2006年5月24日 (水)

『退化する若者たち』著者・丸橋賢氏への公開質問状

〈読者の皆様へ〉

 平成18年5月のPHP新書の新刊として、丸橋全人歯科院長・丸橋賢氏が、『退化する若者たち』なる本を上梓しました。

 しかしこの本は、同種のあらゆる本と同じように、現代の青少年に対して劣っている存在とレッテルを貼り付け、またいかに現代の青少年の生活環境が「生物学的に異常」であり、著者の理想とする一昔前の――つまり、著者が子供だったころの――生活環境が「生物学的に正常」であるか、ということを、論理の飛躍や青少年問題に対する乏しい認識で持って「正当化」するような本です。

 本来であればこのような本は、このブログやbk1書評などで批判的に採り上げる類のものです。しかし今回は、あえて公開質問状という体裁を採らせていただいております。

 なぜこのような行為に及んだかということに関する理由は次のとおりです。第一に、丸橋氏は本書の中において、「ニート」「ひきこもり」「不登校」などという形で表現される現代の若年層のいわゆる「無気力症」を、歯の噛み合わせの力の低下から来る「退化病」であるとしきりに表現しております。「退化」だけ、あるいは「病」だけ、というのはいくらか見たことがあるのですが、それが結びついてしまった例はかなり稀少です。しかもしきりに現代の若年層を「退化病」と表現しており、類書の中でもレイシズム(人種差別)の割合は高い部類に属しております。

 第二に、本書が青少年に対する「治療」の口実として使われるのではないか、ということです。本書の中においては、青少年の「治療」に「成功」した事例のみが列挙されている上、巻末の著者プロフィール(カバーのほうではない)には著者への連絡先が掲載されています。もしかしたらこのような本は、「ひきこもり」や「不登校」の人たちに対する社会的な支援を否定し、また「ニート」問題から労働経済問題を引き離し、医学的な「治療」の強制につながってしまうのではないか、と私は危惧しております。

 丸橋氏には、このブログの記事の内容に、私への連絡先を書き加えた「公開質問状」を、平成18年5月23日付でクロネコメール便にて、私もかかわっている本である『「ニート」って言うな!』(光文社新書)、および、私、そして貴戸理恵氏(東京大学大学院博士後期課程在籍)や雨宮処凜氏(作家)などのインタヴューやエッセイ、及び斎藤環氏(精神科医)の論考が掲載されている「ビッグイシュー日本版」平成18年5月15日号を同封して送付しており、24日に到着する予定です。

 読者の皆様のご理解のほど、よろしくお願いいたします。

 (5月24日補記:ご指摘により、誤字を訂正しました。丸橋様、丸橋全人歯科の関係者の皆様、及び読者の皆様に深くお詫びを申し上げます。)

――――――――――――――――――――

 丸橋全人歯科 院長 丸橋賢様

 はじめまして。

 東北大学工学部建築学科4年の、後藤和智と申す者です。

 突然のお手紙で失礼いたします。

 本日は、丸橋様が本年5月18日に出されました、『退化する若者たち』(PHP新書。以下、「同書」と表記)の内容に関しまして、それに強い遺憾の意を示すとともに、同書におきまして「退化する若者たち」と批判されている世代と同世代の人間として抗議する目的で、筆を執った次第であります。

 なお、この質問状は「公開質問状」という体裁をとっており、これと同内容の文章が、私のブログにて掲載されます。もし丸橋様がご返答されるのであれば、全文を引用してもかまわないか、あるいは要旨だけにしていただくか、あるいは掲載をお望みにならないかということを明記されると幸いです。

 なにとぞご容赦ください。

 本題に入ります前に、私のことについて簡単に述べさせていただきたいと思います。

 私は昭和59年(1984年)、岩手県釜石市――かつて新日本製鐵の企業城下町として栄えた町で、新日鐵釜石のラグビーチームは、地域リーグとなった今でも有名です――に生を受けました。そして、福島県いわき市(~生後11ヶ月、および小学6年~中学卒業)と宮城県仙台市(生後11ヶ月~小学5年、および高校1年~)で育ちました。現在、冒頭にも示しましたとおり、東北大学工学部で建築学を学んでいます。

 また、最近は、青少年問題に関して物書きとして仕事もしております。そもそも私が青少年問題に興味を持ったのが平成12年(2000年)、いわゆる「17歳」がキーワードとなった年です。そしてそこにおける青少年に対する「語り口」への疑問から青少年問題言説の研究を個人的に行うようになり、大学に入ってからは新聞や雑誌に投稿し、平成16年(2004年)11月――大学2年のときです――に、青少年問題言説研究をテーマとしたブログ「後藤和智事務所 ~若者報道と社会~」を開設しました。後に「新・後藤和智事務所 ~若者報道から見た日本~」とリニューアルし、現在に至ります。

 そもそも私が青少年言説の「おかしさ」に本格的に気がついたのが、平成13年における「荒れる成人式」報道です。それ以来、特に成人式に関しては強い関心を持ち続け、平成17年と平成18年に2年にかけて、仙台市成人式実行委員会として、仙台市の成人式の企画・運営にかかわってきました(平成17年は副実行委員長)。いずれも大成功を収めました。

 平成18年には、本田由紀氏(東京大学助教授)にお誘いいただいて、初の著書となる『「ニート」って言うな!』(光文社新書)を、本田氏と、内藤朝雄氏(明治大学助教授)との共著として出版しました。それ以降、主としていくつかの青少年関係のNPOからイヴェントやトークショーのお誘いをいただいて、その都度参加しております。今年6月には、2冊目の著書が、これも10数名の共著ですが、双風舎から出る予定です。

 さて、これより本題に入ります。

 丸橋様は、同書において青少年における不登校や「ひきこもり」の増加、および「ニート」の増加に関して、その原因は社会的なものではなく、むしろ若年層における「生物学的な」変化であるとしております。

 しかし、青少年問題言説に深くかかわってきた私としましては、なぜ丸橋様がそこまで自らの理論に
自信を持てるのか、ということが理解できないのです。

 ・青少年問題をめぐる認識について

 そもそも同書における、丸橋様の青少年問題に関する認識が極めて杜撰なのではないか、ということです。

 第一に、丸橋様は、冒頭(3ページ)において、以下のように書かれております。曰く、

―――――

 「日本人の活力は低下しているのではないか」と、危惧している人は多い。

 とくに若者に対してである。若いくせに元気がなく、動きが鈍く、反応が遅く、耐久力がなく、疲れやすい。さらに、やる気がない。精神的に虚弱で、人間関係や社会の関係から破綻し、脱落する者が増加している。

 不登校生徒やニートと呼ばれる働かない若者が社会問題となって久しい。

 しかも、活力や能力の低下という状況を超えると、人格の崩壊に進んでしまい、暴力や非行、犯罪をひき起こす例も多くなっている。その犯罪の内容も、きわめて非人間的なものが多い。

―――――

 と。

 少なくとも、この部分だけに関しても、たくさんの事実誤認が確認できます。

 例えば、故・小此木啓吾氏(精神科医)が、「モラトリアム人間」なる造語を発表したのが、昭和46年(1971年)のことで、その「モラトリアム人間」の心理構造が我が国のあらゆる年代・階層に共有する性格である、と発表したのが昭和52年(1977年)です(注1)。その年代においていわゆる「若者」と呼ばれていた人たち(つまり、昭和25年~35年ごろに生まれた人たちです)は、丸橋様の定義するような「退化病」が進行していた世代の範疇から外れています。

 さらに言えば、古代エジプトの壁画から「今時の若い者は…」という趣旨の文章が発見された、とも言われますから、大人たちが、同時代の青少年を嘆いていた、というのは、洋の東西と時代を問わず普遍的に存在するものでしょう。

 しかしながら、現代の青少年言説は、そのような、いわば「伝統的」な青少年不信の範疇からさらに逸脱しているようにも思えます。残念ながら、丸橋様の青少年論も、この「逸脱した青少年言説」の領域に踏み込んでいるように思えます。これに関しては後述します。

 閑話休題、本題に戻ります。さて、近年騒がしい「ニート」に関してですが、これも、丸橋様、というより、社会の大部分の認識が間違っているとしかいえません。そもそも我が国におきましては、「ニート」とは18~35歳の、仕事についていなければ、教育や職業訓練も「受けていない」人たちの事を指します。それが、特にマスコミを中心に、「精神の虚弱な若者」「不道徳な若者」などという、必要以上に病理的なレッテルばかりを貼り付けられて、もはや実態とはかけ離れたイメージばかりが過度に先行している、といった状況です。

 しかしながら、その「ニート」と呼ばれる人たちの内実を見てみる限り、このようなプロファイリングは率直に言えば間違いとしか言いようがないのです。

 「ニート」と呼ばれる人たちは、「非求職型」(注2)「非希望型」(注3)に大別されます。そのうち、ここ10数年で増加したのは、マスコミにおいて「典型的ニート」とでもいうように採り上げられるような「非希望型」――マスコミが好き好んで採り上げるのは、その中でも特に「病理的」に見えるケースです――ではなく、むしろ「非求職型」です(注4)。また、ここの事例を見ましても、一筋縄では決して語れないという、それぞれに異なった事情が見受けられます(注5)。

 そもそも「ニート」という言葉は、平成15年(2003年)に英国から導入された概念です。この概念は、英国においては、年齢層を16~18歳に限定し、さらに「社会的排除」という観点を含んでおりました。しかしながら、我が国に導入され、さらにさまざまなメディアによって好き放題に採り上げられることによって、「社会的排除」という視点を剥奪され、通俗的な青少年問題言説の新しい概念として、現在に至るまで誤解にさらされ続けております(注6)。

 少年による凶悪犯罪に関しましても、統計的な検挙数は昭和35年(1960年)ごろを境に減少し、殺人に関してはおよそ3分の1、強姦に至ってはおよそ10数分の1という減少度を示しております(犯罪白書)。平成9年(1997年)に、強盗が急増していますが、その後に強盗の件数がほぼ横ばいになっていることからもわかるとおり、これはむしろ「強盗」とカウントされる敷居が低くなったことを表しています。検挙率が低くなっているから実際の犯罪は増加しているのだ、という声もありますが、これも警察の検挙方針の転換によるものであり、実際の犯罪の件数とはあまり関係のないものです(注7)。

 少年犯罪の事例に関しましても、『青少年非行・犯罪史資料』という本(注8)や、「少年犯罪データベース」というサイト(注9)を見ればわかるとおり、凶悪化というのがあまり正当性をもたない通説であることがわかります。

 この点に関しまして、私が丸橋様にお伺いしたいことは以下のとおりです。

 1. 丸橋様は、「ニート」や不登校について語るにあたって、何か客観的な資料、あるいは文献に当たったのでしょうか。
 2. 丸橋様は、少年による凶悪犯罪に関しまして、それが減少していることをご存知でしょうか。
 3. 丸橋様は、若年層に関する経済格差や不平等に関する文献、資料に当たったのでしょうか。
 4. いわゆる「ニート」対策に関する本(注10)は参照されましたでしょうか。あるいは、景気回復・デフレ脱却こそが「ニート」問題の根本的な解決につながる、という経済学者の論説(注11)があることはご存知でしょうか。

 ・丸橋様の「語り口」について

 さて、丸橋様は、青少年問題の「根本的な原因」として青少年の「生物学的」な「退化」であるとしておられます。

 また、丸橋様は、この本の中でしきりに「退化病」という言葉を用いておられます。要するに、現代の若年層は「退化」し、しかもそれが「病」であるという風に丸橋様が捉えているとみなしてよろしいでしょうか。

 しかし、丸橋様は、ある「生きづらさ」を抱えた個人、さらにはある世代全体の人たちに対して彼/彼女を「病」であると断定し、自分、あるいは彼/彼女ら以上の世代より劣った――つまり「退化」した!――人間として中傷する、ということに関しまして、何らかの羞恥心を抱かれたのでしょうか。

 私が同書を読んでみる限り、丸橋様がそのような羞恥心を感じられていたようにはとても見えませんでした。

 そもそもわが国において、丸橋様のような大っぴらな青少年言説が展開されるようになったのは、ここ10年のことです。それまでは、青少年を批判しつつも、青少年に希望や期待を寄せているような青少年言説が主流でした。ところが、平成9年(1997年)の、いわゆる「酒鬼薔薇聖斗」事件以降、青少年を過激に罵り、あるいは青少年が「生物学的に」劣ったものである、とする言説が平然とまかり通るようになりました(注12)。「~症候群」といった類の言説もまた、やはり平成9年ごろから青少年をバッシングするようなプロファイリングがやたらと目に付くようになりました(注13)。

 こと青少年の「退化」「劣化」を「科学的」に「証明」したとする本(注14)に関しましては、その多くが科学を濫用して現代の青少年をバッシングするとともに、自分の理論について根拠の乏しい自信を持っているのが特徴です。しかし、彼らの論理も、結局のところ、たとえば少年による凶悪犯罪は増加していない、「ニート」は「怠けた若者」を意味するわけではない、という事実を提示すればたちどころに崩れてしまうのもまた特徴です。

 現代の青少年が、「生物学的に」劣ったものである、と証明なさりたいのであれば、まず客観的なエヴィデンス(証拠立て)が必要です。丸橋様の主張であれば、不登校や「ひきこもり」、および「ニート」の人たちが、そうでない人たちに比して歯の噛み合わせや骨格が悪い人が有意に多い、という客観的なデータが必要です。

