2007年6月 3日 (日)

2007年1~3月の1冊

 すいません、大幅に更新が遅れてしまいました。次回はなるべく早くできるようにします。

 1:仲正昌樹『集中講義!日本の現代思想』NHKブックス、2006年12月
 戦後の我が国における「現代思想」の導入、発展、そして衰退を描いたもの。全共闘の時のマルクス主義の流行に始まり、1980年代における浅田彰などに代表される「ニューアカ」を経由して、現在の思想的な状況につながる、というストーリーだが、我が国で現代思想の内容がいかに解釈された(または誤解された)かという点に触れつつ書かれているので、読ませる。

 著者が言うところの「ポストモダンの左旋回」的な現在の状況、あるいは左派における「ベタ」な危機感の台頭は、ひとえに背景にある経済的、政治的な状況と決して無関係ではない。また、右派どころか香山リカまでもがポストモダンを誹謗しているという(『テレビの罠』ちくま新書)お寒い状況にあって、「現代思想」は今こそ必要だ、という主張は稀有であるように思えてならない。

 2:乾彰夫(編著)『不安定を生きる若者たち』大月書店、2006年10月
 編著者をはじめ、第一線の社会学者、教育学者が、若年層をめぐる「格差」について述べた良書。言説分析に始まり、「ニート」概念の生まれた国である英国の現状を紹介。そして、藤田英典、宮本みち子、平塚眞樹などによる発表や質疑によって、問題の現状を明らかにしていく。「格差」問題を教育社会学的な観点から考える上では極めて重要な文献である。

 3:萱野稔人『カネと暴力の系譜学』河出書房新社、2006年11月
 生きていくにはカネが必要である、という至極当たり前な、しかし哲学的な問題ではほとんど見過ごされてきた(という)問題意識から始まり、そこから権力や富の収奪としての暴力が以下に生まれるか、ということを考察する。『国家とは何か』(以文社)に比して、テンポが良くてわかりにくい議論を読みやすくかみ砕いているのがおもしろい。

 4:飯田泰之『ダメな議論』ちくま新書、2006年11月
 著者は論理学の専門家ではないが、何らかの現象に関する論評を読むにあたって、どのような点に着目すべきか、ということについて大変わかりやすく書かれている。とりわけ前半部にある、「ダメな議論」を見分けるための5つのチェック事項は常に頭に入れておいてもいいくらいである。事実に即した論評は本書から始まる。

 もう一つ言うと、「ダメな議論」の典型として、「ニート」言説を採り上げているのは笑えました。

 5:中野麻美『労働ダンピング』岩波新書、2006年10月
 平成19年5月5日付けの朝日新聞で、三浦展が、若年層の上昇意欲を高めるためには、多様な働き方を肯定し、正社員と非正規の間に「準正社員」を設けるべきだ、と主張した。嗤うべし。三浦は(経団連などの財界が推進してきた)「多様な働き方」というスローガンが、どれだけ我が国の状況に影を落としているかということを知らないのだ。

 本書では「多様な働き方」なるものが、種々の労働問題を生み出し、雇用環境の悪化を引き起こしている、という事実が、弁護士の視点から書かれている。だが、本書で描かれている自体に対抗するのは、個人の力では持たない。何らかの知識を持った専門家の力が必要となる。

 ワースト1:内田樹『下流志向』講談社、2007年1月
 どう見ても自分で考えていないだけでなく、基礎知識を得ようともしていません、本当にありがとうございました。第一著者の主張の根幹となっている「不快貨幣」の話が単なるアナロジーでしかないし、それが学力低下や格差の「本質」なのだ!と高らかに宣言されても、所詮は「な、なんだってー!!(AA略)」程度の「ネタ」でしかない。大体内田がモデルとしている小学生や大学生が、前者は諏訪哲二の本からの引用だったり、後者は自分のゼミ生だったりする。なおかつそこから「問題のある」ものだけ取り出して彼らの世代を代表する存在であるかのように言っている。なんだかなあ。

 第一、同書の元となった講演は平成17年に行なわれているのかもしれないが、書籍版は平成19年1月に出ているのだ。その間にどれだけ「ニート」概念に対する疑念が提出されたことか。私が挙げることができるだけでも、中西新太郎、児美川孝一郎、田中秀臣、若田部昌澄、本田由紀、内藤朝雄、乾彰夫、門倉貴史、雨宮処凜、新谷周平、風間直樹などの名前が直ちにリストアップするし、これだけでもまだ足りない。「思想的」な屁理屈をこねくり回す前に、基礎的な事実を調べろ、この野郎。それとも「妄想はステータスだ、希少価値だ」ってか?

 ワースト2:尾木直樹『尾木直樹の教育事件簿』学事出版、2006年8月
 どう見ても著者の問題点の集大成です、本当にありがとうございました。平成10年初頭あたりまでのリベラルな議論はどこへやら、今やほとんど不安を煽るばかりになっている著者のどこが問題か、ということを知りたいなら是非おすすめ。大体、冒頭で少年犯罪は減少しているだろうという議論に対し、質が凶悪化しているのは間違いない、と語っているのだから。それを否定する資料は山ほどあるのだよ。

 ワースト3:波頭亮『若者のリアル』日本実業出版社、2003年月
 どう見ても所詮愚痴の領域を超えていません、本当にありがとうございました。第一、この人によれば、「ポストモダン」が若年層を堕落せしめた原因なんだって。はっきり言って誤解しまくっているし、労働条件に関する配慮も全くない。まあ、コンサルの人だから仕方ないかもしれないけど。1の仲正昌樹の本で頭を冷やすべし。

 ワースト4:影山任佐『超のび太症候群』河出書房新社、2000年9月
 どう見ても著者こそ「超のび太症候群」です、本当にありがとうございました。著者はインターネットという便利なものが青少年の自意識の肥大化を起こした、といっているけれども、「超のび太症候群」なる「便利な表現」によって自意識を肥大化させているのが、他ならぬ著者なのだが。それにしてもこの「業界」ってすばらしいね。何か一つ「衝撃的な」用語を開発してしまえば売れるんだから。

 ワースト5:香山リカ『〈私〉の愛国心』ちくま新書、2004年8月
 どう見ても井の中の蛙です、本当にありがとうございました。思えばこれ以降、この人の言説は、単に若年層から想像力が失われているだの、さらに現在の政府がその「問題のある」若年層と同じような精神構造を持っているだの、というものばっかりになってしまった感があるなあ(遠い目)。

 ワースト6:田中喜美子『大切に育てた子がなぜ死を選ぶのか?』平凡社新書、2007年2月
 かつて林道義と「主婦論争」をした人は、どう見てもバックラッシュ側と青少年に対する認識を共有しています、本当にありがとうございました。第一、この著者自身、少年犯罪などを語る上で必要な統計を参照していないし、家庭の教育力なるものが低下しているか、ということに関しては様々な研究が為されている(詳しくは、広田照幸(編著)『リーディングス 日本の教育と社会・3 子育て・しつけ』(日本図書センター、2006年11月)を参照せよ)。あまつさえ現代の青少年が権力に反発しないことまで子育てのせいなんだってよ。

 ワースト7:尾木直樹『ウェブ汚染社会』講談社+α新書、2007年1月
 どう見てもためにする議論です、本当にありがとうございました。第一この人って、アンケート調査の基本的な使い方がわかっていないのではないだろうか(笑)。インターネットや携帯電話についてはかなり膨大な研究が為されているのに、いまだに単純な悪影響論に凝り固まってしまっている。まあ、最後にフィルタリングの存在を記したところで、何とか評価を下げるのを食い止めたが。

 ワースト8:文部科学省『心のノート 中学校』暁教育図書株式会社、2002年7月
 どう見ても教育現場に俗流若者論を持ち込もうとしています、本当にありがとうございました。書かれている内容に関しては、小学校低学年版から中学生版まで大体同じなのだけれども、学年が進むにつれて(たぶん)現代の若年層に対する怒りや憎しみが出てくる記述も出てくるようになる。

 ワースト9:陰山英男『学力の新しいルール』文藝春秋、2005年9月
 どう見ても変数が多すぎです、本当にありがとうございました。著者は「早寝早起き朝ご飯」で直ちに学力が向上する、あるいは、子供たちにおける体力の低下が種々の問題を引き起こしている、と主張するけれども、全てが経験則で、客観的な評価が必要であるし、他の変数(例えば、教師の指導など。著者は教師をかなり神聖視している、というか聖域にしている)を考慮に入れていない。いい加減この点について正しく指摘する専門家がいてもいいのではないか。

 ワースト10:加藤紘一『テロルの真犯人』講談社、2006年12月
 ワーストとして糾弾するほどではないし、「加藤紘一」という政治家の自叙伝としてはよく書けていると思う。だが終盤に入って、インターネットと若年層を批判しているくだりが大きな減点対象としか言いようがない。いい加減、若年層の「右傾化」なるものを採り上げて憂いでみせる、というパフォーマンスはやめにしないか。

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2007年4月17日 (火)

本能の罠 ~戸塚宏『本能の力』から考える~

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 今日行く審議会@はてな:教育再生会議はバーチャルな世界で教育改革をやっている
 西野坂学園時報:ひきこもりから収奪して肥え太る姉妹豚・長田百合子&杉浦昌子
 保坂展人のどこどこ日記:浅野史郎さん惜敗、悔しさをバネに
 カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの虚業日記:[統一協会][メモ]この頃の統一協会
 POSSE member's blog:POSSEも登場。雨宮処凛さん『生きさせろ!』発売中。
 sociologically@はてな:[不登校]園田順一ほか「不登校と社会的引きこもり : 発展過程を探り, 対応と予防を考える」
 KOYASUamBLOG2:散る

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 戸塚宏(戸塚ヨットスクール代表)が、平成19年4月の新潮新書の新刊として『本能の力』なる本を出した。とりあえず本書に対する感想としては、単なる自己肯定というか、ひたすら「自分は悪くない」ということが書かれているばかりであり、ある意味では駄々をこねているような本と言えるかもしれない(笑)。同スクールに批判的な人は、同書を読んで、「戸塚は全く反省していない!」と憤慨するかもしれないが、まあ実際そのとおりではある。とりあえず、同スクールがどのような理念で「教育」を行なっているかということが書かれており(まあ戸塚が出所したあとも自殺者が出ているわけだけれども(「週刊現代」平成18年11月28日号、pp.34-37)、その点に関する言及は一切なし)、その点においては資料的価値は確かに「ある」。

 しかし本書において真に問題とすべきは、第1章の体罰を肯定している部分ではない。そうではなく、本書のタイトルである「本能の力」という部分にある。

 まず戸塚の事実認識における間違いを検討しておきたい。以前私が石原慎太郎と義家弘介の対談を批判したときにも、広田照幸による研究を引き合いに出して反論したが(広田照幸[2001])、別に「体罰禁止」は戦後民主主義教育の元で行なわれたものではなく、明治の比較的早い時期から体罰は禁止されていた。戸塚も石原や義家とほぼ同等のことを言っているが(戸塚宏[2007]pp.23-24)、とりあえずこのことくらいは踏まえておいて欲しい。もう一つ、我が国において不登校が増加したのは、子供たちにおける「本能の力」が衰退したからだ、という認識があるけれども、滝川一廣によれば(滝川一廣[2007]pp.227-230)、少なくとも統計的には、現在よりも昭和30年代のほうが長欠率は高かった(さらに言えば我が国よりも英国や米国のほうが長欠率は高い)。もちろん、長欠や不登校に関する質的な変容は一部に見られるのだけれども、まあ統計的にはこのような事実があることを押さえておけばよろしい。もちろん、少年犯罪(まえがき)や「ニート」(第8章)に関する勉強不足も目立つ。これらに関しては、著書も含めてとにかくいろいろなところで解説してきたので、わざわざ繰り返すこともないと思うが(とりあえず前者に関しては、浜井浩一、芹沢一也[2006]を、後者に関しては、乾彰夫[2006]と雨宮処凜[2007]を参照されたし)、これらに関しては著者がそこらで聞きかじった話をそのまま記述してしまっているのは明らかである。

 事実認識に関する検討はこのくらいにして、同書において本当に問題とすべきのはどの部分なのか、ということについて述べていこう。

 さて、戸塚が本書においてその重要性を繰り返し述べるのは、戸塚が言うところの「本能の力」である。戸塚は、同書の「まえがき」において、以下のように述べている。

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 本書で述べたいことは、現代の子供たちが深刻な状況にあるのは、「本能」の弱さに原因があるということです。本能を強くしてやれば、子供の抱える問題の多くは解決できるのです。そして、その本能を強くするには、体罰がきわめて効果的であることを私は現場で経験的に学び、数多くの実績を残してきたのです。

 ところがマスコミは、子供が抱える問題の本質には一切目を向けず、体罰ばかりを問題にします。彼らは自分の頭で考えることなく、戦後教育の欺瞞の象徴ともいえる「体罰禁止」を盲目的に信じ込んでいます。その間違った前提をもとに私を批判しているとしか思えません。

 私に質問をした記者はその典型でしょう。そんな批判を繰り返したところで、子供の抱える問題が解決するはずはありません。(戸塚、前掲pp.15)

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 まあ、言い訳としか言いようのない文章ではあるが、戸塚の言説においては、「本能」の前には全ての実証的な教育言説が無力と化する。先ほど挙げた実証的な視点が見られないことは、ひとえにこのような認識が戸塚に横たわっているからか。同書においては、教育や青少年に関する記述のほとんどが、戸塚の直感で書かれているが、戸塚の言っていることに関する客観的な裏付けはないものばかりである(戸塚、前掲pp.85の部活動に関する記述など)。

 「いじめ」だって肯定される。戸塚によれば、「いじめ」という言葉を聞いて想起されるような「いじめ」とは、本来の「いじめ」とは違うという。

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 昔は異年齢集団という形で、子供はグループを作って遊んでいました。第一次反抗期に子供は母親に憎まれ口を叩いたり、言うことを聞かなくなったりします。その行動は、「母親から離れて外へ出て遊びたい」という欲求と結びついています。この欲求は進歩を促すものです。だから、三歳くらいから子供は自ら外へ出て子供同士で遊ぼうとします。このときに異年齢集団に入るわけです。この集団は三歳から十三歳くらいまでの子供たちで構成されていました。

 この集団の中では、小さな子供は大きな子供の支配を受ける。そして何年か後には自分が支配者になる。人間は被支配、支配その両方を経験しないと駄目です。被支配の経験が支配の能力を作り出していくのです。

(略)

 もちろん、支配階級の子供たちは本能でいじめているのであって、理性的、教育的観点からいじめているわけではないでしょう。それでも、子供は被支配時代にいじめられることによって進歩していきます。いじめられることによって、子供は子供なりに考えます。なぜいじめられたのか、いじめられないようにするにはどうしたらよいのか、と。

 いじめというのは本来、本能的であっさりとしたもので、相手を適切に評価しているだけなのです。体罰と一緒で、相手の利益のためのものです。そして、必ず出口があります。(戸塚、前掲pp.65-66)

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 ただし、残念ながら、戸塚の言っていることは単なる美辞麗句でしかないだろう。第一に、果たしていじめている側の評価が正当である、ということは誰が決めるのだろうか。戸塚は本書の別のところで、「体罰」の定義を《相手の進歩を目的とした有形力の行使》(戸塚、前掲pp.20)としているが、これも同様で、「相手の進歩を目的と」する、ということが、もしかしたら有形力を行使する側の身勝手である可能性を否定することはできないだろう。第二に、このように戸塚が「今の「いじめ」は間違っている、正しい「いじめ」はこういうものだ」としても、そのように述べることによって、果たして現在横行している「いじめ」をどのように解決するのか。その点に関しての言及が少しもないまま、戸塚はこのように語ってしまっているのだから、まさに美辞麗句としか言いようがないのだ。

 「本能」に依存してしまうと、特に労働環境や経済の問題が大きい問題に関しての不勉強も正当化されてしまうようで、戸塚は「ニート」に関して以下のように問題の多い記述をしている。

―――――

 こういう子供の親に話を聞いてみると、共通項らしきものがありました。それは、本当に腹を空かせた経験がない、ということです。少しでも腹が空くと、スナック菓子か何かを口に入れる。幼児の頃からずっとその調子で育ってきた。ヨットスクールに入って規則正しい暮らしをして、初めて空腹感を味わったという生徒が大勢います。

 果たして、そんなふうに育った子供が中学生、高校生になってから、生産する喜びを感じることができるのか。私は絶望的な気持ちに襲われました。とにかくできるかぎりのことはやってみようと試行錯誤を始めました。誰かが少しでも彼らの本能を解発する手伝いをしてやらなければ、彼らは生産すること、つまり仕事に喜びを感じることなく人生を送らなければならない。あまりに哀れです。(戸塚、前掲pp.161)

―――――

 経団連とか「若者の人間力を高めるための国民運動」あたりが都合よく利用しそうな認識だなあ…などという邪推はさておき、少なくともこのことが当てはまるのは、戸塚のスクールに入所してくるような一部の子供であって、戸塚が問題にしているような「ニート」全般ではない。そもそも既に多くのところから、「ニート」は労働問題である、という認識が提出されているのだが、その点に関する配慮に欠けているのではないか。

 さて、ここまで、私は戸塚における認識を批判してきた。具体的に言えば、戸塚の認識に通底しているのは、現代の子供たちや青少年、若年層における問題の「本質」(つくづく戸塚はこの言葉が好きだよなあ)は、彼らにおける「本能の力」の衰退が根本的な原因であって、その原因は、戦後民主主義教育を代表とする「本能」や「力」を否定するような教育である、ということである。もちろん、このような認識に浸ることによって、戸塚が社会的な要因を排した議論を行なっていること、そしてその問題はここまで述べてきたとおりだが、このような認識を元に青少年や若年層について語っているのは、何も戸塚だけではない。

