうなど、さまざまな問題を抱えることになります。そのため最近は、若い親たちによる児童虐待の事件が後を絶たないのです》と述べているが、江原氏がこのような俗説を真に受けているのがいただけない。

 この疑問に答えるためのポイントは二つあります。

 第一に、児童虐待は本当に深刻化しているのか。

 先ほどの引用文において、私が引用した、スピリチュアル・カウンセラーの江原啓之氏は、《そのため最近は、若い親たちによる児童虐待の事件が後を絶たないのです》(江原啓之[2004]、以下、断りがないなら同様)と、さも最近になって児童虐待が深刻化したかのごとく説明しています。確かに、児童虐待に関して、児童相談所に寄せられる相談の件数は急増しており(野田正彰[2004])、これをもってして「児童虐待の急増」と見なす向きも多い。しかし、ちょっと待ってください。ここで増えたのはあくまでも相談件数であって、従ってこれまで見向きもされなかった虐待、すなわち暗数が明るみになった結果と考えることもできます。

 また、児童虐待は、決して現在だけのものではありません。例えば、評論家の立花隆氏は、昭和41年に発行された『文明の逆説』(講談社)という本(昭和59年に講談社文庫に収録)に収録されている「子殺しの未来学」という文章で、児童虐待を論じています。この時点において、立ち話は、当時頻発していた児童虐待を「先進国型」と「後進国型」に分け、我が国では「先進国型」である、と論じています(立花隆[1984]、31ページ)。また、関西学院大学教授の野田正彰氏は、《私たちの社会は昔から児童虐待をしてきたことを忘れている》(野田、前掲)とし、昔から多くの子供が虐待されてきたことを説いています。

 もう一つ、我が国においては、子殺しは決して増加していません。犯罪白書によれば、子殺しは昭和30年ごろには年間200件ほど起こっていましたが、現在は30件ほどしか起こっていません。見方によっては、死に至らしめるほどの虐待が少なくなっただけだ、という反論もありましょうが、こういう事実を無視するのは余りよろしくないと思います。

 ちなみに前出の立花氏は、「子殺しの未来学」という論考で、育児ノイローゼの深刻化のほかにも、子供たちによる残虐な犯罪、性倒錯の増加、更には「一億総分裂病の危険性」や若年層の人格の未熟さにまで論及しています。はっきりいって立花氏のこの文章は極めて悲観的なのですが、読んでみる限り、立花氏の論及していた事態がより一層深刻化したとは余り思いません。

 第二に、江原氏の論理を支えている、「トラウマ理論」とでも言うべき理論の正当性です。江原氏の《子どもたちが心にトラウマを抱えたまま成人すると、今度は自分の子どもに虐待を繰り返してしまうなど、さまざまな問題を抱えることになります》云々というのは、明らかに「トラウマ理論」そのものでしょう。

 この「トラウマ理論」は、大雑把に言えば、子供の頃受けた障害がそのまま直線的に成長した後の障害につながる、と説明しますが、このように、人間の行動に関してある2つの事象を単純に因果関係を結びつけるのは、他の事象を無視した暴論に他なりません。親から虐待を受けた誰もが、自分が親になっても虐待をするわけではないでしょう。人間には可塑性があり、立ち直るチャンスがあります。また、他のケース――例えば育児ストレスとか、あるいは親が元から精神疾患を持っていたとか――も無視してはならないと思います。

 もちろん、子殺しは他の殺人と同様に許されざる行為に他なりません。どこかのロリコンが見知らぬ子供を殺した事件に比して親が自分の子供を殺した事件のほうが軽い、という認識は断じて許してはなりません。事件の本質は人が人を殺した、というところにあるのですから、それ相応の罰を受け、償いをすべきでしょう。

 また、育児が困難な家庭に関しては、社会的に支援できるような体制作りが必要ですし、地域ごとに互助できるシステムの構築も必要です。また、昨今の事例だけを取り上げて、「今の家庭は堕落している」とし、家庭教育の重要性を喧伝しすぎると、家庭を追い込んでしまうことになりかねませんので、冷静に事実を判断すると共に、社会的なチャンネルを広げて虐待を未然に防止し、おきてしまったことに関してはそれ相応の罰と償いを与えるべきでしょう。

 参考文献・資料
 江原啓之[2004]『子どもが危ない!』集英社、2004年9月
 広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書、1999年4月
 野田正彰[2004]「児童福祉全体があまりにも貧しすぎる」=「論座」2004年4月号、朝日新聞社
 ウルズラ・ヌーバー、丘沢静也:訳『〈傷つきやすい子ども〉という神話』岩波現代文庫、2005年7月
 大日向雅美『母性愛神話の罠』日本評論社、2000年4月
 立花隆[1984]『文明の逆説』講談社文庫、1984年6月

 参考サイト
 「「今どきの母親」という神話」(「いんちき」心理学研究所)
 「第24回 こどもが嫌いなオトナのための鎮魂曲」(スタンダード 反社会学講座)

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 ※補記(平成18年2月16日)
 この記事に関して以下のようなコメントを頂きました。

はじめまして。
ちょっと気になったのでコメントします。
文意には総じて共感するのですが、「どこかのロリコンが見知らぬ子供を殺した事件」がひっかかります。宮崎死刑囚のことでしょうか?
先日テレビ番組で、この「ロリコン」の説もなんら根拠なく、裁判官が恣意的に導き出しているものだということが明らかにされていました。

 ここで引用されている私の記述、《どこかのロリコンが見知らぬ子供を殺した事件》は、所謂「宮崎勤事件」をはじめとする特定の事件を指しているものではないことを説明しておきます。というのも、我が国においては、幼女が被害にあう事件が発生するとすぐさま「ロリコンの殺人」という具合にプロファイリングされますが、ある猟奇的な事件に関しては犯人の特徴をすぐに「特定」してしまうのに、なぜか親による子殺しは、それこそ幼女殺人のように大々的に採り上げられない、という状況に対する皮肉として書いたものです。人が人を殺した、という事件の本質は同じなのに。

 誤解を招いてしまった場合は、ここで謝罪いたします。

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2006年2月 4日 (土)

トラックバック雑記文・06年02月04日

 今回のトラックバック:赤木智弘/木村剛/「ニート・ひきこもり・失業 ポータルネット」/渋井哲也/芹沢一也/「S氏の時事問題」/「ヤースのへんしん」/「読売新聞の社説はどうなの・・2」/保坂展人/「topics:JournalistCourse」

 過日、『「ニート」って言うな!』(光文社新書、本田由紀氏と内藤朝雄氏との共著)という本を出したわけですが、ネット上の各所で書評がなされています。ちなみにamazon.co.jpのカスタマーレヴューなどで見られる私の文章に対する批判で、「採り上げる記事や投書の数が少ない」というものがありましたが、週刊誌の記事に関しては、大宅壮一文庫の雑誌検索CD-ROM(宮城県図書館で使用)を使って検索したのですが、本文中で採り上げた「AERA」「読売ウィークリー」「サンデー毎日」「エコノミスト」「週刊ダイヤモンド」「プレジデント」以外はめぼしい記事はほとんどなかったのが理由です。他の雑誌は、大半が平成16年末の親殺し関連の記事でした。また、「AERA」「読売ウィークリー」「サンデー毎日」の3誌に関しては、特筆すべき明確な傾向(詳しくは本を参照して欲しい)が見られたので、重点的に採り上げた次第であります。

 投書に関しては、朝日しか調べられなかったことに関しても、不満に思った方もおられましょうが、これは基本的に私の力不足です。決して各種図書館が貧弱だったからではありません。この場を借りて謝罪します。

 さて、それらの書評の中でも、私が最も重く受け止めた書評がこちら。

 深夜のシマネコblog:「ニート」って言うな! 書評(赤木智弘氏)

 赤木氏は、本の内容は評価するものの、やり方がいけない、という書評をしています。

 そういう意味では後藤さんの試みはそうした人たちを叩くことに近いのですが、本や雑誌などのメディアから抜き出すということは、結局「メディアに言説を掲載できる人」という狭い範囲でしかなく、「ニートと言う言葉を利用する一般市民」を安全圏に批難させてしまっています。
 (略)
 で、この本の場合、タイトルが『「ニート」って言うな!』で、帯書きが「なぜこの誤った概念がかくも支配力を持つようになったのか」です。これではニートが増えていることを信じて疑わない人は、絶対に手に取りません。彼らはそもそもニートという響きに侮蔑的な快楽を覚えるような捻じれた性格の人たちですから、自分が傷つくような物には決して近づきません。
 若者卑下の大きな問題は、彼らをバッシングしたところで、バッシング側はなんら痛みを感じないという点です。
 そして、ニートと言う言葉を語る時に、それがさも他者によって「この人は差別をしている」ではなく、「教育のことを語っている」という受け取り方をされる点です。
 それをひっくり返すためには、「ニートと言うことに痛みを感じない人」や「ニートを教育論だと思いこんでいる人」に手に取ってもらえる本を作ることが必要です。そういう意味で『「ニート」って言うな!』は想定すべき読者を間違えています。

 若者報道を批判しているものとして、これは深刻に受け止めざるを得ない問題です。このような問いかけは、この文章の重要な部分を、例えば「ゲーム脳」「下流社会」に変えてみても、同種の問いかけとして成り立つと思います。

 一般に「ニート」やら「ゲーム脳」やら、あるいは「脳内汚染」やら「下流社会」やらという、俗流若者論にとって格好の概念は、その概念を嬉々として使う人にとっては、自分は差別や偏見を振りまいているのではなく、自分は「教育」を語っているのだ、ということなのでしょう。しかしそれらは一皮むけば教育論ではなく単なるラベリング、更に言えば差別だったり偏見だったりするわけです。また、それらを証明するような資料は、本当にたくさんあるわけです。特に「ゲーム脳」に関しては、学術的に見れば完全に腐りきった概念といっていいでしょう。

 しかし、そのようなことが証明されたとしても、いまだに「ゲーム脳」論は妖怪の如くはびこっています。たとい「ゲーム脳」を否定する資料が出揃ったとしても、「ゲーム脳」論を嬉々として受け入れる層には少しも伝わらない。もはや量ばかり増やしても仕方がないのでしょうか。路線転換が求められているのでしょうか。ここでは「ゲーム脳」の話を使いましたが、「ニート」論だってまた同じことです。

 さて、ライブドアの堀江貴文元社長逮捕に関していくつかネタを。

 週刊!木村剛:[木村 剛のコラム] 日本は罪刑法定主義ではない?(木村剛氏:エコノミスト)
 木村氏曰く、

 ところが、逮捕の根拠である第158条違反について詳細に解説した番組はなかった。「なぜ法律違反に当たるのか」について誰も触れることなく、「ホリエモンという男あるいはライブドアという集団が如何にケシカランか」という描写にほとんどが費やされていた。
 識者らしき人々も「そもそもライブドアはマネーゲームだった」とか「ホリエモンのビジネスは虚業だ」などと自分勝手な感想を披露するだけで、事件の真相を追及しようとしない。
 具体的な犯罪内容が語られることなく、ライブドアという会社が一方的に叩かれていく。ホリエモンはいつから有罪が確定したのだろう。罪が確定するまでは「推定無罪」だと習ったような気がするが、一部の良心的な識者(「もし報道が事実ならば」という前置きをしていた)を除き、その他の出演者はホリエモンを犯罪者扱いしていた。
 この事件を語りたいなら、罪状を確定する必要がある。日本が法治国家であり、罪刑法定主義をとっているのであれば、罪状が確定できないのに、「ケシカラン罪」で犯人に仕立て上げてはならない。それが基本的人権の基本。実際、法律というものは、為政者から人々を護るために発展してきた。
 日本では、近代の智恵である「罪を憎んで人を憎まず」とか「疑わしきは罰せず」という法理が通用しないのだろうか。「人を憎んで罪を問わず」「疑わしきは叩きまくる」という現実を見ていると、中世の魔女狩りが思い起こされる。

 現在発売中の「諸君!」平成18年3月号においても、評論家の西尾幹二氏が、《ホリエモンは決して誉められるべき人物ではないが、しかし人間としてどんなに拙劣でも、人権は守られなければならない。/私は捜査が始まってから数日間、何でもかんでもライブドアを潰そうとする目に見えない大きな意思が働いているように思えて、薄気味が悪くてならなかった》(西尾幹二「誰がライブドアに石を投げられるのか」)と書いていますが、基本的にマスコミというものはある対象物が何らかの「お墨付き」を得て「叩いていい」代物になったら、急激にバッシングに走るのが常です。成人式報道を研究してきた私にはそれが痛いほどわかります。

 多くの人は報道によってしか遠隔の事象を取り扱うことはできない。従って日常的に接している報道が、そのまま受け手の現実感覚になってしまいやすい(ウォルター・リップマンの『世論』(岩波文庫)あたりが参考になります)。そして、人々の現実感覚を支配する「報道」が、果たして人々を間違った方向に誘導してはいないか。事実とは異なるのに、例えば青少年とオタクだけが凶悪化しているという報道を繰り返し、事実とは異なるステレオタイプを青少年とオタクに向けてはいないか。

 あと、堀江容疑者逮捕報道で気になるのが、「「ホリエモン」は若い世代から圧倒的な支持を受けている」というもの。私は堀江氏は余り好きではないのですが、なぜこのような報道が成されてしまうのか。そのようなことを分析したブログもいくつかありました。

 kajougenron : hiroki azuma blog:ライブドアとオウム?2(東浩紀氏:評論家)
 ニート・ひきこもり・失業 ポータルネット:ホリエモンが若者に夢を与えた?はあ?

 いつの間にか「堀江支持」派にされている感じが強い若い世代ですが(読売新聞や「AERA」は、今回の逮捕劇に関して「20代はどう見ているか」みたいな記事を組んでいた)、果たして特定の個人を勝手に「世代の代表」に仕立て上げ、ある世代の「気分」なるものを特定してしまう、という手法は、その非論理性において、そろそろ限界をきたしているのではないかと思うのですが、どうもそのような態度に対する検証が成される様子はない。これはひとえに既存マスメディアの受け手に若い世代が少ないから(笑)、ということで、マスコミが若い世代を除いた世代向けに記事を作って、結局「若い世代はこんな感じだ」みたいな報道ができてしまうのか、というのは、ちょっと考えすぎか。

 まあ、ここまで考えないと、明らかに若年層を病理視した報道がなぜ横行するのか、ということを考えることはできないかな、と。

 てっちゃん@jugem:有害規制をするなら、保健所のサイトも閉鎖しなければ・・・(渋井哲也氏:ジャーナリスト)
 社会と権力 研究の余白に:『ホラーハウス社会』について(芹沢一也氏:京都造形芸術大学講師)
 S氏の時事問題:門限は7時まで?
 ヤースのへんしん:改正青少年健全育成条例

 ますます閉塞感が増す青少年の社会環境。インターネットサイトの規制は進むは、夜間営業施設の青少年の入場が7時までにされるは、外出禁止に情報統制!日本は北朝鮮か!って突っ込みたくなります(ちなみにこの突っ込みは、宮台真司、宮崎哲弥『エイリアンズ』インフォバーン、の169ページに出てきた、宮崎氏の横浜の青少年政策に対する突っ込みのパクリです)。

 昨年『狂気と犯罪』(講談社+α新書)を上梓した芹沢氏ですが、その芹沢氏の新刊『ホラーハウス社会』(講談社+α新書)が発売されています。私は一応途中(第2章)まで読んだのですが、平成9年の神戸市の連続児童殺傷事件(「酒鬼薔薇聖斗」事件)を皮切りに、人々の少年犯罪に対する視線が変化していくさまに関する記述が興味深かった。特に83ページの《あくなき理解への欲望が、皮肉なことに、異常だとして少年の記述へと行き着いた》というのは「声に出して読みたい日本語」です。最近の少年犯罪報道――いや、若者報道のほぼ全般に見られる傾向として、少年犯罪者、更には現代の青少年を「理解のできない(=自分の思いのままにならない)他者」とか「自分の生活圏を脅かす存在」という風に「理解」していくパターンが見られます。それは「世代的な共感」だとかを持って犯罪者に「共感」してしまった視線とは真逆のものですが、身勝手な解釈という点では同一のものでしょう。

 青少年を「教育」に囲い込むことの問題というのは、基本的には自分の生活圏に囲い込む、ということとして解釈されるべきでしょう。であるから、犯罪をしでかした青少年に対する、「心の闇の解明」と言った形での理解は、ひとえに犯罪という行為によって「生活圏」の外に出てしまった少年をもう一度「生活圏」に取り戻そう、という欲望として働く行為として見える。しかしそれが更に進行すると、「生活圏」から出てしまった青少年に対する「理解」が、我々の「生活圏」の内に存在する青少年を「生活圏」の外に出させるな、という欲望につながり、「生活圏」の外の存在に対するバッシングが強まると共に、ひたすら「生活圏」の外に子供たちを「出させない」ための施策やら言説やらが横行するようになる(要するに、草薙厚子氏の所論ですね)。

 「生活圏」の外に子供たちを「出させない」ための施策やら言説というのは、そのような「生活圏」の主成分として存在している(と錯覚している)世代の個人的体験やイデオロギーと強く結びついている。従って「ゲーム脳」理論と、「脳を活性化させる」遊びとしての「外遊び」や「お手玉」などへの無邪気といっていい奨励(要するに森昭雄氏)や、あるいは旧来型(と勝手に思い込んでいる)の子育てに対する無邪気といっていい礼賛(「俗流若者論ケースファイル48・澤口俊之」参照)、あるいは「ファスト風土化」論と、それに付随する旧来のコミュニティ礼賛(「三浦展研究・前編 ~郊外化と少年犯罪の関係は立証されたか~」参照)等はそれらを如実に体現している。「ジェンダーフリー教育」に対するバッシングも然りでしょう。

 我々は、「教育は阿片である」(@内藤朝雄)という認識に立って、巷の教育言説を吟味しなければならないのかもしれません。

 あと、こういう規制を「教育」のためだ、あるいは青少年を何とかするために必要だ、と考えている皆様。そのうちそれを支持したツケが回ってきますよ。

読売新聞の社説はどうなの・・2:■「家庭」の“崩壊”少子化と改憲論議をどうやってつなげるの????
 まあ、最近の保守論壇は、青少年バッシングの為に「憲法」を持ち出したがるヘタレばかりですから…。こういう飛躍ももはや「想定の範囲内」(笑)。そもそも憲法というのは、立憲主義の考え方に立てば、国家の行動を統制するものであり、従って憲法が最高法規というものはこういう理由であり、一般国民が「憲法違反」として懲罰させられることはない…という説明はこういう連中にとっては野暮か。

保坂展人のどこどこ日記:放漫財政の大阪市でホームレス排除(保坂展人氏:衆議院議員・社民党)
 topics:JournalistCourse:大阪市がホームレスのテント強制撤去、一時もみ合い(読売新聞)(東京大学先端科学技術センター・ジャーナリスト養成コース)
 大阪市西区のホームレス住居撤去事件ですが、これの理由は3月と5月に行なわれるイヴェントのためだとか。ちなみに同種の騒動は平成10年にもあったようなのですが(読売新聞ウェブサイトによる)、イヴェントが行なわれると、そのような背景があったことも消されてしまうのだろうな…と思ってしまいました。確か愛知万博でも環境破壊が問題になっていましたっけ(「週刊金曜日」だったかな?)。
 ちなみに保坂氏のエントリーには《少年たちや酔った若者たちによる「ホームレス襲撃事件」は全国で頻繁に起きている。「人間以下」「汚い」と罵倒して、殴る蹴るの暴行を受け、大怪我をして亡くなった人も少なくない》と書かれていますけれども、《「人間以下」「汚い」》というのは、そもそも社会がホームレスに向けてきた視線そのものなのではないでしょうか。ちなみに本田由紀氏は、『「ニート」って言うな!』の50ページにおいて、「ニート」を「ペット以下」と罵った女子高生の例を紹介していました。

 生田岳志『「野宿者襲撃」論』(人文書院)、早く読まなきゃ…。

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2006年1月 8日 (日)

トラックバック雑記文・06年01月08日

 今回のトラックバック:「フリーターが語る渡り奉公人事情」/「海邦高校鴻巣分校」

 明けましておめでとうございます。今年も若者論の検証に精を出していくので、どうぞよろしく。あと、仙台市在住の新成人の皆様、明日は成人の日です。ぜひとも仙台市体育館まで!平成18年仙台市成人式実行委員会の用意した成人式をお楽しみくださいね。

 フリーターが語る渡り奉公人事情:黒田節
 新年早々、考えさせられるエントリーです。我が国においては、やれパラサイトだニートだ下流だとかいった「言葉」ばかりが飛び交っていますけれども、結局のところそれは所詮は「有閑階級の言葉遊び」というか、もう少し詳しく言えば、社会のある階層の人を「よりしろ」にして自分の地位の「高さ」を確認したい、という言動に過ぎない。三浦展氏の「下流社会」もまた、結局のところ自分は「上流」「中流」だと自称する人が、「人生へのモチベーションが低い」ように見える――しかし実際には、社会における「人生へのモチベーション」の文脈が変化していたり、あるいは最初からそのような機会が与えられていなかったりと、単純に本人の無気力として切り捨てることができないものも多いのだが――人を叩いているだけに過ぎない。

 私は最近ナショナリズムに関して思索をめぐらせることもあるのですが、最近喧伝されている「ナショナリズム」やら「愛国心」やらは、フリーターや、あるいは若年無業者などを「国民国家」の成員として認めない。それどころか彼らは「国家」を汚すものであるとして迫害してしまう。ある意味、それが現状におけるフリーター論の歪み――すなわち、バブル期的フリーターとは明らかに変質しているにもかかわらず、今でもフリーターを「甘え」だとか「自己責任」として片付けてしまうこと――とも関係しているかもしれない。
 社会の大部分で働いていながらも、「世間」は決して彼らを一人の人間として容認しようとせず、ひたすら卑下する。そして彼らに「自己責任」を要求したり、あるいは「下流」だと言って見下したり。そのような言説的病理を指弾するために、「嫌韓流」ならぬ「嫌下流」とかいう本を書いてみようか(笑)。
 あと、立ち読みで、スピリチュアル・カウンセラーの江原啓之氏の最新刊『江原啓之への質問状』(ライターの丸山あかね氏との共著、徳間書店)を読んだのですが、特に「ニート」に関するくだりは大いに笑えた。江原氏によれば、「ニート」は自らの守護霊の力に気がつかないから親離れできないんだとさ(笑)。実際に購入するまで詳しい論旨に関する言及は避けますが、実を言うと最近江原氏の言説に関しても興味を持っています。というのも、私がもっとも最初に出会った江原氏の著書が『子どもが危ない!』(集英社)で、そこで展開されている青少年言説が、明らかに過去の事例や件数を無視していることもさることながら、それよりも江原氏が「たましい」との結びつきを取り戻さない限り社会問題は解決できない、と言説を展開していることに危機感を覚えたからです。これは要するに、社会とか実際の人々の営みを無視して、「個人」をいきなり「たましい」――この本で展開されている江原氏の「たましい」概念が、実を言うとかなり保守論壇的な俗論に脚色されているのだが――と結び付けようとする論理であり、パトリオティズム(愛郷心)を経由しない「偽ナショナリズム」であって、それと同時に社会的問題を「内面」に還元してしまう思想に他ならない。とりあえず古本屋で、『子どもが危ない!』の続編に当たる『いのちが危ない!』(集英社)も買いましたが、江原氏は積極的に著書を出しているので、もう少し深く掘り下げていかなければならないでしょう。もちろん、江原氏以外のスピリチュアリズム関連の書籍も参照しながら。
 「論座」平成18年2月号に、ライターの横田由美子氏が「あなたはいま、幸せですか――江原啓之に魅せられた女たち」という記事を書いていますし、評論家の斎藤美奈子氏も著書『誤読日記』(朝日新聞社)で江原氏の『スピリチュアル夢百科』(主婦と生活社)を少々批判的に書評しています(107~109ページ。特に109ページの《心霊業とは、ある種のサービス産業なのである》という指摘には納得!)。ニーチェの『キリスト教は邪教です!』(適菜収:訳、講談社+α新書)も参考になるかな。
 関連記事:「反スピリチュアリズム ~江原啓之『子どもが危ない!』の虚妄を衝く~

 

海邦高校鴻巣分校:「超少子化を語る」を嘲う……
 平成18年1月5日付読売新聞に掲載された、キヤノン社長の御手洗冨士夫氏に対するインタヴューの検証です。私の家でも読売を購読しているのですが、そのインタヴューの中における、御手洗氏の《今日の若者の就業の様子を見ていても、フリーター、ニートと言われる層に果たして本当の就業意欲があるのか》というくだりは、あ、やっぱり、と思ってしまいました。要するに、「問題」といわれる「属性」を持っている人に対して、ひたすら(社会にとって)悪いほうに悪いほうに考える、という奴ね。

 せっかくだからこのエントリーから興味深い部分を引用してみる。

 電波3「個人はあれもこれも企業や社会のせいにすることなく、強い個人になることを目指していただきたい」……
 強い個人、というのはどういう意味でしょうか。経済基盤の強さでしょうか。それとも財界の要請にこたえられるだけの能力を持った人間になることをお求めでしょうか。で、あなた方はバブル期も含め史上空前の利益を挙げ、お金の力で政治に口を出し、経団連に有利な政治を要求することができますが、個人にはそれはできません。社会がどのようにまずい方向に変わろうとも、異議を申し立てることはまかりならぬ、強い個人であれという言葉はそのような意味ですか?

 このような「強い個人」を強調するのも、また「自己責任」論の一環であるということを、我々は認識しなければなりません。
 で、このエントリー、最後はお決まりの《平凡な学生の課題案よりもひどい》。

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2005年12月23日 (金)

トラックバック雑記文・05年12月23日

 今回のトラックバック:「冬枯れの街」/本田由紀/赤木智弘/田中秀臣

 ただいま、寒気が日本中を席巻しており、全国で大雪を降らせております。私の住んでいる仙台も猛吹雪が吹き荒れました。

 しかし、猛吹雪が吹き荒れているのは何も天候だけではない。我が国の青少年政策にもまた、猛吹雪が吹き荒れています。

 冬枯れの街:「竜に一人一人順に喰われていくのが嫌ならば竜を皆で殺すしかない。」
 昨日の「トラックバック雑記文」で、自民党が「「犯罪から子どもを守る」ための緊急提言」なるものを発表したことに関して少々愚痴を発してしまいました。しかし、この「緊急提言」は、あまりにも問題の大きいものであるため、批判することは十分相当性があります。この「緊急提言」と同時に、「AERA」に掲載された「漫画を規制せよ!」と高らかに叫んでいる投書も転載してしまいましたが、いまだに政治にもマスコミにもアダルトゲームやロリコンものの漫画を規制すれば子供が被害者になる犯罪は撲滅できる、と能天気に考えている人が多いようです(投書は個人の見解じゃないか、という反論もありましょうが、投書の選定に関しては編集デスクが関わってくるので、その編集デスクの意向が(記事には表れない「隠れた本音」と言い換えてもいいでしょう)反映される、という見方も十分にできます)。

 「冬枯れの街」では、「青少年問題に関する特別委員会」の平成17年12月16日付議事録が批判されていますが、このエントリーの筆鋒があまりにも鋭くて、私が検証するよりも遥かによく問題点をあぶりだしております。それにしても、「子供を守る」という大義の下、これまでの事件とは全く関係ないメディアが、しかも自民党から共産党までの大同団結の下規制されつつあるのですから、思い込みの持つ力は論理よりも勝っている、ということの証左なのでしょうか。こういうときだけ「挙国一致」かよ。もっと他に解決すべき問題があるだろーが。例えば建物の耐震補強あるいは免震・制震化とか(天野彰『地震から生き延びることは愛』文春新書、の第4章や、深堀美英『免震住宅のすすめ』講談社ブルーバックス、等の地震関連の本を参照されたし。宮城県在住の人なら、大竹政和『防災力!――宮城県沖地震に備える』創童舎、あるいは、源栄正人『宮城県沖地震の再来に備えよ』河北新報出版センター、も参照)。高度成長期に建造されたコンクリート建造物は粗悪で崩れやすい、という報告もあります(小林一輔『コンクリートが危ない』岩波新書)。これこそ国民の安全に関わる問題です。また、本当に子供を守りたい、というのであれば、極めて確率の低い(しかしマスコミは総力を挙げて騒ぎたがる)ロリコンによる性犯罪ではなく、児童虐待と感染症と交通事故と自然災害という、本当に子供が死んでしまうリスクが極めて高い部分での対策をやるべきでしょう。

 参考までに、民主党の「児童買春・児童ポルノ規制法案に関する見解」も転載しておきます。

1、児董を性的虐待から守るため、特に海外における低年齢児童への買春・ポルノ撮影等が国際的批判をあびている現状に対して、早期の立法措置が必要である。
2、しかし、今回提出された与党案は、構成要件があいまいで警察の裁量が大きくなりすぎ、表現の自由、児童の性的自己決定権などを不当に侵害するおそれもある。また、刑法など他の法制との整合性にも問題がある。さらに、守るべき法益があいまいなため、海外の低年齢児童など、緊急に保護が必要な部分への実効性も不十分である。
3、私たちは、国民の権利・義務に密接にかかわる本立法が国民的合意に基づき早期に行われるべきとの考えから、与党協議への参加、提出前の修正などについて与党と非公式に交渉してきたが、われわれの提案に一切耳を傾けず、与党が法案提出に踏み切ったことは、法案を真剣に成立させる意欲があるとすれば、まことに遺憾である。
4、以上のような観点から、与党案は抜本的に見直しの上、再提出が必要と考えるが、最低限以下の修正が必要である。
(1)「買春の定義」について
○定義があいまいな「性交類似行為」を削除し、「性交等」の定義を、「性交、若しくは自己の性的好奇心を満たす目的で、性器、肛門若しくは乳首に接触し、又は接触させること。」と明確化する。
○通常の交際との線引きを明確にするため、「代償」は、拡大解釈されないよう限定する。
(2)「ポルノの範囲」について
 絵は、保護法益が異なるため除外する。
(3)「ポルノの定義」について
 「衣服の全部又は一部を脱いだ児童の姿態であって性的好奇心をそそるもの」との表現は、範囲が広すぎかつ主観的・あいまいであり、削除する。
(4)「広告の処罰」について
 写真等の掲示があれば正犯、その他の場合も公然陳列・販売の共犯・幇助犯として処罰できるので、削除する。
(5)「児童買春の罰状」について
 他の刑法犯との整合性からも、懲役「5年以下」を周旋罪・勧誘罪と同じ「3年以下」に改める。
(6)「児童ポルノの単純所持」について
 守るべき法益がなく、削除する。
(7)「年齢の知情」について
 過失処罰の規定であり、「児童の年齢を知らないことにつき過失の存するときは、第3条乃至第7条の規定による処罰を免れることはできない。」に、改める。
5、民主党は、上記事項をふまえ、人権侵害のおそれがなく、実効性のある対案を早期にとりまとめ、次期国会に提出する所存である。

 とりあえずは及第点といっていいでしょう。《構成要件があいまいで警察の裁量が大きくなりすぎ、表現の自由、児童の性的自己決定権などを不当に侵害するおそれもある》《守るべき法益があいまいなため、海外の低年齢児童など、緊急に保護が必要な部分への実効性も不十分》《「代償」は、拡大解釈されないよう限定する》《絵は、保護法益が異なるため除外する》《写真等の掲示があれば正犯、その他の場合も公然陳列・販売の共犯・幇助犯として処罰できる》など、不当に利権を拡大させようとしている自民党の懲りない面々に声を出させて読ませたい文章です。

 しかし、このような無用な青少年「政策」は、ロリコンメディアにとどまっているわけではない。

 もじれの日々:うんざり+心から体へ+火星人(本田由紀氏:東京大学助教授)

 本田氏の問題意識に全面的に同意。

しかし思うに、小田中さん(筆者注:東北大学助教授の小田中直樹氏)が昨日のコメント欄で言及してくださっていたように、「若者の心をさわらずに何とかしたい」と内藤さん(筆者注:明治大学専任講師の内藤朝雄氏)と私がもごもご言い合っている間に、世の中の方が一足早く、「(若者の)心から体へ」とターゲットを移しつつあるのだ。もう若者の何だかよくわからない「心」などをとやかく言っていてもはかどらない、と焦れ、「早寝・早起き・朝ごはん」、「生活リズム」、「挨拶」などの外面的な、非知的なところで型にはめる方が手っ取り早い、という考えが澎湃と広がりつつあるのだろう。そういう「型」からぱこんぱこんと「健全な」若者が量産される状態に対して、私はむしろ一種のおぞましさを感じるし、そんなことはそもそも不可能だと思うのだが、それをこそ理想だとする人々がちゃんと、しかも相当の勢力をもって、存在するのだ。

 このような論理は、様々な衣をまとって我々の周りを侵蝕しつつあります。例えば、「俗流若者論ケースファイル18・陰山英男」で検証した、尾道市立土堂小学校校長の陰山英男氏は、子供たちが「ディスプレー症候群」にかかっているから少年犯罪や学力低下が起こるのだ、と言っております。これは脳科学のアナロジーを悪用した論理ですが、その分野で今トップにいるのが森昭雄氏であることは疑いえません。本田氏言うところの《外面的な、非知的なところで型にはめる方が手っ取り早い、という考え》に関して言うと、このような論理は既に眼科医学(「俗流若者論ケースファイル60・田村知則」)や、あるいは小児科学(「俗流若者論ケースファイル56・片岡直樹」)、またはスピリチュアリズム(「反スピリチュアリズム ~江原啓之『子どもが危ない!』の虚妄を衝く」)といった分野に属する人からも出ています(また、それらがことごとくゲームやインターネットを悪玉視しているのが不思議だ)。ま、みんな亜流ですけどね。

 本田氏の《そういう「型」からぱこんぱこんと「健全な」若者が量産される状態に対して、私はむしろ一種のおぞましさを感じる》という苦言は実にごもっともでありますが、彼らのやりたいことは一種の「自己実現」(笑)に過ぎない。ですから、こういう人たちを突き崩す論理は、彼らの子供じみたプライドを否定すればいい(笑)。これは自民党のメディア規制推進派にも言えます。

 さて、「冬枯れの街」では、「戦後教育が「幼女が被害者となる犯罪」を生み出したのだ!」と叫んでいる、自民党国会議員の松本洋平氏が批判されています。しかし松本氏は昭和48年(1973年)生まれ。要するに、私より11歳年上なわけです。従って松本氏が受けたのもまた「戦後教育」のはずなのですし、松本氏は戦前の教育を受けていません。受けていない教育をどうしてそんなに礼賛できるの?問題点も含めて調べたのか?単にそこらの保守論壇人の愚痴を真似ているだけではないのか?

 私は最近、若年無業者(「ニート」)に関する朝日新聞の投書を集中的に調べたことがあるのですが、私と1、2歳ほど違わない大学生が、例えば《教育を語る上で昔と今が決定的に違うのは、日常の生活では「生きる力」を身につけることが困難になってしまったことでしょう》(平成17年3月18日付朝日新聞、東京本社発行)などと平然と語ってしまうことにも腹を立てております。要するに、現代の若年層を批判するために、理想化された「一昔前」とか「戦前」をいとも簡単に持ち出す。

 深夜のシマネコBlog:自虐史観に負けるな友よ(赤木智弘氏)

 「過去を美化するな、現在を軸足に据えよ、そしてその上で最善の解決策を設計せよ」という、自己中心主義者にして合理主義者にして刹那主義者(笑)の私としては、《ましてや、このようなメディア利用の上で若い人たちに、さも「昔の人たちは偉かった」と思わせるようなことをするのなら、当然徹底的に反論させてもらう。/若い人たちが、自分たちの事を卑下することのないように、それこそ若い人たちが生きた歴史を否定する本当の意味での「自虐史観」に陥らないようにしたい》という赤木氏の問題意識には強く共鳴します。

 徒に「理想化された過去」に自己を同一化し、エクスタシーを得ている人たちが多すぎます。自分の生活世界を見直そうともせず、あるいは現在喧伝されている「問題」に対して懐疑の念を持たず、ただ「日本人の精神」みたいなフィクションに陶酔することこそ、自己の否定、自我の否定であって、結局のところあんたらが毛嫌いしている「自分探し」でしかねえんだよ。

 ついでにこの話題にも触れておきますか。
 Economics Lovers Live:ニート論壇の見取り図作成中(田中秀臣氏:エコノミスト)
 最近になって、巷の「ニート」論に対する批判が次々と出ています。その急先鋒は、本田由紀、内藤朝雄、田中秀臣の3氏であるといえましょう。本田氏は、「働く意欲のない「ニート」は10年前から増えていない」というネット上のインタヴュー記事で、若年無業者自身の心理的問題を重点視する従来の「ニート」論を批判しています。内藤氏は、「図書新聞」平成17年3月18日号で「お前もニートだ」という文章を発表し、青少年ネガティヴ・キャンペーンの一つとしての「ニート」論に、社会学的な立場から反駁を行なっています。田中氏は、このエントリーとはまた別のブログ「田中秀臣の「ノーガード経済論戦」」の記事や、あるいは「SAPIO」平成17年11月23日号の記事で、「「ニート」は景気が悪化したから発生したのであり、景気が良くなれば減少するはずだ」と主張し、「ニート」が予算捻出の口実になっている、と批判しています。このような田中氏の、景気に関する説明に関しては本田氏は少し疑問を持っていますが、問題意識の点では共鳴しているといっていいでしょう。

 また、田中氏との共著もある、早稲田大学教授の若田部昌澄氏も、最新刊『改革の経済学』(ダイヤモンド社)において、「ニートの中の不安な曖昧さ」と題して玄田有史氏を批判していますし(とはいえ、若田部氏の著書に関しては、まだ立ち読み程度なのですが…)、明石書店から出ている「未来への学力と日本の教育」の第5巻である、佐藤洋作、平塚眞樹(編著)『ニート・フリーターと学力』では、法政大学助教授の児美川孝一郎氏と、横浜市立大学教授の中西新太郎氏が「ニート」論を検証しています(児美川孝一郎「フリーター・ニートとは誰か」、中西新太郎「青年層の現実に即して社会的自立像を組みかえる」)。これと、来春出る予定の、本田氏と内藤氏と私の共著である『「ニート」って言うな!』(光文社新書)で、反「「ニート」論」の議論はおおよそ出揃うでしょう。

 これに対し、従来の「ニート」論の土台を担ってきたのが玄田有史氏(東京大学助教授)と小杉礼子氏(「労働政策研究・研修機構」副統括研究員)です。特に玄田氏は、かなり初期の頃から青少年の「心」を問題化していた(「論座」平成16年8月号の文章が、一番その点の主張が強いかな)。その玄田氏と小杉氏が中心となってまとめられた本が『子どもがニートになったなら』(NHK出版生活人新書)で、この本には玄田氏と小杉氏のほか、宮本みち子(放送大学教授)、江川紹子(ジャーナリスト)、小島貴子(キャリアカウンセラー)、長須正明(東京聖栄大学専任講師)、斎藤環(精神科医)の各氏が登場しています。ここに、玄田氏が序文を寄せている『「ニート」支援マニュアル』(PHP研究所)の著者である、NPO法人「「育て上げ」ネット」代表の工藤啓氏や、更に「希望学プロジェクト」という、玄田氏が中心となって動いているプロジェクトや、玄田氏も重要なポストにいる「若者の人間力を高めるための国民運動」の両方に参加している、東京学芸大学教授の山田昌弘氏も加えて、一つの陣営として捉えることができる。また、「サイゾー」の最新号の記事を見てみる限り、自民党衆議院議員の杉村太蔵氏もこちら側に親和的かな。

 さて、この話題に関して、もう少しだけ語らせてください。というのも、「ニートサポートナビ」というウェブサイトを見つけたのですが、そこに「ニート度チェック」なるコンテンツがありました。数回やってみたのですが、出題はランダムのようです。というわけで、今回また新しく挑戦してみましょう。

 1つ目の質問:会社的な所属(居場所)が自宅以外にない
 《会社的な所属(居場所)》とは、何を指すのでしょうか。少なくとも私はまだ大学生ですから、会社には所属していないし、アルバイトも家庭教師しかしていない。成人式実行委員会が《会社的な所属》といえるかどうかも疑問。極めて曖昧な質問なので、とりあえず「自宅以外にない」のほうにチェックをつけておきます。

 2つ目の質問:グループの雰囲気に溶け込むのが苦手だ
 私は大学内にほとんど友達がいません。また、コミュニケーション能力はあまり高くなく、もし自分が自分の体質とは少しずれるグループにいたら、少々我慢して、あまり干渉せず、溶け込もうともしないでしょう。従って、これは「苦手だ」というほうにチェックしておきます。

 3つ目の質問: 自分はとても真面目なほうだと思う
 少なくとも、私は、書物を読み漁り、あるいは計算式を懸命に解いたり、文章を書いたりすることにやりがいを感じているので、これは「思う」といってもいいかな。

 4つ目の質問:アルバイト情報誌(求人誌)は「とりあえず」目を通す
 これは「目を通す」ですね。この設問は、選択肢が「目を通す」「目を通さない」ですから、「とりあえず」でなくても、目を通すなら「目を通す」に応えるべきなのでしょう。

 5つ目の質問:父親とよく会話をする
 あまりしないほうだと思いますね。「しない」。

 6つ目の質問:製造業に魅力を感じる
 当たり前じゃないですか。製造業なくして世界は成り立ちませんよ。従って「感じる」。

 7つ目の質問:何かを始める前には、自分が納得している必要がある
 「考えてから行動する」か「行動してから考える」ということを聞いているのかな。私は「考えてから行動する」タイプなので、「納得している必要がある」。

 8つ目の質問:親の目を見るのが苦手だ
 「苦手ではない」。

 9つ目の質問:好きな自分と嫌いな自分がいる
 これは、長所と短所を表しているのでしょう。従って、「当てはまる」。ちなみに「当てはまらない」に関しては、3パターンあります。一つは「好きな自分はいるが嫌いな自分はいない」。もう一つは「好きな自分はいないが嫌いな自分はいる」。最後に「好きな自分も嫌いな自分もいない」。この3つに当てはまる人は、押しなべて「当てはまらない」に答えるべきなのでしょう。

 10つ目の質問:ニートという言葉が嫌いだ
 はい、大嫌いです。私は一貫して若年無業者という言葉を使うか、あるいは「ニート」とカギカッコに入れて使ってきた。この言葉が、青少年の内面ばかりを問題視する言説ばかりをはびこらせたのは否定し得ない。
 さて、10個の質問が終わりました。私の「ニート度」はいかがか!!

あなたはニート傾向が強いようです。

もし長期に渡って就業から遠ざかっているようでしたら、「ワークセレクション」にて、様々な仕事に携わる人たちの様子やインタビューを配信していますので、ご覧になっていただければ、新たな一歩を踏み出すきっかけとなるかもしれません。
また、就労や訓練を受ける意欲があるようでしたら、「若者自立塾の紹介」にて、厚生労働省の施策として行われている全国の各若者自立塾の概要をご紹介しております。「若者自立塾のアンケート結果」「若者自立塾の口コミ情報」とともにご覧になっていただき、興味があれば各自立塾にお問い合わせしてみるのもいいかもしれません。
自分でもどうしてよいかわからない場合は、「メールカウンセリング」にて専門カウンセラーのアドバイスを受けることができますので、一度ご相談してみてはいかがでしょう。

 よくここまでわかるもんだなあ、感心。っていうか、こりゃ、一種の宣伝にしか見えないな。
 で、何が言いたいのかな、このテストは。曖昧です。まさに「ニートの中の不安な曖昧さ」(@若田部昌澄)。

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2005年12月22日 (木)

トラックバック雑記文・05年12月22日

 今回のトラックバック:「カマヤンの虚業日記」/「冬枯れの街」/古鳥羽護/「性犯罪報道と『オタク叩き』検証」/「おたくの旅路」/「海邦高校鴻巣分校」

  さて、どうしたものか…。
 カマヤンの虚業日記:[政治]自民党・規制派の謀略
 冬枯れの街:ゲーム悪影響論に下された審判
 フィギュア萌え族(仮)犯行説問題ブログ版・サブカル叩き報道を追う:大谷昭宏・勝谷誠彦「実践的な防犯よりも”変態”をやっつけろ!」(古鳥羽護氏)
 性犯罪報道と『オタク叩き』検証:2005ユーキャン新語・流行語大賞トップテン『萌え~』『ブログ』、やくみつるが授賞
 おたくの旅路:野球をやると殺人者になる!
 海邦高校鴻巣分校:暴力漫画への怒りを表明した貴方へ
 ついに自民党が、表現規制に向けて動き出したそうです。

「犯罪から子どもを守る」ための緊急提言
平成17年12月19日 自由民主党 「犯罪から子どもを守る」緊急対策本部
今後取り組むべき課題
1.青少年の健全育成環境の整備
女子児童を対象とした犯罪増加の背景には、児童ポルノや暴力的なコミック、過激なゲームソフト等の蔓延の問題が指摘される。

子どもを対象とした性犯罪を封じ込めるには、青少年のみならず、成人にも悪影響を与えるこうした児童ポルノ等が事実上野放しにされている現状を改革する必要がある。

すでにいくつかの都県や政令市はこうした児童ポルノ等を条例により規制しており、自由民主党としても「青少年健全育成推進基本法」の制定に向けた取り組みを進める。

同時に、政府においても内閣府を中心に時代を担う青少年の健全育成に対する世論の喚起に努める。

 それだけではありません。朝日新聞社の週刊誌「AERA」平成17年12月26日号にも、有吉由香「子どもを殺させるな」という記事の反響として、以下のような投書が掲載されております(ちなみに有吉氏の記事自体は表現規制には一言も触れてはいません)。

 女児に対する異常な犯罪が続いている。女児をもつ親の胸は、犯人への底知れぬ怒りとともにこんな社会を作った大人の無関心・無力さへの悔しさでいっぱいだ。

 新聞やテレビのニュースでは毎日のように、「次世代」とつく新しいモノやサービスが登場している。誰もがそれに乗り遅れまいと夢中である。

 しかし、多くの大人は現実社会で押しつぶされそうな「無力な次世代」に対しては、あまりにも無関心すぎると私には思えてならない。

 親は必死である。児童をIT機器で防護し登下校の送り迎えをする。しかし親、学校、自治体の防護にも限界はある。なぜなら犯人は入念に下調べをして防護のスキを狙っているからだ。あるいは成人男性が自暴自棄にアタックしてきたとき、大人でさえ子供を守りきれないことは過去の事件から明白である。

 親や学校や自治体だけではなく、すべての社会を構成する大人にできること、そしてその責任があること。それはこういった幼児・児童への犯罪を助長する情報を社会から一掃することである。

 私が始めていること。それは成人向け雑誌・コミックとその他の本を平然と一緒に並べている書店では買物をせず、必ず書店には「止めるべきだ」と意見を言うことである。店長に直接言うのだ。そういった声を上げ続けない限り、幼児・児童への性は「法律的に問題ない」と売り物にされるのだ。

 親が必死に子供を守っている一方で、街には幼児や児童を性の対象とした雑誌やコミックが平然と、しかも誰の目にもつくように売られている。想像して欲しい。娘と一緒に絵本を買いに行った書店で、異常な性癖を持った男が娘を観察しているかもしれないのだ。大人よ、次世代のためにも自分の責任を果たせ。(東京都日野市・柿崎○○ 43歳・会社員兼大学生)←投書のため苗字だけの公開とします

 自民党にしろ、この突っ込みどころ満載の投書を書いた柿崎某にしろ、自分の言っていることの非論理性や非科学性を理解しているのでしょうか。

 確かに最近の児童が被害者となる事件は憂うべきではありますが、だからといってそれらの事件と彼らが問題にしている性表現の相関性はほとんど認められていません。あなたはニュースを見ていないのですか?これらの事件の報道を見れば、少なくともこれらの事件とあなた方の問題視している性表現が容易に結びついているという判断を安易に下すことはできないはずです。これは過去にさかのぼっても同じことで、昨年の奈良県の事件に関しても、犯人がそのようなポルノを常に見ているわけではなかった。結局のところ、あなた方は、「自分が不可解だと思っているから、子供たちにとって有害だ」と思っているのに過ぎないのではないですか?あなた方の身勝手が、そのまま「子供を守る」という大義名分とつながっているだけではないですか?

 それにです。特に柿崎様、《幼児・児童への犯罪を助長する情報》とは言いたい何を指すのでしょうか。柿崎様の言い分であれば、おそらくそれは《幼児や児童を性の対象とした雑誌やコミック》の事を指すのでしょう。しかし、それだけを《幼児・児童への犯罪を助長する情報》と限定し、それに対して規制しろ、という態度は、果たして公平といえるのでしょうか?

 例えばです。もし誰かが「報道に触発されて幼児を襲った」とでも証言したら、あなたは報道を規制しろ、とでも言うのでしょうか?また、世の中には、かつてから児童ポルノを取り扱った作品もありますし、ドラマの世界でも殺人を取り扱ったものは数知れない。それらも規制しろ、とあなたは言うのですか?

 自民党もまた然りです。自民党は、《女子児童を対象とした犯罪増加の背景には、児童ポルノや暴力的なコミック、過激なゲームソフト等の蔓延の問題が指摘される》と書いております。その指摘が正しいかどうかにもかかわらず、それらを無条件で受け入れて《犯罪増加の背景》として、規制してしまうのですか?他の要因は無視してしまうのでしょうか。
 もう一つ、子供が殺されている事件が急増している、とあなた方はおっしゃっていますが、統計的はやぶさかでもないようです。「少年犯罪データベース」に掲載されている資料なのですが、警察庁の「犯罪統計書」によりますと、幼女レイプの認知件数は、昭和35年ごろを境に著しく減少しており、従って最近の社会が幼女強姦を誘発している、とは到底いえないことがわかるでしょう。子供が不審者によってレイプを受けるリスクは急減しています。社会不安に乗じてメディア規制を煽っている人たちには、あなたたちは児童虐待についてどう考えているのか、と問いただしたいほどです(「今の親は駄目になった」という一般論で茶を濁す人もいるかもしれませんが、児童虐待は昔から問題として根強く存在していたのですからね!)。

 最後に柿崎様へ――最後の一段落は、これは一部の男性に対する差別ではありませんか?あなたの書き方では、幼女が出てくる漫画を見ている《異常な性癖を持った男》が、子供たちを虎視眈々と狙っている、とあなたは考えている、ということになるでしょうが、少なくとも彼らが犯罪者予備軍呼ばわりされる理由はない。児童ポルノに対する摘発は、実際に作成の過程で刑法的な問題が発生したときに限られるでしょう。ましてや、漫画やゲームに関しては、あくまでも出てくるのは仮想の人物ですから、名誉毀損罪は成立しません。これらの性表現が「少女全体に対する名誉毀損」ということを言いたいのであっても、具体的な被害者がいない限り名誉毀損罪としては成立しえません。

 あなたたちは、結局のところ、自分の「理解できない」ものを犯罪の元凶だ!といいたいだけではありませんか?それは、単に想像力や論理性の欠如だけではなく、レイシズムにもつながるものです。最近は、身辺雑記レヴェルの「憂国」から一気に天下国家を語ってしまうケースが目立ちますが(「文藝春秋」平成18年1月号の特集「三つの言葉」の一部も、このケースでしょう…私は立ち読みでしか読んでいませんが)、自民党の皆様、政治までそのようなレヴェルで大丈夫なのですか?

 それにしても、誰の口から「修復的司法」という言葉が出てきませんが…。猫も杓子も「厳罰主義」「メディア規制」の大合唱、事件そのものの修復や被害者遺族の被害回復など、誰も考えていないようです。防犯という大義の下、人々の自由が、それも事実誤認にまみれた認識で奪われていく…。そしてマスコミの愚かなコメンテーター共や、投書欄にはびこる短絡的な主張を叫ぶ人たちは、ただ「世間」の不安に乗じて、自分たちの主張を押し付けるだけ。ネガティヴ・イメージばかり先行しているだけです。一体得をしているのは誰なのか?子供をダシにして自分の利権を押し通したいだけではないのか?