 ところが丸橋様は、例えば「今の若者には~」などといった語り口で、そのようなエヴィデンスの提示を放棄されております。しかしながら、たといあなたが学者ではなくとも、相手を納得させるのであれば、具体的な資料の提示、および反証可能な緻密な論理立てが必要ではないかと思いますし、私も青少年言説を研究する際にはできるだけ実践できるようにと心がけております。

 また、統計学には、逆相関逆因果(指摘がありましたので5月24日に訂正しました)という考え方があります。つまり、AとBに有意な相関関係があり、「AからBが引き起こされている」と思っていましたが、実際に精査してみたら「BからAが引き起こされる」というのが正しかった、というものです。また、擬似相関という考え方もあます。つまるところ、AとBに有意な相関関係があり、「AからBが引き起こされている」と思っていましたが、実際に精査してみたら、「(AやBとは別の事象である)CからAとBが引き起こされていた」というのが正しかった、というものです。

 要するに、丸橋様の「観察」された事例において、歯の噛み合わせと不登校に有意な相関がありましたが、それが「歯の噛み合わせが悪いから不登校になる」のか、あるいは「不登校だから歯の噛み合わせが悪くなった」のか、あるいは擬似相関なのか、というのが曖昧にされたままなのです。さらに丸橋様は、自らの経験談を世代全体に暴力的に一般化して、「噛み合わせの力が弱くなった現代の若者は~」などという方向に飛躍してしまっているのです。

 「退化」の話に戻りますが、このような言説を振りかざすことによって、現実の青少年が不利益を被る、あるいは同書を読んだ青少年が不快に思う、ということに関して、何らかの想像力は働いているのでしょうか。そもそも、たとえば「体罰」と称して4人の若い人たちを死に至らしめたのに、たった6年で娑婆に戻ってきて、何事もなかったかのように教育論を展開するような人とは違い、彼らはただ学校に通っていない、あるいは働いていない、あるいは諸事情によって何らかの「生きづらさ」を抱えているだけなのに、丸橋様は彼/彼女らを「退化」した、劣った人間と、蔑視しているのです。そのような丸橋様に、私は絶対に診療を受けたくない、と思いました。私は軽い顎関節症をわずらっていますが、通常の歯医者で教わった顎関節症治療のトレーニングをして治しています。

 丸橋様のこのような行為は――このような言葉はあまり使いたくないのですが――言論の「品格」をあまりに欠いた行為であり、さらにいうなればレイシズム(人種差別)と言うほかありません。

 付け加えますと、若い人たちのみならず、近年においては35~50歳の人たちにおいても「無業」の人が増加しております(注15)。丸橋様は、彼らもまた、「退化」して求職行動を放棄したものとみなすのでしょうか。

 この点に関しまして、丸橋様にお伺いしたいのは以下のとおりです。

 1. そもそも同書は、どのような人をターゲットにして書かれたのでしょうか。
 2. 丸橋様は、「退化」という言葉を使うに際して、慎重に取り扱おうとされたでしょうか。

 ・「保守主義」について

 丸橋様は、最後のほうで、「いのちの保守宣言」と題し、文化の型と質を取り戻すことを主張されています。

 しかしながら、丸橋様の「保守主義」とは、私には単なる青少年への憎悪にしか見えないのです。

 そもそも丸橋様は、次のように述べておられます。曰く、

―――――

 戦後の日本人は右も左も、保守も革新も、家族制度や家業や故郷、景観といった伝統の基礎から離れることこそ、自由であるかのように誤解してきた。その結果、文化は形なきまでに崩壊し、人間の形も質も融解してしまったのである。人間とは思えないような若者の増加が、それを示しているのである。(191ページ)

―――――

 このような物言いを、青少年言説の研究家としての私は、何度も見てきました。特に「人間とは思えないような若者」など、若年層を見下すのもいいところですが、青少年の「堕落」なるものが戦後日本の「失敗」を象徴している、といわれたら、若い人たちはどのような反応を示すでしょうか(私の理想としましては、「あ、そうなの。で、それと自分が何の関係があるの?」とばかりに受け流すのが望ましいと思っているのですが)。

 丸橋様、および世の中の青少年をしきりにバッシングしている人たちは、多くの青少年は、バッシングしている人たちが見ていない、あるいは意図的に無視しているところで一生懸命に自らの人生を生きているということを忘れているのではないでしょうか。

 たとえば丸橋様は、不登校に関して、医学的な「治療」が必要な対象として捉えているように思えます。しかし、世の中には、丸橋氏のような、あるいは医学的な「治療」を受けずに、自分の力で、あるいは社会的な支援でもって不登校や「ひきこもり」から脱却した人がたくさんいます。もちろん、医学的な「治療」を要する人もいるかもしれませんが、そのような主張が高じて、現代の若年層全員が「病気」であるような物言いはやめてほしいのです。

 また、乾彰夫氏(東京都立大学教授)らが行った、東京圏の18歳の人たちに対して行ったアンケートにおいても、彼らはしっかりとビジョンを持っていること、しかしそのビジョンが親の経済的状況によって左右されたり、あるいは何らかの理由で崩されたりしていること、そしてそれでも彼らは懸命に生きていることが見受けられます(注16)。

 付け加えて言いますと、丸橋様のおっしゃっているような「いのちの保守宣言」は、果たして誰に向かって言われるものなのでしょうか。丸橋様は、現代の子育てが青少年を堕落せしめた、とおっしゃっていますが、それは結局のところ、現実の若い親たちに対するバッシングに他ならないのではないでしょうか。要するに、丸橋様のごとき人が、昔はよかった、それに比べて今の若いやつらは本当にだめだ、自分の若いころに戻せ、と叫べば叫ぶほど、若い人たち、特に若い親たちの肩身は狭くなってしまうのではないか、ということです。

 結局のところ、丸橋様は、自意識を満たすために、現代の青少年がいかに「劣っているか」ということを「科学的」説明――しかし、その前提からして間違っている――でもって「証明」しているだけではないか、と私は思うのです。

 宮崎哲弥氏(評論家)は、最近の「保守主義」の潮流について、興味深い論考を朝日新聞に発表しています。曰く、

―――――

(前略)

 彼ら(筆者注:注17)は、関係概念としての保守のあり方に不満を抱き、自性的、体系的な「主義」への再編を目指した。「~に対する保守」から「~へ向かう保守」への脱皮を志向したのである。

 そこで、従来は自明視されていた「伝統」や「慣習」を反省的に捉え直し、高度に抽象的な理念として再提示する方法が採られた。その再帰的な構成は、確かに保守主義という名に相応しい思想的内実を備えていた。然るに、保守派における理解や支持は十分に拡がらなかった。

(略)

 近年のジェンダーフリー・バッシングに伴う、性教育に対する一部保守派の攻撃の様子をみれば、もはや保守の美点の一つであった現実主義すら失調しているのではないかとすら思える。

 適切な性教育が、性病の蔓延や妊娠中絶の増加を食い止め、性交の初体験年齢を上げる効果があるとしても、彼らはほとんど聞く耳を持たない。純潔を教えさえすれば、純潔が実現すると信じているかのような彼らの態度は、平和さえ唱えていれば、それが実現すると信じた空想的平和論著の姿勢と瓜二つだ。

 そこに自省の契機も、熟慮のよすがもなく、ただ断片的な反応――それもしばしば激越に走る――しか看取できないとすれば、それらはもはや保守とも保守主義とも無縁の、単なる憎悪の表出に過ぎない。

(宮崎哲弥「進む保守思想の空疎化 「新たな敵」求めて散乱」2006年5月9日付朝日新聞夕刊/夕刊のない地域は10日付朝刊)

―――――

 果たして、丸橋氏の「いのちの保守宣言」は、どちらに該当するでしょうか。私には、どうしても後者――すなわち、青少年に対する「憎悪の表出」としての空想的「保守主義」――にしか見えないのです。

 ここに興味深いデータがあります。社会学者の浅野智彦氏らが、都市部の若年層に対して平成4年(1992年)と平成14年(2002年)行ったアンケートがあります\footnote{浅野、前掲書}。興味深いデータはいろいろありますが、その中でもさらに興味深いのが、現代の青少年の道徳・規範意識は決して後退していない、さらには、見た目・所持品・日ごろの行動、大きな社会への意識――たとえば「愛国心」――、「いま-ここ」重視の志向性などと、道徳・規範意識との有意な相関関係は認められない、としています(注18)。そして、アンケートを分析した人は、以下のように結論付けています。

―――――

 若者たちに規範意識があるか/ないかという議論は、もうこのくらいにしていいのではないか。批判を受ける当事者(=若者)に尋ねてみると、規範の崩れを垣間見ることはできない。これは決して、若者たちの自意識が高いのではなく、また自己を省みる能力が薄れているからというわけでもなさそうだ。批判をしている発信者にこそ、穿った固定観念があるのではないか。なぜ大人社会は若者への評価を厳しくするのか、その背後にある要求を解明していく時期にきたのかもしれない。

(略)

 では、大人が承認したがらないのはなぜか。たとえば、大人社会の疲弊した内部システムへのバッシングは自己否定になる。しかし、未承認者へのバッシングは自己否定にならない。部外者として扱えばよいからだ。若者を事前に怪しいと予言しておいて、何か問題が起きたときに、「彼らを承認しなくてよかった」と自己肯定できるストーリーが用意されている。部外者のしたことは、当事者の責任にならずに済む。少年法改正のときの手法と同じように、悪役を用意し、現状の大人社会の維持のために都合よく操作したいという目論見が隠されている。

(浜島幸司「若者の道徳意識は衰退したのか」、浅野智彦(編)『検証・若者の変貌』勁草書房、222~224ページ)

―――――

 現代の青少年言説は、まさに当事者のいないところで自称「善良な」大人たちが勝手に騒いでいるだけ、としか言いようがないのです。もし丸橋様が、現代の青少年や若い親たちの心理を無視し、ただ空疎に「いのちの保守宣言」だったり、あるいは「故郷」だとか「人間性」などを唱え続けるのでしたら、丸橋様もまた、「愛国」を叫びながら、結局のところ何もしようとしない、それどころか国を滅ぼす「売国奴」としかいいようがありません。現実の青少年を救うのは、大言壮語にまみれた青少年言説ではなく、青少年を取り巻く現実に対して、物事を個人の内面や身体的能力、および教育に責任を帰してしまうのではなく、さらに経済システムや政策までも含めて考えることではないでしょうか。

 残念ながら丸橋様は、単純に大言壮語を振りまいているようにしか、私には見えないのです。それが青少年にとって効果があるのか、ということに関しては、もう少しお考えになったほうがいいのではないかと思います。もし丸橋様が本気で社会をよくしたいとお考えであれば、むしろ一つの世代を、当事者のいないところで誹謗中傷するような議論は避けるべきではないでしょうか。

 戦後民主主義教育が悪い、戦後の食生活が青少年から活気を奪ったのだ、といくら丸橋様が主張したとしても、それは結局のところ、一部の「善良な大人」たちが「そうだ、やっぱり今の青少年は異常なんだ」と内輪で納得するだけの「証拠」として簡単に消費されるだけなのです。そして当事者には何の利益もありません。これは決して、彼/彼女らが、戦後民主主義という「異常な」空間で育ってきたから、彼ら自身が異常であることに気がつかない、というものではありません。むしろ、「語る」側、あるいは青少年言説を「消費」する側こそが問題にされるべきなのです。

 確かに、現代の青少年は、丸橋様の「理想」とする社会とはまったく違う社会を生きていることは間違いないでしょう。しかし、だからといって現代の青少年や若い親たちを、自らの空疎な主張の押し付けによってバッシングしていい、という理由には決してなりません。青少年や若い親たちを「研究」する人に認められることは、むしろただ声が大きいだけの甘言から一歩引いて、冷静な目で見ることではないでしょうか。

 この点に関して、私が丸橋様にお伺いしたいのは次のとおりです。

 1. 丸橋様は、青少年や若い親の現実についてどれほど考慮なさったのでしょうか。
 2. 丸橋様は、青少年問題に関する、スローガンではない現実的な解決策をお持ちでしょうか。
 3. 丸橋様は同書を、自らの「治療」の宣伝としてお書きになったのでしょうか。

・最後に

 政治学者のマックス・ヴェーバーは、著書『職業としての政治』の結びにおいて、以下のように述べております。

―――――

 政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である。もしこの世の中で不可能事を目指して粘り強くアタックしないようでは、およそ可能なことの達成も覚束ないというのは、まったく正しく、あらゆる歴史上の経験がこれを証明している。

(マックス・ヴェーバー『職業としての政治』脇圭平:訳、岩波文庫、1980年3月)

―――――

 この言葉は、私の座右の銘としている言葉です。ここで書かれたことは、決してひとり政治のみを
さしているのではなく、何かについて論じる場合も、同様のことであると思います。