 例えば澤口俊之がいる。澤口は、やはり戦後民主主義教育をはじめとする、「適切な環境」から逸脱した子育ての環境が原因で、現代の青少年はおかしくなった、という認識を述べているが(澤口俊之[2000])、これに関しても、そもそも青少年に関する認識や客観的事実を踏まえていない点において問題がある言説と言うことができる(そういえば、澤口は理想的な環境として戸塚ヨットスクールを挙げていた。どこか象徴的だなあ)。

 そして、このような言説を振りまいているものの代表として、私は筑紫哲也を挙げることとする。読者としては、戸塚と筑紫は対極に位置するような人物だろう、と述べられる方もいるかもしれないが、筑紫の言説は、実際のところは戸塚とはかなり近いところにあるのだ。以前筑紫を批判した文章から、再度引用することとしよう。

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 この国の子どもたちは、生きもの(動物)としての人間が経験する実感から極力切り離される環境で育てられている。寒い、暑い、ひもじい、そして痛いという感覚から遠ざかるように日常が組み立てられている。何度も言うことだが、この国ほど、野に山に川にまちに子どもが遊んでいない国は世界中どこにもない。(筑紫哲也[2005])

―――――

 いかがであろうか。この文章を読めば、少なくとも筑紫の認識は、根底のところで戸塚と相違ないではないか。

 追い打ちとしてもう一つ。

―――――

 子どもたちを一週間、自然のなかに置く。そこでどう遊ぶか、大人は指図せず放って置く。大人は野で寝そべっていて、子どもたちが危ないことにならないようにだけ注意しておればよい……。

 普段あまりにも「自然」から切り離されている者が、そこに戻ることは人間が生きもの、いや動物の一種だと実感する大事な機会だと私も思う。寒い、暑い、痛い、快い、など肉体の実感から遠ざかるように育てられている子どもたちにとっては、なおさらである。だが、これだけ遠ざかってしまうと、そこに回帰するのは容易ではない。

(略)

 自然のなかで過ごさせようと、山の中に泊めると、林のそよぐ音、谷川のせせらぎの音、虫の鳴く音などがうるさくて眠れない都会の子が多い。戻った都会の自宅は人工音だらけなのだが、そこではぐっすり眠れるという。

 虫の音に美しきを感ずるのが日本人の感性で、「騒音」と見なす西洋人とそこがちがう――というのが長らく日本人ユニーク論の論拠のひとつだったのだが、そういう日本人はやがて絶滅に向かうだろう。(筑紫哲也[2006]pp.88-89)

―――――

 いかがであろうか。結局のところ、「左派」であるはずの筑紫もまた、若年層における「自然」の喪失が全ての問題の起点である、というような認識を述べているのだ。

 私はこれは危険なナショナリズムの兆候であると考える。なぜなら、少なくとも彼らの議論は、第一に青少年に関して述べる際に重要である、犯罪統計などのデータを元にしていないという問題点があるが、それよりももっとも大きな問題点として、彼らが自らの生活環境、あるいは思い出を理想とし、なおかつそれが崩壊したことこそが物事の本質である、と考えている。裏返せば、彼らの理想とする生活環境が「あった頃の」日本人と、それが「ない」異形としての「日本人」(「今時の若者」!)に、身勝手に線を引いて考えているのである。

 そしてこの根底にあるのが、いわば(かつての)「日本」に対する無条件の信頼である。要するに、「かつての」日本人は無謬出会ったが、何か「問題のある」生活環境が開発された、あるいは輸入されることによって、「かつての」すばらしい日本人が壊された、という点に関しては、実際のところ多くの人が支持しているのである(戸塚、澤口、筑紫のみならず、例えばそのような傾向は、近年の高村薫や香山リカにも見られるものだ)。立ち位置の左右にかかわらず、そのような認識ばかりが横行しているような現在においては、もはや青少年に関する、科学的、客観的な議論は、もはや望めない、ということができるかもしれない。

 だが、事実や統計に基づいた研究が如実に示すのは、結局のところ問題の構造には普遍的なものと、時代によって特徴的なものがあり、さらに言えばそれらを青少年個人の問題に押しつけてはならない、ということだ。その点を踏まえない議論など、単なる理想論、あるいはイデオロギーの押しつけで終了してしまうだろう。いや、それだけではまだいいのだ。問題は、「解決策」に関しては違うことばかり述べているにもかかわらず、結局根底の認識が同じだから、なんだかんだ言って「今時の若者」は以上だ、というところで大同団結してしまうことである。そしてその兆候は既に出始めている。

 教育再生会議などの問題の多い教育政策に対して、実証的な、あるいは経済論的、政策論的な視点からの批判や反論ではなく、イデオロギーにイデオロギーをぶつけるような批判しかないというのも問題だ(その点では、いわゆる「学力テスト」の訴訟の原告として子供をダシにするのも大問題だ)。大事なのは、厳密に事実や統計に基づいた批判であって、言うなれば民主党や社民党、あるいは共産党などの野党の議員が、単純に少年犯罪は減少しており、「ニート」は労働問題であるという認識を示せばいいのである。

 また、戸塚をはじめとして、「こうすれば青少年問題は解決する!」と主張する人が多いが、確かに彼らの主張する方法論を用いれば、「彼らの施設に入所してくるような」青少年の抱える問題は解決するかもしれない。しかしながら、青少年全体の問題が解決するというのは、単なる妄想に過ぎないのではないか。このことに自覚的な「支援者」「教育者」は、私の知る限りでは、残念ながら工藤定次など極めて少数である(もっとも、工藤に関しても「家族丸ごとニート」なんて変なことを言っていたりするけれども…)。

 引用文献
 雨宮処凜『生きさせろ!』太田出版、2007年3月
 筑紫哲也「フツーの子の暗黒」、「週刊金曜日」2005年11月18日号、金曜日、2005年11月
 筑紫哲也『スローライフ』岩波新書、2006年4月
 浜井浩一、芹沢一也『犯罪不安社会』光文社新書、2006年12月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』、名古屋大学出版会、2001年1月
 乾彰夫(編著)『不安定を生きる若者たち』大月書店、2006年10月
 石原慎太郎、義家弘介「子供を守るための七つの提言」、「諸君!」2007年3月号、pp.124-138、文藝春秋、2007年2月
 澤口俊之「若者の「脳」は狂っている――脳科学が教える「正しい子育て」」、「新潮45」2001年1月号、pp.92-100、新潮社、2000年12月
 滝川一廣「不登校はどう理解されてきたか」、伊藤茂樹(編著)『リーディングス 日本の教育と社会・8 いじめ・不登校』日本図書センター、pp.227-242、2007年2月、初出1998年
 戸塚宏『本能の力』新潮新書、2007年4月

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2006年12月31日 (日)

2006年・今年の1冊/10~12月の1冊

 今年の「若者論な言葉」は、もう少しお待ち下さい。

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 冬枯れの街:「「犯罪不安社会」~君、治安悪化言いたもうことなかれ~
 女子リベ  安原宏美--編集者のブログ:「犯罪不安社会 本日発売 編集後記のようなもの
 芹沢一也blog 社会と権力:「ブロガーの皆さん、ありがとうございます・2!

 今年の1冊:浜井浩一、芹沢一也『犯罪不安社会』光文社新書、2006年12月
 本年は、藤原正彦『国家の品格』(新潮新書)と岡田尊司『脳内汚染』(文藝春秋)に始まり、魚住絹代『いまどき中学生白書』(講談社)、速水敏彦『他人を見下す若者たち』(講談社現代新書)、丸橋賢『退化する若者たち』(PHP新書)などといった、青少年に対して口悪く罵った本がたくさん世に出ては、話題をさらった。森昭雄や正高信男や三浦展や鳥居徹也などの「おなじみ」の面々も、今年もまた新刊を出した。

 他方において、これらの如き通俗的な青少年言説に対して批判を提示するような本もまた、狭い世界においてではあるが話題をさらった。代表的なものに、浅野智彦(編)『検証・若者の変貌』(勁草書房)を採り上げることができるだろう。他にも、岡本薫『日本を滅ぼす教育論議』(講談社現代新書)、乾彰夫(編)『18歳の今を生きぬく』(青木書店)、久保大『治安はほんとうに悪化しているのか』(公人社)、などがある。城繁幸『若者はなぜ3年で辞めるのか?』(光文社新書)はベストセラーになった。このブログの読者にも、読んでいる人は少なくないと思う(私も「2006年7~9月の1冊」において推薦した)。

 今回紹介するのは、いわばそれらの本の決定版とでも言うべき本である。著者である浜井浩一氏は法務官僚として犯罪白書の執筆や刑務官の仕事に携わり、犯罪統計を多角的に検証して「正しい疑い方」を示した『犯罪統計入門』(日本評論社)や、きれい事ではすまされない刑務所の現状を描いた『刑務所の風景』(日本評論社)を上梓した。また、もう一人の著者である芹沢一也氏は、『ホラーハウス社会』(講談社+α新書)において、法を犯した「少年」や「異常者」に対する見方の変遷をたどった。この3冊もまた今年に出された本であるが、年末に、ついにこの2人の著者のコラボレーションが実現したのである。

 もちろん、通俗的な青少年言説に反抗するような本は、今年も結構出ているし、「ただの若者論批判には興味はありません」という人も多いだろう。しかし本書は、そのような人に対しても十分に効果があるといえる。なぜなら、この2人の著者が力を合わせることによって、我々が今いる状況を把握し、またそこから抜け出すための鍵となっているからである。

 第1章は浜井氏による、犯罪統計の読み方である。事件の発生件数と認知件数の違いを提示しつつ、なぜ認知件数がここ最近になって急増したか、ということのメカニズムを説き明かす。さらに、人口動態から子供を狙った殺人事件が急増している、ということが嘘であることを示し、少年犯罪も低年齢化どころか高年齢化している、ということを示す。これによって、今議論されている「厳罰化」だの、あるいは「心の教育」などといった青少年の「内面」に介入するための政策は否定される。

 本書の最大の核は、芹沢氏による第2章だ。本書では、「宮崎勤事件」以降の少年や若年による凶悪犯罪の語られ方が検証される。「宮崎勤事件」の頃、そして「酒鬼薔薇聖斗事件」に際しても初期は、凶悪犯罪に対して、加害者に対して「共感」を覚えるような言説、事件に対して「興味」を持っているという言説、そして犯罪に対して「時代の病理」を「読み解く」ような言説が展開された。ところが、そのような言説は、まず平成10年における黒磯市の教師刺殺事件を契機に、「「普通の子」が突然キレる」などという言説が流布するようになり、青少年は急激に社会の驚異としての相貌を帯び始めた。そこに、犯罪被害者の「発見」――これ自体は非常にいいことであるが――が追い打ちをかけ、少年犯罪に対する社会の見方は一変した。詳しくは本書を読んで欲しいが、我が国には少年犯罪に対しては寛容だった時代があったのだ(大体、例えば「杉並切り裂きジャック事件」に代表されるような凶悪な殺人事件などいくらでもあったのに、そのような事件は今ではほぼ完全に忘れ去られているほどだ)。

 その事態を証明してみせる手腕も見事なのに、芹沢氏による第3章は、そのさらに先を見越している。「子供の安全」を目的とした「防犯パトロール」である。とりあえず、子供たちを狙った殺人事件が急増している、ということは存在しないことは既に本書において浜井氏に証明されているのだが、言説ばかりが高騰していく状況において、「防犯」というテーゼが最前線に出てくるようになった。そこからさらに「治安の回復」が取り沙汰されるようになった(「治安」という言葉に関しては、久保大氏の著書に詳しい)。そしてその「防犯活動」は、「コミュニティの再生」という意味を帯びるようになり、また、それを生き甲斐にするという人も出てきた。しかしそこは排除と不信に満ちた世界でもある。

 そして第4章、浜井氏にバトンが戻る。ここで採り上げられるのは刑務所である。犯罪というのは、逮捕されて終わり、というものでもなく、そのあと、つまり刑務所という空間があるのだが、そこにおいてどのような状態となっているか。刑務所に入ってくるのは、その多くが外国人、障害者、高齢者と化している。刑務所はさながら「治安の守り手」ならぬ「福祉の守り手」と化し、刑務官はサーヴィスの向上を求められる。無期刑の仮釈放者も減少している。厳罰化の副作用は、刑務所という空間に及んできているのである。

 本書によって明らかにされるのは、言説ばかりが専攻する「不安」がいかに虚構であり、いかにもたらされ、いかに我が国の社会に対して悪影響及ぼしているか、ということである。そして不安ばかりになった社会において何が行なわれているか。この2人の著者による絶妙なる共鳴により、その「不安」に満ちた社会の実像は暴かれる。そして本書を最後まで読み終えたとき、我々の目の前には違った光景が現れるはずだ。

 「教育基本法を殺して若者たちの出方を見る」

 それは、言うなれば「若者論の時代」とでもいうべきもので、世の中は全てが「若者論」によって動き、さらに言うなれば我が国は、いわば若者論による情報制御下にあり、我々は入ることはできても出ることはできない。そしてその情報をもたらすものはこの世界を意のままに操る――そして我々はその結果を目にしているのだ――教育基本法「改正」である。この「改正」をめぐる劇は、もはや専門家の意見すら無視し、高橋哲哉氏や市川昭午氏や藤田英典氏や広田照幸氏などによりささやかな抵抗が行なわれたとしても、それはあくまでも単なる雑音に過ぎない(ここで採り上げた皆様、ごめんなさい)。膠着状態を打破するため、若者論は教育基本法を殺して若年層の出方を見ようとしたのである。それこそが教育基本法「改正」なりき。

 それだけではなく、「教育」の名の下に人を殺したようなものは軽い罰ですみ、刑期を終えて出所しても、何事もなかったかのようにメディア上で教育論を語ることができるという状況が存在する。追い詰められた末に家に火を放ったという事件に際しても、その犯人が父親の厳しい統制下に置かれ、テレビを見ることすらままならなかったことが報道によって明らかにされても、多くの論者は「ゲームの悪影響」「リセット症候群」「壊れる日本人」などという言質を振り回すという状況が存在する。有機生命体の新卒採用の概念が知らなくても、キャリア教育と称して全国を行脚できるものが存在する、しかも文部科学省のお墨付きで。統計データや実験もなければ、論理も穴だらけ、しかも自著の使い回しだらけの本が講談社ブルーバックスから出るという状況も存在する。

 要するに、保守派・右派に属する政治家や言論人は、自らの自意識の発露としての「戦後の克服」なるものを実現するために、若い世代を叩き、そして現代がいかに危機的な状況であるかを喧伝した。左派もまた、若年層を「解離性人格障害」だの「複雑な議論を理解できなくなった」だのと理由をつけて、若年層を貶めた。今や右も左も若者論だ。忌々しき先の衆議院総選挙においては、誰が批判されたか。世耕弘成でも竹中平蔵でもない、若年層だった。

 「うん、それ無理!だって、あたしは若い連中を堕落せしめたものに、本当に死んで欲しいんだもの」

 あくまでも我々は「そういう時代」に生きている、ということである。ならば鍵はそれを認識することなり。本書は、世界を崩壊させるための一つのプログラムに過ぎないのだが、それでも本書は読まれるべきである。鍵はないよりもあるほうがいい。若年層が殺されるのを座視したくなければ、本書を読め。私の見た限りでは、本書こそが一番効力のあるプログラムだ。本書が若者論による情報制御空間に、広くばらまかれることを望む。

 「じゃあね!」

―――――

 10~12月の1冊
 1:浜井浩一、芹沢一也『犯罪不安社会』光文社新書、2006年12月
 上記参照。

 2:長谷部恭男、杉田敦『これが憲法だ!』朝日新書、2006年11月
 書評:「これが護憲だ!
 この組み合わせでおもしろくないはずはなかろう。本書は「ただの9条護憲論には興味はありません。この中に、単なる精神論によらない現憲法の意義を論じた本、憲法9条とその他の条項の関わりを論じた本、憲法論や憲法学の問題点をところかまわず論じ尽くした本があったら、あたしの目にとまりなさい」という人に対してはまさにうってつけの本と言える。本書は新書という限られたサイズの中に、現憲法をいかに疑い、そしていかに擁護するか、ということが隅から隅まで書かれている。挑発的な提言も目立つが、むしろ割り引かないで読むことをおすすめしたい。

 3:高原基彰『不安型ナショナリズムの時代』洋泉社新書、2006年4月
 サブタイトルにある「日韓中のネット世代が憎みあう本当の理由」はあまり説明されていないような気もしないでもないけれども、ナショナリズムに関して巨視的な視座で捉えることのたたき台としては非常にうまくまとまっている。また、前半の労働や消費社会に関する言説を整理した部分は、これほどまでにまとまっているものはない。バブル時代的な消費社会へのノスタルジーに潤色された議論に対するアンチテーゼとしてどうぞ。

 4:坂元章『テレビゲームと子どもの心』メタモル出版、2004年12月
 テレビゲームの悪影響をめぐる議論に対して、専門家の立場から真摯に批判している本。あくまでも専門家として発言しているので、筆致が抑圧的であり、過激な議論を好む人にとっては口に合わないかもしれないが、テレビゲームをめぐる問題に少しでも興味があればぜひ読むべき。悪影響論の歴史にも触れられており、奥が深い。

 5:浜井浩一『刑務所の風景』日本評論社、2006年10月
 『犯罪不安社会』の第4章の元になった本であり、そこでの事象をさらに詳しく述べた本。実際の受刑者に対する調査やケースの紹介に触れられているほか、刑務所をめぐる様々な問題の教科書として押さえておきたいところ。

 6:田中康夫『神戸震災日記』新潮文庫、1997年1月
 卒業論文の関係で読んだもの。平成7年の兵庫県南部地震に際し、著者が原付にまたがって様々なところに物資を手渡しに行ったこと、そしてその後の神戸に関して記している。エッセイとして読み応えがあるだけでなく、いかに東京発のマスコミが役に立たないか、ということに関して怒りをストレートに表している部分は考えさせられる。また、被災地において若年層のヴォランティアがいかに動いたか、ということも一部記されている。