 というよりも、広島の事件の犯人が外国人と知ってからは、一気に「分析」とやらが沈静化してしまった感じもありますが…。

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2005年12月 4日 (日)

トラックバック雑記文・05年12月04日

 今回のトラックバック:「えのき」/古鳥羽護/克森淳/赤木智弘/保坂展人/「目に映る21世紀」/「性犯罪報道と『オタク叩き』検証」/本田由紀/「海邦高校鴻巣分校」/「ヤースのへんしん」/栗山光司/木村剛

 先日(平成17年12月2日)、平成18年仙台市成人式実行委員会の最後の会議が開かれたのですが…

 えのき:来年の成人式に注目
 なんと平成17年仙台市成人式実行委員会の人が来てくれたのですよ。このエントリーの書き手もその一人です。来てくれた人は、伊藤洋介・平成17年仙台市成人式実行委員会委員長他5名(1人は会議開始前に帰宅し、会議中にもう1人帰ってしまいましたが)。あー、ちなみに文中の《ごっと》とは俺のことだ。リンク貼ってくれよ(嘘)。

 それにしても世間は狭いもので、今年2月に書いた「私の体験的成人式論」で採り上げた、平成17年の成人式の第2部における、私がチーフだったブースのスタッフの内、小学校の教師と当日スタッフ1人が今回の実行委員になってしまっている(笑)。

 閑話休題、このエントリーでも書かれているのですが、平成17年仙台市成人式実行委員会は、組織としては消えておりますけれども、実行委員(「元実行委員」かな?)の繋がりはいまだに途絶えていない。今年6月の頭ごろにも飲み会を行ないました(そこで元気をもらって一気に執筆したのが「壊れる日本人と差別する柳田邦男」だったりする)。私は最初は実行委員会に参加することで成人式報道が隠蔽している部分を見てやろう、と思って実行委員会に殴りこんだのですが、終わってみると様々な出会いを経験できたり、先日の会議でもいろいろと近況を話すことができたりと、得られたものは大きかった。

 昨今の「コミュニケーション能力」だとか「人間力」だとか重視みたいな風潮とか(このような風潮に対する理論的な批判は、本田由紀『多元化する「能力」と日本社会』(NTT出版)を是非!)「コミュニケーション能力が低いと「下流」になるぞ!」みたいなレイシズムとかは嫌いなのですが、やっぱり人間関係の重要さは否定し得ない。

 さて、また幼い子供が被害者となる残酷な事件が起こってしまいました。被害者の方のご冥福をお祈りします。しかし…

 フィギュア萌え族(仮)犯行説問題ブログ版:勝谷誠彦氏、広島小1女児殺害事件の犯人が「子供をフィギュアの様に扱っている」と発言。(古鳥羽護氏)
 走れ小心者 in Disguise!:素人探偵になりたくないのに…(克森淳氏)

 私が事件の犯人と同様に腹が立つのは、事件にかこつけて好き勝手プロファイリングを行っている自称「識者」たちです。現在発売中の「週刊文春」によると、上智大学名誉教授の福島章氏によれば、岡山の事件の犯人は犯人は幼い頃から暴力的表現に慣れ親しんできた若い世代だそうで(福島氏については「俗流若者論ケースファイル」の第3回第32回も参照されたし)。そして実際につかまってみればそれとはかなり違う人物像だったし、もしかしたら冤罪の可能性もあるかもしれない。

 元来プロファイリングとは、この分野の第一人者である社会安全研究財団研究主幹の渡辺昭一氏によれば、行動科学によって《蓄積された知見に基づいて、犯罪捜査に活用可能な形で情報を提供しようとする》(渡辺昭一『犯罪者プロファイリング』角川Oneテーマ21、39ページ)ことを指すそうです。更にこの手法は《事件を解決したり、容疑者のリストを提示したりするわけでは》なく、《確率論的に可能性の高い犯人像を示すもので、捜査を効率的に進めるための捜査支援ツールの一つ》(前掲書、40ページ)に過ぎないそうです。しかしマスコミ上で行なわれる「プロファイリング」は、結局のところ自分の主義主張に合わない人をバッシングするための方便にすぎない。ついでに、これは渡辺氏の著書の19ページ周辺にも述べられていますが、暴力的な映像の視聴が直接的に暴力的な行動につながる、ということは証明されていませんからね(宮台真司『宮台真司interviews』世界書院、も参照されたし)。

 古鳥羽護氏のエントリーによれば、今度は勝谷誠彦氏が「フィギュア萌え族」的な発言をしたそうです。この手の犯罪が起こるたびに、マスコミは犯人像を「不気味な存在」とか「モンスター」だとか、あるいは事件を「現代社会の歪み」だとか捉えたがりますが、私が見る限り、ここ最近2件の殺人・死体遺棄事件、及び昨年末の女子児童誘拐殺人事件は、かなり典型的な誘拐殺人であるように思えます。もちろんこのような推理も私の勝手な「プロファイリング」には違いないのですが、少なくとも事件に対して「不気味」「不可解」だとか唱和するのではなく、典型的な事件とどこが違うのか証明してくれませんか?事件が大筋で典型的なものであるとわかれば、それらの事件の傾向を分析し、目撃証言と照合すれば、おそらく1週間くらいで犯人はつかまるのではないかと思います。

 少なくとも少女に限らず子供が誘拐される事件は昔からあったでしょうし、今の事件(誘拐に限らず!)だけが「不可解」というわけでもないでしょう。

 そう考えてみますと、「安心」を壊しているのはマスコミなのかもしれません。12月3日付読売新聞の社会面の見出しが「また幼女が被害者に」みたいなものでしたけれども、このような見出しにすることによって、「幼女しか性的対象にできない歪んだ男が増えている」みたいな世論を造りたいのではないか、と考えるのはうがち過ぎか。

 深夜のシマネコBlog:高木浩光@自宅の日記より、まず神話を作り、次に神話は崩壊した!と叫ぶマスコミ(赤木智弘氏)

 少年及び若年層による凶悪犯罪に関して言えば、我が国ではいまだに安全(少年による凶悪事件に遭遇しないという意味での「安全」)は保たれているといえます。しかしマスコミでは「少年犯罪が凶悪化している」という唱和ばかり。そもそもそのような扇動に走るマスコミは、現在のことばかりに終始して、過去にどれほど犯罪などが起こっていたかということは見ていない。ある意味、「カーニヴァル化する社会」(鈴木謙介氏)という言葉は、むしろ昨今のマスコミにも言えるのかもしれない。

 もう一つ、このような事件に対する報道は、ある意味では「子供の自由」という問題もかなりはらんでいるように見えます。

 深夜のシマネコBlog:児童虐待を本当に根絶するために。(赤木智弘氏)
 最近では保坂展人氏(衆議院議員・社民党)すら《もっとも具体的な方法は、子どもをひとりで、ないし子どもだけで登下校させないことだ。たとえ社会的コストがつきまとっても実現すべきなのかもしれない》(保坂展人のどこどこ日記:格差社会と子どもの「安全」)と言ってしまっていますが、殺人という特殊な危機のために、子供の行動を全般的に制限する必要はあるのでしょうか。

 まず、すなわち子供は一人でいると危険だから常に親が付き合うべきだ、みたいな論理が許されるのであれば、危険は何も登下校中のみに潜んでいるわけではないでしょう。その点から言えば、例えば子供が一人で友達の家に遊びに行く際も親が付き添っていなければならない、ということになりますが、それは子供にとって、あるいは親にとってプラスといえるかどうか。また、子供が常に親の監視下におかれることによって、例えば子供がどこかに寄り道したりとかいった体験を殺してしまうことにはならないか。

 ただし犯罪を防ぐための施策として、公共的な場所や街路の監視性・透明性を高めておく必要はあると思います。例えば私が東京に行って、ある住宅地を歩いたときの話ですが、その住宅地の近くには活気のある商店街があり、そこはなかなか味があってよかったのですが、商店街や大きな道路から少しでも外れると街灯が少なく、更にかなり塀に囲まれて見通しの悪い場所で、もしかしたら誰かに刺されるかもしれないと思っていました。誘拐事件の多くも路上が現場となっているようですので、路上の監視性を高めておく、という施策はやるべきでしょう。

 ついでに、保坂氏のエントリーでは、タイトルが「格差社会と子どもの「安全」」であるにもかかわらず肝心の「格差社会」については最後のほうでエクスキューズ程度に触れられているだけです。しかし「格差社会」論から犯罪予防のヒントを探るとすれば、様々な社会的階層の人が社会的に排除されているという感覚をコミュニティによってなくしていく、ということが挙げられるでしょう。そのためには、不安ではなく信頼をベースにした多くの人が参加できるコミュニティの形成、あるいは社会的に排除されている(と感じている)人とかあるいは特定の社会階層の人が帰属意識を持つことのできる副次的なコミュニティの形成が必要となります。

 ちなみに皇學館大学助教授の森真一氏の著書『日本はなぜ諍いの多い国になったのか』(中公新書ラクレ)の最終章の最後のほうで、農漁村にかつて存在していた「若者組」だとか「若者宿」みたいな若年層のコミュニティに入っていた人が散々非行をしても、いざコミュニティを脱退するとすっかり非行をやめてしまい、消防団長や懲戒議員などにやって若年層の非行に眉をひそめるようになる、ということが紹介されています。森氏は、このことについて《かつての地域社会や年長者は「限度ギリギリまで、社会的なルールを無視する行為を若者たちに許す場を提供」しました。他方、現代の年長者はそのような時代が存在したことを忘れ、「社会的なルールを無視する」若者の行動を、予定調和を乱す「リスク」「コスト」としか見なさなくなったのです》(森真一『日本はなぜ諍いの多い国になったのか』中公新書ラクレ、233ページ)と分析しておりますが、この話は、「セキュリティ・タウン」的な、あるいは「ゼロ・トレランス」的な風潮が強まる我が国の状況において批判的な視座を投げかけるかもしれません。

 話は変わって、最近の「「萌え」ブーム」なるものに関する話題ですが…

 目に映る21世紀:【キールとトーク】おたく男・女/恋愛資本主義/『下流社会』/見えない消費と、余裕のある僕ら(←「下流社会」論に関して真っ当な批判あり)
 性犯罪報道と『オタク叩き』検証:11月1日『ザ・ワイド』・リベラが「遭遇した」コスプレダンサー、『電車男』にも登場

 私は正直言って最近の「「萌え」ブーム」なるものがあまり好きではありません。基本的に「オタク文化」的なものは認めますが、それでも昨今のブームには疑問を持たざるを得ない。

 疑問点その1。「萌え関連企業が急上昇!」みたいなことを言う人が多すぎますけれども、所詮そのようなことは他の業種の売上が下がって、相対的にオタク産業が浮上してきたとしかいえない。従って「急上昇」みたいな言い方はあまり好ましくないように思える。
 疑問点その2。「目に映る21世紀」における《うぜえ・・・。結局、今回の萌えバブルやらオタクブームって差別の再生産をしただけにしか感じられん》というくだりについて、これに激しく同意。私はテレビにおいて何度か「オタク」が採り上げられた番組を見たことがありますが、それらの番組はことごとく「遠まわしな差別感」に彩られていた感触があった(例えば、平成17年11月24日のTBS系列「うたばん」)。そもそも「オタク」=「電車男」みたいな傾向も強い。「電車男」については私は本も読んでいないし映画もドラマも見ていないけれども。これを強く認識したのは「トリビアの泉」(平成17年8月24日)だったかな。人助けを笑いものにする、というのは、まさしく検証対象が「オタク」でなかったらできなかったと思う。

 現在のマスコミにおいて、冷静に「オタク」を採り上げることのできるのは、朝日新聞社の「AERA」編集部の福井洋平氏と有吉由香氏くらいしかいないのではないかというのが私見です。福井氏は「AERA」平成16年12月13日号で「アキハバラ 萌えるバザール」という記事を書いている。有吉氏は同誌平成17年6月20日号で、ライターの杉浦由美子氏と共に「萌える女オタク」という記事を書いています。それらの記事はあまり「オタク」を見下した態度をとらず、筆致は熱がこもっているけれども冷静さも保っている。他方で「AERA」は「独身女に教える男の萌えポイント」(伊東武彦、平成17年8月29日号)とか「負け犬女性に贈る「ツンデレ」指南」(内山洋紀、福井洋平、平成17年10月17日号)みたいな記事も書いているからなあ…。しかし「AERA」の「オタク」報道が他の週刊誌とはかなり一線を画しているのも確か(「読売ウィークリー」に至っては、副編集長自ら「「オタク」は絶望的な男」と言っているし)。そのうち、体系的に評価してみる必要があるでしょう(とりあえず記事はそろえてあります)。

 「人間力」という名の勘違い、まだまだ続く。

 もじれの日々:独り言(本田由紀氏:東京大学助教授)
 海邦高校鴻巣分校:「人間力運動」は即刻解散せよ

 「若者の人間力を高めるための国民運動」が「応援メッセージ」を発表しました。「海邦高校鴻巣分校」はこれらの「メッセージ」について、建築評論家の渡辺豊和氏の言葉を引いて「平凡な学生の課題案よりひどい」と述べておりますが、私はこれ以上の内容は期待していなかったので、おおよそ期待通りのものが出てきた、というのが正直な感想です。
 しかし山田昌弘氏(東京学芸大学教授)の「メッセージ」には注意を喚起しておきたい。

 今後社会が不安定化していくのでそのなかでも上手く立ち回れるような能力をつけて欲しいことと、自分のことを評価してくれるようなネットワーク、人間関係を大切にして欲しいですね。

 要するに組織に波風を立てずに従順に生きていけ、ということですか?このような言説は、前出の森真一氏が著書『自己コントロールの檻』(講談社選書メチエ)でつとに批判していることですが、社会が流動化し、職場や組織の往来が活発になると、個人には慣れ親しんだ会社や組織に対する思い入れを排除し、新しい職場環境に適切に移動する能力が求められるようになる、という傾向に、山田氏も組していることになる。

 本田由紀氏も、最初のほうで採り上げた『多元化する「能力」と日本社会』という著書において、昨今の「人間力」重視的な風潮を批判しており、「コミュニケーション能力」とか、あるいはそれこそ「人間力」みたいな《「ポスト近代型能力」の重要化とは、個々人の人格全体が社会に動員されるようになることに等し》く、そのような能力を要求する社会(本田氏言うところの「ハイパー・メリトクラシー」)の下では《個々人の何もかもをむき出しにしようとする視線が社会に充満することになる》(以上、本田由紀『多元化する「能力」と日本社会』NTT出版、248ページ)。このような「人間力」重視の社会背景を注視するために、森氏と本田氏の議論は必見でしょう。

 

ヤースのへんしん:耐震対策は早急に!
 「姉歯」叩きの裏で、あまり注目されていないのが公共施設の吊り天井。平成17年12月1日付の読売新聞宮城県版によれば、地震発生時に崩落する怖れのある吊り天井の数はなんと4996。ちなみにこのことは地方面でしか報じられていない。こういうことこそ、もっと追求すべきではないかと思うのですが。

 このことに着目させたのが、平成17年8月16日で起きた宮城県沖地震でした(しかし「本命」の宮城県沖地震ではないことがわかりましたが。「本命」の30年以内に来る確立はいまだに99%)。もとよりこの地震で天井が崩落した施設「スポパーク松森」の屋根がアーチ状だったため、左右の揺れが増幅されて吊り天井が崩落した、ということが明らかになっています(東北大学工学部の源栄正人教授らによる)。ですからアーチ状の建物にも注意を向けるべきでしょう。ただ昨今の「姉歯」叩きを見ている限り、この問題が建物の耐震設計全般の問題に波及することもなければ、建築基準法改正前に建てられた建物及び既存の耐震不適格の建物の耐震補強の問題、及び本当に完全にスクラップ・アンド・ビルドでいいのか、耐震補強ではなぜ駄目なのか、という問題に波及することもないかもしれない。

千人印の歩行器:[読書編]しみじみ「内在系」、メンヘラーって?(栗山光司氏)
 このエントリーでは、共に社会学者の宮台真司氏と北田暁大氏の共著『限界の思考』が採り上げられていますけれども、宮台氏ももちろんですが、北田氏をはじめ、最近の若手論客にも注目すべき人は多い。

 さて、「論座」平成18年1月号の特集は「30代の論客たち」だそうです。執筆者のラインナップを見ても、渋谷望氏、牧原出氏、芹沢一也氏など、かなり期待できるメンバーがそろっております。「論座」は平成15年7月号から毎号購読しているのですが、編集長が薬師寺克行氏に代わってからは面白い特集がますます増えています(平成17年4月号「日本の言論」、6月号「憲法改正」、7月号「リベラルの責任」、10月号「進化するテレビ」など)。

 特に面白そうなのが、宮台真司、佐藤俊樹、北田暁大、鈴木謙介の4氏による対談。ここまですごいメンバーを集められるのもすごい。読み応えがありそうです。

週刊!木村剛:[ゴーログ]ばーちゃんが株を買い、親父がブログる?!(木村剛氏:エコノミスト)

 身内がブログをやっている、ということはないなあ。少なくとも私の家族の中で本格的にブログをやっているのは私だけですが、その理由も所詮は自分の文章を発表する場所を作りたい、という理由にすぎない。

 でも、知っている人がブログをやっていたり、あるいは始めて本格的に話す人に「ブログを見た」と言われると、少々戸惑ってしまうことがありますが。

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2005年11月11日 (金)

トラックバック雑記文・05年11月11日

 今回のトラックバック:本田由紀/古鳥羽護/杉村太蔵/「ANOTHER BRICK IN THE WALL」/「目に映る21世紀」/鈴木謙介/栗山光司/「わにぞう日記」/「月よお前が悪いから」

 このブログは、今月8日で開設1周年となりました(旧ブログも含めて)。だからといって何かやる気もあまりないのですが。でも、何かやってみようかなあ。 

 もじれの日々:あっぷあっぷ(本田由紀氏:東京大学助教授)
 フィギュア萌え族(仮)犯行説問題ブログ版:情報ツウ:杉村太蔵議員の若者へのエールと、福岡政行ゼミ「ニート問題」(古鳥羽護氏)

 現在発売中の「SAPIO」(小学館)にて、エコノミストの田中秀臣氏が昨今の「ニート」論の広がりを批判する記事が掲載されているようです。もとより現在発売中の「SAPIO」に関しては、かの曲学阿世の徒・正高信男氏が登場しているので、それを斬る目的で近々買う予定なのですが(この疑似科学者の記事が掲載されていなかったら「SAPIO」なんて買わなかっただろうなあ)、最近の話題において「ニート」という言葉によって若年層の就業構造の問題や経済的な問題が隠蔽されている。

 最近ではこのような「ニート」論に対する逆襲が静かながら始まっているようです。代表的なのは田中氏と本田由紀氏、そして内藤朝雄氏(明治大学専任講師)でしょう。本田氏も、最近は「ニート」論及び玄田有史氏(東京大学助教授)への批判のエントリーが多くなっている。本田氏に関して言うと、最近ネット上で話題になっているものといえば「日本の人事部」というサイトに掲載されたインタヴュー「働く意欲のない「ニート」は10年前から増えていない」ですが、本田氏は若年の就業の研究に携わってきた立場から、主として社会構造の視点から「ニート」論を批判している。

 一方、内藤氏は、社会学的な立場から批判を加えています。内藤氏による「ニート」論批判に関しては、「図書新聞」平成17年3月18日号か、現在発売中の「10+1」(INAX出版)を読んで欲しいのですが、内藤氏による「ニート」論批判の論点は、「ニート」論が我が国においては社会構造の問題ではなく青少年の心理的な問題として受容されてしまっていること、「いい年して働かない奴」「親の金を食いつぶして遊びほうけている奴」は「金持ちの道楽息子」みたいに昔からいたのに、なぜか最近になって突然問題化されるようになったこと、そしてこのような「ニート」論の広がりが様々なことを隠蔽し、大衆の憎悪を煽り立てて国家主義的な策動が支持されてしまうことなどが挙げられます。

 これらの議論に加えて、私は「自立」ということがなぜか絶対視されている、ということを付け加えてみたいと思います。山田昌弘氏(東京学芸大学教授)の「パラサイト・シングル」論に始まり、昨今では「自立しない」=悪、という図式がまかり通っている。正高信男に至っては、「自立しない」=サル、なんてことを言ってしまう始末です。しかし、これほど経済状況が悪化しているのであれば、「依存」というのも一つの手段、あるいはライフスタイルとして認められるべきではないかと。この「自立」を絶対視した「ニート」批判、という歪みは、元々「ニート」という言葉を輸入した玄田有史氏から始まっており、玄田氏は最近出た本(『働く過剰』NTT出版)や「中央公論」の連載コラムにおいて、「家事手伝い」をなぜ「ニート」と呼ばなくてはならないか、ということについて「家事手伝い」は家庭に縛り付けられて「自立できない」存在である、だから「ニート」であるということを言っている始末。
 ある意味では、「ニート」論の歪みは、そのまま我が国における若者論の歪みのヴィヴィッドな反映といえるかもしれない。

 参考までに、私のブログのエントリーで「ニート」について言及したものもいくつか挙げておきます。

 「統計学の常識、やってTRY!第4回&俗流若者論ケースファイル42・弘兼憲史
 「俗流若者論ケースファイル43・奥田祥子&高畑基宏

 「ニート」論がらみで少々宣伝しておきますと、本田氏と内藤氏が来年の年明けに出す本に関して、私も執筆者の末席に加わることになるかもしれません。今は原稿のやり取りの真っ最中なのですが、とりあえず私は巷の「ニート」論を分析・検証する立場、ということで。

 本田氏といえば、今月末あたりに「ハイパー・メリトクラシー社会化」(大雑把に言えば、「人間力」みたいなことを喧伝する社会のことらしい)に関して述べた本が出るそうなので、こちらも注目しておきたいところです。

 何か勘違いしている人を発見。

 杉村太蔵ブログ:「杉村太蔵が聞きたいっ!」開催のお知らせ(杉村太蔵氏:衆議院議員・自民党)

 まず書き出しにびっくり。「我こそはフリーター、我こそはニートという皆様へ」ってなんですかぁ。そこまで堂々と言える人がいるんかいな。しかも杉村氏は、このエントリーにおいて、フリーターなり「ニート」なりをどうもポジティブに捉えすぎているのではないかという気がする。そもそもこの人、自分のことを「フリーター・ニート世代の代表」みたいに吹聴しているみたいですが、そもそも自分を「ある世代」の代表に置くこと自体が間違いなのではないか。そもそもそのような宣伝は、ある意味では上昇意識の低いフリーターや「ニート」を置き去りにしてしまう、という危険性もなきにしもあらず。

 もっとも、市民の声を聞こうとする態度は評価できますが。その点において、最近公開した「総選挙総括:選挙「後」におけるメディアの頽廃に着目せよ」で紹介した、竹中平蔵氏のブログのこいつぁアホかと思わず天を見上げてしまうようなエントリーよりは遥かにマシ。杉村氏は、またある意味ではですが、今後大化けする可能性はかなり高い。一回会って話をしてみたいが、私は仙台在住だし、授業もかなり忙しいし。成人式実行委員会の仕事も詰まってきたし。

 ANOTHER BRICK IN THE WALL:国民運動に参加した芸能人について
 目に映る21世紀:「若者の人間力を高めるための国民運動」と、「若者の人間力を高めない非国民運動」

 「若者の人間力を高めるための国民運動」。これこそ「何か勘違いしてるんじゃないか」の典型例かな。こういうのを杉村氏は目指しているのかどうかは分かりませんが、少なくともこういう歪んだ「希望」を与えることによって、目の前の問題が解決するかのごとき錯覚を与えることはやめて欲しい。こういう「人間力」喧伝って言うのは、ある意味においてカルト宗教的かもしれない。「人間力」向上による「解脱」を説く点において…。

 SOUL for SALE:格差バブルと下層の論理(鈴木謙介氏:国際大学グローバル・コミュニケーション・センター研究員)
 千人印の歩行器:[ネット編]文明の背後に野蛮が潜んでいる(栗山光司氏)

 なんか最近「下流社会」みたいな議論が大流行ですが、私がどうもこの議論の後ろに胡散臭さを感じずにはいられないのは、こういう議論が、結局のところ単なるマーケティング的カテゴライズ及びそこから来る空疎な若年層バッシングにしかなりえないということ。その点においては、「下流社会」は本質的に「ゲーム脳」「ケータイを持ったサル」みたいな疑似科学的レイシズムと変わらないのかもしれない。私が何故こういうことを言えるかというと、それは本書、及び本書に対する書評(金子勝、吉田司、松原隆一郎の3氏。そしてこの3氏の「下流社会」評が掲載されているメディアが全て朝日新聞系だというのがこれまた興味深い)を読んで、結局のところ『下流社会』(光文社新書)の著者・三浦展氏と金子・吉田・松原の3氏が、最終的には若年層を危険視、あるいは蔑視していたことです。

 金子氏と松原氏は信頼できる書き手なのですが、「下流社会」論への肩入れを見てかなりがっかりしました。金子氏については、先ほどリンクを貼った総選挙総括を参照してください。

 我々は若年層を「説明」するための「便利な概念」を手に入れすぎたのではないか。「下流社会」「ゲーム脳の恐怖」「ケータイを持ったサル」はその典型ですが、我々はこのような「便利な概念」を手に入れすぎたことによって、それらに束縛されるようになった。そして、「理解できない」若年層の行動に対して、森昭雄や正高信男などといった扇動屋の言説に「癒し」を求めるようになった。このような「癒し」の行方、またはこれらの扇動言説がレイシズムにつながる可能性も見ないで。

 「文明」というのが、「自己」と「他者」の線引きを強化し、「他者」に対してなら何をやってもいい、ということにつながるなら、それこそ「文明の超克」が必要なのではないか…って、ちょっと言いすぎたか。とりあえず、インターネットやテレビゲームに「はまっている」人たちは年収が低くて、それゆえに差別的言動に走ったり自民党を熱狂的に支持したり、という論理は偏見だ、ということを言っておきたいっ!

 わにぞう日記:戦後教育のせいで子供はおかしくなったのか?
 全面的に同意します。このエントリーの議論は、戦後教育なるものを批判する人たちが、青少年・若年層を過剰に貶めることによって、現代日本人を自虐している、という論理の錯誤というものですが、私がかねてから思っていたことをうまく文章化してくれています。

 すこし飛躍するのだが、「自虐史観」をしばしば非難する論者たちが、現代日本社会に対してはきわめて自虐的な議論を好んで用いていることが気になっている。現代日本において、日本人も若者も堕落しきっていることを口を極めて指摘し、そのような彼らにかつての戦争の時代の国民や若者を非難する資格があるのか、と問いかける。多くのまじめな人がこの問いかけに影響を受け、現代日本の現状へのうしろめたさもあって、歴史への批判をみずから封じ込めているようにみえる場合がある。これは実は現代日本人の直接的自虐である。現代の日本人・少年を否定することにより、戦争中のある種の青春を天まで持ち上げるのだ。また、自虐=自己否定の焦点は何故か、自由や人権・個人の尊厳の尊重といった近代民主主義の原則、あるいは戦後民主主義そのものに向かうのである。この手の自虐の構造あるいはメカニズムも、どうも気になって仕方がない。

 もっとも私は、このような議論の錯誤は、青少年と戦後教育を口走る人が、自分は「戦後」の人間ではない、悪としての「戦後」を脱した「正しい」人間なんだ、と錯覚していることから始まっていると思うのですが。

 フィギュア萌え族(仮)犯行説問題ブログ版:板橋両親殺害事件「あんな単純な理由で殺したと思われたくない」マスコミが理由全部に触れない違和感(古鳥羽護氏)
 こういう報道が蔓延するのは、結局のところ、背景にある特殊な事情を無視して、このような突発的事件を「どこでも起こりうる事件」に仕立て上げ、不安をあおりたいだけなのかもしれませんね。そういう報道に、断固として「NO」と言っていきましょう。そもそも少年犯罪はピーク時に比べてかなり低い水準を推移しているのですから、なぜ犯罪が「起こらないか」ということを検証すべきではないでしょうか。

 月よお前が悪いから:[規制]恐れていたことが現実に
 児童ポルノを持っているだけで、犯罪を起こしていないのに犯罪者扱いですか。そもそも「何々を持っているからこいつは犯罪を起こす可能性が高い」というのは、「良質な文化」みたいなものを国家が規定してしまう可能性がある。更にそれを通り越して、国家が「理想的な日本人」を規定してしまう可能性がある。

 広田照幸『《愛国心》のゆくえ』(世織書房)という本において、国家が「正しいコドモ」を規定すると、ゆくゆくは「正しいオトナ」も国家によって規定されかねない、という議論がなされていますが、そういう点に無関心であってはいけないと思います。

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2005年10月22日 (土)

トラックバック雑記文・05年10月22日

 トラックバック:「kitanoのアレ」/「成城トランスカレッジ!」/「カマヤンの虚業日記」/本田由紀/古鳥羽護/「フリーターが語る渡り奉公人事情」/保坂展人/茅原実里
 忙しくて更新する暇がないよ…。

 kitanoのアレ:ジェンダーフリーとは/暴走する国会/憲法調査会報告書
 成城トランスカレッジ! -人文系NEWS&COLUMN-:ageまショー。
 カマヤンの虚業日記:「霊感詐欺する権利」なんか存在しない

 グーグルで「ジェンダーフリー」を検索すると、自民党のプロジェクトだとか(統一教会の機関紙である)「世界日報」の記事とかが上のほうにヒットしてしまうそうです。で、それらの記事は、徒に「ジェンダーフリー」を危険視したり、あるいは陰謀論まで持ち出して的はずれの批判をしたり、というものが多いようです。私はこの手の言説を、産経新聞社の月刊誌「正論」でよく読むのですが、こういう言説を展開する人たちの歴史観を疑いたくなりますね。結局のところ「自分が理解できない奴らが増えたのは自分が判定している政治勢力の陰謀だ!!」って言いたいだけでしょ。こういう人たちは、酒場でのさばらせておく分には害はないのですが、実際の政治に関わっているのだから無視できない。

 そこで「成城トランスカレッジ!」の管理人が発足したプロジェクトが「ジェンダーフリーとは」というウェブサイトです。このサイトは、「ジェンダーフリー」に関する論点や、それの批判に対する反駁、また混同されることの多い「男女平等」と「ジェンダーフリー」の違いなどを説明した優れたサイトです。

 しかし、「kitanoのアレ」に貼られている、自民党の「過激な性教育・ジェンダーフリー教育実態調査プロジェクトチーム」(安倍晋三座長)のバナー広告を一部改変した広告が面白い。何せ《まさかと思う訴えが父母から寄せられています。自民党は責任を持って性感染症を増やします》ですからね。ただこのようなパロディは正当性があります。というのも、性感染症など、性行為にまつわる疫病・感染症を予防するためには、適切な処置をとらなければならない。従って、それに関する知識も必要になる。ところが自民党の推し進めている性教育とは、「性行為は害悪だ」「性行為はするな」の一点張りのようです。

 社会学者の宮台真司氏が、数ヶ月前の「サイゾー」で、宮崎哲弥氏との連載対談において、「「過激な性教育」が問題だというが、それで初交年齢が上昇したり、性感染症が阻止できたら問題はないのではないか」といっていた記憶がありますが、こういう認識に照らし合わせて自民党のプロジェクトを考えてみると、「たとえ自分たちが望む結果になったとしても(社会的問題が解決されたとしても)、自分の望む手段で解決されなければ嫌だ」ということになるのでしょうか。

 これに関してもう一つ。

 成城トランスカレッジ! -人文系NEWS&COLOMN-:名コンビ。
 この「反ジェンダーフリー」の旗手である、高崎経済大学助教授で「新しい歴史教科書をつくる会」現会長の八木秀次氏と、「つくる会」初代会長の西尾幹二氏の対談本『新・国民の油断』(PHP研究所)が書店に並んだとき、私は軽く読んでもうこの手の議論には付き合いたくないや、と思ったのですが、こんなに面白い俗流若者論の本だったとは。あとで読んでみようかなあ。

 ついでに、私のブログでも八木秀次氏に関して言及したことがありますので、参考までに。

 「俗流若者論ケースファイル25・八木秀次

 さらにこの「つくる会」や、自民党の右派系の国会議員が推し進めている教育基本法改正について言うと、東京大学助教授の広田照幸氏が最近『《愛国心》のゆくえ』(世織書房)という本で、その「改正」について批判的に検証しております。お勧め。

 まだまだ教育の話。

 もじれの日々:記事群(本田由紀氏:東京大学助教授)

 本田氏が引いている調査について。

*「幼児の就寝時間早まる 積み木・泥遊び増/「遊び相手は母親」8割 首都圏対象のベネッセ調査」
 これはたぶん、ハイパー・メリトクラシー(「人間力」みたいなもん重視)下における家庭教育指南言説の蔓延の影響だ(近刊拙著第1章・第5章参照)。それにしても平日に一緒に遊ぶ人が、「きょうだい」「友達」が10年間に10%減った代わりに「母親」が55%から81%まで急増しているのはすごい。子供の「人間力」(私の言葉では「ポスト近代型能力」)育成エージェントとしての重圧を母親=女性が一身に引き受け、「パーフェクト・マザー」責任を果たそうとしているのだ。しんどいことだ。

 本田氏のコメントは、至極正鵠を衝いているものだと思います。青少年問題をめぐる言説については、どうも最近になっても依然として「本人の責任」「親の責任」を強調するのが多い。こういう「責任」、特に「親の責任」を強調するものについては、過剰に親に求めすぎるようになり、親が社会的な支援、第三者による支援を受けるチャンスを奪ってしまう。

 最近は「健全な規制の下に健全な精神が育つ」みたいな意見がはびこっていますからね。子供が「健全」に育つためには、国家や親によって適切に「指導」されなければならない、と。若年無業者対策にしても、最近なぜか強調されるのは職業能力ではなく「適切な職業観」ですからね。精神こそが大事である、という考え方には一理あるとは思いますが、それが行き過ぎると過度の教育主義にならざるを得ない。

 ついでに言うと、本田氏の言うところの《「パーフェクト・マザー」責任》については、広田照幸氏が分かりやすくまとめておりますが(広田『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書)、最近は「「パーフェクト・ファザー」責任」みたいなものも出てきているようで怖い(例えば「父親の育児参加」議論の一部とか)。

 もう少し教育の話を。

 フィギュア萌え族(仮)犯行説問題ブログ版:10月13日「どうやってゲームを規制するのか?」と、中立性を欠いたNHKの報道(古鳥羽護氏)
 この手の報道にはもう飽き飽きしました。マスコミは、早く最近のメディア規制論が政策的判断ではなく「「世間」の身勝手」「為政者の身勝手」によって推し進められていることを理解したほうがいい。

 明日の宮城県知事選挙にも、松沢“ゲーム規制”成文氏と中田“行動規制”宏氏が推薦を表明している人が出馬しているからなあ(ちなみに新仙台市長の梅原克彦氏はこの人を推薦しております)。対抗馬は現在の浅野史郎知事の路線を継承、そのほか片山善博氏なども推薦し、民主党と社民党の推薦を受ける人。ただ、浅野知事もどうやらゲーム規制には前向きのようで、いくら民主党と社民党が推薦しているとはいえ注視しなければならない。あとは共産党推薦の人。共産党もメディア規制に関しては怪しいところが多いからなあ。今回は投票はあまり乗り気ではない。まあ行きますけどね。一応私は民主党(もう少し詳しく言えば民主党左派、あるいはメディア規制反対派)支持だし(ただ党幹部に枝野幸男氏が入らなかったのが残念だけど)。

 あと、このエントリーで気になったのがコメント。ちなみにこのコメントは「フリーターが語る渡り奉公人事情」の管理人によるもの。

上の世代のなかでメデイア・リテラシーの低い人たちは、ひきこもりとニートとフリーターの区別もつかずに勝手に人をバケモノにしたてあげ、取り乱したり、攻撃したり、他人の権利を不当に制限したがったりしています。若者の自立を支援する団体のなかには、大学生の不登校まで治療の対象とみなすところもあるくらいです。

わたしが、以前マスコミ報道にかつがれて連絡した団体も、大学生不登校とフリーターと引きこもりとニートの区別もつかないまま、いまどきの若者全般が反社会的で未熟でだらしないとの前提にたって、道徳的な説教をしていました。なんと、それらは反革命だという政治的弾圧さえしていました。

 で、この書き手自身のブログにおけるエントリーが次のとおり。

 フリーターが語る渡り奉公人事情:反革命ばんざい!
 このブログの管理人が間違って参加してしまったあるセクトについての話なのですが、この文章を読んでいる限り、少なくともこのセクトは運動によって社会を変革することを目的としている、というよりも運動が自己目的化している、と言ったほうがいいでしょう。要するに、仲間と一緒につるんで運動することによって「感動」を得ることこそが究極の目的である、と。この団体に関して、重要なのはむしろ「感情を共有できる人」であり「共同幻想」である。この団体が、「ひきこもり」の人たちを過剰に排撃するのは「共同幻想」を共有できないから、ということで説明できるのではないでしょうか。

 それにしても、この「共同幻想」論、もう少し論理の展開の余地があるような気がするなあ。例えばつい最近短期集中連載という形で批判した民間コンサルタントの三浦展氏の著書『「かまやつ女」の時代』(牧野出版)や『下流社会』(光文社新書)の問題点もこれで説明できるような気がする。要するに、三浦氏の理想とする「高額のものを消費するための自己実現(としての就労)」みたいな流れにそぐわない人はみんな「下流」とか「かまやつ女」みたいに罵倒されてしまう、という感じ。

 ついでにフリーターや若年無業問題に関わる本の書評ですが、最近忙しいので、11月中ごろになってしまう予定です。一応、前回(10月12日)からの進行状況は次のとおり。

 読了し、書評も脱稿したもの:丸山俊『フリーター亡国論』ダイヤモンド社
 読了したが書評を書いていないもの:浅井宏純、森本和子『自分の子どもをニートにさせない方法』宝島社、小島貴子『我が子をニートから救う本』すばる舎、澤井繁男『「ニートな子」を持つ親へ贈る本』PHP研究所

 あと、予定していた、小林道雄『「個性」なんかいらない!』(講談社+α新書)の検証ももう少し遅れます。最近だと、「週刊文春」などで「ゲーム脳」の宣伝に努めている、ジャーナリストの草薙厚子氏が『子どもを壊す家』(文春新書)という新刊を出したそうで。こちらもチェックしておく必要がありそうです。

 保坂展人のどこどこ日記:止まれ、共謀罪(保坂展人氏:衆議院議員・社民党)
 カマヤンの虚業日記:[宣伝]「『不健全』でなにが悪い! 心の東京『反革命』」
 どうも最近、きな臭いことが多いなあ(共謀罪とか、メディア規制とか)。「心の東京「反革命」」に関しては、米沢嘉博氏(コミックマーケット準備会代表、漫画評論家)と長岡義幸氏(ジャーナリスト)が発言するそうなので、参加したいのですが、いかんせん金がない。私は仙台在住なので。

 こんなときは、河原みたいなどこか人気の少ないところに行って夕陽でも眺めながら何も考えずに座っていたい。

 minorhythm:どこまでも…(茅原実里氏:声優)
 《あまりにも綺麗で、ほんの少しだけ切なくなって…ほんの少しだけ優しい気持ちになって。》とは茅原氏の言葉。こういう感動を味わうことのできる場所があればいいのですが、最近の青少年政策を見ていると、青少年からこういう場所を奪ってしまうのだろうなあと憂鬱になる。家庭も親と青少年言説による監視の眼が日々強くなっている。青少年言説の支配する社会とは、子供から全ての逃げ場を奪い「適切な」監視の下で「適切な」道徳が育っているかのごとき幻想を「善良な」大人たちに抱かせるものに他ならないのです。で、少年犯罪やら何やらが起こると「まだまだ監視が足りない!」と言い出す。今のままの青少年政策はループです。

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2005年10月12日 (水)

トラックバック雑記文・05年10月12日

 今回のトラックバック:木村剛/ハラナ・タカマサ/古鳥羽護/田中秀臣

 さて、どうしたものか…

 週刊!木村剛:セロトニンと食生活と希望格差社会(木村剛氏:エコノミスト)

 このような文章が引かれていました。

 身体と精神(こころ)は切り離して考えていいものでもない。体の調子が良くない、何らかの病気に罹っているのに、楽しい気分を持続していられる人はまずいない、と言ってもいいだろう。酒を飲み過ぎて翌日二日酔いになって、それで気分がどうも優れないっていう症状も、セロトニン不足、つまり生理現象であり、基本的に「心理的な抑圧云々・・」などの話とは関係がない。「こころが全て脳のはたらきに依るものだ」なんてことは言わないが、自分のこころ・精神状態に脳内の神経伝達物質が関係しているのは事実であり、その神経伝達物質の量に影響を与えるのは普段摂取している飲食物であり薬である。(重度な精神障害には遺伝もかなり関係しているようだが)勿論、対人関係も含めた周囲の環境も影響を与えている訳だが、こころの不具合をこころの問題としてだけ捉えるのはやはり宜しくない。

 このような考え方に木村氏は難色を示しているのですが、木村氏とはまた違った考え方からこのロジックを批判してみると、このような決定論・還元論はともすればレイシズム(人種差別)となりかねない。そもそもこのような考え方に依って立てば、元々脳に「有害である」食べ物を摂取していたりとか、あるいは行動をとっている人は、おしなべて犯罪者にならなければならないはずです。しかし現実には、我が国において少年が凶悪犯罪を起こす割合は減少している。

 このようなロジックの問題点は、現実に見える範囲で言うと、いつの間にか原因と結果が逆転して、結果から「原因」を特定できるかの如き錯角に陥ってしまう。日大の森昭雄教授などはその典型ですね。何か「問題」が起こると、その人がゲーマーであるか否かに関わらずすぐに「ゲーム脳」と断定されてしまう。要するに、「「今時の若者」はゲームばかりやっているから、脳に問題が起きていても仕方ないんだ」という論理が先行してしまい、実証がないがしろにされてしまうわけです。

 最近「俗流若者論ケースファイル73・別当律子」という文章を公開したのですが、これで検証した記事も、実証ではなくむしろステレオタイプが先行している。

 ちなみに、「タカマサのきまぐれ時評」(ハラナ・タカマサ氏)でも、「食育イデオロギー1」という記事が公開されており、この分野について考える上では必読といえるものに仕上がっています。

 フィギュア萌え族(仮)犯行説問題ブログ版:10月2日、バンキシャ!「ニート合宿密着80日間の記録」を報道する(古鳥羽護氏)
 田中秀臣の「ノーガード経済論戦」:玄田有史『14歳からの仕事道』(理論社)+ニート論の弊害(再録)(田中秀臣氏:エコノミスト)

 田中秀臣氏は、ここで採り上げた文章で玄田有史氏を批判しておりますが、田中氏は、旧来の「対策」、すなわち課税によって教育や労働へのインセンティブを高めたり、あるいは就職相談所の強化では若年無業の問題は解決できない、と述べております。実に見事な批判だと思います。

 玄田氏が若年無業の問題を提起したことは問題であるとは思いません。しかし問題なのは、源田氏の提起したこの問題を、さも若年層を「叩いていい」メッセージであると種々の論者が「誤読」し、結局のところ「ひきこもり」「フリーター」と同じように若年層を叩くための「記号」と化してしまった。その点で玄田氏を責めることはできませんが、責められるべきはそのような「誤読」を種々の理由をつけて正当化した人たちです。

 その点では、「ニート」言説を取り扱うときでも、まず「ひきこもり」「フリーター」、及びその底流として存在している「自立できない若者」イメージを常に意識しなければならない。私はこのたび、「ニート」言説に関する研究を行なっているのですが、もう少し育児書などの分野にも手を広げてみる必要があるのではないか、と考えております。

 蛇足ですが、平成17年5月19日付朝日新聞で紹介されて、最近何かと話題となっている、鳥居徹也『フリーター・ニートになる前に読む本』(三笠書房)を読んだのですが、どうもこの本はフリーターになる割合の高い社会階層の人たちを軽視しているのではないか、と思えてなりませんでした。というのも、この著者がフリーターも若年無業の問題も、教育で解決できる、と信じ込んでいる節がある(すなわち、教育が歪んでいるからこそフリーターと若年無業者が生まれていると思い込んでいる)からです。しかし、小杉礼子氏とか本田由紀氏などが説明している通り、フリーターになる割合の高い社会階層の人たちは同時に若年無業者になる割合も高い。この期に及んで精神論や短視眼的な教育論を振りかざしている人たちは、もう少し企業や雇用、あるいは職業斡旋システムとしての学校の機能をもう少し見て欲しい。

 あと、フリーターや若年無業に関わる本ですが、前回(10月1日)から進展したのは次のとおり。
 読了し、書評も脱稿したもの:小杉礼子『自由の代償/フリーター』日本労働研究機構/小杉礼子『フリーターという生き方』勁草書房/矢幡洋『働こうとしない人たち』中公新書ラクレ
 読了したが書評を書いていないもの:鳥居徹也『フリーター・ニートになる前に読む本』三笠書房/玄田有史、小杉礼子『子どもがニートになったなら』NHK出版生活人新書

 読書がらみでは「2005年7~9月の1冊」もよろしく。

 最後に…。

 先月末に、短期集中連載という形で、民間コンサルタント代表の三浦展氏の著書を3回にわたって批判したのですが、そのコメント欄における、私への批判に対する反論を書いておきます。

 まず、私の三浦氏への批判において、結局のところここ最近の諸著作を通じて三浦氏が何をしたかったのか、何を言いたかったのか、ということが伝えられなかったのであれば、それは私の責任です。まずその点について触れさせていただくと、三浦氏の語っている「格差社会」とは、「上昇志向格差社会」、言い換えれば(山田昌弘氏とは別の意味での)「希望格差社会」と言えるのではないかと思います。検証した3冊(『ファスト風土化する日本』『仕事をしなければ、自分はみつからない。』『「かまやつ女」の時代』)に加え、『団塊の世代を総括する』(牧野出版)と『下流社会』(光文社新書)、更に今月の「中央公論」の論文を読んでみると、『ファスト風土化する日本』を除けば「上昇志向を失い、「自分らしさ」なるものに拘泥する「今時の若者」」が問題化されているのが分かりますし、『ファスト風土化する日本』では、三浦氏が「地方のジャスコで農村型の消費文化を享受し、東京を遊ぶ場所としてしか考えない「今時の若者」」を、ところどころで問題化しているのが見て取れます。すなわち、三浦氏は上昇志向こそが社会を活性化させるものであり、それを失った人たちは頽廃的である、と考えている節がありそうです。

 三浦氏は「上昇志向を失った」人たちを批判し、例えば「お前の考えは単なる「楽ちん主義」でしかないからとっとと就職しろ」などといったことを言いますけれども(『「かまやつ女」の時代』/これはあくまでも要旨です)、だからといって上昇志向を持って大企業に就職した人も、いつ失業してフリーターになるかわからない。端的に言えば、三浦氏は「上昇志向を失った」人たちに対してはリスクばかり強調しますが、そうでない人たちに対してはリスクをほとんど無視している。また、社会の問題を個人の上昇志向の問題としてすりかえる傾向が、三浦氏は高い。

 以上が三浦氏の最近の著作に対する私の疑問です。この問題に関しては、後に稿を改めて書くつもりです(11月末頃になる予定です)。

 さて、件のコメントを全文引用してみましょう。

レスがないようなので、一方的な意見表明となりますが。

こちらのサイトを一貫するテーマは「若者バッシングへの反撃」ということらしいですが、全体を拝見して強く思ったのは、「WEBMASTER以外の若者が全く出てこない」という点に尽きます。後藤さんの文章からは、「若者の代表」たる(なのか?)後藤さんと、次々と現れては切り捨てられてゆく論者たちの姿しか見えないんですね。

大人が「今ドキの若者」について論じる場合、こう言っちゃなんですが、後藤さんみたく勉強ができて品行方正な一部の若者は「対象」に入ってないんです。これはもう暗黙の了解と言ってもいい。対象を「世代」で括るという乱暴なカテゴライズをする限り、平均的マジョリティに着目するしかない。あるいは特にサブカルチャー論の場合、平均「以下」に積極的に着目することも多い。

後藤さんがいかに「自分以外の若者」に対して関心がないかは、次のような下りからも察せられます。「いわゆる『コギャル』である。この人種は既に絶滅したんかいな、と思っていたら平成17年9月25日のTBS系列(宮城県では東北放送)『さんまのSUPERからくりTV』で出てきて驚いた」。最初読んだ時、このブログ書いてるのはすげえオヤジか?と思いましたもん(ウソだけど)。
毎回の締めくくりも、「・・・という私自身も、そうした若者のひとりだったわけだ」という、文脈無視の牽強付会が目立ちます。別にあなたみたいな方は勘定に入ってないって(笑)。

要するに、「今ドキの若者たち」に対して最もリスペクトを欠いているのは後藤さん自身だろう、ということです。少々バッシングしようが批判しようが、一生懸命に観察している論者たちの方がまだましとも言える。後藤さんの場合は視野にすら入ってないわけですからね。

そう考えると、世の若者バッシングを全て自分に向けられたバッシングであるかのように一身に受けて立っておられるこのサイトの成り立ち自体も空恐ろしくなってくる。これは巨大なモノローグの体系なのではないか、とね。
・・・いや、そういう「他者」を全く欠いた世界を容易に築き上げてしまうところが、後藤さんもまた正しく「今ドキの若者」なのかもしれませんが(笑)。

 まず第2段落についての反論ですが、《全体を拝見して強く思ったのは、「WEBMASTER以外の若者が全く出てこない」という点に尽きます》というのは全く正しい指摘ではあります。しかし、それがなぜ問題なのかが分からない。そもそも私が批判・検証している一連の文章は、誰かを名指しで批判しているというわけではなく、ただ漠然とした「世代」の存在を前提としており、私はそのような言説に対して彼らの無視しているようなデータを提示したり、あるいは彼らの振りまいている論理がどのような問題を引き起こすか、ということを社会学の論説などを用いて論述しているので、あくまでも相手は個々の言説であり、具体的な事例を提示して批判するような論述スタイルは選択肢の一つとしては存在しても、絶対それをして言い訳ではない。また、私の論述で、例えばフリーターや若年無業者の状態で苦しんでいる人たちが救われるのであれば、それは望外の幸せであります(現にそのようなメールを受け取ったことがありますし、そのような趣旨の発言を行なったブログの管理人もいます)。ついでに言うと、私は成人式がらみで、自分以外の同世代を実名を挙げて出したことがあります。

 続いて第3段落に関してですが、これはどうも問題の設定自体に問題があるのではないかと思います。つまり、《後藤さんみたく勉強ができて品行方正な一部の若者》(蛇足ですが、私は別に自分のことをそのように思ったことはありません)と《平均的マジョリティ》を対比させている時点において、私の議論を理解できていないのではないかと。要は私は、《平均的マジョリティ》は本当にマスコミで面白おかしく採り上げられている「今時の若者」なのか、という問題を前提として議論を進めています。なので、第3段落のような批判は、単に「今時の若者」というステレオタイプにすがっている人の的はずれな攻撃でしかありません。

 第4段落に関しては後に述べることにしますが、第5段落で述べられている《毎回の締めくくり》(実際には三浦展研究の中編と後編でしか行なっていない)は、単なるジョーク、あるいは皮肉のつもりで書いています。もちろんそうであることが伝わらなければ私の責任であるし、また品のないジョークであると感じられたのであれば反省します。

 そして第4・6・7段落においては私の執筆態度を問題にしておりますが、これではもはや単なる個人攻撃、私に対する誹謗中傷でしかないような気がします。もしこの書き手が正しいのであれば、なぜ私は青少年を「疎外」する言論体系としての若者論を問題化するのか。もちろんこれは個人的動機なのですが、あくまでも「若者論」ばかりが幸う状況下においてセカンド・オピニオンを提示しなければならない、という一種の自惚れの混ざった問題意識から出発しております。私は決して「自分以外の若者」に無関心なのではなく、一般に「叩いてよい対象」とされている同世代の一部の人々に対して、彼らを問題化しようとすると私が検証している人たちと同じ穴のムジナになってしまうので、あまり問題化せずに、彼らを批判する言説を叩いているだけです。

 このコメントの書き手は、巷で採り上げられている「今時の若者」を批判しない限り問題を論じたことにはならない、と考えている節があるようです。

 私がメールやコメント、トラックバックなどにおいて批判を受けたのはこれが初めてではありません。例えば「俗流若者論ケースファイル」の第24回で小林節氏を批判したときも、文章が冗長すぎるという旨の批判を頂きましたし、8月に「俗流若者論ケースファイル」を25回連続で書いていたときも、友達から文章が過激になりすぎている、という批判のメールを頂きました。私自身、このブログが「若者論マニアの若者論マニアによる若者論マニアのためのブログ」となっているのではないか、という危機感もあります。ですから、私が若者論マニアであるという立場は堅持しつつも、より広く一般の人たちの判断材料となるように、努力していくつもりです。

 しかし今回寄せられた批判は、批判の領域を越えており、単なる個人攻撃、誹謗中傷にしかなっていない。これ以降、もし同様の中傷を行なってくるのであれば、反論した上で何らかの制限を行なうかもしれません。

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 (追記:平成17年10月13日1時40分)
 このエントリーで述べた私への批判に対する反論に、再反論を頂きました。しかし、その際反論も、まだ納得できるようなものではありませんでした。

 まず、このコメントの書き手は、私が自分以外の若年を例示しないことを問題視しており、私はそのようなことに関して「同じ穴のムジナになってしまう」と書きましたが、これにはもう少し補足が必要なようです。

 私がなぜ身近で具体的な事例をあまり出さないかというと、もしこちらが「こういう人もいるから、あなたの前提は間違っている」と主張した場合、相手が「しかし、こういう人もいるから、自分の前提は間違っていない」と主張してくる可能性が高い。そうするとこちらもまた誰かを引き合いに出して、相手の前提を突き崩す必要がありますが、そうするとまた相手も自分の論理を正当付ける証拠を出してくる可能性がある。そうすると、無限ループになってしまい、結局のところ単なる「情報戦」になってしまいますが、そのような「情報戦」に陥ってしまうようなことはなるべく避けるべきではないでしょうか。

 ですから、私は極力、巷で若年層を叩いている論者が、どのような「視線」を若年層に、更には現代社会に向けているかを検証しています。また、具体的な事例が求められる場所においては、信頼できる統計データを出して反証してきました。もちろんその統計データに関しても、引用する際は極力慎重にならなければならないのですが。

 本来は個別に解決すべき問題や、あるいはシステムや社会構造の欠点に目を向けるべき問題を、私が問題にしている「若者論」は安易に世代論と絡めてしまい、たといそれが根拠の不確定な因果関係であっても、ステレオタイプの下に認めてしまい、短絡的な「結論」しか生み出さない。私はそのような言論体系をこそ撃つべきであると考えております。

 この文章を書いているうちに、ここで問題にしているコメントの書き手とは別の書き手から、件のコメントの書き手に次のような批判がなされていました。

クラブとかストリートにいる子が「ナマの」若者だと言い切っている時点で、あなたも十分視野が偏狭だと思いますよ。誰が若者の代表性を保っているかという問題は、そう簡単に論じられることではないはずです。

 ここまで明確に言い切られると、もはや私の出番はないような気がします。もとより、件の書き手が、以前のコメントにおいても《そもそも、「地方や若者がヤバいことになっている」と指摘することがどうして「偏見」になるのかサパーリわかりません。だって事実じゃん、と(笑)》と書いていることを考慮しても、この論者があらかじめ若年層の「代表」を設定していることが見えてきます。私はある階層の人を安易に「代表」として持ち上げていいのか、という問題意識でこのブログを運営しておりますので、この書き手がこのような態度に終始している限り、もうこれ以上言い合っても結局は水掛け論になるだけではないでしょうか。

 もちろん、誰もが私の問題意識の前提に賛同してくれる必要はありません。ただし、このような問題意識を少しでも多くの人に共有してもらうためには、ブログで文章を大きく公開する、というあり方は有効に思えます。誰もこのブログを見ることを強制していませんから、もし論調が気に入らないのであればそれ以上関わらない。それでいいのではないでしょうか。

 最後に。私が件の書き手の、私に対する批判が、単なる批判の度を越えている、と判断したのは、私に対する嘲笑的な表現が見られるからでもあります(先ほど採り上げた部分もそう)。これでは、単なる批判を通り越して、もはや私に対する侮辱にしか見えない。批判は歓迎しておりますが(現に批判も数件頂いております)これ以上そのような中傷に終始するようであれば、私も然るべき措置を採ろうと思います。

 (追記:平成17年10月13日)
 本当に、これが最後です。

 まず、先ほど頂いた、私及びここで問題にしているコメントの書き手とは別の書き手による、件のコメントの書き手への批判に対して、更に反論を頂きましたが、むしろ支離滅裂としか言いようがありませんでした。例えば《「若者論」というのは真ん中かそれより下を対象として論じるものなんです。これは「お約束」です。それがまずいと思われるなら、そのこと自体を問題にされたらいかがでしょう》とおっしゃっておりますが、それは既に行なっております。もしお疑いになられるようなら他のエントリー(例えば「俗流若者論ケースファイル」シリーズ)をご覧になってください。私が決して、この書き手の言うところの《最初から度外視されている若者の中の上澄み層》ばかりに着目しているわけではありません(そもそも、私がそのような層に着目しているのであれば、「若者論」の「お約束」に楯突いていることになりはしませんか)。

 また、この書き手は、私が社会階層の問題を論じていることに対し、その人たちの実情を知れ、としきりに言っております。しかしながら、私が問題にしているのは、ここで問題にしている社会階層の人たちの置かれている社会環境を問題にしているのであって、何もその社会階層に属する人たちの「属性」を論じているのではありません。それとも、この書き手は、「そういう人たち」と顔を合わせて、「これではフリーターや若年無業者になるのも仕方がない」と思わせて、それについて論じることをやめろ、というのでしょうか?