 最後になりますが、丸橋様のご健康と、ますますのご発展をお祈りします。

 後藤和智 拝

(注1)小此木啓吾『モラトリアム人間の時代』中公文庫、1981年11月に収録
(注2)働きたいという意思はあるが、具体的な求職行動を取っていない人たちを指します。
(注3)働きたいという意思もなく、具体的な求職行動も取っていない人たちを指します。
(注4)本田由紀ほか『「ニート」って言うな!』光文社新書、2006年1月、25ページ
(注5)小杉礼子(編)『フリーターとニート』勁草書房、2005年4月
(注6)「サンデー毎日」2005年1月9・16日号
(注7)浜井浩一(編著)『犯罪統計入門』日本評論社、2006年1月
(注8)赤塚行雄(編)、犀門洋治(協力)、刊々堂出版社、全3巻、1982~1983年
(注9)http://kangaeru.s59.xrea.com/
(注10)例えば、二神能基『希望のニート』(東洋経済新報社、2005年6月)、あるいは、工藤啓『「ニート」支援マニュアル』(PHP研究所、2005年11月)など
(注11)例えば、若田部昌澄『改革の経済学』ダイヤモンド社、あるいは、田中秀臣「景気回復で半減するはずのニートを「経済失政」と「予算」の口実にするな」(「SAPIO」2005年11月22日号)
(注12)浅野智彦「若者論の失われた十年」、浅野智彦(編)『検証・若者の変貌』勁草書房、2006年2月
(注13)斉藤弘子『器用に生きられない人たち』中公新書ラクレ、2005年1月
(注14)森昭雄『ゲーム脳の恐怖』NHK出版生活人新書、正高信男『ケータイを持ったサル』中公新書、澤口俊之『平然と車内で化粧する脳』扶桑社文庫、岡田尊司『脳内汚染』文藝春秋、など
(注15)玄田有史「中年齢無業者から見た格差問題」、白波瀬佐和子(編)『変化する社会の不平等』東京大学出版会、2006年1月
(注16)乾彰夫(編)『18歳の今を生きぬく』青木書店、2006年4月
(注17)評論家の西部邁氏や、京都大学教授の佐伯啓思氏など
(注18)浜島幸司「若者の道徳意識は衰退したのか」、浅野、前掲書

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2005年11月12日 (土)

子育て言説は「脅迫」であるべきなのか ~草薙厚子『子どもが壊れる家』が壊しているもの~

 ジャーナリスト・草薙厚子氏の最新刊『子どもが壊れる家』(文春新書)、及び草薙氏が最近になって立て続けに「週刊文春」において発表している少年犯罪論を読んで、私は草薙氏が、我が国における「ジャーナリスト」と呼ばれる職種の人の中で最悪の部類に入る人なのではないか、と確信した。本書は、一番悪い意味で「ジャーナリスト的」な作品であり、単純に言えば本書は子供たちに対する危機・不信を煽る言説のみで構成されている。

 本書がいかなる本であるか、ということは、第1章「「普通の家庭」で犯罪が起きた」を読めば直ちに分かるであろう。まず、この章のタイトルが「「普通の家庭」で犯罪が起きた」。要するに、このようなあおり方は、最近の「普通の」子育てこそが犯罪者を生むのだ、という危険扇動言説そのものである。

 それだけではない。この第1章は、マスコミで喧伝されている、少年による凶悪犯罪を列挙されたのち、「今時の子供」「今時の若者」の「頽廃的な」特徴を示す(と錯覚している)アナロジーがたくさん詰まっている。私が本書を読んでいるとき、この章だけで大量に栞がついてしまった、ということをあらかじめ言っておきたい。

 《東京近郊の小学校教師によると、ここ十年くらいの間に「家ではいい子、学校ではやりたい放題」の子が男女ともに増えているそうです》(草薙厚子[2005]、以下、断りがないなら同様)24ページ。《「自分は自分のままでいい」と文化の鎧を拒否する生徒が増えていると言うのです(筆者注:だから校内暴力が増える、と草薙氏は説いている)》29ページ。《学級崩壊が叫ばれている昨今、協調性がない子どもたちが増えているのは確かです》同じく29ページ。《母親の中には、中学生だってプラダやグッチなどの高級ブランド品を持っていてもいい、と考える人がいるでしょう。それが親子の話題の中心だとしたら、コミュニケーションのとり方は本当にそれでいいのでしょうか?》32ページ。《各学校の現場教師は、生徒が友達同士のコミュニケーションを対面で取れなくなってきていることを危惧しています。今まであっていた子に言いたいことをその場で話さず、別れた後でメールを送りつける》34ページ。《確かに子どもが勝手に皮って言ったのではなく、親が変わり、その姿が鏡に映るように子どもが変わっていったのです》36ページ。《(筆者注:昨今の携帯電話を媒介したコミュニケーションは)希薄な人間関係の中で、対人的な共感性や感動もなく、その場での刹那的な快楽に支配された行動なのです》42ページ。《以前と比べてさらに同期が不明瞭な非行が増え、一体何を求めて危険を犯すのか判らない犯罪が多くなりました》43ページ。《戦後の混乱や貧しさゆえに子どもをかまう余裕を失った世代から、管理社会・競争社会を行きぬくために子どもを犠牲にした世代を経て、衣食足りて礼節を教えない世代へ》43ページから44ページにかけて。《誰もがしている「普通の行為」の中に、意外と大きな落とし穴が隠されているのではないでしょうか》44ページ。《核家族化は両親に快適な家庭生活をもたらしましたが、子どもを見る目、育てる手は確実に減りました。一方で少子化は、モノだけでなく親の関心までも過剰に子供に集中する結果を招いています》44ページから45ページにかけて。《誰もが少年犯罪を他人事とは思えない時代がこうしてやってきました》45ページ。

 24ページに~45ページにかけて、こういった言説がおよそ2ページに一つ出てくるのである。これらの言説は、特に新しい視座を開拓するわけでもなく、あるいは現在喧伝されている言説に対するアンチテーゼになることは当然なく、ただ「不安」を増長するだけである。特にこの章の最後にあたる、44ページから45ページにかけては密度が極めて高い。私が本書を、最悪の意味で「ジャーナリスト的な」本であると断定した所以である。

 草薙氏の狼藉はこればかりではない。本書第3章「過干渉とゲーム」に至っては、もはや学問的には完全に論破されたはずの「ゲーム脳」理論をはじめ、「今の子供たちはゲームのせいでおかしくなった」という俗論を「裏付ける」ための「証拠」なるものが次々と登場する。無論、それらに対する批判的な視座もなしで。もとより草薙氏は、平成15年に長崎での児童殺傷事件において犯人が「ゲーム脳」ではないか、という記事を「週刊文春」に書き、平成14年には講談社の「web現代」において「ゲーム脳」理論を喧伝していたという経歴もあるため、草薙氏がかのようにゲームを敵視する理由もわからぬでもないが。

 閑話休題、第3章においてゲームが子供たちの死生観を歪めることの「証拠」としていまや「定説」となってしまった、長崎県教育委員会の「生と死のイメージ」に関する意識調査が109ページから110ページにおいて引かれている。そして案の定、「死んだ人は生き返る」と応えたのが15.4パーセントだったという記述と、そのうち「ゲームでリセットできるから」と応えたのが7.2パーセントだったという記述が出てきている。
 私事で申し訳ないが、私はこの調査を「統計学の常識、やってTRY!第2回」という記事で検証したことがある。この調査の問題点に関してはこちらを参照していただきたいが、草薙氏は、この調査の調査票を読んだのだろうか。少なくともこの調査票は、「なぜ「死んだ人が生き返る」と考えるのか」というアンケートに関しては、全てがメディアがらみという、誘導尋問といっても仕方のないやり方が採用されていたのだが。

 111ページから136ページにかけては、「ゲームの脳に与える悪影響」なるものが紹介されているのだが、ここで出てくるのは、森昭雄(日本大学教授)、澤口俊之(北海道大学教授)、川島隆太(東北大学教授)、片岡直樹(川崎医科大学教授)といった、これまた「お決まり」の面子である。しかも川島氏以外は、「ゲーム脳」の熱心な支持者(森氏に至っては「ゲーム脳」の「教祖」)であるから、草薙氏がいかにゲームを敵視することを本書で目的としているかがわかるであろう。これらの面子に対する批判は、過去に何度も指弾しているので、改めて述べることはここではしない。(詳しくは、「俗流若者論ケースファイル」シリーズの「07・森昭雄」「08・瀧井宏臣&森昭雄」「16・浜田敬子&森昭雄」「37・宮内健&片岡直樹&澤口俊之」「48・澤口俊之」「56・片岡直樹」「64・清川輝基」「69・中村和彦&瀧井宏臣」「71・森昭雄」を参照されたし)しかし根拠の極めて疑わしい言説を平然として「子供がおかしくなった証拠」として持ち上げるのは、ジャーナリストとして、というよりも青少年言説に携わるものとしてあってはならない行為であると指摘しておきたい。

 ついでに川島氏は、「ゲームが脳に及ぼす悪影響」を実証した人と本書では扱われているが、川島氏の分析はもっとニュートラルなものだし(「ゲームは前頭葉を活性化させることはないが、「癒し」としての効果はあるかもしれない」というもの。ちなみに川島氏の「癒し効果」説については本書でも触れられているが、なぜか草薙氏は127ページで否定してしまっている)、川島氏自身も「ゲーム脳」との関与を必死に否定している状況である。

 ここまで、本書第1章と第3章における草薙氏の記述を検証してきたけれども、私がもっとも衝撃を受けた記述は、第4章139ページにある。曰く、

 しかし子どもを育てる親は、すべてが解明されるのをただ待っているわけにはいきません。子どもに悪影響を与えるものを推測し、常識で判断し、予防的に行動する必要があります。

 と。草薙氏は、13ページにおいても、《「少年A」(筆者注:酒鬼薔薇聖斗)の出現以降、私たちは子育てのマニュアルを書きなおす必要に迫られています。今、日本の子育てが問われ始めているのです》と書いている。もとより、《子どもに悪影響を与えるもの》なるものが扇動言説によって左右されるのも問題であるが、私はこのような記述を見るにつけて、次のような疑問を強く持つ。

 子育て言説は「脅迫」であるべきなのか?

 本書の底流において、重低音の如く常に流れている思想は、「今の子供たちは危険だ、それは今の親たちの間に広まっている「普通の」子育てが「今時の危険な子供たち」を生み出しているからだ」というものである。これはすなわち、あなたが「普通の」子育てをしている限り、あなたの子供がいつ凶悪犯罪者になってもおかしくない、という「脅迫」に他ならない。

 何度も指摘していることだが、我が国においては少年が凶悪犯罪を起こす数は減少している。それは人口比でもいえることである。しかし昨今の我が国において、青少年の「悪化」「劣化」「凶悪化」を煽り立てる言説はバブルの如く増加し、かえってそちらのほうが、「善良な」大人たちの現実感覚、あるいは青少年に対する感覚を規定しているのかもしれない(この証左として、内閣府が平成17年1月に行なった「少年非行に関する世論調査」を挙げておこう。同調査によると、「青少年による重大な事件などが増えていると思うか」という問いに対して、「増えている」と答えた人が約93パーセントも存在したそうだ)。

 言説の増大が、やがて不安を増長させ、さらにまた不安言説を増加させる、という構造も存在しているのかもしれない。これに関しては、そのような構造を示す記述として、東京大学助教授の広田照幸氏による記述《親が子どもへの要求水準を高めれば高めるほど、また、子どもに対して時間や熱意を注げば注ぐほど、親の期待通りに子供が反応してくれないことが気になるし、自分のミスや失敗が気になる。「子育ての失敗」への不安が強まっているのは、現代の親が子どもへの要求が高すぎたり、子育てに熱心すぎることに一つの理由があるのではないだろうか》(広田照幸[2003])、及び皇學館大学助教授の森真一氏による記述《現代社会はデュルケムのいう「聖人たちから成る一社会」あるいは「僧院」のような社会である。また、「共同意識がより協力となり」人々の間のズレが金賞貸地得る社会でもある。それゆえ、人々は相互に「共同意識」からの微妙なズレも見逃さず、これを避難する》(森真一[2000])を採り上げておく程度にしておく。

 私がここで問題にしたいのは、これからの子育てマニュアルは、「教育の失敗」としての「今時の若者」「今時の子供」を設定し、あいつらは社会の「敵」だ、だから自分の子供をあいつらの如き社会の「敵」にしてはならない、というものでなければならないのだろうか、ということだ。このような子育て言説の蔓延は、草薙氏の本書に限らず、例えば最近出た、株式会社海外教育コンサルタンツ代表取締役の浅井宏純氏と、ジャーナリストの森本和子氏による共著『自分の子どもをニートにさせない方法』(宝島社)という本においては、「社会悪」としての若年無業者(=「ニート」)という姿が強調され、こいつらの如くさせないための「子育て」の手法――とはいえ、本書において展開されているのが、国に対する誇りを持たせよ、とか、生活習慣を見直せ、とかいったものなのだが――が――そのような子育てで本当に子供が「ニート」にならずに済むのか、ということを置き去りにしたまま――が展開される。

 ここで壊されているのは、「信頼」をベースにした関係性ではなく、むしろ自分の子供を「敵」にさせないという、「不信」をベースにした関係性ではないのか。草薙氏は本書において、自分の子供をペット化させてはならない、といっているが、かえってこのような不安扇動言説、並びに「敵」を設定してそれに「させてはならない」という子育て言説の増大こそ、子供をペット化させる最大の要因ではないか。