 7:宮台真司、石原英樹、大塚明子『サブカルチャー神話解体』PARCO出版、1993年10月
 8の小谷敏氏の本と合わせて読めば、少なくとも1990年代半ばあたりまでの若者論がサブカルチュア研究中心であったことがわかる。また本書は、最近朝日文庫で出た『制服少女たちの選択』と並んで、初期の宮台真司氏の言説がいかなるものであるか、ということもわかり、サブカルチュアのみならず、若者論の歴史を見てみたい人も押さえておいたほうがいい。

 ちなみに黒磯市の事件以降の宮台氏に関しては、1の本において芹沢一也氏により批判されている。本書と言うよりも、平成10年以降の宮台氏の、特に青少年問題に関する記述を読む際には、この批判も読んでおくべきだろう。

 8:小谷敏(編)『若者論を読む』世界思想社、1993年11月
 1970年代以降の若者論を多角的に概説したもので、学生運動の時代からサブカルチュアの時代に移行していった時期に、若年層に関して何が語られてきたのか、ということがわかる。若者論を研究する際には外せない1冊である。

 9:小谷敏(編)『子ども論を読む』世界思想社、2003年6月
 「山びこ学校」に関する記述の解読、早期教育に関する言説の検討、少年犯罪報道や、本田和子氏など、8の同じ編者による本以降の、特に子供を中心とする青少年言説の検討。おもしろいし、資料的価値も高いと思うが、8のように、若者論の歴史を知るために必読、ともあまり言えない気がする。渡部真『現代青少年の社会学』(世界思想社)と併読するとなおよい。

 ちなみに、8と9の本の編者である小谷敏氏の、『若者たちの変貌』(世界思想社)という単著もあるけれども、これはあまりおすすめできない。『若者論を読む』を読めば十分に対応できる内容だし、90年代後半の青少年に対する記述は――他の青少年言説の語り手とほぼ同様に――悲観的すぎると思う。

 10-1:五十嵐太郎『美しい都市・醜い都市』中公新書ラクレ、2006年10月
 10-2:五十嵐太郎『現代建築に関する16章』講談社現代新書、2006年11月
 いずれも、現代の景観や建築空間を考える上で参考にしておきたい著作。前者は、「論座」平成18年4月号に著者が掲載した、「日本橋の首都高」批判に対する疑念を拡大し、景観とは何か、ということを問い直したもの。また後者は、いくつかのキーワードを元に、現代の建築のあり方を問い直すもの。興味がある人は手を取ってみるといい。

 11:阿部真大『搾取される若者たち』集英社新書、2006年10月
 バイク便ライダーの姿から見える、「好きを仕事に」という言説に惹かれた人がはまる「職能の罠」を解き明かしたもの。職業に対する「自信」がいかに働く人たちを追い詰めていくか、ということを追っていく過程は非常におもしろいのだけれども、読みやすさを狙うあまり、文章が散漫というか、どうも媚びているような気がしてならない。その点が残念だった。

 12:門倉貴史『ワーキングプア』宝島社新書、2006年11月
 良くも悪くも、エコノミストが「現代の貧困」について記した本と言える。いいところは、まずデータが豊富であり、資料的価値は高い。また、データを元にした分析も正確だと思うし、下手に貧困層や青少年を叩くということもしない。さらに政策提言まで語られているところがいい。逆に悪いところは、所々にはさまれるインタヴューが生かしきれていないところ。本文とインタヴューの、どこに接点があるかは不明瞭であった。

 13:苅谷剛彦、増田ユリヤ『欲ばり過ぎるニッポンの教育』講談社現代新書、2006年11月
 NHKの記者として我が国やフィンランドの教育事情を取材してきた増田氏が、気鋭の教育社会学者である苅谷氏に聞く、というスタイルを採った本。そのような形式故に、問題を深く論じた本というよりは、どちらかといえば現代の教育問題に関する概説書という色が強い。ただし我が国の教育に関して、安易な外国の礼賛に陥ることなく、認めるべきところは認める、というスタイルは極めて貴重なものである。フィンランドの教育を評価しているような本(例えば、福田誠治『競争やめたら学力世界一』(朝日選書))などを読んで違和感を持った人には特にお勧め。

 14:スティーブン・ジョンソン『ダメなものは、タメになる』山形浩生、守岡桜:訳、乙部一郎:監修、翔泳社、2006年10月
 テレビ番組野営が、及びテレビゲームは複雑化しており、それが脳によい影響を与えるのではないか、と主張する本。ゲーム擁護論にまた違った視点を与えてくれる本である。我が国では今なお、ゲームはデジタルだから、白か黒かの単純な志向しかできなくなる、という、学力低下(もちろん皮肉)の象徴みたいな人までもいるからなあ…。

 15:宮崎哲弥『新書365冊』朝日新書、2006年10月
 書評:「新書を媒体とした時評集、しかし索引が使いづらい
 「諸君!」(文藝春秋)に連載されていた、「解体「新書」」と「今月の新書完全読破」を書籍化したもの。読むべき本の一つの指針としてはちょうどいいが、索引が極めて使いづらい。

 ワースト1:香山リカ『就職がこわい』講談社、2004年2月
 どう見ても大学の就職担当者の愚痴です、本当にありがとうございました。本書は言うなれば、自分の大学で担当している学生を指さして、「どうだい、この若者たち。めがっさ解離的だから就職ということにリアリティがない、だからフリーターになるのは当然と思わないっかなあ。どうにょろ?」と連呼しているような本である。著者が勝手に今世紀を読み解くキーワードであると設定している「解離」という言葉も当然の如く出てくるし、(まともだった頃の)玄田有史氏はおろか、長山靖生氏にも、社会の責任ばかり追及して、若年層自身の責任を追及しない、と憤っているわ、さらには戦後民主主義教育批判まで出てくる始末。

 そもそもこの著者、出てきたばかりの頃は「リカちゃん精神科医」として、ライトな「精神分析」で活躍した人だが、『インターネット・マザー』(マガジンハウス)で「解離」を時代を読み解くキーワードであるかの如く設定したら、単にベタな、いやそれ以上にたちの悪い「評論家」と化してしまった。本書はその一つの結末と言っていい気がする。大体、初期の頃と変わらないペンネームでここまで「本気で」若年層バッシングをやっている本書を読んだら、「あはははは、そんなペンネームで言われてもなあ!あははは」とでも言いたくなる。とにかく、俺が今まで読んだ本の中で5本の指に入るくらいひどい本でした!

 ワースト2:樋口康彦『「準」ひきこ森』講談社+α新書、2006年10月
 どう見ても罵詈雑言集です、本当にありがとうございました。少なくとも「社会的ひきこもり」だの「スチューデント・アパシー」だのを引き合いに出すなら、斎藤環氏や笠原嘉氏の名前くらい出してくれ。そもそもこの著者、少しくらいコミュニケーションが苦手な人はだれでも「準ひきこもり」と名付けているし、提言といっても完全に精神論、もういい加減にしてよ。

 「一つだけ聞いていいですか?何が「準ひきこもり」でないか教えてください」
 「禁則事項です」

 ワースト3:井上敏明『朝が来ない子どもたち』第三文明社、2006年7月
 どう見ても医療倫理崩壊の現場を見ているようです、本当にありがとうございました。たとい自分の心が元気がないのは脳が異常だからであるという立場を認めるにしても、この著者の暴走は明らかに異常。人々はコミュニケーション能力が低下しているから、身体的コミュニケーションたる疾患(蕁麻疹など)が増えているだの、「ニート」は生活のリズムが乱れているだの、というけれども、いっておくがそれを客観的に示しているデータくらい提示してくれ。あと、これは丸橋賢などにも癒えることだが、自分の相談した事例を勝手に若年層、さらには現代社会全体の普遍的な姿だと錯覚している。倫理はこういう人こそが身につけるべきなのだが。

 ワースト4-1:宮台真司、香山リカ『少年たちはなぜ人を殺すのか』創出版、2001年1月
 ワースト4-2:宮台真司、藤井誠二『「脱社会化」と少年犯罪』創出版、2001年7月
 どう見ても芹沢一也氏の批判は正当です、本当にありがとうございました。本書は、少年に対する犯罪が統計的には減少していることは認めつつも、犯罪の質が変化している、と述べているが、「虫を殺すように人を殺す青少年が増えた」という事実をいかに証明しているのか、開示を望む。

 ワースト5:安川佳美『東大脳の作り方』平凡社新書、2006年9月
 どう見ても自画自賛です、本当にありがとうございました。本書に対して、子育てもしたことのない人が子育て論を書くな、という批判があるが、そのような批判はみっともないと思う。しかしながら、この本の最大の問題点は、自らの発言の政治性に気がついていないことだ。いくらなんでも、「まえがき」で「ニート」をやる気のない存在であると見なして、さも自分のように生きれば、あるいは「育てられれば」大丈夫、という論調になっているのはどうか。著者があまりにもポジティヴであることが、逆に本書の欠点として現れている。本田由紀氏や渋谷望氏の言説でも読んで、再考を促す。

 さらにいえば、本書において主張されている「育て方」を実践できるような親は、ごく限られているのではないか。具体的にいえば経済的、あるいは時間的に余裕のある層である。次に本を出す際には、そのような点も考慮してください。

 ワースト6:荒川龍『レンタルお姉さん』東洋経済新報社、2006年5月
 ワーストとして仰々しく糾弾するほどひどい本ではないが、明らかに「ひきこもり」と「ニート」を混同していないか。ニュースタート事務局の本ということで楽しみにしていたのだが、がっかりだよ!

 ワースト7:姜尚中『愛国の作法』朝日新書、2006年10月
 書評:「逃避行
 これもワーストとして糾弾するくらいひどい本でもないけれども、著者の議論は明らかに高原基彰氏のナショナリズム論や萱野稔人氏などの国家論に大きな後れをとっている。要するに結局のところ、香山リカを読んで若年層の「右傾化」なるものを理解したつもりになって、三浦展を読んで「階層化」を理解したつもりになった通俗的左翼に向けての「癒し」路線を狙った本でしかない。

 ワースト8:マガジン9条『みんなの9条』集英社新書、2006年11月
 ただの9条護憲論。よくこんなので商売が成り立つね。しかも香山リカ。この期に及んで俗流若者論ですか。

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2006年10月15日 (日)

2006年7~9月の1冊

 1:イアン・ボーデン『スケートボーディング、空間、都市』齋藤雅子、中川美穂、矢部恒彦:訳、新曜社、2006年8月
 ユース・カルチュアとしてのスケートボードが都市空間に及ぼす影響を考察した本。私はスケートボードのことに関しては人並み以上に明るくないけれども、本書における文化と都市・空間に関する考察は否応なしに意欲をかき立てられる。都市と空間を巡る一大叙事詩として、特に都市空間について興味のある人にはぜひ一読を勧める。

 また、若者論オタクの私としては、本書によって、建築学(空間論)が青少年の行動の用語につながるのではないか、という妄想も同時に抱いた。関連書としてはアフォーダンスに関する本(例えば、佐々木正人『知性はどこに生まれるか』講談社現代新書)を。

 2:鈴木透『性と暴力のアメリカ』中公新書、2006年9月
 米国における「性」と「暴力」の問題を、米国建国以前の歴史から考察したもの。本書においては、米国における同性愛、「性革命」、暴力、さらには湾岸戦争からイラク戦争に至る孤立主義がいかなる思想に基づいているか、について書かれている。

 特に本書の第2章は、だまされたと思って読んで欲しい。なぜなら、米国のみならず、「理解できない」存在や「排除すべき」存在に対する暴力がいかにして組織化されるか、ということが一種のリアリズムをもって書かれているからだ。社会学や哲学における暴力論よりも、権力と暴力のメカニズムが理解できることは間違いない。

 3:スティーヴン・D・レヴィット、スティーヴン・J・ダブナー『ヤバい経済学』望月衛:訳、東洋経済新報社、2006年2006年5月
 思わぬ方角から「インセンティブ」や「因果関係」に関する話題をわかりやすく解説する。例えば、なぜ米国で犯罪者が減ったか、あるいは、米国の学力テストにおける教師のインチキなど、話題に意外性がある上、翻訳やタイトルの付け方も秀逸であり、読み物として楽しむことができる。話題やノリが『反社会学講座』のような本と似ているため、同書で笑える人はぜひとも本書にも目を通しておくべき。

 4:久保大『治安はほんとうに悪化しているのか』公人社、2006年6月
 かつて東京都で治安対策担当部長として治安政策に関わっていた職員による、治安に関する概説書であり、かつ、当時の治安政策を「虚妄だ」と言えなかったことに関する懺悔の書。「治安は本当は悪化していないのではないか」という言説は、犯罪白書のデータの引用により多くの人によって論じられているけれども、本書はそこからさらに踏み込んでなぜ「防犯」から「治安」へと言葉が置き換わったのか、というところまで検証する。浜井浩一(編著)『犯罪統計入門』(日本評論社)はぜひとも併読すべき。監視社会化と厳罰化に抗うのであれば、まずこの2冊で基礎を押さえよう。

 5:いしいひさいち『現代思想の遭難者たち 増補版』講談社、2006年6月
 古典を読もうとして挫折した、という経験を持つ私だが、ここまで哲学書を読む気にさせてくれる本は正直言ってあまりない。基本的にはいしいひさいち氏による4コマ漫画と、注釈によって構成されている(構成が変わるページや、漫画だけのページもある)。近代思想に関して興味を持ちたい、という人にはお勧め。

 6:萱野稔人『国家とはなにか』以文社、2005年4月
 マックス・ヴェーバー、ミシェル・フーコー、ヴァルター・ベンヤミンなどによる国家論や権力論の整理だが、特に読み応えがあるのが暴力の組織化に関する問題と、「国民国家論」を虚妄であるとする立場に対する批判。特に国民国家批判の部分に関しては、他の小に比して分量は少ないものの、国家というものを考える上で重要なエッセンスが詰まっているし、暴力論がなぜ必要か、ということについても考えさせられる。

 7:竹信三恵子『ワークシェアリングの実像』岩波書店、2002年3月
 日本で行なわれている「ワークシェアリング」とは何か、そして言葉だけが一人歩きしてしまった我が国において、真に労働者のためになる「ワークシェアリング」とは何か、ということを、現場の取材によって問いかける。4年半ほど前に出版された本だが、決して本書の意義はなくなっていない。いや、今こそ読まれるべき本かもしれない。

 8:城繁幸『若者はなぜ3年で辞めるのか?』光文社新書、2006年9月
 若年層の離職に関する問題は、概して若年層の精神に帰して語られやすいものだけれども、タイトルとは裏腹に、本書は決してそのような結論を採らない。本書は、政策を構築する側が、依然として旧来型の「終身雇用」にこだわっていたら永久に問題は解決しない、ということを教えてくれる。ただ「希望を持たせる」ために付け加えられた最終章はどう見てもエクスキューズの感じがするなあ。7の竹信三恵子氏の本と併読されたし。

 9:ミシェル・フーコー『フーコー・コレクション・4 権力・監禁』小林康夫、石田英敬、松浦寿輝:編、ちくま学芸文庫、2006年8月
 1971年、フーコーは、GIP(監獄情報グループ)なる団体を設立し、監獄の実態を是正するための活動を始める。フーコーはなぜ政治活動に力を注いだのか。また、権力や監獄のシステムを支えるメカニズムとは何か。そして知識人の問題とは何か。当時の知識人に関する問題は、現代にも通じるところがある。

 10:渡部真『現代青少年の社会学』社会思想社、2006年9月
 現代の青少年問題に関する極上の概説書。本書は自殺、青少年の問題行動、学力、教育、高校生文化の変遷、格差まで、実に幅広い問題を取り扱うけれども、変な先見を廃して、公正に判断していこうというところに書き手の学者としての誠意が見える(ちなみに本書の記述は仮想対談形式)。本書を元にした漫画が描かれるとなおいいのだが。

 11:保坂展人、岩瀬達哉、大川豊『官の錬金術』WAVE出版、2005年11月
 質問の多さで知られる国会議員と年金問題に詳しいジャーナリストによる、「失業保険」のカラクリ。雇用保険はどのような用途に使われているか(=いかに無駄遣いされているか)、そしてなぜ利権が増殖するか、などの、衝撃のレポート。第二のグリーンピアはいつ出てきてもおかしくない。

 12:矢部史郎、山の手緑『愛と暴力の現代思想』青土社、2006年5月
 なんか最近、この記事でも少しワーストで採り上げているけれども、「売れっ子」の左派論壇人によるやけに緩い「社会時評」本が売れてきているけれども、本書はかなり強烈で腰の入った社会批判の本である。最初のほうはやや俗流若者論の臭いがするところもあるけれども、そんなものはどうでもいいほどの迫力が漂っている。毒にも薬にもならぬ、昨今の左派言説に飽きた人に。

 13:ジョゼフ・E・スティグリッツ『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』鈴木主税:訳、徳間書店、2002年5月
 IMFとアメリカの財務省に対する糾弾の書。いかに米国主導のグローバリズムが世界の経済を歪めてきたか、また、いかにそれが世界を不幸にしてきたか、ということを、ふんだんな実例でもって語る。そして、我が国の掲げてきた「改革」「行革」がいかに間違った順序で改革を行なってきているか、ということに関しても攻撃する。毒にも薬にもならぬ、昨今の左派言説に飽きた人に(2回目)。

 14:斎藤貴男『分断される日本』角川書店、2006年6月
 斎藤貴男氏は、青少年が絡んできて教育が絡んでこない分野に関しては俗流若者論が目立つ書き手であるけれども、本書は斎藤氏のいい部分がふんだんに詰まっている。特に著者自身の怒っている態度が見えてくるのが本書の魅力。力が入っている。毒にも薬にもならぬ、昨今の左派言説に飽きた人に(3回目)。

 15:ロバート・パーク『わたしたちはなぜ科学にだまされるのか』栗木さつき:訳、主婦の友社、2001年4月
 米国における疑似科学の横行を批判した書(こういう本って、結構出ているけど)。本書においては、ホメオパシー(同種療法)や医学的効果のわからない怪しげな薬がいかにでたらめであるか、ということが糾弾されており、おもしろい。けど、批判のトーンが後半になると陳腐化してきている、という気がしないでもない…。同種の本(マーティン・ガードナー『奇妙な論理』(1・2巻、ハヤカワ文庫)、カール・セーガン『人はなぜエセ科学に騙されるのか 上巻』(上下巻、新潮文庫)、マイクル・シャーマー『なぜ人はニセ科学を信じるのか』(1・2巻、ハヤカワ文庫))も読んでおくことを薦める。

 16:ヘンリー・ペトロスキー『もっと長い橋、もっと丈夫なビル』松浦俊輔:訳、朝日選書、2006年8月
 世界中の橋や、土木・建築の他に様々な技術について、いかにそれが技術革新を生み出しているか、ということについて述べる。強度と芸術性の関係や、いかに設計すべきか、という問題について、様々な橋の実例を通じて詳しく書かれている。橋を設計したい人のみならず、技術革新に関心のある人にも。

 17:アラン・ソーカル、ジャン・ブリクモン『〈知〉の欺瞞』田崎晴明、大野克嗣、堀茂樹:訳、岩波書店、2000年5月
 「ポストモダニズム」に属している思想家が、いかに物理学や数学の分野に関して間違ったアナロジーを用いているか、ということを糾弾、というよりも嘲笑した本。ただし批判が若干単調である、という気もしなくないけど。

 ところで現在の我が国、特に若者論に照らし合わせてみると、主として脳科学や行動学、心理学に関して間違ったアナロジーが使われていることもあるけれども、思想家や作家のみならず、理系の専門家までがこのような〈知〉の欺瞞を犯しているんだよな…。なんでだろう。

 18:谷村智康『CM化するニッポン』WAVE出版、2005年12月
 いかに我が国のテレビが「見えない広告」に満ちあふれているか、ということを解説した本。私はドラマに関してはちっとも明るくないけれども(というか全く見ない)、ドラマも「見えない広告」の巣窟となっているとは。そしてNHKまで。ただ、最後のほうのアニメに関する記述が少々不満を持った。「コンテンツビジネス」という言葉もあることだし、宣伝とわかって評価したり買っている人もいるのではないかな?