 また、更にコメントが書かれてありましたが、私が安易に世代の「代表」を捏造してはいけない、と主張するのと、フリーターになる傾向が強い社会階層について論じることは矛盾する、とあります。しかし、どこが矛盾するのですか?あくまでも私はその階層が置かれている社会環境の問題として書いているのであって、決して彼らを若年層の「代表」として祭り上げているわけではない。

 もう、これ以上水掛け論を続けるつもりはありませんし、この書き手がこれ以上他人を(なぜこのような書き方をしたのかというと、この書き手は私のみならずこの書き手をコメント欄で批判した人や、更には若年層全体を見下しているように見えたからです)見下した態度をとるのであれば、苦渋の判断ではありますが、以下の措置を採らせていただきます。

 ・件の書き手によるコメントを全て削除する。
 ・これ以降、この書き手によるコメントは無視する。また、コメントは見つけ次第削除する。

 もう、これ以上関わる必要はないと判断した上での決断であります。

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2005年10月 1日 (土)

トラックバック雑記文・05年10月01日

 今回のトラックバック:「冬枯れの街」/栗山光司/「kitanoのアレ」/本田由紀/茅原実里/保坂展人

 ※トラックバック先への誤解を避けるため、今回以降、雑記文では誰の(どの)ブログにトラックバックするかを明記しておきます。

 冬枯れの街:「いつから私は人を信じることができなくなってしまったのかしら。」

 すっげえのを見つけたので紹介しておきます。

 産経新聞:「反進化論」米で台頭 渡辺久義・京大名誉教授に聞く

 反進化論、創造論とは、とっくの昔に米国でも論破されきっているのですが(詳しくは、マーティン・ガードナー『奇妙な論理』(ハヤカワ文庫)を参照されたし)、それを俗流若者論的な理由でもって再現させようというトンデモナイ人が登場してしまいました。まあ、確かに、《教科書に書くなら「ダーウィンの進化論に沿って考えるならば」と、仮説の紹介にとどめるべきです》という物言いには理解を示しますけれども(例えば進化論に関してもさまざまな学説が存在する)、これ以降の論理が本当にブッ飛んでいて、おかしい。

 ――日本の学校でも教えるべきですか?
 思考訓練として教えるべきです。でないと日本人の頭は硬直したままです。それに「生命は無生物から発生した」「人間の祖先はサルである」という唯物論的教育で「生命の根源に対する畏敬(いけい)の念」(昭和四十一年の中教審答申「期待される人間像」の文言)がはぐくまれるわけがありません。進化論偏向教育は完全に道徳教育の足を引っ張るものです。

 エエエエエエエエエエ!

 俗流若者論の恐ろしさについては私も何度も言及してきましたけれども、まさかここまで来ているなんて思わなかったでありますよ。俗流若者論に基づいたダーウィン否定なんて、私には考えもつかなかった。なんですか、《「生命は無生物から発生した」「人間の祖先はサルである」という唯物論的教育で「生命の根源に対する畏敬(いけい)の念」……がはぐくまれるわけがありません。進化論偏向教育は完全に道徳教育の足を引っ張るものです》って、ダーウィンの進化論を教えることは道徳の崩壊につながる、って、アホかあ!!!

 あのね。これはあんたの教養がいかなるものか、ということにつながっているんだけれども、もし生物を創造した「あるもの」を仮定しなければならないとするならば、それが誰によって作られたのか、ということについても考えなければならないんだよ。で、それを仮定すると、また「あるもの」を創造した「あるもの」を仮定しなければならず、更にそれを仮定すると「あるもの」を創造した「あるもの」を創造した「あるもの」を仮定しなければならず…、って、無限ループになっちまうんだよ。

 しかもダーウィンの進化論を教えたら道徳の崩壊につながる…、って、結局のところは俺の主張を認めてくれ!!って駄々をこねてる野郎が青少年問題にかこつけて言ってるだけでしょ。

 あとさ、この人たちが歴史を知らないこともこの記事は如実に表しているね。記事の中で、聞き手たる産経の渡辺浩記者は《米国では親の教育権とも関連して進化論批判の歴史がありますが、日本の教育界に持ち込もうとすれば「非科学的」と猛反発されます》などといっているけれども、米国においてなぜ進化論批判が展開されたか、というと、結局のところ原因は宗教右派なんよ。詳しくは『奇妙な論理』の上巻の109ページ~140ページを見てほしいんだけれども、例えば116ページにおいては、キリスト教のプロテスタント教会はダーウィンの進化論の発表直後から進化論を攻撃しまくっており、『奇妙な論理』が書かれた1950年ごろまでに進化論批判の著作を《数千冊にのぼる》(『奇妙な論理』上巻116ページ)ほど出しているようだ。そういうことを参照しないで、何が《親の教育権とも関連して進化論批判の歴史がありますが》だ。

 っていうか、本気で検証しようかなあ。「俗流若者論ケースファイル」のシリーズにこれが入るかもしれません。っていうか、早く東京新聞の総選挙分析の検証をやれ、俺。

 千人印の歩行器:[生活編]禁煙より禁酒?(栗山光司氏)
 所謂「禁煙ファシズム」に関しては、私は酒はほとんど飲まないし煙草は全く吸わないのですが、それでも「禁煙ファシズム」の怖さは良く分かる。ただ、これに反対するロジックとしては、例えば飲酒や自動車のほうが実害が大きいじゃないか、というものもいいのですが、もう一つ、何か抽象的な次元での話が必要だと思います。

 ここで必要なのは、公共空間に関する議論でしょうね。なぜ、喫煙はとがめられるべきなのか、と。あるいは、なぜ、分煙化による共生ではいけないのか、と。もし煙草にも少なからず健康に被害があるとすれば、煙草の煙が充満しないような部屋で喫煙できるようにすればいいのではないか、ということです。

 単なる道徳的基準(とか言っておきながら、実際は自分の好き嫌い)によって公共における行為を決めてしまう、という行為は、最終的にはポピュリズムとならざるを得ず、その先にファシズムが待っている。公共空間とは、本来、理解できない他者と共生しなければならない空間のことを言う。そこでいかに共生のための知恵をしぼれるか、ということで、空間の使い方や公共建築の設計はスタートします。要は、必要なのは「大人の対応」というわけです。つまり「私はお前の言うことは嫌いだがお前がものを言う権利は認める」というもの。自分の好き嫌いによってある行為や言論、表現に対する弾圧を認めようとするならば、それによって自分も弾圧されるかもしれない、ということに対して想像力を働かせなければならない。素朴な弾圧派は、それが全く分かっていない。

 私だって、森昭雄とか正高信男とかいった擬似科学者の言動にはうんざりしていますけれども、だからといってこいつらを青少年に有害だから弾圧せよ、とは言わない。しっかりと論理を組み立てて、その誤謬を地味に指摘していくしかない。また、過去にも何度か言ったとおり、私は過激な性描写はあまり好きではありませんが(むしろ嫌いですが)、刑法犯が発生していない範囲ではその存在を認めるほかない(また、アニメや漫画における過激な性描写に関しては、被害者となる実物が存在しないので、刑法を楯にした規制はできない)。それが戦略的に採るべき態度です。

 でも、こういう人や、それを支持する人たちは、そういう抽象的な議論に対して想像力を働かすことができないのでしょうかね。

 kitanoのアレ:石原都知事施政方針演説「ゲームを規制するため協議会を設置する」
 私は、石原氏がゲーム規制を訴えることに関しては、ある程度予測はついておりました。詳しくは「俗流若者論ケースファイル11・石原慎太郎」「俗流若者論ケースファイル34・石原慎太郎&養老孟司」を参照していただきたいのですが、石原氏がゲームを敵視しているのはこれらで取り上げた文章を読めば分かります。

 それにしても、どうしてこの手の人たちって、ゲームをやる子供たちを犯罪者予備軍に仕立て上げないと気がすまないんでしょうかね。

 もじれの日々: 反「ニート論」論+往復メール(本田由紀氏:東京大学助教授)
 おおよそ、「ひきこもり」やパラサイト・シングル、及び若年無業者に対する素朴な批判は、結局のところ「経済の論理」と「親の論理」にしか基づいていない、極めて感情的でネガティヴな論理でしかありません。「経済の論理」で言うと、これは「Yomiuri Weekly」の平成17年8月14日号の「ニート家庭「凄絶」白書」なる記事が図らずも(図っているのかも?)示している通り(この記事に関する検証は「俗流若者論ケースファイル43・奥田祥子&高畑基宏」で)、要はそういう奴を抱えている家庭は速めに経済的に破綻するから、早く追い出したほうが身のためだ、ということになる。また、「経済の論理」に関して言うならば、もう一つはこのような人たちが税金泥棒と見なされること。要するに、こいつらは税金は払っていないのに社会保障費や年金は高齢化によって減っていく一方、だからこいつらを就職させなければ財政は破綻する、あまつさえ少子化だからなおさら、という論法。どうしてここで財政のスリム化や効率化という提言が出てこないのか。

 もう一つは「親の論理」。要するに、お前は今まで親に養ってもらったんだから、就職してその恩に報いなければいけないと。しかしそういう考えが蔓延しているからこそ逆にひきこもってしまう、というパターンも多くあるのです。要するに、自分は親に迷惑をかけている、自分はなんて駄目な人間なんだ、と思いつめた上での「ひきこもり」。こういう状況が存在する中で、更に教育に「愛国心」の強制なんて入れてしまったらもっと窮屈になるのは間違いありません。解決策としては、そういう「親の論理」による圧力を少しでも和らげる手段がありますが、例えば地域通貨でそれを行なっている自治体もあるようです(川戸和史「引きこもり癒す地域通貨の力」=「AERA」2002年9月23日号、朝日新聞社)。

 更に言っておきますと、どうやら多くの人は、「ひきこもり」もフリーターもパラサイト・シングルも若年無業も、「状態」を表すのであって決して「病理」ではない、ということに対する認識があまりにも欠けているようです。そういう認識の欠如状態があるからこそ、例えば「ニート」という言葉に関して言うならば、「ニート予備軍」「社内ニート」「TEET」といった誤用がたくさん出てくるようになる。「ひきこもり」だって「ひきこもり型」だとか「ひきこもり親和型殺人」などといった変な言葉で誤用されている。

 「ひきこもり」は生物学的に言って発達を阻害する、などと主張する言説もある。しかもどういうわけ過疎のような言説の発信元はことごとく中央公論新社だったりする(笑)。ことごとく、といっても、まあ2冊なのですがね。一つは、一応我がブログの最大の仮想敵である、京都大学霊長類研究所の曲学阿世の徒・正高信男の『ケータイを持ったサル』(中公新書)。もう一つは、最近出された、元京都大学霊長類研究所所長の杉山幸丸氏の『進化しすぎた日本人』(中公新書ラクレ)。これらの「科学的」社会論(若者論)に共通しているのは、社会という視座がないこと、あるいは社会学というバランサーがないことです。単純に霊長類学のアナロジーを「今時の若者」に当てはめて安易に語ろうとすると、この2冊のようなトンデモ本になってしまう。社会という視座を喪失すると、結局擬似生物学に基づいて「親は攻撃的に自立を促せ」みたいな主張になってしまう。

 この話題に関してもう一つ。

 minorhythm:図書館(茅原実里氏:声優)
 現在、フリーターや若年無業の問題を取り扱った本を読んでいるのですが、あまり金のない私にとって図書館はこの研究をする上で非常に役に立ちました。茅原氏は《今はパソコンで何でも調べることができちゃうけど、こうやって実際手にとって調べていると、手に入れた情報になんだか重みがあるというか》と書いていますけれども、この問題に関する言説は、ネット上の情報ではほとんど当てにならない。ブログの日記を検索しても、大半は若年無業者やフリーターを「甘え」だとか言って「親に問題がある」みたいな結論になってしまうのがほとんど常です。「2ちゃんねる」みたいな掲示板に至っては「プライドだけ高くて実際に働いたことのないニート必死だなw」みたいな書き込みは結構見られるし。

 少々出足が遅かったので、書評を公開するのは今月末になりそうです。今のところの進捗状況は以下の通り。ちなみに書評に関しては終了次第一斉に公開する予定です(既に書評を公開している、二神能基『希望のニート』は除く)。

 書評を脱稿した本
 橘木俊詔『脱フリーター社会』東洋経済新報社/二神能基『希望のニート』東洋経済新報社
 読んだが書評していない本
 玄田有史『仕事のなかの曖昧な不安』中央公論新社/宮本みち子『若者が《社会的弱者》に転落する』洋泉社新書y/三浦展『仕事をしなければ、自分はみつからない。』晶文社/斎藤環『「負けた」教の信者たち』中公新書ラクレ/小杉礼子(編)『フリーターとニート』勁草書房/本田由紀『若者と仕事』東京大学出版会
 「積ん読」状態の本
 小杉礼子『フリーターという生き方』勁草書房/玄田有史、曲沼美恵『ニート』幻冬舎/玄田有史、小杉礼子『子どもがニートになったなら』NHK出版生活人新書
 図書館で借りてきてまだ読んでいない本
 小杉礼子『自由の代償/フリーター』日本労働研究機構/矢幡洋『働こうとしない人たち』中公新書ラクレ
 宮城県図書館で注文した本
 丸山俊『フリーター亡国論』ダイヤモンド社/和田秀樹『ニート脱出』扶桑社/居神浩『大卒フリーター問題を考える』ミネルヴァ書房/澤井繁男『「ニートな子」をもつ親へ贈る本』PHP研究所
 若林図書館で注文した本(せんだいメディアテークが館内整理のため図書館を2週間ほど休館にするため)
 学研(編)『フリーターなぜ?どうする?』学研/浅井宏純『自分の子供をニートにさせない方法』宝島社/小島貴子『我が子をニートから救う本』すばる舎
 読む予定ではあるが注文していない本
 大久保幸夫『新卒無業』東洋経済新報社/安田雪『働きたいのに…高校生就職難の社会構造』勁草書房/香山リカ『就職がこわい』講談社
 現在検討中の本
 長山靖生『若者はなぜ「決められない」か』ちくま新書/波頭亮『若者のリアル』日本実業出版社/喜入克『叱らない教師、逃げる生徒』扶桑社

 保坂展人のどこどこ日記:郵政民営化法案の不思議(保坂展人氏:衆議院議員・社民党)
 保坂氏はかつて「国会の質問王」として名を馳せた人であり、利権政治家、官僚任せの政治家ばかりの昨今にあって、数少ない実力派なのですが、郵政民営化の不思議をこのようにブログで公開して閲覧者に議論させようとする覚悟は素晴らしいと思います。とりあえず、こういう重要なことを隠してきて選挙を煽ってきたマスコミはなんなのか、と。

 お知らせ。まず以下の記事を公開しました。
 「統計学の常識、やってTRY!第6回」(9月18日)
 「俗流若者論ケースファイル71・森昭雄」(9月21日)
 「三浦展研究・前編 ~郊外化と少年犯罪の関係は立証されたか~」(9月25日)
 「三浦展研究・中編 ~空疎なるマーケティング言説の行き着く先~」(9月27日)
 「三浦展研究・後編 ~消費フェミニズムの罠にはまる三浦展~」(9月28日)
 「俗流若者論ケースファイル72・読売新聞社説」(同上)

 また、bk1で以下の書評を公開しました。
 堀田純司『萌え萌えジャパン』講談社、2005年3月
 title:世界に想像する余地を
 内藤朝雄『いじめの社会理論』柏書房、2001年7月
 title:安易な共同体主義からの訣別
 越澤明『復興計画』中公新書、2005年8月
 title:現代の美観と先人の苦悩
 森真一『自己コントロールの檻』講談社選書メチエ、2000年2月
 title:心理学主義という妖怪が徘徊している
 斉藤弘子『器用に生きられない人たち』中公新書ラクレ、2005年1月
 title:俗流若者論スタディーズVol.5 ~症候群、症候群、症候群、症候群…~

 あと、「2005年7~9月の1冊」も近いうちに公開します。今回はワーストがたくさん出てきます。
 参考までに、私が今まで書いた書評&音楽評の記事も。
 「2004年・今年の1冊
 「2005年1~3月の1冊
 「2005年4~6月の1冊
 「2004年・今年の1曲
 「2005年上半期の1曲

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2005年9月17日 (土)

トラックバック雑記文・05年09月17日

 名古屋から帰ってきたよ(帰ってきたついでに、「若者報道用語集」をいくつか更新しておいた。朝8時半頃の話だ)。

 ってゆうか、自民党歴史的大勝利オメ。これで日本が滅びるスピードが速くなったね。俺は11日の夜9時半頃まで選挙速報を見て、その時点でも自民党の議員が「当選確実」になるたびに「また自民かよ!」「民主まだかよ!」と突っ込んでたんだが、高速バスに乗って、翌日未明1時ごろに東北道・安達太良SA(高速バスの休憩時間)で速報を見たときには既に自民は280議席以上獲得してた。ああ、終わったな、と俺は思ったんだよ。せっかく俺は民主党に投票したのに。

 で、次の朝、東京のコンビニで東京新聞を買って読んだら(ちなみに12日と13日は東京にいた)、自民党295議席って出てた。ああ、終わったな、って俺は思ったよ。(ちなみに俺の地方では東京新聞は発売されてない。仙台だから当然だけど)

 しかし、東京新聞はひどすぎるね。いや、東京新聞の社説は面白いさ。問題は記事よ。12日の記事では、特に吉武輝子とかいう人が自民党の「歴史的大勝利」は若年層が小泉の扇動に乗ったせいだ、とこぼしてた。更に次の日の特集記事に至っては、「自民党を支持する20代のココロ」みたいな内容の記事が載ってたのよ。自民支持すら「ココロ」の問題かよ…。この記事ではなぜか千石保が「「改革を止めるな」は若者言葉」なんて珍説を開陳してやがるしよ。近いうちに検証するつもりだから安心しな。

 ついでに「北の系」の掲示板で面白い書き込みを見つけた。

2646 あまりにも新聞テレビのいう通り、こりゃ「くさい」な きくがわ考房  - 2005/09/14 11:12 -
ある掲示板より(小泉飯島コンビなら、やりかねない!)。

> 選挙報道の七不思議 - (?_?) 2005/09/13(Tue) 10:36

> 毎年、投票所や出口調査の場面が報道されていたのに今回の選挙は投票所の場面を目にしなかった。

> そして、自民党は無党派層や若者の支持を得たと誇っているが、知人、友人らの話では投票所に若者の姿は見られなかったという。

> 今回の選挙は本当におかしい
> 入場券は有権者全員に届いていたのだろうか?
> そして、本人が本人の意思で投票しまたは棄権したのだろうか?
> 政治に興味のない有権者から入場券を大量に買い取っていたダフ屋やブローカーのような組織が関与していたということはないのだろうか?

> 寝たきり老人や認知症同等の老人有権者の入場券はどのように扱われていたのだろうか?
> 入場券を不正に第三者へ渡してなどいないだろうか?
> 落選した小林議員ではなく、異常な投票数で勝った候補者こそ捜査対象にすべきではないだろうか?
> ありえない得票数の・・・・・小泉総理など調べてはいかがでしょう?

 まさか…ね。

 と、アンニュイなムードでお送りしてしまいましたけれども、私は今回の自民党の「歴史的大勝利」を生み出した原因は何か、と訊かれたら、それは小選挙区制という制度ではないかと答えます。というのも、国民の大半(特に若年層)が小泉自民党を支持した「わけではない」ことは、比例代表では民主党が検討したことからも分かりますし、12日の夜のNHKニュースにおける総選挙分析では、決して自民党が票を独占したわけではなかった。むしろ自民党は「中の上」、民主党は「中の下」レヴェルだったのですが、結果として自民党がものすごい議席を取ってしまった。これは小選挙区制という制度の歪みによるものが大きいのではないか。

 同様の意見はこちらでも見られました。

 カマヤンの虚業日記:[選挙][呪的闘争]選挙分析
 とりあえず、盛岡から帰ってきたら(私は親戚の結婚式に参加するため17日から18日にかけて盛岡に行ってきます)、全ての選挙区の惜敗率を計算してみるつもりです。そこからマスコミが報じない選挙の「真実」、あるいは自民「歴史的大勝利」の「原因」を「今時の若者」に求めたがるマスコミの退廃について書くつもりですが、投稿用なのでここで公開はしません。

 今回の選挙に関する優れた分析が。
 kitanoのアレ:衆議院議員総選挙総括(2)
 私が気になったのは次の部分です。

 鈴木宗男の新党大地は、田中角栄に匹敵する農村型リベラル政党として出発した。地域への利益誘導を主張しつつも、アイヌ民族の地位向上、若者の労働環境や福祉政策の強化、ロシア産業との交流の拡大など、弱者を重視した多様で寛容的な農村型リベラルを掲げた新党大地は、今後若者を中心に支持者が拡大する可能性がある。札幌では安倍晋三の演説よりも鈴木宗男の演説の方が人気があり、特に20-30代の若年層の人気が圧倒的に高かったことは注目に値する。

 こういうくだりを読んでいると、やはり都市型弱者や若年層が投票しないから都市型弱者や若年層に厳しい政策が行なわれるのだ、という理論がかなりの部分で嘘だということが分かります。

 例えば、ある選挙において、各党がこぞって若年層に対して厳しい政策を行なったとしましょう。もしそのような状況下において投票率が上がったら、候補者側は若年層の投票率が上がったから若年層にも目を向けた政策をやろう、ということを果たして考えるでしょうか。むしろ、若年層に「厳しい」政策のほうが若年層に受けるのだ、と錯覚してしまうのではないでしょうか。ですから、私が重要だと思うのは、若年層や都市型の弱者の問題に真剣に取り組むことのできるリベラルな政党や候補者の旗揚げです。北海道におけるこの事実は、それをはっきりと我々に伝えているのだと思います。

 我が国は壮大な昏睡状態にあります。その状態の中で、単に投票率だけを上げたら、結局は「投票という制度の上で惰眠をむさぼる愚者」が大量に出現してしまうだけではないか。もちろん、問題意識の強い人は積極的に投票に行って欲しいのですが、それだけ冷静に事実を判断して投票できる人が、果たしてどれほどいるのだろうか(とりあえず「選挙に行こう」みたいな反・表現規制のサイトにリンクを張っていたり、熱心に読んでいたりする人はこのような人に入るでしょう)。

 投票にいけ、と叫ぶのではなく、現在の如き壮大な昏睡状態の中から、しっかりと目を覚まして人々を起こし続ける気概を持った政治家・候補者の登場を期待するために動いたほうがいいのではないか、と思うのです。危険を煽るのではなく、できるだけ多くの人がムードではなく政策に目を向けるようになるのがいい(だったらお前が行けって?いや、私は、まだ20歳ですので…。こういうブログで文章を書く以外に手段はない、残念ながら)。

 だから、このような事実は極めて光栄なものです。

 保坂展人のどこどこ日記:開票日から一夜明けて(保坂展人氏:衆議院議員・社民党)←祝!当選!!
 比例関東ブロックにおける自民党の獲得議席が、比例出馬議員の数を1つ上回ってしまったので、その空いた議席が保坂氏の手に渡った、という「当選」ですが、当選は当選。保坂氏はかつて国会の質問王として一世を風靡し、政策の立案数も全議員の中でも指折りのランクに属していましたので、そのような保坂氏の攻撃力がもはやタガを失ってしまった自民党にどれだけ通用するか、というのが見ものです。あと、民主党の金田誠一氏も期待できる人物だそうです。

 しかし、保坂氏も安心してはいられないようで…。
 保坂展人のどこどこ日記:佐世保でまた女子中学生が自殺――長崎の学校で何が起きているのか

 このブログ日記で「長崎県の学校で起きている異常事態」を記したら大きな反響があった。いったい、どうして長崎で子どもの事件が続くのか? 今回の事件の背景も出来る限り追ってみたい。

 こういう事実を直視できる政治家は保坂氏ぐらいしか我が国にはいない。期待していますよ。

 「保坂展人、がんばれっ!」

 補記:万博レポートに関しては今のところ予定は未定です。また、映画「ある子供」に関しては、映画宣伝会社とのやり取りがまだ終わっていないので、それが終わり次第発表の仕方を公表するつもりです。

 ついでに「ある子供」について語らせてもらうと、私は絶望しました。ただ、内容が悪かったから絶望した、というわけではありません。よく造りこまれているからこそ絶望したのです。カンヌ映画祭でパルムドールを受賞するくらいですから、演出も脚本も素晴らしいのですけれども、この映画を観て、「非社会的な存在」に対する想像力とは何か、ということに関して考えさせられました。それゆえの「絶望」です。我々はこのような存在に対して想像力を向けているか、と。もしこの映画が、そこらの凡百の「泣ける」映画と同様に宣伝されたら、この国は本当に終わりでしょうね。

 とにかく、この映画は12月に恵比寿ガーデンシネマで放映されるので、みんなで見に行って衝撃を受けましょう!

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2005年9月11日 (日)

トラックバック雑記文・05年09月11日

 ひとみの日々:うた(生天目仁美氏:声優)
 生天目氏は、カラオケでアニメのキャラクターソングを歌ったそうですが、最近の音楽のヒットの動向において、確かにアニメ関係の楽曲は台頭しつつあります。最近では、生天目氏のケースもそうですが、カラオケでアニメや声優関連の楽曲を取り扱うところも増えているようで。

 さて、このブログの読者で、アニメのキャラクターソングをよく聴く人は、それをキャラクターの歌として楽しんでおりますか?それとも声優の歌として楽しんでおりますか?私は声優の歌として楽しんでおりますが、キャラクターソングというのはそういったインタラクティヴな楽しみ方ができるという独特の魅力があります。もちろんキャラクターの歌として楽しむ場合はそのキャラクターについて知っていなければなりませんけれども。

 ただ、我が国におけるアニメなどのインタラクティヴ・カルチュアに関して、堀田純司『萌え萌えジャパン』(講談社)にもあるとおり《キャラクター表現について国家レベルでは振興、地方自治体レベルではむしろ規制、とねじれが存在するように感じる》(堀田前掲書、319ページ)という現実があるのですけれども、所詮国家や財界がキャラクター表現について振興しているのはただ「カネ」と「チカラ」が欲しいだけ。その2つがなくなると大抵は規制派になる。その証拠がこれだ。

 kitanoのアレ:おたくのための選挙資料(3):コミック撲滅法制化請願参加議員(1)
 「各党マニフェストにおける青少年認識/対策」という文章を公開しましたが、その中で自民党と民主党と共産党はマニフェストに「青少年の健全育成」または「有害情報の規制」を明記している(特に力を記述しているのはなぜか共産党)ということを紹介しました。で、「kitanoのアレ」で紹介されているのは、ポルノコミック規制の法制化を求める署名に参加した人たちです。まあ、自民党の偉い人たち(河村建夫とか町村信孝とか村田吉隆とか中山成彬とか森善朗とか)は予想通りですが(蛇足ですが、東北ブロックの自民党比例代表候補に関しては、表現規制推進で、知的財産政策を財界の立場だけから推進する高村派議員が多いから気をつけましょう!)、何で鳩山由紀夫(自民党)とか土井たか子(社民党)までいるんだ!!!

 所詮は、誰が政権についても所詮最強の政権維持装置は「若者論」なのでしょうか。結局は自分の「理解できない」ものに対する敵愾心を煽り立てることによって票を獲得し、ポピュリズム的な人気の下で規制を推し進める…、って、いつも言っていることですけれども、とりあえず言えることは、「今時の若者」を「消費」する社会構造が存在する限り、たとい若年層の投票率が上がったとしても、若年層を敵視するような政策が行なわれる行なわれないようになる(9月11日0時56分訂正)のは難しい。

 故に、このような考え方は、極めて楽観的に私には見えるのです。

 もじれの日々:フリーター・ニートは投票を(2)(本田由紀氏:東京大学助教授)
 本田氏曰く、

もちろん、フリーター・ニートを含む若者にとって、現在提示されている選択肢はいずれも満足のゆかないものだろう。政党政治という集団主義そのものへの拒否反応もあるだろう。しかし、それらについては何とか妥協してもらいたい。政治が若者やその中での経済的弱者にこびざるをえなくなるような流れを作り出すためには、まず彼らに「どっこらしょ、仕方ねえな」と動き出してもらうしかないのだ。

 果たしてそうなのでしょうか?本田氏は、結局のところ若年層の社会的な地位が向上しないのは、やはり若年層が主張しないからだ、といっているようにしか見えないのですが。しかしこれには異見があります。というのも、我が国にとって、もはや若年層は、既得権を持っている層(中高年)に比して、マスコミにとっても政治にとっても取るに足らない存在です。たとい若年層が投票行動に出ても、やはり若年層よりも数的に多い既得権層を向いた政策を採用したほうが票になるでしょう。

 私は、青少年に関わる問題の解決のためには、まず中高年層の意識を変えるべきだ、と考えております。現在の、中高年層を中心とする政治や言論の構造は、若年層を「理解できない他者」=「敵」と見なし、それに対する敵愾心を煽ることによって若年層を「消費」する、いわばカーニヴァル的な構造ですが、若者論という言論体系がそのようなカーニヴァル的な構造にどっぷりと浸かっている限り、若年層に対する手厚い政策は「甘え」と見なされてしまう、それがいかに適切であっても。それは新聞や雑誌におけるフリーターや若年無業者の記事を読めば明らかでしょう。これらの記事は(特に「Yomiuri Weekly」平成17年8月14日号の巻頭特集の論調が典型的です。詳しくは「俗流若者論ケースファイル43・奥田祥子&高畑基宏」を参照されたし)書籍や研究で展開されている論調は、全てフリーターだろうが「ひきこもり」だろうが若年無業者だろうが全ては「甘え」であり、そいつらをたたき出さなければならない、という論調、あるいはそいつらは戦後民主主義の鬼子である、みたいな論調ばかり。かつての我が国が、国家的な一体感から「鬼畜米英」を叫んだのと同様、現在の我が国は「鬼畜青少年」と叫んでおります。山本七平氏がこの状況を見たら、さぞかし墓の中で身もだえするのは間違いなかろう。

 「今時の若者」が憎い権力者の皆様、だったら我が国、あるいは自分の自治体をニュージーランドに併合してみてはいかがですか?

 性犯罪報道と『オタク叩き』検証:神奈川県ニュージーランド化計画(悪い意味で)
 松沢成文・神奈川県知事に朗報。神奈川県をニュージーランドと併合したら、これほどいいことがありますよ!

 ・ラグビーが盛ん(筆者注:松沢氏は個人的にラグビーが好きなので)
 ・『残虐ゲーム』や、直接的な描写がなくても『ロリエロ』とみなされたアニメは発禁処分

 でも、ニュージーランドにおける性犯罪の発生率は我が国に比して格段に高い。どういうわけだろう。

 こういう文章を読んでいると、近頃喧伝されている「安全神話の崩壊」なる神話が、特定の階層による凶悪犯罪の喧伝に過ぎないことがよくわかってきますね。特に少年犯罪に関して言うと、「酒鬼薔薇聖斗」事件以降から少年犯罪の発生件数に比して報道の数のほうが多くなってしまった、ということも聞きますし(「潮」平成16年12月号)。社会の「現実」を冷静に見つめることのできる人は決して少なくないのですが、そのような人たちは学問の狭い領域でひっそりと書いているだけになってしまうのでしょうか。我が国の若者論という名のカーニヴァル、病理は極めて深し。

 千人印の歩行器:[時事編]赤であれ青であれみんなで渡れば怖い!(栗山光司氏)
 「みんなで渡れば怖い」、そういう感覚を大事にしていきたい。物事はできるだけ自分の判断で突き進んでいきたい。たといそれが「善行」であったとしても、暴走すれば直ちに「悪行」に転じてしまう恐れがある。この文章は、現在の政治状況・社会状況を考える上で、もっとも示唆に富んでいる文章であります。

 ところで、また新書の棚からきな臭い匂いがしてきました。中公新書ラクレから、『進化しすぎた日本人』なる本が最新刊として出ているのですが(ちなみに著者は「サル学の権威」だそうですよ…。出版事情から言って、正高信男の所論に反することはまず書けないだろうね)、帯にまたぞろ「ひきこもる若者」「子離れできない親」なんて書いてやがる。ふざけんな。

 オイコラ中公!おまえら、この2つを帯に書いた本はこれで何冊目だと思ってるんだよ!俺の知ってる限りでは、いずれも俺がトンデモ本と認定した、正高信男『ケータイを持ったサル』(中公新書)と、矢幡洋『自分で決められない人たち』(中公新書ラクレ)の、少なくとも2冊の帯にこの文句が使われている(詳しくはbk1を。正高本に関してはこちら、矢幡本に関してはこちら)。そうゆう、「今時の若者」=「甘え」みたいな俗情に媚びた本ばかり出すのはいい加減にしろよ!

 とまあ怒ってしまったのですけれども、実は私はこの本をある程度立ち読みしたのですが、こと子育ての部分に関しては、生物学的に考えて現代の子育ては「異常」である、見たいな書き方を連ねていましたので、こういう言い方をさせてもらいました。特に社会学的な考え方に対する無知が痛かった。でもしっかりと読んだわけではないので、近いうちに読み込んでみます。

 そういえば、マガジンハウスの「ダ・ヴィンチ」という雑誌で見たのですが、精神科医の香山リカ氏も『いまどきの「常識」』という本を岩波新書の新刊として出すらしいです。これも少々注視しなければならない。香山氏は最近になって、例えば『ぷちナショナリズム症候群』(中公新書ラクレ)に代表されるような心理学主義的な俗流若者論にも手を染めており、果たしてその路線を引き継ぐものになるのか、動向が注目されるところ。

 たとい自然科学や心理学の分野で優れた研究者が自分の専攻している学問でもって社会を「分析」しようとしても社会学的なセンスがなければ適切なバランス感覚を失って安易なアナロジー、更に言えばレイシズムに陥ってしまう。理系のものにとっての社会学というのは、自分の学問領域に閉じこもらないで社会との接点やバランスを確保していく上で貴重なものであると私は考えます。これは私が大学で学んでいる建築という分野が(土木もそうですけど)他の工学に比して社会学を支えにしなければならない分野が大きい、ということも関連しているかもしれません。

 保坂展人のどこどこ日記:劇場(バーチャル)から現実(リアル)へ(保坂展人氏:元衆議院議員・社民党)
 週刊!木村剛:[ゴーログ]山本一太議員は公職選挙法違反か?(木村剛氏:エコノミスト)

 さて、総選挙が迫ってきました。しかし木村剛氏のブログを始め、ネットの一部で話題になっているのが選挙期間中におけるブログ更新の是非。一応、一般的な公職選挙法の解釈によれば、ウェブサイトやブログも公選法における「文書図画」に該当するようなのでいけないようなのですが…。インターネット時代だから、こういうことをきっちりと議論してもいいのではないかと思いますがね。

 とりあえず私の主張としては、ポスターで「政策」を売り込むためには、ポスターにウェブサイトのアドレスを掲載することに尽きると思います。でもそのためには、選挙期間中のウェブサイトでの政治行動が許されなければならないのですが。

 カマヤンの虚業日記:[選挙]「オタクちゃんねる2」停止の件、その他
 kitanoのアレ:テレビ局上層部から民主党攻撃命令?
 とりあえず、マスコミやプロバイダに圧力をかけない限り維持できない、あるいはマスコミやプロバイダが媚びなければ維持できない政権党というのは、終わったな、と。

 選挙に際して、以下の文章を読んでおくことをお勧めします。
 「kitanoのアレ
 「FrontPage -Game and Politic-
 このブログから「各党マニフェストにおける青少年認識/対策

 さて、読者の皆様にお知らせですが、私は、今月11日の夜から16日の午前にかけて、東京と名古屋に行ってまいります。そのため、ブログの更新ができなくなります。ご了承ください。

 ただ、旅行期間中に、映画のマスコミ試写会に参加してきたり、あるいは万博を見てきたりと、いろいろ動きますので、何か思うところがあれば文章を書こうかと思います(ただし、17日から18日にかけて、親戚の結婚式に参加するため盛岡に行ってくるので、その期間中も更新できませんが)。

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2005年9月 4日 (日)

トラックバック雑記文・05年09月04日

 最初にお知らせ。「後藤和智の若者報道用語集」というブログを作成しました。簡単に言えば、このブログに出てくる用語を紹介したものです。最近では、例えば正高信男氏や森昭雄氏なんかを「かの曲学阿世の徒」と表現しておりますが、なぜそのような表現をするのか、ということを知らない人もいるのではないかと思いますし、このブログ全体の見取り図があったほうがいいと思うので開設しました。今はまだ正高信男氏に関する語句と「俗流若者論ケースファイル」の第1~3回に関する語句だけですが、どんどん充実させていくつもりです。

 では、ここからが本番。

 ひとみの日々:いぃーやっほう!(生天目仁美氏:声優)
 この掛け声って、「仁美と有佳のどらごんデンタルクリニック」(文化放送:毎週水曜日25時~25時30分に放送)ですか。それはさておき、生天目氏の後ろにある看板が実に秀逸です。スピード違反を取り締まる看板なのですが…。

 交通違反 9000円
 佐渡するめ 500円

 要するに、お前が交通違反で支払った罰金で18個の佐渡するめが買えるんだぞ、とでも言いたいのでしょうかね。こういうユーモアに溢れた看板は好きです。しかもデザインもシンプルだし、私の周りにある種々の看板のようなけばけばしさが感じられない。世の中にこういうシンプルでユーモアに溢れた看板が多くなればいいのですが、やはり共同幻想(笑)として派手なものが受けるのだ、という傾向があるのでしょうか。でも、シンプルさだって一つの力ですよ。

 さて、今回のトラックバック雑記文は、「俺は騙されないぞ!シリーズ」でいこうかと思います。

 1、俺はオタクバッシングに騙されないぞ!
 保坂展人のどこどこ日記:オタクバッシングを考える その1その2(保坂展人氏:元衆議院議員・社民党)
 フィギュア萌え族(仮)犯行説問題ブログ版:テレビ東京、会田我路の着衣の少女写真集を、「ヌード写真集」と偽って報道。(古鳥羽護氏)
 まず、保坂展人氏のブログを読んでください。大人の対応とはこういうことを言うのですね。我が国では自分が気に入らない=犯罪の温床=規制しろ!などという自称「識者」や政治家や知事が多すぎますけれども、そのような人のやる政治というのは結局のところ弱者たたき、あるいは強権政治にしかならない。

 しかし最近の政治の流れにはきな臭いものを感じずにはいられませんね。この手の政治家が行なっていることは、「ある一つの社会的な階層や集団に対する敵愾心を煽り、それらを「敵」「悪」と規定し「正義」としての自分を強調することによって、ポピュリズム的な人気を得る」という手法に要約されるでしょう。このような所業を行なって世界を破滅に導いた政治家を知ってますか?そう、ヒットラーですよね。

 こういう、政治を単なる自己実現の場としてしか考えない阿呆どもには、ぜひともマックス・ヴェーバーの名著『職業としての政治』(脇圭平:訳、岩波文庫)の以下のくだりを読んで欲しい。

 政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である。もしこの世の中で不可能事を目指して粘り強くアタックしないようでは、およそ可能なことの達成も覚束ないというのは、まったく正しく、あらゆる歴史上の経験がこれを証明している。(105ページ)

 一点突破しか考えていない人には、こういう託宣は通用しないのでしょうね。

 マスコミも然りです。相手が「叩きやすい対象」であれば、捏造報道もありですか。これではテレビ東京は最近の朝日新聞の記事捏造事件を批判できませんよね。もっとも、このような所業を行なっているのはテレビ東京だけではありません。政治報道における捏造は即座に糾弾されるのに(これは全く正しい)、若者報道における捏造は全く糾弾されない。いつぞやかの「Yomiuri Weekly」で、渋谷では「家出少女の実態」みたいなテレビ報道を作らせるためにそこらを歩いている少女に「家出少女」をさせているのは日常茶飯事、というくだりを読んだことがありますが、若者報道というのは、まったくチェックが働かない場であるからこそ、捏造しても平気なのか。

 いいのかそれで。俺は騙されないぞ!

 2、俺はステレオタイプに騙されないぞ!

 kitanoのアレ:おたくのための選挙資料(1):喪男の小説『裏・電車男』:都内女性の20万人がHIV感染者というデマ

 一説では、都内の女性の約20万人がエイズのキャリアだという話…。だが、俺は騙されないぞ!なぜなら、一次情報に全く触れられていないからです。

 このデマの泉源は「2ちゃんねる」だそうで。「kitanoのアレ」からの孫引きになりますが、

喪「で、親父の病院や他の知り合いの病院2~3ヶ所の話を聞くと、毎年とんでもないペースで増えてるそうなんだ。それも加速度がついてる位で。特に20代~10代の女が凄いらしい。今じゃ何と2割位居るんだってさ。自分はエイズじゃないかなんて心配を全然してない、他の病気で普通に診察に来てる女の2割がHIV感染者だ。しかもその増加率は年々上がっている。

もしこの割合を、単純にそのまま都内の病院全部に当てはめたら1万2万なんて人数では済まないそうだ。都内だけで10万とか20万とか…もちろん単純計算だから、実際の正確な所は解らないけど」

 というものだそうです。

 このようなデマは、「今時の女は誰とでも性行為をするくらい堕落してしまった」というようなステレオタイプのなせる業である、と考えて間違いないと思います。どうしてステレオタイプの前では無力化してしまう人が多いのでしょうかね。これは何もこのようなデマ宣伝に限った話ではなく、俗流若者論でも同じ事。要するに「「今時の若者」はゲームなどで殺人を日常的に「学習」しているから凶悪犯罪を簡単にしでかすようになっている」というのも、我々がマスコミによって信じ込まされているデマです。このような、現代の女性や若年層のデマに踊らされる人が増えることによって、誰が得するのか。結局は現代の女性や若年層に対して敵愾心を煽ることで利権や支持率を得ている人たちですね。俺は騙されないぞ!

 3、俺は争点をずらしたがる小泉純一郎に騙されないぞ!

 MIYADAI.com:【アゲておきます】民主党がとるべき道とは何か(インタビュー)(宮台真司氏:社会学者)

 小泉首相は「郵政民営化」を連呼し、郵政民営化こそが改革を進める上での第一歩となる、と喧伝していますけれども、この人に「国家観」というものは果たしてあるのでしょうかね。いや、私は、何も「諸君!」の今月号の特集のようなことを言いたいのではなく、私はむしろ「国家観」よりも大きい「社会観」を問いたいのです。その点において、宮台氏のこの文章は必読だと思います。

 若者報道の研究家としての私が、特にプッシュしたい部分はこちら。

■でも、バラマキをやめるのと、弱者を放置するのとは別問題。現に社会的弱者だからこそ噴き上がる都市型ヘタレ保守は、小泉流「決然」にカタルシスを得ても、そのあと幸せになれません。そこに、都市型保守への「都市型リベラル」の対抗可能性があり、都市浮動票を取り合う二大政党制の可能性があるわけです。

■だから、民主党が示すべきは「都市型リベラル」の政党アイデンティティです。「小さな政府」が「弱者切り捨て」を伴ってはいけないと主張し、「都市型弱者」である非正規雇用者やシングルマザーや障害者の支援を徹底的に訴える。「フリーターがフリーターのままで幸せになれる社会」をアピールすればいいのです。

■「バラマキはダメだから壊す」の小泉流は明瞭です。対する民主党が「壊し方の非合理性」を訴えるのは稚拙です。郵政法案がデタラメでも、デタラメな法案を武器に使って旧経世会を葬り去ったことを、国民が賞賛しているのですからね。小泉氏を倣って「削る」「縮小」を繰返すのも稚拙です。「小泉さん、壊してくれてありがとう。壊れた後は民主党が作ります」で行くべきじゃありませんか。

■「都市型保守」のネガティビティに「都市型リベラル」のポジティビティを対置する。「不安」に「幸せ」を、「不信」に「信頼」を対置する。本当にタフでカッコイイのはどちらか。言うまでもありません。

 4、俺はこんな奴に騙されないぞ!
 bk1で、柳田邦男氏の『壊れる日本人』(新潮社)の書籍詳細ページにトラックバックされていた文章なのですが、いやあ笑えた。

 アール学派:退廃文化、絶好調!?

 いや、経済的なことを語っていることに関しては結構説得力があるのですけれども、こういうくだりを読んでいると、やっぱり俗流若者論ってのは自分こそは絶対に正しく犯罪もしないし「ひきこもり」にもならないんだぞーってはしゃいでる人たちの不満の捌け口でしかないんだよなあ、と改めて思ってしまいますよ。

 ニートチックな貧乏人は、なぜかケイタイが手離せませんね。

 「馬鹿とハサミは使いよう」ではなく、「お馬鹿な貧乏人は使いよう」ですね。

 でも、踊らされているのはあんたのほうですから!残念!!

 『ケータイを持ったサル』に群がるサル、斬り!!!

 しかもコメント欄がまた笑える。

 こないだ電車でずぶ濡れのケータイサル発見!
 どうやら、このサルはケータイは使えても傘を使う知能はなかったみたい。新たな発見なので今 秋あたりに、Journal of Mobile-phone Monky に投稿予定です!(>▽<)

 ……折りますよ?(結構前に、古本屋の立ち読みで、スクウェア・エニックスから発刊されている『ぱにぽに』という漫画の第3巻を読んで以来、この表現が結構気に入ってしまったなあ。ついでにこの『ぱにぽに』は「ぱにぽにだっしゅ!」としてアニメ化されているようです。私の地方ではテレビ東京が映らないのですが)

 ってゆうか、《Journal of Mobile-phone Monky》なんていうメディアがあるのか!ぜひとも俺に知らせてくれ!

 そもそもこの『ケータイを持ったサル』『壊れる日本人』って、現代日本のナショナリズムがいかに「愛国心」ではなく「若者論」であるか、ということを如実に示している本ですよ。詳しくは私の書いた検証記事を読んでください。正高信男氏関連はこちら。柳田氏に関してはこちら

 しかもこのブログときたら、皇學館大学助教授の森真一氏の名著『日本はなぜ諍いの多い国になったのか』へのリンクまで貼ってある!この名著を読んだら、先の2冊を簡単に信ずることはできないと思うんだがなあ。これもネタなのか。

 5、俺はこんな奴らにも騙されないぞ!
 今春に遠山敦子氏が設立した「こころを育む総合フォーラム」の設立趣旨文を検証してみます。「俗流若者論ケースファイル」の71回目としてやろうと思ったのですが、まだ資料が不十分なのでやめます。

 趣旨分において、遠山氏はこういうことを書いています。

 戦後60年、日本の経済はめざましい発展をとげました。占領期から独立期にかけて、国内的に平和の状態が保たれたことが大きかったと思います。けれどもそのことでわれわれは、いつのまにかわれわれ自身の精神的な自立、および倫理的な生き方に十分の配慮をすることなく時の経過に身をまかせてしまったきらいがないではありません。そのために噴出しはじめた綻びが、今日わが国社会のいたるところにみられることは周知の通りです。

 家庭や教育現場における人間関係の乱れ、公的機関や企業における不祥事、そして心の凍りつくような残虐な事件の発生など、いずれも日本人の精神の衰退、かつて日本人がもっていたはずの倫理性の喪失を示す兆候ではないでしょうか。物質的な豊かさにともなう心の世界の空洞化が、危機的な様相を呈しているというほかはありません。

 だからさ、なんでこういう俗流若者論や俗流社会論で、《日本人の精神の衰退、かつて日本人がもっていたはずの倫理性の喪失を示す兆候》なんて安易に語っちゃうのかな。いずれにせよ、このフォーラムはしっかりと監視しておく必要がありそうです。

 検証になってないなあ。

 6、俺は統計にも騙されないぞ!
 「統計学の常識、やってTRY!第5回」を公開しました。読んでね。しかも「AERA」平成17年9月5日号の次号予告を見てたら、また香ばしい薫りが…。

 次号のアエラは●日本を再生するファンドを作った人たち●引き込もりをつくらない間取りの家

 さて、どんな記事ができ上がるのやら。しかも私は建築学科の学生ですから、更に気になるわけですよ。建築物としての家までもが俗流若者論に政治化されてしまうのか、って。

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2005年8月30日 (火)

トラックバック雑記文・05年08月30日

 「俗流若者論ケースファイル」25連発なんて、本当に骨の折れる作業でした。おかげで、このブログのコンテンツ(これを含めて125個)の内56%(70個)が「ケースファイル」になってしまった。しかも「ケースファイル」で取り上げたい文章って、まだたくさんあります。まあ、今後の予定はさておき、まず雑記文から。

 週刊!木村剛:[ゴーログ]公職選挙法こそ、ブログの敵だ!(木村剛氏:エコノミスト)
 保坂展人のどこどこ日記:ブログ中断の不条理、公選法改正を(保坂展人氏:元衆議院議員・社民党)
 公職選挙法によれば、文書や図画の頒布について極めて厳しい基準がしかれているようです。ここ最近、政治かもウェブサイトやブログを持つようになりましたが、公選法によれば選挙期間中はホームページやブログの更新は許されていないらしい。ただし、厳密に「許されていない」というのではなく、ウェブサイトやブログが「文書図画」であるかどうかを規定されていないため、公選法に抵触する「虞がある」ということだそうです。

 私は基本的にはウェブサイトやブログによる選挙運動には賛成です。多くの人がインターネットに繋げるようになる現代、インターネットを選挙活動の道具の一つとして利用するのは大きな意味があると思います。

 さて、私は公選法の改正だけではいけないと思います。もしウェブサイトやブログが選挙活動として認められているのであれば、立候補者はポスターに自分のウェブサイトやブログのアドレスを明記すべきでしょう。携帯電話の「QRコード」を印刷してもいい。わざわざ政治家のサイトを検索して見る人は少ないでしょうから、人を呼び集めるためにはポスターにそのような工夫を施すことも必要だと思います。

 今の選挙活動は、ほとんどが「名前」を売ることにまい進していると思います。しかし、利権誘導型政治の欺瞞が明らかになった今、「名前」だけでは考える市民を取り込むことが出来ないでしょう。だからこそ、「名前」だけでなく「政策」を売り出すことが出来るようになって欲しい。インターネットを利用した選挙活動は、選挙活動に政策を「売り出す」プレゼンテーションのスキルが重視されるように変革されるでしょう。マニフェスト型政治を定着させるには、まずインターネットを政治活動として認めるべきです。

 しかし、インターネット選挙活動がみんな善であるというわけではないようで…。

 kitanoのアレ:ウヨク工作活動:民主党アンケートに大量組織票

 リンク先の記事によると、7月20日から25日にかけて民主党がネット上でモニター選挙を行なったところ、7958名のモニターの内3877名が実施期間中に新規登録した人のようです。ここまでならいいのですが、ここから先に何かきな臭い動きが…。

    Q1. 時の首相が靖国神社を参拝することについてあなたはどう思いますか?
  賛成である 1267 票 (工作後 5144 票)
  反対である 2438 票
  わからない 376 票
  Q3. 民主党の岡田代表は政権交代後、首相になった場合、自分の意思で靖国神社に参拝しないとしています。あなたはどう評価しますか?
  大いに評価する 1769 票
  多少評価する 888 票
  あまり評価しない 769 票
  全く評価しない 440 票 (工作後 4317票)
  わからない 215 票
  Q4. 首相の靖国神社への参拝問題で日本の国益に叶うのは、参拝の継続か中止どちらだと思いますか?
  参拝継続 1098 票 (工作後 4975票)
  参拝中止 2436 票
  わからない 547 票

 すごすぎますよ。いくつかの左派系のブログでは所謂「ネット右翼」によるコメント欄荒らし・トラックバック荒らしが問題化されているようですが、これだけの「工作員」がいるとは…。まあ、所謂「ネット右翼」の世界は、「世界」平成17年7月号で鈴木謙介氏が言っている通り、所謂「学級会民主主義」の世界、すなわち多数派の正義ですからね。そのような「多数派の正義」は、そのまま勝ち馬に乗ればいい、という価値観を生み出す。これは所謂「ネット右翼」だけでなく、そのまま彼らの批判するマスコミや、メディア規制派にも言えることです。すなわち…。

 フィギュア萌え族(仮)犯行説問題ブログ版:各局の報道で全国に晒されてしまった加害少年の部屋(古鳥羽護氏)
 弁護士山口貴士大いに語る:松沢知事はエコノミストの記事を読んだのでしょうか?(山口貴士氏:弁護士)
 カマヤンの虚業日記:[日本会議][勝共連合]「日本会議」の街宣車、コミケへ来る
 走れ小心者 in Disguise!: 「黙ってられるかこんな話聞いて!」(克森淳氏)
 kitanoのアレ:おたくのための選挙資料(1):自由民主党の公約
 kitanoのアレ:おたくのための選挙資料(2):民主党の公約
 「反ヲタク国会議員リスト」雑記帳:[健全育成政策] 自民党&共産党もエロゲー撲滅に必死

 我が国のマスコミや政治家には、相手がオタクであれば倫理も矜持もプリンシプルも無視してバッシングに走ってもいい、という不文律があるそうです。先日宮城県で起こった警官襲撃事件でも、加害者の部屋が全国放送によって委細もらさず報じられてしまったらしい。そして案の定アニメやゲームやモデルガンが原因である、という印象操作報道を行なってしまったようです。

 はっきり言って、これは報道加害以外の何物でもありませんね。少年法61条はもはやあってなきものと化しているようです。もちろん少年法61条には問題点が多くありますが、このような報道の行き過ぎはもはや壊滅的です。我が国の中において、どれだけの青少年がアニメやゲームやモデルガンには待っているか、マスコミの人たちは分かっているのでしょうか。その中の一人が犯罪をしでかしたからといって、アニメやゲームやモデルガンに愛着を示す人はみんな危険だ、という論理を展開してはなりません。しかし、そのような印象操作こそが受ける、とマスコミの人たちは確信しているのでしょうか。視聴者をなめているのか。少なくとも若年層をなめているのは事実でしょうね。

 山口貴士氏のブログでは、ゲーム規制を推し進める松沢成文・神奈川県知事が英国の「エコノミスト」という雑誌でゲームの有害性は実証されていない、という記事が掲載されていて、松沢氏はこれを呼んだのか、と糾弾していますけれども、自分に都合の悪い情報を封鎖するのもまたマスコミクオリティです。例えばフリーターや若年無業者の分野に関すると、書籍ではかなり優れた分析や報告が展開されているのですが、雑誌や新聞やテレビ報道のレヴェルになるとあいつらは甘えているとか親が悪いんだとかいった画一的・一方的な批判になってしまう。どうして彼らは重要なデータをひた隠すのでしょうかね。やはり自分の構築した「今時の若者」のイメージを綿密なデータによって解体されたくないからなのか。所詮マスコミは、マスコミ報道の主たる受け手となっている社会階層の人を擁護するものでしかなく、公器としての役割を期待するほうが無理なのかもしれません。

 「kitanoのアレ」では、自民党だろうが民主党だろうがメディア規制の動きをとめることは出来ない、と書かれております。私がこのことに関して思うことは、自民党も民主党も、更には共産党すら「今の子供たちは「異常」である。それは有害な情報が蔓延しているからである」という認識を共有しているということです。しかし、彼らのいうところの子どもたちの「異常」とは、一体何を指しているのか。少年犯罪の急増?凶悪な少年犯罪は現在よりも昭和40年ごろのほうが圧倒的に起こっていた。規範意識の低下?このような論理は論じる側のイデオロギーに左右されやすく、まず彼らが持ち出す「規範意識の低下」という視点が相対化されるべき問題です。更には疑似科学まで持ち出して、今の子供たちはかつての子供たちと「本質的」に違うのだ、という人たちまでいます。しかし、そのような論理が、レイシズムにつながるということに関してはどうして無頓着なのだろう?