 今の時代の子育て言説は、「今時の」若年層や青少年を「敵」として規定することからはじめなければならないのか。子育て言説の変遷に関しては、もう少し深く追っていく必要があるようだ。

 ちなみに草薙氏は、「酒鬼薔薇聖斗」の更正プログラムに関して記述した本『少年A矯正2500日全記録』(文藝春秋)という本を、この「酒鬼薔薇聖斗」が仮釈放される平成16年4月という絶妙のタイミングで刊行して、更に本書は大宅壮一ノンフィクション賞の候補になるが、草薙氏に盗作疑惑が浮上して受賞は逃している。また、草薙氏に関しては、ジャーナリストの横山政起氏が「ジャーナリスト草薙厚子氏を告発する会」なるウェブサイトで、横山氏が草薙氏から受けた被害を記している。

 参考文献・資料
 草薙厚子[2005]
 草薙厚子『子どもが壊れる家』文春新書、2005年10月
 広田照幸[2003]
 広田照幸『教育には何ができないか』春秋社、2003年2月
 森真一[2000]
 森真一『自己コントロールの檻』講談社選書メチエ、2000年2月

 小笠原喜康『議論のウソ』講談社現代新書、2005年9月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月

 参考リンク
 「たこの感想文:(書評)子どもが壊れる家
 「草薙厚子,子どもが壊れる家-タカマサの気まぐれ時評

 酒井隆史「「世間」の膨張によって扇動されるパニック」=「論座」2005年9月号、朝日新聞社
 内藤朝雄「お前もニートだ」=「図書新聞」2005年3月18日号、図書新聞
 内藤朝雄「憎悪の社会空間論」=「10+1」40号、INAX出版

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2005年10月12日 (水)

トラックバック雑記文・05年10月12日

 今回のトラックバック:木村剛/ハラナ・タカマサ/古鳥羽護/田中秀臣

 さて、どうしたものか…

 週刊!木村剛:セロトニンと食生活と希望格差社会(木村剛氏:エコノミスト)

 このような文章が引かれていました。

 身体と精神(こころ)は切り離して考えていいものでもない。体の調子が良くない、何らかの病気に罹っているのに、楽しい気分を持続していられる人はまずいない、と言ってもいいだろう。酒を飲み過ぎて翌日二日酔いになって、それで気分がどうも優れないっていう症状も、セロトニン不足、つまり生理現象であり、基本的に「心理的な抑圧云々・・」などの話とは関係がない。「こころが全て脳のはたらきに依るものだ」なんてことは言わないが、自分のこころ・精神状態に脳内の神経伝達物質が関係しているのは事実であり、その神経伝達物質の量に影響を与えるのは普段摂取している飲食物であり薬である。(重度な精神障害には遺伝もかなり関係しているようだが)勿論、対人関係も含めた周囲の環境も影響を与えている訳だが、こころの不具合をこころの問題としてだけ捉えるのはやはり宜しくない。

 このような考え方に木村氏は難色を示しているのですが、木村氏とはまた違った考え方からこのロジックを批判してみると、このような決定論・還元論はともすればレイシズム(人種差別)となりかねない。そもそもこのような考え方に依って立てば、元々脳に「有害である」食べ物を摂取していたりとか、あるいは行動をとっている人は、おしなべて犯罪者にならなければならないはずです。しかし現実には、我が国において少年が凶悪犯罪を起こす割合は減少している。

 このようなロジックの問題点は、現実に見える範囲で言うと、いつの間にか原因と結果が逆転して、結果から「原因」を特定できるかの如き錯角に陥ってしまう。日大の森昭雄教授などはその典型ですね。何か「問題」が起こると、その人がゲーマーであるか否かに関わらずすぐに「ゲーム脳」と断定されてしまう。要するに、「「今時の若者」はゲームばかりやっているから、脳に問題が起きていても仕方ないんだ」という論理が先行してしまい、実証がないがしろにされてしまうわけです。

 最近「俗流若者論ケースファイル73・別当律子」という文章を公開したのですが、これで検証した記事も、実証ではなくむしろステレオタイプが先行している。

 ちなみに、「タカマサのきまぐれ時評」(ハラナ・タカマサ氏)でも、「食育イデオロギー1」という記事が公開されており、この分野について考える上では必読といえるものに仕上がっています。

 フィギュア萌え族(仮)犯行説問題ブログ版:10月2日、バンキシャ!「ニート合宿密着80日間の記録」を報道する(古鳥羽護氏)
 田中秀臣の「ノーガード経済論戦」:玄田有史『14歳からの仕事道』(理論社)+ニート論の弊害(再録)(田中秀臣氏:エコノミスト)

 田中秀臣氏は、ここで採り上げた文章で玄田有史氏を批判しておりますが、田中氏は、旧来の「対策」、すなわち課税によって教育や労働へのインセンティブを高めたり、あるいは就職相談所の強化では若年無業の問題は解決できない、と述べております。実に見事な批判だと思います。

 玄田氏が若年無業の問題を提起したことは問題であるとは思いません。しかし問題なのは、源田氏の提起したこの問題を、さも若年層を「叩いていい」メッセージであると種々の論者が「誤読」し、結局のところ「ひきこもり」「フリーター」と同じように若年層を叩くための「記号」と化してしまった。その点で玄田氏を責めることはできませんが、責められるべきはそのような「誤読」を種々の理由をつけて正当化した人たちです。

 その点では、「ニート」言説を取り扱うときでも、まず「ひきこもり」「フリーター」、及びその底流として存在している「自立できない若者」イメージを常に意識しなければならない。私はこのたび、「ニート」言説に関する研究を行なっているのですが、もう少し育児書などの分野にも手を広げてみる必要があるのではないか、と考えております。

 蛇足ですが、平成17年5月19日付朝日新聞で紹介されて、最近何かと話題となっている、鳥居徹也『フリーター・ニートになる前に読む本』(三笠書房)を読んだのですが、どうもこの本はフリーターになる割合の高い社会階層の人たちを軽視しているのではないか、と思えてなりませんでした。というのも、この著者がフリーターも若年無業の問題も、教育で解決できる、と信じ込んでいる節がある(すなわち、教育が歪んでいるからこそフリーターと若年無業者が生まれていると思い込んでいる)からです。しかし、小杉礼子氏とか本田由紀氏などが説明している通り、フリーターになる割合の高い社会階層の人たちは同時に若年無業者になる割合も高い。この期に及んで精神論や短視眼的な教育論を振りかざしている人たちは、もう少し企業や雇用、あるいは職業斡旋システムとしての学校の機能をもう少し見て欲しい。

 あと、フリーターや若年無業に関わる本ですが、前回(10月1日)から進展したのは次のとおり。
 読了し、書評も脱稿したもの:小杉礼子『自由の代償/フリーター』日本労働研究機構/小杉礼子『フリーターという生き方』勁草書房/矢幡洋『働こうとしない人たち』中公新書ラクレ
 読了したが書評を書いていないもの:鳥居徹也『フリーター・ニートになる前に読む本』三笠書房/玄田有史、小杉礼子『子どもがニートになったなら』NHK出版生活人新書

 読書がらみでは「2005年7~9月の1冊」もよろしく。

 最後に…。

 先月末に、短期集中連載という形で、民間コンサルタント代表の三浦展氏の著書を3回にわたって批判したのですが、そのコメント欄における、私への批判に対する反論を書いておきます。

 まず、私の三浦氏への批判において、結局のところここ最近の諸著作を通じて三浦氏が何をしたかったのか、何を言いたかったのか、ということが伝えられなかったのであれば、それは私の責任です。まずその点について触れさせていただくと、三浦氏の語っている「格差社会」とは、「上昇志向格差社会」、言い換えれば(山田昌弘氏とは別の意味での)「希望格差社会」と言えるのではないかと思います。検証した3冊(『ファスト風土化する日本』『仕事をしなければ、自分はみつからない。』『「かまやつ女」の時代』)に加え、『団塊の世代を総括する』(牧野出版)と『下流社会』(光文社新書)、更に今月の「中央公論」の論文を読んでみると、『ファスト風土化する日本』を除けば「上昇志向を失い、「自分らしさ」なるものに拘泥する「今時の若者」」が問題化されているのが分かりますし、『ファスト風土化する日本』では、三浦氏が「地方のジャスコで農村型の消費文化を享受し、東京を遊ぶ場所としてしか考えない「今時の若者」」を、ところどころで問題化しているのが見て取れます。すなわち、三浦氏は上昇志向こそが社会を活性化させるものであり、それを失った人たちは頽廃的である、と考えている節がありそうです。

 三浦氏は「上昇志向を失った」人たちを批判し、例えば「お前の考えは単なる「楽ちん主義」でしかないからとっとと就職しろ」などといったことを言いますけれども(『「かまやつ女」の時代』/これはあくまでも要旨です)、だからといって上昇志向を持って大企業に就職した人も、いつ失業してフリーターになるかわからない。端的に言えば、三浦氏は「上昇志向を失った」人たちに対してはリスクばかり強調しますが、そうでない人たちに対してはリスクをほとんど無視している。また、社会の問題を個人の上昇志向の問題としてすりかえる傾向が、三浦氏は高い。

 以上が三浦氏の最近の著作に対する私の疑問です。この問題に関しては、後に稿を改めて書くつもりです(11月末頃になる予定です)。

 さて、件のコメントを全文引用してみましょう。

レスがないようなので、一方的な意見表明となりますが。

こちらのサイトを一貫するテーマは「若者バッシングへの反撃」ということらしいですが、全体を拝見して強く思ったのは、「WEBMASTER以外の若者が全く出てこない」という点に尽きます。後藤さんの文章からは、「若者の代表」たる(なのか?)後藤さんと、次々と現れては切り捨てられてゆく論者たちの姿しか見えないんですね。

大人が「今ドキの若者」について論じる場合、こう言っちゃなんですが、後藤さんみたく勉強ができて品行方正な一部の若者は「対象」に入ってないんです。これはもう暗黙の了解と言ってもいい。対象を「世代」で括るという乱暴なカテゴライズをする限り、平均的マジョリティに着目するしかない。あるいは特にサブカルチャー論の場合、平均「以下」に積極的に着目することも多い。

後藤さんがいかに「自分以外の若者」に対して関心がないかは、次のような下りからも察せられます。「いわゆる『コギャル』である。この人種は既に絶滅したんかいな、と思っていたら平成17年9月25日のTBS系列(宮城県では東北放送)『さんまのSUPERからくりTV』で出てきて驚いた」。最初読んだ時、このブログ書いてるのはすげえオヤジか?と思いましたもん(ウソだけど)。
毎回の締めくくりも、「・・・という私自身も、そうした若者のひとりだったわけだ」という、文脈無視の牽強付会が目立ちます。別にあなたみたいな方は勘定に入ってないって(笑)。

要するに、「今ドキの若者たち」に対して最もリスペクトを欠いているのは後藤さん自身だろう、ということです。少々バッシングしようが批判しようが、一生懸命に観察している論者たちの方がまだましとも言える。後藤さんの場合は視野にすら入ってないわけですからね。

そう考えると、世の若者バッシングを全て自分に向けられたバッシングであるかのように一身に受けて立っておられるこのサイトの成り立ち自体も空恐ろしくなってくる。これは巨大なモノローグの体系なのではないか、とね。
・・・いや、そういう「他者」を全く欠いた世界を容易に築き上げてしまうところが、後藤さんもまた正しく「今ドキの若者」なのかもしれませんが(笑)。

 まず第2段落についての反論ですが、《全体を拝見して強く思ったのは、「WEBMASTER以外の若者が全く出てこない」という点に尽きます》というのは全く正しい指摘ではあります。しかし、それがなぜ問題なのかが分からない。そもそも私が批判・検証している一連の文章は、誰かを名指しで批判しているというわけではなく、ただ漠然とした「世代」の存在を前提としており、私はそのような言説に対して彼らの無視しているようなデータを提示したり、あるいは彼らの振りまいている論理がどのような問題を引き起こすか、ということを社会学の論説などを用いて論述しているので、あくまでも相手は個々の言説であり、具体的な事例を提示して批判するような論述スタイルは選択肢の一つとしては存在しても、絶対それをして言い訳ではない。また、私の論述で、例えばフリーターや若年無業者の状態で苦しんでいる人たちが救われるのであれば、それは望外の幸せであります(現にそのようなメールを受け取ったことがありますし、そのような趣旨の発言を行なったブログの管理人もいます)。ついでに言うと、私は成人式がらみで、自分以外の同世代を実名を挙げて出したことがあります。

 続いて第3段落に関してですが、これはどうも問題の設定自体に問題があるのではないかと思います。つまり、《後藤さんみたく勉強ができて品行方正な一部の若者》(蛇足ですが、私は別に自分のことをそのように思ったことはありません)と《平均的マジョリティ》を対比させている時点において、私の議論を理解できていないのではないかと。要は私は、《平均的マジョリティ》は本当にマスコミで面白おかしく採り上げられている「今時の若者」なのか、という問題を前提として議論を進めています。なので、第3段落のような批判は、単に「今時の若者」というステレオタイプにすがっている人の的はずれな攻撃でしかありません。

 第4段落に関しては後に述べることにしますが、第5段落で述べられている《毎回の締めくくり》(実際には三浦展研究の中編と後編でしか行なっていない)は、単なるジョーク、あるいは皮肉のつもりで書いています。もちろんそうであることが伝わらなければ私の責任であるし、また品のないジョークであると感じられたのであれば反省します。

