2006年3月11日 (土)

罪人よ、汝の名は「若者」なり――平成18年2月15日TBS「緊急大激論SP2006!」への疑問

 この文章は、ある雑誌に投稿して、番組の性格上載せることができない(シリーズではなく単発の番組なので、定量的な検証ができない、ということ)、とその雑誌の編集部から連絡をいただいたもので、従ってここで公開することとします。この文章は、平成18年2月15日にTBS系列で放送された番組「緊急大激論SP2006!“子供たちが危ない”全国民に喝!」を批判したものです。

 公開に当たって、以下のブログにトラックバックを送っておきます。

 この番組を直接採り上げたブログ:
 あなたの子どもを加害者にしないために:「緊急大激論SP2006!“子供たちが危ない”」(TBS)(中尾英司氏)
 さびしんぼうのブログ♪:緊急大激論スペシャル@TBSテレビ
 冬枯れの街:緊急大激論SP2006!“子供たちが危ない”って危ないのはあなたたちの妄想ですから!
 アキバの王に俺はなる!:子供、若者は大人の敵といったような番組を見て
 私がお世話になっているブログで、青少年問題について触れたエントリー
 女子リベ:どう少年が包囲されていくのか?(安原宏美氏:フリー編集者)
 社会と権力 研究の余白に:生命と統計 少年法改正をめぐって(芹沢一也氏:京都造形芸術大学講師)

――――――――――――――――――――

 ※番組内の発言の文字起こしに関しては、全て筆者(後藤)に文責があるものとする

 このような番組を放映して、一体TBSは何をしたいのだろう――それが、私が平成18年2月15日に放送された、特別番組「緊急大激論SP2006!“子供たちが危ない”こんな日本に誰がした!?全国民に“喝”!!」を見ての私の感想だ。この番組は、全体的に現代の若年層に対する否定的なトーンと、「大激論」という名を冠しているにもかかわらず、一方的な意見の応酬だけで貫かれており、単に出場者の、自分の「善」のイメージの露出合戦に過ぎない番組であった。

 TBSのウェブサイトによると、この番組のコンセプトは以下のとおりであるという。

 社会、学校、家庭……。今、子供たちを取り巻く環境で、様々な問題が山積みしている日本。

 この番組では緊急大激論スペシャルと題し、子育てや教育問題を徹底的に話し合い誰がこんな日本にしてしまったのか? これから日本は子供たちにとってどうしていくべきなのか?追求していく。
http://www.tbs.co.jp/program/kodomotachi_20060215.html

 などと綴られているが、実際にこの番組で行なわれたのは、単なる若年層に対するネガティブ・キャンペーン、すなわち現代の子供たちや若年層に対する不安を煽り、彼らは怖い、社会の害悪だ、どうすれば彼らに対処して自らにとって住みやすい社会になるか、ということが延々と語られただけである。

 司会者は草野仁、えなりかずき、海保知里の3氏で、出演者は、勝俣州和(タレント)、草薙厚子(ジャーナリスト)、田嶋陽子(元国会議員)、松居一代(女優)、RIKACO(タレント)、やくみつる(漫画家)、山下真司(俳優)と、「本気の大人たち」として伴茂樹(青少年育成クラブ主宰)、菱田慶文(スクールパートナー)、吉川英治(明大前ピースメーカーズ主宰)、小嶋映治(叱る大人の会代表)、原田隆史(天理大学非常勤講師、東京・大阪教師塾塾頭)、喜入克(高校教師)、今村克彦(小学校教師、関西京都今村組代表)、杉浦昌子(NPOアイメンタルスクール主宰)、廣中邦充(浄土宗西居院僧侶)の9氏である。

 1・番組構成の各部に関する疑問
 ウェブサイトによれば、この番組の構成は次のとおりである。

 番組では公共でのマナーやルールに対する若者のモラルについての「社会秩序崩壊編」、校内暴力や不登校の増加問題についての「学校崩壊編」、親が子供を、子供が親を殺してしまうような衝撃事件の増加に象徴される現在の家庭問題についての「家庭崩壊編」と3つのテーマで話し合いを行う。(前掲TBSウェブサイト)

 と書かれているが、この番組が若年層に対する不安扇動を目的としていることを私が確認するまでは、開始から30分もかからなかった。この番組は、第1部が「社会秩序崩壊編」、第2部が「家庭崩壊編」、第3部が「学校崩壊編」となっているが、第2部と第3部はもっぱら「本気の大人たち」として出演している人々の体験談が主であり、スタジオにおける「大激論」に関しては、その時間の大半を第1部が占める。その第1部において何が議論されたのであろうか。

 オープニングの後、第1部の問題提起として映されたVTRについて説明しよう。このVTRは、平成15年に実際に起こった事件を基に構成されている。その事件が、電車に乗ってきた、ヘッドフォンから音を漏らしている若い人に対して、ある中年のサラリーマンが注意した。ところがその若年は、近くにいた警察官に「酔っ払いが絡んでくる」といって、逆に自分を正当化した、というものである。

 まずここで疑問が浮かぶはずだ。このような若年は、果たして現代の若年層に典型的なものなのだろうか、と。しかしそのような疑問をすっ飛ばして、この「大激論」は、現代の若年層がさも件の若年の如く、自分を正当化することにだけは長けているのに、他人の迷惑はちっとも顧みない、というイメージで語られる(注1、2)。

 それだけではなく、この後の「大激論」においては、若年層に対する偏ったイメージが頻出する。このVTRの直後の、勝股州和氏の発言を引いてみよう。

草野「勝股さん、目撃したりしたことはあると思うのですが、(勝股:「ハイ」)もしあの場にいたらどうします?」

勝股「ビシッ、といいたいですけれども、怖いですね」

スタジオ笑う。

勝股「今の子たちって、逆ギレで刺すじゃないですか」

 勝股氏の語っているのは、単に報道で喧伝されるイメージを超えていないのであるが、この程度のステレオタイプはまだ甘いほうで、そのほかにも若年層をあからさまに蔑視した発言が頻出する。その中でももっとも問題を多く含んでいるのが、杉浦昌子氏と草薙厚子氏の以下のような発言である。

草野「杉浦さんはどうですか?先ほどのニュース」

杉浦「うーん。私は、生徒にはね、車両の中にそういう子がいたら、避けるようにと。私は日々子供と接してて、ちょっと感覚がゲーム感覚、ちょっとリセットしてもまた生まれ変わるんだ、ってしか考えないから、言っても無駄な人には、無駄なような気もするんですよ」

草薙「ゲームの感覚っておっしゃりましたけれども、その通りで、ゲームを長い時間やるじゃないですか。で、それがもう研究の結果出ているんですね。その世界だけなんです(えなり他「ゲーム脳」)そう、ゲーム脳と言われているんですけれども、前頭葉の前頭前野の血流が悪くなる。でその前頭前野というのが、羞恥心とか、理性とか、ここでみんなコントロールしている」

えなり「自分の感情を抑える所って言いますよね」

 「ゲーム脳」や、「前頭前野」などといった、草薙氏の振りかざしている論理は、既に学問的には論破されている点が多く(注3)、議論として成立したものではない。それにもかかわらず草薙氏がそのような理論を堂々と持ち出す、というところに、現代の我が国の青少年ジャーナリズムの暗黒面が垣間見えるし、杉浦氏の発言にもまた、「ゲーム感覚」などという、現代の青少年はゲームのせいでおかしくなったのだ、と言わんばかりの表現が出ている。だがもっとも問題なのは、草薙氏や杉浦氏の発言に対して、誰も制止する人がいないことである。特に「ゲーム脳」が疑似科学であることは、既に良心的な物書きであれば知っているはずだ。

 このような構成からもわかるとおり、この番組は、まず第1部において、現代の若年層がいかに「悪」であるか、ということが喧伝される。もちろん、先の勝股氏や草薙氏、及び杉浦氏に限らず、問題のある発言は多いし、それらの発言に対する反証も、今やかなり出揃っている状態である(注4)。しかし、それらが無視されるのは、やはりこの番組においては、定量的な議論よりも、「若年層=悪」というイメージ(あるいはこの番組の前提)を正当化するための「物語」であり、それゆえ出演者も、若年層の「悪」に立ち向かう「善」という図式が強調されるのだろう。

 更にこの番組を引き立てているのが、各部の最後に挿入される(従って合計3回挿入されたこととなる)、司会者の一人である草野仁氏と、石原慎太郎・東京都知事との対談である。草野氏の発言も、また石原氏の発言も、単に巷で流布しているイメージや自らの狭い体験だけに基づいている、空疎な「憂国」話でしかない。だが、この対談映像の中には、テレビ「ならでは」の演出が施され、この番組を盛り上げるのには絶好のものとなっている。例を示してみよう。

草野「一番知事にお伺いしたかったのは、今の若者たち、社会規範を破っても平然としている、マナーを守らない、そういう傾向の若者たちが増えている、というのは結構事実ですね。その若者たちを、知事はどういう風にご覧になっていますか?」

石原慎太郎「家庭のしつけ、学校の教育のせいだともちろん思いますがね、子供に我慢させないですね」

リピート「子供に我慢させないですね」

ナレーション「子供に我慢をさせない」

 さて、ここで、私が「リピート」と示した箇所は、石原氏の発言の注目すべき箇所に対し、まず石原氏の顔が白黒のアップになり当該箇所がもう一度繰り返され、そしてその後にその発言の趣旨のメッセージが画面に登場し、それをナレーションが読み上げるというものである。これはテレビ「ならでは」の演出で、草野・石原対談においてはこのような演出が頻出する。

 また、この種の演出が用いられた石原氏の発言には、他にも次のようなものがある(字幕として出たものを挙げることとする)。

 「子供の親そのものが、だらしなく育てられた」(1回目)

 「親が無責任までは行かないが無知」(2回目)

 「肝心なものは全部人に預けた他力本願で甘ったれな風潮」(3回目)

 現代の親や青少年に対するバッシングが含まれているのはこれくらいであるが、それ以外も単なる一般的な教育論を語っているに過ぎない。このような「お題目」で教育問題が解決される、という考え方は、結局のところ自分にとっての「当たり前」を取り戻せば教育問題は解決する、という短絡的な考え方でしかない。

 草野氏と石原氏の対談も含めて、結局のところこの番組は、「絶対善」としての自分をいかに強くアピールし、自分の教育論――単に一般的な「お題目」でしかないものが大半なのだが――の正当性をひけらかす以上のものではなかった。結局のところ、この番組で行なわれたことは、大々的な「私語り」だけだったのである。

 また、冒頭の出演者を見てもらえばわかるが、この番組が前提としている「「今時の若者」は傍若無人な振る舞いばかりをする社会の害悪だ」などという一方的な考えから、少々距離を置いて考えることができる人――内藤朝雄氏や浅野智彦氏など――は一人も出ていない(「本気の大人たち」でない出演者も、番組のストーリーに追従しているだけだった。特に、草野氏と勝股氏、草薙氏、そしてやくみつる氏の発言のひどさは特筆すべきものだ)。「大激論」などと言っておきながら、人選の狭隘さは目を見張るほどだし、彼らがバッシングの対象としている若年層は、えなり氏を除いて一人も「大激論」の場に存在していない。

 なるほど、確かに、他のスタジオでは、番組が言うところの「イマドキの若者24人」が、この「大激論」を見守っていた。しかし、彼らの発言が許されたのはたった2回、しかも1回あたりの発言時間が3分もなかったのだ。

 2・この番組全体の構成に対する疑問
 はっきり言おう。この番組は、「大激論」の名を騙った「欠席裁判」なのだ。もちろんこの「欠席裁判」で「裁かれている」のは若年層であり、裁判長は司会の3人で、判事は出席者全員、弁護人はいない。しかも裁判長も完全に判事よりである。

 この番組が「欠席裁判」であると考えれば、この番組全体の流れがわかるというものだ。まず第1部に「社会秩序崩壊編」を据えることによって、現代の若年層を「被告」として視聴者に認識させる。つまり、若い世代「全員」がこの「欠席裁判」において被告人席に立たされることの「正統性」を裏付ける。そして第1部の「大討論」において、被告人の「罪科」が――全て判事の口によって、しかも定量的な証拠もなしに!――延々と語られる。そこで以下に事実誤認が飛び出していても、なんら問題はない。先にも述べたとおり、必要なのは定量的な議論ではない、「物語」なのだ。「今時の若者」という存在がいかに「悪」であるかを証明するための。従って、以下の如く、最初から事実誤認のナレーションに彩られていても、その正当性に疑問がはさまれることはない。そもそも「キレる」やら「逆ギレ」などというのは、そのような言語が「発見」されてから、新たなプロファイリングとして定着するようになった、と考えたほうがよいのではないか。

ナレーション「世界一安全といわれたこの国が、今やモラルなき無法地帯と化している。連日飛び込んでくる衝撃的な事件。その中心には、傍若無人な若者たち。やりたい放題の彼らに、社会のルールやマナーなど存在しないのか。一方で、注意すべき立場の大人たちは…。」

街頭A「すぐ若い奴はキレるじゃない何されるかわからん、はっきり言うて」

街頭B「突発的に、何かをされるとか、そういった恐怖感はありますね」

ナレーション「そう、今時の若者たちの特徴は、「逆ギレ」。善悪の見境なしにとにかくキレる。そして、キレたら最後、もう誰にも手がつけられない。かつて世界から賞賛された、日本人のモラルは…」

 そして第2部と第3部は、まさに「犯人探し」だ。「被告」としての若年層を生み出した背景として、第2部においては家庭が、第3部においては学校が採り上げられる。だがこの2つの部分は、第1部に比して、冒頭において紹介された「本気の大人たち」の取り組みの紹介が多い。現に、第1部が1人(小嶋映治氏)だったのに対し、第2部は2人だった(杉浦昌子氏と廣中邦充氏)。第3部は1人だったが(原田隆史氏)、第3部自体の短さ、そして冒頭のVTRの長さを考慮すれば、「大激論」を行なった箇所は少ないほうである。

 ここで2つ目の疑問を提示したい。この番組において一つの重要なキーワードとなっているのは、「本気の大人たち」である。要するに、「悪」としての青少年、及び一歩間違ったら「悪」の世界に踏み込みかねない子供たちを「自分たち」の手に取り戻すための「本気の大人たち」の取り組みの礼賛である。

 だが、冷静に考えて欲しい。彼らのように、様々な条件に恵まれ、かつ能力もある「本気の大人たち」は極少数である。しかしこの番組は、そのような「本気の大人たち」を礼賛することによって、かえって彼らのような能力のない(と思いこんでいる)親たちは自信をそがれてしまうかもしれない。

 この番組のように、――元々境遇や能力に恵まれた人しか発しえず、しかもメディアによってその暗黒面が隠蔽されている――「本気」を礼賛し、子供たちに対して「本気」で接しなければ、いつ子供が「悪」(=「今時の若者」!)になってもおかしくないぞ、と煽ることは、むしろ若い親たちを追いつめることにならないだろうか。そもそも多くの子供たちは、そして青少年は、ごく普通に暮らしているのである。彼らを無視し、一部の人を採り上げて、さも世代全体が危険であるかのように煽るという行為は、それこそ青少年の価値を貶めることにならないか。それともこの番組の製作スタッフは、どうせ若い奴はこんな番組など見ないだろう、とでも高をくくっているのか。だとしたら、この番組は、日頃の鬱憤がたまっている年齢の高い人たちに対して、コメンテーターたちと自己を同一化させ、その「怒り」を若年層や若い親たちにぶつけることを提供していることとなる。

 この番組のエンディングは「翼をください」だった。私はこの曲は好きである。しかし、この番組のエンディングとして流れた「翼をください」は、私がこの曲を聴いて決して抱くことのなかった嫌悪感を、私に初めて抱かせた。散々若い世代に対して不安を抱かせて、そして自分の社会の将来に暗い気持ちを抱かせて、そこから希望を持ってください、といっても無理に決まっている。