 「カマヤンの虚業日記」では、かの有名な「コミックマーケット」に、メディア規制の急先鋒である右翼政治団体「日本会議」の街宣車が、自らの出自を偽って街宣活動を行なったようです。そしてその「日本会議」は、右派系の「人権擁護法案」反対派の肩を持っている存在ですけれども、このような人たちと一緒になって「人権擁護法案」に反対している人は、やがてこれらの人たちがメディア規制に走り出す、ということにどうして無頓着なのでしょうか。それとも長いものに巻かれていれば害はない、と考えているのか。やはり「学級会民主主義」の徒ですか。

 ついでに私も「人権擁護法案」に反対した文章を書いたことがあります。しかしその視点は、まず論壇において「人権」という言葉がいかに曲解されてきたか、ということと、立憲主義において国家・国民・憲法とはどのような位置にあるか、ということを中心に論じました。ですので、私の批判は、かなり相当性があるように思えます。まあ、その理由で、一部の人からは「近代国家礼賛なのか無政府主義なのか分からない」「電波」などと罵られているわけですが。

 本日の「産経SHOW」:「丸の中に平」は、「平蔵」ではなく「平和」
 産経新聞の「産経抄」を検証しているブログなのですが、平成17年8月23日付の「産経抄」にあったこの文章を見たとき、私の眼が止まりました。

 昔、自民党が総裁選びでもめていたときのこと。識者への談話取材を命じられた筆者は、サルの研究者に電話をかけ、当時の編集幹部に怒鳴られた。ボス猿選びと比較するとは、政治を冒涜(ぼうとく)するものだ、というのだ。

 《サルの研究者》?もしかして信男ちゃん?信男ちゃんなのかっ!?(笑)なんて、違うでしょうけどね。

 さて、8月7日から8月30日にかけて、「俗流若者論大賞」と称して、「俗流若者論ケースファイル」25連発という荒業をやり遂げてしまいました(盆休みあり)。ここで発表した文章は以下の通り。せっかくなので短評つきで。

 「俗流若者論ケースファイル46・石堂淑朗
 石堂淑朗、「正論」だけでなく「新潮45」でも活躍しております。

 「俗流若者論ケースファイル47・武田徹
 「プログラム駆動症候群」なる珍概念を批判的検証抜きで宣伝。しかし箱を開けたら暴力的なレトリックの山だった。

 「俗流若者論ケースファイル48・澤口俊之
 ついに単独で登場、澤口俊之。

 「俗流若者論ケースファイル49・長谷川潤
 教師ってなんなんだ。

 「俗流若者論ケースファイル50・工藤雪枝
 歴史ってなんなんだ。

 「俗流若者論ケースファイル51・ビートたけし
 論理が散乱しまくっています。ビートたけし=北野武氏にはこういう側面もあったのか。

 「俗流若者論ケースファイル52・佐藤貴彦
 「バトル・ロワイヤル」のトンデモ珍解釈、とでも言うべきか…。

 「俗流若者論ケースファイル53・佐々木知子&町沢静夫&杢尾堯
 治安悪化は全部少年のせいだ!とでも言いたいのかな。しかし対談者は元検事の自民党国会議員、少年犯罪報道御用達の精神科医、元警察官。

 「俗流若者論ケースファイル54・花村萬月&大和田伸也&鬼澤慶一
 中江兆民の「三酔人経綸問答」ならぬ、「三酔人俗流若者論問答」。

 「俗流若者論ケースファイル55・遠藤維大
 アクセス解析によると、この人の名前で検索したらこのページにぶち当たった、という人がいるようですが、この人、ネット上の評判悪すぎ。

 「俗流若者論ケースファイル56・片岡直樹
 片岡直樹も単独で登場。

 「俗流若者論ケースファイル57・清水義範
 元祖「フィギュア萌え族」論!?

 「俗流若者論ケースファイル58・林真理子
 この程度の「憂国」エッセイが教育「論」として認められてしまう現実。

 「俗流若者論ケースファイル59・林道義
 この時期に及んで、「環境ホルモンで動物が女性化」はないだろう…。

 「俗流若者論ケースファイル60・田村知則
 何と眼科医学から俗流若者論が飛んできた。

 「俗流若者論ケースファイル61・野田正彰
 俗流若者論で「心のノート」に反対したらまずかろう。

 「俗流若者論ケースファイル62・藤原正彦
 文化ってなんなんだ。

 「俗流若者論ケースファイル63・和田秀樹
 遅れてきた「スキゾ/パラノ」(@浅田彰)!?

 「俗流若者論ケースファイル64・清川輝基
 清川輝基まで登場。

 「俗流若者論ケースファイル65・香山リカ
 政府や右派言論人を叩かずに若年層ばかり叩く、それが若年層右傾化論クオリティ。

 「俗流若者論ケースファイル66・小林ゆうこ
 ここまで疑似科学を批判的検証抜きに紹介できるノンフィクション作家って…。

 「俗流若者論ケースファイル67・中村和彦&瀧井宏臣
 しかし瀧井宏臣は小林ゆうこよりもすごい。

 「俗流若者論ケースファイル68・瀬戸内寂聴&乃南アサ&久田恵&藤原智美
 これだけの「文化人」がそろっておきながらこの貧困。

 「俗流若者論ケースファイル69・小林道雄
 小林道雄二重人格説。要するに警察に関する仕事と青少年に関する仕事で落差ありすぎ。

 「俗流若者論ケースファイル70・山藤章二&「ぼけせん町内会」の皆様
 トンデモカルタの世界。

 今後の予定。
 ・「統計学の常識、やってTRY!第5回」を近いうちに公開します。採り上げる記事は、「AERA」平成17年9月5日号に掲載された、各務滋、坂井浩和、小田公美子「父よ母よ 園児が壊れる」です。
 ・「俗流若者論ケースファイル71・遠山敦子ほか」を近いうちに公開します。8月26日付の読売新聞で、遠山氏が識者16名を集めて結成した「こころを育む総合フォーラム」の基調報告が掲載されていますが、そこでは取り立てて俗流若者論が見られるわけではないのですけれども、この団体の動向を見極めなければならない、という目的で執筆します。
 ・三浦展『仕事をしなければ、自分はみつからない。』(晶文社)の検証記事を来月中に公開します。また、同じ著者の『ファスト風土化する日本』(洋泉社新書y)と『「かまやつ女」の時代』(牧野出版)にも問題が見られれば、短期集中連載という形で来月一遍に検証を行ないます。
 ・小林道雄『「個性」なんかいらない!』(講談社+α新書)の検証記事を再来月までに公開する予定です。
 ・9月14・15日に、愛知万博に行ってきます。そこで何か感じることがあれば、万博観覧レポートを書きます。
 ・その前日の9月13日に、東京で今年のカンヌ国際映画祭でパルムドール大賞を受賞したベルギー映画「ある子供」のマスコミ試写会に参加してきます。そこで何か感じることがあれば、映画評を書こうと思います。生まれて初めての映画評です。
 ・再来月までに、巷に出回っているフリーターや若年無業者に関する本の書評をbk1にて一気に公開します。さらに、その公開とあわせて、それらの本に関する分析を行なった記事をブログで公開します。
 ・平成18年仙台市成人式実行委員会に参加しています。それにあわせて成人式関係のコンテンツも充実させていくつもりです。その嚆矢として、近いうちに「成人式論は信用できるかSPECIAL01・大谷昭宏」を掲載します。「通販生活」2005年春号に掲載された大谷氏のインタヴューを検証します。

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2005年8月 7日 (日)

トラックバック雑記文・05年08月07日

 夏本番というか、なんというか…。暑すぎる!

 仙台ではいよいよ七夕が始まりました。東北三大祭の一つで、商店街の各店舗や各企業の努力による色とりどりの吹流しがアーケードに並びます。機会があればどうぞ。

 東京脱力新聞:ブログの実力 きょう発売の「論座」で(上杉隆氏:ジャーナリスト)
 えこまの部屋:kuriyama爺からTB届いた(黒ヤギさんの節で♪)

 現在発売中の「論座」平成17年9月号の特集の一つに「ブログの実力」があります。タイトルに違わぬ濃い内容で、一読をお勧めします。
 この特集における、ライターの横田由美子氏の論文において、「東京脱力新聞」の上杉隆氏も紹介されています。そこで、上杉氏がブログを始めたきっかけとして、上杉氏が書いた週刊誌の記事に関して国会議員の平沢勝栄氏が上杉氏を提訴し、平沢氏が上杉氏に対する批判キャンペーンを張ったので、それに対する保身の為にブログを作ったとか。
 以前にも書きましたけれども、ブログの台頭によって「書き手」になる敷居は低くなっています。もちろんインターネットの登場により、個人がサイトを持てるようになって、その時点で「書き手」への敷居は低くなっていますが、それでもある程度の知識か道具が必要だった。それが、企業がテンプレートを提供するブログの台頭により、誰でも掲示板感覚で自らのサイトを作れるようになった。つまり現在は、インターネットにつなげられる環境さえあれば自分のサイトが持てるようになっているのです。

 しかし、ブログと鋏は使いようです。もちろん日記形式のブログ、というあり方も私は否定しませんけれども、だからといって個人情報を過剰にばらしてしまうと、自分、あるいは他人が多大な迷惑を被ってしまうこともある。ですから、ブログにおいて(もちろん普通のサイトを利用する場合もそうですが)個人情報の取り扱いには注意しなければならない。

 それだけではありません。文章や写真をインターネット上に公開する、ということは、世界中の人がそれを見ることになる、ということに他ならないのです。ですから、インターネットで文章を書くには、それなりの覚悟が必要になります。

 ブログの方向性を決めておくことも必要ですね。私はこのブログの方向性を「巷に溢れる「今時の若者」をめぐる言説を斬る」(旧ブログ)「俗流若者論から日本社会の一面をのぞく」(新ブログ)としており、基本的にこのブログを若者論を扱うサイトとしています。で、余興としてその他の時事問題、読書、建築、都市計画、音楽、声優の話題を入れる。

 なぜ私がこのようなことを言おうと思ったかというと、もちろん「論座」のブログ特集とか上杉氏の記事を読んだこともそうなのですが、もう一つ、「えこまの部屋」に以下のような疑問が書いてあったからです。

 それにしてもkuriyamaさん(筆者注:「千人印の歩行器」の栗山光司氏)にご紹介いただいた後藤さんによる俗流若者論批判テクストの「追求度」には頭が下がりますが、そのテクスト内容よりも、何がそこまで彼を執拗に俗流若者論で若者批判する著名人斬りに駆り立てるのか、個人的にはそちらのほうが興味があります。(苦笑)

 私は高校時代から趣味で社会時評を書いていました。当然、社会に関して何か不満を持っており、どうにかしたいという殊勝な動機で。雑誌にも投稿せずに日記形式で書いていて社会を変えられるわけがない(苦笑)。そもそも私が若者論というものの存在を意識するようになったのは、平成12年(私が高校1年のときです)に、所謂「17歳の犯罪」が多く報じられていた。そのような情報環境において、私は世間から犯罪者として見られているのではないか、という強い強迫観念に囚われており、17歳には絶対になりたくない、その前に死にたいとも思っていたのです。ただ、それでも(惰性で)17歳まで生きてきた。私が若者論の分析を本格的に始めたのは、朝日新聞社の週刊誌「AERA」の成人式報道(後田竜衛「成人式なんかやめよう」=「AERA」2001年1月22日号)を読んだとき、あまりにもひどい、批判するしかない、と思ったので、批判に着手した。これが17歳になる1ヶ月前です。そして平成15年3月に卒業するまで、高校時代は(大学受験期でも)成人式報道の研究ばかりやっていた(それでも東北大学には現役で合格しました)。大学に入ってからは「論座」の読者投稿に積極的に投稿するようになり(成人式報道に関する苦言が「論座」平成14年12月号に掲載されたことがあるので「論座」を選定しました)、批判の範囲を成人式報道から若者論全般に広げていった。最初はその辺の若者論に感情的に反論していた程度ですが、大学2年の後半あたりから社会における青少年の捉えられ方、及び若者論が生み出すナショナリズムや歴史修正主義、疑似科学、メディア規制を気にかけるようになり、我が国の思想的状況における若者論というものを意識して書くようになった。

 ちなみに「俗流若者論」というのは、ただ単に「俗流~~論」という呼び方の「~~」に「若者」を代入しただけの話です。他に適切な呼び方がなかったので、「俗流」というのがわかりやすいかな、と思ったわけです。

 ついでに「論座」の今月号についても触れておきますと、ブログ特集以外でも戦後60年特集とか、群馬大学教授の髙橋久仁子氏による「こんなにおかしい!テレビの健康情報娯楽番組」や、大阪府立大学専任講師の酒井隆史氏による「「世間」の膨張によって扇動されるパニック」は特に読ませます。しかも、編集長の薬師寺克行氏が、来月号からリニューアルすると公言しております(329ページ)。リニューアル後の「論座」がどうなるか、楽しみです。

千人印の歩行器:[働く編]おたく/フィギュア/ペット(栗山光司氏)
 堀田純司『萌え萌えジャパン』(講談社)という本を買いました。この本では、いまや2兆円市場となっている「萌え産業」の現状をルポルタージュしたもの。一応私はこの本は声優の項から先に読みました。声優の清水愛氏とか、大手声優プロダクションの一つである「アーツビジョン」社長の松田咲實氏や、漫画家の赤松健氏などのインタヴューも掲載されています。あと、ベネチア・ビエンナーレ国際建築展の「おたく:人格=空間=都市」のパンフレットも借りて読んでいます。

 ところで、マスコミが「萌え」を発見するときは、大きく分けて2つの場合があります。一つが、「萌え」が一大市場と判断されたとき。もう一つは、残虐な犯罪(特に少女が被害者となる性犯罪)においてその犯人がアニメやゲームや漫画に異常な嗜好を示していたとされるとき。しかし私は、どちらの見方に組しても理解(それが無理でなければ許容)には辿り着けないかと思います。

 なぜか。これは特に後者の形で「萌え」が発見されるときにいえることですが、よほどオタク的なものに理解のある記者(例えば、朝日新聞社「AERA」編集部の福井洋平氏や有吉由香氏など)が書いていない限り(大半のマスコミ人がそうですね)「オタクの世界は仮想現実で、それに没頭する人は異常であり、現実に生きることこそが至上である」と考えている節が大きいからでしょう。故に凶悪犯罪を起こすのは現実と空想の区別がついていない「異常な」奴であるから、という論理が形成される。

 まあ、確かに「萌え」で腹が膨れないことは誰にでもわかる。しかし、「萌え」というのは相手(キャラクターでもアイドルでも声優でもいいです)のある部分あるいは全体がその人にとって「萌える」と認識しているからこそ起こる。さらには虚構に対して欲望を持つことができるので、精神科医の斎藤環氏が指摘するとおり、こういう人たちこそ虚構と現実の区別が厳格である、とも言えるでしょう。マスコミは、そういう人たちが現にかなりの割合で存在するということをまず理解する、そこまでできないなら少なくとも許容する、という態度を持つべきです。もし誰かが現実の少女に対して政敵にか害してしまったら、その犯人は少なくともオタク的な性的嗜好からは逸脱している、と考えるほかないのです。

 石原慎太郎氏や日本経団連などは、オタク経済効果は認めていますけれども、オタクメディア規制も推進すべきだ、という考えの持ち主です。結局のところこのような人たちは、国民は経済的な成長だけにまい進していればよろしい、と考えているのでしょうね。しかしオタクの先駆性は経済とは別なところにあります。そもそも規制論の根本は自分が気に食わないから、という単純な理由でしょう。

 ちなみに「AERA」に関しても触れておきますけれども、「AERA」は平成17年5月30日号において、他の週刊誌が今年5月に起こった少女監禁事件に関してオタク・バッシングを書いていたのに、「AERA」はそれに関する記事はなしで、編集部の福井洋平氏が「メイド掃除でモテ部屋に」なる記事を書いていた。まあ、メイド喫茶ならぬメイド掃除サーヴィスの体験記ですが、ここまでやってしまう「AERA」はある意味すごい。

性犯罪報道と『オタク叩き』検証:フィンランド憲法・『may be』、アイルランド憲法・『shall be』
 海外のメディア規制の例が紹介されています。例えばフィンランドでは、憲法では青少年に有害だと思われる情報の規制は法律で可能である、としておりますが、実際には規制の対象になるのは映画やテレビだけで、また法律で規制できるといっても現状は業界の自主規制に任せていたり、さらには厳格な情報公開制度が整っていたりとか。あと、アイルランドがイギリスから独立した国であることを知らないでいる人とか。

保坂展人のどこどこ日記:佐世保事件から1年、長崎の教育は異常事態に(保坂展人氏:元国会議員・社民党)
 「心の教育」とは一体なんなのでしょうか。そもそも彼らの考えている「心」とはなんなのか。「心の教育」を推進すべきだ、という人たちは、現在の青少年の「心」は異常であり、彼らに正常な「心」を涵養しなければならない、といいます。しかし、正常な「心」とはなんなのでしょうか。殺人を犯さない?少年による凶悪犯罪(殺人・強盗・強姦・放火)は、昭和35年ごろのほうが現在に比して数倍深刻です。

 「心の教育」を推進すべき人たちは、結局のところ人々の心と現在を生きる青少年をイデオロギー化しているに過ぎないのです。彼らにとって青少年とは単なる人気取りの道具に過ぎない。そして俗流若者論の蔓延により、青少年をイデオロギー化する傾向が高まり、政治がそれと結託すると、青少年に対する敵愾心を煽ることがそのまま政治的な人気の高さになる。政治から実態としての青少年が消えるとき、我々は政治に何を見出すのか。青少年の意見を代弁する政治家よ現れよ、とは私は言わない。「青少年の意見」なるものを代弁できる人などいない。しかし、せめて「今時の若者」を冷静に見ることのできるような政治家は、ぜひとも現れて欲しい。

 お知らせ。まず、ブログで以下の文章を公開しました。

 「正高信男という斜陽」(7月25日)
 「俗流若者論ケースファイル39・川村克兵&平岡妙子」(7月27日)
 「俗流若者論ケースファイル40・竹花豊」(7月29日)
 「俗流若者論ケースファイル41・朝日新聞社説」(7月30日)
 「統計学の常識、やってTRY!第4回&俗流若者論ケースファイル42・弘兼憲史」(同上)
 「俗流若者論ケースファイル43・奥田祥子&高畑基宏」(8月2日)
 「俗流若者論ケースファイル44・藤原正彦」(8月5日)
 「俗流若者論ケースファイル45・松沢成文」(8月6日)

 また、bk1で以下の書評を公開しました。

 正高信男『考えないヒト』中公新書、2005年7月
 title:俗流若者論スタディーズVol.4 ~これは科学に対する侮辱である~
 岡留安則『『噂の眞相』25年戦記』集英社新書、2005年1月
 title:雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケズ
 斎藤美奈子『誤読日記』朝日新聞社、2005年7月
 title:皮肉に満ちた「書評欄の裏番組」
 赤川学『子どもが減って何が悪いか!』ちくま新書、2004年12月
 title:少子化を「イデオロギー」にするな
 二神能基『希望のニート』東洋経済新報社、2005年7月
 title:「希望」としての若年無業者問題

 さて、前から喧伝していた夏休み特別企画を次回更新からスタートします。企画の内容は、「俗流若者論大賞・月刊誌部門」です。要するに、平成12年から平成15年にかけて、月刊誌で発表された俗流若者論の中でも、特にひどいものに関する論評です。

 対象となる雑誌:文藝春秋、諸君!(以上、文藝春秋)、中央公論(中央公論新社)、現代(講談社)、世界(岩波書店)、論座(朝日新聞社)、正論(産経新聞社)、Voice(PHP研究所)、潮(潮出版社)、新潮45(新潮社)

 今日、以上の全ての雑誌のチェックが終わったのですが、平成12年・13年は大豊作(笑)でした。逆に平成14年は不作だった。厳選した結果、グランプリと準グランプリは以下の通りに決定しました。

 ・グランプリ
 平成12年
 「文藝春秋」平成12年11月号特集「「なぜ人を殺してはいけないのか」と子供に聞かれたら」、文藝春秋

 平成13年
 小林道雄「少年事件への視点」第3回・4回=「世界」2001年2・3月号、岩波書店
 小林道雄「Q49.少年犯罪」=「世界」2001年4月増刊号、岩波書店

 平成14年
 該当作なし

 平成15年
 山藤章二(編)「山藤章二の「ぼけせん町内会」いろは歌留多」=「現代」2004年1月号、講談社

 ・準グランプリ
 平成12年
 石堂淑朗「こんな「十七歳」に誰がした」=「新潮45」2000年6月号、新潮社
 武田徹「プログラム人間に「心」を」=「Voice」2000年11月号、PHP研究所
 澤口俊之「若者の「脳」は狂っている――脳科学が教える「正しい子育て」」=「新潮45」2001年1月号、新潮社
 長谷川潤「「ワガママ・テロル」の時代が始まった」=「正論」2000年7月号、産経新聞社
 工藤雪枝「平成“美顔男”たちへの憂鬱」=「正論」2000年9月号、産経新聞社
 工藤雪枝「ミーイズム日本の迷走」=「中央公論」2000年10月号、中央公論新社

 平成13年
 澤口俊之「「スポック博士」で育った子はヘンだ」=「諸君!」2001年8月号、文藝春秋
 ビートたけし「バカ母世代」=「身長45」2001年4月号、新潮社
 佐藤貴彦「残虐なのは誰か?」=「正論」2001年4月号、産経新聞社
 佐々木知子、町沢静夫、杢尾堯「検挙率はなぜ急落したのか」=「中央公論」2001年7月号、中央公論新社
 花村萬月、大和田伸也、鬼澤慶一「電車で殴り殺されないために」=「文藝春秋」2001年7月号、文藝春秋
 遠藤維大「自傷行為「リスカ」と日教組」=「正論」2001年9月号、産経新聞社
 片岡直樹「テレビを観ると子どもがしゃべれなくなる」=「新潮45」2001年11月号、新潮社
 清水義範「あたり前が崩れている恐ろしさを考える」=「現代」2001年11月号、講談社
 林真理子「この国の子どもたちは」=「文藝春秋」2001年12月号、文藝春秋

 平成14年
 「諸君!」平成14年2月号特集「日本を覆う「怪しい言葉」群22」から、林道義「子どもの自己決定権」、文藝春秋
 正高信男「日本語の「乱れ」とルーズソックス」=「文藝春秋」2002年9月臨時増刊号、文藝春秋
 田村知則「警告!子どもの「眼」がおかしい」=「新潮45」2002年10月号、新潮社
 野田正彰「「心の教育」が学校を押しつぶす」=「世界」2002年10月号、岩波書店

 平成15年
 藤原正彦「数学者の国語教育絶対論」=「文藝春秋」2003年3月号、文藝春秋
 和田秀樹「日本はメランコの中流社会に回帰せよ」=「中央公論」2003年6月号、中央公論新社
 清川輝基「“メディア漬け”と子どもの危機」=「世界」2003年7月号、岩波書店
 香山リカ、テッサ・モーリス=スズキ「「ニッポン大好き」のゆくえ」=「論座」2003年9月号、朝日新聞社
 小林ゆうこ「「母子密着」男の子が危ない」=「新潮45」2003年10月号、新潮社
 中村和彦「育ちを奪われた子どもたち」(聞き手:瀧井宏臣)=「世界」2003年11月号、岩波書店

 以上の記事を次回から論評します。ちなみに同じ著者のものは一つの論文にまとめて検証します。平成14年準グランプリの正高信男氏の記事は、この企画とは別のところ(正高信男批判の企画で検証します)で検証しますので、夏休み特別企画は「俗流若者論ケースファイル」25連発(!)になります。なお、論評の順番に関しては、まず各年の準グランプリを一通り検証したあと、最後に各年のグランプリを検証します。

 ちなみに、石堂淑朗氏の連載「平成餓鬼草子」(「正論」)は、相変わらず俗流若者論連発でしたが、別のところで検証するので採り上げませんでした。また、「世界」で連載されていた、瀧井宏臣氏の「こどもたちのライフハザード」も問題が大きかったのですが、これも既に書籍化されているので、そちらを批判するときに検証します(ただし書籍版では、事実上連載の最終回となる中村和彦氏へのインタヴューが掲載されていないので、こちらで採り上げました)。

 そういえば次回の更新でもって丁度このブログの100本目の記事になるので、このブログの新たなるスタートを飾るにふさわしい企画になるように極力努力します。

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2005年7月23日 (土)

トラックバック雑記文・05年07月23日

 お久しぶりです。最近このブログの更新が停滞していたのは、建築の課題を作っていたからですが、一応毎日アクセス確認はしていました。

 その確認をしていたときに判明したのですが、どうやら誰かがパチンコ関係のネット掲示板に私の記事へのリンクを何の文脈もなく、しかも私が投稿したものであるかのように貼っている人がいるようです。

 ここで申し上げておきたいのですが、まず私はその事実を知るまでその掲示板の存在を知りませんでした。また、たとえ掲示板に投稿する際でも、私は原則として本名でしか投稿しません。なので、その掲示板にさも私が貼ったかのごとく書かれている書き込みは、明らかに私のものではないのです(ちなみに最近「北の系」の掲示板に投稿した文章は私のものです)。

 確かにこのブログは、タイトルの近くにも書いてある通り、リンク及び転載は歓迎しております。私に提供したい情報があれば、どしどしトラックバックやコメントを投稿していただきたいものです(アダルトブログなどからのトラックバックは無条件に削除させていただく場合があります)。しかし、この場合は、明らかに私に対する誤解をあおるものであり、私はそのことで大変迷惑を被っております。

 まさかこのブログの常連の読者がそのようなことをするはずはないのだと思いますが、この文章を読んでいるのであれば、まずその行為をやめてください。

 ここからが本文です。
 フィギュア萌え族(仮)犯行説問題ブログ版:ガードレールの金属片の謎、解明される(古鳥羽護氏)

 本の2ヶ月ほど前、あれほど我が国を騒がせた「ガードレールの謎の金属片」問題も、今ではまったく聞かれなくなりましたね。で、最近になって、ようやくその「原因」がわかったらしい。ここで引用されているNHKのニュースによると、車がガードレールにこすれたときに車の金属がはがれて、あのような形の金属片が生成されてしまうとか。

 それにしても、この記事における結びの言葉が極めて秀逸ですね。

 さて、この現象を、「テレビゲーム世代」、「2ちゃんねらー」、「ひきこもり」、「ニート」による人為的なイタズラであると決め付けたコメンテーターたちは、明日からテレビに出ないで欲しいものです。

 まったくもって正しいですね。しかし、これはテレビのみならず新聞も同じでしょう。私の家では読売新聞を購読しているのですが、このことを取り扱った第1社会面の記事で、2人の自称「識者」がコメントしていましたが、そこに掲載されていた、漫画家の弘兼憲史氏の発言がひどかったことを記憶しています。曰く、「このようなことがインターネットを通じて広く行われるようになるひどい社会になってしまった」と(うろ覚えで申し訳ありません)。この現象に関して、何でもかんでも「今時の若者」のせいにしてしまった人たちは、まず最低条件として1年ほどコメンテーターとして参加するのを自粛してくださいね。

 また、先ほどの話題とかなり関係があるのでここも採り上げておきましょう。

 週刊!木村剛:[金曜日ゴーログ]さすがにマスコミは「叩く相手」を知っている!(木村剛氏:エコノミスト)

 今年のバレーボールのワールドカップは、我が街仙台で行なわれましたけれども、そこでジャニーズの某グループとフジテレビの某アナウンサーの不祥事がありましたね。まあ、この問題に関しては、多くの人が知っていると思うので改めて書く気はありません。木村氏のブログで事件の概要がおさらいされているのでそちらを読んでください。

 それにしても、木村氏のブログでも触れられているのですけれども、本来であればこの手のネタは格好のワイドショー報道の材料になるはずなのですけれども、あまり報じられていないようですね。さすが、身内には甘い、というべきか。

 身内には甘い、ということで私が真っ先に思いつくのは若年層に関する報道や言論です。例えば我が国の左派論壇において、「今時の若者」を嘆くために「戦後」を持ち出すような歴史修正主義が増えています。これでは「今時の若者」を嘆くために「戦前」を持ち出すような右派の歴史主義者となんら変わるところはありませんよ。しかし、左派論壇の人たちは、彼らを右傾化したと批判したり指摘したりしない。特に筑紫哲也氏は、筑紫氏が今や(というよりもずいぶん前からか)左派論壇のトップスターであるということもあってか、いかに「週刊金曜日」の連載で復古主義的なナショナリズムを煽っていても(「俗流若者論ケースファイル10・筑紫哲也」を参照されたし)、そのような言論を右傾化だとか指摘する人はいません。筑紫氏ほどではありませんけれども、吉田司氏や斎藤貴男氏なんかもこの傾向が現れ始めていますね。特に斎藤氏。斎藤氏は、かの曲学阿世の徒・京都大学霊長類研究所教授の正高信男氏のトンデモ本『ケータイを持ったサル』(中公新書)を、朝日新聞と、著書『人を殺せと言われれば、殺すのか』(太陽企画出版)と『安心のファシズム』(岩波新書)で絶賛していた。そのような斎藤氏の文章を読んで、私は「いったい、斎藤貴男はどうなってしまったのか!」(もちろん、斎藤氏と魚住昭氏の共著『いったい、この国はどうなってしまったのか!』(NHK出版)のパクリです)と驚いてしまいました。「サイゾー」の今月号で、例の宮台真司氏と宮崎哲弥氏の対談において、宮崎市が斎藤氏のことを「頭は左翼だが、体は半分保守オヤジに浸かってしまっている」状態であると批判していましたけれども、「頭は左翼、体は保守オヤジ」という人たちが多すぎます。左右関わらず、「体が保守オヤジ」の人々によって現在の言論界が支えられているから、このような事態が生じるのでしょうかね。

 それにしても、彼らの考える「国家」とはなんなのでしょうか。

 ン・ジュンマ(呉準磨)の備忘録:ナショナリズムとは、つまり「国民国家の虚偽意識」か
 弁護士山口貴士大いに語る:カスパルがうさんくさい要望書をエロゲー関係各社に送ったようです(山口貴士氏:弁護士)
 kitanoのアレ:反性教育の動向(6)

 なぜ、俗流若者論に寄りかかる歴史修正主義者の思考を考える上でこのような記事を持ってきたか。それは、まさに彼らの「国家」が彼らを正当化するためだけの道具に過ぎない、ということを言いたいのです。

 山口氏のブログでは、アダルトゲーム規制を推進する団体がアダルトゲーム業界に怪文書を送ったことが報告されています。しかし、なぜこの団体はアダルトゲームにこだわるのでしょうかね。アダルトゲームにこだわりすぎると、犯罪の実像はまったく見えなくなりますが、彼らにとっては見えなくてもいいのでしょうか。所詮は自分の「理解できない」ものを国家によって規制しろ、といいたいわけですね。超国家主義と生活保守主義の最悪の結婚です。

 また「kitanoのアレ」では、中教審が高校生以下の性行為を認めない、という決定をしたようです。ここで引用されている共同通信の記事を読んでいると、嗚呼、やはり我が国は「言霊の国」だ、と嘆きたくなります。中教審の皆様方は、とにかく駄目だと言っていれば解決する、と思い込んでいるのですからね。考え方が甘すぎやしませんか。
 この2つに共通するのは、「強い国家」によって「今時の若者」を「是正」することを目的としていることでしょう。彼らが「今時の若者」に対して不快感を持っているのはよくわかります。しかし、その「解決」のために国家を持ち出し、「国家」に自らの「癒し」を求める、という態度は果たして正しいのか。私はそうは思いませんね。私だって、俗流若者論を批判する立場にある身であっても、やはりメディア的な「今時の若者」に不快感を覚えることはありますよ(仙台ではあまり見かけませんが)。しかし、そんな個人的な感情を、現代の若年層における「国家」意識の喪失なる論理と無理やり結びつける、という行為は、はっきり言って良識ある大人の行為ではないでしょう。

 今や国家は、「今時の若者」に対する個人的な恨みつらみを晴らしてくれる存在でしかなくなりつつあります。真面目な国家主義者は、直ちにこの状況を批判すべきでしょう。

 ヤースのへんしん:皆の道

 日本最速の161キロを記録した横浜ベイスターズのマーク・クルーン投手にあやかって、横浜市の市議より「市道鴨志田161号」に「クルーンロード」という愛称を付けようという動きが持ち上がってるらしい。

 うわあ、莫迦莫迦しい(笑)。もちろんこの記事の筆者も莫迦莫迦しいと思っていますが。

 この文章を読んで、東北大学助教授の五十嵐太郎氏(『戦争と建築』『過防備都市』の著者です)の授業において、北朝鮮の建築のスケールや装飾の数(例えば金日成広場の正面にある「主体思想塔」の高さ)が北朝鮮の革命史とか金日成にまつわる数字とかにあわせられている、ということが語られていたことを思い出しましたよ。

 このようにセンスもなく、ただ単に人気にあやかっただけの地名や愛称が、その後においてどのように語られるか、ということを考えてみるとなんだか滑稽に思えてきます。野球の選手が日本催最速の等級速度を出した、だからこの道路にそのような愛称がついたのだ、と言われても、その知名に愛着を持つ人がいるのでしょうかね。どうも疑問に思ってしまう。

 minorhythm:夏本番っ☆(茅原実里氏:声優)
 ひとみの日々:夏バテ?(生天目仁美氏:声優)

 仙台の梅雨明けはまだですが、いよいよ本格的な夏が始まりました。私も、本日、長かった建築の課題が終わり、いよいよ夏休みに入ります(補講とか試験とか提出とかたくさんありますが)。余暇の時間が多くなるので、このブログの更新頻度も多くなるでしょう。後はアルバイトが欲しい。私は「家庭教師のトライ」に所属しているのですが、現在生徒を持っていない状況です。なので、積極的にトライのほうに電話をかけて、新しい生徒はいないかといっております。さぞかしトライの仙台支部も迷惑千万でしょう(笑)。

 アルバイトがないなら、夏休みは物書きに徹しますか。一応現在検証待ちの文章もいくつかありますが、8月初旬からは夏休み特別企画を行なうことを考えております。
 それは「俗流若者論大賞」。平成12~15年に後で挙げる雑誌に発表された俗流若者論から1年ごとに、準グランプリを3~5本、そしてグランプリを1本ノミネートしようと思います。なので、この特別企画の期間中は、カレントな俗流若者論の批判はしばらくお休みになります。

 対象となる雑誌:文藝春秋、諸君!(以上、文藝春秋)、中央公論(中央公論新社)、現代(講談社)、世界(岩波書店)、正論(産経新聞社)、Voice(PHP研究所)、論座、週刊朝日、AERA(以上、朝日新聞社)、Yomiuri Weekly(読売新聞社)、サンデー毎日(毎日新聞社)、週刊金曜日(金曜日)

 また、雑誌に投稿するために、ここでは公開しない文章も執筆するつもりです。とりあえず現在執筆予定なのが「疑似科学の潮流と俗流若者論」とか「俗流若者論が生み出す歴史修正主義」とか。というのも、先月の頭ごろに、このブログの記事「壊れる日本人と差別する柳田邦男」を「論座」編集部に投稿したときに、編集部から既に発表された文章は掲載できないと電話がかかってきましたので、雑誌投稿向けに、これまでの私の俗流若者論批判を一つのテーマにまとめて、俗流若者論という言論体系にあまり明るくない人にも読んでもらえるような文章に仕上げるつもりです。もし投稿してから1ヶ月以上反応がなければ、ここで公開するつもりです。

 それから、前回の雑記分から、以下の記事を公開したので、是非読んでください。

 「俗流若者論ケースファイル35・斎藤滋」(7月10日)
 「俗流若者論ケースファイル36・高畑基宏&清永賢二&千石保」(7月13日)
 「俗流若者論ケースファイル37・宮内健&片岡直樹&澤口俊之」(同上)
 「俗流若者論ケースファイル38・内山洋紀&福井洋平」(7月16日)

 そうそう。あさってはついに我らが仇敵(だったのか)・正高信男の新刊が発売される日ですよ。

 正高信男『考えないヒト』中公新書、2005年7月25日発売予定

 中央公論新社のウェブサイトでは、《通話、通信からデータの記憶、検索、イベントの予約まで、今や日常の煩わしい知的作業はケータイに委ねられている。IT化の極致ケータイこそ、進歩と快適さを追求してきた文明の象徴、ヒトはついに脳の外部化に成功したのだ。しかしそれによって実現したのは、思考の衰退、家族の崩壊などの退化現象だった。出あるき人間、キレるヒトは、次世代人類ではないか。霊長類研究の蓄積から生まれた画期的文明・文化論》と紹介されています。まあ、帯を見る限りでは、おそらく『人間性の進化史』(NHK人間講座テキスト)をさらに拡大したものになるのでしょうか。しかし、あのテキストだけでは新書というサイズにまとめることができないので、ある程度加筆することになるのでしょうけれども、少なくともこの本が彼の疑似科学路線を突っ走った本になることは間違いないようです。

 皆様、この機会に、正高信男という曲学阿世の徒について復習をしてみましょう。

 まず、私の正高信男批判を。

 「正高信男という病 ~正高信男『ケータイを持ったサル』の誤りを糺す~」(平成16年11月7日)
 「正高信男という堕落」(平成16年12月4日)
 「またも正高信男の事実誤認と歪曲 ~正高信男という堕落ふたたび~」(平成17年2月24日)
 「正高信男という頽廃」(平成17年3月8日)
 「正高信男は破綻した! ~正高信男という堕落みたび~」(平成17年4月5日)
 「暴走列車を止めろ ~正高信男という堕落4~」(平成17年7月3日)
 私の正高信男批判を全部読みたい方はこちら

 また、他のブログにおける正高信男批判も紹介しておきます。

 えこまの部屋:[社会]EMYさんへの返事[社会]少子化対策ぅぅ~~?(着地点はコレかよ!)

 はぁ・・・?
 これケイタイを持つ者へのなんらかの批判と啓蒙の書だったのではないのですか?
 (少なくともそれを期待し彷彿させるタイトルだったんですが・・・)

 百万歩譲って「この本は本当は少子化対策の本だった」として、
 この程度の提案(少子化対策案)って・・・
 なんだか高校生の子が、もしくは家政科の短大生が明日提出で急いで仕上げた
 「私が考える少子化対策レポート」みたいに思えるんですけれど・・・。

 脱力である。

 ふたたびEMYさんのコメント再生
 >読まなくて正解と思います。

 ほ・・・ほんほひそうらね、EMYひゃん。(ほんとにそうだね、EMYさん)

 ちなみにこの記事では、このブログではおなじみの「千人印の歩行器」の栗山光司氏が私の文章を紹介しております(この記事が「堕落みたび」にトラックバックされているのもそのためでしょう)。この記事は、一般読者の立場から正高本に突っ込みを入れております。

 思考錯誤:[note] 『ケータイを持ったサル』か?(辻大介氏:社会学者)

 しかしだな、その実験の解釈や議論の組み立てかたは、やはりトンデモと言わざるをえないところがある*1。いかに優れた自然科学者であっても、生半可に社会評論に手を出してしまうと、こんなことになってしまうんかいなと愕然としてしまう。お願いだから、正高さんには、こっち方面からはとっとと手を引いて(どうせ片手間しごとなんだし)、着実に本業を進めてほしいと切に思う。優秀な人が道を誤っちゃいけない。

 本当にその通りであります。

 あと、オフラインの正高批判も挙げておきます。

 宮崎哲弥「今月の新書完全読破」2003年9月分=「諸君!」2003年12月号、文藝春秋

 私には呆れるほど杜撰で、学者としての良心すら疑いたくなる内容なのだが、新聞などの書評は押し並べて好意的だった。
 日本人が「退化」しているかもしれないという危惧にだけは同意してもよい。私の危惧は、著者を含めたインテリ層の知的能力の「退化」に対するものだけど。(280ページ)

 岸本佐知子「(ベストセラー快読)おじさんも「感動した!」」=2004年3月28日付朝日新聞

 この本の悪口を言うのは簡単だ(オヤジの主観丸出しだとかトンデモ本じゃないのかとか女になにか恨みでもあるのかとか)。が、そんなことはこの際どうでもいいのだ。著者は、学者として何より大切な客観性を投げうち、神聖な研究対象をネタに使ってまで、世の虐げられたおじさんたちを勇気づけようとしているのである。何と崇高な犠牲精神であろう。

 斎藤美奈子「(斎藤美奈子 ほんのご挨拶)サルとヒトの区別ない 印象のみの比較論」=「AERA」2003年12月8日号

 ※備考:この「ほんのご挨拶」をまとめた本が、斎藤氏の最新刊の『誤読日記』(朝日新聞社)として刊行されています。私はまだ読んでいないのですが、おそらく正高本への批判も収録されているでしょう。

 相手がサルだと社会統計学の原則に則る必要もないんですね。
 ……こんな乱暴な比較論もサルだから許されるわけです。ヒトの家族論、若者論、コミュニケーション論等がいまやこれだけ出ているのに、参照しないってのもすごい。

 皆様、来る25日に向けて、完全に論理武装をしておきましょう(笑)。

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2005年7月10日 (日)

トラックバック雑記文・05年07月10日

 大きな文章を立て続けに公開して、最近はかなり力が抜けています。建築の課題もあるのに。いいのか俺(「コンパクト建築設計資料集成」は熟読していますが)。

 というわけで、平成17年下半期に入っての初めての雑記文ですよ。と、アンニュイなモードで行こうとと思ったのですが、そうは問屋が卸さないようで…。

 週刊!木村剛:[ゴーログ] 「有害情報判定委員会」は創設されるのか?(木村剛氏:エコノミスト)
 kitanoのアレ:村田吉隆公安委員長「インターネットを規制すべきだ」
 やれやれ、またインターネット規制論ですか。この手のメディア悪影響論って、どうしてかくも支持を得てしまうのでしょうかね。

 なるほど、確かに最近の事件に関してインターネットがある程度関わっていた、ということは確実に言えるでしょう。しかし、だからといって、世の中にはインターネットを使う人がたくさんいて、それでも彼らの大半は犯罪を起こさない。事実、我が国において少年凶悪犯罪の件数は昭和35年ごろに比べれば激減しています。インターネットも今のようなポルノもなかった時代に、少年による凶悪犯罪が約3倍起こっていた。また、「少年犯罪データベース」という熱心なサイトがあるのですが、そのサイトを見る限りでは、「質の凶悪化」もまったくのうそだということがわかります。

 所詮、俗流若者論とは、自分をタブーにすることによって自らをまったく傷付かない場所に置くための武器なのですね。自分は「想い出」というイデオロギーに浸ることによって自らの世代が少年だった頃の凶悪犯罪を不問にして、今の青少年に対して強権的な政策を正当化するための方便なのですよ。

 「有害である」「有害ではない」なんて、どうでもいい話じゃないですか。もちろん既存の法律に反するようなもの(個人情報の暴露とか)はその人の良心によって規制されるべきですが。でも、さまざまな表現が混在している社会こそ健全な社会なんですよね。政府によって何らかの基準が決められて、それが「青少年に有害」という理由で規制されてしまう、というのはまさに言論統制ですよね。

 そもそも彼らの脳内において「青少年」とはどういう存在なんでしょうかね。私が思うに、それは限りなく無垢な存在です。当然悪い意味でですよ。要するに、暴力的な画像を見たら、すぐさま暴力は許されると思い、そしてすぐ暴力行為に走る。少女が陵辱されるゲームの画像を見たら、すぐさま少女への陵辱が許されると思い、そしてすぐ陵辱行為に走る。こういう存在です。彼らの想定している脳内青少年には、常識的な判断力がない。善悪の判断がつかない。全てが映像によって決められる。そういう存在として見られているのですよ、今を生きる青少年諸君!

 これが偏った青少年観と言わずして何というのでしょうかね。これこそ彼らの中でヴァーチャルが現実を凌駕してしまった、というよりも陵辱してしまった事態ですよ。もちろん、ここで言うヴァーチャルとは俗流若者論によって構成された「今時の若者」という虚像のこと。俗流若者論というフィルターによってのみ現代の青少年を見られなくなっているのだとしたら、それは極めて悲しいことです。

 minorhythm:赤(茅原実里氏:声優)
 茅原氏曰く、

 赤いラグマットに、赤いゴミ箱…。
 最近やけに“赤”にこだわる私。何かと赤が気になる私。
 なんなんだ?(笑)

 色彩の指向というものは、その人の精神状態などを表す指標となり、また、色彩はインテリアにも大きな影響を及ぼします。例えばあなたが赤ばかりの部屋で過ごしたらどうなるでしょうか。心が温かくなる?情熱的になる?感じ方は人それぞれでしょうが、少なくとも何らかの影響を及ぼすのは確かだと思います。

 まあ、赤ばかりの部屋にしてしまうのもいかがなものか、と思いますが。でも、その時々の気分をインテリアに反映させるというのは、さして悪いことではないのだと思います。
 余談ですけれども、俗流若者論を色で表すとどうなるでしょうね。黒?いや、そんな統一感のあるものではないでしょう。さしずめ言うならば、色なんてありません。さまざまな色が汚く交じり合って、結局色とはいえない色が形成されたグロテスクな空間ですよ。

 だいずのイソフラボンジュール:宙:七夕なくして・・・(水島大宙氏:声優)
 世間では七夕の季節ですね(もうちょっとだけ過ぎましたが)。でも、仙台では七夕は8月7日ですから!残念!!

 私が仙台市成人式実行委員をやっていた頃、仙台の七夕の歴史について調べていました。そのときに仙台の七夕にはいろいろな物語があることを改めて感じて、感慨深くなりました。もちろん、さまざまな商店や企業による豪華絢爛な七夕飾りも見ものですが、例えば飾りには全て和紙を使っているとか、時代の変遷に対応しつつ伝統を守り続ける姿にも目を向けるべきでしょう。それもまた、七夕の楽しみ方です。

 いずれにせよ、七夕を逃してしまった万国のプロレタリアート諸君、まだ仙台がある!是非見に来てください。

 お知らせ。以下の文章を公開しました。
 「俗流若者論ケースファイル30・森岡正宏&杉浦正健&葉梨康弘」(6月28日)
 「2005年4~6月の1冊」(7月1日)
 「2005年上半期の1曲」(7月2日)
 「俗流若者論ケースファイル31・細川珠生」(7月3日)
 「暴走列車を止めろ ~正高信男という堕落4~」(同上)
 「俗流若者論ケースファイル32・二階堂祥生&福島章&野田正彰」(7月6日)
 「俗流若者論ケースファイル33・香山リカ」(7月7日)
 「俗流若者論ケースファイル34・石原慎太郎&養老孟司」(7月9日)

 それにしても、石原慎太郎氏の暴走はどこまで続くのでしょうかね。「俗流若者論ケースファイル11・石原慎太郎」も参照してほしいのですが、このような人が都政を預かっているということ自体が疑問の種になろうというもの。

 メディア規制首都圏連合の形成も、もう目前なのでしょうかね。松沢成文氏も、もはやトートロジー(同語反復)に陥っているし。

 最近古典をよく読んでいます。丁度最近ニーチェの『アンチクリスト』が『キリスト教は邪教です!』となって講談社+α新書(適菜収:訳)から出ていますけれども、他にもマックス・ヴェーバーの『職業としての政治』(脇圭平:訳、岩波文庫)なんかも読みました。今読んでいるのはヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(大塚久雄:訳、岩波文庫)ですけれども、この本を読んでいると、いかに俗流論壇人のフリーター・若年無業者たたきが低俗で非歴史的なものであるか、ということがわかりますね。現代の良識ある学者や実践者の文章を読んでも俗流論壇人の低俗ヘタレぶりがわかるのですから、いわんや古典をや、です。

 あと、このブログの右側にある「おすすめブログ」に、以下のブログへのリンクを追加しました。いずれもよくできているブログですので、是非読んでください。

 「本日の「産経SHOW」
 「弁護士山口貴士大いに語る
 「森昭雄研究所

 もう一つ。マガジンハウスが発行している月刊誌「ダ・ヴィンチ」の新書新刊のページを読んでいたら、中公新書のところで目が止まりました。そう、あの曲学阿世の徒が中公新書から新刊を出す!

 正高信男『考えないヒト』中公新書、2005年7月25日発売予定

 この男の最近の仕事のひどさに関してはもうここで散々批判している通りですが、この本もまた疑似科学路線まっしぐらのトンデモ本になるのでしょうか。内容によっては、「正高信男という斜陽」(仮題)で、なるべく早く検証します。ですので、皆様も今のうち警戒しておいてください!