 そして第4・6・7段落においては私の執筆態度を問題にしておりますが、これではもはや単なる個人攻撃、私に対する誹謗中傷でしかないような気がします。もしこの書き手が正しいのであれば、なぜ私は青少年を「疎外」する言論体系としての若者論を問題化するのか。もちろんこれは個人的動機なのですが、あくまでも「若者論」ばかりが幸う状況下においてセカンド・オピニオンを提示しなければならない、という一種の自惚れの混ざった問題意識から出発しております。私は決して「自分以外の若者」に無関心なのではなく、一般に「叩いてよい対象」とされている同世代の一部の人々に対して、彼らを問題化しようとすると私が検証している人たちと同じ穴のムジナになってしまうので、あまり問題化せずに、彼らを批判する言説を叩いているだけです。

 このコメントの書き手は、巷で採り上げられている「今時の若者」を批判しない限り問題を論じたことにはならない、と考えている節があるようです。

 私がメールやコメント、トラックバックなどにおいて批判を受けたのはこれが初めてではありません。例えば「俗流若者論ケースファイル」の第24回で小林節氏を批判したときも、文章が冗長すぎるという旨の批判を頂きましたし、8月に「俗流若者論ケースファイル」を25回連続で書いていたときも、友達から文章が過激になりすぎている、という批判のメールを頂きました。私自身、このブログが「若者論マニアの若者論マニアによる若者論マニアのためのブログ」となっているのではないか、という危機感もあります。ですから、私が若者論マニアであるという立場は堅持しつつも、より広く一般の人たちの判断材料となるように、努力していくつもりです。

 しかし今回寄せられた批判は、批判の領域を越えており、単なる個人攻撃、誹謗中傷にしかなっていない。これ以降、もし同様の中傷を行なってくるのであれば、反論した上で何らかの制限を行なうかもしれません。

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 (追記:平成17年10月13日1時40分)
 このエントリーで述べた私への批判に対する反論に、再反論を頂きました。しかし、その際反論も、まだ納得できるようなものではありませんでした。

 まず、このコメントの書き手は、私が自分以外の若年を例示しないことを問題視しており、私はそのようなことに関して「同じ穴のムジナになってしまう」と書きましたが、これにはもう少し補足が必要なようです。

 私がなぜ身近で具体的な事例をあまり出さないかというと、もしこちらが「こういう人もいるから、あなたの前提は間違っている」と主張した場合、相手が「しかし、こういう人もいるから、自分の前提は間違っていない」と主張してくる可能性が高い。そうするとこちらもまた誰かを引き合いに出して、相手の前提を突き崩す必要がありますが、そうするとまた相手も自分の論理を正当付ける証拠を出してくる可能性がある。そうすると、無限ループになってしまい、結局のところ単なる「情報戦」になってしまいますが、そのような「情報戦」に陥ってしまうようなことはなるべく避けるべきではないでしょうか。

 ですから、私は極力、巷で若年層を叩いている論者が、どのような「視線」を若年層に、更には現代社会に向けているかを検証しています。また、具体的な事例が求められる場所においては、信頼できる統計データを出して反証してきました。もちろんその統計データに関しても、引用する際は極力慎重にならなければならないのですが。

 本来は個別に解決すべき問題や、あるいはシステムや社会構造の欠点に目を向けるべき問題を、私が問題にしている「若者論」は安易に世代論と絡めてしまい、たといそれが根拠の不確定な因果関係であっても、ステレオタイプの下に認めてしまい、短絡的な「結論」しか生み出さない。私はそのような言論体系をこそ撃つべきであると考えております。

 この文章を書いているうちに、ここで問題にしているコメントの書き手とは別の書き手から、件のコメントの書き手に次のような批判がなされていました。

クラブとかストリートにいる子が「ナマの」若者だと言い切っている時点で、あなたも十分視野が偏狭だと思いますよ。誰が若者の代表性を保っているかという問題は、そう簡単に論じられることではないはずです。

 ここまで明確に言い切られると、もはや私の出番はないような気がします。もとより、件の書き手が、以前のコメントにおいても《そもそも、「地方や若者がヤバいことになっている」と指摘することがどうして「偏見」になるのかサパーリわかりません。だって事実じゃん、と(笑)》と書いていることを考慮しても、この論者があらかじめ若年層の「代表」を設定していることが見えてきます。私はある階層の人を安易に「代表」として持ち上げていいのか、という問題意識でこのブログを運営しておりますので、この書き手がこのような態度に終始している限り、もうこれ以上言い合っても結局は水掛け論になるだけではないでしょうか。

 もちろん、誰もが私の問題意識の前提に賛同してくれる必要はありません。ただし、このような問題意識を少しでも多くの人に共有してもらうためには、ブログで文章を大きく公開する、というあり方は有効に思えます。誰もこのブログを見ることを強制していませんから、もし論調が気に入らないのであればそれ以上関わらない。それでいいのではないでしょうか。

 最後に。私が件の書き手の、私に対する批判が、単なる批判の度を越えている、と判断したのは、私に対する嘲笑的な表現が見られるからでもあります(先ほど採り上げた部分もそう)。これでは、単なる批判を通り越して、もはや私に対する侮辱にしか見えない。批判は歓迎しておりますが(現に批判も数件頂いております)これ以上そのような中傷に終始するようであれば、私も然るべき措置を採ろうと思います。

 (追記:平成17年10月13日)
 本当に、これが最後です。

 まず、先ほど頂いた、私及びここで問題にしているコメントの書き手とは別の書き手による、件のコメントの書き手への批判に対して、更に反論を頂きましたが、むしろ支離滅裂としか言いようがありませんでした。例えば《「若者論」というのは真ん中かそれより下を対象として論じるものなんです。これは「お約束」です。それがまずいと思われるなら、そのこと自体を問題にされたらいかがでしょう》とおっしゃっておりますが、それは既に行なっております。もしお疑いになられるようなら他のエントリー(例えば「俗流若者論ケースファイル」シリーズ)をご覧になってください。私が決して、この書き手の言うところの《最初から度外視されている若者の中の上澄み層》ばかりに着目しているわけではありません(そもそも、私がそのような層に着目しているのであれば、「若者論」の「お約束」に楯突いていることになりはしませんか)。

 また、この書き手は、私が社会階層の問題を論じていることに対し、その人たちの実情を知れ、としきりに言っております。しかしながら、私が問題にしているのは、ここで問題にしている社会階層の人たちの置かれている社会環境を問題にしているのであって、何もその社会階層に属する人たちの「属性」を論じているのではありません。それとも、この書き手は、「そういう人たち」と顔を合わせて、「これではフリーターや若年無業者になるのも仕方がない」と思わせて、それについて論じることをやめろ、というのでしょうか?

 また、更にコメントが書かれてありましたが、私が安易に世代の「代表」を捏造してはいけない、と主張するのと、フリーターになる傾向が強い社会階層について論じることは矛盾する、とあります。しかし、どこが矛盾するのですか?あくまでも私はその階層が置かれている社会環境の問題として書いているのであって、決して彼らを若年層の「代表」として祭り上げているわけではない。

 もう、これ以上水掛け論を続けるつもりはありませんし、この書き手がこれ以上他人を(なぜこのような書き方をしたのかというと、この書き手は私のみならずこの書き手をコメント欄で批判した人や、更には若年層全体を見下しているように見えたからです)見下した態度をとるのであれば、苦渋の判断ではありますが、以下の措置を採らせていただきます。

 ・件の書き手によるコメントを全て削除する。
 ・これ以降、この書き手によるコメントは無視する。また、コメントは見つけ次第削除する。

 もう、これ以上関わる必要はないと判断した上での決断であります。

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2005年10月 8日 (土)

俗流若者論ケースファイル73・別当律子

 しかし、不安便乗商法というのも怖いものだ。最近、文部科学省が発表した、小学校における校内暴力の件数が「過去最大」になった(この調査の問題点に関しては、「俗流若者論ケースファイル72・読売新聞社説」を参照されたし)という報告を受けて、そこらじゅうでまたぞろ子供たちに対する不安を煽る如き記事が乱発されている。情報ポータルサイト「All About」において、ライターの別当律子氏が書いた記事「“キレる”子どもにはワケがある? 小学校の「校内暴力」急増中!」も間違いなくその一つであろう。

 別当氏は、小学校における「校内暴力」の増加の原因を、「低血糖症」、すなわち血糖値の低さに還元している。その理由として、別当氏は、このように書いている。

 ささやかれている「ある理由」、それはズバリ「低血糖症」です。血糖値とは、血液の中のブドウ糖の濃度を表す値で、食事を摂れば上がり、空腹なら下がるといった変動があるものの、子どもも大人も80~110mg/dlが正常値です。低血糖とは、読んで字のごとく、血液中の血糖値が低下してしまうものです。ブドウ糖は脳の唯一のエネルギー源です。脳が身体の中に占める割合はわずか2%ですが、ブドウ糖の消費量は20%にもなります。
 しかも、他の臓器は糖を貯えておくことで糖の量の変動に耐えることができますが、脳はそれができません。そのため、低血糖状態が長く繰り返されると、脳にとって大きなダメージとなってしまうのです。エネルギー源であるブトウ糖が枯渇した状態が長く続くと、動機、貧血、無気力、めまい、頭痛、不安感、非社会的行動、集中力の欠如、生あくび、うつ、忘れっぽくなるとった症状が出ると言われています。さらに、脳は低血糖状態を補うために、アドレナリンというホルモンを分泌し、体内に蓄積されている糖分を血液中に出して糖をなんとか確保しようとします。
 しかしアドレナリンは、別名「攻撃ホルモン」とも呼ばれ、これが過剰に分泌されると、興奮状態になって、攻撃的になってしいます。乳幼児だけではなく、大人だって、空腹状態になるとなんとなくイライラして怒りっぽくなることはありませんか? まさにあの状態こそが脳からアドレナリンが過剰に放出されている状態というわけです。(「All About」内「“キレる”子どもにはワケがある? 小学校の「校内暴力」急増中!」、以下、断りがないなら同様)

 とりあえずこれに関してはこの説明を受け入れることとするが、この記事において問題なのは、何故子供たちが「低血糖症」ゆえに「キレる」のか、ということに関して、別当氏が採り上げるのはファストフードやスナック菓子なのだが(いい加減聞き飽きました)、どうして別当氏がそのように考えるのか、ということが、極めていい加減、というよりも疑わしいのである。

 ついでに「校内暴力の急増」と「低血糖症」の関係が本当に証明されたか、ということについては、100億歩譲って認めることとする。

 血糖値の特徴として、その値が急激に上昇すると、下がるときもまた急激であるという点があります。ご飯など、でんぷん類は血糖値をゆっくり上昇させまずが、その一方、ブドウ糖、果糖を多く含むものを摂取すると、血糖値は急激に上昇します。そしてブドウ糖、果糖を多く含むものこそ、炭酸飲料、スナック菓子類、ファストフード類だと言われているのです。
 身体の機能が未熟な子どもたちは、食事による血糖値の変化も激しいと言われています。そんな子どもたちがスナック菓子を片手に炭酸飲料を飲んで… などということを毎日続けていれば、身体が低血糖状態におかれる状態が長く続くことになります。するとアドレナリンが過剰に放出されて、興奮状態になり… もうその先の結論は言わなくてもおわかりのはずです。
 もちろん、小学校で校内暴力が増加している原因は複雑です。しかし、やれ家庭のせいだ、学校のせいだ、文部科学省が悪いと騒ぐその前に、一度、子どもたちの食生活を見直すことから始めてみませんか?

 ファストフードやスナック菓子に大量にブドウ糖や果糖が含まれているなら、血糖値はむしろ高くなるはずであろう。しかし別当氏ときたら、大量に摂取しているからこそ、低くなるのも激しいのだ、と言うのである。だが、そのようなことに関する具体的なデータを別当氏は示していないのだが。

 しかしこういう、ファストフードやスナック菓子をしきりに攻撃する人というのは、そういうものを食べる子供たちと暴力を振るう子供たちが重なって見えて仕方ないのだろうか。しかし、そもそも校内暴力が盛んになった昭和50年代後半~60年代、あるいは少年による凶悪犯罪がもっとも起こっていた昭和35年ごろと比べてどうなったのか、ということを一切示さない限り、説得力はない。この書き手は確信的にやっているのか、それとも能天気なのか。

 それにしても最近になって、こういう風に一見もっともらしい(が、内実を伴っていない)「科学的」裏づけをして青少年問題を論じる、というのが多くなった。最近では、若年層が無業状態になるのは脳内物質のひとつであるセロトニンの減少が原因だ、という論説まで見かけるようになったし(神山潤[2005]。実際の説はもう少し複雑で、コミュニケーション能力の低下はセロトニンの減少が原因であり、その結果無業となる、というもの)。

 ところで、以下のくだりをもう一度見て欲しい。

 身体の機能が未熟な子どもたちは、食事による血糖値の変化も激しいと言われています。そんな子どもたちがスナック菓子を片手に炭酸飲料を飲んで… などということを毎日続けていれば、身体が低血糖状態におかれる状態が長く続くことになります。するとアドレナリンが過剰に放出されて、興奮状態になり… もうその先の結論は言わなくてもおわかりのはずです。

 《もうその先の結論は言わなくてもおわかりのはずです》だと?そういう子供が自暴自棄になって自殺してしまう可能性は?スポーツで発散したくなる可能性は?攻撃的な小説や芸術に目覚める可能性は?