 極めつけはこれだ。この世でもっとも不気味な「翼をください」が流れ終わった後、画面に大きく表示された文字である。

 「子供たちの笑顔がこの国の未来」

 このようなお題目がいかに空疎であるか、ということは、この番組を通して見たものならすぐにわかるはずだ。この番組は、決して「子供たちの笑顔」など望んでいない。子供たちが自分にとって都合のいいように成長してくれること、そして「悪」としての「今時の若者」たちが「私たち」の社会から排除されることだ。少なくともこの番組は、決して「子供たちの笑顔」のために作られているのではない。具体的に言えば、「大人たちの笑顔」なのだ。「今時の若者」を問題視してバッシングする大人たちのための番組としか言いようがないのである。だから、この番組に青少年の声、あるいは現在喧伝される青少年問題言説に懐疑的な人の声が反映されないのも、無理はないのかもしれない。

 しかし、これだけは言いたい。

 特定の世代を過剰に問題視し、その世代は「悪」で自分の世代は「善」であり、そして自分の子供をいかに「悪」にしてはならないか、といった半ば脅迫的な子育て言説がはびこる世の中に、誰が希望を持つことができるだろうか(そして、この番組に出席していた草薙厚子氏は、まさにこのような「半ば脅迫的な子育て言説」を喧伝している人だ)。
 堀江貴文被告がニッポン放送やフジテレビの実権を握ろうとしたとき、マスコミが堀江氏を批判する口実として用いたのが「放送の公共性」だった。だが、人々を絶望の淵に落としておいて何もしない、この番組に、果たして「公共性」を求めることができるだろうか。

 TBSは堀江貴文を笑えるのか。

――――――――――――――――――――

 注1
 現に、出演者の今村克彦氏が、「このような特異な話ばかり捉えていても無意味だ」と発言したのに対し、草野氏が、「でもこのような事件もあるのだから、今の若年層はやっぱり異常だ」と今村氏の発言を退けた部分もある。曰く、

今村「いえ、だから今言われたように、刃物持っている人間に話し込もうや、って言ったって、話になりませんやんか。特異な話ばかり捉えていたら、ほんまに怖なります」

草野「もちろんそうなんですが、現実に先ほどビデオでごらん頂いたケースもある。ただ非常に気になるのは、駅員の人を呼んで、その後の逃げ方です。口実をつけて、非情に狡猾なやり方で逃げていこう、つまり自分を正当化するということは、非情に巧みである。これは昔の子供たちには多分なかったことではないかと」

 更に、後に今村氏は、若い奴は大部分が怖いんだ、という趣旨の発言をしてしまう。

今村「僕はおかしいと思いますわ。怖ないってね、ここら辺の方って絶対に怖ないですやん。世の中の大部分、やっぱりあのわけの分からん若者がいたらやっぱり怖いですやん。……だから、怖いということは大前提、みんな共通して持たなあかんと。……」

 注2
 ちなみに、平成12年6月21日付の読売新聞によれば、JR東日本において報告された駅員や乗務員への暴力行為162件のうち、その加害者で最も多いのが50代で39人、次に多いのが40代で33人だった。

 注3
 草薙氏が持ち出している「ゲーム脳」理論は、既に多くの専門家や評論家によって疑義が提示されている。書籍では、斎藤環『心理学化する社会』(PHP研究所、平成15年)、と学会『トンデモ本の世界T』(太田出版、平成16年)、小笠原喜康『議論のウソ』(講談社現代新書、平成17年)を、雑誌の記事では、風野春樹「科学的検証はほぼゼロで疑問が残る「ゲーム脳の恐怖」の恐怖」(「ゲーム批評」平成14年11月号)、大和久将志「欲望する脳 心を造りだす」(「AERA」平成15年1月13日号)、小泉耕平、藤田知也、四本倫子「「17歳少年がおかしくなったのはゲームのせいじゃない!」」(「週刊朝日」平成17年3月4日号)、若狭毅「ゲームで脳が壊れる説に専門家はブーイング」(「サンデー毎日」平成18年2月26日号)を参照されたし。

 注4
 例えば、社会学者の浅野智彦氏らの研究グループは、平成4年と平成14年に都市部の若年層に対して行なったアンケートをもとに、若年層においては規範意識が後退(あるいは消滅)しているとはいえず、また人間関係も希薄化していない、ということを提示している(浅野智彦(編)『検証・若者の変貌』勁草書房、平成18年)。また、少年による凶悪犯罪が近年増加傾向にあるわけではない、ということも、既に多くの論者によって指摘されているし、少年による動機の不明な、あるいは短絡的な殺人事件も、今から40年ほど前の段階でも多く起こっている(赤塚行雄(編)『青少年非行・犯罪史資料』第2巻、刊々堂出版社、昭和57年)。

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2005年12月 4日 (日)

トラックバック雑記文・05年12月04日

 今回のトラックバック:「えのき」/古鳥羽護/克森淳/赤木智弘/保坂展人/「目に映る21世紀」/「性犯罪報道と『オタク叩き』検証」/本田由紀/「海邦高校鴻巣分校」/「ヤースのへんしん」/栗山光司/木村剛

 先日(平成17年12月2日)、平成18年仙台市成人式実行委員会の最後の会議が開かれたのですが…

 えのき:来年の成人式に注目
 なんと平成17年仙台市成人式実行委員会の人が来てくれたのですよ。このエントリーの書き手もその一人です。来てくれた人は、伊藤洋介・平成17年仙台市成人式実行委員会委員長他5名(1人は会議開始前に帰宅し、会議中にもう1人帰ってしまいましたが)。あー、ちなみに文中の《ごっと》とは俺のことだ。リンク貼ってくれよ(嘘)。

 それにしても世間は狭いもので、今年2月に書いた「私の体験的成人式論」で採り上げた、平成17年の成人式の第2部における、私がチーフだったブースのスタッフの内、小学校の教師と当日スタッフ1人が今回の実行委員になってしまっている(笑)。

 閑話休題、このエントリーでも書かれているのですが、平成17年仙台市成人式実行委員会は、組織としては消えておりますけれども、実行委員(「元実行委員」かな?)の繋がりはいまだに途絶えていない。今年6月の頭ごろにも飲み会を行ないました(そこで元気をもらって一気に執筆したのが「壊れる日本人と差別する柳田邦男」だったりする)。私は最初は実行委員会に参加することで成人式報道が隠蔽している部分を見てやろう、と思って実行委員会に殴りこんだのですが、終わってみると様々な出会いを経験できたり、先日の会議でもいろいろと近況を話すことができたりと、得られたものは大きかった。

 昨今の「コミュニケーション能力」だとか「人間力」だとか重視みたいな風潮とか(このような風潮に対する理論的な批判は、本田由紀『多元化する「能力」と日本社会』(NTT出版)を是非!)「コミュニケーション能力が低いと「下流」になるぞ!」みたいなレイシズムとかは嫌いなのですが、やっぱり人間関係の重要さは否定し得ない。

 さて、また幼い子供が被害者となる残酷な事件が起こってしまいました。被害者の方のご冥福をお祈りします。しかし…

 フィギュア萌え族(仮)犯行説問題ブログ版:勝谷誠彦氏、広島小1女児殺害事件の犯人が「子供をフィギュアの様に扱っている」と発言。(古鳥羽護氏)
 走れ小心者 in Disguise!:素人探偵になりたくないのに…(克森淳氏)

 私が事件の犯人と同様に腹が立つのは、事件にかこつけて好き勝手プロファイリングを行っている自称「識者」たちです。現在発売中の「週刊文春」によると、上智大学名誉教授の福島章氏によれば、岡山の事件の犯人は犯人は幼い頃から暴力的表現に慣れ親しんできた若い世代だそうで(福島氏については「俗流若者論ケースファイル」の第3回第32回も参照されたし)。そして実際につかまってみればそれとはかなり違う人物像だったし、もしかしたら冤罪の可能性もあるかもしれない。

 元来プロファイリングとは、この分野の第一人者である社会安全研究財団研究主幹の渡辺昭一氏によれば、行動科学によって《蓄積された知見に基づいて、犯罪捜査に活用可能な形で情報を提供しようとする》(渡辺昭一『犯罪者プロファイリング』角川Oneテーマ21、39ページ)ことを指すそうです。更にこの手法は《事件を解決したり、容疑者のリストを提示したりするわけでは》なく、《確率論的に可能性の高い犯人像を示すもので、捜査を効率的に進めるための捜査支援ツールの一つ》(前掲書、40ページ)に過ぎないそうです。しかしマスコミ上で行なわれる「プロファイリング」は、結局のところ自分の主義主張に合わない人をバッシングするための方便にすぎない。ついでに、これは渡辺氏の著書の19ページ周辺にも述べられていますが、暴力的な映像の視聴が直接的に暴力的な行動につながる、ということは証明されていませんからね(宮台真司『宮台真司interviews』世界書院、も参照されたし)。

 古鳥羽護氏のエントリーによれば、今度は勝谷誠彦氏が「フィギュア萌え族」的な発言をしたそうです。この手の犯罪が起こるたびに、マスコミは犯人像を「不気味な存在」とか「モンスター」だとか、あるいは事件を「現代社会の歪み」だとか捉えたがりますが、私が見る限り、ここ最近2件の殺人・死体遺棄事件、及び昨年末の女子児童誘拐殺人事件は、かなり典型的な誘拐殺人であるように思えます。もちろんこのような推理も私の勝手な「プロファイリング」には違いないのですが、少なくとも事件に対して「不気味」「不可解」だとか唱和するのではなく、典型的な事件とどこが違うのか証明してくれませんか?事件が大筋で典型的なものであるとわかれば、それらの事件の傾向を分析し、目撃証言と照合すれば、おそらく1週間くらいで犯人はつかまるのではないかと思います。

 少なくとも少女に限らず子供が誘拐される事件は昔からあったでしょうし、今の事件(誘拐に限らず!)だけが「不可解」というわけでもないでしょう。

 そう考えてみますと、「安心」を壊しているのはマスコミなのかもしれません。12月3日付読売新聞の社会面の見出しが「また幼女が被害者に」みたいなものでしたけれども、このような見出しにすることによって、「幼女しか性的対象にできない歪んだ男が増えている」みたいな世論を造りたいのではないか、と考えるのはうがち過ぎか。

 深夜のシマネコBlog:高木浩光@自宅の日記より、まず神話を作り、次に神話は崩壊した!と叫ぶマスコミ(赤木智弘氏)

 少年及び若年層による凶悪犯罪に関して言えば、我が国ではいまだに安全(少年による凶悪事件に遭遇しないという意味での「安全」)は保たれているといえます。しかしマスコミでは「少年犯罪が凶悪化している」という唱和ばかり。そもそもそのような扇動に走るマスコミは、現在のことばかりに終始して、過去にどれほど犯罪などが起こっていたかということは見ていない。ある意味、「カーニヴァル化する社会」(鈴木謙介氏)という言葉は、むしろ昨今のマスコミにも言えるのかもしれない。

 もう一つ、このような事件に対する報道は、ある意味では「子供の自由」という問題もかなりはらんでいるように見えます。

 深夜のシマネコBlog:児童虐待を本当に根絶するために。(赤木智弘氏)
 最近では保坂展人氏(衆議院議員・社民党)すら《もっとも具体的な方法は、子どもをひとりで、ないし子どもだけで登下校させないことだ。たとえ社会的コストがつきまとっても実現すべきなのかもしれない》(保坂展人のどこどこ日記:格差社会と子どもの「安全」)と言ってしまっていますが、殺人という特殊な危機のために、子供の行動を全般的に制限する必要はあるのでしょうか。

 まず、すなわち子供は一人でいると危険だから常に親が付き合うべきだ、みたいな論理が許されるのであれば、危険は何も登下校中のみに潜んでいるわけではないでしょう。その点から言えば、例えば子供が一人で友達の家に遊びに行く際も親が付き添っていなければならない、ということになりますが、それは子供にとって、あるいは親にとってプラスといえるかどうか。また、子供が常に親の監視下におかれることによって、例えば子供がどこかに寄り道したりとかいった体験を殺してしまうことにはならないか。

 ただし犯罪を防ぐための施策として、公共的な場所や街路の監視性・透明性を高めておく必要はあると思います。例えば私が東京に行って、ある住宅地を歩いたときの話ですが、その住宅地の近くには活気のある商店街があり、そこはなかなか味があってよかったのですが、商店街や大きな道路から少しでも外れると街灯が少なく、更にかなり塀に囲まれて見通しの悪い場所で、もしかしたら誰かに刺されるかもしれないと思っていました。誘拐事件の多くも路上が現場となっているようですので、路上の監視性を高めておく、という施策はやるべきでしょう。

 ついでに、保坂氏のエントリーでは、タイトルが「格差社会と子どもの「安全」」であるにもかかわらず肝心の「格差社会」については最後のほうでエクスキューズ程度に触れられているだけです。しかし「格差社会」論から犯罪予防のヒントを探るとすれば、様々な社会的階層の人が社会的に排除されているという感覚をコミュニティによってなくしていく、ということが挙げられるでしょう。そのためには、不安ではなく信頼をベースにした多くの人が参加できるコミュニティの形成、あるいは社会的に排除されている(と感じている)人とかあるいは特定の社会階層の人が帰属意識を持つことのできる副次的なコミュニティの形成が必要となります。

 ちなみに皇學館大学助教授の森真一氏の著書『日本はなぜ諍いの多い国になったのか』(中公新書ラクレ)の最終章の最後のほうで、農漁村にかつて存在していた「若者組」だとか「若者宿」みたいな若年層のコミュニティに入っていた人が散々非行をしても、いざコミュニティを脱退するとすっかり非行をやめてしまい、消防団長や懲戒議員などにやって若年層の非行に眉をひそめるようになる、ということが紹介されています。森氏は、このことについて《かつての地域社会や年長者は「限度ギリギリまで、社会的なルールを無視する行為を若者たちに許す場を提供」しました。他方、現代の年長者はそのような時代が存在したことを忘れ、「社会的なルールを無視する」若者の行動を、予定調和を乱す「リスク」「コスト」としか見なさなくなったのです》(森真一『日本はなぜ諍いの多い国になったのか』中公新書ラクレ、233ページ)と分析しておりますが、この話は、「セキュリティ・タウン」的な、あるいは「ゼロ・トレランス」的な風潮が強まる我が国の状況において批判的な視座を投げかけるかもしれません。

 話は変わって、最近の「「萌え」ブーム」なるものに関する話題ですが…

 目に映る21世紀:【キールとトーク】おたく男・女/恋愛資本主義/『下流社会』/見えない消費と、余裕のある僕ら(←「下流社会」論に関して真っ当な批判あり)
 性犯罪報道と『オタク叩き』検証:11月1日『ザ・ワイド』・リベラが「遭遇した」コスプレダンサー、『電車男』にも登場

 私は正直言って最近の「「萌え」ブーム」なるものがあまり好きではありません。基本的に「オタク文化」的なものは認めますが、それでも昨今のブームには疑問を持たざるを得ない。

 疑問点その1。「萌え関連企業が急上昇!」みたいなことを言う人が多すぎますけれども、所詮そのようなことは他の業種の売上が下がって、相対的にオタク産業が浮上してきたとしかいえない。従って「急上昇」みたいな言い方はあまり好ましくないように思える。
 疑問点その2。「目に映る21世紀」における《うぜえ・・・。結局、今回の萌えバブルやらオタクブームって差別の再生産をしただけにしか感じられん》というくだりについて、これに激しく同意。私はテレビにおいて何度か「オタク」が採り上げられた番組を見たことがありますが、それらの番組はことごとく「遠まわしな差別感」に彩られていた感触があった(例えば、平成17年11月24日のTBS系列「うたばん」)。そもそも「オタク」=「電車男」みたいな傾向も強い。「電車男」については私は本も読んでいないし映画もドラマも見ていないけれども。これを強く認識したのは「トリビアの泉」(平成17年8月24日)だったかな。人助けを笑いものにする、というのは、まさしく検証対象が「オタク」でなかったらできなかったと思う。