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2005年6月22日 (水)

トラックバック雑記文・05年06月22日

 冬枯れの街:「無駄な星なんてあるわけがないだろ?」
 先日の「トラックバック雑記文・05年06月18日」で「河北情けないよ河北」と私がもらした記事(河北新報:落書き、知力低下反映? 単純な絵などばかり 仙台)について、ココログで「落書き」と検索をかけてみたら、かなりの数のブログがこれに言及していたので、先日のものでは書ききれなかった論点についてもう一度書いておきます(ちなみに私は仙台在住の東北大学工学部建築学科の3年生であり、仙台に溢れる落書きには心を痛めている者であります)。

 ちなみにこれに言及していたブログを挙げておきます。

 c572 blog:落書きに知的水準が低下?
 Sleeping Sheep:知力の低下。
 トウグウタクミの書道でGO!:「国語力」って何でしょう?
 ++ zakkan ++:このニュース・・・
 週刊?コヰズ::実況中継:落書き・ミネラルウォーター・熊本深夜便
 ひとこと:落書き
 Books and Cafe:グラフィティアートのレベル低下?
 諸般の事情亭・地域面:人類の退化と・・・
 パンダの戯れ言:レベル低下
 日々是決算、親身の集金:イタズラも知的センスが必要

 この記事に関する問題点は次のとおりです。

 1、仙台に書かれていた落書きの傾向について、そこから「今時の若者」を語ることができるのでしょうか。

 2、そもそも、落書きというものは「器物損壊罪」なのではないでしょうか。たといそれが「器物損壊罪」であったとしても、それにたいして何らかの美や主張が許されるのなら、それは社会的に許されるものなのでしょうか。

 3、そもそもこのような記事に、ジャーナリズムとしての存在意義がどれほどあるのでしょうか。

 以上の3つの論点について、私が持った違和感を書いておきます。

 「1」。そもそもこのような落書きに関しては、そのほとんどが社会的に恵まれない層、あるいは社会から逸脱している層によって書かれている、ということは、本来であればその人たちに起こっている質的変容を問題視するべきではないでしょうか。また、そもそもこれらの落書きを書く人が、若年層全体から見てどれほどの割合いるのでしょうか。そして、安易に彼らが現代の若年層の知性を代表している、という考え方にも、疑問を感じずにはいられません。さらに、仙台以外の地域との比較もないのも、これまた疑問の種でありましょう。

 「2」。そもそも、落書きの美醜は誰によって決められるものなのでしょうか。これは、先日の「松文館裁判」の冤罪判決にもつながるものですけれども、ある「刑法犯のおそれのある行為」に対して、それが「美しければ」よし、「醜ければ」駄目、というのであれば、その線引きを誰が決めるのでしょうか。落書きという行為は、それ自体が「器物損壊罪」という犯罪行為なのですから、もしここで問題にされている落書きが規制されるべき、というのであれば、その美醜に関わらず、落書きという行為は全て規制されるべき、といわないと、プリンシプルというものがありません(以上の観点から、私は、明確な被害者が存在している落書きは規制すべきで、明確な被害者の存在しないアダルト漫画は規制されるべきではない、と考えます)。

 「3」。正直言って、このような記事が平然と流通してしまうことに、わたしは心を痛めております。リンク先のブログにも、「愚民化政策の結実」だとか「教育の失敗」だとか安易に語っているところが目立ちますけれども、そもそもこのような記事は、所詮は「酒場の愚痴」程度のものにしかなりえないのではないでしょうか。これらの「憂国」言説は、はっきり言って極めて政治性の強いロールシャッハ・テストでしかありません。

 結局は、みんな、「今時の若者」をバッシングすることによって、「自分は「正義」である」という幻想に浸りたいだけなのです。この記事は、そのような俗流若者論の「願望」を、見事に表している、というほかありません。

 かように志の低い記事が乱造されて、若年層全体がいわれなきバッシングに晒されてしまう、という現在の状況を、私は悲観しています。思えば、「理解できない」少年凶悪犯罪がひとたび起これば、最近はワイドショーのみならず「まともな」報道機関でさえも、安易に「原因」なるものを求める方向に走って、お決まりの如く渋谷や原宿や秋葉原に出向いて、ありもしない不安ばかり煽るようになってしまっています。要するに、目の前の「象徴的」事件と、巷で(ワイドショー趣味的に)語られている「問題」を強引に結びつけることによって、若年層に対する不信ばかりを煽る。この記事は、そんな悪しき流れに掉さしたものに過ぎないのです。

 私は河北新報に、過去4度ほど文章を掲載させてもらった恩義があり、原稿料も頂いたことがあります。しかし、そんな河北新報が、これほどの志の低い記事を書いていることに、私は怒りを隠しきれません。この記事の問題点も咀嚼せず、安易に受け入れている人たちも、これでいいのですか?

 それにしても、いつから、過去の落書きが「アート」として許容されるようになったんだ?昔も、それらに対して、多くの市民が怒ってたのにねえ。っていうか、なんだよ、「グラフィティアート」って。

 皆様。仙台市民として、この程度の落書きよりも憂うべき事件があるのではないですか?

 kitanoのアレ:議場飲酒議員問題:「明らかに数人が酔っていた」
 日課として、「kitanoのアレ」を何気なく読んでいたら、聞き覚えのある名前が私の目に飛び込んでしまい、一気に眠気が覚めました。

 秋葉賢也!?

 そう、先日、平成15年の衆院選に関する運動員のスキャンダルによって、引責辞任した民主党の鎌田さゆり議員の補選で今年当選した、自民党の秋葉賢也氏(宮城2区:仙台市宮城野区、太白区、若林区)です。「kitanoのアレ」で引かれている日経新聞の記事によると、その内容は以下のものだそうです。

 17日夜の衆院本会議に、数人の自民党議員が「酒気帯び」で出席したことに野党が反発、会期延長の議決が予定よりも30分ほど遅れた。

 本会議は午後5時に休憩に入り、午後9時前に再開。議決反対の討論に立った社民党の阿部知子氏が赤ら顔の議員を見とがめ、「即刻、退場すべきだ。『酒気帯び国会』を延長する必要はない」と声を張り上げた。

 これを聞いた自民党の秋葉賢也氏は議場閉鎖中にもかかわらず退場。場内はさらに騒然とした。

 河野洋平議長が投票を呼びかけたが、野党はしばらく応じず、一時は徹夜かとの憶測も飛び交った。

 民主党の岡田克也代表は本会議後の党代議士会で「小泉純一郎首相と森喜朗前首相も赤い顔をして投票していた。いかにいいかげんな国会か分かる」と批判した。

 なんと、酒を飲んでいたから議事に遅れた!

 しかも、秋葉氏は、そんな行為に対する当然の批判を民主党や社民党の議員に注意されたら、議場閉鎖中にもかかわらず退場してしまった!しかも、この議会は、国会の会期延長を議論し、さらにその議決を行なう日だった!

 これでいいのでしょうか。

 そして、このような議員や、このような議員を支持した人に対して、なぜ「知力低下」のレッテルが貼られないのでしょうか。

 実に不可解です。

 以上のことからもお分かりですね。俗流若者論とは、所詮は権力に媚び、問題の論点を逸らし続け、より大きな問題や権力に対する疑問を隠蔽し、大衆の批判の方向を権力ではなく若年層に向けることによって、本当の問題を隠蔽してしまう。

 また、「醜悪な」落書きが「知力低下」の象徴としてバッシングされるのに、「醜悪な」都市計画が「知力低下」の象徴としてバッシングされないのはなぜなのでしょうか。

 目に映る21世紀:秋葉原と下北沢の再開発ってどうよ? ~キール&NINEでトークpart1
 週刊!木村剛:[週刊!尾花広報部長] ついに萌えのまち秋葉原に進出しました!(尾花典子氏:日本振興銀行広報部長)

 以前の雑記文でも何度か書きましたが、秋葉原に行ったとき、秋葉原駅前に建っている大きな再開発ビルに、とてつもない違和感を感じました。また、以前に「目に映る21世紀」や保坂展人氏のブログで、下北沢の再開発が批判されていることにも触れました。

 現在行なわれている「都市再生」によって、さまざまな箇所でその地域の地域性が破壊されている、という指摘がさまざまなところで行なわれていますが(五十嵐敬喜、小川明雄『「都市再生」を問う』岩波新書など)、私はその実態を、秋葉原に行って肌で感じ取りました。読者諸賢も御存知の通り、秋葉原はオタクの都市として有名ですが、秋葉原駅前にそびえ立つ再開発ビルは、オタク的なるものにたいする国家権力の規制の象徴として建っているように見えました。あのようなビルが秋葉原に建つことに、一体何の意義があるのか。秋葉原は雑然としたオタクの街でいいじゃないか、とここで叫んだとしても、所詮は流れを止めることができないのでしょうか。

 秋葉原におけるオタク規制と歩調を合わせてかどうかはわかりませんが、最近はさまざまなマスコミにおいてオタク・バッシングがよく見られます。この間の少女監禁事件にしても、犯人の性癖がオタク趣味に傾いていることから、いかにオタクが犯罪的であるか、ということを喧伝していたように思えます。

 しかし、この少女監禁事件の犯人・小林泰剛は、正確に言えば「オタクの皮をかぶった鬼畜」です。なぜか。それは、オタクの性的嗜好は「二次元の美少女に対して欲情する」というもので、二次元の美少女に対して欲情できず、凶悪な性犯罪に走ってしまう、というのは、オタクの性的嗜好を逸脱しているからです。

 あと、例えば「オタク」だとか「アダルトゲーム」だとかに対する印象論だけで、架空の「専門家」まで捏造していかにそれらが危険であるか、という記事を夕刊フジがウェブ上で書いていたそうですね。もちろん、その後は訂正されたようですが。それにしても、夕刊フジと言えば、JR福知山線の脱線事故に関しても、森昭雄を召還して犯人が「ゲーム脳」だと疑う記事を書いていましたね。夕刊紙だから何でも許される、ってわけじゃねえんだよ。

 皆様、お分かりになられたでしょうか。俗流若者論を容易に受け入れる人たちは、「「今時の若者」は政治にまったく関心がない」と愚痴りますけれども、政治に関心がないのは、むしろ俗流若者論のことではないですか。俗流若者論は、「今時の若者」を安易にバッシングして、若年層に対して敵愾心を煽ることには至極長けていますが、政治の動きを読み取り、その流れが正しいものであるかを判断する、ということに関しては、極めて疎い。そして、多くの人たちが、そのような俗流若者論に心酔している。そうなると、政治は「今時の若者」に対する敵愾心を回収するだけのものになってしまいます、というよりも、その萌芽が出始めています(メディア規制や教育基本法の改正など)。

 俗流若者論に心酔することは、昨今の政治の危険な流れに賛同する、ということに他なりません。それでもいいのであれば、どうぞ俗流若者論に賛同してくださいね。

 保坂展人のどこどこ日記:日韓首脳会談の不実と小泉政権(保坂展人氏:元衆議院議員・社民党)
 正々堂々blog:日韓首脳会談を憂う(川内博史氏:衆議院議員・民主党)

 日韓首脳会談が行なわれていますが、少なくとも保坂氏や川内氏の視点から見ると、どうもこの首脳会談はうまくいっていないようです。

 この首脳会談の内容にすいてはあまり存じ上げないのですが、昨今の日韓関係、あるいは日中関係について少し想うことを言わせてもらうと、私はお互いに対する「敵愾心」を排除して、真摯に向かい合わなければ解決し得ないと思います。

 中国や韓国の反日デモは言わずもがな、それに過剰に呼応する政府・自民党の人たちや俗流右派論壇人の人たちも、単なる「反・反日」に熱中しているだけで、「反日」に真摯に向かい合おうとしている人たちは、むしろ左派に多いと思います。

 日韓・日中関係に限らず、これは若年層に対する態度についても同様に言えます。マスコミの若年層に対する態度は、安易なイメージばかりが先行して、若年層の抱える問題について地味ながらも正面から向き合っている人は、むしろあまり読まれないような雑誌や書籍によく登場しています。しかし、マスコミがただ部数とかなんかの理由で派手な若年層バッシングばかりやっている状況では、社会や政治と若年層が歩み寄る、ということはまずありえないでしょうね。

 ひとみの日々:おらんうーたんとわたし(生天目仁美氏:声優)
 ここまで政治的な話をしすぎたので、ここで落ち着きましょう。

 生天目氏は動物園に行ったそうですが、たまには自分の生活空間(私の場合は、住宅地と、大学のキャンパスと、仙台の中心市街地)とは違う場所に行ってみるのもいいものです。自分の生活空間を抜け出し、環境の違う場所に行くと、心が洗われます(その場所の環境にもよりますが)。

 私は最近、1年ほど行っていなかった宮城県美術館に行ってきたのですが、東北大学写真部の展示会が行なわれておりました。また、宮城県美術館の空間的な雰囲気は、都市的な、あるいは住宅地の生活環境に慣れ親しんできた者にとっては、また違った感覚を味わうことができます。

 千人印の歩行器:[時事編]地下構造ダイビング(栗山光司氏)
 「俗流若者論ケースファイル29・吉田司」を公開しました。この文章で採り上げた吉田氏の文章に対して、私が朝鮮戦争というファクターを無視している、と書いたところ、栗山氏から朝鮮戦争時の栗山氏の生活に関する実体験が書かれている文章がトラックバックされたので、興味がある方は一読を。

 それにしても、栗山氏の次の文章は、我々が真摯に考えなければならない論点が含まれているような気がします。

 後藤氏の俗流若者論に対する批評はマットウですね。しかし、「今時の若者云々」はいつの時代にも言われてきた。床屋政談として挨拶代わりに喋るには構わないが、ちゃんと、若者達に向き合って、自分なりにデータ分析した深い思索の結果なら傾聴に値するが、そんな検証のない単に他罰の構造にのって勝手にスピークアウトする輩の言説は馬耳東風です。自虐史観がどうのこうのと言いますが、僕が一点、ぶれない定点と言えば、「自虐」です。別に歴史観だけの問題でなく、「自虐」を通さない針穴から「誇り」は生まれない。他罰を積み重ねてそれが誇りだと誤読している人がいますが、吼える犬ほど始末の悪いものはない。兎に角、何かに動員される前に自分の頭で考える癖をつけること、それは当然自己相対化の自虐に到る。痛い地帯で発言する。そこがスタートラインでしょう。安全地帯では、音楽を聴いてぼけ~とする。

 《「自虐」を通さない針穴から「誇り」は生まれない。他罰を積み重ねてそれが誇りだと誤読している人がいますが、吼える犬ほど始末の悪いものはない》とは実に的を得た指摘だと思います。俗流若者論とは、若年層に対するバッシングを繰り返すことによって、自分を正当付ける言論体系であり、「「今時の若者」は駄目だから駄目なのだ」というトートロジー(同語反復)の繰り返しでしかありません。冒頭の河北新報ではないですけれども、「批判のための批判」の繰り返しでは、何の解決にもならない。所詮は自慰。二次元の美少女で自慰するのは至って健全ですが、俗流若者論で自慰するのは極めて有害ですよ。

 最後に。このブログではおなじみの東京大学助教授の広田照幸氏の記述を紹介しましょう。ちなみに引用元は『教育には何ができないか』(春秋社、2003年2月)です。

 30年後ぐらいには、社会の中心を担うようになった今の子供たちの世代が、「俺も昔はワルで、万引きやカツあげをやってたけど、今はこんなにちゃんとやってるぜ」と誇らしげに語り、「今の非行少年は根性がない」とか「最近の子供はヘンな事件ばかり起こしやがる」と言ってたりするのではないだろうか。

 そういえば、70年代末から80年代初頭にかけて、校内暴力の嵐が全国で吹き荒れた場、つい最近、「あの校内暴力の時代にはワルにも連帯する根性があった。あいつらはそれなりにしっかりした奴らだった」といったことを書いた文章を目にした。20年前の非行少年たちのしでかしたことは、もはや免責される段階に至ったのかと、私には感慨深いものがあった。(188ページ)

 むしろ、「今の若い者は…」と大人たちが攻撃するのは、大人の側が未来社会のビジョンを見失っているからなのかもしれない。目指すべき未来がわからなくなって、漠然とした不安を感じる大人たちが、既存の秩序のゆらぎへのいらだちを、青年たちにぶつけている部分があるように思えてならない。「今よりももっとましな社会」とか、「新たな価値規範」とかのビジョンを、いずれ青年たちが嗅ぎ当てた後は、今の大人たちの世代は、「天保の老人」ならぬ「昭和の老人」といわれるようになるにちがいない。そうした、「新しい鉱脈」を嗅ぎ当てようとする、彼らの努力をもっと容認・鼓舞していく必要がある。青年の可能性を、もっとポジティヴにみていく必要があるのではないだろうか。(197ページ)

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2005年6月18日 (土)

トラックバック雑記文・05年06月18日

 放置プレイにしようと思っていたのですが、リクエストが入ったので斬らせてもらいます。

 ちなみにリクエストしたのは、
 冬枯れの街:「無駄な星なんてあるわけがないだろ?」

 私は仙台在住なのですが、あいにく我が家でとっている新聞が読売新聞なので、東北の地方紙である河北新報がこんなにひどい記事を書いていたとは知りませんでした。ちなみに河北に関しては、私は4回ほど文章を掲載させていただいたことがあるのですが、そのような恩義もこの際一切無視しましょう。

 河北新報:落書き、知力低下反映? 単純な絵などばかり 仙台(Yahoo!ニュース)

 感想はただ一言。

 …河北情けないよ河北。(なぜ私がこのような言い方をするか、と疑問に思われた向きはこちらを参照)

 私も仙台市民として、中心市街地を中心に氾濫する落書きには心を痛めているのでありますが、このような落書きにかこつけて俗流若者論を書き飛ばしてしまう河北にも、正直言って心を痛めてしまいます。最近「この「反若者論」がすごい!02・河北新報社説」で社説を絶賛したばかりなのに。

 あのねえ。犯罪白書読めばわかるけどよ、暴走族(最近は「珍走団」という名称も定着しつつあるよね)の組織人員は減ってるんだよ。しかも、これは作家の重松清氏などの指摘なんだけどよ(重松清、河合幹雄、土井隆義、宮崎哲弥「日本社会はどこまで危険になったか」=「諸君!」2005年1月号)、暴走族の人員はむしろ高齢化してんだよ。背景には暴力団が牛耳ってて足を洗いづらいことが大きな理由だがよ。しかもなんだよ、この記事に出てくる自称「識者」どもは。こんな馬鹿連中の戯言にかこつけて「今時の若者」全体を語った気になってんじゃねーよ!しかも、この手の記事にとってはもはやご定番なんだが、過去との具体的な比較、一切なし!他の地域との比較、一切なし!この記事を書いた記者よ、出てきやがれ!!絞め殺すぞ!!!冗談だがよ。

 いい加減にしてほしいものです。このようなものでさえ記事になってしまう、という現在の俗流若者論、若者報道の現状には、ほとほと呆れてしまいますよ。所詮「今時の若者」は貶められてナンボなのでしょうね。

 栄枯盛衰、満つれば欠ける、とはよく言いますけれども、俗流若者論は、「酒鬼薔薇聖斗」事件以降に一気に勢いを増してから、もうとどまるところを知りませんよね。それどころか、むしろ隆盛の一途ですね。でもこれらの俗流若者論は、所詮張子のリヴァイアサンです。いつか、良心的な学者や評論家によって、少しずつ解体されるのを期待するしかないのでしょうね。

 というか、俗流若者論を解体するための本も、たくさんあるはずなのですが。売れているのは『反社会学講座』くらいなのが哀しい。まあ、俗流若者論を解体するための本は、大抵は地味か、高いか、その両方かですからね。『反社会学講座』は、易くて派手だから売れたものなのでしょうが、この本で展開されている論理が実を結ぶのは、いつの頃になるのでしょうかね。

 もう、こんな記事を読んだ私の感情を、声優の茅原実里氏が代弁していましたよ。

 minorhythm:茅原実里、本日はご立腹です(茅原実里氏:声優)

 茅原氏は傘を盗まれたことに怒っていますが、私はこんなにひどい記事でさえも不通に流通してしまう現状に激怒しております。俗流若者論系のトンデモ本や新聞・雑誌の記事も延々と出されますし。

 もう一つ、我々が怒っていいものがあります。
 弁護士山口貴士大いに語る:松文館裁判判決速報(山口貴士氏:弁護士)
 kitanoのアレ:松文館裁判:高裁でも不当判決

 「松文館裁判」。我が国ではじめて、「絵」にわいせつ罪が適用された裁判です。東京地裁の判決では、裁判で取り上げられた漫画の作者と、版元の社長に懲役刑が下ったのですが、弁護側が不服として控訴しました(ちなみに山口貴士氏は、この裁判の被告側の主任弁護士です)。で、この裁判において、宮台真司氏(社会学者)、斎藤環氏(精神科医)、奥平康弘氏(憲法学者)などが被告の立場から逮捕・告訴の不当性を主張してきましたが、それでも無罪を勝ち取ることができなかったとは…。

 弁護側は、これを不服として上告するでしょう。もしこの裁判の判決が判例として確定してしまったら、警察は好きなように「有害」コミックを摘発できるようになり、わいせつ罪の恣意的な運用が裁判において続々と行なわれるようになるでしょう。

 いささか言いすぎじゃないかって?いや、私がこのように断言するのは、この松文館裁判のいきさつを最近買った本で読んだからです(長岡義幸『「わいせつコミック」裁判』道出版、2004年1月)。

 そもそもここで取り上げられている漫画家と版元の社長が摘発されたのは、ある警察官僚出身の国会議員に寄せられた一通の投書がきっかけでした。そして、その議員が警察にリークし、漫画家と版元の社長は不当に逮捕されてしまった…。

 その「警察官僚出身の国会議員」とは…。

 平沢勝栄。

 カマヤンの虚業日記:[選挙]都議会選挙
 走れ小心者 in Disguise!:ブログ版『えらいこっちゃ!!』(20)(克森淳氏)

 都議会議員選挙ですか。私は宮城県民なので、選挙権があっても直接は関係ないものですが、ただ言論統制に断固として抵抗する立場としては、この2つのブログで取り上げられている「石原三羽烏」、すなわち古賀俊昭、田代博嗣、土屋敬之の3氏の当選は阻止しなければなりませんね。特に古賀氏と土屋氏は、産経新聞の月刊誌「正論」に出現する回数が高く、そこでも威勢がいい「だけ」の論理を飛ばしまくっていますから。

 それにしても、最近俗流保守論壇の空疎な現代日本人論や若者論が、彼らにしか理解できない共同幻想に基づいているのは、それこそが現代の論壇の行き詰まりを表しているように思えます。その点において、下のブログは必読でしょう。

 ヤースのへんしん:『バーチャル男』萌え

 非常に的確な指摘があります。

 力仕事が中心だった時代を生きてきた「男」にとって、力のいらない時代になり、多くの女性が社会参加をし、能力を発揮しだすと、中途半端な能力ではもう付いていけない、でも、どこかで「男」としての生き方はしたい。そんな気持ちの現れなのかもしれないですね。

 しかし、これらの「男」と「大人」の中身って「孤独」「個人」に集約されてませんか?結局は一人でオタクのように時間を潰すのでしょうか?「萌え」てるわけですね。

 「萌え」の使用法が違うと思いますが、少なくとも、某石原都知事をはじめ(その某都知事に対する批判はこちらを参照してください)、安易にナショナリスト的な言説を振りかざす俗流若者論者の最大の問題点を、ここまで凝縮して言い当てて見せた文章は皆無です。

 週刊!木村剛:[ゴーログ] 「なんとか審議会」は「なんとか」をやっているのか?(木村剛氏:エコノミスト)
 保坂展人のどこどこ日記:小泉語の摩訶不思議、「お互いに反省しよう」(保坂展人氏:元衆議院議員・社民党)

 以前、「俗流若者論ケースファイル13・南野知恵子&佐藤錬&水島広子」で、国会の「青少年問題に関する特別委員会」の議事録を批判したことがありますけれども、この議事録から見えることは、青少年問題に関する言説は、結局のところそれを語る人の社会観、世界観の凝縮である、という気がしてなりません。例えば佐藤錬氏(自民党)は、この特別委員会で、堂々と自己陶酔的な歴史観を述べていたのですから。それ以外にも、例えば最近ベストセラーになっている『壊れる日本人』(新潮社)の著者、柳田邦男氏(ノンフィクション作家)は、現代の青少年の行動(当然、過度に醜悪化、図式化、単純化されたものです)に「ケータイ・ネット依存症」の影を見出し(柳田氏こそが「ケータイ・ネット批判依存症」だろうが、という突っ込みは置いておいて)、曲学阿世の徒・京都大学霊長類研究所の正高信男教授は同様の青少年の行動に「ケータイを持ったサル」というレイシズムを押し付けることによって「日本人の退化」を嘆いてみせた(知性が退化しているのは正高氏ですよね)、スピリチュアル・カウンセラーの江原啓之氏は(この人は、堀江貴文氏よりも格段に「虚業家」ではないかと私は思います)これまた同様の青少年の行動に関して「たましい」(我々が普段使っている「魂」とは違います、あしからず)の劣化した存在とまたレイシズムを押し付けました。結局のところ、俗流若者論を安易に振りかざす人たちは、その社会観の貧しさを如実に表している、いわば、馬脚を現しているのです。このような人たちは、即刻退場していただきたいですね。

 それにしても、「論座」平成17年6月号に掲載された、「自民党議員はこんなことを言っている!」なる、「論座」編集部による自民党改憲派議員の「妄言録」は、読んでいてうんざりします。なぜって、編集部の人たちは気付いているかはわかりませんが、ここに出てくる発言のほとんどが、憲法にかこつけた俗流若者論だからです。近く「俗流若者論ケースファイル30・自民党改憲派議員」として、憲法にかこつけた俗流若者論の問題点を抉り出そうと考えていますが(29回はノンフィクション作家の吉田司氏を採り上げる予定です)、改憲派の中には、「今時の若者」にかこつけた改憲論を自信満々に開陳する人たちがたくさんいます(この中の一人である、ジャーナリストの細川珠生氏に関しては、「俗流若者論ケースファイル31・細川珠生」で採り上げます。「諸君!」平成16年5月号を読んで予習しておいてください)。まあ、彼らにとっては、青少年それ自体よりも、青少年に対する不信感を煽る言説に扇動される人たちのほうが得票数や部数の上昇につながるのでしょうが、私はここで、青少年の不当な「政治利用」を許すな!と言いたい。

 あと、保坂展人氏は、《小泉内閣は「自民党」は壊さなかったが、日本語はブチ壊した》と述べておりますけれども、日本語を壊したのは、小泉内閣だけではありません。俗流若者論も、です。俗流若者論は、その場しのぎのただ過激なだけの言葉を吐いて、無責任に去っていく。そして、そのような過激なだけの言葉は、人々の不安を扇動させるだけさせて、結局現実の青少年を苦しめる。

 ン・ジュンマ(呉準磨)の備忘録:使える論壇誌(笑)
 オピニオン系の雑誌は、その多くが赤字経営であるそうです。しかし、私見によれば、このような雑誌は、たとえ読む人が少数であっても、そこで実りのある言論が展開されていれば、赤字覚悟でも出し続けるという志がなければいけないような気もしています。このような雑誌の存在は、一点突破的になりがちな「世論」を諌めるために一役買う役割を負わなければならないと思います。

 それにしても、この手の雑誌で一番売れている「正論」は、この手の雑誌の中では一番面白くない雑誌です。なぜって、毎号毎号同じような見出しと内容ばかりで、最近は陰謀論まで飛び出している始末ですからね(「俗流若者論ケースファイル25・八木秀次」「俗流若者論ケースファイル28・石堂淑朗」を参照されたし)。特に「世界」や「論座」といった左翼寄りの月刊誌は、既存の枠組みを反芻するのではなく、もっと問題の本質を切り込むような――これについては、「論座」の平成16年4月号の特集における、斎藤環氏と宮崎哲弥氏(評論家)と金子勝氏(経済学者、慶應義塾大学教授)の対談で触れられていましたが――特集をやって、若年層やビジネスマンを取り込むような試みをするべきでしょう。
 ちなみに私の現在のお勧めの月刊誌は、「論座」と「中央公論」です。また、「世界」今月号は、鈴木謙介氏(国際大学グローバル・コミュニケーションセンター研究員)による「若年層の右傾化」論に対する反論と、ジャーナリストの二村真由美氏による江本勝(「水は答えを知っている」などでおなじみの人です)批判につられて、思わず購入してしまいました。月刊誌編集部の皆様、俗流若者論批判と、疑似科学批判は「買い」ですよ。

 お知らせ。以下の文章を公開しました。
 「俗流若者論ケースファイル26・三砂ちづる」(6月3日)
 「この「反若者論」がすごい!02・河北新報社説」(同上)
 「俗流若者論ケースファイル27・毎日新聞社説」(6月4日)
 「壊れる日本人と差別する柳田邦男」(6月6日)
 「俗流若者論ケースファイル28・石堂淑朗」(6月14日)

 また、久しぶりに書評を書きました。トンデモ本の書評ですが。

 柳田邦男『壊れる日本人』新潮社、2005年3月
 title:俗流若者論スタディーズVol.3 ~壊れているのは一体誰だ?~

 初めて全編会話調で書評を書きました。

 もっとも、広田照幸『教育言説の歴史社会学』(名古屋大学出版会、2001年1月)、内藤朝雄『いじめの社会理論』(柏書房、2001年7月)などといった良質な本も多く読んでいるので、そちらの書評も充実させるつもりです。

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2005年5月31日 (火)

トラックバック雑記文・05年05月31日

 ブログ移転後の最初の記事がこれですみません。ブログを移転してから、私は建築設計の授業の模型や図面製作、及びそれ以外の授業の提出物の執筆に追われていて、こちらのほうにかける時間があまりなかったのです。そういうわけで、まずはこの記事から。

 *☆.Rina Diary.☆*追われて(佐藤利奈氏:声優)
 私も大量の締め切りに追われていて、次々とやらなければならない課題をこなしていったので、佐藤氏の気持ちは分からぬでもない、むしろ大いに理解できます。

 ところで、課題というと、自分で課題と期日を設定して自分でやる、という課題を設けて、そうするとやる気が出る、という人も多いと思われますが、私もその一人です。このブログにおいて文章を執筆するにあたって、何らかの文章に対して期日を決め、その日までに完成させる、ということをよくやるのですが、自分で決めたわけだからとにかくやらなければならない、という場合と(「俗流若者論ケースファイル」が多い)、自分で決めたにもかかわらず執筆を先延ばしにしてしまっているもの、あるいは長い間放置しているもの(「ケースファイル」以外が多い)という場合と、どうも両極端になってしまっているのが目立ちます。自分で決めたことなのだし、もう少しやる気を出さないと、このままでは「ケースファイル」ばかり先走って(来月中には確実に第30回を迎えるでしょうね)、他のコンテンツがおろそかになってしまうのではないか…。事実、前回の雑記文から今回の雑記文の間に書いた12本の文章の中で、11本が「ケースファイル」だったりするわけですから(第15~25回)、当初このブログの見所として掲げていた正高信男批判も頑張らないと…。

 弁護士山口貴士大いに語る:「暴力」ゲームソフト、神奈川県が全国初の販売規制へ(山口貴士氏:弁護士)
 走れ小心者 in Disguise!: ある『子供に見せたい番組』をめぐって(克森淳氏)

 「子供に見せたい番組」第1位は当然「プロジェクトX」、「見せたくない番組」は「ロンドンハーツ」「クレヨンしんちゃん」…。なんか、このようなアンケート自体が壮大な茶番劇に見えてきたなあ…。

 「子供に見せたい/見せたくない」番組というものを規定することに、何の意味があるのでしょうか。「見せたい」のは子供に「いい影響」を与えるもので、「見せたくない」ものは子供に「悪い影響」を与えるものだ、ということなのでしょうが、そこで与えられた「いい/悪い影響」が子供の人格や人間性を直接規定するわけでもないのだし、そもそもこのような議論を振りかざす人たちは現代の青少年を「政治利用」している、ということに無自覚なのでしょうか。それとも、自覚した上でやっているのか。

 彼らにとって、青少年は自分のイデオロギーの主張、そして「自己実現」(笑)の道具でしかありません。当然の如く、彼らはなんらか(といっても、ほとんどが漫画とアニメとゲームとインターネットに収束されますがね)の規制を求めているわけですが、彼らはマスコミで面白半分に報じられる「今時の若者」については至極敏感だけれども、現代の若年層を取り巻く現実に関しては果てしなく無関心です。無関心であるからこそ、漫画・アニメ・ゲーム・インターネット・携帯電話といった、自分が「理解できない」ものを容易に標的にしてしまえるのでしょう。しかも、ただ敵愾心を煽れば人を連れることができる、と高をくくっている様子で(しかも、本当についてくるから驚きですが)、それが彼らの生命を繋いでいると思うと、恐ろしい気持ちになります。

 ただ「わかりやすい」図式を大々的に掲げた者だけが生き残り、たとえ地味でも真面目に研究を積み重ねる人は、それがいくら優れたものであっても世間の喧騒においていかれる。真面目な人ばかり馬鹿を見る、というのは、まさに若年層に関する言論をめぐる状況そのものです。

 目に映る21世紀:変わる若者のシゴトと生活:5【記事】各界の知恵集めニート対策 国民会議が初開催

 著者は《すみません、この会に意見を届けるにはどうすればいいのでしょうか? ここへ参加している人々自身にも言いたいことがたくさんあるのですが・・・。オブザーバー参加ってできないのかな(笑)》と愚痴っているわけですが、現在の青少年の就労に関する問題で、いまだに精神主義的な物言いがまかり通っているのが気がかりです。この状況を見るだけで、我が国は大東亜戦争時代の精神主義をいまだに脱却できていないのか、と心配してしまいます。

 犯罪を起こす、あるいは定職につかない青少年の「心」を問題化する言説は、いくつもの問題を抱えております。まず、「心」の問題として「発見」することによって、「異常な心」を生み出した「原因」に対する弾圧が正当化されること。次に、精神主義・道徳主義的な言説に埋没することによって、社会構造の問題が置き去りにされてしまうこと。さらに、青少年全般に対して「心」の劣った存在という規定をすることによるレイシズム(人種差別)。最後に、「心」を勝手に規定することによって、青少年問題に対する本当の心理的側面に触れることができないこと。

 「心の教育」などと多くの人は叫んでおりますけれども、それが何をさしているのかはわかりませんし、そもそも、そのようなことを振りかざす人たちが「心」をどのように考えているか、ということは問い詰められて然るべきでしょう。たいていの場合、自分を正当化するだけの議論に過ぎないのではないか。

 「心の教育」といえば…。

 kitanoのアレ:反性教育の動向(3):報道2001:「つくる会」八木秀次氏が立ち往生(1)

 平成17年5月1日付フジテレビ系列「報道2001」における、反性教育の旗手、高崎経済大学助教授の八木秀次氏の必死ぶりがうかがえます。八木氏など、反性教育の立場に立つ人たちは、ジェンダーフリーについて「男らしさ」「女らしさ」を否定し、さらにこれが日本の文化を否定し、ひいては韓国や中国や北朝鮮を利する(そんな妄想を語るな、と思われる方もおられるかもしれませんが、「正論」なんか読んでいるとこのような妄想に出くわすのはざらです)などと(妄想を)語っているわけですが、八木氏や、八木氏を支援しているフジテレビのキャスター(得に黒岩祐治キャスター)が、ジェンダーフリー推進派の人たちに自らの議論の矛盾を指摘されると、何も答えられずにほとんど立ち往生状態、というのが笑えます。

 ジェンダーフリーはマルクスの陰謀だとか、日本を滅ぼすだとか大言壮語を振りかざしながらも、結局のところ中身を伴った議論をしていないとこうなるのかもしれません。私がこのレポートを読んで、ジェンダーフリー推進派の人たちにも脇の甘い部分がある、と思いましたが、それでも八木氏や山谷えり子氏(参議院議員、自民党)の脇の甘さに比べたら相当マシです。

 少なくとも、反論されたとき、一歩引いて自分の考えを相対化して考え直す、ということの大切さを、八木氏を他山の石として学びたいと思います。

 保坂展人のどこどこ日記:靖国神社参拝中止で小泉総理退陣へ(保坂展人氏:元衆議院議員・社民党)
 カマヤンの虚業日記:[雑記][政治][呪的闘争]首相の靖国参拝なんか支持しないよ。

 保坂氏は、小泉純一郎首相の公約の中で達成しえたのは「靖国神社参拝」だけだ、と指摘しております。

 この指摘は重要です。保坂氏も述べている通り、特殊法人改革も国債発行30兆円枠も現在まで達成されないまま、このままいけば小泉首相の公約で達成したものは靖国神社の参拝だけ、ということになります。郵政民営化も、このままでは怪しい(そもそもそれが必要かどうかもわからない)。もしかしたら、靖国神社は、小泉首相の政権の正当性をつないでいる唯一のものになっているのではないか、と思います。

 首相の靖国神社参拝には、当初から利権が絡んでいますから、結局のところ小泉首相もまた極めて「自民党的」な首相だった、といわざるを得ないのかもしれません。

 それにしても、最近の中国や北朝鮮に対する強硬派的な発言が俗流若者論と重なって見えるのは気のせいだろうか…。

 千人印の歩行器:[歩行編]一万歩の日常(栗山光司氏)

 街中や大学のキャンパスを歩いていると、さまざまな発見があります。例えば、私の通っている東北大学青葉山キャンパスは、現在メインストリートが爽やかな緑の木々に包まれていて、晴れの日に歩くと気持ちよくなります。これ以外にも、道端を歩いていると、自転車や原付に乗っているときは感じられなかった楽しみや喜びを見つけることができます。特に青葉通や定禅寺通といった、落葉樹の並木道を通っていると、その通りの木々の移り変わりで季節を感じることが一つの楽しみになっています。

 私は、時々都市計画について思索することがあるのですが、都市計画に関する思索の原点になっているのが、定禅寺通のような、自分が好きな場所です。新しい場所を歩く際は、この場所は自分が好きな場所に比べてどのような長所があり、またどのような短所があるのか、ということに関して考えながら歩いてみると、結構面白いかもしれません。

 前回の雑記文から、たくさんの文章を公開しました。こちらも読んでいただけると幸いです(ただし、ここにリンクを貼ってある記事が、全てブログ移転前に書いたもの。リンクは新ブログに貼ってありますが)。

 「俗流若者論ケースファイル15・読売新聞社説」(4月24日)
 「俗流若者論ケースファイル16・浜田敬子&森昭雄」(同上)
 「俗流若者論ケースファイル17・藤原智美」(4月28日)
 「俗流若者論ケースファイル18・陰山英男」(4月28日)
 「俗流若者論ケースファイル19・荷宮和子」(4月29日)
 「俗流若者論ケースファイル20・小原信」(4月30日)
 「俗流若者論ケースファイル21・樽谷賢二」(5月5日)
 「俗流若者論ケースファイル22・粟野仁雄」(5月7日)
 「俗流若者論ケースファイル23・西村幸祐」(5月9日)
 「俗流若者論ケースファイル24・小林節」(同上)
 「俗流若者論ケースファイル25・八木秀次」(5月15日)
 「反スピリチュアリズム ~江原啓之『子どもが危ない!』の虚妄を衝く~」(5月17日)

 最近、図書館に行く機会が多いのですが、そのたびに新聞や雑誌の俗流若者論を見つけてはコピーして私のコレクションにします。そのため、私の書庫には大量に検証待ちの文章があります。とりあえず今後確実に取り上げる予定のものは次のとおり。

 ・三砂ちづる「「負け犬」に警告!あなたはもう「オニババ」かもしれない」=「新潮45」2004年12月号、新潮社
 ・平成17年2月17日付毎日新聞社説
 ・石堂淑朗「褌を締めなおそう!」=「正論」2005年3月号、産経新聞社
 ・石堂淑朗「豆炭心中」=「正論」2005年4月号、産経新聞社
 ・吉田司「女と平和と経済の時代は終わった」=「AERA」2004年8月30日号
 ・「論座」編集部「自民党議員はこんなことを言っている!」=「論座」2005年6月号(憲法改正に関する自民党議員の問題発言を抜き出して構成したものですが、ここで紹介されている問題発言にやたらと俗流若者論が目立つので)
 ・樋口裕一「「困ったチャン」に対抗するための言葉の力」=「文藝春秋」2005年3月増刊号
 ・斎藤滋「人間らしさを育てる」=2003年10月31日付東京新聞
 ・宮内健「妻の携帯、子どものTV・ゲーム」=「プレジデント」2004年8月30日号、プレジデント社

 あと、第1回以来1ヶ月以上やっていなかった「この「反若者論」がすごい!」の第2回も近いうちにやります。採り上げるのは、平成17年4月23日付河北新報の社説です。

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2005年4月21日 (木)

トラックバック雑記文・05年04月21日

 ン・ジュンマ(呉準磨)の備忘録:私も社説批評にトライ!!アルゼンチン「借金踏み倒し=造反有理」かもよ!?
 カマヤンの虚業日記: [政治]「東アジア」的統治
 読売新聞の社説に挑戦しています。私の家でも読売新聞をとっているのですが、私の目が肥えてきたせいなのかもしれませんが、最近の読売の社説はどうもつまらない。最近では、中国の反日暴動を何度も採り上げていますけれども、どうも過去に我が国が中国に対してひどいことをした、という認識を忘れているのではないか、という気がしてなりません。もちろん、過去の侵略戦争と現在の中国の反日デモは割り切って考えなければなりませんけれども、我が国がアジア諸国に対して行った加害の事実を忘れてはならないと思います。

 読売は中国の反日愛国主義教育を批判します。そのことに関しては大賛成です。しかし、他方で読売は、現代の青少年が国旗と国歌に対して愛着をさほど持っていないことについて盛んに嘆いています。どこか矛盾していないでしょうか。私が教育基本法に「愛国心」を盛り込むことに対して最も懸念していることが、現在の中国の反日デモのようなことが起こることです。現在の我が国はある種のアノミー状態にあるので、なし崩し的に「愛国心」を教えるようになったら、かえって有害ではないか、と思うからです。

 いや、「愛国心」教育推進論者の語る「愛国心」は、むしろ「国粋主義」でしかありません。そのことをまず衝くべきではないか、と思います。

 ところで、「ン・ジュンマ(呉準磨)の備忘録」の著者から、次のようなコメントをいただきました。

 後藤さん、「オニババ化する女性たち」とかいうのにツッコミは入れましたか? 期待してるんですが(若者論とは見てない?)

 三砂ちづる『オニババ化する女たち』(光文社新書)ですか。ごめんなさい、《若者論とは見てない?》以前に、読んですらいません。このテーマに関してはまったく興味がないので、手にとることすらしていなく、「論座」平成17年2月号における、鍼灸師の田中美津氏による批判で、その内容を軽く知っているくらいです。でも、いろいろなところで話題になっているらしいので、読んでみましょうか。

 minorhythm:インスタントカメラ(茅原実里氏:声優)
 今日、仙台市の隠れた桜の名所として知られる遠見塚小学校に行ってきました。そのときの光景を、しっかりとカメラに収めてきました。

 ところで私が使っているカメラは、デジタルカメラです。しかしこのカメラは、今年の初売りで買ったものなので、それ以前は、写真を撮るときはもっぱらインスタントカメラを用いていました。しかしインスタントカメラは、フラッシュの融通が利かなかったりとか、ズーム機能がなかったりとか(当然か)、安いだけに使いづらい面もあります。そのような想い出もあり、私はほとんどデジカメを使っているのですが、茅原氏は、《でもなんか両方を比べてみると、私はもしかしたらインスタント派かも!》として、こう書いています。

 極上の笑顔でバッチリ成功した写真も、ピントがズレてたり、知らぬまにシャッター押しちゃったりして失敗した写真も、全部現像されちゃうわけです!

 だけど、その1枚1枚に写されてる一瞬がなんだかとっても愛しいんですよね☆

 「何この写真~!!最悪なんだけど~!?」

 なんて笑い合える仲間に乾杯っ♪

 こういうのもいいかな、と。

 弁護士山口貴士大いに語る:一連の美少女アニメ・ゲームバッシングについて(山口貴士氏:弁護士)
 週刊!木村剛:[BLOG of the Week]プロの書き手の正念場が来る!(木村剛氏:エコノミスト)
 木村氏のブログで、「BLOG of the Week」として採り上げられているのは、実は私の文章です。木村氏は私の文章に対して《言論の自由に関する一考》と評価してくださっています。

 ここ最近の「トラックバック雑記文」「俗流若者論ケースファイル」において、私は何回か「有害環境」「有害メディア」規制を批判してきました。しかし、このような歪んだ施策がポピュリズムとなりうるのは、要はそれを求める人がたくさんいるからに他なりません。

 そして、そんなものが受け入れられるようになる背景には、特にマスコミの影響が大きい。例えば、マスコミは「現実の女性ではなく、ゲームの中の女性にしか恋愛感情を持たない「今時の若者」」を攻撃します。しかし、だからといってそれが精神病理だとか、さらには犯罪だとか(大谷某の「フィギュア萌え族」なんてまさにこれですよね)に結びつける必要があるのでしょうか。あるいはこんな「今時の若者」ばかりだから少子化が進むのだ、という向きもあるのでしょうが、少子化の何がいけないのか。まあ、少子化のことについて言及するのは少ないですけれども。

 彼らは精神病理だとか犯罪的だとか虚飾していますけれども、結局、それらの批判は、彼らが「そう思いたいだけ」だからでしょう。精神病理云々、犯罪云々は単なる虚飾の言葉に過ぎない。底流にあるのは「気持ち悪い」という感情だけです。でも、彼らはそのような感情と同時に、多くの人とそのような感情を共有することによって、自分の気に食わない人(例えばオタク)にマイナスのイメージを与えたい、だから犯罪とか精神病理だとかいった言葉を用いているのでしょう。少々うがちすぎかもしれませんが。

 最近、ライターの本田透氏が『電波男』という本を書いたそうです。聞くところによると、なんでもこの本は「現実の恋愛は2次元の恋愛より勝っているか」ということに関して書かれた本らしいです。機会があったら手にとってみたいのですが、あいにく近くにおいている書店がないので。アニメ専門店だったら置いているだろうか?

 お知らせ。まずbk1で新しい書評が掲載されています。
 ジュディス・レヴァイン、藤田真利子:訳『青少年に有害!』河出書房新社、2004年6月
 title:「有害」排除の先に見えてくるもの
 菊池昭典『ヒトを呼ぶ市民の祭運営術』学陽書房、2004年11月
 title:真価が問われるのはこれから
 どちらもお勧めです。上は、東京都の石原慎太郎知事他「有害」規制を推し進めている人に、下は楽天の三木谷浩史社長にはぜひ読んでほしい本です。あと、三木谷氏には、来月の半ばごろに開催される「仙台青葉まつり」もぜひ見てほしい。

 また、「俗流若者論ケースファイル13・南野知恵子&佐藤錬&水島広子」「俗流若者論ケースファイル14・大谷昭宏」を公開しました。前者は本気ですが、後者は少し力を抜いています。

 また、過去の文章に以下の加筆を施しました。
 「俗流若者論ケースファイル02・小原信」について:

 《幻実が現実になると、ミッキーマウスをネズミだとは思わない》なぜ?《アキバ系の若者は現実の女性よりキャラクターグッズに「いやし」を見出すという》だと、《という》で片付けないでいただきたいものだ。しかし、小原氏はそれで片付けても構わないのだろう。

 この箇所を、以下の文章に置き換えました。

 小原氏は、《幻実が現実になると、ミッキーマウスをネズミだとは思わない》などと意味不明なことを言い出す。これには正直言って、数回ほどへそで茶を沸かした。《ミッキーマウスをネズミだとは思わない》というのは、決してそのような人が《幻実》に翻弄されているわけではなく、むしろ《幻実》を受け入れることによって、ミッキーマウスというキャラクターの背後にある「大きな物語」に同一化しているからである。小原氏にとって、このような物言いは、自分の生活圏内だけが「現実」であると言っているのに等しいのだが、小原氏にとってはそれでいいのだろう。同じ段落にある、《アキバ系の若者は現実の女性よりキャラクターグッズに「いやし」を見出すという》などという物言いも然り。このような物言いは、ジャーナリストの大谷昭宏氏の「フィギュア萌え族」概念にも共通する危険性をはらんでいるのだが、現実と戯れることができない奴は病気である、という思考は、かえって現実との関わりを放棄した、ある層に対する弾圧につながりかねないし、多様な感受性を否定するものでもある。現実の女性に残酷な性犯罪をやらかす輩よりも、《幻実》と戯れて萌える人のほうが、社会にとっては無害だろう。《幻実》を最初から「悪」と決め付ける小原氏は、ここでとんでもない勘違いと倒錯をしているのである。もう一つ、このような物言いは、小原氏の想像力が極めて狭いことも意味するのだが、小原氏はそれで構わないのだろう。

 「俗流若者論ケースファイル11・石原慎太郎」について:

 

…赤枝氏が自分にとって衝撃的だったことを知らず知らずのうちに誇張して石原氏に言っている可能性もある。それに、そのような状況にある家族に対する支援は、それこそ政治の役割ではないか、という気もするのだが。石原氏が《真顔でいうそうな》と書いているのは、そのような家族に対する社会保障や性教育の不備を正当化するように見えてならない。

 この文章の直後に、以下の文章を加筆しました。

 ついでに性教育に関しても触れておこう。20世紀の終わりごろ、米国では、子供の「性」をタブー視し、学校では性教育よりも「純潔」さらには「禁欲」を高く掲げた教育が正義とされ、適切な性教育でさえも保守系の団体に糾弾された。また、宗教保守からフェミニストまで、性表現の規制に躍起になり、マスコミは青少年の「性」に関する過剰な報道で溢れかえった。それを告発した米国の作家のジュディス・レヴァインによると、しかしそれでも青少年の「性」を巡る問題はまったく解決しないどころか、むしろ問題を深刻化させた(ジュディス・レヴァイン[2004])。レヴァインは、青少年を「性」に関する情報から遠ざけてしまったあまり、「性」に関する知識は希薄化し、無防備な性行為が蔓延してしまったことを指摘している。我が国でも一部の自称「保守」が性教育攻撃に奔走しているのであるが(石原氏もその典型であろう)、性教育を禁止してしまったら米国と同じ事態を招きかねないのではないか。また、特に赤枝氏は、中学生までの性行為を法律で禁止しろ、といっているけれども、自由な行動が保障されている我が国において、それが実を結ぶためには、我が国が北朝鮮並みの言論統制国家及び監視国家にならなければならない。

 それにしても、「俗流若者論ケースファイル」ばかり回を重ねて、本来の目玉だった正高信男批判はどうも尻すぼみ気味です。もっとも、最近になってさまざまなところから俗流若者論が顔を出したり、あるいは過去の俗流若者論を引っ張り出してきたりと、この勢いはとどまるところを知りません。このシリーズで今後採り上げる予定の文章はこれだけあります。

 ・近いうちに採り上げる予定のもの
 平成17年3月16日付読売新聞社説「元気がないぞ日本の高校生」
 荷宮和子「私が団塊ジュニア世代を苦手だと思う理由」=大塚英志・編『新現実Vol.2』角川書店、2003年3月
 藤原智美「目をつむれない子どもたち」=「文藝春秋」2005年5月号、文藝春秋
 浜田敬子「テレビが子供の脳を壊す」=「AERA」2002年7月15日号、朝日新聞社

 ・判断を留保しているもの
 和田秀樹「日本はメランコの中流社会に回帰せよ」=「中央公論」2003年6月号、中央公論新社
 小原信「不安定なつながりが逆に孤独を深めている」=「中央公論」2004年4月号、中央公論新社
 陰山英男「「学力低下」世代が教師になる日」=「文藝春秋」2005年5月号、文藝春秋
 役重真喜子「「一億総評論家」」=「論座」2004年9月号、朝日新聞社
 吉田裕「台頭・噴出する若者の反中国感情」=「論座」2005年3月号、朝日新聞社
 林道義「家庭が子供の脳を育てる」=「諸君!」2003年8月号、文藝春秋
 中村和彦、瀧井宏臣「育ちを奪われた子どもたち」=「世界」2003年11月号、岩波書店
 下嶋哲朗「再び「後悔の土壌」とならないために」=「世界」2004年10月号、岩波書店

 しかし、「ケースファイル」ばかりでは面子が立たないので、本流の正高信男批判も充実させるつもりです。来月7日でこのブログは開設半周年を迎えるのですが、その記念論文は「正高信男という堕落ZERO(仮題)」で企画しています。「正高信男という堕落」で採り上げた文章(平成16年11月22日付読売新聞の「学びの時評」欄に掲載されたもの)以前の文章を検証するつもりです。

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2005年4月17日 (日)

トラックバック雑記文・05年04月17日

 走れ小心者 in Disguise!: ジョグリング仕掛けの明日(克森淳氏)
 この記事においては、『トンデモ本の世界R』(太田出版)における、作家の山本弘氏の言葉が引かれています。

 そう、彼ら(克森注:「買ってはいけない」執筆陣)が言っていることは、科学的な装いをこらしてはいるが、結局は「好き嫌い」に過ぎないのだ。

 上の文言をしっかりと踏まえた上で、下の記事をお読みください。
 変見:危機管理
 「トラックバック雑記文・05年04月09日」に、なぜかトラックバックされていた文章です。この文章において、《ため池の近くで遊ぶな・鉛筆は鉛筆削りで・木に登るなという教育で事故が減っただろうか。むしろ凶悪な事件が増えている。私たちが小さい頃は木の枝が折れて落ちたり、ナイフで手を切ったりしながら危機管理を体で覚えてきた》みたいな文章があって、本当にいい加減にしてほしいよな、と思った(事実誤認ですからね)のですが、私のこの文章に対する疑問の本質はこれではありません。

 …《セラミックチップ》?

