2007年7月15日 (日)

平成19年参院選マニフェストにおける青少年政策の評価

Sentan2007natu  (「選挙たん(仮)」は、サイト「選挙に行こう」のマスコットキャラクターです)
 (この記事においては、公職選挙法の規定に基づき、特定の候補者の名前を出すことは控えております。従って、この記事は、特定の候補者を支援、または批判する「文書図画」にはあたらないものと私は考えます)
 参考:公職選挙法について

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 フィギュア萌え族(仮)犯行説問題ブログ版・サブカル叩き報道を追う:「自虐的オタク観」を正す:6・30アキハバラ解放デモに寄せて
 冬枯れの街:【祝】13日の金曜日~人を呪わば穴いくつでも掘る覚悟を!~

 さて、参院選の公示が出され、ついに選挙戦に向けて各党が動き出すこととなったが、各党はマニフェストという形で、自らの党が進める政策を公約として広報している。また、それについて、例えば「言論NPO」などのように、総合的、あるいは各論的に評価するような動きもあり、あるいは私の所属している「POSSE」などは、どの点に注意して読むべきか、ということを提示している(「style3的マニフェストチェック」)。

 私も、前回の衆院選に引き続き、青少年言説を検討してきた立場から、青少年に関わる政策の記述(教育、若年雇用など)を検討していこうと思う。今回は、以下の政党のマニフェストを対象とする。なお、今回は、都合により、前回行なった全体の感想の比較を割愛することとする。

 自由民主党(以下:自民)
 http://www.jimin.jp/jimin/jimin/2007_seisaku/kouyaku/index.html
 公明党(以下:公明)
 http://www.komei.or.jp/election/sangiin07/policy/index.html
 民主党(以下:民主)
 http://www.dpj.or.jp/special/manifesto2007/index.html
 社会民主党(以下:社民)
 http://www5.sdp.or.jp/central/seisaku/manifesto07s.html
 日本共産党(以下:共産)
 http://www.jcp.or.jp/seisaku/2007/07saninseisaku/index_kobetsu.html
 国民新党(以下:国民)
 http://www.kokumin.or.jp/seisaku/senkykouyaku.shtml
 新党日本(以下:日本)
 http://www.love-nippon.com/manifesto.htm
 共生新党(以下:共生)
 http://www.kyoseishinto.org/p/21

 1. 教育
 1.1 総論および評価軸
 「教育」についてもう長い間とやかくやかましく言われ続けているけれども、特に政策としての教育を語る上でもっとも大事なことは、その政策が本当に(できるだけ)客観的な事実に基づいているか、あるいはそれを推し進めるための根拠は何か、ということである。従って、例えばマスコミで採り上げられるような極端な事例を、さも全体を代表する例であるかの如く取り扱って、それで政策を構築してしまう、というのは、はっきり言うが非常に度し難いこととしか言いようがない。

 ところがそれを平気でやらかしてしまう人たちがいる。それが、かつての教育改革国民会議であり、また今の教育再生会議である。特に後者に限って言うと、まず人選からして教育学の専門家を入れようとする気配はなく(準専門家といえるような人だって品川裕香くらいである。大学関係者にしても、小宮山宏と中嶋嶺雄がいるけれども、彼らが教育学に付いてある程度精通しているとは思えない)、せいぜいメディアで話題になった人たちとか、あるいは政府と結びつきの強い財界人ばかりである。こんなところに教育政策についてまともな議論を要求する方がおかしいのかもしれない。

 とはいえ、仮に政権交代が起こり、この「会議」が解散させられたとしても、また同じようなものが結成される可能性もないとは言えない。そもそも我が国の「教育」政策自体、何回も何回も「改革」の必要性が叫ばれ続けたけれども、それによって教育現場の状況が改善されたとはとても思えないし、昨今のものに関しては、一部の事例をわざと社会的な大問題にでっち上げて、自分で処理する(あるいは「処理する」という態度だけを示す)という、いわばマッチポンプのようなものさえも感じてしまう。

 さて、この項目に関する評価軸であるが、何よりもまず金銭的な問題、つまり支出や予算の量、あるいはそれを調達する手段について触れられているからである。これに関しては、既に「言論NPO」の評価が既に示しているとおり、少なくとも主要な政党(自民、公明、民主)は、一貫してそれについてほとんど触れられていない(そして、ここで評価する他の政党、つまり社民、共産、国民、日本、共生も同様であった)。というわけでこれは評価軸から除外する。次に私が必要だと考えるのは、主張する政策を推進するための理由である。これについては、民主、共産が明記している。共生はほとんど理念だけで、他の政党は政策だけ。とりわけ政権党である自民と公明が、政策を推進する「理由」から逃げているのはどういうことであろうか。

 1.2 評価
 それだけでなく、自民と公明の、教育に関する記述は、かなり通俗的な青少年言説に潤色されている。例えば自民については、《子供たちに「確かな学力」を約束するとともに、規範や礼儀を教える。学校評価を一層推進し、教育水準の向上を目指す》(自民、「008. 「確かな学力」と「規範意識」の育成」)とさらりと書いているけれども、まず子供たちの規範意識は本当に低下したのか、ということから検証されて然るべきだろうし、それについては多くの側面から疑問が突きつけられている(とりあえず、浅野智彦[2006]くらい読んでください)。また《国民の心と体の健康を守り、豊かな人間性を形成し、健全な食生活を実現するため「食育基本法」に基づき「食育」を推進する。「食事バランスガイド」を活用した「日本型食生活」の普及や「教育ファーム」等の農林業体験活動や地産地消を進め、「食育」を国民運動としてさらに展開する》(自民、「047. 「食育」-食べる・つくる・育む-」)などと書かれているけれども、まず本当に「食育」なるものの必要性が見えてこないし(食の安全に関する消費者教育ならともかく)、なぜ「日本型」に限定するのかもわからない。

 公明党だって負けていない。《すべての小学生が農山漁村で一週間以上の体験留学ができる機会を提供します。これにより、子どもの豊かな心を育み、地域コミュニティの再生に貢献します》《すべての小・中学生に少なくとも年一回、本物の文化芸術に触れさせる機会を提供します》(以上、公明、pp.22)などと書いているけれども、前者については、本当にそんな《体験留学》で《子どもの豊かな心を育み、地域コミュニティの再生》ができるのか、というよりもそもそも子供の心が貧しくなっているのか…というところが突っ込みどころであるし、同じページにおいては学生全員に奨学金を貸与する、と書いているが、どうせなら学費の全額免除くらい主張してください。というよりも、何で公明って、これほどまでに奨学金にこだわるのだろう。

 与党に負けない電波ぶりを発揮しているのが国民である。《先進国並みの教育費を確保するとともに、教員数を大幅に増やし、きめ細かな学校教育を展開する》(国民)はともかく、《ゆとり教育を抜本的に見直し、人間力を鍛える教育および基礎教育の充実を図る》(国民)などといわれた日には、正直ここに投票する気が失せてしまう。今更「人間力」はないだろう(この概念の不気味さについては、本田由紀[2005]を参照されたい)。それだけでなく《学校教育において、時代に見合った道徳教育を充実し、公共の精神の涵養を図る》《広く伝統文化に接する機会を増やすことにより、国民意識・愛郷心の育成を図る。また、「美しい日本語」の普及に取り組む》(国民)とも書かれている。「美しい日本語」をマニフェストに取り込むなんて、自民すらやっていないよ。

 民主の主張にも、自民、公明、国民に比較すればマシだけれども、それでも一部に疑問は尽きない。例えば高校や高等教育の無償化を主張しているけれども(民主、pp.24)、これについては財源が明記されていない。ただし、根拠として国際人権規約を挙げていることと、漸進的な推進とすることは明記している。高等教育については、民主はかなり明確かつ鋭い主張をしているけれども、初等教育については、「学校教育力の向上」が謳われているのみ。さらに、ここについても「コミュニティの再生」だとか、あるいは《教員の養成課程は6年制(修士)とします》(民主、pp.24)などと主張しているのが気がかりである。そもそも教員養成について、本当に修士でなければならない理由があるのだろうか(なお、いわゆる「教職大学院」の問題については、「今日行く審議会@はてな」の記事「日本に教職大学院なんていらない」と、佐久間亜紀[2007]を参照されたい)。

 もっとも評価できるのが共産であったが、やはり「政権党への批判は鋭いが、オリジナルの主張はあまり強くない」という、共産のマニフェストに特有の弱点が目立った。まず、《日本政府は国連・子どもの権利委員会から2度にわたって「高度に競争的な教育制度」の改善を勧告されています》《日本の教育予算の水準はOECD(経済開発協力機構)加盟国30カ国のなかで最低で、教育条件は欧米に比べてもたいへん貧困です》《すでに「いっせいテスト」とその公表をおこなった自治体では、「テスト対策のため文化祭や林間学校を縮小・廃止した」、「できない子どもを休ませた」、「先生が答案を書き換えた」など深刻な問題がおきています》(共産、「【14】教育問題」)という批判は実に痛快だし、また正当性もある。ところが主張については、《また「徳育」を「教科」にして特定の価値観を子どもたちに押しつけようとしています。しかも、安倍首相が押しつけようとしている価値観は、軍国主義を肯定・美化する戦前の価値観です》《憲法と教育条理に基づいた教育を追求します》(共産、「【14】教育問題」)などの「おなじみ」の文言を読んで、正直言って萎えてしまった。

 とりあえず改正後の教育関連の法令について言えることは、それらが「金は出さないが口は出す」(しかも、かなりうるさく)というものであり、それがますます教育現場の閉塞性を高めるのではないか、ということであり、それについては広田照幸や苅谷剛彦などの専門家が前々から主張してきた。この点を前面に押し出せばいいものの、残念でならない。

 なお、社民は基本的には「学校の教育力」に関する記述を除けば民主とほぼ同じで、日本は30人学級の推進を明記するにとどめている。共生の理念については、仰々しく構えているけれども、いざどのような政策をとるのか、ということについては見えてこない。あと、こういう記述があったのが笑えました。

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 又、英国の王立建築家協会が実施した調査では、すばらしいデザインの学校では不登校生は発生しにくく、教育効果は絶大であると結論づけている。(2007年国立新美術館における英国王立建築家協会会長の講演)病院でもデザインの良い病院では、患者の回復が早いことが分かっています。(共生)

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 さすがというか、なんというか…。

 2. 若年雇用
 2.1 総論および評価軸
 この分野については、平成17年の総選挙に比して、論じる環境が大きく変わった。まず、平成18年頃より積極的に採り上げられるようになった「偽装請負」「ワーキングプア」などの用語に代表されるような問題や、あるいは正社員と非正規雇用者の(賃金や待遇などの面での)格差、そして若年層における貧困の進行。期せずして起こったグッドウィル・グループやそこを牛耳る折口雅博のスキャンダル、そしてフルキャストやグッドウィルのユニオンによる運動、そしてそのほかの若年層による労働運動があったりと、本当に論じるべきことは何か、ということが少しずつ見えつつある(とりわけ派遣をめぐる問題については、奥野修司[2007]を参照されたし)。

 とはいえ、財界側も負けてはおらず(?)、「偽装請負」問題の渦中にあるキヤノンの御手洗冨士夫などは、「偽装請負」さえも合法化しようとするように働きかけているという。そしてそれをほとんど野放しにしてきたのが自民党というわけであるが、そのような状況をいかに評価するのか、という基軸が必要であろう。

 2.2 評価
 とりわけこの分野をめぐる問題について、特に私が重視されるべきであると考えるのが、いわゆる「就職氷河期」問題であるが、これについて明記していたのが、民主(pp.24)と社民であった。とはいえ両党とも、行なう施策としては主として職業教育やキャリカウンセリングが中心であり、果たしてそれが氷河期世代問題を解決するために必要なのか、という疑問が起こる。

 とはいえ、主要な野党3党(民主、社民、共産)は、待遇の格差の改善や、労働条件の向上などに積極的な姿勢が現れており、ここは評価できる。民主は、主として新しい法制度を提出することによって派遣や請負を規制し、また労働条件の向上を行なう、という姿勢である。もちろん、最低賃金の引き上げも主張している。行なうのは段階的だという(以上、民主、pp.23)。社民も、民主と方向性は同じである。ただし、長時間労働や残業代の不払い、あるいは派遣労働者を使用することができる職域の縮小などは、民主にはない主張である(社民、「なくせ 働く格差」)。共産はかなり熱心で、全ての政党で唯一「偽装請負」という言葉を使用している。また《ILO「雇用関係に関する勧告」(198号)を活用し、請負や委託で働く労働者を保護します》(共産、「【3】労働・雇用」)と、法的な根拠も明記している。国民も、正規雇用率の基準を設けることや、非正規雇用者の健康保険の加入の義務化を主張している。

 与党というと、これについてはかなり及び腰というか、従来の主張を繰り返しているだけという主張を受ける。まず自民は、「081. 働く人の公正な処遇に向けた取組みとパート労働者の待遇改善」で一応記述されているけれども、どうも時流に合わせて適当に付け足した印象しか受けない。他方で自民は、高齢者の再雇用については大変(?)熱心なようで、「077. 団塊世代を活用した「新現役チャレンジプラン」の創設」「078. 団塊世代の意欲や活力を活かし、その技能・技術を次世代に継承できる仕組みづくり」「079. 高齢者の活躍の場の一層の拡大」と3つの独立した項が設けられている(なお、就職氷河期世代問題を中心とする若年雇用の問題については、宮島理[2007]などに詳しい)。公明は、とりあえず職業教育でもやっていればいい、という感じだった。若年層の雇用を拡大する、といっているけれども、どのような手段を用いるか、ということは明記されていない(あとのほうに書いてある、中小企業の支援によって雇用を創出する、というのがそれに当たるのかもしれないが。公明、pp.19)。

 結論からすれば、とりあえず若年雇用に関わる問題を考慮に入れて投票する場合、自民や公明には絶対に入れてはいけない、ということが明らかになった。これだけでも一つの収穫だろう。

 3. メディア規制、「青少年健全育成」、少年犯罪
 3.1 総論および評価軸
 橋本健午による研究(橋本健午[2002])などに見るとおり、戦後の我が国においては、一貫して、まず何らかの青少年問題が「発見」され、それについて特定のメディアが敵視され、それに対する「善良な」市民や親たちによる規制が求められ、そして業界が自主規制に踏み込む、などというサイクルが行なわれ続けてきた(戦前にも、小説を規制せよ、という声があったようだ)。与野党問わず、一部の政治家の間には、それでもまだ足りない、もっと規制すべきだ、という声があるようだが、私はむしろ、このような不毛な歴史の流れを止める方向に行くべきだと考えている。なぜなら、感情的な対応によって規制される分野が、これ以上増えて欲しくない、と考えているからだ。昔も今も、規制を求める側の主張は変わらない。

 3.2 評価
 とりあえずこの分野については、もう電波の嵐で、笑いました。これについての記述があったのは、自民、共産、国民。まず、民主は既にマニフェストから引っ込めたメディア規制について、共産はいまだに主張している。

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 雑誌やインターネット、メディアなどには性を商品化するような写真、記事、動画などが氾濫しています。女性を蔑視し、人格をふみにじる文化的退廃を許さず、人権尊重の世論と運動をひろげます(共産、「【18】男女平等」)

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 まるで自民のマニフェストでも読んでいるかの印象である(笑)。《性を商品化するような写真、記事、動画》が何をさすのか、ということについてまず明記しなければならないだろう。とりあえず、まず実在の児童に対する性的虐待、及びそれの記録物については厳しく規制されるべきだが、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いとまでに性的なものを全面的に規制するのはよくない(それこそ、春画も規制しろ、といった「バーチャル社会のもたらす弊害から子どもを守る研究会」の某氏みたいに)。ちなみに日弁連は、児童ポルノについて、以下のような見解を示している。

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 目にあまる児童ポルノコミックは、刑法のわいせつ物陳列、頒布、販売罪の構成要件該当性が検討されるべきであり、本法の対象とすべきではない。

 児童ポルノコミックの現状には、放置できないものがあるとの指摘はもっともである。しかし本法の保護法益は、実在の子どもの権利である。児童ポルノコミック規制を本法により行うことは、本法の保護法益を、刑法のわいせつ物陳列、頒布、販売罪の保護法益である「善良なる性風俗」に対象範囲を広げることになる。これは本法の目的をかえって曖昧にし、子どもの権利保護の実施を後退させる危険をはらむ。

 また児童ポルノコミック規制により、児童の性的搾取、性的虐待が減少するという証明はない。

 ポルノコミックにおいては、被害を受けた実在の子どもがいない。芸術性の高いコミックやイラスト、小説と、規制すべきとするポルノコミックとの線引きには困難な場合も想定され、いたずらに表現の自由を侵害する危険がある。目にあまるものについては、刑法のわいせつ物陳列、頒布、販売罪の構成要件に該当するか否かの検討をする余地はあるとしても、本法の対象とすべきではない。実在の子どもがモデルとなっていると推定されるようなコミックが存在するとするなら、名誉毀損罪等、他の犯罪として処断されるべきである。

 「子どもの売買、子ども売買春および子どもポルノグラフィーに関する子どもの権利条約の選択議定書」にも、コミック規制を義務づける条項はない。

http://www.nichibenren.or.jp/ja/opinion/report/2003_09.html

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 続いては自民。

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 健全な青少年を育成する社会の構築をめざし、「青少年育成施策大綱」等に基づき、青少年の育成に係る施策を総合的・効果的に推進し、若年層の職業観・勤労観及び職業に関する知識・技能の育成等を図るためキャリア教育等を一層推進する。また、非行や犯罪被害、有害情報から子供たちを守るため、「子ども安全・安心加速化プラン」に基づく関連施策を一層推進する。(自民、「009. 青少年の健全な育成」)

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 その前に、まず犯罪統計や、労働に関する統計くらい読んでくれ。そうすれば、いかに自分のやっていることが確かな根拠に基づいていないかわかるから。

 最後に国民。

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 今日的な武士道精神や礼節を実践する個人や団体を表彰するため、日本版の「フェアプレー賞」を創設する。(国民、「5 規律とモラルを重んじる教育の実現/【健全な青少年の育成】)

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 藤原正彦か!

 4. 子育て、幼児教育
 4.1 総論および評価軸
 赤川学は、その著書『子どもが減って何が悪いか!』(ちくま新書)において、女性の雇用が進んでいる国は子供もたくさん生まれてくる、という認識を喝破している。しかしながら赤川は、それでも男女雇用機会均等などの政策は必要である、と主張している。これは子育てに置き換えても成り立つのではないか。要するに、「少子化対策」のために子育て支援を行なうのは嘲笑の的でしかないが、それでも子育てに対する支援は必要である、と。例えば育児休業などの制度の整備は、漠然とした「少子化対策」のためではなく、その家族のためにこそ必要なのではないか。ところが、この認識に立つマニフェストは、それほど多くはなかった。

 また最近においては児童虐待の問題がよく採り上げられるけれども、これについてはかつても何回か採り上げられてきた経緯があり、どちらかといえば社会的な文脈において「発見」されてきたという側面のほうが強いのではないか(事実、児童虐待「増加」「急増」の証拠として用いられるのは、児童相談所に対する相談の件数ばかりである。これについては、むしろ暗数の発掘と見たほうがいいのではないか、という見方も成り立つ)。また、虐待と貧困などの関係性も論証されており、ひとり親に対する罰則の強化や、あるいは監視の強化にとどまる問題ではないことも、認識すべきだろう(詳しくは、上野加代子[2006]に収録された論文を参照されたい。また、「女子リベ  安原宏美--編集者のブログ」の「家と貧困」)。

 4.2 評価
 これについては、多くの正当が大体足並みをそろえていたので(例えば「子育て基金」の設立など)、あまり比較して評価するようなものではないかもしれない。この分野では、公明の以下の記述の電波ぶりを紹介しておけばいいだろう。

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 児童虐待、育児放棄などを未然に防ぐため、「親学習プログラム」を推進し、親自身が育児を学ぶ環境を整えると共に、里親制度や児童養護施設の拡充を図るなど被虐待児の保護及び自立支援のための施策を拡充します。(公明、pp.8)

―――――

 《親学習プログラム》って…。ああ、この教育万能主義、本当に笑える。第一、昨今の児童虐待「増加」というのは、それが何回も繰り返されてきた「発見」の繰り返しでしかないし、そんな「プログラム」を学んで虐待が減少するのかはなはだ疑問だし、そもそもどんな「プログラム」なのか、公明は公開する責任がある。あ、もしかして、「教育再生」を全力で訴える、自民党の某議員が落選したときの再就職支援ですか(笑)?

 5. 結語
 今回マニフェストを検討してみたのだが、どうも全体としてつまらないというか、そんな印象を受けたような気がする。どうせならもう少し力を入れて欲しかった。まあ、私が争点となっている年金や社会保障の問題について少ししか目を通していない、ということもあるのかもしれないし、また(あくまでも想像だけれども)青少年問題はあまり票にならない、という通念があるのかもしれないが。

 とはいえ、どの政党であれ、こんなことを話してどうかという気持ちはあるけれども、もしこの選挙で負けた場合、いかに敗因を読み解くか、ということが重要になってくると思う。一昨年の衆院選においては、野党が大敗を喫したとき、政党自身はともかく、その政党の考えに近い自称「知識人」たちが、「B層」などといって、若年層をバッシングした。ちなみにこの「B層」という言葉は、自民党がマーケティングのために勝手に捏造した言葉である。それに便乗して若年層をバッシングするなど、恥ずかしくはないのか。

 おそらく(信じたくはないけれども)自民党が勝つという結果となれば、またぞろ若年層に対するバッシングが起こるかもしれない。だが、自らの反省を抜きにして、問題を「叩きやすい」若年層に押しつけるなど、言語道断だ。今回も、どうせ自民が勝ったら、「左派」は、若年層の投票率が高かったら「若者が安倍晋三を支持した」とわめき、低かったら「若者が行かなかったから負けた」とわめくのだろう。

 というわけで予防線を張っておく。「B層」って言うな!

 参考文献
 浅野智彦(編)『検証・若者の変貌 』pp.191-230、勁草書房、2006年2月
 橋本健午『有害図書と青少年問題 』明石書店、2002年12月
 本田由紀『多元化する「能力」と日本社会 』NTT出版、2005年11月
 宮島理『就職氷河期世代が辛酸をなめ続ける 』洋泉社、2007年3月
 奥野修司「「悪魔のビジネス」人材派遣業」、「文藝春秋」2007年6月号、pp.275-285、2007年5月
 佐久間亜紀「誰のための「教職大学院」なのか――戦後教員養成原則の危機」、「世界」2007年6月号、pp.123-131、2007年5月
 上野加代子『児童虐待のポリティクス』明石書店、2006年2月

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2006年2月24日 (金)

トラックバック雑記文・06年02月24日

 今回のトラックバック:加野瀬未友/安原宏美/本田由紀/木村剛/「アキバの王に俺はなる!」/「冬枯れの街」/大竹文雄/「ニート・ひきこもり・失業 ポータルネット」/小林美佐/保坂展人

 始めに、このブログの右の「参考サイト」に「ジェンダーフリーとは」と、「深夜のシマネコ」を、また「おすすめブログ」に「保坂展人のどこどこ日記」と「成城トランスカレッジ!」を追加しました。

 少々考えさせられる記事が。
 ARTIFACT@ハテナ系:[個人サイト]はあちゅう氏の発言にみる「ブロガーの病」(加野瀬未友氏:オタク文化研究家)
 自戒を込めてトラックバックしておきます。というのも、加野瀬氏の問題提起が、ネット上で文章を書いているものにとっては避けて通ることのできない問題だからです。

 加野瀬氏は、以前のエントリー([個人サイト][教育]美少女革命家はあちゅう)で触れたある文章(私も「はてなブックマーク」で呆れてみせましたが)における極めて世俗的な「憂国」的な物言いに関して、「発言したい欲望」という言葉を用いて以下のように表現しております。

はあちゅう氏の発言からは、「発言したい欲望」によって、ただ単に突き動かされ、私はよく知らないんだけど何か言わなといけない!という衝動にかられているのを感じる。これも「ブログ」という場所があるからこそ加速している訳で、「ブロガーの病」だろう。

 この文章を読んで、ジャーナリストの日垣隆氏の著書『使えるレファ本150選』(ちくま新書)の、カバーに書かれてある紹介文を思い出しました。

 メールやブログなど、今やだれも「書く」時代だ。せっかく書いても、それが事実に反していたり、何の新味もなかったりしたら、説得力を失うばかりか、大恥をかきかねない。

 文章を書く以上、少なくとも相手を説得するために様々な資料を用いたり、あるいは反論に耐えうるような論理を搾り出したりと、ある程度の努力はしないといけない。少なくとも、勝ち馬に乗るような言論は控えたほうがいいのかもしれません。そのためにも、まずは多くの本や雑誌やサイトを読み、様々な言説に触れたほうがいいのでしょう。私もまだまだ修行が足りません。

 もう一つ、加野瀬氏の文章で気になったところが。

興味深いのは、使っている言葉は「国民」とか「国家」とか大文字なのに、社会問題の発生をすべて個人の内面にしてしまうところだ。だから、その内面を変える方法として「教育」が出てくるのだろう。もちろん、教育も必要だが、雇用問題などはすべてすっとばされてしまう。

 これは私が現在やっている仕事と深く関わってくるのですが(あるテーマに関する共著の本。4月か5月ごろには出版予定?)、「国民」とか「国家」という(空疎な)大文字は、ある意味では自らを高みにおいて、相手をバッシングするための方便になりえているのではないか、ということを、主として保守論壇の若者論を読んで思うわけです。私は、単なる私憤を「国家」と結び付けて、(自分の理想としての)「国家」に同一化しないからお前たちみたいなバカになるんだ!などといった具合にバッシングしてしまう行為はできるだけ避けたい。また、俗流若者論は、私憤がそのまま国家論や社会論につながっている感じが強い。

 この点でもっとも繋がりが強いのはやはりこれか。
 女子リベ:少年犯罪には先進国中一番厳しい日本(安原宏美氏:フリー編集者)
 浜井浩一氏(龍谷大学教授。過去に犯罪白書の執筆経験あり)が行なった調査に関する安原氏の感想です。

 さらに少年犯罪が注目である。
 参加先進国中、少年犯罪には厳罰をもって処すべしという態度は、堂々の1位という結果である。
 ようするに、犯罪にあう確率は少ないのに、大げさで、とくに少年が罪を犯したら、「許さ~ん!」と過剰反応してしまう国となっているのである。
 浜井教授の分析についてはとても興味深いのが、そちらは本稿をあたっていただきたい。
 しかし少年になぜそこまで厳しいのかというと、やはり90年代後半からの「少年犯罪」大ブームが大きいだろう。こちらの考察分析については、わたしが編集として関わらせていただいた芹沢一也さんの「ホラーハウス社会」に詳しいのでぜひそちらを見ていただきたい。

 とりあえず、ここで採り上げられている芹沢一也氏(京都造形芸術大学非常勤講師)の最新刊『ホラーハウス社会』(講談社+α新書)は、芹沢氏の前著『狂気と犯罪』(講談社+α新書)とあわせて必読です。

 少年犯罪の「凶悪化」が云々されるようになってから、そのような議論の高まりに比例して少年犯罪は本当は凶悪化していないのではないか、という議論も生まれました(例えば、広田照幸「メディアと「青少年凶悪化」幻想」(平成12年8月24日付朝日新聞/広田『教育には何ができないか』(春秋社)に収録)、宮崎哲弥、藤井誠二『少年の「罪と罰」論』(春秋社)、パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』(イースト・プレス)、小笠原喜康『議論のウソ』(講談社現代新書)、など)。ただ、いまだにマスコミにおいては「少年犯罪凶悪化論」が大手を振っており、「少年犯罪凶悪化幻想論」は、マスコミではせいぜいエクスキューズ程度に使われるか、あるいは専門的な雑誌や論壇誌に掲載される程度。新書でもいくらか出ているが、それらの本がベストセラーになったという声は余り聞かない(せいぜい『反社会学講座』くらい?)。「凶悪化論」が今なお平然とまかり通っているのは、「少年は自分の世代(中高年世代)よりも凶悪であって欲しい」という世論があるからではないか、とうがった見方をしてしまいたくなる。

 浜井氏に関しては、『犯罪統計入門』(日本評論社)という本が出ているので、こちらもチェックしてみる必要がありそうです。

もじれの日々:若者バッシングに抗う本(本田由紀氏:東京大学助教授)
 本田氏が採り上げている、社会学者の浅野智彦氏らによる『検証・若者の変貌』(勁草書房)という本は、平成4年と平成14年に若年層に行なったアンケートから、昨今の若年層バッシング――例えば、礼儀を知らない、とか、携帯電話に依存することで関係性が希薄化しているとか――は本当に正しいのか、ということを検証した良書です。できるだけ多くの人に買って読んで欲しいのですが、いかんせん値段が高い(税込み2520円)。ただし、買っておいて、更に座右に置いておいて決して損のない本です。
 また、最近買った本に関しては、政策研究大学院大学教授の岡本薫氏の『日本を滅ぼす教育論議』(講談社現代新書)もお勧め。本書は、我が国における教育言説の海外との比較から、なぜわが国において「教育改革」が失敗したか、ということを検証した良書です。こちらは新書なので、値段も手頃(税込み756円)。

 更に、念願だった、赤塚行雄『青少年非行・犯罪史資料』全3巻(刊々堂出版社、1・2巻昭和57年、3巻昭和58年)もやっと手に入りました。問題は収納するスペースか…。
 とはいえ、今月の講談社現代新書の新刊で『他人を見下す若者たち』なる本が出ているからなぁ…。立ち読みでチェックした限りでは、とっとと浅野氏の本を読んで出直して来い、という代物だった。本格的にチェックしてみるか…。

 以前、ある人から、「このブログはテレビのことを採り上げない」と指摘されたことがありました。理由としては、私はテレビのニュースをあまり見ない、ということがあるのですが。

 週刊!木村剛:[ゴーログ]ニュースは作られているのか?(木村剛氏:エコノミスト)

 このエントリーを読んで、次のエントリーを思い出した。

 アキバの王に俺はなる!:子供、若者は大人の敵といったような番組を見て
 冬枯れの街:緊急大激論SP2006!“子供たちが危ない”って危ないのはあなたたちの妄想ですから!

 今月15日にTBS系列で放送された番組「緊急大激論SP2006!“子供たちが危ない”こんな日本に誰がした!?全国民に“喝”!! あなたは怒れますか?キレる子供…守れますか?こわれる子供」(つくづく長えタイトルだな)に関しては、上の2つのエントリーのほか、「2ちゃんねる」の大谷昭宏スレッド(私が2chで唯一覗いているスレッドで、現在は事実上オタクバッシング批判スレッド)と「DAIのゲーマーズルーム」を読んだのですが、いずれも評価は最悪だったなあ。私はとりあえずヴィデオに撮ってあるので、あまり乗り気ではないのですが、近いうちにチェックします。余りにひどいなら雑誌に抗議文を投稿するか。

 ただ、ジャーナリストの草薙厚子氏が、テレビで堂々と「ゲーム脳」を言った(らしい)ことにはやはり戦慄した。草薙氏に関しては、私の「子育て言説は「脅迫」であるべきなのか ~草薙厚子『子どもが壊れる家』が壊しているもの」をご参照あれ。

 新たなる問題発言登場…なのかな。

 大竹文雄のブログ:待ち組(大竹文雄氏:大阪大学教授)

 ニート・ひきこもり・失業 ポータルネット:待ち組?なんだそりゃ。
 ずいぶん前の話になってしまうのですが、小泉純一郎首相やら猪口邦子氏やらが「待ち組」なる変な言葉使ったことが批判されています。私は基本的に、大竹氏の以下の記述に賛成。

 でも、フリーターやニートの中には好んでそうなっている人もいるのも事実だが、大多数の人たちは、学校卒業時点の就職活動でうまく行かなかった人たちか、うまく行きそうにないとあきらめた人たちだ。あまりにも可能性が低かったり、何度も失敗が続くとやる気を失うのは自然ではないだろうか。就職氷河期に卒業した人たちは努力不足や挑戦しなかったというよりも、運が悪かったというべきだ。そういう人たちに「反省しろ」というのは酷ではないか。

 とりあえず、フリーターや若年無業者に対する、小泉首相や猪口氏の認識の甘さは批判されて然るべきでしょう。このような認識は、所詮はマスコミが面白がって取り上げたがるような、それこそ「働いたら負けかなと思ってる」(笑)に代表されるような「ベタ」な「ニート」像でしかないわけで。責任のある立場の人なのですから、もう少し勉強してください。

 オリンピック開催中ですが。
 ☆こばみ~だす~☆:☆おめでとう☆(小林美佐氏:声優)
 トリノ五輪で、日本勢の初めてのメダルとなったフィギュアスケートの荒川静香選手ですが、私の家で購読している読売新聞の宮城県版では、地方面で荒川氏の特集や荒川氏への応援メッセージが掲載されていたことがある。なぜなのか、と考えていたところ、どうやら荒川氏は東北高校の出身らしい。仙台のメディアが沸き立つのも無理はないか。

 この問題も見逃してはならない。
 保坂展人のどこどこ日記:共謀罪、ふたたび攻防が始まった(保坂展人氏:衆議院議員・社民党)

 今のところ我が国の政治は所謂「偽造メール」事件で紛糾中です。もちろんこの問題も悪くないのですが、共謀罪とか、少年法の改正とかにも、もう少し興味を持ってもいいのではないか、と思います。

 これからの予告ですが、少々忙しくて更新が停滞していたので、雑誌が大量にたまっております。そのため、「論座」平成18年3月号、「諸君!」平成18年3月号、「世界」平成18年3月号、「中央公論」平成18年2月号と3月号、「ユリイカ」平成18年2月号の「論壇私論」をこれから逐次公開していく予定です。

 最後に、平成18年2月24日付で「この「反若者論」がすごい!02・河北新報社説」に投稿されたコメントが、明らかに荒らしだったので削除しました。

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2006年2月 4日 (土)

トラックバック雑記文・06年02月04日

 今回のトラックバック:赤木智弘/木村剛/「ニート・ひきこもり・失業 ポータルネット」/渋井哲也/芹沢一也/「S氏の時事問題」/「ヤースのへんしん」/「読売新聞の社説はどうなの・・2」/保坂展人/「topics:JournalistCourse」

 過日、『「ニート」って言うな!』(光文社新書、本田由紀氏と内藤朝雄氏との共著)という本を出したわけですが、ネット上の各所で書評がなされています。ちなみにamazon.co.jpのカスタマーレヴューなどで見られる私の文章に対する批判で、「採り上げる記事や投書の数が少ない」というものがありましたが、週刊誌の記事に関しては、大宅壮一文庫の雑誌検索CD-ROM(宮城県図書館で使用)を使って検索したのですが、本文中で採り上げた「AERA」「読売ウィークリー」「サンデー毎日」「エコノミスト」「週刊ダイヤモンド」「プレジデント」以外はめぼしい記事はほとんどなかったのが理由です。他の雑誌は、大半が平成16年末の親殺し関連の記事でした。また、「AERA」「読売ウィークリー」「サンデー毎日」の3誌に関しては、特筆すべき明確な傾向(詳しくは本を参照して欲しい)が見られたので、重点的に採り上げた次第であります。

 投書に関しては、朝日しか調べられなかったことに関しても、不満に思った方もおられましょうが、これは基本的に私の力不足です。決して各種図書館が貧弱だったからではありません。この場を借りて謝罪します。

 さて、それらの書評の中でも、私が最も重く受け止めた書評がこちら。

 深夜のシマネコblog:「ニート」って言うな! 書評(赤木智弘氏)

 赤木氏は、本の内容は評価するものの、やり方がいけない、という書評をしています。

 そういう意味では後藤さんの試みはそうした人たちを叩くことに近いのですが、本や雑誌などのメディアから抜き出すということは、結局「メディアに言説を掲載できる人」という狭い範囲でしかなく、「ニートと言う言葉を利用する一般市民」を安全圏に批難させてしまっています。
 (略)
 で、この本の場合、タイトルが『「ニート」って言うな!』で、帯書きが「なぜこの誤った概念がかくも支配力を持つようになったのか」です。これではニートが増えていることを信じて疑わない人は、絶対に手に取りません。彼らはそもそもニートという響きに侮蔑的な快楽を覚えるような捻じれた性格の人たちですから、自分が傷つくような物には決して近づきません。
 若者卑下の大きな問題は、彼らをバッシングしたところで、バッシング側はなんら痛みを感じないという点です。
 そして、ニートと言う言葉を語る時に、それがさも他者によって「この人は差別をしている」ではなく、「教育のことを語っている」という受け取り方をされる点です。
 それをひっくり返すためには、「ニートと言うことに痛みを感じない人」や「ニートを教育論だと思いこんでいる人」に手に取ってもらえる本を作ることが必要です。そういう意味で『「ニート」って言うな!』は想定すべき読者を間違えています。

 若者報道を批判しているものとして、これは深刻に受け止めざるを得ない問題です。このような問いかけは、この文章の重要な部分を、例えば「ゲーム脳」「下流社会」に変えてみても、同種の問いかけとして成り立つと思います。

 一般に「ニート」やら「ゲーム脳」やら、あるいは「脳内汚染」やら「下流社会」やらという、俗流若者論にとって格好の概念は、その概念を嬉々として使う人にとっては、自分は差別や偏見を振りまいているのではなく、自分は「教育」を語っているのだ、ということなのでしょう。しかしそれらは一皮むけば教育論ではなく単なるラベリング、更に言えば差別だったり偏見だったりするわけです。また、それらを証明するような資料は、本当にたくさんあるわけです。特に「ゲーム脳」に関しては、学術的に見れば完全に腐りきった概念といっていいでしょう。

 しかし、そのようなことが証明されたとしても、いまだに「ゲーム脳」論は妖怪の如くはびこっています。たとい「ゲーム脳」を否定する資料が出揃ったとしても、「ゲーム脳」論を嬉々として受け入れる層には少しも伝わらない。もはや量ばかり増やしても仕方がないのでしょうか。路線転換が求められているのでしょうか。ここでは「ゲーム脳」の話を使いましたが、「ニート」論だってまた同じことです。

 さて、ライブドアの堀江貴文元社長逮捕に関していくつかネタを。

 週刊!木村剛:[木村 剛のコラム] 日本は罪刑法定主義ではない?(木村剛氏:エコノミスト)
 木村氏曰く、

 ところが、逮捕の根拠である第158条違反について詳細に解説した番組はなかった。「なぜ法律違反に当たるのか」について誰も触れることなく、「ホリエモンという男あるいはライブドアという集団が如何にケシカランか」という描写にほとんどが費やされていた。
 識者らしき人々も「そもそもライブドアはマネーゲームだった」とか「ホリエモンのビジネスは虚業だ」などと自分勝手な感想を披露するだけで、事件の真相を追及しようとしない。
 具体的な犯罪内容が語られることなく、ライブドアという会社が一方的に叩かれていく。ホリエモンはいつから有罪が確定したのだろう。罪が確定するまでは「推定無罪」だと習ったような気がするが、一部の良心的な識者(「もし報道が事実ならば」という前置きをしていた)を除き、その他の出演者はホリエモンを犯罪者扱いしていた。
 この事件を語りたいなら、罪状を確定する必要がある。日本が法治国家であり、罪刑法定主義をとっているのであれば、罪状が確定できないのに、「ケシカラン罪」で犯人に仕立て上げてはならない。それが基本的人権の基本。実際、法律というものは、為政者から人々を護るために発展してきた。
 日本では、近代の智恵である「罪を憎んで人を憎まず」とか「疑わしきは罰せず」という法理が通用しないのだろうか。「人を憎んで罪を問わず」「疑わしきは叩きまくる」という現実を見ていると、中世の魔女狩りが思い起こされる。

 現在発売中の「諸君!」平成18年3月号においても、評論家の西尾幹二氏が、《ホリエモンは決して誉められるべき人物ではないが、しかし人間としてどんなに拙劣でも、人権は守られなければならない。/私は捜査が始まってから数日間、何でもかんでもライブドアを潰そうとする目に見えない大きな意思が働いているように思えて、薄気味が悪くてならなかった》(西尾幹二「誰がライブドアに石を投げられるのか」)と書いていますが、基本的にマスコミというものはある対象物が何らかの「お墨付き」を得て「叩いていい」代物になったら、急激にバッシングに走るのが常です。成人式報道を研究してきた私にはそれが痛いほどわかります。

 多くの人は報道によってしか遠隔の事象を取り扱うことはできない。従って日常的に接している報道が、そのまま受け手の現実感覚になってしまいやすい(ウォルター・リップマンの『世論』(岩波文庫)あたりが参考になります)。そして、人々の現実感覚を支配する「報道」が、果たして人々を間違った方向に誘導してはいないか。事実とは異なるのに、例えば青少年とオタクだけが凶悪化しているという報道を繰り返し、事実とは異なるステレオタイプを青少年とオタクに向けてはいないか。

 あと、堀江容疑者逮捕報道で気になるのが、「「ホリエモン」は若い世代から圧倒的な支持を受けている」というもの。私は堀江氏は余り好きではないのですが、なぜこのような報道が成されてしまうのか。そのようなことを分析したブログもいくつかありました。

 kajougenron : hiroki azuma blog:ライブドアとオウム?2(東浩紀氏:評論家)
 ニート・ひきこもり・失業 ポータルネット:ホリエモンが若者に夢を与えた?はあ?

 いつの間にか「堀江支持」派にされている感じが強い若い世代ですが(読売新聞や「AERA」は、今回の逮捕劇に関して「20代はどう見ているか」みたいな記事を組んでいた)、果たして特定の個人を勝手に「世代の代表」に仕立て上げ、ある世代の「気分」なるものを特定してしまう、という手法は、その非論理性において、そろそろ限界をきたしているのではないかと思うのですが、どうもそのような態度に対する検証が成される様子はない。これはひとえに既存マスメディアの受け手に若い世代が少ないから(笑)、ということで、マスコミが若い世代を除いた世代向けに記事を作って、結局「若い世代はこんな感じだ」みたいな報道ができてしまうのか、というのは、ちょっと考えすぎか。

 まあ、ここまで考えないと、明らかに若年層を病理視した報道がなぜ横行するのか、ということを考えることはできないかな、と。

 てっちゃん@jugem:有害規制をするなら、保健所のサイトも閉鎖しなければ・・・(渋井哲也氏:ジャーナリスト)
 社会と権力 研究の余白に:『ホラーハウス社会』について(芹沢一也氏:京都造形芸術大学講師)
 S氏の時事問題:門限は7時まで?
 ヤースのへんしん:改正青少年健全育成条例

 ますます閉塞感が増す青少年の社会環境。インターネットサイトの規制は進むは、夜間営業施設の青少年の入場が7時までにされるは、外出禁止に情報統制!日本は北朝鮮か!って突っ込みたくなります(ちなみにこの突っ込みは、宮台真司、宮崎哲弥『エイリアンズ』インフォバーン、の169ページに出てきた、宮崎氏の横浜の青少年政策に対する突っ込みのパクリです)。

 昨年『狂気と犯罪』(講談社+α新書)を上梓した芹沢氏ですが、その芹沢氏の新刊『ホラーハウス社会』(講談社+α新書)が発売されています。私は一応途中(第2章)まで読んだのですが、平成9年の神戸市の連続児童殺傷事件(「酒鬼薔薇聖斗」事件)を皮切りに、人々の少年犯罪に対する視線が変化していくさまに関する記述が興味深かった。特に83ページの《あくなき理解への欲望が、皮肉なことに、異常だとして少年の記述へと行き着いた》というのは「声に出して読みたい日本語」です。最近の少年犯罪報道――いや、若者報道のほぼ全般に見られる傾向として、少年犯罪者、更には現代の青少年を「理解のできない(=自分の思いのままにならない)他者」とか「自分の生活圏を脅かす存在」という風に「理解」していくパターンが見られます。それは「世代的な共感」だとかを持って犯罪者に「共感」してしまった視線とは真逆のものですが、身勝手な解釈という点では同一のものでしょう。

 青少年を「教育」に囲い込むことの問題というのは、基本的には自分の生活圏に囲い込む、ということとして解釈されるべきでしょう。であるから、犯罪をしでかした青少年に対する、「心の闇の解明」と言った形での理解は、ひとえに犯罪という行為によって「生活圏」の外に出てしまった少年をもう一度「生活圏」に取り戻そう、という欲望として働く行為として見える。しかしそれが更に進行すると、「生活圏」から出てしまった青少年に対する「理解」が、我々の「生活圏」の内に存在する青少年を「生活圏」の外に出させるな、という欲望につながり、「生活圏」の外の存在に対するバッシングが強まると共に、ひたすら「生活圏」の外に子供たちを「出させない」ための施策やら言説やらが横行するようになる(要するに、草薙厚子氏の所論ですね)。

 「生活圏」の外に子供たちを「出させない」ための施策やら言説というのは、そのような「生活圏」の主成分として存在している(と錯覚している)世代の個人的体験やイデオロギーと強く結びついている。従って「ゲーム脳」理論と、「脳を活性化させる」遊びとしての「外遊び」や「お手玉」などへの無邪気といっていい奨励(要するに森昭雄氏)や、あるいは旧来型(と勝手に思い込んでいる)の子育てに対する無邪気といっていい礼賛(「俗流若者論ケースファイル48・澤口俊之」参照)、あるいは「ファスト風土化」論と、それに付随する旧来のコミュニティ礼賛(「三浦展研究・前編 ~郊外化と少年犯罪の関係は立証されたか~」参照)等はそれらを如実に体現している。「ジェンダーフリー教育」に対するバッシングも然りでしょう。

 我々は、「教育は阿片である」(@内藤朝雄)という認識に立って、巷の教育言説を吟味しなければならないのかもしれません。

 あと、こういう規制を「教育」のためだ、あるいは青少年を何とかするために必要だ、と考えている皆様。そのうちそれを支持したツケが回ってきますよ。

読売新聞の社説はどうなの・・2:■「家庭」の“崩壊”少子化と改憲論議をどうやってつなげるの????
 まあ、最近の保守論壇は、青少年バッシングの為に「憲法」を持ち出したがるヘタレばかりですから…。こういう飛躍ももはや「想定の範囲内」(笑)。そもそも憲法というのは、立憲主義の考え方に立てば、国家の行動を統制するものであり、従って憲法が最高法規というものはこういう理由であり、一般国民が「憲法違反」として懲罰させられることはない…という説明はこういう連中にとっては野暮か。

保坂展人のどこどこ日記:放漫財政の大阪市でホームレス排除(保坂展人氏:衆議院議員・社民党)
 topics:JournalistCourse:大阪市がホームレスのテント強制撤去、一時もみ合い(読売新聞)(東京大学先端科学技術センター・ジャーナリスト養成コース)
 大阪市西区のホームレス住居撤去事件ですが、これの理由は3月と5月に行なわれるイヴェントのためだとか。ちなみに同種の騒動は平成10年にもあったようなのですが(読売新聞ウェブサイトによる)、イヴェントが行なわれると、そのような背景があったことも消されてしまうのだろうな…と思ってしまいました。確か愛知万博でも環境破壊が問題になっていましたっけ(「週刊金曜日」だったかな?)。
 ちなみに保坂氏のエントリーには《少年たちや酔った若者たちによる「ホームレス襲撃事件」は全国で頻繁に起きている。「人間以下」「汚い」と罵倒して、殴る蹴るの暴行を受け、大怪我をして亡くなった人も少なくない》と書かれていますけれども、《「人間以下」「汚い」》というのは、そもそも社会がホームレスに向けてきた視線そのものなのではないでしょうか。ちなみに本田由紀氏は、『「ニート」って言うな!』の50ページにおいて、「ニート」を「ペット以下」と罵った女子高生の例を紹介していました。

 生田岳志『「野宿者襲撃」論』(人文書院)、早く読まなきゃ…。

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2005年12月23日 (金)

トラックバック雑記文・05年12月23日

 今回のトラックバック:「冬枯れの街」/本田由紀/赤木智弘/田中秀臣

 ただいま、寒気が日本中を席巻しており、全国で大雪を降らせております。私の住んでいる仙台も猛吹雪が吹き荒れました。

 しかし、猛吹雪が吹き荒れているのは何も天候だけではない。我が国の青少年政策にもまた、猛吹雪が吹き荒れています。

 冬枯れの街:「竜に一人一人順に喰われていくのが嫌ならば竜を皆で殺すしかない。」
 昨日の「トラックバック雑記文」で、自民党が「「犯罪から子どもを守る」ための緊急提言」なるものを発表したことに関して少々愚痴を発してしまいました。しかし、この「緊急提言」は、あまりにも問題の大きいものであるため、批判することは十分相当性があります。この「緊急提言」と同時に、「AERA」に掲載された「漫画を規制せよ!」と高らかに叫んでいる投書も転載してしまいましたが、いまだに政治にもマスコミにもアダルトゲームやロリコンものの漫画を規制すれば子供が被害者になる犯罪は撲滅できる、と能天気に考えている人が多いようです(投書は個人の見解じゃないか、という反論もありましょうが、投書の選定に関しては編集デスクが関わってくるので、その編集デスクの意向が(記事には表れない「隠れた本音」と言い換えてもいいでしょう)反映される、という見方も十分にできます)。

 「冬枯れの街」では、「青少年問題に関する特別委員会」の平成17年12月16日付議事録が批判されていますが、このエントリーの筆鋒があまりにも鋭くて、私が検証するよりも遥かによく問題点をあぶりだしております。それにしても、「子供を守る」という大義の下、これまでの事件とは全く関係ないメディアが、しかも自民党から共産党までの大同団結の下規制されつつあるのですから、思い込みの持つ力は論理よりも勝っている、ということの証左なのでしょうか。こういうときだけ「挙国一致」かよ。もっと他に解決すべき問題があるだろーが。例えば建物の耐震補強あるいは免震・制震化とか(天野彰『地震から生き延びることは愛』文春新書、の第4章や、深堀美英『免震住宅のすすめ』講談社ブルーバックス、等の地震関連の本を参照されたし。宮城県在住の人なら、大竹政和『防災力!――宮城県沖地震に備える』創童舎、あるいは、源栄正人『宮城県沖地震の再来に備えよ』河北新報出版センター、も参照)。高度成長期に建造されたコンクリート建造物は粗悪で崩れやすい、という報告もあります(小林一輔『コンクリートが危ない』岩波新書)。これこそ国民の安全に関わる問題です。また、本当に子供を守りたい、というのであれば、極めて確率の低い(しかしマスコミは総力を挙げて騒ぎたがる)ロリコンによる性犯罪ではなく、児童虐待と感染症と交通事故と自然災害という、本当に子供が死んでしまうリスクが極めて高い部分での対策をやるべきでしょう。

 参考までに、民主党の「児童買春・児童ポルノ規制法案に関する見解」も転載しておきます。

1、児董を性的虐待から守るため、特に海外における低年齢児童への買春・ポルノ撮影等が国際的批判をあびている現状に対して、早期の立法措置が必要である。
2、しかし、今回提出された与党案は、構成要件があいまいで警察の裁量が大きくなりすぎ、表現の自由、児童の性的自己決定権などを不当に侵害するおそれもある。また、刑法など他の法制との整合性にも問題がある。さらに、守るべき法益があいまいなため、海外の低年齢児童など、緊急に保護が必要な部分への実効性も不十分である。
3、私たちは、国民の権利・義務に密接にかかわる本立法が国民的合意に基づき早期に行われるべきとの考えから、与党協議への参加、提出前の修正などについて与党と非公式に交渉してきたが、われわれの提案に一切耳を傾けず、与党が法案提出に踏み切ったことは、法案を真剣に成立させる意欲があるとすれば、まことに遺憾である。
4、以上のような観点から、与党案は抜本的に見直しの上、再提出が必要と考えるが、最低限以下の修正が必要である。
(1)「買春の定義」について
○定義があいまいな「性交類似行為」を削除し、「性交等」の定義を、「性交、若しくは自己の性的好奇心を満たす目的で、性器、肛門若しくは乳首に接触し、又は接触させること。」と明確化する。
○通常の交際との線引きを明確にするため、「代償」は、拡大解釈されないよう限定する。
(2)「ポルノの範囲」について
 絵は、保護法益が異なるため除外する。
(3)「ポルノの定義」について
 「衣服の全部又は一部を脱いだ児童の姿態であって性的好奇心をそそるもの」との表現は、範囲が広すぎかつ主観的・あいまいであり、削除する。
(4)「広告の処罰」について
 写真等の掲示があれば正犯、その他の場合も公然陳列・販売の共犯・幇助犯として処罰できるので、削除する。
(5)「児童買春の罰状」について
 他の刑法犯との整合性からも、懲役「5年以下」を周旋罪・勧誘罪と同じ「3年以下」に改める。
(6)「児童ポルノの単純所持」について
 守るべき法益がなく、削除する。
(7)「年齢の知情」について
 過失処罰の規定であり、「児童の年齢を知らないことにつき過失の存するときは、第3条乃至第7条の規定による処罰を免れることはできない。」に、改める。
5、民主党は、上記事項をふまえ、人権侵害のおそれがなく、実効性のある対案を早期にとりまとめ、次期国会に提出する所存である。

 とりあえずは及第点といっていいでしょう。《構成要件があいまいで警察の裁量が大きくなりすぎ、表現の自由、児童の性的自己決定権などを不当に侵害するおそれもある》《守るべき法益があいまいなため、海外の低年齢児童など、緊急に保護が必要な部分への実効性も不十分》《「代償」は、拡大解釈されないよう限定する》《絵は、保護法益が異なるため除外する》《写真等の掲示があれば正犯、その他の場合も公然陳列・販売の共犯・幇助犯として処罰できる》など、不当に利権を拡大させようとしている自民党の懲りない面々に声を出させて読ませたい文章です。

 しかし、このような無用な青少年「政策」は、ロリコンメディアにとどまっているわけではない。

 もじれの日々:うんざり+心から体へ+火星人(本田由紀氏:東京大学助教授)

 本田氏の問題意識に全面的に同意。

しかし思うに、小田中さん(筆者注:東北大学助教授の小田中直樹氏)が昨日のコメント欄で言及してくださっていたように、「若者の心をさわらずに何とかしたい」と内藤さん(筆者注:明治大学専任講師の内藤朝雄氏)と私がもごもご言い合っている間に、世の中の方が一足早く、「(若者の)心から体へ」とターゲットを移しつつあるのだ。もう若者の何だかよくわからない「心」などをとやかく言っていてもはかどらない、と焦れ、「早寝・早起き・朝ごはん」、「生活リズム」、「挨拶」などの外面的な、非知的なところで型にはめる方が手っ取り早い、という考えが澎湃と広がりつつあるのだろう。そういう「型」からぱこんぱこんと「健全な」若者が量産される状態に対して、私はむしろ一種のおぞましさを感じるし、そんなことはそもそも不可能だと思うのだが、それをこそ理想だとする人々がちゃんと、しかも相当の勢力をもって、存在するのだ。

 このような論理は、様々な衣をまとって我々の周りを侵蝕しつつあります。例えば、「俗流若者論ケースファイル18・陰山英男」で検証した、尾道市立土堂小学校校長の陰山英男氏は、子供たちが「ディスプレー症候群」にかかっているから少年犯罪や学力低下が起こるのだ、と言っております。これは脳科学のアナロジーを悪用した論理ですが、その分野で今トップにいるのが森昭雄氏であることは疑いえません。本田氏言うところの《外面的な、非知的なところで型にはめる方が手っ取り早い、という考え》に関して言うと、このような論理は既に眼科医学(「俗流若者論ケースファイル60・田村知則」)や、あるいは小児科学(「俗流若者論ケースファイル56・片岡直樹」)、またはスピリチュアリズム(「反スピリチュアリズム ~江原啓之『子どもが危ない!』の虚妄を衝く」)といった分野に属する人からも出ています(また、それらがことごとくゲームやインターネットを悪玉視しているのが不思議だ)。ま、みんな亜流ですけどね。

 本田氏の《そういう「型」からぱこんぱこんと「健全な」若者が量産される状態に対して、私はむしろ一種のおぞましさを感じる》という苦言は実にごもっともでありますが、彼らのやりたいことは一種の「自己実現」(笑)に過ぎない。ですから、こういう人たちを突き崩す論理は、彼らの子供じみたプライドを否定すればいい(笑)。これは自民党のメディア規制推進派にも言えます。

 さて、「冬枯れの街」では、「戦後教育が「幼女が被害者となる犯罪」を生み出したのだ!」と叫んでいる、自民党国会議員の松本洋平氏が批判されています。しかし松本氏は昭和48年(1973年)生まれ。要するに、私より11歳年上なわけです。従って松本氏が受けたのもまた「戦後教育」のはずなのですし、松本氏は戦前の教育を受けていません。受けていない教育をどうしてそんなに礼賛できるの?問題点も含めて調べたのか?単にそこらの保守論壇人の愚痴を真似ているだけではないのか?

 私は最近、若年無業者(「ニート」)に関する朝日新聞の投書を集中的に調べたことがあるのですが、私と1、2歳ほど違わない大学生が、例えば《教育を語る上で昔と今が決定的に違うのは、日常の生活では「生きる力」を身につけることが困難になってしまったことでしょう》(平成17年3月18日付朝日新聞、東京本社発行)などと平然と語ってしまうことにも腹を立てております。要するに、現代の若年層を批判するために、理想化された「一昔前」とか「戦前」をいとも簡単に持ち出す。

 深夜のシマネコBlog:自虐史観に負けるな友よ(赤木智弘氏)

 「過去を美化するな、現在を軸足に据えよ、そしてその上で最善の解決策を設計せよ」という、自己中心主義者にして合理主義者にして刹那主義者(笑)の私としては、《ましてや、このようなメディア利用の上で若い人たちに、さも「昔の人たちは偉かった」と思わせるようなことをするのなら、当然徹底的に反論させてもらう。/若い人たちが、自分たちの事を卑下することのないように、それこそ若い人たちが生きた歴史を否定する本当の意味での「自虐史観」に陥らないようにしたい》という赤木氏の問題意識には強く共鳴します。

 徒に「理想化された過去」に自己を同一化し、エクスタシーを得ている人たちが多すぎます。自分の生活世界を見直そうともせず、あるいは現在喧伝されている「問題」に対して懐疑の念を持たず、ただ「日本人の精神」みたいなフィクションに陶酔することこそ、自己の否定、自我の否定であって、結局のところあんたらが毛嫌いしている「自分探し」でしかねえんだよ。

 ついでにこの話題にも触れておきますか。
 Economics Lovers Live:ニート論壇の見取り図作成中(田中秀臣氏:エコノミスト)
 最近になって、巷の「ニート」論に対する批判が次々と出ています。その急先鋒は、本田由紀、内藤朝雄、田中秀臣の3氏であるといえましょう。本田氏は、「働く意欲のない「ニート」は10年前から増えていない」というネット上のインタヴュー記事で、若年無業者自身の心理的問題を重点視する従来の「ニート」論を批判しています。内藤氏は、「図書新聞」平成17年3月18日号で「お前もニートだ」という文章を発表し、青少年ネガティヴ・キャンペーンの一つとしての「ニート」論に、社会学的な立場から反駁を行なっています。田中氏は、このエントリーとはまた別のブログ「田中秀臣の「ノーガード経済論戦」」の記事や、あるいは「SAPIO」平成17年11月23日号の記事で、「「ニート」は景気が悪化したから発生したのであり、景気が良くなれば減少するはずだ」と主張し、「ニート」が予算捻出の口実になっている、と批判しています。このような田中氏の、景気に関する説明に関しては本田氏は少し疑問を持っていますが、問題意識の点では共鳴しているといっていいでしょう。

 また、田中氏との共著もある、早稲田大学教授の若田部昌澄氏も、最新刊『改革の経済学』(ダイヤモンド社)において、「ニートの中の不安な曖昧さ」と題して玄田有史氏を批判していますし(とはいえ、若田部氏の著書に関しては、まだ立ち読み程度なのですが…)、明石書店から出ている「未来への学力と日本の教育」の第5巻である、佐藤洋作、平塚眞樹(編著)『ニート・フリーターと学力』では、法政大学助教授の児美川孝一郎氏と、横浜市立大学教授の中西新太郎氏が「ニート」論を検証しています(児美川孝一郎「フリーター・ニートとは誰か」、中西新太郎「青年層の現実に即して社会的自立像を組みかえる」)。これと、来春出る予定の、本田氏と内藤氏と私の共著である『「ニート」って言うな!』(光文社新書)で、反「「ニート」論」の議論はおおよそ出揃うでしょう。

 これに対し、従来の「ニート」論の土台を担ってきたのが玄田有史氏(東京大学助教授)と小杉礼子氏(「労働政策研究・研修機構」副統括研究員)です。特に玄田氏は、かなり初期の頃から青少年の「心」を問題化していた(「論座」平成16年8月号の文章が、一番その点の主張が強いかな)。その玄田氏と小杉氏が中心となってまとめられた本が『子どもがニートになったなら』(NHK出版生活人新書)で、この本には玄田氏と小杉氏のほか、宮本みち子(放送大学教授)、江川紹子(ジャーナリスト)、小島貴子(キャリアカウンセラー)、長須正明(東京聖栄大学専任講師)、斎藤環(精神科医)の各氏が登場しています。ここに、玄田氏が序文を寄せている『「ニート」支援マニュアル』(PHP研究所)の著者である、NPO法人「「育て上げ」ネット」代表の工藤啓氏や、更に「希望学プロジェクト」という、玄田氏が中心となって動いているプロジェクトや、玄田氏も重要なポストにいる「若者の人間力を高めるための国民運動」の両方に参加している、東京学芸大学教授の山田昌弘氏も加えて、一つの陣営として捉えることができる。また、「サイゾー」の最新号の記事を見てみる限り、自民党衆議院議員の杉村太蔵氏もこちら側に親和的かな。

 さて、この話題に関して、もう少しだけ語らせてください。というのも、「ニートサポートナビ」というウェブサイトを見つけたのですが、そこに「ニート度チェック」なるコンテンツがありました。数回やってみたのですが、出題はランダムのようです。というわけで、今回また新しく挑戦してみましょう。

 1つ目の質問:会社的な所属(居場所)が自宅以外にない
 《会社的な所属(居場所)》とは、何を指すのでしょうか。少なくとも私はまだ大学生ですから、会社には所属していないし、アルバイトも家庭教師しかしていない。成人式実行委員会が《会社的な所属》といえるかどうかも疑問。極めて曖昧な質問なので、とりあえず「自宅以外にない」のほうにチェックをつけておきます。

 2つ目の質問:グループの雰囲気に溶け込むのが苦手だ
 私は大学内にほとんど友達がいません。また、コミュニケーション能力はあまり高くなく、もし自分が自分の体質とは少しずれるグループにいたら、少々我慢して、あまり干渉せず、溶け込もうともしないでしょう。従って、これは「苦手だ」というほうにチェックしておきます。

 3つ目の質問: 自分はとても真面目なほうだと思う
 少なくとも、私は、書物を読み漁り、あるいは計算式を懸命に解いたり、文章を書いたりすることにやりがいを感じているので、これは「思う」といってもいいかな。

 4つ目の質問:アルバイト情報誌(求人誌)は「とりあえず」目を通す
 これは「目を通す」ですね。この設問は、選択肢が「目を通す」「目を通さない」ですから、「とりあえず」でなくても、目を通すなら「目を通す」に応えるべきなのでしょう。

 5つ目の質問:父親とよく会話をする
 あまりしないほうだと思いますね。「しない」。

 6つ目の質問:製造業に魅力を感じる
 当たり前じゃないですか。製造業なくして世界は成り立ちませんよ。従って「感じる」。

 7つ目の質問:何かを始める前には、自分が納得している必要がある
 「考えてから行動する」か「行動してから考える」ということを聞いているのかな。私は「考えてから行動する」タイプなので、「納得している必要がある」。

 8つ目の質問:親の目を見るのが苦手だ
 「苦手ではない」。

 9つ目の質問:好きな自分と嫌いな自分がいる
 これは、長所と短所を表しているのでしょう。従って、「当てはまる」。ちなみに「当てはまらない」に関しては、3パターンあります。一つは「好きな自分はいるが嫌いな自分はいない」。もう一つは「好きな自分はいないが嫌いな自分はいる」。最後に「好きな自分も嫌いな自分もいない」。この3つに当てはまる人は、押しなべて「当てはまらない」に答えるべきなのでしょう。

 10つ目の質問:ニートという言葉が嫌いだ
 はい、大嫌いです。私は一貫して若年無業者という言葉を使うか、あるいは「ニート」とカギカッコに入れて使ってきた。この言葉が、青少年の内面ばかりを問題視する言説ばかりをはびこらせたのは否定し得ない。
 さて、10個の質問が終わりました。私の「ニート度」はいかがか!!

あなたはニート傾向が強いようです。

もし長期に渡って就業から遠ざかっているようでしたら、「ワークセレクション」にて、様々な仕事に携わる人たちの様子やインタビューを配信していますので、ご覧になっていただければ、新たな一歩を踏み出すきっかけとなるかもしれません。
また、就労や訓練を受ける意欲があるようでしたら、「若者自立塾の紹介」にて、厚生労働省の施策として行われている全国の各若者自立塾の概要をご紹介しております。「若者自立塾のアンケート結果」「若者自立塾の口コミ情報」とともにご覧になっていただき、興味があれば各自立塾にお問い合わせしてみるのもいいかもしれません。
自分でもどうしてよいかわからない場合は、「メールカウンセリング」にて専門カウンセラーのアドバイスを受けることができますので、一度ご相談してみてはいかがでしょう。

 よくここまでわかるもんだなあ、感心。っていうか、こりゃ、一種の宣伝にしか見えないな。
 で、何が言いたいのかな、このテストは。曖昧です。まさに「ニートの中の不安な曖昧さ」(@若田部昌澄)。

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2005年12月22日 (木)

トラックバック雑記文・05年12月22日

 今回のトラックバック:「カマヤンの虚業日記」/「冬枯れの街」/古鳥羽護/「性犯罪報道と『オタク叩き』検証」/「おたくの旅路」/「海邦高校鴻巣分校」

  さて、どうしたものか…。
 カマヤンの虚業日記:[政治]自民党・規制派の謀略
 冬枯れの街:ゲーム悪影響論に下された審判
 フィギュア萌え族(仮)犯行説問題ブログ版・サブカル叩き報道を追う:大谷昭宏・勝谷誠彦「実践的な防犯よりも”変態”をやっつけろ!」(古鳥羽護氏)
 性犯罪報道と『オタク叩き』検証:2005ユーキャン新語・流行語大賞トップテン『萌え~』『ブログ』、やくみつるが授賞
 おたくの旅路:野球をやると殺人者になる!
 海邦高校鴻巣分校:暴力漫画への怒りを表明した貴方へ
 ついに自民党が、表現規制に向けて動き出したそうです。

「犯罪から子どもを守る」ための緊急提言
平成17年12月19日 自由民主党 「犯罪から子どもを守る」緊急対策本部
今後取り組むべき課題
1.青少年の健全育成環境の整備
女子児童を対象とした犯罪増加の背景には、児童ポルノや暴力的なコミック、過激なゲームソフト等の蔓延の問題が指摘される。

子どもを対象とした性犯罪を封じ込めるには、青少年のみならず、成人にも悪影響を与えるこうした児童ポルノ等が事実上野放しにされている現状を改革する必要がある。

すでにいくつかの都県や政令市はこうした児童ポルノ等を条例により規制しており、自由民主党としても「青少年健全育成推進基本法」の制定に向けた取り組みを進める。

同時に、政府においても内閣府を中心に時代を担う青少年の健全育成に対する世論の喚起に努める。

 それだけではありません。朝日新聞社の週刊誌「AERA」平成17年12月26日号にも、有吉由香「子どもを殺させるな」という記事の反響として、以下のような投書が掲載されております(ちなみに有吉氏の記事自体は表現規制には一言も触れてはいません)。

 女児に対する異常な犯罪が続いている。女児をもつ親の胸は、犯人への底知れぬ怒りとともにこんな社会を作った大人の無関心・無力さへの悔しさでいっぱいだ。

 新聞やテレビのニュースでは毎日のように、「次世代」とつく新しいモノやサービスが登場している。誰もがそれに乗り遅れまいと夢中である。

 しかし、多くの大人は現実社会で押しつぶされそうな「無力な次世代」に対しては、あまりにも無関心すぎると私には思えてならない。

 親は必死である。児童をIT機器で防護し登下校の送り迎えをする。しかし親、学校、自治体の防護にも限界はある。なぜなら犯人は入念に下調べをして防護のスキを狙っているからだ。あるいは成人男性が自暴自棄にアタックしてきたとき、大人でさえ子供を守りきれないことは過去の事件から明白である。

 親や学校や自治体だけではなく、すべての社会を構成する大人にできること、そしてその責任があること。それはこういった幼児・児童への犯罪を助長する情報を社会から一掃することである。

 私が始めていること。それは成人向け雑誌・コミックとその他の本を平然と一緒に並べている書店では買物をせず、必ず書店には「止めるべきだ」と意見を言うことである。店長に直接言うのだ。そういった声を上げ続けない限り、幼児・児童への性は「法律的に問題ない」と売り物にされるのだ。

 親が必死に子供を守っている一方で、街には幼児や児童を性の対象とした雑誌やコミックが平然と、しかも誰の目にもつくように売られている。想像して欲しい。娘と一緒に絵本を買いに行った書店で、異常な性癖を持った男が娘を観察しているかもしれないのだ。大人よ、次世代のためにも自分の責任を果たせ。(東京都日野市・柿崎○○ 43歳・会社員兼大学生)←投書のため苗字だけの公開とします

 自民党にしろ、この突っ込みどころ満載の投書を書いた柿崎某にしろ、自分の言っていることの非論理性や非科学性を理解しているのでしょうか。

 確かに最近の児童が被害者となる事件は憂うべきではありますが、だからといってそれらの事件と彼らが問題にしている性表現の相関性はほとんど認められていません。あなたはニュースを見ていないのですか?これらの事件の報道を見れば、少なくともこれらの事件とあなた方の問題視している性表現が容易に結びついているという判断を安易に下すことはできないはずです。これは過去にさかのぼっても同じことで、昨年の奈良県の事件に関しても、犯人がそのようなポルノを常に見ているわけではなかった。結局のところ、あなた方は、「自分が不可解だと思っているから、子供たちにとって有害だ」と思っているのに過ぎないのではないですか?あなた方の身勝手が、そのまま「子供を守る」という大義名分とつながっているだけではないですか?

 それにです。特に柿崎様、《幼児・児童への犯罪を助長する情報》とは言いたい何を指すのでしょうか。柿崎様の言い分であれば、おそらくそれは《幼児や児童を性の対象とした雑誌やコミック》の事を指すのでしょう。しかし、それだけを《幼児・児童への犯罪を助長する情報》と限定し、それに対して規制しろ、という態度は、果たして公平といえるのでしょうか?

 例えばです。もし誰かが「報道に触発されて幼児を襲った」とでも証言したら、あなたは報道を規制しろ、とでも言うのでしょうか?また、世の中には、かつてから児童ポルノを取り扱った作品もありますし、ドラマの世界でも殺人を取り扱ったものは数知れない。それらも規制しろ、とあなたは言うのですか?

 自民党もまた然りです。自民党は、《女子児童を対象とした犯罪増加の背景には、児童ポルノや暴力的なコミック、過激なゲームソフト等の蔓延の問題が指摘される》と書いております。その指摘が正しいかどうかにもかかわらず、それらを無条件で受け入れて《犯罪増加の背景》として、規制してしまうのですか?他の要因は無視してしまうのでしょうか。
 もう一つ、子供が殺されている事件が急増している、とあなた方はおっしゃっていますが、統計的はやぶさかでもないようです。「少年犯罪データベース」に掲載されている資料なのですが、警察庁の「犯罪統計書」によりますと、幼女レイプの認知件数は、昭和35年ごろを境に著しく減少しており、従って最近の社会が幼女強姦を誘発している、とは到底いえないことがわかるでしょう。子供が不審者によってレイプを受けるリスクは急減しています。社会不安に乗じてメディア規制を煽っている人たちには、あなたたちは児童虐待についてどう考えているのか、と問いただしたいほどです(「今の親は駄目になった」という一般論で茶を濁す人もいるかもしれませんが、児童虐待は昔から問題として根強く存在していたのですからね!)。

 最後に柿崎様へ――最後の一段落は、これは一部の男性に対する差別ではありませんか?あなたの書き方では、幼女が出てくる漫画を見ている《異常な性癖を持った男》が、子供たちを虎視眈々と狙っている、とあなたは考えている、ということになるでしょうが、少なくとも彼らが犯罪者予備軍呼ばわりされる理由はない。児童ポルノに対する摘発は、実際に作成の過程で刑法的な問題が発生したときに限られるでしょう。ましてや、漫画やゲームに関しては、あくまでも出てくるのは仮想の人物ですから、名誉毀損罪は成立しません。これらの性表現が「少女全体に対する名誉毀損」ということを言いたいのであっても、具体的な被害者がいない限り名誉毀損罪としては成立しえません。

 あなたたちは、結局のところ、自分の「理解できない」ものを犯罪の元凶だ!といいたいだけではありませんか?それは、単に想像力や論理性の欠如だけではなく、レイシズムにもつながるものです。最近は、身辺雑記レヴェルの「憂国」から一気に天下国家を語ってしまうケースが目立ちますが(「文藝春秋」平成18年1月号の特集「三つの言葉」の一部も、このケースでしょう…私は立ち読みでしか読んでいませんが)、自民党の皆様、政治までそのようなレヴェルで大丈夫なのですか?