 このように、今の子供たちの現状をさも地獄絵図の如く描き、《もうその先の結論は言わなくてもおわかりのはずです》などという脅し文句を添えて、子供たちに対する不信を煽り立てる、という方法は、子供に対する侮蔑である、ということを別当氏他このような詭弁を弄して親たちを不安に陥れたがる人たちは自覚すべきである。

 蛇足だが、別当氏の如き「砂糖を大量に摂取すると血中の等分が不安定になって、精神的に不安定になる」、という論理は、専門家の間では既に俗説扱いされているようだ。「月刊現代」平成17年10月号210ページに掲載されているので、参照されたし(中村知空[2005])。

 参考文献・資料
 神山潤[2005]
 神山潤『「夜ふかし」の脳科学』中公新書ラクレ、2005年10月
 中村知空[2005]
 中村知空「巷にはびこる「健康情報」50のウソ・ホント」=「現代」2005年10月号

 髙橋久仁子『「食べもの神話」の落とし穴』講談社ブルーバックス、2003年9月

 柄本三代子「科学のワイドショー化を笑えない時代」=「中央公論」2002年10月号、中央公論新社

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 「俗流若者論ケースファイル67・中村和彦&瀧井宏臣

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2005年10月 1日 (土)

トラックバック雑記文・05年10月01日

 今回のトラックバック:「冬枯れの街」/栗山光司/「kitanoのアレ」/本田由紀/茅原実里/保坂展人

 ※トラックバック先への誤解を避けるため、今回以降、雑記文では誰の(どの)ブログにトラックバックするかを明記しておきます。

 冬枯れの街:「いつから私は人を信じることができなくなってしまったのかしら。」

 すっげえのを見つけたので紹介しておきます。

 産経新聞:「反進化論」米で台頭 渡辺久義・京大名誉教授に聞く

 反進化論、創造論とは、とっくの昔に米国でも論破されきっているのですが(詳しくは、マーティン・ガードナー『奇妙な論理』(ハヤカワ文庫)を参照されたし)、それを俗流若者論的な理由でもって再現させようというトンデモナイ人が登場してしまいました。まあ、確かに、《教科書に書くなら「ダーウィンの進化論に沿って考えるならば」と、仮説の紹介にとどめるべきです》という物言いには理解を示しますけれども(例えば進化論に関してもさまざまな学説が存在する)、これ以降の論理が本当にブッ飛んでいて、おかしい。

 ――日本の学校でも教えるべきですか?
 思考訓練として教えるべきです。でないと日本人の頭は硬直したままです。それに「生命は無生物から発生した」「人間の祖先はサルである」という唯物論的教育で「生命の根源に対する畏敬(いけい)の念」(昭和四十一年の中教審答申「期待される人間像」の文言)がはぐくまれるわけがありません。進化論偏向教育は完全に道徳教育の足を引っ張るものです。

 エエエエエエエエエエ!

 俗流若者論の恐ろしさについては私も何度も言及してきましたけれども、まさかここまで来ているなんて思わなかったでありますよ。俗流若者論に基づいたダーウィン否定なんて、私には考えもつかなかった。なんですか、《「生命は無生物から発生した」「人間の祖先はサルである」という唯物論的教育で「生命の根源に対する畏敬(いけい)の念」……がはぐくまれるわけがありません。進化論偏向教育は完全に道徳教育の足を引っ張るものです》って、ダーウィンの進化論を教えることは道徳の崩壊につながる、って、アホかあ!!!

 あのね。これはあんたの教養がいかなるものか、ということにつながっているんだけれども、もし生物を創造した「あるもの」を仮定しなければならないとするならば、それが誰によって作られたのか、ということについても考えなければならないんだよ。で、それを仮定すると、また「あるもの」を創造した「あるもの」を仮定しなければならず、更にそれを仮定すると「あるもの」を創造した「あるもの」を創造した「あるもの」を仮定しなければならず…、って、無限ループになっちまうんだよ。

 しかもダーウィンの進化論を教えたら道徳の崩壊につながる…、って、結局のところは俺の主張を認めてくれ!!って駄々をこねてる野郎が青少年問題にかこつけて言ってるだけでしょ。

 あとさ、この人たちが歴史を知らないこともこの記事は如実に表しているね。記事の中で、聞き手たる産経の渡辺浩記者は《米国では親の教育権とも関連して進化論批判の歴史がありますが、日本の教育界に持ち込もうとすれば「非科学的」と猛反発されます》などといっているけれども、米国においてなぜ進化論批判が展開されたか、というと、結局のところ原因は宗教右派なんよ。詳しくは『奇妙な論理』の上巻の109ページ~140ページを見てほしいんだけれども、例えば116ページにおいては、キリスト教のプロテスタント教会はダーウィンの進化論の発表直後から進化論を攻撃しまくっており、『奇妙な論理』が書かれた1950年ごろまでに進化論批判の著作を《数千冊にのぼる》(『奇妙な論理』上巻116ページ)ほど出しているようだ。そういうことを参照しないで、何が《親の教育権とも関連して進化論批判の歴史がありますが》だ。

 っていうか、本気で検証しようかなあ。「俗流若者論ケースファイル」のシリーズにこれが入るかもしれません。っていうか、早く東京新聞の総選挙分析の検証をやれ、俺。

 千人印の歩行器:[生活編]禁煙より禁酒?(栗山光司氏)
 所謂「禁煙ファシズム」に関しては、私は酒はほとんど飲まないし煙草は全く吸わないのですが、それでも「禁煙ファシズム」の怖さは良く分かる。ただ、これに反対するロジックとしては、例えば飲酒や自動車のほうが実害が大きいじゃないか、というものもいいのですが、もう一つ、何か抽象的な次元での話が必要だと思います。

 ここで必要なのは、公共空間に関する議論でしょうね。なぜ、喫煙はとがめられるべきなのか、と。あるいは、なぜ、分煙化による共生ではいけないのか、と。もし煙草にも少なからず健康に被害があるとすれば、煙草の煙が充満しないような部屋で喫煙できるようにすればいいのではないか、ということです。

 単なる道徳的基準(とか言っておきながら、実際は自分の好き嫌い)によって公共における行為を決めてしまう、という行為は、最終的にはポピュリズムとならざるを得ず、その先にファシズムが待っている。公共空間とは、本来、理解できない他者と共生しなければならない空間のことを言う。そこでいかに共生のための知恵をしぼれるか、ということで、空間の使い方や公共建築の設計はスタートします。要は、必要なのは「大人の対応」というわけです。つまり「私はお前の言うことは嫌いだがお前がものを言う権利は認める」というもの。自分の好き嫌いによってある行為や言論、表現に対する弾圧を認めようとするならば、それによって自分も弾圧されるかもしれない、ということに対して想像力を働かせなければならない。素朴な弾圧派は、それが全く分かっていない。

 私だって、森昭雄とか正高信男とかいった擬似科学者の言動にはうんざりしていますけれども、だからといってこいつらを青少年に有害だから弾圧せよ、とは言わない。しっかりと論理を組み立てて、その誤謬を地味に指摘していくしかない。また、過去にも何度か言ったとおり、私は過激な性描写はあまり好きではありませんが(むしろ嫌いですが)、刑法犯が発生していない範囲ではその存在を認めるほかない(また、アニメや漫画における過激な性描写に関しては、被害者となる実物が存在しないので、刑法を楯にした規制はできない)。それが戦略的に採るべき態度です。

 でも、こういう人や、それを支持する人たちは、そういう抽象的な議論に対して想像力を働かすことができないのでしょうかね。

 kitanoのアレ:石原都知事施政方針演説「ゲームを規制するため協議会を設置する」
 私は、石原氏がゲーム規制を訴えることに関しては、ある程度予測はついておりました。詳しくは「俗流若者論ケースファイル11・石原慎太郎」「俗流若者論ケースファイル34・石原慎太郎&養老孟司」を参照していただきたいのですが、石原氏がゲームを敵視しているのはこれらで取り上げた文章を読めば分かります。

 それにしても、どうしてこの手の人たちって、ゲームをやる子供たちを犯罪者予備軍に仕立て上げないと気がすまないんでしょうかね。

 もじれの日々: 反「ニート論」論+往復メール(本田由紀氏:東京大学助教授)
 おおよそ、「ひきこもり」やパラサイト・シングル、及び若年無業者に対する素朴な批判は、結局のところ「経済の論理」と「親の論理」にしか基づいていない、極めて感情的でネガティヴな論理でしかありません。「経済の論理」で言うと、これは「Yomiuri Weekly」の平成17年8月14日号の「ニート家庭「凄絶」白書」なる記事が図らずも(図っているのかも?)示している通り(この記事に関する検証は「俗流若者論ケースファイル43・奥田祥子&高畑基宏」で)、要はそういう奴を抱えている家庭は速めに経済的に破綻するから、早く追い出したほうが身のためだ、ということになる。また、「経済の論理」に関して言うならば、もう一つはこのような人たちが税金泥棒と見なされること。要するに、こいつらは税金は払っていないのに社会保障費や年金は高齢化によって減っていく一方、だからこいつらを就職させなければ財政は破綻する、あまつさえ少子化だからなおさら、という論法。どうしてここで財政のスリム化や効率化という提言が出てこないのか。

 もう一つは「親の論理」。要するに、お前は今まで親に養ってもらったんだから、就職してその恩に報いなければいけないと。しかしそういう考えが蔓延しているからこそ逆にひきこもってしまう、というパターンも多くあるのです。要するに、自分は親に迷惑をかけている、自分はなんて駄目な人間なんだ、と思いつめた上での「ひきこもり」。こういう状況が存在する中で、更に教育に「愛国心」の強制なんて入れてしまったらもっと窮屈になるのは間違いありません。解決策としては、そういう「親の論理」による圧力を少しでも和らげる手段がありますが、例えば地域通貨でそれを行なっている自治体もあるようです(川戸和史「引きこもり癒す地域通貨の力」=「AERA」2002年9月23日号、朝日新聞社)。

 更に言っておきますと、どうやら多くの人は、「ひきこもり」もフリーターもパラサイト・シングルも若年無業も、「状態」を表すのであって決して「病理」ではない、ということに対する認識があまりにも欠けているようです。そういう認識の欠如状態があるからこそ、例えば「ニート」という言葉に関して言うならば、「ニート予備軍」「社内ニート」「TEET」といった誤用がたくさん出てくるようになる。「ひきこもり」だって「ひきこもり型」だとか「ひきこもり親和型殺人」などといった変な言葉で誤用されている。

 「ひきこもり」は生物学的に言って発達を阻害する、などと主張する言説もある。しかもどういうわけ過疎のような言説の発信元はことごとく中央公論新社だったりする(笑)。ことごとく、といっても、まあ2冊なのですがね。一つは、一応我がブログの最大の仮想敵である、京都大学霊長類研究所の曲学阿世の徒・正高信男の『ケータイを持ったサル』(中公新書)。もう一つは、最近出された、元京都大学霊長類研究所所長の杉山幸丸氏の『進化しすぎた日本人』(中公新書ラクレ)。これらの「科学的」社会論(若者論)に共通しているのは、社会という視座がないこと、あるいは社会学というバランサーがないことです。単純に霊長類学のアナロジーを「今時の若者」に当てはめて安易に語ろうとすると、この2冊のようなトンデモ本になってしまう。社会という視座を喪失すると、結局擬似生物学に基づいて「親は攻撃的に自立を促せ」みたいな主張になってしまう。

 この話題に関してもう一つ。

 minorhythm:図書館(茅原実里氏:声優)
 現在、フリーターや若年無業の問題を取り扱った本を読んでいるのですが、あまり金のない私にとって図書館はこの研究をする上で非常に役に立ちました。茅原氏は《今はパソコンで何でも調べることができちゃうけど、こうやって実際手にとって調べていると、手に入れた情報になんだか重みがあるというか》と書いていますけれども、この問題に関する言説は、ネット上の情報ではほとんど当てにならない。ブログの日記を検索しても、大半は若年無業者やフリーターを「甘え」だとか言って「親に問題がある」みたいな結論になってしまうのがほとんど常です。「2ちゃんねる」みたいな掲示板に至っては「プライドだけ高くて実際に働いたことのないニート必死だなw」みたいな書き込みは結構見られるし。

 少々出足が遅かったので、書評を公開するのは今月末になりそうです。今のところの進捗状況は以下の通り。ちなみに書評に関しては終了次第一斉に公開する予定です(既に書評を公開している、二神能基『希望のニート』は除く)。