 そこにあるウェブサイトへのリンクが貼ってありました。

 それがこちら

 …疑似科学ですね。

 これを販売しているのが、なんでも柳井魚市場で、これを使用した、という証言がもうすごいのなんの。

 アルファ波が増えるため、付けた瞬間から体がリラックスして、 頭が冴え、すばらしい発想が生まれ、反応も早くなります。集中力が増したり、意欲的になるので勉強の能率も上がります。 不登校・切れやすい子にも是非お試しを、別人のように変わる子もいます。

  風邪を引いても昼寝から目が覚めたら治ってたというような例が
たくさんありますが、使ってはじめて納得できると思います。
風呂に入れると温泉水のようになり、湯冷めしぬくいし、
石鹸やリンスもいりません。チップを入れた水で拭き掃除をすると大変きれいになります。

 愛用者の殆どが入試や資格試験に合格しています。その効果は信じ難い物があります。使えば分かります。

 チップを利用している子供達は運動能力が上がり、体も大きくなっています。

成績のことを聞き出すのは難しいのですが、確認の取れた子の殆どは成績が上がっています。

チップを手離さなくなる子が大勢います。本能的に良い物が分かるのだと思います。

オーリングテストと同じ作用でしょう。頭の働きが良くなり、集中力が増す・
精神的にも強くなります。体に吊して胃薬がいらなくなった人が大勢おられますが、

体を丈夫にする効果だけでなく、精神面の強化による影響

もかなりあるのではないかと思われます。

 すごすぎますよ。ここまで事例らしきものを提示しておきながら、実例やデータの提示がない、というのはどういうわけなのでしょうか。このような「うまい話」には必ず裏があるものです。もしかしたらこの団体の裏で、誰かが操っているとか…と言ってしまうと陰謀論になりますが、この《セラミックチップ》一つで複雑な教育問題も精神の疾患も身体的な問題も、それどころ環境問題さえも何でも解決できる、というのは、はっきり言って疑うほかありません。

 「変見」の「危機管理」という記事の中においても、《セラミックチップは冷静な判断や機敏な行動の為にも役立つ優れものだ。穴をふさぐよりこちらが普及した方が事故や事件は確実に減るが、残念ながら、殆どの人に理解してもらえない》などという妄想が書かれております。《殆どの人に理解してもらえない》というなら、まず実証に足るデータを提示するべきでしょう。もしデータもなく《セラミックチップ》のために莫大な予算を投入して、何の効果も得られなかったら、無駄なものに予算をつぎ込まれた、として納税者の怒りを買っても仕方がないでしょう。政策構築とはそういうものです(ちなみに「変見」のバックナンバーを読み通してみると、もう《セラミックチップ》は万能だと言わんばかり)。

 また、このような文章には、権力のにおいがします。現在起こっている複雑な問題を、《セラミックチップ》を用いることによって、さまざまな問題が解決できるという妄想を広めて、人々の思考力を奪う、というもの。本当に、この手の疑似科学は、市民の良識で解決しなければなりません。

 いいですか。複雑な問題もこれ一つで簡単に解決できる!という謳い文句は、まず疑うべきです。そして実証的なデータがないか探し、必要とあればその(実証的、あるいは理論的)提示を求めること。

 情報流通促進計画:吉岡忍さんらも出席~憲法改正国民投票法案を考える院内集会
 私は、基本的には憲法改正国民投票法には賛成です。しかし、現在自民党が進めている「憲法改正国民投票法」には、《何人も、国民投票の結果に影響を及ぼす目的をもって新聞紙又は雑誌に対する編集その他経営上の特殊の地位を利用して、当該新聞紙又は雑誌に国民投票に関する報道及び評論を掲載し、又は掲載させることができない》というのがあるそうです。

 これでいいのでしょうか。

 憲法改正の国民投票という、国家の命運を決める一大事こそ、多様な言論を世に広げさせて、真剣に国民に考えるチャンスを与えるべきです。そもそも《国民投票の結果に影響を及ぼす目的》というのがとても曖昧です。例えば護憲派の人々は、今まで何度も憲法改正の危うさや疑問を指摘してきたわけですけれども、それらも含めて、憲法改正に関する評論は図書館とか企業とか個人とかのデータベースに存在しますので、それらを参照してから投票に臨むことも可能なわけです。ですから、これを一字一句素直に実施するならば、国民からすべての情報を遮断しなければならないはずです。また、規制の文言が曖昧な分、国家が恣意的に情報統制を行ってしまい、政権党に有利な情報ばかり流通してしまう、という懸念も拭い去れない。

 もう一度言います。憲法改正の国民投票こそ、情報を広く流通させた上での、幅広い議論が必要なのです。

 ヤースのへんしん:年収1億で維持費21億
 《年収1億で維持費21億》というのは、京都の「私のしごと館」のことですが、これの存在をはじめて知ったとき(確か、TBS系列の「噂の!東京マガジン」の「噂の現場」だったと思います)、こんなのに本当に意味があるのかよ、と思いました。確かこれの設立意思は、高校生のうちに様々な仕事に触れさせて、将来におけるフリーターの撲滅だった気がしますけれども、結局それは失敗に終わっただけです。

 蛇足ですが、特に自民党の皆さん、フリーター問題を安易に若年層の就職意識の低さに求めないでください。若年雇用の問題は、あなたたちが思っているよりも相当深刻なのですよ。つい最近の日経新聞に、経済学者の玄田有史氏や小杉礼子氏が、学歴や親の年収が、フリーターや若年無業者の出現に大きくかかわっている、というデータを提示しておりました。なし崩し的な「都市再生」だとか公共事業とかよりも、まず地域の魅力を高める都市計画と、社会福祉の拡充をやるべきです。

 お知らせ。「俗流若者論ケースファイル12・松沢成文」を公開しました。それにしても、「kitanoのアレ」とか見ていると分かるのですが、青少年問題に関して相当おかしなことを言っている政治家が多すぎます。今度は青少年育成担当大臣の南野知恵子氏ですか。いい加減にしてほしいものです。

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2005年4月13日 (水)

トラックバック雑記文・05年04月13日

 週刊!木村剛:[ゴーログ]『Google八分』や『Yahoo八分』は本当に起こるのか?(木村剛氏:エコノミスト)
 このブログの横に「参考サイト」として登録されています「奈良女児誘拐殺人事件における、マスコミのオタクバッシングまとめサイト」の姉妹サイトにあたる、「「フィギュア萌え族(仮)犯行説」問題」(管理人は古鳥羽護氏)というサイトがあるのですが、このサイトが一時期Yahoo!から「利用規約違反」との理由で強制的に閉鎖されてしまいました。現在でこそ復活しておりますけれども、なぜこのサイトが閉鎖されたか、というのは私にはどうもその理由が分かりません。おそらく、件のサイトで大谷昭宏氏(この人をジャーナリストと呼ぶことは、大先輩の黒田清氏に失礼ではないかと思う)をテレビの映像つきで批判して、それが著作権法違反にあたる、という見方もできるでしょうが(これはあくまでも推測であって、古鳥羽氏のサイトが著作権法に抵触しているか、ということについては議論されるべきでしょう)、このサイトよりもテレビの映像を晒しているサイトはほかにたくさんあるような気がします(同日午後9時35分追記:サイトの閉鎖に関しては、広告が表示されていなかったのではないか、という指摘がありましたので、可能性としてはこちらのほうが高いのではないかと思いますので、訂正いたします/同月16日午後7時42分修正:実際、件のサイトが閉鎖された原因は大谷氏サイドからの苦情だった、という指摘がありましたので、再修正します)。

 木村氏のブログでは、インターネットの検索サイトから外されることに対して「表現の自由」に対する侵害だ、という主張が引用されていますけれども、インターネット時代だからこそ「言論」というものを深化させなければならないのではないか、と私は思います。現在発売中の経済週刊誌「エコノミスト」で、ジャーナリストの日垣隆氏が、ブログが普及することによって「書き手」になるための敷居が低くなったことを指摘しています。日垣氏はこのことに関して「有益なこと」と言っており、ここで正念場になるのはプロの書き手だ、と述べております。私も、ブログを開くことによってさまざまな賛同や批判を目にしてきました。中には至極まっとうな批判もあり、考えさせられる文章もあったのですが、とりわけ痛感するのは、私も「言論」の担い手になってしまっている、ということです。これはもう不可逆なことです。

 ブログが普及することによって「書き手」が増えると、既存の書き手市場も含めて言論は大淘汰の時代になるのではないか、と思います。これにより、既存の「論壇誌」はますます危機に晒されることになるでしょう。でも、この危機の炎を乗り越えてこそ、言論のプロが活躍する洗練された「論壇誌」になると、私は確信しております。

 木村氏のブログにおいては、読売新聞が発行する週刊誌「Yomiuri Weekly」に掲載された記事にリンクが張られておりますが、この記事を読んだ私の感想は、とにかく問題をブログの責任になすり付けているな、ということ。「Yomiee」の記事においては、ブログは所詮「2ちゃんねる」と変わらないのだ、と言いたいのでしょうが、ブログの可能性を狭めているのは、むしろこの「Yomiee」の記事ではないか、と思われます。私はこのブログの機能を用いて、匿名での投稿ができないようにしておりますが、悪質な「煽り」に対して、技術的な面でそれを排除できるようにするシステムも必要なのではないか、と思います。あと、注意しなければならないのは、このようなネット上の反道徳的行為を奇貨として、政治家がネット規制に走ることでしょうか。

 千人印の歩行器:[読書編]bk1投稿書評(栗山光司氏)
 オンライン書店の「bk1」がリニューアルオープンしました。栗山氏の書評において、最も多く投票されたのは『アホでマヌケなアメリカ白人』の書評だそうです。ちなみに私のもので一番多かったのは、正高信男『ケータイを持ったサル』で、次が荷宮和子『声に出して読めないネット掲示板』でした。いずれも批判書評なのですが、私の書評を読んでみると、どうも批判書評が多く読まれる傾向にあるようです。しかも私が批判するのは、たいていベストセラーとなっている俗流若者論ですから、多くの人の目に映るのでしょう。あと、斎藤美奈子氏の本に書いた書評も多くの人が投票していました。

 半分お知らせになるのですが…

 「若者論」で国家論!
 ハイ!ハイ!ハイ、ハイ、ハイ!
 あるある探検隊!あるある探検隊!あるある探検隊!!
 (「レギュラー」のお二方、ごめんなさい)

 というわけで、現東京都知事の石原慎太郎氏が、「仮想と虚妄の時代」と称して、「今時の若者」から国家の衰退を嘆いた85枚にも及ぶ文章が「文藝春秋」05年5月号に掲載されたのですが、これがまた問題ばかりで、思わずその検証として「俗流若者論ケースファイル11・石原慎太郎」という文章を書いてしまいました。ついでに、これの長さを測ってみるとなんと原稿用紙30枚分だとか。ちなみにこの文章は昨日4時間かけて書いた文章なのですが、まさかそんなに書いているとは思ってもいませんでした。

 走れ小心者 in Disguise!:「エール送っとくわ」(克森淳氏)
 目に映る21世紀:これから行くイベント:⑰「トーク・イベント『僕たちの下北沢を救え!!』」

 この文章を公開するとき、多くの人に読んでほしかったので、私がよく見るブログの中でも、石原都政や自民党政治を批判的に見ているブログ(ここにリンクを貼った「走れ小心者 in Disguise!」「目に映る21世紀」にも送りました。ちなみにこのサイトの横の「おすすめブログ」に「目に映る21世紀」を追加しました)にトラックバックを送ってみたわけですが、反響は上々でした。

 それにしても、現在の石原都政を宮城県民の目から見ていると、この人はこれから先の人口減少社会に適合した政策を構築できるのか、と思ってしまいます。たとえば、五十嵐敬喜、小川明雄『「都市再生」を問う』(岩波新書)という本があり、この本では主に東京都で推し進められている「都市再生」がいかに地域を圧迫しているか、ということが告発されています。そしてこれを推し進めているのが、小泉純一郎首相、日本経団連、そして石原知事であるわけです。しかし、人口は確実に減少するのですから、いずれビルは過剰供給の事態に陥ってしまうのは見え見えです。小泉首相、石原知事、経団連は、このような「都市再生」を起こすことによって土地の値段を高騰させて、バブルの夢再び、といきたいようですが、この低成長時代において、経済的な成長が全てを叶えてくれる、という幻想はとっくに潰えているはずなのですが。

 「有害環境」規制だってそう。結局このような政策が起こる背景には、「今時の若者」をそのまま「悪」だとか「エイリアン」「モンスター」だとか決め付けており、その「原因」を「有害メディア」「有害環境」に求めたがる、という思惑があるからでしょう。しかし、このような規制は、青少年が多様なメディアに触れる自由と、親がそれを判断させる自由を奪うものに間違いありません。こういう人たちは、自分が「気に入らない」ものなら国家権力を使って排除してもいい、と思っているのかもしれませんが(「人権擁護法案」への質の低い反論もこの類でしょう。ちなみに私は、現在の「人権擁護法案」は真の人権擁護たりえない、という立場から反対です)、あんたらの身勝手な発想を国政に反映させないでいただきたい。
 しかも「有害メディア」「有害環境」規制には、なにも石原知事だけではなく、神奈川県の松沢成文知事や横浜市の中田宏市長も賛成しているのです。今年の初めのほうで、千葉県知事選がありましたけれども、ここで堂本暁子氏が当選したのが唯一の救いだった。対抗馬として立候補していた森田健作氏が当選したら、「有害メディア」「有害環境」規制の首都圏連合が完成するところだったのですよ。千葉県民に私は最大の敬意を示したい。もし東京・神奈川・千葉が「有害」対策の首都圏連合を実施したら、そのようなことをしてもいい、という「空気」が生まれてしまい、全国の保守的な首長が一斉に規制に乗り出すことも考えられなくもない。今、「言論の自由」は正念場を迎えているのではないかと思います。東京都民・神奈川県民の皆様にも、それを理解して、石原・松沢の両知事に憲法理念を守らせていただきたいです。東京・神奈川・千葉の人たちを、私は応援します。

 私が最近書いた文章はもう一つあり、赤子にかこつけ国家論を書いたジャーナリストの筑紫哲也氏の文章を批判した「俗流若者論ケースファイル10・筑紫哲也」も公開しております。それにしても、筑紫氏にもこんな保守反動的な側面があったとは。
 いいですか。少子化の時代においてもっとも大切なことの一つに、「子供」をイデオロギー化しない、ということが挙げられます。「子供」やその「親」を過度に敵視するのではなく、それらに「寛容」であること。もし「寛容」でいられないならば、せめて「子供」に歪んだ「関心」を持つことをやめてくれませんか。

 それにしても、
 minorhythm:★HappyなNews★(茅原実里氏:声優)
 このような文章を読んでいると、「子供」をイデオロギー化することがなんと愚かなことか、と思ってしまいますよね。

 あと、「この「反若者論」がすごい!01・内藤朝雄」もよろしくお願いします。これからは「若者論」に限らず、それに抗うための「反若者論」も随時紹介していく予定です。

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2005年4月 9日 (土)

トラックバック雑記文・05年04月09日

 *☆.Rina Diary.☆*:満開☆(佐藤利奈氏:声優)
 この文章の内容とはあまり関係のないのですが、佐藤氏のミニアルバム「空色のリボン」を聴きました。私の感想としては、佐藤氏の「空」というものに対する想いが存分に込められている作品になっているな、と。タイトルが「空色のリボン」であるだけに、その歌詞には「空」という言葉、およびそれに順ずる表現が頻出します。
 一番私が心惹かれたのは、第3トラックに入っている佐藤氏のフリートーク「あの空で逢えたら Part1」です。ここでは、佐藤氏が「空」に対する想いを語っているのですが、その中で「立っていると、目の前に空が見える」みたいなことを語っていたと記憶しております。
 青い空、曇り空、雨の空。いずれにせよ、空が見える、というのはとても大事なことです。空というものは、おそらくもっとも身近にある「大自然」でしょう。上を見上げるとどこまでも続いていて、思わず吸い込まれそうな、あるいは正面を向いていても、地平線の果てまで続いているような空。空を見ることが、自然に対する興味と関心を高める第一のことだと思います。
 ここで都市計画論的な話に移ってしまいますが、今年2月5日付けの読売新聞において、読売新聞編集委員の芥川喜好氏が「編集委員が読む」というコラムで「空はだれのものか 高層ビルが消した生活のにおい」という文章を書いておられます。佐藤氏のアルバムに心惹かれた人も、ぜひとも読んでほしいコラムです。
 芥川氏は、1月の下旬に新宿で行われた「脈動する超高層都市、激変記録35年」という写真展に関して、《低い建物が並ぶだだっ広い空間に、あるとき黒い塊が現れ、次第に上へ伸びる。その近くにまた同じような塊が生じ、同じように天へ向かって伸びる。その過程が百カット近い映像の早送りで壁に映しだされる。黒い塊は瞬く間に成長し増殖し群れとなって空間を圧し、意思あるもののようにうごめいている》という感想を述べています。
 芥川氏は、《このドキュメントを見て初めてわかることがある。超高層化とは、広い空が侵食される歴史でもあったということだ》と書きます。高層ビルが立ち並ぶ場所では、上を見ても無機質な侵食された空を見ることしかできず、正面を見てもほとんど空を見ることができない、という現実。大都市において広い空を見ることができるのは、超高層ビルに登るという特権を持った人だけ、という現実。空は万人に開かれている大自然の絶景です。それが巨大資本の論理によって侵食されていく。都市化=超高層化を極端に推し進めてきた政権党や巨大資本の偉い人たちが、「今時の若者」の自然に対する意識の低下を嘆く。何なのでしょうか、この矛盾は。基本的に「若者論」を安易に振りかざす人は、政権党が以下に若年層から「生活」の場を奪ってきたか、ということをことごとく無視しますが、そこに目を向けないと現在の政権党の論理を突き崩すことはできないと思います。
 芥川氏のコラムでは、最後に《芸術系大学の学生》が書いた《「超高層ビルと人間」という社会研究のリポート》について触れられております。そこで、次のようなものが引用されています。

 東京は富士を望む街だった。高さの競争などやめて、行き来の道から富士の見える街づくりをしたら、人の心も落ち着いて平和な町になるだろう。

 自然を「征服」するのではなく、自然と「共生」することが現在のパラダイムになりつつあります。最近建築の間で流行している「環境共生住宅」「古民家再生」なども、そのパラダイムシフトに適合した形でしょう。我々は、このパラダイムシフトを理解して、誰もが人間らしい生活を送れるように社会を構築しなければならない。佐藤氏のアルバムと芥川氏のコラムから見えたのは、そのようなことでした。

 ン・ジュンマ(呉準磨)の備忘録:文教政策が大きな政府主義の最後の砦?という以上に・・・
 教科書検定が始まりました。それにしても、今年は4年前とは違い、歴史教科諸問題があまり話題に取り上げられなくなりました。それだけ沈静化したのか、それとも世間の耳目を集められなくなったのか。
 「新しい歴史教科書をつくる会」といえば産経新聞ですが、昨日、その産経新聞が発行する雑誌「正論」を久しぶりに読みました。「正論」からは、もうこの雑誌自体に見切りを付けた、ということで、1年以上書店で見かけてもてにとることすらしなかった(というのも、タイトルと執筆者からどのようなことが書かれているか、ということが見え見えだったから)のですが、今回久々に一通り目を通してみて、余計にひどくなっている、という認識を持ってしまいました。
 巻頭はライブドア問題特集。どれも本質を突いていない論文ばかりでした(岩波書店の「世界」に掲載された文章や、文藝春秋の「諸君!」の特集は読み応えがある)。しかしもっとひどいと思ったのは、日本女子大学教授の林道義氏などによる「ジェンダーフリー教育」批判の文章です。この文章は、もうバリバリの陰謀論です。なんでも「ジェンダーフリー教育」を推し進める左翼は日本の崩壊を狙っており、それを裏で操っているのはマルクスだ、と。私も「ジェンダーフリー教育」には賛成できない部分もあるのですが(性教育には賛成です。あしからず)、ここまで妄想できるのはすごい、というほかありません。しかも、このような認識が、一部の保守論壇人に広く共有されている、というのだからさらに驚きです。大体、「ジェンダーフリー教育」が「どのように」我が国を崩壊させ、「どのように」韓国・中国・北朝鮮を利するか、ということに関してはまったく触れられていない。このような雑誌はある種の「共通前提」を持っている人には大人気なのだろうが、こんなことしていると新たな読者は獲得できませんよ、と言っておく。

 走れ小心者 in Disguise!:  「ブログ版『えらいこっちゃ!』(12)」(克森淳氏)
 カマヤンの虚業日記/カルトvsオタクのハルマゲドン:[資料][呪的闘争][宗教右翼][日本会議]90-91年「有害コミック」問題の発信源・和歌山の「子供を守る会」は、極右新興宗教「念法真教」
 私は基本的には改憲は必要だと思います。しかし、現在自民党を中心に議論されている改憲論には、むしろ批判的です。
 政府・自民党は改憲案に「青少年健全育成に悪影響を与える有害情報、図書の出版・販売は法律で制限されうる」ということを入れようとしていますが、まずここに反対です。第一に、青少年がある情報に関して、そこで得る感想は多様です。第二に、国家が一律に「青少年に有害」な情報を決め付ける、ということは、表現の自由に抵触する危険性があります。第三に、自民党などの皆様が問題にしたがる「有害」な情報・環境は青少年による凶悪犯罪を増やしてはいない、ということは、すでに犯罪白書や警察白書で明らかです。第四に、立憲主義の立場に立てば、憲法とは本来国家に宛てた命令であるはずです。それを理解していない政治家が多すぎます。そして最後に、このような改憲案は、自民党の右派の利権の元となっている宗教右翼や右翼政治団体に対するパフォーマンスである可能性が高い。
 先月の読売新聞において、財団法人日本青少年研究所の調査において、我が国の高校生の半数以上が自国に誇りを持っていない、という結果を嘆いていました。しかし、これのどこが問題なのでしょうか。もし自国に誇りをもてない状況があるとするなら、それを形成した社会的な影響を分析しなければならないはずですが、読売をはじめとして保守的な政治家や論者は、我が国における「左翼」による教育を真っ先に槍玉に挙げます。結局のところ、彼らは、青少年をイデオロギー闘争の道具にしか考えていないのです。憲法の改正案も、教育基本法の改正案も、まさしくこれに当てはまるのではないか、と考えております。
 私は、「大日本若者論帝国憲法」が必要である、と考えております。もちろん、現実的な改憲案ではなく、現在推し進められている改憲案がいかに滑稽なものであるか、ということを示すネタとしての改憲案です。その意図は、「こんな憲法になるんだったら護憲派のほうがよっぽどマシだ」と気づかせることです。この改憲案の骨子は次の通りです。
 ・青少年による問題行動の抑制のため、国旗・国歌・天皇に対する忠誠心を高めて、国家に帰属するための意識を養う。
 ・青少年の愛国心と社会性の涵養のため、強制的徴兵制を男女関係なく実行する。
 ・青少年の健全なる育成のため、「伝統的な」(実際には明治以降の近代化システムの中で捏造されてきた)家族のみを尊重する。それと同様に、子供を多く出産した家族は独身者よりも優遇される。
 ・親は自らが親権を持っている子供の行動を常に監視していなければならない。
 ・青少年に有害な影響を及ぼす恐れのある情報は検閲でもって規制できるようにする。
 ・青少年による凶悪犯罪の抑制のため、「有害な」環境に出入りする青少年を警察が取り締まることができる。
 ・青少年による凶悪犯罪の抑制のため、20代の若年層にのみすべての犯罪の厳罰化を行う。
 ・ひきこもりやフリーターや若年無業者を抱える家族に関しては、青少年健全育成の視点から財産を奪って強制的に就業意識を植え付けることは正当化される。
 こんなに滑稽なことが憲法に書かれるのは皆目御免だ、と思われる方も多いでしょう。しかし、これらの議論は、すべて俗流若者論にオリジナリティを見出すことができるものばかりです。そして、それらの粟粒若者論の欲望を満たす憲法を作ろうとしたら、このような憲法が出来上がるのは必然でしょう。当然、憲法学や立憲主義の歴史も一切無視し、権力に非常に甘い憲法になります。
 愛国者たるものは、常に国賊に目を光らせていなければなりません。現在我が国にはびこる国賊は、保守政治家や論壇人が問題視したがるような「左翼」ではなく、巨大資本による都市の画一化を推し進め、青少年をイデオロギー化することによって不安をあおり、それによって利権をむさぼる自称「保守」政治家・言論人です。このような国賊こそが、まさしく我が国を壊死させる張本人です。そして、俗流若者論も、国賊として糾弾されるべきです。

 お知らせ。このブログの右側に表示されております「参考サイト」を、「参考サイト」と「おすすめブログ」に分割しました。
 「参考サイト」として追加したもの
 「グリーントライアングル
 「「有害」規制監視隊
 「少年犯罪データベース
 「「ゲーム脳」関連記事 - [ゲーム業界ニュース]All About
 「おすすめブログ」として追加したもの
 「kitanoのアレ
 「カマヤンの虚業日記/カルトvsオタクのハルマゲドン
 「読売新聞の社説はどうなの・・

 また、次の文章を公開しました。
 「俗流若者論ケースファイル09・各務滋」(4月4日)
 「2005年1~3月の1冊」(4月4日)
 「正高信男は破綻した! ~正高信男という堕落みたび~」(4月5日)

 今後の予定としましては、まず「俗流若者論ケースファイル10・○○○○」を近いうちに公開します。また、『ケータイを持ったサル』批判の「再論・正高信男という病」もできれば来月中には公開したい。正高信男批判では、「犬山をどり ~正高信男を語り継ぐ人たち~」と題して、『ケータイを持ったサル』の書評を検証する予定です。これの公開は「再論・正高信男という病」を公開したあとなので、おそらく8月頭ごろになるでしょう。また、仙台の都市計画と「東北楽天ゴールデンイーグルス」について論じた文章や、治安維持法制定80周年に関する文章、雑記文で触れた「大日本若者論憲法」の実体化など、いろいろ企画しておりますが、大学の授業も始まったので、予定は未定です。
 曲学阿世の徒・正高信男といったら、「正高信男という頽廃」において、このようなコメントをいただきました。

この人、統計のトの字も知りません。t検定もよくわかってなかった。ついでに実験してないので、なぜか論文書きます。内輪でもデータはどこから来ているのか疑問視している人は多いですよ。さらに、気に入らない研究者や学生を徹底的に攻撃(ある意味、いじめ)するので、敵は多いですね。挨拶そいても応えない、目を合わせなければ、口もきかないあたり、彼の社会性を疑ってしまいます。かれが世の中のいじめや引きこもりについての著書を書くたびに、その自分の行動はどううなんだ・・・と言いたくなります。

 休刊した「噂の眞相」みたいに「『ケータイを持ったサル』の京大教授は論文捏造の常習者」と「一行情報」を書きたくなってしまいますけれども、これが本当ならばすごいことですよ。こんな人を教授にしている京都大学とは、いったい何なのでしょうか。誰か止めてあげられる友人はいないのか。

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2005年3月30日 (水)

トラックバック雑記文・05年03月30日

 走れ小心者 in Disguise!: 「ウソかホントか?ホントかウソか?」(克森淳氏)
 克森氏によると、ドイツのある医者が恐るべき実験を行ったそうです。
 その詳細がこちら
 リンク先の記事によると、なんでも《老人学が専門のカレン・ウェザビー博士がドイツ人男性200人を5年かけて調べた。100人には美しい女性の乳房をじっと凝視させ、もう一方の100人には女性の乳房がいっさい視野に入らないよう監視を厳しくした》といい、さらに《面白いことに、成人男性に女性の乳房を見せると、その容姿は日増しに輝きをみせ、乳房を見られない男性たちの顔面からはみるみる活気が去ってしまった》らしいです。私は、これはかなり疑似科学スレスレのところをいっているのではないかと思います。
 第一に、サンプルが少々少ないことです。まあ、これはあまり重要ではないでしょう。第二に、《美しい女性の乳房》と言っておりますけれども、《美しい》という言葉の基準がどこにあるか分かりませんし、そもそも1日にどれくらい凝視させたのか、また実物なのか写真なのか、ということも分かりません。また、それらの男性について乳房を見ることによってどれくらい欲情するか、ということも考慮に入れられてしかるべきでしょう。それ以外にも、学問的に突っ込みたいことはいっぱいあるのですが、まあ、ネタとして捉えておけば無害か。
 しかし、性的な刺激によって身体に何らかのよい影響が出てくる、というのは無視できないようです。朝日新聞社から出ている「AERA」の05年4月4日号でも、性的交渉ががん予防になる、という記事も出ていました。これも、どこまで一般性があるかどうかは分からないのですが、性ホルモンと健康の関係に関して、もっと学問的に理のかなった結論を期待しております。あと、そこで出た結果が単純なセックスレス批判とか性行為礼賛にならないことを祈る。

 ヤースのへんしん:頭に来る!
 テレビ番組でCMが流れているときだけ、音量が飛躍して大きくなることにストレートな怒りをぶつけている記事です。それには私も同意できます。また、話のクライマックスに近くなったときにわざわざCMを入れて、「引いてしまう」ことにも私は立腹しております。
 ここで考えたいのは、このような番組にとって番組それ自体が大事なのか、それともCMが大事なのか、ということです。コラムニストの小田嶋隆氏がかつて読売新聞社の「Yomiuri Weekly」の連載で(手元にないので掲載号までは分かりません)、このようなテレビ番組の姿勢に怒り心頭を発していたことを思い出します。小田嶋氏曰く、我々は「オマケ」を見せられているのか、と。要するに、このような手法を用いる番組にとってすれば、むしろCMこそメインで、肝心の番組は「オマケ」だというのです。なんだか、番組の内容で勝負しよう、という気概が見えてこない気がします。で、とにかく引き延ばしておいて、「来週に続く」ってか。テレビ番組の悪しき手法として定着してしまった感があります。
 放送局の皆様。あなたに魂というものがあるならどうかそのような悪しき手法ではなく、内容で勝負していただきたい。さもないと、視聴者はCMばかり印象に残ってしまうことになりますよ。

 週刊誌記者の日記:ヨン様と「竹島問題」(友澤和子氏:朝日新聞社「週刊朝日」編集部)
 *☆.Rina Diary.☆*:ほんわり(佐藤利奈氏:声優)
 私は読んでいないのですが、「週刊朝日」に、「ヨン様」ことペ・ヨンジュン氏の竹島問題に関する発言に対する反応を描いた記事が掲載されているようです。友澤氏の文章によると、

韓流ファンの知人やこれまで取材したことのあるファンたちに手当たり次第に聞いてみると、ヨン様の発言や韓国の態度に「韓国がいやになった」、といったような意見よりも、
ドラマやスターを愛好する気持ちに、容赦なく政治が絡んでくること、俳優の映画発表会見にさえ政治的な質問が浴びせられてしまう事態に、戸惑いと違和感を覚えている……というのが、主な反応でした。

 というのが主だった反応だったそうです。《ドラマやスターを愛好する気持ちに、容赦なく政治が絡んでくること、俳優の映画発表会見にさえ政治的な質問が浴びせられてしまう事態》我が国においてはいささか縁遠いことかもしれませんが、そういうところを理解しつつ、お互いに理解の道を探る、というのが、日韓友好の最大の手段である、と思います。
 友澤氏によると、《ぺ・ヨンジュンさんの韓国の公式ホームページの掲示板に日本人がたくさん書き込みをしている》そうです。そこでは、《そこでは、とても密度の濃いやりとりがリアルタイムで重ねられていました。/九州や韓国であった地震について、お互い無事や順調な復興を祈りあったりする書き込みも。》ということらしいです。政治の面では感情的な議論が飛び交っていますが、こういった草の根レヴェルでは心の通った交流が行われている、ということに、今日の日韓関係の二重性や複雑さを感じます。
 ネット上におけるこのような交流を可能にしたのが、どうやら翻訳ツールらしいです。翻訳ツールを通すことによってどこまで自分の感情が伝わるか、ということは分かりませんけれども、少なくとも文字の上では、さまざまな言語を持つ人が交流を持つことができる。他方で、現実の政治の世界では、いまだに感情論に基づいた没論理的な議論が続いている。小泉純一郎にしろ盧武鉉にしろ、あるいは日本の活動家にしろ韓国の活動家にしろ、互いに強硬な姿勢を見せてばかりで、単なる示威行動に終わっているような気がしてなりません。友永氏は、このような状況を《バーチャルの世界では国境も言葉の壁もやすやすと越えているのに、リアルの世界では、20世紀からの重い宿題を引きずり、領土や国境の壁がまだまだあつい……そんなことも考えさせられました》と嘆いていますが、我々は、20世紀の課題をいまだに引きずりながら生きている、ということを考えざるを得ません。その一つが、言葉(ネット上なら文章)による「対話」を目指すこと。
 佐藤氏の文章では、

私がレジでお会計をしていたら、横から「○○って商品はどこ?」と割り込んできたお客さんがいた。あぁ、急いでいるのね・・と、いつもなら気にしないトコロだけど、今日は私も急いでいたので、並んでほしいなぁ~と悲しくなった。
そしたら、お釣りを渡すときに店員さんが「お待たせしてしまって大変申し訳ありません!」と心底すまなそうに言ってくれた。彼の非ではないのに。
その言葉を聞いて、嫌な気持ちになっていた私の心がほんわり温まった。

 とあります。人というものは、何気ない一言で傷つき、何気ない一言で心が温まるものです。それは仲間内でも、あるいは他人同士でも、さらに言えば国籍が違う人同士でも同じこと。そう自覚することが、コミュニケーションの入口なのかもしれません。
 言うは易く、行なうは難し、ですが。

 思考錯誤: 『ケータイを持ったサル』か?(辻大介氏:関西大学教員・社会学者)
 辻氏は、最近の京都大学霊長類研究所教授、正高信男氏について、《しかしだな、その実験の解釈や議論の組み立てかたは、やはりトンデモと言わざるをえないところがある。いかに優れた自然科学者であっても、生半可に社会評論に手を出してしまうと、こんなことになってしまうんかいなと愕然としてしまう。お願いだから、正高さんには、こっち方面からはとっとと手を引いて(どうせ片手間しごとなんだし)、着実に本業を進めてほしいと切に思う。優秀な人が道を誤っちゃいけない。》と批判しておりますが、同感です。正高氏の最近の仕事は、霊長類学の学説を無理矢理マスコミが好んで採り上げているような若年層の「問題行動」と結び付けて、若年層を罵っている、というものにほかなりません。
 しかし、『ケータイを持ったサル』は、いくらトンデモであっても実験や調査を行っており、その点ではまだまだ救いようがある、といえるかもしれません。しかし、昨年12月から今年1月にかけてのNHK「人間講座」のテキスト『人間性の進化史』は、もはやポイント・オブ・ノーリターンに到達してしまったのではないかと思えるほどのひどい著作です。詳しくは「正高信男という頽廃」を読んでほしいのですが、この本は差別に満ちており、不適切なアナロジーの使用、前後矛盾、文学作品のトンデモ珍解釈など、トンデモ本としての要素が満載です。

 週刊!木村剛:[ゴーログ]逆境こそが経営者の資質を磨く!(木村剛氏:エコノミスト)
 たとえ逆境に陥っても、しっかり腰を据えて対処すること。これは経営者のみならず、日常生活の場において一般的に言えることだと思います。たとえ自らが批判の矢面に立たされても、そこにおいていかに冷静に対処するか、ということの重要性を感じることが、社会への還元の入り口であるように考えます。たとえ失敗しても、それを他人に押し付けないこと。まず自分の中で消化すること。
 また、経営者のみならず、言論を発する人にとって必要なのは、情報公開だと思います。私がここで研究している俗流若者論は、たいていはその論者が考える理由を開示しないまま、人々の感情(たとえば、「今時の若者」に関するフラストレーション)に訴えかけて、人々を扇動しますが、これは言論が行うべき行為ではなく、むしろ扇動屋の行為でしょう。私は具体的な議論にしろ抽象的な議論にしろ、まず理詰めで行うことを自らに課しています。自らの考える手順を公開することも、また情報公開の一種です。曖昧なアナロジーで煽り立てるのは無意味だし有害です。何度も言いますが、アウトサイダーをうまく取り込むためには、理詰めで攻めるしかないのです。

 蛇足ですが、私が「人権擁護法案反対の倫理を問う」で憲法と人権を概説したことについて、「近代国家礼賛か無政府主義か分からない」とか「電波」とか言いふらしている人がいました。どこかは忘れましたが、おそらくここを見ているので追記しておきます。
 私の立場は立憲主義です(近代国家礼賛か無政府主義か、というと、どちらかといえば近代国家礼賛に近い)。また、人権とはひとえに国家と国民の間に成立する力関係であり、憲法は人権を規定したものです。憲法や人権について詳しく知りたい方は、下に示した本・論文を読んでください。
 奥平康弘、宮台真司『憲法対論』(平凡社新書・2002年12月)
 長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書・2004年4月)
 小林節「タカ派改憲論者はなぜ自説を変えたのか?」=「現代」2005年2月号、講談社
 水島朝穂「『読売改憲試案』の目指すもの――その憲法哲学を検証する」=「論座」2004年8月号、朝日新聞社

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2005年3月27日 (日)

トラックバック雑記文・05年03月27日

 春休み特別企画、無事終了しました。この企画が進行している間は、毎日文章を書いていたので、自分の頭も少々整理できた気がします。やはり、文章を書くことは、自分の考え方をまとめたり、あるいは眠っていた資料を復活させたり、または新しく資料を集めたりと、自分を活性化するきっかけになると思います。
 特別企画で書いた文章へのリンクを貼っておきます。
 「俗流若者論ケースファイル04・荷宮和子」(3月21日)
 「俗流若者論ケースファイル05・牧太郎」(3月22日)
 「俗流若者論ケースファイル06・若狭毅」(3月23日)
 「俗流若者論ケースファイル07・森昭雄」(3月24日)
 「俗流若者論ケースファイル08・瀧井宏臣&森昭雄」(3月25日)
 また、この企画の進行中に、私がこのブログで書いた文章(トラックバック雑記文とお知らせは除く)が「ウェブログ図書館」に登録されていました。木村剛氏とか「極東ブログ」とかいったブログ界のビッグネームと同列で、昨年11月に始まったばかりの私のブログが並んでいるのは、少々恥ずかしい気もします。

 週刊!木村剛:[ゴーログ]なんやねん!その「クラウンなんとやら」ちゅうんは!(木村剛氏:エコノミスト)
 ヤースのへんしん:井戸端会議
 木村氏がなぜか大阪弁だ(笑)。それにしても、マスコミにしろそこに登場する人にしろ、わけの分からないような概念で虚飾して自らを飾り立てるのが好きですね。実を言うと、私はこの文章にケースファイルの若狭毅論をトラックバックしておいたのですが、この若狭氏の文章においては、「セロトニン欠乏症」という珍概念(この概念は、東邦大学医学部の有田秀穂教授による)が使われているのですが、どう考えてもセロトニンだけを重大視して、たとえば同様に重要な脳内物質であるノルアドレナリンやドーパミンについては無視しているのです。
 「わけが分からないけれども響きが「かっこいい」表現」とか、あるいは「問題を重大視させるためにほかの要素を無視したでっち上げ」が多すぎます。もちろん、そのような概念のでっち上げは、マスコミ的には受けがいいかもしれませんが、かえって物事の本質から目をそらしたり、あるいは社会に無用な混乱を及ぼすだけになりかねません。肝心なのは、多くの人に分かってもらえるように、虚飾ではなく理詰めでわかりやすく説明することです。虚飾に満ちた概念で自らを着飾っている人は、そのうち良心的な人から「裸の王様」と罵られることでしょう。分かりにくいのも問題ですが、過度に分かりやすいのもまた問題です。新聞や雑誌には問題を分かりやすく解説した記事が多く載るのですが(それでも新聞社・雑誌社の思惑が入ることはある)、テレビではどうも時間の制約があるのか、そのようなものは少ない気がします。しかし、ワイドショー的な煽り合戦ではなく、視聴者を「説得」するような議論が求められているのです。できるところからはじめましょう。まず、「今時の若者」に関する扇情的な報道をやめるとか(笑)。
 「今時の若者」に関する扇情的な報道といったら、ちょっと目を放している間にまた「奈良女児誘拐殺人事件における、マスコミのオタクバッシングまとめサイト」に急展開が。3月12日付東海テレビ「スーパーサタデー」が、なんと本格的な報道加害をやらかしてしまったそうです。取材許可を得ないで、自宅に押しかけて取材!しかもその隣の家の表札にモザイクはかけない(これこそ報道加害ですよ)!そしていつもどおりの印象操作、事実誤認、さらに大谷昭宏(笑)!!「若者論」(私の言う「若者論」は、「理解できない「今時の若者」」に関する過度に扇情的な報道をさしているので、オタクバッシングも含まれます)のためならルールを破ってもいい、と考えてしまったマスコミは、いったいどこへ行くのでしょうか。

 週刊!木村剛:[ゴーログ]また、年金討論会でも企画しましょうか?(木村剛氏:エコノミスト)
 天木直人・マスメディアの裏を読む:3月25日 05年48号 ◆ 外交はオセロゲームか ◆ 先送りと言う名の拒否 ◆  「タクシーで逃げればよかった」という与謝野発言(天木直人氏:元外務省レバノン大使)
 年金に関して、私が言いたいことはただ一つ、まず人口減少を認めるべし。人口は確実に減少するのですから、なし崩し的な男女共同参画という名の戦時体制的人口増加政策よりも(斎藤美奈子『モダンガール論』(文春文庫)によれば、戦時中にも「働く女性」が美化されたようです)、人口が減少してもいいから、誰もが人間らしい生活を謳歌できるようにする政策に転換すべきでしょう。今のままでの男女共同参画社会論は、結局性別役割分担に帰結してしまうと思います。
 年金よりも必要なのはたくさんあります。その一つが都市計画です。現在、さまざまなところで超高層ビルの乱立が報じられ、その荒廃が嘆かれていますけれども、人口が減少するのだから、経済が縮小する(「縮小」と「衰退」は決して同義ではない)はずなのに、巨大資本は一度消えたはずの土地バブルを、超高層ビルを建てることによって復活させようとします。これで、ある意味では洗練された町並みができるものの、地域は荒廃します。高安秀樹『経済物理学の発見』(光文社新書)によると、我が国の1970年代以降の経済は土地の値段と軌を一にしています。だから、政府とか経団連とか東京都とかは、土地の値段を上げてバブルの夢再び、といきたいのでしょう。しかし、多くの先進諸国は日本ほど早くはありませんが人口減少に転じます。ですから、人口減少社会のパイオニアになるであろう日本が、人口減少社会に適合した政策モデルと経済モデルを提示することこそ、我が国の信頼を世界に広める最大の手段だと思います。都市計画も、先送りは許されないのです。
 ちなみに、環境問題の解決、という点から見ても、人口減少は望ましいものといえます。

 都市計画といえば。
 繪文録ことのは:丹下健三――代々木競技場、フジテレビ、新宿新都庁……コンクリートの威圧感(松永英明氏)
 保坂展人のどこどこ日記:下北沢の街は道路に引き裂かれるか(保坂展人氏:元衆議院議員・社民党)
 目に映る21世紀:新宿南口再開発のカンバン
 近代日本を代表する建築家、丹下健三氏が亡くなられました。91歳でした。
 先日(3月12・13日)東京に行った際、様々な都市・建築を見てきましたが、丹下氏のものも多く見てきました。新宿新都心のメガロポリスは、都庁をはじめとして丹下氏の設計した建物が多くあり、代々木国立競技場、フジテレビ本社も、丹下氏の設計によるものです。さらに、現在は愛知万博が行われていますけれども、大阪万博など、時代を象徴する建築を、丹下氏はたくさん設計してきました。
 東京都庁を見たときの雑感ですが、新宿の新都心が都庁を中心に回っている、という感じを受けました。そして、都庁それ自体が一つの都市を形作っており、また都庁の権力を象徴しているようにも見えました。ここには明らかにコンセプトがあり、形というものがありました。そして、代々木競技場にしろフジテレビにしろ、それ自体が非常に大きな建物でありながら、その建物がその土地にある意味を十分に表していたと思います。私は中には入ったことがないので、中にいる者としての感想は述べることはできませんけれども、少なくとも外側からはその建物の意味を感じることができました。丹下氏に限らず、都市計画や建築というものは、作ったら終わり、というものではありえません。作って使う人がいて始めて、都市や建築というものは意味を持ってくるのです。
 東京都庁とは対照的に思えたのが、秋葉原の再開発でした。現在、JRの秋葉原駅の電気街口には、ガラス張りの巨大なビルが建っているのですが、どう考えても秋葉原とは合わない、という感じがしました。秋葉原には様々なオタクが集まる、ということで有名で、そういうことを考えてみれば秋葉原に雑多な看板が並んでいるのもその地域の特色と思えます。東京都の思惑は、秋葉原をIT産業の拠点にする、というものらしいですけれども、その思惑とシンクロしてか、警察による職務質問が激増しているらしいです。朝日新聞社の「AERA」平成17年3月5日号によると、路上ライヴに対する締め付けは渋谷や原宿よりも強い、という嘆きがあるようです。
 建築というものは、その地域の地域性を踏まえて、そこから新たなものを創出しなければなりません。地域性を無視して、ただハコ物を作ってしまうだけでは、帰ってその地域の特色を壊すことになりかねません。秋葉原で痛感したのは、そのことでした。
 保坂氏のブログでは、下北沢の再開発問題が採り上げられています。保坂氏によると、なんと60年間も眠っていた道路計画がいまさら復活してしまった、というものです。しかも、下北沢を南北に横断する環七並みの太さの道路というですから、異常というほかありません。この計画が眠っている60年の間に、下北沢はさまざまな変化を遂げてきたことでしょう。保坂氏はこの復活劇の意図を《左右が開通していない250メートルの道路もどきでも建設すれば、駅前再開発が大々的に出来る――これが、下北沢再開発の隠れた狙いだ》と推測しています。これが完成すると、《演劇も、音楽も、若者風俗も、ゴチャゴチャした飲み屋もなくなる。ベットタウンの郊外駅のようなビル群が立ち並び、繁華街は壊死してしまう》と保坂氏は嘆いています。「再開発」という美名の下に、繁華街や地域が崩壊してしまったら、それこそ本末転倒というものでしょう。
 「目に映る21世紀」で俎上に上げられている新宿南口再開発の看板もすさまじい。美辞麗句だけがあって、ヴィジョンがありません。この筆者は、《いつまでも広告代理店やコンサルに頼らずに、『場』を開放しろよ、ボケが。そしたら俺もやりたいことはたくさんあるから(口汚くてごめんね)》と書いています。都市や建築を単なる金儲けの手段としてしか考えていない人は、この先確実に来るであろう人口減少社会に取り残されてしまうのは間違いないと思います。現在求められているのは、人口減少社会に対応して、かつ人を引き留める力があるような都市計画です。多くの建築家はそれを自覚しているのですが、政治は自覚しているのでしょうか。丹下氏の逝去を機会に、政治家の皆様には考えてほしいものです。

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2005年3月19日 (土)

トラックバック雑記文・05年03月19日

 週刊!木村剛:[ゴーログ]岡田民主党は年金改革を為し遂げられるか?(木村剛氏:エコノミスト)
 保坂展人のどこどこ日記:年金広報、1枚1万円のポスターの無駄(保坂展人氏:元衆議院議員・社民党)
 保坂氏のブログでは、すさまじい事実が指摘されています。

今日、午後1時30分からの『報道特捜ブロジェクト』(日本テレビ系)で、『ポスター1枚1万円、年金無駄遣い』と題して、年金広報で湯水のように使われていくパンフレットやポスターの類の謎に迫る番組が放映された。
自慢じゃないが、このカラクリに最初に気がついたのは私だ。2年11月17日の衆議院決算行政監視委員会で質問にたった私は、『明日があるから国民年金』(年友企画)を手にかざして、発行部数が168万部に及んでいることを追及した。
なぜなら、新成人は150万人台前半となっていることを過去の人口統計で知っていたからだ。社会保険庁運営部長はたじろき、答弁に窮した。質問後、大量発注で定価69円の冊子を49円で買い上げている。その金額は8800万円だと答えてきた。財源は年金保険料で94年以来、毎年大量に製作されていることもわかった。
議員だったこともあって、成人式にはこの8年間、毎回出席してきた。新成人は全員手ぶらである。以前にはあった「記念品」を配るということをやめて久しい。記念品に何かを配るのなら、そこにパンフレットを同封するということも出来るだろう。
私は直感的に理解した。このパンフは、ほんの一部しか配られていない。大量に印刷されて大量に廃棄されるか、また大量に印刷されたことにして少ししか作られていないか、どちらかだろう。

 昨今の年金未納の増加を受けてか、厚生労働省(旧厚生省)は広報に必死なようです。しかし、保坂氏は、これらのポスターの多くは無駄になっているか、あるいはポスターの印刷部数を水増しして、その結果、ポスター1枚あたり1万円、というものすごく法外な印刷料がたたき出されている、ということを指摘しております。
 保坂氏は社民党ですが、民主党は、このようなことはどんどん追及すべきだと思います。現在、事実上自民党(+公明党)と民主党の二大政党体制になっているのですが、民主党の岡田克也代表は「野党ではなく政権準備党」だといっています。これには少々困ってしまいます。
 第一に、岡田氏は政権に関する準備をあまり国民に開示していないような気がします。また、岡田氏の動向を見ると、「政権準備」が「与党(=自公連立内閣)に擦り寄ること」みたいになっている気もしないでならないからです。二大政党制がうまく機能するためには、その二つの政党の政策的な違いがよく見えるようにしないといけません。大事なのは、対案を出すときは、徹底的に理詰めで提案し、できるだけアウトサイダー(すなわち、組織の外部にいるような人間や、その問題にあまり関心を持っていない人)にも分かるようにすることだと思います。身内の論理でいつの間にか決まっていた、というのではなく、できるだけ「説得」することが不可欠なように思えます。そうしないと、民主党も自民党と同じような「野合政党」みたく思われてしまうでしょうし、読売新聞あたりに足をすくわれて党是が自民党と瓜二つになってしまいかねません。

 お知らせ。このような内容を扱っているブログには似つかわしいことではないかもしれませんが、春休み特別企画をやります。その名も「俗流若者論ケースファイル5連発」。このブログの連載企画である「俗流若者論ケースファイル」を1日1本、今月21日~25日の5日間、合計5本公開します。もういい加減にしてほしいほどメディアに露出している俗流若者論の大スターから、意表をつくようなあの人、さらに新聞記者まで、誰が出るかはお楽しみ。でもその前に、「俗流若者論ケースファイル」の過去のシリーズ、「大谷昭宏」「小原信」「福島章」もお楽しみください。
 「人権擁護法案」に関する個人的見解をまとめた「人権擁護法案反対の倫理を問う」もお読みください。「人権擁護法案」の本質的な欠陥がわかるように書いたつもりです。

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2005年3月16日 (水)

トラックバック雑記文・05年03月16日

 今月12日から13日にかけて、東京に行ってきました。JRの土日きっぷ(宮城県古川市より南の東北、関東全域、中部地方の東部におけるJRの電車賃が指定した土日はすべて無料になる。新幹線も含む)を使って、ひたすら山手線などに乗り続け、いろいろ歩いてきました。私が足を運んだのは池袋、渋谷、原宿、お台場、新宿、代々木、神保町、秋葉原、汐留(シオサイト)です。
 そこで私が思ったことをあげておくと、まず、渋谷(渋谷センター街)と原宿(表参道)ではぜんぜん違う、ということです。私がいいと思ったのは原宿(表参道)でした。表参道は、原宿駅から東向きに通っている大通りのことですが、大通りだけに風通しがよく、通りの両脇に大きなビルが建っていてもあまり圧迫感を覚えないし、植栽もあって、散歩にはちょうどいい場所かもしれない、と思いました。表参道では、現在同潤会代官山アパートの建て替え工事が安藤忠雄建築事務所などの主導で行われていますが、この新生代官山アパートが原宿の景観と社会環境にいかに影響を及ぼすか、楽しみになってきました。
 一方、渋谷はとても窮屈でした。通りにけばけばしい看板が目立ち、建物が高い上に路地も狭いので圧迫感がありすぎます。これはセンター街だけでなく、渋谷駅周辺の商店街全般に言えることです。唯一開放的なスペースは渋谷駅のハチ公口前の広場、およびその近くにあるスクランブル交差点くらいで、できればこの町には近寄りたくはないな、というのが正直な感想でした。で、渋谷を抜け出して松濤に出たのですが、ここは住宅地ということもあって静かな感じを受けました。
 期待はずれだったのが秋葉原です。私は思いっきり「萌え」の街をイメージしていたのですが、秋葉原駅前には巨大なガラス張りのビルが建ち、アニメショップなどの店は駅前から離れたところに位置しておりました(アニメイトの秋葉原店を探すのに30分かかった)。東京都は、秋葉原をIT産業の拠点にしたい、と目論んでいるのでしょうが、あのビルは秋葉原には絶対似合わない、と感じた次第であります。最近の秋葉原では、警察によるオタクを狙った職務質問が増えているという記事を「週刊SPA!」や「AERA」で見たことがありますが(現在、どちらも手元にないので詳しい内容の確認はできません)、これも東京都の思惑の表出なのでしょうか。
 追記しておくと、私が秋葉原で入った店はアニメイトの秋葉原店の1階だけです。

 週刊!木村剛:[ゴーログ]経営者が果たすべき3つの職責(木村剛氏:エコノミスト)
 木村氏は、「経営者が果たすべき3つの職責」として、次のように述べておられます。

 経営者の大きな仕事は3つ。
 そのうちの2つは、方向を決めることと、日々判断することです。
 それらが、組織のメカニズムとして、自動的に動くようになってくると、その会社は自ら浄化作用を働かせ、力強く復活していくようになります。その過程においては、方向性の違う人々と袂を分かたなければならないこともありますし、自浄のために凛として排除しなければならないケースもあります。
 それぞれの局面では厳しい決断を迫られる場合もあるわけですが、それが経営者の職責ですから逃げるわけにも行きません。事前にあらゆるケースを想定して思い悩みつつ、現実的にそのケースが発生したら、即時に判断を下す ――それが経営者の仕事です。
 おかげさまで、日々24時間悩み抜いていますので、これまでのところ、日本振興銀行において現実の課題が発生して判断を迫られた場合に5分以上悩んだことはありません。その場その場で結論を出すように心掛けてきましたし、今後もそうでありたいと思っています。
 そして、残ったもう1つ経営者の職責は、結果としての数字を残すこと、です。