 それにしても、誰の口から「修復的司法」という言葉が出てきませんが…。猫も杓子も「厳罰主義」「メディア規制」の大合唱、事件そのものの修復や被害者遺族の被害回復など、誰も考えていないようです。防犯という大義の下、人々の自由が、それも事実誤認にまみれた認識で奪われていく…。そしてマスコミの愚かなコメンテーター共や、投書欄にはびこる短絡的な主張を叫ぶ人たちは、ただ「世間」の不安に乗じて、自分たちの主張を押し付けるだけ。ネガティヴ・イメージばかり先行しているだけです。一体得をしているのは誰なのか?子供をダシにして自分の利権を押し通したいだけではないのか?

 というよりも、広島の事件の犯人が外国人と知ってからは、一気に「分析」とやらが沈静化してしまった感じもありますが…。

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2005年11月11日 (金)

トラックバック雑記文・05年11月11日

 今回のトラックバック:本田由紀/古鳥羽護/杉村太蔵/「ANOTHER BRICK IN THE WALL」/「目に映る21世紀」/鈴木謙介/栗山光司/「わにぞう日記」/「月よお前が悪いから」

 このブログは、今月8日で開設1周年となりました(旧ブログも含めて)。だからといって何かやる気もあまりないのですが。でも、何かやってみようかなあ。 

 もじれの日々:あっぷあっぷ(本田由紀氏:東京大学助教授)
 フィギュア萌え族(仮)犯行説問題ブログ版:情報ツウ:杉村太蔵議員の若者へのエールと、福岡政行ゼミ「ニート問題」(古鳥羽護氏)

 現在発売中の「SAPIO」(小学館)にて、エコノミストの田中秀臣氏が昨今の「ニート」論の広がりを批判する記事が掲載されているようです。もとより現在発売中の「SAPIO」に関しては、かの曲学阿世の徒・正高信男氏が登場しているので、それを斬る目的で近々買う予定なのですが(この疑似科学者の記事が掲載されていなかったら「SAPIO」なんて買わなかっただろうなあ)、最近の話題において「ニート」という言葉によって若年層の就業構造の問題や経済的な問題が隠蔽されている。

 最近ではこのような「ニート」論に対する逆襲が静かながら始まっているようです。代表的なのは田中氏と本田由紀氏、そして内藤朝雄氏(明治大学専任講師)でしょう。本田氏も、最近は「ニート」論及び玄田有史氏(東京大学助教授)への批判のエントリーが多くなっている。本田氏に関して言うと、最近ネット上で話題になっているものといえば「日本の人事部」というサイトに掲載されたインタヴュー「働く意欲のない「ニート」は10年前から増えていない」ですが、本田氏は若年の就業の研究に携わってきた立場から、主として社会構造の視点から「ニート」論を批判している。

 一方、内藤氏は、社会学的な立場から批判を加えています。内藤氏による「ニート」論批判に関しては、「図書新聞」平成17年3月18日号か、現在発売中の「10+1」(INAX出版)を読んで欲しいのですが、内藤氏による「ニート」論批判の論点は、「ニート」論が我が国においては社会構造の問題ではなく青少年の心理的な問題として受容されてしまっていること、「いい年して働かない奴」「親の金を食いつぶして遊びほうけている奴」は「金持ちの道楽息子」みたいに昔からいたのに、なぜか最近になって突然問題化されるようになったこと、そしてこのような「ニート」論の広がりが様々なことを隠蔽し、大衆の憎悪を煽り立てて国家主義的な策動が支持されてしまうことなどが挙げられます。

 これらの議論に加えて、私は「自立」ということがなぜか絶対視されている、ということを付け加えてみたいと思います。山田昌弘氏(東京学芸大学教授)の「パラサイト・シングル」論に始まり、昨今では「自立しない」=悪、という図式がまかり通っている。正高信男に至っては、「自立しない」=サル、なんてことを言ってしまう始末です。しかし、これほど経済状況が悪化しているのであれば、「依存」というのも一つの手段、あるいはライフスタイルとして認められるべきではないかと。この「自立」を絶対視した「ニート」批判、という歪みは、元々「ニート」という言葉を輸入した玄田有史氏から始まっており、玄田氏は最近出た本(『働く過剰』NTT出版)や「中央公論」の連載コラムにおいて、「家事手伝い」をなぜ「ニート」と呼ばなくてはならないか、ということについて「家事手伝い」は家庭に縛り付けられて「自立できない」存在である、だから「ニート」であるということを言っている始末。
 ある意味では、「ニート」論の歪みは、そのまま我が国における若者論の歪みのヴィヴィッドな反映といえるかもしれない。

 参考までに、私のブログのエントリーで「ニート」について言及したものもいくつか挙げておきます。

 「統計学の常識、やってTRY!第4回&俗流若者論ケースファイル42・弘兼憲史
 「俗流若者論ケースファイル43・奥田祥子&高畑基宏

 「ニート」論がらみで少々宣伝しておきますと、本田氏と内藤氏が来年の年明けに出す本に関して、私も執筆者の末席に加わることになるかもしれません。今は原稿のやり取りの真っ最中なのですが、とりあえず私は巷の「ニート」論を分析・検証する立場、ということで。

 本田氏といえば、今月末あたりに「ハイパー・メリトクラシー社会化」(大雑把に言えば、「人間力」みたいなことを喧伝する社会のことらしい)に関して述べた本が出るそうなので、こちらも注目しておきたいところです。

 何か勘違いしている人を発見。

 杉村太蔵ブログ:「杉村太蔵が聞きたいっ!」開催のお知らせ(杉村太蔵氏:衆議院議員・自民党)

 まず書き出しにびっくり。「我こそはフリーター、我こそはニートという皆様へ」ってなんですかぁ。そこまで堂々と言える人がいるんかいな。しかも杉村氏は、このエントリーにおいて、フリーターなり「ニート」なりをどうもポジティブに捉えすぎているのではないかという気がする。そもそもこの人、自分のことを「フリーター・ニート世代の代表」みたいに吹聴しているみたいですが、そもそも自分を「ある世代」の代表に置くこと自体が間違いなのではないか。そもそもそのような宣伝は、ある意味では上昇意識の低いフリーターや「ニート」を置き去りにしてしまう、という危険性もなきにしもあらず。

 もっとも、市民の声を聞こうとする態度は評価できますが。その点において、最近公開した「総選挙総括:選挙「後」におけるメディアの頽廃に着目せよ」で紹介した、竹中平蔵氏のブログのこいつぁアホかと思わず天を見上げてしまうようなエントリーよりは遥かにマシ。杉村氏は、またある意味ではですが、今後大化けする可能性はかなり高い。一回会って話をしてみたいが、私は仙台在住だし、授業もかなり忙しいし。成人式実行委員会の仕事も詰まってきたし。

 ANOTHER BRICK IN THE WALL:国民運動に参加した芸能人について
 目に映る21世紀:「若者の人間力を高めるための国民運動」と、「若者の人間力を高めない非国民運動」

 「若者の人間力を高めるための国民運動」。これこそ「何か勘違いしてるんじゃないか」の典型例かな。こういうのを杉村氏は目指しているのかどうかは分かりませんが、少なくともこういう歪んだ「希望」を与えることによって、目の前の問題が解決するかのごとき錯覚を与えることはやめて欲しい。こういう「人間力」喧伝って言うのは、ある意味においてカルト宗教的かもしれない。「人間力」向上による「解脱」を説く点において…。

 SOUL for SALE:格差バブルと下層の論理(鈴木謙介氏:国際大学グローバル・コミュニケーション・センター研究員)
 千人印の歩行器:[ネット編]文明の背後に野蛮が潜んでいる(栗山光司氏)

 なんか最近「下流社会」みたいな議論が大流行ですが、私がどうもこの議論の後ろに胡散臭さを感じずにはいられないのは、こういう議論が、結局のところ単なるマーケティング的カテゴライズ及びそこから来る空疎な若年層バッシングにしかなりえないということ。その点においては、「下流社会」は本質的に「ゲーム脳」「ケータイを持ったサル」みたいな疑似科学的レイシズムと変わらないのかもしれない。私が何故こういうことを言えるかというと、それは本書、及び本書に対する書評(金子勝、吉田司、松原隆一郎の3氏。そしてこの3氏の「下流社会」評が掲載されているメディアが全て朝日新聞系だというのがこれまた興味深い)を読んで、結局のところ『下流社会』(光文社新書)の著者・三浦展氏と金子・吉田・松原の3氏が、最終的には若年層を危険視、あるいは蔑視していたことです。

 金子氏と松原氏は信頼できる書き手なのですが、「下流社会」論への肩入れを見てかなりがっかりしました。金子氏については、先ほどリンクを貼った総選挙総括を参照してください。

 我々は若年層を「説明」するための「便利な概念」を手に入れすぎたのではないか。「下流社会」「ゲーム脳の恐怖」「ケータイを持ったサル」はその典型ですが、我々はこのような「便利な概念」を手に入れすぎたことによって、それらに束縛されるようになった。そして、「理解できない」若年層の行動に対して、森昭雄や正高信男などといった扇動屋の言説に「癒し」を求めるようになった。このような「癒し」の行方、またはこれらの扇動言説がレイシズムにつながる可能性も見ないで。

 「文明」というのが、「自己」と「他者」の線引きを強化し、「他者」に対してなら何をやってもいい、ということにつながるなら、それこそ「文明の超克」が必要なのではないか…って、ちょっと言いすぎたか。とりあえず、インターネットやテレビゲームに「はまっている」人たちは年収が低くて、それゆえに差別的言動に走ったり自民党を熱狂的に支持したり、という論理は偏見だ、ということを言っておきたいっ!

 わにぞう日記:戦後教育のせいで子供はおかしくなったのか?
 全面的に同意します。このエントリーの議論は、戦後教育なるものを批判する人たちが、青少年・若年層を過剰に貶めることによって、現代日本人を自虐している、という論理の錯誤というものですが、私がかねてから思っていたことをうまく文章化してくれています。

 すこし飛躍するのだが、「自虐史観」をしばしば非難する論者たちが、現代日本社会に対してはきわめて自虐的な議論を好んで用いていることが気になっている。現代日本において、日本人も若者も堕落しきっていることを口を極めて指摘し、そのような彼らにかつての戦争の時代の国民や若者を非難する資格があるのか、と問いかける。多くのまじめな人がこの問いかけに影響を受け、現代日本の現状へのうしろめたさもあって、歴史への批判をみずから封じ込めているようにみえる場合がある。これは実は現代日本人の直接的自虐である。現代の日本人・少年を否定することにより、戦争中のある種の青春を天まで持ち上げるのだ。また、自虐=自己否定の焦点は何故か、自由や人権・個人の尊厳の尊重といった近代民主主義の原則、あるいは戦後民主主義そのものに向かうのである。この手の自虐の構造あるいはメカニズムも、どうも気になって仕方がない。

 もっとも私は、このような議論の錯誤は、青少年と戦後教育を口走る人が、自分は「戦後」の人間ではない、悪としての「戦後」を脱した「正しい」人間なんだ、と錯覚していることから始まっていると思うのですが。

 フィギュア萌え族(仮)犯行説問題ブログ版:板橋両親殺害事件「あんな単純な理由で殺したと思われたくない」マスコミが理由全部に触れない違和感(古鳥羽護氏)
 こういう報道が蔓延するのは、結局のところ、背景にある特殊な事情を無視して、このような突発的事件を「どこでも起こりうる事件」に仕立て上げ、不安をあおりたいだけなのかもしれませんね。そういう報道に、断固として「NO」と言っていきましょう。そもそも少年犯罪はピーク時に比べてかなり低い水準を推移しているのですから、なぜ犯罪が「起こらないか」ということを検証すべきではないでしょうか。

 月よお前が悪いから:[規制]恐れていたことが現実に
 児童ポルノを持っているだけで、犯罪を起こしていないのに犯罪者扱いですか。そもそも「何々を持っているからこいつは犯罪を起こす可能性が高い」というのは、「良質な文化」みたいなものを国家が規定してしまう可能性がある。更にそれを通り越して、国家が「理想的な日本人」を規定してしまう可能性がある。

 広田照幸『《愛国心》のゆくえ』(世織書房)という本において、国家が「正しいコドモ」を規定すると、ゆくゆくは「正しいオトナ」も国家によって規定されかねない、という議論がなされていますが、そういう点に無関心であってはいけないと思います。

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2005年11月 6日 (日)

総選挙総括:選挙「後」におけるメディアの頽廃に着目せよ

 竹中平蔵氏の公式ブログで、「◆政局マニア系◆ フリーターと新しい自民党との革命的可能性(1)」なる記事があり、そこで《 20代自身の「9.11総選挙総括」が期待されるところです》と書かれていたので、私が総選挙の約半月後に書いて、「論座」に投稿して没になった原稿をトラックバックしておきます。

 ちなみにこのエントリーの書き手(おそらく竹中氏ではない)は、このエントリーにおいて《 ここには、小泉総理と若い層が「真ん中」の層をサンドイッチにして「文化大革命」をしかけている、という新鮮な構図が》などということを書いておられますが、この論文でも紹介した、平成17年9月28日付の読売新聞の調査でも、若年層で自民党に投票した割合はせいぜい約45%と出ているので、若年層が自民党を積極的に支持した、ということはあまり言えない。

 結局のところ、この書き手も、自分たちが若い人たちに支持された、と主張することによって、自己満足を得たいだけではないかと思われます。

 このエントリーの書き手は、主として左派による若年層批判を採り上げていますけれども、若年層を過大視して、他の要因を見誤っている、という点では同じ穴のムジナです。
 そもそもこの書き手は、自民党参議院議員の世耕弘成氏が、今回の総選挙のメディア作戦に関して「論座」平成17年11月号において「全てセオリー通り」と語っていることをいかに説明してくれるのでしょうか。

――――――――――――――――――――

 1・東京新聞の若年層バッシング
 平成17年9月11日の、自民党の「歴史的大勝利」で終わった衆議院議員総選挙の結果を、私は東京で知った。9月12日のことだ。というのも、私は9月12日から15日にかけて、東京と名古屋に旅行に行っていたので、11日の深夜に仙台を出発するバスに乗って、12日早朝に着いた。そしてコンビニで東京新聞を買い、ホテルに入って、荷物を預けようとしたところ、私が泊まるべき部屋が丁度空いていたので、早めにチェックインを済ませてもらい、私は部屋で2時間ほど仮眠を取った。

 その際、私が気になっていたのが、その東京新聞の記事における、評論家の吉武輝子氏の談話であった。吉武氏は、今回の総選挙に関して、《イラクへの自衛隊派遣を見ても、本来は憲法を変えるかどうか、戦争ができる国にするかどうかが問われる選挙だった。だが(イラク派遣は主な争点とならず)郵政民営化に反対する政治家に「刺客」を立て反対は認めない首相の手法に争点が当たり、アナウンス効果に乗りやすい若い層に影響を与えた。行きつく先が「がけ」かもしれないのに、若者は笛吹きがうまい人に黙って付いていく雰囲気があり、平和憲法改正への動きが進むのではないか》と語っていた。どうして吉武氏はここまで若年層を見下したような視線で物を語れるのだろうか。もしこの選挙戦においてアナウンス効果が自民党の「歴史的大勝利」をもたらしたのであれば、まず批判されるべきはそのアナウンス効果を煽り立てたメディアではないか。それなのに吉武氏はその点を考慮せず、若い世代だけを叩いている。

 同様の論調は、13日付の同紙で更に強くなった。同紙は、特集面の「こちら特報部」という欄で、「自民寄りくっきり 20代のココロ」なる記事を書いていたのである(大村歩、浅井正智[2005])。自民党を支持することさえ《ココロ》の問題かよ、と私は半ば呆れて読んでいた。この記事においては、今回の総選挙で自民党が「歴史的大勝利」を収めたのは、小泉純一郎という「強い存在」に憧れて、思考停止で支持し、投票したからだ、というスタイルで書かれており、これも若い世代ばかり問題化して、それ以外の要因を全く無視した記事であったとしか言いようがない。特に私が笑ったのは、日本青少年研究所所長の千石保氏の談話である。千石氏は、「改革を止めるな」という自民党のキャッチフレーズは「若者言葉」だ、と断定する。その根拠は《元気がいい。ただし中身は問われていない。まさに流行だしファッションなんだが、ある意味小泉首相自身が若者化していると思う》(大村、浅井、前掲)だということらしい。この談話において、「若者」という存在が、「流行に簡単に飛びつくが、その内実を考えない」存在として貶められているのは明らかだろう。第一、《元気がいい。ただし中身は問われていない》というのを《若者言葉》の定義と刷るならば、若者論にこそそのような言葉が溢れているのだが(例えば「ゲーム脳の恐怖」とか)。

 また、この記事においては、北海道を除く全ての地方において、20代が自民党に多く入れたのだ、という調査の結果を載せている。しかし、どれくらいの割合の20代が自民党に投票したのか、ということは一切書かれていない。

 2・朝日・毎日の若年層バッシング
 そして仙台に帰ってきてから調べたところ、他の新聞でも、今回の投票結果を若年層のせいにする論調がちらほらと見られた。例えば平成17年9月13日付の毎日新聞においては、神戸女学院大学教授の内田樹氏が、総選挙の総括を書いていたのだが、その毎日新聞の記事に更に加筆した「勝者の非情・弱者の瀰漫」という文章において、内田氏はそこで若年層の投票行動を問題化している。曰く、

 小泉首相のこの「先手必勝」の手法には若い有権者に強くアピールする要素があったように思われる。それは「負け犬を叩く」という嗜虐的な傾向である。

 自民党の若い公募候補たちが党公認を得られなかったベテラン政治家を次々と追い落としてゆく風景に若い有権者はひそかな快感を覚えたはずである。

 「弱者は醜い」、「敗者には何もやるな」。これが今回の選挙を通じて小泉首相が有権者に無言のうちに告げたメッセージである。そして、この「勝者の非情」に有権者たちは魅了されたのである。(内田樹氏のウェブサイトから)

 と。なぜ内田氏は《若い有権者》をしきりに問題化するのか、最後まで読んでも分からなかった。おそらく今回の選挙において投票率が7%以上も上がったことから、これまで選挙に行かなかった若年層が投票に行ったのだ、と錯覚し(なぜ「錯覚」と断定するのかは、後に述べることにする)その若年層の多くが自民党に投票したと内田氏は感じ取ったから、このような論理を述べたのであろうか。しかし、この文章にも、先に引いた東京新聞の特集と同じように、若年層を過度に貶めるような論調が出ていることは否めないだろう。
 同じような、今回の衆院選において若年層を問題化する言説は、朝日新聞にも出ていた。慶応義塾大学教授の金子勝氏は、平成17年9月28日付の朝日新聞「論壇時評」で、東京大学助教授の玄田有史氏の文章を引いたあたりから、《では、この大量のフリーターやニートを抱える20代は、どのような投票行動をとったのか》(金子勝[2005])と切り出す。そして金子氏は、民間コンサルタント代表の三浦展氏の最新刊『下流社会』(光文社新書)を引いて、《現在の生活を楽しもうとする、この若者たちの心象風景には、社会どころか家族さえ見えてこない》(金子、前掲)などと書いている。しかし三浦氏のプロファイリング(例えば《パソコン、携帯電話、テレビゲームを持ち、「しばしば非活動的で、ひとりでいることを好む」》というもの)が、ある種の偏見(ここで引いた文章で言うと、この三浦氏のプロファイリングには、パソコンや携帯電話、テレビゲームの所持者は内向的で、人とのコミュニケーションを拒む頽廃した人間である、という偏見)に基づいていることを忘れてはいけないと思う(そもそも同書においては、なぜ《下流》ではいけないのか、ということが説明されておらず、著者の感情が先走っているように思える)。

 3・現役20代のささやかな疑問
 さて、これらの、総選挙の結果を若年層のせいにする言説において、私にはいくつもの疑問が浮かんでくる。

 一つは、今回の衆院選における投票率が前回の衆院選に比して7%以上上がったということは事実として存在するのだが、果たしてそのうちどれくらいが若年層なのか、ということ。世代別の投票率に関しては、「明るい選挙推進委員会」がまとめない限り分からないのだが、少なくとも東京新聞や打ち出し、及び金子氏が文章を書いた時点では、そのことはまだ分からない、ということだ。参考になる資料があるとすれば、高知新聞社のウェブサイトにおいて、若年層の投票率が前回衆院選の約24%だったのに対し今回は約42%と、およそ18ポイントほど上がった、ということが挙げられよう。しかし、全国において20歳代の投票率が仮に20%上がったとしても、そこで新規に得られる票数は約320万票であるが(この推計には総務省統計局の推計人口を用いた)、今回の総選挙で投票率の増分に相当する票数は小選挙区が約857万票、比例が約871万票であり、また全体の票数は小選挙区が約6780万票、比例が約6800万票なので、こと若年層ばかりを責めることはできないのではないか。

 また、一体どれほどの若年層が自民党に投票したか、ということもここでは触れられていない。ここで参考になるのは、平成17年9月28日付読売新聞に掲載された、比例でどの政党に投票したか、という調査であろう。それによると、20歳代は、およそ45%が自民党に投票した、と答えている。しかし、これは他の世代と比べてみると、これは40歳代に次いで2番目に低い数字であり、一番多いのは60歳代で、およそ53%が自民党に投票したという。これはあくまでも調査の結果であり、実際に投票行動を調べたわけではないのだが、それでも若年層の多くが自民党を支持した、と考えるのは難しいようだ。

 そもそも、データが不十分なうちに、若年層を「敵」として、こいつらが馬鹿だから自民党が勝ったのだ、と断定するのは、若年層に対する差別に他ならないか。

 4・「小選挙区制」「公明党」は聖域なのか
 実際問題、この選挙においては、これらの論者が触れようとはしない、いくつかの大きな問題が横たわっているようだ。

 例えば小選挙区制。前回衆院選においては、小選挙区における得票率は自民党約44%、民主党約37%だった。しかし今回の衆院選では、自民党約48%、民主党36%と、民主党が微減したのに対し、自民党も微増程度だった。しかし議席は、ご存知の通り自民党は219議席、逆に民主党は52議席と、大きく差が開いた。これこそが小選挙区制のなせる業、というべきではないだろうか。要するに、小選挙区制度というものは、少しでも多くの人を見方に付けることができれば大幅に議席を伸ばすことができるが、逆に多くの民意をないがしろにしてしまう。そのような小選挙区制の特徴や恐ろしさを、自民党の「歴史的大勝利」という結果によって我々は学ぶことになってしまった、というのが、少なくとも今回の選挙の本質の一つになっているのではないか、と思えてならない。この事実は、逆に次回の選挙で民主党の宣伝戦略が成功したら大幅に議席を巻き返せる、ということも表しているのだが、それよりは現行の選挙制度の歪みを指摘したほうがいいような気がする。

 また、今回の選挙において、自民党と公明党の選挙協力が明白になり、この2党はもはや切っても切れない関係になったということが一部で指摘されている。多くの自民党からの出馬者が「比例は公明党に」と演説したのは有名な話だ。各種調査においても、例えば平成17年9月30日付読売新聞に掲載された分析によると、公明党を推薦した人の約8割が小選挙区で勝利したり、また公明党の票が7割消えると自民党の出馬者が58人落選するなどという調査結果が出ている。若年層の投票行動に対しては口うるさく避難する人たちが、なぜこのような大きなファクターに触れようとしないのだろうか。

 5・選挙分析を狂わせた「B層」的世代認識
 私は、今回の選挙において、若年層を敵視する言説を読んでいると、自民党が(正確には自民党が発注したコンサルティング会社が)小泉内閣の支持基盤の一つである、小泉総理や閣僚のキャラクターを支持する層を「B層」と呼び、それらの層は「IQが低く、具体的なことは分からない」と勝手に規定し、そいつらを扇動しろ、と戦略を立てたことを知ったときと同様の気持ち悪さを覚えてしまう。「論座」編集部の高橋純子氏は、《小泉総理のキャラクターを支持する層が「IQ軸 Low」に位置づけられていたという事実は、覚えておきたい》(「論座」平成17年11月号「編集手帳」)と憤っているけれども、今回の選挙戦に関して、若年層の投票行動を問題視した人たちは、同様の認識を若年層に抱いてはいなかったか。

 先に上げた3つの記事の執筆者、特に内田樹氏は、小泉首相や自民党を支持し、自民党に投票した人たちを、他人に対する想像力がなく、自民党の古老の議員が次々と落選していく様に密かな快感を覚えることしかできない人物であると描き出した。それ以外の執筆者も、若年層を、ただ「強い存在」についていくだけの、思考を放棄した存在として描いている。しかし、そのようなプロファイリングは、かえって若年層の現実を見誤らせることにならないか。

 もし、若年層が、金子勝氏の言うとおり、《おそらく「政治のバブル」が崩壊すれば、彼らが最も被害を受けるだろう。だが、そうなっても、彼らは今を壊してくれる強者の出現をひたすら待つしかない》(平成17年9月28日付朝日新聞)ほど追い込まれているのであれば、それこそ若年層に対する社会的支援、若年層を苦しめる社会環境の改善を訴えるべきではないだろうか。それなのに、自民党を支持した(とされている)若年層を、例えば金子氏の言うとおり、テレビゲームや携帯電話、インターネットに没頭して社会が見えなくなってしまった存在として貶めたり、あるいは東京新聞の記事で登場していた、臨床心理士の矢幡洋氏の如く、若年層を《今の二十代は、いじめ問題をくぐり抜けてきた世代で、目立てばいじめられるため角が立つことに対する恐怖感がある一方で、強い者の決断を、内容を問わずにリスペクト(尊敬)する。つまり思考放棄だ》(大村歩、浅井正智[2005])とすることによって、社会的な問題を「内面」すなわち心理的な問題に矮小化したりという行為は、結局のところ残酷な「自己責任」論にしかなりえず、若年層を馬鹿にするだけのものにしかならないのではないか。金子氏は、玄田有史氏の《「200万を越すフリーターと80万ともいわれるニートの存在、そして年間3万人を数える自殺者」を「何よりも現代日本の『苦しみ』として捉え受け止める精神が、いま求められている」》(金子勝[2005])という言葉を引く。しかしそのような人たちに対する想像力がもっとも欠けていたのは、この選挙の結果を若年層の投票行動に責任をなすりつけた人たちではないか。

 6・26歳の新人議員に執着するマスコミを嗤う
 このようなマスメディアにおける、選挙「後」の頽廃に関しては、テレビにおいては、今回の総選挙で比例関東ブロックで当選した、26歳の新人議員の杉村太蔵氏に対する態度として現れた。杉村氏は、例えば「議員になれば電車が乗り放題」「年収が2500万円に上がった」などという、まさに庶民の感情を表面化させたかの如き発言でワイドショーや週刊誌をにぎわせた。杉村氏に対しては、多くの人がバッシングしていたが、そのバッシングを支える構造は、「俺にもこういうことを言わせろ」とか「こんな奴を税金で食わせるなんて」みたいなものに依拠していた。しかし、結局のところ、そのような認識は、結局のところ「今時の若者」風情が浮かれやがって、というルサンチマンに過ぎなかったのではないか。要するに、自分の大事な税金を、「今時の若者」という「社会の敵」に使わせるのは許せん、という歪んだ「納税者の論理」である。このようなバッシングは、私が成人式の実務の場に関わっているからだろうが、一部の人が起こした成人式の暴動に対する「自分の税金がこんなことに使われているなんて」というバッシングや、あるいはフリーターや若年無業者に対する支援に対する、「そんなのは親が悪いんだから、逆に親から税金を取ればいい」というバッシングと重なって見えてしまう。そういう瑣末なことに汲々としている間に、例えば青木幹雄氏のヤミ献金に関する証人喚問が覆い隠されていく。

 7・投票するだけでいいのか
 話が少々横道にそれてしまったが、再び「選挙と若者論」の話題に戻ろう。新聞の社説やコラムが若年層の投票率を上げようとする際、必ず使われるレトリックは「若年層が投票行動に出ないと、若年層を無視した政策が行なわれるし、現在国の背負っている借金も若年層に押し付けられる」というものである。だから若年層が投票行動に出て、その存在を示せばいい、となるわけだが、しかし事態はそんなに単純なのだろうか。例えば、「ひきこもり」や若年無業者に対する支援策は、その方法論には批判はいろいろあるし、これらの活動が政治家ではなく官庁がベースになっていたことも反証の一つとして挙げられるのだが、少なくとも若年層が投票行動に出たから、という理由で行われたものではなかった。また、このような語り口には、現在の政治家の力を過小評価している、あるいは政治家の「不作為」を問いただす、という視点が欠落している。

 少なくとも今回の選挙戦において、青少年問題に関しては、マニフェストを開くまでは誰もわからずじまいだったのではないか。本来であれば、そのような「争点以前の問題」を争点のレヴェルに押し上げるのは、メディアの仕事であるはずだ。しかし、今回の選挙においては、マスコミは完全に自民党のメディア戦略に乗ってしまい、そのような作業を怠った。なので、そのような作業は、ネット上で有志が行なわざるを得なくなった。このようなメディア状況の中で、仮に投票率が上がったとしても、それは「B層」がうまくメディア戦略に乗ってくれた、という文脈でしか認識されないのではないか、という気がしてならない。

 投票することに意義がある、という、さも投票を自己目的化しているかのごとき言説は、既存のメディア環境における政策論争の貧困さを覆い隠してしまうことにならないか。そうでなくとも、この選挙には、わずかながらの希望が見えている。

 8・希望はある
 一つはネット上の選挙活動について。私は自分のブログで、主要5政党のマニフェストにおける、青少年問題に関する記述を比較して、どの政党を支持すべきか、という記事を書いたことがあるが(ちなみに結論としては、私は民主党支持を打ち出し、そして民主党に投票した)、これはネット上で表現規制や青少年の行動規制に関心のある有志がネット上で行なった活動である「選挙に行こう」に触発されたものである。この選挙活動では、特にゲームやアニメに関する表現の規制や、コンテンツ産業に対する各議員の評価を明らかにして、誰に投票するべきか、ということを書いていた。この活動は朝日新聞の週刊誌「AERA」でも以下のように紹介された。

 実はネットでは今、投票用紙と鉛筆を持った大きな目の女の子のキャラ「選挙たん」が一部で人気だ。「アニメ・マンガ・ゲームに味方してくれる候補者に投票しよう」と呼びかけているホームページ「選挙に行こう」で公開されている。サイトの管理者は、説明する。
 「アニメやゲームは日本の誇る文化だと言いながら、凶悪事件が起こるたびに、アニメやゲームのせいにして、規制しようとする政治家が出てくる。だからオタクこそ、世間に背を向けずに、投票に行くべきなんです」(内山洋紀、柏木友紀[2005])

 ただ「選挙に行け」と尻を叩くのではなく、今どのような事態が起こっているか、そしてどのような問題意識を持つべきか、ということを認識した上で選挙に行ったほうが、投票の「質」は高まる。そのような活動が、ネット上では散見された。これはいい方向に流れれば希望となるであろう。もちろん情報は取捨選択すべきものであるから、自分なりの問題を構築することができる。少なくとも、投票が自己目的化した選挙の中では、自分が政権に「つながっている」という感覚しか満足できないし、今回自民党に投票した人の中にそのような傾向を持った人が存在することはやはり否めない。

 もう一つは鈴木宗男氏のことである。鈴木氏は、北海道の自立を掲げた政党「新党大地」を旗揚げしたが、鈴木氏は北海道への利益誘導のほかに、アイヌ民族の自立や、フリーターなどの若年層に対する支援を訴えたという。結果、北海道では、特に若年層に、安倍晋三氏を上回る人気を得たそうだ。また、関東でも、自民党の大勝利により比例の議席が一つ余ってしまったが、その恩恵をあずかれたのは、公明党の議員ではなく、社民党の保坂展人氏だった。保坂氏は、青少年問題に関してブログで熱心に発言を行なっているほか、表現規制の問題に関しても規制反対の側から発言している。これらの事実は、単純化された「争点」に対する風穴を開ける存在がいかに重要であるか、ということを物語っている。

 9・単純化するマスコミ
 巷では、若年層を呪詛する言葉が飛び交っている。例えば、マニフェストを検証したところ、自民党、民主党、共産党が、青少年の健全育成の為に「有害」表現の規制を訴えた。特に熱心だったのは、なぜか共産党だった。他にも、巷では、若年層が無能だから社会が悪くなるのだ、という類の本が売れるようになり(『ゲーム脳の恐怖』『ケータイを持ったサル』あたりはその典型であろう)、若年層が凶悪化している、といった説が大手を振ってまかり通る。我が国においては、若年層は既に「わかりやすい」ヒール(悪役)としての役割を背負わされている。しかし、そのような「わかりやすい」言説設定の裏で、本当の意味での弱者は永遠に世間と経済に押しつぶされ続ける。本来であれば、そのような人たちを支える政党や候補者が必要であった。あるいは、そのような人たちに対して福音となるような候補者をマスコミは探すべきであった。

 もし、誰かが自分では再起できないほど打ちひしがれているのであれば、誰かが救いの手を差し伸べなければならない。誰かが声をあげるチャンスを探しているのであれば、それに手を貸すことが良心であろう。最近の言説は、そのような人たちに対して、お前が悪いのだと唾を吐きかけ、世間に対してはこいつらは病的だ、退化しているなどといって本当の意味での関心を逸らしている。マスコミも政治家も、そのような「強者の論理」「自己責任の論理」から一歩引いた人が出てくることを、私は期待するほかない。

 そのために、まず、若年層を「B層」扱いすることはやめにしないか。

 若年層を「B層」と呼んで恥じない態度こそ、独裁者への支援なのだから。

 参考文献・資料
 内山洋紀、柏木友紀[2005]
 内山洋紀、柏木友紀「オタクと独身女の選挙」=「AERA」2005年9月12日号、朝日新聞社
 大村歩、浅井正智[2005]
 大村歩、浅井正智「自民寄りくっきり 20代のココロ」=2005年9月13日付東京新聞
 金子勝[2005]
 金子勝「論壇時評 政治のバブル」=2005年9月28日付朝日新聞

 石田英敬「「テレビ国家」のクーデター」=「論座」2005年11月号、朝日新聞社
 谷口将紀、菅原琢、蒲島郁夫「自民にスウィングした柔らかい構造改革派」=「論座」2005年11月号、朝日新聞社

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2005年10月22日 (土)

トラックバック雑記文・05年10月22日

 トラックバック:「kitanoのアレ」/「成城トランスカレッジ!」/「カマヤンの虚業日記」/本田由紀/古鳥羽護/「フリーターが語る渡り奉公人事情」/保坂展人/茅原実里
 忙しくて更新する暇がないよ…。

 kitanoのアレ:ジェンダーフリーとは/暴走する国会/憲法調査会報告書
 成城トランスカレッジ! -人文系NEWS&COLUMN-:ageまショー。
 カマヤンの虚業日記:「霊感詐欺する権利」なんか存在しない

 グーグルで「ジェンダーフリー」を検索すると、自民党のプロジェクトだとか(統一教会の機関紙である)「世界日報」の記事とかが上のほうにヒットしてしまうそうです。で、それらの記事は、徒に「ジェンダーフリー」を危険視したり、あるいは陰謀論まで持ち出して的はずれの批判をしたり、というものが多いようです。私はこの手の言説を、産経新聞社の月刊誌「正論」でよく読むのですが、こういう言説を展開する人たちの歴史観を疑いたくなりますね。結局のところ「自分が理解できない奴らが増えたのは自分が判定している政治勢力の陰謀だ!!」って言いたいだけでしょ。こういう人たちは、酒場でのさばらせておく分には害はないのですが、実際の政治に関わっているのだから無視できない。

 そこで「成城トランスカレッジ!」の管理人が発足したプロジェクトが「ジェンダーフリーとは」というウェブサイトです。このサイトは、「ジェンダーフリー」に関する論点や、それの批判に対する反駁、また混同されることの多い「男女平等」と「ジェンダーフリー」の違いなどを説明した優れたサイトです。

 しかし、「kitanoのアレ」に貼られている、自民党の「過激な性教育・ジェンダーフリー教育実態調査プロジェクトチーム」(安倍晋三座長)のバナー広告を一部改変した広告が面白い。何せ《まさかと思う訴えが父母から寄せられています。自民党は責任を持って性感染症を増やします》ですからね。ただこのようなパロディは正当性があります。というのも、性感染症など、性行為にまつわる疫病・感染症を予防するためには、適切な処置をとらなければならない。従って、それに関する知識も必要になる。ところが自民党の推し進めている性教育とは、「性行為は害悪だ」「性行為はするな」の一点張りのようです。

 社会学者の宮台真司氏が、数ヶ月前の「サイゾー」で、宮崎哲弥氏との連載対談において、「「過激な性教育」が問題だというが、それで初交年齢が上昇したり、性感染症が阻止できたら問題はないのではないか」といっていた記憶がありますが、こういう認識に照らし合わせて自民党のプロジェクトを考えてみると、「たとえ自分たちが望む結果になったとしても(社会的問題が解決されたとしても)、自分の望む手段で解決されなければ嫌だ」ということになるのでしょうか。

 これに関してもう一つ。

 成城トランスカレッジ! -人文系NEWS&COLOMN-:名コンビ。
 この「反ジェンダーフリー」の旗手である、高崎経済大学助教授で「新しい歴史教科書をつくる会」現会長の八木秀次氏と、「つくる会」初代会長の西尾幹二氏の対談本『新・国民の油断』(PHP研究所)が書店に並んだとき、私は軽く読んでもうこの手の議論には付き合いたくないや、と思ったのですが、こんなに面白い俗流若者論の本だったとは。あとで読んでみようかなあ。

 ついでに、私のブログでも八木秀次氏に関して言及したことがありますので、参考までに。

 「俗流若者論ケースファイル25・八木秀次

 さらにこの「つくる会」や、自民党の右派系の国会議員が推し進めている教育基本法改正について言うと、東京大学助教授の広田照幸氏が最近『《愛国心》のゆくえ』(世織書房)という本で、その「改正」について批判的に検証しております。お勧め。

 まだまだ教育の話。

 もじれの日々:記事群(本田由紀氏:東京大学助教授)

 本田氏が引いている調査について。

*「幼児の就寝時間早まる 積み木・泥遊び増/「遊び相手は母親」8割 首都圏対象のベネッセ調査」
 これはたぶん、ハイパー・メリトクラシー(「人間力」みたいなもん重視)下における家庭教育指南言説の蔓延の影響だ(近刊拙著第1章・第5章参照)。それにしても平日に一緒に遊ぶ人が、「きょうだい」「友達」が10年間に10%減った代わりに「母親」が55%から81%まで急増しているのはすごい。子供の「人間力」(私の言葉では「ポスト近代型能力」)育成エージェントとしての重圧を母親=女性が一身に引き受け、「パーフェクト・マザー」責任を果たそうとしているのだ。しんどいことだ。

 本田氏のコメントは、至極正鵠を衝いているものだと思います。青少年問題をめぐる言説については、どうも最近になっても依然として「本人の責任」「親の責任」を強調するのが多い。こういう「責任」、特に「親の責任」を強調するものについては、過剰に親に求めすぎるようになり、親が社会的な支援、第三者による支援を受けるチャンスを奪ってしまう。

 最近は「健全な規制の下に健全な精神が育つ」みたいな意見がはびこっていますからね。子供が「健全」に育つためには、国家や親によって適切に「指導」されなければならない、と。若年無業者対策にしても、最近なぜか強調されるのは職業能力ではなく「適切な職業観」ですからね。精神こそが大事である、という考え方には一理あるとは思いますが、それが行き過ぎると過度の教育主義にならざるを得ない。

 ついでに言うと、本田氏の言うところの《「パーフェクト・マザー」責任》については、広田照幸氏が分かりやすくまとめておりますが(広田『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書)、最近は「「パーフェクト・ファザー」責任」みたいなものも出てきているようで怖い(例えば「父親の育児参加」議論の一部とか)。

 もう少し教育の話を。

 フィギュア萌え族(仮)犯行説問題ブログ版:10月13日「どうやってゲームを規制するのか?」と、中立性を欠いたNHKの報道(古鳥羽護氏)
 この手の報道にはもう飽き飽きしました。マスコミは、早く最近のメディア規制論が政策的判断ではなく「「世間」の身勝手」「為政者の身勝手」によって推し進められていることを理解したほうがいい。

 明日の宮城県知事選挙にも、松沢“ゲーム規制”成文氏と中田“行動規制”宏氏が推薦を表明している人が出馬しているからなあ(ちなみに新仙台市長の梅原克彦氏はこの人を推薦しております)。対抗馬は現在の浅野史郎知事の路線を継承、そのほか片山善博氏なども推薦し、民主党と社民党の推薦を受ける人。ただ、浅野知事もどうやらゲーム規制には前向きのようで、いくら民主党と社民党が推薦しているとはいえ注視しなければならない。あとは共産党推薦の人。共産党もメディア規制に関しては怪しいところが多いからなあ。今回は投票はあまり乗り気ではない。まあ行きますけどね。一応私は民主党(もう少し詳しく言えば民主党左派、あるいはメディア規制反対派)支持だし(ただ党幹部に枝野幸男氏が入らなかったのが残念だけど)。

 あと、このエントリーで気になったのがコメント。ちなみにこのコメントは「フリーターが語る渡り奉公人事情」の管理人によるもの。

上の世代のなかでメデイア・リテラシーの低い人たちは、ひきこもりとニートとフリーターの区別もつかずに勝手に人をバケモノにしたてあげ、取り乱したり、攻撃したり、他人の権利を不当に制限したがったりしています。若者の自立を支援する団体のなかには、大学生の不登校まで治療の対象とみなすところもあるくらいです。

わたしが、以前マスコミ報道にかつがれて連絡した団体も、大学生不登校とフリーターと引きこもりとニートの区別もつかないまま、いまどきの若者全般が反社会的で未熟でだらしないとの前提にたって、道徳的な説教をしていました。なんと、それらは反革命だという政治的弾圧さえしていました。

 で、この書き手自身のブログにおけるエントリーが次のとおり。

 フリーターが語る渡り奉公人事情:反革命ばんざい!
 このブログの管理人が間違って参加してしまったあるセクトについての話なのですが、この文章を読んでいる限り、少なくともこのセクトは運動によって社会を変革することを目的としている、というよりも運動が自己目的化している、と言ったほうがいいでしょう。要するに、仲間と一緒につるんで運動することによって「感動」を得ることこそが究極の目的である、と。この団体に関して、重要なのはむしろ「感情を共有できる人」であり「共同幻想」である。この団体が、「ひきこもり」の人たちを過剰に排撃するのは「共同幻想」を共有できないから、ということで説明できるのではないでしょうか。

 それにしても、この「共同幻想」論、もう少し論理の展開の余地があるような気がするなあ。例えばつい最近短期集中連載という形で批判した民間コンサルタントの三浦展氏の著書『「かまやつ女」の時代』(牧野出版)や『下流社会』(光文社新書)の問題点もこれで説明できるような気がする。要するに、三浦氏の理想とする「高額のものを消費するための自己実現(としての就労)」みたいな流れにそぐわない人はみんな「下流」とか「かまやつ女」みたいに罵倒されてしまう、という感じ。

 ついでにフリーターや若年無業問題に関わる本の書評ですが、最近忙しいので、11月中ごろになってしまう予定です。一応、前回(10月12日)からの進行状況は次のとおり。

 読了し、書評も脱稿したもの:丸山俊『フリーター亡国論』ダイヤモンド社
 読了したが書評を書いていないもの:浅井宏純、森本和子『自分の子どもをニートにさせない方法』宝島社、小島貴子『我が子をニートから救う本』すばる舎、澤井繁男『「ニートな子」を持つ親へ贈る本』PHP研究所

 あと、予定していた、小林道雄『「個性」なんかいらない!』(講談社+α新書)の検証ももう少し遅れます。最近だと、「週刊文春」などで「ゲーム脳」の宣伝に努めている、ジャーナリストの草薙厚子氏が『子どもを壊す家』(文春新書)という新刊を出したそうで。こちらもチェックしておく必要がありそうです。

 保坂展人のどこどこ日記:止まれ、共謀罪(保坂展人氏:衆議院議員・社民党)
 カマヤンの虚業日記:[宣伝]「『不健全』でなにが悪い! 心の東京『反革命』」
 どうも最近、きな臭いことが多いなあ(共謀罪とか、メディア規制とか)。「心の東京「反革命」」に関しては、米沢嘉博氏(コミックマーケット準備会代表、漫画評論家)と長岡義幸氏(ジャーナリスト)が発言するそうなので、参加したいのですが、いかんせん金がない。私は仙台在住なので。

 こんなときは、河原みたいなどこか人気の少ないところに行って夕陽でも眺めながら何も考えずに座っていたい。

 minorhythm:どこまでも…(茅原実里氏:声優)
 《あまりにも綺麗で、ほんの少しだけ切なくなって…ほんの少しだけ優しい気持ちになって。》とは茅原氏の言葉。こういう感動を味わうことのできる場所があればいいのですが、最近の青少年政策を見ていると、青少年からこういう場所を奪ってしまうのだろうなあと憂鬱になる。家庭も親と青少年言説による監視の眼が日々強くなっている。青少年言説の支配する社会とは、子供から全ての逃げ場を奪い「適切な」監視の下で「適切な」道徳が育っているかのごとき幻想を「善良な」大人たちに抱かせるものに他ならないのです。で、少年犯罪やら何やらが起こると「まだまだ監視が足りない!」と言い出す。今のままの青少年政策はループです。

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2005年9月17日 (土)

トラックバック雑記文・05年09月17日

 名古屋から帰ってきたよ(帰ってきたついでに、「若者報道用語集」をいくつか更新しておいた。朝8時半頃の話だ)。

 ってゆうか、自民党歴史的大勝利オメ。これで日本が滅びるスピードが速くなったね。俺は11日の夜9時半頃まで選挙速報を見て、その時点でも自民党の議員が「当選確実」になるたびに「また自民かよ!」「民主まだかよ!」と突っ込んでたんだが、高速バスに乗って、翌日未明1時ごろに東北道・安達太良SA(高速バスの休憩時間)で速報を見たときには既に自民は280議席以上獲得してた。ああ、終わったな、と俺は思ったんだよ。せっかく俺は民主党に投票したのに。

 で、次の朝、東京のコンビニで東京新聞を買って読んだら(ちなみに12日と13日は東京にいた)、自民党295議席って出てた。ああ、終わったな、って俺は思ったよ。(ちなみに俺の地方では東京新聞は発売されてない。仙台だから当然だけど)

 しかし、東京新聞はひどすぎるね。いや、東京新聞の社説は面白いさ。問題は記事よ。12日の記事では、特に吉武輝子とかいう人が自民党の「歴史的大勝利」は若年層が小泉の扇動に乗ったせいだ、とこぼしてた。更に次の日の特集記事に至っては、「自民党を支持する20代のココロ」みたいな内容の記事が載ってたのよ。自民支持すら「ココロ」の問題かよ…。この記事ではなぜか千石保が「「改革を止めるな」は若者言葉」なんて珍説を開陳してやがるしよ。近いうちに検証するつもりだから安心しな。

 ついでに「北の系」の掲示板で面白い書き込みを見つけた。

2646 あまりにも新聞テレビのいう通り、こりゃ「くさい」な きくがわ考房  - 2005/09/14 11:12 -
ある掲示板より(小泉飯島コンビなら、やりかねない!)。

> 選挙報道の七不思議 - (?_?) 2005/09/13(Tue) 10:36

> 毎年、投票所や出口調査の場面が報道されていたのに今回の選挙は投票所の場面を目にしなかった。

> そして、自民党は無党派層や若者の支持を得たと誇っているが、知人、友人らの話では投票所に若者の姿は見られなかったという。

> 今回の選挙は本当におかしい
> 入場券は有権者全員に届いていたのだろうか?
> そして、本人が本人の意思で投票しまたは棄権したのだろうか?
> 政治に興味のない有権者から入場券を大量に買い取っていたダフ屋やブローカーのような組織が関与していたということはないのだろうか?

> 寝たきり老人や認知症同等の老人有権者の入場券はどのように扱われていたのだろうか?
> 入場券を不正に第三者へ渡してなどいないだろうか?
> 落選した小林議員ではなく、異常な投票数で勝った候補者こそ捜査対象にすべきではないだろうか?
> ありえない得票数の・・・・・小泉総理など調べてはいかがでしょう?

 まさか…ね。

 と、アンニュイなムードでお送りしてしまいましたけれども、私は今回の自民党の「歴史的大勝利」を生み出した原因は何か、と訊かれたら、それは小選挙区制という制度ではないかと答えます。というのも、国民の大半(特に若年層)が小泉自民党を支持した「わけではない」ことは、比例代表では民主党が検討したことからも分かりますし、12日の夜のNHKニュースにおける総選挙分析では、決して自民党が票を独占したわけではなかった。むしろ自民党は「中の上」、民主党は「中の下」レヴェルだったのですが、結果として自民党がものすごい議席を取ってしまった。これは小選挙区制という制度の歪みによるものが大きいのではないか。

 同様の意見はこちらでも見られました。

 カマヤンの虚業日記:[選挙][呪的闘争]選挙分析
 とりあえず、盛岡から帰ってきたら(私は親戚の結婚式に参加するため17日から18日にかけて盛岡に行ってきます)、全ての選挙区の惜敗率を計算してみるつもりです。そこからマスコミが報じない選挙の「真実」、あるいは自民「歴史的大勝利」の「原因」を「今時の若者」に求めたがるマスコミの退廃について書くつもりですが、投稿用なのでここで公開はしません。

 今回の選挙に関する優れた分析が。
 kitanoのアレ:衆議院議員総選挙総括(2)
 私が気になったのは次の部分です。

 鈴木宗男の新党大地は、田中角栄に匹敵する農村型リベラル政党として出発した。地域への利益誘導を主張しつつも、アイヌ民族の地位向上、若者の労働環境や福祉政策の強化、ロシア産業との交流の拡大など、弱者を重視した多様で寛容的な農村型リベラルを掲げた新党大地は、今後若者を中心に支持者が拡大する可能性がある。札幌では安倍晋三の演説よりも鈴木宗男の演説の方が人気があり、特に20-30代の若年層の人気が圧倒的に高かったことは注目に値する。

 こういうくだりを読んでいると、やはり都市型弱者や若年層が投票しないから都市型弱者や若年層に厳しい政策が行なわれるのだ、という理論がかなりの部分で嘘だということが分かります。

 例えば、ある選挙において、各党がこぞって若年層に対して厳しい政策を行なったとしましょう。もしそのような状況下において投票率が上がったら、候補者側は若年層の投票率が上がったから若年層にも目を向けた政策をやろう、ということを果たして考えるでしょうか。むしろ、若年層に「厳しい」政策のほうが若年層に受けるのだ、と錯覚してしまうのではないでしょうか。ですから、私が重要だと思うのは、若年層や都市型の弱者の問題に真剣に取り組むことのできるリベラルな政党や候補者の旗揚げです。北海道におけるこの事実は、それをはっきりと我々に伝えているのだと思います。

 我が国は壮大な昏睡状態にあります。その状態の中で、単に投票率だけを上げたら、結局は「投票という制度の上で惰眠をむさぼる愚者」が大量に出現してしまうだけではないか。もちろん、問題意識の強い人は積極的に投票に行って欲しいのですが、それだけ冷静に事実を判断して投票できる人が、果たしてどれほどいるのだろうか(とりあえず「選挙に行こう」みたいな反・表現規制のサイトにリンクを張っていたり、熱心に読んでいたりする人はこのような人に入るでしょう)。

 投票にいけ、と叫ぶのではなく、現在の如き壮大な昏睡状態の中から、しっかりと目を覚まして人々を起こし続ける気概を持った政治家・候補者の登場を期待するために動いたほうがいいのではないか、と思うのです。危険を煽るのではなく、できるだけ多くの人がムードではなく政策に目を向けるようになるのがいい(だったらお前が行けって?いや、私は、まだ20歳ですので…。こういうブログで文章を書く以外に手段はない、残念ながら)。

 だから、このような事実は極めて光栄なものです。

 保坂展人のどこどこ日記:開票日から一夜明けて(保坂展人氏:衆議院議員・社民党)←祝!当選!!
 比例関東ブロックにおける自民党の獲得議席が、比例出馬議員の数を1つ上回ってしまったので、その空いた議席が保坂氏の手に渡った、という「当選」ですが、当選は当選。保坂氏はかつて国会の質問王として一世を風靡し、政策の立案数も全議員の中でも指折りのランクに属していましたので、そのような保坂氏の攻撃力がもはやタガを失ってしまった自民党にどれだけ通用するか、というのが見ものです。あと、民主党の金田誠一氏も期待できる人物だそうです。

 しかし、保坂氏も安心してはいられないようで…。
 保坂展人のどこどこ日記:佐世保でまた女子中学生が自殺――長崎の学校で何が起きているのか

 このブログ日記で「長崎県の学校で起きている異常事態」を記したら大きな反響があった。いったい、どうして長崎で子どもの事件が続くのか? 今回の事件の背景も出来る限り追ってみたい。

 こういう事実を直視できる政治家は保坂氏ぐらいしか我が国にはいない。期待していますよ。

 「保坂展人、がんばれっ!」

 補記:万博レポートに関しては今のところ予定は未定です。また、映画「ある子供」に関しては、映画宣伝会社とのやり取りがまだ終わっていないので、それが終わり次第発表の仕方を公表するつもりです。

 ついでに「ある子供」について語らせてもらうと、私は絶望しました。ただ、内容が悪かったから絶望した、というわけではありません。よく造りこまれているからこそ絶望したのです。カンヌ映画祭でパルムドールを受賞するくらいですから、演出も脚本も素晴らしいのですけれども、この映画を観て、「非社会的な存在」に対する想像力とは何か、ということに関して考えさせられました。それゆえの「絶望」です。我々はこのような存在に対して想像力を向けているか、と。もしこの映画が、そこらの凡百の「泣ける」映画と同様に宣伝されたら、この国は本当に終わりでしょうね。

 とにかく、この映画は12月に恵比寿ガーデンシネマで放映されるので、みんなで見に行って衝撃を受けましょう!

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2005年9月11日 (日)

トラックバック雑記文・05年09月11日

 ひとみの日々:うた(生天目仁美氏:声優)
 生天目氏は、カラオケでアニメのキャラクターソングを歌ったそうですが、最近の音楽のヒットの動向において、確かにアニメ関係の楽曲は台頭しつつあります。最近では、生天目氏のケースもそうですが、カラオケでアニメや声優関連の楽曲を取り扱うところも増えているようで。

 さて、このブログの読者で、アニメのキャラクターソングをよく聴く人は、それをキャラクターの歌として楽しんでおりますか?それとも声優の歌として楽しんでおりますか?私は声優の歌として楽しんでおりますが、キャラクターソングというのはそういったインタラクティヴな楽しみ方ができるという独特の魅力があります。もちろんキャラクターの歌として楽しむ場合はそのキャラクターについて知っていなければなりませんけれども。

 ただ、我が国におけるアニメなどのインタラクティヴ・カルチュアに関して、堀田純司『萌え萌えジャパン』(講談社)にもあるとおり《キャラクター表現について国家レベルでは振興、地方自治体レベルではむしろ規制、とねじれが存在するように感じる》(堀田前掲書、319ページ)という現実があるのですけれども、所詮国家や財界がキャラクター表現について振興しているのはただ「カネ」と「チカラ」が欲しいだけ。その2つがなくなると大抵は規制派になる。その証拠がこれだ。

 kitanoのアレ:おたくのための選挙資料(3):コミック撲滅法制化請願参加議員(1)
 「各党マニフェストにおける青少年認識/対策」という文章を公開しましたが、その中で自民党と民主党と共産党はマニフェストに「青少年の健全育成」または「有害情報の規制」を明記している(特に力を記述しているのはなぜか共産党)ということを紹介しました。で、「kitanoのアレ」で紹介されているのは、ポルノコミック規制の法制化を求める署名に参加した人たちです。まあ、自民党の偉い人たち(河村建夫とか町村信孝とか村田吉隆とか中山成彬とか森善朗とか)は予想通りですが(蛇足ですが、東北ブロックの自民党比例代表候補に関しては、表現規制推進で、知的財産政策を財界の立場だけから推進する高村派議員が多いから気をつけましょう!)、何で鳩山由紀夫(自民党)とか土井たか子(社民党)までいるんだ!!!

 所詮は、誰が政権についても所詮最強の政権維持装置は「若者論」なのでしょうか。結局は自分の「理解できない」ものに対する敵愾心を煽り立てることによって票を獲得し、ポピュリズム的な人気の下で規制を推し進める…、って、いつも言っていることですけれども、とりあえず言えることは、「今時の若者」を「消費」する社会構造が存在する限り、たとい若年層の投票率が上がったとしても、若年層を敵視するような政策が行なわれる行なわれないようになる(9月11日0時56分訂正)のは難しい。

 故に、このような考え方は、極めて楽観的に私には見えるのです。

 もじれの日々:フリーター・ニートは投票を(2)(本田由紀氏:東京大学助教授)
 本田氏曰く、

もちろん、フリーター・ニートを含む若者にとって、現在提示されている選択肢はいずれも満足のゆかないものだろう。政党政治という集団主義そのものへの拒否反応もあるだろう。しかし、それらについては何とか妥協してもらいたい。政治が若者やその中での経済的弱者にこびざるをえなくなるような流れを作り出すためには、まず彼らに「どっこらしょ、仕方ねえな」と動き出してもらうしかないのだ。

 果たしてそうなのでしょうか?本田氏は、結局のところ若年層の社会的な地位が向上しないのは、やはり若年層が主張しないからだ、といっているようにしか見えないのですが。しかしこれには異見があります。というのも、我が国にとって、もはや若年層は、既得権を持っている層(中高年)に比して、マスコミにとっても政治にとっても取るに足らない存在です。たとい若年層が投票行動に出ても、やはり若年層よりも数的に多い既得権層を向いた政策を採用したほうが票になるでしょう。

 私は、青少年に関わる問題の解決のためには、まず中高年層の意識を変えるべきだ、と考えております。現在の、中高年層を中心とする政治や言論の構造は、若年層を「理解できない他者」=「敵」と見なし、それに対する敵愾心を煽ることによって若年層を「消費」する、いわばカーニヴァル的な構造ですが、若者論という言論体系がそのようなカーニヴァル的な構造にどっぷりと浸かっている限り、若年層に対する手厚い政策は「甘え」と見なされてしまう、それがいかに適切であっても。それは新聞や雑誌におけるフリーターや若年無業者の記事を読めば明らかでしょう。これらの記事は(特に「Yomiuri Weekly」平成17年8月14日号の巻頭特集の論調が典型的です。詳しくは「俗流若者論ケースファイル43・奥田祥子&高畑基宏」を参照されたし)書籍や研究で展開されている論調は、全てフリーターだろうが「ひきこもり」だろうが若年無業者だろうが全ては「甘え」であり、そいつらをたたき出さなければならない、という論調、あるいはそいつらは戦後民主主義の鬼子である、みたいな論調ばかり。かつての我が国が、国家的な一体感から「鬼畜米英」を叫んだのと同様、現在の我が国は「鬼畜青少年」と叫んでおります。山本七平氏がこの状況を見たら、さぞかし墓の中で身もだえするのは間違いなかろう。

 「今時の若者」が憎い権力者の皆様、だったら我が国、あるいは自分の自治体をニュージーランドに併合してみてはいかがですか?

 性犯罪報道と『オタク叩き』検証:神奈川県ニュージーランド化計画(悪い意味で)
 松沢成文・神奈川県知事に朗報。神奈川県をニュージーランドと併合したら、これほどいいことがありますよ!

 ・ラグビーが盛ん(筆者注:松沢氏は個人的にラグビーが好きなので)
 ・『残虐ゲーム』や、直接的な描写がなくても『ロリエロ』とみなされたアニメは発禁処分

 でも、ニュージーランドにおける性犯罪の発生率は我が国に比して格段に高い。どういうわけだろう。

 こういう文章を読んでいると、近頃喧伝されている「安全神話の崩壊」なる神話が、特定の階層による凶悪犯罪の喧伝に過ぎないことがよくわかってきますね。特に少年犯罪に関して言うと、「酒鬼薔薇聖斗」事件以降から少年犯罪の発生件数に比して報道の数のほうが多くなってしまった、ということも聞きますし(「潮」平成16年12月号)。社会の「現実」を冷静に見つめることのできる人は決して少なくないのですが、そのような人たちは学問の狭い領域でひっそりと書いているだけになってしまうのでしょうか。我が国の若者論という名のカーニヴァル、病理は極めて深し。

 千人印の歩行器:[時事編]赤であれ青であれみんなで渡れば怖い!(栗山光司氏)
 「みんなで渡れば怖い」、そういう感覚を大事にしていきたい。物事はできるだけ自分の判断で突き進んでいきたい。たといそれが「善行」であったとしても、暴走すれば直ちに「悪行」に転じてしまう恐れがある。この文章は、現在の政治状況・社会状況を考える上で、もっとも示唆に富んでいる文章であります。

 ところで、また新書の棚からきな臭い匂いがしてきました。中公新書ラクレから、『進化しすぎた日本人』なる本が最新刊として出ているのですが(ちなみに著者は「サル学の権威」だそうですよ…。出版事情から言って、正高信男の所論に反することはまず書けないだろうね)、帯にまたぞろ「ひきこもる若者」「子離れできない親」なんて書いてやがる。ふざけんな。

 オイコラ中公!おまえら、この2つを帯に書いた本はこれで何冊目だと思ってるんだよ!俺の知ってる限りでは、いずれも俺がトンデモ本と認定した、正高信男『ケータイを持ったサル』(中公新書)と、矢幡洋『自分で決められない人たち』(中公新書ラクレ)の、少なくとも2冊の帯にこの文句が使われている(詳しくはbk1を。正高本に関してはこちら、矢幡本に関してはこちら)。そうゆう、「今時の若者」=「甘え」みたいな俗情に媚びた本ばかり出すのはいい加減にしろよ!

 とまあ怒ってしまったのですけれども、実は私はこの本をある程度立ち読みしたのですが、こと子育ての部分に関しては、生物学的に考えて現代の子育ては「異常」である、見たいな書き方を連ねていましたので、こういう言い方をさせてもらいました。特に社会学的な考え方に対する無知が痛かった。でもしっかりと読んだわけではないので、近いうちに読み込んでみます。

 そういえば、マガジンハウスの「ダ・ヴィンチ」という雑誌で見たのですが、精神科医の香山リカ氏も『いまどきの「常識」』という本を岩波新書の新刊として出すらしいです。これも少々注視しなければならない。香山氏は最近になって、例えば『ぷちナショナリズム症候群』(中公新書ラクレ)に代表されるような心理学主義的な俗流若者論にも手を染めており、果たしてその路線を引き継ぐものになるのか、動向が注目されるところ。

 たとい自然科学や心理学の分野で優れた研究者が自分の専攻している学問でもって社会を「分析」しようとしても社会学的なセンスがなければ適切なバランス感覚を失って安易なアナロジー、更に言えばレイシズムに陥ってしまう。理系のものにとっての社会学というのは、自分の学問領域に閉じこもらないで社会との接点やバランスを確保していく上で貴重なものであると私は考えます。これは私が大学で学んでいる建築という分野が(土木もそうですけど)他の工学に比して社会学を支えにしなければならない分野が大きい、ということも関連しているかもしれません。

 保坂展人のどこどこ日記:劇場(バーチャル)から現実(リアル)へ(保坂展人氏:元衆議院議員・社民党)
 週刊!木村剛:[ゴーログ]山本一太議員は公職選挙法違反か?(木村剛氏:エコノミスト)

 さて、総選挙が迫ってきました。しかし木村剛氏のブログを始め、ネットの一部で話題になっているのが選挙期間中におけるブログ更新の是非。一応、一般的な公職選挙法の解釈によれば、ウェブサイトやブログも公選法における「文書図画」に該当するようなのでいけないようなのですが…。インターネット時代だから、こういうことをきっちりと議論してもいいのではないかと思いますがね。

 とりあえず私の主張としては、ポスターで「政策」を売り込むためには、ポスターにウェブサイトのアドレスを掲載することに尽きると思います。でもそのためには、選挙期間中のウェブサイトでの政治行動が許されなければならないのですが。

 カマヤンの虚業日記:[選挙]「オタクちゃんねる2」停止の件、その他
 kitanoのアレ:テレビ局上層部から民主党攻撃命令?
 とりあえず、マスコミやプロバイダに圧力をかけない限り維持できない、あるいはマスコミやプロバイダが媚びなければ維持できない政権党というのは、終わったな、と。

 選挙に際して、以下の文章を読んでおくことをお勧めします。
 「kitanoのアレ
 「FrontPage -Game and Politic-
 このブログから「各党マニフェストにおける青少年認識/対策

 さて、読者の皆様にお知らせですが、私は、今月11日の夜から16日の午前にかけて、東京と名古屋に行ってまいります。そのため、ブログの更新ができなくなります。ご了承ください。

 ただ、旅行期間中に、映画のマスコミ試写会に参加してきたり、あるいは万博を見てきたりと、いろいろ動きますので、何か思うところがあれば文章を書こうかと思います(ただし、17日から18日にかけて、親戚の結婚式に参加するため盛岡に行ってくるので、その期間中も更新できませんが)。

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2005年9月 9日 (金)

各党マニフェストにおける青少年認識/対策

sencub01  平成17年9月11日には、衆議院議員総選挙が行なわれる。ただ、この選挙に関して、与党はほとんど郵政民営化一本槍であり、野党は逆に与党に対する批判でもって票を集めようとしているので、選挙の争点のほとんどが「郵政民営化」になりつつある。しかし、各種世論調査を見ても分かるとおり、国民は選挙の争点を「郵政民営化」だと思っていないのが実情である。

 もっとも、そのような世論調査を見ていても、青少年問題が争点であると答える人はかなり少ない。しかし青少年問題対策もまた重要な政策の一つであり、争点に組み込まれるべきだろう。ただし、それも適切な認識に基づいて行われなければならないのであり、従ってマスコミで喧伝される如き扇情的な情報に基づいて行なわれてはいけないのである。

 というわけで、今回は、主要5政党(自民・公明・民主・社民・共産)マニフェストにおける青少年に対する認識と政策を、比較検証していきたい。

 なお、投票に行く前に、以下のサイト・ブログも読んでおくことを勧める。
 反ヲタク国会議員リスト
 kitanoのアレ
 カマヤンの虚業日記
 FrontPage -Game and Politic-
 選挙に行こう
 (「選挙たん(仮)」は、サイト「選挙に行こう」のマスコットキャラクターです)
 このブログのエントリーから
 俗流若者論ケースファイル13・南野知恵子&佐藤錬&水島広子
 俗流若者論ケースファイル30・森岡正宏&杉浦正健&葉梨康弘
 「後藤和智の若者報道用語集」から
 佐藤錬 南野知恵子 水島広子

 1、マニフェスト全体としての感想
 マニフェストを読んだ感想としては、まず民主党のマニフェストは、さすがにもっともマニフェスト政治を推進している政党だけあってか、細部まで作り込まれていた。冒頭に大まかな政策提言とスケジュールを表し、細かい政策を後半に盛り込み、具体的なプラン、すなわち何をするか、ということや、更に言えばどのような問題意識によって政策を構築しているか、ということについても書かれているので、批判・検証する側にとっても親切な設計になっている。

 次に面白かったのは公明党で、この党は今やほとんど自民党の傀儡政党になってしまった感があるが、少なくともマニフェストに関しては親分の自民党よりも作りこまれている。

 次は社民党か。基本的に自民・公明・民主の3党に比して社民党のマニフェストはきわめて薄い。ただ社民党に関しては、政策提言が全体を見通しているように見えるし、最後のページにおいて社民党は「もう一つの日本」を目指す、という提言をしている点では買える。

 共産党のマニフェストは、かなり作り込まれているとはいえ、あれでは「批判ばかりして対案を出していない」の領域を超えていないように思える。なお、共産党のマニフェストに関しては、インターネットの記述を用いている。

 自民党のマニフェストは、はっきり言ってデザインと見出しだけは大々的なのだけれども、中身ははっきり言って空疎。デザインばかりが先行して計画をおろそかにした建築物みたいだ。小泉政権の反映なのか。一番つまらない。

 2、少子化対策・子育て支援
 さて、ここからが本題である。1つ目は「少子化対策」「子育て支援」に着目してみたい。
 基本的にはこれに関しては、全ての政党が明記しているが、具体的に支援額などを書いているのは民主党と社民党と公明党。民主党は、月額16000円の「子ども手当」や、「出産時助成金」の設立、学童保育の充実化などを謳っている。社民党は、父親の産休制度の拡充や、18歳未満の子供に対して毎月支給される「子ども手当」の創設、及び一人親家庭への支援などを謳っている。特に一人親家庭への支援は社民党だけの主張である。公明党は「チャイルドファースト社会の構築」を重点政策の一つとして出し、児童手当の所得制限の緩和、出産育児一時金の値上げ、及び中小企業への育児休業支援を明示している(一人あたり100万円)。中小企業への育児休業支援は公明党のみの主張。

 自民党は、児童手当制度や子育て支援税制について触れてはいるけれども、具体的な数値目標を出して折らず、結局のところ威勢のいい言葉だけを振りかざしているだけ。地味な政策提言には目が向かない、これが小泉政権クオリティ?共産党も具体的な数字の提示はなし。

 それから、全ての政党が、「少子化は問題である」「少子化は子育て支援で解決できる」と考えているらしいが、子育て支援が少子化を解決するわけではないことは、信州大学助教授の赤川学氏が主張している通りだ(赤川学[2004])。また、少子化によって起こる問題を賞しか「対策」(=子育て支援)で解決すべき、という認識も、結局のところは人口増加社会を前提とした現在の社会保障制度などの焼き直しでしかないだろう。政策研究大学院大学教授の松谷明彦氏などが主張している通り(松谷明彦[2004])、少子化を前提とした社会構築が求められている、という側面もあり、そのような主張をマニフェストに取り込んだ政党が、主要5政党の中では一つもない、というのが残念だった。

 3、教育
 もっとも明快なのがやはり民主党。民主党の主張としては、校長先生の公募制度の拡大、地域住民や保護者の参画を推進、総合学習との関わりで土曜授業・放課後授業の推進、スポーツ振興など。特にここで採り上げたものは全て民主党のみの主張であり、民主党が政権交代に意欲を持っていることがここからも窺える。ただし教育基本法には触れず。社民党も教育予算の対GDP比5%達成と、20人学級、教職員を30万人増やす、奨学金制度の拡充(これに関しては民主党も主張している)という公約を掲げているが、教育基本法には触れず。

 公明党は民主党の次に充実していた。主張としては体験学習の充実、奨学金の拡充、小学校における英語教育の必修化。特に英語教育に関しては公明党だけの主張。

 自民党は「義務教育の質的向上のための教育改革」を謳っているけれども、政策立案の点で民主党に及ばず。ただし教科書検定の必要性を検討していることだけは評価に値する。

 共産党は30人学級の推進、住民の意向を反映させる、といっているが、ほとんどが自民党の推進する教育基本法の改正や特定の歴史教科書に対する対抗を強めている。

 そして民主・社民以外の政党は、全て教育基本法に触れていた。自民党はやはり改正推進。記述に曰く《教育基本法を改正し、豊かな上層と道徳心にあふれ、正義と責任を重んじ、強度や国を愛する心や公共の精神が身につく教育を実現する》(自民党マニフェスト)。と。自民党にいわれたくないよなあ。逆に反対の立場を採っているのが当然共産党で、共産党は教育基本法の改正のみならず「日の丸」「君が代」の強制の反対、侵略を正当化する歴史教科書の反対の、愛国主義教育反対の3点セットを打ち出している。公明党は慎重派で、《基本法の基本理念は堅持》《「国を愛する心」を法律で規定することについては、戦前の反省を踏まえて慎重に検討する必要があります》(公明党マニフェスト)という記述が存在する。

 共産党のマニフェストで評価できるのは、性教育の重要性を訴えているところ。曰く、《青少年の間で性感染症や望まない妊娠がふえるなか、性教育は重要な課題です。自民党などによる「性教育=過激」攻撃には道理がありません。保護者と教育関係者が連携してていねいに性教育を進められるようにします》(共産党マニフェスト)と。安倍晋三氏を中心として自民党が推進している「ジェンダーフリー教育反対」「「過激な性教育」反対」をマニフェストに盛り込まなかった自民党のヘタレぶりと比較すれば、共産党には賛辞を送りたい。

 ただ、共産党が本当に子供のことを考えているかどうかについては少々留保すべき点もあるけれど…。これに関しては第5節で。

 4、若年無業者支援及びフリーター・非正規雇用者対策
 若年無業者(ニート)については全ての政党が記述。もっとも具体的なのはやはり民主党。民主党マニフェストには、失業・無行状態の若年に個人アドヴァイザーによるマンツーマンの就労支援、就労支援手当、及び若年無業者が集まることのできる場所の設立を主張している。また民主党は《全国の中学2年生に年間5日以上の就業体験学習を実施します》(民主党マニフェスト)と、東京大学助教授の玄田有史氏の主張に基づいたと思われる記述をしているけれども、これに関してはむしろ教育改革、総合学習の支援の文脈で行なわれるべき、というのが私の主張である。若年無業者の問題に関しては、民主党は若年無業者もまた社会階層の問題が絡んでいるという点に触れられていなかったのが痛いところだ(これに関しては、玄田有史[2005]、小杉礼子[2005]、宮本みち子[2005]を参照されたし)。

 自民党はフリーター25万人常用雇用化プラン、「若者の自立・挑戦のためのアクションプラン」の推進を掲げているが、具体的な数値目標はなし。公明党もこのプランの効率化を図る、という主張。蛇足だけれども公明党のマニフェストには《教育段階からの予防的対策に重点を図ります》(公明党マニフェスト)と書いているが、若年無業者が「予防」すべきものだ、という認識では若年無業者問題は解決できないと思う。

 若年無業者対策に隠れてか、フリーターはあまり政策に上っていないような気がする。ただしフリーター及び非正規雇用者と正社員の、企業福祉などの点における格差については自民・民主・共産が触れている。一番明快なのが共産党で、共産党は「パート・有期労働者均等待遇法」「派遣労働者保険法」の成立を主張し、均等待遇のルール、解雇の規制、サーヴィス残業の規制に取り組むなど、極めて意欲的。民主党は共産党にやや劣り、パート均等待遇実現のための「パート労働法改正案」や、失業・廃業からの再出発としての手当支給・職業訓練(これについては共産党も主張している)の主張にとどまっている。自民党は、《短期間正社員制度の導入推進、パートタイム労働者の待遇の改善、正社員への転換制度の普及・定着等、パートタイム労働政策を充実・強化する》(自民党マニフェスト)と書かれている程度。

 5、メディア規制
 「青少年の健全育成」を楯に取ったメディア規制を主張しているのは自民・民主・共産。特に力を入れて記述しているのはなぜか共産。曰く《政治の腐敗、大企業のモラルハザード、戦争正当化や暴力肯定の風潮、人間の性をおとしめる傾向などとたたかい、社会のモラルと道義を確立するために努力します》《児童買春や性の商品化では、国連子どもの権利委員会からきびしい勧告がだされています。メディアでの暴力や性の表現が、子どもに野放しになっています》(共産党マニフェスト)だとさ。自民党も「青少年健全育成の推進」を謳っている。右も左も俗流若者論で結託してしまう様を見ているようだ。民主党もまた、《書籍の区分陳列や放送時間帯の配慮などによって、普通に暮らす子どもたちが有害情報に触れないですむ環境をつくります》(民主党マニフェスト)などと書いている。どうやら自民・民主・共産の各党のマニフェスト起草者は、「有害」情報と「有害でない」情報を分けることができるとか、「有害」情報は等しく青少年を堕落せしめる、とでも考えているようだけれども、まずあんたらの青少年に対する認識を改めろよ。

 ただし、民主党に関しては、《情報のもつ意味を正しく理解し、活用できる能力(メディアリテラシー)を育むような教育》(民主党マニフェスト)を打ち出しており、この点に関しては賛同できる。更に民主党は、通信傍受法(盗聴法)、住民基本台帳ネットワーク、個人情報保護法の見直しを打ち出し、社民党もまた共謀罪の新設に反対するスタンスを明確にしている。

 蛇足だけれども、メディアがらみで言うならば、民主党は「テレビの字幕化の推進」を打ち出している点でユニークである。曰く、《聴覚に障がいのある方もテレビ放送を楽しみ、情報を確保できるようにするため、2009年度までに、技術的に可能なすべてのテレビ番組の字幕化を実現します》(民主党マニフェスト)と。

 6、治安
 治安に関して、少年犯罪への対処に触れているのは自民党のみ。曰く、《組織犯罪、サイバー犯罪、少年犯罪に対処する関連法整備を推進する》(自民党マニフェスト)と。少年犯罪よりも人口当たりの発生率の高い中高年犯罪は無視ですか。

 7、まとめ
 青少年問題に関する取り組みの視点から、もっともマニフェストで評価できるのは民主党である。従って、私は民主党に投票することを勧めるのだが、ただ民主党に関してはきな臭い動きも少なくなく、特に民主党右派で「日本会議」のような右派系政治団体に関わっている人や、民主党左派の一部のフェミニスト議員(特に水島広子氏と肥田美代子氏)はメディア規制を推進しているし、マニフェストにもメディア規制が盛り込まれている。民主党には自民党より過激なメディア規制論者も存在しているようなので、投票する際にはそのようなことを一定ないかを見極める必要がある。民主党は「子ども家庭省」の設立を主張しているけれども、この最高ポスト(大臣)に水島氏や肥田氏が就いてしまったらメディア規制への流れは止めにくくなるだろう。私の願望としては民主党と社民党の連立政権が望ましいと考えている。

 参考文献・資料
 赤川学[2004]
 赤川学『子どもが減って何が悪いか!』ちくま新書、2004年12月
 玄田有史[2005]
 玄田有史「ニート、学歴・収入と関連」=2005年4月13日付日本経済新聞
 小杉礼子[2005]
 小杉礼子「就職の仕組み柔軟に」=2005年4月14日付日本経済新聞
 松谷明彦[2004]
 松谷明彦『「人口減少経済」の新しい公式』日本経済新聞社、2004年5月
 宮本みち子[2005]
 宮本みち子「包括・継続的な取り組み必要」=2005年4月16日付日本経済新聞

 玄田有史『仕事のなかの曖昧な不安』中央公論新社、2001年12月
 日垣隆『現代日本の問題集』講談社現代新書、2004年6月
 広田照幸『教育不信と教育依存の時代』紀伊國屋書店、2005年3月

 「フリーターとは誰か」=「現代思想」2005年1月号特集、青土社

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2005年9月 4日 (日)

トラックバック雑記文・05年09月04日

 最初にお知らせ。「後藤和智の若者報道用語集」というブログを作成しました。簡単に言えば、このブログに出てくる用語を紹介したものです。最近では、例えば正高信男氏や森昭雄氏なんかを「かの曲学阿世の徒」と表現しておりますが、なぜそのような表現をするのか、ということを知らない人もいるのではないかと思いますし、このブログ全体の見取り図があったほうがいいと思うので開設しました。今はまだ正高信男氏に関する語句と「俗流若者論ケースファイル」の第1~3回に関する語句だけですが、どんどん充実させていくつもりです。

 では、ここからが本番。

 ひとみの日々:いぃーやっほう!(生天目仁美氏:声優)
 この掛け声って、「仁美と有佳のどらごんデンタルクリニック」(文化放送:毎週水曜日25時~25時30分に放送)ですか。それはさておき、生天目氏の後ろにある看板が実に秀逸です。スピード違反を取り締まる看板なのですが…。

 交通違反 9000円
 佐渡するめ 500円

 要するに、お前が交通違反で支払った罰金で18個の佐渡するめが買えるんだぞ、とでも言いたいのでしょうかね。こういうユーモアに溢れた看板は好きです。しかもデザインもシンプルだし、私の周りにある種々の看板のようなけばけばしさが感じられない。世の中にこういうシンプルでユーモアに溢れた看板が多くなればいいのですが、やはり共同幻想(笑)として派手なものが受けるのだ、という傾向があるのでしょうか。でも、シンプルさだって一つの力ですよ。

 さて、今回のトラックバック雑記文は、「俺は騙されないぞ!シリーズ」でいこうかと思います。

 1、俺はオタクバッシングに騙されないぞ!
 保坂展人のどこどこ日記:オタクバッシングを考える その1その2(保坂展人氏:元衆議院議員・社民党)
 フィギュア萌え族(仮)犯行説問題ブログ版:テレビ東京、会田我路の着衣の少女写真集を、「ヌード写真集」と偽って報道。(古鳥羽護氏)
 まず、保坂展人氏のブログを読んでください。大人の対応とはこういうことを言うのですね。我が国では自分が気に入らない=犯罪の温床=規制しろ!などという自称「識者」や政治家や知事が多すぎますけれども、そのような人のやる政治というのは結局のところ弱者たたき、あるいは強権政治にしかならない。

 しかし最近の政治の流れにはきな臭いものを感じずにはいられませんね。この手の政治家が行なっていることは、「ある一つの社会的な階層や集団に対する敵愾心を煽り、それらを「敵」「悪」と規定し「正義」としての自分を強調することによって、ポピュリズム的な人気を得る」という手法に要約されるでしょう。このような所業を行なって世界を破滅に導いた政治家を知ってますか?そう、ヒットラーですよね。

 こういう、政治を単なる自己実現の場としてしか考えない阿呆どもには、ぜひともマックス・ヴェーバーの名著『職業としての政治』(脇圭平:訳、岩波文庫)の以下のくだりを読んで欲しい。

 政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である。もしこの世の中で不可能事を目指して粘り強くアタックしないようでは、およそ可能なことの達成も覚束ないというのは、まったく正しく、あらゆる歴史上の経験がこれを証明している。(105ページ)

 一点突破しか考えていない人には、こういう託宣は通用しないのでしょうね。

 マスコミも然りです。相手が「叩きやすい対象」であれば、捏造報道もありですか。これではテレビ東京は最近の朝日新聞の記事捏造事件を批判できませんよね。もっとも、このような所業を行なっているのはテレビ東京だけではありません。政治報道における捏造は即座に糾弾されるのに(これは全く正しい)、若者報道における捏造は全く糾弾されない。いつぞやかの「Yomiuri Weekly」で、渋谷では「家出少女の実態」みたいなテレビ報道を作らせるためにそこらを歩いている少女に「家出少女」をさせているのは日常茶飯事、というくだりを読んだことがありますが、若者報道というのは、まったくチェックが働かない場であるからこそ、捏造しても平気なのか。

 いいのかそれで。俺は騙されないぞ!