 書評を脱稿した本
 橘木俊詔『脱フリーター社会』東洋経済新報社/二神能基『希望のニート』東洋経済新報社
 読んだが書評していない本
 玄田有史『仕事のなかの曖昧な不安』中央公論新社/宮本みち子『若者が《社会的弱者》に転落する』洋泉社新書y/三浦展『仕事をしなければ、自分はみつからない。』晶文社/斎藤環『「負けた」教の信者たち』中公新書ラクレ/小杉礼子(編)『フリーターとニート』勁草書房/本田由紀『若者と仕事』東京大学出版会
 「積ん読」状態の本
 小杉礼子『フリーターという生き方』勁草書房/玄田有史、曲沼美恵『ニート』幻冬舎/玄田有史、小杉礼子『子どもがニートになったなら』NHK出版生活人新書
 図書館で借りてきてまだ読んでいない本
 小杉礼子『自由の代償/フリーター』日本労働研究機構/矢幡洋『働こうとしない人たち』中公新書ラクレ
 宮城県図書館で注文した本
 丸山俊『フリーター亡国論』ダイヤモンド社/和田秀樹『ニート脱出』扶桑社/居神浩『大卒フリーター問題を考える』ミネルヴァ書房/澤井繁男『「ニートな子」をもつ親へ贈る本』PHP研究所
 若林図書館で注文した本(せんだいメディアテークが館内整理のため図書館を2週間ほど休館にするため)
 学研(編)『フリーターなぜ?どうする?』学研/浅井宏純『自分の子供をニートにさせない方法』宝島社/小島貴子『我が子をニートから救う本』すばる舎
 読む予定ではあるが注文していない本
 大久保幸夫『新卒無業』東洋経済新報社/安田雪『働きたいのに…高校生就職難の社会構造』勁草書房/香山リカ『就職がこわい』講談社
 現在検討中の本
 長山靖生『若者はなぜ「決められない」か』ちくま新書/波頭亮『若者のリアル』日本実業出版社/喜入克『叱らない教師、逃げる生徒』扶桑社

 保坂展人のどこどこ日記:郵政民営化法案の不思議(保坂展人氏:衆議院議員・社民党)
 保坂氏はかつて「国会の質問王」として名を馳せた人であり、利権政治家、官僚任せの政治家ばかりの昨今にあって、数少ない実力派なのですが、郵政民営化の不思議をこのようにブログで公開して閲覧者に議論させようとする覚悟は素晴らしいと思います。とりあえず、こういう重要なことを隠してきて選挙を煽ってきたマスコミはなんなのか、と。

 お知らせ。まず以下の記事を公開しました。
 「統計学の常識、やってTRY!第6回」(9月18日)
 「俗流若者論ケースファイル71・森昭雄」(9月21日)
 「三浦展研究・前編 ~郊外化と少年犯罪の関係は立証されたか~」(9月25日)
 「三浦展研究・中編 ~空疎なるマーケティング言説の行き着く先~」(9月27日)
 「三浦展研究・後編 ~消費フェミニズムの罠にはまる三浦展~」(9月28日)
 「俗流若者論ケースファイル72・読売新聞社説」(同上)

 また、bk1で以下の書評を公開しました。
 堀田純司『萌え萌えジャパン』講談社、2005年3月
 title:世界に想像する余地を
 内藤朝雄『いじめの社会理論』柏書房、2001年7月
 title:安易な共同体主義からの訣別
 越澤明『復興計画』中公新書、2005年8月
 title:現代の美観と先人の苦悩
 森真一『自己コントロールの檻』講談社選書メチエ、2000年2月
 title:心理学主義という妖怪が徘徊している
 斉藤弘子『器用に生きられない人たち』中公新書ラクレ、2005年1月
 title:俗流若者論スタディーズVol.5 ~症候群、症候群、症候群、症候群…~

 あと、「2005年7~9月の1冊」も近いうちに公開します。今回はワーストがたくさん出てきます。
 参考までに、私が今まで書いた書評&音楽評の記事も。
 「2004年・今年の1冊
 「2005年1~3月の1冊
 「2005年4~6月の1冊
 「2004年・今年の1曲
 「2005年上半期の1曲

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2005年9月21日 (水)

俗流若者論ケースファイル71・森昭雄

 今度は産経新聞か。産経新聞のウェブ版である「ENAK」に、日本大学文理学部の曲学阿世の徒・森昭雄氏が登場している。日付は明記されていないが、記事中に《小学校で教職員3人が殺傷された大阪府寝屋川市の事件。逮捕された17歳の少年は、小学校時代から自宅に引きこもってゲームに興じていたという》(「ゲーム脳 神経回路の形成に影響」=産経web「ENAK」、以下、断りがないなら同様)、以下、断りがないなら同様)と書いてあるとおり、おそらく平成17年の2月下旬あたりであろう。この記事では、相も変わらず《事件との関連は分からないが、日本大学の森昭雄教授(脳神経科学)は「テレビゲームに没頭し、反射的な操作を繰り返していると、理性や判断など、人間らしさにかかわる脳の前頭前野の活動が低下し、キレやすく本能的な行動をとる可能性が高くなる」と独自の学説を唱えている》などと書かれているのだが、この理論がいかにデタラメかということは精神科医の斎藤環氏をはじめ多数の人に指摘されている。ただこの記事に関して言うと、《キレやすく本能的な行動をとる》と書かれているが、そもそも「キレる」という言葉の出自が極めて疑わしいものであるし、また《本能的な行動》が何をさすのかがわからない。そもそもゲームによって神経が未発達になると犯罪を起こしやすくなるとか「ひきこもり」になるだとか学力が低下するとか言うことに関する論証が立っていないのだが。このような「論理」は、所詮は彼らが腹を立てている青少年問題をゲームにかこつけたいだけのものである。

 もちろん、この記事の筆者が、脳波におけるα波の増加=脳が働いていない、日常的にゲームに親しんでいるとゲーム中にα波が減少しない、だからゲームをやりすぎると凶悪犯罪者になるぞ!という図式を少しも疑っていない。ここで我々が着目すべきは、脳波におけるα波の現象がゲーム中に限られることであろう。森氏の文章を読んでいると、どう考えても森氏は、ゲームとお手玉と10円立て以外(「メール脳」がらみなら携帯電話の使用時も)の作業時における、すなわち日常動作における脳波を計測した節がない。学者として不適切な態度であろう。少々記事から離れてしまったけれども、私が問題視したいのはこの記事の執筆者の態度で、少し読むだけでも明らかにおかしいと思える事例、例えば《β波が減少した状態》が《前頭前野に情報を伝える神経回路の働きが悪くなると考えられ、理性的な判断を伴わないまま、視覚情報から即行動に移される可能性》をもたらす、という部分に少しも疑問を持たないのがそれに当たろう。そもそも少年による凶悪犯罪(殺人・強盗・強姦・放火)は減少しているのだが。そのようなことを無視してこのようなことを語ってしまうのは、所詮は疑似科学に縋ってでも「今時の若者」を貶めたい、という未熟マスコミ人の「歪んだ欲望」(笑)なのだろう。

 また、この記事の執筆者は、《(筆者注:森氏は)「ゲーム脳」では、前頭前野の活動が低下しているため、ゲーム以外の集中力が落ちてボーッとした状態となるほか、判断力が低下してキレやすくなったり、本能的な行動をとりやすくなったりする、と述べる》と書いており、このアンチノミー(二律背反)の行動が同時に起こってしまう「ゲーム脳」とは一体何か、ということにも疑問をはさむべきだと思うが(そもそも《ゲーム以外の集中力が落ち》てしまうことは前頭葉の未発達として捉えるべきことなのだろうか?)、所詮は俗流若者論、そのような論理の上での疑問があってはいけないのだろう。

 もちろん、「ゲーム脳」理論の最大の「萌え要素」(笑)である《森教授は「ゲームだけでなくインターネットや携帯メールなどが氾濫(はんらん)する現代、友達と一緒に自然の中で体を使って遊び、創造の喜びを体感できるような遊び方も今の子供たちに必要ではないでしょうか」と話している》という物言いに代表される安易な懐古主義だって忘れてはいない。そもそもこの記事が書かれたのは少なくとも平成17年2月以降なのだから、「ゲーム脳」に対する批判は一般書のレヴェルでもかなり出ていた(例えば、斎藤環[2003]、と学会[2004]、香山リカ、森健[2004]など)。また、この記事の冒頭で触れられている《大阪府寝屋川市の事件》に関して、この記事と同様に「ゲーム脳」に強引に結びつけた報道が週刊誌を中心に行なわれたが、結局のところこのようなプロファイリングは無根拠である、ということ、そもそもこの事件における犯罪者が《自宅に引きこもってゲームに興じていた》のはせいぜい中即直後のある時期までで、それ以降は《ゲーム本には見向きもせず、昨年から若者向けのファッション誌「smart」を毎月買うように》(小泉耕平、藤田知也、四本倫子[2005])なるなどと、際立ってゲームに熱中している傾向は見られなくなったという証言すらあるほどだ。

 最後に、私が「ゲーム脳」に関して考えていることを語ろうと思う。この「ゲーム脳」理論について、この記事でも《それを防ぐため森教授は、子供たちのゲームの時間を1日あたり15分程度と決めたり、ゲームをしても読書をして感想文を書く時間をとる》と触れられている通り、「ゲーム脳」なる疑似科学が、子供を「正常化」するための監視を正当化するツールとして用いられているのが、最近の私の危惧することである。このような事態は、事実を放棄して疑似科学にすり寄る動向、または疑似科学が権力を正当化するツールとして働いていることなど、なにやらナチス・ドイツの匂いすら感じさせる我が国の社会を象徴するツールとして、私は「ゲーム脳」理論に興味を持っている。もちろん、これは「ゲーム脳」に限らず、正高信男氏の「ケータイを持ったサル」でも同様で、我が国における俗流若者論に支えられる疑似科学が、いかなる方向に我が国を導いていくのか、ということについて私は何らかの危うさを覚えずにはいられないのである。

 参考文献・資料
 と学会[2004]
 と学会『トンデモ本の世界T』太田出版、2004年5月
 香山リカ、森健[2004]
 香山リカ、森健『ネット王子とケータイ姫』中公新書ラクレ、2004年11月
 小泉耕平、藤田知也、四本倫子[2005]
 小泉耕平、藤田知也、四本倫子「「17歳少年がおかしくなったのはゲームのせいじゃない!」」=「週刊朝日」2005年3月4日号、朝日新聞社
 斎藤環[2003]
 斎藤環『心理学化する社会』PHP研究所、2003年10月

 杉田敦『権力』岩波書店、2000年10月
 森真一『自己コントロールの檻』講談社選書メチエ、2000年2月
 山本貴光、吉川浩満『心脳問題』朝日出版社、2004年6月

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 関連記事
 「俗流若者論ケースファイル07・森昭雄
 「俗流若者論ケースファイル08・瀧井宏臣&森昭雄
 「俗流若者論ケースファイル16・浜田敬子&森昭雄

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2005年8月29日 (月)

俗流若者論ケースファイル69・小林道雄

 この連載の第64回において、NHK放送文化研究所専門委員の清川輝基氏が「世界」平成15年7月号に書いた文章を批判したとき、コメント欄に「「世界」ですらこのような俗流若者論を書いているのか」というコメントを頂いた。なるほど確かに「世界」には俗流若者論が掲載される確率は低い部類に属するけれども、だからといって俗流若者論が完全に出ないわけではない。今回は2000年代に「世界」に掲載された俗流若者論の中でも真打を検証する。

 今回検証するのは、ジャーナリストの小林道雄氏が「世界」平成12年12月号から平成13年3月号まで行なっていた短期集中連載「少年事件への視点」の第3回と第4回と、「世界」平成13年4月増刊号に掲載された小林氏の文章である。小林氏の最近の仕事に関しては、警察に関するものと、青少年に関するものの二つに大別されるのだが、この二つの仕事を見比べてみると、この二つの仕事は本当に同じ小林氏によって行なわれたものなのか、ということだ。警察に関する仕事は権力の深層にもぐりこむ、という気迫が感じられるけれども、こと青少年に関する仕事を読むと小林氏は俗流若者論しか知らないのではないか、と錯覚してしまうほどそのレヴェルは落ちる。中には疑似科学に陥ることまである。ここで検証する小林氏の文章は明らかに青少年に対する小林氏の蔑視の感情を感じることができる。

 まず短期集中連載の第3回「何が子どもを歪めさせたのか」(「世界」平成13年2月号に掲載)を検証しよう。この文章のリード文において、《小児神経学の知見から、幼児期の発達と思春期の犯罪の関係をさぐる。子どもが健やかに育つための環境が損なわれている現代において、「育つ」ことがいかに難しいことか》(小林道雄[2001a]、以下、断りがないなら同様)とかかれており、このような視点でかかれる俗流若者論というものが、いかに恣意的な《小児神経学の知見》やそれ以外の「科学」の濫用で構成されているか、ということに関しては、この連載の第485660646667回を参照していただきたい。そして小林氏のこの文章もまた、そのような疑似科学の隘路にはまっているのである。

 案の定、小林氏は102ページにおいて《いびつになった脳》と称した項に入ってしまうのである。ちなみにここまでの97~102ページの記述に対しては、その全てが家裁調査官などの回想や懐古主義で埋め尽くされており、そこで聞いた事例がどこまで広がりを持っているか、ということに小林氏は行なっていないので検証しない。しかし小林氏が、そして「世界」が俗流若者論において疑似科学、そしてそこから派生するレイシズムを肯定してしまうことは何度でも批判する必要があろう。

 小林氏は103ページにおいて以下のように書く。

 取材の結果、今の子どもには他人の痛みが分からない子が多いこと、きわめて感受性の未熟な子がいること、総体として思考能力が低下していること、またかこの心の傷や不満を位置人称的に悩んで申そうかさせる子がいることなど、いくつかのことを知らされた。