 現在のマスコミにおいて、冷静に「オタク」を採り上げることのできるのは、朝日新聞社の「AERA」編集部の福井洋平氏と有吉由香氏くらいしかいないのではないかというのが私見です。福井氏は「AERA」平成16年12月13日号で「アキハバラ 萌えるバザール」という記事を書いている。有吉氏は同誌平成17年6月20日号で、ライターの杉浦由美子氏と共に「萌える女オタク」という記事を書いています。それらの記事はあまり「オタク」を見下した態度をとらず、筆致は熱がこもっているけれども冷静さも保っている。他方で「AERA」は「独身女に教える男の萌えポイント」(伊東武彦、平成17年8月29日号)とか「負け犬女性に贈る「ツンデレ」指南」(内山洋紀、福井洋平、平成17年10月17日号)みたいな記事も書いているからなあ…。しかし「AERA」の「オタク」報道が他の週刊誌とはかなり一線を画しているのも確か(「読売ウィークリー」に至っては、副編集長自ら「「オタク」は絶望的な男」と言っているし)。そのうち、体系的に評価してみる必要があるでしょう(とりあえず記事はそろえてあります)。

 「人間力」という名の勘違い、まだまだ続く。

 もじれの日々:独り言(本田由紀氏:東京大学助教授)
 海邦高校鴻巣分校:「人間力運動」は即刻解散せよ

 「若者の人間力を高めるための国民運動」が「応援メッセージ」を発表しました。「海邦高校鴻巣分校」はこれらの「メッセージ」について、建築評論家の渡辺豊和氏の言葉を引いて「平凡な学生の課題案よりひどい」と述べておりますが、私はこれ以上の内容は期待していなかったので、おおよそ期待通りのものが出てきた、というのが正直な感想です。
 しかし山田昌弘氏(東京学芸大学教授)の「メッセージ」には注意を喚起しておきたい。

 今後社会が不安定化していくのでそのなかでも上手く立ち回れるような能力をつけて欲しいことと、自分のことを評価してくれるようなネットワーク、人間関係を大切にして欲しいですね。

 要するに組織に波風を立てずに従順に生きていけ、ということですか?このような言説は、前出の森真一氏が著書『自己コントロールの檻』(講談社選書メチエ)でつとに批判していることですが、社会が流動化し、職場や組織の往来が活発になると、個人には慣れ親しんだ会社や組織に対する思い入れを排除し、新しい職場環境に適切に移動する能力が求められるようになる、という傾向に、山田氏も組していることになる。

 本田由紀氏も、最初のほうで採り上げた『多元化する「能力」と日本社会』という著書において、昨今の「人間力」重視的な風潮を批判しており、「コミュニケーション能力」とか、あるいはそれこそ「人間力」みたいな《「ポスト近代型能力」の重要化とは、個々人の人格全体が社会に動員されるようになることに等し》く、そのような能力を要求する社会(本田氏言うところの「ハイパー・メリトクラシー」)の下では《個々人の何もかもをむき出しにしようとする視線が社会に充満することになる》(以上、本田由紀『多元化する「能力」と日本社会』NTT出版、248ページ)。このような「人間力」重視の社会背景を注視するために、森氏と本田氏の議論は必見でしょう。

 

ヤースのへんしん:耐震対策は早急に!
 「姉歯」叩きの裏で、あまり注目されていないのが公共施設の吊り天井。平成17年12月1日付の読売新聞宮城県版によれば、地震発生時に崩落する怖れのある吊り天井の数はなんと4996。ちなみにこのことは地方面でしか報じられていない。こういうことこそ、もっと追求すべきではないかと思うのですが。

 このことに着目させたのが、平成17年8月16日で起きた宮城県沖地震でした(しかし「本命」の宮城県沖地震ではないことがわかりましたが。「本命」の30年以内に来る確立はいまだに99%)。もとよりこの地震で天井が崩落した施設「スポパーク松森」の屋根がアーチ状だったため、左右の揺れが増幅されて吊り天井が崩落した、ということが明らかになっています(東北大学工学部の源栄正人教授らによる)。ですからアーチ状の建物にも注意を向けるべきでしょう。ただ昨今の「姉歯」叩きを見ている限り、この問題が建物の耐震設計全般の問題に波及することもなければ、建築基準法改正前に建てられた建物及び既存の耐震不適格の建物の耐震補強の問題、及び本当に完全にスクラップ・アンド・ビルドでいいのか、耐震補強ではなぜ駄目なのか、という問題に波及することもないかもしれない。

千人印の歩行器:[読書編]しみじみ「内在系」、メンヘラーって?(栗山光司氏)
 このエントリーでは、共に社会学者の宮台真司氏と北田暁大氏の共著『限界の思考』が採り上げられていますけれども、宮台氏ももちろんですが、北田氏をはじめ、最近の若手論客にも注目すべき人は多い。

 さて、「論座」平成18年1月号の特集は「30代の論客たち」だそうです。執筆者のラインナップを見ても、渋谷望氏、牧原出氏、芹沢一也氏など、かなり期待できるメンバーがそろっております。「論座」は平成15年7月号から毎号購読しているのですが、編集長が薬師寺克行氏に代わってからは面白い特集がますます増えています(平成17年4月号「日本の言論」、6月号「憲法改正」、7月号「リベラルの責任」、10月号「進化するテレビ」など)。

 特に面白そうなのが、宮台真司、佐藤俊樹、北田暁大、鈴木謙介の4氏による対談。ここまですごいメンバーを集められるのもすごい。読み応えがありそうです。

週刊!木村剛:[ゴーログ]ばーちゃんが株を買い、親父がブログる?!(木村剛氏:エコノミスト)

 身内がブログをやっている、ということはないなあ。少なくとも私の家族の中で本格的にブログをやっているのは私だけですが、その理由も所詮は自分の文章を発表する場所を作りたい、という理由にすぎない。

 でも、知っている人がブログをやっていたり、あるいは始めて本格的に話す人に「ブログを見た」と言われると、少々戸惑ってしまうことがありますが。

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2005年10月22日 (土)

トラックバック雑記文・05年10月22日

 トラックバック:「kitanoのアレ」/「成城トランスカレッジ!」/「カマヤンの虚業日記」/本田由紀/古鳥羽護/「フリーターが語る渡り奉公人事情」/保坂展人/茅原実里
 忙しくて更新する暇がないよ…。

 kitanoのアレ:ジェンダーフリーとは/暴走する国会/憲法調査会報告書
 成城トランスカレッジ! -人文系NEWS&COLUMN-:ageまショー。
 カマヤンの虚業日記:「霊感詐欺する権利」なんか存在しない

 グーグルで「ジェンダーフリー」を検索すると、自民党のプロジェクトだとか(統一教会の機関紙である)「世界日報」の記事とかが上のほうにヒットしてしまうそうです。で、それらの記事は、徒に「ジェンダーフリー」を危険視したり、あるいは陰謀論まで持ち出して的はずれの批判をしたり、というものが多いようです。私はこの手の言説を、産経新聞社の月刊誌「正論」でよく読むのですが、こういう言説を展開する人たちの歴史観を疑いたくなりますね。結局のところ「自分が理解できない奴らが増えたのは自分が判定している政治勢力の陰謀だ!!」って言いたいだけでしょ。こういう人たちは、酒場でのさばらせておく分には害はないのですが、実際の政治に関わっているのだから無視できない。

 そこで「成城トランスカレッジ!」の管理人が発足したプロジェクトが「ジェンダーフリーとは」というウェブサイトです。このサイトは、「ジェンダーフリー」に関する論点や、それの批判に対する反駁、また混同されることの多い「男女平等」と「ジェンダーフリー」の違いなどを説明した優れたサイトです。

 しかし、「kitanoのアレ」に貼られている、自民党の「過激な性教育・ジェンダーフリー教育実態調査プロジェクトチーム」(安倍晋三座長)のバナー広告を一部改変した広告が面白い。何せ《まさかと思う訴えが父母から寄せられています。自民党は責任を持って性感染症を増やします》ですからね。ただこのようなパロディは正当性があります。というのも、性感染症など、性行為にまつわる疫病・感染症を予防するためには、適切な処置をとらなければならない。従って、それに関する知識も必要になる。ところが自民党の推し進めている性教育とは、「性行為は害悪だ」「性行為はするな」の一点張りのようです。

 社会学者の宮台真司氏が、数ヶ月前の「サイゾー」で、宮崎哲弥氏との連載対談において、「「過激な性教育」が問題だというが、それで初交年齢が上昇したり、性感染症が阻止できたら問題はないのではないか」といっていた記憶がありますが、こういう認識に照らし合わせて自民党のプロジェクトを考えてみると、「たとえ自分たちが望む結果になったとしても(社会的問題が解決されたとしても)、自分の望む手段で解決されなければ嫌だ」ということになるのでしょうか。

 これに関してもう一つ。

 成城トランスカレッジ! -人文系NEWS&COLOMN-:名コンビ。
 この「反ジェンダーフリー」の旗手である、高崎経済大学助教授で「新しい歴史教科書をつくる会」現会長の八木秀次氏と、「つくる会」初代会長の西尾幹二氏の対談本『新・国民の油断』(PHP研究所)が書店に並んだとき、私は軽く読んでもうこの手の議論には付き合いたくないや、と思ったのですが、こんなに面白い俗流若者論の本だったとは。あとで読んでみようかなあ。

 ついでに、私のブログでも八木秀次氏に関して言及したことがありますので、参考までに。

 「俗流若者論ケースファイル25・八木秀次

 さらにこの「つくる会」や、自民党の右派系の国会議員が推し進めている教育基本法改正について言うと、東京大学助教授の広田照幸氏が最近『《愛国心》のゆくえ』(世織書房)という本で、その「改正」について批判的に検証しております。お勧め。

 まだまだ教育の話。

 もじれの日々:記事群(本田由紀氏:東京大学助教授)

 本田氏が引いている調査について。

*「幼児の就寝時間早まる 積み木・泥遊び増/「遊び相手は母親」8割 首都圏対象のベネッセ調査」
 これはたぶん、ハイパー・メリトクラシー(「人間力」みたいなもん重視)下における家庭教育指南言説の蔓延の影響だ(近刊拙著第1章・第5章参照)。それにしても平日に一緒に遊ぶ人が、「きょうだい」「友達」が10年間に10%減った代わりに「母親」が55%から81%まで急増しているのはすごい。子供の「人間力」(私の言葉では「ポスト近代型能力」)育成エージェントとしての重圧を母親=女性が一身に引き受け、「パーフェクト・マザー」責任を果たそうとしているのだ。しんどいことだ。

 本田氏のコメントは、至極正鵠を衝いているものだと思います。青少年問題をめぐる言説については、どうも最近になっても依然として「本人の責任」「親の責任」を強調するのが多い。こういう「責任」、特に「親の責任」を強調するものについては、過剰に親に求めすぎるようになり、親が社会的な支援、第三者による支援を受けるチャンスを奪ってしまう。

 最近は「健全な規制の下に健全な精神が育つ」みたいな意見がはびこっていますからね。子供が「健全」に育つためには、国家や親によって適切に「指導」されなければならない、と。若年無業者対策にしても、最近なぜか強調されるのは職業能力ではなく「適切な職業観」ですからね。精神こそが大事である、という考え方には一理あるとは思いますが、それが行き過ぎると過度の教育主義にならざるを得ない。

 ついでに言うと、本田氏の言うところの《「パーフェクト・マザー」責任》については、広田照幸氏が分かりやすくまとめておりますが(広田『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書)、最近は「「パーフェクト・ファザー」責任」みたいなものも出てきているようで怖い(例えば「父親の育児参加」議論の一部とか)。

 もう少し教育の話を。

 フィギュア萌え族(仮)犯行説問題ブログ版:10月13日「どうやってゲームを規制するのか?」と、中立性を欠いたNHKの報道(古鳥羽護氏)
 この手の報道にはもう飽き飽きしました。マスコミは、早く最近のメディア規制論が政策的判断ではなく「「世間」の身勝手」「為政者の身勝手」によって推し進められていることを理解したほうがいい。

 明日の宮城県知事選挙にも、松沢“ゲーム規制”成文氏と中田“行動規制”宏氏が推薦を表明している人が出馬しているからなあ(ちなみに新仙台市長の梅原克彦氏はこの人を推薦しております)。対抗馬は現在の浅野史郎知事の路線を継承、そのほか片山善博氏なども推薦し、民主党と社民党の推薦を受ける人。ただ、浅野知事もどうやらゲーム規制には前向きのようで、いくら民主党と社民党が推薦しているとはいえ注視しなければならない。あとは共産党推薦の人。共産党もメディア規制に関しては怪しいところが多いからなあ。今回は投票はあまり乗り気ではない。まあ行きますけどね。一応私は民主党(もう少し詳しく言えば民主党左派、あるいはメディア規制反対派)支持だし(ただ党幹部に枝野幸男氏が入らなかったのが残念だけど)。

 あと、このエントリーで気になったのがコメント。ちなみにこのコメントは「フリーターが語る渡り奉公人事情」の管理人によるもの。

上の世代のなかでメデイア・リテラシーの低い人たちは、ひきこもりとニートとフリーターの区別もつかずに勝手に人をバケモノにしたてあげ、取り乱したり、攻撃したり、他人の権利を不当に制限したがったりしています。若者の自立を支援する団体のなかには、大学生の不登校まで治療の対象とみなすところもあるくらいです。

わたしが、以前マスコミ報道にかつがれて連絡した団体も、大学生不登校とフリーターと引きこもりとニートの区別もつかないまま、いまどきの若者全般が反社会的で未熟でだらしないとの前提にたって、道徳的な説教をしていました。なんと、それらは反革命だという政治的弾圧さえしていました。

 で、この書き手自身のブログにおけるエントリーが次のとおり。

 フリーターが語る渡り奉公人事情:反革命ばんざい!
 このブログの管理人が間違って参加してしまったあるセクトについての話なのですが、この文章を読んでいる限り、少なくともこのセクトは運動によって社会を変革することを目的としている、というよりも運動が自己目的化している、と言ったほうがいいでしょう。要するに、仲間と一緒につるんで運動することによって「感動」を得ることこそが究極の目的である、と。この団体に関して、重要なのはむしろ「感情を共有できる人」であり「共同幻想」である。この団体が、「ひきこもり」の人たちを過剰に排撃するのは「共同幻想」を共有できないから、ということで説明できるのではないでしょうか。

 それにしても、この「共同幻想」論、もう少し論理の展開の余地があるような気がするなあ。例えばつい最近短期集中連載という形で批判した民間コンサルタントの三浦展氏の著書『「かまやつ女」の時代』(牧野出版)や『下流社会』(光文社新書)の問題点もこれで説明できるような気がする。要するに、三浦氏の理想とする「高額のものを消費するための自己実現(としての就労)」みたいな流れにそぐわない人はみんな「下流」とか「かまやつ女」みたいに罵倒されてしまう、という感じ。

 ついでにフリーターや若年無業問題に関わる本の書評ですが、最近忙しいので、11月中ごろになってしまう予定です。一応、前回(10月12日)からの進行状況は次のとおり。

 読了し、書評も脱稿したもの:丸山俊『フリーター亡国論』ダイヤモンド社
 読了したが書評を書いていないもの:浅井宏純、森本和子『自分の子どもをニートにさせない方法』宝島社、小島貴子『我が子をニートから救う本』すばる舎、澤井繁男『「ニートな子」を持つ親へ贈る本』PHP研究所

 あと、予定していた、小林道雄『「個性」なんかいらない!』(講談社+α新書)の検証ももう少し遅れます。最近だと、「週刊文春」などで「ゲーム脳」の宣伝に努めている、ジャーナリストの草薙厚子氏が『子どもを壊す家』(文春新書)という新刊を出したそうで。こちらもチェックしておく必要がありそうです。