 19:山下悦子『女を幸せにしない「男女共同参画社会」』洋泉社新書、2006年7月
 昨年の9月末にこのブログで私が行なった、短期集中連載「三浦展研究」の内容に共感できるなら、あるいはそれでも三浦氏の問題点がわからないのであれば、本書の三浦展批判はぜひとも読むべき。このためだけに本書を買ってもいいくらい。三浦氏を批判した言説はあまたあれど(ほとんどネットが中心だけど)、書籍において三浦展の言っていることは単なる自己責任論だ!と言っているのは少ない。

 とはいえ、本書におけるフェミニズム(特に「行政フェミニズム」)に関する記述は、疑問を持たざるを得ない部分が多い。特に本書の「負け犬」批判は、極めてみっともない。俗流若者論とほとんど同じだ。

 20:福田誠治『競争やめたら学力世界一』朝日選書、2006年5月
 フィンランドの教育に関するリポート。おもしろいけれども、フィンランドを少々称揚しすぎている気がする。もう一つ言えば、この人の「ニート」認識ははっきり言ってお粗末。この人のせいでフィンランドに誤った「ニート」概念が輸入されたら、はっきり言って怖いぞ。

 ワースト1:正高信男『他人を許せないサル』講談社ブルーバックス、2006年8月
 関連記事:「正高信男という零落」
 どう見ても思考が劣化しています、本当にありがとうございました。3年ほど前には見られた驚くべき疑似科学やとんでもない論理、あるいはどう考えてもおかしいアナロジーは消え、完全に思考停止の愚痴だらけが詰まった本になってしまった。もはや疑似科学書と呼ぶことすらためらわれるし、若者論オタク的にもちっとも楽しくない。まさにワースト1を飾るにふさわしい本。

 ちなみに同書にはさまっていた講談社の広告においては、本書が「気鋭のサル学者による新しい世間論」などと紹介されていた。嗤うべし。こんな本を読むくらいなら、佐藤直樹『世間の目』(光文社)を読むべきである。というよりも、本書の執筆動機って、阿部謹也『「世間」とは何か』(講談社現代新書、こちらは名著)を読んで、単純に「世間」という言葉が使いたくなっただけじゃないの?

 阿部謹也氏のご冥福をお祈りします。

 ワースト2:幕内秀夫『勉強以前の「頭の良い子ども」をつくる基本食』講談社、2006年8月
 どう見ても電波ゆんゆん出まくってます、本当にありがとうございました。基本的に本書は「戦後の食生活が青少年・若年層をだめにした」という論調なのだけれども、著者自身の熱意が空回りしまくっていて、とにかく笑えるのだ。と言うよりも、何でそこまで砂糖やパン、そして戦後の栄養学が支配した食卓を憎むことができるの?本書は極上の電波本であり、若者論のオタクであれば本書で笑わなければならないだろう(PISAの学力テストで本当に子供たちの「学力低下」を断言できるのか、ということに関しては、20の福田誠治氏の著書を参照されたし)。食欲減退の折にはぜひ。

 ワースト3:鳥居徹也『親が子に語る「働く」意味』WAVE出版、2006年7月
 どう見てもギャグです、本当にありがとうございました。まず、最初の「大卒フリーター問題」に関する記述が、少しでも我が国の労働環境についてかじったことのある人なら確実に笑える。鳥居氏の言説を真に受けてしまった人は、とりあえず「新卒採用」という言葉を頭に入れておくように。あと、厚生労働省『世界の厚生労働2006』(TKC出版)も読んでおくように。

 前半はとにかく笑えるのだが、後半になるとほとんど自己啓発書のノリで、教条主義的であり、笑える部分が少ない。でも、若者論で笑いたい人は、前半だけでも十分に元は取れるぞ。

 ワースト4:小宮信夫(監修)『徹底検証!子どもは「この場所」で犠牲になった』宝島社、2006年7月
 どう見ても不安を煽りすぎです、本当にありがとうございました。どう見たって日本全国で見られる風景だろう、と思ってしまう場所を「危険な場所」として紹介している部分があったり、あるいは子供を狙った事件はここ数十年では一貫して減っている、と言うことが紹介されていなかったりするけれども、それ以上に背筋が凍り付いたのは本書の最後のほうに収録されている童話。「子供」をめぐるワードポリティクスの現状を知りたい人は読んでおくべきかもしれない。また、4の久保大氏の本や、浜井浩一氏の『犯罪統計入門』、及び、芹沢一也、安原宏美「増殖する「不審者情報」――個人情報保護法という呪縛」(「論座」平成18年7月号)は、本書を読む前に絶対読んでおくこと。

 ワースト5:速水由紀子『「つながり」という危ない快楽』筑摩書房、2006年7月
 どう見ても宮台真司氏の10年ほど前の言説を流用しているだけです、本当にありがとうございました。そもそも「格差」について語るのであれば、経済的な問題は無視することはできないはずだし、また労働環境の問題も、統計や他の人の本からの引用でもいいから触れるべきだろう。しかし本書においては、青少年のコミュニケーション環境の変化が「格差」問題を生む、としている。

 格差論をコミュニケーション論、あるいは「若者文化論」としてとらえる傾向に、私は危機感を禁じ得ない。あと、本書における「オタク」に関する説明はほとんど一貫性を保っていない。三浦展を批判しているけれども、本書の議論はかなり三浦と重なっている。

 ワースト6:香山リカ、佐高信『チルドレンな日本』七つ森書館、2006年7月
 どう見ても愚痴を言っているだけです、本当にありがとうございました。というよりも、本書に流れる独特の、不愉快な「緩さ」に耐えられない。自分たちの言説の人気がないことを嘆いていたりとか、あるいは単に内容のない放言をしているならまだしも、本当に腹が立つのが、本書で時折挿入される著者2人のあきらめたような笑顔。

 はっきり言って、本書は左派論壇における「政治」的位置を確認するための、もっと酷く言えば、古くからの読み手に媚びている本にしか見えない。

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2006年8月18日 (金)

2006年4~6月の1冊

 少々遅れてしまいまして申し訳ありませんでした。

 1:ミシェル・フーコー『(ミシェル・フーコー講義集成・5)異常者たち』慎改康之:訳、筑摩書房、2002年6月
 晩年のミシェル・フーコーの講義録。執筆現在は4・5・11巻が出ている。

 本書は「異常者たち」という問題に関する講義録である。精神科医やセクシュアリティの問題に始まり、法と犯罪、自慰などに関する話題が並び、権力やほうとは何か、ということに関して新たな視座を与えてくれる。芹沢一也『狂気と犯罪』『ホラーハウス社会』(ともに講談社+α新書)と議論が大きくかぶる部分も存在するが。

 2:岩田考、羽渕一代、菊池裕生、苫米地伸(編)『若者たちのコミュニケーション・サバイバル』恒星社厚生閣、2006年3月
 青少年のコミュニケーションを巡る考察。基本文献として最適である。青少年でコミュニケーション能力、というと、真っ先に携帯電話とかインターネットなどが槍玉に挙がり、しかも青少年のコミュニケーション能力は確実に「低下」しているものと見なされるが、本書はそのようなスタンスに積極的に立っているわけではない。生計や親子関係にまで議論が広がっているのも特徴の一つ。

 3:渋谷望『魂の労働』青土社、2003年12月
 これも権力に関する考察。基本的な視座は「労働」である。現代の、特に我が国における労働の問題を、ポストモダニズムやネオリベラリズムに対する批判、及び様々な権力論を引いて論じている。内容は少々難解なように思えるが、少なくとも学術書や哲学書を読むくらいの能力があれば本書はぜひとも目を通しておくべき。

 4:佐藤直樹『世間の目』光文社、2004年4月
 直接的には権力論ではないが、「権力」というものを考えるためにはこれも一読に値するだろう。我が国における医療、法、労働、教育、事件とマスメディアなどの関係を「世間学」という視座から読み解く画期的な試み。我が国において「世間」とは何か、そして情報化社会の進展によって「世間」はいかに変わる/変わらないか。ただ、第10章「ネット社会と「世間」」に関しては、いささか論じ尽くされた感があるような文章がかなり多く、さらに言えば小原信にも肩入れしているため少々物足りないこともあるけど。阿部謹也『「世間」とは何か』(講談社現代新書)は併読しておくべき。

 5:貴戸理恵『不登校は終わらない』新曜社、2004年12月
 本書の内容はタイトルにつきる。すなわち「不登校は終わらない」のである。不登校を巡る言説は、「脱却できればそれでよし」などというような「幻想」がつきまとい、そこから「こうすれば不登校は治る!」「これが不登校解決の決定打だ!」といった具合の言説が雨後の竹の子の如く繁殖しているという現状があるが、本書はそのような言説に加え、さらに「不登校は既存の学校社会に対する対抗である」などという具合に不登校を肯定する言説を検討する。さらに、不登校の「当事者」はどのように不登校から脱却し、その後をいかに過ごし、また不登校に関する言説を消化したか、ということを検証する。

 ただ第4章に関しては他の章に比べて少々物足りない気がしたけれども、政策的な提言を含んでいる以上、現状と何とか妥協して最大限の成果を生み出したものと見ればよくできている。

 6:白波瀬佐和子(編)『変化する社会の不平等』東京大学出版会、2006年1月
 様々な「不平等」を巡る考察。書き手も佐藤俊樹氏や苅谷剛彦氏などといった強力なメンバーが並んでいる。教育、医療、中年無業者、さらには「不平等感」の増大まで、「不平等」に関する話題に触れるにあたってはかゆいところまで手が届く一冊といえるだろう。

 ちなみに玄田有史氏も寄稿している。内容は中年無業者で、内容としてはよくできている。それにしても玄田氏は、このような専門的な本などではかなり優れたことを書くのに、一般的な本や雑誌などになるとどうしてかなりレヴェルが落ちてしまうのだろう?

 7:岩波明『狂気の偽装』新潮社、2006年4月
 精神科医による臨床報告。心理学が安易に取り扱われるようになり、精神科医という仕事も「心の専門家」として変な羨望の視線を向けられるようになっているが、本書においては他人の心の病に真剣に向き合わなければならない精神科医の苦悩が描かれている。

 本書において強く批判されているのは、近年蔓延する「心理学主義」的論説や、さらに踏み込んだ「脳」還元主義的な言説である。本書においては曲学阿世の徒・森昭雄の「ゲーム脳」論まで批判の対象になっているほか、「PTSD」などの心理学的言説を安易に広めたがる人たちの無責任さにも批判を惜しまない。しかし実際の病者に対する視線は暖かい。

 8:堀井憲一郎『若者殺しの時代』講談社現代新書、2006年4月
 1980年代の消費社会論。バブル時代における経済や文化を支えるものがいかなるものであるか、ということを自らの経験に即して活写する。クリスマスやディズニーランドに代表される消費文化、及びそれとマスメディアの関係、あるいはサブカルチュアに対する視線、宮崎勤などといった80年代に関する記述はおもしろい。「若者」という存在が消費の主役としてさんざん煽られ続けた時代の風景は、その後、簡単に言えば「若者」という記号が消費されるようになった時代=現在を省察する上でも実に有益。

 ただし第5章以降はいけない。特に第5章後半から第6章までは、ほとんど俗流若者論といってもいい代物だ。故にランクをかなり下げている。特にパソコンや携帯電話に関する記述の陳腐さはもはや絶望的である。さらに最後のほうで「伝統的身体」まで称揚するかのような展開になっており、腰が抜けた。前半のよさがこちらでは完全に弱点として表出している。

 9:佐々木俊尚『グーグル』文春新書、2006年2月
 最近、グーグルに関する解説書がとみに増えてきたような気がするけれども、気のせいか?本書は決してグーグルの使い方に関する解説書ではない。それどころかインターネットの未来像に関して大きな問題提起を突きつける本である。グーグルによって何が起こっているのか、そして(会社としての)グーグルはいったい何を考えているのか、そしてインターネットの将来は本当にバラ色なのか。グーグルを使わないような人(私はグーグルよりもヤフーを使っている)にとってもグーグルは関係のないものではないのだ。

 10:大竹文雄『日本の不平等』日本経済新聞社、2005年5月
 様々な賞を受賞している大著。本書第1章冒頭における「ジニ係数(不平等度を測る指標の一つ)は近年になって急増した、というわけではない」という主張をもって、本書は不平等を否定しているととらえる向きも一部にはあるが、それは断じて違う。特に「成果主義的賃金制度と労働意欲」に関して述べた第9章は必読だ。とはいえ、数式が多く用いられている章もあるため、基本的な数学の素養がないと読みこなすのは少々難しいかもしれない。ただし「不平等」に関する問題を考えるにあたっては読んでおいて損はない。特に「不平等」が俗流若者論と結びつけられて大安売りされている現状にあっては。6の白波瀬佐和子氏の本と併せて読みたい。

 11:上野成利『暴力』岩波書店、2006年3月
 これも権力論。ハンナ・アレントやヴァルター・ベンヤミンの暴力論=権力論の概説書。「暴力」を中心に「秩序」や「法」などの概念をとらえ直していく試み。

 12:鈴木邦男『愛国者は信用できるか』講談社現代新書、2005年5月
 三島由紀夫は「愛国心」という言葉を不快に思った。なぜか。我が国においては左右を問わず「愛国心は持って当然」というような議論が溢れているが(左派における「愛国心は強制するものではない、自然と生まれるものだ」という議論もまた、結局のところ「愛国心」を持つことそのものに対して否定しているわけではない、当然視しているきらいすらある)、そもそも「愛国者」が大量にはびこる現状は果たして喜ばしきものか。歴史、右翼、そして天皇制からの問い。

 ワースト:丸橋賢『退化する若者たち』PHP新書、2006年5月
 関連:「『退化する若者たち』著者・丸橋賢氏への公開質問状」「『退化する若者たち』著者・丸橋賢氏からの回答
 どう見ても差別主義の産物です、本当にありがとうございました。本書は歯科医による俗流若者論である。で、その主張が「今時の若者は戦後の食生活によって歯並びが悪くなっており、さらに戦後民主主義教育によって「型」を教えられていないから堕落したのだ」という内容。この手の議論の現状認識における誤謬や、このような議論が引き起こす差別主義の罠は既に関連記事において論じているので、今更繰り返す必要はない。

 しかしながら私が残念に思うのは、このような「科学的」俗流若者論が、主としてこの本の著者の如く医学的分野によって担われていることだ。脳科学にしろ、あるいは心理学にしろ同じである。このような議論が、それこそ本書の如く残酷な差別主義を生むことに関して、左派に属する論壇人はもっと自覚的であるべきだ。今左派に求められているのはこのような「医の乱調」に対する批判的視座なのである。

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2006年5月24日 (水)

『退化する若者たち』著者・丸橋賢氏への公開質問状

〈読者の皆様へ〉

 平成18年5月のPHP新書の新刊として、丸橋全人歯科院長・丸橋賢氏が、『退化する若者たち』なる本を上梓しました。

 しかしこの本は、同種のあらゆる本と同じように、現代の青少年に対して劣っている存在とレッテルを貼り付け、またいかに現代の青少年の生活環境が「生物学的に異常」であり、著者の理想とする一昔前の――つまり、著者が子供だったころの――生活環境が「生物学的に正常」であるか、ということを、論理の飛躍や青少年問題に対する乏しい認識で持って「正当化」するような本です。

 本来であればこのような本は、このブログやbk1書評などで批判的に採り上げる類のものです。しかし今回は、あえて公開質問状という体裁を採らせていただいております。

 なぜこのような行為に及んだかということに関する理由は次のとおりです。第一に、丸橋氏は本書の中において、「ニート」「ひきこもり」「不登校」などという形で表現される現代の若年層のいわゆる「無気力症」を、歯の噛み合わせの力の低下から来る「退化病」であるとしきりに表現しております。「退化」だけ、あるいは「病」だけ、というのはいくらか見たことがあるのですが、それが結びついてしまった例はかなり稀少です。しかもしきりに現代の若年層を「退化病」と表現しており、類書の中でもレイシズム(人種差別)の割合は高い部類に属しております。