 2、俺はステレオタイプに騙されないぞ!

 kitanoのアレ:おたくのための選挙資料(1):喪男の小説『裏・電車男』:都内女性の20万人がHIV感染者というデマ

 一説では、都内の女性の約20万人がエイズのキャリアだという話…。だが、俺は騙されないぞ!なぜなら、一次情報に全く触れられていないからです。

 このデマの泉源は「2ちゃんねる」だそうで。「kitanoのアレ」からの孫引きになりますが、

喪「で、親父の病院や他の知り合いの病院2~3ヶ所の話を聞くと、毎年とんでもないペースで増えてるそうなんだ。それも加速度がついてる位で。特に20代~10代の女が凄いらしい。今じゃ何と2割位居るんだってさ。自分はエイズじゃないかなんて心配を全然してない、他の病気で普通に診察に来てる女の2割がHIV感染者だ。しかもその増加率は年々上がっている。

もしこの割合を、単純にそのまま都内の病院全部に当てはめたら1万2万なんて人数では済まないそうだ。都内だけで10万とか20万とか…もちろん単純計算だから、実際の正確な所は解らないけど」

 というものだそうです。

 このようなデマは、「今時の女は誰とでも性行為をするくらい堕落してしまった」というようなステレオタイプのなせる業である、と考えて間違いないと思います。どうしてステレオタイプの前では無力化してしまう人が多いのでしょうかね。これは何もこのようなデマ宣伝に限った話ではなく、俗流若者論でも同じ事。要するに「「今時の若者」はゲームなどで殺人を日常的に「学習」しているから凶悪犯罪を簡単にしでかすようになっている」というのも、我々がマスコミによって信じ込まされているデマです。このような、現代の女性や若年層のデマに踊らされる人が増えることによって、誰が得するのか。結局は現代の女性や若年層に対して敵愾心を煽ることで利権や支持率を得ている人たちですね。俺は騙されないぞ!

 3、俺は争点をずらしたがる小泉純一郎に騙されないぞ!

 MIYADAI.com:【アゲておきます】民主党がとるべき道とは何か(インタビュー)(宮台真司氏:社会学者)

 小泉首相は「郵政民営化」を連呼し、郵政民営化こそが改革を進める上での第一歩となる、と喧伝していますけれども、この人に「国家観」というものは果たしてあるのでしょうかね。いや、私は、何も「諸君!」の今月号の特集のようなことを言いたいのではなく、私はむしろ「国家観」よりも大きい「社会観」を問いたいのです。その点において、宮台氏のこの文章は必読だと思います。

 若者報道の研究家としての私が、特にプッシュしたい部分はこちら。

■でも、バラマキをやめるのと、弱者を放置するのとは別問題。現に社会的弱者だからこそ噴き上がる都市型ヘタレ保守は、小泉流「決然」にカタルシスを得ても、そのあと幸せになれません。そこに、都市型保守への「都市型リベラル」の対抗可能性があり、都市浮動票を取り合う二大政党制の可能性があるわけです。

■だから、民主党が示すべきは「都市型リベラル」の政党アイデンティティです。「小さな政府」が「弱者切り捨て」を伴ってはいけないと主張し、「都市型弱者」である非正規雇用者やシングルマザーや障害者の支援を徹底的に訴える。「フリーターがフリーターのままで幸せになれる社会」をアピールすればいいのです。

■「バラマキはダメだから壊す」の小泉流は明瞭です。対する民主党が「壊し方の非合理性」を訴えるのは稚拙です。郵政法案がデタラメでも、デタラメな法案を武器に使って旧経世会を葬り去ったことを、国民が賞賛しているのですからね。小泉氏を倣って「削る」「縮小」を繰返すのも稚拙です。「小泉さん、壊してくれてありがとう。壊れた後は民主党が作ります」で行くべきじゃありませんか。

■「都市型保守」のネガティビティに「都市型リベラル」のポジティビティを対置する。「不安」に「幸せ」を、「不信」に「信頼」を対置する。本当にタフでカッコイイのはどちらか。言うまでもありません。

 4、俺はこんな奴に騙されないぞ!
 bk1で、柳田邦男氏の『壊れる日本人』(新潮社)の書籍詳細ページにトラックバックされていた文章なのですが、いやあ笑えた。

 アール学派:退廃文化、絶好調!?

 いや、経済的なことを語っていることに関しては結構説得力があるのですけれども、こういうくだりを読んでいると、やっぱり俗流若者論ってのは自分こそは絶対に正しく犯罪もしないし「ひきこもり」にもならないんだぞーってはしゃいでる人たちの不満の捌け口でしかないんだよなあ、と改めて思ってしまいますよ。

 ニートチックな貧乏人は、なぜかケイタイが手離せませんね。

 「馬鹿とハサミは使いよう」ではなく、「お馬鹿な貧乏人は使いよう」ですね。

 でも、踊らされているのはあんたのほうですから!残念!!

 『ケータイを持ったサル』に群がるサル、斬り!!!

 しかもコメント欄がまた笑える。

 こないだ電車でずぶ濡れのケータイサル発見!
 どうやら、このサルはケータイは使えても傘を使う知能はなかったみたい。新たな発見なので今 秋あたりに、Journal of Mobile-phone Monky に投稿予定です!(>▽<)

 ……折りますよ?(結構前に、古本屋の立ち読みで、スクウェア・エニックスから発刊されている『ぱにぽに』という漫画の第3巻を読んで以来、この表現が結構気に入ってしまったなあ。ついでにこの『ぱにぽに』は「ぱにぽにだっしゅ!」としてアニメ化されているようです。私の地方ではテレビ東京が映らないのですが)

 ってゆうか、《Journal of Mobile-phone Monky》なんていうメディアがあるのか!ぜひとも俺に知らせてくれ!

 そもそもこの『ケータイを持ったサル』『壊れる日本人』って、現代日本のナショナリズムがいかに「愛国心」ではなく「若者論」であるか、ということを如実に示している本ですよ。詳しくは私の書いた検証記事を読んでください。正高信男氏関連はこちら。柳田氏に関してはこちら

 しかもこのブログときたら、皇學館大学助教授の森真一氏の名著『日本はなぜ諍いの多い国になったのか』へのリンクまで貼ってある!この名著を読んだら、先の2冊を簡単に信ずることはできないと思うんだがなあ。これもネタなのか。

 5、俺はこんな奴らにも騙されないぞ!
 今春に遠山敦子氏が設立した「こころを育む総合フォーラム」の設立趣旨文を検証してみます。「俗流若者論ケースファイル」の71回目としてやろうと思ったのですが、まだ資料が不十分なのでやめます。

 趣旨分において、遠山氏はこういうことを書いています。

 戦後60年、日本の経済はめざましい発展をとげました。占領期から独立期にかけて、国内的に平和の状態が保たれたことが大きかったと思います。けれどもそのことでわれわれは、いつのまにかわれわれ自身の精神的な自立、および倫理的な生き方に十分の配慮をすることなく時の経過に身をまかせてしまったきらいがないではありません。そのために噴出しはじめた綻びが、今日わが国社会のいたるところにみられることは周知の通りです。

 家庭や教育現場における人間関係の乱れ、公的機関や企業における不祥事、そして心の凍りつくような残虐な事件の発生など、いずれも日本人の精神の衰退、かつて日本人がもっていたはずの倫理性の喪失を示す兆候ではないでしょうか。物質的な豊かさにともなう心の世界の空洞化が、危機的な様相を呈しているというほかはありません。

 だからさ、なんでこういう俗流若者論や俗流社会論で、《日本人の精神の衰退、かつて日本人がもっていたはずの倫理性の喪失を示す兆候》なんて安易に語っちゃうのかな。いずれにせよ、このフォーラムはしっかりと監視しておく必要がありそうです。

 検証になってないなあ。

 6、俺は統計にも騙されないぞ!
 「統計学の常識、やってTRY!第5回」を公開しました。読んでね。しかも「AERA」平成17年9月5日号の次号予告を見てたら、また香ばしい薫りが…。

 次号のアエラは●日本を再生するファンドを作った人たち●引き込もりをつくらない間取りの家

 さて、どんな記事ができ上がるのやら。しかも私は建築学科の学生ですから、更に気になるわけですよ。建築物としての家までもが俗流若者論に政治化されてしまうのか、って。

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2005年8月30日 (火)

トラックバック雑記文・05年08月30日

 「俗流若者論ケースファイル」25連発なんて、本当に骨の折れる作業でした。おかげで、このブログのコンテンツ(これを含めて125個)の内56%(70個)が「ケースファイル」になってしまった。しかも「ケースファイル」で取り上げたい文章って、まだたくさんあります。まあ、今後の予定はさておき、まず雑記文から。

 週刊!木村剛:[ゴーログ]公職選挙法こそ、ブログの敵だ!(木村剛氏:エコノミスト)
 保坂展人のどこどこ日記:ブログ中断の不条理、公選法改正を(保坂展人氏:元衆議院議員・社民党)
 公職選挙法によれば、文書や図画の頒布について極めて厳しい基準がしかれているようです。ここ最近、政治かもウェブサイトやブログを持つようになりましたが、公選法によれば選挙期間中はホームページやブログの更新は許されていないらしい。ただし、厳密に「許されていない」というのではなく、ウェブサイトやブログが「文書図画」であるかどうかを規定されていないため、公選法に抵触する「虞がある」ということだそうです。

 私は基本的にはウェブサイトやブログによる選挙運動には賛成です。多くの人がインターネットに繋げるようになる現代、インターネットを選挙活動の道具の一つとして利用するのは大きな意味があると思います。

 さて、私は公選法の改正だけではいけないと思います。もしウェブサイトやブログが選挙活動として認められているのであれば、立候補者はポスターに自分のウェブサイトやブログのアドレスを明記すべきでしょう。携帯電話の「QRコード」を印刷してもいい。わざわざ政治家のサイトを検索して見る人は少ないでしょうから、人を呼び集めるためにはポスターにそのような工夫を施すことも必要だと思います。

 今の選挙活動は、ほとんどが「名前」を売ることにまい進していると思います。しかし、利権誘導型政治の欺瞞が明らかになった今、「名前」だけでは考える市民を取り込むことが出来ないでしょう。だからこそ、「名前」だけでなく「政策」を売り出すことが出来るようになって欲しい。インターネットを利用した選挙活動は、選挙活動に政策を「売り出す」プレゼンテーションのスキルが重視されるように変革されるでしょう。マニフェスト型政治を定着させるには、まずインターネットを政治活動として認めるべきです。

 しかし、インターネット選挙活動がみんな善であるというわけではないようで…。

 kitanoのアレ:ウヨク工作活動:民主党アンケートに大量組織票

 リンク先の記事によると、7月20日から25日にかけて民主党がネット上でモニター選挙を行なったところ、7958名のモニターの内3877名が実施期間中に新規登録した人のようです。ここまでならいいのですが、ここから先に何かきな臭い動きが…。

    Q1. 時の首相が靖国神社を参拝することについてあなたはどう思いますか?
  賛成である 1267 票 (工作後 5144 票)
  反対である 2438 票
  わからない 376 票
  Q3. 民主党の岡田代表は政権交代後、首相になった場合、自分の意思で靖国神社に参拝しないとしています。あなたはどう評価しますか?
  大いに評価する 1769 票
  多少評価する 888 票
  あまり評価しない 769 票
  全く評価しない 440 票 (工作後 4317票)
  わからない 215 票
  Q4. 首相の靖国神社への参拝問題で日本の国益に叶うのは、参拝の継続か中止どちらだと思いますか?
  参拝継続 1098 票 (工作後 4975票)
  参拝中止 2436 票
  わからない 547 票

 すごすぎますよ。いくつかの左派系のブログでは所謂「ネット右翼」によるコメント欄荒らし・トラックバック荒らしが問題化されているようですが、これだけの「工作員」がいるとは…。まあ、所謂「ネット右翼」の世界は、「世界」平成17年7月号で鈴木謙介氏が言っている通り、所謂「学級会民主主義」の世界、すなわち多数派の正義ですからね。そのような「多数派の正義」は、そのまま勝ち馬に乗ればいい、という価値観を生み出す。これは所謂「ネット右翼」だけでなく、そのまま彼らの批判するマスコミや、メディア規制派にも言えることです。すなわち…。

 フィギュア萌え族(仮)犯行説問題ブログ版:各局の報道で全国に晒されてしまった加害少年の部屋(古鳥羽護氏)
 弁護士山口貴士大いに語る:松沢知事はエコノミストの記事を読んだのでしょうか?(山口貴士氏:弁護士)
 カマヤンの虚業日記:[日本会議][勝共連合]「日本会議」の街宣車、コミケへ来る
 走れ小心者 in Disguise!: 「黙ってられるかこんな話聞いて!」(克森淳氏)
 kitanoのアレ:おたくのための選挙資料(1):自由民主党の公約
 kitanoのアレ:おたくのための選挙資料(2):民主党の公約
 「反ヲタク国会議員リスト」雑記帳:[健全育成政策] 自民党&共産党もエロゲー撲滅に必死

 我が国のマスコミや政治家には、相手がオタクであれば倫理も矜持もプリンシプルも無視してバッシングに走ってもいい、という不文律があるそうです。先日宮城県で起こった警官襲撃事件でも、加害者の部屋が全国放送によって委細もらさず報じられてしまったらしい。そして案の定アニメやゲームやモデルガンが原因である、という印象操作報道を行なってしまったようです。

 はっきり言って、これは報道加害以外の何物でもありませんね。少年法61条はもはやあってなきものと化しているようです。もちろん少年法61条には問題点が多くありますが、このような報道の行き過ぎはもはや壊滅的です。我が国の中において、どれだけの青少年がアニメやゲームやモデルガンには待っているか、マスコミの人たちは分かっているのでしょうか。その中の一人が犯罪をしでかしたからといって、アニメやゲームやモデルガンに愛着を示す人はみんな危険だ、という論理を展開してはなりません。しかし、そのような印象操作こそが受ける、とマスコミの人たちは確信しているのでしょうか。視聴者をなめているのか。少なくとも若年層をなめているのは事実でしょうね。

 山口貴士氏のブログでは、ゲーム規制を推し進める松沢成文・神奈川県知事が英国の「エコノミスト」という雑誌でゲームの有害性は実証されていない、という記事が掲載されていて、松沢氏はこれを呼んだのか、と糾弾していますけれども、自分に都合の悪い情報を封鎖するのもまたマスコミクオリティです。例えばフリーターや若年無業者の分野に関すると、書籍ではかなり優れた分析や報告が展開されているのですが、雑誌や新聞やテレビ報道のレヴェルになるとあいつらは甘えているとか親が悪いんだとかいった画一的・一方的な批判になってしまう。どうして彼らは重要なデータをひた隠すのでしょうかね。やはり自分の構築した「今時の若者」のイメージを綿密なデータによって解体されたくないからなのか。所詮マスコミは、マスコミ報道の主たる受け手となっている社会階層の人を擁護するものでしかなく、公器としての役割を期待するほうが無理なのかもしれません。

 「kitanoのアレ」では、自民党だろうが民主党だろうがメディア規制の動きをとめることは出来ない、と書かれております。私がこのことに関して思うことは、自民党も民主党も、更には共産党すら「今の子供たちは「異常」である。それは有害な情報が蔓延しているからである」という認識を共有しているということです。しかし、彼らのいうところの子どもたちの「異常」とは、一体何を指しているのか。少年犯罪の急増?凶悪な少年犯罪は現在よりも昭和40年ごろのほうが圧倒的に起こっていた。規範意識の低下?このような論理は論じる側のイデオロギーに左右されやすく、まず彼らが持ち出す「規範意識の低下」という視点が相対化されるべき問題です。更には疑似科学まで持ち出して、今の子供たちはかつての子供たちと「本質的」に違うのだ、という人たちまでいます。しかし、そのような論理が、レイシズムにつながるということに関してはどうして無頓着なのだろう?

 「カマヤンの虚業日記」では、かの有名な「コミックマーケット」に、メディア規制の急先鋒である右翼政治団体「日本会議」の街宣車が、自らの出自を偽って街宣活動を行なったようです。そしてその「日本会議」は、右派系の「人権擁護法案」反対派の肩を持っている存在ですけれども、このような人たちと一緒になって「人権擁護法案」に反対している人は、やがてこれらの人たちがメディア規制に走り出す、ということにどうして無頓着なのでしょうか。それとも長いものに巻かれていれば害はない、と考えているのか。やはり「学級会民主主義」の徒ですか。

 ついでに私も「人権擁護法案」に反対した文章を書いたことがあります。しかしその視点は、まず論壇において「人権」という言葉がいかに曲解されてきたか、ということと、立憲主義において国家・国民・憲法とはどのような位置にあるか、ということを中心に論じました。ですので、私の批判は、かなり相当性があるように思えます。まあ、その理由で、一部の人からは「近代国家礼賛なのか無政府主義なのか分からない」「電波」などと罵られているわけですが。

 本日の「産経SHOW」:「丸の中に平」は、「平蔵」ではなく「平和」
 産経新聞の「産経抄」を検証しているブログなのですが、平成17年8月23日付の「産経抄」にあったこの文章を見たとき、私の眼が止まりました。

 昔、自民党が総裁選びでもめていたときのこと。識者への談話取材を命じられた筆者は、サルの研究者に電話をかけ、当時の編集幹部に怒鳴られた。ボス猿選びと比較するとは、政治を冒涜(ぼうとく)するものだ、というのだ。

 《サルの研究者》?もしかして信男ちゃん?信男ちゃんなのかっ!?(笑)なんて、違うでしょうけどね。

 さて、8月7日から8月30日にかけて、「俗流若者論大賞」と称して、「俗流若者論ケースファイル」25連発という荒業をやり遂げてしまいました(盆休みあり)。ここで発表した文章は以下の通り。せっかくなので短評つきで。

 「俗流若者論ケースファイル46・石堂淑朗
 石堂淑朗、「正論」だけでなく「新潮45」でも活躍しております。

 「俗流若者論ケースファイル47・武田徹
 「プログラム駆動症候群」なる珍概念を批判的検証抜きで宣伝。しかし箱を開けたら暴力的なレトリックの山だった。

 「俗流若者論ケースファイル48・澤口俊之
 ついに単独で登場、澤口俊之。

 「俗流若者論ケースファイル49・長谷川潤
 教師ってなんなんだ。

 「俗流若者論ケースファイル50・工藤雪枝
 歴史ってなんなんだ。

 「俗流若者論ケースファイル51・ビートたけし
 論理が散乱しまくっています。ビートたけし=北野武氏にはこういう側面もあったのか。

 「俗流若者論ケースファイル52・佐藤貴彦
 「バトル・ロワイヤル」のトンデモ珍解釈、とでも言うべきか…。

 「俗流若者論ケースファイル53・佐々木知子&町沢静夫&杢尾堯
 治安悪化は全部少年のせいだ!とでも言いたいのかな。しかし対談者は元検事の自民党国会議員、少年犯罪報道御用達の精神科医、元警察官。

 「俗流若者論ケースファイル54・花村萬月&大和田伸也&鬼澤慶一
 中江兆民の「三酔人経綸問答」ならぬ、「三酔人俗流若者論問答」。

 「俗流若者論ケースファイル55・遠藤維大
 アクセス解析によると、この人の名前で検索したらこのページにぶち当たった、という人がいるようですが、この人、ネット上の評判悪すぎ。

 「俗流若者論ケースファイル56・片岡直樹
 片岡直樹も単独で登場。

 「俗流若者論ケースファイル57・清水義範
 元祖「フィギュア萌え族」論!?

 「俗流若者論ケースファイル58・林真理子
 この程度の「憂国」エッセイが教育「論」として認められてしまう現実。

 「俗流若者論ケースファイル59・林道義
 この時期に及んで、「環境ホルモンで動物が女性化」はないだろう…。

 「俗流若者論ケースファイル60・田村知則
 何と眼科医学から俗流若者論が飛んできた。

 「俗流若者論ケースファイル61・野田正彰
 俗流若者論で「心のノート」に反対したらまずかろう。

 「俗流若者論ケースファイル62・藤原正彦
 文化ってなんなんだ。

 「俗流若者論ケースファイル63・和田秀樹
 遅れてきた「スキゾ/パラノ」(@浅田彰)!?

 「俗流若者論ケースファイル64・清川輝基
 清川輝基まで登場。

 「俗流若者論ケースファイル65・香山リカ
 政府や右派言論人を叩かずに若年層ばかり叩く、それが若年層右傾化論クオリティ。

 「俗流若者論ケースファイル66・小林ゆうこ
 ここまで疑似科学を批判的検証抜きに紹介できるノンフィクション作家って…。

 「俗流若者論ケースファイル67・中村和彦&瀧井宏臣
 しかし瀧井宏臣は小林ゆうこよりもすごい。

 「俗流若者論ケースファイル68・瀬戸内寂聴&乃南アサ&久田恵&藤原智美
 これだけの「文化人」がそろっておきながらこの貧困。

 「俗流若者論ケースファイル69・小林道雄
 小林道雄二重人格説。要するに警察に関する仕事と青少年に関する仕事で落差ありすぎ。

 「俗流若者論ケースファイル70・山藤章二&「ぼけせん町内会」の皆様
 トンデモカルタの世界。

 今後の予定。
 ・「統計学の常識、やってTRY!第5回」を近いうちに公開します。採り上げる記事は、「AERA」平成17年9月5日号に掲載された、各務滋、坂井浩和、小田公美子「父よ母よ 園児が壊れる」です。
 ・「俗流若者論ケースファイル71・遠山敦子ほか」を近いうちに公開します。8月26日付の読売新聞で、遠山氏が識者16名を集めて結成した「こころを育む総合フォーラム」の基調報告が掲載されていますが、そこでは取り立てて俗流若者論が見られるわけではないのですけれども、この団体の動向を見極めなければならない、という目的で執筆します。
 ・三浦展『仕事をしなければ、自分はみつからない。』(晶文社)の検証記事を来月中に公開します。また、同じ著者の『ファスト風土化する日本』(洋泉社新書y)と『「かまやつ女」の時代』(牧野出版)にも問題が見られれば、短期集中連載という形で来月一遍に検証を行ないます。
 ・小林道雄『「個性」なんかいらない!』(講談社+α新書)の検証記事を再来月までに公開する予定です。
 ・9月14・15日に、愛知万博に行ってきます。そこで何か感じることがあれば、万博観覧レポートを書きます。
 ・その前日の9月13日に、東京で今年のカンヌ国際映画祭でパルムドール大賞を受賞したベルギー映画「ある子供」のマスコミ試写会に参加してきます。そこで何か感じることがあれば、映画評を書こうと思います。生まれて初めての映画評です。
 ・再来月までに、巷に出回っているフリーターや若年無業者に関する本の書評をbk1にて一気に公開します。さらに、その公開とあわせて、それらの本に関する分析を行なった記事をブログで公開します。
 ・平成18年仙台市成人式実行委員会に参加しています。それにあわせて成人式関係のコンテンツも充実させていくつもりです。その嚆矢として、近いうちに「成人式論は信用できるかSPECIAL01・大谷昭宏」を掲載します。「通販生活」2005年春号に掲載された大谷氏のインタヴューを検証します。

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2005年8月21日 (日)

俗流若者論ケースファイル62・藤原正彦

 現代の我が国におけるナショナリズムを支えている最大の基盤は俗流若者論である。俗流若者論において、マスコミが問題にしたがる「今時の若者」の「問題行動」を鬼の首でもとったの如き採り上げては、彼らを「国家」の喪失した存在とかいったレトリックで罵り、教育で愛国心を教えよ、とか日本人の歴史や言葉を取り戻せ、といった飛躍した論理が見られるのは最近ではもはや日常茶飯事である。とりわけ数学者の藤原正彦氏はその典型であろう。というわけで、今回検証するのは、藤原氏の文章「数学者の国語教育絶対論」(「文藝春秋」平成15年3月号に収録)である。藤原氏のこの文章を検証することは、現代の我が国、特に俗流若者論において「日本語」がどのようなスタンスでもって用いられているか、ということを検証するためにも大変重要だと私は思うが、それに関してはこの文章の終盤で述べていこう。

 まずは藤原氏の事実認識から検証していきたい。この部分にも、藤原氏のナショナリズム的に潤色された事実誤認がいろいろあふれ出しているのである。例えば藤原氏は最初のほう(179ページ上段)において《世界一といわれた治安のよさも失われた。正業につかず勝手気儘に生きる若者が増加し、恐るべき援助交際や少年非行に加え、金銭にからむ不正が政官財民に蔓延するなど、国民一般の道徳も地に堕ちた》(藤原正彦[2003]、以下、断りがないなら同様)と言って、《教育を立て直すこと意外に、この国を立て直すことは無理である》《教育の質はそれを受けた者の質を見ればたちどころにわかる。大学生を見れば質の低下は著しい》(共に179ページ後半)と書く。しかし、例えば《世界一といわれた治安のよさ》=所謂「安全神話」に関しては、例えば少年による凶悪犯罪は昭和35年ごろと比して大幅に減少しているとか、また検挙率に関しても最近になって警察の被害届けの取り扱いが変わったことによるものが大きいし、諸外国に比べれば我が国の犯罪率は極めて低い水準を保っている。特に諸外国に比して我が国の20代が殺人をしでかす割合は極めて低く、総体として見れば「治安が悪化している」という言説がかえって人々の治安に対する不安を更に高めているということが見抜ける。更に藤原氏は《正業につかず勝手気儘に生きる若者が増加》と語っているけれども、これはフリーターを指しているのだろうが、あくまでフリーターは社会構造の問題から切り離せなくなっているし、《国民一般の道徳も地に堕ちた》とは言われているけれども、そう見えるのはそれまで経済成長が全てを隠蔽してくれたからであろう。さらに《大学生を見れば質の低下は著しい》と藤原氏は書いているけれども、このような主観から安易に教育の「劣化」を語らないというのが物書きとしての良心であろう。

 また藤原氏は《国語が思考そのものと深く関わっている》(180ページ)と語っているけれども、これに関しては別段異論はないどころか、大いに賛同する。しかし藤原氏のこの文章は、藤原氏の思考力が「それほどのものでしかない」ことを如実に表しているかのごとき表現もまた頻出する。例えば藤原氏は183ページ下段において、《高次の情緒には、なつかしさ、という情緒もある。人口の都市集中が進み、故郷をもたない人々が増える中で、この情緒も教えにくくなっている》と藤原氏は書くけれども、では《なつかしさ、という情緒》は藤原氏の言うところの《故郷》でしか育たないのだろうか。この文章を読んでみる限り、藤原氏の言うところの《故郷》とは、都市とはまた対比されるべきものであると捉えられるかもしれないが、例えば私は物心ついてから2回ほど引越しをしたことがあるけれども、全て郊外の団地であった。しかし今では小学生や中学生の頃の想い出、更には高校生の頃、更に最近では成人式実行委員会として活動したときの想い出が今でも懐かしく思い出される。藤原氏の論理に従えば私はずっと《なつかしさ、という情緒》を持つことができない、ということになるはずだが。藤原氏はもうちょっと広義の「故郷」というものに眼を向けるべきではないか。また藤原氏は185ページ下段において《脳の九割の内容を利害得失で閉められるのは止むを得ないとして、残りの一割の内容でスケールが決まる。ここまで利害損失では救われない。/ここを美しい情緒で埋めるのである。……もし官僚のう脳の一部に、もののあはれが農耕にあれば、その判断は時に利害を離れることもありうる》と書いている。しかしそのような文章の直後にこのような文章が続いていると一気に落胆してしまう。曰く、

 たとえば日本の農業を考えるとき、経済的には外国から安い農産物を自由に輸入することが最善としてもすぐにそういう決断しないかも知れない。農業の疲弊は田園の疲弊であり、美しい自然の喪失である。もののあはれは、四季の変化にめぐまれた日本の繊細で美しい自然によりはぐくまれるものだから、この情緒も衰退するであろう。世界に誇るこの情緒は日本文化の淵源であり、経済上の理由で大きく傷つけてよいものだろうか、と反問するに違いない。……

 一般的な解釈では、これもまた《利害損失》というべきものではないのだろうか。藤原氏が《利害損失》=経済的な利害損失としか考えていないとしたら、それこそ藤原氏の思考の貧困さが出ている文章といえよう、先ほどの《故郷》と同じように。

 さて、藤原氏は《祖国とは国語である》(186頁下段)と考えているらしい。これは確かに正しいのであるが、もう少し踏み込んだ説明するならば国語(言語)とは自分の所属している共同体に対する帰属意識を確認するための記号である。何も所謂「ギャル文字」「2ch言葉」みたいな極端な例を表さなくとも、例えば声優の野川さくら氏と野川氏のファンのやり取りを見てもそれを垣間見ることができる。基本的にこの場におけるやり取りはごく普通の日本語によって行なわれるけれども、例えばその中でさりげなく野川氏を中心とするコミュニティを象徴する言葉、すなわち「おはよう」とか「こんにちは」を意味する「にゃっほ~♪」などという言葉が入ったとき、そこにおけるコミュニティが野川氏を中心とするコミュニティであることが表される。他にも声優のラジオ番組などを聴いていれば、このような日常とは違う言語表現が少しだけ入ることによってそのコミュニティの特徴が表されるような言葉は時々見かけることができる(堀江由衣氏のラジオにおける「こんばんてん」という挨拶なども然り)。数学には数学の言語が、建築学には建築学の言語が日常言語と並立して置かれ、日常言語とは違ったコミュニティ独特の言語が日常言語の中にさりげなく組み込まれることによってコミュニティの特性が表される、ということは少し探せばたくさん見つかる。

 さて、このあたりで藤原氏流の《祖国とは国語である》という論理の危うさについて触れてみよう。明治維新以降の過程において、日本の近代化のために、「日本人」とか「日本民族」が最初から一体のものであるというフィクションを捏造する必要があった。それに大きく役割を買ったのはもちろん教育であった。更に明治時代から現在にかけての都市政策や教育政策によって、地域のコミュニティ、そして地域言語としての方言が破壊され、都市居住者は(もう少し広く言えば都市から独立していないコミュニティの居住者は)標準語によってコミュニケーションしなければならぬ状況が生じた。藤原氏の立論の危うさは、国家が「正しい日本語」「美しい日本語」を規定し、それにかなわぬ言葉は全て「乱れている」とか蔑視されることによって、言葉の持つ柔軟性が失われるのではないか、ということだ。「今時の若者」における「言葉の乱れ」をしきりに嘆く自称「知識人」が、同時に「方言を大切にしよう」と喧伝するのはなんとも皮肉なことだ。

 藤原氏がこの論文において国際的なパワー・ゲームとしての「日本語」の一体性を重視していたり、あるいは藤原氏のこの文章が収録されている「文藝春秋」の特集「日本語大切」におけるおそらく編集者によるものであろうリード文における《言語の衰退は国家の衰退。巷にはびこる珍妙な日本語を見直し、今こそ「私たちの言葉」を手に入れよう》という表現にも見られるとおり、日本人全員が教育によって「正しい日本語」「美しい日本語」を習得しなければ国際社会で勝ち残ることができない、という認識に立っていることを見るにつけて更に私の疑問は深くなる。そもそも彼らはなぜ国際社会で勝ち残ることや生き残ることを絶対視するのだろうか。いや、私は何も我が国が米国の51番目の衆になってもいい、と言っているわけではない。そうではなく、私はそのための「手段」を問題化している。すなわち、国際社会で生き残るための手段が、「内なる他者」というよりむしろ「内なる汚物」としての言葉の「乱れ」をしきりに攻撃することで、「日本人」「日本文化」という同一性を保つことにより、国際的な力を得ようとする行為が、果たして本当に正統の行為であるか、と私は問いたいのである。そもそも我が国の文化は彼らの認識の外で着々と広がっている。我が国の伝統文化から、更には我が国におけるアニメや漫画といった最近のサブカルチュアが「クール・ジャパン」として認識されつつある。このような(広義での)日本文化の広まりは、彼らの妄想する「強い国家」とは別のところで動いている。

 俗流若者論の恐ろしさは、個人的な「今時の若者」に対する憤慨がそのまま国家とか歴史とかに短絡されてしまうことである。俗流若者論に依拠する人たちは、「国家」や「歴史」みたいな幻想をバックにつけることによって「今時の若者」を「国家を喪失した存在」とかいったレトリックで批判するのだが、これを「虎の威を借る狐」という。そして国家という「虎」の威厳を借りることによって「今時の若者」をゲットーに囲い込む人たちは、さも駝鳥が穴の中に首を突っ込んで世界は平和である、と認識する如き錯覚に陥る。殊この藤原氏の文章や藤原氏の文章が収録されている特集には、かくのごとき「駝鳥の平和」の思想が底流として流れている。このような「駝鳥の平和」がやがてレイシズムにつながった例が、曲学阿世の徒・京都大学霊長類研究所教授の正高信男氏による「ギャル文字」への評価、すなわち「ギャル文字」はもはや言語的な認知を超えたものであり、このような文字の蔓延は日本人の言語能力の対価を意味する、というわけのわからぬアナロジーであろう。我々が最も撃つべきはこのような「駝鳥の平和」の如き錯覚であって、他者に対する攻撃でなく寛容をベースとした真の平和を築かなければならない。

 最後に藤原氏についても述べておこう。藤原氏は「祖国は国語」だとは言うけれども、藤原氏のこの文章における「日本語」や「日本文化」や「故郷」などの言葉を観察するにつけ、藤原氏にとっての「祖国」とはその程度のものなのか、と嘆かざるを得ない。すなわち、藤原氏の言うところの「祖国」とは、所詮藤原氏の利害や自意識の範囲を出ることがなく、他の人が自分とは違う形で「祖国」や「故郷」を構築していったり、あるいは「日本語」や「日本文化」がさまざまな変化と分化と同一化を経て形成されたものであるということに対する想像力もない。藤原氏は、もっと「故郷」とか「文化」とかいった言葉に対する広い視野を持つことが必要であろう。

 ついでに、この特集に収録されている、ジャーナリストの日垣隆氏の「判決文は悪文の見本市」は面白いから一読をお勧めする。

 参考文献・資料
 藤原正彦[2003]
 藤原正彦「数学者の国語教育絶対論」=「文藝春秋」2003年3月号、文藝春秋

 姜尚中『ナショナリズム』岩波書店、2001年10月
 芹沢一也『狂気と犯罪』講談社+α新書、2005年1月
 歪、鵠『「非国民」手帖』情報センター出版局、2004年4月
 堀田純司『萌え萌えジャパン』講談社、2005年3月

 多和田葉子、田中克彦「ことばを知る、ことばを語る」=「論座」2004年12月号、朝日新聞社

 参考リンク
 「野川さくらオフィシャルサイト「さくらメロディ♪」

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 参考記事
 「正高信男という頽廃
 「壊れる日本人と差別する柳田邦男
 「俗流若者論ケースファイル02・小原信
 「俗流若者論ケースファイル10・筑紫哲也
 「俗流若者論ケースファイル20・小原信
 「俗流若者論ケースファイル44・藤原正彦

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2005年8月10日 (水)

俗流若者論ケースファイル53・佐々木知子&町沢静夫&杢尾堯

 今回検証する、佐々木知子氏(参議院議員・自民党、元検事)、町沢静夫氏(精神科医)、杢尾堯氏(元警視庁捜査一課課長)の対談「検挙率はなぜ急落したのか」は、「中央公論」平成13年7月号の特集「「安全な国・日本」の崩壊」という特集の一つの記事として収録されている。要するに、今喧伝されている「治安の崩壊」という問題は、この時期から起こっていたことになる。犯罪白書や警察白書においては、平成12年ごろから「体感治安」の悪化、要するに実際の検挙件数や検挙率とはまた違ったところにおける、人々の「体感」としての治安の悪化が取り沙汰されていたようだ(酒井隆史[2005])。

 ただ、この対談において気になるのは、検挙率の低落や治安の悪化が、一貫して青少年が原因とされていることである。現実には青少年だけのせいにできないほど治安の悪化というものは複雑であり、例えば外国人犯罪や、更には青少年以外の世代にも触れなければならないのである。更には、我が国におけるスペクタクル的状況が、実際はマスコミが少年犯罪に関して過剰なまでに取材して、さも少年による犯罪だけが急増しているかのごとき錯覚に世間が陥っている疑いがある、という面からも検証されなければならないだろう。青少年ばかり治安悪化の「原因」としてつるし上げるのは、はっきり言ってポピュリズムにしかなりえない。少なくとも戦後の我が国の社会が若年層の「封じ込め」に成功して来た社会である、ということに関する認識は持つべきだろう。

 さて、ここから検証に入る。まず町沢氏の発言から。ついでに言うと町沢氏は平成12年5月に起こった佐賀県のバスジャック事件の際、朝日新聞社の「論座」平成12年7月号において、この事件の原因を、自らこの犯罪者の母親にアドヴァイスした経験から母子関係の歪みに求めているが(町沢静夫[2000])、そのような論証立ては後に「論座」同年10月号で臨床心理士の矢幡洋氏に論破される運びとなる(矢幡洋[2000])。話を戻して、この鼎談における町沢氏の最初の発言を見てみよう。100ページから101ページにかけて。

 町沢 従来の少年犯罪というのは「非行少年型」でした。……彼らは友達を作って徒党を組む傾向がある。また計画性がなく、ちょっとしたいたずらを契機に、そのときの集団真理で、殺すことが兵器になっていくという段階を踏みます。これは家庭崩壊を背景としていることが多いんです。

 ところが、1990年を過ぎた頃から、「単独犯行型」とでも言うべき新しい犯罪が増え始めた。このタイプの犯罪者は、過保護な環境で暮らしてきて、対人関係がうまく取り結べない。非常に内向的なんですね。……

 このように、従来の、徒党を組んで犯罪を起こす非行少年型ではなく、非行歴もない少年が被害妄想的になって、計画的にバッサリ犯行に及んでしまうというのは、従来の精神医学から分断された特殊な傾向をもっています。日本独特といってもいいでしょう。(佐々木知子、町沢静夫、杢尾堯[2001]、以下、断りがないなら同様)

 残念ながら、町沢氏のこの発言は事実誤認を含んでいる。なぜなら、我が国の少年による殺人・強盗殺人・強盗致死事件において、被害者の数に対する加害者の数は増加傾向にあるからだ。東京大学助教授の広田照幸氏の分析では、少年による凶悪犯罪のピークであった昭和40年ごろは被害者の数に対して加害者の数がおよそ1.3倍程度だったのに対し、近年(平成元年以降)はおよそ2~2.5倍くらいで推移している(広田照幸[2003])。つまり、過去のほうが単独による殺人・致死事件が多かったのである。加えてこの時期に取り沙汰されていた所謂「オヤジ狩り」などの凶悪犯罪は、集団によるものが多かった。すなわち、加害者数から見れば、この時期の少年犯罪の傾向としてはむしろ町沢氏の主張とは逆の事態が生じていることになる。また、町沢氏の現状認識を認めるとしても、なぜ《従来の精神医学から分断された特殊な傾向》さらには《日本独特》といえるのか説明が必要であろう。ちなみにこのあと(102ページ)において展開される佐々木氏の発言はおおむね正鵠を付いているのだが、やはり《一般にはりかいしがたい凶悪な少年犯罪が増えてきました》と安易に言っていることに関しては警鐘を鳴らしておく。また、103ページにおける杢尾氏の発言は、自らの警視庁時代の実体験を元にした発言であるが、ここにも目立った間違いは見られない。
 104ページにおいて、佐々木氏が問題のある発言をしている。

 佐々木 いま日本は非常に画一化していると思います。地方も都市も。ようするに情報は全部同等に流れていきますし、地方の片田舎でもみんな携帯は持っています。ネットでチャッティングというのはどこでもやっています。だから私は、地方も都市も関係なく、画一的に犯罪は増えていると認識しています。

 まず、佐々木氏は《日本は非常に画一化していると思います》と書いているけれども、では佐々木氏はその責任を何に求めているのだろうか。戦後になって、我が国の社会は公共事業をあまねく全国に広めるような公共投資の乱発が起こった。これによって我が国全体の経済水準が上がったことは間違いないが、しかしそれに伴う問題点もまた生み出してきた。そのような田中角栄的な状況に対する精算を自民党は怠ってきた。佐々木氏も自民党であればまずその点を反省すべきであろう。また、そのような状況が起こると同時に、特にバブル期においては消費社会的なものを礼賛する如き言説もまた溢れた。今となってはそのような言説を乱発してきた人がそれに対する反省もなしに都市の画一化を嘆き、それが青少年の心の荒廃をもたらしている、と訳知り顔で語っているという倒錯が起こっているらしいが、そのような状況に関する検証がまず必要になろう。また、佐々木氏は《画一的に犯罪は増えていると認識しています》と言ってのけるが、その程度の《認識》ではなくまず数値的なデータをそろえるべきだろう。

 更に町沢氏の問題発言、105ページ。

 町沢 いまの青少年を見ていますと、「殺す」という言葉を非常に簡単に使います。そこにナイフを持っているから、障害も起こる。中高生の男の子はいま、二割はナイフを持っています。だからあまり強く叱ることができない。

 しかも殺すということが非常に簡単になってきているから、死ぬということも簡単になる。子供たちを見ていると、死ぬというのは隣の部屋に行くようなものなんです。ものすごく軽いし、生きることと、死ぬことに落差がない。

 ほとんど全部が問題発言といっていい箇所であろう。まず俗流若者論における詐術としての《いまの青少年を見ていますと》だとか《子供たちを見ていますと》といった表現はいかにも青少年の現実を的確に写実しているように感じられるが、しかしこのような「観測」には過度に主観が入る可能性が極めて高いので、客観的な分析ということはできない。従って《「殺す」という言葉を非常に簡単に使います》とか《死ぬということも簡単になる》などといった町沢氏の「分析」にはまったく信憑性を持つことができない。更に町沢氏は《中高生の男の子はいま、二割はナイフを持っています》と述べているが、果たしてこれはどのような調査から導き出された結果なのか。調査を読む際には、いつ、どこで、誰が、どのような目的で調査を行ったか、ということを意識して読まなければならないが、少なくとも町沢氏はそのような調査の情報源を示すべきである。更に町沢氏は青少年において自殺が急増していることを示唆する如き発言をしているけれども、我が国においては青少年の自殺よりもむしろ中高年の自殺のほうがはるかに多い(厚生労働省の調査による)。しかも青少年による自殺は、戦後になって一貫して減少傾向にある。しかも諸外国に比して、我が国において青少年の自殺は極めて少ない。町沢氏はこれらの事実をいかに受け止めているのだろうか。佐々木氏もまた、106ページにおいて、

 佐々木 正しい言葉かどうかわからないんですけど、閾値というんですか、低くなっているという感じがするんですよ。たとえば、すごく腹が立ったからといって、普通はここで抑えたりとか、コミュニケーションをとって互いに納得したりとか、せいぜい手を出して終わるというのが常識でしたけど、いまはもうすぐに沸点まで上っちゃって、パッと殺しちゃうとかですね。

 それっていうのは、コミュニケーションをとる訓練ができていないんですよ、小さいときから。だって家に帰っても遊ぶところがないですよね。自分でゲームやったりと課して、少子化で、周りに兄弟もいないし、生と死、と言ったって、おじいちゃんもおばあちゃんも近くにいないし、死ぬということも実感できない。

 と発言しているのだから、その安易な図式化をまず疑うべきであろう。
 そして、杢尾氏もまた問題のある発言をする。107ページ。

 杢尾 確かに過去のデータから比べると、検挙率はもう右肩下がりです。たとえば、過去五年間の凶悪事件を見ると毎年千件ずつ増えている。限られた捜査員で、いくら犯人を検挙していっても、発生件数に追いついていかないというパターンですね。

 検挙率が低下した最大の原因としては、各種凶悪犯罪よりも格段に件数の高い軽微な窃盗罪などの検挙率における著しい低下に求めることができる。検挙率というものは、検挙件数を認知件数で割った数を100倍して求めるのだが、検挙率が低下した、というのであれば、検挙件数が減少したか、それとも認知件数が増加したか、という二つのファクターが考えられるのだが、事実認識として正しいのは認知件数が急増したからである。

 しかしここ最近の認知件数の急増というものは、単に犯罪そのものが急増したから、とはいえない。なぜなら(本当は虚像である)少年犯罪の多発化・凶悪化を見越して警察は少年犯罪に関する捜査を強化した。その結果として検挙率が低下する。ついでに検挙率の低下は平成元年あたりにもあったことなのだが、その理由としては警察が自転車泥棒を重点的に取り締まっていたのを昭和末期から平成元年あたりにかけてやめた、ということが影響している(浜井浩一[2005])。さらに最近の傾向として、平成11年に起こった桶川のストーカー殺人事件における警察の態度、すなわち被害が出ているにもかかわらず警察が被害届けの受理を拒否する態度が批判されたことをきっかけに、警察は被害届けを素直に受理するようになった。しかし検挙人数は変わらないから、故に検挙率は更に低下する。近年の検挙率低下には、このようなからくりが存在する。

 この鼎談の終盤、108ページにおいては、外国人犯罪について述べられているが、これに関する言及はせいぜい1ページ程度なので、この鼎談においては少年犯罪こそが治安悪化の原因である、と考えられているのだろう。しかし、このような認識は、実際にはそれほど影響の大きくない事象を過度に過大視することによって、間違った「治安政策」が行なわれることになる。近年の警察の態度や刑事政策の変化が現在の如き状況を引き起こしている、というのは警察も認めていることなのだが、しかしマスコミではそのようなことは報じられず、ただ扇情的な情報だけが溢れることになる。マスコミは警察の広報係どころか、もう完全に不安扇動装置と化してしまっているようだ。

 しかし、青少年のせいで治安が悪化している、という認識はもはやかなりのコンセンサスを得ているようだ。例えば、東北大学助教授の五十嵐太郎氏は、平成13年10月の衆議院議員総選挙の近くに、東京新聞で発表された、著名人による、もし自分が選挙に出馬したらどのような公約を抱えるか、ということについて、その一つである作家の室井佑月氏の「公約」を挙げる。曰く、

 作家の室井佑月は、「バーチャル総選挙」という新聞のコーナーにおいて、自らが立候補した場合の公約を次のように要約している。「1、国会議員の財産は一代限りに。2、十代のボランティアを義務化。3、警察官を大幅に増員します」。第一の公約は、治安のいい場所が高級住宅街になっていることへの疑問から導かれたものだ。第二の公約は、潜在的な犯罪者であるティーンエージャーを災害救助や老人介護などのボランティア活動で働かせること。……おそらく彼女は一般人の感覚を代表しており、治安への強い関心がうかがえる。国民にとって、今、セキュリティが最大の問題なのだ。(五十嵐太郎[2004])

 要するに、五十嵐氏が引いている室井氏の認識は、悪いのは自分ではなく、自分にとって「外部」のものなのである、というものなのだろう。そしてこのような認識は、あまねく全てのマスコミを覆っているように見える。もちろん五十嵐氏は室井氏に対して批判的な立場で書いているのだけれども、自分だけは犯罪を起こさない、犯罪を起こすのは「あいつら」だと思いこんでいる「被害者の共同体」を強化するために我が国のセキュリティや政策は動員されている。言論もまたこれに動員されており、近年高まっているオタク・バッシングもこれと同種のものとして見なせよう。また、「させてはならない目標」(=「ゲーム脳」「ケータイを持ったサル」「フィギュア萌え族」など)としての俗流若者論が蔓延するのも同様の傾向であろう。明治大学専任講師の内藤朝雄氏は、現在の状況をこのように批判する。

 全体主義とは、教育が社会を埋め尽くす事態をいうのではないか。あるグループの人々が社会解体の「しるし」としてターゲットにされ、「憂慮すべき未曾有の事態」がくりかえし指摘される。生まれてからの年数が短い人、置いた人、所属しない人、交わらない人、理解や共感ができずに不安を与える人は、そういう「しるし」にされやすい。そして人々の不安と被害者感と憎悪が動員され、社会防衛のキャンペーンが起こる。問題は「困った人たち」のこころや生活態度であるとされ、彼らが内側から変わるように、社会に教育網が張り巡らされる。人権や経済や社会的公正の問題は、いつの間にか教育の問題にすりかわり、公論のスポットライトから外される。(内藤朝雄[2005])

 「全体主義」に関する説明には大いに疑問が残るけれども、それを除けば現在の我が国の状況を極めて的確に言い当てている。我が国は、言説によって規定された恐怖に多くの人が脅えており、それらの恐怖の元は実感というよりは言説に由来する。そして自らの見聞きした経験もまた言説によってある種の傾向に方向付けられてしまう。大阪府立大学専任講師の酒井隆史氏は、現在の状況に関して《一方で個性をもて、とたえず命令しながら、他方で「個性をもつ」ための条件である「寛容」という土壌を取り除き続けている》(酒井隆史[2005])と指摘しているが、まさにその通り。我が国において「個性」というのは、「世間」の許容する範囲での「個性」、あるいは「世間」に利益をもたらす範囲での「個性」のみが許容される。我が国においてオタク産業が脚光を浴びているのは、その多くの場合においてそれがビジネスの創出や対外的なソフト・パワーとなっているからに過ぎないのであって、経済という枠を取り除いた上でのオタクへの「寛容」など最初からない。同様に、わが国においては若年層が一つの大きなビジネスのターゲットとなっている。しかし、そのようなビジネスは、若年層の費用が携帯電話の使用量に偏っていることや、少子化によってビジネスが縮小することから、まもなく成り立たなくなるであろう。近年において若年層バッシング、特に「ケータイを持ったサル」なる疑似科学の蔓延は、そのような状況を反映しているのかもしれない。我が国には若年層に対する「寛容」などない。

 我が国において俗流若者論、あるいは若年層を敵視する言説ばかりが蔓延する背景には、若年層はもはや「世間」の人間ではない、子供を「世間」の人間ではない「今時の若者」にしてはならない、という認識の広まりがあるのかもしれない。徒に若年層ばかり敵視する治安言説も、無関係ではないだろう。

 蛇足だが、中央公論新社のウェブサイトでは、早くも正高信男『ケータイを持ったサル』(中公新書)の続編にあたる『考えないヒト』(中公新書)をトップページで宣伝していた。中公新書にはたくさんの名著があるのだが、今では中公新書のトンデモ本メーカーとなっている正高信男氏の著作を喧伝することは、我が国において社会や科学が危機に瀕していることを助長しかねないのではないか?

 参考文献・資料
 五十嵐太郎[2004]
 五十嵐太郎『過防備都市』中公新書ラクレ、2004年7月
 酒井隆史[2005]
 酒井隆史「「世間」の膨張によって扇動されるパニック」=「論座」2005年9月号、朝日新聞社
 佐々木知子、町沢静夫、杢尾堯[2001]
 佐々木知子、町沢静夫、杢尾堯「検挙率はなぜ急落したのか」=「中央公論」2001年7月号、中央公論新社
 内藤朝雄[2005]
 内藤朝雄「お前もニートだ」=「図書新聞」2005年3月18日号、図書新聞
 浜井浩一[2005]
 浜井浩一「「治安悪化」と刑事政策の転換」=「世界」2005年3月号
 広田照幸[2003]
 広田照幸『教育には何ができないか』春秋社、2003年2月
 町沢静夫[2000]
 町沢静夫「佐賀バスジャック事件は防げた」=「論座」2000年7月号、朝日新聞社
 矢幡洋[2000]
 矢幡洋「佐賀バスジャック事件を検証する」=「論座」2000年10月号、朝日新聞社

 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 宮崎哲弥、藤井誠二『少年の「罪と罰」論』春秋社、2001年5月
 ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』岩波文庫、上下巻、1987年2月

 河合幹雄、杉田敦、土井隆義「犯罪不安社会の実相」=「世界」2004年7月号、岩波書店
 齋藤純一「都市空間の再編と公共性」=植田和弘、神野直彦、西村幸夫、間宮陽介(編)『(岩波講座・都市の再生を考える・1)都市とは何か』
 杉田敦「「彼ら」とは違う「私たち」――統一地方選の民意を考える」=「世界」2003年6月号、岩波書店
 長谷川真理子、長谷川寿一「戦後日本の殺人動向」=「科学」2000年6月号、岩波書店

 参考ウェブサイト
 「「NO!監視」ニュース第6号

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2005年8月 7日 (日)

トラックバック雑記文・05年08月07日

 夏本番というか、なんというか…。暑すぎる!

 仙台ではいよいよ七夕が始まりました。東北三大祭の一つで、商店街の各店舗や各企業の努力による色とりどりの吹流しがアーケードに並びます。機会があればどうぞ。

 東京脱力新聞:ブログの実力 きょう発売の「論座」で(上杉隆氏:ジャーナリスト)
 えこまの部屋:kuriyama爺からTB届いた(黒ヤギさんの節で♪)

 現在発売中の「論座」平成17年9月号の特集の一つに「ブログの実力」があります。タイトルに違わぬ濃い内容で、一読をお勧めします。
 この特集における、ライターの横田由美子氏の論文において、「東京脱力新聞」の上杉隆氏も紹介されています。そこで、上杉氏がブログを始めたきっかけとして、上杉氏が書いた週刊誌の記事に関して国会議員の平沢勝栄氏が上杉氏を提訴し、平沢氏が上杉氏に対する批判キャンペーンを張ったので、それに対する保身の為にブログを作ったとか。
 以前にも書きましたけれども、ブログの台頭によって「書き手」になる敷居は低くなっています。もちろんインターネットの登場により、個人がサイトを持てるようになって、その時点で「書き手」への敷居は低くなっていますが、それでもある程度の知識か道具が必要だった。それが、企業がテンプレートを提供するブログの台頭により、誰でも掲示板感覚で自らのサイトを作れるようになった。つまり現在は、インターネットにつなげられる環境さえあれば自分のサイトが持てるようになっているのです。

 しかし、ブログと鋏は使いようです。もちろん日記形式のブログ、というあり方も私は否定しませんけれども、だからといって個人情報を過剰にばらしてしまうと、自分、あるいは他人が多大な迷惑を被ってしまうこともある。ですから、ブログにおいて(もちろん普通のサイトを利用する場合もそうですが)個人情報の取り扱いには注意しなければならない。

 それだけではありません。文章や写真をインターネット上に公開する、ということは、世界中の人がそれを見ることになる、ということに他ならないのです。ですから、インターネットで文章を書くには、それなりの覚悟が必要になります。

 ブログの方向性を決めておくことも必要ですね。私はこのブログの方向性を「巷に溢れる「今時の若者」をめぐる言説を斬る」(旧ブログ)「俗流若者論から日本社会の一面をのぞく」(新ブログ)としており、基本的にこのブログを若者論を扱うサイトとしています。で、余興としてその他の時事問題、読書、建築、都市計画、音楽、声優の話題を入れる。

 なぜ私がこのようなことを言おうと思ったかというと、もちろん「論座」のブログ特集とか上杉氏の記事を読んだこともそうなのですが、もう一つ、「えこまの部屋」に以下のような疑問が書いてあったからです。

 それにしてもkuriyamaさん(筆者注:「千人印の歩行器」の栗山光司氏)にご紹介いただいた後藤さんによる俗流若者論批判テクストの「追求度」には頭が下がりますが、そのテクスト内容よりも、何がそこまで彼を執拗に俗流若者論で若者批判する著名人斬りに駆り立てるのか、個人的にはそちらのほうが興味があります。(苦笑)

 私は高校時代から趣味で社会時評を書いていました。当然、社会に関して何か不満を持っており、どうにかしたいという殊勝な動機で。雑誌にも投稿せずに日記形式で書いていて社会を変えられるわけがない(苦笑)。そもそも私が若者論というものの存在を意識するようになったのは、平成12年(私が高校1年のときです)に、所謂「17歳の犯罪」が多く報じられていた。そのような情報環境において、私は世間から犯罪者として見られているのではないか、という強い強迫観念に囚われており、17歳には絶対になりたくない、その前に死にたいとも思っていたのです。ただ、それでも(惰性で)17歳まで生きてきた。私が若者論の分析を本格的に始めたのは、朝日新聞社の週刊誌「AERA」の成人式報道(後田竜衛「成人式なんかやめよう」=「AERA」2001年1月22日号)を読んだとき、あまりにもひどい、批判するしかない、と思ったので、批判に着手した。これが17歳になる1ヶ月前です。そして平成15年3月に卒業するまで、高校時代は(大学受験期でも)成人式報道の研究ばかりやっていた(それでも東北大学には現役で合格しました)。大学に入ってからは「論座」の読者投稿に積極的に投稿するようになり(成人式報道に関する苦言が「論座」平成14年12月号に掲載されたことがあるので「論座」を選定しました)、批判の範囲を成人式報道から若者論全般に広げていった。最初はその辺の若者論に感情的に反論していた程度ですが、大学2年の後半あたりから社会における青少年の捉えられ方、及び若者論が生み出すナショナリズムや歴史修正主義、疑似科学、メディア規制を気にかけるようになり、我が国の思想的状況における若者論というものを意識して書くようになった。

 ちなみに「俗流若者論」というのは、ただ単に「俗流~~論」という呼び方の「~~」に「若者」を代入しただけの話です。他に適切な呼び方がなかったので、「俗流」というのがわかりやすいかな、と思ったわけです。

 ついでに「論座」の今月号についても触れておきますと、ブログ特集以外でも戦後60年特集とか、群馬大学教授の髙橋久仁子氏による「こんなにおかしい!テレビの健康情報娯楽番組」や、大阪府立大学専任講師の酒井隆史氏による「「世間」の膨張によって扇動されるパニック」は特に読ませます。しかも、編集長の薬師寺克行氏が、来月号からリニューアルすると公言しております(329ページ)。リニューアル後の「論座」がどうなるか、楽しみです。

千人印の歩行器:[働く編]おたく/フィギュア/ペット(栗山光司氏)
 堀田純司『萌え萌えジャパン』(講談社)という本を買いました。この本では、いまや2兆円市場となっている「萌え産業」の現状をルポルタージュしたもの。一応私はこの本は声優の項から先に読みました。声優の清水愛氏とか、大手声優プロダクションの一つである「アーツビジョン」社長の松田咲實氏や、漫画家の赤松健氏などのインタヴューも掲載されています。あと、ベネチア・ビエンナーレ国際建築展の「おたく:人格=空間=都市」のパンフレットも借りて読んでいます。

 ところで、マスコミが「萌え」を発見するときは、大きく分けて2つの場合があります。一つが、「萌え」が一大市場と判断されたとき。もう一つは、残虐な犯罪(特に少女が被害者となる性犯罪)においてその犯人がアニメやゲームや漫画に異常な嗜好を示していたとされるとき。しかし私は、どちらの見方に組しても理解(それが無理でなければ許容)には辿り着けないかと思います。

 なぜか。これは特に後者の形で「萌え」が発見されるときにいえることですが、よほどオタク的なものに理解のある記者(例えば、朝日新聞社「AERA」編集部の福井洋平氏や有吉由香氏など)が書いていない限り(大半のマスコミ人がそうですね)「オタクの世界は仮想現実で、それに没頭する人は異常であり、現実に生きることこそが至上である」と考えている節が大きいからでしょう。故に凶悪犯罪を起こすのは現実と空想の区別がついていない「異常な」奴であるから、という論理が形成される。

 まあ、確かに「萌え」で腹が膨れないことは誰にでもわかる。しかし、「萌え」というのは相手(キャラクターでもアイドルでも声優でもいいです)のある部分あるいは全体がその人にとって「萌える」と認識しているからこそ起こる。さらには虚構に対して欲望を持つことができるので、精神科医の斎藤環氏が指摘するとおり、こういう人たちこそ虚構と現実の区別が厳格である、とも言えるでしょう。マスコミは、そういう人たちが現にかなりの割合で存在するということをまず理解する、そこまでできないなら少なくとも許容する、という態度を持つべきです。もし誰かが現実の少女に対して政敵にか害してしまったら、その犯人は少なくともオタク的な性的嗜好からは逸脱している、と考えるほかないのです。

 石原慎太郎氏や日本経団連などは、オタク経済効果は認めていますけれども、オタクメディア規制も推進すべきだ、という考えの持ち主です。結局のところこのような人たちは、国民は経済的な成長だけにまい進していればよろしい、と考えているのでしょうね。しかしオタクの先駆性は経済とは別なところにあります。そもそも規制論の根本は自分が気に食わないから、という単純な理由でしょう。

 ちなみに「AERA」に関しても触れておきますけれども、「AERA」は平成17年5月30日号において、他の週刊誌が今年5月に起こった少女監禁事件に関してオタク・バッシングを書いていたのに、「AERA」はそれに関する記事はなしで、編集部の福井洋平氏が「メイド掃除でモテ部屋に」なる記事を書いていた。まあ、メイド喫茶ならぬメイド掃除サーヴィスの体験記ですが、ここまでやってしまう「AERA」はある意味すごい。

性犯罪報道と『オタク叩き』検証:フィンランド憲法・『may be』、アイルランド憲法・『shall be』
 海外のメディア規制の例が紹介されています。例えばフィンランドでは、憲法では青少年に有害だと思われる情報の規制は法律で可能である、としておりますが、実際には規制の対象になるのは映画やテレビだけで、また法律で規制できるといっても現状は業界の自主規制に任せていたり、さらには厳格な情報公開制度が整っていたりとか。あと、アイルランドがイギリスから独立した国であることを知らないでいる人とか。

保坂展人のどこどこ日記:佐世保事件から1年、長崎の教育は異常事態に(保坂展人氏:元国会議員・社民党)
 「心の教育」とは一体なんなのでしょうか。そもそも彼らの考えている「心」とはなんなのか。「心の教育」を推進すべきだ、という人たちは、現在の青少年の「心」は異常であり、彼らに正常な「心」を涵養しなければならない、といいます。しかし、正常な「心」とはなんなのでしょうか。殺人を犯さない?少年による凶悪犯罪(殺人・強盗・強姦・放火)は、昭和35年ごろのほうが現在に比して数倍深刻です。

 「心の教育」を推進すべき人たちは、結局のところ人々の心と現在を生きる青少年をイデオロギー化しているに過ぎないのです。彼らにとって青少年とは単なる人気取りの道具に過ぎない。そして俗流若者論の蔓延により、青少年をイデオロギー化する傾向が高まり、政治がそれと結託すると、青少年に対する敵愾心を煽ることがそのまま政治的な人気の高さになる。政治から実態としての青少年が消えるとき、我々は政治に何を見出すのか。青少年の意見を代弁する政治家よ現れよ、とは私は言わない。「青少年の意見」なるものを代弁できる人などいない。しかし、せめて「今時の若者」を冷静に見ることのできるような政治家は、ぜひとも現れて欲しい。

 お知らせ。まず、ブログで以下の文章を公開しました。

 「正高信男という斜陽」(7月25日)
 「俗流若者論ケースファイル39・川村克兵&平岡妙子」(7月27日)
 「俗流若者論ケースファイル40・竹花豊」(7月29日)
 「俗流若者論ケースファイル41・朝日新聞社説」(7月30日)
 「統計学の常識、やってTRY!第4回&俗流若者論ケースファイル42・弘兼憲史」(同上)
 「俗流若者論ケースファイル43・奥田祥子&高畑基宏」(8月2日)
 「俗流若者論ケースファイル44・藤原正彦」(8月5日)
 「俗流若者論ケースファイル45・松沢成文」(8月6日)

 また、bk1で以下の書評を公開しました。

 正高信男『考えないヒト』中公新書、2005年7月
 title:俗流若者論スタディーズVol.4 ~これは科学に対する侮辱である~
 岡留安則『『噂の眞相』25年戦記』集英社新書、2005年1月
 title:雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケズ
 斎藤美奈子『誤読日記』朝日新聞社、2005年7月
 title:皮肉に満ちた「書評欄の裏番組」
 赤川学『子どもが減って何が悪いか!』ちくま新書、2004年12月
 title:少子化を「イデオロギー」にするな
 二神能基『希望のニート』東洋経済新報社、2005年7月
 title:「希望」としての若年無業者問題