 保坂展人のどこどこ日記:止まれ、共謀罪(保坂展人氏:衆議院議員・社民党)
 カマヤンの虚業日記:[宣伝]「『不健全』でなにが悪い! 心の東京『反革命』」
 どうも最近、きな臭いことが多いなあ(共謀罪とか、メディア規制とか)。「心の東京「反革命」」に関しては、米沢嘉博氏(コミックマーケット準備会代表、漫画評論家)と長岡義幸氏(ジャーナリスト)が発言するそうなので、参加したいのですが、いかんせん金がない。私は仙台在住なので。

 こんなときは、河原みたいなどこか人気の少ないところに行って夕陽でも眺めながら何も考えずに座っていたい。

 minorhythm:どこまでも…(茅原実里氏:声優)
 《あまりにも綺麗で、ほんの少しだけ切なくなって…ほんの少しだけ優しい気持ちになって。》とは茅原氏の言葉。こういう感動を味わうことのできる場所があればいいのですが、最近の青少年政策を見ていると、青少年からこういう場所を奪ってしまうのだろうなあと憂鬱になる。家庭も親と青少年言説による監視の眼が日々強くなっている。青少年言説の支配する社会とは、子供から全ての逃げ場を奪い「適切な」監視の下で「適切な」道徳が育っているかのごとき幻想を「善良な」大人たちに抱かせるものに他ならないのです。で、少年犯罪やら何やらが起こると「まだまだ監視が足りない!」と言い出す。今のままの青少年政策はループです。

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2005年8月30日 (火)

トラックバック雑記文・05年08月30日

 「俗流若者論ケースファイル」25連発なんて、本当に骨の折れる作業でした。おかげで、このブログのコンテンツ(これを含めて125個)の内56%(70個)が「ケースファイル」になってしまった。しかも「ケースファイル」で取り上げたい文章って、まだたくさんあります。まあ、今後の予定はさておき、まず雑記文から。

 週刊!木村剛:[ゴーログ]公職選挙法こそ、ブログの敵だ!(木村剛氏:エコノミスト)
 保坂展人のどこどこ日記:ブログ中断の不条理、公選法改正を(保坂展人氏:元衆議院議員・社民党)
 公職選挙法によれば、文書や図画の頒布について極めて厳しい基準がしかれているようです。ここ最近、政治かもウェブサイトやブログを持つようになりましたが、公選法によれば選挙期間中はホームページやブログの更新は許されていないらしい。ただし、厳密に「許されていない」というのではなく、ウェブサイトやブログが「文書図画」であるかどうかを規定されていないため、公選法に抵触する「虞がある」ということだそうです。

 私は基本的にはウェブサイトやブログによる選挙運動には賛成です。多くの人がインターネットに繋げるようになる現代、インターネットを選挙活動の道具の一つとして利用するのは大きな意味があると思います。

 さて、私は公選法の改正だけではいけないと思います。もしウェブサイトやブログが選挙活動として認められているのであれば、立候補者はポスターに自分のウェブサイトやブログのアドレスを明記すべきでしょう。携帯電話の「QRコード」を印刷してもいい。わざわざ政治家のサイトを検索して見る人は少ないでしょうから、人を呼び集めるためにはポスターにそのような工夫を施すことも必要だと思います。

 今の選挙活動は、ほとんどが「名前」を売ることにまい進していると思います。しかし、利権誘導型政治の欺瞞が明らかになった今、「名前」だけでは考える市民を取り込むことが出来ないでしょう。だからこそ、「名前」だけでなく「政策」を売り出すことが出来るようになって欲しい。インターネットを利用した選挙活動は、選挙活動に政策を「売り出す」プレゼンテーションのスキルが重視されるように変革されるでしょう。マニフェスト型政治を定着させるには、まずインターネットを政治活動として認めるべきです。

 しかし、インターネット選挙活動がみんな善であるというわけではないようで…。

 kitanoのアレ:ウヨク工作活動:民主党アンケートに大量組織票

 リンク先の記事によると、7月20日から25日にかけて民主党がネット上でモニター選挙を行なったところ、7958名のモニターの内3877名が実施期間中に新規登録した人のようです。ここまでならいいのですが、ここから先に何かきな臭い動きが…。

    Q1. 時の首相が靖国神社を参拝することについてあなたはどう思いますか?
  賛成である 1267 票 (工作後 5144 票)
  反対である 2438 票
  わからない 376 票
  Q3. 民主党の岡田代表は政権交代後、首相になった場合、自分の意思で靖国神社に参拝しないとしています。あなたはどう評価しますか?
  大いに評価する 1769 票
  多少評価する 888 票
  あまり評価しない 769 票
  全く評価しない 440 票 (工作後 4317票)
  わからない 215 票
  Q4. 首相の靖国神社への参拝問題で日本の国益に叶うのは、参拝の継続か中止どちらだと思いますか?
  参拝継続 1098 票 (工作後 4975票)
  参拝中止 2436 票
  わからない 547 票

 すごすぎますよ。いくつかの左派系のブログでは所謂「ネット右翼」によるコメント欄荒らし・トラックバック荒らしが問題化されているようですが、これだけの「工作員」がいるとは…。まあ、所謂「ネット右翼」の世界は、「世界」平成17年7月号で鈴木謙介氏が言っている通り、所謂「学級会民主主義」の世界、すなわち多数派の正義ですからね。そのような「多数派の正義」は、そのまま勝ち馬に乗ればいい、という価値観を生み出す。これは所謂「ネット右翼」だけでなく、そのまま彼らの批判するマスコミや、メディア規制派にも言えることです。すなわち…。

 フィギュア萌え族(仮)犯行説問題ブログ版:各局の報道で全国に晒されてしまった加害少年の部屋(古鳥羽護氏)
 弁護士山口貴士大いに語る:松沢知事はエコノミストの記事を読んだのでしょうか?(山口貴士氏:弁護士)
 カマヤンの虚業日記:[日本会議][勝共連合]「日本会議」の街宣車、コミケへ来る
 走れ小心者 in Disguise!: 「黙ってられるかこんな話聞いて!」(克森淳氏)
 kitanoのアレ:おたくのための選挙資料(1):自由民主党の公約
 kitanoのアレ:おたくのための選挙資料(2):民主党の公約
 「反ヲタク国会議員リスト」雑記帳:[健全育成政策] 自民党&共産党もエロゲー撲滅に必死

 我が国のマスコミや政治家には、相手がオタクであれば倫理も矜持もプリンシプルも無視してバッシングに走ってもいい、という不文律があるそうです。先日宮城県で起こった警官襲撃事件でも、加害者の部屋が全国放送によって委細もらさず報じられてしまったらしい。そして案の定アニメやゲームやモデルガンが原因である、という印象操作報道を行なってしまったようです。

 はっきり言って、これは報道加害以外の何物でもありませんね。少年法61条はもはやあってなきものと化しているようです。もちろん少年法61条には問題点が多くありますが、このような報道の行き過ぎはもはや壊滅的です。我が国の中において、どれだけの青少年がアニメやゲームやモデルガンには待っているか、マスコミの人たちは分かっているのでしょうか。その中の一人が犯罪をしでかしたからといって、アニメやゲームやモデルガンに愛着を示す人はみんな危険だ、という論理を展開してはなりません。しかし、そのような印象操作こそが受ける、とマスコミの人たちは確信しているのでしょうか。視聴者をなめているのか。少なくとも若年層をなめているのは事実でしょうね。

 山口貴士氏のブログでは、ゲーム規制を推し進める松沢成文・神奈川県知事が英国の「エコノミスト」という雑誌でゲームの有害性は実証されていない、という記事が掲載されていて、松沢氏はこれを呼んだのか、と糾弾していますけれども、自分に都合の悪い情報を封鎖するのもまたマスコミクオリティです。例えばフリーターや若年無業者の分野に関すると、書籍ではかなり優れた分析や報告が展開されているのですが、雑誌や新聞やテレビ報道のレヴェルになるとあいつらは甘えているとか親が悪いんだとかいった画一的・一方的な批判になってしまう。どうして彼らは重要なデータをひた隠すのでしょうかね。やはり自分の構築した「今時の若者」のイメージを綿密なデータによって解体されたくないからなのか。所詮マスコミは、マスコミ報道の主たる受け手となっている社会階層の人を擁護するものでしかなく、公器としての役割を期待するほうが無理なのかもしれません。

 「kitanoのアレ」では、自民党だろうが民主党だろうがメディア規制の動きをとめることは出来ない、と書かれております。私がこのことに関して思うことは、自民党も民主党も、更には共産党すら「今の子供たちは「異常」である。それは有害な情報が蔓延しているからである」という認識を共有しているということです。しかし、彼らのいうところの子どもたちの「異常」とは、一体何を指しているのか。少年犯罪の急増?凶悪な少年犯罪は現在よりも昭和40年ごろのほうが圧倒的に起こっていた。規範意識の低下?このような論理は論じる側のイデオロギーに左右されやすく、まず彼らが持ち出す「規範意識の低下」という視点が相対化されるべき問題です。更には疑似科学まで持ち出して、今の子供たちはかつての子供たちと「本質的」に違うのだ、という人たちまでいます。しかし、そのような論理が、レイシズムにつながるということに関してはどうして無頓着なのだろう?

 「カマヤンの虚業日記」では、かの有名な「コミックマーケット」に、メディア規制の急先鋒である右翼政治団体「日本会議」の街宣車が、自らの出自を偽って街宣活動を行なったようです。そしてその「日本会議」は、右派系の「人権擁護法案」反対派の肩を持っている存在ですけれども、このような人たちと一緒になって「人権擁護法案」に反対している人は、やがてこれらの人たちがメディア規制に走り出す、ということにどうして無頓着なのでしょうか。それとも長いものに巻かれていれば害はない、と考えているのか。やはり「学級会民主主義」の徒ですか。

 ついでに私も「人権擁護法案」に反対した文章を書いたことがあります。しかしその視点は、まず論壇において「人権」という言葉がいかに曲解されてきたか、ということと、立憲主義において国家・国民・憲法とはどのような位置にあるか、ということを中心に論じました。ですので、私の批判は、かなり相当性があるように思えます。まあ、その理由で、一部の人からは「近代国家礼賛なのか無政府主義なのか分からない」「電波」などと罵られているわけですが。

 本日の「産経SHOW」:「丸の中に平」は、「平蔵」ではなく「平和」
 産経新聞の「産経抄」を検証しているブログなのですが、平成17年8月23日付の「産経抄」にあったこの文章を見たとき、私の眼が止まりました。

 昔、自民党が総裁選びでもめていたときのこと。識者への談話取材を命じられた筆者は、サルの研究者に電話をかけ、当時の編集幹部に怒鳴られた。ボス猿選びと比較するとは、政治を冒涜(ぼうとく)するものだ、というのだ。

 《サルの研究者》?もしかして信男ちゃん?信男ちゃんなのかっ!?(笑)なんて、違うでしょうけどね。

 さて、8月7日から8月30日にかけて、「俗流若者論大賞」と称して、「俗流若者論ケースファイル」25連発という荒業をやり遂げてしまいました(盆休みあり)。ここで発表した文章は以下の通り。せっかくなので短評つきで。

 「俗流若者論ケースファイル46・石堂淑朗
 石堂淑朗、「正論」だけでなく「新潮45」でも活躍しております。

 「俗流若者論ケースファイル47・武田徹
 「プログラム駆動症候群」なる珍概念を批判的検証抜きで宣伝。しかし箱を開けたら暴力的なレトリックの山だった。

 「俗流若者論ケースファイル48・澤口俊之
 ついに単独で登場、澤口俊之。

 「俗流若者論ケースファイル49・長谷川潤
 教師ってなんなんだ。

 「俗流若者論ケースファイル50・工藤雪枝
 歴史ってなんなんだ。

 「俗流若者論ケースファイル51・ビートたけし
 論理が散乱しまくっています。ビートたけし=北野武氏にはこういう側面もあったのか。

 「俗流若者論ケースファイル52・佐藤貴彦
 「バトル・ロワイヤル」のトンデモ珍解釈、とでも言うべきか…。

 「俗流若者論ケースファイル53・佐々木知子&町沢静夫&杢尾堯
 治安悪化は全部少年のせいだ!とでも言いたいのかな。しかし対談者は元検事の自民党国会議員、少年犯罪報道御用達の精神科医、元警察官。

 「俗流若者論ケースファイル54・花村萬月&大和田伸也&鬼澤慶一
 中江兆民の「三酔人経綸問答」ならぬ、「三酔人俗流若者論問答」。

 「俗流若者論ケースファイル55・遠藤維大
 アクセス解析によると、この人の名前で検索したらこのページにぶち当たった、という人がいるようですが、この人、ネット上の評判悪すぎ。

 「俗流若者論ケースファイル56・片岡直樹
 片岡直樹も単独で登場。

 「俗流若者論ケースファイル57・清水義範
 元祖「フィギュア萌え族」論!?

 「俗流若者論ケースファイル58・林真理子
 この程度の「憂国」エッセイが教育「論」として認められてしまう現実。

 「俗流若者論ケースファイル59・林道義
 この時期に及んで、「環境ホルモンで動物が女性化」はないだろう…。

 「俗流若者論ケースファイル60・田村知則
 何と眼科医学から俗流若者論が飛んできた。

 「俗流若者論ケースファイル61・野田正彰
 俗流若者論で「心のノート」に反対したらまずかろう。

 「俗流若者論ケースファイル62・藤原正彦
 文化ってなんなんだ。

 「俗流若者論ケースファイル63・和田秀樹
 遅れてきた「スキゾ/パラノ」(@浅田彰)!?

 「俗流若者論ケースファイル64・清川輝基
 清川輝基まで登場。

 「俗流若者論ケースファイル65・香山リカ
 政府や右派言論人を叩かずに若年層ばかり叩く、それが若年層右傾化論クオリティ。

 「俗流若者論ケースファイル66・小林ゆうこ
 ここまで疑似科学を批判的検証抜きに紹介できるノンフィクション作家って…。

 「俗流若者論ケースファイル67・中村和彦&瀧井宏臣
 しかし瀧井宏臣は小林ゆうこよりもすごい。

 「俗流若者論ケースファイル68・瀬戸内寂聴&乃南アサ&久田恵&藤原智美
 これだけの「文化人」がそろっておきながらこの貧困。

 「俗流若者論ケースファイル69・小林道雄
 小林道雄二重人格説。要するに警察に関する仕事と青少年に関する仕事で落差ありすぎ。

 「俗流若者論ケースファイル70・山藤章二&「ぼけせん町内会」の皆様
 トンデモカルタの世界。

 今後の予定。
 ・「統計学の常識、やってTRY!第5回」を近いうちに公開します。採り上げる記事は、「AERA」平成17年9月5日号に掲載された、各務滋、坂井浩和、小田公美子「父よ母よ 園児が壊れる」です。
 ・「俗流若者論ケースファイル71・遠山敦子ほか」を近いうちに公開します。8月26日付の読売新聞で、遠山氏が識者16名を集めて結成した「こころを育む総合フォーラム」の基調報告が掲載されていますが、そこでは取り立てて俗流若者論が見られるわけではないのですけれども、この団体の動向を見極めなければならない、という目的で執筆します。
 ・三浦展『仕事をしなければ、自分はみつからない。』(晶文社)の検証記事を来月中に公開します。また、同じ著者の『ファスト風土化する日本』(洋泉社新書y)と『「かまやつ女」の時代』(牧野出版)にも問題が見られれば、短期集中連載という形で来月一遍に検証を行ないます。
 ・小林道雄『「個性」なんかいらない!』(講談社+α新書)の検証記事を再来月までに公開する予定です。
 ・9月14・15日に、愛知万博に行ってきます。そこで何か感じることがあれば、万博観覧レポートを書きます。
 ・その前日の9月13日に、東京で今年のカンヌ国際映画祭でパルムドール大賞を受賞したベルギー映画「ある子供」のマスコミ試写会に参加してきます。そこで何か感じることがあれば、映画評を書こうと思います。生まれて初めての映画評です。
 ・再来月までに、巷に出回っているフリーターや若年無業者に関する本の書評をbk1にて一気に公開します。さらに、その公開とあわせて、それらの本に関する分析を行なった記事をブログで公開します。
 ・平成18年仙台市成人式実行委員会に参加しています。それにあわせて成人式関係のコンテンツも充実させていくつもりです。その嚆矢として、近いうちに「成人式論は信用できるかSPECIAL01・大谷昭宏」を掲載します。「通販生活」2005年春号に掲載された大谷氏のインタヴューを検証します。