 第二に、本書が青少年に対する「治療」の口実として使われるのではないか、ということです。本書の中においては、青少年の「治療」に「成功」した事例のみが列挙されている上、巻末の著者プロフィール(カバーのほうではない)には著者への連絡先が掲載されています。もしかしたらこのような本は、「ひきこもり」や「不登校」の人たちに対する社会的な支援を否定し、また「ニート」問題から労働経済問題を引き離し、医学的な「治療」の強制につながってしまうのではないか、と私は危惧しております。

 丸橋氏には、このブログの記事の内容に、私への連絡先を書き加えた「公開質問状」を、平成18年5月23日付でクロネコメール便にて、私もかかわっている本である『「ニート」って言うな!』(光文社新書)、および、私、そして貴戸理恵氏(東京大学大学院博士後期課程在籍)や雨宮処凜氏(作家)などのインタヴューやエッセイ、及び斎藤環氏(精神科医)の論考が掲載されている「ビッグイシュー日本版」平成18年5月15日号を同封して送付しており、24日に到着する予定です。

 読者の皆様のご理解のほど、よろしくお願いいたします。

 (5月24日補記:ご指摘により、誤字を訂正しました。丸橋様、丸橋全人歯科の関係者の皆様、及び読者の皆様に深くお詫びを申し上げます。)

――――――――――――――――――――

 丸橋全人歯科 院長 丸橋賢様

 はじめまして。

 東北大学工学部建築学科4年の、後藤和智と申す者です。

 突然のお手紙で失礼いたします。

 本日は、丸橋様が本年5月18日に出されました、『退化する若者たち』(PHP新書。以下、「同書」と表記)の内容に関しまして、それに強い遺憾の意を示すとともに、同書におきまして「退化する若者たち」と批判されている世代と同世代の人間として抗議する目的で、筆を執った次第であります。

 なお、この質問状は「公開質問状」という体裁をとっており、これと同内容の文章が、私のブログにて掲載されます。もし丸橋様がご返答されるのであれば、全文を引用してもかまわないか、あるいは要旨だけにしていただくか、あるいは掲載をお望みにならないかということを明記されると幸いです。

 なにとぞご容赦ください。

 本題に入ります前に、私のことについて簡単に述べさせていただきたいと思います。

 私は昭和59年(1984年)、岩手県釜石市――かつて新日本製鐵の企業城下町として栄えた町で、新日鐵釜石のラグビーチームは、地域リーグとなった今でも有名です――に生を受けました。そして、福島県いわき市(~生後11ヶ月、および小学6年~中学卒業)と宮城県仙台市(生後11ヶ月~小学5年、および高校1年~)で育ちました。現在、冒頭にも示しましたとおり、東北大学工学部で建築学を学んでいます。

 また、最近は、青少年問題に関して物書きとして仕事もしております。そもそも私が青少年問題に興味を持ったのが平成12年(2000年)、いわゆる「17歳」がキーワードとなった年です。そしてそこにおける青少年に対する「語り口」への疑問から青少年問題言説の研究を個人的に行うようになり、大学に入ってからは新聞や雑誌に投稿し、平成16年(2004年)11月――大学2年のときです――に、青少年問題言説研究をテーマとしたブログ「後藤和智事務所 ~若者報道と社会~」を開設しました。後に「新・後藤和智事務所 ~若者報道から見た日本~」とリニューアルし、現在に至ります。

 そもそも私が青少年言説の「おかしさ」に本格的に気がついたのが、平成13年における「荒れる成人式」報道です。それ以来、特に成人式に関しては強い関心を持ち続け、平成17年と平成18年に2年にかけて、仙台市成人式実行委員会として、仙台市の成人式の企画・運営にかかわってきました(平成17年は副実行委員長)。いずれも大成功を収めました。

 平成18年には、本田由紀氏(東京大学助教授)にお誘いいただいて、初の著書となる『「ニート」って言うな!』(光文社新書)を、本田氏と、内藤朝雄氏(明治大学助教授)との共著として出版しました。それ以降、主としていくつかの青少年関係のNPOからイヴェントやトークショーのお誘いをいただいて、その都度参加しております。今年6月には、2冊目の著書が、これも10数名の共著ですが、双風舎から出る予定です。

 さて、これより本題に入ります。

 丸橋様は、同書において青少年における不登校や「ひきこもり」の増加、および「ニート」の増加に関して、その原因は社会的なものではなく、むしろ若年層における「生物学的な」変化であるとしております。

 しかし、青少年問題言説に深くかかわってきた私としましては、なぜ丸橋様がそこまで自らの理論に
自信を持てるのか、ということが理解できないのです。

 ・青少年問題をめぐる認識について

 そもそも同書における、丸橋様の青少年問題に関する認識が極めて杜撰なのではないか、ということです。

 第一に、丸橋様は、冒頭(3ページ)において、以下のように書かれております。曰く、

―――――

 「日本人の活力は低下しているのではないか」と、危惧している人は多い。

 とくに若者に対してである。若いくせに元気がなく、動きが鈍く、反応が遅く、耐久力がなく、疲れやすい。さらに、やる気がない。精神的に虚弱で、人間関係や社会の関係から破綻し、脱落する者が増加している。

 不登校生徒やニートと呼ばれる働かない若者が社会問題となって久しい。

 しかも、活力や能力の低下という状況を超えると、人格の崩壊に進んでしまい、暴力や非行、犯罪をひき起こす例も多くなっている。その犯罪の内容も、きわめて非人間的なものが多い。

―――――

 と。

 少なくとも、この部分だけに関しても、たくさんの事実誤認が確認できます。

 例えば、故・小此木啓吾氏(精神科医)が、「モラトリアム人間」なる造語を発表したのが、昭和46年(1971年)のことで、その「モラトリアム人間」の心理構造が我が国のあらゆる年代・階層に共有する性格である、と発表したのが昭和52年(1977年)です(注1)。その年代においていわゆる「若者」と呼ばれていた人たち(つまり、昭和25年~35年ごろに生まれた人たちです)は、丸橋様の定義するような「退化病」が進行していた世代の範疇から外れています。

 さらに言えば、古代エジプトの壁画から「今時の若い者は…」という趣旨の文章が発見された、とも言われますから、大人たちが、同時代の青少年を嘆いていた、というのは、洋の東西と時代を問わず普遍的に存在するものでしょう。

 しかしながら、現代の青少年言説は、そのような、いわば「伝統的」な青少年不信の範疇からさらに逸脱しているようにも思えます。残念ながら、丸橋様の青少年論も、この「逸脱した青少年言説」の領域に踏み込んでいるように思えます。これに関しては後述します。

 閑話休題、本題に戻ります。さて、近年騒がしい「ニート」に関してですが、これも、丸橋様、というより、社会の大部分の認識が間違っているとしかいえません。そもそも我が国におきましては、「ニート」とは18~35歳の、仕事についていなければ、教育や職業訓練も「受けていない」人たちの事を指します。それが、特にマスコミを中心に、「精神の虚弱な若者」「不道徳な若者」などという、必要以上に病理的なレッテルばかりを貼り付けられて、もはや実態とはかけ離れたイメージばかりが過度に先行している、といった状況です。

 しかしながら、その「ニート」と呼ばれる人たちの内実を見てみる限り、このようなプロファイリングは率直に言えば間違いとしか言いようがないのです。

 「ニート」と呼ばれる人たちは、「非求職型」(注2)「非希望型」(注3)に大別されます。そのうち、ここ10数年で増加したのは、マスコミにおいて「典型的ニート」とでもいうように採り上げられるような「非希望型」――マスコミが好き好んで採り上げるのは、その中でも特に「病理的」に見えるケースです――ではなく、むしろ「非求職型」です(注4)。また、ここの事例を見ましても、一筋縄では決して語れないという、それぞれに異なった事情が見受けられます(注5)。

 そもそも「ニート」という言葉は、平成15年(2003年)に英国から導入された概念です。この概念は、英国においては、年齢層を16~18歳に限定し、さらに「社会的排除」という観点を含んでおりました。しかしながら、我が国に導入され、さらにさまざまなメディアによって好き放題に採り上げられることによって、「社会的排除」という視点を剥奪され、通俗的な青少年問題言説の新しい概念として、現在に至るまで誤解にさらされ続けております(注6)。

 少年による凶悪犯罪に関しましても、統計的な検挙数は昭和35年(1960年)ごろを境に減少し、殺人に関してはおよそ3分の1、強姦に至ってはおよそ10数分の1という減少度を示しております(犯罪白書)。平成9年(1997年)に、強盗が急増していますが、その後に強盗の件数がほぼ横ばいになっていることからもわかるとおり、これはむしろ「強盗」とカウントされる敷居が低くなったことを表しています。検挙率が低くなっているから実際の犯罪は増加しているのだ、という声もありますが、これも警察の検挙方針の転換によるものであり、実際の犯罪の件数とはあまり関係のないものです(注7)。

 少年犯罪の事例に関しましても、『青少年非行・犯罪史資料』という本(注8)や、「少年犯罪データベース」というサイト(注9)を見ればわかるとおり、凶悪化というのがあまり正当性をもたない通説であることがわかります。

 この点に関しまして、私が丸橋様にお伺いしたいことは以下のとおりです。

 1. 丸橋様は、「ニート」や不登校について語るにあたって、何か客観的な資料、あるいは文献に当たったのでしょうか。
 2. 丸橋様は、少年による凶悪犯罪に関しまして、それが減少していることをご存知でしょうか。
 3. 丸橋様は、若年層に関する経済格差や不平等に関する文献、資料に当たったのでしょうか。
 4. いわゆる「ニート」対策に関する本(注10)は参照されましたでしょうか。あるいは、景気回復・デフレ脱却こそが「ニート」問題の根本的な解決につながる、という経済学者の論説(注11)があることはご存知でしょうか。

 ・丸橋様の「語り口」について

 さて、丸橋様は、青少年問題の「根本的な原因」として青少年の「生物学的」な「退化」であるとしておられます。

 また、丸橋様は、この本の中でしきりに「退化病」という言葉を用いておられます。要するに、現代の若年層は「退化」し、しかもそれが「病」であるという風に丸橋様が捉えているとみなしてよろしいでしょうか。

 しかし、丸橋様は、ある「生きづらさ」を抱えた個人、さらにはある世代全体の人たちに対して彼/彼女を「病」であると断定し、自分、あるいは彼/彼女ら以上の世代より劣った――つまり「退化」した!――人間として中傷する、ということに関しまして、何らかの羞恥心を抱かれたのでしょうか。

 私が同書を読んでみる限り、丸橋様がそのような羞恥心を感じられていたようにはとても見えませんでした。

 そもそもわが国において、丸橋様のような大っぴらな青少年言説が展開されるようになったのは、ここ10年のことです。それまでは、青少年を批判しつつも、青少年に希望や期待を寄せているような青少年言説が主流でした。ところが、平成9年(1997年)の、いわゆる「酒鬼薔薇聖斗」事件以降、青少年を過激に罵り、あるいは青少年が「生物学的に」劣ったものである、とする言説が平然とまかり通るようになりました(注12)。「~症候群」といった類の言説もまた、やはり平成9年ごろから青少年をバッシングするようなプロファイリングがやたらと目に付くようになりました(注13)。

 こと青少年の「退化」「劣化」を「科学的」に「証明」したとする本(注14)に関しましては、その多くが科学を濫用して現代の青少年をバッシングするとともに、自分の理論について根拠の乏しい自信を持っているのが特徴です。しかし、彼らの論理も、結局のところ、たとえば少年による凶悪犯罪は増加していない、「ニート」は「怠けた若者」を意味するわけではない、という事実を提示すればたちどころに崩れてしまうのもまた特徴です。

 現代の青少年が、「生物学的に」劣ったものである、と証明なさりたいのであれば、まず客観的なエヴィデンス(証拠立て)が必要です。丸橋様の主張であれば、不登校や「ひきこもり」、および「ニート」の人たちが、そうでない人たちに比して歯の噛み合わせや骨格が悪い人が有意に多い、という客観的なデータが必要です。

 ところが丸橋様は、例えば「今の若者には~」などといった語り口で、そのようなエヴィデンスの提示を放棄されております。しかしながら、たといあなたが学者ではなくとも、相手を納得させるのであれば、具体的な資料の提示、および反証可能な緻密な論理立てが必要ではないかと思いますし、私も青少年言説を研究する際にはできるだけ実践できるようにと心がけております。

 また、統計学には、逆相関逆因果(指摘がありましたので5月24日に訂正しました)という考え方があります。つまり、AとBに有意な相関関係があり、「AからBが引き起こされている」と思っていましたが、実際に精査してみたら「BからAが引き起こされる」というのが正しかった、というものです。また、擬似相関という考え方もあます。つまるところ、AとBに有意な相関関係があり、「AからBが引き起こされている」と思っていましたが、実際に精査してみたら、「(AやBとは別の事象である)CからAとBが引き起こされていた」というのが正しかった、というものです。

 要するに、丸橋様の「観察」された事例において、歯の噛み合わせと不登校に有意な相関がありましたが、それが「歯の噛み合わせが悪いから不登校になる」のか、あるいは「不登校だから歯の噛み合わせが悪くなった」のか、あるいは擬似相関なのか、というのが曖昧にされたままなのです。さらに丸橋様は、自らの経験談を世代全体に暴力的に一般化して、「噛み合わせの力が弱くなった現代の若者は~」などという方向に飛躍してしまっているのです。

 「退化」の話に戻りますが、このような言説を振りかざすことによって、現実の青少年が不利益を被る、あるいは同書を読んだ青少年が不快に思う、ということに関して、何らかの想像力は働いているのでしょうか。そもそも、たとえば「体罰」と称して4人の若い人たちを死に至らしめたのに、たった6年で娑婆に戻ってきて、何事もなかったかのように教育論を展開するような人とは違い、彼らはただ学校に通っていない、あるいは働いていない、あるいは諸事情によって何らかの「生きづらさ」を抱えているだけなのに、丸橋様は彼/彼女らを「退化」した、劣った人間と、蔑視しているのです。そのような丸橋様に、私は絶対に診療を受けたくない、と思いました。私は軽い顎関節症をわずらっていますが、通常の歯医者で教わった顎関節症治療のトレーニングをして治しています。

 丸橋様のこのような行為は――このような言葉はあまり使いたくないのですが――言論の「品格」をあまりに欠いた行為であり、さらにいうなればレイシズム(人種差別)と言うほかありません。

 付け加えますと、若い人たちのみならず、近年においては35~50歳の人たちにおいても「無業」の人が増加しております(注15)。丸橋様は、彼らもまた、「退化」して求職行動を放棄したものとみなすのでしょうか。

 この点に関しまして、丸橋様にお伺いしたいのは以下のとおりです。

 1. そもそも同書は、どのような人をターゲットにして書かれたのでしょうか。
 2. 丸橋様は、「退化」という言葉を使うに際して、慎重に取り扱おうとされたでしょうか。

 ・「保守主義」について

 丸橋様は、最後のほうで、「いのちの保守宣言」と題し、文化の型と質を取り戻すことを主張されています。

 しかしながら、丸橋様の「保守主義」とは、私には単なる青少年への憎悪にしか見えないのです。

 そもそも丸橋様は、次のように述べておられます。曰く、

―――――

 戦後の日本人は右も左も、保守も革新も、家族制度や家業や故郷、景観といった伝統の基礎から離れることこそ、自由であるかのように誤解してきた。その結果、文化は形なきまでに崩壊し、人間の形も質も融解してしまったのである。人間とは思えないような若者の増加が、それを示しているのである。(191ページ)

―――――

 このような物言いを、青少年言説の研究家としての私は、何度も見てきました。特に「人間とは思えないような若者」など、若年層を見下すのもいいところですが、青少年の「堕落」なるものが戦後日本の「失敗」を象徴している、といわれたら、若い人たちはどのような反応を示すでしょうか(私の理想としましては、「あ、そうなの。で、それと自分が何の関係があるの?」とばかりに受け流すのが望ましいと思っているのですが)。

 丸橋様、および世の中の青少年をしきりにバッシングしている人たちは、多くの青少年は、バッシングしている人たちが見ていない、あるいは意図的に無視しているところで一生懸命に自らの人生を生きているということを忘れているのではないでしょうか。

 たとえば丸橋様は、不登校に関して、医学的な「治療」が必要な対象として捉えているように思えます。しかし、世の中には、丸橋氏のような、あるいは医学的な「治療」を受けずに、自分の力で、あるいは社会的な支援でもって不登校や「ひきこもり」から脱却した人がたくさんいます。もちろん、医学的な「治療」を要する人もいるかもしれませんが、そのような主張が高じて、現代の若年層全員が「病気」であるような物言いはやめてほしいのです。

 また、乾彰夫氏(東京都立大学教授)らが行った、東京圏の18歳の人たちに対して行ったアンケートにおいても、彼らはしっかりとビジョンを持っていること、しかしそのビジョンが親の経済的状況によって左右されたり、あるいは何らかの理由で崩されたりしていること、そしてそれでも彼らは懸命に生きていることが見受けられます(注16)。

 付け加えて言いますと、丸橋様のおっしゃっているような「いのちの保守宣言」は、果たして誰に向かって言われるものなのでしょうか。丸橋様は、現代の子育てが青少年を堕落せしめた、とおっしゃっていますが、それは結局のところ、現実の若い親たちに対するバッシングに他ならないのではないでしょうか。要するに、丸橋様のごとき人が、昔はよかった、それに比べて今の若いやつらは本当にだめだ、自分の若いころに戻せ、と叫べば叫ぶほど、若い人たち、特に若い親たちの肩身は狭くなってしまうのではないか、ということです。

 結局のところ、丸橋様は、自意識を満たすために、現代の青少年がいかに「劣っているか」ということを「科学的」説明――しかし、その前提からして間違っている――でもって「証明」しているだけではないか、と私は思うのです。