 さて、前から喧伝していた夏休み特別企画を次回更新からスタートします。企画の内容は、「俗流若者論大賞・月刊誌部門」です。要するに、平成12年から平成15年にかけて、月刊誌で発表された俗流若者論の中でも、特にひどいものに関する論評です。

 対象となる雑誌:文藝春秋、諸君!(以上、文藝春秋)、中央公論(中央公論新社)、現代(講談社)、世界(岩波書店)、論座(朝日新聞社)、正論(産経新聞社)、Voice(PHP研究所)、潮(潮出版社)、新潮45(新潮社)

 今日、以上の全ての雑誌のチェックが終わったのですが、平成12年・13年は大豊作(笑)でした。逆に平成14年は不作だった。厳選した結果、グランプリと準グランプリは以下の通りに決定しました。

 ・グランプリ
 平成12年
 「文藝春秋」平成12年11月号特集「「なぜ人を殺してはいけないのか」と子供に聞かれたら」、文藝春秋

 平成13年
 小林道雄「少年事件への視点」第3回・4回=「世界」2001年2・3月号、岩波書店
 小林道雄「Q49.少年犯罪」=「世界」2001年4月増刊号、岩波書店

 平成14年
 該当作なし

 平成15年
 山藤章二(編)「山藤章二の「ぼけせん町内会」いろは歌留多」=「現代」2004年1月号、講談社

 ・準グランプリ
 平成12年
 石堂淑朗「こんな「十七歳」に誰がした」=「新潮45」2000年6月号、新潮社
 武田徹「プログラム人間に「心」を」=「Voice」2000年11月号、PHP研究所
 澤口俊之「若者の「脳」は狂っている――脳科学が教える「正しい子育て」」=「新潮45」2001年1月号、新潮社
 長谷川潤「「ワガママ・テロル」の時代が始まった」=「正論」2000年7月号、産経新聞社
 工藤雪枝「平成“美顔男”たちへの憂鬱」=「正論」2000年9月号、産経新聞社
 工藤雪枝「ミーイズム日本の迷走」=「中央公論」2000年10月号、中央公論新社

 平成13年
 澤口俊之「「スポック博士」で育った子はヘンだ」=「諸君!」2001年8月号、文藝春秋
 ビートたけし「バカ母世代」=「身長45」2001年4月号、新潮社
 佐藤貴彦「残虐なのは誰か?」=「正論」2001年4月号、産経新聞社
 佐々木知子、町沢静夫、杢尾堯「検挙率はなぜ急落したのか」=「中央公論」2001年7月号、中央公論新社
 花村萬月、大和田伸也、鬼澤慶一「電車で殴り殺されないために」=「文藝春秋」2001年7月号、文藝春秋
 遠藤維大「自傷行為「リスカ」と日教組」=「正論」2001年9月号、産経新聞社
 片岡直樹「テレビを観ると子どもがしゃべれなくなる」=「新潮45」2001年11月号、新潮社
 清水義範「あたり前が崩れている恐ろしさを考える」=「現代」2001年11月号、講談社
 林真理子「この国の子どもたちは」=「文藝春秋」2001年12月号、文藝春秋

 平成14年
 「諸君!」平成14年2月号特集「日本を覆う「怪しい言葉」群22」から、林道義「子どもの自己決定権」、文藝春秋
 正高信男「日本語の「乱れ」とルーズソックス」=「文藝春秋」2002年9月臨時増刊号、文藝春秋
 田村知則「警告!子どもの「眼」がおかしい」=「新潮45」2002年10月号、新潮社
 野田正彰「「心の教育」が学校を押しつぶす」=「世界」2002年10月号、岩波書店

 平成15年
 藤原正彦「数学者の国語教育絶対論」=「文藝春秋」2003年3月号、文藝春秋
 和田秀樹「日本はメランコの中流社会に回帰せよ」=「中央公論」2003年6月号、中央公論新社
 清川輝基「“メディア漬け”と子どもの危機」=「世界」2003年7月号、岩波書店
 香山リカ、テッサ・モーリス=スズキ「「ニッポン大好き」のゆくえ」=「論座」2003年9月号、朝日新聞社
 小林ゆうこ「「母子密着」男の子が危ない」=「新潮45」2003年10月号、新潮社
 中村和彦「育ちを奪われた子どもたち」(聞き手:瀧井宏臣)=「世界」2003年11月号、岩波書店

 以上の記事を次回から論評します。ちなみに同じ著者のものは一つの論文にまとめて検証します。平成14年準グランプリの正高信男氏の記事は、この企画とは別のところ(正高信男批判の企画で検証します)で検証しますので、夏休み特別企画は「俗流若者論ケースファイル」25連発(!)になります。なお、論評の順番に関しては、まず各年の準グランプリを一通り検証したあと、最後に各年のグランプリを検証します。

 ちなみに、石堂淑朗氏の連載「平成餓鬼草子」(「正論」)は、相変わらず俗流若者論連発でしたが、別のところで検証するので採り上げませんでした。また、「世界」で連載されていた、瀧井宏臣氏の「こどもたちのライフハザード」も問題が大きかったのですが、これも既に書籍化されているので、そちらを批判するときに検証します(ただし書籍版では、事実上連載の最終回となる中村和彦氏へのインタヴューが掲載されていないので、こちらで採り上げました)。

 そういえば次回の更新でもって丁度このブログの100本目の記事になるので、このブログの新たなるスタートを飾るにふさわしい企画になるように極力努力します。

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2005年8月 6日 (土)

俗流若者論ケースファイル45・松沢成文

 また頭が痛くなってきそうだ。

 ゲーム規制を推し進める神奈川県知事の松沢成文氏が、平成17年8月3日付朝日新聞の「私の視点」欄に、「ゲームソフト 有害図書指定の輪を全国に」なる文章を寄せている。はっきりいってこの文章は、松沢氏のブログに寄せられた多数の批判にまったく答えていない。結局のところ、いつもどおりの論理飛躍とトートロジーを繰り返しているだけである。

 松沢氏はこのコラムの3段目において、《ゲームを有害図書に指定した、この先駆的な取り組みは、大きな反響を呼び、多くの意見が寄せられている》(松沢成文[2005]、以下、断りがないなら同様)と松沢氏が書いている。ここで《先駆的》という言葉を使って、いかに松沢氏が自分の行動が正しいことであるか、ということを証明したいかのようだ。しかしこのような松沢氏の行為は、はっきり言って基礎から腐っている、としか言いようがない。それに関しては、松沢氏の文章を検証する過程で明らかにすることにしよう。

 松沢氏は4段目において《その大半は批判的なものだ》と書いている。ならばそれらの批判に答えてくれるのか、と思ったが、冒頭で述べたとおり、答えていない。松沢氏はこの直後で《青少年の健全育成のために、はんらんする情報をどのように扱ったらよいのか。奥深い課題であり、これを機会に大いに議論をし、対策を考えるべきだ》と書いているのだが、果たして《健全育成》とはなんなのだろうか。松沢氏の議論に従えば、子供を「有害」な情報のない環境に置けば子供たちは健全に育成される、と考えているのだろうが、それは青少年の健全育成なる美辞麗句を楯に取った言論統制ではないか。

 私が笑ったのは以下の文章だ。5段目から6段目である。

 このゲーム(筆者注:神奈川県が「有害図書」としている米国のゲームソフト「グランド・セフト・オート3」。以下、「GTA3」と表記)の主人公はプレーヤー自身である。つまり、たとえ仮想空間だとはいえ、ゲームを操作する青少年が、こうした殺傷に主体的にかかわるのだ。精巧な技術開発によりリアリティーが増した画面に向かい、プレーヤーが一人で仮想経験を繰り返す。

 こうした体験を続けることが、青少年にどのような影響を与えるのか。私は、ゲームソフトには、自らが操作するという特徴があるが故に、雑誌やビデオと比べ青少年への心理的影響はかえって深刻であり、対策は急を要すると考える。

 青少年の健全育成に向けた取り組みは、社会全体の責務である。保護者の方々は、これを機会にゲームソフトに対する関心を高めていただきたい。……

 笑いを取っているのだろうか。もし松沢氏がそのようなつもりで書いていないのであれば、これは相当に深刻な問題である。松沢氏は《たとえ仮想空間だとは言え、ゲームを操作する青少年が、こうした殺傷に主体的にかかわるのだ》といっている。松沢氏は、故にこのようなゲームが青少年に悪影響を与え、そして青少年が凶悪犯罪に走る、と考えているようだ。

 世の中の青少年諸君、松沢氏に怒りをぶつけるべきだろう。要するに松沢氏の考える青少年、そしてゲーム規制に賛成する人たちの考える青少年は、悪い意味で極めて無垢な存在、すなわち「有害な」ゲームソフトなどによって、この世において暴力が正当化されている、と思いこむ存在である。もちろん、このような青少年などごく少数であろう。限りなくゼロに近いかもしれない。私が理解してもらいたいのは松沢氏をはじめとする規制論者の青少年認識、すなわち彼らが青少年を前に述べた存在であると見なしていることの残酷さである。

 松沢氏よ、あなたが県知事として責任ある立場に立っているのであれば、まず多くの論理的な批判、例えば少年による凶悪犯罪は減少しているとか、「ゲームの悪影響」が科学的に証明された例はない、とかいうことに対する反論をまず書くべきだろう。相変わらず松沢氏が「自分が悪影響があるといっているから規制する」という態度を貫くのであれば、まず松沢氏は禊を行なうべきである。

 そもそもこの規制自体が怪しいのである。朝日新聞記者の中上貴博氏によると、このGTA3の「有害図書」規定の内容は以下のようなものだったようだ。

 そこで、県が編み出した要件は「殺傷または暴力の対象が現存の生命体と認められる」「手段が現実に取り得る」「場面設定が限りなく現実の社会に近い」の三つ。殺す相手がゾンビではなく人、殺す場所が地下要塞(ようさい)ではなく町や路上という具合だ。

 有害図書類の指定の答申を決めた30日の県児童福祉審議会社会環境部会では、ゲームの録画が上映され、「親としては子どもに見せたくない」などの意見が出された後、出席した6人の委員全員が「規制が必要」と結論づけた。審議はわずか1時間で終わった。

 傍聴者から会合後に「暴力的な映像だけ見せたのでは、誰だって反対する。『まず指定ありき』という感じだった」などと不満も漏れた。(中上貴博[2005])

 壮大な茶番劇、というほかない。しかも、毎日新聞社が発行しているアニメ・ゲーム・漫画専門の無料タブロイド紙「MANTANBROAD」平成17年6月号の、この「有害図書」規制を取り扱った特集記事において、毎日新聞記者の河村成浩氏が、この映像審査に用いられた審査映像の長さが10分という短さだったと報じている(河村成浩[2005]。河村氏も中上氏と同様、この審査の時間がわずか1時間だったことに触れている)。もう一つ、河村氏の記事であるが、神奈川県の青少年課副課長の林敬人氏は、《表現の自由はもちろん重視しているが、公共の福祉も重要だ。GTA3はあまりにも現実に近すぎるし、県民の指摘もあり、見過ごすことはできない》(河村成浩[2005])と言っているようだ。ならば林氏に問いたい、世の中には殺人事件を取り扱ったテレビドラマ(もちろん実写)がたくさんあるけれども、それに関してはどのように考えているのだろうか。また、我が国において、報道で報じられた内容を模倣して行なわれた事件は、はっきり言ってゲームを模倣したものよりも多い、少なくとも報道される範囲では(ただ、報道に触発された犯罪に比して、ゲームに触発された犯罪のほうが数倍センセーショナルに報じられるので、注意して読まないとわからないが)。

 河村氏の記事では「松文館裁判」(出版社である松文館の発行した青年コミックが刑法のわいせつ罪に問われた事件。この裁判には、国会議員の平沢勝栄氏が大きく関わっている。詳しくは長岡義幸[2004]を参照されたし)の被告側(出版社側)主任弁護人である山口貴士氏がコメントを寄せている。曰く、

 ゲームが青少年の暴力的行動を誘発するという明確な根拠がないままに、規制だけを強化する動きが理解できない。一部分にだけスポットをあてて、青少年を取り巻く環境に目が届いていないのでは。規制をして効果があるかどうかも疑問だ。だがゲームに限らず有害図書などの規制の流れは全国的に進んでおり、今回の事例が前例となって第2、第3のケースが生じることもあるだろう。(河村成浩[2005])

 山口氏の危惧は現実になりつつある。というのも、河村氏の記事では、東京都の石原慎太郎知事が今年3月の定例議会で松沢氏の方針に賛同したことが書かれている(もとより石原氏は最近「文藝春秋」で発表している俗流若者論において、ゲームは有害である、ということを書き散らしている。石原慎太郎[2005]、石原慎太郎、養老孟司[2005]を参照されたし)。また、愛知県や大阪府においても同様の規制が敷かれるようだ。

 さらに松沢氏は、このように書いている。

 今回の指定の効果は、現状では県内にしか及ばない。そのため、先日、全国知事会議の機会をとらえて、各都道府県に有害図書への共通理解を検討するようお願いした。

 そして、松沢氏のブログでは、この全国知事会議において、宮城県の浅野史郎知事(!)が松沢氏の要請に答え、具体的な検討に入ることが表明されたという。松沢氏の所論には、福岡県知事で知事会の会長である麻生渡氏も賛同していたそうだ。

 もはや全国的な規制の動きをとめることはできないのだろうか。しかし松沢氏の規制策動を批判する我々も、ひとり松沢氏のみを批判するだけでは、同様の動きをとめることはできないだろう。なぜならこのような規制論の根底には俗流若者論が付きまとっているからである。要するに、「今時の若者」は自分とは違う社会環境で育ったから「異常」になったのだ、ということで、そこでもっぱら槍玉に上げられるのがゲーム、漫画、テレビ、携帯電話、インターネットである。ここではまさにゲームが槍玉に上がっている。だから我々は、松沢氏の立論が以下に歪んでいるものであるかを衝くと同時に、巷に流布している「今時の若者」のイメージの虚構性もまた衝かなければならない。このゲーム規制の件は、行政が俗流若者論に屈服した例として私は見ている。

 参考文献・資料
 石原慎太郎[2005]
 石原慎太郎「仮想と虚妄の時代」=「文藝春秋」2005年5月号、文藝春秋
 石原慎太郎、養老孟司[2005]
 石原慎太郎、養老孟司「子供は脳からおかしくなった」=「文藝春秋」2005年8月号、文藝春秋
 河村成浩[2005]
 河村成浩「「残虐」とゲームが有害図書に 神奈川県、条例で指定」=「MANTANBROAD」2005年6月号、毎日新聞社
 長岡義幸[2004]
 長岡義幸『「わいせつコミック」裁判』道出版、2004年1月
 中上貴博[2005]
 中上貴博「県、「残虐ゲーム」を有害図書指定へ」=2005年6月1日付朝日新聞神奈川県版(この記事は朝日新聞社ウェブサイトの文章を基にしています)
 松沢成文[2005]
 松沢成文「ゲームソフト 有害図書指定の輪を全国に」=2005年8月3日付朝日新聞

 斎藤環『「負けた」教の信者たち』中公新書ラクレ、2005年4月
 ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』岩波文庫、上下巻、1987年2月

 酒井隆史「「世間」の膨張によって扇動されるパニック」=「論座」2005年9月号、朝日新聞社
 杉田敦「「彼ら」とは違う「私たち」――統一地方選の民意を考える」=「世界」2003年6月号、岩波書店

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 関連記事
 「俗流若者論ケースファイル11・石原慎太郎
 「俗流若者論ケースファイル12・松沢成文
 「俗流若者論ケースファイル34・石原慎太郎&養老孟司

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2005年8月 2日 (火)

俗流若者論ケースファイル43・奥田祥子&高畑基宏

 前回は「統計学の常識やってTRY」と「俗流若者論ケースファイル」の2つの企画を合併させる、という離れ業を行なってしまった。そのときに私は、読売新聞が行なった「就職観」に関する社会調査と、それについての漫画家の弘兼憲史氏のコメントを批判したのだけれども、今回批判するのもまた読売新聞社系のメディアの若年無業者バッシングである。記事は、「Yomiuri Weekly」平成17年8月14日号の「ニート家庭「凄絶」白書」で、執筆者は同誌編集部の奥田祥子氏と高畑基宏氏。そういえば高畑氏は同誌平成17年7月24日号でも「狂いだした日本人の“体感距離”」なる俗流若者論を書いていた。それはさておき、今回の記事も、また若年無業者となる若年層を不当にバッシングする内容である。この記事を、そのまま「ニート報道「凄絶」白書」として紹介したいくらいである。

 この記事のリード文には、以下の通り書かれている。この文章に、この記事の執筆姿勢と問題点が集約されていると言ってもいいだろう。

 「親思う心にまさる親心」とは、よく言ったもの。子どもの行く末を案じる親の庇護の下に、いまやニート、フリーター300万人。働かない若者についてはこれまで、年金財政や経済への悪影響ばかりが論じられもっぱら子どのも就職支援のあり方に関心が向けられてきた。だが、そうした自立しない子どもを持った家庭がどれほど過酷かは、あまり知られていない。憂慮すべきは、共倒れの危機にさらされる親たちなのだ。(奥田祥子、高畑基宏[2005]、以下、断りがないなら同様)

 はっきり言って、この記事に書かれていることはこの5行に書かれた内容だけで終わるのである。要するに、いかに若年無業者が親に迷惑をかけているか、ということを喧伝し、そいつらを家からつまみ出すことこそが親にとって楽になる最大の道なのだ、というもの。それが延々8ページ。結局のところ、この記事は「親の視点」なるものから若年無業者を頭ごなしに叱りつける「だけ」の記事なのだ。そんなことが無意味なのは、とっくの昔に玄田有史氏や小杉礼子氏が指摘しているのに!

 少々筆が滑ってしまったけれども、もう一つ指摘しておくと、特に「ひきこもり」と親和性の強い性格を持つ若年無業者に関して言うことができることなのだが、このような物言いは帰って若年無業者を追い込んでしまうということになりかねない。もう一つ奥田氏と高畑氏が無視していることは、結局のところ現在の雇用情勢が厳しい故に若年無業者にならざるを獲ない人も中には少なからずいる、ということ。この記事の執筆者や、ここで引かれている自称「識者」がいくら理想論を述べたといっても、果たして現実が彼らの理想をかなえてくれるほどのものか。彼らが「とにかく就職活動しろ、それでも駄目なら帰って来い」と考えているならこの問いかけは無意味なのだが、この記事の執筆者や自称「識者」がそのように考えている節は見当たらない。

 さらにこのリード文に突っ込みを入れさせてもらうが、《いまやニート、フリーター300万人》と書いているけれども、若年無業者とフリーターを混同するな。このように書くことによって、フリーターも若年無業者も親の甘やかしから生まれた、だからこいつらをどうにかするには親が権威を持たなければならない、という暴論が生まれてしまうのだろう。この記事が「ニート報道「凄絶」白書」として読める、と私が言う所以である。

 結局のところこの記事は、若年無業者をリスクとしてしか見なさない人たちの理想論ばかりの記事であることに疑いはない。内容に関しては、シャレではないが内容がないので、深く触れることはしない。ついでに言うと、写真の使い方も極めて恣意的。

 それでも少々触れることにするが、例えば、ここで引かれている、若年無業者問題に関する団体が、「子どもにかけるお金を考える会」(畠中雅子代表)だけだ。例えば「ニュースタート事務局」(二神能基代表)などのほかの民間団体や、自治体の試みなどには触れられていない。

 執筆中に資料を読み返しているときに思いついた仮説なのだが、フリーターや若年無業者を単にリスクとしてのみ扱い、彼らを家から追い出せ、という暴論は、もしかしたら自分の子供と積極的に向かい合うことを拒絶する親の論理なのではないか、と思ってしまった。要するに、フリーターや若年無業者をリスクとして見なすことで、彼らに対する長期的な支援という選択を拒絶し、突き放すことによって「安心」する、という考え方である。もちろん、このような考え方が存在しうることは大いに認めるけれども、しかしこのような考え方で果たして若年無業者問題が解決するか。正直、解決しないのではないか、というのが私の考えだ。

 この記事において、評論家の吉武輝子氏が、《子どもというのは、親の期待や夢を一つひとつ裏切りながら、親元を巣立っていくものなのです》と発言している。さて、親の期待や夢を裏切らせないことこそ至上という価値観を振りまいてきたのは誰でしょう?

 我が国において、ここ10年ほど、自分の子どもに関する「リスク」が喧伝されてきた。犯罪を起こさないか、非行に走らないか、学力が低下しないか、「ひきこもり」にならないか、オタクにならないか、フリーターにならないか、あるいは髪の色を染めないか、奇抜な服装をしないか…。「子供がこうなったら注意しろ」という言説は、いまや巷に溢れている。そして最近になって加わったのが、自分の子どもがニートにならないか、というものだ。すなわち、若年無業者というのは、親にとって「させてはいけない」ものなのである。だから親は腫れ物を扱うように我が子を扱うようになる。当然の如く、それの旗を振ったのがマスコミである。故に「ゲーム脳」とか「ケータイを持ったサル」という疑似科学の網が張り巡らされ、若年層に関する調査であれば、たとえ調査方法や設問に問題のあるものだとしても(詳しくは、このブログの連載シリーズ「統計学の常識やってTRY」を参照されたし)「今時の若者」の世代的病理を示す調査としてその問題点の検証抜きに報じられる。小学校で「愛国心」を評価する通知表が表れるほどだ(山田明宏[2003])。このような状況を作っている張本人としてのマスコミが、なぜ今になって親の甘やかしがフリーターや若年無業者をつくる、などと喧伝しているのか。これをマッチポンプとは言わないか。読売はNHK問題における朝日新聞の対応を笑えるのか。

 読売の記事は、このような言説がかえって自分の子供に対する、さらには子供・若年層全体に対する敵愾心を高め、それが自分の子供さらには子供・若年層全体を「虎の子」というよりも腫れ物として扱う状況を加熱させる、という逆説に極めて無頓着だ。河北新報か何かで平成16年1月15日付の朝日新聞で、たぶん高校生あたりが「矛盾する大人の言葉「夢を持て」 持ったところで「現実を見ろ」」といった秀逸な短歌を書いた、というものを読んだことがあるが紹介されていたけれども(平成16年8月6日訂正)、この短歌は、巷に溢れる俗流若者論の問題点をもっとも端的に表している(特にそれがこの記事においてよく表れているのが、東京学芸大学教授の山田昌弘氏の発言。《もしわが子が過大な夢を追い続けているような場合は、夢から覚めさせることが必要です。現実に目を向けさせ、就業意欲を起こさせ、仕事につくことができたら、しっかり突き放す、という手段です》と。「希望格差社会」理論はどこに消えた)。もう一つ言うと、この記事は親に過剰に求めすぎ。すくな事もこの記事の執筆者には、親と子供の精神の歪みが若年無業者問題を生み出す、ということが間違いであることを学んで欲しいものだ。こんな愚痴だらけの記事を書いている暇があれば、もっと自治体や民間団体の取り組みを紹介するべきだ。

 でも敵愾心を高めるだけ高めれば、それなりに効果があるかもしれない。そうすれば、「善良な大人」たちが彼らだけでゲーテッド・コミュニティ(閉鎖的共同体)を作り出し、子供はゲットーに押し込められ、彼らは彼らだけで悠々自適な生活を送ることができるのだから。ゲットーの中の子供たちは飢えに苦しむが、彼らにとってもっとも大事なのは子供ではなく自分なのだから、別に子供が苦しんでいても我関せずだろう。

 などと書いていたら、またもや「政治的に」利用されそうな言葉を見つけてしまった。エコノミストの木村剛氏のブログで、「フィナンシャルジャパン」平成17年7月号の、マーケティングコンサルタントの西川りゅうじん氏が書いた「NEETより厄介なTEET」なる記事が紹介されている。西川氏によると、《TEET》(木村剛氏のブログの平成17年7月31日のエントリーから、これ意向は断りがないなら同様)の定義は《Tentatively in Education, Employment or Training の略で、Tentatively(一応、とりあえず)、学び、働き、職業訓練している人たちだ。どの企業でもこの「TEET」に手を焼いている。どこに行っても常に腰掛け意識の、言わば“NEET以上プロ未満”の連中》なんだそうな。で、この記事において、西川氏はこの人たちのことを以下のように書いている。私はこれを読んでのけぞった。

 そんな「TEET」の口癖は「こんなはずじゃなかった」である。やるべきことをやらずにやりたいことだけをやって生きて行けると勘違いしている、飽きっぽく打たれ弱い夢見る夢子ちゃんだ。簡単に言えば、子供なのである。子供の心を持った大人ではなく大人の外見をした子供。暦の上の年令は大人でも精神年令は子供のまま。私の別の造語で言えば、“こどものおとな”を略して「ことな」である。

 こういった「ことな」に振り回されてはたまったものではない。「ことな」が入って来ない、「ことな」をのさばらせない、企業文化を育んで行くより他に方策はない。

 若年就業問題に関する新しい問題が発生、とでも西川氏は言いたいのだろうか。しかし西川氏よ、あなたも責任ある言論人であるならば、徒に珍奇な概念を乱造しない、というのが良心であり、もし提唱したいのであれば、まずデータをそろえるべきだろう。安易に自分の矮小な経験を勝手に天下国家の問題として取り上げてはならない。結局のところ、この言葉は単なる「酒場の愚痴」から生まれたもので、その意味では「ニート」という言葉よりも厄介なものである。いくらマーケティングが大事だからといっても、言論にかかわるものとしてはそればかりではいけない、ということを自覚すべきだろう。このような言説を濫造する西川氏こそ《暦の上の年令は大人でも精神年令は子供のまま。私の別の造語で言えば、“こどものおとな”を略して「ことな」である》。

 それにしても、どうして俗流若者論の責任が問われることがないのだろうか。

 参考文献・資料
 奥田祥子、高畑基宏[2005]
 奥田祥子、高畑基宏「ニート家庭「凄絶」白書」=「Yomiuri Weekly」2005年8月14日号、読売新聞社
 山田明宏[2003]
 山田明宏「通知表で評価する小学校」=「論座」2003年9月号、朝日新聞社

 斎藤環『「負けた」教の信者たち』中公新書ラクレ、2005年4月
 二神能基『希望のニート』東洋経済新報社、2005年6月

 杉田敦「「彼ら」とは違う「私たち」――統一地方選の民意を考える」=「世界」2003年6月号、岩波書店

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2005年7月30日 (土)

統計学の常識、やってTRY!第4回&俗流若者論ケースファイル42・弘兼憲史

 ブログ開設当初からあった企画「統計学の常識やってTRY」が5ヶ月以上も休んでしまっていたのは、ひとえに採り上げるようなネタがなかったからに過ぎない。本来ならそれが望ましいのであるが、平成17年7月28日付の読売新聞に掲載された、読売新聞社による「勤労観」に関する全国調査は、新聞社がここまで若年層たたきを目的とする調査をやっていいのか、と思い、さらにそこでは漫画家の弘兼憲史氏と慶応義塾大学教授の樋口美雄氏のコメントが引かれていたのだが、弘兼氏のコメントがまさに俗流若者論だったので、「統計学の常識やってTRY」と「俗流若者論ケースファイル」を合併して検証する次第である。

 まず読売新聞の調査から入ろう。この調査は有効回収数が1825人で、実施方法が個別訪問面接聴取法である。回答者の内訳が、男女別で言うと男48%、女52%。世代別では20歳代11%、30歳代16%、40歳代15%、50歳代22%、60歳代22%、70歳以上が14%。サンプリングの面ではまずクリアしているといってもいいだろう。問題は設問だ。下の設問を見て欲しい。(カッコ内は回答率、単位は%)

 第2問:あなたは、こうした「ニート」と呼ばれる若者が増えている原因は何だと思いますか。次の中から、あれば、いくつでもあげて下さい。

 ・雇用情勢が厳しいから(41.5)
 ・親が甘やかしているから(54.5)
 ・学校などで働くことの大切さを教えていないから(26.0)
 ・義務感や責任感のない若者が増えているから(50.4)
 ・社会とのつながりを広げようとしない若者が増えているから(28.8)
 ・人間関係をうまく築けない若者が増えているから(49.8)
 ・仕事をえり好みする若者が増えているから(29.9)
 ・その他(2.1)
 ・とくにない(1.0)
 ・答えない(0.9)

 第3問:決まった職業に就かず、多少収入は不安定でも、好きなときだけアルバイトなどをして生活する「フリーター」と呼ばれている若者も増えています。あなたは、こうしたフリーターやニートと呼ばれる若者が今後さらに増えていくと、日本の社会にどんな影響があると思いますか。次の中から、あれば、いくつでもあげて下さい。

 ・税収が減り、国や自治体の財政が悪化する(57.8)
 ・将来、生活保護を受ける人が増え、国や自治体の財政が悪化する(39.0)
 ・年金や医療などの保険料収入が減り、社会保障制度が揺らぐ(57.2)
 ・収入が不安定で結婚できない人が増え、少子化が進む(37.5)
 ・収入が不安定な人が増え、金欲しさの犯罪が起こりやすくなる(45.4)
 ・社会全体の勤労観や価値観がゆがむ(37.4)
 ・その他(0.3)
 ・とくにない(2.1)
 ・答えない(0.8)

 この調査の底流に強く流れているのは、明らかにフリーターや若年無業者の問題をリスクとしてしか見なさない考え、特に若年無業者に関しては「今時の若者」の問題としてしか考えてないことである。まず第2問、若年無業者に関する質問であるが、「その他」「とくにない」を除く選択肢7つのうち5つも「……若者が増えているから」という選択肢なのだ。これに「親が甘やかしているから」という選択肢も加えれば、まさに選択肢7つのうち6つが「今時の若者」の精神の問題としての若年無業者問題を選択させていることになる。このような俗流若者論御用達の論理を平然として選択肢に陳列させる読売の調査の設計者は、本気で若年無業者問題に取り組んでいこう、という態度があるのだろうか。所詮は他人事としてしか考えていない設計者、そして回答者の顔が浮かんでくる。だが、実際には若年無業者の問題が社会階層とは無関係でないことが東京大学助教授の玄田有史氏や「労働政策研究・研修機構」副統括研究員の小杉礼子氏によって実証されている。フリーターに関しても、東京大学助教授の本田由紀氏が、《学校経由の就職》(本田由紀[2005])の衰退が大きな原因になっている、ということを述べている。フリーターや若年無業者の問題は、社会構造の問題ともまた切り離せない問題であるのに、読売の調査の設計者はその点をほとんど覆い隠している。

 第3問に関しては、なぜそのような問いかけをするのか、ということばかりである。もちろんこの設問で描かれていることは、フリーターや若年無業者という「今時の若者」が国を滅ぼす、というストーリイである。例えば《税収が減り、国や自治体の財政が悪化する》(2005年7月28日付読売新聞、以下、断りがないなら同様)のが問題というのであれば、なぜ公共事業のスリム化とか、人口減少社会に対応した財政運用の設計を考えないのだろうか。その点の議論については、千葉大学助教授の広井良典氏や(広井良典[2001])、政策研究大学院大学教授の松谷明彦氏(松谷明彦[2004])に譲ることとするが、少なくともフリーターや若年無業者の増加をリスクとしてしか見なさない思考からいい加減脱却するべきである。

 それにしても《収入が不安定で結婚できない人が増え、少子化が進む》よりも《収入が不安定な人が増え、金欲しさの犯罪が起こりやすくなる》が多く、《社会全体の勤労観や価値観がゆがむ》も前者に迫る、という調査結果に、私は愕然としてしまった。

 結局のところ、この調査はいかに社会がフリーターと若年無業者に関して貧困な意識しか持ち合わせていない、ということを如実に表している。しかもこの調査が、意図的にフリーターや若年無業者を問題として捉えさせるように設計されている――いや、実際に問題なのだが、しかし問題は読売の記者が想定することの彼岸にある。この調査は、むしろ読売をはじめとするマスコミがいかに若年就業の問題に関して貧困なイメージばかり垂れ流し続けてきたか、ということを示す反省材料にすべきであろう。

 しかし、この記事の問題点はここでは終わらない。ここからはこの記事における、漫画家の弘兼憲史氏の発言の検証だ。最初に言っておくけれども、ここで発言しているもう一人の専門家、慶応義塾大学教授の樋口美雄氏の発言はそれなりに分析的で、安易なバッシングに走ろうとしないことは評価できる。だが、弘兼氏の発言は、あからさまに若年層を堕落した存在としてしか捉えていない、レヴェルの低いものだ。さすが「団塊のスター」とでも言うべきか(暴言で失礼!)。

 弘兼氏は、若年無業者の増加について、《日本が裕福になり、親が養ってくれるからだろう。恵まれた時代に育ち、自立するという自覚が若者にはないからだ。日本の今後を考えると極めて不安だ。子供に良い目を見させると、ろくなことはない》と語っている。あなたも経済に関する漫画を描いているのであれば、あるいは新聞に「専門家」として登場しているのであれば、少なくともテキスト化された俗流若者論以上のことは言うべきだろう。そもそも「自立」を至高として掲げるイデオロギーも、最近の低成長によって旗色が悪くなっているのだが、その点も弘兼氏は理解していないのか。例を挙げてみると、玄田有史氏によると、子供が親に「寄生」するという所謂「パラサイト・シングル」は、決して若年層が親からの既得権に甘えているのではなく、むしろ既得権を与えられた親に子供が依存している、という構造があるという(玄田有史[2001])。まったく、弘兼氏がこのような発言しかし得ないのは、弘兼氏が《裕福になり》、マスコミが《養ってくれるからだろう。恵まれた》メディア環境に《育ち》、テキスト化された俗流若者論異常の発言をするという《自覚が》弘兼氏には《ないからだ》。まったく、弘兼氏の《今後を考えると極めて不安だ》。

 しかし弘兼氏はこれでは終わらない。社会保障に関しても弘兼氏、《若者は世代間扶養の意識もなく、そもそも年金の仕組みなども知らないのではないか》などと知った顔で語っているのだから救いようがない。もう一度言うけれども、安易にテキスト化された俗流若者論に依拠して若年層をバッシングする弘兼氏に、コメンテーターとしての存在価値はもはやないだろう。少なくとも、ここまで断定できるのであれば、何かテキスト化された俗流若者論以上のことを語るべきである。

 しかし弘兼氏はまだまだ終わらない。弘兼氏は労働意欲の変容について《勤労観は高度成長期に比べ明らかに変わっている。歴史が示すように、国力が上向きのときはみんな一生懸命に働くが、いったん豊かになると勤勉でなくなる。上り坂の日本ではないからしようがない面もあるが、若い人たちはこのまま行くと、今の豊かさが失われるという危機感をもっと持つべきだ》とも語っている。弘兼氏のこの発言を読んでいる若年層がどれほどいるのだろうか。よほど熱心な若年層(=その人は就業に対するモチベーションが高く、この手の情報にはなんだって飛びつく)か、あるいは私のようなひねくれ者(=マスコミ御用達の自称「専門家」の発言を楽しむことに対するモチベーションが高く、この手の情報にはなんだって飛びつく)くらいではあるまいか。社会格差の反映に苦しんでいる若年層が、このような弘兼氏の無責任なコメントを読んでも、あまり効果は上がらないだろう。

 弘兼氏の如き高度経済成長礼賛の言説を読むたびに、私は以下のことを思い出す。東北地方に住んでいる人であれば、平成15年5月と7月に、宮城県を中心に大きな地震が起こったのはご存知であろう。そのとき、東北新幹線の一関~新花巻の間のコンクリート高架橋のコンクリートが剥離する、ということが起きた。また、これ以前にも、山陽新幹線のコンクリート高架橋が建造して10年もたたないうちに著しい劣化を示していた、という報告もある。東京大学名誉教授の小林一輔氏によると、これらの高架橋は高度経済成長期に建造されたものであり、その時期に打設されたコンクリートは容易に中性化したり、コンクリートの劣化を促す塩化物イオンが含まれている海砂を洗わないまま骨材として使っていたり、手抜き工事をしていたりと、杜撰なものばかりである(小林一輔[1999])。ついでに言うと、高度経済成長期において、少年による凶悪犯罪は現在の数倍起こっていた。ここで礼賛されている「勤勉さ」など、所詮は札束によって暗黒面が覆い隠された幻想に過ぎないのである(ちなみに、弘兼氏などが理想とする高度経済成長期にも現在のような問題が起こっていたことが、パオロ・マッツァリーノ[2004]で指摘されている)。

 もちろん現在の低成長の時代は、社会の抱える問題を経済成長で覆い隠すことができなくなり、社会環境も激変した故に、社会問題が現在において噴出しているように見えるようになった。弘兼氏は、そのような問題の根本的な原因を突き止めようとせずに、高度経済成長期の如き経済成長でまた問題を覆い隠せ、というものではないのか?そこまでは行かなくとも、いずれにせよ、弘兼氏の議論が高度経済成長期を理想とする考え方であることは間違いないようだ。

 しかし、高度経済成長期の如く、人々を経済成長という「目標」に向かって猪突猛進させることが現在において可能であろうか。我が国は長期停滞の期間を経ることによって、労働意識が成熟してきた、という見方もある。若年無業者の就業問題に深く関わってきた、「ニュースタート事務局」代表の二神能基氏は、現代の若年層の就業意識が「効率優先」から仕事そのものの中に喜びを見出したい、という考えに変わりつつある、ということを論じている(二神能基[2005])。このような意識の変容に、特に中高年を中心に避難が上がることは多いが、しかし、人口減少が間近に迫っている我が国において、経済成長を第一としない、人々の幸福を第一とする意識、あるいは多様な趣味の共存を認める意識が深まっていくのは、ある意味では良い影響も大きいと思う。もちろん効率優先で思いっきり儲ける人もいてもよく、その点においては収入の二極化が進行するのだが、しかしこの形での二極化を一概に否定することもできないかもしれない。エコノミストの森永卓郎氏が最近になってオタクを擁護しているのも、これと関わりがある(ただ、森永氏は少々叫びすぎだと思うが)。

 話を弘兼氏に戻すけれども、結局のところ弘兼氏の一連のコメントは、自分の生きてきた時代を理想として、若年層を精神的に劣ったものとして罵倒するというものに他ならず、社会的に責任のあるコメンテーターの発言としては無責任極まりないものであると断定できるだろう。弘兼氏の想像力は自らの自意識と図式化された「今時の若者」を超えることができず、それゆえに安易なバッシングに走っている。コメンテーターに求められるのは想像力とヴィジョンであると、改めて実感した次第である。

 ついでに弘兼氏と読売新聞に関して言うと、弘兼氏には立派な「前科」がある。今年5月から6月のある時期にかけて我が国を騒がせた「ガードレールの謎の金属片」騒動に関して、弘兼氏は、平成17年6月3日付の読売新聞において、《非常に卑劣で陰湿な事件だ。インターネットの掲示板などで呼びかけている愉快犯がいるのかもしれない。集団自殺のように見知らぬ者同士がある一つの目的のために同じ行動をとる妙な社会になってしまった》(2005年6月3日付読売新聞)などと放言している。しかし、その後に国土交通省の実験によって判明したことだが、これらの金属片は、自動車がガードレールにこすれたときに発生するものだとわかった。このことについて、弘兼氏はいかに思っているのだろうか。弘兼氏には、少なくとも1年はコメンテーターとしてマスコミに顔を出さないことを要求する。

 総括すると、読売のこの調査、そしてこの記事は、明らかに若年無業者やフリーターを問題視して、彼らをリスクとしてしか見なさないという発想に基づいている。社会構造の問題や、人口減少時代にふさわしい就業のヴィジョンを欠いて、ただ徒に彼らをバッシングするだけの記事にいかなる意味合いを持つことができるか。少なくとも短期的な若年層バッシングには役に立つかもしれないが、長期的にはむしろ害悪になる。ろくに歴史も調べもせず、問題に関して真剣にあたろうともせず、ただ「今時の若者」の問題としてしか取り組まないようでは、この記事に何らかの存在意義を求めるほうが難しいだろう。

 また、若年層に関するものに限らず、意識調査の類がなぜマスコミの検証材料にならないのだろうか。すなわち、ここで論じられている問題について、マスコミがいかに報じ、そしてそれが調査にどのように現れているか、ということである。この調査は、明らかに多くのマスコミが喧伝するフリーターや若年無業者に対するステレオタイプに基づかれて設計されているものであり、従ってマスコミの検証材料として読むにはある程度、この記事で触れられていないことを読み取る努力する必要がある。このような調査が新聞に掲載されること事態、新聞が自らの正当性を喧伝する目的で行なわれているのではないか、と疑わざるを得ない。

 いや、案外そうなのかもしれない。とすると、この記事が発表されることで最も喜んでいる人は、ひょっとしたら調査した人自身ではないか…。

 参考文献・資料
 玄田有史[2001]
 玄田有史『仕事のなかの曖昧な不安』中央公論新社、2001年10月
 小林一輔[1999]
 小林一輔『コンクリートが危ない』岩波新書、1999年5月
 広井良典[2001]
 広井良典『定常化社会』岩波新書、2001年6月
 二神能基[2005]
 二神能基『希望のニート』東洋経済新報社、2005年6月
 本田由紀[2005]
 本田由紀『若者と仕事』東京大学出版会、2005年4月
 パオロ・マッツァリーノ[2004]
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 松谷明彦[2004]
 松谷明彦『「人口減少経済」の新しい公式』日本経済新聞社、2004年5月

 五十嵐敬喜、小川明雄『「都市再生」を問う』岩波新書、2003年4月
 マックス・ヴェーバー、大塚久雄:訳『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波文庫、1989年1月
 谷岡一郎『「社会調査」のウソ』文春新書、2000年5月
 ロナルド・ドーア、石塚雅彦:訳『働くということ』中公新書、2005年4月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月

 太田匡彦「こんな親の子就職はムリ!」=「AERA」2004年2月9日号、朝日新聞社
 島耕作「団塊世代のトップランナー、大いに語る」(取材協力:弘兼憲史)=「現代」2005年4月号、講談社
 諸永裕司「一生ずっとフリーター可能なのか」=「AERA」2003年7月14日号、朝日新聞社

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2005年7月27日 (水)

俗流若者論ケースファイル39・川村克兵&平岡妙子

 前回に続き、今回も「AERA」の若年層右傾化論の怪しさについて述べようと思う。ただし、今回は憲法が絡んでいる。検証する記事は、同誌記者の川村克兵氏と平岡妙子氏による「若者「改憲ムード」の浮遊感」(平成17年5月2日・9日合併号に掲載)である。

 まず私の憲法に対する立場を述べさせてもらうと、私は「日本一消極的な護憲派」を自称している。というのも、そもそも現在の政治や言論に憲法について語るだけの覚悟があるのか、という点から、元来改憲やむなし、という立場の私も護憲派にならざるを得ないのが実情である。

 なぜか。それは、現在語られている憲法論の多くが俗流若者論であることだ。この連載の第30回第31回でも検証したことだけれども、特に改憲派による改憲論の中でもっとも勢いが強いのが、彼らの問題にしている(彼らが勝手に問題化している?)「今時の若者」は日本国憲法下の欺瞞の上で生まれたものであり、従って彼らに対するもっとも根本的な対策は憲法を改正することだ、という飛躍した論理が平然とまかり通っている。護憲派は護憲派で、彼らは「憲法を守れ」とひたすら叫ぶけれども、他方では「今時の若者」を改憲派と同じような口調で嘆く。要するに、「今時の若者」に対することでは左右の利害が対立していないから、憲法にかこつけた俗流若者論を批判できないのである。このままでは改憲論が俗流若者論に侵食されるのも当然といえようか。従って、(俗流若者論という名の排他的ナショナリズムをしつこく検証する立場としての)私は憲法に関しては「日本一消極的な護憲派」にならざるを得ないのである。

 「AERA」の記事の検証を始めよう。私がなぜ今回この記事を採り上げるのか、というと、ここで使われているコメントの多くがむしろ俗流若者論に依拠した改憲論にこそ当てはめるべきだ、と思うからである。もちろん、この記事で引かれている俗流若者論に依拠した「反改憲論」が図式化された「今時の若者」というイメージにのっとって作られたものだということは当然として批判の対象になるとしても、彼らの問題にしている「今時の若者」とほとんど同じようなこと、あるいはもっと過激なことを政治家や右派系の言論人が語っていたとしても、なぜ批判がそちらのほうに行かないのか、という疑問もまた私は抱いている。

 さて、それぞれの言説の検証に分け入っていくことにしよう。まず、88ページの1段目から4段目のライターの荷宮和子氏から。

 ……評論家の荷宮和子さんは、「決まっちゃったことはしょうがない」と考えるのが“団塊ジュニア気質”だと見る。理想なんて夢見ないし、わからない。だから、いまあることには筋を通しておきたい…。

 「改憲派が多いのは、みんなが改憲したほうがいいって言ってるみたいだし、という時代の空気を読み取っているだけですよ。深く考えていないんです」

 空気が読めない人が、いま、一番バカにされる。他人とまったく同じはイヤだけど、みんなと違うのはもっとイヤ。そんな心理を感じるというのだ。(川村克兵、平岡妙子[2005]、以下、断りがないなら同様)

 このような記述を見ていると、つくづく川村氏と平岡氏と荷宮氏が条件反射的にしか現代の若年層を語っていないことを考えさせられる。とりわけ荷宮氏は著書や文章の中では「空気」とか「時代」とか「世代」という言葉を多用するけれども、荷宮氏はそれらの語句の魅力的な感触に囚われすぎていて、結局単なる自意識の発露でしかない(すなわち護憲派であり(荷宮氏の妄想している)「空気」に流されない自分を礼賛している)文章を量産している、というのが荷宮氏の弱点である。もちろん、このコメントも同様だ。この点において《深く考えていない》のは荷宮氏のほうであろう。記事の筆者も、《空気が読めない人が、いま、一番バカにされる》と書いているけれども、少なくとも評論家の故・山本七平氏の『空気の研究』くらいは読んでいただきたいものだ。

 次はジャーナリストの斎藤貴男氏である。

 「自分に自信のない若者が多い」

 ジャーナリストの斎藤貴男さんはそう嘆く。

 社会のさまざまな場面で「格差」が広がり、就職できない若者も増えた。少し前まではアイデンティティーを会社に重ね合わせる人もいたけれど、いまや会社と一体感は持てなくなった。

 「何者にもなれない不安。自分探しをしても、何もない。アイデンティティーを感じられるのが『日本人である』ということしかなくなった。だから日本が強くあってもらわなきゃ嫌なんですよ」(88ページ4~5段目)

 ここまで断定されると、どうも引いてしまう。そもそもこの発言は俗流若者論に依拠した改憲論もさることながら、一部は斎藤氏自身にも降りかかってくるものもある。その部分とは、《アイデンティティーを感じられるのが『日本人である』ということしかなくなった。だから日本が強くあってもらわなきゃ嫌なんですよ》という部分がそれにあたる。私は斎藤氏が、かの曲学阿世の徒・京都大学霊長類研究所の正高信男氏の著書『ケータイを持ったサル』(中公新書)を、朝日新聞と著書『人を殺せと言われれば、殺すのか』(太陽企画出版)及び『安心のファシズム』(岩波新書)で絶賛しているのを見たことがあるのだが、その文章はどう見ても《アイデンティティーを感じられるのが『日本人である』ということ》であり《だから日本が強くあってもらわなきゃ嫌》というものであった。もちろんここでの《日本》は改憲派の妄想としての日本ではないけれども、しかし斎藤氏の「想い出の美化」に基づいた「日本」であることは間違いなかった。

 次は精神科医の斎藤環氏である。斎藤氏は護憲派であり、その理由として書かれている「護憲派最大のジレンマ」という論文(斎藤環[2005]に収録)はぜひともお勧めしたいのだが、この記事におけるコメントはいただけない。前回の社会学者の北田暁大氏に続き、斎藤氏(以下、特に断りがなければ「斎藤氏」と表記した場合は斎藤環氏を表すものとする)も信頼できる論者であるだけに、落胆してしまった。

 「憲法9条を守るには、ある種の思想が必要でしょう。でも、今、思想ぐらい若い人に忌み嫌われているものはない。『問題をうじうじ考えてるヤツはうざい』『何かを主張するヤツは痛い』と、生理的、脊髄反射的な嫌悪感。そもそも改憲というテーマへの関心は低く、どーでもいい。ならば、周りに『あいつ何かありそう』と怪しまれないほうが言いし、すでにある自衛隊を否定するような憲法ではなく、現状追認でわかりやすいほうがいい、となる。でも、国民投票になったら行かないと思う」(89ページ3~4段目)

 ひどい断定である。確かに《憲法9条を守るには、ある種の思想が必要》なのは痛いほど実感している(もちろん俗流若者論に対する反駁で)。しかし、私見によれば《今、思想ぐらい》俗流若者論に《忌み嫌われいているものはない》。《問題をうじうじ考えてるヤツはうざい》と考えているのは、むしろ俗流若者論に依拠する俗流論壇人ではないか。もちろん彼らのほうが《改憲というテーマへの関心は低く、どーでもいい》(蛇足だが、このような表記もどうにかならないものか)。若年層ばかりたたく言説は、その裏で進んでいる大きくて危険な動きを見落とす、というパターンの典型を見ているようである。

 映画作家の河瀬直美氏。

 みんな、実感を持って改憲を語っているのかな?ほんとにほんとに「自分ごと」として。去年生まれた長男の遺児苦をしていて思います。このあどけない笑顔を守りたい。でも、そんな想いとはかけ離れたところで、議論は繰り返されている気がする。(河瀬氏の発言については全て89ページ別枠)

 その通りである。おそらく現行憲法が改正されて我が国が軍隊を持つようになっても、国会議員の何人が自分の子供を軍隊に行かせるか。マイケル・ムーアの「華氏911」において、ムーアが国会議員に「自分の子どもをイラクに派兵しよう!」というビラを配るのと似た事態が起こって欲しくないものだ。川瀬氏は、若年層に上のような言葉を語るより先に国会議員に言ったほうがいいだろう。河瀬氏は《「憲法を変えれば何かが変わるかも」という若者が多いのでは》とも語っているけれども、それも若年層よりもむしろ国会議員と俗流右派論壇人である。また、《子どもに絡む犯罪が多発してきた背景には……》ともっともらしく語っているけれども、そのような犯罪は全体として減少している。

 作家の雨宮処凜氏。雨宮氏のコメント(90ページ別枠)は、前半部分は説得力がある。しかし最後の段落で唐突に若年層について触れるところはやはり若年層より先に国会議員に言うべき言葉だろう。

 若者が、強い改憲論を言う気持ちは分かる。私も特攻隊には憧れたし。国家に思いきり必要とされてみたい。普段は何の影響力も持たなくて、生きづらいから。まったく社会とつながっていないからこそ、「公」といいたがる。自衛軍を持ったらどうなるんだとか具体的ではない。考えてても、戦争で大活躍する自分とか、ほとんど妄想。国家を語ることで、鬱屈を発散しているんだと思いますよ。

 まさに俗流若者論にこそ当てはまる。それよりも、自分では戦争で出向かないくせに、顔も知らぬ若年層が戦争に出向くことで「国家」を妄想する人たちのほうが危険だと思うのだが。

 それぞれのコメントの検証はこれで終わりにしよう。しかしこの記事で引かれている全てのコメントが、若年層よりもむしろ国会議員に言ったほうがいいだろう、という類のものであった。

 どうして彼らは若年層ばかりを叩きたがるのだろうか。それについて詳しいことはあまりわからない。ただ一つだけ可能性があるとすれば、若年層の事を問題化した言説のほうが、国会議員の言説を検証した言説よりも売れる、ということか。しかし、若年層ばかりを問題化し、彼らの見ていない(あえて無視している)ところにおいてもっと大きな問題が進行していることを考えれば、徒に若年層ばかり叩いている状況ではないのである。

 彼らが若年層ばかり叩くのは、彼らが我が国の未来を左右するから、と考えているからではないだろうか。しかし、そのような考え方には一理あるとしても、かえってそのような考え方が、俗流若者論における無責任、すなわち現在の状況を無視して未来にばかり期待したがる、という欺瞞として表出することが往々にしてある。

 だから、この記事で展開されている若年層批判はかえって現在の状況に対する無関心を生み出す、とまではいかなくとも、少なくとも現在の状況に対する決定打とはなりえないのである。政治家たちの危険な言動を無視して、若年層ばかりに目を向けて、しかも益体のない、あるいは的はずれな「解説」ばかり生み出す、というのは、そのメディアはやはり政治に対する対抗意識を失っている、といわざるを得ない。

 目を覚ませ、「AERA」。今やるべきは、そのようなことではないはずだ。

 参考文献・資料
 川村克兵、平岡妙子[2005]
 川村克兵、平岡妙子「若者「改憲ムード」の浮遊感」=「AERA」2005年5月2・9日合併号、朝日新聞社
 斎藤環[2005]
 斎藤環『「負けた」教の信者たち』中公新書ラクレ、2005年4月

 鈴木謙介『カーニヴァル化する社会』講談社現代新書、2005年5月
 内藤朝雄『いじめの社会理論』柏書房、2001年7月
 山本七平『空気の研究』文春文庫、1983年10月

 杉田敦「「彼ら」とは違う「私たち」――統一地方選の民意を考える」=「世界」2003年6月号、岩波書店

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2005年7月23日 (土)

トラックバック雑記文・05年07月23日

 お久しぶりです。最近このブログの更新が停滞していたのは、建築の課題を作っていたからですが、一応毎日アクセス確認はしていました。

 その確認をしていたときに判明したのですが、どうやら誰かがパチンコ関係のネット掲示板に私の記事へのリンクを何の文脈もなく、しかも私が投稿したものであるかのように貼っている人がいるようです。

 ここで申し上げておきたいのですが、まず私はその事実を知るまでその掲示板の存在を知りませんでした。また、たとえ掲示板に投稿する際でも、私は原則として本名でしか投稿しません。なので、その掲示板にさも私が貼ったかのごとく書かれている書き込みは、明らかに私のものではないのです(ちなみに最近「北の系」の掲示板に投稿した文章は私のものです)。

 確かにこのブログは、タイトルの近くにも書いてある通り、リンク及び転載は歓迎しております。私に提供したい情報があれば、どしどしトラックバックやコメントを投稿していただきたいものです(アダルトブログなどからのトラックバックは無条件に削除させていただく場合があります)。しかし、この場合は、明らかに私に対する誤解をあおるものであり、私はそのことで大変迷惑を被っております。

 まさかこのブログの常連の読者がそのようなことをするはずはないのだと思いますが、この文章を読んでいるのであれば、まずその行為をやめてください。

 ここからが本文です。
 フィギュア萌え族(仮)犯行説問題ブログ版:ガードレールの金属片の謎、解明される(古鳥羽護氏)

 本の2ヶ月ほど前、あれほど我が国を騒がせた「ガードレールの謎の金属片」問題も、今ではまったく聞かれなくなりましたね。で、最近になって、ようやくその「原因」がわかったらしい。ここで引用されているNHKのニュースによると、車がガードレールにこすれたときに車の金属がはがれて、あのような形の金属片が生成されてしまうとか。

 それにしても、この記事における結びの言葉が極めて秀逸ですね。

 さて、この現象を、「テレビゲーム世代」、「2ちゃんねらー」、「ひきこもり」、「ニート」による人為的なイタズラであると決め付けたコメンテーターたちは、明日からテレビに出ないで欲しいものです。

 まったくもって正しいですね。しかし、これはテレビのみならず新聞も同じでしょう。私の家では読売新聞を購読しているのですが、このことを取り扱った第1社会面の記事で、2人の自称「識者」がコメントしていましたが、そこに掲載されていた、漫画家の弘兼憲史氏の発言がひどかったことを記憶しています。曰く、「このようなことがインターネットを通じて広く行われるようになるひどい社会になってしまった」と(うろ覚えで申し訳ありません)。この現象に関して、何でもかんでも「今時の若者」のせいにしてしまった人たちは、まず最低条件として1年ほどコメンテーターとして参加するのを自粛してくださいね。

 また、先ほどの話題とかなり関係があるのでここも採り上げておきましょう。

 週刊!木村剛:[金曜日ゴーログ]さすがにマスコミは「叩く相手」を知っている!(木村剛氏:エコノミスト)

 今年のバレーボールのワールドカップは、我が街仙台で行なわれましたけれども、そこでジャニーズの某グループとフジテレビの某アナウンサーの不祥事がありましたね。まあ、この問題に関しては、多くの人が知っていると思うので改めて書く気はありません。木村氏のブログで事件の概要がおさらいされているのでそちらを読んでください。

 それにしても、木村氏のブログでも触れられているのですけれども、本来であればこの手のネタは格好のワイドショー報道の材料になるはずなのですけれども、あまり報じられていないようですね。さすが、身内には甘い、というべきか。

 身内には甘い、ということで私が真っ先に思いつくのは若年層に関する報道や言論です。例えば我が国の左派論壇において、「今時の若者」を嘆くために「戦後」を持ち出すような歴史修正主義が増えています。これでは「今時の若者」を嘆くために「戦前」を持ち出すような右派の歴史主義者となんら変わるところはありませんよ。しかし、左派論壇の人たちは、彼らを右傾化したと批判したり指摘したりしない。特に筑紫哲也氏は、筑紫氏が今や(というよりもずいぶん前からか)左派論壇のトップスターであるということもあってか、いかに「週刊金曜日」の連載で復古主義的なナショナリズムを煽っていても(「俗流若者論ケースファイル10・筑紫哲也」を参照されたし)、そのような言論を右傾化だとか指摘する人はいません。筑紫氏ほどではありませんけれども、吉田司氏や斎藤貴男氏なんかもこの傾向が現れ始めていますね。特に斎藤氏。斎藤氏は、かの曲学阿世の徒・京都大学霊長類研究所教授の正高信男氏のトンデモ本『ケータイを持ったサル』(中公新書)を、朝日新聞と、著書『人を殺せと言われれば、殺すのか』(太陽企画出版)と『安心のファシズム』(岩波新書)で絶賛していた。そのような斎藤氏の文章を読んで、私は「いったい、斎藤貴男はどうなってしまったのか!」(もちろん、斎藤氏と魚住昭氏の共著『いったい、この国はどうなってしまったのか!』(NHK出版)のパクリです)と驚いてしまいました。「サイゾー」の今月号で、例の宮台真司氏と宮崎哲弥氏の対談において、宮崎市が斎藤氏のことを「頭は左翼だが、体は半分保守オヤジに浸かってしまっている」状態であると批判していましたけれども、「頭は左翼、体は保守オヤジ」という人たちが多すぎます。左右関わらず、「体が保守オヤジ」の人々によって現在の言論界が支えられているから、このような事態が生じるのでしょうかね。

 それにしても、彼らの考える「国家」とはなんなのでしょうか。

 ン・ジュンマ(呉準磨)の備忘録:ナショナリズムとは、つまり「国民国家の虚偽意識」か
 弁護士山口貴士大いに語る:カスパルがうさんくさい要望書をエロゲー関係各社に送ったようです(山口貴士氏:弁護士)
 kitanoのアレ:反性教育の動向(6)

 なぜ、俗流若者論に寄りかかる歴史修正主義者の思考を考える上でこのような記事を持ってきたか。それは、まさに彼らの「国家」が彼らを正当化するためだけの道具に過ぎない、ということを言いたいのです。

 山口氏のブログでは、アダルトゲーム規制を推進する団体がアダルトゲーム業界に怪文書を送ったことが報告されています。しかし、なぜこの団体はアダルトゲームにこだわるのでしょうかね。アダルトゲームにこだわりすぎると、犯罪の実像はまったく見えなくなりますが、彼らにとっては見えなくてもいいのでしょうか。所詮は自分の「理解できない」ものを国家によって規制しろ、といいたいわけですね。超国家主義と生活保守主義の最悪の結婚です。

 また「kitanoのアレ」では、中教審が高校生以下の性行為を認めない、という決定をしたようです。ここで引用されている共同通信の記事を読んでいると、嗚呼、やはり我が国は「言霊の国」だ、と嘆きたくなります。中教審の皆様方は、とにかく駄目だと言っていれば解決する、と思い込んでいるのですからね。考え方が甘すぎやしませんか。
 この2つに共通するのは、「強い国家」によって「今時の若者」を「是正」することを目的としていることでしょう。彼らが「今時の若者」に対して不快感を持っているのはよくわかります。しかし、その「解決」のために国家を持ち出し、「国家」に自らの「癒し」を求める、という態度は果たして正しいのか。私はそうは思いませんね。私だって、俗流若者論を批判する立場にある身であっても、やはりメディア的な「今時の若者」に不快感を覚えることはありますよ(仙台ではあまり見かけませんが)。しかし、そんな個人的な感情を、現代の若年層における「国家」意識の喪失なる論理と無理やり結びつける、という行為は、はっきり言って良識ある大人の行為ではないでしょう。

 今や国家は、「今時の若者」に対する個人的な恨みつらみを晴らしてくれる存在でしかなくなりつつあります。真面目な国家主義者は、直ちにこの状況を批判すべきでしょう。

 ヤースのへんしん:皆の道

 日本最速の161キロを記録した横浜ベイスターズのマーク・クルーン投手にあやかって、横浜市の市議より「市道鴨志田161号」に「クルーンロード」という愛称を付けようという動きが持ち上がってるらしい。

 うわあ、莫迦莫迦しい(笑)。もちろんこの記事の筆者も莫迦莫迦しいと思っていますが。

 この文章を読んで、東北大学助教授の五十嵐太郎氏(『戦争と建築』『過防備都市』の著者です)の授業において、北朝鮮の建築のスケールや装飾の数(例えば金日成広場の正面にある「主体思想塔」の高さ)が北朝鮮の革命史とか金日成にまつわる数字とかにあわせられている、ということが語られていたことを思い出しましたよ。

 このようにセンスもなく、ただ単に人気にあやかっただけの地名や愛称が、その後においてどのように語られるか、ということを考えてみるとなんだか滑稽に思えてきます。野球の選手が日本催最速の等級速度を出した、だからこの道路にそのような愛称がついたのだ、と言われても、その知名に愛着を持つ人がいるのでしょうかね。どうも疑問に思ってしまう。

 minorhythm:夏本番っ☆(茅原実里氏:声優)
 ひとみの日々:夏バテ?(生天目仁美氏:声優)

 仙台の梅雨明けはまだですが、いよいよ本格的な夏が始まりました。私も、本日、長かった建築の課題が終わり、いよいよ夏休みに入ります(補講とか試験とか提出とかたくさんありますが)。余暇の時間が多くなるので、このブログの更新頻度も多くなるでしょう。後はアルバイトが欲しい。私は「家庭教師のトライ」に所属しているのですが、現在生徒を持っていない状況です。なので、積極的にトライのほうに電話をかけて、新しい生徒はいないかといっております。さぞかしトライの仙台支部も迷惑千万でしょう(笑)。

 アルバイトがないなら、夏休みは物書きに徹しますか。一応現在検証待ちの文章もいくつかありますが、8月初旬からは夏休み特別企画を行なうことを考えております。
 それは「俗流若者論大賞」。平成12~15年に後で挙げる雑誌に発表された俗流若者論から1年ごとに、準グランプリを3~5本、そしてグランプリを1本ノミネートしようと思います。なので、この特別企画の期間中は、カレントな俗流若者論の批判はしばらくお休みになります。

 対象となる雑誌:文藝春秋、諸君!(以上、文藝春秋)、中央公論(中央公論新社)、現代(講談社)、世界(岩波書店)、正論(産経新聞社)、Voice(PHP研究所)、論座、週刊朝日、AERA(以上、朝日新聞社)、Yomiuri Weekly(読売新聞社)、サンデー毎日(毎日新聞社)、週刊金曜日(金曜日)

 また、雑誌に投稿するために、ここでは公開しない文章も執筆するつもりです。とりあえず現在執筆予定なのが「疑似科学の潮流と俗流若者論」とか「俗流若者論が生み出す歴史修正主義」とか。というのも、先月の頭ごろに、このブログの記事「壊れる日本人と差別する柳田邦男」を「論座」編集部に投稿したときに、編集部から既に発表された文章は掲載できないと電話がかかってきましたので、雑誌投稿向けに、これまでの私の俗流若者論批判を一つのテーマにまとめて、俗流若者論という言論体系にあまり明るくない人にも読んでもらえるような文章に仕上げるつもりです。もし投稿してから1ヶ月以上反応がなければ、ここで公開するつもりです。

 それから、前回の雑記分から、以下の記事を公開したので、是非読んでください。

 「俗流若者論ケースファイル35・斎藤滋」(7月10日)
 「俗流若者論ケースファイル36・高畑基宏&清永賢二&千石保」(7月13日)
 「俗流若者論ケースファイル37・宮内健&片岡直樹&澤口俊之」(同上)
 「俗流若者論ケースファイル38・内山洋紀&福井洋平」(7月16日)

 そうそう。あさってはついに我らが仇敵(だったのか)・正高信男の新刊が発売される日ですよ。

 正高信男『考えないヒト』中公新書、2005年7月25日発売予定

 中央公論新社のウェブサイトでは、《通話、通信からデータの記憶、検索、イベントの予約まで、今や日常の煩わしい知的作業はケータイに委ねられている。IT化の極致ケータイこそ、進歩と快適さを追求してきた文明の象徴、ヒトはついに脳の外部化に成功したのだ。しかしそれによって実現したのは、思考の衰退、家族の崩壊などの退化現象だった。出あるき人間、キレるヒトは、次世代人類ではないか。霊長類研究の蓄積から生まれた画期的文明・文化論》と紹介されています。まあ、帯を見る限りでは、おそらく『人間性の進化史』(NHK人間講座テキスト)をさらに拡大したものになるのでしょうか。しかし、あのテキストだけでは新書というサイズにまとめることができないので、ある程度加筆することになるのでしょうけれども、少なくともこの本が彼の疑似科学路線を突っ走った本になることは間違いないようです。

 皆様、この機会に、正高信男という曲学阿世の徒について復習をしてみましょう。

 まず、私の正高信男批判を。

 「正高信男という病 ~正高信男『ケータイを持ったサル』の誤りを糺す~」(平成16年11月7日)
 「正高信男という堕落」(平成16年12月4日)
 「またも正高信男の事実誤認と歪曲 ~正高信男という堕落ふたたび~」(平成17年2月24日)
 「正高信男という頽廃」(平成17年3月8日)
 「正高信男は破綻した! ~正高信男という堕落みたび~」(平成17年4月5日)
 「暴走列車を止めろ ~正高信男という堕落4~」(平成17年7月3日)
 私の正高信男批判を全部読みたい方はこちら

 また、他のブログにおける正高信男批判も紹介しておきます。

 えこまの部屋:[社会]EMYさんへの返事[社会]少子化対策ぅぅ~~?(着地点はコレかよ!)

 はぁ・・・?
 これケイタイを持つ者へのなんらかの批判と啓蒙の書だったのではないのですか?
 (少なくともそれを期待し彷彿させるタイトルだったんですが・・・)

 百万歩譲って「この本は本当は少子化対策の本だった」として、
 この程度の提案(少子化対策案)って・・・
 なんだか高校生の子が、もしくは家政科の短大生が明日提出で急いで仕上げた
 「私が考える少子化対策レポート」みたいに思えるんですけれど・・・。

 脱力である。

 ふたたびEMYさんのコメント再生
 >読まなくて正解と思います。

 ほ・・・ほんほひそうらね、EMYひゃん。(ほんとにそうだね、EMYさん)

 ちなみにこの記事では、このブログではおなじみの「千人印の歩行器」の栗山光司氏が私の文章を紹介しております(この記事が「堕落みたび」にトラックバックされているのもそのためでしょう)。この記事は、一般読者の立場から正高本に突っ込みを入れております。

 思考錯誤:[note] 『ケータイを持ったサル』か?(辻大介氏:社会学者)

 しかしだな、その実験の解釈や議論の組み立てかたは、やはりトンデモと言わざるをえないところがある*1。いかに優れた自然科学者であっても、生半可に社会評論に手を出してしまうと、こんなことになってしまうんかいなと愕然としてしまう。お願いだから、正高さんには、こっち方面からはとっとと手を引いて(どうせ片手間しごとなんだし)、着実に本業を進めてほしいと切に思う。優秀な人が道を誤っちゃいけない。

 本当にその通りであります。

 あと、オフラインの正高批判も挙げておきます。

 宮崎哲弥「今月の新書完全読破」2003年9月分=「諸君!」2003年12月号、文藝春秋

 私には呆れるほど杜撰で、学者としての良心すら疑いたくなる内容なのだが、新聞などの書評は押し並べて好意的だった。
 日本人が「退化」しているかもしれないという危惧にだけは同意してもよい。私の危惧は、著者を含めたインテリ層の知的能力の「退化」に対するものだけど。(280ページ)

 岸本佐知子「(ベストセラー快読)おじさんも「感動した!」」=2004年3月28日付朝日新聞

 この本の悪口を言うのは簡単だ(オヤジの主観丸出しだとかトンデモ本じゃないのかとか女になにか恨みでもあるのかとか)。が、そんなことはこの際どうでもいいのだ。著者は、学者として何より大切な客観性を投げうち、神聖な研究対象をネタに使ってまで、世の虐げられたおじさんたちを勇気づけようとしているのである。何と崇高な犠牲精神であろう。

 斎藤美奈子「(斎藤美奈子 ほんのご挨拶)サルとヒトの区別ない 印象のみの比較論」=「AERA」2003年12月8日号

 ※備考:この「ほんのご挨拶」をまとめた本が、斎藤氏の最新刊の『誤読日記』(朝日新聞社)として刊行されています。私はまだ読んでいないのですが、おそらく正高本への批判も収録されているでしょう。

 相手がサルだと社会統計学の原則に則る必要もないんですね。
 ……こんな乱暴な比較論もサルだから許されるわけです。ヒトの家族論、若者論、コミュニケーション論等がいまやこれだけ出ているのに、参照しないってのもすごい。

 皆様、来る25日に向けて、完全に論理武装をしておきましょう(笑)。

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2005年7月10日 (日)

トラックバック雑記文・05年07月10日

 大きな文章を立て続けに公開して、最近はかなり力が抜けています。建築の課題もあるのに。いいのか俺(「コンパクト建築設計資料集成」は熟読していますが)。

 というわけで、平成17年下半期に入っての初めての雑記文ですよ。と、アンニュイなモードで行こうとと思ったのですが、そうは問屋が卸さないようで…。

 週刊!木村剛:[ゴーログ] 「有害情報判定委員会」は創設されるのか?(木村剛氏:エコノミスト)
 kitanoのアレ:村田吉隆公安委員長「インターネットを規制すべきだ」
 やれやれ、またインターネット規制論ですか。この手のメディア悪影響論って、どうしてかくも支持を得てしまうのでしょうかね。

 なるほど、確かに最近の事件に関してインターネットがある程度関わっていた、ということは確実に言えるでしょう。しかし、だからといって、世の中にはインターネットを使う人がたくさんいて、それでも彼らの大半は犯罪を起こさない。事実、我が国において少年凶悪犯罪の件数は昭和35年ごろに比べれば激減しています。インターネットも今のようなポルノもなかった時代に、少年による凶悪犯罪が約3倍起こっていた。また、「少年犯罪データベース」という熱心なサイトがあるのですが、そのサイトを見る限りでは、「質の凶悪化」もまったくのうそだということがわかります。

 所詮、俗流若者論とは、自分をタブーにすることによって自らをまったく傷付かない場所に置くための武器なのですね。自分は「想い出」というイデオロギーに浸ることによって自らの世代が少年だった頃の凶悪犯罪を不問にして、今の青少年に対して強権的な政策を正当化するための方便なのですよ。

 「有害である」「有害ではない」なんて、どうでもいい話じゃないですか。もちろん既存の法律に反するようなもの(個人情報の暴露とか)はその人の良心によって規制されるべきですが。でも、さまざまな表現が混在している社会こそ健全な社会なんですよね。政府によって何らかの基準が決められて、それが「青少年に有害」という理由で規制されてしまう、というのはまさに言論統制ですよね。

 そもそも彼らの脳内において「青少年」とはどういう存在なんでしょうかね。私が思うに、それは限りなく無垢な存在です。当然悪い意味でですよ。要するに、暴力的な画像を見たら、すぐさま暴力は許されると思い、そしてすぐ暴力行為に走る。少女が陵辱されるゲームの画像を見たら、すぐさま少女への陵辱が許されると思い、そしてすぐ陵辱行為に走る。こういう存在です。彼らの想定している脳内青少年には、常識的な判断力がない。善悪の判断がつかない。全てが映像によって決められる。そういう存在として見られているのですよ、今を生きる青少年諸君!