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2005年8月10日 (水)

俗流若者論ケースファイル52・佐藤貴彦

 連載第19回の荷宮和子批判において、私は深作欣二監督の「バトル・ロワイヤル」という作品に触れた。この時点ではまだ件の作品を見ていなかったが、残念ながら今も観ていない。なぜここで「バトル・ロワイヤル」を持ち出したかというと、今回検証する評論家の佐藤貴彦氏の文章「残虐なのは誰か?」(「正論」平成13年4月号に掲載)が、この「バトル・ロワイヤル」にかこつけた俗流若者論だからである。ちなみにタイトルとなっている「残虐なのは誰か?」という問いかけは、果たして映画の登場人物なのか、それとも観客なのか、ということに関してである。佐藤氏はそれは観客である、と結論付ける。しかし、この部分に関しては俗流若者論とは特に関係がないし、例えば《大人がコドモに人殺しを強制するという、この設定が、これまたズレまくっている。殺し合いは上から下へ強制するものだという設定》(佐藤貴彦[2001]、以下、断りがないなら同様)という記述は、一般論としては一応正しい。ただしこの文章における佐藤氏の「バトル・ロワイヤル」に対する認識が、例えばこのような設定を《左翼思考にはまった設定》《全共闘時代の左翼知識人がもっとも好んで用いた図式》と評している通り、どうも佐藤氏はある種の党派的な認識に囚われているようである。

 しかし、この文章における問題点は、54ページと55ページにおいて集中している。まず、54ページの文章を引用してみよう。

 現実を見てみよう。現在起こっている数々の少年による凶悪事件は、まさしく少年地震の意思によるものなのである。「人を殺してみたかった」、「人間がバラバラになって、悲鳴を上げるのを聞きたかった」などなど、明らかな殺意を抱いているのは少年自身である。彼らは強制されて殺すのではない、彼ら自身の快楽として自発的に殺しているのである。すなわち、そういういみで『バトル・ロワイヤル』は完全にズレており、現実をちっとも反映していないのである。大人がコドモに殺しを強制するのではなく、逆にコドモが大人を殺しまくるという設定にしたほうが、今の世の中、はるかにリアリティーがあるのである。

 作品に関してこのような批判をするということが、創作物の幅を狭めてしまう、ということに佐藤氏はなぜ気がつかないのだろうか。また、監督である深作氏がいかなる主張をこの映画にメッセージとして入れたのか、ということを無視して、このように罵ってしまうのも、佐藤氏が評論家として適材であるか、という点での疑問になろう。そもそも、この連載で何度も述べている通り、少年による凶悪犯罪は昭和35年ごろに比べて大幅に減少している。もう一つ言えば、《明らかな殺意を抱いているのは少年自身である》ことを現代の少年犯罪に特有の現象として扱っている節があるが、犯罪者が殺意を抱くのはいつの時代にもある話である。

 この直後に来ている文章もまた、佐藤氏の少年犯罪に対する思考停止を象徴するような文章である。

 異常な少年犯罪が多発する以前では、この世の悪はもっぱら「悪い大人のせい」とするのが決まり文句だった。そしてまた、そうした発想こそが戦後日本の平和主義・民主主義を支えていたのである。つまり、従来の日本の戦後民主主義はある種の性善説に基づいていて、「我々は善人なんだけれども、なのに世の中がなかなか良くならないのは、ぜーんぶ一部の悪い政治家のせいなんだよ」とか「一部の悪い政治家が戦争を企んでいるんだよ」とかいっておけばよかったのだ。

 ところが、昨今ではコドモ自身が積極的に自身の内部の悪を臆面もなく主張してくるので、これまでのそうした図式がだんだん通用しなくなってきたのである。そこで我々は、我々のこの現実をもう一度考え直さなければならないという重大な局面にさしかかっていたのだ。

 まず最近になって異常な少年犯罪が多発している、というのは間違いで、過去の事例をたどっていけば現在とは比べ物にならないほど残虐な犯罪も存在する(宮崎哲弥、藤井誠二[2001])。また、この時期からの傾向として、というよりも「酒鬼薔薇聖斗」異常の傾向として、少年犯罪の「原因」を犯罪者の、更には若年層全体の「心」の問題として捉える傾向が強くなった。これ以降、少年犯罪報道、そして若者報道全体が「《我々は善人なんだけれども、なのに世の中がなかなか良くならないのは、ぜーんぶ》若年層と若年層が熱狂している文化の《せいなんだよ》」、と言わんばかりの報道が目立つようになった。

 要するに、この文章は「バトル・ロワイヤル」にかこつけた俗流若者論なのであり、更には「今時の若者」にかこつけた左翼批判に過ぎないのである。要するに佐藤氏が最終的に批判したかったのは我が国を覆っている(と佐藤氏が勝手に規定している)左翼思考、すなわち「権力者=悪」という思考である。しかし現状においてそのような図式を貫き通している人がどれほどいるのだろうか。現実には、自分の生活が良くならないのは政治のせいだ、と愚痴をこぼしながらも、例えばゲーム規制の問題になると権力に規制を求める人が多くなる。要するにここでは「権力者=悪」という図式が崩壊しているのである。

 佐藤氏のこの文章が虚しいのは、結局のところこの文章が極めてテキスト化された「正論」による左翼批判に過ぎないのである。このような文章ばかり載せている雑誌が最も売れる、というのは、ある意味では我が国の言論における危機的状況を映し出しているのではあるまいか。

 参考文献・資料
 佐藤貴彦[2001]
 佐藤貴彦「残虐なのは誰か?」=「正論」2001年4月号、産経新聞社
 宮崎哲弥、藤井誠二[2001]
 宮崎哲弥、藤井誠二『少年の「罪と罰」論』春秋社、2001年5月

 広田照幸『教育には何ができないか』春秋社、2003年2月
 宮台真司、宮崎哲弥『M2 われらの時代に』朝日新聞社、2002年3月

 長谷川真理子、長谷川寿一「戦後日本の殺人動向」=「科学」2000年6月号、岩波書店

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2005年7月23日 (土)

トラックバック雑記文・05年07月23日

 お久しぶりです。最近このブログの更新が停滞していたのは、建築の課題を作っていたからですが、一応毎日アクセス確認はしていました。

 その確認をしていたときに判明したのですが、どうやら誰かがパチンコ関係のネット掲示板に私の記事へのリンクを何の文脈もなく、しかも私が投稿したものであるかのように貼っている人がいるようです。

 ここで申し上げておきたいのですが、まず私はその事実を知るまでその掲示板の存在を知りませんでした。また、たとえ掲示板に投稿する際でも、私は原則として本名でしか投稿しません。なので、その掲示板にさも私が貼ったかのごとく書かれている書き込みは、明らかに私のものではないのです(ちなみに最近「北の系」の掲示板に投稿した文章は私のものです)。

 確かにこのブログは、タイトルの近くにも書いてある通り、リンク及び転載は歓迎しております。私に提供したい情報があれば、どしどしトラックバックやコメントを投稿していただきたいものです(アダルトブログなどからのトラックバックは無条件に削除させていただく場合があります)。しかし、この場合は、明らかに私に対する誤解をあおるものであり、私はそのことで大変迷惑を被っております。

 まさかこのブログの常連の読者がそのようなことをするはずはないのだと思いますが、この文章を読んでいるのであれば、まずその行為をやめてください。

 ここからが本文です。
 フィギュア萌え族(仮)犯行説問題ブログ版:ガードレールの金属片の謎、解明される(古鳥羽護氏)

 本の2ヶ月ほど前、あれほど我が国を騒がせた「ガードレールの謎の金属片」問題も、今ではまったく聞かれなくなりましたね。で、最近になって、ようやくその「原因」がわかったらしい。ここで引用されているNHKのニュースによると、車がガードレールにこすれたときに車の金属がはがれて、あのような形の金属片が生成されてしまうとか。

 それにしても、この記事における結びの言葉が極めて秀逸ですね。

 さて、この現象を、「テレビゲーム世代」、「2ちゃんねらー」、「ひきこもり」、「ニート」による人為的なイタズラであると決め付けたコメンテーターたちは、明日からテレビに出ないで欲しいものです。

 まったくもって正しいですね。しかし、これはテレビのみならず新聞も同じでしょう。私の家では読売新聞を購読しているのですが、このことを取り扱った第1社会面の記事で、2人の自称「識者」がコメントしていましたが、そこに掲載されていた、漫画家の弘兼憲史氏の発言がひどかったことを記憶しています。曰く、「このようなことがインターネットを通じて広く行われるようになるひどい社会になってしまった」と(うろ覚えで申し訳ありません)。この現象に関して、何でもかんでも「今時の若者」のせいにしてしまった人たちは、まず最低条件として1年ほどコメンテーターとして参加するのを自粛してくださいね。

 また、先ほどの話題とかなり関係があるのでここも採り上げておきましょう。

 週刊!木村剛:[金曜日ゴーログ]さすがにマスコミは「叩く相手」を知っている!(木村剛氏:エコノミスト)

 今年のバレーボールのワールドカップは、我が街仙台で行なわれましたけれども、そこでジャニーズの某グループとフジテレビの某アナウンサーの不祥事がありましたね。まあ、この問題に関しては、多くの人が知っていると思うので改めて書く気はありません。木村氏のブログで事件の概要がおさらいされているのでそちらを読んでください。

 それにしても、木村氏のブログでも触れられているのですけれども、本来であればこの手のネタは格好のワイドショー報道の材料になるはずなのですけれども、あまり報じられていないようですね。さすが、身内には甘い、というべきか。

 身内には甘い、ということで私が真っ先に思いつくのは若年層に関する報道や言論です。例えば我が国の左派論壇において、「今時の若者」を嘆くために「戦後」を持ち出すような歴史修正主義が増えています。これでは「今時の若者」を嘆くために「戦前」を持ち出すような右派の歴史主義者となんら変わるところはありませんよ。しかし、左派論壇の人たちは、彼らを右傾化したと批判したり指摘したりしない。特に筑紫哲也氏は、筑紫氏が今や(というよりもずいぶん前からか)左派論壇のトップスターであるということもあってか、いかに「週刊金曜日」の連載で復古主義的なナショナリズムを煽っていても(「俗流若者論ケースファイル10・筑紫哲也」を参照されたし)、そのような言論を右傾化だとか指摘する人はいません。筑紫氏ほどではありませんけれども、吉田司氏や斎藤貴男氏なんかもこの傾向が現れ始めていますね。特に斎藤氏。斎藤氏は、かの曲学阿世の徒・京都大学霊長類研究所教授の正高信男氏のトンデモ本『ケータイを持ったサル』(中公新書)を、朝日新聞と、著書『人を殺せと言われれば、殺すのか』(太陽企画出版)と『安心のファシズム』(岩波新書)で絶賛していた。そのような斎藤氏の文章を読んで、私は「いったい、斎藤貴男はどうなってしまったのか!」(もちろん、斎藤氏と魚住昭氏の共著『いったい、この国はどうなってしまったのか!』(NHK出版)のパクリです)と驚いてしまいました。「サイゾー」の今月号で、例の宮台真司氏と宮崎哲弥氏の対談において、宮崎市が斎藤氏のことを「頭は左翼だが、体は半分保守オヤジに浸かってしまっている」状態であると批判していましたけれども、「頭は左翼、体は保守オヤジ」という人たちが多すぎます。左右関わらず、「体が保守オヤジ」の人々によって現在の言論界が支えられているから、このような事態が生じるのでしょうかね。

 それにしても、彼らの考える「国家」とはなんなのでしょうか。

 ン・ジュンマ(呉準磨)の備忘録:ナショナリズムとは、つまり「国民国家の虚偽意識」か
 弁護士山口貴士大いに語る:カスパルがうさんくさい要望書をエロゲー関係各社に送ったようです(山口貴士氏:弁護士)
 kitanoのアレ:反性教育の動向(6)

 なぜ、俗流若者論に寄りかかる歴史修正主義者の思考を考える上でこのような記事を持ってきたか。それは、まさに彼らの「国家」が彼らを正当化するためだけの道具に過ぎない、ということを言いたいのです。

 山口氏のブログでは、アダルトゲーム規制を推進する団体がアダルトゲーム業界に怪文書を送ったことが報告されています。しかし、なぜこの団体はアダルトゲームにこだわるのでしょうかね。アダルトゲームにこだわりすぎると、犯罪の実像はまったく見えなくなりますが、彼らにとっては見えなくてもいいのでしょうか。所詮は自分の「理解できない」ものを国家によって規制しろ、といいたいわけですね。超国家主義と生活保守主義の最悪の結婚です。

 また「kitanoのアレ」では、中教審が高校生以下の性行為を認めない、という決定をしたようです。ここで引用されている共同通信の記事を読んでいると、嗚呼、やはり我が国は「言霊の国」だ、と嘆きたくなります。中教審の皆様方は、とにかく駄目だと言っていれば解決する、と思い込んでいるのですからね。考え方が甘すぎやしませんか。
 この2つに共通するのは、「強い国家」によって「今時の若者」を「是正」することを目的としていることでしょう。彼らが「今時の若者」に対して不快感を持っているのはよくわかります。しかし、その「解決」のために国家を持ち出し、「国家」に自らの「癒し」を求める、という態度は果たして正しいのか。私はそうは思いませんね。私だって、俗流若者論を批判する立場にある身であっても、やはりメディア的な「今時の若者」に不快感を覚えることはありますよ(仙台ではあまり見かけませんが)。しかし、そんな個人的な感情を、現代の若年層における「国家」意識の喪失なる論理と無理やり結びつける、という行為は、はっきり言って良識ある大人の行為ではないでしょう。

 今や国家は、「今時の若者」に対する個人的な恨みつらみを晴らしてくれる存在でしかなくなりつつあります。真面目な国家主義者は、直ちにこの状況を批判すべきでしょう。

 ヤースのへんしん:皆の道

 日本最速の161キロを記録した横浜ベイスターズのマーク・クルーン投手にあやかって、横浜市の市議より「市道鴨志田161号」に「クルーンロード」という愛称を付けようという動きが持ち上がってるらしい。

 うわあ、莫迦莫迦しい(笑)。もちろんこの記事の筆者も莫迦莫迦しいと思っていますが。

 この文章を読んで、東北大学助教授の五十嵐太郎氏(『戦争と建築』『過防備都市』の著者です)の授業において、北朝鮮の建築のスケールや装飾の数(例えば金日成広場の正面にある「主体思想塔」の高さ)が北朝鮮の革命史とか金日成にまつわる数字とかにあわせられている、ということが語られていたことを思い出しましたよ。

 このようにセンスもなく、ただ単に人気にあやかっただけの地名や愛称が、その後においてどのように語られるか、ということを考えてみるとなんだか滑稽に思えてきます。野球の選手が日本催最速の等級速度を出した、だからこの道路にそのような愛称がついたのだ、と言われても、その知名に愛着を持つ人がいるのでしょうかね。どうも疑問に思ってしまう。

 minorhythm:夏本番っ☆(茅原実里氏:声優)
 ひとみの日々:夏バテ?(生天目仁美氏:声優)

 仙台の梅雨明けはまだですが、いよいよ本格的な夏が始まりました。私も、本日、長かった建築の課題が終わり、いよいよ夏休みに入ります(補講とか試験とか提出とかたくさんありますが)。余暇の時間が多くなるので、このブログの更新頻度も多くなるでしょう。後はアルバイトが欲しい。私は「家庭教師のトライ」に所属しているのですが、現在生徒を持っていない状況です。なので、積極的にトライのほうに電話をかけて、新しい生徒はいないかといっております。さぞかしトライの仙台支部も迷惑千万でしょう(笑)。