 宮崎哲弥氏(評論家)は、最近の「保守主義」の潮流について、興味深い論考を朝日新聞に発表しています。曰く、

―――――

(前略)

 彼ら(筆者注:注17)は、関係概念としての保守のあり方に不満を抱き、自性的、体系的な「主義」への再編を目指した。「~に対する保守」から「~へ向かう保守」への脱皮を志向したのである。

 そこで、従来は自明視されていた「伝統」や「慣習」を反省的に捉え直し、高度に抽象的な理念として再提示する方法が採られた。その再帰的な構成は、確かに保守主義という名に相応しい思想的内実を備えていた。然るに、保守派における理解や支持は十分に拡がらなかった。

(略)

 近年のジェンダーフリー・バッシングに伴う、性教育に対する一部保守派の攻撃の様子をみれば、もはや保守の美点の一つであった現実主義すら失調しているのではないかとすら思える。

 適切な性教育が、性病の蔓延や妊娠中絶の増加を食い止め、性交の初体験年齢を上げる効果があるとしても、彼らはほとんど聞く耳を持たない。純潔を教えさえすれば、純潔が実現すると信じているかのような彼らの態度は、平和さえ唱えていれば、それが実現すると信じた空想的平和論著の姿勢と瓜二つだ。

 そこに自省の契機も、熟慮のよすがもなく、ただ断片的な反応――それもしばしば激越に走る――しか看取できないとすれば、それらはもはや保守とも保守主義とも無縁の、単なる憎悪の表出に過ぎない。

(宮崎哲弥「進む保守思想の空疎化 「新たな敵」求めて散乱」2006年5月9日付朝日新聞夕刊/夕刊のない地域は10日付朝刊)

―――――

 果たして、丸橋氏の「いのちの保守宣言」は、どちらに該当するでしょうか。私には、どうしても後者――すなわち、青少年に対する「憎悪の表出」としての空想的「保守主義」――にしか見えないのです。

 ここに興味深いデータがあります。社会学者の浅野智彦氏らが、都市部の若年層に対して平成4年(1992年)と平成14年(2002年)行ったアンケートがあります\footnote{浅野、前掲書}。興味深いデータはいろいろありますが、その中でもさらに興味深いのが、現代の青少年の道徳・規範意識は決して後退していない、さらには、見た目・所持品・日ごろの行動、大きな社会への意識――たとえば「愛国心」――、「いま-ここ」重視の志向性などと、道徳・規範意識との有意な相関関係は認められない、としています(注18)。そして、アンケートを分析した人は、以下のように結論付けています。

―――――

 若者たちに規範意識があるか/ないかという議論は、もうこのくらいにしていいのではないか。批判を受ける当事者(=若者)に尋ねてみると、規範の崩れを垣間見ることはできない。これは決して、若者たちの自意識が高いのではなく、また自己を省みる能力が薄れているからというわけでもなさそうだ。批判をしている発信者にこそ、穿った固定観念があるのではないか。なぜ大人社会は若者への評価を厳しくするのか、その背後にある要求を解明していく時期にきたのかもしれない。

(略)

 では、大人が承認したがらないのはなぜか。たとえば、大人社会の疲弊した内部システムへのバッシングは自己否定になる。しかし、未承認者へのバッシングは自己否定にならない。部外者として扱えばよいからだ。若者を事前に怪しいと予言しておいて、何か問題が起きたときに、「彼らを承認しなくてよかった」と自己肯定できるストーリーが用意されている。部外者のしたことは、当事者の責任にならずに済む。少年法改正のときの手法と同じように、悪役を用意し、現状の大人社会の維持のために都合よく操作したいという目論見が隠されている。

(浜島幸司「若者の道徳意識は衰退したのか」、浅野智彦(編)『検証・若者の変貌』勁草書房、222~224ページ)

―――――

 現代の青少年言説は、まさに当事者のいないところで自称「善良な」大人たちが勝手に騒いでいるだけ、としか言いようがないのです。もし丸橋様が、現代の青少年や若い親たちの心理を無視し、ただ空疎に「いのちの保守宣言」だったり、あるいは「故郷」だとか「人間性」などを唱え続けるのでしたら、丸橋様もまた、「愛国」を叫びながら、結局のところ何もしようとしない、それどころか国を滅ぼす「売国奴」としかいいようがありません。現実の青少年を救うのは、大言壮語にまみれた青少年言説ではなく、青少年を取り巻く現実に対して、物事を個人の内面や身体的能力、および教育に責任を帰してしまうのではなく、さらに経済システムや政策までも含めて考えることではないでしょうか。

 残念ながら丸橋様は、単純に大言壮語を振りまいているようにしか、私には見えないのです。それが青少年にとって効果があるのか、ということに関しては、もう少しお考えになったほうがいいのではないかと思います。もし丸橋様が本気で社会をよくしたいとお考えであれば、むしろ一つの世代を、当事者のいないところで誹謗中傷するような議論は避けるべきではないでしょうか。

 戦後民主主義教育が悪い、戦後の食生活が青少年から活気を奪ったのだ、といくら丸橋様が主張したとしても、それは結局のところ、一部の「善良な大人」たちが「そうだ、やっぱり今の青少年は異常なんだ」と内輪で納得するだけの「証拠」として簡単に消費されるだけなのです。そして当事者には何の利益もありません。これは決して、彼/彼女らが、戦後民主主義という「異常な」空間で育ってきたから、彼ら自身が異常であることに気がつかない、というものではありません。むしろ、「語る」側、あるいは青少年言説を「消費」する側こそが問題にされるべきなのです。

 確かに、現代の青少年は、丸橋様の「理想」とする社会とはまったく違う社会を生きていることは間違いないでしょう。しかし、だからといって現代の青少年や若い親たちを、自らの空疎な主張の押し付けによってバッシングしていい、という理由には決してなりません。青少年や若い親たちを「研究」する人に認められることは、むしろただ声が大きいだけの甘言から一歩引いて、冷静な目で見ることではないでしょうか。

 この点に関して、私が丸橋様にお伺いしたいのは次のとおりです。

 1. 丸橋様は、青少年や若い親の現実についてどれほど考慮なさったのでしょうか。
 2. 丸橋様は、青少年問題に関する、スローガンではない現実的な解決策をお持ちでしょうか。
 3. 丸橋様は同書を、自らの「治療」の宣伝としてお書きになったのでしょうか。

・最後に

 政治学者のマックス・ヴェーバーは、著書『職業としての政治』の結びにおいて、以下のように述べております。

―――――

 政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である。もしこの世の中で不可能事を目指して粘り強くアタックしないようでは、およそ可能なことの達成も覚束ないというのは、まったく正しく、あらゆる歴史上の経験がこれを証明している。

(マックス・ヴェーバー『職業としての政治』脇圭平:訳、岩波文庫、1980年3月)

―――――

 この言葉は、私の座右の銘としている言葉です。ここで書かれたことは、決してひとり政治のみを
さしているのではなく、何かについて論じる場合も、同様のことであると思います。

 最後になりますが、丸橋様のご健康と、ますますのご発展をお祈りします。

 後藤和智 拝

(注1)小此木啓吾『モラトリアム人間の時代』中公文庫、1981年11月に収録
(注2)働きたいという意思はあるが、具体的な求職行動を取っていない人たちを指します。
(注3)働きたいという意思もなく、具体的な求職行動も取っていない人たちを指します。
(注4)本田由紀ほか『「ニート」って言うな!』光文社新書、2006年1月、25ページ
(注5)小杉礼子(編)『フリーターとニート』勁草書房、2005年4月
(注6)「サンデー毎日」2005年1月9・16日号
(注7)浜井浩一(編著)『犯罪統計入門』日本評論社、2006年1月
(注8)赤塚行雄(編)、犀門洋治(協力)、刊々堂出版社、全3巻、1982~1983年
(注9)http://kangaeru.s59.xrea.com/
(注10)例えば、二神能基『希望のニート』(東洋経済新報社、2005年6月)、あるいは、工藤啓『「ニート」支援マニュアル』(PHP研究所、2005年11月)など
(注11)例えば、若田部昌澄『改革の経済学』ダイヤモンド社、あるいは、田中秀臣「景気回復で半減するはずのニートを「経済失政」と「予算」の口実にするな」(「SAPIO」2005年11月22日号)
(注12)浅野智彦「若者論の失われた十年」、浅野智彦(編)『検証・若者の変貌』勁草書房、2006年2月
(注13)斉藤弘子『器用に生きられない人たち』中公新書ラクレ、2005年1月
(注14)森昭雄『ゲーム脳の恐怖』NHK出版生活人新書、正高信男『ケータイを持ったサル』中公新書、澤口俊之『平然と車内で化粧する脳』扶桑社文庫、岡田尊司『脳内汚染』文藝春秋、など
(注15)玄田有史「中年齢無業者から見た格差問題」、白波瀬佐和子(編)『変化する社会の不平等』東京大学出版会、2006年1月
(注16)乾彰夫(編)『18歳の今を生きぬく』青木書店、2006年4月
(注17)評論家の西部邁氏や、京都大学教授の佐伯啓思氏など
(注18)浜島幸司「若者の道徳意識は衰退したのか」、浅野、前掲書

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2006年4月 2日 (日)

2006年1~3月の1冊

 1:浅野智彦(編)『検証・若者の変貌』勁草書房、2006年2月
 アンケート調査の見本とでも言うべき本であり、なおかつ青少年問題言説の新たなる地平を切り開くべき画期的な本。まず評価できるのは著者たちの誠実さで、統計データの扱いには好感が持てる。また、安易に青少年を危険視する言説から遠く離れて、できるだけ「素顔の」青少年像に迫ろうとする気概も感じられるし、もちろん安易な青少年言説にただ乗りした答えを出そうともしない。

 2:浜井浩一(編著)『犯罪統計入門』日本評論社、2006年1月
 犯罪統計の「正しい疑い方」。悪化したのは実際の治安ではなく、むしろ「体感治安」であり、なおかつそれの悪化を引き起こしたファクタは、様々な社会的な変化に求められることができる。第一に警察と市民の距離が近くなったこと。第二に警察が「素直に」なったこと。そして第三に携帯電話が普及したこと。特に第三の理由に関しては首をかしげる向きが多いと思うが、その鍵は本書に隠されている。

 3:中島岳志『中村屋のボース』白水社、2005年4月
 インド独立運動の志士、ラース・ビハーリー・ボースの評伝。ボースはインド独立運動でのクーデター計画に失敗し、29歳で初めて故郷のインド(当時はイギリス領)を離れ、物資を補給するため偽名を使い日本に潜入する。そこで中村屋の人々や日本のアジア主義者に出会い、またボースは日本のアジア主義運動に強い影響を与えていく。日本近代史の影で動いた、とてつもなく大きな存在を感じさせてくれる。大佛次郎論壇賞受賞作品。それにしても「中村屋のカリー」が食べたい。

 4:岡本薫『日本を滅ぼす教育論議』講談社現代新書、2006年1月
 著者のOECDでの経験から、欧米諸国と我が国における教育言説の分析をし、そこから「教育改革」の「失敗の本質」をあぶりだす、という好著。我が国の教育言説はスローガンばかりで定量的な議論が行なわれず、だから授業時間の削減も、それに対する批判も不毛だとか。いわゆる「過激な性教育」に関する記述は的を外しているけれども、それでも我が国における教育言説、更には青少年言説全体を考慮する上でも避けて通れない一冊に仕上がっている。併読すべき本としては、広田照幸『教育言説の歴史社会学』(名古屋大学出版会)を。

 5:芹沢一也『ホラーハウス社会』講談社+α新書、2006年1月
 『狂気と犯罪』(講談社+α新書)の続編。前著では精神異常者による凶悪犯罪を取り扱っていたが、今回はそれと同時に少年犯罪まで風呂敷を広げている。少年犯罪を取り巻く、あるいは受容する社会の変容や、環境犯罪学に対する疑問は必読。

 6:好井裕明『「あたりまえ」を疑う社会学』光文社新書、2006年2月
 社会学的フィールドワークのセンスを概説した本で、論文や論考というよりはエッセイに近い。しかし行間からは著者の誠実さと取材対象への敬意が絶えず染み出しており、読んで爽やかな気持ちになれる。また、それと同時に、俗流若者論のつまらなさが、世間の「あたりまえ」にただ乗りするということと、そこから生じる権力に全く気づかないところにあることにも気づかされる。

 7:八尋茂樹『テレビゲーム解釈論序説/アッサンブラージュ』現代書館、2005年8月
 テレビゲームを一つの「文化」として捉えた論文を集めたもの。「青少年に対する悪影響」なる不毛な論議よりも、冷静に一つ筒評価を下していく、という姿勢は評価できる。テレビゲーム的な表現に対するリテラシーを身につけるうえでは必読、特に悪影響論にどっぷりと浸かっている親御さんや自称「識者」や政治家の方に読んで欲しい。

 8:ヘンリー・ペトロスキー、中島秀人:訳、綾野博之:訳『橋はなぜ落ちたのか』朝日選書、2001年10月
 橋脚の崩壊をはじめとする設計における様々な「失敗」の事例から、設計とは何か、あるいは技術とは何か、ということを問いかける本。有名なタコマ海峡橋の崩壊のほか、各種「失敗」が詳細に述べられておりわかりやすい。特に土木や建築に進もうと考えている人は必読。

 9:上野加代子(編著)『児童虐待のポリティクス』明石書店、2006年2月
 児童虐待に関する問題を、「こころ」の問題から「社会」の問題へと転換しようと試みた本。お勧めは児童福祉司の山野良一氏の手による第1章と第2章で、著者の真摯さと批評眼が光る文章である。そのほかにも、「メーガン法」を巡る議論や、「児童虐待」という問題の構築など、興味深い話題が満載。

 10:伊藤元重『はじめての経済学』上下巻、日経文庫、2004年4月
 経済学の概説書。概説書らしくわかりやすく書かれており、経済に関する用語を整理するためにはうってつけ。特に上巻がお勧め。

 11:藤原帰一『戦争を記憶する』講談社現代新書、2001年4月
 広島、ホロコースト、南京など、戦争の「記憶」の擦れ違いによって引き起こされる問題が多い現在において、戦争を「記憶する」ということはどういうことか、ということを考える本。お勧めは、第3章における、アメリカの文学作品や映画から見える「戦争」観念の変遷を記述した部分で、日本の状況と照らし合わせてみれば、「戦争」というものが国民の思想に与える影響の違いがはっきりと目立つ。今度は「9・11」同時多発テロ事件についても扱って欲しい。

 12:宮台真司、宮崎哲弥『M2:思考のロバストネス』インフォバーン、2005年12月
 「サイゾー」連載中の対談の書籍第4弾。相変わらず読ませる内容。ただ、宮台氏の青少年問題に関する発言の一部や(138~139ページ)、宮崎氏の、三浦展『ファスト風土化する日本』(洋泉社新書y)への肩入れ(306ページ)が気になるところだけど…。小林よしのり氏との「沖縄論」鼎談も収録。

 ここで宣伝。4月18日頃発売予定の「サイゾー」平成18年5月号の「M2」対談で、内藤朝雄氏(明治大学専任講師)と私がゲストで参加します。もちろんテーマは「若者論」。先立って、宮台氏がその対談における宮台氏の発言の要旨をブログで公開しております

 13:千田稔『伊勢神宮――東アジアのアマテラス』中公新書、2005年1月
 古代から終戦直後に至るまでの天照大神という存在の歴史をたどりつつ、日本における「神」とはどういうものであったのか、ということを読み解く内容。特に天照大神のルーツを求め東アジアにまで視点を広げるという作業は読んでいて楽しい。植民地時代の神社政策にも論及。

 14:中根千枝『社会人類学』講談社学術文庫、2002年4月
 東アジアのフィールドワークを通じた、血縁、世代、階層、集団構造などの様々な事例を通して、社会人類学とは何かということを解説した本。民族や社会によって様々な形態が存在するほか、新たな事態に対応して既存の形態がどのように変化していくか、ということについても示唆に富む。

 15:本田由紀(編)『女性の就業と親子関係』勁草書房、2004年4月
 平成14年から15年にかけて、「女性の就労と子育て――母親たちの階層戦略」というテーマで東京大学社会学研究所が行なった調査を分析したもの。ステレオタイプで語られがちな事象を様々な角度から仔細に分析する。

 16:斎藤美奈子『あほらし屋の鐘が鳴る』文春文庫、2006年3月
 相変わらず面白い斎藤美奈子氏の本。本書は平成11年2月に朝日新聞社から出版されたものを文庫化したもので、「おじさんマインドの研究」(社会時評)と「女性誌探検隊」の2部から構成される。前半には渡辺淳一、竹内久美子、林道義、石原慎太郎の各氏に対する批判もあり。しかし本書における石原慎太郎論や「「父性の復権」論」論を読んでいると、それでも当時(平成10年)の状況が「嵐の前の静けさ」に思えて仕方がない。

 17:佐藤卓己『八月十五日の神話』ちくま新書、2005年7月
 終戦を決定付けたとされる「玉音放送」に関するメディアの採り上げ方などに触れて、「終戦記念日」とは何か、ということを考察した労作。特に歴史教科書の考察はアクチュアル。家永三郎氏の「検定不合格教科書」や、「新しい歴史教科書」にも触れられている。

 18:作田明『現代殺人論』PHP新書、2005年12月 
 殺人のカテゴライズを概説した本だが、最初のほうで少年犯罪の凶悪化とメディアの悪影響が否定されている点が興味深い。殺人学の基礎として。

 19:日垣隆『使えるレファ本150選』ちくま新書、2006年1月
 簡単に言えば「レファ本のレファ本」。文章を書いていると、いろいろなところで辞書や参考書などに頼らざるを得ないが、どのようなものを使うべきか、ということを解説している。10000円以上もする高価なものから1000円程度のものまで広く紹介しているという点に脱帽。