 これは、木村氏が経営者として座右に置いている心掛けでしょうが、自らの社会的責務を自覚した上で行動する、というのはとても大切なことであると思います。私が主に研究している俗流若者論の分野では、自らの学者としての責務を自覚しない曲学阿世の徒が自らの暴論をさもそれが当然の公理であるように言い張っているのですが、学者としての責任は世にはびこる差別や都市伝説や短絡的思考をナチス的に「正当化」するのではなく、自らの深い教養と考察に基づいて、そこで生まれた結果を社会に広めていく、ということだと思います。あるいは、世の中の人々が自分の研究分野に関して興味や関心を抱くようにすることも、責務だと思います(ゆえに、最近になって「世界で一番受けたい授業」や「笑っていいとも!」などのテレビ番組で行われている科学実験企画は、私は絶賛に値するものだと考えています)。
 社会的責務、ということでもう2つほどしゃべらせてください。

 署名で書く記者の「ニュース日記」:霞む国会(相馬芳勝氏:共同通信記者)
 私は現時点では一応民主党を支持しているだけに、民主党代表・岡田克也氏の「野党ではなく政権準備党」という言葉には少し困っています。「政権準備党」ということは、民主党には具体的な政治ヴィジョンがある、ということを言いたいのかもしれませんが、少なくとも現在の民主党からは政権のヴィジョンが見えてこない気がします。本当に政権の準備をしているのであれば、そのヴィジョンを広く国民に示し、現在の小泉政権、自民党政権よりもいかにマシであるか、ということを主張してほしい。岡田氏は、「政権準備党」ということを、与党と闘うのではなく与党と調整する、という意味で用いているのであれば、岡田氏には民主党が野党である意味を考え直してもらいたい。

 弁護士山口貴士大いに語る:人権擁護法案に異議あり!(山口貴士氏:弁護士)
 さて、人権擁護法案が本格的に国会で審議され始めました。この法案を読んでみる限り、我が国の政府は「人権」という概念を本当に理解していない、と呆れ返ってしまいます。しかし、人権概念の度し難い無知は、その原因を求めると左右の「論壇」にこそあるのです。
 人権とは何か。それは国家権力の横暴から国民を守るための論理です。簡単に言えば、自らの発言を国家によって制限されない権利=表現の自由、国家によって不当に逮捕されて不当に裁判にかけられて不当に処刑されない権利などであり、それを定めたものが憲法なのです。すなわち、憲法とは基本的に人権を規定したものであり、また、憲法とは国家に宛てた命令と捉えられるべきです。
 その点から考えれば現在審議中の人権擁護法案なるものがいかに矛盾しているものなのか分かります。すなわち、人権擁護法案とは、「人権擁護」のもとに国家が平然と人権侵害ができるようになる法案なのです!!!ああ恐ろしい。
 人権擁護法案においては、個人や組織(国家ではない)が個人に対する差別的な言動や待遇を《人権侵害》と規定しているようですが、どこが人権侵害なのでしょうか。こういうのを法学的には私人間効力といい、人権侵害にはまったく当てはまりません(倫理的には大問題ですが)。また、個人による別の個人への暴力も《人権侵害》とみなされているのですが、すでに我が国には刑法があります。刑法で処罰してください。
 このような悪法が生まれる背景には、我が国のある時期の論壇における「人権」概念の超拡大解釈があります。ある時期、「左翼」的な人が、親が子供に振るう暴力はもとより、親が自分の優位性を示す言動さえも「人権侵害」と喧伝していたのですが、これは「人権」概念を極度に貶めると同時に、「人権」概念を単なる運動家の論理に格下げしてしまいます。で、「左翼」的な人がこのようなことばかりを主張しているのですから、低俗には低俗で対抗したがる一部の「右翼」が、「子供に人権はない!」などと変なことを主張したがる。このような低俗のスパイラルが、やがて人権という概念の国民的無知を生み出し、このような法案が現れる羽目になってしまったのです。このことについて、我が国の論壇はどのように思っているのでしょうか。「論壇」が社会的責務よりも身内の理論に埋没してしまったからこそ、このような悪法が現れたのです。
 憲法学の基礎から見て、この法案は度し難いまでの形容矛盾を含んでいるのです。だから、この法案は即刻破棄されるべきです。
 もう一つこの法案の問題点は、「何が差別か」という、社会的に重大な問題を、国家が決めてしまう、ということでもあります。これは複雑なことはすべて国家に任せてしまおうという、国民による市民としての役割の放棄以外の何物でもありません。「何が差別か」ということを決めるのは国民であり、市民です。この法案は、それを国家に決めてもらうことによって、下手をすれば国家による横暴と圧制を許しかねないものであるのです。これは国家による思想統制にほかなりません。この法案は「左翼」的なものと捉えられているようですが、たとえば教育基本法の改正案に見られるような、「何が愛国心か」ということに関して国民にその信を問うということを通り越して国家がそれを決めてしまうことや、「心のノート」などに見られるような「何が道徳か」ということを国家に決めてもらう、ということと本質的に同じものなので、この法案はかなり「右翼」的なものであると私は踏んでおります(人権擁護法案に反対する「右翼」の人たちは、もし「国辱・売国的な言動を処罰する」といった「愛国者法」みたいな法律が作られたら、反対するのでしょうか)。
 これらの法案の先にあるのは、「何が「善きもの」か」ということをすべて国家が決めてしまう、という思考停止社会です…と言ってしまうのは言いすぎかな。

 ン・ジュンマ(呉準磨)の備忘録:現在枕元に置かれている、「ネットに文章を書いてる人に推奨したい本たち」
 私は、ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』(岩波文庫、全2巻)をお勧めします。この本では、「ステレオタイプ」という概念を中心に、第1次世界大戦後の世論の混乱を説き明かしているのですが、現在にも通じる問題は非常に多く含まれております。ネットのみならず、文章を多く読む人には、自分の考えを整理するきっかけとしてぜひとも読んでほしいものです。

 伊藤剛のトカトントニズム:「おたく:人格=空間=都市」展に対する「嫌悪」の表明/「萌えフォビア」の実例(伊藤剛氏:漫画評論家)
 伊藤氏は、《「ヌード写真など実写のポルノグラフィは(条件つきでも)OK、売買春も同様。しかし、キャラを用いた性的な表現は気持ち悪いから絶対に認められない」という強い感情》という《萌えフォビア》の実例を、「「おたく:人格=空間=都市」展」のポスターに嫌悪感を示した人を例にとって挙げています。
 さて、この問題に関して私が最も最初に思い出すのは、ジャーナリストの大谷昭宏氏の例です。私は、「俗流若者論ケースファイル01・大谷昭宏」において、大谷氏にとって「萌え」概念は《「萌え」とは「今時の若者」の「病理」、ここでは《パソコンの中に出てくる美少女たちとだけ》の《架空の恋愛》しかできないという病理を照射するための概念》でしかない、と指摘しました。大谷氏は、「2次元の世界でしか恋愛できない「今時の若者」が、絶対現実の世界で恋愛なんてできるはずはない。だから「萌え」る「今時の若者」に社会性なんてあるはずはない、だからそこから犯罪者が生まれるはずだ」と考えているのではないか、と要約できます。「はてなダイアリー」のキーワードに「萌えフォビア」という概念が追加されていたのですが、そこには伊藤氏の定義、すなわち《「キャラ」という表現制度が「シンボル/イメージ」つまり「文字/絵」の分割と、「大人/子供」の分割という、近代の大きな枠組みを二つも侵犯していることに起因するもの》に加えて《さらに「2次元/現実」の分割という枠組みの侵犯も加えてもよいと思われる》ということが書かれていましたが、一般の人がオタクバッシングに用いる論理の中で一番大きいのはまさしく《「2次元/現実」の分割という枠組みの侵犯》だと思われます。
 蛇足ですが、伊藤氏のブログにこのような記述がありました。

 リンク先のブログ、タイトルに添えて「05年1月1日【少子高齢化と、「結婚」より気楽な「事実婚の子育て」】ブログタイトルを変更しました。いざ、少子を守らん! 」という記述がある。「少子」という言葉は、「現在、数が少なくなっている貴重な子ども」という意味にも使われるものだろうか。ぼくが知らないだけかもしれないが、少なくともきいたことはない。このような用い方が普通にされる業界や界隈があるということだろうか?

 《いざ、少子を守らん!》だと。この人は少子化肯定論者なのでしょうか。そう捉えられてもおかしくないでしょう。しかし、伊藤氏は《ぼくが知らないだけかもしれないが、少なくともきいたことはない。このような用い方が普通にされる業界や界隈があるということだろうか?》と疑問を呈しておられますが、私も聞いたことはない。それにしても伊藤氏のブログのリンク先のブログのタイトルが、「愛する子どもの守り方」というのは、どうもいただけない。伊藤氏も指摘しておりますが、「子供」をダシにして自分の気に食わないものを批判するのは、論点をずらすだけではないでしょうか。

 お知らせ。bk1で私の新作書評が掲載されています。今回採り上げた本はぜひ一度皆様に読んでほしいほどの名著です。
 芹沢一也『狂気と犯罪』(講談社+α新書・2005年1月)
 title:「狂気」を囲い込む社会

 「正高信男という頽廃」も公開中です。ここで採り上げた『人間性の進化史』(NHK人間講座テキスト)は、前後矛盾と論理飛躍にあふれ、文学作品のトンデモ解釈もあり、生粋のトンデモ本マニアの人々にも笑って楽しめるような内容でしょう。

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2005年3月 7日 (月)

トラックバック雑記文・05年03月07日

 MIYADAI.com:つまらなさ一段と深刻~地下鉄サリン事件から十年~(宮台真司氏:社会学者)
 今月20日で、かの地下鉄サリン事件からちょうど10年になります。宮台氏とは懇意の評論家、宮崎哲弥氏の著書『正義の見方』(新潮OH!文庫)で、宮崎氏はサリン事件の背景に五島勉『ノストラダムスの大予言』がある、と指摘していました。そして当時の30代以下の人がなぜこのような「教示」に惹かれたか、ということについては、宮崎氏は「内なる近代の終焉」が「終末」のムードに傾倒するきっかけになっている、と論じています。
 宮台氏は《退屈ゆえにハルマゲドン幻想を持ち出して不安を消費する──それがオウムでした》と書いています。そしてその前には《この十年で気になるのは、監視と排除を求める気分の増大です。人々は客観的安全より主観的安心を過剰に求め、実効性の疑わしい施策に群がります》と書いていますが、私はこのような構造を、昨今噴出している「若者論」に見出します。すなわち、「今時の若者」を反社会的属性として過剰に敵視し、「あいつらは俺たちとは違うんだ」ということを身内(「善良な」人たち)の中で「納得」するためにさまざまな論理飛躍や疑似科学的決定論をふんだんに用いて自らのステレオタイプが「正しい」ことを「証明」することの横行です。しかし、必要なのはそのような「切り離し」ではなく、宮台氏などが主張している通りそのような人たちも含めて自分と同じ社会に生きている、という態度、簡単に言えば「信頼」とか「寛容」とかいった言葉に集約されるのかもしれません。
 このようなことに関して、多くの良心的な人たちはすでに気づいており、実行している人も少なからずいます。たとえば「ひきこもり」に関して積極的に発言や活動を続けている斎藤環氏はその一例です。斎藤氏は2003年末に『ひきこもり文化論』(紀伊國屋書店)という名著を書いており、その中で「ひきこもり」に対する支援策についてまとめております。斎藤氏も書かれていますが、やはり肝心なのは、宮台氏が示唆しているように、安直な共同体主義を持ってくるのではなく、まず「生き方」のモデルの提示なのではないか、と思います。「若者論」に没頭する人たちは、これをどこまで理解できるのでしょうか。

 千人印の歩行器:[本屋編]地球人の見た出版(栗山光司氏)
 週刊!木村剛:[ゴーログ]西武鉄道とニッポン放送の類似点:絶望感のゆくえ(木村剛氏:エコノミスト)
 署名で書く記者の「ニュース日記」:公共性(小池新氏:共同通信記者)
 栗山氏の文章では、栗山氏が現役の書店員だったころ、再販制度の撤廃を主張するレポートを取次ぎに提出したところ、まったく無視された、というエピソードが書かれております。栗山氏はそのエピソードを紹介したあと、さらにこう続けます。曰く、

何十年前に現役の書店員の頃、簡単なレポートを大取次ぎに提出したことがありますが、完全に無視されました。テーマは『再販維持制度の検討』です。原則は再販維持制度撤廃が正常なのです。あくまでこの法制度は特例にすぎない。面白いことに営業、書店の現場では、撤廃されることで仕入れの目を磨き仕事が面白くなるのではないかと言う期待があるのですが、既得権の旨味を知った管理職、何故か、再販制が撤廃されると、本のコンテンツの劣化を招き、ひいてはこの国の活字文化の劣化を招くと、憶測で編集権、言論の自由と再販制度を結びつけて撤廃に反対するのです。何やらフジテレビとライブドアの対立構図に似たものがある。

 単純に言えば、栗山氏の関わった取次ぎの場合は、再販制度という既得権益を手放したくないために《再販制が撤廃されると、本のコンテンツの劣化を招き、ひいてはこの国の活字文化の劣化を招くと、憶測で編集権、言論の自由と再販制度を結びつけて撤廃に反対する》ということになるのでしょう。しかし、そのような論理の反対基準があくまでも《憶測》であることに私は抵抗感を覚えるのです。政治家の論理かもしれませんが、もしある提言に対して対案を持ち出すのであれば、私は徹底的に理詰めで攻めるべきだと思います。このケースで言いますと、なぜ再販制度が撤廃されると《本のコンテンツの劣化を招き、ひいてはこの国の活字文化の劣化を招く》が生じるのか、さらに言えば《本のコンテンツの劣化》や《この国の活字文化の劣化》が何をさすのか、ということも明確にしておかなければならないはずです。そもそもこのような物言いは、本のコンテンツや活字文化の「劣化」を嘆く人たちには有効かもしれませんが、アウトサイダーには理解できません。理詰めで攻める、ということは、できるだけアウトサイダーにも分かるようにする、ということです。そうでないと、このような論理が、本当は活字文化や表現の自由ではなく、自分の既得権益を守るために過ぎない、どこを向いた議論なのか、という誤解がまかり通ってしまうことを許容する羽目になりかねません。
 それにしてもライブドアvs.ニッポン放送の買収劇には、ニッポン放送の社員よりも見放されている人がいるような気がしてなりません。それはニッポン放送の番組のリスナーです。
 ニッポン放送の社員が、「私たちニッポン放送社員一同」として声明文を出していますが、あまりにも滑稽です。
 なぜか。それは冒頭で真っ先に「リスナーの皆様」と書いているにもかかわらず、この文章にはリスナーのことが少しも触れられていないからです。触れられているとしたら、

 一方、ライブドア堀江貴文社長の発言には「リスナーに対する愛情」が全く感じられません。ラジオというメディアの経営に参画するというよりは、その資本構造を利用したいだけ、としか私たちの目には映りません。

 といったくだりくらいですが、《「リスナーに対する愛情」》とは、いったい何を指すのでしょうか。また、堀江氏の発言といっても、どのような発言を元にそう言っているのか分かりませんし、この声明文を読んでみる限り、これは完全にリスナー無視、しいて言えば自社の社員とスポンサーを守るためだけに声明文が発せられた、という気がしてなりません。
 これでいいのでしょうか。
 ニッポン放送の社員が「リスナーのためを」思って発したこの声明文も、結局はスポンサーに対する権益なくしてリスナーへの配慮は存在しない、といっているのに等しい。自らの既得権益の保護が「リスナーのため」という美辞麗句にすりかえられている、というのが正直な印象であります。本当に「リスナーのため」を思ってやっているというのであれば、その姿勢は自社の経営基盤(現在ならフジサンケイグループ)が変わっても変わらないものであるのか、ということを示すべきです。
 結局のところ、この論争にはリスナーは最後まで不在です。ラジオ局にとって最も重要なものが抜け落ちているのです。

 情報紙「ストレイ・ドッグ」(山岡俊介取材メモ):「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米ジャーナリスト)③「カリスマ経営者」(堤義明)逮捕で思う日本のマスコミの「幼稚さ」(山岡俊介氏:ジャーナリスト)
 マスコミの話です。山岡氏は、堤氏を紹介するときに「カリスマ経営者」という「枕詞」を付して報道することに関して憤っております。無責任な「レッテル貼り」は、私は特に俗流若者論においてたくさん見出しております。「心の闇」「キレる」「ゲーム脳」「サル化」「フィギュア萌え族」……。皆様も一度は目にしたものばかりでしょう。特に「○○症候群」みたいな物言いは、若年層の「病理」、さらには「時代の病理」を手軽に映し出してくれる言葉としてとりわけもてはやされております。これを列挙した『器用に生きられない人たち』(中公新書ラクレ)なる本が出ているのですが、今月の「諸君!」(文藝春秋)の「今月の新書完全読破」というコーナーにおいてこの本が宮崎哲弥氏によって「今月のワースト」に大抜擢されております。宮崎氏はこの本の著者に対して「なんでも症候群にしたい症候群」なる「病名」を下しております…。

 *☆.Rina Diary.☆*:ぽつり。(佐藤利奈氏:声優)
 独り言の話です。佐藤氏は一人暮らしを始めてから、独り言が多くなった、というそうです。ちなみに私は実家住まいなのですが、独り言は結構多いと自覚しております(ただし一人でいるときだけ。一人でいるなら、自室でも街中でも容赦なく言ってしまう)。その内容としては、主に私が本などを読んで面白いと思った表現や、自分で思いついて今後の論文に使おうと思う表現ばかりです。
 ある意味、独り言は退屈さを紛らわす上でも有効かもしれませんが、周囲には気をつけて。

 保坂展人のどこどこ日記:イタリア記者 人質解放直後のまさかの銃撃 そして日本の選択(保坂展人氏:元衆議院議員・社民党)
 保坂氏の文章では、拘束されたイタリア人が泣きながら「イタリア軍撤退」を訴える文章をインターネットで見て、多くのイタリア人がその無事を祈った、と書かれています。また、イタリア情報当局は人質解放に向けて水面下で努力をしたそうです。
 昨年、日本人がイラクの武装勢力に拘束されるという事件が何度かおきましたけれども、その時々のマスコミや政府(得に小泉首相)の対応ぶりとはまったく対照的です。保坂氏も指摘するとおり、自国民が武装市民に拘束されて人質に取られても《小泉総理は「テロリストには屈しない」と藪から棒に言うだけ》で、そのような言葉がいかに武装勢力を刺激するか、ということに関してはてんで無関心です。そのことは多くの人が指摘しているのですが、小泉首相、ないしそれに近い立場の人たちはそのような意見の戦略的意味を理解できているのでしょうか。
 マスコミも然りです。マスコミは人質になった人々の特徴について、彼らがイラクに行った動機を「自分探し」だと書き飛ばしていましたが、そんなことは枝葉末節なのです。肝心なのは、日本人がイラクで武装市民に人質にされた、というリアルな事実だけなのです。このような報道をすることで、「自分探し」に没頭している(と勝手に規定されている)「今時の若者」を戒めたい、と思ったのかもしれませんが、一番大事なことを忘れています。このような政府やマスコミの体たらくは、ネット上で斬首の映像が流布してしまうというこれまた痛い現実よりもさらに痛い現実のように思えてなりません。
 「理解できない」少年犯罪が起こると、すぐさま多くの「識者」たちは「「今時の若者」は他人の痛みが理解できないからすぐに殺人に走る」などといいます(実際は少年による凶悪犯罪は減っているのに)。しかし我が国においては、「他人の痛みが理解できない」ひとたちが政治を牛耳っているのが現実なのです。
 このことについて、ジャーナリストの江川紹子氏が書いた文章「「被害者叩き」の前に検証を」も一読に値します。

 お知らせ。長い間放置していた「正高信男という頽廃」ですが、現在急ピッチで執筆を進めております。今週中には絶対に発表できますので、もう少しお待ちください。

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2005年3月 4日 (金)

トラックバック雑記文・05年03月04日

 署名で書く記者の「ニュース日記」:小学校(相馬芳勝氏:共同通信記者)
 MIYADAI.com:何が監視社会化をもたらすのか?(宮台真司氏:社会学者)
 寝屋川の教師刺殺事件に関して、またぞろ「学校の閉鎖化」を主張する人が出てきているようです。しかし、相馬氏の記事にもあるとおり、小学校は地域から隔離したところにおいておくのではなく、それこそ地域に密着した形で建てておくべきでしょう。そのために必要なのが建築家と社会学者の知恵なのかもしれません。
 いかなる建築も、単なる「箱モノ」ではありえません。住宅にしても然りなのですが、特に小学校の場合は、子供たちの教育という重大な責務を負っています。小学校における教育に関して言うならば、もちろん読み・書き・計算の教育も重要なのですが、自らの住んでいる地域について知っておく必要もあります。そのためには教育カリキュラムの設計も含めて、小学校の社会的責務をいったん明らかにしておく必要もあるでしょう。ここで言う「社会的責務」とは、簡単に言えば小学校が社会に果たすべき役割ですが、小学校と地域住民というつながりが基本に据えられる必要があります。ただ閉鎖するだけ、というので正しいのでしょうか。
 最近になって地域社会の「空洞化」が指摘されていますけれども、宮台氏などはその最大の原因として流動性から収益を上げるグローバル資本をあげています(金子勝、他『不安の正体!』筑摩書房)。さらに宮台氏は、そのようなグローバル資本が地域性を破壊し、その空洞化によって「動機」が不明な犯罪が増えた、と指摘しています。これが正しいかどうかは分かりませんが、しかし「地域」の力が弱まっている、というのは確かかもしれません。
 私がなぜこのような主張をするのか。その理由こそ私が最近になって喧伝している「生活保守主義的プチナショナリズム」の横行です。宮台氏は《尊厳を失った人々が相互不信で右往左往し……問題を自分たちで解決する自信を失って何かというと国家を呼び出すヘタレが溢れる》と表現していますが、特に《何かというと国家を呼び出すヘタレ》というのは重要でしょう。最近になって噴出している議論を見てみると、それが広まりつつあるのは然りです。昨年に起こった、関西学院大の登山者が冬山に遭難したときにさまざまなメディアが登山者に救出費を請求したり、犯罪を減らすという名目で「有害」メディアの規制を求めたりと、「国家」を過大視したがる動向が表面に出始めています。
 このような「国家依存」が、ここ最近では往々にして若年層、いうなれば「今時の若者」をなんとかしてくれ、という方向で噴出しています。しかし、「国家」に頼らなければ「今時の若者」を「正常化」できないのでしょうか。これは「国家」に限りません。「今時の若者」の「問題行動」を「ゲーム脳」だとか「サル化」だとかいった、安易な疑似科学決定論に多くの「善良な」人々が「癒されて」しまう、というところにも現れていると思います。「俗流若者論ケースファイル02・小原信」でも書いたのですが、「今時の若者」が自分と同じ社会に生きていることが気に食わない人々がまだ大勢我が国にはいるようです。そのような人たちにとって、「今時の若者」を「排除」してくれるのが「国家」であり、疑似科学なのでしょう。そのような態度こそ、他者依存というのですけれどもね。
 もっとも、このブログは、巷の「今時の若者」という言説は幻想だ、ということを主張しているのですが。

 *☆.Rina Diary.☆*:ゆき(佐藤利奈氏:声優)
 仙台は大雪です。いくら雪かきをしてもすぐに積もってしまい、その処理に困っております。私は今日、今年度付けで東北大学を退官される伊藤邦明教授の最終講義を聴きに行ったのですが、そのために午後1時15分ごろに雪かきをして、45分ごろに終えて、原付で東北大に向かいました。で、帰ってきたのが午後4時半ごろだったのですが、帰ってくるともう15センチ弱ほど積もっていました。結局2度目の雪かきをしました。
 ちなみにこの時間帯には、この通りの多くの人が留守でした。一方、同じ団地のほかの通りでは、多くの人が精力的に雪かきをしており、原付も走らせやすかった。思わず「ありがとうございます」の気持ちを込めて、道端で雪かきをしていた人に会釈してしまいました。これも地域性の差なのかもしれません。同じ団地の中でも。

 週刊!木村剛:[ゴーログ]不器用なアメリカ人ですら税金は申告している!(木村剛氏:エコノミスト)
 保坂展人のどこどこ日記:予算国会の民主党完敗はなぜ(保坂展人氏:元衆議院議員・社民党)
 木村氏は、最後のほうで《現在の日本は、「政治的・経済的に不満の無い時代」になっているのでしょうか》と書かれておりますが、私が思うに、マスコミの問題も大きいのではないかと思います。現在のマスコミは、たとえば政治面の場合は、どこかの評論家だかジャーナリストだかが「現在の日本の政治報道は「政局報道」である」と言っていた記憶がありますが、現在の新聞を見る限り、それを認めざるを得ません。私の家では読売新聞をとっているのですが、読売の政治面を見る限りでは、昨日の国会の審議に関して民主党は悔しがっているとか、小泉首相と敵対議員の確執とか、そういうことばっかりです。なまじ新聞が自民党寄りだから、民主党に対しては少々冷笑的です。他の新聞に関しても、たいてい政治報道は「政局報道」になっています。それよりも、議論の対立をもっと明確に浮かび上がらせてほしいと思います。また、野党を奮起させようとするような報道も、ほとんどの新聞において皆無です。読売の社説において民主党を批判する場合は、たいてい自民党の代弁者と化しているような気がしてなりません。もっとも、読売は自民党寄りだから仕方ないですが、特に朝日新聞や毎日新聞には、野党を育てるようなオピニオンを期待するばかりです。
 もう一つ。選挙があるたびにマスコミは投票率、特に若年層のそれを問題視したがります。しかし、政治が変わらないことを投票率のせいにしていいのでしょうか。そもそも我が国の政治は若年層の方向を向いていません。票田になるのは青少年よりも「青少年問題」、簡単に言えば「今時の若者」です。マスコミと同様政治家も投票率を問題したがりますけれども、あなたは本当に若年層のことを考えているのですか、と言いたくなります。いたずらに若年層の投票率の低さを嘆くのは、本当に必要なことから目をそらすことしか意味しません。
 必要なのは政治参加の多様化です。そのためには、地域に根ざした市民団体の育成が必要でしょう。「私の体験的成人式論」でも触れましたけれども、多様な政治参加を若年層に提示するための手段として私が重要視しているのは成人式です。もっとも、このような成人式をやるためには市民団体が充実している必要があります。幸い仙台市は市民団体がそれなりに充実しているので実現できそうですが、市民団体が充実していないところでは、何よりも市民団体を育成させる必要があります。そのために必要なのは市民の自発的な取り組みです。現在の票田は、市民団体ではなく政党(地域ではない)に密着した利権団体ですが、このような状況で投票率の向上を願うほうが無理というものではありませんか。

 千人印の歩行器:[悩内編]事実/真実/現実(栗山光司氏)
 明確な誤りは存在しますが、明確な正しさは存在しえません。肝心なのは、どれだけ「正しさ」に近づけるか、ということだと思います。「公正中立」というのは、必ずそのような立場が存在するという前提に立った上での議論かもしれませんが、それでも「個人」というものが入り込んでしまうという余地は存在するので、「公正中立」はその人にとっての「公正中立」に過ぎないのかもしれません。
 私がこのブログで問題視している俗流若者論の問題点は、それを振りまく人は自分に完全な「正しさ」があると思い込んでいることです。しかし彼らの言う「正しさ」は、彼らが勝手に信じ込んでいる「正しさ」の押し付けに過ぎないのです。私はそれを批判するのですが、そのときに重点を置いているのはその「正しさ」の化けの皮をはぐことです。大言壮語を振りまきつつも、その根拠をまったく示さない、という典型的な俗流若者論よりも、少しくらい傷ついてもいいから明確なデータを提示して、反証にも耐えられるように論理を組み立てた議論のほうが、たとえその支持者が少数でも私は支持するつもりですし、私もできるだけ抽象性よりも具体性を重視します。マスコミが好んで取り上げるような「今時の若者」は、実証的なデータではありえないのです。

 お知らせ。bk1で私の新作書評が掲載されています。一番上はトンデモ本ですが、下の二つはお勧めです。
 矢幡洋『自分で決められない人たち』中公新書ラクレ、2004年9月
 title:「俗流若者論スタディーズVol.2 ~精神分析の権力性を自覚せよ~
 坪内祐三、福田和也『暴論・これでいいのだ!』扶桑社、2004年11月
 title:「これでいいのだ!
 橋本健午『有害図書と青少年問題』明石書店、2002年12月
 title:「「若者論」の不毛なる歴史

 最近私が書いた文章もこのブログで掲載されておりますので、ぜひ見てください。
 「俗流若者論ケースファイル02・小原信」(2月28日)
 「俗流若者論ケースファイル03・福島章」(3月4日)

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2005年2月25日 (金)

トラックバック雑記文・05年02月25日

 [ゴーログ]日本は本当に資本主義の国なのか?(木村剛氏:エコノミスト)
 痛い指摘だなあ。でも、本当にそう思ってしまうことも少なくありません。
 もとより、私は「日本は本当に資本主義の国なのか?」というよりも、「日本は本当に法治国家なのか?」ということです。そんな私の意識を強めたのが、下のような文章です。
 弁護士山口貴士大いに語る:石原知事「ババァ」発言、女性たちの賠償請求棄却(山口貴士氏:弁護士)
 山口氏はさすがに弁護士ということもあってか、《今回の判決の結論は概ね妥当ではないかと思います》と発言していますが、当然の帰結でしょうね。もしここで損害賠償が請求されたのであれば、まず明らかに損するのが、石原氏の「ババァ」発言(ちなみに、この発言の趣旨は「文明がもたらした最も悪しき有害なものはババァ」というもの)に怒り心頭を覚えながらも、訴訟しなかった人たちです。あと、自らの発言を恣意的に曲げられた、宇宙物理学者の松井孝典氏か。
 評論家の斎藤美奈子氏(斎藤美奈子『物は言いよう』平凡社)が指摘するとおり、確かにこの発言は暴言です。しかし、一政治家(及び言論人)が不特定多数の人を誹謗した発言に対して、その不特定多数(ここでは「ババァ」と蔑まれた人たち)の代表を自称するような人が発言者を提訴し、それで損害賠償を取れたとしたら、それこそ「声の大きい者が勝ち」的な歪んだ意識を生み出しかねず、我が国は些細なことで訴訟を起こしてしまうような国になるかもしれません。もしこれで損害賠償が取れたら、俺も正高信男(京都大学霊長類研究所教授)と森昭雄(日本大学教授)と澤口俊之(北海道大学教授)と荷宮和子(フリーライター)と大谷昭宏(ジャーナリスト)と江原啓之(スピリチュアル・カウンセラー)…を提訴しようかな。冗談ですが。
 石原氏のごとき暴論に対しては、それこそ良質な言論で対抗すべきなのです。悪質極まりない暴言であってもそれを訴訟という形で国家という「お上」に処理してもらう、というのは、それこそ国家に頼りすぎ、というほかありません。ここで自称「代表者」がやるべきだったのは、石原氏の倫理的責任を問うために請願したり、あるいは議会の人に働きかけて議員を通じてその信を問うということのはずです。訴訟などもってのほかです。
 以前の雑記でも書きましたが、「自分が不愉快に思うことはみんな国家が解決してくれる!」という変な思想が我が国において蔓延しつつあります。私はそれを「生活保守主義的プチナショナリズム」などと呼んでいますが、このような思想が蔓延しつつある背景には、マスコミが不安をあおったりだとか、あるいは「善良な」大人達が「常識」だと思ってきたことが少しずつ様変わりしつつあることが背景にあり、それらの「不安」を解消してくれる「安心」のよりどころとして「国家」が選択されている、ということがあるのかもしれません。しかし、国民の歪んだ「国家」依存志向が、社会学者の宮台真司氏言うところの「空気を利用した〈国家〉支配」に結びつくことは否定できません。マスコミ、特に私がこのブログで問題にしている若者報道が、それに思いっきり拍車をかけています。社会と言論のあり方を問い直す、ということは、もはや国民的課題になりつつあるのかもしれません。「今時の若者」の片言隻語を採り上げて「右傾化」だとか「国家意識の喪失」だとか叫んでいる場合ではないのですよ!分かっているのでしょうか?

 ふう。ちょっと騒ぎすぎましたので、このような記事でも眺めてリラックスしましょう。
 *☆.Rina Diary.☆*:お菓子の♪(佐藤利奈氏:声優)
 お菓子の車!しかも佐藤氏によれば、《本物の苺チョコレートやクッキーを使って装飾されています》だとか。面白みがあっていいですね。でも、実際に使うところを想像してみると…。

 お知らせです。bk1で私の新作書評が公開されています。どちらもお勧めです。
 日垣隆『世間のウソ』新潮新書、2005年1月
 title:我々は何に脅えているのか
 B・R・アンベードカル、山際素男:訳『ブッダとそのダンマ』光文社新書、2004年8月
 title:仏教は〈私〉の中にある

 あと、このブログにおいて書いた記事もぜひ読んでください。
 統計学の常識、やってTRY!第2回(2月17日)
 俗流若者論ケースファイル01・大谷昭宏(2月20日)
 統計学の常識、やってTRY!第3回(2月24日)
 またも正高信男の事実誤認と歪曲 ~正高信男という堕落ふたたび~(同上)

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2005年2月16日 (水)

トラックバック雑記文・05年02月16日

 週刊!木村剛:[ゴーログ]国民総背番号制にあなたは賛成ですか?(木村剛氏:エコノミスト)
 署名で書く記者の「ニュース日記」:500円偽造の不思議(伊藤圭一氏:共同通信記者)
 昨日の雑記文の続きです。
 昨日の雑記で私が国民総背番号制について《利点が大きいというのであれば、私は導入してもいい》しかし《不安要素が多すぎます》と表記したところ、次のようなコメントを頂きました。曰く、

すでに現状でも「不安要素が多すぎ」だとは思いませんか。
偽造通貨を一度に大量に正規の通貨と入れ替えるための手段として、郵便局の口座が使われているわけです。
すでに多くの振り込め詐欺をふくめて一連の事件の核心に銀行や郵便局の架空口座があることは疑いようがない。
大量の架空口座の開設がなぜ可能かといえば、偽造免許証が堂々と作られ売られているからだということは、大学中退の私にも分かる話です。ここまでくれば、もう確かな個人認証が必要でしょう。

 昨日の雑記文において、確かに私は個人認証の問題について少々見落とした点があったわけで、それは反省せざるを得ないと思います。
 もちろん、私とて現在のシステムにも不安要素が多すぎることは分かっております。しかし、ここで肝心なのは、いかに架空口座を作らせないか、というのがポイントだと思うのです。そのためには、個人認証の問題だけでなく、架空口座や偽造証明書の作成に関する警察の捜査の徹底化とか、銀行・郵便局の努力も必要になるでしょう。問題をひとり個人認証の問題にするのもどうか、と思います。このコメントは確かに鋭い指摘だとは思うのですが、少々論理の飛躍がある気もしてなりません。
 とはいっても、免許証や保険証の偽造を防ぐ、というのであれば私はむしろ賛成であります。
 ちなみに私が国民総背番号制について最も関心のあることは、今の政府に長期的なヴィジョンがあるかどうか、ということと、今の我が国の情報システムは国民総背番号制を導入するに足りうる技術力を持っているか、ということです。

 「週刊!木村剛」がらみでもう一つ。
 週刊!木村剛:モノ書きの老婆心:「匿名性」を護るために[ゴーログ]再び、モノ書きの老婆心:「匿名性」を護るために(木村剛氏:エコノミスト)
 「匿名性」に関する私なりの見解を示しておきます。
 私は高校時代の前半のあたりは、「無名」(たまに「広瀬川」を使うこともあった)というハンドルネームを使ってさまざまな掲示板に書き込むことが多かったのですが、現在はどこであっても「後藤和智」という本名を使用しています。それは、これは自分の発信する言論である、ということを常に意識するためです(自意識の発露、といわれればそうかもしれませんが)。自分が発信することは、すなわちその言論に関して自分で責任を負わなければならないわけで、もし批判された場合はその内容を真摯に受け止め、反論があれば相手の言論を認めた上で反論することが重要と考えています。
 ブログというものは、ネット掲示板とは違い、第一に自分や相手の「顔」が見えるということ、第二に自分の言論は自分で責任を負わなければならないこと、という点で大きく違っていると思います。木村氏も、「モノ書きの老婆心:「匿名性」を護るために」のほうで、

 つまり、「ブログ」は、皆さんが個人で公に向かって発行している新聞であり雑誌なのであって、その言論の責任は皆さんが個人で背負っているということなのです。これは、ひろゆき氏によって、巧みにしかも無料で護ってもらっている「2ちゃんねる」とは全く違う世界だということを認識すべきです。「PurpleMoon」さんも「先日、わたしのところへ、とある企業さんから『この記事を修正しないと裁判も辞さない』という、脅しとも取れる内容の警告メールが届きました。もちろん、すっごい嫌な気分ですが(笑)、こういうものがまさに、わたしに与えられた『表現の自由』に伴う『責任』なのでしょう」という経験をしていらっしゃるそうですが、それはすべてのブロガーにとっての現実なのです。

 と表記しておられます。少なくともブログの世界では、たとえ執筆者名(芸名、筆名、ハンドルネーム含む)を明らかにしていなくても「匿名性」というのはありえません。例えば「後藤和智事務所」であれば、たとえ「後藤和智」というのが偽名であっても(本名です。あしからず)「後藤和智事務所」というブログの名前が「名前」として流通することになります。ですから、ブログの世界に生きる人々(当然、私も含む)は、(ネット掲示板では存在する)「匿名性」という存在し得ない「聖域」に逃げることをしてはならない。これが書き手の倫理だと思うのです。これは、たとえば2chとブログの違いだけでなく、amazon.co.jpとbk1の違いにも見られます。amazonでは匿名の執筆者は「カスタマー」と表記されますが、bk1は半角4文字以上の名前を記入しないといけない(半角4文字未満、例えば全角1文字の人は、その文字のあとにスペースを付けて補う)。bk1には全ての評者に関してその評者の書いた書評が検索できるシステムを採用していますし、規制もamazonに比べて多いので、書評もamazonとは本質的に違うものになるかもしれません。
 ちなみに本ブログでは基本的にトラックバックやコメントの削除はしておりませんが、万が一「荒らし」と断定できるようなものであれば、ブログにお知らせした上で削除します。

 ン・ジュンマ(呉準磨)の備忘録:「小さな政府主義」は既に自民党の運動方針から漏れている
 小泉ワンフレーズ政治にも翳りが見え始め、自民党も政策をめぐって分裂しているようです。しかし、政権党である自民党が長期的なヴィジョンを示せず、場当たり的でただ選挙民の関心を引きそうな政策ばかり提示していたのでは、国民も背を向きたくなります。投票率の低下を徒に嘆いている人は、その点を無視しまくっていますね。マスコミも、投票率低下を嘆く政治家(政治屋?)の片棒ばかり担いでいないで、もっと権力を疑ってほしい。スキャンダリズムや若者バッシングばかりやっている場合ではないのです。

 弁護士山口貴士大いに語る:人権擁護法案に異議あり!(山口貴士氏:弁護士)
 ここで記されている法務省の体たらくには、開いた口が塞がりません。曰く、

・「昭和58年10月6・7日開催の全国次長検事会同における次長検事指示」により、刑事事件、再審事件において証拠の開示を頑なに拒み、
・人権侵害の可能性の高い取調過程の「可視化」に頑なに抵抗し、
・受刑者の処遇不満の申し立てにもほとんど対応せず、
・国民監視機関である公安調査庁を傘下にもち、
・国連が難民と認定したクルド人を強制送還(本年1月18日)し、
・獄中者の処遇、死刑囚の処遇について国連の人権委員会から度重なる勧告を受けながらもこれを無視

 凄まじい。やはり我が国には法務省とは独立した人権擁護機関が必要なのではないでしょうか。
 人権擁護法案に関する問題点は、「人権」概念の徒な拡大解釈が我が国において起こっていることにもあると思うのです。基本的に「人権」とは、国家が国民を縛ろうとすることに対する対抗概念なのであって、憲法はその人権を保障しなければならないものです(だから、憲法が権利ばかり主張して義務を明記しないから青少年問題が起こるのだ、というのは憲法の何たるかを理解していない人の言うことです)。かつて「左翼」的な人が「親が子供に危害を与えることは人権侵害だ」みたいなことをいっていた時期がありましたが、これははっきり言って「私人間効力」であって人権侵害などではまったくありません。あと、「有害メディア」規制を訴える一部のフェミニスト集団の代表が、「作品の中の人物にも人権がある」みたいなことを分かったような顔で言っていました(詳しくは「奈良女児誘拐殺人事件における、マスコミのオタクバッシングまとめサイト」の05年1月10日の4つ目の項参照)。日弁連の声明にもあるとおり、もし作中の人物が実在の人物をモデルにしているのであれば、それは名誉毀損などのほかの罪で問われるべきであって、「作中人物の人権侵害」などという変な概念を持ち出すべきではない。最も必要なのは実在する児童の人権擁護のはずです。「左翼」的な人々がこのような体たらくだから、低俗には低俗で対抗したがる一部の「右翼」が、「人権」概念を極度に貶めた議論ばかりするのです。

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2005年2月15日 (火)

トラックバック雑記文・05年02月15日

 MIYADAI.com:第二回 TEPCOインターカレッジデザイン選手権を終えて(宮台真司氏:社会学者)
 *☆.Rina Diary.☆*:持病が。(佐藤利奈氏:声優)
 宮台氏の文章は、建築に関する話です。私は現在大学の建築学科に通っているので、短文ながらも興味深い指摘があります。

■第一に、透明に見通せることを「コミュニケーションの触媒」だと勘違いする作品が多過ぎた。それではコミュニケーションに必要な最低限の感情的安全が得られないだろう。
■第二に、家や町が公私と上下の組合せから成り立つことを見抜いてほしい。洞窟の奥の見えにくい所が私。出口近くが公。私的な場に居て良いのは、上(強者)か下(弱者)か。
■第三に、時間/空間的に視角が限定され過ぎだ。時間的には「今」を相対化し、住居史に知恵を探りたい。空間的には「ここ」を相対化し、立地場所に想像力を働かせたい。

 私も、大学の課題で住宅を設計したことがありますが、住宅を設計するには、自らのやりたいようにやるだけではなく、たとえば社会学的な視座も必要なわけです。何せ、住宅を設計することは、単に何かを作るだけでなく、住宅と社会のかかわりも真剣に考えなければいけないわけで。だから、建築家と社会学者はどんどん関わりを深める必要があると思います。授業がらみで「住宅建築」「新建築」などといった建築雑誌を読むことが多くなりましたが、建築家の作品や論考のみならず、もっと社会学的な論考を載せてほしいと思います。どこかの新聞やオピニオン雑誌が「建築と社会」を取り扱った対談や特集をやってくれないものでしょうか。
 ちなみに佐藤氏のサイトにある《持病》とは、《「お引越ししたい病」》なんだそうな。引越しすると、自らの住環境や、周囲の人間関係も変わります。「引越ししたい」という「病」にかかってしまうことは、常に新しい環境を求めることなのかもしれません。これがいいことなのか、悪いことなのかは、もう少し深く考えてみる必要がありそうです。

 週刊!木村剛:[ゴーログ]国民総背番号制にあなたは賛成ですか?(木村剛氏:エコノミスト)
 ヤースのへんしん:公務員からドーゾ
 「国民総背番号制」に関する文章ですが、私としては、導入は慎重にやるべきだと思います。もちろん、この制度には利点も多数あるでしょう。しかし、制度を導入することによって新たなリスク、たとえば、予算、セキュリティ、偽造される可能性をあらかじめ勘案・予測しておく必要もあることは明らかです。これでリスクが少なく、利点が大きいというのであれば、私は導入してもいいと思いますが、不安要素が多すぎます。まず、国民が理解を示しているか。次に、管理とセキュリティは万全か。特に後者については、省庁のホームページが簡単にセキュリティを破られて進入されるという報道が多くなされていることからも分かるとおり、我が国の政治におけるセキュリティに関する知識が足りないことも不安要素たりえます。「ヤースのへんしん」では、

 結局は「指紋」などの、個人を特定できる体の一部を判定基準とするしかないと思うのです。
 それなら、背番号は必要ないわけですよね。

 と、番号を振る以外にも(偽造されにくい?)やり方があることを示唆しています。しかし、たとえば指紋を用いる場合にも、指紋データの漏出が問題になるでしょうから、サイバー政治戦略とは複雑なものです。
 ちなみに、「ヤースのへんしん」には、こんな面白い案もあります。

 まずは、公務員だけ先に背番号を付けて見たらどうでしょうか?
 保険証も免許証、ETC、定期券、クレジットカード、各種メンバーカードなどを一元的にオンラインで管理するわけです。
 東京に出張してるはずなのに、大阪の居酒屋でカードを使い、定期券で家まで電車で帰ってるとか、残業してるはずなのに役所の最寄の駅から5時15分に電車に乗ってるとか。
 「カラ出張」もできなくなるし、「カラ残業」もできなくなる。
 公務員の事件では、個人が特定できずにうやむやにされることが多いわけですから、背番号はいいかもしれませんよね。
 国が導入したいなら、まずは公務員だけ3年ほど導入してみたらどう?
 国民から給料を貰ってるんだから、国民を代表してやってみればいいんじゃない。

 まあ、公務員の不透明なカネの使い方を明らかにする、ということはできるのかもしれません。
 しかし、木村氏のブログで奇妙に思えるのは、「国民総背番号制」の導入の議論が、なんと偽造通貨の横行から始まっているのです(実際には他のブログからの引用で、木村氏が制度導入による犯罪の抑止効果を論じているわけではありませんが)。
 これでいいのでしょうか。
 《個人の認証の問題》というのであれば、なぜ国民総背番号制でなければいけないのでしょうか。「ヤースのへんしん」のような指紋認証システムとか、あるいはNシステム(自動車のナンバープレートの認証システム)のようなシステムでもいいはずです。このブログの筆者は、なぜ国民に番号を振る必要があるのか、という根本的な疑問に答えきれていない気がします。
 あまつさえ、このようなことを言っているブログさえありました(ブログ名は挙げません。木村氏のブログから探してください)。

 近年、凶悪な事件が連続して起こっており何か悲しい状態になっています。そして、もし国民総背番号制と登録制度があったら、犯罪に対して抑止効果があるのでは、と思わざるを得ません。

 正気の沙汰か、と思ってしまいます。《凶悪な事件》が何を指すのか分かりませんし、《国民総背番号制や登録制度》がどのような犯罪にどのように抑止力として働くのか、ということに関してはまったくあいまいなままです。はっきり言いますが、国民総背番号制度を導入して抑止力になりうるのは、私が考える限り脱税ぐらいではないか(これに関しても、木村氏が言うとおり、同時に所得税を申告制にすれば、所得税に関しては抑止力を失う)。国民総背番号制や登録制度を導入したところで、マスコミを騒がせるような凶悪事件を防げると考えるのは、まったくお門違いもいいところでしょう。
 それにしても、最近、「強い〈国家〉が自分の不愉快なものを癒してくれる!」という考えが出てきているのが気になります。具体例を挙げれば、憲法および教育基本法改正に奔走する一部の議論。これらを改正すれば、国家が自立することによって、国民にも自立心が生まれ、少子化も少年犯罪もみんな解決できる!って言っている改正論者は、まともな社会学者や経済学者を莫迦にしていますね。憲法に関する視座については、長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書・2004年4月)を推薦します。少なくとも憲法と青少年問題を強引に結び付けて考えることのアホらしさが分かります。
 それから、ここでも何度か採り上げた「有害情報規制」。言っておきますけれども、この規制を導入する人にとっての「有害情報」とは、単に「自分の道徳的観念に照らし合わせて気に入らない情報」であり、それ以上のものではないのでしょうか。実を言うと私も、このブログで散々オタクメディア規制を批判してきましたけれども、露骨な性描写はむしろ嫌いです。しかし、嫌いなら見なければいいのではないでしょうか。いうなれば「見たくないものを見ないですむ権利」ですね。それを無視して国家による規制を求めるのは、国家と国民が自分と同じ価値観を持ってくれないと困る、ということに過ぎないのではないでしょうか。同じ論理で、いわゆる「禁煙ファシズム」も批判できます。私だってタバコは「大」を10回繰り返したくなるぐらいに嫌いです。しかし、嫌いであれば遠ざかればいい、あるいは分煙を主張するべきでしょう。自分の志向にあわないものは国家が規制しろ、という言論を、私は「生活保守主義的プチナショナリズム」と名づけます。どっかの俗流精神科医の「ぷちナショナリズム症候群」なる空疎な「若者論」とは一味違うぞ!これに関しては、また稿を改めて論じる必要がありそうです。

 山崎宏之のウェブログ:【大阪寝屋川中央小侵入事件】「ゲーム大好き」「ひきこもり」無職・17歳卒業生(山崎宏之氏)
 凄惨な事件がおきてしまいました。犠牲者のかたがたには、心から同情を禁じえません。
 しかし、この事件の報道(山崎氏のブログでは朝日新聞の記事が引用されていましたが、読売新聞も同じようなことを報じていました)が、またぞろ「ゲーム」「ひきこもり」を強調しているのは、なぜなのでしょうか。どうしてほかの要因を見ようとしないのでしょうか。「動機」(これが信用に足りうるものである保証はない)すら明らかにされていないのに、すぐさま「ゲームの影響で凶悪な犯罪を起こしてしまった」と思わせてしまうような報道、あるいは「「ひきこもり」は凶悪犯罪と親和性が高い」と思わせてしまうような報道をしてしまうのでしょうか。結局のところ、このような報じ方をする記者は、「自分とは関係ないところから凶悪事件が起こったのだ!自分の生き方は正しい!」という考え方に染まっているのではないか、と思えてなりません。ここから「生活保守主義的プチナショナリズム」が生まれてしまうのですね。ちょっと議論が飛躍してしまいましたが。
 話を戻しましょう。なぜ「ゲームの影響」「ひきこもり」を強調することはいけないことか。その原因として真っ先に投げかけられるべき疑問は、「ゲームが大好きな青少年はいっぱいいるし、「ひきこもり」の青少年もたくさんいると聞く。しかし、それではなぜ彼らは犯罪を起こさないのか」というものです。多くのゲーマーや「ひきこもり」の青少年が凶悪犯罪を起こさないのだから、この凶悪犯罪者を犯罪に駆り立てたものは、ゲームや「ひきこもり」以外の何か、と考えざるを得ません。安直なプロファイリングは、ある属性の人を凶悪犯罪者予備軍に仕立て上げることによってのみ成立するものですから、慎重でなければならないのは明らかでしょう。むしろ大事なことは、このような事件の再発を防ぐためには何が必要か(更生システムの見直しなど)、被害者遺族の心理的なショックを癒すためには、そしてこの犯罪者の処遇は、ということに他ならないはずです。特定の属性を持った人々や特定の世代に対する敵愾心を煽ったところで、何も変わらないのです。
 それにしても猟奇的な少年犯罪報道の「不変ぶり」にも、驚かされるところがありますね。

 もう少し「ゲームの影響」について語らせてください。
 最近になって、いろいろなところで長崎県教委による、小中学生の「死生観」をめぐるアンケートが話題になっていますね。なんでも、小中学生の約1.5割が「死んだ人が生き返る」と考えているのだとか。このような結果に関して、多くの人が「ゲームの影響」を疑っているようです。しかし、長崎県教委のアンケートを見ると、「リセットできるから」と考えたのは、なんと「生き返る」と答えた者の中のたった7パーセント!全体で見ると、0.07×0.15×100=0.85[%]となり、「ゲームの影響で死生観が麻痺している」のは全体の0.85パーセントに過ぎないのです。
 ついでにこの統計も疑ってみましょう。「死んだ人が生き返る」と答えた者への、その「理由」を尋ねる項目があるのですが、

 ①テレビや映画等で生き返るところを見たことがあるから
 ②生き返る話を聞いたことがあるから(テレビ等を見て、本を読んで、人の話を聞いて)
 ③ゲームでリセットできるから
 ④その他

 これでは誘導尋問ですよ。このアンケートの設計者は、何が何でも「メディアの悪影響」を捻出したいようですね。しかし、こんな杜撰な調査では、少なくとも統計学的な知識を持った社会学者には相手にされないでしょうね。近く、これを題材にして、久々の「統計学の常識やってTRY」をやろうと思います。
 ゲームに関しては、「コンピュータエンターテインメントレーティング機構(CERO)」という良心的な団体がありますので、こちらのウェブサイトもチェックしてみる必要があるでしょう。

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2005年2月 2日 (水)

トラックバック雑記文・05年02月02日

 *☆.Rina Diary.☆*:焼き焼き!(佐藤利奈氏:声優)
 佐藤氏と、声優仲間の木村まどか氏、山川琴美氏によるお好み焼きパーティーに関する文章です。
 私事になりますが、私は、先月(05年1月)28日、平成17年仙台市成人式実行委員会の打ち上げに行ってきました。実を言うとこの打ち上げは私にとって、生まれてはじめて仲間と酒を酌み交わした体験でありました。私は酒に慣れていないので赤ワインをワイングラス3杯ほど飲んだのですが、ほかの人はもう出来上がっているのではないかと思うぐらいはしゃいでいました。実行委員の榎森早紀氏や小野寺洋美氏、市教委の齋藤浩一氏や鈴木一彦氏などと語り合い、罵り合い(笑)、楽しい時間はあっという間に過ぎていました。こういうのもいいものです。またやりたいですね。
 この打ち上げには2次会もありました。2次会は打ち上げをやった焼肉屋のすぐ上にあるカラオケ屋に行ってカラオケをしました。私は、声優の千葉紗子氏と南里侑香氏のユニット「tiaraway」の「Your Shade」を熱唱してしまいました。まあ、この曲は私以外知らなかったのですが。でも、皆様知らないなりに盛り上がってくれました。
 成人式実行委員会の皆様、また会えるといいですね。