 アルバイトがないなら、夏休みは物書きに徹しますか。一応現在検証待ちの文章もいくつかありますが、8月初旬からは夏休み特別企画を行なうことを考えております。
 それは「俗流若者論大賞」。平成12~15年に後で挙げる雑誌に発表された俗流若者論から1年ごとに、準グランプリを3~5本、そしてグランプリを1本ノミネートしようと思います。なので、この特別企画の期間中は、カレントな俗流若者論の批判はしばらくお休みになります。

 対象となる雑誌:文藝春秋、諸君!(以上、文藝春秋)、中央公論(中央公論新社)、現代(講談社)、世界(岩波書店)、正論(産経新聞社)、Voice(PHP研究所)、論座、週刊朝日、AERA(以上、朝日新聞社)、Yomiuri Weekly(読売新聞社)、サンデー毎日(毎日新聞社)、週刊金曜日(金曜日)

 また、雑誌に投稿するために、ここでは公開しない文章も執筆するつもりです。とりあえず現在執筆予定なのが「疑似科学の潮流と俗流若者論」とか「俗流若者論が生み出す歴史修正主義」とか。というのも、先月の頭ごろに、このブログの記事「壊れる日本人と差別する柳田邦男」を「論座」編集部に投稿したときに、編集部から既に発表された文章は掲載できないと電話がかかってきましたので、雑誌投稿向けに、これまでの私の俗流若者論批判を一つのテーマにまとめて、俗流若者論という言論体系にあまり明るくない人にも読んでもらえるような文章に仕上げるつもりです。もし投稿してから1ヶ月以上反応がなければ、ここで公開するつもりです。

 それから、前回の雑記分から、以下の記事を公開したので、是非読んでください。

 「俗流若者論ケースファイル35・斎藤滋」(7月10日)
 「俗流若者論ケースファイル36・高畑基宏&清永賢二&千石保」(7月13日)
 「俗流若者論ケースファイル37・宮内健&片岡直樹&澤口俊之」(同上)
 「俗流若者論ケースファイル38・内山洋紀&福井洋平」(7月16日)

 そうそう。あさってはついに我らが仇敵(だったのか)・正高信男の新刊が発売される日ですよ。

 正高信男『考えないヒト』中公新書、2005年7月25日発売予定

 中央公論新社のウェブサイトでは、《通話、通信からデータの記憶、検索、イベントの予約まで、今や日常の煩わしい知的作業はケータイに委ねられている。IT化の極致ケータイこそ、進歩と快適さを追求してきた文明の象徴、ヒトはついに脳の外部化に成功したのだ。しかしそれによって実現したのは、思考の衰退、家族の崩壊などの退化現象だった。出あるき人間、キレるヒトは、次世代人類ではないか。霊長類研究の蓄積から生まれた画期的文明・文化論》と紹介されています。まあ、帯を見る限りでは、おそらく『人間性の進化史』(NHK人間講座テキスト)をさらに拡大したものになるのでしょうか。しかし、あのテキストだけでは新書というサイズにまとめることができないので、ある程度加筆することになるのでしょうけれども、少なくともこの本が彼の疑似科学路線を突っ走った本になることは間違いないようです。

 皆様、この機会に、正高信男という曲学阿世の徒について復習をしてみましょう。

 まず、私の正高信男批判を。

 「正高信男という病 ~正高信男『ケータイを持ったサル』の誤りを糺す~」(平成16年11月7日)
 「正高信男という堕落」(平成16年12月4日)
 「またも正高信男の事実誤認と歪曲 ~正高信男という堕落ふたたび~」(平成17年2月24日)
 「正高信男という頽廃」(平成17年3月8日)
 「正高信男は破綻した! ~正高信男という堕落みたび~」(平成17年4月5日)
 「暴走列車を止めろ ~正高信男という堕落4~」(平成17年7月3日)
 私の正高信男批判を全部読みたい方はこちら

 また、他のブログにおける正高信男批判も紹介しておきます。

 えこまの部屋:[社会]EMYさんへの返事[社会]少子化対策ぅぅ~~?(着地点はコレかよ!)

 はぁ・・・?
 これケイタイを持つ者へのなんらかの批判と啓蒙の書だったのではないのですか?
 (少なくともそれを期待し彷彿させるタイトルだったんですが・・・)

 百万歩譲って「この本は本当は少子化対策の本だった」として、
 この程度の提案(少子化対策案)って・・・
 なんだか高校生の子が、もしくは家政科の短大生が明日提出で急いで仕上げた
 「私が考える少子化対策レポート」みたいに思えるんですけれど・・・。

 脱力である。

 ふたたびEMYさんのコメント再生
 >読まなくて正解と思います。

 ほ・・・ほんほひそうらね、EMYひゃん。(ほんとにそうだね、EMYさん)

 ちなみにこの記事では、このブログではおなじみの「千人印の歩行器」の栗山光司氏が私の文章を紹介しております(この記事が「堕落みたび」にトラックバックされているのもそのためでしょう)。この記事は、一般読者の立場から正高本に突っ込みを入れております。

 思考錯誤:[note] 『ケータイを持ったサル』か?(辻大介氏:社会学者)

 しかしだな、その実験の解釈や議論の組み立てかたは、やはりトンデモと言わざるをえないところがある*1。いかに優れた自然科学者であっても、生半可に社会評論に手を出してしまうと、こんなことになってしまうんかいなと愕然としてしまう。お願いだから、正高さんには、こっち方面からはとっとと手を引いて(どうせ片手間しごとなんだし)、着実に本業を進めてほしいと切に思う。優秀な人が道を誤っちゃいけない。

 本当にその通りであります。

 あと、オフラインの正高批判も挙げておきます。

 宮崎哲弥「今月の新書完全読破」2003年9月分=「諸君!」2003年12月号、文藝春秋

 私には呆れるほど杜撰で、学者としての良心すら疑いたくなる内容なのだが、新聞などの書評は押し並べて好意的だった。
 日本人が「退化」しているかもしれないという危惧にだけは同意してもよい。私の危惧は、著者を含めたインテリ層の知的能力の「退化」に対するものだけど。(280ページ)

 岸本佐知子「(ベストセラー快読)おじさんも「感動した!」」=2004年3月28日付朝日新聞

 この本の悪口を言うのは簡単だ(オヤジの主観丸出しだとかトンデモ本じゃないのかとか女になにか恨みでもあるのかとか)。が、そんなことはこの際どうでもいいのだ。著者は、学者として何より大切な客観性を投げうち、神聖な研究対象をネタに使ってまで、世の虐げられたおじさんたちを勇気づけようとしているのである。何と崇高な犠牲精神であろう。

 斎藤美奈子「(斎藤美奈子 ほんのご挨拶)サルとヒトの区別ない 印象のみの比較論」=「AERA」2003年12月8日号

 ※備考:この「ほんのご挨拶」をまとめた本が、斎藤氏の最新刊の『誤読日記』(朝日新聞社)として刊行されています。私はまだ読んでいないのですが、おそらく正高本への批判も収録されているでしょう。

 相手がサルだと社会統計学の原則に則る必要もないんですね。
 ……こんな乱暴な比較論もサルだから許されるわけです。ヒトの家族論、若者論、コミュニケーション論等がいまやこれだけ出ているのに、参照しないってのもすごい。

 皆様、来る25日に向けて、完全に論理武装をしておきましょう(笑)。

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2005年5月31日 (火)

トラックバック雑記文・05年05月31日

 ブログ移転後の最初の記事がこれですみません。ブログを移転してから、私は建築設計の授業の模型や図面製作、及びそれ以外の授業の提出物の執筆に追われていて、こちらのほうにかける時間があまりなかったのです。そういうわけで、まずはこの記事から。

 *☆.Rina Diary.☆*追われて(佐藤利奈氏:声優)
 私も大量の締め切りに追われていて、次々とやらなければならない課題をこなしていったので、佐藤氏の気持ちは分からぬでもない、むしろ大いに理解できます。

 ところで、課題というと、自分で課題と期日を設定して自分でやる、という課題を設けて、そうするとやる気が出る、という人も多いと思われますが、私もその一人です。このブログにおいて文章を執筆するにあたって、何らかの文章に対して期日を決め、その日までに完成させる、ということをよくやるのですが、自分で決めたわけだからとにかくやらなければならない、という場合と(「俗流若者論ケースファイル」が多い)、自分で決めたにもかかわらず執筆を先延ばしにしてしまっているもの、あるいは長い間放置しているもの(「ケースファイル」以外が多い)という場合と、どうも両極端になってしまっているのが目立ちます。自分で決めたことなのだし、もう少しやる気を出さないと、このままでは「ケースファイル」ばかり先走って(来月中には確実に第30回を迎えるでしょうね)、他のコンテンツがおろそかになってしまうのではないか…。事実、前回の雑記文から今回の雑記文の間に書いた12本の文章の中で、11本が「ケースファイル」だったりするわけですから(第15~25回)、当初このブログの見所として掲げていた正高信男批判も頑張らないと…。

 弁護士山口貴士大いに語る:「暴力」ゲームソフト、神奈川県が全国初の販売規制へ(山口貴士氏:弁護士)
 走れ小心者 in Disguise!: ある『子供に見せたい番組』をめぐって(克森淳氏)

 「子供に見せたい番組」第1位は当然「プロジェクトX」、「見せたくない番組」は「ロンドンハーツ」「クレヨンしんちゃん」…。なんか、このようなアンケート自体が壮大な茶番劇に見えてきたなあ…。

 「子供に見せたい/見せたくない」番組というものを規定することに、何の意味があるのでしょうか。「見せたい」のは子供に「いい影響」を与えるもので、「見せたくない」ものは子供に「悪い影響」を与えるものだ、ということなのでしょうが、そこで与えられた「いい/悪い影響」が子供の人格や人間性を直接規定するわけでもないのだし、そもそもこのような議論を振りかざす人たちは現代の青少年を「政治利用」している、ということに無自覚なのでしょうか。それとも、自覚した上でやっているのか。

 彼らにとって、青少年は自分のイデオロギーの主張、そして「自己実現」(笑)の道具でしかありません。当然の如く、彼らはなんらか(といっても、ほとんどが漫画とアニメとゲームとインターネットに収束されますがね)の規制を求めているわけですが、彼らはマスコミで面白半分に報じられる「今時の若者」については至極敏感だけれども、現代の若年層を取り巻く現実に関しては果てしなく無関心です。無関心であるからこそ、漫画・アニメ・ゲーム・インターネット・携帯電話といった、自分が「理解できない」ものを容易に標的にしてしまえるのでしょう。しかも、ただ敵愾心を煽れば人を連れることができる、と高をくくっている様子で(しかも、本当についてくるから驚きですが)、それが彼らの生命を繋いでいると思うと、恐ろしい気持ちになります。

 ただ「わかりやすい」図式を大々的に掲げた者だけが生き残り、たとえ地味でも真面目に研究を積み重ねる人は、それがいくら優れたものであっても世間の喧騒においていかれる。真面目な人ばかり馬鹿を見る、というのは、まさに若年層に関する言論をめぐる状況そのものです。

 目に映る21世紀:変わる若者のシゴトと生活:5【記事】各界の知恵集めニート対策 国民会議が初開催

 著者は《すみません、この会に意見を届けるにはどうすればいいのでしょうか? ここへ参加している人々自身にも言いたいことがたくさんあるのですが・・・。オブザーバー参加ってできないのかな(笑)》と愚痴っているわけですが、現在の青少年の就労に関する問題で、いまだに精神主義的な物言いがまかり通っているのが気がかりです。この状況を見るだけで、我が国は大東亜戦争時代の精神主義をいまだに脱却できていないのか、と心配してしまいます。

 犯罪を起こす、あるいは定職につかない青少年の「心」を問題化する言説は、いくつもの問題を抱えております。まず、「心」の問題として「発見」することによって、「異常な心」を生み出した「原因」に対する弾圧が正当化されること。次に、精神主義・道徳主義的な言説に埋没することによって、社会構造の問題が置き去りにされてしまうこと。さらに、青少年全般に対して「心」の劣った存在という規定をすることによるレイシズム(人種差別)。最後に、「心」を勝手に規定することによって、青少年問題に対する本当の心理的側面に触れることができないこと。

 「心の教育」などと多くの人は叫んでおりますけれども、それが何をさしているのかはわかりませんし、そもそも、そのようなことを振りかざす人たちが「心」をどのように考えているか、ということは問い詰められて然るべきでしょう。たいていの場合、自分を正当化するだけの議論に過ぎないのではないか。

 「心の教育」といえば…。

 kitanoのアレ:反性教育の動向(3):報道2001:「つくる会」八木秀次氏が立ち往生(1)

 平成17年5月1日付フジテレビ系列「報道2001」における、反性教育の旗手、高崎経済大学助教授の八木秀次氏の必死ぶりがうかがえます。八木氏など、反性教育の立場に立つ人たちは、ジェンダーフリーについて「男らしさ」「女らしさ」を否定し、さらにこれが日本の文化を否定し、ひいては韓国や中国や北朝鮮を利する(そんな妄想を語るな、と思われる方もおられるかもしれませんが、「正論」なんか読んでいるとこのような妄想に出くわすのはざらです)などと(妄想を)語っているわけですが、八木氏や、八木氏を支援しているフジテレビのキャスター(得に黒岩祐治キャスター)が、ジェンダーフリー推進派の人たちに自らの議論の矛盾を指摘されると、何も答えられずにほとんど立ち往生状態、というのが笑えます。

 ジェンダーフリーはマルクスの陰謀だとか、日本を滅ぼすだとか大言壮語を振りかざしながらも、結局のところ中身を伴った議論をしていないとこうなるのかもしれません。私がこのレポートを読んで、ジェンダーフリー推進派の人たちにも脇の甘い部分がある、と思いましたが、それでも八木氏や山谷えり子氏(参議院議員、自民党)の脇の甘さに比べたら相当マシです。

 少なくとも、反論されたとき、一歩引いて自分の考えを相対化して考え直す、ということの大切さを、八木氏を他山の石として学びたいと思います。

 保坂展人のどこどこ日記:靖国神社参拝中止で小泉総理退陣へ(保坂展人氏:元衆議院議員・社民党)
 カマヤンの虚業日記:[雑記][政治][呪的闘争]首相の靖国参拝なんか支持しないよ。

 保坂氏は、小泉純一郎首相の公約の中で達成しえたのは「靖国神社参拝」だけだ、と指摘しております。

 この指摘は重要です。保坂氏も述べている通り、特殊法人改革も国債発行30兆円枠も現在まで達成されないまま、このままいけば小泉首相の公約で達成したものは靖国神社の参拝だけ、ということになります。郵政民営化も、このままでは怪しい(そもそもそれが必要かどうかもわからない)。もしかしたら、靖国神社は、小泉首相の政権の正当性をつないでいる唯一のものになっているのではないか、と思います。

 首相の靖国神社参拝には、当初から利権が絡んでいますから、結局のところ小泉首相もまた極めて「自民党的」な首相だった、といわざるを得ないのかもしれません。

 それにしても、最近の中国や北朝鮮に対する強硬派的な発言が俗流若者論と重なって見えるのは気のせいだろうか…。

 千人印の歩行器:[歩行編]一万歩の日常(栗山光司氏)

 街中や大学のキャンパスを歩いていると、さまざまな発見があります。例えば、私の通っている東北大学青葉山キャンパスは、現在メインストリートが爽やかな緑の木々に包まれていて、晴れの日に歩くと気持ちよくなります。これ以外にも、道端を歩いていると、自転車や原付に乗っているときは感じられなかった楽しみや喜びを見つけることができます。特に青葉通や定禅寺通といった、落葉樹の並木道を通っていると、その通りの木々の移り変わりで季節を感じることが一つの楽しみになっています。