 20:町田健『チョムスキー入門』光文社新書、2006年2月
 ノーム・チョムスキーの「生成文法」理論の概説書。説明がわかりやすく、特に家庭教師で国語や英語を教えている人は読んでおいて損はないけれども、もう少し内容を詰め込んでくれたほうが…。

 ワースト1:速水敏彦『他人を見下す若者たち』講談社現代新書、2006年2月
 他人を見下しているのはどう見ても著者です、本当にありがとうございました。「仮想的全能感」という概念を創出することはいいけれど、著者の青少年に関する認識が杜撰だし、著者が行なったとする実験の分析もこれまた杜撰。あまつさえ正高信男まで援用してしまう始末(129ページ)。

 著者の携帯電話に関する記述は特に疑問が多い。詳しくは、1の浅野智彦氏の本における福重清「若者の友人関係はどうなっているのか」と浜島幸司「若者の道徳意識は衰退したか」、及び日本放送協会放送文化研究所『放送メディア研究3』(丸善)の、辻大介「ケータイ・コミュニケーションと「公/私」の変容」を参照されたし。また、本書への批判として、「アウフヘーヴェンⅢ」(「冬枯れの街」)と「たこの感想文」による書評も。

 もう一つ言うと、読売や朝日などに掲載されている本書の広告における表現って、どう見ても「本書を読んで若い世代を見下しましょう」って宣伝だよね。

 ワースト2:西尾幹二、八木秀次『新・国民の油断』PHP研究所、2005年1月
 ある仕事の関係で読んだのだが、どう見てもアジビラです。本当にありがとうございました。

 本書に対する批判・検証に関しては、「成城トランスカレッジ!」のこちらの記事が良くまとまっているので、こちらに一任したい。

 どうでもいい話なのだが、本書の巻末に「新しい歴史教科書をつくる会」の入会案内やらシンポジウムの案内やらが載っているのは…。

 ワースト3:藤原正彦『国家の品格』新潮新書、2005年11月
 どう見ても妄想の産物です、本当にありがとうございました。そもそも著者の考える「品格」というのが、単に著者の自意識を満たしてくれるものでしかないのでは?このことは、自分が不可解だ、不満だと思っているものに対して「品格を持てばいい」としか一定ないことがその革新である。これじゃあ大東亜戦争だ。

 ワースト4:魚住絹代『いまどき中学生白書』講談社、2006年2月
 どう見ても調査に問題がありすぎです、本当にありがとうございました。そもそも各種グラフにおいてN値が示されていないし、著者の言うところの「ゲーム族」「ネット族」云々が如何なる割合で存在しているのもわからない。また、ゲームを4時間以上する子供などどう見ても少数派なのに(それは本書のデータでもわかるものだ)、その点も留意されていない。そのほか、調査地点にまでバイアスがある。

 ワースト5:中沢正夫『子どもの凶悪さのこころ分析』講談社+α新書、2000年11月
 どう見ても「17歳騒動」の便乗本です、本当にありがとうございました。良心的な記述も少しは見られるけれども、まあ著者の現代の青少年に関する記述はそれこそ青少年を病理視しすぎ、いわば見下している。こういう本を見るにつけ、「17歳騒動」の時に少年犯罪は増えていない、とデータを示した人(長谷川真理子氏や広田照幸氏など)のほうがよほど「品格」があるよ、と感じてしまう。

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2006年2月 4日 (土)

トラックバック雑記文・06年02月04日

 今回のトラックバック:赤木智弘/木村剛/「ニート・ひきこもり・失業 ポータルネット」/渋井哲也/芹沢一也/「S氏の時事問題」/「ヤースのへんしん」/「読売新聞の社説はどうなの・・2」/保坂展人/「topics:JournalistCourse」

 過日、『「ニート」って言うな!』(光文社新書、本田由紀氏と内藤朝雄氏との共著)という本を出したわけですが、ネット上の各所で書評がなされています。ちなみにamazon.co.jpのカスタマーレヴューなどで見られる私の文章に対する批判で、「採り上げる記事や投書の数が少ない」というものがありましたが、週刊誌の記事に関しては、大宅壮一文庫の雑誌検索CD-ROM(宮城県図書館で使用)を使って検索したのですが、本文中で採り上げた「AERA」「読売ウィークリー」「サンデー毎日」「エコノミスト」「週刊ダイヤモンド」「プレジデント」以外はめぼしい記事はほとんどなかったのが理由です。他の雑誌は、大半が平成16年末の親殺し関連の記事でした。また、「AERA」「読売ウィークリー」「サンデー毎日」の3誌に関しては、特筆すべき明確な傾向(詳しくは本を参照して欲しい)が見られたので、重点的に採り上げた次第であります。

 投書に関しては、朝日しか調べられなかったことに関しても、不満に思った方もおられましょうが、これは基本的に私の力不足です。決して各種図書館が貧弱だったからではありません。この場を借りて謝罪します。

 さて、それらの書評の中でも、私が最も重く受け止めた書評がこちら。

 深夜のシマネコblog:「ニート」って言うな! 書評(赤木智弘氏)

 赤木氏は、本の内容は評価するものの、やり方がいけない、という書評をしています。

 そういう意味では後藤さんの試みはそうした人たちを叩くことに近いのですが、本や雑誌などのメディアから抜き出すということは、結局「メディアに言説を掲載できる人」という狭い範囲でしかなく、「ニートと言う言葉を利用する一般市民」を安全圏に批難させてしまっています。
 (略)
 で、この本の場合、タイトルが『「ニート」って言うな!』で、帯書きが「なぜこの誤った概念がかくも支配力を持つようになったのか」です。これではニートが増えていることを信じて疑わない人は、絶対に手に取りません。彼らはそもそもニートという響きに侮蔑的な快楽を覚えるような捻じれた性格の人たちですから、自分が傷つくような物には決して近づきません。
 若者卑下の大きな問題は、彼らをバッシングしたところで、バッシング側はなんら痛みを感じないという点です。
 そして、ニートと言う言葉を語る時に、それがさも他者によって「この人は差別をしている」ではなく、「教育のことを語っている」という受け取り方をされる点です。
 それをひっくり返すためには、「ニートと言うことに痛みを感じない人」や「ニートを教育論だと思いこんでいる人」に手に取ってもらえる本を作ることが必要です。そういう意味で『「ニート」って言うな!』は想定すべき読者を間違えています。

 若者報道を批判しているものとして、これは深刻に受け止めざるを得ない問題です。このような問いかけは、この文章の重要な部分を、例えば「ゲーム脳」「下流社会」に変えてみても、同種の問いかけとして成り立つと思います。

 一般に「ニート」やら「ゲーム脳」やら、あるいは「脳内汚染」やら「下流社会」やらという、俗流若者論にとって格好の概念は、その概念を嬉々として使う人にとっては、自分は差別や偏見を振りまいているのではなく、自分は「教育」を語っているのだ、ということなのでしょう。しかしそれらは一皮むけば教育論ではなく単なるラベリング、更に言えば差別だったり偏見だったりするわけです。また、それらを証明するような資料は、本当にたくさんあるわけです。特に「ゲーム脳」に関しては、学術的に見れば完全に腐りきった概念といっていいでしょう。

 しかし、そのようなことが証明されたとしても、いまだに「ゲーム脳」論は妖怪の如くはびこっています。たとい「ゲーム脳」を否定する資料が出揃ったとしても、「ゲーム脳」論を嬉々として受け入れる層には少しも伝わらない。もはや量ばかり増やしても仕方がないのでしょうか。路線転換が求められているのでしょうか。ここでは「ゲーム脳」の話を使いましたが、「ニート」論だってまた同じことです。

 さて、ライブドアの堀江貴文元社長逮捕に関していくつかネタを。

 週刊!木村剛:[木村 剛のコラム] 日本は罪刑法定主義ではない?(木村剛氏:エコノミスト)
 木村氏曰く、

 ところが、逮捕の根拠である第158条違反について詳細に解説した番組はなかった。「なぜ法律違反に当たるのか」について誰も触れることなく、「ホリエモンという男あるいはライブドアという集団が如何にケシカランか」という描写にほとんどが費やされていた。
 識者らしき人々も「そもそもライブドアはマネーゲームだった」とか「ホリエモンのビジネスは虚業だ」などと自分勝手な感想を披露するだけで、事件の真相を追及しようとしない。
 具体的な犯罪内容が語られることなく、ライブドアという会社が一方的に叩かれていく。ホリエモンはいつから有罪が確定したのだろう。罪が確定するまでは「推定無罪」だと習ったような気がするが、一部の良心的な識者(「もし報道が事実ならば」という前置きをしていた)を除き、その他の出演者はホリエモンを犯罪者扱いしていた。
 この事件を語りたいなら、罪状を確定する必要がある。日本が法治国家であり、罪刑法定主義をとっているのであれば、罪状が確定できないのに、「ケシカラン罪」で犯人に仕立て上げてはならない。それが基本的人権の基本。実際、法律というものは、為政者から人々を護るために発展してきた。
 日本では、近代の智恵である「罪を憎んで人を憎まず」とか「疑わしきは罰せず」という法理が通用しないのだろうか。「人を憎んで罪を問わず」「疑わしきは叩きまくる」という現実を見ていると、中世の魔女狩りが思い起こされる。

 現在発売中の「諸君!」平成18年3月号においても、評論家の西尾幹二氏が、《ホリエモンは決して誉められるべき人物ではないが、しかし人間としてどんなに拙劣でも、人権は守られなければならない。/私は捜査が始まってから数日間、何でもかんでもライブドアを潰そうとする目に見えない大きな意思が働いているように思えて、薄気味が悪くてならなかった》(西尾幹二「誰がライブドアに石を投げられるのか」)と書いていますが、基本的にマスコミというものはある対象物が何らかの「お墨付き」を得て「叩いていい」代物になったら、急激にバッシングに走るのが常です。成人式報道を研究してきた私にはそれが痛いほどわかります。

 多くの人は報道によってしか遠隔の事象を取り扱うことはできない。従って日常的に接している報道が、そのまま受け手の現実感覚になってしまいやすい(ウォルター・リップマンの『世論』(岩波文庫)あたりが参考になります)。そして、人々の現実感覚を支配する「報道」が、果たして人々を間違った方向に誘導してはいないか。事実とは異なるのに、例えば青少年とオタクだけが凶悪化しているという報道を繰り返し、事実とは異なるステレオタイプを青少年とオタクに向けてはいないか。

 あと、堀江容疑者逮捕報道で気になるのが、「「ホリエモン」は若い世代から圧倒的な支持を受けている」というもの。私は堀江氏は余り好きではないのですが、なぜこのような報道が成されてしまうのか。そのようなことを分析したブログもいくつかありました。

 kajougenron : hiroki azuma blog:ライブドアとオウム?2(東浩紀氏:評論家)
 ニート・ひきこもり・失業 ポータルネット:ホリエモンが若者に夢を与えた?はあ?

 いつの間にか「堀江支持」派にされている感じが強い若い世代ですが(読売新聞や「AERA」は、今回の逮捕劇に関して「20代はどう見ているか」みたいな記事を組んでいた)、果たして特定の個人を勝手に「世代の代表」に仕立て上げ、ある世代の「気分」なるものを特定してしまう、という手法は、その非論理性において、そろそろ限界をきたしているのではないかと思うのですが、どうもそのような態度に対する検証が成される様子はない。これはひとえに既存マスメディアの受け手に若い世代が少ないから(笑)、ということで、マスコミが若い世代を除いた世代向けに記事を作って、結局「若い世代はこんな感じだ」みたいな報道ができてしまうのか、というのは、ちょっと考えすぎか。

 まあ、ここまで考えないと、明らかに若年層を病理視した報道がなぜ横行するのか、ということを考えることはできないかな、と。

 てっちゃん@jugem:有害規制をするなら、保健所のサイトも閉鎖しなければ・・・(渋井哲也氏:ジャーナリスト)
 社会と権力 研究の余白に:『ホラーハウス社会』について(芹沢一也氏:京都造形芸術大学講師)
 S氏の時事問題:門限は7時まで?
 ヤースのへんしん:改正青少年健全育成条例

 ますます閉塞感が増す青少年の社会環境。インターネットサイトの規制は進むは、夜間営業施設の青少年の入場が7時までにされるは、外出禁止に情報統制!日本は北朝鮮か!って突っ込みたくなります(ちなみにこの突っ込みは、宮台真司、宮崎哲弥『エイリアンズ』インフォバーン、の169ページに出てきた、宮崎氏の横浜の青少年政策に対する突っ込みのパクリです)。

 昨年『狂気と犯罪』(講談社+α新書)を上梓した芹沢氏ですが、その芹沢氏の新刊『ホラーハウス社会』(講談社+α新書)が発売されています。私は一応途中(第2章)まで読んだのですが、平成9年の神戸市の連続児童殺傷事件(「酒鬼薔薇聖斗」事件)を皮切りに、人々の少年犯罪に対する視線が変化していくさまに関する記述が興味深かった。特に83ページの《あくなき理解への欲望が、皮肉なことに、異常だとして少年の記述へと行き着いた》というのは「声に出して読みたい日本語」です。最近の少年犯罪報道――いや、若者報道のほぼ全般に見られる傾向として、少年犯罪者、更には現代の青少年を「理解のできない(=自分の思いのままにならない)他者」とか「自分の生活圏を脅かす存在」という風に「理解」していくパターンが見られます。それは「世代的な共感」だとかを持って犯罪者に「共感」してしまった視線とは真逆のものですが、身勝手な解釈という点では同一のものでしょう。

 青少年を「教育」に囲い込むことの問題というのは、基本的には自分の生活圏に囲い込む、ということとして解釈されるべきでしょう。であるから、犯罪をしでかした青少年に対する、「心の闇の解明」と言った形での理解は、ひとえに犯罪という行為によって「生活圏」の外に出てしまった少年をもう一度「生活圏」に取り戻そう、という欲望として働く行為として見える。しかしそれが更に進行すると、「生活圏」から出てしまった青少年に対する「理解」が、我々の「生活圏」の内に存在する青少年を「生活圏」の外に出させるな、という欲望につながり、「生活圏」の外の存在に対するバッシングが強まると共に、ひたすら「生活圏」の外に子供たちを「出させない」ための施策やら言説やらが横行するようになる(要するに、草薙厚子氏の所論ですね)。

 「生活圏」の外に子供たちを「出させない」ための施策やら言説というのは、そのような「生活圏」の主成分として存在している(と錯覚している)世代の個人的体験やイデオロギーと強く結びついている。従って「ゲーム脳」理論と、「脳を活性化させる」遊びとしての「外遊び」や「お手玉」などへの無邪気といっていい奨励(要するに森昭雄氏)や、あるいは旧来型(と勝手に思い込んでいる)の子育てに対する無邪気といっていい礼賛(「俗流若者論ケースファイル48・澤口俊之」参照)、あるいは「ファスト風土化」論と、それに付随する旧来のコミュニティ礼賛(「三浦展研究・前編 ~郊外化と少年犯罪の関係は立証されたか~」参照)等はそれらを如実に体現している。「ジェンダーフリー教育」に対するバッシングも然りでしょう。

 我々は、「教育は阿片である」(@内藤朝雄)という認識に立って、巷の教育言説を吟味しなければならないのかもしれません。

 あと、こういう規制を「教育」のためだ、あるいは青少年を何とかするために必要だ、と考えている皆様。そのうちそれを支持したツケが回ってきますよ。

読売新聞の社説はどうなの・・2:■「家庭」の“崩壊”少子化と改憲論議をどうやってつなげるの????
 まあ、最近の保守論壇は、青少年バッシングの為に「憲法」を持ち出したがるヘタレばかりですから…。こういう飛躍ももはや「想定の範囲内」(笑)。そもそも憲法というのは、立憲主義の考え方に立てば、国家の行動を統制するものであり、従って憲法が最高法規というものはこういう理由であり、一般国民が「憲法違反」として懲罰させられることはない…という説明はこういう連中にとっては野暮か。

保坂展人のどこどこ日記:放漫財政の大阪市でホームレス排除(保坂展人氏:衆議院議員・社民党)
 topics:JournalistCourse:大阪市がホームレスのテント強制撤去、一時もみ合い(読売新聞)(東京大学先端科学技術センター・ジャーナリスト養成コース)
 大阪市西区のホームレス住居撤去事件ですが、これの理由は3月と5月に行なわれるイヴェントのためだとか。ちなみに同種の騒動は平成10年にもあったようなのですが(読売新聞ウェブサイトによる)、イヴェントが行なわれると、そのような背景があったことも消されてしまうのだろうな…と思ってしまいました。確か愛知万博でも環境破壊が問題になっていましたっけ(「週刊金曜日」だったかな?)。
 ちなみに保坂氏のエントリーには《少年たちや酔った若者たちによる「ホームレス襲撃事件」は全国で頻繁に起きている。「人間以下」「汚い」と罵倒して、殴る蹴るの暴行を受け、大怪我をして亡くなった人も少なくない》と書かれていますけれども、《「人間以下」「汚い」》というのは、そもそも社会がホームレスに向けてきた視線そのものなのではないでしょうか。ちなみに本田由紀氏は、『「ニート」って言うな!』の50ページにおいて、「ニート」を「ペット以下」と罵った女子高生の例を紹介していました。

 生田岳志『「野宿者襲撃」論』(人文書院)、早く読まなきゃ…。

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2006年1月16日 (月)

2005年10~12月の1冊

 私が平成17年10月1日~12月31日までに読んだ本に関して、特に印象に残ったものを紹介します。ちなみに、フリーターや若年無業者問題に関する本は、別のところで採り上げるのでここでは紹介しません。

 ついでに言いますと、今月の光文社新書の新刊(17日発売)として、本田由紀氏(東京大学助教授)、内藤朝雄氏(明治大学専任講師)、そして私の3人の共著として『「ニート」って言うな!』という本が刊行されます。私の執筆パート(第3部)では主として「現代若者論の中の「ニート」論」をテーマに書きました。