 だいちゃんぜよ:去りゆくドンたち(橋本大二郎氏:高知県知事)
 そういえば橋本大二郎氏は、もともとはNHKの記者でした。このたび、海老沢勝二氏が辞任したわけですけれども、橋本氏が現役の記者のとき、橋本氏の目に海老沢氏がどう映っていたか、そして今の海老沢氏は、という思い出話をつづったエッセイです。海老沢氏以外にも、堤義明氏や鈴木宗男氏にも触れられていますが、これらの人はさまざまな分野でドンとして君臨しつつ、そして散っていった人たちでした。橋本氏の

 面識のある方々が表舞台から姿を消すことに、いちまつのさみしさを感じます。

 という言葉には、橋本氏の想いが詰まっているように思えます。

 週刊!木村剛:[木村剛のコラム]並大抵の覚悟では日本は再建されない(木村剛氏:エコノミスト)
 MIYADAI.com:戦略なき対米協調で足元を見られる日本──三層の知恵で巻き直せ(宮台真司氏:社会学者)
 国家戦略を語ることは、まず徹底したリアリズムと、歴史的な深み、そしてできるだけ感情的にならずに、説得的になるようにすることが求められていると思います。そこらの自称「右翼」「保守」の人たちが、感情に任せて教条主義的に同じような台詞を発しているような駄文は「国家論」たりえるのでしょうか。また、自称「左翼」「リベラル」の人たちは、「国家」について語ること自体がナショナリズムだといっています。嗤うべしですよ。彼らの振りかざす「空想的平和主義」も、十分に国家戦略的なことを語っているのですから(でも「国家論」とは言えないなあ)。
 いずれ中国も台頭するでしょうし、中国を除くアジア諸国も中国に対抗すべく日本に同盟を求めているくらいですから、政治にしろ経済にしろアジア戦略の軸となるのはまず中国、そして北朝鮮なのかもしれません。米国に対する戦略を考えるにしても、対米追従を批判するならばそれに関する対案、それも感情的な対米追従論よりも説得的な対案を提案するべきだと思います。そのためにも、まず考えること。できるだけ他人の主張の受け売りを避けるようにしなければならないと思います。
 国内問題にしても、たかが「今時の若者」の「問題行動」に右往左往して、そこから「国家意識の喪失」だとか「偏狭なナショナリズムに踊らされる若者の激増」なんて罵倒してる場合じゃないのよ。ここで明らかにしておきますけれども、たとえば教育基本法の改正論や、宗教教育の是非に関して、熱心な賛成派と熱心な反対派の「青少年観」は驚くほど接近しているのですね。賛成派の論理は「「今時の若者」は国家意識や宗教観を喪失しているから、「問題行動」を起こす。これを阻止するためには国家意識や宗教観を涵養しなければならない」、反対派の論理は「「今時の若者」に国家意識や宗教観を涵養させる教育をすると、「問題行動」が激化し、偏狭なナショナリズムにつながる」。似てるでしょ。少なくとも「今時の若者」に関する偏った見方、という点においては。こんな「内戦」に反対する論理は、「今時の若者」という虚構それ自体を批判する問い方にしなければならないと思います。

 ン・ジュンマ(呉準磨)の備忘録:ローレンス・レッシグ「CODE」を読もうと思う(まだ読んでなかったのか!?)
 面白そうな団体のリンクがはってありました。今後の動向が注目されます。
 新政策機構「チームニッポン」
 代表は長野県知事の田中康夫氏だそうです。

 弁護士山口貴士大いに語る:ネット有害情報を阻止 都が青少年条例改正へ(弁護士:山口貴士氏)
 りゅうちゃんの日記:日本版ミーガン法をすぐには賛成できない理由
 先日(04年1月21日)のトラックバック雑記文において、私はメーガン法の制定に反対の立場を示しました。理由は、この事件は警察の初動が早かったか、あるいは犯罪者の更生システムが充実していれば十分に防げたから、と思っているからです。
 メーガン法を求める人も、メーガン法に反対しつつポルノメディア規制を求める人も、国家あるいは社会が強い態度で臨まなければ凶悪犯罪は防げない、というハードランディング的な考え方で共通しています。ならば、凶悪犯罪対策のソフトランディングとは何なのか、といえば、私は更生システムの充実化、そして社会政策の充実化だと思います。凶悪犯罪者が逮捕されて、その生い立ちを執拗に求めるのは、確かに必要かもしれませんが、たいていは枝葉末節をつくようなものでしかないのです。しかも、その「物語」構築において求められる「物語」が、今回の奈良女子児童誘拐殺人事件の如く「ロリコン」「フィギュア萌え族」(蛇足だが、小林薫容疑者が「オタク」だったという証拠、少なくとも秋葉原に出入りしていたという証拠はまったくない!)という、「あいつは俺たちとは違うんだ」というシナリオ、そうでなければ究極の呪文「心の闇」に傾きがちになるのですから、このように構築された「物語」が信用に足るものではない、ということは想像がつくでしょう。
 凶悪な性犯罪を防ぐための「第3の道」はソフトランディング的な主張になるべきでしょう。そのために、まず、更生システムの見直し(その文脈で厳罰化が議論されるのであればそれもかまわない)、警察の初動が早くなるような警察機構改革を私は求めます。
 そういえば、奈良女児誘拐殺人事件における、マスコミのオタクバッシングまとめサイトが、私の知らない間にずいぶん増えています。やはりオタクバッシングの中心となったのは大谷昭宏氏なのですね。
 しかし大谷氏の問題発言が見られるのは、何もオタクバッシングだけではありません。たとえば、最近公開した「成人式論は信用できるか・01」で、「通販生活」2005年1月号の成人式特集における大谷氏の発言を採り上げたのですが、ひどすぎます。そもそもこのような大谷氏の「若者論」における「歪み」に気づいたのが、「日本の論点2004」(文藝春秋)の「データファイル」で、「ネット心中」について採り上げられた部分において、大谷氏の主張が「強硬派」の主張として紹介されていましたが、その主張の骨子は「自殺系サイトを法規制しろ」というものでした。
 あれ?大谷氏は、黒田清(作家・故人)、本田靖春(作家・故人)両氏につながる、読売新聞OBのリベラル系ジャーナリストとして有名な人ではありませんでしたっけ?そんな大谷氏が、なんで「若者論」のときは国家に擦り寄って強硬派的な主張をするんだ?私のなぞは深まるばかりです。先日、「大谷昭宏は信用できるか」という文章を入稿しました。公開は今月末になると思います。

 蛇足。

 拙者、ギター侍じゃ…
 俺は大谷昭宏。メーガン法には反対だ。なぜなら…

 だけどみなさん、よく考えてみてくれませんか。性犯罪者の所在公表ということであれば、いまの日本でまず、まっ先にやらなければならないことは、この1月1日に社会復帰した神戸・須磨の連続児童殺傷事件の少年Aの住所氏名の公開ではないのか。
 いまの日本でそんなことをしたらどうなるか。近くに住む子どもを持つ親たちはパニックになるはずだ。近隣の幼稚園や保育園は間違いなく閉鎖になってしまう。
 あのオウム真理教(アーレフに改称)事件のときを思い出してほしい。直接、事件と関係ない幹部の娘が小学校に入学手続きをするというだけで地元はどんな騒ぎになったか。オウム信者らしい若者がマンションを借りたというだけで、地元の人は不寝番まで置いたではないか。
 いま少年Aの所在が公表されたら、おそらくこの男性の転入届けを受け付けた市長はリコールに発展するはずである。そんな日本の土壌、風土を考えたとき、やれ、メーガン法だなんて訴えるのがいかに空論かわかるというものである。
(日刊スポーツ・大阪エリア版「大谷昭宏フラッシュアップ」平成17年1月18日掲載)

 …って、言うじゃな~い…。

 でもアンタ、《そんな日本の土壌、風土》を乱用・悪用してオタクへの敵愾心を煽りまくりましたから!残念!!
 「青少年社会環境対策基本法は青少年を救わずメディアを殺す」斬り!!

 上のリンク先は、ジャーナリスト・坂本衛氏のサイトですから…。切腹!!!

 お知らせ。オンライン書店「bk1」で私の新作書評が公開されています。
 山室信一『キメラ 満洲国の肖像 増補版』(中公新書・2004年7月)
 title:建国のロマンと挫折
 宮台真司、宮崎哲弥『エイリアンズ』(インフォバーン・2004年11月)
 title:「よそ者」であるということ

 このサイトの右側の表示しております「参考サイト」に「奈良女児誘拐殺人事件における、マスコミのオタクバッシングまとめサイト」を追加しました。

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2005年1月21日 (金)

トラックバック雑記文・05年01月21日

 阪神大震災10年の夜は、故・岡崎律子氏の最新アルバム(「最終」アルバムとは思いたくない)「for RITZ」(キングレコード・2004年12月)を静かに聴いていました。

 千人印の歩行器(05年01月21日付/栗山光司氏)
 ン・ジュンマ(呉準磨)の備忘録:例のNHK問題・・・こう整理
 NHKvs.朝日新聞の対立がいよいよ激化してきました。ただ、私はこの対立については深く言うことができませんが、とりあえず苦言を言わせてもらうと、この対立はあまりにも不毛な対立といわれてもおかしくないような気がします。それこそ朝日(に限らずわが国のマスコミ)が常日頃非難している「言った/言わない」の対立がここでも現れていると思うからです。おそらくこの対立は、朝日もNHKも共に大幅に信頼を落として終わり、というのが結末になるような気がしてなりません。
 NHKが、阿部晋三氏や中川昭一氏に内容を確認したということは、ここで「政治介入」が成立しているのではないか、という見方もありえないものではないと思います。私は件の番組を見ていないのですが、件の番組の中で「女性国際戦犯法廷」という法廷モドキ(何せ、すでに死んでいる人物を「被告」にでっち上げて、反論権も保障せず「有罪」にしてしまうのですからね。法治国家ではまずありえない形式でしょう)が採り上げられているのは、ちょっと違和感を覚えました(ちなみに読売はこの一点張りでNHK側についているような気がします)。
 しかし、番組の内容について対立する側の政治家に意見を求めるというのは、しかもそれが政権党の政治家であるので、「政治介入」と見られても(それがたとえ誤解であっても)仕方ない、という一面もあると思うのです。確かに朝日新聞の一部の記者には、特定の極左的な運動に加担しているような記者もいるかもしれません(2年前に逝去したY・M記者は、この「女性国際戦犯法廷」に積極的に加担していました。と、面罵に近い批判をしてしまいましたが、私にとって朝日新聞は好きな新聞の一つです)。というわけで、NHKにも一定の落ち度があったし、朝日も少し騒ぎすぎではないか、というのが私の見解です。
 それにしても、読売をはじめ、ほかのマスコミがこの事件について何でもっと大きく採り上げないのか、不思議でなりません。
 この問題については、ジャーナリストの武田徹氏の記事と、同じくジャーナリストの坂本衛氏の記事も参考になります。

 週刊!木村剛:[週刊!神部プロデューサー]いよいよ「改憲」なのだろうか?!
 「週刊!木村剛」に掲載された文章ですが、木村氏の文章ではありません。
 今日付けの読売によると、中曽根康弘元首相が主催する「世界平和研究所」が憲法改正案を出したそうです。見た限りでは、中心は天皇陛下の元首化、首相の権威の強化にすえられていると思います。
 憲法に関して私が気になっているのが、現行憲法99条、中曽根改正案の116条です。

 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。(現行憲法。中曽根改正案は新仮名に改められると同時に、憲法を尊重し擁護するべき人物として「内閣総理大臣」の名前が付け加えられている)

 左派系文化人の一部は、この条文を、憲法改正を禁じた条文とみなしている向きがありますが、しかしそれは間違いだと思います。《憲法を尊重し擁護する》ということは、憲法を寄りよい方向に変えていく、というのも含んでいるのではないでしょうか。
 現在の護憲派の衰退の原因の一つとして、「何が何でも護憲」という態度にこだわり続けていることがあると思います。それで、なぜ護憲なのか、護憲のどこがいいのか、また、護憲をすることによってこの国の政策はどうなるのか、という戦略的な目標を提示することがかけている、という気がするのです。
 最近の一部の護憲派の焦りは滑稽です。国民投票法を実施する、というと、それは必ず改憲に繋がる、という主張がありますが、それは選挙民をあまりにも莫迦にした態度ではないでしょうか。
 私はかつて「2004年・今年の1冊」で、今井一『「憲法九条」国民投票』(集英社新書、2003年10月)という本を紹介しましたが、これは、特に護憲派の人たちには必読の文献でしょう。改憲派が勢いを増していく中で、護憲派はいかにして生きていくか、ということについて、本書は大いに示唆的です。

 走れ小心者 in Disguise!:「し、しっかりしろ警察……」
 同: 「あら。もう、もちついているみたいね…」(克森淳氏)
 奈良の女子児童殺害事件の後日談であります。前者の記事によると、《奈良の事件の容疑者には事件当日、新聞購読代金横領の容疑で逮捕状が出ていたにも関わらず、警察は行方をつかめなかった》というのです。さらに、ジャーナリストの日垣隆氏によると、小林薫容疑者は20歳のときに少女に暴力を振るっていて、逮捕されたのですが、判決はなんと執行猶予つきだったそうです。「日本版メーガン法」を主張する人は、このような警察や司法の体たらくを看過してはいけないのではないでしょうか。
 この事件における大谷昭宏氏、および「サンデー毎日」の騒ぎっぷりは異常でした。「サンデー毎日」なんて、小林容疑者のことを一貫して、しかも執拗に「ロリコン殺人鬼」と表現しているのです。「週刊文春」「週刊新潮」もここまでやっていないのに、ですよ。小林容疑者が毎日新聞の販売員だった、という事実と照らし合わせると、さらに以上というほかなくなってしまいます。いや、毎日の販売員だったから、か。
 今週の「サンデー毎日」を開いて驚きました。脳科学に関する連載で、「ロリコン殺人鬼」小林容疑者が、なんと「セロトニン欠乏症」なのではないか、というのが大々的に書いてあったのです。この記事には、かの曲学阿世の徒、北海道大学教授・澤口俊之氏も登場するし、この記事の結びが「理解できない犯罪が増えている。社会的観点ではなく、生物学的な観点からも検証しなければならない」といった内容の文章です。ああ、「サンデー毎日」はついに疑似科学まで持ち出してしまったか。
 いいですか。確かに小林容疑者はロリコンでした。これは事実です。しかし、ロリコンがみんな残虐な性犯罪を起こすわけではないのです。これもれっきとした事実なのです。一つの凶悪犯罪を取り上げて、ロリコンおよびロリコンメディアを敵視する必要がどこにあるのですか。特に、大谷氏と「サン毎」、そしてこれらの報道や言論に踊らされている人は、この事実を深く胸に刻み込んでおく必要があります。
 日垣氏の最新刊『世間のウソ』(新潮新書・2005年1月)には、「性善説のウソ」と題して、昨年6月に起こった佐世保の女子児童殺害事件におけるマスコミの体たらくを批判しています。この文章は、奈良の事件にも共通する問題提起を含んでいるので、ぜひ一度読んでください。日垣氏がらみでは、精神障害犯罪者を扱った『そして殺人者は野に放たれる』(新潮社・2004年3月)も読んでおく必要があるでしょう。

 蛇足。現在発売中の「通販生活」で、成人式に関する特集が組まれているのですが、ここにも大谷氏が登場し、トンデモ若者論を振りまいています。大谷氏は、わが国で少子化が進んでいることと、わが国において青少年による強姦罪の検挙件数が1965年ごろに比べて約20分の1に減少していることをご存知なのでしょうか。いったい大谷氏は、本当にジャーナリストなのでしょうか。デマゴーグでしかないのではないか?
 大谷氏の暴言の隣に、われらが平成17年仙台市成人式実行委員会実行委員長、伊藤洋介氏の至極まっとうなインタビューが掲載されているのが泣ける。

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2005年1月10日 (月)

トラックバック雑記文・05年01月10日

 仙台市成人式におこしになった皆様、そして関係者の皆様、本当にありがとうございました。皆様の暖かい支持のおかげで、仙台市成人式は無事に成功を収めました!我々仙台市成人式実行委員会は、昨年8月25日の発足から、さまざまな試行錯誤を続けて、ついにこのような形にすることができたのです。実行委員会、そして当日のボランティアスタッフ(19歳と20歳の仙台市民のみで構成されている)の皆様は、今日の成人式を大成功に収めようと、精一杯がんばってくれました。そして私もがんばりました。大声で「これが仙台の成人式だ!」と誇りを持っていえるような結果となりました。
 私は、帰るとき、tiaraway(声優の千葉紗子氏と南里侑香氏のユニット)の「想い出good night」を歌っていたのですが、知らず知らずのうちに涙が出てきました。ここまで来ることができたのだ、と。
 最後に、皆様、本当にありがとうございました!

 週刊!木村剛:立ち上がりませんか、団塊の世代!(木村剛氏・エコノミスト)
 私が今回の成人式における市長や市議会議長の式辞で最も言ってほしかった言葉が「俺たちについて来い!」という思い切った言葉でした。市議会議長がこれに近いような言葉をおっしゃっていたので、感激してしまいました。
 ここからは20歳の莫迦の独り言ですが、「団塊の世代」の皆様には、ぜひともがんばってほしいと思います。上の世代が奮い立たないと、下の世代もどうすればいいか分からない、という面は確かにある。現在のマスコミに若い世代を奮い立たせようという気概はほとんどないと思います。マスコミが扱う若い世代のトピックといったら、たいていは「愚痴」か「若者論」でしょう。しかし、このような行為は「若者論」という自らが傷つくことのないシステムの上で惰眠することしか意味しないのであって、本当に若い世代について知りたい、というのであれば、さまざまなところに出て、行動することが必要なのだと思います。若年層は渋谷や原宿にしかいるのではないのですし、若年層の行動全体を渋谷とか原宿に結びつけることは、「善良な」中高年層に残酷なカタルシスを与えることにしかならないのだと思います。今こそ、現場が声を上げるときではないでしょうか。
 ついでに言っておきますと、今回の成人式で、我々仙台市成人式実行委員会の中でも、20歳の実行委員長に負けず劣らず活躍したのが、55歳の、障害を持った自らの子供が新成人になる女性でした。この人は私なんかよりも何倍も知恵を絞ってくださり、今回の成人式の大成功にも大いに影響を与えてくれた存在であります。先日放送された「OH!バンデス」(ミヤギテレビ)出場のアポイントメントを取ってくれたのもこの人ですし。
 蛇足。木村氏のブログにリンクされていた某サイト(名前は挙げません。自分で探してください。木村氏のブログを探せば簡単に見つかります)で、

 若者にも選択権があることを、ここ数年の行動で知らせてくれましたよね。 アルバイターやニート、パラサイトに至るまで、拒否することも自分だけの利益に繋げることも、自由気ままに生きることも、若者には選択できる。

 なんてことを言っていた人がいました。経済的不公平から失業やフリーターになるのは無視されているので、どうも違和感ばかり残る文章であります。「世間」が若年層に「自立」を強要することが、かえって「自立しない若者」を生み出しているという指摘も斎藤氏などから指摘されています(「Voice」2004年12月号)。成人の日に、「自立」というイデオロギーを至上のものとして捉えることを、一度考え直してみてはいかがでしょうか。
 「スタンダード 反社会学講座」の「第4回 パラサイトシングルが日本を救う」「第8回 フリーターのおかげなのです」「第12回~14回 本当にイギリス人は立派で日本人はふにゃふにゃなのか」PARTには、「世間」のフリーターやパラサイトシングルに対する偏見を見事に斬ってみせています。
 たとえば…

 すでに述べたように、多くの場合、若者の収入は低いので、支出の中に占める家賃の割合は高いのです。20%以上になります。それがさらに搾り取られる結果になります。パラサイトシングルが減れば、たしかに若者の間の格差は縮まるかもしれません。ただし、若者全員がいまより苦しい経済状態に陥って、ですが。  それより捨て置けない問題は、彼らが払った家賃の行く先です。若者が苦労して稼いだ収入が、家賃として「お金持ち」である大家の懐に収まってしまうのです。ひとり暮らしの若者が増加することによって、得をするのは大家だけです。そして今回の検証でおわかりになったと思いますが、大家というのは、少数の富裕層に属する人たちなのです。ひとり暮らしの若者が増えれば増えるほど、若者はより貧乏に、お金持ちはより贅沢な暮らしができるようになるだけのことです。これのどこが、公平な社会なのでしょうか。 (第4回)

 企業が使える人件費は無限ではありません。ひとつのパイを分け合っているのです。フリーターが安月給な分、正社員の給料が多くなる。ということは、全員が正社員になった場合、正社員一人当たりの給与は現行水準より大幅に下がるのです。自分の給料が下がるという犠牲を払ってまでフリーターをやめさせる覚悟が、みなさんにはありますか?(第8回)

 また、現在発売中の「現代思想」2005年1月号(青土社)は、「フリーターとは誰か」という特集を組んでおりますが、特に渋谷望氏の「万国のミドルクラス諸君、団結せよ!? アブジェクションと階級無意識」という論文は、ネオリベラリズム批判の観点からフリーター論を批判しております。渋谷氏には『魂の労働』(青土社)という著書があるのですが、これは未読です。近いうちに読もうと思います。

 千人印の歩行器:引きこもり者に語る言葉は何?(栗山光司氏)
 「ひきこもり」について。「ひきこもり」を語る言説には「若者論」ばかりが集まるのですが、以前の雑記文でも言ったとおり、「ひきこもり」を「若者論」で語るのは徒労です。栗山氏のブログでも紹介されているのですが、斎藤環氏の一連の仕事、特に『ひきこもり文化論』(紀伊國屋書店)はこの問題を考える上で参考になります。
 あと、斎藤氏によれば、「ひきこもり」と似た問題は韓国にも存在するらしいです(「中央公論」2004年3月号)。
 もう一つ。かの曲学阿世の徒、京都大学霊長類研究所教授・正高信男氏が今日の読売新聞で「ひきこもり」に関して相当ひどいことを書いています。正高氏は「ひきこもり」に関する本を本当に読んでいるのでしょうか。近く「またも正高信男の事実誤認と歪曲 ~正高信男という堕落ふたたび~」を公開します。

 お知らせ:「私の体験的成人式論」を、来月頭ごろに公開します。お楽しみに。

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2005年1月 5日 (水)

トラックバック雑記文・05年01月05日

 あけましておめでとうございます。
 昨年から今年にかけて、声優の田村ゆかり氏や野川さくら氏がカウントダウンライヴを行ったそうです。5日の深夜に、文化放送でやっていた、野川氏のラジオ番組「野川さくらのマシュマロ♪たいむ」で、野川氏のカウントダウンライヴのために作られた曲「にゃっほ~♪New Year」(野川さくら「Joyeux Noel ~聖なる夜の贈りもの~」ランティス、2004年12月に収録)のライヴヴァージョンが放送されていたのですが、ラジオを聴く限り、ずいぶんと盛り上がったそうで。カウントダウンを終えたときの野川氏が、本当に楽しそうでした。

 さて。
 歯車党日記:いったい何だったんだろうね、フィギュア萌え族(仮)(石黒直樹氏:ライター)
 走れ小心者 in Disguise!:「おまえらなー……」(克森淳氏)
 奈良女児誘拐殺人事件における、マスコミのオタクバッシングまとめサイト
 奈良の少女誘拐殺人事件の犯人がとうとう逮捕されましたね。このことについては、「トラックバック雑記文・04年12月05日」でも触れたのですが、ジャーナリストの大谷昭宏氏がさらに暴走したようです。大谷氏が書いた文章「趣味と犯罪の境界 社会が決めるべき ― 「フィギュアマニア」に改めて思う ―」は、もはや言い訳としか言いようがない。
 私もこの事件をめぐる報道を見ているのですが、私の持った感想は「やっぱり「若者報道」は変わらない」です。昨年、少女性愛志向、いわゆる「ロリコン」の人が凶悪犯罪を起こしたとき、日本テレビ系列の「真相報道バンキシャ!」が、フィギュア会社の「ボークス」に置かれているドールを引き合いに出して、このようなものに熱狂するやつが凶悪犯罪を起こすのだ、という報道をして、ボークス社から抗議を受けた、という「事件」がありました。私もその抗議文を読んだのですが(ネットで公開されていました)、ボークス社の対応は正しいと思います。
 もちろんわが国では表現の自由が保障されています。しかし、表現の自由というものは、個人の表現したものに対して抗議する自由も伴っているはずでしょう。
 今回、大谷氏に対して抗議した人もきわめてまっとうです。大谷氏への質問状がネットで公開されているので、引用してみましょう。

 大谷様の記事は、過日、奈良市で起こった少女誘拐殺人事件について、犯人がまだ分かっていない時点で、犯人像について想像をし、その趣味嗜好にまで言及したものです。そこで大谷様は、「フィギュア萌え族」なる新語を用いられ、「フィギュア」や「萌え」といった趣味と、今回の犯罪の手口を結びつけて論じておられます。  たとえば、犯人が被害者を誘拐して時間をおかずに殺害したことを「解剖結果から誘拐直後に殺害しているということは、犯人は一刻も早く少女をモノを言わないフィギュアにしたかったことは間違いない」と断じておられます。未知の犯人の内面について、なぜかくも「間違いない」と断じられるのか、たいへん不可解です。
 また、同記事中の「フィギュア」趣味や、パソコンゲームの描写も出鱈目です。
 大谷様は克明に「パソコンの中に出てくる美少女たちとだけ架空の恋愛をして行くというのだ。そこにある特徴は人間の対話と感情をまったく拒絶しているということである。少女に無垢であってほしいのなら「キスしたい」という呼びかけに「ワタシ、男の人とキスしたことがないから、どうしていいのかわからない」と答えさせ、その答えに満足するのだ」とお書きになっていますが、このようなパソコンゲーム(いわゆる「エロゲー」や「ギャルゲー」)は、皆無であると断言できます。システム上、このような形式で個々のユーザーの気持ちに合わせて応答させることは不可能だからです。この一点だけでも、実状とは大きく乖離しております。また、文章上のレトリックとしても到底、成立しているものとはいえません。
 つまり、現時点では、大谷様の記事は全て想像に基づくものと考えるのが最も妥当な解釈と言わざるを得ません。しかし、想像であるかどうかは措くとしても、こうした記事が広く流布されることで、特定の趣味嗜好を持つ人々があたかも「犯罪予備軍」であるかのような誤った認識を多くの人々に与えるものであることは明白です。

 当然過ぎるほど当然な抗議だと思います。これに対して大谷氏の対応は、この抗議文を大谷氏に出した人を犯人と同じメンタリティだと断定してしまうのです。

 そうした趣味の人たちから寄せられる抗議の大半は、それらの趣味の中にも種々あって、それぞれ傾向が違う。なのになんでもかんでも一緒にするな、というのがまず一つ。もう一つは、あくまでバーチャルな世界のことであって、そのことと犯罪は結びつかないというものである。
 だけど世の中にはさまざまな人がいる。みんながみんな、きちんと境界を設けられるものではない。そうである以上、なんらかの歯止めをかけることが必要なのではないか。もし、欧米であのような劇画や動画を流したとしたら、厳しい懲役が待っている。
 今回の事件で被害にあった女児は一体、自分に対して何が目的で、あのような目にあわされたのか、まったくわからないまま亡くなって行ったのではなかろうか。社会がそんな被害を未然に防ぐために努力するのは、いわば当然のことではないのか。
 それでも彼らは人の趣味趣向に言いがかりをつけるなと言い張るのだろうか。警告を発する者には一方的に質問状を送りつけるのだろうか。
 利己と、自己しか彼らの目には映らないようになっているとしか私には思えない。
(日刊スポーツ・大阪エリア版「大谷昭宏フラッシュアップ」平成17年1月4日掲載)

 ここで少し思想的な問題に入るのですが、〈社会〉によって〈嗜好〉の優劣が付けられるべきなのでしょうか。無論、誰かの(大谷氏の)主観的な判断によって〈嗜好〉の優劣が付けられることは当然としてあると思います。
 しかし、だからといって、特定の〈嗜好〉が犯罪を誘発するものだとして糾弾されていいものでしょうか。大谷氏は少女性愛志向(ロリコン)が、少女に対する犯罪を誘発する、と考えているようですが、下手をすれば、例えば犯罪小説の愛好者は完全犯罪を起こそうとしているとか、経済小説の愛好者は経済でもって世界を征服しようとしているとか、そういった捉え方も可能になってしまうのではないでしょうか。
 大谷氏がロリコンを快く思わない、というのは自由です。しかし、それを目の前の猟奇犯罪と結び付けて、ロリコンや「オタク」に対してさしたイメージを持たない一般市民に歪んだ認識を植え付けてしまうのは、問題視されるべきだと思います。
 私が腹が立ったのは、大谷氏の次のくだりです。いわく、《警告を発する者には一方的に質問状を送りつけるのだろうか。利己と、自己しか彼らの目には映らないようになっているとしか私には思えない。》と。《警告を発する者》は常に正義であって、それに対してまっとうな抗議をするものですら《利己と、自己しか彼らの目には映らないようになっているとしか私には思えない》と誹謗されるのでしょうか。
 最近(に限らず、昔からですが)、「警鐘」などと称して身勝手な理論を振りかざす人が大勢います。しかし、仰々しい「警鐘」こそ、最も疑われてしかるべきなのです。そのためには、「警鐘」というものをまず疑う、という姿勢を市民が育てていくべきでしょう。道徳の体現者を気取るマスコミや自称「文化人」が形成する「道徳」は、果たして正しいのか。今回の事件報道、あるいはボークス社が抗議を行ったときの報道に共通しているもの――いや、昨年10月ごろに相次いで起こった「ひきこもり殺人」にも共通している――は、「得体の知れない他者」をいかにして「認める」か、ということだと思います。「得体の知れない」=「共同体の「善」を犯す」という図式を解体するしかないと思うのですが、「安心」という殻に閉じこもる「善良な大人」「優等生」たちや、彼らの目ばかりを伺って空疎な理論しか生み出せないマスコミがどこまでこれを理解できるか。
 この問題に関する参考文献としては、水谷修『夜回り先生』(サンクチュアリ・パブリッシング)あたりをお勧めします。

 週刊!木村剛:「週刊!木村剛」をどうすべきか?(木村剛氏:エコノミスト)
 私が思うに、「週刊!木村剛」は、ブロガーの交流の場の一つになっているのではないか、と思います。木村氏が発言して、それに関して多くの人がコメントをして、その中から木村氏が興味を持ったものを紹介したあと、木村氏に紹介された議論に関して新しい議論が生まれる。私も「トラックバック雑記文・04年12月09日」で、東京学芸大学教授・山田昌弘氏の「希望格差社会」論を紹介したところ、多くの方から反響をいただいて、嬉しい限りです。中には、私の所論を批判する人もいましたが、「そういう見方もあったか!」と膝をたたいてしまうようなものもありました。
 木村氏は、ブログ界の新しいスターを生み出すことに、少なからず貢献しているのではないかと思います。木村さん、今年もよろしくお願いします。

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2004年12月31日 (金)

トラックバック雑記文・04年12月31日

 今年も残りわずかとなりました。ここで私の今年最後の雑記文です。

 私が朝起きたら、「やじうまプラス号外版」というテレビ番組(テレビ朝日系列。私の住んでいる地域では東日本放送)で、少年犯罪に関して、出席している「知識人」たちが侃々諤々の議論をしていたのですが、結局、そこらの「若者報道」を超える結論が出なかった。ま、所詮こんなもんでしょう、と思いましたが。少し古い記事になりますが、
 歯車党日記:ネットについていけないマスコミの姿を露呈する佐世保・小学生殺傷事件(石黒直樹氏:ライター)
 は、一読に値すると思います。とりあえず、「インターネット」とか「少年犯罪」に関する安易なイメージに逃げない、という努力が、マスコミには欠けているような気がします。無論、ここから逃げない人もいますけれども(「良識派」ですね)、このような人の文章になかなかお目にかかることができない、というのがわが国の少年犯罪報道、さらには若者報道の悲しいところであると思います。
 若者報道がらみで言ったら、社会学者の北田暁大氏の「試行空間」に掲載された、渋井哲也「大人が知らない小学生のどっぷり「ネット生活」」(「中央公論」2005年1月号)に関する評価も参考になります。あと、香山リカ、森健『ネット王子とケータイ姫』(中公新書ラクレ)も必読でしょう。

 少年犯罪報道で、常套句として使われる言葉の一つに「子供は大人社会の鏡である」という表現があります。木村剛氏のブログにもこのような記事があります。
 週刊!木村剛:子供は大人を映す鏡である(木村剛氏:エコノミスト)
 残念ながら、私はこのような言葉が大嫌いなのです。なぜかというと、このように「納得」してしまうことは、少年犯罪その他を「消費」する考えでしかないからです。また、これを言い換えれば、「子供」をスケープゴートにすることによって「社会」を糾弾する、というあまりにも反動的な策動が見え隠れします。
 木村氏がそうだとは言いませんが、このような言葉を平気で振りかざす人は「子供」のことにかんしてかなり歪んだ幻想を持っているように思えます。同時に、「子供は大人社会の鏡である」と言う人々は、なぜ社会のいいところが子供達に反映されないのでしょうか。無論、良いところは見えづらい、ということはあります。しかし、よいところも評価しないと、公平な評価、とはいえないのではないのでしょうか。
 これは新聞の投書欄にも見出すことができます。たとえば、一部の若年が不逞な態度を取ると「現代の若者の側面を垣間見た」だとか「こういうことが全国で起こっていると思うと恐ろしい」とかいった言葉がさも「お約束」の如く振りかざされます。逆にいいことがあると「こういう人は少ないが、…」「この殺伐とした時代に…」という言葉が必ず出てくる。このネガティヴさはいったいなんなのでしょうか。このような「大人」たちの思考態度も問題視すべきではないかと思います。
 蛇足ですが、「2004年・今年の1冊」でも採り上げた、東京大学大学院助教授の広田照幸氏の著書『教育』(岩波書店/思考のフロンティア・2004年5月)の文章を引用します。

 青少年の道徳教育をめぐる言説や制度は、「正しい人間」「より道徳的に価値の高い生き方」を社会的に定義する機能を果たす。それは成人を対象にした一般行政におけるよりもはるかに踏み込んで、人の生き方の序列付けを行うことになる。……青少年の道徳の問題に仮託してなされる議論は、むしろ社会全体における道徳的基準を再定立(略)する機能を果たす(それゆえ、「子供に道徳を押し付ける前に、まず大人が襟を正せ」という議論は、提示されている道徳的基準をそのまま社会全体で受け入れる危うさを持っている)。(74~75頁)

 少年犯罪に関する言論であれば、「ン・ジュンマ(呉準磨)の備忘録」に掲載された「やはり日本が「歴史の終わり」の先駆?」という文章のほうがかなり説得力があります。

 今年もいろいろありましたね。私が気になったことに関してほかのブログなどからの記事を集めてみました。
 天皇制をめぐる問題
 千人印の歩行器:天皇萌えの世紀?(栗山光司氏)
 MIYADAI.COM:「開かれた皇室」論者は自分が何を言っているのか分かっているのか(宮台真司氏:社会学者)
 「自己責任」バッシング(これに関する私の見解は、「統計学の常識、やってTRY!」に記されております)
 MIYADAI.COM:右翼思想からみた、自己責任バッシングの国辱ぶり
 性教育の問題
 試行空間:荒川から考える1(北田暁大氏:社会学者)

 評論家の福田和也氏が、著書『晴れ時々戦争いつも読書とシネマ』(新潮社)の中で、「年の終わりに往く人、来る人」なる文章を書いていたことがあります。「往く人」は「往ってほしい人」で、「来る人」は「来てほしい人」です。福田氏の文章では、「往く人」にスペースを使いすぎて、「来る人」を書くスペースがなくなってしまった、というオチでしたが、私なりに2004年の「往く人・来る人」のトップ3をあげてみるとこうなります。
 「往く人」第3位:海老沢勝二氏(NHK会長)
 海老沢“エビジョンイル”勝二氏はいかにして進退を決めるのでしょうか。
 第2位:荷宮和子氏(ライター)
 『なぜフェミニズムは没落したのか』(中公新書ラクレ)も、「相変わらず」でした。
 第1位:正高信男氏(京都大学霊長類研究所教授)
 この人の暴走を誰か止めてやれ…

 「来る人」第3位:イチロー氏(メジャーリーガー)
 第2位:田臥勇太氏(NBA選手)
 わが国のスポーツ界にも革命をもたらしそうですね。田臥氏は今後の活躍が期待されます。
 第1位:小沢一郎氏(元・民主党代表代行)
 やはり、民主党には小沢氏がいなくちゃ。

 11月に始まったこのブログで、今年私が書いた文章は以下の通りです(お知らせと、トラックバック雑記分を除く)。
 正高信男という病 -正高信男『ケータイを持ったサル』の誤りを糾す-
 「生物学的決定論」が蔓延する病理と、その病理を広めるマスコミについての断片的考察
 統計学の常識、やってTRY!
 正高信男という堕落
 2004年・今年の1冊
 2004年・今年の1曲
 私の今後の方向性としましては、現在「正高信男という頽廃」「再論・正高信男という病」「センセイ!荷宮和子はおやつに入りますか!?」「カウンセリングが俗流若者論と結託するとき~江原啓之という病」を執筆中です。また、来年の初めのほうには、なぜ私が「子供は社会の鏡である」という言葉が嫌いか、ということを論じた文章を掲載します。来年は、今年よりももっと若者報道に対するアンテナを立てていこうと思いますので、どうぞごひいきに。
 それでは、よいお年を!

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2004年12月 9日 (木)

トラックバック雑記文・04年12月09日

 まず、「週刊!木村剛」からトラックバックをいただきました。ありがとうございます。

 週刊!木村剛(木村剛氏、エコノミスト)

 木村氏の文章とはあまり関係ないのですが、先日発表されたOECDの学力調査に対する個人的な見解を。
 確かに、現役の大学生の私にも、件の学力調査の結果は衝撃的でした。ですが、私がさらに衝撃的だったのは、これを報じたマスコミが、さも鬼の首でもとったかのような安易な文部科学省批判ばかりやっていたことです。
 これでいいのでしょうか。
 私は、学力低下の原因をひとり学習カリキュラムの削減に求めるのは愚策だ、と思っています。確かに、学習カリキュラムを削減すると、学力は低下するかもしれませんし、今回の調査はそれを裏付けた、とも言えるでしょう。
 しかし、私は学力低下の問題には、もっと大きな問題がぶら下がっているのではないかと思えてなりません。
 最近になって、東京学芸大学の山田昌弘教授が盛んに唱えている「希望格差社会」という概念があります。この言葉を広めたのが、山田氏の最近著『希望格差社会』(筑摩書房)および『パラサイト社会のゆくえ』(ちくま新書)です。あいにくながら私はこの2冊を読んでいないのですが、「中央公論」の2004年12月号に掲載された山田氏の論文は、学力低下問題の一側面を言い当てているのではないか、と思います。

 私が注目したいのは、近年(略)、経済的な指標で測られる量的な格差以上に、質的な生活状況の格差、いわば「ステイタス(立場)の格差」というべきものが出現してきたことである。……
 「ステイタスの格差」という言葉で表現したいのは、普通の人が通常の努力では埋めることができない質的な格差である。

 《普通の人が通常の努力では埋めることができない質的な格差》。そういえば、わが国の中学生は先進各国に比べて学習時間が少ない、という統計も同時に出ていました。しかし、いくら努力しても報われない社会が目の前にある、というのであれば、ある意味、学習時間が減少するのも仕方ないのではないでしょうか。
 学力低下の問題も含めて、最近の若年をめぐる深刻な問題の解決が難しい理由の一つに、それらの問題の「原因」が既存の「若者論」で説明できないところにあるのではないか、と思えてなりません。「社会的ひきこもり」にしろ、失業や無業者の問題にしろ、れっきとした社会的背景があることは、すでに多くの論者によって実証されています。学力低下の問題も、おそらくこの範疇に入るでしょう。
 ところが「若者論」は、それらの議論が発している最も重大なメッセージ――これらの問題の「原因」を、若年の精神の脆弱さに求めるのは徒労だし、単純な強硬論は事態を深刻化させるだけだ――を、簡単に棄却してしまい、「今時の若者は…」なんていう「愚痴」に収束させてしまいます。かくして「ひきこもり」とか「フリーター」とかいった言葉は、論者の目的とは明らかに違った形で世間に広まってしまいます。とくに保守的な雑誌の投書欄を見ていると、この傾向が明らかに現れています。そして、「若者論」で納得できなければ、「あいつらは俺たちとは根本的に違うんだ」といって、生物学的な決定論に逃げてしまいます(『ゲーム脳の恐怖』『ケータイを持ったサル』なんてその典型です)。
 しかし、「若者論」でいいのか。この国には、マスコミにも、学者にも、役人にも、「若者論」を排してものを考えることのできる人はいないのか。私は、わが国のさまざまな分野が、「若者論」に陵辱されるのが耐えられないのです。

 蛇足ですが、「スタンダード 反社会学講座」の第15章「学力低下を防ぐには」は、「学力低下」論の裏をついていて、非常に読ませます。

 日頃、週刊誌などが報じる公務員の不祥事や官僚の天下りに怒り心頭のみなさんも、自分の子どもには思いっきり甘い汁を吸ってほしいと願う、この矛盾。親子の関係や心情は、統計や理屈では割り切れないのです。家族や親子のあるべき姿、模範や理想像なんてものは存在しないのだという真理に、文学は紀元前から気づいています。社会学はいまだに気づく気配もありません。
(略)
  ということで、どうせたくさん勉強しなければならないのなら……と考えて行き着く先が、早期英才教育です。自分がバカなのは、小さい頃から勉強しなかったせいだ、だから子どもには他人より早く猛勉強を始めさせよう――と、自分の怠けグセを棚に上げて子どもに強制する都合のいい教育法です。
(略)
 いまから思うと、当時の人たちが、なんで勉強や読書をしないとテロリストになると考えたのか不思議です。だって、浅間山荘事件のつい3年前には東大紛争があったばかりだったんですよ。日本で一番勉強や読書をしていた人たちが暴れまくっていたというのに。世論なんてものは、その時々の印象的な事件に左右されて、すぐに180度変わってしまう無責任なものなのです。
(略)
 でも、じつは、学力低下が起こっているかどうかなんて、どうでもいいことなのです。学力が低下したから勉強しよう、ってのもなんだかおかしな理屈です。ちょっと太ったからダイエットしよう、みたいなのとは違うと思うんですね、勉強というものは。  学力が低下していようがいまいが、みなさん、勉強は続けなければいけません。勉強していないと、へっぽこ学者の強引な理論にねじ伏せられてしまいます。最近ではゲーム脳理論がいい例です。医学の専門知識がなくても、ある程度の学力・読解力を持ってる人なら、あの本を一読しただけで論旨や根拠にクビをひねるはずです。それなのに、大学の先生の研究だから間違っているはずがない、と無批判に取り上げる新聞・雑誌の多いこと。大手マスコミ各社は、大卒の社員しか採用していませんから、やっぱり大学生の学力は低下しているようです。

 MIYADAI.com(宮台真司氏・社会学者)
 元衆議院議員の白川勝彦氏が警察から違法な職務質問を受けたそうです。この文章にはわが国の警察機構に対する重大な問題提起が含まれています。

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2004年12月 5日 (日)

トラックバック雑記文・04年12月05日

 歯車党日記(石黒直樹氏:ライター)
 わが国を代表するジャーナリストの一人、大谷昭宏氏への公開質問状として書かれているのですが…
 大谷昭宏氏:対話も感情もない「萌え」のむなしさ
 相当ひどい文章です。もちろん石黒氏の文章ではなく大谷氏の文章が。
 大谷氏は、この文章で「若者論」をやらかしています。どのあたりが「若者論」なのかというと、

 この日刊スポーツの紙面でも少しコメントさせていただいた奈良市の有山楓ちゃん(7)誘拐殺人事件。
  書くこともおぞましいが、犯人が「娘はもらった」というメールとともに母親の携帯電話の画面に送りつけてきた写真は、その後、殺害後のものらしいことがわかった。さらに犯人は浴槽のような所で少女を水死させ、遺体に無数の傷をつけていたことも明らかになった。
 もちろんいまの段階で犯人の動機は不明である。だが、私はこれらの状況からどうしても最近気になっていた「萌え」という現象を思い起こしてしまう。

 《最近気になっていた「萌え」という現象を思い起こしてしまう》?どこをどうやったらそうなるのでしょうか。

  もちろんまだ犯人像が絞れないいまの段階で、今度の事件の犯人を直接、この萌え現象と結びつけることはできない。ただ、解剖結果から誘拐直後に殺害しているということは、犯人は一刻も早く少女をモノを言わないフィギュアにしたかったことは間違いない。その上でフィギュアになった少女の写真を母親に送りつけ、ここでもまるでモノをやり取りするかのように「娘はもらった」という言葉を使っている。これまでの誘拐犯なら「娘はあずかった」だ。

 ちょっと待ってください。《犯人は一刻も早く少女をモノを言わないフィギュアにしたかったことは間違いない》なんて、よく書けるものです。大谷氏は、この事件の犯人が「若者」であると勝手に想像した上で、こう書いているのでしょう。確かに、さまざまなメディアで、この事件の犯人が20~30代の男であるという予測が出ています(ただし、その予測を出している多くのメディアが、週刊誌やワイドショーなど、信頼しにくいメディアなのですが)。しかし、大谷氏は、そこからさらにすっ飛んで、犯人の性格や行動、さらにはその背景までを勝手に書き飛ばしてしまっています。
 これは確実に思考停止以外の何物でもありません。
 この事件の犯人が見つかるのは、あまり遠くないと思いますが、もしその犯人像が大谷氏の想像しているものとは違ったら、大谷氏はどうするつもりなのでしょう(この文章は日刊スポーツに掲載されているものです)。自らの過ちを認めて謝罪するのでしょうか。いずれにせよ大谷氏がこのような罵倒文を書いたという形跡は残るわけですから、大谷氏は「大人」としてその責を負わなければなりません。
 結局、大谷氏のこの文章も、自分の気に入らないものと衝撃的な事件を短絡させて、天下国家を論じてしまった「若者論」でしかないのです。蛇足ながら、このような「若者論」にはまってしまうのは、どういうわけか「左翼」的な人が多い(無論「右翼」的な人だって「若者論」にはまります)。「若者論」は、イデオロギー的な位置づけをすれば「保守」、それも「俗流保守」です。ですから、「左翼」的な人が「若者論」を言ってしまうと突如右側に旋回した感じを受けるのですが、周りの人がそれを注意しない、あるいは右傾化として糾弾しないのも、「若者論」であれば保守的になっても構わない、あるいは一貫性を捨てても構わない、という共通前提があるからだ、という気がしてなりません。もちろん推測ですが。
 宮台真司氏は、「右」も「左」も「大きなもの」にすがりたがるという点では変わらない(「右」は「日の丸」、「左」は「コミンテルンの赤旗」)といろいろなところで書いていますが、私は、「若者論」にこそこの構造を見出します。

 大谷氏に対する石黒氏の批判は、至極まっとうです。いわく、

 ちょっと待て! 仮にも30年以上のキャリアを持つベテランジャーナリストである大谷氏が、まさか的外れな偏見や聞きかじりの知識だけで、差別意識丸出しのオタク叩きを大手メディア上で展開するだろうか? きっと大谷氏自身も年季の入ったオタクであり、萌えゲーやフィギュアにはまった末にあのような結論に至ったに違いない! まさかそういった裏付けも無しにああいった発言はしないだろう。何せベテランジャーナリストなんだから。

 参りました。

 そういえば、自称「女子供文化評論家」の荷宮和子氏が、今月10日に『なぜフェミニズムは没落したのか』(中公新書ラクレ)なる本を出すそうです。最近の荷宮氏の活動(『若者はなぜ怒らなくなったのか』『声に出して読めないネット掲示板』ともに中公新書ラクレ)は、「左翼」的な人が「若者論」でもって「俗流保守」に転落してしまうさまを如実に示しております。来年の2月あたりに「悲しみの評論家~荷宮和子と「2ちゃんねる」の内ゲバ~」という文章をここにアップデートする予定です。なぜかくも「2ちゃんねる」的な著者が、ここまでもてはやされるのか、ということに関する研究です。

 お知らせ:私はこのブログで、京都大学霊長類研究所教授の正高信男氏の最近の活動を批判していますが、いっそこれをシリーズ化します。「正高信男という病」「正高信男という堕落」「正高信男という頽廃」「正高信男という落日」「正高信男からの脱却」の5部作にする予定です。
 現在、「病」「堕落」を書き上げました。「頽廃」は執筆中です。

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2004年12月 2日 (木)

トラックバック雑記文・04年12月02日

 「千人印の歩行器」栗山光司氏/bk1レビュアー
 宮台真司氏と宮崎哲弥氏の対談本第3弾『エイリアンズ』(インフォバーン)が紹介されています。私も読みましたが、このお二人の対談は何でこんなにも面白いのでしょう。ご本人は「自分は政治には興味がない、政治なんかよりももっと大切なことがある」と書いていますが、かえってそのようなスタイルが物事の本質を浮き彫りにしているのではないかと思います。それとも、既存の「知識人」がただマヌケなだけなのか。
 「知識人」といえば、私は総合雑誌を二つ読んでいるのですが、その二つである「中央公論」(中央公論新社)と「論座」(朝日新聞社)を除くと、ほとんどが「コップの中の嵐」状態に成り果てているような気がします。特に「正論」(産経新聞社)はひどい。毎回、テーマも執筆者にも意外性はありません。このような雑誌が、総合月刊誌の中では最も売れているというのが、私の想像を超える。私は声優雑誌(「声優グランプリ」主婦の友社、「hm3 special」音楽専科社)も読んでいるのですが、こちらに掲載されている声優たちのインタビューや連載コラムのほうが、少なくとも「正論」の大多数の論文・連載・当初に比べてリテラシーに富んでいる気もします。
 宮台氏がらみでは、宮台氏と金子勝氏らとの対談『不安の正体!』(筑摩書房)もお勧め。この2冊に関しては、近くbk1で書評を書く予定です。

 「週刊!木村剛」木村剛氏/エコノミスト
 今回は「中学・高校で税金のことを教えよ」という話。一般論としては正しいです。確かに、宮台氏などが指摘している通り、現在のわが国では法律の知識を持ったエリートがほとんどすべて官僚に流れていて、法律文書リテラシーを持っている人は官僚くらい、という背景があります。なので、一般市民が税金のことを知り、国民が常に行政をチェックできるようになれば、政治を市民の側に引き寄せることも不可能ではないでしょう。あと、わが国の政治にはオンブズマン制度がなく、ウォッチ・ドッグの役割を果たすべきマスコミや多くの知識人も空疎な天下国家論に狂奔している始末。やはりこの国は市民から変えていくしかないのか。
 欲を言えば、わが国は実は税金が極めて安い国家であることにも触れてほしかった。その安い税金の用途を明確化しない限り、増税は危険なのではないか、とも思います。

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2004年11月25日 (木)

トラックバック:週刊!木村剛

 木村剛氏の「週刊!木村剛」の記事「頑張れ!マスコミの良識派たち」について一言。
 マスコミの良識派に期待するところは大きいですね。私もこのブログで散々マスコミ(とくに若者論)を批判しているのですが、新聞を開いていると「これぞ良識派!」と喝采を浴びせたい人もいます。
 2001年の成人式報道の中では、私は毎日新聞の久田宏記者を推します。久田記者は01年2月6日、すなわち「成人式」ブームがいまだくすぶっている状態で、毎日新聞紙上で「大人気なかった大人側」なる秀逸なコラムを書いています(「記者の目」)。毎日は、2001年1月9日の社説や、2002年1月20日の「発信箱」欄はもはやトンデモですけど、「記者の目」は結構がんばっています。
 若者報道はトンデモが横行しやすい分野なのですが、それらのトンデモは概して「大人たち」や「優等生たち」に共通前提として共有されている「今時の若者」のイメージにただ乗りし、それを満足させるだけのものです。既存のイメージを破壊して、新たな若年の肖像を描いてくれるマスコミ人の誕生を願わずに入られません。
 …って、木村氏の記事の内容とは関係ないものになってしまいましたね。でも、問題意識は木村氏と同じだから、これでよしとしましょう(なんでやねん)。

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2004年11月 7日 (日)

はじめまして

 はじめまして。私は後藤和智(ごとう・かずとも)といいます。
 私は高校時代から若者報道の研究(と呼べるかどうか分かりませんが)を趣味でやっており、雑誌などに投稿しているのですが、このたび、私の活動を広げるために、ブログを始めました。つたない文章ですが、読者の皆様が身の回りに氾濫する「今時の若者」という言説を読み解く上での参考にしてくだされば幸いです。ひと月に1~4回くらいのペースで更新するつもりです。
 もちろん、若者報道以外のことも取り扱いますよ。
 以下、私の軽い自己紹介をさせていただきます。
 生年月日:1984年11月15日、岩手県釜石市生まれ
 肩書き:東北大学工学部建築学科2年、平成17年仙台市成人式実行委員会副委員長
 メディア歴:
  1999年3月:TBS「学校へ行こう!」の「未成年の主張」に出場
  2003年4月:河北新報「論壇」欄に「教科書検定」について投稿、掲載
  2004年4月:河北新報「持論時論」欄に「回転ドア事故」について投稿、掲載
  2004年6月:河北新報「持論時論」欄に「仙石線のゴミ箱」について投稿、掲載

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