 私は、時々都市計画について思索することがあるのですが、都市計画に関する思索の原点になっているのが、定禅寺通のような、自分が好きな場所です。新しい場所を歩く際は、この場所は自分が好きな場所に比べてどのような長所があり、またどのような短所があるのか、ということに関して考えながら歩いてみると、結構面白いかもしれません。

 前回の雑記文から、たくさんの文章を公開しました。こちらも読んでいただけると幸いです(ただし、ここにリンクを貼ってある記事が、全てブログ移転前に書いたもの。リンクは新ブログに貼ってありますが)。

 「俗流若者論ケースファイル15・読売新聞社説」(4月24日)
 「俗流若者論ケースファイル16・浜田敬子&森昭雄」(同上)
 「俗流若者論ケースファイル17・藤原智美」(4月28日)
 「俗流若者論ケースファイル18・陰山英男」(4月28日)
 「俗流若者論ケースファイル19・荷宮和子」(4月29日)
 「俗流若者論ケースファイル20・小原信」(4月30日)
 「俗流若者論ケースファイル21・樽谷賢二」(5月5日)
 「俗流若者論ケースファイル22・粟野仁雄」(5月7日)
 「俗流若者論ケースファイル23・西村幸祐」(5月9日)
 「俗流若者論ケースファイル24・小林節」(同上)
 「俗流若者論ケースファイル25・八木秀次」(5月15日)
 「反スピリチュアリズム ~江原啓之『子どもが危ない!』の虚妄を衝く~」(5月17日)

 最近、図書館に行く機会が多いのですが、そのたびに新聞や雑誌の俗流若者論を見つけてはコピーして私のコレクションにします。そのため、私の書庫には大量に検証待ちの文章があります。とりあえず今後確実に取り上げる予定のものは次のとおり。

 ・三砂ちづる「「負け犬」に警告!あなたはもう「オニババ」かもしれない」=「新潮45」2004年12月号、新潮社
 ・平成17年2月17日付毎日新聞社説
 ・石堂淑朗「褌を締めなおそう!」=「正論」2005年3月号、産経新聞社
 ・石堂淑朗「豆炭心中」=「正論」2005年4月号、産経新聞社
 ・吉田司「女と平和と経済の時代は終わった」=「AERA」2004年8月30日号
 ・「論座」編集部「自民党議員はこんなことを言っている!」=「論座」2005年6月号(憲法改正に関する自民党議員の問題発言を抜き出して構成したものですが、ここで紹介されている問題発言にやたらと俗流若者論が目立つので)
 ・樋口裕一「「困ったチャン」に対抗するための言葉の力」=「文藝春秋」2005年3月増刊号
 ・斎藤滋「人間らしさを育てる」=2003年10月31日付東京新聞
 ・宮内健「妻の携帯、子どものTV・ゲーム」=「プレジデント」2004年8月30日号、プレジデント社

 あと、第1回以来1ヶ月以上やっていなかった「この「反若者論」がすごい!」の第2回も近いうちにやります。採り上げるのは、平成17年4月23日付河北新報の社説です。

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2005年4月 5日 (火)

正高信男は破綻した! ~正高信男という堕落みたび~

 科学者に限らず、評論や分析のプロというのは本来、時流や世間体に流されず、学問や経験によって蓄積された深い見識を持って物事の本質を見抜く論評が求められている。そしてそれを求めるマスコミも、本来であれば、そこで得られた識見が公に発表するに足るものか、ということを見極めなければならないはずである。
 ところが、いつの時代にも、そのような原理原則をかなぐり捨て、一見俗耳には聞こえがいいが、そこで大変な過ちを犯していたりとか、あるいは特定の人種に対する偏見、誹謗中傷が紛れ込んでいたりしようがまったく気にしないでステレオタイプを恬然と垂れ流してしまう「識者」が現れるのもまた事実である。マスコミもまた、その人がもてはやされているからといい、安易にその分野の第一人者として持ち上げてしまう。そうして、本来であれば優秀な学者でさえ、華やかな頽廃の道を歩んでいってしまう。気がついたときには、すでにその人の言動は思い込みと差別に溢れ、大衆に不要な恐怖と偏見を植え付けてしまうような暴論を垂れ流し続けるようになってしまう。
 曲学阿世の徒、京都大学霊長類研究所教授の正高信男氏も、このパターンに見事に当てはまる。正高氏は平成12年周辺から青少年問題について語り始め、読売新聞などに社会時評を連載してからは少しずつその言説に論理飛躍が表れ始め、その第一の帰結が『ケータイを持ったサル』(中公新書)として表れた。当然、マスコミは大絶賛したが、真面目な学者・評論家からは警戒され始めた。その本が飛ぶように売れてから、正高氏は飛躍的にマスコミに登場するようになり、読売新聞なんかはその本の書評を2度も掲載したり、記事中のコメントに積極的に登場させているばかりではなく、平成16年1月からは教育面の交代執筆のコラムで連載を始めた(このコラムの書き手は、正高氏と、藤原正彦、堀田力、市川伸一、平野啓子の各氏)。正高氏の文章は回を追うごとに論理飛躍と差別を増し、ついに当たり障りのない(しかし細かく検証すれば問題が大有りの)若年層批判を垂れ流し続ける、お手軽な「憂国」の人に成り下がった。そうして生まれたのが「NHK人間講座」のテキスト、『人間性の進化史』である。
 平成17年4月4日付読売新聞に掲載された正高氏の文章、「「ごくせん」に共感、元ヤンキー」を見て、嗚呼、ついに正高氏はここまで来てしまったのか、と嘆息せざるを得なかった。いや、そうなるのは必然か。
 最初に断っておくが、正高氏がここで採り上げている「ごくせん」に関しては、漫画もドラマもアニメも見たことがないので、その内容について論評することはできない。しかし、この文章に表れている正高氏の若年層に対する差別意識は、批判しておかねばなるまい。
 正高氏は1段目で、ドラマの内容を紹介した後、1行目から2行目にかけて、このドラマに共感する30~40代の人たちの深層心理を書く。曰く、《もっとも実際には「ごくせん」のような教師はいるはずもないのでで、みんな早く一人前と認められることを願った。それゆえ彼らの代表格の暴走族は、おおむね早婚だし、子どもを持つし、しかも子だくさんだったりする。次世代の気持ちの分かる人間を目指していた》(正高信男[2005]、以下、断りがないなら同様)と。どのような理由でもって《みんな早く一人前と認められることを願った》というのか、具体的な論証立てをすべきである。また、暴走族を《彼らの代表格》とするのは、簡単に言えば「暴走族的な」人がその世代全体に分布していて、真に《代表格》といえるかどうかを検証しなければならない。さらに、《それゆえ彼らの代表格の暴走族は、おおむね早婚だし、子どもを持つし、しかも子だくさんだったりする》というけれども、その統計的なデータもないし、その世代は上の世代に関して出生率が少ない(というより、我が国の出生率は戦後一貫して減少している)。私は出生率を無理に上げることは徒労だと考えているし、少子化に対しても楽観的なので、この点では正高氏とは明らかに立場を分かつのだが、正高氏が現代の人口に対して間違った認識を述べていること、さらにその認識が余りにも図式化しすぎた世代認識から来ていることは指摘しておきたい。
 本番はここからだ。正高氏は、その下の世代に当たる現代の若年層に関して、こういった暴言を吐いてしまう。曰く、《けれども願ったことが、そのまま現実にかなうとは限らない。ビデオ、CD、DVDのレンタルとテレビゲームに浸って育った連中は、そもそも自分のことの理解を周囲に求めようとすら思わない》だと。これは単なる正高氏のステレオタイプでしかない。自らの思い込みを、それがさも事実であるかのように語る正高氏は、下の世代というものに差別的な感情しか抱いていない、といわれても、仕方ないであろう。はっきり言っておくが、正高氏のこの文章中における《ビデオ、CD、DVDのレンタルとテレビゲーム》は、はっきり言ってシンボルでしかないのであり、本質の一部ではあるかもしれないが決して全部ではない。正高氏が本気で《ビデオ、CD、DVDのレンタルとテレビゲーム》が世代間断絶、親子間断絶の原因になっている、と考えているとしたら、それは他の要因を無視した架空の論証立て、と判断せざるを得ない。また、《そもそも自分のことの理解を周囲に求めようとす思わない》というものが、いかなる状態を指しているのかも分からない。まあ、考えられるとしたら、マスコミ的な若年層へのパブリック・イメージを過度に簡素化して述べているのだろう。それにしても《連中》とは…。
 正高氏は《改めて顧みた時、日本では子どもに対しまわりが幼少期より……気持ちを察してやる傾向が途方もなく強いことに気づく。結果として、分かってもらうことには慣れ親しんでいても、自分から相手に分からせるための労力を払うという訓練を受けずに成長していく》と一般論を述べた後、《時代の流れが速くない頃には、それでも支障はなかった。だが高度成長期以降、状況は変わってくる。それがまず、今となっては古典化したヤンキーの反乱を生んだ。そして今日、子を持つ年代に達した彼らは、次世代からなんらきたい(筆者注:おそらく誤植。正しくは「期待」だろう)をかけられないことに当惑し、「ごくせん」にただただ共感する》と書く。《次世代からなんらきたいをかけられない》というのはあるにしても、それはむしろ経済的な原因によるものが大きいのではないか。また、一般論の正しさや暴力性についても正高氏は考慮した形跡はない。自らの思い込みだけが全てになってしまっている。
 正高氏の図式は極めて明快だ。曰く、今日のような青少年による「理解できない」犯罪や「問題行動」を生み出したのは、携帯電話、インターネット、及びテレビゲームなどといったデジタル機器であり、それがかつてない世代間の断絶を引き起こし、社会を危機にさらしている。正高氏の最近の言動をまとめるとこのような図式になろう。正高氏がこのような思考に凝り固まっているため、最初から何かを「敵」と決め付ける、という学者としてはあるまじき行為、いうなれば陰謀論に走っている。そのため、若年層に対してそれをテレビやゲームや携帯電話などに侵食されて人間性が退化したそうであるという烙印を押すことも、そしてそれを過剰に敵視することもまったくいとわない。自らの言論に責任を負わないので、当然社会構築、制度構築という視座はことごとく欠落し、目先の事象を捕まえて「憂国」してみせる、というスタイルで自己完結する。
 世代論それ自体が問題なのではない。真に問題なのは、世代論を自らの優位性を誇示するために乱暴に振りかざすことである。正高氏はその隘路に見事にはまっている。信頼とか共生とか安心ではなく、若年層などの「理解できない」シンボルを持った人種に対して敵愾心をあおることにより、閉鎖的共同体的な「安全」ばかりを増幅させる売国奴を、正高氏は明らかに利している。
 正高氏は完全にアジテーターである。我々はそこに気付くべきだ。
 そしてこう言うべきだろう。
 「正高信男は破綻した!」と。

 引用・参考文献
 正高信男[2005]
 正高信男「「ごくせん」に共感、元ヤンキー」=2005年4月4日付読売新聞

 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 広田照幸『教育不信と教育依存の時代』紀伊國屋書店、2005年3月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 松谷明彦『「人口減少経済」の新しい公式』日本経済新聞社、2004年5月
 山本七平『日本はなぜ敗れるのか』角川Oneテーマ21、2004年3月

 内藤朝雄「「友だち」の地獄」=「世界」2004年12月号、岩波書店
 内藤朝雄「お前もニートだ」=「図書新聞」2005年3月19日号、図書新聞

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2005年3月30日 (水)

トラックバック雑記文・05年03月30日

 走れ小心者 in Disguise!: 「ウソかホントか?ホントかウソか?」(克森淳氏)
 克森氏によると、ドイツのある医者が恐るべき実験を行ったそうです。
 その詳細がこちら
 リンク先の記事によると、なんでも《老人学が専門のカレン・ウェザビー博士がドイツ人男性200人を5年かけて調べた。100人には美しい女性の乳房をじっと凝視させ、もう一方の100人には女性の乳房がいっさい視野に入らないよう監視を厳しくした》といい、さらに《面白いことに、成人男性に女性の乳房を見せると、その容姿は日増しに輝きをみせ、乳房を見られない男性たちの顔面からはみるみる活気が去ってしまった》らしいです。私は、これはかなり疑似科学スレスレのところをいっているのではないかと思います。
 第一に、サンプルが少々少ないことです。まあ、これはあまり重要ではないでしょう。第二に、《美しい女性の乳房》と言っておりますけれども、《美しい》という言葉の基準がどこにあるか分かりませんし、そもそも1日にどれくらい凝視させたのか、また実物なのか写真なのか、ということも分かりません。また、それらの男性について乳房を見ることによってどれくらい欲情するか、ということも考慮に入れられてしかるべきでしょう。それ以外にも、学問的に突っ込みたいことはいっぱいあるのですが、まあ、ネタとして捉えておけば無害か。
 しかし、性的な刺激によって身体に何らかのよい影響が出てくる、というのは無視できないようです。朝日新聞社から出ている「AERA」の05年4月4日号でも、性的交渉ががん予防になる、という記事も出ていました。これも、どこまで一般性があるかどうかは分からないのですが、性ホルモンと健康の関係に関して、もっと学問的に理のかなった結論を期待しております。あと、そこで出た結果が単純なセックスレス批判とか性行為礼賛にならないことを祈る。

 ヤースのへんしん:頭に来る!
 テレビ番組でCMが流れているときだけ、音量が飛躍して大きくなることにストレートな怒りをぶつけている記事です。それには私も同意できます。また、話のクライマックスに近くなったときにわざわざCMを入れて、「引いてしまう」ことにも私は立腹しております。
 ここで考えたいのは、このような番組にとって番組それ自体が大事なのか、それともCMが大事なのか、ということです。コラムニストの小田嶋隆氏がかつて読売新聞社の「Yomiuri Weekly」の連載で(手元にないので掲載号までは分かりません)、このようなテレビ番組の姿勢に怒り心頭を発していたことを思い出します。小田嶋氏曰く、我々は「オマケ」を見せられているのか、と。要するに、このような手法を用いる番組にとってすれば、むしろCMこそメインで、肝心の番組は「オマケ」だというのです。なんだか、番組の内容で勝負しよう、という気概が見えてこない気がします。で、とにかく引き延ばしておいて、「来週に続く」ってか。テレビ番組の悪しき手法として定着してしまった感があります。
 放送局の皆様。あなたに魂というものがあるならどうかそのような悪しき手法ではなく、内容で勝負していただきたい。さもないと、視聴者はCMばかり印象に残ってしまうことになりますよ。

 週刊誌記者の日記:ヨン様と「竹島問題」(友澤和子氏:朝日新聞社「週刊朝日」編集部)
 *☆.Rina Diary.☆*:ほんわり(佐藤利奈氏:声優)
 私は読んでいないのですが、「週刊朝日」に、「ヨン様」ことペ・ヨンジュン氏の竹島問題に関する発言に対する反応を描いた記事が掲載されているようです。友澤氏の文章によると、

韓流ファンの知人やこれまで取材したことのあるファンたちに手当たり次第に聞いてみると、ヨン様の発言や韓国の態度に「韓国がいやになった」、といったような意見よりも、
ドラマやスターを愛好する気持ちに、容赦なく政治が絡んでくること、俳優の映画発表会見にさえ政治的な質問が浴びせられてしまう事態に、戸惑いと違和感を覚えている……というのが、主な反応でした。