 これが偏った青少年観と言わずして何というのでしょうかね。これこそ彼らの中でヴァーチャルが現実を凌駕してしまった、というよりも陵辱してしまった事態ですよ。もちろん、ここで言うヴァーチャルとは俗流若者論によって構成された「今時の若者」という虚像のこと。俗流若者論というフィルターによってのみ現代の青少年を見られなくなっているのだとしたら、それは極めて悲しいことです。

 minorhythm:赤(茅原実里氏:声優)
 茅原氏曰く、

 赤いラグマットに、赤いゴミ箱…。
 最近やけに“赤”にこだわる私。何かと赤が気になる私。
 なんなんだ?(笑)

 色彩の指向というものは、その人の精神状態などを表す指標となり、また、色彩はインテリアにも大きな影響を及ぼします。例えばあなたが赤ばかりの部屋で過ごしたらどうなるでしょうか。心が温かくなる?情熱的になる?感じ方は人それぞれでしょうが、少なくとも何らかの影響を及ぼすのは確かだと思います。

 まあ、赤ばかりの部屋にしてしまうのもいかがなものか、と思いますが。でも、その時々の気分をインテリアに反映させるというのは、さして悪いことではないのだと思います。
 余談ですけれども、俗流若者論を色で表すとどうなるでしょうね。黒?いや、そんな統一感のあるものではないでしょう。さしずめ言うならば、色なんてありません。さまざまな色が汚く交じり合って、結局色とはいえない色が形成されたグロテスクな空間ですよ。

 だいずのイソフラボンジュール:宙:七夕なくして・・・(水島大宙氏:声優)
 世間では七夕の季節ですね(もうちょっとだけ過ぎましたが)。でも、仙台では七夕は8月7日ですから!残念!!

 私が仙台市成人式実行委員をやっていた頃、仙台の七夕の歴史について調べていました。そのときに仙台の七夕にはいろいろな物語があることを改めて感じて、感慨深くなりました。もちろん、さまざまな商店や企業による豪華絢爛な七夕飾りも見ものですが、例えば飾りには全て和紙を使っているとか、時代の変遷に対応しつつ伝統を守り続ける姿にも目を向けるべきでしょう。それもまた、七夕の楽しみ方です。

 いずれにせよ、七夕を逃してしまった万国のプロレタリアート諸君、まだ仙台がある!是非見に来てください。

 お知らせ。以下の文章を公開しました。
 「俗流若者論ケースファイル30・森岡正宏&杉浦正健&葉梨康弘」(6月28日)
 「2005年4~6月の1冊」(7月1日)
 「2005年上半期の1曲」(7月2日)
 「俗流若者論ケースファイル31・細川珠生」(7月3日)
 「暴走列車を止めろ ~正高信男という堕落4~」(同上)
 「俗流若者論ケースファイル32・二階堂祥生&福島章&野田正彰」(7月6日)
 「俗流若者論ケースファイル33・香山リカ」(7月7日)
 「俗流若者論ケースファイル34・石原慎太郎&養老孟司」(7月9日)

 それにしても、石原慎太郎氏の暴走はどこまで続くのでしょうかね。「俗流若者論ケースファイル11・石原慎太郎」も参照してほしいのですが、このような人が都政を預かっているということ自体が疑問の種になろうというもの。

 メディア規制首都圏連合の形成も、もう目前なのでしょうかね。松沢成文氏も、もはやトートロジー(同語反復)に陥っているし。

 最近古典をよく読んでいます。丁度最近ニーチェの『アンチクリスト』が『キリスト教は邪教です!』となって講談社+α新書(適菜収:訳)から出ていますけれども、他にもマックス・ヴェーバーの『職業としての政治』(脇圭平:訳、岩波文庫)なんかも読みました。今読んでいるのはヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(大塚久雄:訳、岩波文庫)ですけれども、この本を読んでいると、いかに俗流論壇人のフリーター・若年無業者たたきが低俗で非歴史的なものであるか、ということがわかりますね。現代の良識ある学者や実践者の文章を読んでも俗流論壇人の低俗ヘタレぶりがわかるのですから、いわんや古典をや、です。

 あと、このブログの右側にある「おすすめブログ」に、以下のブログへのリンクを追加しました。いずれもよくできているブログですので、是非読んでください。

 「本日の「産経SHOW」
 「弁護士山口貴士大いに語る
 「森昭雄研究所

 もう一つ。マガジンハウスが発行している月刊誌「ダ・ヴィンチ」の新書新刊のページを読んでいたら、中公新書のところで目が止まりました。そう、あの曲学阿世の徒が中公新書から新刊を出す!

 正高信男『考えないヒト』中公新書、2005年7月25日発売予定

 この男の最近の仕事のひどさに関してはもうここで散々批判している通りですが、この本もまた疑似科学路線まっしぐらのトンデモ本になるのでしょうか。内容によっては、「正高信男という斜陽」(仮題)で、なるべく早く検証します。ですので、皆様も今のうち警戒しておいてください!

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2005年7月 8日 (金)

俗流若者論ケースファイル34・石原慎太郎&養老孟司

 ゲーム規制を推し進めている神奈川県の松沢成文知事が、自身のブログでゲーム規制に対する反対論への再反論を掲載した。しかしその文章は、結局のところ私が「俗流若者論ケースファイル12・松沢成文」で批判したものとなんら変わらず、結局のところコメント欄は「まだ疑問だ」「答えになっていない」といったものが多数書かれていた。

 詳しい検証は避けるが、松沢氏のみならずゲーム規制論者の思考を突き詰めれば、それは「俺が有害だと言っているから有害なんだ」というトートロジー(同語反復)になる。このような論理を振りかざす人たちに「それはトートロジーだ」と指摘するのは簡単だし、またそれがもっとも正しい態度なのだが、しかしトートロジーを平然と振りかざすようになっている人たちには、いくら論理的に説明しても聞いてもらえないケースが多い。そして現在、そのようなトートロジーを持った人たちが政治を牛耳り、無意味どころか有害なメディア規制に走っている、というのが現状である。

 また、トートロジーは脳科学を犯し、脳科学を疑似科学として再構築するのにも役立っている。典型的なのは曲学阿世の徒・日本大学教授の森昭雄氏であろうし、また同じく曲学阿世の徒・京都大学教授の正高信男氏も擬似脳科学に陥りつつあるのであるが(詳しくは「正高信男という頽廃」参照)、彼らがいかに「科学」を偽装しようとも、結局のところは推測の積み重ねであり、脳機能の欠陥が社会性を奪う、ということは証明されていない。というよりも、現に脳に障害を抱えている人も、福祉工学の発達によって人並みの生活を送れるようになっており、脳機能の欠陥により社会性が失われる、というのは脳機能障害者に対する差別に他ならない。まあ、擬似脳科学の徒には、このようなことを考えることもないのだろうが。

 なぜ私がこのような物言いをするのか。

 それは、ついにトートロジーにより強大な権力を振りかざす人と、擬似脳科学の最悪の結婚を見てしまったからである。

 それが、「文藝春秋」平成17年8月号に掲載された、東京都知事の石原慎太郎氏と、北里大学教授の養老孟司氏による対談「子供は脳からおかしくなった」だ。

 先に言っておくが、私は養老氏の『涼しい脳味噌』『毒にも薬にもなる話』『「都市主義」の限界』などの本はよく読んできた。ただ『バカの壁』などの最近の本は何となく忌避してきた。それでも、私が定期購読している「中央公論」の文章で養老氏のエッセイを楽しんできたが、石原氏とのこの対談を読んでみた限り、養老氏は一体どうしたのだろう、と思った。以前からも、養老氏が若年層について書いている文章の内容には少々疑問を持ってきたが、この対談における養老氏の発言は私が抱いてきたその疑問の集大成であった。

 そして石原氏。私は、この3ヶ月前に発売された「文藝春秋」平成17年5月号の文章を検証したけれども(「俗流若者論ケースファイル11・石原慎太郎」を参照されたし)、この座談会における石原氏の発言は、5月号の文章から少しも改善されていない。

 前置きが長くなってしまったので、ここから、話の流れに沿って検証を行なうことにしよう。養老氏は130ページにおいて、《このところ、子供たちの描く絵の多くが「下手なマンガ」のようになっていた、中には絵が描けない子供も出てきているそうです》(石原慎太郎、養老孟司[2005]、以下、断りがないなら同様)ということを紹介しており(おそらく作家の藤原智美氏の本を読んだのだと思う。藤原氏の立論の問題点については「俗流若者論ケースファイル17・藤原智美」を参照されたし)、なぜそのような事態が生じてしまったのか、ということについて、養老氏は131ページにおいて自閉症の子供が疾走する馬を素晴らしくデッサンしていたが、いざ自閉症が治ると《今そこにある馬を感覚的に捉える、という、彼女がかつてもっていた豊かな世界がとたんに痩せてしまった》ことを紹介している。まず笑えるのは、その直後における石原氏の発言だ。曰く、

 石原 象徴的な話ですね。ということは今大方の子供たちも、感覚的な世界が痩せて、絵が描けなくなっている可能性は十分にありますね。それはやはりテレビなどの影響、ということになるのかな。

 《感覚的な世界が痩せて》いるのは石原氏のほうであろう。養老氏の提示した実例から《今大方の子供たちも、感覚的な世界が痩せて、絵が描けなくなっている可能性は十分にありますね》と言ってしまうのは飛躍というものである。石原氏は、今の子供たちをみんな自閉症の状態にしろ、とでも言ってしまうのだろうか。まさかそのようなことは言わないだろうが、冒頭で養老氏の提示した事例がどこまで広がりを持っているのか、そして過去はどうだったのか、ということについての検証が必要だと思うのだが。

 そして、やはり来たか、メディア悪影響論。《やはりテレビなどの影響、ということになるのかな》など、勝手に「犯人」を決め付けないでいただきたいものだ。ところがそれを受けたよう労使は、そのような石原氏の発言を諌めるどころか、むしろ肯定してしまうのである。あなたは本当に科学者なのか。

 曰く、

 養老 そうですね。よく最近はバーチャル・リアリティーなんていわれますが、テレビの中のことと、現実に起こることは違いますよね。ところが今の子供たちはそれが混乱してしまっているんです。たとえば子供が険しい道を歩いていて、崖から落ちそうになれば普通「危ないよ」と声をかける。でも、それがテレビの映像であれば、崖から落ちる設定になっていれば声をかけようがかけまいが子供は落ちる。だからどんなに深刻な映像であっても、感情移入することなく淡々と見ることができるようになります。それどころか、実際の現実世界もまるでテレビの中の出来事であるかのように捉え、「現実に対して自分は以下に無力か」とシラケきってしまう。そういう乖離が子供の頃から起きているんです。

 と。かつて養老氏は、同様の論理を過去の著書で述べていたが(養老孟司[2002]159ページ)、私はそれを読んだときそんなわけないだろう、と苦笑したけれども、まさか今でもそのような考えを持っているとは思わなかった。

 まず《たとえば子供が険しい道を歩いていて、崖から落ちそうになれば普通「危ないよ」と声をかける。でも、それがテレビの映像であれば、崖から落ちる設定になっていれば声をかけようがかけまいが子供は落ちる。だからどんなに深刻な映像であっても、感情移入することなく淡々と見ることができるようになります》というのはどこで聞いた話なのだろうか。それとも養老氏の捏造か?また、《どんなに深刻な映像であっても、感情移入することなく淡々と見ることができるようになります》と養老氏は述べているけれども、あなたも科学者であればそのようなことを照明するデータの提示が必要だろう。ここまで無理のあるアナロジーに依拠するなど、森昭雄・正高信男並みの疑似科学者の行為である。文学者である石原氏は、そのような養老氏の無理のあるアナロジーを諌めるべきだろうが、案の定石原氏は賛同してしまう。この2人の蜜月は、最初2ページからすさまじい。

 この2ページで最も笑えるのはこの箇所であろう。

 養老 ……宮崎駿さんが、『千と千尋の神隠し』を三十回観ました、という手紙を受け取ってぞっとした、という話があって(笑)。

 石原 確かにぞっとするなあ、それは(笑)。反復可能な映像は、反復すればするほど単純に記号化されていくわけだから。そんな情報ばかりが氾濫する社会の中で、何がリアルで何がバーチャルなのか、未熟な人間である子供が一人で識別できるはずがない。

 笑いを取りたいのだろうか。特に石原氏。同じ映画を三十回も観たと聞いて、むしろぞっとしない人のほうが少ないと思うけれども。それに、《そんな情報ばかりが氾濫する社会の中で、何がリアルで何がバーチャルなのか、未熟な人間である子供が一人で識別できるはずがない》などと、勝手に決め付けないでいただきたいものだ。

 そもそもバーチャルとリアルの境界を厳密に決めることは可能なのだろうか。少し極論すれば、リアルはバーチャルによってしか成立し得ない。なぜなら、我々の見ているものそれ自体が、バーチャルであるからだ。というのも、我々の見ているものは、所詮はリアルの一部に過ぎないわけで、それ以外の世界は「推測」によってしか成立し得ない。それに、《反復可能な映像は、反復すればするほど単純に記号化されていくわけだから》などという言葉は、まずマスコミに言うべき言葉であろう。

 石原氏が132ページで採り上げている赤枝恒雄氏の例に関しては、前回検証したのでここでは触れない。しかし、132ページにおいては、養老氏の側に問題のある発言を見つけた。

 養老 ……親子関係、母子関係なんて、ヒトの脳がこんな風に発達するはるか以前、それこそ「理解」のはるか以前から成立しているんですよ。むしろ脳が関係を邪魔しているんです。昔の人はそうした「理解」以前の「実体」への信頼感があったから、「以心伝心」といっていたし、「人間てこういうものだろう」という事の順序みたいなものが長年の知恵で頭の中に入っていましたからね。そういう知恵がもはや親子間で共有できなくなってしまったところに、ちゃんとした親子関係ができるはずもありませんよ。

 《「理解」以前の「実体」》とか、《ちゃんとした親子関係》とは、一体何を指すのだろうか。結局のところ、養老氏と石原氏は、過去では親子関係が成立していたが、現在は成立していない、という共同幻想に浸っているだけだろう。なぜ私がこのように言うのかというと、同じページで石原氏が提示していた2つの事例が、それが典型的なものなのか極端なものなのかを例示しないまま、石原氏の提示した事例を典型的な現代の事例として扱っているからである。そして、過去の家族にも問題があったか、ということについては、一切触れずじまい。

 133ページでは、成人式論の研究家として怒らねばならぬ発言が石原・養老の両氏から発せられた。

 石原 ……精神科医の斎藤環さんが……日本人を分析してみて、「日本人の本当の成人は三十歳だ」ということになったそうです。確かに成人式が荒れていて、混乱が起こるから親の同伴が必要だ、なんてことになってるわけですから。

 養老 もっと遅くて、四十代でいいんじゃないかな。僕は三十代はじめにオーストラリアに留学したんですが、そのときに向こうの二十代半ばの人間と話していてちょうどよかったんです。しみじみ感じましたね。オーストラリアでさえそうなんだから、個々人の成熟は向こうの社会の方がはるかに早い。

 石原 ということは、二十代、三十代のまだまだ未熟な親に育てられている今の子供たちがおかしくなるのも、無理のない話ですな。

 もういい加減にしてもらいたい。石原氏よ、養老氏よ、ここは酒場ではないのである。養老氏は個人の成熟は早いほうがいい、と考えているのかもしれないが、石原氏が引き合いに出している斎藤環氏は、個人の成熟と社会の成熟は反比例する、という趣旨のことを述べているから(斎藤環[2005])、個人の成熟の速さが社会の質の良さを示すのか、といえばまんざらでもないのである。

 しかし、養老氏よりも問題があるのは石原氏だ。石原氏、ここ数年で加速度的にひどくなった成人式報道をそのまま真に受けているのだから救いようがない。何がひどくなったかというと、マスコミはみんな俗流若者論、若年層バッシングのために成人式を「政治利用」するようになった。私は平成17年仙台市成人式実行委員会で吹く実行委員長をしていたからわかるのであるが、我々の苦労、及び他の自治体における裏方の苦労はほとんど報道されない(かろうじてNHKで岩手県水沢市のが報道されたくらいだろう)。しかもマスコミが大好きな「荒れる成人式」がそのまま我が国の20歳の人たちが成熟していない証左として取り上げる、ということに関してはもはや莫迦莫迦しくて検証する気もないのだけれども、ただ一つだけいえることは、一部で怒っている単なる莫迦騒ぎをさも国家的・社会的な大事のように捉えるマスコミも、「今時の若者」という虚像に脅えて成人式を家族同伴にするという大愚作をしでかしてしまう自治体も、結局のところ単なる事なかれ主義者、ということだ。

 133ページから134ページにおける石原氏の発言。

 石原 ティーンエイジャーの娘をもつ親たちは、子供に携帯電話をもたせていると、たとえ子供が菅家で援助交際なんかをしていても、親子の心が通っている、つながっていると思い込もうとする。実際は互いにケータイを操作してなれ合っているだけでしょう。そんな関係、昔はありえなかった。つまり親子の関係での本質が欠落してしまっている。

 これもまた石原氏の思い込みに過ぎない。《そんな関係、昔はありえなかった》など、当たり前ではないか、昔は携帯電話など存在しなかったのだから。けれども、携帯電話の普及について、アプローチとして自然なのは、まず昔からある一定の感情があり、それが携帯電話にマッチしたから広まったとかそのようなところから入ることだと思うのだが、石原氏は最初から「昔の親子は正常で、現代の親子は異常だ」という幻想に浸っているから、現代の親子を罵ることしかできなくなってしまっているのだろう。

 さて、134ページから135ページであるが、ここで擬似脳化学が出てくる。といっても、マスコミが大好きな「キレる子供」は前頭葉が異常である、というもう聞き飽きたものなのだけれども。しかも前頭葉の以上は戦後教育が原因だ、といってしまう始末。まあ、この2人の蜜月からこのような暴論が生まれるのは、十分に想定しうるものなのだけれども。ここもあまりにも莫迦莫迦しいのでもう検証しない。そして135ページ下段において、また出てきた、脳幹が。まあ、この人にとって脳幹は国家(=石原氏の幻想としての「国家」)のメタファーなのだから仕方ないのだけれども。

 また、石原氏は、137ページでまた問題の大きい発言を行なっている。

 石原 ……最近の集団自殺というのは、インターネットなどで知り合った同士が集まって、互いに名乗りもせずに、ただ黙々と死んでいく。その間にセックスがあるわけでもない。一人で死ぬより数人で死んだほうが寂しくないということなのか。彼らは人とのつながり方において、大きな問題を抱えている。つまり、インポテンツだった、と考えるしかないのかもしれない。

 まったく、石原氏にとっては、現代の青少年は本質(=石原氏の幻想としての「本質」)が欠落した存在、「本質」を持ったものにより統制されるべき存在、としてしか捉えられていないのだから、このような暴言を吐けるのだろう。まず、我が国において、青少年の自殺よりもむしろ中高年の自殺のほうが多い。また、石原氏はインターネットによる集団自殺を、単に青少年の精神の問題として考えているけれども、実際には死にたい想いを抱えていても死に切れない人も多くいる。さらに、これは斎藤環氏の指摘なのだけれども、このような事態は韓国やアメリカでも起こっている(斎藤環[2005])。

 問題があるのは養老氏も同様だ。養老氏は、138ページにおいてこのように発言している。養老氏の発言だ、というキャプションがなければ正高信男の発言と見間違うところだった。

 養老 ……そこで、携帯電話依存の問題です。ケータイならば、ミラーニューロンが働きにくい。相手の視覚的な印象はないんですから。メールでのやり取りなら音声もないわけで、言葉以外の情報を一切シャットアウトできる。これは弱い自我を守るための貴重な方法なのではないか。だから若者が、面と向かって話をするよりケータイでコミュニケーションする方が、ずっと居心地がいい、というのも分かるような気がするんです。

 そんなに《ミラーニューロン》は重要なのだろうか。いや、少なくとも脳構造の解明にとっては重要なのは間違いないのだろうが、だからといってメールはミラーニューロンを働かせない、とか、だから弱い自我を守るだけの貴重な方法だとか、この論理には飛躍が多い。

 ついでにミラーニューロンの(本当の)意味について解説する。この対談では当てにならないので、薬学博士の池谷裕二氏の説明を引用すると、《自分であろうと、他人であろうと関係なく、ある〈しぐさ〉に対して反応する神経》だとか、《「2」という数字に反応する神経が見つかった。つまり、リンゴが2個ある、サルが2匹いる、何でもいい。とにかく「2」というものが目の前にあったときに反応する神経》(共に、池谷裕二[2004])と説明されている。とはいっても、池谷氏も言うとおり、これはサルでその存在が確認されたことだし、ミラーニューロンに関しても脳科学はまだ断片的なことしか分かっていないので、ましてやメールはミラーニューロンを発達させないだとか、ミラーニューロンを使わないから若年層にとっては快感になるとか言ってしまうのは言語道断というものだろう。

 もう一つ養老氏に関して言うけれども、養老氏は同じページにおいて《今の若い子はその「自分」がもともとあることに確信がもてないんでしょうね、だから不安になって「自分探し」をしているんです。フリーター、ニートなどといって》といっているけれども、若年層がフリーターや若年無業者になる背景には、経済構造的なところも大きいのではないか。例えば経済学者の玄田有史氏が長い間指摘していることなのだけれども、我が国では中高年雇用の既得権が強まっており、それにより若年者雇用が開拓されない、という事態が起こっている(玄田有史[2001])。さらに玄田氏は最近になって、若年無業者の問題にも経済格差が影響している、という発表をしている(平成17年4月中ごろの日経新聞の記事だったが、あいにくその記事を紛失してしまった)。雇用構造の変化ということで言うと、企業が自分に都合のいい若年労働力しか採用しなくなっている、という現状もある。安易な精神論は、現実の社会構造の問題を隠蔽する方向にしか働かない。

 最終的には、まあ完全に予想の範疇であるが、《身体的な体験をさせるしかない》(石原氏、140ページ)という方向に進んでしまう。ここから先はもう退屈なのでいちいち検証はしないけれども、気になった箇所について2点。まず、141ページにおいて、石原氏は

 石原 昨年末、小中学生を対象とした調査で、死んだ人が生き返ることがあると考える子供が五人に一人いる、という統計が発表されましたが、若い人たちにとって「死」はもはやリアリティを感じるものではないのかもしれない。

 この統計は長崎県教委のもので間違いないだろう。たくさんのところで引かれているのでうんざりする。この統計にはかなりの問題点が含まれており、その議論は「統計学の常識、やってTRY!第2回」に譲るけれども、このような調査において他の世代との比較がないのはどういうわけなのだろうか。結局のところ、このようなアンケートは、若年層を貶めることにしか使われない。そのような問題意識の低いアンケートを引用していい気になっている石原氏は、いい加減目を覚ましていただきたいものだ。

 また、142ページにおいて、石原・養老の両氏が戸塚ヨットスクールについて賛同しているのにも驚いた。まあ、石原氏が後援会の会長だということは前から分かっていたのだが、養老氏も賛同していたのには少々驚きを禁じえなかった。

 ここで検証は終わるのだけれども、私は石原・養老の両氏に問い詰めたい。

 なぜ、このように、問題の多い発言をして恬然としているのだろうか。

 はっきり言っておくけれども、この対談は、単なる「居酒屋の愚痴」異常の何物でもない。また、このような対談を平然と載せている「文藝春秋」の編集部も厳しくその責任を問われるべきだろう。

 それにしても、前回の「仮想と虚妄の時代」と同様に石原氏の暴言が炸裂している対談であった。所詮石原氏にとって青少年問題とは、国家の恥として吐き捨てるべきものでしかないのだけれども、石原氏が青少年に対してあまりにも軽い、また残酷な態度で望んでいるばかりに、安易な規制論や疑似科学に依拠して青少年を現代社会の鬼胎として語り、彼らを嘲りその「対策」こそが至上命題だとすることによって、結局は「今時の若者」に対する敵愾心の共同体を作り上げていく。

 俗流若者論は「今時の若者」に対する敵愾心の共同体を作り上げていくのに余念がない。そして彼らは、たとい言いたい放題言っているとしても、敵愾心の共同体の中で言っているのだから、外部からの検証には至極弱いだろう。それでも、俗流若者論は着々と支持を得ており、それらが作る敵愾心の共同体に入っていく人たちは後を絶たない。

 しかし、考えていただきたい。昨今推し進められている国家主義的な動き、例えば憲法や教育基本法の改正は、それらのルーツをたどっていけば俗流若者論を源流とする。そのような挙動に隠された危険な動きを、彼らは俗流若者論でもって甘い匂いをつけ、従わせようとする。しかし、我々に求められているのは、そのような俗流若者論の歪んだ欲望を見通すことであり、俗流若者論によって突き動かされる政治というものが、いかに異常なものであるかを見極めることだ。

 俗流若者論に突き動かされて、「本質」の再建こそが必要だ、と叫ぶ石原氏に、政治家としての資格があるのだろうか。マックス・ヴェーバーも言っているではないか、《政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である。もしこの世の中で不可能事を目指して粘り強くアタックしないようでは、およそ可能なことの達成も覚束ないというのは、まったく正しく、あらゆる歴史上の経験がこれを証明している》(マックス・ヴェーバー[1980])と。そして石原氏のみならず、神奈川県知事の松沢成文氏なども、問題を正面から受け止めることをせずに、俺が有害だと言っているから有害だ、というトートロジーに陥ったり、「今時の若者」を過剰に敵視したポピュリズムに陥ったりしているが、それでも彼らを政治家として信頼に足る人物である、と評価したいのであれば、もう私は勝手にしろ、と言うほかない。

 しかし、それでも、より多くの人が俗流若者論に牛耳られる政治の危険さを知って欲しいと、私は祈り続ける。

 参考文献・資料
 池谷裕二[2004]
 池谷裕二『進化しすぎた脳』朝日出版社、2004年10月
 石原慎太郎、養老孟司[2005]
 石原慎太郎、養老孟司「子供は脳からおかしくなった」=「文藝春秋」2005年8月号、文藝春秋
 マックス・ヴェーバー[1980]
 マックス・ヴェーバー、脇圭平:訳『職業としての政治』岩波文庫、1980年3月
 玄田有史[2001]
 玄田有史『仕事のなかの曖昧な不安』中央公論新社、2001年10月
 斎藤環[2005]
 斎藤環『「負けた」教の信者たち』中公新書ラクレ、2005年4月
 養老孟司[2002]
 養老孟司『異見あり』文春文庫、2002年6月

 マックス・ヴェーバー、大塚久雄:訳『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波文庫、1989年1月
 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 姜尚中『ナショナリズム』岩波書店、2001年10月
 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 ロナルド・ドーア、石塚雅彦:訳『働くということ』中公新書、2005年4月
 中西新太郎『若者たちに何が起こっているのか』花伝社、2004年7月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月
 二神能基『希望のニート』東洋経済新報社、2005年6月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 山本七平『日本はなぜ敗れるのか』角川Oneテーマ21、2004年3月
 ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』岩波文庫、上下巻、1987年2月

 大和久将志「欲望する脳 心を創りだす」=「AERA」2003年1月13日号、朝日新聞社
 齋藤純一「都市空間の再編と公共性」=植田和弘、神野直彦、西村幸夫、間宮陽介(編)『(岩波講座・都市の再生を考える・1)都市とは何か』2004年3月、岩波書店
 瀬川茂子「東京都発「正しい性教育」」=「AERA」2004年10月25日号、朝日新聞社
 内藤朝雄「お前もニートだ」=「図書新聞」2005年3月18日号、図書新聞
 藤生明「サプライズ辞任の可能性」=「AERA」2005年6月20日号、朝日新聞社

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2005年6月22日 (水)

トラックバック雑記文・05年06月22日

 冬枯れの街:「無駄な星なんてあるわけがないだろ?」
 先日の「トラックバック雑記文・05年06月18日」で「河北情けないよ河北」と私がもらした記事(河北新報:落書き、知力低下反映? 単純な絵などばかり 仙台)について、ココログで「落書き」と検索をかけてみたら、かなりの数のブログがこれに言及していたので、先日のものでは書ききれなかった論点についてもう一度書いておきます(ちなみに私は仙台在住の東北大学工学部建築学科の3年生であり、仙台に溢れる落書きには心を痛めている者であります)。

 ちなみにこれに言及していたブログを挙げておきます。

 c572 blog:落書きに知的水準が低下?
 Sleeping Sheep:知力の低下。
 トウグウタクミの書道でGO!:「国語力」って何でしょう?
 ++ zakkan ++:このニュース・・・
 週刊?コヰズ::実況中継:落書き・ミネラルウォーター・熊本深夜便
 ひとこと:落書き
 Books and Cafe:グラフィティアートのレベル低下?
 諸般の事情亭・地域面:人類の退化と・・・
 パンダの戯れ言:レベル低下
 日々是決算、親身の集金:イタズラも知的センスが必要

 この記事に関する問題点は次のとおりです。

 1、仙台に書かれていた落書きの傾向について、そこから「今時の若者」を語ることができるのでしょうか。

 2、そもそも、落書きというものは「器物損壊罪」なのではないでしょうか。たといそれが「器物損壊罪」であったとしても、それにたいして何らかの美や主張が許されるのなら、それは社会的に許されるものなのでしょうか。

 3、そもそもこのような記事に、ジャーナリズムとしての存在意義がどれほどあるのでしょうか。

 以上の3つの論点について、私が持った違和感を書いておきます。

 「1」。そもそもこのような落書きに関しては、そのほとんどが社会的に恵まれない層、あるいは社会から逸脱している層によって書かれている、ということは、本来であればその人たちに起こっている質的変容を問題視するべきではないでしょうか。また、そもそもこれらの落書きを書く人が、若年層全体から見てどれほどの割合いるのでしょうか。そして、安易に彼らが現代の若年層の知性を代表している、という考え方にも、疑問を感じずにはいられません。さらに、仙台以外の地域との比較もないのも、これまた疑問の種でありましょう。

 「2」。そもそも、落書きの美醜は誰によって決められるものなのでしょうか。これは、先日の「松文館裁判」の冤罪判決にもつながるものですけれども、ある「刑法犯のおそれのある行為」に対して、それが「美しければ」よし、「醜ければ」駄目、というのであれば、その線引きを誰が決めるのでしょうか。落書きという行為は、それ自体が「器物損壊罪」という犯罪行為なのですから、もしここで問題にされている落書きが規制されるべき、というのであれば、その美醜に関わらず、落書きという行為は全て規制されるべき、といわないと、プリンシプルというものがありません(以上の観点から、私は、明確な被害者が存在している落書きは規制すべきで、明確な被害者の存在しないアダルト漫画は規制されるべきではない、と考えます)。

 「3」。正直言って、このような記事が平然と流通してしまうことに、わたしは心を痛めております。リンク先のブログにも、「愚民化政策の結実」だとか「教育の失敗」だとか安易に語っているところが目立ちますけれども、そもそもこのような記事は、所詮は「酒場の愚痴」程度のものにしかなりえないのではないでしょうか。これらの「憂国」言説は、はっきり言って極めて政治性の強いロールシャッハ・テストでしかありません。

 結局は、みんな、「今時の若者」をバッシングすることによって、「自分は「正義」である」という幻想に浸りたいだけなのです。この記事は、そのような俗流若者論の「願望」を、見事に表している、というほかありません。

 かように志の低い記事が乱造されて、若年層全体がいわれなきバッシングに晒されてしまう、という現在の状況を、私は悲観しています。思えば、「理解できない」少年凶悪犯罪がひとたび起これば、最近はワイドショーのみならず「まともな」報道機関でさえも、安易に「原因」なるものを求める方向に走って、お決まりの如く渋谷や原宿や秋葉原に出向いて、ありもしない不安ばかり煽るようになってしまっています。要するに、目の前の「象徴的」事件と、巷で(ワイドショー趣味的に)語られている「問題」を強引に結びつけることによって、若年層に対する不信ばかりを煽る。この記事は、そんな悪しき流れに掉さしたものに過ぎないのです。

 私は河北新報に、過去4度ほど文章を掲載させてもらった恩義があり、原稿料も頂いたことがあります。しかし、そんな河北新報が、これほどの志の低い記事を書いていることに、私は怒りを隠しきれません。この記事の問題点も咀嚼せず、安易に受け入れている人たちも、これでいいのですか?

 それにしても、いつから、過去の落書きが「アート」として許容されるようになったんだ?昔も、それらに対して、多くの市民が怒ってたのにねえ。っていうか、なんだよ、「グラフィティアート」って。

 皆様。仙台市民として、この程度の落書きよりも憂うべき事件があるのではないですか?

 kitanoのアレ:議場飲酒議員問題:「明らかに数人が酔っていた」
 日課として、「kitanoのアレ」を何気なく読んでいたら、聞き覚えのある名前が私の目に飛び込んでしまい、一気に眠気が覚めました。

 秋葉賢也!?

 そう、先日、平成15年の衆院選に関する運動員のスキャンダルによって、引責辞任した民主党の鎌田さゆり議員の補選で今年当選した、自民党の秋葉賢也氏(宮城2区:仙台市宮城野区、太白区、若林区)です。「kitanoのアレ」で引かれている日経新聞の記事によると、その内容は以下のものだそうです。

 17日夜の衆院本会議に、数人の自民党議員が「酒気帯び」で出席したことに野党が反発、会期延長の議決が予定よりも30分ほど遅れた。

 本会議は午後5時に休憩に入り、午後9時前に再開。議決反対の討論に立った社民党の阿部知子氏が赤ら顔の議員を見とがめ、「即刻、退場すべきだ。『酒気帯び国会』を延長する必要はない」と声を張り上げた。

 これを聞いた自民党の秋葉賢也氏は議場閉鎖中にもかかわらず退場。場内はさらに騒然とした。

 河野洋平議長が投票を呼びかけたが、野党はしばらく応じず、一時は徹夜かとの憶測も飛び交った。

 民主党の岡田克也代表は本会議後の党代議士会で「小泉純一郎首相と森喜朗前首相も赤い顔をして投票していた。いかにいいかげんな国会か分かる」と批判した。

 なんと、酒を飲んでいたから議事に遅れた!

 しかも、秋葉氏は、そんな行為に対する当然の批判を民主党や社民党の議員に注意されたら、議場閉鎖中にもかかわらず退場してしまった!しかも、この議会は、国会の会期延長を議論し、さらにその議決を行なう日だった!

 これでいいのでしょうか。

 そして、このような議員や、このような議員を支持した人に対して、なぜ「知力低下」のレッテルが貼られないのでしょうか。

 実に不可解です。

 以上のことからもお分かりですね。俗流若者論とは、所詮は権力に媚び、問題の論点を逸らし続け、より大きな問題や権力に対する疑問を隠蔽し、大衆の批判の方向を権力ではなく若年層に向けることによって、本当の問題を隠蔽してしまう。

 また、「醜悪な」落書きが「知力低下」の象徴としてバッシングされるのに、「醜悪な」都市計画が「知力低下」の象徴としてバッシングされないのはなぜなのでしょうか。

 目に映る21世紀:秋葉原と下北沢の再開発ってどうよ? ~キール&NINEでトークpart1
 週刊!木村剛:[週刊!尾花広報部長] ついに萌えのまち秋葉原に進出しました!(尾花典子氏:日本振興銀行広報部長)

 以前の雑記文でも何度か書きましたが、秋葉原に行ったとき、秋葉原駅前に建っている大きな再開発ビルに、とてつもない違和感を感じました。また、以前に「目に映る21世紀」や保坂展人氏のブログで、下北沢の再開発が批判されていることにも触れました。

 現在行なわれている「都市再生」によって、さまざまな箇所でその地域の地域性が破壊されている、という指摘がさまざまなところで行なわれていますが(五十嵐敬喜、小川明雄『「都市再生」を問う』岩波新書など)、私はその実態を、秋葉原に行って肌で感じ取りました。読者諸賢も御存知の通り、秋葉原はオタクの都市として有名ですが、秋葉原駅前にそびえ立つ再開発ビルは、オタク的なるものにたいする国家権力の規制の象徴として建っているように見えました。あのようなビルが秋葉原に建つことに、一体何の意義があるのか。秋葉原は雑然としたオタクの街でいいじゃないか、とここで叫んだとしても、所詮は流れを止めることができないのでしょうか。

 秋葉原におけるオタク規制と歩調を合わせてかどうかはわかりませんが、最近はさまざまなマスコミにおいてオタク・バッシングがよく見られます。この間の少女監禁事件にしても、犯人の性癖がオタク趣味に傾いていることから、いかにオタクが犯罪的であるか、ということを喧伝していたように思えます。

 しかし、この少女監禁事件の犯人・小林泰剛は、正確に言えば「オタクの皮をかぶった鬼畜」です。なぜか。それは、オタクの性的嗜好は「二次元の美少女に対して欲情する」というもので、二次元の美少女に対して欲情できず、凶悪な性犯罪に走ってしまう、というのは、オタクの性的嗜好を逸脱しているからです。

 あと、例えば「オタク」だとか「アダルトゲーム」だとかに対する印象論だけで、架空の「専門家」まで捏造していかにそれらが危険であるか、という記事を夕刊フジがウェブ上で書いていたそうですね。もちろん、その後は訂正されたようですが。それにしても、夕刊フジと言えば、JR福知山線の脱線事故に関しても、森昭雄を召還して犯人が「ゲーム脳」だと疑う記事を書いていましたね。夕刊紙だから何でも許される、ってわけじゃねえんだよ。

 皆様、お分かりになられたでしょうか。俗流若者論を容易に受け入れる人たちは、「「今時の若者」は政治にまったく関心がない」と愚痴りますけれども、政治に関心がないのは、むしろ俗流若者論のことではないですか。俗流若者論は、「今時の若者」を安易にバッシングして、若年層に対して敵愾心を煽ることには至極長けていますが、政治の動きを読み取り、その流れが正しいものであるかを判断する、ということに関しては、極めて疎い。そして、多くの人たちが、そのような俗流若者論に心酔している。そうなると、政治は「今時の若者」に対する敵愾心を回収するだけのものになってしまいます、というよりも、その萌芽が出始めています(メディア規制や教育基本法の改正など)。

 俗流若者論に心酔することは、昨今の政治の危険な流れに賛同する、ということに他なりません。それでもいいのであれば、どうぞ俗流若者論に賛同してくださいね。

 保坂展人のどこどこ日記:日韓首脳会談の不実と小泉政権(保坂展人氏:元衆議院議員・社民党)
 正々堂々blog:日韓首脳会談を憂う(川内博史氏:衆議院議員・民主党)

 日韓首脳会談が行なわれていますが、少なくとも保坂氏や川内氏の視点から見ると、どうもこの首脳会談はうまくいっていないようです。

 この首脳会談の内容にすいてはあまり存じ上げないのですが、昨今の日韓関係、あるいは日中関係について少し想うことを言わせてもらうと、私はお互いに対する「敵愾心」を排除して、真摯に向かい合わなければ解決し得ないと思います。

 中国や韓国の反日デモは言わずもがな、それに過剰に呼応する政府・自民党の人たちや俗流右派論壇人の人たちも、単なる「反・反日」に熱中しているだけで、「反日」に真摯に向かい合おうとしている人たちは、むしろ左派に多いと思います。

 日韓・日中関係に限らず、これは若年層に対する態度についても同様に言えます。マスコミの若年層に対する態度は、安易なイメージばかりが先行して、若年層の抱える問題について地味ながらも正面から向き合っている人は、むしろあまり読まれないような雑誌や書籍によく登場しています。しかし、マスコミがただ部数とかなんかの理由で派手な若年層バッシングばかりやっている状況では、社会や政治と若年層が歩み寄る、ということはまずありえないでしょうね。

 ひとみの日々:おらんうーたんとわたし(生天目仁美氏:声優)
 ここまで政治的な話をしすぎたので、ここで落ち着きましょう。

 生天目氏は動物園に行ったそうですが、たまには自分の生活空間(私の場合は、住宅地と、大学のキャンパスと、仙台の中心市街地)とは違う場所に行ってみるのもいいものです。自分の生活空間を抜け出し、環境の違う場所に行くと、心が洗われます(その場所の環境にもよりますが)。

 私は最近、1年ほど行っていなかった宮城県美術館に行ってきたのですが、東北大学写真部の展示会が行なわれておりました。また、宮城県美術館の空間的な雰囲気は、都市的な、あるいは住宅地の生活環境に慣れ親しんできた者にとっては、また違った感覚を味わうことができます。

 千人印の歩行器:[時事編]地下構造ダイビング(栗山光司氏)
 「俗流若者論ケースファイル29・吉田司」を公開しました。この文章で採り上げた吉田氏の文章に対して、私が朝鮮戦争というファクターを無視している、と書いたところ、栗山氏から朝鮮戦争時の栗山氏の生活に関する実体験が書かれている文章がトラックバックされたので、興味がある方は一読を。

 それにしても、栗山氏の次の文章は、我々が真摯に考えなければならない論点が含まれているような気がします。

 後藤氏の俗流若者論に対する批評はマットウですね。しかし、「今時の若者云々」はいつの時代にも言われてきた。床屋政談として挨拶代わりに喋るには構わないが、ちゃんと、若者達に向き合って、自分なりにデータ分析した深い思索の結果なら傾聴に値するが、そんな検証のない単に他罰の構造にのって勝手にスピークアウトする輩の言説は馬耳東風です。自虐史観がどうのこうのと言いますが、僕が一点、ぶれない定点と言えば、「自虐」です。別に歴史観だけの問題でなく、「自虐」を通さない針穴から「誇り」は生まれない。他罰を積み重ねてそれが誇りだと誤読している人がいますが、吼える犬ほど始末の悪いものはない。兎に角、何かに動員される前に自分の頭で考える癖をつけること、それは当然自己相対化の自虐に到る。痛い地帯で発言する。そこがスタートラインでしょう。安全地帯では、音楽を聴いてぼけ~とする。

 《「自虐」を通さない針穴から「誇り」は生まれない。他罰を積み重ねてそれが誇りだと誤読している人がいますが、吼える犬ほど始末の悪いものはない》とは実に的を得た指摘だと思います。俗流若者論とは、若年層に対するバッシングを繰り返すことによって、自分を正当付ける言論体系であり、「「今時の若者」は駄目だから駄目なのだ」というトートロジー(同語反復)の繰り返しでしかありません。冒頭の河北新報ではないですけれども、「批判のための批判」の繰り返しでは、何の解決にもならない。所詮は自慰。二次元の美少女で自慰するのは至って健全ですが、俗流若者論で自慰するのは極めて有害ですよ。

 最後に。このブログではおなじみの東京大学助教授の広田照幸氏の記述を紹介しましょう。ちなみに引用元は『教育には何ができないか』(春秋社、2003年2月)です。

 30年後ぐらいには、社会の中心を担うようになった今の子供たちの世代が、「俺も昔はワルで、万引きやカツあげをやってたけど、今はこんなにちゃんとやってるぜ」と誇らしげに語り、「今の非行少年は根性がない」とか「最近の子供はヘンな事件ばかり起こしやがる」と言ってたりするのではないだろうか。

 そういえば、70年代末から80年代初頭にかけて、校内暴力の嵐が全国で吹き荒れた場、つい最近、「あの校内暴力の時代にはワルにも連帯する根性があった。あいつらはそれなりにしっかりした奴らだった」といったことを書いた文章を目にした。20年前の非行少年たちのしでかしたことは、もはや免責される段階に至ったのかと、私には感慨深いものがあった。(188ページ)

 むしろ、「今の若い者は…」と大人たちが攻撃するのは、大人の側が未来社会のビジョンを見失っているからなのかもしれない。目指すべき未来がわからなくなって、漠然とした不安を感じる大人たちが、既存の秩序のゆらぎへのいらだちを、青年たちにぶつけている部分があるように思えてならない。「今よりももっとましな社会」とか、「新たな価値規範」とかのビジョンを、いずれ青年たちが嗅ぎ当てた後は、今の大人たちの世代は、「天保の老人」ならぬ「昭和の老人」といわれるようになるにちがいない。そうした、「新しい鉱脈」を嗅ぎ当てようとする、彼らの努力をもっと容認・鼓舞していく必要がある。青年の可能性を、もっとポジティヴにみていく必要があるのではないだろうか。(197ページ)

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2005年6月18日 (土)

トラックバック雑記文・05年06月18日

 放置プレイにしようと思っていたのですが、リクエストが入ったので斬らせてもらいます。

 ちなみにリクエストしたのは、
 冬枯れの街:「無駄な星なんてあるわけがないだろ?」

 私は仙台在住なのですが、あいにく我が家でとっている新聞が読売新聞なので、東北の地方紙である河北新報がこんなにひどい記事を書いていたとは知りませんでした。ちなみに河北に関しては、私は4回ほど文章を掲載させていただいたことがあるのですが、そのような恩義もこの際一切無視しましょう。

 河北新報:落書き、知力低下反映? 単純な絵などばかり 仙台(Yahoo!ニュース)

 感想はただ一言。

 …河北情けないよ河北。(なぜ私がこのような言い方をするか、と疑問に思われた向きはこちらを参照)

 私も仙台市民として、中心市街地を中心に氾濫する落書きには心を痛めているのでありますが、このような落書きにかこつけて俗流若者論を書き飛ばしてしまう河北にも、正直言って心を痛めてしまいます。最近「この「反若者論」がすごい!02・河北新報社説」で社説を絶賛したばかりなのに。

 あのねえ。犯罪白書読めばわかるけどよ、暴走族(最近は「珍走団」という名称も定着しつつあるよね)の組織人員は減ってるんだよ。しかも、これは作家の重松清氏などの指摘なんだけどよ(重松清、河合幹雄、土井隆義、宮崎哲弥「日本社会はどこまで危険になったか」=「諸君!」2005年1月号)、暴走族の人員はむしろ高齢化してんだよ。背景には暴力団が牛耳ってて足を洗いづらいことが大きな理由だがよ。しかもなんだよ、この記事に出てくる自称「識者」どもは。こんな馬鹿連中の戯言にかこつけて「今時の若者」全体を語った気になってんじゃねーよ!しかも、この手の記事にとってはもはやご定番なんだが、過去との具体的な比較、一切なし!他の地域との比較、一切なし!この記事を書いた記者よ、出てきやがれ!!絞め殺すぞ!!!冗談だがよ。

 いい加減にしてほしいものです。このようなものでさえ記事になってしまう、という現在の俗流若者論、若者報道の現状には、ほとほと呆れてしまいますよ。所詮「今時の若者」は貶められてナンボなのでしょうね。

 栄枯盛衰、満つれば欠ける、とはよく言いますけれども、俗流若者論は、「酒鬼薔薇聖斗」事件以降に一気に勢いを増してから、もうとどまるところを知りませんよね。それどころか、むしろ隆盛の一途ですね。でもこれらの俗流若者論は、所詮張子のリヴァイアサンです。いつか、良心的な学者や評論家によって、少しずつ解体されるのを期待するしかないのでしょうね。

 というか、俗流若者論を解体するための本も、たくさんあるはずなのですが。売れているのは『反社会学講座』くらいなのが哀しい。まあ、俗流若者論を解体するための本は、大抵は地味か、高いか、その両方かですからね。『反社会学講座』は、易くて派手だから売れたものなのでしょうが、この本で展開されている論理が実を結ぶのは、いつの頃になるのでしょうかね。

 もう、こんな記事を読んだ私の感情を、声優の茅原実里氏が代弁していましたよ。

 minorhythm:茅原実里、本日はご立腹です(茅原実里氏:声優)

 茅原氏は傘を盗まれたことに怒っていますが、私はこんなにひどい記事でさえも不通に流通してしまう現状に激怒しております。俗流若者論系のトンデモ本や新聞・雑誌の記事も延々と出されますし。

 もう一つ、我々が怒っていいものがあります。
 弁護士山口貴士大いに語る:松文館裁判判決速報(山口貴士氏:弁護士)
 kitanoのアレ:松文館裁判:高裁でも不当判決

 「松文館裁判」。我が国ではじめて、「絵」にわいせつ罪が適用された裁判です。東京地裁の判決では、裁判で取り上げられた漫画の作者と、版元の社長に懲役刑が下ったのですが、弁護側が不服として控訴しました(ちなみに山口貴士氏は、この裁判の被告側の主任弁護士です)。で、この裁判において、宮台真司氏(社会学者)、斎藤環氏(精神科医)、奥平康弘氏(憲法学者)などが被告の立場から逮捕・告訴の不当性を主張してきましたが、それでも無罪を勝ち取ることができなかったとは…。

 弁護側は、これを不服として上告するでしょう。もしこの裁判の判決が判例として確定してしまったら、警察は好きなように「有害」コミックを摘発できるようになり、わいせつ罪の恣意的な運用が裁判において続々と行なわれるようになるでしょう。

 いささか言いすぎじゃないかって?いや、私がこのように断言するのは、この松文館裁判のいきさつを最近買った本で読んだからです(長岡義幸『「わいせつコミック」裁判』道出版、2004年1月)。

 そもそもここで取り上げられている漫画家と版元の社長が摘発されたのは、ある警察官僚出身の国会議員に寄せられた一通の投書がきっかけでした。そして、その議員が警察にリークし、漫画家と版元の社長は不当に逮捕されてしまった…。

 その「警察官僚出身の国会議員」とは…。

 平沢勝栄。

 カマヤンの虚業日記:[選挙]都議会選挙
 走れ小心者 in Disguise!:ブログ版『えらいこっちゃ!!』(20)(克森淳氏)

 都議会議員選挙ですか。私は宮城県民なので、選挙権があっても直接は関係ないものですが、ただ言論統制に断固として抵抗する立場としては、この2つのブログで取り上げられている「石原三羽烏」、すなわち古賀俊昭、田代博嗣、土屋敬之の3氏の当選は阻止しなければなりませんね。特に古賀氏と土屋氏は、産経新聞の月刊誌「正論」に出現する回数が高く、そこでも威勢がいい「だけ」の論理を飛ばしまくっていますから。

 それにしても、最近俗流保守論壇の空疎な現代日本人論や若者論が、彼らにしか理解できない共同幻想に基づいているのは、それこそが現代の論壇の行き詰まりを表しているように思えます。その点において、下のブログは必読でしょう。

 ヤースのへんしん:『バーチャル男』萌え

 非常に的確な指摘があります。

 力仕事が中心だった時代を生きてきた「男」にとって、力のいらない時代になり、多くの女性が社会参加をし、能力を発揮しだすと、中途半端な能力ではもう付いていけない、でも、どこかで「男」としての生き方はしたい。そんな気持ちの現れなのかもしれないですね。

 しかし、これらの「男」と「大人」の中身って「孤独」「個人」に集約されてませんか?結局は一人でオタクのように時間を潰すのでしょうか?「萌え」てるわけですね。

 「萌え」の使用法が違うと思いますが、少なくとも、某石原都知事をはじめ(その某都知事に対する批判はこちらを参照してください)、安易にナショナリスト的な言説を振りかざす俗流若者論者の最大の問題点を、ここまで凝縮して言い当てて見せた文章は皆無です。

 週刊!木村剛:[ゴーログ] 「なんとか審議会」は「なんとか」をやっているのか?(木村剛氏:エコノミスト)
 保坂展人のどこどこ日記:小泉語の摩訶不思議、「お互いに反省しよう」(保坂展人氏:元衆議院議員・社民党)

 以前、「俗流若者論ケースファイル13・南野知恵子&佐藤錬&水島広子」で、国会の「青少年問題に関する特別委員会」の議事録を批判したことがありますけれども、この議事録から見えることは、青少年問題に関する言説は、結局のところそれを語る人の社会観、世界観の凝縮である、という気がしてなりません。例えば佐藤錬氏(自民党)は、この特別委員会で、堂々と自己陶酔的な歴史観を述べていたのですから。それ以外にも、例えば最近ベストセラーになっている『壊れる日本人』(新潮社)の著者、柳田邦男氏(ノンフィクション作家)は、現代の青少年の行動(当然、過度に醜悪化、図式化、単純化されたものです)に「ケータイ・ネット依存症」の影を見出し(柳田氏こそが「ケータイ・ネット批判依存症」だろうが、という突っ込みは置いておいて)、曲学阿世の徒・京都大学霊長類研究所の正高信男教授は同様の青少年の行動に「ケータイを持ったサル」というレイシズムを押し付けることによって「日本人の退化」を嘆いてみせた(知性が退化しているのは正高氏ですよね)、スピリチュアル・カウンセラーの江原啓之氏は(この人は、堀江貴文氏よりも格段に「虚業家」ではないかと私は思います)これまた同様の青少年の行動に関して「たましい」(我々が普段使っている「魂」とは違います、あしからず)の劣化した存在とまたレイシズムを押し付けました。結局のところ、俗流若者論を安易に振りかざす人たちは、その社会観の貧しさを如実に表している、いわば、馬脚を現しているのです。このような人たちは、即刻退場していただきたいですね。

 それにしても、「論座」平成17年6月号に掲載された、「自民党議員はこんなことを言っている!」なる、「論座」編集部による自民党改憲派議員の「妄言録」は、読んでいてうんざりします。なぜって、編集部の人たちは気付いているかはわかりませんが、ここに出てくる発言のほとんどが、憲法にかこつけた俗流若者論だからです。近く「俗流若者論ケースファイル30・自民党改憲派議員」として、憲法にかこつけた俗流若者論の問題点を抉り出そうと考えていますが(29回はノンフィクション作家の吉田司氏を採り上げる予定です)、改憲派の中には、「今時の若者」にかこつけた改憲論を自信満々に開陳する人たちがたくさんいます(この中の一人である、ジャーナリストの細川珠生氏に関しては、「俗流若者論ケースファイル31・細川珠生」で採り上げます。「諸君!」平成16年5月号を読んで予習しておいてください)。まあ、彼らにとっては、青少年それ自体よりも、青少年に対する不信感を煽る言説に扇動される人たちのほうが得票数や部数の上昇につながるのでしょうが、私はここで、青少年の不当な「政治利用」を許すな!と言いたい。

 あと、保坂展人氏は、《小泉内閣は「自民党」は壊さなかったが、日本語はブチ壊した》と述べておりますけれども、日本語を壊したのは、小泉内閣だけではありません。俗流若者論も、です。俗流若者論は、その場しのぎのただ過激なだけの言葉を吐いて、無責任に去っていく。そして、そのような過激なだけの言葉は、人々の不安を扇動させるだけさせて、結局現実の青少年を苦しめる。

 ン・ジュンマ(呉準磨)の備忘録:使える論壇誌(笑)
 オピニオン系の雑誌は、その多くが赤字経営であるそうです。しかし、私見によれば、このような雑誌は、たとえ読む人が少数であっても、そこで実りのある言論が展開されていれば、赤字覚悟でも出し続けるという志がなければいけないような気もしています。このような雑誌の存在は、一点突破的になりがちな「世論」を諌めるために一役買う役割を負わなければならないと思います。

 それにしても、この手の雑誌で一番売れている「正論」は、この手の雑誌の中では一番面白くない雑誌です。なぜって、毎号毎号同じような見出しと内容ばかりで、最近は陰謀論まで飛び出している始末ですからね(「俗流若者論ケースファイル25・八木秀次」「俗流若者論ケースファイル28・石堂淑朗」を参照されたし)。特に「世界」や「論座」といった左翼寄りの月刊誌は、既存の枠組みを反芻するのではなく、もっと問題の本質を切り込むような――これについては、「論座」の平成16年4月号の特集における、斎藤環氏と宮崎哲弥氏(評論家)と金子勝氏(経済学者、慶應義塾大学教授)の対談で触れられていましたが――特集をやって、若年層やビジネスマンを取り込むような試みをするべきでしょう。
 ちなみに私の現在のお勧めの月刊誌は、「論座」と「中央公論」です。また、「世界」今月号は、鈴木謙介氏(国際大学グローバル・コミュニケーションセンター研究員)による「若年層の右傾化」論に対する反論と、ジャーナリストの二村真由美氏による江本勝(「水は答えを知っている」などでおなじみの人です)批判につられて、思わず購入してしまいました。月刊誌編集部の皆様、俗流若者論批判と、疑似科学批判は「買い」ですよ。

 お知らせ。以下の文章を公開しました。
 「俗流若者論ケースファイル26・三砂ちづる」(6月3日)
 「この「反若者論」がすごい!02・河北新報社説」(同上)
 「俗流若者論ケースファイル27・毎日新聞社説」(6月4日)
 「壊れる日本人と差別する柳田邦男」(6月6日)
 「俗流若者論ケースファイル28・石堂淑朗」(6月14日)

 また、久しぶりに書評を書きました。トンデモ本の書評ですが。

 柳田邦男『壊れる日本人』新潮社、2005年3月
 title:俗流若者論スタディーズVol.3 ~壊れているのは一体誰だ?~

 初めて全編会話調で書評を書きました。

 もっとも、広田照幸『教育言説の歴史社会学』(名古屋大学出版会、2001年1月)、内藤朝雄『いじめの社会理論』(柏書房、2001年7月)などといった良質な本も多く読んでいるので、そちらの書評も充実させるつもりです。

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2005年4月24日 (日)

俗流若者論ケースファイル15・読売新聞社説

 千石保氏が所長を勤める「日本青少年研究所」の調査結果が発表されるたびに、特に読売新聞はそのネガティヴな結果を大々的に取り上げる。しかしその調査を仔細に読んでみると(同研究所のウェブサイトには、詳細な結果が一部公開されている)、問題設定はその時々のカレントな問題を中心に採り上げていることが多く、中には意図的に我が国の青少年に対する不安・不信を煽ろうとしているのではないか、というものも目立つ。ただ、我が国において、青少年に関するゴミ社会調査が多い中で、少なくともサンプリングと経験だけは、その中でも数少ない、信頼できる部類にあると思う。まあ、他がゴミばかりなのであるが。これ以上まともなものといったら総務省の世界青少年意識調査ぐらいか(ちなみに「日本青少年研究所」の調査が最大でも日・米・中・韓の4カ国だけなのに対し、総務省のものはそれを大いに上回る数の国で比較している)。

 さて、今年もその結果が公表され、3月15日から16日にかけて新聞やテレビなどさまざまなメディアで話題になったが、私の見聞した多くの報道が、その結果をただ鵜呑みにして垂れ流すだけで、それに対して疑うようなことはまったくしていなかったのが気がかりだった。

 その中でも特に問題の多いものを紹介したい。平成17年3月16日付読売新聞の社説、「元気がないぞ日本の高校生」である。この社説は、《勉強が嫌い。消極的で自信がない。将来に悲観的で自分の国に誇りが持てない――。これが現代の日本の高校生気質だとすれば、あまりにも寂しい》(平成17年3月16日付読売新聞社説、以下、断りがないなら同様)という書き出しで始まるのだが、この社説を読んでみる限りでは、結局この社説子は悲しみに浸りたいだけではないのか、と疑いたくなった。

 というのも、調査の結果をそのまま嘆き、それを打開するための具体的な案は何も示していないからである。例えば読売社説子は、《日本の生徒が勉強しないことに驚かされる》《調査結果を見ると、授業態度も問題だ》などと、結局のところ単なる「憂国」だけで終わっているのである。まあ、これが新聞のまったく読み応えのない投書欄や辛口コラムだったら済まされるだろうが、これは社説である。このような「嘆き」だけで終わらせてしまう、というのは、あまりにも悲しすぎはしまいか。それしかできないようであれば、最初から採り上げるのをやめたほうがいい。記事の社会面の解説で済ませておくべきであろう。事実、読売のこの社説には、これが掲載された前日の社会面の報道以上のものがまったく掲載されていない。

 他の国との数値比較(まあ、我が国と米国、中国だけで比較するというのも問題であるが。これに関しては後で述べる)も出さないで「問題だ」と嘆いている部分もある。例えば読売社説子は《「今の生活で何でもできるとしたら、何がしたいか」の問いに、「遊んで暮らす」の答えが3か国のうち日本が一番多く、38%もいた。自分の将来を「だめだろう」「あまりよくない」と悲観的にみる生徒も16%と飛びぬけて多かった》と書くけれども、他の国との比較がないと、このような比較はまったく意味を持たない。最も勉強が必要なのは、この社説子ではないか。特に《「今の生活で何でもできるとしたら、何がしたいか」の問いに、「遊んで暮らす」の答えが3か国のうち日本が一番多く、38%もいた》という部分には笑ってしまった。どうしてそこまで問題視する必要があるのだろうか。この社説子には子供が大いに遊ぶことが「悪」であるととらえられているのだろうか。

 この中でも特に問題があるのは、《がく然とさせられるのは、「国」に対する意識のありようだ》と述べた直後の文章である。これ以降の文章を全文引用しよう。

 自国に誇りを持っているか、の質問に「持っていない」と答えた日本の高校生は半数以上に上った。国旗・国歌を誇らしく感じるという生徒は米、中ともに5割前後いるが、日本では1割強だ。

 誇りも何も感じない、という日本の生徒が国旗で57%、国家で65%もいる。1989年の調査より増えた。学校式典での国旗・国歌に「起立して礼儀を正す」ことをしない生徒は7割に上る。イデオロギー的な嫌悪感を示す教師の存在が、背景にある一つの要因ではないか。

 「愛国心」を盛り込むことに与党内からも異論が出た教育基本法改正案は、今国会への提出が見送られた。自分の国を誇りに思い、素直に愛せないのは不幸なことだ。

 調査から浮かび上がった問題点を、日本社会全体が重く受け止めるべきだ。

 嗤うべし。私が《がく然とさせられるのは》、読売新聞のあまりにも短絡的、しかも現在の状況をまったく踏まえていない認識である。そして読売のそのような認識のありようは、《日本社会全体が重く受け止めるべき》ものであると私は考えている。

 例えば《国旗・国歌を誇らしく感じるという生徒は米、中ともに5割前後いるが、日本では1割強だ》と社説子は書くけれども、この社説子は米国や中国の国歌がやけに闘争的であることを知っていて書いているのであろうか。しかも米中だけでなく、広く知られている通り、他のさまざまな国の国歌は極めて闘争的であるのに対し、我が国の国歌はそのようなことはまったく感じられない。また、例えば中国の国歌は、現在の中国共産党政権の存在意義にもなっている抗日闘争を歌っているものであるなど、その国歌は国家の成立や存立と密接に関わっているのに対し、我が国の国歌は明治時代に万葉集の一首にメロディをつけて、なし崩し的に成立させたものであるから、その歴史性を云々するのは難しい。このような基本的な認識も欠いているとは。もちろん「日の丸」に関しては、諸説あれど、その歴史性は確認できる。それでも、国旗や国歌に「跪かない」だけで「問題だ」としてしまうのは、国旗や国歌の重要性を認知しておらず、ただそれらをイデオロギー闘争の道具としてしか使用していないことの証左ではないか。もう一つ、《1989年の調査より増えた》と言っているけれども、どれくらい増えたのか見せてくれ。それにしても私が意外に思ったのは、米国や中国の国旗や国歌に対する意識の低さである。《5割前後》というのは、私の予想に比べてやや低かった感がある。

 《学校式典での国旗・国歌に「起立して礼儀を正す」ことをしない生徒は7割に上る》というのも、やや疑問を感じる。というのも、《規律して礼儀を正す》というのが、2重の質問になっているからだ。例えば、起立はするけれども、別に礼儀を正すようなことはしない、というのであれば、それはこの範疇には入らない。そんなことも考えずに、《イデオロギー的な嫌悪感を示す教師の存在が、背景にある一つの要因ではないか》とあっさりと述べてしまうとは…。

 この文章の後、唐突に《「愛国心」を盛り込むことに与党内からも異論が出た教育基本法改正案は、今国会への提出が見送られた。自分の国を誇りに思い、素直に愛せないのは不幸なことだ》と切り出してしまう。しかし、この文章が出てくる文脈も、またこの文章の内容にも、論理飛躍がある。例えば、教育基本法の操作だけで、青少年に「国家」に対する誇りを持たせられるか、といえば私の答えは即刻「否」である。なぜか。それは、読売の社説子他、教育基本法に「愛国心」を盛り込むことに賛成する人たちの考える「国家」とは、結局のところ彼らの幻想の中にしかない「国家」に過ぎないからである。その最大の証左として、彼らは「今時の若者」の「問題行動」の「原因」を「国家」の不在、乱暴に言えば彼らの共同幻想としての「国家」に「今時の若者」が幻想を抱かないことに転嫁していることが挙げられよう。実態としての国家は歴史と現在の上に存在する。自らに都合の悪い歴史を排除した「歴史」のみの上に成り立つ「国家」など幻想でしかない。

 このような記述は、はっきり言って単なるイデオロギー闘争の視点からしか書かれていない。すなわち、自らの信奉するものは何でも「善」であり、それに少しでも従わないようであればすぐさま「問題」のレッテルを貼り付けてしまっているのである。しかし、このような結果が生まれた背景をろくに考えもせず、ただ単に「問題」と騒ぎ立てているようでは、社説としての責任を果たしているのか、と疑問を投げかけられても当然であろう。

 もう一つ、我が国の国歌に関して、もう「政治的な」文脈で語るのはやめよう、とする興味深い主張がある。明治学院大学非常勤講師の増田聡氏は、例えば精神科医の香山リカ氏に代表されるような、現代の若年層が君が代を「屈託なく」歌うことに関して排外的ナショナリズムの対等を危惧するような言説に関しては、そのような論理は《旧世代の政治的な枠組みからのものでしかない》(この段落に関しては、全て増田聡[2005])と批判した上で、《むしろ君が代の「現在」が示すのは、そのような「二者択一的な政治意識」そのものを批判する、若い世代の社会意識なのではないだろうか》と言い、《君が代が明治期の対外儀礼で必要とされ……生まれたのとまったく同じように、……「グローバルな他者との出会い」の経験が、若者にとりあえず君が代を歌わせている。その歌唱に過剰な政治的意味を読み込んではなるまい》と論じている。面白いのは、増田氏が《今日の君が代とは、若い世代にとっては、単に「ニッポン」を指し示す音楽的記号に過ぎない》と語っているところだ。増田氏はここで引用した論文の冒頭で、君が代の歴史に関しても触れているのだが、君が代が明治期の「天皇礼賛」の意味も、戦後の教育イデオロギー闘争としての意味もまったくなくなった現在において、そのような文脈において君が代が歌われるのは、むしろ歴史的必然ではないか。このような正確な歴史認識・現状認識が、良心的な音楽社会学者と、イデオロギー闘争に明け暮れる新聞人を分かつ。

 閑話休題、結局のところ読売の社説は、現在の青少年を嘆いてみせるだけで、なんら具体的な対策を示していないばかりか、青少年に対する認識も誤解の多いものであることを自ら証明してしまっている。しかし、もう一度述べるけれども、社説とは重要なオピニオン形成の役割を持っており、それゆえ執筆にも責任が必要である。「憂国」しかできないようであれば、最初から採り上げないほうが、よほど有益ではあるまいか。論じるべき問題は他にたくさんあるのに。

 この社説は、《調査から浮かび上がった問題点を、日本社会全体が重く受け止めるべきだ》という文章で締めくくられている。しかし、《日本社会全体》なんて、どこまでを指すのだろうか?

 参考文献・資料
 増田聡[2005]
 増田聡「軽やかに歌われる君が代ポップ」=「論座」2005年5月号、朝日新聞社

 笠原嘉『青年期』中公新書、1977年2月
 谷岡一郎『「社会調査」のウソ』文春新書、2000年5月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 山本七平『日本はなぜ敗れるのか』角川Oneテーマ21、2004年3月

 内藤朝雄「お前もニートだ」=「図書新聞」2005年3月18日号、図書新聞

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2005年4月21日 (木)

トラックバック雑記文・05年04月21日

 ン・ジュンマ(呉準磨)の備忘録:私も社説批評にトライ!!アルゼンチン「借金踏み倒し=造反有理」かもよ!?
 カマヤンの虚業日記: [政治]「東アジア」的統治
 読売新聞の社説に挑戦しています。私の家でも読売新聞をとっているのですが、私の目が肥えてきたせいなのかもしれませんが、最近の読売の社説はどうもつまらない。最近では、中国の反日暴動を何度も採り上げていますけれども、どうも過去に我が国が中国に対してひどいことをした、という認識を忘れているのではないか、という気がしてなりません。もちろん、過去の侵略戦争と現在の中国の反日デモは割り切って考えなければなりませんけれども、我が国がアジア諸国に対して行った加害の事実を忘れてはならないと思います。

 読売は中国の反日愛国主義教育を批判します。そのことに関しては大賛成です。しかし、他方で読売は、現代の青少年が国旗と国歌に対して愛着をさほど持っていないことについて盛んに嘆いています。どこか矛盾していないでしょうか。私が教育基本法に「愛国心」を盛り込むことに対して最も懸念していることが、現在の中国の反日デモのようなことが起こることです。現在の我が国はある種のアノミー状態にあるので、なし崩し的に「愛国心」を教えるようになったら、かえって有害ではないか、と思うからです。

 いや、「愛国心」教育推進論者の語る「愛国心」は、むしろ「国粋主義」でしかありません。そのことをまず衝くべきではないか、と思います。

 ところで、「ン・ジュンマ(呉準磨)の備忘録」の著者から、次のようなコメントをいただきました。

 後藤さん、「オニババ化する女性たち」とかいうのにツッコミは入れましたか? 期待してるんですが(若者論とは見てない?)

 三砂ちづる『オニババ化する女たち』(光文社新書)ですか。ごめんなさい、《若者論とは見てない?》以前に、読んですらいません。このテーマに関してはまったく興味がないので、手にとることすらしていなく、「論座」平成17年2月号における、鍼灸師の田中美津氏による批判で、その内容を軽く知っているくらいです。でも、いろいろなところで話題になっているらしいので、読んでみましょうか。

 minorhythm:インスタントカメラ(茅原実里氏:声優)
 今日、仙台市の隠れた桜の名所として知られる遠見塚小学校に行ってきました。そのときの光景を、しっかりとカメラに収めてきました。

 ところで私が使っているカメラは、デジタルカメラです。しかしこのカメラは、今年の初売りで買ったものなので、それ以前は、写真を撮るときはもっぱらインスタントカメラを用いていました。しかしインスタントカメラは、フラッシュの融通が利かなかったりとか、ズーム機能がなかったりとか(当然か)、安いだけに使いづらい面もあります。そのような想い出もあり、私はほとんどデジカメを使っているのですが、茅原氏は、《でもなんか両方を比べてみると、私はもしかしたらインスタント派かも!》として、こう書いています。

 極上の笑顔でバッチリ成功した写真も、ピントがズレてたり、知らぬまにシャッター押しちゃったりして失敗した写真も、全部現像されちゃうわけです!

 だけど、その1枚1枚に写されてる一瞬がなんだかとっても愛しいんですよね☆

 「何この写真~!!最悪なんだけど~!?」

 なんて笑い合える仲間に乾杯っ♪

 こういうのもいいかな、と。

 弁護士山口貴士大いに語る:一連の美少女アニメ・ゲームバッシングについて(山口貴士氏:弁護士)
 週刊!木村剛:[BLOG of the Week]プロの書き手の正念場が来る!(木村剛氏:エコノミスト)
 木村氏のブログで、「BLOG of the Week」として採り上げられているのは、実は私の文章です。木村氏は私の文章に対して《言論の自由に関する一考》と評価してくださっています。

 ここ最近の「トラックバック雑記文」「俗流若者論ケースファイル」において、私は何回か「有害環境」「有害メディア」規制を批判してきました。しかし、このような歪んだ施策がポピュリズムとなりうるのは、要はそれを求める人がたくさんいるからに他なりません。

 そして、そんなものが受け入れられるようになる背景には、特にマスコミの影響が大きい。例えば、マスコミは「現実の女性ではなく、ゲームの中の女性にしか恋愛感情を持たない「今時の若者」」を攻撃します。しかし、だからといってそれが精神病理だとか、さらには犯罪だとか(大谷某の「フィギュア萌え族」なんてまさにこれですよね)に結びつける必要があるのでしょうか。あるいはこんな「今時の若者」ばかりだから少子化が進むのだ、という向きもあるのでしょうが、少子化の何がいけないのか。まあ、少子化のことについて言及するのは少ないですけれども。

 彼らは精神病理だとか犯罪的だとか虚飾していますけれども、結局、それらの批判は、彼らが「そう思いたいだけ」だからでしょう。精神病理云々、犯罪云々は単なる虚飾の言葉に過ぎない。底流にあるのは「気持ち悪い」という感情だけです。でも、彼らはそのような感情と同時に、多くの人とそのような感情を共有することによって、自分の気に食わない人(例えばオタク)にマイナスのイメージを与えたい、だから犯罪とか精神病理だとかいった言葉を用いているのでしょう。少々うがちすぎかもしれませんが。

 最近、ライターの本田透氏が『電波男』という本を書いたそうです。聞くところによると、なんでもこの本は「現実の恋愛は2次元の恋愛より勝っているか」ということに関して書かれた本らしいです。機会があったら手にとってみたいのですが、あいにく近くにおいている書店がないので。アニメ専門店だったら置いているだろうか?