 特に内藤氏の執筆部分(第2部)は、ぜひとも若者論に関わる多くの論者に見て欲しい!この部分を読めば、短絡的な若者論を熱心に振りまいてきた人(あるいは、信じてきた人)は恥ずかしくなるのではないでしょうか。

 1:広田照幸『《愛国心》のゆくえ』世織書房、2005年9月
 教育基本法改正の問題に関して、右派の「日本の教育には愛国心が足りない」という議論と、左派の「学校で愛国心を教えたら偏狭なナショナリズムにつながる」という議論の両方を排して、この問題で本当に向けられるべき問題とは何か、ということを論じた本。具体的に言えば、「公共性」とは何かということを議論の出発点として、政治的境界線の変容や、改正論者が「公共性」をどのように捉えているかということなどにも触れられており、凡百の教育基本法議論とは一線を画している。

 2:ウルズラ・ヌーバー、丘沢静也:訳『〈傷つきやすい子ども〉という神話』岩波現代文庫、2005年7月
 米国のトラウマ・ブームを批判した本。本書は、我が国でも日々勢力を強めている心理学主義的勢力に対して強烈な打撃となることは間違いないだろう。本書はまず「子供時代」が全てを決める、というトラウマ理論に対する反駁から始まり、なぜ「子供時代」の物語に我々は惹かれてしまうのか、という領域まで踏み込んでいる。ただ、筆者の遺伝子決定理論への少々過剰な肩入れが心配されるところだけど…。

 3:マイクル・シャーマー、岡田靖史:訳『なぜ人はニセ科学を信じるのか』ハヤカワ文庫、上下巻、2003年8月(上巻下巻
 米国にはびこった疑似科学を斬った本。上巻では、疑似科学ではおなじみの「宇宙人による誘拐」などのストーリーの虚構について触れられており、下巻ではホロコースト否定論と「創造科学」の虚構にスペースが割かれている。白眉はなんといっても「創造科学」に対する痛烈な批判。平成17年9月末に、産経新聞で「創造科学」を教えよ、と主張したインタヴューが掲載されたが、そのようなインタヴューを読む前に本書を読もう。

 4:本田由紀『(日本の〈現代〉・13)多元化する「能力」と日本社会』NTT出版、2005年11月
 現代の我が国において、「学力」に代表される旧来の「近代型能力」から、例えば「コミュニケーション能力」や「人間力」などといった曖昧な「ポスト近代型能力」に移行している、ということを説いた本。本書の見所は前半で、既存の「努力」概念では計ることができないような我が国の社会の変容や、「人間力」などの言説の広がりを我々に見せ付ける。ただし第4章以降は分析が少々曖昧で面白みが減じる。

 5:土井隆義『〈非行少年〉の消滅』信山社、2003年12月
 少年犯罪の「変質」から現代の若年層の「現実」を描いた本。と入っても著者は「凶悪化」を説くのではなくむしろ「稚拙化」という視座で議論を進めている。説得力のある議論が展開されているのだが、少々若年層を病理的に捉えすぎているのではないかという懸念も強く膨らんだ。またサブタイトルの「個性神話と少年犯罪」を証明しきれたかどうかも微妙なところがある。

 6:森村進『自由はどこまで可能か』講談社現代新書、2001年9月
 自由主義=リバタリアニズムの概説書。国家と個人、自由権、自己所有権、裁判、経済、家族などをリバタリアニズムはいかに捕らえるか、ということから、例えば「リバタリアニズムは特異な人間像を前提にしている」などといった疑問にも答えている。自らの政治的な立ち位置を考える上で参考にしたい1冊。

 7:杉山幸丸『子殺しの行動学』講談社学術文庫、1993年1月
 インドにおけるハヌマンラングール(サルの一種)研究の成果から、「子殺し」のメカニズムを生物学的に解き明かした本で、原書が刊行されたときは世界で大論争を巻き起こしたらしい。研究の記録とエッセイのような文章が見事に融和しており、知的な好奇心をかき立てられる。
 ※現在品切れ。

 8:今西錦司『進化とはなにか』講談社学術文庫、1976年6月
 ダーウィン進化論、及びその理論を更に先鋭化したネオ・ダーウィニズムにおける「自然淘汰説」や「突然変異」を否定し、進化が個体ではなく種のレヴェルで起きることを主張した本。本書には昭和20年代後半から昭和50年ごろまでに様々な媒体に掲載されたエッセイ6本で更生されており、今西進化論のエッセンスが俯瞰できる。

 9:稲葉振一郎『「資本」論』ちくま新書、2005年8月
 社会学や経済学の古典の理念を、「所有」「市場」「資本」「人的資本」の4つのテーマを元に再構成したもので、重要な理論(ホッブズ、ルソー、ヒュームなど)の概説とそれらに対するほかの論者の批判・論争が記されている。読みやすいので、著者の意見ということを考慮に入れれば教科書としても使える。

 10:五十嵐太郎、リノベーション・スタディーズ(編)『リノベーションの現場』彰国社、2005年12月
 我が国における様々な「リノベーション」(建物や都市の修理・改装・再活用)の記録を、講演会形式で報告したもの。私は本書第6章(テーマ6)で紹介されている仙台市卸町地区のリノベーションの報告(「仙台の人と街とリノベーション」)を読むために買ったのだが、「せんだいメディアテーク」の利用報告や卸町の問屋ツアー企画など、見所が満載だった。もちろん他のリノベーションの事例も読んでいて面白い。実際の設計から、テレビ番組「大改造!!劇的ビフォーアフター」まで。

 11:市村弘正、杉田敦『社会の喪失』中公新書、2005年9月
 市村氏が平成3年に書いた、映画に関するテキストを題材に、現在の社会における「戦争」「歴史」「解法」「自由」「世界」「言語」について政治学者の杉田氏と対談したもの。本書の白眉は、最後にテキスト抜きで交わされる「社会」についての対話。もちろんテキストを題材にして行われた議論を前提に行なわれているのだが、その中でも「境界線」にまつわる話は必読。

 12:大竹文雄『経済学的思考のセンス』中公新書、2005年12月
 あらゆる物事を経済学的に捉えること、すなわち「インセンティヴ」を中心にして捉えることを実践するための本。本書の白眉はプロローグの「お金がない人を助けるには?」。これは「お金がない人を助ける」というテーマで経済学者である著者に質問に来た小学5年生の質問に対する解答で、ここを読めば本書の大まかなつかみは大丈夫。第3章「年金未納は若者の逆襲である」もお勧め。

 13:小宮信夫『犯罪は「この場所」で起こる』光文社新書、2005年7月
 環境犯罪学の概説書。「壁」を強化するよりもむしろソフトなアーキテクチャによって「領域性」を強化することのほうが重要だ、というのはまったき正論(関連書として、五十嵐太郎『過防備都市』(中公新書ラクレ)を)。また、「防犯」をインセンティヴとした地域の繋がりの強化策も、ある程度は参考になる。ただし第4章に無視できない俗流若者論が含まれていた。

 ワースト1:岡田尊司『脳内汚染』文藝春秋、2005年12月
 ゲーム規制論は「科学」ではなく「政治」であるということを自ら立証してしまったような本。具体的に言うと、一つのもっともらしい「社会調査」と、報道で聞きかじった程度の推測と、牽強付会だけで成り立っている。

 なぜこの本が「科学より政治」というのか、というと、まずマスコミが喧伝したがる「今時の若者」の「平均的な特徴」なるものを金科玉条の如く取り扱っており、それに対する批判的な視点はほとんどない(とりあえず、4の本田由紀氏の著書を読むことをお勧めしたい)。更に、何でもかんでもゲームに結び付けようとするあまり、誇大な宣伝も目立つし、それ以外にもマスコミはゲーム業界から広告をもらっているからゲーム批判を載せないんだという説明に関すると、だったら何でそこらじゅうにゲーム悪影響論が溢れてんだよとか、お前わざと少年犯罪と「今時の若者」をオーバーラップさせるように書いてるだろ、とか、とにかく疑問ばかりが浮かんでくる。

 ワースト2:草薙厚子『子どもが壊れる家』文春新書、2005年10月
 関連記事:「子育て言説は「脅迫」であるべきなのか ~草薙厚子『子どもが壊れる家』が壊しているもの
 凶悪犯罪をしでかした少年の家庭に関する記述はある程度正鵠を得ているのは認めるものの、やはり第1章で草薙氏が行なった俗説の積み重ね、更に第3章以降の「ゲーム脳」理論への傾倒が本書を一気に駄目にしている。「ゲーム脳」理論に関しては、既に書籍の分野でも多くの批判がなされている(その中でももっとも優れているのが、小笠原喜康『議論のウソ』(講談社現代新書)の第2章)。既に疑似科学であることが明らかとなっている理論に未だ固執するのは、ジャーナリストとしては正しい態度とはいえないだろう。

 草薙氏は「子育てのマニュアルは書き換えられるべき」と述べているが、本書のような青少年に対する偏見とそれに支えられる疑似科学ばかりが記述されたように書き換えられるべき、と草薙氏が主張するのであれば、私は願い下げだ。

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2005年12月31日 (土)

2005年・今年の1冊

 私が平成16年12月16日~平成17年12月31日に読んだ本の中で、特に印象に残った本を紹介します。

 今回は、
 森真一『自己コントロールの檻』講談社選書メチエ、2000年2月
 (書評:「心理学主義という妖怪が徘徊している」)
 山本貴光、吉川浩満『心脳問題』朝日出版社、2004年6月
 芹沢一也『狂気と犯罪』講談社+α新書、2005年1月
 (書評:「「狂気」を囲い込む社会」)
 村上宣寛『「心理テスト」はウソでした。』日経BP社、2005年4月
 本田由紀『(日本の〈現代〉・13)多元化する「能力」と日本社会』NTT出版、2005年11月
 以上を推薦します。
 なお、「2005年10~12月の1冊」は、もう少しお待ちください。

――――――――――――――――――――

 今、我が国を覆っている「排除」と「生きづらさ」に関して、深く思考する機会を与えてくれる本を挙げることとする。

 我が国においてある種の「生きづらさ」が蔓延しているのは、多くの人が指摘していることである。しかし、その種の議論は、往々にしてその「生きづらさ」の中で個人が強い気持ちを持って生きていくべきである、という精神論につながり、その一部は「今時の若者」は精神(あるいは脳)が虚弱だからこの時代を生きられない、という俗流若者論に陥り、更にその一部は若年層の精神(あるいは脳)の虚弱から凶悪犯罪を起こすのだ、という暴論に到達する。

 そのような言論状況にあって、皇學館大学助教授の森真一氏の著書『自己コントロールの檻』(講談社選書メチエ)と、東京大学助教授の本田由紀氏の著書『多元化する「能力」と日本社会』は、現在の社会状況そのものの構造を如実に表している。森氏の著書では、「心の知識」に関する言説が横行し、「「感情」は危険なもの」とされて「自己コントロール」が求められるようになる社会の病理を、社会学の視点から的確に批判している。とりわけ重要なのが、森氏がエミール・デュルケームの理論を現代に当てはめている部分である(60~71ページ)。デュルケームは、社会全体に、道徳意識の向上した「聖人」の如き人が増殖すると、犯罪がなくなるのではなく、むしろたった少しの社会道徳からの逸脱すら重大な罪と捉えられてしまう、と論じた。森氏は、それを現代の状況に当てはめて、「心の知識」に関する言説が横行することにより、社会が個人に求める「心のスキル」が高度化し、それによってデュルケームの言った「聖人」による社会が実現しつつある、と論じている。
 また、本田氏の著書においては、社会、特に若年層の社会において「コミュニケーション能力」が重要なポストを占めつつあることを論述している。本田氏の著書の第4章以降は、少々分析がもの足りないような気もするが、少なくとも若者論という言説の手本というべき本となっているように思える。それはさておき、本田氏の記述によれば、企業の求める人材が「能力」よりも「コミュニケーション能力」といった具合に変容していくように、「近代型能力」から「ポスト近代型能力」が社会全体で重大なウェイトを占めるようになりつつある。また、左右を問わず、「人間力」だとか「生きる力」といった、知識そのものよりも「意欲」や「課題発見能力」といった柔軟な「知力」が求めるようになったり、あるいは「今時の若者」における「人間力」低下の「原因」として家庭教育が糾弾され、家庭教育に関するマニュアル的言説が溢れるようになる。

 このように、「心の知識」を求める言説や、「ポスト近代型能力」の重要性を強調する言説は、我々の人生において窮屈さを生み出していると同時に、それらが自由な選択肢を提示しているように見えて実際には我々を追い込んでいる。そもそも、個々人の「内面」を操作しようとする社会に対して、どのような視座を持てばいいのだろうか。

 一つ目に、人々の「内面」を知ろうとする欲望の正体を知ること。例えば、京都造形芸術大学非常勤講師の芹沢一也氏の著書『狂気と犯罪』(講談社+α新書)は、精神医学が犯罪心理学を通じ、司法に介入することによっていかに人間の「心」を特定していくか、という欲望を描いている。司法の近代化によって、量刑に犯罪者の「人格」を考慮しなければならなくなったが、そこに精神医学の入る隙を与えてしまい、戦後に精神衛生法が制定されて精神病院列島となる基盤となってしまった。戦前、政治に対して強い意欲を持っていた精神科医は、犯罪を起こす恐れのある「悪性」が精神分析によって発見され、実際に犯罪行為に及ぶ前に精神病院に入院させる――これは明らかに予防拘禁である――ことを夢想した。そして現在は、そのような「悪性」を特定しようという欲望は、今や社会全体のものとなりつつある。その典型が簡単に言えば「フィギュア萌え族」なる珍概念であり、実際には犯罪を起こすリスクが一般人と大差ないにもかかわらず、「ひきこもり」「ニート」「オタク」などは「悪性」と見なされるようになった。

 二つ目は、このような社会の欲望に対して、社会学の視点から不断の批判を与えていくことだ。例えば、インターネットサイト「哲学の劇場」主宰者である山本貴光、吉川浩満の2氏による『心脳問題』(朝日出版社)は、例えば「ゲーム脳の恐怖」といった「脳言説」の横行の、現代思想における位置づけを行なっている。とりわけ、このような「脳言説」の横行は、ジル・ドゥルーズの言うところの「コントロール型社会」における生物学的情報の重要度の高まりを反映している、という指摘(257ページ)は、極めて重要であろう。

 三つ目が、科学や統計学の視点から批判を行なっていくこと。富山大学教授の村上宣寛氏の著書『「心理テスト」はウソでした。』(日経BP社)は、心理学の専門家の立場から巷に横行している「心理テスト」――具体的に言うと、血液型性格診断、ロールシャッハ・テスト、内田クレペリン検査、などなど――に、統計学や心理学の立場からこれらの「心理テスト」が眉唾であることを指摘している。「ゲーム脳」にしても、精神科医の斎藤環氏らが決定的な批判を与えており、巷に溢れる「心理学主義的言説」「脳言説」へのサイエンスからのカウンター・オピニオンはほぼ出揃っているといえよう。

 社会科学からも、統計学や自然科学からも、我が国を覆う「心理学主義的言説」「脳言説」に対するカウンター・オピニオンは、十分に存在している。しかし、これらのカウンター・オピニオンが、社会に与える影響は、残念ながらあまり多くないように思える。「ゲーム脳の恐怖」の宣教師である森昭雄氏は、いまだにマスコミでは寵児扱いだし、「ブック・オブ・ワースト」の中にも、心理学主義的言説を振りかざしたものがいくらかある。このような言説を最も多く採り上げているのはマスコミであり、従ってマスコミに対して執拗な批判をし続けていく必要があるけれども、かといって社会全体の流れを止めることはあまり期待できないかもしれない。

 しかし、我が国を覆う「生きづらさ」や「排除」に関して、少しでもいいから熟考してみる必要性は、確かにあるように思える。我々が理解も寛容もないまま「排除」を求める愚民にならないためにも、少しでもいいから「心理学主義的言説」「脳言説」に対する批判的視座を持つ必要性があるのかもしれない。難儀な問題である。

――――――――――――――――――――

 ボーナストラック:2005年・今年のブック・オブ・ワースト10冊
 ここでは冒頭の期間に読んだ本の中で特に内容が悪かったものを紹介します。今回はフリーターや「ニート」関連の本も加えます。みんなで読んで笑い飛ばしましょう。

 1:柳田邦男『壊れる日本人』新潮社、2005年3月
 書評:「俗流若者論スタディーズVol.3 ~壊れているのは一体誰だ?~
 「2005年4~6月の1冊」参照。
 関連記事:「壊れる日本人と差別する柳田邦男

 2:三浦展『仕事をしなければ、自分はみつからない。』晶文社、2005年2月
 関連記事:「三浦展研究・中編 ~空疎なるマーケティング言説の行き着く先~

 3:荒木創造『ニートの心理学』小学館文庫、2005年11月

 4:斉藤弘子『器用に生きられない人たち』中公新書ラクレ、2005年1月
 「2005年7~9月の1冊」参照。
 書評:「俗流若者論スタディーズVol.5 ~症候群、症候群、症候群、症候群…~

 5:正高信男『考えないヒト』中公新書、2005年7月
 書評:「俗流若者論スタディーズVol.4 ~これは科学に対する侮辱である~
 関連記事:「正高信男という斜陽」「正高信男という頽廃
 「2005年7~9月の1冊」参照。

 6:岡田尊司『脳内汚染』文藝春秋、2005年12月

 7:浅井宏純、森本和子『自分の子どもをニートにさせない方法』宝島社、2005年7月

 8:澤井繁男『「ニートな子」をもつ親へ贈る本』PHP研究所、2005年7月

 9:三浦展『「かまやつ女」の時代』牧野出版、2005年3月
 関連記事:「三浦展研究・後編 ~消費フェミニズムの罠にはまる三浦展~」
 「2005年7~9月の1冊」参照。

 10:三浦展『ファスト風土化する日本』洋泉社新書y、2004年9月
 関連記事:「三浦展研究・前編 ~郊外化と少年犯罪の関係は立証されたか~」
 「2005年7~9月の1冊」参照。

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