 というのが主だった反応だったそうです。《ドラマやスターを愛好する気持ちに、容赦なく政治が絡んでくること、俳優の映画発表会見にさえ政治的な質問が浴びせられてしまう事態》我が国においてはいささか縁遠いことかもしれませんが、そういうところを理解しつつ、お互いに理解の道を探る、というのが、日韓友好の最大の手段である、と思います。
 友澤氏によると、《ぺ・ヨンジュンさんの韓国の公式ホームページの掲示板に日本人がたくさん書き込みをしている》そうです。そこでは、《そこでは、とても密度の濃いやりとりがリアルタイムで重ねられていました。/九州や韓国であった地震について、お互い無事や順調な復興を祈りあったりする書き込みも。》ということらしいです。政治の面では感情的な議論が飛び交っていますが、こういった草の根レヴェルでは心の通った交流が行われている、ということに、今日の日韓関係の二重性や複雑さを感じます。
 ネット上におけるこのような交流を可能にしたのが、どうやら翻訳ツールらしいです。翻訳ツールを通すことによってどこまで自分の感情が伝わるか、ということは分かりませんけれども、少なくとも文字の上では、さまざまな言語を持つ人が交流を持つことができる。他方で、現実の政治の世界では、いまだに感情論に基づいた没論理的な議論が続いている。小泉純一郎にしろ盧武鉉にしろ、あるいは日本の活動家にしろ韓国の活動家にしろ、互いに強硬な姿勢を見せてばかりで、単なる示威行動に終わっているような気がしてなりません。友永氏は、このような状況を《バーチャルの世界では国境も言葉の壁もやすやすと越えているのに、リアルの世界では、20世紀からの重い宿題を引きずり、領土や国境の壁がまだまだあつい……そんなことも考えさせられました》と嘆いていますが、我々は、20世紀の課題をいまだに引きずりながら生きている、ということを考えざるを得ません。その一つが、言葉(ネット上なら文章)による「対話」を目指すこと。
 佐藤氏の文章では、

私がレジでお会計をしていたら、横から「○○って商品はどこ?」と割り込んできたお客さんがいた。あぁ、急いでいるのね・・と、いつもなら気にしないトコロだけど、今日は私も急いでいたので、並んでほしいなぁ~と悲しくなった。
そしたら、お釣りを渡すときに店員さんが「お待たせしてしまって大変申し訳ありません!」と心底すまなそうに言ってくれた。彼の非ではないのに。
その言葉を聞いて、嫌な気持ちになっていた私の心がほんわり温まった。

 とあります。人というものは、何気ない一言で傷つき、何気ない一言で心が温まるものです。それは仲間内でも、あるいは他人同士でも、さらに言えば国籍が違う人同士でも同じこと。そう自覚することが、コミュニケーションの入口なのかもしれません。
 言うは易く、行なうは難し、ですが。

 思考錯誤: 『ケータイを持ったサル』か?(辻大介氏:関西大学教員・社会学者)
 辻氏は、最近の京都大学霊長類研究所教授、正高信男氏について、《しかしだな、その実験の解釈や議論の組み立てかたは、やはりトンデモと言わざるをえないところがある。いかに優れた自然科学者であっても、生半可に社会評論に手を出してしまうと、こんなことになってしまうんかいなと愕然としてしまう。お願いだから、正高さんには、こっち方面からはとっとと手を引いて(どうせ片手間しごとなんだし)、着実に本業を進めてほしいと切に思う。優秀な人が道を誤っちゃいけない。》と批判しておりますが、同感です。正高氏の最近の仕事は、霊長類学の学説を無理矢理マスコミが好んで採り上げているような若年層の「問題行動」と結び付けて、若年層を罵っている、というものにほかなりません。
 しかし、『ケータイを持ったサル』は、いくらトンデモであっても実験や調査を行っており、その点ではまだまだ救いようがある、といえるかもしれません。しかし、昨年12月から今年1月にかけてのNHK「人間講座」のテキスト『人間性の進化史』は、もはやポイント・オブ・ノーリターンに到達してしまったのではないかと思えるほどのひどい著作です。詳しくは「正高信男という頽廃」を読んでほしいのですが、この本は差別に満ちており、不適切なアナロジーの使用、前後矛盾、文学作品のトンデモ珍解釈など、トンデモ本としての要素が満載です。

 週刊!木村剛:[ゴーログ]逆境こそが経営者の資質を磨く!(木村剛氏:エコノミスト)
 たとえ逆境に陥っても、しっかり腰を据えて対処すること。これは経営者のみならず、日常生活の場において一般的に言えることだと思います。たとえ自らが批判の矢面に立たされても、そこにおいていかに冷静に対処するか、ということの重要性を感じることが、社会への還元の入り口であるように考えます。たとえ失敗しても、それを他人に押し付けないこと。まず自分の中で消化すること。
 また、経営者のみならず、言論を発する人にとって必要なのは、情報公開だと思います。私がここで研究している俗流若者論は、たいていはその論者が考える理由を開示しないまま、人々の感情(たとえば、「今時の若者」に関するフラストレーション)に訴えかけて、人々を扇動しますが、これは言論が行うべき行為ではなく、むしろ扇動屋の行為でしょう。私は具体的な議論にしろ抽象的な議論にしろ、まず理詰めで行うことを自らに課しています。自らの考える手順を公開することも、また情報公開の一種です。曖昧なアナロジーで煽り立てるのは無意味だし有害です。何度も言いますが、アウトサイダーをうまく取り込むためには、理詰めで攻めるしかないのです。

 蛇足ですが、私が「人権擁護法案反対の倫理を問う」で憲法と人権を概説したことについて、「近代国家礼賛か無政府主義か分からない」とか「電波」とか言いふらしている人がいました。どこかは忘れましたが、おそらくここを見ているので追記しておきます。
 私の立場は立憲主義です(近代国家礼賛か無政府主義か、というと、どちらかといえば近代国家礼賛に近い)。また、人権とはひとえに国家と国民の間に成立する力関係であり、憲法は人権を規定したものです。憲法や人権について詳しく知りたい方は、下に示した本・論文を読んでください。
 奥平康弘、宮台真司『憲法対論』(平凡社新書・2002年12月)
 長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書・2004年4月)
 小林節「タカ派改憲論者はなぜ自説を変えたのか?」=「現代」2005年2月号、講談社
 水島朝穂「『読売改憲試案』の目指すもの――その憲法哲学を検証する」=「論座」2004年8月号、朝日新聞社

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2005年3月27日 (日)

トラックバック雑記文・05年03月27日

 春休み特別企画、無事終了しました。この企画が進行している間は、毎日文章を書いていたので、自分の頭も少々整理できた気がします。やはり、文章を書くことは、自分の考え方をまとめたり、あるいは眠っていた資料を復活させたり、または新しく資料を集めたりと、自分を活性化するきっかけになると思います。
 特別企画で書いた文章へのリンクを貼っておきます。
 「俗流若者論ケースファイル04・荷宮和子」(3月21日)
 「俗流若者論ケースファイル05・牧太郎」(3月22日)
 「俗流若者論ケースファイル06・若狭毅」(3月23日)
 「俗流若者論ケースファイル07・森昭雄」(3月24日)
 「俗流若者論ケースファイル08・瀧井宏臣&森昭雄」(3月25日)
 また、この企画の進行中に、私がこのブログで書いた文章(トラックバック雑記文とお知らせは除く)が「ウェブログ図書館」に登録されていました。木村剛氏とか「極東ブログ」とかいったブログ界のビッグネームと同列で、昨年11月に始まったばかりの私のブログが並んでいるのは、少々恥ずかしい気もします。

 週刊!木村剛:[ゴーログ]なんやねん!その「クラウンなんとやら」ちゅうんは!(木村剛氏:エコノミスト)
 ヤースのへんしん:井戸端会議
 木村氏がなぜか大阪弁だ(笑)。それにしても、マスコミにしろそこに登場する人にしろ、わけの分からないような概念で虚飾して自らを飾り立てるのが好きですね。実を言うと、私はこの文章にケースファイルの若狭毅論をトラックバックしておいたのですが、この若狭氏の文章においては、「セロトニン欠乏症」という珍概念(この概念は、東邦大学医学部の有田秀穂教授による)が使われているのですが、どう考えてもセロトニンだけを重大視して、たとえば同様に重要な脳内物質であるノルアドレナリンやドーパミンについては無視しているのです。
 「わけが分からないけれども響きが「かっこいい」表現」とか、あるいは「問題を重大視させるためにほかの要素を無視したでっち上げ」が多すぎます。もちろん、そのような概念のでっち上げは、マスコミ的には受けがいいかもしれませんが、かえって物事の本質から目をそらしたり、あるいは社会に無用な混乱を及ぼすだけになりかねません。肝心なのは、多くの人に分かってもらえるように、虚飾ではなく理詰めでわかりやすく説明することです。虚飾に満ちた概念で自らを着飾っている人は、そのうち良心的な人から「裸の王様」と罵られることでしょう。分かりにくいのも問題ですが、過度に分かりやすいのもまた問題です。新聞や雑誌には問題を分かりやすく解説した記事が多く載るのですが(それでも新聞社・雑誌社の思惑が入ることはある)、テレビではどうも時間の制約があるのか、そのようなものは少ない気がします。しかし、ワイドショー的な煽り合戦ではなく、視聴者を「説得」するような議論が求められているのです。できるところからはじめましょう。まず、「今時の若者」に関する扇情的な報道をやめるとか(笑)。
 「今時の若者」に関する扇情的な報道といったら、ちょっと目を放している間にまた「奈良女児誘拐殺人事件における、マスコミのオタクバッシングまとめサイト」に急展開が。3月12日付東海テレビ「スーパーサタデー」が、なんと本格的な報道加害をやらかしてしまったそうです。取材許可を得ないで、自宅に押しかけて取材!しかもその隣の家の表札にモザイクはかけない(これこそ報道加害ですよ)!そしていつもどおりの印象操作、事実誤認、さらに大谷昭宏(笑)!!「若者論」(私の言う「若者論」は、「理解できない「今時の若者」」に関する過度に扇情的な報道をさしているので、オタクバッシングも含まれます)のためならルールを破ってもいい、と考えてしまったマスコミは、いったいどこへ行くのでしょうか。

 週刊!木村剛:[ゴーログ]また、年金討論会でも企画しましょうか?(木村剛氏:エコノミスト)
 天木直人・マスメディアの裏を読む:3月25日 05年48号 ◆ 外交はオセロゲームか ◆ 先送りと言う名の拒否 ◆  「タクシーで逃げればよかった」という与謝野発言(天木直人氏:元外務省レバノン大使)
 年金に関して、私が言いたいことはただ一つ、まず人口減少を認めるべし。人口は確実に減少するのですから、なし崩し的な男女共同参画という名の戦時体制的人口増加政策よりも(斎藤美奈子『モダンガール論』(文春文庫)によれば、戦時中にも「働く女性」が美化されたようです)、人口が減少してもいいから、誰もが人間らしい生活を謳歌できるようにする政策に転換すべきでしょう。今のままでの男女共同参画社会論は、結局性別役割分担に帰結してしまうと思います。
 年金よりも必要なのはたくさんあります。その一つが都市計画です。現在、さまざまなところで超高層ビルの乱立が報じられ、その荒廃が嘆かれていますけれども、人口が減少するのだから、経済が縮小する(「縮小」と「衰退」は決して同義ではない)はずなのに、巨大資本は一度消えたはずの土地バブルを、超高層ビルを建てることによって復活させようとします。これで、ある意味では洗練された町並みができるものの、地域は荒廃します。高安秀樹『経済物理学の発見』(光文社新書)によると、我が国の1970年代以降の経済は土地の値段と軌を一にしています。だから、政府とか経団連とか東京都とかは、土地の値段を上げてバブルの夢再び、といきたいのでしょう。しかし、多くの先進諸国は日本ほど早くはありませんが人口減少に転じます。ですから、人口減少社会のパイオニアになるであろう日本が、人口減少社会に適合した政策モデルと経済モデルを提示することこそ、我が国の信頼を世界に広める最大の手段だと思います。都市計画も、先送りは許されないのです。
 ちなみに、環境問題の解決、という点から見ても、人口減少は望ましいものといえます。

 都市計画といえば。
 繪文録ことのは:丹下健三――代々木競技場、フジテレビ、新宿新都庁……コンクリートの威圧感(松永英明氏)
 保坂展人のどこどこ日記:下北沢の街は道路に引き裂かれるか(保坂展人氏:元衆議院議員・社民党)
 目に映る21世紀:新宿南口再開発のカンバン
 近代日本を代表する建築家、丹下健三氏が亡くなられました。91歳でした。
 先日(3月12・13日)東京に行った際、様々な都市・建築を見てきましたが、丹下氏のものも多く見てきました。新宿新都心のメガロポリスは、都庁をはじめとして丹下氏の設計した建物が多くあり、代々木国立競技場、フジテレビ本社も、丹下氏の設計によるものです。さらに、現在は愛知万博が行われていますけれども、大阪万博など、時代を象徴する建築を、丹下氏はたくさん設計してきました。
 東京都庁を見たときの雑感ですが、新宿の新都心が都庁を中心に回っている、という感じを受けました。そして、都庁それ自体が一つの都市を形作っており、また都庁の権力を象徴しているようにも見えました。ここには明らかにコンセプトがあり、形というものがありました。そして、代々木競技場にしろフジテレビにしろ、それ自体が非常に大きな建物でありながら、その建物がその土地にある意味を十分に表していたと思います。私は中には入ったことがないので、中にいる者としての感想は述べることはできませんけれども、少なくとも外側からはその建物の意味を感じることができました。丹下氏に限らず、都市計画や建築というものは、作ったら終わり、というものではありえません。作って使う人がいて始めて、都市や建築というものは意味を持ってくるのです。
 東京都庁とは対照的に思えたのが、秋葉原の再開発でした。現在、JRの秋葉原駅の電気街口には、ガラス張りの巨大なビルが建っているのですが、どう考えても秋葉原とは合わない、という感じがしました。秋葉原には様々なオタクが集まる、ということで有名で、そういうことを考えてみれば秋葉原に雑多な看板が並んでいるのもその地域の特色と思えます。東京都の思惑は、秋葉原をIT産業の拠点にする、というものらしいですけれども、その思惑とシンクロしてか、警察による職務質問が激増しているらしいです。朝日新聞社の「AERA」平成17年3月5日号によると、路上ライヴに対する締め付けは渋谷や原宿よりも強い、という嘆きがあるようです。
 建築というものは、その地域の地域性を踏まえて、そこから新たなものを創出しなければなりません。地域性を無視して、ただハコ物を作ってしまうだけでは、帰ってその地域の特色を壊すことになりかねません。秋葉原で痛感したのは、そのことでした。
 保坂氏のブログでは、下北沢の再開発問題が採り上げられています。保坂氏によると、なんと60年間も眠っていた道路計画がいまさら復活してしまった、というものです。しかも、下北沢を南北に横断する環七並みの太さの道路というですから、異常というほかありません。この計画が眠っている60年の間に、下北沢はさまざまな変化を遂げてきたことでしょう。保坂氏はこの復活劇の意図を《左右が開通していない250メートルの道路もどきでも建設すれば、駅前再開発が大々的に出来る――これが、下北沢再開発の隠れた狙いだ》と推測しています。これが完成すると、《演劇も、音楽も、若者風俗も、ゴチャゴチャした飲み屋もなくなる。ベットタウンの郊外駅のようなビル群が立ち並び、繁華街は壊死してしまう》と保坂氏は嘆いています。「再開発」という美名の下に、繁華街や地域が崩壊してしまったら、それこそ本末転倒というものでしょう。
 「目に映る21世紀」で俎上に上げられている新宿南口再開発の看板もすさまじい。美辞麗句だけがあって、ヴィジョンがありません。この筆者は、《いつまでも広告代理店やコンサルに頼らずに、『場』を開放しろよ、ボケが。そしたら俺もやりたいことはたくさんあるから(口汚くてごめんね)》と書いています。都市や建築を単なる金儲けの手段としてしか考えていない人は、この先確実に来るであろう人口減少社会に取り残されてしまうのは間違いないと思います。現在求められているのは、人口減少社会に対応して、かつ人を引き留める力があるような都市計画です。多くの建築家はそれを自覚しているのですが、政治は自覚しているのでしょうか。丹下氏の逝去を機会に、政治家の皆様には考えてほしいものです。

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