 お知らせ。まずbk1で新しい書評が掲載されています。
 ジュディス・レヴァイン、藤田真利子:訳『青少年に有害!』河出書房新社、2004年6月
 title:「有害」排除の先に見えてくるもの
 菊池昭典『ヒトを呼ぶ市民の祭運営術』学陽書房、2004年11月
 title:真価が問われるのはこれから
 どちらもお勧めです。上は、東京都の石原慎太郎知事他「有害」規制を推し進めている人に、下は楽天の三木谷浩史社長にはぜひ読んでほしい本です。あと、三木谷氏には、来月の半ばごろに開催される「仙台青葉まつり」もぜひ見てほしい。

 また、「俗流若者論ケースファイル13・南野知恵子&佐藤錬&水島広子」「俗流若者論ケースファイル14・大谷昭宏」を公開しました。前者は本気ですが、後者は少し力を抜いています。

 また、過去の文章に以下の加筆を施しました。
 「俗流若者論ケースファイル02・小原信」について:

 《幻実が現実になると、ミッキーマウスをネズミだとは思わない》なぜ?《アキバ系の若者は現実の女性よりキャラクターグッズに「いやし」を見出すという》だと、《という》で片付けないでいただきたいものだ。しかし、小原氏はそれで片付けても構わないのだろう。

 この箇所を、以下の文章に置き換えました。

 小原氏は、《幻実が現実になると、ミッキーマウスをネズミだとは思わない》などと意味不明なことを言い出す。これには正直言って、数回ほどへそで茶を沸かした。《ミッキーマウスをネズミだとは思わない》というのは、決してそのような人が《幻実》に翻弄されているわけではなく、むしろ《幻実》を受け入れることによって、ミッキーマウスというキャラクターの背後にある「大きな物語」に同一化しているからである。小原氏にとって、このような物言いは、自分の生活圏内だけが「現実」であると言っているのに等しいのだが、小原氏にとってはそれでいいのだろう。同じ段落にある、《アキバ系の若者は現実の女性よりキャラクターグッズに「いやし」を見出すという》などという物言いも然り。このような物言いは、ジャーナリストの大谷昭宏氏の「フィギュア萌え族」概念にも共通する危険性をはらんでいるのだが、現実と戯れることができない奴は病気である、という思考は、かえって現実との関わりを放棄した、ある層に対する弾圧につながりかねないし、多様な感受性を否定するものでもある。現実の女性に残酷な性犯罪をやらかす輩よりも、《幻実》と戯れて萌える人のほうが、社会にとっては無害だろう。《幻実》を最初から「悪」と決め付ける小原氏は、ここでとんでもない勘違いと倒錯をしているのである。もう一つ、このような物言いは、小原氏の想像力が極めて狭いことも意味するのだが、小原氏はそれで構わないのだろう。

 「俗流若者論ケースファイル11・石原慎太郎」について:

 

…赤枝氏が自分にとって衝撃的だったことを知らず知らずのうちに誇張して石原氏に言っている可能性もある。それに、そのような状況にある家族に対する支援は、それこそ政治の役割ではないか、という気もするのだが。石原氏が《真顔でいうそうな》と書いているのは、そのような家族に対する社会保障や性教育の不備を正当化するように見えてならない。

 この文章の直後に、以下の文章を加筆しました。

 ついでに性教育に関しても触れておこう。20世紀の終わりごろ、米国では、子供の「性」をタブー視し、学校では性教育よりも「純潔」さらには「禁欲」を高く掲げた教育が正義とされ、適切な性教育でさえも保守系の団体に糾弾された。また、宗教保守からフェミニストまで、性表現の規制に躍起になり、マスコミは青少年の「性」に関する過剰な報道で溢れかえった。それを告発した米国の作家のジュディス・レヴァインによると、しかしそれでも青少年の「性」を巡る問題はまったく解決しないどころか、むしろ問題を深刻化させた(ジュディス・レヴァイン[2004])。レヴァインは、青少年を「性」に関する情報から遠ざけてしまったあまり、「性」に関する知識は希薄化し、無防備な性行為が蔓延してしまったことを指摘している。我が国でも一部の自称「保守」が性教育攻撃に奔走しているのであるが(石原氏もその典型であろう)、性教育を禁止してしまったら米国と同じ事態を招きかねないのではないか。また、特に赤枝氏は、中学生までの性行為を法律で禁止しろ、といっているけれども、自由な行動が保障されている我が国において、それが実を結ぶためには、我が国が北朝鮮並みの言論統制国家及び監視国家にならなければならない。

 それにしても、「俗流若者論ケースファイル」ばかり回を重ねて、本来の目玉だった正高信男批判はどうも尻すぼみ気味です。もっとも、最近になってさまざまなところから俗流若者論が顔を出したり、あるいは過去の俗流若者論を引っ張り出してきたりと、この勢いはとどまるところを知りません。このシリーズで今後採り上げる予定の文章はこれだけあります。

 ・近いうちに採り上げる予定のもの
 平成17年3月16日付読売新聞社説「元気がないぞ日本の高校生」
 荷宮和子「私が団塊ジュニア世代を苦手だと思う理由」=大塚英志・編『新現実Vol.2』角川書店、2003年3月
 藤原智美「目をつむれない子どもたち」=「文藝春秋」2005年5月号、文藝春秋
 浜田敬子「テレビが子供の脳を壊す」=「AERA」2002年7月15日号、朝日新聞社

 ・判断を留保しているもの
 和田秀樹「日本はメランコの中流社会に回帰せよ」=「中央公論」2003年6月号、中央公論新社
 小原信「不安定なつながりが逆に孤独を深めている」=「中央公論」2004年4月号、中央公論新社
 陰山英男「「学力低下」世代が教師になる日」=「文藝春秋」2005年5月号、文藝春秋
 役重真喜子「「一億総評論家」」=「論座」2004年9月号、朝日新聞社
 吉田裕「台頭・噴出する若者の反中国感情」=「論座」2005年3月号、朝日新聞社
 林道義「家庭が子供の脳を育てる」=「諸君!」2003年8月号、文藝春秋
 中村和彦、瀧井宏臣「育ちを奪われた子どもたち」=「世界」2003年11月号、岩波書店
 下嶋哲朗「再び「後悔の土壌」とならないために」=「世界」2004年10月号、岩波書店

 しかし、「ケースファイル」ばかりでは面子が立たないので、本流の正高信男批判も充実させるつもりです。来月7日でこのブログは開設半周年を迎えるのですが、その記念論文は「正高信男という堕落ZERO(仮題)」で企画しています。「正高信男という堕落」で採り上げた文章(平成16年11月22日付読売新聞の「学びの時評」欄に掲載されたもの)以前の文章を検証するつもりです。

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2005年4月19日 (火)

俗流若者論ケースファイル13・南野知恵子&佐藤錬&水島広子

 それにしても、最近活躍している、特に保守系の人々による青少年問題に関する言論とか、あるいは現在進められている青少年政策に関する議事録や記者会見の文章を読んでいると面白い。例えば、この2回前で採り上げた、東京都知事の石原慎太郎氏が「文藝春秋」平成17年5月号に書いた「衝撃の現代若者論」は、社会を覆う現実にはまったく触れず、それを「本質が崩壊した状態」と易々と語ってしまい(そもそも「本質」というのが何なのかわからない。結局は自意識の問題ではないのか)、挙句の果てには北朝鮮拉致事件の被害者家族に極めて失礼な暴言を吐いたり(北朝鮮に拉致された同胞はもはや生きていない、と考えるのが常識なのだそうな)とか、あるいは擬似脳科学に走ってしまったりと(この人にとって脳幹は国家である)、もうそこらじゅうに突っ込みどころが満載であった。無論、読んでいる内は笑ったのだが、読んで検証したあとは薄ら寒い気持ちが私の中を走った。この人に青少年政策をさせておいて、本当にいいのだろうか、国益には反しないのだろうか、と。前回採り上げた、神奈川県の松沢成文知事に関しても、まあ石原氏よりは問題は小さいものの、それでも現在の少年犯罪の実情やゲームに関する無理解、そしてゲームの規制に強引に結び付けてしまう、という姿勢には、やはり疑問を感じ得なかった。

 今回はそれらを追及するシリーズ(だったのか)の第3回である。今回検証するのは、平成17年3月15日に行なわれた、「青少年問題に関する特別委員会」における、法務大臣にして青少年育成及び少子化担当大臣の南野知恵子氏と、自民党の佐藤錬議員のやり取り、そして南野氏と民主党の水島広子議員のやり取りである。この2つのやり取りに関しては、この委員会における全てのやり取りの冒頭の2つである。南野氏と佐藤氏のやり取りは、一部ではメディア規制に関して触れているものの、メインとなるのは佐藤氏の現在の青少年や教育に関する、もはや笑うしかない認識である。ここでは、主に佐藤氏の発言がメインであるが、南野氏もまた佐藤氏の論理矛盾を指摘しない。後者の南野氏と水島氏のやり取りは南野氏はこれに関しては特に問題のある発言をしていないが、水島氏が問題のある節をさも当たり前であるかのように語っている。なので、後半に関しては、水島氏の発言の検証を行なう。

 まず、佐藤氏と南野氏のやり取りから見ていこう。

 佐藤氏は、冒頭いきなり、《我が国はことし、さきの大戦、すなわち大東亜戦争、太平洋戦争に敗れてから六十年。まさに戦後還暦。重要な時代の節目であり、原点に返る年であります》と発言する。これに関しては異存はない。我が国は今年戦後60年を迎え、改めて大東亜戦争や戦後に関して振り返ってみる必要があろう。それ自体は否定しない。

 しかし、佐藤氏は、東京大空襲の惨状や米国の戦争責任に関して述べた後、こう言ってしまう。曰く、《今日に至るも、あの東京裁判史観の呪縛が、靖国神社参拝問題や歴史教科書問題を初め、いかに強く日本社会の歴史認識をゆがめているか。日本の未来を担う青少年に余りにも過度な自虐史観を教えてきた戦後、日本民族の歴史、伝統、文化に自信と誇りを持たせないように教えてきた戦後、先祖、先達に感謝と敬意を持たせないように教えてきた戦後、もうそろそろ、ことしこそ、戦後の終わり、そして日本再生のきっかけをつかみたいものだ、本当にそう思っております》と。このような認識を持つ人は、青少年問題を本気で考えているのではなく、むしろイデオロギー闘争の道具としてしか考えていない、ということを、もう我々は広く知っておいたほうが良いのではないか。佐藤氏、そして佐藤氏と同じような考えを持つ人たちにとって、現実に起こっている青少年問題は、《過度な自虐史観を教えてきた戦後、日本民族の歴史、伝統、文化に自信と誇りを持たせないように教えてきた戦後、先祖、先達に感謝と敬意を持たせないように教えてきた戦後》に責任を押し付けるための責任転換の論理であり、それを取り除くことは、《あの東京裁判史観の呪縛》からの克服を意味し、そして《戦後の終わり、そして日本再生のきっかけ》をもたらしてくれる、というヒロイックな幻想をもたらしてくれる単なる舞台装置に過ぎない。

 ちなみに私見によれば、「新しい歴史教科書をつくる会」をめぐる騒擾や、教育基本法の改正論の最大の功績は、歴史教育を巡る問題のほとんど全てが、それを論じる側の自意識の問題として還元しうる、という明確な事実を白日の下に晒したことである。これは「つくる会」や教育基本法の改正案に賛同する側にしろ反対する側にしろ、変わらないことである。彼らは自分の持つ「正義」を信じて疑わず、彼らの持つ共同幻想に子供たちを従わせることによって、自分の信奉するイデオロギーの「勝利」を確信することを目的としていることに疑いはない、多分。歴史認識(あるいは歴史教育論)と自意識の問題に関しては、東北大学助教授の小田中直樹氏が、いわゆる従軍慰安婦問題に引き寄せて詳しく語っているのでそちらを参照していただきたいのだが(小田中直樹[2004])、歴史教育が国民の自意識やアイデンティティの問題と切り離すことができない以上、それを語る言説もまた自意識の問題からのアプローチが必要なのではないか、と私は思っている。

 閑話休題、佐藤氏の言説の検証を続けよう。佐藤氏曰く、《我が国民は、多くの戦没者の犠牲の上に、平和で豊かな繁栄を築き上げました。復興から高度成長へと経済至上主義、モノ・カネ文明の開化、そして経済大国からバブルへと続いた時代に、何か大切なものを、すなわち私たちの祖先がはぐくんできた大切な伝統や価値観、これを失ってきたのではないでしょうか。それは、武士道などの日本精神の崩壊であり、損得そろばん勘定を超える価値や生きざまの軽視なのだろうと思います。さらに、家族のきずなや地域社会の触れ合い、祖先を敬う心や郷土と国を愛する気持ち、そして、その愛するものを守るために自分は戦うという気概と覚悟などであります》と。このような発言の欺瞞性に関しては、都市計画や国土計画に関して、耳学問程度でも知っていれば簡単に論駁できる。なぜなら、佐藤氏言うところの《経済至上主義、モノ・カネ文明の開化、そして経済大国からバブルへと続いた時代》を主導してきたのは、ほかならぬ自民党、例えば池田勇人「所得倍増計画」や、田中角栄「日本列島改造論」、そして中曾根康弘首相の規制緩和策であるからだ。その主導の下で、地域を破壊し、郊外に均質的な空間ばかりもたらし、誤った食料政策によって農村から仕事を奪ってきた自民党政権が、その反省をせずに易々とこんなことを言えるようになってしまっていることにこそ、私は歴史を学ぶことの重要性を痛烈に感じる。また、《武士道などの日本精神の崩壊》だとか、《損得そろばん勘定を超える価値や生きざまの軽視》だとか言われても、佐藤氏がその実例を出さないから、何を言っているのかわからない、極めて「論壇的」な言説になっている。このような言説によって、現実の青少年の行動が規定されることのほうが、私にとってはよほど恐ろしいことに思えてならない。

 青少年問題を「伝統精神の崩壊」みたいな文脈で語ることは、二つの問題をはらんでいる。第一に、社会構造の問題から目をそらさせてしまうことである。これに関しては、戦後自民党が利権の下に推し進めてきた都市政策と不可分の関係にあるので、これに関して深入りするのはやめたい。第二に、彼らの夢想する「伝統」が本当に存在したか、ということである。確かに伝統は存在するけれども、それは各々の地域の伝統であり、「日本の伝統」は明治時代以降、近代化と中央集権化の過程で捏造されたものである。ちなみに、東京大学助教授の広田照幸氏によると、佐藤氏などは、戦前までは親がしっかりと子育てをしていた、と考えているけれども、実際に子育てが家庭のものであると広く認識されたのは高度経済成長期以降であり(広田照幸[1999][2003])、戦前においては、そのような認識は特に上流階級に限定されていた。

 文芸評論家の斎藤美奈子氏によると、女性の労働力の増加を目指すフェミニズムの言説は、大東亜戦争の動因にむしろ有利に働いた(斎藤美奈子[2003])。佐藤氏は、この事実をどのように見るのだろうか。

 このように、誤解と倒錯と無反省が続く佐藤氏の発言なのだが、南野氏はこれらの発言の危うさを指摘しない。南野氏は、先ほどの佐藤氏の一連の発言を受けて、《先生が戦火にまみれておられるころ》と発言してしまう。しかしその直後に佐藤氏が指摘したように、佐藤氏は戦後の生まれだった。このことから、南野氏は戦後の生まれに「健全な」思考が育つはずはない、と考えているのではないか、という疑念が生まれる。直後に南野氏が《戦後生まれにしては、御両親から代々とその心を伝えられたということであろうかというふうに思いまして、先生の大和魂がそこに育っているのかな、そのようにも思っております》と取り繕ったのが見苦しい。

 南野氏は、佐藤氏に同調して、《戦後の我が国は、経済のお話が出ましたが、経済的価値観を追求する余りに家庭や地域を顧みないことがあったように思われるというお話でございました。また、経済的豊かさが達成される中で、画一的な形で都市が形成され、また、同じようなものを消費する大衆消費社会が展開するという変化も見られたと思います》と言ってしまう。戦後の都市計画に関する不勉強が表れている。ここで南野氏が問題視していることこそ、まさしく戦後の自民党が推し進めてきたことなのだが。もっとも、最近はそのような考え方にもかげりが生じている。

 南野氏が佐藤氏に発言に関して、ただ感想を述べた後に、佐藤氏は南野氏に児童虐待に関して質問する。それに対して、南野氏は、《児童虐待の問題に関連してでございますが、おっしゃるとおり、本当に深刻な虐待が今頻発いたしております。児童相談所における相談処理件数が急増しているということも事実でございまして、極めて深刻な状態にあることは、社会全体で早急にこれを改善していかなければならない重要な課題であると認識いたしております》と言うけれども、実際のところ、相談処理件数の急増は、児童虐待に対する意識の高まりの表れではないか、と私は見ている。また、ここ数年で、児童虐待に関する報道量の急増も、人々の危機意識をかき立てている、と言っても過言ではないだろう。

 南野氏が、現在の児童虐待防止の政策について簡潔に述べた後、発言の主は佐藤氏に移る。ここで佐藤氏は、極めて問題の大きい発言を連発してしまうのである。

 まず、《虐待を受けた経験を持つ子供は非行に走りやすいと言われます、青少年の犯罪で、裁かれるのは子供だけというのはおかしいのではないでしょうか、どうしてそんな罪を犯す子供になってしまったのか、その子供の両親はどんな子育てをしてきたのか、子育ての中に何か大きな問題があったから子供は罪を犯してしまったのではないでしょうか、なのに裁かれるのは子供だけで、その子供を育てた両親の再教育の場がないのはおかしいと思います》と。これは佐藤氏に寄せられた手紙を引き合いに出しての発言なのだが、例えば《虐待を受けた経験を持つ子供は非行に走りやすいと言われます》ということに関しては、どこまで一般性を見ることができるかわからない。ちなみに最近メディアを(ワイドショー的に)沸かせる少年犯罪に関しては、むしろ専業主婦の母親に大切に育てられた、という背景のものもまた目立っている。例えば昨年6月の頭に起こった佐世保市の女子児童殺人事件に関しては、作家の重松清氏によると、この犯人は遊び場に極めて恵まれていない環境に住んでおり、小学校のバスケットボールクラブが唯一の遊び場であったけれども、親が中高一貫校に犯人を受験させる、ということを理由にクラブを強引にやめさせてしまった、という(重松清[2004]、重松清、河合幹雄、土井隆義、宮崎哲弥[2004])。重松氏の報告からは、虐待や体罰の形跡はどこにも見られず、むしろ居住環境と、重松氏言うところの「見えない受験」による精神的なストレスが犯行の引き金になった、ということである。無論、反抗のきっかけに親の関与もあったのは確実であるが、この犯人にとって「ガス抜き」ができる遊び場やサブカルチュアの不在もまた問題にされるべきだろう。

 従って、少年犯罪の責任を一元的に「親」あるいは「家族」に帰一させてしまうのは、物事の複雑性から目をそらすばかりではなく、親は子供を常日頃「監視」する義務があり、また「正しい」子育てをしなければ子供が犯罪者になってしまうぞ、というメタ・メッセージを発してしまう。結局のところ、修復不可能な凶悪犯罪に関しては、成人と同じように応報刑で、それも犯人だけを裁くのがふさわしい、ということになる。現に佐藤氏は、《犯罪を犯した子供の家庭環境がどんなものであったのか、法務省や内閣府の広報などで多くの人に知らせることで犯罪も減少するのではないでしょうか、例えば、あなたの家庭は大丈夫ですか、こんな子育てをしていませんかなど、犯罪を犯した子供の家庭環境を一般国民へ周知することによって対応することが大事だと思います》と言っている。これも政府広報に寄せられた意見なのであるが、これを肯定的にとらえているあたり、佐藤氏が、少年による凶悪犯罪は「誤った」家庭環境から生まれており、それを正すためには「正しい」子育てをさせる必要がある、と認識しているのは明らかであろう。

 佐藤氏の発言の中で、問題の大きい発言はもう一つある。曰く、《ついでにもう一つ追加しますが、テレビ、パソコンなどの情報メディアの影響が大きいのではないかという気がします。ドラマを見ても、殺人を題材にしたドラマが大変多い。それから、お色気番組も深夜放送しておるようですし、これに類するような、有名人、タレントや芸能人がコメンテーターと称して政治、社会評論をしていますね。こんなことをされると政治が軽くなっちゃう。真剣に政治に取り組んでいる我々から見ても聞きづらくてならないんですよ、これは余談ですが。それから、出会い系サイトの事件も多い。携帯電話を含めて、これら情報メディアの規制はできないんでしょうか。御意見を承りたいと思います》と。またしてもメディア悪影響論であるけれども、いい加減警察白書や犯罪白書を読んで、少年犯罪は件数としては決して増加していない、ということをまず認識したらどうか。また、少年犯罪者のうち《殺人を題材にしたドラマ》だとか《お色気番組》を見ている割合がいくらいるのだろうか。また、《類するような、有名人、タレントや芸能人がコメンテーターと称して政治、社会評論をしていますね。こんなことをされると政治が軽くなっちゃう。真剣に政治に取り組んでいる我々から見ても聞きづらくてならないんですよ》という発言には本当に呆れてしまった。いくら佐藤氏が《これは余談ですが》と取り繕っても、佐藤氏が政治家以外の人に政治を語るな、といっているのは明らかであろう。それにしてもそれさえも青少年問題を誘発するものとして糾弾されるとは。むしろ最近問題なのは、政治化の度し難きタレント化や、その発言の度し難き軽佻浮薄ではないか。それを象徴するのが、小泉純一郎であり、石原慎太郎であろう。これらの政治家よりも、在野の有名人のほうが物事の本質を衝いているようなことを言うことは多い。

 南野氏もまた、佐藤氏を疑うこともせず、《今、テレビ、パソコン、そういうメディアのことに関連しては、青少年を取り巻く社会環境は発展途上にある青少年の人格形成に影響を及ぼしている、先生のおっしゃっているとおりだと思っております。とりわけ、青少年の健全な育成に有害な影響を与える情報があふれていることは極めて憂慮すべきものである、これも同感だと思っております》と同調してしまう。ここでの「健全な育成」という甘言の持つイデオロギー性を、いい加減我々は汲み取っておく必要があるだろう。

 これ以降の佐藤氏の発言に問題のある箇所は見られないけれども、佐藤氏が現代の青少年に向けている視線は、極めてイデオロギー性に満ちた者である、といわざるを得ないだろう。このような認識を持った人が、青少年委員会と言う立場に存在していることに、私は疑問を感じ得ない。これは、佐藤氏のみならず、佐藤氏と意見を共有する議員にも言えることだが、青少年問題を奇貨として国家の再建を図る、ということは、現在ある種のアノミー状態に陥っている我が国において、むしろ悪影響しか及ぼさないのではないか。その証拠としてあるのが、現在反日暴動に沸き還る中国である(ちなみに、デモ自体には罪はない。しかし、それが暴行や器物損壊に発展してしまうと、罪が生じる。それを峻別できていない人が、自称「保守」には多すぎる)。結局のところ、佐藤氏の議論は、戦時中的な「国粋主義」の復活を訴えているに過ぎず、「国家の誇り」みたいなものが全てを(現実には佐藤氏の自意識の問題を)解決してくれる、と佐藤氏が夢想しているに過ぎない。日本文化論の論客として有名な故・山本七平氏が、戦時中の日本人捕虜の日記を通じて批判したのは、まさにこの「国粋主義」であった(山本七平[2004])。

 さて、佐藤氏と南野氏のやり取りはここで終了する。ここからは、南野氏と水島広子氏のやり取りを検証することにしよう。とはいえ、水島氏の発言の中でも特に問題のあるのは1箇所だけなのだが、そこに極めて間違いの多い認識が潜んでいることを、指摘しないわけにはいかないだろう。

 また、一部でも有名な通り、水島氏は、フェミニストの側の表現規制推進論者として有名であり、海外の表現規制推進団体と強い繋がりを持っていることでも知られている。まあ、これは問題の本質ではないので、軽く触れておくにとどめておこう。

 水島氏は、南野氏との答弁において、このような発言をしてしまう。曰く、《今の社会は、もう皆さんも御承知のように、地域の子育て力というのが落ちておりまして、私はこれは、家庭の子育て力が落ちているんじゃなくて、地域の子育て力が落ちているから、その地域の中における家庭の子育ても難しくなっているんだと思っております。例えば、そんな中では、テレビを長時間見ると暴力的になるという、これはかなり信頼できるデータもございますけれども、密室育児で、あるいは近くに頼れる大人がいなくて、親が忙し過ぎて、そして地域に家庭が開かれていなくて、そしてテレビの前に子供が放置されているというのは、これは一種のネグレクトと言ってよい状況だと思います。そのような状況に置かれている子供が、現実には大変多くなっていると思います》と。まず、《今の社会は、もう皆さんも御承知のように、地域の子育て力というのが落ちておりまして、私はこれは、家庭の子育て力が落ちているんじゃなくて、地域の子育て力が落ちているから、その地域の中における家庭の子育ても難しくなっているんだと思っております》という言説に関しては、これもまた責任のすり替えの論理でしかない。なぜ責任のすり替えか、というと、結局は佐藤氏の議論を「家族」から「地域」に置き換えただけに過ぎないので、深入りは避ける。もう一つ、《テレビを長時間見ると暴力的になる》というのが《かなり信頼できるデータ》と、水島氏は言うけれども、そのデータの出所が明らかになっていないし、社会学者の宮台真司氏によると、そもそもメディアと暴力性に間に直接的な影響は実証されたことがなく、《元々暴力的な性質を持っている人が暴力を振るう際の「引き金」にはなる》(宮台真司[2005])といい、さらに《あくまでも引き金要因であって、本体の原因をメディアが作るということはない》(宮台・前掲書)という。また、1万歩ほど譲って水島氏の引き合いに出している説が正しいとしても、水島氏の議論において欠落しているのは、テレビに多く接している子供たちが一様に暴力的になったのか、それとも他の要因が関わっているのか、ということが提示されていないことである。もし他の要因があるとすれば、それに関しても検討すべきである。また、水島氏は、《密室育児で、あるいは近くに頼れる大人がいなくて、親が忙し過ぎて、そして地域に家庭が開かれていなくて、そしてテレビの前に子供が放置されている》ことに関して《そのような状況に置かれている子供が、現実には大変多くなっていると思います》と言うけれども、それは本当なのだろうか。

 まあ、南野氏に関しては質問者の意見を受けて現在の政策を説明する立場にあるから仕方ないとしても、佐藤氏と水島氏の議論の背景に共通してあるのは、やはり「異常な」子育てが少年犯罪を生む、という認識に他ならない。また、そこから「異常な」子育てを「正す」施策を正当化する、ということに関して、水島氏は言及してはいないけれども、佐藤氏は恬然として容認している。しかし、ひとり家庭環境から、その子供が犯罪者になることを特定できるか否か、というのはまったくのデタラメであり、政治が少年犯罪者にできることといえば自らが犯した罪に対してそれに応じた償いを徹底させることしかない。家庭環境、あるいはメディア環境によって犯罪者になる「しるし」を特定してしまうことは、結局のところ予防拘禁の論理となる。

 また、政策構築に必要なのは実証的なデータである、ということを水島氏も佐藤氏も、さらには責任者である南野氏さえも、忘れているのではないか。また、本来政治に求められているのは、実証的なデータのみならず、巷で喧伝されている「危機」を常に相対化した上で、政策を構築することに他ならない。また、それに関して知識人の果たす役割も大きいだろうが、現実には、メディアの寵児と化している自称「識者」は「危機」を相対化するどころか自らが扇情的な「危機」言説の生産者となっている。無論、「危機」に関して常に疑いを持ち、強力な事実に基づいた良心的な知識人も我が国には多数存在するが、やはりそれらの仕事はどうしても地味に見えてしまい、扇情的な「危機」言説に比べて、メディア受け、大衆受けする確率は低い。しかし、多様な意見を提示することこそ、ほかならぬマスコミの仕事であり、特に青少年問題に関する言説に関して、マスコミはそれを怠っている。
 マスコミさえもこの体たらくであれば、今必要なのは、市民に「危機」を相対化することへの動機付けを与えてくれるような「芸人」の存在であろう。現に我が国では、出版からネット上まで、多くの「芸人」が存在する。有益なことだ。また、最近では、新書のレヴェルで、現在の政治がことごとく見落としてきた、例えば憲法や教育などの基礎的な理論を説いている本も多い。まず、それらの言説に触れて、現在の政治を疑う目を養ったほうがいい。

 参考文献・資料
 小田中直樹[2004]
 小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年2月
 斎藤美奈子[2003]
 斎藤美奈子『モダンガール論』文春文庫、2003年12月
 重松清[2004]
 重松清「少女と親が直面した「見えない受験」という闇」=「AERA」2004年7月18日号、朝日新聞社
 重松清、河合幹雄、土井隆義、宮崎哲弥[2004]
 重松清、河合幹雄、土井隆義、宮崎哲弥「日本社会はどこまで危険になったか」=「諸君!」2005年1月号、文藝春秋
 広田照幸[1999]
 広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書、1999年4月
 広田照幸[2003]
 広田照幸『教育には何ができないか』春秋社、2003年2月
 宮台真司[2005]
 宮台真司『宮台真司interviews』世界書院、2005年2月
 山本七平[2004]
 山本七平『日本はなぜ敗れるのか』角川Oneテーマ21、2004年3月

 姜尚中『ナショナリズム』岩波書店、2001年10月
 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 松原隆一郎『長期不況論』NHKブックス、2003年5月

 内藤朝雄「「友だち」の地獄」=「世界」2004年12月号、岩波書店
 内藤朝雄「お前もニートだ」=「図書新聞」2005年3月18日号、図書新聞]

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2005年4月17日 (日)

トラックバック雑記文・05年04月17日

 走れ小心者 in Disguise!: ジョグリング仕掛けの明日(克森淳氏)
 この記事においては、『トンデモ本の世界R』(太田出版)における、作家の山本弘氏の言葉が引かれています。

 そう、彼ら(克森注:「買ってはいけない」執筆陣)が言っていることは、科学的な装いをこらしてはいるが、結局は「好き嫌い」に過ぎないのだ。

 上の文言をしっかりと踏まえた上で、下の記事をお読みください。
 変見:危機管理
 「トラックバック雑記文・05年04月09日」に、なぜかトラックバックされていた文章です。この文章において、《ため池の近くで遊ぶな・鉛筆は鉛筆削りで・木に登るなという教育で事故が減っただろうか。むしろ凶悪な事件が増えている。私たちが小さい頃は木の枝が折れて落ちたり、ナイフで手を切ったりしながら危機管理を体で覚えてきた》みたいな文章があって、本当にいい加減にしてほしいよな、と思った(事実誤認ですからね)のですが、私のこの文章に対する疑問の本質はこれではありません。

 …《セラミックチップ》?

 そこにあるウェブサイトへのリンクが貼ってありました。

 それがこちら

 …疑似科学ですね。

 これを販売しているのが、なんでも柳井魚市場で、これを使用した、という証言がもうすごいのなんの。

 アルファ波が増えるため、付けた瞬間から体がリラックスして、 頭が冴え、すばらしい発想が生まれ、反応も早くなります。集中力が増したり、意欲的になるので勉強の能率も上がります。 不登校・切れやすい子にも是非お試しを、別人のように変わる子もいます。

  風邪を引いても昼寝から目が覚めたら治ってたというような例が
たくさんありますが、使ってはじめて納得できると思います。
風呂に入れると温泉水のようになり、湯冷めしぬくいし、
石鹸やリンスもいりません。チップを入れた水で拭き掃除をすると大変きれいになります。

 愛用者の殆どが入試や資格試験に合格しています。その効果は信じ難い物があります。使えば分かります。

 チップを利用している子供達は運動能力が上がり、体も大きくなっています。

成績のことを聞き出すのは難しいのですが、確認の取れた子の殆どは成績が上がっています。

チップを手離さなくなる子が大勢います。本能的に良い物が分かるのだと思います。

オーリングテストと同じ作用でしょう。頭の働きが良くなり、集中力が増す・
精神的にも強くなります。体に吊して胃薬がいらなくなった人が大勢おられますが、

体を丈夫にする効果だけでなく、精神面の強化による影響

もかなりあるのではないかと思われます。

 すごすぎますよ。ここまで事例らしきものを提示しておきながら、実例やデータの提示がない、というのはどういうわけなのでしょうか。このような「うまい話」には必ず裏があるものです。もしかしたらこの団体の裏で、誰かが操っているとか…と言ってしまうと陰謀論になりますが、この《セラミックチップ》一つで複雑な教育問題も精神の疾患も身体的な問題も、それどころ環境問題さえも何でも解決できる、というのは、はっきり言って疑うほかありません。

 「変見」の「危機管理」という記事の中においても、《セラミックチップは冷静な判断や機敏な行動の為にも役立つ優れものだ。穴をふさぐよりこちらが普及した方が事故や事件は確実に減るが、残念ながら、殆どの人に理解してもらえない》などという妄想が書かれております。《殆どの人に理解してもらえない》というなら、まず実証に足るデータを提示するべきでしょう。もしデータもなく《セラミックチップ》のために莫大な予算を投入して、何の効果も得られなかったら、無駄なものに予算をつぎ込まれた、として納税者の怒りを買っても仕方がないでしょう。政策構築とはそういうものです(ちなみに「変見」のバックナンバーを読み通してみると、もう《セラミックチップ》は万能だと言わんばかり)。

 また、このような文章には、権力のにおいがします。現在起こっている複雑な問題を、《セラミックチップ》を用いることによって、さまざまな問題が解決できるという妄想を広めて、人々の思考力を奪う、というもの。本当に、この手の疑似科学は、市民の良識で解決しなければなりません。

 いいですか。複雑な問題もこれ一つで簡単に解決できる!という謳い文句は、まず疑うべきです。そして実証的なデータがないか探し、必要とあればその(実証的、あるいは理論的)提示を求めること。

 情報流通促進計画:吉岡忍さんらも出席~憲法改正国民投票法案を考える院内集会
 私は、基本的には憲法改正国民投票法には賛成です。しかし、現在自民党が進めている「憲法改正国民投票法」には、《何人も、国民投票の結果に影響を及ぼす目的をもって新聞紙又は雑誌に対する編集その他経営上の特殊の地位を利用して、当該新聞紙又は雑誌に国民投票に関する報道及び評論を掲載し、又は掲載させることができない》というのがあるそうです。

 これでいいのでしょうか。

 憲法改正の国民投票という、国家の命運を決める一大事こそ、多様な言論を世に広げさせて、真剣に国民に考えるチャンスを与えるべきです。そもそも《国民投票の結果に影響を及ぼす目的》というのがとても曖昧です。例えば護憲派の人々は、今まで何度も憲法改正の危うさや疑問を指摘してきたわけですけれども、それらも含めて、憲法改正に関する評論は図書館とか企業とか個人とかのデータベースに存在しますので、それらを参照してから投票に臨むことも可能なわけです。ですから、これを一字一句素直に実施するならば、国民からすべての情報を遮断しなければならないはずです。また、規制の文言が曖昧な分、国家が恣意的に情報統制を行ってしまい、政権党に有利な情報ばかり流通してしまう、という懸念も拭い去れない。

 もう一度言います。憲法改正の国民投票こそ、情報を広く流通させた上での、幅広い議論が必要なのです。

 ヤースのへんしん:年収1億で維持費21億
 《年収1億で維持費21億》というのは、京都の「私のしごと館」のことですが、これの存在をはじめて知ったとき(確か、TBS系列の「噂の!東京マガジン」の「噂の現場」だったと思います)、こんなのに本当に意味があるのかよ、と思いました。確かこれの設立意思は、高校生のうちに様々な仕事に触れさせて、将来におけるフリーターの撲滅だった気がしますけれども、結局それは失敗に終わっただけです。

 蛇足ですが、特に自民党の皆さん、フリーター問題を安易に若年層の就職意識の低さに求めないでください。若年雇用の問題は、あなたたちが思っているよりも相当深刻なのですよ。つい最近の日経新聞に、経済学者の玄田有史氏や小杉礼子氏が、学歴や親の年収が、フリーターや若年無業者の出現に大きくかかわっている、というデータを提示しておりました。なし崩し的な「都市再生」だとか公共事業とかよりも、まず地域の魅力を高める都市計画と、社会福祉の拡充をやるべきです。

 お知らせ。「俗流若者論ケースファイル12・松沢成文」を公開しました。それにしても、「kitanoのアレ」とか見ていると分かるのですが、青少年問題に関して相当おかしなことを言っている政治家が多すぎます。今度は青少年育成担当大臣の南野知恵子氏ですか。いい加減にしてほしいものです。

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俗流若者論ケースファイル12・松沢成文

 前回の石原慎太郎批判においても触れたが、現在、東京都を中心に、周辺の自治体の首長が中心となって青少年対策を推し進めるプランが進行している。この「対策」は、平成17年2月の千葉県知事選で堂本暁子氏が当選したことで一旦は鳴りを潜めたが、しかしそのときの対抗馬として出馬した森田健作氏の集会に東京都知事である石原氏や横浜市長の中田宏氏などが出席した、ということから、この地域における「対策」への腰の入れ具合がわかろうというものだろう。というわけで、今回はその「対策」のキーパーソンの一人である、神奈川県の松沢成文知事の発言に注目したい。

 松沢氏といったら、地方政治の場で改革派の知事として有名ではあり、それに関しては私も注目してきたけれども、平成17年3月2日の定例記者会見において松沢氏が口走ったテレビゲーム規制に関しては、やはり疑問を感じ得ない。

 松沢氏は同日の記者会見の場において、《付け加えるならば、やはり今の少年たち、ゲームなんかの影響でですね、バーチャルとリアリティーの区別がつかなくなってしまって、バーチャルなものに影響され過ぎて、それで犯罪に走ってしまうということが多々あるんですね》と言ったという(松沢氏の発言に関しては神奈川県のウェブサイトから、以下、同様)。しかし、もうこのブログにおいて何度も言っていることなのであまり深く言及するのは避けたいけれども、少年による凶悪犯罪は増えていない。確かに強盗に関しては最近になって急増したけれども、これは単に増加したのではなく、これまでは「窃盗」などとして処理されていたものを、「最近の少年は凶悪だから厳罰に処せ」という大号令が発せられたので、凶悪犯罪に分類される「強盗」として処理されるようになったのが最大の理由である(土井隆義[2003])。また、検挙率が低下したというけれども、これも最近になって警察が素直に被害届けを受理するようになったから、ということに過ぎない(浜井浩一[2005])。松沢氏の文言に従えば、現在の青少年は《ゲームなんかの影響》で凶悪な少年犯罪が増加しているはずなのだが、実際には減少しているのはどうしてだろうか。松沢氏はそれに答える必要があろう。

 また、松沢氏は平然と《今の少年たち、ゲームなんかの影響でですね、バーチャルとリアリティーの区別がつかなくなってしまって》ということを言うけれども、このような言説に関しては、平成9年に、いわゆる「酒鬼薔薇聖斗」事件が起こった際、ワイドショーにおいて喧伝された文句であるのだが、最近になってこれはもはや「定説」として定着してしまった感がある。しかし、このようなことを推し量ることが果たして可能なのだろうか。そもそも《バーチャルとリアリティーの区別がつかなくなってしまって》なっているというのはいかなる状態なのだろうか。またそれは本当に問題なのだろうか。見方によれば、目に映るもの全てが「虚構」だと言い切ることもできる。このような論理を振りかざす人における最大の欺瞞が「現実」と「虚構」の線引きを容易にしてしまうことである。それにしてもなぜ《ゲームなんかの影響》ということを易々と言ってしまえるのだろうか。他のメディアの影響はないのだろうか。ゲームばかり槍玉に挙げるのはそもそも思考停止であるのだが、これに関してはもう問うまい。

 松沢氏は《ゲームなんかの影響》をさも「実証」するように、《例えば、これは、暴力関係じゃないですけれども、レインボーブリッジの下をジャンボジェットがくぐるゲームソフトがあってですね、それに影響されて、もう3年ぐらい前ですけれども、コックピットに入った少年はですね、そのゲームを自分も一度やってみたかったということを証言しているわけですね》ということを語るのだが、これは極めて例外のケースであろう。そもそもこのようなフライト・シミュレーターを使用している人は何万人もいるはずだが、それならなぜそのような人たちは同様の犯罪に走らないのか。そもそもこのような事件に関しては、背後に精神分裂病(統合失調症)の影響が見られるケースが多く、この事件も然りだった。ジャーナリストの日垣隆氏によると、この事件に関して、例えば産経新聞はこの犯人の精神障害を巡って実名報道か匿名報道か揺れ動いたことがある(日垣隆[2002])。蛇足だが、この事件の犯人は《少年》ではない。

 そもそも現代の青少年、特に男子においては、その多くが少なからずゲームに接したことがあるから、彼らのうち一人でも犯罪を起こせば「ゲームの悪影響」を捏造することは極めて容易である。しかし、マスコミがそのような虚構ばかりを報じるばかりに、本来であれば憲法を遵守すべき(国民の人権=国家から不当に処罰を受けない権利を尊重すべき)立場にある松沢氏が、ゲームの規制などといった反憲法的な挙動をしでかしてしまう。もっとも最近は、カードゲームなどに主役の座を奪われて、テレビゲームも危機の淵に立っているらしいが。

 さて、先ほど、ゲームの規制に関して「反憲法的な挙動」といったが、なぜ「反憲法的」なのだろうか。これに関しては、まず憲法21条における「表現の自由」に抵触する恐れがある。また、これに関して「規制」を認めてしまうと、他の「規制」もなし崩し的に認められてしまいかねない。さらに、このような「規制」の根拠が「青少年に有害」という理由から、ということだが、このような「規制」の論理には多分に恣意性が入ってしまう恐れが高い。しかし最大の問題点は、ゲームによって青少年が凶悪犯罪を起こしやすくなっている、ということがまったく証明されていないことであり、それをいいことに単なる「感想」程度の問題意識で「規制」が誘発されてしまうことであろう。現に松沢氏も、《ゲームソフトの度合いをどう計るかというのは客観的にはなかなか計りにくい部分があります》と認めている。要するに、この「規制」を支えている基盤は敵愾心だけなのである。

 松沢氏は、神奈川県のみならず首都圏全体に規制の網をかける理由として、《例えば、多摩川を越えて向こうへ行けば、そのソフトが買えるというのでは、今、例えば新宿や渋谷に買い物に行く子も多いわけでそれは機能しなくなりますので、最低限、首都圏全体で同じような規制ができるように、私はまた首都圏連携の一環として、この問題も提起していきたいと考えております》と言うのだが、この論理に従えば日本全国に規制を敷かなければならないだろう。さらに、通販やインターネットも問題視すべきだろう。松沢氏は、このような発言をすることで、結局自分で自分の規制論の無効性を示している。

 この改憲の全文を通じた松沢氏のゲームに対する、あるいはゲームが青少年に及ぼす影響に対する認識は、はっきり言うが「感想」の域を超えていない。もちろん、松沢氏自身が《うちは二人とも女の子なんで、あまりそういうゲームソフトは家にないんですよね》と語っているように、ゲームに対してあまり明るくない、ということもあるだろうが、結局はメディアで喧伝されるような影響論を語っているだけ。なんの新味も無いのである。ゲームに明るくない向きであっても(ちなみに私は高校の中ごろまではゲームに熱中していたが、次第に離れていった。なので、最近のゲームにはほとんど詳しくない)、せめて少年犯罪の現状についてはある程度知っておくべきであろうが。

 とりわけそんな松沢氏の認識を象徴するのが次のような発言だろう。曰く、《どういうふうに調査、分析をするかというのは難しいんですが、もう国の方でもある意味で全体規制を考える時期だと私は思ってます。そういうふうに言った方が正確かもしれません》と。青少年問題の解決のために最も最初にやるべきことは、果たしてゲームの規制なのだろうか。前にも述べたとおり、ゲームが青少年問題の深刻化に寄与しているのか、ということは到底言いにくい。確かに、映像技術の向上によって、ヴァーチャルな暴力表現をリアルに再現できるようにはなっただろう。しかし、それなら、なぜもともとリアルな状況を切り取った、例えばテレビの格闘技中継などを糾弾しないのだろうか。結局、「今時の若者」に脅える「世論」にとって、ゲームが若年層にとってのみの遊戯として捉えられている以上、「世論」的にコンセンサスを得ている娯楽よりも、それを得ていない娯楽を槍玉に挙げたほうがいいだろう。しかし、そのような体たらくを続けて恥じない姿勢が、物事の多層的な本質から目を遠ざけ、安易に「敵」を捏造して糾弾してしまうようなスタイルを生み出し、「世論」の不安に乗じて根拠薄弱な規制論を持ち出す政治家や首長をそこらじゅうに生み出してしまった、という現実を、マスコミはどのように考えているのだろうか。

 また、この記者会見において、松沢氏は支離滅裂の発現をしている箇所もある。《ジェット機で橋の下をくぐるゲームというのは規制の対象になり得るんでしょうか》というインタヴュアーの発言に対して、松沢氏は《県が作っている基準を見ると、それはなかなかならないですね。例えば暴力シーンだとか過激な性描写だとか、そういうのではないですからね。まあ、だから、その辺もちょっと審議会の方でも少し相談してみたいと思ってます》と答えている。松沢氏は、《暴力シーンだとか過激な性描写》を規制しても犯罪を防ぐことはできない、と言っているわけだが、結局は「規制」が抑止力になりえない、ということを自ら示しているだろう。松沢氏はその直後において《要するにバーチャルとリアリティーの区別がつかなくなって、ゲームに感化されて、「ああいうこと、自分もできるんだな」と思って犯罪に走ってしまうと、誘発していると、そういう一つの例で出しただけであって、別にほかの例でもいいわけですけれども》と言っているけれども、いい加減こんなロジックの無効性を認めたらどうか?

 松沢氏は、ゲームの規制について訊かれた部分の最後のほうで、《公共の福祉に反するような表現の自由というのは当然そこは制限があるべきであって、それを民間に任せ、当事者に任せていたのでは進まないからということで法律を作るわけですよね》と言っている。しかし、《公共の福祉に反するような表現の自由》というのは一体何を指すのだろう。最も必要なのは実在する人に対する人権及び公共の福祉であり、その点から見れば最も規制されるべきは違法性を持った(実写の)暴力ポルノであろう(内容ではなく、撮影の過程で行なわれていること自体が刑法の暴行罪に抵触している可能性があるから)。「青少年に有害」という「感想」程度のものを《公共の福祉に反する》とすりかえるのは、かえって本来守られるべき公共の福祉(社会秩序の構成)を侵害することになりかねない。

 松沢氏のこのような認識を支えているのは、青少年問題の根本的な原因はゲームであり、それを根絶することこそ青少年対策になる、ということだろう。しかし、何度も述べたとおり、ゲームが青少年問題の深刻化に寄与している、ということは実証できない。「世論」にとってゲームとは、それを槍玉に上げれば「癒される」ものに過ぎず、松沢氏の理論はそれにただ乗りするだけのポピュリズムに他ならない。

 余談だけれども、平成13年9月11日に起こった米国のテロのとき、マスコミは飛行機が貿易センタービルに突っ込む映像を繰り返し流したけれども、それに対して松沢氏はどう思ったのだろうか。また、平成15年のイラク戦争のときも、米英がイラクを爆撃する映像を流した後、例えば小泉純一郎首相の、イラク戦争を指示する発言が流されたけれども、松沢氏はそれらの報道が青少年に及ぼす影響を勘案したことがあるのだろうか。松沢氏はゲームに関して《今、こういうものは儲(もう)けられればいいということで、さまざま規制の網をくぐり抜けて、いろんな知恵を働かせて商売する方もかなり多いので》と述べているけれども、スペクタクルな映像を流しまくって《儲けられればいい》と考えているのはほかならぬマスコミであり、そのあたりへの想像力が欠如している。現在のマスコミにおける、特に戦争報道と少年犯罪報道における想像力の欠如は深刻だ。そのマスコミの現状と比べれば、ゲームなど取るに足らないものであろう。

 松沢氏に限らず、例えば日本大学教授の森昭雄氏(蛇足だが、この人が実は脳の専門家ではないことが最近になって明らかになっている)の「ゲーム脳」理論もそうだけれども、ゲームを最初から「悪」と決めつけ、それが青少年から思考力・社会性その他を奪っていると思い込み、それらを排した「健全育成」が子供を救う、という理論が怪物の如く横行している。しかし、結局のところ、彼等の振りかざす「健全育成」は自分の「気に入らない」物を排除した上での「健全育成」に過ぎず、真の健全育成とは子供がもっと多様なメディアや社会環境に触れることのできることをいうのではないか。無論その中にはゲームも含まれる。

 松沢氏などが振りかざす「現実と仮想の区別がつかない」というのはすり替えの論理である。なぜか。それは多くの保守系の政治化が「現実と仮想の区別がつかない」事態に陥り、彼らの脳内幻想、そしてその複数形の共同幻想としての「国家」の復活を切望し、そのための憲法や教育基本法の改正が行なわれているからである。松沢氏とも親睦の深い、石原慎太郎氏などはその典型であろう。それに関する詳しいことは「俗流若者論ケースファイル11・石原慎太郎」で。

 参考文献・資料
 土井隆義[2003]
 土井隆義『〈非行少年〉の消滅』信山社、2003年12月
 浜井浩一[2005]
 浜井浩一「「治安悪化」と政治政策の転換」=「世界」2005年3月号、岩波書店
 日垣隆[2002]
 日垣隆『エースを出せ!』文藝春秋、2002年9月

 橋本健午『有害図書と青少年問題』明石書店、2002年12月
 長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』ちくま新書、2004年4月
 宮台真司『宮台真司interviews』世界書院、2005年2月
 ジュディス・レヴァイン、藤田真利子:訳『青少年に有害!』河出書房新社、2004年6月

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2005年4月13日 (水)

トラックバック雑記文・05年04月13日

 週刊!木村剛:[ゴーログ]『Google八分』や『Yahoo八分』は本当に起こるのか?(木村剛氏:エコノミスト)
 このブログの横に「参考サイト」として登録されています「奈良女児誘拐殺人事件における、マスコミのオタクバッシングまとめサイト」の姉妹サイトにあたる、「「フィギュア萌え族(仮)犯行説」問題」(管理人は古鳥羽護氏)というサイトがあるのですが、このサイトが一時期Yahoo!から「利用規約違反」との理由で強制的に閉鎖されてしまいました。現在でこそ復活しておりますけれども、なぜこのサイトが閉鎖されたか、というのは私にはどうもその理由が分かりません。おそらく、件のサイトで大谷昭宏氏(この人をジャーナリストと呼ぶことは、大先輩の黒田清氏に失礼ではないかと思う)をテレビの映像つきで批判して、それが著作権法違反にあたる、という見方もできるでしょうが(これはあくまでも推測であって、古鳥羽氏のサイトが著作権法に抵触しているか、ということについては議論されるべきでしょう)、このサイトよりもテレビの映像を晒しているサイトはほかにたくさんあるような気がします(同日午後9時35分追記:サイトの閉鎖に関しては、広告が表示されていなかったのではないか、という指摘がありましたので、可能性としてはこちらのほうが高いのではないかと思いますので、訂正いたします/同月16日午後7時42分修正:実際、件のサイトが閉鎖された原因は大谷氏サイドからの苦情だった、という指摘がありましたので、再修正します)。

 木村氏のブログでは、インターネットの検索サイトから外されることに対して「表現の自由」に対する侵害だ、という主張が引用されていますけれども、インターネット時代だからこそ「言論」というものを深化させなければならないのではないか、と私は思います。現在発売中の経済週刊誌「エコノミスト」で、ジャーナリストの日垣隆氏が、ブログが普及することによって「書き手」になるための敷居が低くなったことを指摘しています。日垣氏はこのことに関して「有益なこと」と言っており、ここで正念場になるのはプロの書き手だ、と述べております。私も、ブログを開くことによってさまざまな賛同や批判を目にしてきました。中には至極まっとうな批判もあり、考えさせられる文章もあったのですが、とりわけ痛感するのは、私も「言論」の担い手になってしまっている、ということです。これはもう不可逆なことです。

 ブログが普及することによって「書き手」が増えると、既存の書き手市場も含めて言論は大淘汰の時代になるのではないか、と思います。これにより、既存の「論壇誌」はますます危機に晒されることになるでしょう。でも、この危機の炎を乗り越えてこそ、言論のプロが活躍する洗練された「論壇誌」になると、私は確信しております。

 木村氏のブログにおいては、読売新聞が発行する週刊誌「Yomiuri Weekly」に掲載された記事にリンクが張られておりますが、この記事を読んだ私の感想は、とにかく問題をブログの責任になすり付けているな、ということ。「Yomiee」の記事においては、ブログは所詮「2ちゃんねる」と変わらないのだ、と言いたいのでしょうが、ブログの可能性を狭めているのは、むしろこの「Yomiee」の記事ではないか、と思われます。私はこのブログの機能を用いて、匿名での投稿ができないようにしておりますが、悪質な「煽り」に対して、技術的な面でそれを排除できるようにするシステムも必要なのではないか、と思います。あと、注意しなければならないのは、このようなネット上の反道徳的行為を奇貨として、政治家がネット規制に走ることでしょうか。

 千人印の歩行器:[読書編]bk1投稿書評(栗山光司氏)
 オンライン書店の「bk1」がリニューアルオープンしました。栗山氏の書評において、最も多く投票されたのは『アホでマヌケなアメリカ白人』の書評だそうです。ちなみに私のもので一番多かったのは、正高信男『ケータイを持ったサル』で、次が荷宮和子『声に出して読めないネット掲示板』でした。いずれも批判書評なのですが、私の書評を読んでみると、どうも批判書評が多く読まれる傾向にあるようです。しかも私が批判するのは、たいていベストセラーとなっている俗流若者論ですから、多くの人の目に映るのでしょう。あと、斎藤美奈子氏の本に書いた書評も多くの人が投票していました。

 半分お知らせになるのですが…

 「若者論」で国家論!
 ハイ!ハイ!ハイ、ハイ、ハイ!
 あるある探検隊!あるある探検隊!あるある探検隊!!
 (「レギュラー」のお二方、ごめんなさい)

 というわけで、現東京都知事の石原慎太郎氏が、「仮想と虚妄の時代」と称して、「今時の若者」から国家の衰退を嘆いた85枚にも及ぶ文章が「文藝春秋」05年5月号に掲載されたのですが、これがまた問題ばかりで、思わずその検証として「俗流若者論ケースファイル11・石原慎太郎」という文章を書いてしまいました。ついでに、これの長さを測ってみるとなんと原稿用紙30枚分だとか。ちなみにこの文章は昨日4時間かけて書いた文章なのですが、まさかそんなに書いているとは思ってもいませんでした。

 走れ小心者 in Disguise!:「エール送っとくわ」(克森淳氏)
 目に映る21世紀:これから行くイベント:⑰「トーク・イベント『僕たちの下北沢を救え!!』」

 この文章を公開するとき、多くの人に読んでほしかったので、私がよく見るブログの中でも、石原都政や自民党政治を批判的に見ているブログ(ここにリンクを貼った「走れ小心者 in Disguise!」「目に映る21世紀」にも送りました。ちなみにこのサイトの横の「おすすめブログ」に「目に映る21世紀」を追加しました)にトラックバックを送ってみたわけですが、反響は上々でした。

 それにしても、現在の石原都政を宮城県民の目から見ていると、この人はこれから先の人口減少社会に適合した政策を構築できるのか、と思ってしまいます。たとえば、五十嵐敬喜、小川明雄『「都市再生」を問う』(岩波新書)という本があり、この本では主に東京都で推し進められている「都市再生」がいかに地域を圧迫しているか、ということが告発されています。そしてこれを推し進めているのが、小泉純一郎首相、日本経団連、そして石原知事であるわけです。しかし、人口は確実に減少するのですから、いずれビルは過剰供給の事態に陥ってしまうのは見え見えです。小泉首相、石原知事、経団連は、このような「都市再生」を起こすことによって土地の値段を高騰させて、バブルの夢再び、といきたいようですが、この低成長時代において、経済的な成長が全てを叶えてくれる、という幻想はとっくに潰えているはずなのですが。

 「有害環境」規制だってそう。結局このような政策が起こる背景には、「今時の若者」をそのまま「悪」だとか「エイリアン」「モンスター」だとか決め付けており、その「原因」を「有害メディア」「有害環境」に求めたがる、という思惑があるからでしょう。しかし、このような規制は、青少年が多様なメディアに触れる自由と、親がそれを判断させる自由を奪うものに間違いありません。こういう人たちは、自分が「気に入らない」ものなら国家権力を使って排除してもいい、と思っているのかもしれませんが(「人権擁護法案」への質の低い反論もこの類でしょう。ちなみに私は、現在の「人権擁護法案」は真の人権擁護たりえない、という立場から反対です)、あんたらの身勝手な発想を国政に反映させないでいただきたい。
 しかも「有害メディア」「有害環境」規制には、なにも石原知事だけではなく、神奈川県の松沢成文知事や横浜市の中田宏市長も賛成しているのです。今年の初めのほうで、千葉県知事選がありましたけれども、ここで堂本暁子氏が当選したのが唯一の救いだった。対抗馬として立候補していた森田健作氏が当選したら、「有害メディア」「有害環境」規制の首都圏連合が完成するところだったのですよ。千葉県民に私は最大の敬意を示したい。もし東京・神奈川・千葉が「有害」対策の首都圏連合を実施したら、そのようなことをしてもいい、という「空気」が生まれてしまい、全国の保守的な首長が一斉に規制に乗り出すことも考えられなくもない。今、「言論の自由」は正念場を迎えているのではないかと思います。東京都民・神奈川県民の皆様にも、それを理解して、石原・松沢の両知事に憲法理念を守らせていただきたいです。東京・神奈川・千葉の人たちを、私は応援します。

 私が最近書いた文章はもう一つあり、赤子にかこつけ国家論を書いたジャーナリストの筑紫哲也氏の文章を批判した「俗流若者論ケースファイル10・筑紫哲也」も公開しております。それにしても、筑紫氏にもこんな保守反動的な側面があったとは。
 いいですか。少子化の時代においてもっとも大切なことの一つに、「子供」をイデオロギー化しない、ということが挙げられます。「子供」やその「親」を過度に敵視するのではなく、それらに「寛容」であること。もし「寛容」でいられないならば、せめて「子供」に歪んだ「関心」を持つことをやめてくれませんか。

 それにしても、
 minorhythm:★HappyなNews★(茅原実里氏:声優)
 このような文章を読んでいると、「子供」をイデオロギー化することがなんと愚かなことか、と思ってしまいますよね。

 あと、「この「反若者論」がすごい!01・内藤朝雄」もよろしくお願いします。これからは「若者論」に限らず、それに抗うための「反若者論」も随時紹介していく予定です。

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2005年4月12日 (火)

俗流若者論ケースファイル11・石原慎太郎

 私は宮城県民ではあるが、現在の東京都、及びその周辺の青少年政策の現状が気になっており、それを検証するサイト(例えば「「有害」規制監視隊」や「kitanoのアレ」など)をしょっちゅう見ているのだが、そのようなサイトを見るたびに、このままでいいのか、と思ってしまう。

 例えば問題の多い「青少年保護育成条例」の強化について、その内容の一つとして、出版物への規制が挙げられている。しかし、我が国において出版物規制の動きは過去何度も発生しており、しかもそれがその時々の青少年問題の解決にはなんら進展を及ぼさなかった(橋本健午[2002])。さらに、これは東京都に限らず、神奈川県の松沢成文知事も主張していることだが、ゲームに対する規制という話も出てしまっている。しかし、ゲームが青少年に及ぼす影響について実証的な研究は乏しく、多くの人が支持している「ゲーム脳」理論などは特に、最初からゲームを「悪」と決め付けている傾向が強い。そもそも我が国においては少年による凶悪犯罪は少なくとも増加傾向にはないのだから(浜井浩一[2005])、そのような論理を支持する前提さえも疑われて然るべきだろう。

 横浜市の中田宏市長に至っては、深夜に外出した少年の保護者に罰金を課す、ということを主張した。これは社会学者の宮台真司氏や評論家の宮崎哲弥氏が指摘する通り(宮台真司、宮崎哲弥[2004])、「法と道徳の未分化」という近代法以前の弊害をはらんでいる。このような条例群が施行されると、地方の多くの保守的な議員や首長がこれに同調してしまい、我が国は子供や子供を持つ家族にとって極めて息苦しい社会に転落してしまいかねない。

 そのようなことを推し進める人の心のうちを探ってみたい、と思っていると、「文藝春秋」の平成17年5月号の表紙に、「衝撃の現代若者論」という小さな文字があり、その執筆者はなんと東京都知事の石原慎太郎氏だというのである。タイトルは「仮想と虚妄の時代」。早速「文藝春秋」を購入して読んでみたのだが、これがまた内容が空疎なばかりではなく、我が国の青少年に対する無知や無理解、そしてステレオタイプな石原氏の認識が過度に強調されているのである。少なくとも私は、このような認識を持つ人が青少年行政に関わっているばかりではなく、その影響も計り知れない、ということに戦慄する。それと同時に、このような文章に対して「衝撃」というコピーをつけてしまう編集者の存在にも、無念の情を禁じえない。

 以下、石原氏の文章の内容について、特に問題の大きい部分を検証していくことにしよう。

 例えば石原氏は266ページから268ページに掛けて、自分の経験を綴りつつ現代の若年層を批判する。しかし、石原氏のことや昔の事に関しては過度に美化されているに過ぎず、当然その帰結として現代の若年層は極めて醜悪に描かれる。石原氏は自らと同時代の人に関して、《新しい時代の新しい価値観をということではなしに、新しい文明に依る情念の発露結晶の定着を願っての、未整理のままの実感的な反発であり自己主張だった》(石原慎太郎[2005]268ページ、以下、特に断りがなければ同様)。そのような立場に立って、石原氏には現代の若年層はいかように見えるか。曰く、《しかし今の若い世代には、傾聴とまでいかずとも聞いて気になるようななんらの主張も伺えないし、新しい情操情念も感じられはしない。みんな当てがいぶちの画一的で、総じて誰も無口で自らのメッセイジを声高にしゃべることもない》(268ページ)と。さらに石原氏は、269ページにおいても《日本の若い作家たちの誰も、相した風俗に追従するだけで現代におけるエイリアンを描いてくれはしない》と描いている。これがそこらの人の物言いではなく、ほかならぬ東京都知事の物言いであることに唖然とする。確かに、石原氏などの視点から見れば、現代の若年層は画一的に見えるかもしれない。しかし、その画一化を推し進めてきたのは誰か、ということを、石原氏は露でも考えたことがあるのだろうか。それは、市場のグローバル化を推し進める巨大資本であり、あるいは学習カリキュラム削減の裏で学校社会からの逸脱を許さないことを推し進めてきた教育ではないか、と思われる。残念ながら、現在の一部の(特に都市部の)若年層は、極端に消費社会化する社会の中で、さまざまな「記号」が溢れる社会をけなげに生きるしかないのである。石原氏の認識は、そのような箇所に届いているはずもなく、ただただ現代の若年層を軟弱だ、ひ弱だと罵っているだけである。さすが、「三国人」だとか「田中均は右翼に殺されて当たり前」だとか言った人である、といえようか。ついでに言わせてもらうと、石原氏が現在推し進めている青少年問題や都市の再開発は、現在の若年層から「居場所」を奪うものでしかない。

 石原氏は268ページにおいて、《どうも今日では言葉で綴られた資料なるものは最早情報として余りインパクトを持ち得ない》と書き、《いずれにせよ言語による表現や説明ではなしに、生に近く直截に視覚に訴えての現実を披瀝すれば、最早憤慨とか慨嘆とかいったことでは住まずに、彼らの価値の質感をそこまで変質せしめたものをどう修正し、価値を「真の価値」として取り戻すかを本気で考えざるを得ない》(268~269ページ)と書いてしまう。石原氏が、「今時の若者」を利用したポピュリズムを狙っているのは明らかであろう。確かにこのように《言語による表現や説明ではなしに、生に近く直截に視覚に訴えての現実を披瀝》すれば、確かに「今時の若者」の「異常な生態」を生で感じさせることはできるかもしれない。しかし、このような宣伝方法が有効になるのは、例えば暴走族だとか組織犯罪だとかいった、原因と因果関係が極めてはっきりしている場合に限るのであって、現代の青少年問題の大半を占める、時には「わからなさ」に耐えなければならない、というほかない複雑な問題を、ただ《彼らの価値の質感をそこまで変質せしめたものをどう修正し、価値を「真の価値」として取り戻すか》という単一の「解決法」に帰一させてしまうことは、かえって問題はますます深刻化するのではないか、と考えざるを得ない。ここに石原氏のポピュリズムの体質が表れているのではないか、と思われる。要するに、自らがエイリアンだとかモンスターだとか考えているものに対する「善良な」大衆の敵愾心を煽り立てることによって人気を得ようとすることである。ちなみに言うと、ナチス・ドイツの宣伝作戦においてもっとも効果を持ったものの一つとしてテレビが挙げられる(原克[2003])。

 石原氏は271ページから272ページにかけて、《ケイタイと出会い系サイト》と題して、携帯電話を用いた母子の関係性について批判を加えているのだが、これがどう見ても自らの不快に思う事例の誇張ではないか。石原氏は、《彼女たちにとってはたとえ嘘だろうと母親の携帯電話を通じて声で繋がることが子供としても義務、思いやりの孝養であり、母親にとってもケイタイでであろうと、娘と声で繋がり母親なりの念を押すことで娘の監督という責任を果たしたということなのだ。/これは所詮親子互いに馴れ合いの擬態で、まったく実質を書いた仮想の連帯でしかない》(271ページ)と書いてしまう。なるほど、確かにこの親子に限って言えば石原氏の推測も間違っていないのかもしれない。しかし、その事例だけを見て、現代の病理であると断定するのは、いささかの留保が必要ではないか。また、この事例は石原氏が《東京の実態を取材したある番組》(271ページ)で見聞きした事例なのであるが、このような番組は、編集などの要請によって内容が「今時の若者」をエイリアンやモンスターの如く描くものになっていないのだろうか。また、石原氏がこの部分において《彼女のケイタイに男どもからの申し出が登録され》《件のカモたるべき相手》《キャバクラなる風俗店に》《漫画喫茶なる店で》(271ページ)などと表現しているけれども、ここからも石原氏における現代の社会に対する蔑視が透けて見える。

 272ページにおいて《テレビ・ゲームと少年の殺人》という節に変わっているけれども、この部分はほとんど全部が事実誤認と歪曲といっていいほどである。石原氏は、《今日我々は視覚の領域でも、映画やテレビでCGが造りだすありえぬ光景を仮想として押しつけられている》というけれども、《押しつけられている》という事実があるのだろうか。もし本当に押し付けられているのだとしたら、それを推し進める人たち(巨大資本など)をなぜ糾弾しないのだろう。

 273ページの最後のほうにおいて、石原氏は《最近寝屋川小学校での見境なしに教師を殺傷した少年も、不登校生活の中での暴力的テレビ・ゲームへの耽溺によって培われた衝動のままに、殺傷という行為の本質的意味合いの理解を欠いたままあの行為に及んだようだ。その無分別さは、結局テレビ・ゲームのもたらすヴァーチャルな劇が、彼に殺傷行為に関する倒錯した情操を培った結果といえるだろう》と書いてしまう。石原氏に限らず、この手の少年犯罪報道の習い性になってしまうので困ってしまうが、どうして少年事件を報じるマスコミや、論じる「識者」は、すぐさまゲームを槍玉に上げてしまうのだろう。そもそも我が国においては、ある世代以下の人たちのほとんど、特に男性は少なからずゲームに触れているはずで、しかし近年の我が国において少年による凶悪犯罪の決して増加していないのである(浜井浩一[2005]、パオロ・マッツァリーノ[2004])。少年犯罪に「ゲームの悪影響」を見出す(原因としてでっち上げる)のは、極めて容易なことなのである。それにしても、これもまた習い性であるのだが、ゲームを徒に「仮想」とレッテルを貼り、それが全て敵である、という考え方もどうにかならないものか。

 後に石原氏が触れることになる、精神科医の斎藤環氏は、近年の少年犯罪報道に関して《これらの一切は、あきらかに「祭り」ではなかったか》(斎藤環[2005])と批判している。斎藤氏は、《多くのマスコミや専門家は、現実を無視して「少年犯罪の増加・低年齢化・凶悪化」を指摘した。しかし……これらの指摘は事実に反している。……メディアはなぜその事実を積極的に述べないのか。考えられる理由はただ一つ。誰もせっかくの「祭り」に水を差すような野暮はしたくないのだ》(斎藤・前掲書)と、現在の少年犯罪報道に対してみもふたもない批判をしている。寝屋川の事件に関しても、あるいはその前に起きた奈良県の女子児童誘拐殺人事件にしても、事件が起こってから、そして犯人が捕まってからは、情報のインフレスパイラルといってもいいほど、さまざまな推測・憶測・「分析」が激増した。しかし、その中で物事の本質を衝いているのはごく少数で、大抵は自らの「理解できない」属性を持つ者に対する敵愾心を煽るものでしかない。石原氏の「分析」も、この部類に明らかに入っている。このような「分析」が怖いのは、それに「納得」してしまう層が根強く存在することだ。

 そもそも石原氏は272ページにおいて、《端的に例えて言えば、現代では殺人という極限的な行為が、実はわが手で人を殺すという行為としての重みを欠いた浮薄な質をしか持たず、自殺もそれを行う者にとって人生の究極の選択たり得ていない》と書いているが、この文章は100パーセント誤りであるといっても過言ではないくらいだ。ここでは自殺に関する認識に絞って言うが、それならどうして世の中には自殺しようとしてもなかなか自殺できない人が大勢いるのだろうか。前掲の斎藤氏は、《実際には、死にたい思いを抱えながら死ねず似る若者が数十万人規模で存在するのが現実だ》(斎藤環[2005])と指摘している。この事実から見ても明らかな通り、石原氏は事実に即して書いているのではなく、自らのステレオタイプを思いつくままに書き続けているだけではないだろうか。編集は誰も指摘しなかったのか。

 石原氏は279ページから280ページにかけて、現代の家族の衰退について語る。しかし、ここにも実例やデータの提示がない、あるいは論理的な整合性を欠いている単なる「お話」に終始してしまっている。例えば石原氏は、279ページにおいて、《家庭に限っていえばその核化によって親子三代が共に住むという、全ての人間関係の素地を健全にはぐくむ場としての「家庭」の意味合いは淘汰されてしまった。アマゾンの原始的部落ではいまだに子供は部落の女たちが育て、ある年齢に達した子供たちの野外での仕事の責任は全ての男たちが教えるそうだが、もはや先進社会ではありえぬ構図でしかない》と書いているのであるが、石原氏に問いたい。現代の(あるいは《先進社会》の)家族は、原始的な家族に戻るべきなのだろうか。成熟社会化への流れはもはや不可逆であり、だからこそ現代の家族は成熟社会における「家族」のあり方を模索している。また、《親子三代が共に住むという、全ての人間関係の素地を健全にはぐくむ場としての「家庭」》とは言うけれども、それもまた科学的に証明されているわけではないし、そもそも《全ての人間関係の素地》が何を指すかわからない。

 なるほど、確かに石原氏の夢想する《本質》は消えた。しかし、まずそれを推し進めたのが、戦後の都市政策であることには疑いはないのではないだろうか。社会学者の宮台真司氏は、現代の若年層が下北沢を中心に展開されている「昭和30年ブーム」に惹かれる理由を、《ノスタルジーのリソース》(宮台真司[2005])ではなく《「匂い」》(宮台・前掲書)に求めている。宮台氏の言うところの「匂いがない」というのは、街が全て均質的になってしまい、入れ替え可能になることを示しているのだが、それを推し進めてきたのが戦後の「保守」勢力である。現在の「保守」勢力は、それにふたをして必死に「共同体の再建」を叫んでいるわけだが、そのような叫びは結局小共同体の中で虚しくとどろくだけだ。そして現実に生きる人たちは、そんな「説教」を待つまでもなく、成熟社会の新しい形を探し始めている。

 石原氏は280ページにおいて国家についても語り始めるのだが、ここでも石原氏は暴言を連発する。節は《幼稚化する国家》で、その書き出しは《ことの本質の欠落への認識を欠きながらの試みは所詮真の目的の達成にはなりえないし、逆に己の身を損なうことにもなりかねない》(280ページ)である。まず、北朝鮮の拉致被害者に関して《彼等の実態を眺めれば、常識で考えても拉致されていった同胞のほとんどはすでに存命していはしまい》(280ページ)と書いてしまう。拉致被害者家族に是非読ませたい文章である。また、北朝鮮の経済制裁に関して、《経済制裁という確たる有効な代案を持ちながらそれを提示もできず、耳障りのいい「話し合い」という理念にもならぬ手立てをしか口にだせぬこの国の外交なるものには、ことの本質の欠落についての認識がかけているとしかいいようない。誘拐された同胞たちがまだ生きているという設定での話し合いなるものも、実はヴァーチャルでしかないのではないか》と強硬論をぶち上げる。しかし、経済制裁に関しては、保守派からも疑問の声が上がっているほどである(森本敏[2005]、櫻田淳[2005])。経済制裁慎重論の論客の一人であるジャーナリストの日垣隆氏は、北朝鮮に対して《相手はテロ国家なのですから、その犯罪行為に対する責任を問うことも当然すぎるほど当然です》(日垣隆[2004])と前置きした上で、経済制裁については《経済制裁とは、貿易や援助を抑止する措置を言います。この犠牲になるのは常に民衆です》《北朝鮮に対しても、拉致問題で経済制裁を切り札として本当に出してしまったら、取り返しのつかないことになります。北朝鮮の為政者がクレイジーであればあるほど、人民の飢えが加速度的に進行してしまうからです》(日垣・前掲書)と疑問を呈している。石原氏は、経済制裁の地政学的な意義や、その効用を疑うことをせずに、我が国の外交を《この国は国家と呼べる代物でありはしまい》と難詰してしまうのである。石原氏はおそらく経済制裁、さらにそれが無効であるなら戦争をも辞さないのだろうが、朝日新聞記者の近藤康太郎氏が言うとおり、《戦場から遠くにいる人は、声が勇ましい》(近藤康太郎[2004])ということを我々は胸に刻み込んでおく必要がある。

 石原氏は282ページ下段の中ごろにおいて、《今日横溢する、安易に行なわれる凶悪犯罪も実はその根底に肥大化による人間の自己喪失がある。換言すればそれはただの自己中心主義であり、些細な想像力をすら欠いてしまった人間の抑制の効かぬ衝動がただ気にいらぬ、うるさい、わずらわしいというだけで他人の殺傷に及んでしまうのだ》と書いてしまうのだが、そんなに強く断定しないで頂きたい。そもそもこの文章は完全に破綻している。《人間の自己喪失》が犯罪の原因であるというのであれば、《気にいらぬ、うるさい、わずらわしいというだけで他人の殺傷に及んでしまう》というのはありえるはずもなく、むしろ「酒鬼薔薇聖斗」事件に代表されるような「自己確認型」の犯罪が主流になるのではないか。そもそも《気にいらぬ、うるさい、わずらわしいというだけで他人の殺傷に及んでしまう》というのが現代の典型的な青少年の凶悪犯罪だ、と石原氏は言っているのだが、このような理由で凶悪犯罪に及んでしまう、というのははっきり言って古典的である(宮崎哲弥、藤井誠二[2001])。

 283ページ、石原氏は《しかし彼等の多くにとっては、ケイタイ人気の誰かがその情報を裂いてだれそれの連絡先を教えてくれるということは、彼等の人間関係の枯渇を癒やす術たり得ているそうだ。そしてまたケイタイをもっていながらそれが一向にならない子供は周りから莫迦にもされ、それで阻害もされる》と書く。石原氏はこのような現象を、ただ人間関係の劣化としてしかとらえていないのだが、現実にはもっと複雑な事情がかかわっているのではないだろうか。明治大学専任講師の内藤朝雄氏によれば、現代の学校は《いつなんどき「友だち」に足をすくわれるかわからないコミュニケーションの過密共振状態》(内藤朝雄[2004])にあると指摘する。そのような空間においては、「私」と「友だち」の間の親密圏は絶対的になり、最も効果的な「いじめ」はコミュニケーションを操作する類の「いじめ」である(例えば無視=「シカト」)。石原氏言うところの《ケイタイ人気》の延長上にあるのではないか、と私は思えてならない。横浜市立大学教授の中西新太郎氏は、10代・20代の電話やメールによる通話相手の大半が友人であることを示しているけれども(中西新太郎[2004])、それもこのような学校文化の影響があるのではないかと思えてならない。ちなみに石原氏は《ケイタイ人気》が《人間関係の枯渇を癒やす術たり得ている》といっているけれども、現実はそう甘くはないようで、斎藤環氏は、若年層の中でも携帯電話を使いこなし、一見コミュニケーション上手に見える人たちは、実は誰かと「つながって」いなければならないというストレスにさいなまれているという(斎藤環[2003][2005])。

 石原氏は285ページにおいて、若年層の売春に関して語るけれども、ここでもこれまで石原氏が開陳してきた暴力的な認識が満載である。石原氏は、産婦人科医の赤枝恒雄氏の言葉を引いて(ちなみに赤枝氏は青少年の性に対する規制のキーパーソンと言われている)《そしてその取得への願望(筆者注:「援助交際」少女の願望)に抗しがたく、母親に更なる小遣いをねだる子供にある親は、家にはもうその余裕が無いからいっそ流行りの援助交際でもして奇特な年配者に貢がせたらと真顔でいうそうな》と言っているのだが、石原氏はこれが典型的な現代の家族だと思いこんでいるのだろう。しかし、本当にそうかははなはだ疑問であるし、赤枝氏が自分にとって衝撃的だったことを知らず知らずのうちに誇張して石原氏に言っている可能性もある。それに、そのような状況にある家族に対する支援は、それこそ政治の役割ではないか、という気もするのだが。石原氏が《真顔でいうそうな》と書いているのは、そのような家族に対する社会保障や性教育の不備を正当化するように見えてならない。

 ついでに性教育に関しても触れておこう。20世紀の終わりごろ、米国では、子供の「性」をタブー視し、学校では性教育よりも「純潔」さらには「禁欲」を高く掲げた教育が正義とされ、適切な性教育でさえも保守系の団体に糾弾された。また、宗教保守からフェミニストまで、性表現の規制に躍起になり、マスコミは青少年の「性」に関する過剰な報道で溢れかえった。それを告発した米国の作家のジュディス・レヴァインによると、しかしそれでも青少年の「性」を巡る問題はまったく解決しないどころか、むしろ問題を深刻化させた(ジュディス・レヴァイン[2004])。レヴァインは、青少年を「性」に関する情報から遠ざけてしまったあまり、「性」に関する知識は希薄化し、無防備な性行為が蔓延してしまったことを指摘している。我が国でも一部の自称「保守」が性教育攻撃に奔走しているのであるが(石原氏もその典型であろう)、性教育を禁止してしまったら米国と同じ事態を招きかねないのではないか。また、特に赤枝氏は、中学生までの性行為を法律で禁止しろ、といっているけれども、自由な行動が保障されている我が国において、それが実を結ぶためには、我が国が北朝鮮並みの言論統制国家及び監視国家にならなければならない。

 287ページ上段のはじめごろで、石原氏は擬似脳科学に触れてしまう。曰く、《人間のすべての基本的な感情、怒り、悲しみ、喜び、意欲といった肉体的、精神的に人間を支える内的な要因は全て脳幹によって培われる。そして脳幹は肉体的な試練、抑制によってのみ鍛えられ成長する》と。しかし、《肉体的、精神的に人間を支える内的な要因は全て脳幹によって培われる》というのは科学的に正しいのだろうか。あるいは、石原氏は脳幹を人間性のメタファーとして語っているのであろうが、そのような語り方は他の脳の部分(例えば大脳新皮質など)の働きを無視した議論になりかねないし、そもそも脳構造の欠陥が人間性・社会性の減衰を示す、というのは、脳障害者の差別につながりかねない。また、《脳幹は肉体的な試練、抑制によってのみ鍛えられ成長する》というのも、科学的に実証されているのか。石原氏は、それに応える責任がある(ちなみに同じページの下段でも、石原氏は脳幹に触れている。曰く、《国家としての本質である脳幹の成熟を欠き》だと。脳幹は偉大であることよ)。

 287ページに関しては、問題を大いに含んでいる記述はもう一つある。2つ後の段落において、石原氏は《現代の若い世代のこらえ性の無さはそのまま人間的な卑弱さであり、彼らを無個性化し、結局あてがいぶちへの傾倒にしかなり得ない。それは何よりも家庭においての親のしつけ、幼い子供たちに忍耐を強いる親の責任の不履行に起因している》と書いてしまうのだが、これもまた暴力的、というほかない。そもそも《彼らを無個性化》したのは、ひとり家庭だけなのか。東京大学助教授の広田照幸氏は、実証的なデータを用いて、昔の家庭が躾をしっかりしていた、というのは幻想で、子供の躾が家庭の責任とされたのは高度経済成長期以降だ、ということを示している(広田照幸[1999][2003])。そもそも責任を一方的に家庭に押し付けるのは、それが親の子育てリスクを増大させるばかりでなく、公教育の責任からも目をそらさせる。

 さて、278ページにおいて、石原氏のこの文章はいよいよクライマックスを迎える。この文章の最後になる288ページ、《仮想の虚妄からの解放》という節において、石原氏は斎藤環氏を引き合いに出し、《斎藤氏の報告だと氏が手がけている患者……のほとんどが、もしこの国に徴兵制度が敷かれたらどうするかという設問に、自分は喜んでと答えるそうな。それは極めて暗示的なデータだと思われる》と書く。石原氏はそれに関して、《仮想によりかかり、虚妄に囚われて身動きできぬ虚弱な人間も国家も、結局突然の外からの刺激を待たなくては正当な意思表示も行ない得ず、その存在を明かす行為も取り得ない》と書く。確かに斎藤氏は石原氏が言ったようなことを述べている。しかし斎藤氏の議論においては、「徴兵制」というのはたとえ話の一つに過ぎず、例えば地域通貨など、「ひきこもり」の人たちが社会との接点を持つことの動機付けが必要だと述べている(斎藤環[2003])。

 そして皮肉なことに、ここで明らかになったのは、石原氏こそが《仮想の虚妄》としての「国家」に呪縛されている、ということだ。それは、石原氏のこの文章を検証する中で、私がもっとも明らかにしたかったことである。

 そろそろ結論に入ろう。

 石原氏の文章全体を通じて私が受けた印象は、「空疎」の一言に尽きる。石原氏は「国家」だとか「本質」だとか、威勢のいい言葉は振り回すけれども、その全てが空疎に空回りしているとしか思えないのである。「国家」や「本質」は、結局のところ石原氏の幻想でしかなく、石原氏の思考は単なるユートピア願望に過ぎない。このような文章は、石原氏と同様の幻想を持つ人たちには快く響くかもしれないが、少なくとも石原氏と同様の幻想を持たない私には、単なる空疎な叫びにしか聞こえない。そもそも我が国は現在低成長の局面から成熟社会化への局面に移りつつあり、多くの人が経済的な成長を志すことから降りており、「国家」に対してもさして幻想を持っているわけではない。石原氏の言うとおりなし崩し的に「国家」を再建させても、結局は仏作って魂入れず、で終わるのが関の山だろう。
 また、石原氏は何ひとつ実例を示すことはしない。ただ、現代の若年層を「敵」あるいは「モンスター」「エイリアン」として祭り上げ、若年層への敵愾心を煽り、それと対北朝鮮の「弱腰外交」と結び付けて、「国家」の再生こそが急務である、と石原氏は幻想を振りまく。しかし、石原氏は「国家」を再建するための施策を何ひとつ示そうとはしない。これもまた、石原氏がただ若年層と「弱腰外交」政府に対する敵愾心のみを味方につけているからであり、論理でもって「説得」しようとする態度、そして安易に「病理」をでっち上げずに、社会変容のパラダイムを見据えて、射程が長く、現実的な処方箋を提示するという、言論人としての「真・善・美」はことごとく失われている。

 そうでなくとも、「非社会的な」若年層に「世間」の暴力性が集中している昨今である。暴走族やチーマーなどの「可視的な悪」から、ひきこもりや若年無業者などという「不可視的な悪(かどうかすらもわからない)」に遷移することによって、「世間」は若年層を一層怖れるようになった。そして、若年層の「不可視的な」病理に、さまざまな「物語化」を施し、「世間」は「不可視的な」病理を持った若年層を暴走族やチーマー以上に怖れるようになった。そして、社会の至るところに包囲網が張り巡らされ、冒頭で述べた横浜市のような、法と道徳が分離されない近代法以前の状況が出現することさえ正当化されてしまう。内藤朝雄氏は、これらのメディアに対して、《年配者たちは、わけのわからない不安や不気味な感覚を青少年に投影する。しかも投影しながら自と他が分離されず、思い通りになるはずの他者が思い通りにならないことに自己の内側からいいようのない不気味な不健全感を感じ、これが執拗な被害者感になる》(内藤朝雄[2005])と批判している。卑近な例でも、例えば昨年10月の終わりに起こったイラクにおける日本人殺害事件に対して、読売新聞などは「自分探し」という言葉を社会面で大々的に採り上げた。このように採り上げることによって、若年層には「自分探し」という幻想をやめろと、中高年層には「自分探し」に熱狂する呆れた連中なのだから殺されても当然だ、という幻想を振りまきたいのか。

 内藤氏も示唆している通り、現在巷にはびこっている俗流若者論は「魔女狩り」の体をなしつつある。ひきこもり、フリーター、若年無業者、オタク、渋谷に出入りする人々、あるいは秋葉原に出入りする人々、ネットジャンキー、電車内で床面に座って食する人、奇抜な格好をする人…、それらが犯罪に向かう「しるし」として認識され、それらを「正す」ために最も強力な手段として語られるのが「教育」と「愛国心」である。しかし、このような認識が霧のように我が国に蔓延することによって、ほかならぬ現代の我が国を生きる青少年が最も被害を被ってしまうのである。

 もう一度言う。ここで採り上げた石原慎太郎氏のような、青少年に対してステレオタイプで短絡的な思考しか持たぬ人が、青少年政策に手を出すなど、まずありえぬことである。さらに石原氏のような短絡的な思考が、多くの「保守的な」政治家や言論人によって語られており、憲法や教育基本法の改正にも影響を及ぼしつつある。

 私にとっては、ネットジャンキーよりも若者論ジャンキーによる憲法・教育基本法の改正のほうがよほど脅威である。

 参考文献・資料

 石原慎太郎[2005]
 石原慎太郎「仮想と虚妄の時代」=「文藝春秋」2005年5月号、文藝春秋
 近藤康太郎[2004]
 近藤康太郎『朝日新聞記者が書いたアメリカ人「アホ・マヌケ」論』講談社+α新書、2004年7月
 斎藤環[2003]
 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 斎藤環[2005]
 斎藤環『「負けた」教の信者たち』中公新書ラクレ、2005年4月
 櫻田淳[2005]
 櫻田淳「「暴朝膺懲」の錯誤に陥らないために」=「論座」2005年5月号、朝日新聞社
 内藤朝雄[2004]
 内藤朝雄「「友だち」の地獄」=「世界」2004年12月号、岩波書店
 内藤朝雄[2005]
 内藤朝雄「お前もニートだ」=「図書新聞」2005年3月18日号、図書新聞
 中西新太郎[2004]
 中西新太郎『若者たちに何が起こっているのか』花伝社、2004年7月
 橋本健午[2002]
 橋本健午『有害図書と青少年問題』明石書店、2002年12月
 浜井浩一[2005]
 浜井浩一「「治安悪化」と刑事政策の転換」=「世界」2005年3月号、岩波書店
 原克[2003]
 原克『悪魔の発明と大衆操作』集英社新書、2003年6月
 日垣隆[2004]
 日垣隆『現代日本の問題集』講談社現代新書、2004年6月
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 広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書、1999年4月
 広田照幸[2003]
 広田照幸『教育には何ができないか』春秋社、2003年2月
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 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 宮崎哲弥、藤井誠二[2001]
 宮崎哲弥、藤井誠二『少年の「罪と罰」論』春秋社、2001年5月
 宮台真司、宮崎哲弥[2004]
 宮台真司、宮崎哲弥『エイリアンズ』インフォバーン、2004年11月
 宮台真司[2005]
 宮台真司『宮台真司interviews』世界書院、2005年2月
 森本敏[2005]
 森本敏「国際社会の外交圧力で体制変換をめざせ」=「論座」2005年5月号、朝日新聞社
 ジュディス・レヴァイン[2004]
 ジュディス・レヴァイン、藤田真利子:訳『青少年に有害!』河出書房新社、2004年6月

 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 姜尚中『ナショナリズム』岩波書店、2001年10月
 玄田有史『仕事のなかの曖昧な不安』中央公論新社、2001年10月
 歪、鵠『「非国民」手帖』情報センター出版局、2004年4月
 広田照幸『教育不信と教育依存の時代』紀伊國屋書店、2005年3月
 松原隆一郎『長期不況論』NHKブックス、2003年5月
 山本七平『日本はなぜ敗れるのか』角川Oneテーマ21、2004年3月
 ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』岩波文庫、上下巻、1987年2月

 姜尚中「「こころ主義」まん延した一年」=2000年12月19日付朝日新聞
 斎藤環「不登校児は「欠陥品」?」=「Voice」2005年1月号、PHP研究所
 内藤朝雄「“風通しいい”学校目指せ」=2003年7月3日付読売新聞
 西川伸一「若者に見る「優しい社会」」=2004年2月1日付朝日新聞

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2005年4月 9日 (土)

トラックバック雑記文・05年04月09日

 *☆.Rina Diary.☆*:満開☆(佐藤利奈氏:声優)
 この文章の内容とはあまり関係のないのですが、佐藤氏のミニアルバム「空色のリボン」を聴きました。私の感想としては、佐藤氏の「空」というものに対する想いが存分に込められている作品になっているな、と。タイトルが「空色のリボン」であるだけに、その歌詞には「空」という言葉、およびそれに順ずる表現が頻出します。
 一番私が心惹かれたのは、第3トラックに入っている佐藤氏のフリートーク「あの空で逢えたら Part1」です。ここでは、佐藤氏が「空」に対する想いを語っているのですが、その中で「立っていると、目の前に空が見える」みたいなことを語っていたと記憶しております。
 青い空、曇り空、雨の空。いずれにせよ、空が見える、というのはとても大事なことです。空というものは、おそらくもっとも身近にある「大自然」でしょう。上を見上げるとどこまでも続いていて、思わず吸い込まれそうな、あるいは正面を向いていても、地平線の果てまで続いているような空。空を見ることが、自然に対する興味と関心を高める第一のことだと思います。
 ここで都市計画論的な話に移ってしまいますが、今年2月5日付けの読売新聞において、読売新聞編集委員の芥川喜好氏が「編集委員が読む」というコラムで「空はだれのものか 高層ビルが消した生活のにおい」という文章を書いておられます。佐藤氏のアルバムに心惹かれた人も、ぜひとも読んでほしいコラムです。
 芥川氏は、1月の下旬に新宿で行われた「脈動する超高層都市、激変記録35年」という写真展に関して、《低い建物が並ぶだだっ広い空間に、あるとき黒い塊が現れ、次第に上へ伸びる。その近くにまた同じような塊が生じ、同じように天へ向かって伸びる。その過程が百カット近い映像の早送りで壁に映しだされる。黒い塊は瞬く間に成長し増殖し群れとなって空間を圧し、意思あるもののようにうごめいている》という感想を述べています。
 芥川氏は、《このドキュメントを見て初めてわかることがある。超高層化とは、広い空が侵食される歴史でもあったということだ》と書きます。高層ビルが立ち並ぶ場所では、上を見ても無機質な侵食された空を見ることしかできず、正面を見てもほとんど空を見ることができない、という現実。大都市において広い空を見ることができるのは、超高層ビルに登るという特権を持った人だけ、という現実。空は万人に開かれている大自然の絶景です。それが巨大資本の論理によって侵食されていく。都市化=超高層化を極端に推し進めてきた政権党や巨大資本の偉い人たちが、「今時の若者」の自然に対する意識の低下を嘆く。何なのでしょうか、この矛盾は。基本的に「若者論」を安易に振りかざす人は、政権党が以下に若年層から「生活」の場を奪ってきたか、ということをことごとく無視しますが、そこに目を向けないと現在の政権党の論理を突き崩すことはできないと思います。
 芥川氏のコラムでは、最後に《芸術系大学の学生》が書いた《「超高層ビルと人間」という社会研究のリポート》について触れられております。そこで、次のようなものが引用されています。

 東京は富士を望む街だった。高さの競争などやめて、行き来の道から富士の見える街づくりをしたら、人の心も落ち着いて平和な町になるだろう。

 自然を「征服」するのではなく、自然と「共生」することが現在のパラダイムになりつつあります。最近建築の間で流行している「環境共生住宅」「古民家再生」なども、そのパラダイムシフトに適合した形でしょう。我々は、このパラダイムシフトを理解して、誰もが人間らしい生活を送れるように社会を構築しなければならない。佐藤氏のアルバムと芥川氏のコラムから見えたのは、そのようなことでした。

 ン・ジュンマ(呉準磨)の備忘録:文教政策が大きな政府主義の最後の砦?という以上に・・・
 教科書検定が始まりました。それにしても、今年は4年前とは違い、歴史教科諸問題があまり話題に取り上げられなくなりました。それだけ沈静化したのか、それとも世間の耳目を集められなくなったのか。
 「新しい歴史教科書をつくる会」といえば産経新聞ですが、昨日、その産経新聞が発行する雑誌「正論」を久しぶりに読みました。「正論」からは、もうこの雑誌自体に見切りを付けた、ということで、1年以上書店で見かけてもてにとることすらしなかった(というのも、タイトルと執筆者からどのようなことが書かれているか、ということが見え見えだったから)のですが、今回久々に一通り目を通してみて、余計にひどくなっている、という認識を持ってしまいました。
 巻頭はライブドア問題特集。どれも本質を突いていない論文ばかりでした(岩波書店の「世界」に掲載された文章や、文藝春秋の「諸君!」の特集は読み応えがある)。しかしもっとひどいと思ったのは、日本女子大学教授の林道義氏などによる「ジェンダーフリー教育」批判の文章です。この文章は、もうバリバリの陰謀論です。なんでも「ジェンダーフリー教育」を推し進める左翼は日本の崩壊を狙っており、それを裏で操っているのはマルクスだ、と。私も「ジェンダーフリー教育」には賛成できない部分もあるのですが(性教育には賛成です。あしからず)、ここまで妄想できるのはすごい、というほかありません。しかも、このような認識が、一部の保守論壇人に広く共有されている、というのだからさらに驚きです。大体、「ジェンダーフリー教育」が「どのように」我が国を崩壊させ、「どのように」韓国・中国・北朝鮮を利するか、ということに関してはまったく触れられていない。このような雑誌はある種の「共通前提」を持っている人には大人気なのだろうが、こんなことしていると新たな読者は獲得できませんよ、と言っておく。

 走れ小心者 in Disguise!:  「ブログ版『えらいこっちゃ!』(12)」(克森淳氏)
 カマヤンの虚業日記/カルトvsオタクのハルマゲドン:[資料][呪的闘争][宗教右翼][日本会議]90-91年「有害コミック」問題の発信源・和歌山の「子供を守る会」は、極右新興宗教「念法真教」
 私は基本的には改憲は必要だと思います。しかし、現在自民党を中心に議論されている改憲論には、むしろ批判的です。
 政府・自民党は改憲案に「青少年健全育成に悪影響を与える有害情報、図書の出版・販売は法律で制限されうる」ということを入れようとしていますが、まずここに反対です。第一に、青少年がある情報に関して、そこで得る感想は多様です。第二に、国家が一律に「青少年に有害」な情報を決め付ける、ということは、表現の自由に抵触する危険性があります。第三に、自民党などの皆様が問題にしたがる「有害」な情報・環境は青少年による凶悪犯罪を増やしてはいない、ということは、すでに犯罪白書や警察白書で明らかです。第四に、立憲主義の立場に立てば、憲法とは本来国家に宛てた命令であるはずです。それを理解していない政治家が多すぎます。そして最後に、このような改憲案は、自民党の右派の利権の元となっている宗教右翼や右翼政治団体に対するパフォーマンスである可能性が高い。
 先月の読売新聞において、財団法人日本青少年研究所の調査において、我が国の高校生の半数以上が自国に誇りを持っていない、という結果を嘆いていました。しかし、これのどこが問題なのでしょうか。もし自国に誇りをもてない状況があるとするなら、それを形成した社会的な影響を分析しなければならないはずですが、読売をはじめとして保守的な政治家や論者は、我が国における「左翼」による教育を真っ先に槍玉に挙げます。結局のところ、彼らは、青少年をイデオロギー闘争の道具にしか考えていないのです。憲法の改正案も、教育基本法の改正案も、まさしくこれに当てはまるのではないか、と考えております。
 私は、「大日本若者論帝国憲法」が必要である、と考えております。もちろん、現実的な改憲案ではなく、現在推し進められている改憲案がいかに滑稽なものであるか、ということを示すネタとしての改憲案です。その意図は、「こんな憲法になるんだったら護憲派のほうがよっぽどマシだ」と気づかせることです。この改憲案の骨子は次の通りです。
 ・青少年による問題行動の抑制のため、国旗・国歌・天皇に対する忠誠心を高めて、国家に帰属するための意識を養う。
 ・青少年の愛国心と社会性の涵養のため、強制的徴兵制を男女関係なく実行する。
 ・青少年の健全なる育成のため、「伝統的な」(実際には明治以降の近代化システムの中で捏造されてきた)家族のみを尊重する。それと同様に、子供を多く出産した家族は独身者よりも優遇される。
 ・親は自らが親権を持っている子供の行動を常に監視していなければならない。
 ・青少年に有害な影響を及ぼす恐れのある情報は検閲でもって規制できるようにする。
 ・青少年による凶悪犯罪の抑制のため、「有害な」環境に出入りする青少年を警察が取り締まることができる。
 ・青少年による凶悪犯罪の抑制のため、20代の若年層にのみすべての犯罪の厳罰化を行う。
 ・ひきこもりやフリーターや若年無業者を抱える家族に関しては、青少年健全育成の視点から財産を奪って強制的に就業意識を植え付けることは正当化される。
 こんなに滑稽なことが憲法に書かれるのは皆目御免だ、と思われる方も多いでしょう。しかし、これらの議論は、すべて俗流若者論にオリジナリティを見出すことができるものばかりです。そして、それらの粟粒若者論の欲望を満たす憲法を作ろうとしたら、このような憲法が出来上がるのは必然でしょう。当然、憲法学や立憲主義の歴史も一切無視し、権力に非常に甘い憲法になります。
 愛国者たるものは、常に国賊に目を光らせていなければなりません。現在我が国にはびこる国賊は、保守政治家や論壇人が問題視したがるような「左翼」ではなく、巨大資本による都市の画一化を推し進め、青少年をイデオロギー化することによって不安をあおり、それによって利権をむさぼる自称「保守」政治家・言論人です。このような国賊こそが、まさしく我が国を壊死させる張本人です。そして、俗流若者論も、国賊として糾弾されるべきです。

 お知らせ。このブログの右側に表示されております「参考サイト」を、「参考サイト」と「おすすめブログ」に分割しました。
 「参考サイト」として追加したもの
 「グリーントライアングル
 「「有害」規制監視隊
 「少年犯罪データベース
 「「ゲーム脳」関連記事 - [ゲーム業界ニュース]All About
 「おすすめブログ」として追加したもの
 「kitanoのアレ
 「カマヤンの虚業日記/カルトvsオタクのハルマゲドン
 「読売新聞の社説はどうなの・・

 また、次の文章を公開しました。
 「俗流若者論ケースファイル09・各務滋」(4月4日)
 「2005年1~3月の1冊」(4月4日)
 「正高信男は破綻した! ~正高信男という堕落みたび~」(4月5日)

 今後の予定としましては、まず「俗流若者論ケースファイル10・○○○○」を近いうちに公開します。また、『ケータイを持ったサル』批判の「再論・正高信男という病」もできれば来月中には公開したい。正高信男批判では、「犬山をどり ~正高信男を語り継ぐ人たち~」と題して、『ケータイを持ったサル』の書評を検証する予定です。これの公開は「再論・正高信男という病」を公開したあとなので、おそらく8月頭ごろになるでしょう。また、仙台の都市計画と「東北楽天ゴールデンイーグルス」について論じた文章や、治安維持法制定80周年に関する文章、雑記文で触れた「大日本若者論憲法」の実体化など、いろいろ企画しておりますが、大学の授業も始まったので、予定は未定です。
 曲学阿世の徒・正高信男といったら、「正高信男という頽廃」において、このようなコメントをいただきました。

この人、統計のトの字も知りません。t検定もよくわかってなかった。ついでに実験してないので、なぜか論文書きます。内輪でもデータはどこから来ているのか疑問視している人は多いですよ。さらに、気に入らない研究者や学生を徹底的に攻撃(ある意味、いじめ)するので、敵は多いですね。挨拶そいても応えない、目を合わせなければ、口もきかないあたり、彼の社会性を疑ってしまいます。かれが世の中のいじめや引きこもりについての著書を書くたびに、その自分の行動はどううなんだ・・・と言いたくなります。

 休刊した「噂の眞相」みたいに「『ケータイを持ったサル』の京大教授は論文捏造の常習者」と「一行情報」を書きたくなってしまいますけれども、これが本当ならばすごいことですよ。こんな人を教授にしている京都大学とは、いったい何なのでしょうか。誰か止めてあげられる友人はいないのか。

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2005年3月30日 (水)

トラックバック雑記文・05年03月30日

 走れ小心者 in Disguise!: 「ウソかホントか?ホントかウソか?」(克森淳氏)
 克森氏によると、ドイツのある医者が恐るべき実験を行ったそうです。
 その詳細がこちら
 リンク先の記事によると、なんでも《老人学が専門のカレン・ウェザビー博士がドイツ人男性200人を5年かけて調べた。100人には美しい女性の乳房をじっと凝視させ、もう一方の100人には女性の乳房がいっさい視野に入らないよう監視を厳しくした》といい、さらに《面白いことに、成人男性に女性の乳房を見せると、その容姿は日増しに輝きをみせ、乳房を見られない男性たちの顔面からはみるみる活気が去ってしまった》らしいです。私は、これはかなり疑似科学スレスレのところをいっているのではないかと思います。
 第一に、サンプルが少々少ないことです。まあ、これはあまり重要ではないでしょう。第二に、《美しい女性の乳房》と言っておりますけれども、《美しい》という言葉の基準がどこにあるか分かりませんし、そもそも1日にどれくらい凝視させたのか、また実物なのか写真なのか、ということも分かりません。また、それらの男性について乳房を見ることによってどれくらい欲情するか、ということも考慮に入れられてしかるべきでしょう。それ以外にも、学問的に突っ込みたいことはいっぱいあるのですが、まあ、ネタとして捉えておけば無害か。
 しかし、性的な刺激によって身体に何らかのよい影響が出てくる、というのは無視できないようです。朝日新聞社から出ている「AERA」の05年4月4日号でも、性的交渉ががん予防になる、という記事も出ていました。これも、どこまで一般性があるかどうかは分からないのですが、性ホルモンと健康の関係に関して、もっと学問的に理のかなった結論を期待しております。あと、そこで出た結果が単純なセックスレス批判とか性行為礼賛にならないことを祈る。

 ヤースのへんしん:頭に来る!
 テレビ番組でCMが流れているときだけ、音量が飛躍して大きくなることにストレートな怒りをぶつけている記事です。それには私も同意できます。また、話のクライマックスに近くなったときにわざわざCMを入れて、「引いてしまう」ことにも私は立腹しております。
 ここで考えたいのは、このような番組にとって番組それ自体が大事なのか、それともCMが大事なのか、ということです。コラムニストの小田嶋隆氏がかつて読売新聞社の「Yomiuri Weekly」の連載で(手元にないので掲載号までは分かりません)、このようなテレビ番組の姿勢に怒り心頭を発していたことを思い出します。小田嶋氏曰く、我々は「オマケ」を見せられているのか、と。要するに、このような手法を用いる番組にとってすれば、むしろCMこそメインで、肝心の番組は「オマケ」だというのです。なんだか、番組の内容で勝負しよう、という気概が見えてこない気がします。で、とにかく引き延ばしておいて、「来週に続く」ってか。テレビ番組の悪しき手法として定着してしまった感があります。
 放送局の皆様。あなたに魂というものがあるならどうかそのような悪しき手法ではなく、内容で勝負していただきたい。さもないと、視聴者はCMばかり印象に残ってしまうことになりますよ。

 週刊誌記者の日記:ヨン様と「竹島問題」(友澤和子氏:朝日新聞社「週刊朝日」編集部)
 *☆.Rina Diary.☆*:ほんわり(佐藤利奈氏:声優)
 私は読んでいないのですが、「週刊朝日」に、「ヨン様」ことペ・ヨンジュン氏の竹島問題に関する発言に対する反応を描いた記事が掲載されているようです。友澤氏の文章によると、

韓流ファンの知人やこれまで取材したことのあるファンたちに手当たり次第に聞いてみると、ヨン様の発言や韓国の態度に「韓国がいやになった」、といったような意見よりも、
ドラマやスターを愛好する気持ちに、容赦なく政治が絡んでくること、俳優の映画発表会見にさえ政治的な質問が浴びせられてしまう事態に、戸惑いと違和感を覚えている……というのが、主な反応でした。

 というのが主だった反応だったそうです。《ドラマやスターを愛好する気持ちに、容赦なく政治が絡んでくること、俳優の映画発表会見にさえ政治的な質問が浴びせられてしまう事態》我が国においてはいささか縁遠いことかもしれませんが、そういうところを理解しつつ、お互いに理解の道を探る、というのが、日韓友好の最大の手段である、と思います。
 友澤氏によると、《ぺ・ヨンジュンさんの韓国の公式ホームページの掲示板に日本人がたくさん書き込みをしている》そうです。そこでは、《そこでは、とても密度の濃いやりとりがリアルタイムで重ねられていました。/九州や韓国であった地震について、お互い無事や順調な復興を祈りあったりする書き込みも。》ということらしいです。政治の面では感情的な議論が飛び交っていますが、こういった草の根レヴェルでは心の通った交流が行われている、ということに、今日の日韓関係の二重性や複雑さを感じます。
 ネット上におけるこのような交流を可能にしたのが、どうやら翻訳ツールらしいです。翻訳ツールを通すことによってどこまで自分の感情が伝わるか、ということは分かりませんけれども、少なくとも文字の上では、さまざまな言語を持つ人が交流を持つことができる。他方で、現実の政治の世界では、いまだに感情論に基づいた没論理的な議論が続いている。小泉純一郎にしろ盧武鉉にしろ、あるいは日本の活動家にしろ韓国の活動家にしろ、互いに強硬な姿勢を見せてばかりで、単なる示威行動に終わっているような気がしてなりません。友永氏は、このような状況を《バーチャルの世界では国境も言葉の壁もやすやすと越えているのに、リアルの世界では、20世紀からの重い宿題を引きずり、領土や国境の壁がまだまだあつい……そんなことも考えさせられました》と嘆いていますが、我々は、20世紀の課題をいまだに引きずりながら生きている、ということを考えざるを得ません。その一つが、言葉(ネット上なら文章)による「対話」を目指すこと。
 佐藤氏の文章では、

私がレジでお会計をしていたら、横から「○○って商品はどこ?」と割り込んできたお客さんがいた。あぁ、急いでいるのね・・と、いつもなら気にしないトコロだけど、今日は私も急いでいたので、並んでほしいなぁ~と悲しくなった。
そしたら、お釣りを渡すときに店員さんが「お待たせしてしまって大変申し訳ありません!」と心底すまなそうに言ってくれた。彼の非ではないのに。
その言葉を聞いて、嫌な気持ちになっていた私の心がほんわり温まった。

 とあります。人というものは、何気ない一言で傷つき、何気ない一言で心が温まるものです。それは仲間内でも、あるいは他人同士でも、さらに言えば国籍が違う人同士でも同じこと。そう自覚することが、コミュニケーションの入口なのかもしれません。
 言うは易く、行なうは難し、ですが。

 思考錯誤: 『ケータイを持ったサル』か?(辻大介氏:関西大学教員・社会学者)
 辻氏は、最近の京都大学霊長類研究所教授、正高信男氏について、《しかしだな、その実験の解釈や議論の組み立てかたは、やはりトンデモと言わざるをえないところがある。いかに優れた自然科学者であっても、生半可に社会評論に手を出してしまうと、こんなことになってしまうんかいなと愕然としてしまう。お願いだから、正高さんには、こっち方面からはとっとと手を引いて(どうせ片手間しごとなんだし)、着実に本業を進めてほしいと切に思う。優秀な人が道を誤っちゃいけない。》と批判しておりますが、同感です。正高氏の最近の仕事は、霊長類学の学説を無理矢理マスコミが好んで採り上げているような若年層の「問題行動」と結び付けて、若年層を罵っている、というものにほかなりません。
 しかし、『ケータイを持ったサル』は、いくらトンデモであっても実験や調査を行っており、その点ではまだまだ救いようがある、といえるかもしれません。しかし、昨年12月から今年1月にかけてのNHK「人間講座」のテキスト『人間性の進化史』は、もはやポイント・オブ・ノーリターンに到達してしまったのではないかと思えるほどのひどい著作です。詳しくは「正高信男という頽廃」を読んでほしいのですが、この本は差別に満ちており、不適切なアナロジーの使用、前後矛盾、文学作品のトンデモ珍解釈など、トンデモ本としての要素が満載です。

 週刊!木村剛:[ゴーログ]逆境こそが経営者の資質を磨く!(木村剛氏:エコノミスト)
 たとえ逆境に陥っても、しっかり腰を据えて対処すること。これは経営者のみならず、日常生活の場において一般的に言えることだと思います。たとえ自らが批判の矢面に立たされても、そこにおいていかに冷静に対処するか、ということの重要性を感じることが、社会への還元の入り口であるように考えます。たとえ失敗しても、それを他人に押し付けないこと。まず自分の中で消化すること。
 また、経営者のみならず、言論を発する人にとって必要なのは、情報公開だと思います。私がここで研究している俗流若者論は、たいていはその論者が考える理由を開示しないまま、人々の感情(たとえば、「今時の若者」に関するフラストレーション)に訴えかけて、人々を扇動しますが、これは言論が行うべき行為ではなく、むしろ扇動屋の行為でしょう。私は具体的な議論にしろ抽象的な議論にしろ、まず理詰めで行うことを自らに課しています。自らの考える手順を公開することも、また情報公開の一種です。曖昧なアナロジーで煽り立てるのは無意味だし有害です。何度も言いますが、アウトサイダーをうまく取り込むためには、理詰めで攻めるしかないのです。

 蛇足ですが、私が「人権擁護法案反対の倫理を問う」で憲法と人権を概説したことについて、「近代国家礼賛か無政府主義か分からない」とか「電波」とか言いふらしている人がいました。どこかは忘れましたが、おそらくここを見ているので追記しておきます。
 私の立場は立憲主義です(近代国家礼賛か無政府主義か、というと、どちらかといえば近代国家礼賛に近い)。また、人権とはひとえに国家と国民の間に成立する力関係であり、憲法は人権を規定したものです。憲法や人権について詳しく知りたい方は、下に示した本・論文を読んでください。
 奥平康弘、宮台真司『憲法対論』(平凡社新書・2002年12月)
 長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書・2004年4月)
 小林節「タカ派改憲論者はなぜ自説を変えたのか?」=「現代」2005年2月号、講談社
 水島朝穂「『読売改憲試案』の目指すもの――その憲法哲学を検証する」=「論座」2004年8月号、朝日新聞社

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2005年3月19日 (土)

トラックバック雑記文・05年03月19日

 週刊!木村剛:[ゴーログ]岡田民主党は年金改革を為し遂げられるか?(木村剛氏:エコノミスト)
 保坂展人のどこどこ日記:年金広報、1枚1万円のポスターの無駄(保坂展人氏:元衆議院議員・社民党)
 保坂氏のブログでは、すさまじい事実が指摘されています。

今日、午後1時30分からの『報道特捜ブロジェクト』(日本テレビ系)で、『ポスター1枚1万円、年金無駄遣い』と題して、年金広報で湯水のように使われていくパンフレットやポスターの類の謎に迫る番組が放映された。
自慢じゃないが、このカラクリに最初に気がついたのは私だ。2年11月17日の衆議院決算行政監視委員会で質問にたった私は、『明日があるから国民年金』(年友企画)を手にかざして、発行部数が168万部に及んでいることを追及した。
なぜなら、新成人は150万人台前半となっていることを過去の人口統計で知っていたからだ。社会保険庁運営部長はたじろき、答弁に窮した。質問後、大量発注で定価69円の冊子を49円で買い上げている。その金額は8800万円だと答えてきた。財源は年金保険料で94年以来、毎年大量に製作されていることもわかった。
議員だったこともあって、成人式にはこの8年間、毎回出席してきた。新成人は全員手ぶらである。以前にはあった「記念品」を配るということをやめて久しい。記念品に何かを配るのなら、そこにパンフレットを同封するということも出来るだろう。
私は直感的に理解した。このパンフは、ほんの一部しか配られていない。大量に印刷されて大量に廃棄されるか、また大量に印刷されたことにして少ししか作られていないか、どちらかだろう。

 昨今の年金未納の増加を受けてか、厚生労働省(旧厚生省)は広報に必死なようです。しかし、保坂氏は、これらのポスターの多くは無駄になっているか、あるいはポスターの印刷部数を水増しして、その結果、ポスター1枚あたり1万円、というものすごく法外な印刷料がたたき出されている、ということを指摘しております。
 保坂氏は社民党ですが、民主党は、このようなことはどんどん追及すべきだと思います。現在、事実上自民党(+公明党)と民主党の二大政党体制になっているのですが、民主党の岡田克也代表は「野党ではなく政権準備党」だといっています。これには少々困ってしまいます。
 第一に、岡田氏は政権に関する準備をあまり国民に開示していないような気がします。また、岡田氏の動向を見ると、「政権準備」が「与党(=自公連立内閣)に擦り寄ること」みたいになっている気もしないでならないからです。二大政党制がうまく機能するためには、その二つの政党の政策的な違いがよく見えるようにしないといけません。大事なのは、対案を出すときは、徹底的に理詰めで提案し、できるだけアウトサイダー(すなわち、組織の外部にいるような人間や、その問題にあまり関心を持っていない人)にも分かるようにすることだと思います。身内の論理でいつの間にか決まっていた、というのではなく、できるだけ「説得」することが不可欠なように思えます。そうしないと、民主党も自民党と同じような「野合政党」みたく思われてしまうでしょうし、読売新聞あたりに足をすくわれて党是が自民党と瓜二つになってしまいかねません。

 お知らせ。このような内容を扱っているブログには似つかわしいことではないかもしれませんが、春休み特別企画をやります。その名も「俗流若者論ケースファイル5連発」。このブログの連載企画である「俗流若者論ケースファイル」を1日1本、今月21日~25日の5日間、合計5本公開します。もういい加減にしてほしいほどメディアに露出している俗流若者論の大スターから、意表をつくようなあの人、さらに新聞記者まで、誰が出るかはお楽しみ。でもその前に、「俗流若者論ケースファイル」の過去のシリーズ、「大谷昭宏」「小原信」「福島章」もお楽しみください。
 「人権擁護法案」に関する個人的見解をまとめた「人権擁護法案反対の倫理を問う」もお読みください。「人権擁護法案」の本質的な欠陥がわかるように書いたつもりです。

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2005年3月17日 (木)

人権擁護法案反対の倫理を問う

 人権という概念こそ、我が国において最もその意図するところと違う形で国民に理解されているものである。現在国会で議論されている「人権擁護法案」は、その誤解・曲解の帰結として出ている、と私は見ている。
 その前に人権の本来の意味とは何か、ということを突き詰めて考えてみると、それは国家権力の横暴に対抗するための理念である。現在の日本国憲法を読んでみると、例えば国家による思想や言論の統制を許さないために21条が存在し、あるいは不当に理由をでっち上げられて不当に逮捕されることがないように33条が存在するのである。人権が(正当に)侵害されるのは、侵害される対象の者が他人の権利を侵害した場合のみであり(例えば刑法犯など)、もう一つ言えば人権を侵害する主体は、基本的に国家しかないのである。また、憲法とは国家に対する命令であり、人権を保障しなければならないものである。
 ところがある時期の我が国において、この「人権」概念が不当に拡大解釈される時期があった。私が中学時代をすごした90年代後半(平成8~12年ごろ)、私は「子供の人権」ということが大量に出回ったことを記憶している。平成9年に発生した神戸市の児童殺傷事件において、一部の雑誌がこの犯罪者の顔写真を掲載したことについて、一部の「左翼」的な人々が「人権侵害だ」と喧伝した。さらに、「左翼」的な人々は、親と子供の関係についても「人権」概念を超拡大解釈して半ば暴力的に「適用」していた。親が子供の暴力を振るうことどころか、親が自分の優位性を子供に示すことさえもが「人権侵害」だといわれていたのである。しかし前者に関しては明確な刑法犯であり、後者に関してはもはや法律的な概念を適用することさえいかがなものか、というレヴェルである。彼らは言葉の上では子供を尊重しているのかもしれないが、実のところ決して子供を尊重しているのではない、いわば「子供」を過度にイデオロギー化しているのである。
 また、少年法に関して言うと、この法律は決して少年犯罪者の人権を尊重したものではないどころか、むしろその人権を制限したものでしかない、というべきである。例えば、日本国憲法によると、《何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない》(第32条)のであるが、少年法においては、少年を一人前ではないと規定する故に第32条をはじめとする憲法上のさまざまな諸権利に関して制限をつけているのである。「少年犯罪者の人権保護」として少年法を挙げるのであれば、むしろ少年法を批判しなければならないのであるが、「子供の人権」を過度に唱える人はなぜか少年法も絶賛していた。彼らにとって「子供」は飯の種でしかないのだろう。
 このような倒錯した議論が「左翼」の側に起こっていた。当然、このような暴論に対してバックラッシュが起こるのだが、このバックラッシュもまた暴論であった。しかもそのような暴論が噴出したのが、また青少年問題だったのである。
 「人権」を貶める「右翼」的な人は言う、戦後の教育が「権利」ばかりを教えてきて「義務」を教えてこなかったから、現在のような青少年問題が頻発するようになったのだ、と。しかし、そのような議論の帰結は決まってあの犯人を晒し首にしろ的な感情論であり、そうすることによって青少年問題を解消したいのであろうが、そのような「教育効果」に期待を持ってしまうことは、それこそ本当の意味での人権侵害を肯定する羽目になってしまうのではないか。彼らはマスメディアが好んで喧伝したがる「今時の若者」という虚像にただ乗りしたがっているだけで、「人権」はそれを盛り立ててくれる単なる道具でしかない。
 このように、我が国において「人権」概念は本来の意味とはかけ離れて受容されてきた。なので、今回「人権擁護法案」として提出されている法案は、まさに「人権擁護」の名の下に人権侵害を平然と行なうことができるようになる法案になってしまっているのである。
 「人権擁護法案」において、《人権侵害》とは、《この法律において「人権侵害」とは、不当な差別、虐待その他の人権を侵害する行為》と規定されている。しかし、その定義は依然曖昧なままだ。さらに、この法律を全文読んでみても、この起草者における「人権」概念に対する誤解・曲解は明らかであろう。冒頭でも説明したとおり、「人権」概念とは国家と国民の力関係のことを指すのであるが、この法案においては、何が「人権」であるかは曖昧なまま、左派論壇的で通俗的な「人権」概念がそのまま適用されている。さらに、この法案では、「人権擁護委員会」が政府から独立した組織ではなく法務省の管轄となっており、さらに同法案によると、委員会に申し出があったら調査をすることができるとあるが、それを判断するのは裁判所ではなく委員会であり、ここでは明確な人権侵害が正当化されている。さらに、同法案43条によると、差別を「助長」する行為でさえもこの法案の罰則の範疇になってしまうという。これではますますその規定があいまいであり、マスコミの調査報道や、(左右の自称「識者」が問題にしたがるような)漫画やアニメやゲームが処罰を受ける可能性もある。このような悪法を生み出した最大の原因は、「人権」概念を過度に拡大解釈、あるいは矮小化してきた論壇にある。論壇の皆様には、このような事実を深く受け止めていただきたいものである(そしてこの曲解をはびこらせたのが「若者論」だということも)。
 本来の意味での人権擁護法案とは、国家による不当な人権侵害に対する被害の回復を目的にしなければならず、当然、それを執行する委員会は国権、特に行政権からは独立しているものでなければならない(そしてそれこそが、本来国連人権委員会が求めていたものである)。このような形でないと、本来の人権保護は達成できるものではない。現在の法案は、むしろ差別利権を加速するものでしかないのではないか。
 無論、この法案の起草者が人権という概念の本来の意味に極めて無頓着なのも大問題なのだが、この法案におけるもう一つの大問題は、「何が差別か」ということに関して国民的なコンセンサスが得られないまま、国家が「これが差別である」と規定してしまうことである。しかし、「何が差別か」ということを決めるのは、まさしく国民、市民、共同体の総意であって、国家が一方的に決めることではないはずである。この法案の問題点は、まさしく「何が差別か」ということを国民の間で規定することを国家に丸投げしてしまうということにあって、自ら問題を解決することの放棄を意味しているのである。これはあまりにも重大な問題とはいえまいか。
 精神科医の斎藤環氏は、東京都の「有害図書指定」に関して、このような条例の制定は本来家族や社会が行うべきことを条例=行政が行なう事によって、共同体による問題解決機能の低下を危惧していた(斎藤環[2003])が、私が「人権擁護法案」に対して危惧しているのもまさしくそれで、自らが複雑だと思う問題を全て行政に任せてしまうことによって、国家の果てしない肥大化と同時に社会の思考停止が起こってしまうことを危惧している。
 このような動きは、何も「人権擁護法案」だとか「有害図書指定」だとかにとどまるものではない。例えば教育基本法の改正案において、「国を愛する心」を法律に入れろ、などといっている人がいるけれども、何が愛国心なのか、という厳密な定義がないまま、ただ国旗や国家にひざまずくことが愛国心だといわれている。しかし、それは厳密には愛国心とは言えず、むしろ国粋主義ではないのか(平成16年に起こったイラクでの人質への政府関係者の暴言が意味したところは、教育基本法の改正をもくろむ者にとって「愛国」とは「政府に従うこと」であることが明らかになったことである)。愛国心とは、昭和天皇陛下がおっしゃるところの《子々孫々の反映のために身を粉にすることを厭わない》(奥平康弘、宮台真司[2002])であるという社会学者の宮台真司氏の指摘が正統であろう。
 「人権擁護法案」に関して、確かにネット上では批判が渦巻いているし、多くの批判が実に正当な理由に裏付けられている。しかし、一部の、特に「2ちゃんねる」的な批判論者が、例えば「この法律が思考されると「人権擁護委員会」に外国人が入って北朝鮮に対する制裁論を言ったら即刻検挙される!」みたいな(ちょっと暴力的に要約しすぎか)、いわば「俺たちに好き勝手やらせろ」的な、あるいは2chにありがちな「反サヨ」的な「批判」をいっているのが残念でならない。彼らは、「売国的な言動を禁じる」といったないようの「愛国者法」みたいなものが審議されたら、反対するのだろうか。この法案の最大の問題点は、国家が「人権擁護」のもと人権侵害を公然と行なえることにあり、また、この法案は、日本国民の市民としての矜持を軽視する法案なのである。私は、市民としての矜持を守るために、この法案に反対する。それが愛国心というものだ。

 参考文献資料
 奥平康弘、宮台真司[2002]
 奥平康弘、宮台真司『憲法対論』平凡社新書、2002年12月18日
 斎藤環[2003]
 斎藤環「条例強化というお節介には断固反対する」=「中央公論」2004年1月号、中央公論新社

 岡留安則『『噂の眞相』25年戦記』集英社新書、2005年1月
 芹沢一也『狂気と犯罪』講談社+α新書、2005年1月
 長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』ちくま新書、2004年4月
 日垣隆『現代日本の問題集』講談社現代新書、2004年6月
 宮台真司『亜細亜主義の顛末に学べ』実践社、2004年9月
 宮台真司『宮台真司interviews』世界書房、2005年2月

 参考リンク
 「すべてを疑え!! MAMO's Site」(坂本衛氏:ジャーナリスト)
 「このまま通してはいけない! 「人権擁護法案」 -緊急記者会見とアピール-」(アジアプレス)
 「【主張】人権擁護法案 問題多く廃案にすべきだ」(産経新聞・05年03月10日付)
 「言論表現の規制が問題」(しんぶん赤旗・05年03月13日付)

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2005年3月16日 (水)

トラックバック雑記文・05年03月16日

 今月12日から13日にかけて、東京に行ってきました。JRの土日きっぷ(宮城県古川市より南の東北、関東全域、中部地方の東部におけるJRの電車賃が指定した土日はすべて無料になる。新幹線も含む)を使って、ひたすら山手線などに乗り続け、いろいろ歩いてきました。私が足を運んだのは池袋、渋谷、原宿、お台場、新宿、代々木、神保町、秋葉原、汐留(シオサイト)です。
 そこで私が思ったことをあげておくと、まず、渋谷(渋谷センター街)と原宿(表参道)ではぜんぜん違う、ということです。私がいいと思ったのは原宿(表参道)でした。表参道は、原宿駅から東向きに通っている大通りのことですが、大通りだけに風通しがよく、通りの両脇に大きなビルが建っていてもあまり圧迫感を覚えないし、植栽もあって、散歩にはちょうどいい場所かもしれない、と思いました。表参道では、現在同潤会代官山アパートの建て替え工事が安藤忠雄建築事務所などの主導で行われていますが、この新生代官山アパートが原宿の景観と社会環境にいかに影響を及ぼすか、楽しみになってきました。
 一方、渋谷はとても窮屈でした。通りにけばけばしい看板が目立ち、建物が高い上に路地も狭いので圧迫感がありすぎます。これはセンター街だけでなく、渋谷駅周辺の商店街全般に言えることです。唯一開放的なスペースは渋谷駅のハチ公口前の広場、およびその近くにあるスクランブル交差点くらいで、できればこの町には近寄りたくはないな、というのが正直な感想でした。で、渋谷を抜け出して松濤に出たのですが、ここは住宅地ということもあって静かな感じを受けました。
 期待はずれだったのが秋葉原です。私は思いっきり「萌え」の街をイメージしていたのですが、秋葉原駅前には巨大なガラス張りのビルが建ち、アニメショップなどの店は駅前から離れたところに位置しておりました(アニメイトの秋葉原店を探すのに30分かかった)。東京都は、秋葉原をIT産業の拠点にしたい、と目論んでいるのでしょうが、あのビルは秋葉原には絶対似合わない、と感じた次第であります。最近の秋葉原では、警察によるオタクを狙った職務質問が増えているという記事を「週刊SPA!」や「AERA」で見たことがありますが(現在、どちらも手元にないので詳しい内容の確認はできません)、これも東京都の思惑の表出なのでしょうか。
 追記しておくと、私が秋葉原で入った店はアニメイトの秋葉原店の1階だけです。

 週刊!木村剛:[ゴーログ]経営者が果たすべき3つの職責(木村剛氏:エコノミスト)
 木村氏は、「経営者が果たすべき3つの職責」として、次のように述べておられます。

 経営者の大きな仕事は3つ。
 そのうちの2つは、方向を決めることと、日々判断することです。
 それらが、組織のメカニズムとして、自動的に動くようになってくると、その会社は自ら浄化作用を働かせ、力強く復活していくようになります。その過程においては、方向性の違う人々と袂を分かたなければならないこともありますし、自浄のために凛として排除しなければならないケースもあります。
 それぞれの局面では厳しい決断を迫られる場合もあるわけですが、それが経営者の職責ですから逃げるわけにも行きません。事前にあらゆるケースを想定して思い悩みつつ、現実的にそのケースが発生したら、即時に判断を下す ――それが経営者の仕事です。
 おかげさまで、日々24時間悩み抜いていますので、これまでのところ、日本振興銀行において現実の課題が発生して判断を迫られた場合に5分以上悩んだことはありません。その場その場で結論を出すように心掛けてきましたし、今後もそうでありたいと思っています。
 そして、残ったもう1つ経営者の職責は、結果としての数字を残すこと、です。

 これは、木村氏が経営者として座右に置いている心掛けでしょうが、自らの社会的責務を自覚した上で行動する、というのはとても大切なことであると思います。私が主に研究している俗流若者論の分野では、自らの学者としての責務を自覚しない曲学阿世の徒が自らの暴論をさもそれが当然の公理であるように言い張っているのですが、学者としての責任は世にはびこる差別や都市伝説や短絡的思考をナチス的に「正当化」するのではなく、自らの深い教養と考察に基づいて、そこで生まれた結果を社会に広めていく、ということだと思います。あるいは、世の中の人々が自分の研究分野に関して興味や関心を抱くようにすることも、責務だと思います(ゆえに、最近になって「世界で一番受けたい授業」や「笑っていいとも!」などのテレビ番組で行われている科学実験企画は、私は絶賛に値するものだと考えています)。
 社会的責務、ということでもう2つほどしゃべらせてください。

 署名で書く記者の「ニュース日記」:霞む国会(相馬芳勝氏:共同通信記者)
 私は現時点では一応民主党を支持しているだけに、民主党代表・岡田克也氏の「野党ではなく政権準備党」という言葉には少し困っています。「政権準備党」ということは、民主党には具体的な政治ヴィジョンがある、ということを言いたいのかもしれませんが、少なくとも現在の民主党からは政権のヴィジョンが見えてこない気がします。本当に政権の準備をしているのであれば、そのヴィジョンを広く国民に示し、現在の小泉政権、自民党政権よりもいかにマシであるか、ということを主張してほしい。岡田氏は、「政権準備党」ということを、与党と闘うのではなく与党と調整する、という意味で用いているのであれば、岡田氏には民主党が野党である意味を考え直してもらいたい。

 弁護士山口貴士大いに語る:人権擁護法案に異議あり!(山口貴士氏:弁護士)
 さて、人権擁護法案が本格的に国会で審議され始めました。この法案を読んでみる限り、我が国の政府は「人権」という概念を本当に理解していない、と呆れ返ってしまいます。しかし、人権概念の度し難い無知は、その原因を求めると左右の「論壇」にこそあるのです。
 人権とは何か。それは国家権力の横暴から国民を守るための論理です。簡単に言えば、自らの発言を国家によって制限されない権利=表現の自由、国家によって不当に逮捕されて不当に裁判にかけられて不当に処刑されない権利などであり、それを定めたものが憲法なのです。すなわち、憲法とは基本的に人権を規定したものであり、また、憲法とは国家に宛てた命令と捉えられるべきです。
 その点から考えれば現在審議中の人権擁護法案なるものがいかに矛盾しているものなのか分かります。すなわち、人権擁護法案とは、「人権擁護」のもとに国家が平然と人権侵害ができるようになる法案なのです!!!ああ恐ろしい。
 人権擁護法案においては、個人や組織(国家ではない)が個人に対する差別的な言動や待遇を《人権侵害》と規定しているようですが、どこが人権侵害なのでしょうか。こういうのを法学的には私人間効力といい、人権侵害にはまったく当てはまりません(倫理的には大問題ですが)。また、個人による別の個人への暴力も《人権侵害》とみなされているのですが、すでに我が国には刑法があります。刑法で処罰してください。
 このような悪法が生まれる背景には、我が国のある時期の論壇における「人権」概念の超拡大解釈があります。ある時期、「左翼」的な人が、親が子供に振るう暴力はもとより、親が自分の優位性を示す言動さえも「人権侵害」と喧伝していたのですが、これは「人権」概念を極度に貶めると同時に、「人権」概念を単なる運動家の論理に格下げしてしまいます。で、「左翼」的な人がこのようなことばかりを主張しているのですから、低俗には低俗で対抗したがる一部の「右翼」が、「子供に人権はない!」などと変なことを主張したがる。このような低俗のスパイラルが、やがて人権という概念の国民的無知を生み出し、このような法案が現れる羽目になってしまったのです。このことについて、我が国の論壇はどのように思っているのでしょうか。「論壇」が社会的責務よりも身内の理論に埋没してしまったからこそ、このような悪法が現れたのです。
 憲法学の基礎から見て、この法案は度し難いまでの形容矛盾を含んでいるのです。だから、この法案は即刻破棄されるべきです。
 もう一つこの法案の問題点は、「何が差別か」という、社会的に重大な問題を、国家が決めてしまう、ということでもあります。これは複雑なことはすべて国家に任せてしまおうという、国民による市民としての役割の放棄以外の何物でもありません。「何が差別か」ということを決めるのは国民であり、市民です。この法案は、それを国家に決めてもらうことによって、下手をすれば国家による横暴と圧制を許しかねないものであるのです。これは国家による思想統制にほかなりません。この法案は「左翼」的なものと捉えられているようですが、たとえば教育基本法の改正案に見られるような、「何が愛国心か」ということに関して国民にその信を問うということを通り越して国家がそれを決めてしまうことや、「心のノート」などに見られるような「何が道徳か」ということを国家に決めてもらう、ということと本質的に同じものなので、この法案はかなり「右翼」的なものであると私は踏んでおります(人権擁護法案に反対する「右翼」の人たちは、もし「国辱・売国的な言動を処罰する」といった「愛国者法」みたいな法律が作られたら、反対するのでしょうか)。
 これらの法案の先にあるのは、「何が「善きもの」か」ということをすべて国家が決めてしまう、という思考停止社会です…と言ってしまうのは言いすぎかな。

 ン・ジュンマ(呉準磨)の備忘録:現在枕元に置かれている、「ネットに文章を書いてる人に推奨したい本たち」
 私は、ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』(岩波文庫、全2巻)をお勧めします。この本では、「ステレオタイプ」という概念を中心に、第1次世界大戦後の世論の混乱を説き明かしているのですが、現在にも通じる問題は非常に多く含まれております。ネットのみならず、文章を多く読む人には、自分の考えを整理するきっかけとしてぜひとも読んでほしいものです。

 伊藤剛のトカトントニズム:「おたく:人格=空間=都市」展に対する「嫌悪」の表明/「萌えフォビア」の実例(伊藤剛氏:漫画評論家)
 伊藤氏は、《「ヌード写真など実写のポルノグラフィは(条件つきでも)OK、売買春も同様。しかし、キャラを用いた性的な表現は気持ち悪いから絶対に認められない」という強い感情》という《萌えフォビア》の実例を、「「おたく:人格=空間=都市」展」のポスターに嫌悪感を示した人を例にとって挙げています。
 さて、この問題に関して私が最も最初に思い出すのは、ジャーナリストの大谷昭宏氏の例です。私は、「俗流若者論ケースファイル01・大谷昭宏」において、大谷氏にとって「萌え」概念は《「萌え」とは「今時の若者」の「病理」、ここでは《パソコンの中に出てくる美少女たちとだけ》の《架空の恋愛》しかできないという病理を照射するための概念》でしかない、と指摘しました。大谷氏は、「2次元の世界でしか恋愛できない「今時の若者」が、絶対現実の世界で恋愛なんてできるはずはない。だから「萌え」る「今時の若者」に社会性なんてあるはずはない、だからそこから犯罪者が生まれるはずだ」と考えているのではないか、と要約できます。「はてなダイアリー」のキーワードに「萌えフォビア」という概念が追加されていたのですが、そこには伊藤氏の定義、すなわち《「キャラ」という表現制度が「シンボル/イメージ」つまり「文字/絵」の分割と、「大人/子供」の分割という、近代の大きな枠組みを二つも侵犯していることに起因するもの》に加えて《さらに「2次元/現実」の分割という枠組みの侵犯も加えてもよいと思われる》ということが書かれていましたが、一般の人がオタクバッシングに用いる論理の中で一番大きいのはまさしく《「2次元/現実」の分割という枠組みの侵犯》だと思われます。
 蛇足ですが、伊藤氏のブログにこのような記述がありました。

 リンク先のブログ、タイトルに添えて「05年1月1日【少子高齢化と、「結婚」より気楽な「事実婚の子育て」】ブログタイトルを変更しました。いざ、少子を守らん! 」という記述がある。「少子」という言葉は、「現在、数が少なくなっている貴重な子ども」という意味にも使われるものだろうか。ぼくが知らないだけかもしれないが、少なくともきいたことはない。このような用い方が普通にされる業界や界隈があるということだろうか?

 《いざ、少子を守らん!》だと。この人は少子化肯定論者なのでしょうか。そう捉えられてもおかしくないでしょう。しかし、伊藤氏は《ぼくが知らないだけかもしれないが、少なくともきいたことはない。このような用い方が普通にされる業界や界隈があるということだろうか?》と疑問を呈しておられますが、私も聞いたことはない。それにしても伊藤氏のブログのリンク先のブログのタイトルが、「愛する子どもの守り方」というのは、どうもいただけない。伊藤氏も指摘しておりますが、「子供」をダシにして自分の気に食わないものを批判するのは、論点をずらすだけではないでしょうか。

 お知らせ。bk1で私の新作書評が掲載されています。今回採り上げた本はぜひ一度皆様に読んでほしいほどの名著です。
 芹沢一也『狂気と犯罪』(講談社+α新書・2005年1月)
 title:「狂気」を囲い込む社会

 「正高信男という頽廃」も公開中です。ここで採り上げた『人間性の進化史』(NHK人間講座テキスト)は、前後矛盾と論理飛躍にあふれ、文学作品のトンデモ解釈もあり、生粋のトンデモ本マニアの人々にも笑って楽しめるような内容でしょう。

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2005年3月 7日 (月)

トラックバック雑記文・05年03月07日

 MIYADAI.com:つまらなさ一段と深刻~地下鉄サリン事件から十年~(宮台真司氏:社会学者)
 今月20日で、かの地下鉄サリン事件からちょうど10年になります。宮台氏とは懇意の評論家、宮崎哲弥氏の著書『正義の見方』(新潮OH!文庫)で、宮崎氏はサリン事件の背景に五島勉『ノストラダムスの大予言』がある、と指摘していました。そして当時の30代以下の人がなぜこのような「教示」に惹かれたか、ということについては、宮崎氏は「内なる近代の終焉」が「終末」のムードに傾倒するきっかけになっている、と論じています。
 宮台氏は《退屈ゆえにハルマゲドン幻想を持ち出して不安を消費する──それがオウムでした》と書いています。そしてその前には《この十年で気になるのは、監視と排除を求める気分の増大です。人々は客観的安全より主観的安心を過剰に求め、実効性の疑わしい施策に群がります》と書いていますが、私はこのような構造を、昨今噴出している「若者論」に見出します。すなわち、「今時の若者」を反社会的属性として過剰に敵視し、「あいつらは俺たちとは違うんだ」ということを身内(「善良な」人たち)の中で「納得」するためにさまざまな論理飛躍や疑似科学的決定論をふんだんに用いて自らのステレオタイプが「正しい」ことを「証明」することの横行です。しかし、必要なのはそのような「切り離し」ではなく、宮台氏などが主張している通りそのような人たちも含めて自分と同じ社会に生きている、という態度、簡単に言えば「信頼」とか「寛容」とかいった言葉に集約されるのかもしれません。
 このようなことに関して、多くの良心的な人たちはすでに気づいており、実行している人も少なからずいます。たとえば「ひきこもり」に関して積極的に発言や活動を続けている斎藤環氏はその一例です。斎藤氏は2003年末に『ひきこもり文化論』(紀伊國屋書店)という名著を書いており、その中で「ひきこもり」に対する支援策についてまとめております。斎藤氏も書かれていますが、やはり肝心なのは、宮台氏が示唆しているように、安直な共同体主義を持ってくるのではなく、まず「生き方」のモデルの提示なのではないか、と思います。「若者論」に没頭する人たちは、これをどこまで理解できるのでしょうか。

 千人印の歩行器:[本屋編]地球人の見た出版(栗山光司氏)
 週刊!木村剛:[ゴーログ]西武鉄道とニッポン放送の類似点:絶望感のゆくえ(木村剛氏:エコノミスト)
 署名で書く記者の「ニュース日記」:公共性(小池新氏:共同通信記者)
 栗山氏の文章では、栗山氏が現役の書店員だったころ、再販制度の撤廃を主張するレポートを取次ぎに提出したところ、まったく無視された、というエピソードが書かれております。栗山氏はそのエピソードを紹介したあと、さらにこう続けます。曰く、

何十年前に現役の書店員の頃、簡単なレポートを大取次ぎに提出したことがありますが、完全に無視されました。テーマは『再販維持制度の検討』です。原則は再販維持制度撤廃が正常なのです。あくまでこの法制度は特例にすぎない。面白いことに営業、書店の現場では、撤廃されることで仕入れの目を磨き仕事が面白くなるのではないかと言う期待があるのですが、既得権の旨味を知った管理職、何故か、再販制が撤廃されると、本のコンテンツの劣化を招き、ひいてはこの国の活字文化の劣化を招くと、憶測で編集権、言論の自由と再販制度を結びつけて撤廃に反対するのです。何やらフジテレビとライブドアの対立構図に似たものがある。

 単純に言えば、栗山氏の関わった取次ぎの場合は、再販制度という既得権益を手放したくないために《再販制が撤廃されると、本のコンテンツの劣化を招き、ひいてはこの国の活字文化の劣化を招くと、憶測で編集権、言論の自由と再販制度を結びつけて撤廃に反対する》ということになるのでしょう。しかし、そのような論理の反対基準があくまでも《憶測》であることに私は抵抗感を覚えるのです。政治家の論理かもしれませんが、もしある提言に対して対案を持ち出すのであれば、私は徹底的に理詰めで攻めるべきだと思います。このケースで言いますと、なぜ再販制度が撤廃されると《本のコンテンツの劣化を招き、ひいてはこの国の活字文化の劣化を招く》が生じるのか、さらに言えば《本のコンテンツの劣化》や《この国の活字文化の劣化》が何をさすのか、ということも明確にしておかなければならないはずです。そもそもこのような物言いは、本のコンテンツや活字文化の「劣化」を嘆く人たちには有効かもしれませんが、アウトサイダーには理解できません。理詰めで攻める、ということは、できるだけアウトサイダーにも分かるようにする、ということです。そうでないと、このような論理が、本当は活字文化や表現の自由ではなく、自分の既得権益を守るために過ぎない、どこを向いた議論なのか、という誤解がまかり通ってしまうことを許容する羽目になりかねません。
 それにしてもライブドアvs.ニッポン放送の買収劇には、ニッポン放送の社員よりも見放されている人がいるような気がしてなりません。それはニッポン放送の番組のリスナーです。
 ニッポン放送の社員が、「私たちニッポン放送社員一同」として声明文を出していますが、あまりにも滑稽です。
 なぜか。それは冒頭で真っ先に「リスナーの皆様」と書いているにもかかわらず、この文章にはリスナーのことが少しも触れられていないからです。触れられているとしたら、

 一方、ライブドア堀江貴文社長の発言には「リスナーに対する愛情」が全く感じられません。ラジオというメディアの経営に参画するというよりは、その資本構造を利用したいだけ、としか私たちの目には映りません。

 といったくだりくらいですが、《「リスナーに対する愛情」》とは、いったい何を指すのでしょうか。また、堀江氏の発言といっても、どのような発言を元にそう言っているのか分かりませんし、この声明文を読んでみる限り、これは完全にリスナー無視、しいて言えば自社の社員とスポンサーを守るためだけに声明文が発せられた、という気がしてなりません。
 これでいいのでしょうか。
 ニッポン放送の社員が「リスナーのためを」思って発したこの声明文も、結局はスポンサーに対する権益なくしてリスナーへの配慮は存在しない、といっているのに等しい。自らの既得権益の保護が「リスナーのため」という美辞麗句にすりかえられている、というのが正直な印象であります。本当に「リスナーのため」を思ってやっているというのであれば、その姿勢は自社の経営基盤(現在ならフジサンケイグループ)が変わっても変わらないものであるのか、ということを示すべきです。
 結局のところ、この論争にはリスナーは最後まで不在です。ラジオ局にとって最も重要なものが抜け落ちているのです。

 情報紙「ストレイ・ドッグ」(山岡俊介取材メモ):「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米ジャーナリスト)③「カリスマ経営者」(堤義明)逮捕で思う日本のマスコミの「幼稚さ」(山岡俊介氏:ジャーナリスト)
 マスコミの話です。山岡氏は、堤氏を紹介するときに「カリスマ経営者」という「枕詞」を付して報道することに関して憤っております。無責任な「レッテル貼り」は、私は特に俗流若者論においてたくさん見出しております。「心の闇」「キレる」「ゲーム脳」「サル化」「フィギュア萌え族」……。皆様も一度は目にしたものばかりでしょう。特に「○○症候群」みたいな物言いは、若年層の「病理」、さらには「時代の病理」を手軽に映し出してくれる言葉としてとりわけもてはやされております。これを列挙した『器用に生きられない人たち』(中公新書ラクレ)なる本が出ているのですが、今月の「諸君!」(文藝春秋)の「今月の新書完全読破」というコーナーにおいてこの本が宮崎哲弥氏によって「今月のワースト」に大抜擢されております。宮崎氏はこの本の著者に対して「なんでも症候群にしたい症候群」なる「病名」を下しております…。

 *☆.Rina Diary.☆*:ぽつり。(佐藤利奈氏:声優)
 独り言の話です。佐藤氏は一人暮らしを始めてから、独り言が多くなった、というそうです。ちなみに私は実家住まいなのですが、独り言は結構多いと自覚しております(ただし一人でいるときだけ。一人でいるなら、自室でも街中でも容赦なく言ってしまう)。その内容としては、主に私が本などを読んで面白いと思った表現や、自分で思いついて今後の論文に使おうと思う表現ばかりです。
 ある意味、独り言は退屈さを紛らわす上でも有効かもしれませんが、周囲には気をつけて。

 保坂展人のどこどこ日記:イタリア記者 人質解放直後のまさかの銃撃 そして日本の選択(保坂展人氏:元衆議院議員・社民党)
 保坂氏の文章では、拘束されたイタリア人が泣きながら「イタリア軍撤退」を訴える文章をインターネットで見て、多くのイタリア人がその無事を祈った、と書かれています。また、イタリア情報当局は人質解放に向けて水面下で努力をしたそうです。
 昨年、日本人がイラクの武装勢力に拘束されるという事件が何度かおきましたけれども、その時々のマスコミや政府(得に小泉首相)の対応ぶりとはまったく対照的です。保坂氏も指摘するとおり、自国民が武装市民に拘束されて人質に取られても《小泉総理は「テロリストには屈しない」と藪から棒に言うだけ》で、そのような言葉がいかに武装勢力を刺激するか、ということに関してはてんで無関心です。そのことは多くの人が指摘しているのですが、小泉首相、ないしそれに近い立場の人たちはそのような意見の戦略的意味を理解できているのでしょうか。
 マスコミも然りです。マスコミは人質になった人々の特徴について、彼らがイラクに行った動機を「自分探し」だと書き飛ばしていましたが、そんなことは枝葉末節なのです。肝心なのは、日本人がイラクで武装市民に人質にされた、というリアルな事実だけなのです。このような報道をすることで、「自分探し」に没頭している(と勝手に規定されている)「今時の若者」を戒めたい、と思ったのかもしれませんが、一番大事なことを忘れています。このような政府やマスコミの体たらくは、ネット上で斬首の映像が流布してしまうというこれまた痛い現実よりもさらに痛い現実のように思えてなりません。
 「理解できない」少年犯罪が起こると、すぐさま多くの「識者」たちは「「今時の若者」は他人の痛みが理解できないからすぐに殺人に走る」などといいます(実際は少年による凶悪犯罪は減っているのに)。しかし我が国においては、「他人の痛みが理解できない」ひとたちが政治を牛耳っているのが現実なのです。
 このことについて、ジャーナリストの江川紹子氏が書いた文章「「被害者叩き」の前に検証を」も一読に値します。

 お知らせ。長い間放置していた「正高信男という頽廃」ですが、現在急ピッチで執筆を進めております。今週中には絶対に発表できますので、もう少しお待ちください。

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2005年3月 4日 (金)

トラックバック雑記文・05年03月04日

 署名で書く記者の「ニュース日記」:小学校(相馬芳勝氏:共同通信記者)
 MIYADAI.com:何が監視社会化をもたらすのか?(宮台真司氏:社会学者)
 寝屋川の教師刺殺事件に関して、またぞろ「学校の閉鎖化」を主張する人が出てきているようです。しかし、相馬氏の記事にもあるとおり、小学校は地域から隔離したところにおいておくのではなく、それこそ地域に密着した形で建てておくべきでしょう。そのために必要なのが建築家と社会学者の知恵なのかもしれません。
 いかなる建築も、単なる「箱モノ」ではありえません。住宅にしても然りなのですが、特に小学校の場合は、子供たちの教育という重大な責務を負っています。小学校における教育に関して言うならば、もちろん読み・書き・計算の教育も重要なのですが、自らの住んでいる地域について知っておく必要もあります。そのためには教育カリキュラムの設計も含めて、小学校の社会的責務をいったん明らかにしておく必要もあるでしょう。ここで言う「社会的責務」とは、簡単に言えば小学校が社会に果たすべき役割ですが、小学校と地域住民というつながりが基本に据えられる必要があります。ただ閉鎖するだけ、というので正しいのでしょうか。
 最近になって地域社会の「空洞化」が指摘されていますけれども、宮台氏などはその最大の原因として流動性から収益を上げるグローバル資本をあげています(金子勝、他『不安の正体!』筑摩書房)。さらに宮台氏は、そのようなグローバル資本が地域性を破壊し、その空洞化によって「動機」が不明な犯罪が増えた、と指摘しています。これが正しいかどうかは分かりませんが、しかし「地域」の力が弱まっている、というのは確かかもしれません。
 私がなぜこのような主張をするのか。その理由こそ私が最近になって喧伝している「生活保守主義的プチナショナリズム」の横行です。宮台氏は《尊厳を失った人々が相互不信で右往左往し……問題を自分たちで解決する自信を失って何かというと国家を呼び出すヘタレが溢れる》と表現していますが、特に《何かというと国家を呼び出すヘタレ》というのは重要でしょう。最近になって噴出している議論を見てみると、それが広まりつつあるのは然りです。昨年に起こった、関西学院大の登山者が冬山に遭難したときにさまざまなメディアが登山者に救出費を請求したり、犯罪を減らすという名目で「有害」メディアの規制を求めたりと、「国家」を過大視したがる動向が表面に出始めています。
 このような「国家依存」が、ここ最近では往々にして若年層、いうなれば「今時の若者」をなんとかしてくれ、という方向で噴出しています。しかし、「国家」に頼らなければ「今時の若者」を「正常化」できないのでしょうか。これは「国家」に限りません。「今時の若者」の「問題行動」を「ゲーム脳」だとか「サル化」だとかいった、安易な疑似科学決定論に多くの「善良な」人々が「癒されて」しまう、というところにも現れていると思います。「俗流若者論ケースファイル02・小原信」でも書いたのですが、「今時の若者」が自分と同じ社会に生きていることが気に食わない人々がまだ大勢我が国にはいるようです。そのような人たちにとって、「今時の若者」を「排除」してくれるのが「国家」であり、疑似科学なのでしょう。そのような態度こそ、他者依存というのですけれどもね。
 もっとも、このブログは、巷の「今時の若者」という言説は幻想だ、ということを主張しているのですが。

 *☆.Rina Diary.☆*:ゆき(佐藤利奈氏:声優)
 仙台は大雪です。いくら雪かきをしてもすぐに積もってしまい、その処理に困っております。私は今日、今年度付けで東北大学を退官される伊藤邦明教授の最終講義を聴きに行ったのですが、そのために午後1時15分ごろに雪かきをして、45分ごろに終えて、原付で東北大に向かいました。で、帰ってきたのが午後4時半ごろだったのですが、帰ってくるともう15センチ弱ほど積もっていました。結局2度目の雪かきをしました。
 ちなみにこの時間帯には、この通りの多くの人が留守でした。一方、同じ団地のほかの通りでは、多くの人が精力的に雪かきをしており、原付も走らせやすかった。思わず「ありがとうございます」の気持ちを込めて、道端で雪かきをしていた人に会釈してしまいました。これも地域性の差なのかもしれません。同じ団地の中でも。

 週刊!木村剛:[ゴーログ]不器用なアメリカ人ですら税金は申告している!(木村剛氏:エコノミスト)
 保坂展人のどこどこ日記:予算国会の民主党完敗はなぜ(保坂展人氏:元衆議院議員・社民党)
 木村氏は、最後のほうで《現在の日本は、「政治的・経済的に不満の無い時代」になっているのでしょうか》と書かれておりますが、私が思うに、マスコミの問題も大きいのではないかと思います。現在のマスコミは、たとえば政治面の場合は、どこかの評論家だかジャーナリストだかが「現在の日本の政治報道は「政局報道」である」と言っていた記憶がありますが、現在の新聞を見る限り、それを認めざるを得ません。私の家では読売新聞をとっているのですが、読売の政治面を見る限りでは、昨日の国会の審議に関して民主党は悔しがっているとか、小泉首相と敵対議員の確執とか、そういうことばっかりです。なまじ新聞が自民党寄りだから、民主党に対しては少々冷笑的です。他の新聞に関しても、たいてい政治報道は「政局報道」になっています。それよりも、議論の対立をもっと明確に浮かび上がらせてほしいと思います。また、野党を奮起させようとするような報道も、ほとんどの新聞において皆無です。読売の社説において民主党を批判する場合は、たいてい自民党の代弁者と化しているような気がしてなりません。もっとも、読売は自民党寄りだから仕方ないですが、特に朝日新聞や毎日新聞には、野党を育てるようなオピニオンを期待するばかりです。
 もう一つ。選挙があるたびにマスコミは投票率、特に若年層のそれを問題視したがります。しかし、政治が変わらないことを投票率のせいにしていいのでしょうか。そもそも我が国の政治は若年層の方向を向いていません。票田になるのは青少年よりも「青少年問題」、簡単に言えば「今時の若者」です。マスコミと同様政治家も投票率を問題したがりますけれども、あなたは本当に若年層のことを考えているのですか、と言いたくなります。いたずらに若年層の投票率の低さを嘆くのは、本当に必要なことから目をそらすことしか意味しません。
 必要なのは政治参加の多様化です。そのためには、地域に根ざした市民団体の育成が必要でしょう。「私の体験的成人式論」でも触れましたけれども、多様な政治参加を若年層に提示するための手段として私が重要視しているのは成人式です。もっとも、このような成人式をやるためには市民団体が充実している必要があります。幸い仙台市は市民団体がそれなりに充実しているので実現できそうですが、市民団体が充実していないところでは、何よりも市民団体を育成させる必要があります。そのために必要なのは市民の自発的な取り組みです。現在の票田は、市民団体ではなく政党(地域ではない)に密着した利権団体ですが、このような状況で投票率の向上を願うほうが無理というものではありませんか。

 千人印の歩行器:[悩内編]事実/真実/現実(栗山光司氏)
 明確な誤りは存在しますが、明確な正しさは存在しえません。肝心なのは、どれだけ「正しさ」に近づけるか、ということだと思います。「公正中立」というのは、必ずそのような立場が存在するという前提に立った上での議論かもしれませんが、それでも「個人」というものが入り込んでしまうという余地は存在するので、「公正中立」はその人にとっての「公正中立」に過ぎないのかもしれません。
 私がこのブログで問題視している俗流若者論の問題点は、それを振りまく人は自分に完全な「正しさ」があると思い込んでいることです。しかし彼らの言う「正しさ」は、彼らが勝手に信じ込んでいる「正しさ」の押し付けに過ぎないのです。私はそれを批判するのですが、そのときに重点を置いているのはその「正しさ」の化けの皮をはぐことです。大言壮語を振りまきつつも、その根拠をまったく示さない、という典型的な俗流若者論よりも、少しくらい傷ついてもいいから明確なデータを提示して、反証にも耐えられるように論理を組み立てた議論のほうが、たとえその支持者が少数でも私は支持するつもりですし、私もできるだけ抽象性よりも具体性を重視します。マスコミが好んで取り上げるような「今時の若者」は、実証的なデータではありえないのです。

 お知らせ。bk1で私の新作書評が掲載されています。一番上はトンデモ本ですが、下の二つはお勧めです。
 矢幡洋『自分で決められない人たち』中公新書ラクレ、2004年9月
 title:「俗流若者論スタディーズVol.2 ~精神分析の権力性を自覚せよ~
 坪内祐三、福田和也『暴論・これでいいのだ!』扶桑社、2004年11月
 title:「これでいいのだ!
 橋本健午『有害図書と青少年問題』明石書店、2002年12月
 title:「「若者論」の不毛なる歴史

 最近私が書いた文章もこのブログで掲載されておりますので、ぜひ見てください。
 「俗流若者論ケースファイル02・小原信」(2月28日)
 「俗流若者論ケースファイル03・福島章」(3月4日)

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2005年2月25日 (金)

トラックバック雑記文・05年02月25日

 [ゴーログ]日本は本当に資本主義の国なのか?(木村剛氏:エコノミスト)
 痛い指摘だなあ。でも、本当にそう思ってしまうことも少なくありません。
 もとより、私は「日本は本当に資本主義の国なのか?」というよりも、「日本は本当に法治国家なのか?」ということです。そんな私の意識を強めたのが、下のような文章です。
 弁護士山口貴士大いに語る:石原知事「ババァ」発言、女性たちの賠償請求棄却(山口貴士氏:弁護士)
 山口氏はさすがに弁護士ということもあってか、《今回の判決の結論は概ね妥当ではないかと思います》と発言していますが、当然の帰結でしょうね。もしここで損害賠償が請求されたのであれば、まず明らかに損するのが、石原氏の「ババァ」発言(ちなみに、この発言の趣旨は「文明がもたらした最も悪しき有害なものはババァ」というもの)に怒り心頭を覚えながらも、訴訟しなかった人たちです。あと、自らの発言を恣意的に曲げられた、宇宙物理学者の松井孝典氏か。
 評論家の斎藤美奈子氏(斎藤美奈子『物は言いよう』平凡社)が指摘するとおり、確かにこの発言は暴言です。しかし、一政治家(及び言論人)が不特定多数の人を誹謗した発言に対して、その不特定多数(ここでは「ババァ」と蔑まれた人たち)の代表を自称するような人が発言者を提訴し、それで損害賠償を取れたとしたら、それこそ「声の大きい者が勝ち」的な歪んだ意識を生み出しかねず、我が国は些細なことで訴訟を起こしてしまうような国になるかもしれません。もしこれで損害賠償が取れたら、俺も正高信男(京都大学霊長類研究所教授)と森昭雄(日本大学教授)と澤口俊之(北海道大学教授)と荷宮和子(フリーライター)と大谷昭宏(ジャーナリスト)と江原啓之(スピリチュアル・カウンセラー)…を提訴しようかな。冗談ですが。
 石原氏のごとき暴論に対しては、それこそ良質な言論で対抗すべきなのです。悪質極まりない暴言であってもそれを訴訟という形で国家という「お上」に処理してもらう、というのは、それこそ国家に頼りすぎ、というほかありません。ここで自称「代表者」がやるべきだったのは、石原氏の倫理的責任を問うために請願したり、あるいは議会の人に働きかけて議員を通じてその信を問うということのはずです。訴訟などもってのほかです。
 以前の雑記でも書きましたが、「自分が不愉快に思うことはみんな国家が解決してくれる!」という変な思想が我が国において蔓延しつつあります。私はそれを「生活保守主義的プチナショナリズム」などと呼んでいますが、このような思想が蔓延しつつある背景には、マスコミが不安をあおったりだとか、あるいは「善良な」大人達が「常識」だと思ってきたことが少しずつ様変わりしつつあることが背景にあり、それらの「不安」を解消してくれる「安心」のよりどころとして「国家」が選択されている、ということがあるのかもしれません。しかし、国民の歪んだ「国家」依存志向が、社会学者の宮台真司氏言うところの「空気を利用した〈国家〉支配」に結びつくことは否定できません。マスコミ、特に私がこのブログで問題にしている若者報道が、それに思いっきり拍車をかけています。社会と言論のあり方を問い直す、ということは、もはや国民的課題になりつつあるのかもしれません。「今時の若者」の片言隻語を採り上げて「右傾化」だとか「国家意識の喪失」だとか叫んでいる場合ではないのですよ!分かっているのでしょうか?

 ふう。ちょっと騒ぎすぎましたので、このような記事でも眺めてリラックスしましょう。
 *☆.Rina Diary.☆*:お菓子の♪(佐藤利奈氏:声優)
 お菓子の車!しかも佐藤氏によれば、《本物の苺チョコレートやクッキーを使って装飾されています》だとか。面白みがあっていいですね。でも、実際に使うところを想像してみると…。

 お知らせです。bk1で私の新作書評が公開されています。どちらもお勧めです。
 日垣隆『世間のウソ』新潮新書、2005年1月
 title:我々は何に脅えているのか
 B・R・アンベードカル、山際素男:訳『ブッダとそのダンマ』光文社新書、2004年8月
 title:仏教は〈私〉の中にある

 あと、このブログにおいて書いた記事もぜひ読んでください。
 統計学の常識、やってTRY!第2回(2月17日)
 俗流若者論ケースファイル01・大谷昭宏(2月20日)
 統計学の常識、やってTRY!第3回(2月24日)
 またも正高信男の事実誤認と歪曲 ~正高信男という堕落ふたたび~(同上)

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2005年2月16日 (水)

トラックバック雑記文・05年02月16日

 週刊!木村剛:[ゴーログ]国民総背番号制にあなたは賛成ですか?(木村剛氏:エコノミスト)
 署名で書く記者の「ニュース日記」:500円偽造の不思議(伊藤圭一氏:共同通信記者)
 昨日の雑記文の続きです。
 昨日の雑記で私が国民総背番号制について《利点が大きいというのであれば、私は導入してもいい》しかし《不安要素が多すぎます》と表記したところ、次のようなコメントを頂きました。曰く、

すでに現状でも「不安要素が多すぎ」だとは思いませんか。
偽造通貨を一度に大量に正規の通貨と入れ替えるための手段として、郵便局の口座が使われているわけです。
すでに多くの振り込め詐欺をふくめて一連の事件の核心に銀行や郵便局の架空口座があることは疑いようがない。
大量の架空口座の開設がなぜ可能かといえば、偽造免許証が堂々と作られ売られているからだということは、大学中退の私にも分かる話です。ここまでくれば、もう確かな個人認証が必要でしょう。

 昨日の雑記文において、確かに私は個人認証の問題について少々見落とした点があったわけで、それは反省せざるを得ないと思います。
 もちろん、私とて現在のシステムにも不安要素が多すぎることは分かっております。しかし、ここで肝心なのは、いかに架空口座を作らせないか、というのがポイントだと思うのです。そのためには、個人認証の問題だけでなく、架空口座や偽造証明書の作成に関する警察の捜査の徹底化とか、銀行・郵便局の努力も必要になるでしょう。問題をひとり個人認証の問題にするのもどうか、と思います。このコメントは確かに鋭い指摘だとは思うのですが、少々論理の飛躍がある気もしてなりません。
 とはいっても、免許証や保険証の偽造を防ぐ、というのであれば私はむしろ賛成であります。
 ちなみに私が国民総背番号制について最も関心のあることは、今の政府に長期的なヴィジョンがあるかどうか、ということと、今の我が国の情報システムは国民総背番号制を導入するに足りうる技術力を持っているか、ということです。

 「週刊!木村剛」がらみでもう一つ。
 週刊!木村剛:モノ書きの老婆心:「匿名性」を護るために[ゴーログ]再び、モノ書きの老婆心:「匿名性」を護るために(木村剛氏:エコノミスト)
 「匿名性」に関する私なりの見解を示しておきます。
 私は高校時代の前半のあたりは、「無名」(たまに「広瀬川」を使うこともあった)というハンドルネームを使ってさまざまな掲示板に書き込むことが多かったのですが、現在はどこであっても「後藤和智」という本名を使用しています。それは、これは自分の発信する言論である、ということを常に意識するためです(自意識の発露、といわれればそうかもしれませんが)。自分が発信することは、すなわちその言論に関して自分で責任を負わなければならないわけで、もし批判された場合はその内容を真摯に受け止め、反論があれば相手の言論を認めた上で反論することが重要と考えています。
 ブログというものは、ネット掲示板とは違い、第一に自分や相手の「顔」が見えるということ、第二に自分の言論は自分で責任を負わなければならないこと、という点で大きく違っていると思います。木村氏も、「モノ書きの老婆心:「匿名性」を護るために」のほうで、

 つまり、「ブログ」は、皆さんが個人で公に向かって発行している新聞であり雑誌なのであって、その言論の責任は皆さんが個人で背負っているということなのです。これは、ひろゆき氏によって、巧みにしかも無料で護ってもらっている「2ちゃんねる」とは全く違う世界だということを認識すべきです。「PurpleMoon」さんも「先日、わたしのところへ、とある企業さんから『この記事を修正しないと裁判も辞さない』という、脅しとも取れる内容の警告メールが届きました。もちろん、すっごい嫌な気分ですが(笑)、こういうものがまさに、わたしに与えられた『表現の自由』に伴う『責任』なのでしょう」という経験をしていらっしゃるそうですが、それはすべてのブロガーにとっての現実なのです。

 と表記しておられます。少なくともブログの世界では、たとえ執筆者名(芸名、筆名、ハンドルネーム含む)を明らかにしていなくても「匿名性」というのはありえません。例えば「後藤和智事務所」であれば、たとえ「後藤和智」というのが偽名であっても(本名です。あしからず)「後藤和智事務所」というブログの名前が「名前」として流通することになります。ですから、ブログの世界に生きる人々(当然、私も含む)は、(ネット掲示板では存在する)「匿名性」という存在し得ない「聖域」に逃げることをしてはならない。これが書き手の倫理だと思うのです。これは、たとえば2chとブログの違いだけでなく、amazon.co.jpとbk1の違いにも見られます。amazonでは匿名の執筆者は「カスタマー」と表記されますが、bk1は半角4文字以上の名前を記入しないといけない(半角4文字未満、例えば全角1文字の人は、その文字のあとにスペースを付けて補う)。bk1には全ての評者に関してその評者の書いた書評が検索できるシステムを採用していますし、規制もamazonに比べて多いので、書評もamazonとは本質的に違うものになるかもしれません。
 ちなみに本ブログでは基本的にトラックバックやコメントの削除はしておりませんが、万が一「荒らし」と断定できるようなものであれば、ブログにお知らせした上で削除します。

 ン・ジュンマ(呉準磨)の備忘録:「小さな政府主義」は既に自民党の運動方針から漏れている
 小泉ワンフレーズ政治にも翳りが見え始め、自民党も政策をめぐって分裂しているようです。しかし、政権党である自民党が長期的なヴィジョンを示せず、場当たり的でただ選挙民の関心を引きそうな政策ばかり提示していたのでは、国民も背を向きたくなります。投票率の低下を徒に嘆いている人は、その点を無視しまくっていますね。マスコミも、投票率低下を嘆く政治家(政治屋?)の片棒ばかり担いでいないで、もっと権力を疑ってほしい。スキャンダリズムや若者バッシングばかりやっている場合ではないのです。

 弁護士山口貴士大いに語る:人権擁護法案に異議あり!(山口貴士氏:弁護士)
 ここで記されている法務省の体たらくには、開いた口が塞がりません。曰く、

・「昭和58年10月6・7日開催の全国次長検事会同における次長検事指示」により、刑事事件、再審事件において証拠の開示を頑なに拒み、
・人権侵害の可能性の高い取調過程の「可視化」に頑なに抵抗し、
・受刑者の処遇不満の申し立てにもほとんど対応せず、
・国民監視機関である公安調査庁を傘下にもち、
・国連が難民と認定したクルド人を強制送還(本年1月18日)し、
・獄中者の処遇、死刑囚の処遇について国連の人権委員会から度重なる勧告を受けながらもこれを無視

 凄まじい。やはり我が国には法務省とは独立した人権擁護機関が必要なのではないでしょうか。
 人権擁護法案に関する問題点は、「人権」概念の徒な拡大解釈が我が国において起こっていることにもあると思うのです。基本的に「人権」とは、国家が国民を縛ろうとすることに対する対抗概念なのであって、憲法はその人権を保障しなければならないものです(だから、憲法が権利ばかり主張して義務を明記しないから青少年問題が起こるのだ、というのは憲法の何たるかを理解していない人の言うことです)。かつて「左翼」的な人が「親が子供に危害を与えることは人権侵害だ」みたいなことをいっていた時期がありましたが、これははっきり言って「私人間効力」であって人権侵害などではまったくありません。あと、「有害メディア」規制を訴える一部のフェミニスト集団の代表が、「作品の中の人物にも人権がある」みたいなことを分かったような顔で言っていました(詳しくは「奈良女児誘拐殺人事件における、マスコミのオタクバッシングまとめサイト」の05年1月10日の4つ目の項参照)。日弁連の声明にもあるとおり、もし作中の人物が実在の人物をモデルにしているのであれば、それは名誉毀損などのほかの罪で問われるべきであって、「作中人物の人権侵害」などという変な概念を持ち出すべきではない。最も必要なのは実在する児童の人権擁護のはずです。「左翼」的な人々がこのような体たらくだから、低俗には低俗で対抗したがる一部の「右翼」が、「人権」概念を極度に貶めた議論ばかりするのです。

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2005年2月15日 (火)

トラックバック雑記文・05年02月15日

 MIYADAI.com:第二回 TEPCOインターカレッジデザイン選手権を終えて(宮台真司氏:社会学者)
 *☆.Rina Diary.☆*:持病が。(佐藤利奈氏:声優)
 宮台氏の文章は、建築に関する話です。私は現在大学の建築学科に通っているので、短文ながらも興味深い指摘があります。

■第一に、透明に見通せることを「コミュニケーションの触媒」だと勘違いする作品が多過ぎた。それではコミュニケーションに必要な最低限の感情的安全が得られないだろう。
■第二に、家や町が公私と上下の組合せから成り立つことを見抜いてほしい。洞窟の奥の見えにくい所が私。出口近くが公。私的な場に居て良いのは、上(強者)か下(弱者)か。
■第三に、時間/空間的に視角が限定され過ぎだ。時間的には「今」を相対化し、住居史に知恵を探りたい。空間的には「ここ」を相対化し、立地場所に想像力を働かせたい。

 私も、大学の課題で住宅を設計したことがありますが、住宅を設計するには、自らのやりたいようにやるだけではなく、たとえば社会学的な視座も必要なわけです。何せ、住宅を設計することは、単に何かを作るだけでなく、住宅と社会のかかわりも真剣に考えなければいけないわけで。だから、建築家と社会学者はどんどん関わりを深める必要があると思います。授業がらみで「住宅建築」「新建築」などといった建築雑誌を読むことが多くなりましたが、建築家の作品や論考のみならず、もっと社会学的な論考を載せてほしいと思います。どこかの新聞やオピニオン雑誌が「建築と社会」を取り扱った対談や特集をやってくれないものでしょうか。
 ちなみに佐藤氏のサイトにある《持病》とは、《「お引越ししたい病」》なんだそうな。引越しすると、自らの住環境や、周囲の人間関係も変わります。「引越ししたい」という「病」にかかってしまうことは、常に新しい環境を求めることなのかもしれません。これがいいことなのか、悪いことなのかは、もう少し深く考えてみる必要がありそうです。

 週刊!木村剛:[ゴーログ]国民総背番号制にあなたは賛成ですか?(木村剛氏:エコノミスト)
 ヤースのへんしん:公務員からドーゾ
 「国民総背番号制」に関する文章ですが、私としては、導入は慎重にやるべきだと思います。もちろん、この制度には利点も多数あるでしょう。しかし、制度を導入することによって新たなリスク、たとえば、予算、セキュリティ、偽造される可能性をあらかじめ勘案・予測しておく必要もあることは明らかです。これでリスクが少なく、利点が大きいというのであれば、私は導入してもいいと思いますが、不安要素が多すぎます。まず、国民が理解を示しているか。次に、管理とセキュリティは万全か。特に後者については、省庁のホームページが簡単にセキュリティを破られて進入されるという報道が多くなされていることからも分かるとおり、我が国の政治におけるセキュリティに関する知識が足りないことも不安要素たりえます。「ヤースのへんしん」では、

 結局は「指紋」などの、個人を特定できる体の一部を判定基準とするしかないと思うのです。
 それなら、背番号は必要ないわけですよね。

 と、番号を振る以外にも(偽造されにくい?)やり方があることを示唆しています。しかし、たとえば指紋を用いる場合にも、指紋データの漏出が問題になるでしょうから、サイバー政治戦略とは複雑なものです。
 ちなみに、「ヤースのへんしん」には、こんな面白い案もあります。

 まずは、公務員だけ先に背番号を付けて見たらどうでしょうか?
 保険証も免許証、ETC、定期券、クレジットカード、各種メンバーカードなどを一元的にオンラインで管理するわけです。
 東京に出張してるはずなのに、大阪の居酒屋でカードを使い、定期券で家まで電車で帰ってるとか、残業してるはずなのに役所の最寄の駅から5時15分に電車に乗ってるとか。
 「カラ出張」もできなくなるし、「カラ残業」もできなくなる。
 公務員の事件では、個人が特定できずにうやむやにされることが多いわけですから、背番号はいいかもしれませんよね。
 国が導入したいなら、まずは公務員だけ3年ほど導入してみたらどう?
 国民から給料を貰ってるんだから、国民を代表してやってみればいいんじゃない。

 まあ、公務員の不透明なカネの使い方を明らかにする、ということはできるのかもしれません。
 しかし、木村氏のブログで奇妙に思えるのは、「国民総背番号制」の導入の議論が、なんと偽造通貨の横行から始まっているのです(実際には他のブログからの引用で、木村氏が制度導入による犯罪の抑止効果を論じているわけではありませんが)。
 これでいいのでしょうか。
 《個人の認証の問題》というのであれば、なぜ国民総背番号制でなければいけないのでしょうか。「ヤースのへんしん」のような指紋認証システムとか、あるいはNシステム(自動車のナンバープレートの認証システム)のようなシステムでもいいはずです。このブログの筆者は、なぜ国民に番号を振る必要があるのか、という根本的な疑問に答えきれていない気がします。
 あまつさえ、このようなことを言っているブログさえありました(ブログ名は挙げません。木村氏のブログから探してください)。

 近年、凶悪な事件が連続して起こっており何か悲しい状態になっています。そして、もし国民総背番号制と登録制度があったら、犯罪に対して抑止効果があるのでは、と思わざるを得ません。

 正気の沙汰か、と思ってしまいます。《凶悪な事件》が何を指すのか分かりませんし、《国民総背番号制や登録制度》がどのような犯罪にどのように抑止力として働くのか、ということに関してはまったくあいまいなままです。はっきり言いますが、国民総背番号制度を導入して抑止力になりうるのは、私が考える限り脱税ぐらいではないか(これに関しても、木村氏が言うとおり、同時に所得税を申告制にすれば、所得税に関しては抑止力を失う)。国民総背番号制や登録制度を導入したところで、マスコミを騒がせるような凶悪事件を防げると考えるのは、まったくお門違いもいいところでしょう。
 それにしても、最近、「強い〈国家〉が自分の不愉快なものを癒してくれる!」という考えが出てきているのが気になります。具体例を挙げれば、憲法および教育基本法改正に奔走する一部の議論。これらを改正すれば、国家が自立することによって、国民にも自立心が生まれ、少子化も少年犯罪もみんな解決できる!って言っている改正論者は、まともな社会学者や経済学者を莫迦にしていますね。憲法に関する視座については、長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書・2004年4月)を推薦します。少なくとも憲法と青少年問題を強引に結び付けて考えることのアホらしさが分かります。
 それから、ここでも何度か採り上げた「有害情報規制」。言っておきますけれども、この規制を導入する人にとっての「有害情報」とは、単に「自分の道徳的観念に照らし合わせて気に入らない情報」であり、それ以上のものではないのでしょうか。実を言うと私も、このブログで散々オタクメディア規制を批判してきましたけれども、露骨な性描写はむしろ嫌いです。しかし、嫌いなら見なければいいのではないでしょうか。いうなれば「見たくないものを見ないですむ権利」ですね。それを無視して国家による規制を求めるのは、国家と国民が自分と同じ価値観を持ってくれないと困る、ということに過ぎないのではないでしょうか。同じ論理で、いわゆる「禁煙ファシズム」も批判できます。私だってタバコは「大」を10回繰り返したくなるぐらいに嫌いです。しかし、嫌いであれば遠ざかればいい、あるいは分煙を主張するべきでしょう。自分の志向にあわないものは国家が規制しろ、という言論を、私は「生活保守主義的プチナショナリズム」と名づけます。どっかの俗流精神科医の「ぷちナショナリズム症候群」なる空疎な「若者論」とは一味違うぞ!これに関しては、また稿を改めて論じる必要がありそうです。

 山崎宏之のウェブログ:【大阪寝屋川中央小侵入事件】「ゲーム大好き」「ひきこもり」無職・17歳卒業生(山崎宏之氏)
 凄惨な事件がおきてしまいました。犠牲者のかたがたには、心から同情を禁じえません。
 しかし、この事件の報道(山崎氏のブログでは朝日新聞の記事が引用されていましたが、読売新聞も同じようなことを報じていました)が、またぞろ「ゲーム」「ひきこもり」を強調しているのは、なぜなのでしょうか。どうしてほかの要因を見ようとしないのでしょうか。「動機」(これが信用に足りうるものである保証はない)すら明らかにされていないのに、すぐさま「ゲームの影響で凶悪な犯罪を起こしてしまった」と思わせてしまうような報道、あるいは「「ひきこもり」は凶悪犯罪と親和性が高い」と思わせてしまうような報道をしてしまうのでしょうか。結局のところ、このような報じ方をする記者は、「自分とは関係ないところから凶悪事件が起こったのだ!自分の生き方は正しい!」という考え方に染まっているのではないか、と思えてなりません。ここから「生活保守主義的プチナショナリズム」が生まれてしまうのですね。ちょっと議論が飛躍してしまいましたが。
 話を戻しましょう。なぜ「ゲームの影響」「ひきこもり」を強調することはいけないことか。その原因として真っ先に投げかけられるべき疑問は、「ゲームが大好きな青少年はいっぱいいるし、「ひきこもり」の青少年もたくさんいると聞く。しかし、それではなぜ彼らは犯罪を起こさないのか」というものです。多くのゲーマーや「ひきこもり」の青少年が凶悪犯罪を起こさないのだから、この凶悪犯罪者を犯罪に駆り立てたものは、ゲームや「ひきこもり」以外の何か、と考えざるを得ません。安直なプロファイリングは、ある属性の人を凶悪犯罪者予備軍に仕立て上げることによってのみ成立するものですから、慎重でなければならないのは明らかでしょう。むしろ大事なことは、このような事件の再発を防ぐためには何が必要か(更生システムの見直しなど)、被害者遺族の心理的なショックを癒すためには、そしてこの犯罪者の処遇は、ということに他ならないはずです。特定の属性を持った人々や特定の世代に対する敵愾心を煽ったところで、何も変わらないのです。
 それにしても猟奇的な少年犯罪報道の「不変ぶり」にも、驚かされるところがありますね。

 もう少し「ゲームの影響」について語らせてください。
 最近になって、いろいろなところで長崎県教委による、小中学生の「死生観」をめぐるアンケートが話題になっていますね。なんでも、小中学生の約1.5割が「死んだ人が生き返る」と考えているのだとか。このような結果に関して、多くの人が「ゲームの影響」を疑っているようです。しかし、長崎県教委のアンケートを見ると、「リセットできるから」と考えたのは、なんと「生き返る」と答えた者の中のたった7パーセント!全体で見ると、0.07×0.15×100=0.85[%]となり、「ゲームの影響で死生観が麻痺している」のは全体の0.85パーセントに過ぎないのです。
 ついでにこの統計も疑ってみましょう。「死んだ人が生き返る」と答えた者への、その「理由」を尋ねる項目があるのですが、

 ①テレビや映画等で生き返るところを見たことがあるから
 ②生き返る話を聞いたことがあるから(テレビ等を見て、本を読んで、人の話を聞いて)
 ③ゲームでリセットできるから
 ④その他

 これでは誘導尋問ですよ。このアンケートの設計者は、何が何でも「メディアの悪影響」を捻出したいようですね。しかし、こんな杜撰な調査では、少なくとも統計学的な知識を持った社会学者には相手にされないでしょうね。近く、これを題材にして、久々の「統計学の常識やってTRY」をやろうと思います。
 ゲームに関しては、「コンピュータエンターテインメントレーティング機構(CERO)」という良心的な団体がありますので、こちらのウェブサイトもチェックしてみる必要があるでしょう。

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2005年2月 2日 (水)

トラックバック雑記文・05年02月02日

 *☆.Rina Diary.☆*:焼き焼き!(佐藤利奈氏:声優)
 佐藤氏と、声優仲間の木村まどか氏、山川琴美氏によるお好み焼きパーティーに関する文章です。
 私事になりますが、私は、先月(05年1月)28日、平成17年仙台市成人式実行委員会の打ち上げに行ってきました。実を言うとこの打ち上げは私にとって、生まれてはじめて仲間と酒を酌み交わした体験でありました。私は酒に慣れていないので赤ワインをワイングラス3杯ほど飲んだのですが、ほかの人はもう出来上がっているのではないかと思うぐらいはしゃいでいました。実行委員の榎森早紀氏や小野寺洋美氏、市教委の齋藤浩一氏や鈴木一彦氏などと語り合い、罵り合い(笑)、楽しい時間はあっという間に過ぎていました。こういうのもいいものです。またやりたいですね。
 この打ち上げには2次会もありました。2次会は打ち上げをやった焼肉屋のすぐ上にあるカラオケ屋に行ってカラオケをしました。私は、声優の千葉紗子氏と南里侑香氏のユニット「tiaraway」の「Your Shade」を熱唱してしまいました。まあ、この曲は私以外知らなかったのですが。でも、皆様知らないなりに盛り上がってくれました。
 成人式実行委員会の皆様、また会えるといいですね。

 だいちゃんぜよ:去りゆくドンたち(橋本大二郎氏:高知県知事)
 そういえば橋本大二郎氏は、もともとはNHKの記者でした。このたび、海老沢勝二氏が辞任したわけですけれども、橋本氏が現役の記者のとき、橋本氏の目に海老沢氏がどう映っていたか、そして今の海老沢氏は、という思い出話をつづったエッセイです。海老沢氏以外にも、堤義明氏や鈴木宗男氏にも触れられていますが、これらの人はさまざまな分野でドンとして君臨しつつ、そして散っていった人たちでした。橋本氏の

 面識のある方々が表舞台から姿を消すことに、いちまつのさみしさを感じます。

 という言葉には、橋本氏の想いが詰まっているように思えます。

 週刊!木村剛:[木村剛のコラム]並大抵の覚悟では日本は再建されない(木村剛氏:エコノミスト)
 MIYADAI.com:戦略なき対米協調で足元を見られる日本──三層の知恵で巻き直せ(宮台真司氏:社会学者)
 国家戦略を語ることは、まず徹底したリアリズムと、歴史的な深み、そしてできるだけ感情的にならずに、説得的になるようにすることが求められていると思います。そこらの自称「右翼」「保守」の人たちが、感情に任せて教条主義的に同じような台詞を発しているような駄文は「国家論」たりえるのでしょうか。また、自称「左翼」「リベラル」の人たちは、「国家」について語ること自体がナショナリズムだといっています。嗤うべしですよ。彼らの振りかざす「空想的平和主義」も、十分に国家戦略的なことを語っているのですから(でも「国家論」とは言えないなあ)。
 いずれ中国も台頭するでしょうし、中国を除くアジア諸国も中国に対抗すべく日本に同盟を求めているくらいですから、政治にしろ経済にしろアジア戦略の軸となるのはまず中国、そして北朝鮮なのかもしれません。米国に対する戦略を考えるにしても、対米追従を批判するならばそれに関する対案、それも感情的な対米追従論よりも説得的な対案を提案するべきだと思います。そのためにも、まず考えること。できるだけ他人の主張の受け売りを避けるようにしなければならないと思います。
 国内問題にしても、たかが「今時の若者」の「問題行動」に右往左往して、そこから「国家意識の喪失」だとか「偏狭なナショナリズムに踊らされる若者の激増」なんて罵倒してる場合じゃないのよ。ここで明らかにしておきますけれども、たとえば教育基本法の改正論や、宗教教育の是非に関して、熱心な賛成派と熱心な反対派の「青少年観」は驚くほど接近しているのですね。賛成派の論理は「「今時の若者」は国家意識や宗教観を喪失しているから、「問題行動」を起こす。これを阻止するためには国家意識や宗教観を涵養しなければならない」、反対派の論理は「「今時の若者」に国家意識や宗教観を涵養させる教育をすると、「問題行動」が激化し、偏狭なナショナリズムにつながる」。似てるでしょ。少なくとも「今時の若者」に関する偏った見方、という点においては。こんな「内戦」に反対する論理は、「今時の若者」という虚構それ自体を批判する問い方にしなければならないと思います。

 ン・ジュンマ(呉準磨)の備忘録:ローレンス・レッシグ「CODE」を読もうと思う(まだ読んでなかったのか!?)
 面白そうな団体のリンクがはってありました。今後の動向が注目されます。
 新政策機構「チームニッポン」
 代表は長野県知事の田中康夫氏だそうです。

 弁護士山口貴士大いに語る:ネット有害情報を阻止 都が青少年条例改正へ(弁護士:山口貴士氏)
 りゅうちゃんの日記:日本版ミーガン法をすぐには賛成できない理由
 先日(04年1月21日)のトラックバック雑記文において、私はメーガン法の制定に反対の立場を示しました。理由は、この事件は警察の初動が早かったか、あるいは犯罪者の更生システムが充実していれば十分に防げたから、と思っているからです。
 メーガン法を求める人も、メーガン法に反対しつつポルノメディア規制を求める人も、国家あるいは社会が強い態度で臨まなければ凶悪犯罪は防げない、というハードランディング的な考え方で共通しています。ならば、凶悪犯罪対策のソフトランディングとは何なのか、といえば、私は更生システムの充実化、そして社会政策の充実化だと思います。凶悪犯罪者が逮捕されて、その生い立ちを執拗に求めるのは、確かに必要かもしれませんが、たいていは枝葉末節をつくようなものでしかないのです。しかも、その「物語」構築において求められる「物語」が、今回の奈良女子児童誘拐殺人事件の如く「ロリコン」「フィギュア萌え族」(蛇足だが、小林薫容疑者が「オタク」だったという証拠、少なくとも秋葉原に出入りしていたという証拠はまったくない!)という、「あいつは俺たちとは違うんだ」というシナリオ、そうでなければ究極の呪文「心の闇」に傾きがちになるのですから、このように構築された「物語」が信用に足るものではない、ということは想像がつくでしょう。
 凶悪な性犯罪を防ぐための「第3の道」はソフトランディング的な主張になるべきでしょう。そのために、まず、更生システムの見直し(その文脈で厳罰化が議論されるのであればそれもかまわない)、警察の初動が早くなるような警察機構改革を私は求めます。
 そういえば、奈良女児誘拐殺人事件における、マスコミのオタクバッシングまとめサイトが、私の知らない間にずいぶん増えています。やはりオタクバッシングの中心となったのは大谷昭宏氏なのですね。
 しかし大谷氏の問題発言が見られるのは、何もオタクバッシングだけではありません。たとえば、最近公開した「成人式論は信用できるか・01」で、「通販生活」2005年1月号の成人式特集における大谷氏の発言を採り上げたのですが、ひどすぎます。そもそもこのような大谷氏の「若者論」における「歪み」に気づいたのが、「日本の論点2004」(文藝春秋)の「データファイル」で、「ネット心中」について採り上げられた部分において、大谷氏の主張が「強硬派」の主張として紹介されていましたが、その主張の骨子は「自殺系サイトを法規制しろ」というものでした。
 あれ?大谷氏は、黒田清(作家・故人)、本田靖春(作家・故人)両氏につながる、読売新聞OBのリベラル系ジャーナリストとして有名な人ではありませんでしたっけ?そんな大谷氏が、なんで「若者論」のときは国家に擦り寄って強硬派的な主張をするんだ?私のなぞは深まるばかりです。先日、「大谷昭宏は信用できるか」という文章を入稿しました。公開は今月末になると思います。

 蛇足。

 拙者、ギター侍じゃ…
 俺は大谷昭宏。メーガン法には反対だ。なぜなら…

 だけどみなさん、よく考えてみてくれませんか。性犯罪者の所在公表ということであれば、いまの日本でまず、まっ先にやらなければならないことは、この1月1日に社会復帰した神戸・須磨の連続児童殺傷事件の少年Aの住所氏名の公開ではないのか。
 いまの日本でそんなことをしたらどうなるか。近くに住む子どもを持つ親たちはパニックになるはずだ。近隣の幼稚園や保育園は間違いなく閉鎖になってしまう。
 あのオウム真理教(アーレフに改称)事件のときを思い出してほしい。直接、事件と関係ない幹部の娘が小学校に入学手続きをするというだけで地元はどんな騒ぎになったか。オウム信者らしい若者がマンションを借りたというだけで、地元の人は不寝番まで置いたではないか。
 いま少年Aの所在が公表されたら、おそらくこの男性の転入届けを受け付けた市長はリコールに発展するはずである。そんな日本の土壌、風土を考えたとき、やれ、メーガン法だなんて訴えるのがいかに空論かわかるというものである。
(日刊スポーツ・大阪エリア版「大谷昭宏フラッシュアップ」平成17年1月18日掲載)

 …って、言うじゃな~い…。

 でもアンタ、《そんな日本の土壌、風土》を乱用・悪用してオタクへの敵愾心を煽りまくりましたから!残念!!
 「青少年社会環境対策基本法は青少年を救わずメディアを殺す」斬り!!

 上のリンク先は、ジャーナリスト・坂本衛氏のサイトですから…。切腹!!!

 お知らせ。オンライン書店「bk1」で私の新作書評が公開されています。
 山室信一『キメラ 満洲国の肖像 増補版』(中公新書・2004年7月)
 title:建国のロマンと挫折
 宮台真司、宮崎哲弥『エイリアンズ』(インフォバーン・2004年11月)
 title:「よそ者」であるということ

 このサイトの右側の表示しております「参考サイト」に「奈良女児誘拐殺人事件における、マスコミのオタクバッシングまとめサイト」を追加しました。

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2005年1月21日 (金)

トラックバック雑記文・05年01月21日

 阪神大震災10年の夜は、故・岡崎律子氏の最新アルバム(「最終」アルバムとは思いたくない)「for RITZ」(キングレコード・2004年12月)を静かに聴いていました。

 千人印の歩行器(05年01月21日付/栗山光司氏)
 ン・ジュンマ(呉準磨)の備忘録:例のNHK問題・・・こう整理
 NHKvs.朝日新聞の対立がいよいよ激化してきました。ただ、私はこの対立については深く言うことができませんが、とりあえず苦言を言わせてもらうと、この対立はあまりにも不毛な対立といわれてもおかしくないような気がします。それこそ朝日(に限らずわが国のマスコミ)が常日頃非難している「言った/言わない」の対立がここでも現れていると思うからです。おそらくこの対立は、朝日もNHKも共に大幅に信頼を落として終わり、というのが結末になるような気がしてなりません。
 NHKが、阿部晋三氏や中川昭一氏に内容を確認したということは、ここで「政治介入」が成立しているのではないか、という見方もありえないものではないと思います。私は件の番組を見ていないのですが、件の番組の中で「女性国際戦犯法廷」という法廷モドキ(何せ、すでに死んでいる人物を「被告」にでっち上げて、反論権も保障せず「有罪」にしてしまうのですからね。法治国家ではまずありえない形式でしょう)が採り上げられているのは、ちょっと違和感を覚えました(ちなみに読売はこの一点張りでNHK側についているような気がします)。
 しかし、番組の内容について対立する側の政治家に意見を求めるというのは、しかもそれが政権党の政治家であるので、「政治介入」と見られても(それがたとえ誤解であっても)仕方ない、という一面もあると思うのです。確かに朝日新聞の一部の記者には、特定の極左的な運動に加担しているような記者もいるかもしれません(2年前に逝去したY・M記者は、この「女性国際戦犯法廷」に積極的に加担していました。と、面罵に近い批判をしてしまいましたが、私にとって朝日新聞は好きな新聞の一つです)。というわけで、NHKにも一定の落ち度があったし、朝日も少し騒ぎすぎではないか、というのが私の見解です。
 それにしても、読売をはじめ、ほかのマスコミがこの事件について何でもっと大きく採り上げないのか、不思議でなりません。
 この問題については、ジャーナリストの武田徹氏の記事と、同じくジャーナリストの坂本衛氏の記事も参考になります。

 週刊!木村剛:[週刊!神部プロデューサー]いよいよ「改憲」なのだろうか?!
 「週刊!木村剛」に掲載された文章ですが、木村氏の文章ではありません。
 今日付けの読売によると、中曽根康弘元首相が主催する「世界平和研究所」が憲法改正案を出したそうです。見た限りでは、中心は天皇陛下の元首化、首相の権威の強化にすえられていると思います。
 憲法に関して私が気になっているのが、現行憲法99条、中曽根改正案の116条です。

 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。(現行憲法。中曽根改正案は新仮名に改められると同時に、憲法を尊重し擁護するべき人物として「内閣総理大臣」の名前が付け加えられている)

 左派系文化人の一部は、この条文を、憲法改正を禁じた条文とみなしている向きがありますが、しかしそれは間違いだと思います。《憲法を尊重し擁護する》ということは、憲法を寄りよい方向に変えていく、というのも含んでいるのではないでしょうか。
 現在の護憲派の衰退の原因の一つとして、「何が何でも護憲」という態度にこだわり続けていることがあると思います。それで、なぜ護憲なのか、護憲のどこがいいのか、また、護憲をすることによってこの国の政策はどうなるのか、という戦略的な目標を提示することがかけている、という気がするのです。
 最近の一部の護憲派の焦りは滑稽です。国民投票法を実施する、というと、それは必ず改憲に繋がる、という主張がありますが、それは選挙民をあまりにも莫迦にした態度ではないでしょうか。
 私はかつて「2004年・今年の1冊」で、今井一『「憲法九条」国民投票』(集英社新書、2003年10月)という本を紹介しましたが、これは、特に護憲派の人たちには必読の文献でしょう。改憲派が勢いを増していく中で、護憲派はいかにして生きていくか、ということについて、本書は大いに示唆的です。

 走れ小心者 in Disguise!:「し、しっかりしろ警察……」
 同: 「あら。もう、もちついているみたいね…」(克森淳氏)
 奈良の女子児童殺害事件の後日談であります。前者の記事によると、《奈良の事件の容疑者には事件当日、新聞購読代金横領の容疑で逮捕状が出ていたにも関わらず、警察は行方をつかめなかった》というのです。さらに、ジャーナリストの日垣隆氏によると、小林薫容疑者は20歳のときに少女に暴力を振るっていて、逮捕されたのですが、判決はなんと執行猶予つきだったそうです。「日本版メーガン法」を主張する人は、このような警察や司法の体たらくを看過してはいけないのではないでしょうか。
 この事件における大谷昭宏氏、および「サンデー毎日」の騒ぎっぷりは異常でした。「サンデー毎日」なんて、小林容疑者のことを一貫して、しかも執拗に「ロリコン殺人鬼」と表現しているのです。「週刊文春」「週刊新潮」もここまでやっていないのに、ですよ。小林容疑者が毎日新聞の販売員だった、という事実と照らし合わせると、さらに以上というほかなくなってしまいます。いや、毎日の販売員だったから、か。
 今週の「サンデー毎日」を開いて驚きました。脳科学に関する連載で、「ロリコン殺人鬼」小林容疑者が、なんと「セロトニン欠乏症」なのではないか、というのが大々的に書いてあったのです。この記事には、かの曲学阿世の徒、北海道大学教授・澤口俊之氏も登場するし、この記事の結びが「理解できない犯罪が増えている。社会的観点ではなく、生物学的な観点からも検証しなければならない」といった内容の文章です。ああ、「サンデー毎日」はついに疑似科学まで持ち出してしまったか。
 いいですか。確かに小林容疑者はロリコンでした。これは事実です。しかし、ロリコンがみんな残虐な性犯罪を起こすわけではないのです。これもれっきとした事実なのです。一つの凶悪犯罪を取り上げて、ロリコンおよびロリコンメディアを敵視する必要がどこにあるのですか。特に、大谷氏と「サン毎」、そしてこれらの報道や言論に踊らされている人は、この事実を深く胸に刻み込んでおく必要があります。
 日垣氏の最新刊『世間のウソ』(新潮新書・2005年1月)には、「性善説のウソ」と題して、昨年6月に起こった佐世保の女子児童殺害事件におけるマスコミの体たらくを批判しています。この文章は、奈良の事件にも共通する問題提起を含んでいるので、ぜひ一度読んでください。日垣氏がらみでは、精神障害犯罪者を扱った『そして殺人者は野に放たれる』(新潮社・2004年3月)も読んでおく必要があるでしょう。

 蛇足。現在発売中の「通販生活」で、成人式に関する特集が組まれているのですが、ここにも大谷氏が登場し、トンデモ若者論を振りまいています。大谷氏は、わが国で少子化が進んでいることと、わが国において青少年による強姦罪の検挙件数が1965年ごろに比べて約20分の1に減少していることをご存知なのでしょうか。いったい大谷氏は、本当にジャーナリストなのでしょうか。デマゴーグでしかないのではないか?
 大谷氏の暴言の隣に、われらが平成17年仙台市成人式実行委員会実行委員長、伊藤洋介氏の至極まっとうなインタビューが掲載されているのが泣ける。

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2005年1月10日 (月)

トラックバック雑記文・05年01月10日

 仙台市成人式におこしになった皆様、そして関係者の皆様、本当にありがとうございました。皆様の暖かい支持のおかげで、仙台市成人式は無事に成功を収めました!我々仙台市成人式実行委員会は、昨年8月25日の発足から、さまざまな試行錯誤を続けて、ついにこのような形にすることができたのです。実行委員会、そして当日のボランティアスタッフ(19歳と20歳の仙台市民のみで構成されている)の皆様は、今日の成人式を大成功に収めようと、精一杯がんばってくれました。そして私もがんばりました。大声で「これが仙台の成人式だ!」と誇りを持っていえるような結果となりました。
 私は、帰るとき、tiaraway(声優の千葉紗子氏と南里侑香氏のユニット)の「想い出good night」を歌っていたのですが、知らず知らずのうちに涙が出てきました。ここまで来ることができたのだ、と。
 最後に、皆様、本当にありがとうございました!

 週刊!木村剛:立ち上がりませんか、団塊の世代!(木村剛氏・エコノミスト)
 私が今回の成人式における市長や市議会議長の式辞で最も言ってほしかった言葉が「俺たちについて来い!」という思い切った言葉でした。市議会議長がこれに近いような言葉をおっしゃっていたので、感激してしまいました。
 ここからは20歳の莫迦の独り言ですが、「団塊の世代」の皆様には、ぜひともがんばってほしいと思います。上の世代が奮い立たないと、下の世代もどうすればいいか分からない、という面は確かにある。現在のマスコミに若い世代を奮い立たせようという気概はほとんどないと思います。マスコミが扱う若い世代のトピックといったら、たいていは「愚痴」か「若者論」でしょう。しかし、このような行為は「若者論」という自らが傷つくことのないシステムの上で惰眠することしか意味しないのであって、本当に若い世代について知りたい、というのであれば、さまざまなところに出て、行動することが必要なのだと思います。若年層は渋谷や原宿にしかいるのではないのですし、若年層の行動全体を渋谷とか原宿に結びつけることは、「善良な」中高年層に残酷なカタルシスを与えることにしかならないのだと思います。今こそ、現場が声を上げるときではないでしょうか。
 ついでに言っておきますと、今回の成人式で、我々仙台市成人式実行委員会の中でも、20歳の実行委員長に負けず劣らず活躍したのが、55歳の、障害を持った自らの子供が新成人になる女性でした。この人は私なんかよりも何倍も知恵を絞ってくださり、今回の成人式の大成功にも大いに影響を与えてくれた存在であります。先日放送された「OH!バンデス」(ミヤギテレビ)出場のアポイントメントを取ってくれたのもこの人ですし。
 蛇足。木村氏のブログにリンクされていた某サイト(名前は挙げません。自分で探してください。木村氏のブログを探せば簡単に見つかります)で、

 若者にも選択権があることを、ここ数年の行動で知らせてくれましたよね。 アルバイターやニート、パラサイトに至るまで、拒否することも自分だけの利益に繋げることも、自由気ままに生きることも、若者には選択できる。

 なんてことを言っていた人がいました。経済的不公平から失業やフリーターになるのは無視されているので、どうも違和感ばかり残る文章であります。「世間」が若年層に「自立」を強要することが、かえって「自立しない若者」を生み出しているという指摘も斎藤氏などから指摘されています(「Voice」2004年12月号)。成人の日に、「自立」というイデオロギーを至上のものとして捉えることを、一度考え直してみてはいかがでしょうか。
 「スタンダード 反社会学講座」の「第4回 パラサイトシングルが日本を救う」「第8回 フリーターのおかげなのです」「第12回~14回 本当にイギリス人は立派で日本人はふにゃふにゃなのか」PARTには、「世間」のフリーターやパラサイトシングルに対する偏見を見事に斬ってみせています。
 たとえば…

 すでに述べたように、多くの場合、若者の収入は低いので、支出の中に占める家賃の割合は高いのです。20%以上になります。それがさらに搾り取られる結果になります。パラサイトシングルが減れば、たしかに若者の間の格差は縮まるかもしれません。ただし、若者全員がいまより苦しい経済状態に陥って、ですが。  それより捨て置けない問題は、彼らが払った家賃の行く先です。若者が苦労して稼いだ収入が、家賃として「お金持ち」である大家の懐に収まってしまうのです。ひとり暮らしの若者が増加することによって、得をするのは大家だけです。そして今回の検証でおわかりになったと思いますが、大家というのは、少数の富裕層に属する人たちなのです。ひとり暮らしの若者が増えれば増えるほど、若者はより貧乏に、お金持ちはより贅沢な暮らしができるようになるだけのことです。これのどこが、公平な社会なのでしょうか。 (第4回)

 企業が使える人件費は無限ではありません。ひとつのパイを分け合っているのです。フリーターが安月給な分、正社員の給料が多くなる。ということは、全員が正社員になった場合、正社員一人当たりの給与は現行水準より大幅に下がるのです。自分の給料が下がるという犠牲を払ってまでフリーターをやめさせる覚悟が、みなさんにはありますか?(第8回)

 また、現在発売中の「現代思想」2005年1月号(青土社)は、「フリーターとは誰か」という特集を組んでおりますが、特に渋谷望氏の「万国のミドルクラス諸君、団結せよ!? アブジェクションと階級無意識」という論文は、ネオリベラリズム批判の観点からフリーター論を批判しております。渋谷氏には『魂の労働』(青土社)という著書があるのですが、これは未読です。近いうちに読もうと思います。

 千人印の歩行器:引きこもり者に語る言葉は何?(栗山光司氏)
 「ひきこもり」について。「ひきこもり」を語る言説には「若者論」ばかりが集まるのですが、以前の雑記文でも言ったとおり、「ひきこもり」を「若者論」で語るのは徒労です。栗山氏のブログでも紹介されているのですが、斎藤環氏の一連の仕事、特に『ひきこもり文化論』(紀伊國屋書店)はこの問題を考える上で参考になります。
 あと、斎藤氏によれば、「ひきこもり」と似た問題は韓国にも存在するらしいです(「中央公論」2004年3月号)。
 もう一つ。かの曲学阿世の徒、京都大学霊長類研究所教授・正高信男氏が今日の読売新聞で「ひきこもり」に関して相当ひどいことを書いています。正高氏は「ひきこもり」に関する本を本当に読んでいるのでしょうか。近く「またも正高信男の事実誤認と歪曲 ~正高信男という堕落ふたたび~」を公開します。

 お知らせ:「私の体験的成人式論」を、来月頭ごろに公開します。お楽しみに。

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2004年12月31日 (金)

トラックバック雑記文・04年12月31日

 今年も残りわずかとなりました。ここで私の今年最後の雑記文です。

 私が朝起きたら、「やじうまプラス号外版」というテレビ番組(テレビ朝日系列。私の住んでいる地域では東日本放送)で、少年犯罪に関して、出席している「知識人」たちが侃々諤々の議論をしていたのですが、結局、そこらの「若者報道」を超える結論が出なかった。ま、所詮こんなもんでしょう、と思いましたが。少し古い記事になりますが、
 歯車党日記:ネットについていけないマスコミの姿を露呈する佐世保・小学生殺傷事件(石黒直樹氏:ライター)
 は、一読に値すると思います。とりあえず、「インターネット」とか「少年犯罪」に関する安易なイメージに逃げない、という努力が、マスコミには欠けているような気がします。無論、ここから逃げない人もいますけれども(「良識派」ですね)、このような人の文章になかなかお目にかかることができない、というのがわが国の少年犯罪報道、さらには若者報道の悲しいところであると思います。
 若者報道がらみで言ったら、社会学者の北田暁大氏の「試行空間」に掲載された、渋井哲也「大人が知らない小学生のどっぷり「ネット生活」」(「中央公論」2005年1月号)に関する評価も参考になります。あと、香山リカ、森健『ネット王子とケータイ姫』(中公新書ラクレ)も必読でしょう。

 少年犯罪報道で、常套句として使われる言葉の一つに「子供は大人社会の鏡である」という表現があります。木村剛氏のブログにもこのような記事があります。
 週刊!木村剛:子供は大人を映す鏡である(木村剛氏:エコノミスト)
 残念ながら、私はこのような言葉が大嫌いなのです。なぜかというと、このように「納得」してしまうことは、少年犯罪その他を「消費」する考えでしかないからです。また、これを言い換えれば、「子供」をスケープゴートにすることによって「社会」を糾弾する、というあまりにも反動的な策動が見え隠れします。
 木村氏がそうだとは言いませんが、このような言葉を平気で振りかざす人は「子供」のことにかんしてかなり歪んだ幻想を持っているように思えます。同時に、「子供は大人社会の鏡である」と言う人々は、なぜ社会のいいところが子供達に反映されないのでしょうか。無論、良いところは見えづらい、ということはあります。しかし、よいところも評価しないと、公平な評価、とはいえないのではないのでしょうか。
 これは新聞の投書欄にも見出すことができます。たとえば、一部の若年が不逞な態度を取ると「現代の若者の側面を垣間見た」だとか「こういうことが全国で起こっていると思うと恐ろしい」とかいった言葉がさも「お約束」の如く振りかざされます。逆にいいことがあると「こういう人は少ないが、…」「この殺伐とした時代に…」という言葉が必ず出てくる。このネガティヴさはいったいなんなのでしょうか。このような「大人」たちの思考態度も問題視すべきではないかと思います。
 蛇足ですが、「2004年・今年の1冊」でも採り上げた、東京大学大学院助教授の広田照幸氏の著書『教育』(岩波書店/思考のフロンティア・2004年5月)の文章を引用します。

 青少年の道徳教育をめぐる言説や制度は、「正しい人間」「より道徳的に価値の高い生き方」を社会的に定義する機能を果たす。それは成人を対象にした一般行政におけるよりもはるかに踏み込んで、人の生き方の序列付けを行うことになる。……青少年の道徳の問題に仮託してなされる議論は、むしろ社会全体における道徳的基準を再定立(略)する機能を果たす(それゆえ、「子供に道徳を押し付ける前に、まず大人が襟を正せ」という議論は、提示されている道徳的基準をそのまま社会全体で受け入れる危うさを持っている)。(74~75頁)

 少年犯罪に関する言論であれば、「ン・ジュンマ(呉準磨)の備忘録」に掲載された「やはり日本が「歴史の終わり」の先駆?」という文章のほうがかなり説得力があります。

 今年もいろいろありましたね。私が気になったことに関してほかのブログなどからの記事を集めてみました。
 天皇制をめぐる問題
 千人印の歩行器:天皇萌えの世紀?(栗山光司氏)
 MIYADAI.COM:「開かれた皇室」論者は自分が何を言っているのか分かっているのか(宮台真司氏:社会学者)
 「自己責任」バッシング(これに関する私の見解は、「統計学の常識、やってTRY!」に記されております)
 MIYADAI.COM:右翼思想からみた、自己責任バッシングの国辱ぶり
 性教育の問題
 試行空間:荒川から考える1(北田暁大氏:社会学者)

 評論家の福田和也氏が、著書『晴れ時々戦争いつも読書とシネマ』(新潮社)の中で、「年の終わりに往く人、来る人」なる文章を書いていたことがあります。「往く人」は「往ってほしい人」で、「来る人」は「来てほしい人」です。福田氏の文章では、「往く人」にスペースを使いすぎて、「来る人」を書くスペースがなくなってしまった、というオチでしたが、私なりに2004年の「往く人・来る人」のトップ3をあげてみるとこうなります。
 「往く人」第3位:海老沢勝二氏(NHK会長)
 海老沢“エビジョンイル”勝二氏はいかにして進退を決めるのでしょうか。
 第2位:荷宮和子氏(ライター)
 『なぜフェミニズムは没落したのか』(中公新書ラクレ)も、「相変わらず」でした。
 第1位:正高信男氏(京都大学霊長類研究所教授)
 この人の暴走を誰か止めてやれ…

 「来る人」第3位:イチロー氏(メジャーリーガー)
 第2位:田臥勇太氏(NBA選手)
 わが国のスポーツ界にも革命をもたらしそうですね。田臥氏は今後の活躍が期待されます。
 第1位:小沢一郎氏(元・民主党代表代行)
 やはり、民主党には小沢氏がいなくちゃ。

 11月に始まったこのブログで、今年私が書いた文章は以下の通りです(お知らせと、トラックバック雑記分を除く)。
 正高信男という病 -正高信男『ケータイを持ったサル』の誤りを糾す-
 「生物学的決定論」が蔓延する病理と、その病理を広めるマスコミについての断片的考察
 統計学の常識、やってTRY!
 正高信男という堕落
 2004年・今年の1冊
 2004年・今年の1曲
 私の今後の方向性としましては、現在「正高信男という頽廃」「再論・正高信男という病」「センセイ!荷宮和子はおやつに入りますか!?」「カウンセリングが俗流若者論と結託するとき~江原啓之という病」を執筆中です。また、来年の初めのほうには、なぜ私が「子供は社会の鏡である」という言葉が嫌いか、ということを論じた文章を掲載します。来年は、今年よりももっと若者報道に対するアンテナを立てていこうと思いますので、どうぞごひいきに。
 それでは、よいお年を!

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2004年12月23日 (木)

トラックバック雑記文・04年12月23日

 週刊!木村剛(木村剛氏:エコノミスト)
 再び教育の話。今回は教師に関する話のようです。
 私は現在家庭教師をしているのですが、やはり他人に教えるのは難しいです。
 私の(教えられる側としての)教師体験といったら、中学校と高校のことが最も印象に残っています。といっても、中学校のことに関して言えば、一部の先生が…これ以上言うと、中学校の先生方の逆鱗に触れることになりますから、やめておきます。
 高校は、すばらしい教師陣に恵まれたと思います。私の高校は仙台第二高等学校(男子校)だったのですが、男子校だからこそ実現しえた(?)力の入った授業(教師の性別は問いません)のほか、人間的にもすばらしい先生が多かった。まさに「恩師」と誇りを持っていえる先生だったと思います。

 千人印の歩行器(栗山光司氏:bk1レビュアー)
 内田樹×高橋哲哉×宮台真司の3人による夢の対談、ですか。確かに実現したら大変面白い内容になることは請負でしょう。ただ、このような対談を企画してくれるようなオピニオン雑誌は「論座」(朝日新聞社)くらいしかないのではないか。「論座」の最新号(2005年1月号)には、寺島実郎×ジェラルド・カーティス×姜尚中という豪華メンバーによる対談が掲載されており、読み応えがあります。
 「論座」は、ほかにも村田晃嗣×アンドリュー・デウィット(04年12月号)や、船橋洋一×中西寛(04年8月号)、荻原博子×紺谷典子×中野麻美(04年3月号)、森本敏×田岡俊次(04年2月号)などという面白い組み合わせの対談を掲載しているので、図書館などで目を通してみるのもいいかもしれません。
 ちなみに私の妄想の中の夢の対談は、宮台真司(社会学者)×土井隆義(筑波大学助教授)×三浦展(マーケティングプランナー)。「郊外化と少年犯罪」について12時間ほど語ってほしい!

 ついでに、トンデモ若者論を完膚なきまでに論破できるような対談というのを考えてみました。
 正高信男(『ケータイを持ったサル』)×宮崎哲弥、森昭雄(『ゲーム脳の恐怖』)×斎藤環、荷宮和子(『若者はなぜ怒らなくなったのか』『声に出して読めないネット掲示板』『なぜフェミニズムは没落したのか』)×宮台真司
 ぜひやってくれええええ!

 呉準磨(ン・ジュンマ)の備忘録呉準磨氏
 最近見つけたサイトなのですが、とても面白いです。ぜひ一度読んでみることをお勧めします。
 ちなみに今回トラックバックしているのは「2004年の参考文献」。ちなみに私の2004年の本は山本七平『日本はなぜ敗れるのか』(角川Oneテーマ21)です。近いうちに、「2004年・私の1冊」と「2004年・私の1曲」を公開します。

 今年もいろいろありましたね。最近のトピックスについて私が気になった記事を少々。
 「NHK不祥事と受信料不払い拡大の経緯」(ジャーナリスト:坂本衛氏)
 海老沢“エビジョンイル”勝二氏はいつまで居座り続けるのでしょうか。あまつさえ、かの曲学阿世の徒・正高信男氏を「人間講座」の講師にしてしまって。エビジョンイルにはマサジョンナム!?

 はてなダイアリーキーワード:ほ、ほーっ、ホアアーッ!!ホアーッ!!
 「双恋」というアニメのイヴェント(私はアニメもイヴェントも見ていません)で、声優の堀江由衣氏(愛称は「ほっちゃん」)に発せられた謎の言葉…。さらに堀江氏とは懇意の声優の田村ゆかり氏(愛称は「ゆかりん」)がインターネットラジオで「ユアーッて言われたい」と発言したものだから「ゆ、ゆーっ、ユアアーッ!!ユアーッ!!」なんていう言葉まで生まれてしまって…。
 これをほかの人で応用してみるとどうでしょうね。とりあえず愛称がア段で始まる人ではやらないほうがいいでしょう。とくに愛称が「マ」で始まる人なんかでやってしまうと…正高信男が現れて「母子密着の病理」なんかこんこんと説きそうで、怖いぞ。

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2004年12月 9日 (木)

トラックバック雑記文・04年12月09日

 まず、「週刊!木村剛」からトラックバックをいただきました。ありがとうございます。

 週刊!木村剛(木村剛氏、エコノミスト)

 木村氏の文章とはあまり関係ないのですが、先日発表されたOECDの学力調査に対する個人的な見解を。
 確かに、現役の大学生の私にも、件の学力調査の結果は衝撃的でした。ですが、私がさらに衝撃的だったのは、これを報じたマスコミが、さも鬼の首でもとったかのような安易な文部科学省批判ばかりやっていたことです。
 これでいいのでしょうか。
 私は、学力低下の原因をひとり学習カリキュラムの削減に求めるのは愚策だ、と思っています。確かに、学習カリキュラムを削減すると、学力は低下するかもしれませんし、今回の調査はそれを裏付けた、とも言えるでしょう。
 しかし、私は学力低下の問題には、もっと大きな問題がぶら下がっているのではないかと思えてなりません。
 最近になって、東京学芸大学の山田昌弘教授が盛んに唱えている「希望格差社会」という概念があります。この言葉を広めたのが、山田氏の最近著『希望格差社会』(筑摩書房)および『パラサイト社会のゆくえ』(ちくま新書)です。あいにくながら私はこの2冊を読んでいないのですが、「中央公論」の2004年12月号に掲載された山田氏の論文は、学力低下問題の一側面を言い当てているのではないか、と思います。

 私が注目したいのは、近年(略)、経済的な指標で測られる量的な格差以上に、質的な生活状況の格差、いわば「ステイタス(立場)の格差」というべきものが出現してきたことである。……
 「ステイタスの格差」という言葉で表現したいのは、普通の人が通常の努力では埋めることができない質的な格差である。

 《普通の人が通常の努力では埋めることができない質的な格差》。そういえば、わが国の中学生は先進各国に比べて学習時間が少ない、という統計も同時に出ていました。しかし、いくら努力しても報われない社会が目の前にある、というのであれば、ある意味、学習時間が減少するのも仕方ないのではないでしょうか。
 学力低下の問題も含めて、最近の若年をめぐる深刻な問題の解決が難しい理由の一つに、それらの問題の「原因」が既存の「若者論」で説明できないところにあるのではないか、と思えてなりません。「社会的ひきこもり」にしろ、失業や無業者の問題にしろ、れっきとした社会的背景があることは、すでに多くの論者によって実証されています。学力低下の問題も、おそらくこの範疇に入るでしょう。
 ところが「若者論」は、それらの議論が発している最も重大なメッセージ――これらの問題の「原因」を、若年の精神の脆弱さに求めるのは徒労だし、単純な強硬論は事態を深刻化させるだけだ――を、簡単に棄却してしまい、「今時の若者は…」なんていう「愚痴」に収束させてしまいます。かくして「ひきこもり」とか「フリーター」とかいった言葉は、論者の目的とは明らかに違った形で世間に広まってしまいます。とくに保守的な雑誌の投書欄を見ていると、この傾向が明らかに現れています。そして、「若者論」で納得できなければ、「あいつらは俺たちとは根本的に違うんだ」といって、生物学的な決定論に逃げてしまいます(『ゲーム脳の恐怖』『ケータイを持ったサル』なんてその典型です)。
 しかし、「若者論」でいいのか。この国には、マスコミにも、学者にも、役人にも、「若者論」を排してものを考えることのできる人はいないのか。私は、わが国のさまざまな分野が、「若者論」に陵辱されるのが耐えられないのです。

 蛇足ですが、「スタンダード 反社会学講座」の第15章「学力低下を防ぐには」は、「学力低下」論の裏をついていて、非常に読ませます。

 日頃、週刊誌などが報じる公務員の不祥事や官僚の天下りに怒り心頭のみなさんも、自分の子どもには思いっきり甘い汁を吸ってほしいと願う、この矛盾。親子の関係や心情は、統計や理屈では割り切れないのです。家族や親子のあるべき姿、模範や理想像なんてものは存在しないのだという真理に、文学は紀元前から気づいています。社会学はいまだに気づく気配もありません。
(略)
  ということで、どうせたくさん勉強しなければならないのなら……と考えて行き着く先が、早期英才教育です。自分がバカなのは、小さい頃から勉強しなかったせいだ、だから子どもには他人より早く猛勉強を始めさせよう――と、自分の怠けグセを棚に上げて子どもに強制する都合のいい教育法です。
(略)
 いまから思うと、当時の人たちが、なんで勉強や読書をしないとテロリストになると考えたのか不思議です。だって、浅間山荘事件のつい3年前には東大紛争があったばかりだったんですよ。日本で一番勉強や読書をしていた人たちが暴れまくっていたというのに。世論なんてものは、その時々の印象的な事件に左右されて、すぐに180度変わってしまう無責任なものなのです。
(略)
 でも、じつは、学力低下が起こっているかどうかなんて、どうでもいいことなのです。学力が低下したから勉強しよう、ってのもなんだかおかしな理屈です。ちょっと太ったからダイエットしよう、みたいなのとは違うと思うんですね、勉強というものは。  学力が低下していようがいまいが、みなさん、勉強は続けなければいけません。勉強していないと、へっぽこ学者の強引な理論にねじ伏せられてしまいます。最近ではゲーム脳理論がいい例です。医学の専門知識がなくても、ある程度の学力・読解力を持ってる人なら、あの本を一読しただけで論旨や根拠にクビをひねるはずです。それなのに、大学の先生の研究だから間違っているはずがない、と無批判に取り上げる新聞・雑誌の多いこと。大手マスコミ各社は、大卒の社員しか採用していませんから、やっぱり大学生の学力は低下しているようです。

 MIYADAI.com(宮台真司氏・社会学者)
 元衆議院議員の白川勝彦氏が警察から違法な職務質問を受けたそうです。この文章にはわが国の警察機構に対する重大な問題提起が含まれています。

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