 それらの問題について、私は調査官の見解と共に状況から考えられる理由を述べてきたが、果たしてそれだけだろうかという思いは常につきまとっていた。そして、その想いをもっとも強く感じさせられたのは、保護監察官I氏の話を聞いたときだった。

 「今の子どもたちの問題は規範以前、人間としてのものがトータルとして足りないという感じがします。……」

 実を言えば、私には前から話を聞きたいと願っていた人がいた。それは〈少年事件の分析には小児神経学の眼が必要です〉と書かれた朝日新聞の『ひと』欄を読んだことによる。レット症候群(筆者注:「這い這い」や手を振って歩くことができないために大脳連合野が働くなった病気とされている)国際会議を主宰した医師として紹介されていた瀬川昌也氏は、〈一定年齢でおきることには必ず発達が関係しています。十七歳の事件も、乳幼児期の発達の問題だし、廊下も発達の繁栄です〉と述べていたのである。

 しかしこの瀬川氏ときたら、この時期の少年犯罪にして疑似科学的な俗流若者論を展開して全てを語った気になっている。発達の問題で全てが解決されるのであれば、犯罪を誘発する「発達の歪み」を生み出す家庭を摘発して矯正する、という言説が生まれかねないし、このような疑似科学的な俗流若者論を展開する人は我が国において少年が凶悪犯罪をしでかす確率が諸外国に比べて著しく低いことを引こうとはしない。まあ、彼らにとって少年犯罪は格好の飯の種だからそこまで想像力が及ばないのであろうが。

 小林氏の文章の分析に戻ろう。小林氏は瀬川氏から聞いた話を基にして、104ページにおいて以下のように述べているのだが、小林氏は明らかに疑似科学の罠にはめられている。

 結論から言えば、調査官が指摘している今の子供たちの問題点、未熟さ、他人の痛みが分からないこと、妄想への傾斜、保護監察官I氏が語ったような行動のアンバランス、そして私が感じている不登校児の問題などは、いずれも生後四ヵ月までの正常な睡眠と、その後の「這い這い」がきちんと行なわれてこなかったことに起因しているようである。

 なんとも意外に感じるが、瀬川氏に寄れば生後四ヵ月までの睡眠と、十ヵ月後に始まる「這い這い」のありようが、脳の土台というべき機能を決定するということなのである。

 つまり、言語や社会的理性など人間を人間たらしめている能力は、前頭葉にある大脳連合野の働きに夜が、その土台となる脳の仕組みが間違いなく作られていなければ大脳連合野は正常に作動しない、未熟になるということなのだ。

 小林氏はこのように書いているけれども、小林氏は昨今の犯罪少年、更にいえば今の子供たちにおける「這い這い」の実態を示した定量的なデータを最後まで示していない。これはむしろ小林氏が瀬川氏に問い詰めるべきことなのであったが、しかし小林氏は小林氏の思い込みだけで子供たちについて語ってしまっているので、データ抜きのステレオタイプにはまってしまうのも理の当然だと思うが、理の当然だからといって許されるわけではない。しかもここで語られている如き大脳前頭葉の発達の歪みが社会性を失わせる、というのははっきり言って脳機能障害者に対する差別につながる。「世界」の岡本厚編集長は気づかなかったのだろうか。

 さて、瀬川氏は明らかに俗流若者論御用達の疑似科学者の振る舞いをする。瀬川氏は何と不登校の原因は睡眠障害だ、という珍説を開陳してしまうのである。もちろん、瀬川氏は最近になって不登校が急増したと思いこんだ上でこのような珍説を語る。不登校に長い間付き合ってきた奥地圭子氏の話を、小林氏も瀬川氏も正座して聞くべきだろう(最近になって不登校が急増した、ということが以下に虚偽であるかについては奥地圭子[2003]を参照されたし)。106ページ。

 「ある方が不登校というのは時差ボケの状態が続いているのと同じだと指摘していますが、その通りなんです。というのは、おきたり寝たりする時間と体温のリズムが全然合っていないんです。体温のリズムというのは明け方に近い深夜がいちばん低くて、夕方五時ごろがいちばん高いという周期になっていて、起きたときには上昇に向かっているから気合が入るんです。それが遅れていてまだ低い状態にあったら、ぜんぜんやる気は起こらない。だから行きたくないとなるんです」

 不躾ながら、私は中学から高校にかけて学校に行きたくない、と思うことは何度もあったし、授業を放棄して保健室に行っていたこともしばしばあるし、大学に入っても人付き合いがうまく行かずに困惑したことがよくある。また、私の近くには何名か不登校児がいた。そのような経験から私は不登校や「ひきこもり」は社会的要因ではなく発達の歪みから来るのだ、という論理がいかに暴力的であるか、ということについて十分熟知しているつもりである。もちろん一部には瀬川氏の述べた如き理由から不登校になる人もいるかもしれないが、不登校になる人の大抵の原因は学校内でのいじめや人間関係の悩みなどが大半である。このような社会的な影響を無視して不登校について語るのであれば、瀬川氏は不登校を語る上では明らかに能力として欠けているものがある、というほかない。小林氏も小林氏だ。小林氏が青少年に関して取材を重ねているのであれば、少しでも反証になりそうな事例を挙げて反論すべきだろう。小林氏は107ページにおいて《困ったことに不登校の子どもは、決まったように昼夜逆転の生活になる。行けないものを行かすわけにはいかないが、これではいつになっても時差ボケ状態は改善されない》と語っているけれども、原因と結果が逆転していないか。

 小林氏は108ページにおいて更に以下のように述べる。

 日中の活動が低下して深い睡眠がとれず、セロトニンが減ってドーパミンが編に活発になることは、まず他動になるということだが、それだけではなかった。小学校時代には無気力になって依頼心が強くなり、中学三年ぐらいの年代で甘えの反面の粗暴行為が出てくるようになる。また、セロトニンの減少は対人関係に問題を起こしがちで、環境への順応を難しくするということなのである。

 このような物言いは、自分は不登校とも「ひきこもり」とも、更には人間関係に支障をきたすことにすら関係ない、と思い込んでいるからこそ言えるのだろう。確かにそういう人たちはうらやましいけれども、だからといって不登校も「ひきこもり」も人間関係に支障をきたす人も病気だ、脳とか発達に障害を抱えている劣等人種だ、という論理を開陳するのを見ていると、かえって人付き合いは少ないほうがいいのかもしれない、とすら思ってしまうことがある。このような物言いを、「ひきこもり」とか不登校とかの当事者が見たらどう思うだろうか。もしこの文章を読んでいる人が「ひきこもり」とか不登校とかの経験を抱えているのであれば、あるいは人間関係で悩んでいれば考えて欲しい、あなたが悩んでいる(悩んでいた)のは脳や発達に障害があったからなのだ、といわれればあなたは納得するか?少なくとも私は納得しない。

 瀬川氏や小林氏は更に109ページにおいて以下のようにも述べてしまう。ここまで来るともはや与太話以外の何物でもない。

 「覚えるけど忘れないというのは、自閉症の子がそうなんです。最初に入ったパターンを覚えていて、決まったことはきちんとやれる。そこで最初に数が頭に入ると、算数から高等数学までどういう頭の回転でやるのかわかりませんが、ものすごい才能を発揮する。他のことは全然できませんが。で、ノーマルな子がそうなった場合も、ドリルなんかを早期教育でやらせると、答えがあることについてはどんどん伸びて、偏差値の上のほうに言ってまっすぐに一流大学に入る。だけど、そういう人は答えが出ないことにはすごく困る。それでも学歴社会ですからエリートコースに乗る。しかし、行政機関であれ学問の世界であれそういう人が指導的役割に就くと社会としてはちょっとまずいことが起こる。批判する人がいればいいけれど、修正しませんから硬直化が起きるんです。それと、答えの出ないことは分からないから、おかしなことも起こる。勉強の面で優秀な人にはときどきそういう脳の持ち主がいるということです」

 私が瀬川氏への取材で何より感じさせられたことは、臨床医としてレット症候群や自閉症という難病に取り組んで研究を深め、国際会議を主宰するほどの意思の知見が、なぜ一般に知られていないのかということだった。ことに寄れば、ノルアドレナリン障害型エリートによる硬直化がそれを阻んでいるのではないか、そんな気がしてならない。

 なるほど、この論理に従えば、いかなる社会問題でさえも《ノルアドレナリン障害型エリートによる硬直化》のせいにできる。しかし、このような問題意識は、社会や組織における人間関係がもたらす力学を無視する方向に走ってしまうのではないか、というよりも走ってしまっている。

 更に小林氏はこの直後にこのように語っている。

 とにかく、はるか昔から戦後二十年ぐらいまで、子どもたちは「遊びをせんとや生まれけむ」と詠まれた姿でそのままに戸外で遊び暮らしてきた。私たち世代は、家でぐずぐずしていると「子どもは風の子」と追い出されたものである。思えば、それはいかに正しかったかということだ。

 このような自己肯定を行い、現代の若年層を平然と貶める小林氏が、果たして「世界」という左派系のメディアに執筆する資格があるのか。いや、左派系のメディアでも、俗流若者論はどういうわけか徳移転となっており、ほとんど無法地帯であるから、このような物言いも許されるのだろう。しかし、先の引用文の如き、小林氏や小林氏が取材した人たちの話だけで、現代の若年層全体を貶めて、人間的に劣った人間だと差別する小林氏の正当性の主張は、いかに小林氏がマスコミによって捏造された「今時の若者」のイメージに踊らされているか、ということを映し出している。それに賛同する読者も然りである。

 2月号の文章だけでもこれだけ問題点があるのに、小林氏の暴走は3月号でも続いてしまう。3月号では、ついにかの曲学阿世の徒・北海道大学教授の澤口俊之氏が登場する(3月号56ページ)。

 小林氏は3月号に掲載された短期集中連載の第4回(最終回)において、以下のように述べている。57ページ。

 そうであれば、われわれが「人間性」と読んでいるものは心の理論や社会的理性そのものであるということになり、それが未発達だということは人間性を書いているということになる。そのような存在には、われわれが当然視している人間性や人間としての規範意識というものさしは通用しない。最近の少年事件に感じる「不可解さ」はそのためであって、単に未熟と受け止めては間違うこととなる。未熟や非常識と映る最近の少年や若者たちの変質は、実はそういうことのようで、……(小林道雄[2001b]、ここから先は断りがないなら同様)

 これは明らかにレイシズムであろう。「世界」はやはり俗流若者論であればレイシズムすら肯定してしまうらしい。岡本厚編集長も散々だ。このような疑似科学によって裏付けられたレイシズムが、いかに若年層に対する意識を貧困化させているか、ということは澤口氏などの疑似科学系の俗流若者論を読めばすぐにわかることだろう。また、小林氏は《最近の少年事件に感じる「不可解さ」》などと語っているけれども、私はむしろ情報が多すぎるが、しかしそれらの情報が全て「今時の若者」を文スタートして敵視するところから生まれているからこそ、たとえ情報だけ多くても全く本質を射抜くことはできない、と思っている。小林氏がさも現代の少年や若年層について当然だと思っている《変質》は、むしろ小林氏の認識の問題であろう。

 小林氏は澤口氏の疑似科学にのっとって、更に幼稚園まで敵視する。58ページ。

 私は幼稚園には行っていない。その頃いっていた子は良家の子女ばかりで、私はそうでなかったということだが、理由はそれだけではなかった。私の両親に限らず、当時の親には「幼稚園なんかに入れたら子どもがひ弱になる」という思いが強く会ったようなのだ。私はその判断は正しかったと思うのだが、戦後の経済成長とともに幼稚園にいくのは当たり前になった。それだけに抵抗のある人もいるかと思うが、やはりそれは本然の発達環境ではないのである。

 幼稚園というのは保母さんという大人を介在させた年齢輪切り社会であって、子どもたち自身が作る子ども社会とは本質的に異なる。ここでの遊びは、多くが与えられ指導されてのもので、何もない空間での自然発生的な遊びではない。しかも現在では、その保母さんは現代っ子のお姉さん先生で、「○○ちゃん、お友だちぶったらいけないんだなぁー」などといった口調での始動がもっぱらとなっている。

 いい加減にしてくれ。このような議論は一見正鵠を得ているように見えるが、しかし全くのデタラメ、というよりも小林氏の単なる思い込みをちっとも抜け出されていない。その上《しかも現在では、その保母さんは現代っ子のお姉さん先生で》などという文句が続けば、もはや小林氏は筆を折れ、などと浴びせかけたい衝動に駆られてしまう。

 その上小林氏と着たら、62ページにおいて《虐待された子どもが心に刷り込まれるのは「近い(親しい)関係は怖い」ということである。親密な関係を危険だと避けたとしたら、正常な人間関係は作れない。そうなれば、人間としての心は育たない》とまで言い出す始末。だったら何か。小林氏は、たとい子供が虐待を受けていても、《近い(親しい)関係は怖い》という感覚が生まれるのはもっと怖いから、虐待は我慢しろ、とでも言うのか!もちろん虐待は対処されて然るべきだけれども、しかしたとい近い関係であっても、その人が理不尽な暴力を振るったりするのであれば、一見距離を置くことも大切だ、と教えることもまた重要なのではないか。そもそも小林氏のこのような暴論は、親密なコミュニケーションこそ善である、という価値観につながり、コミュニケーション能力差別として現れている。

 それでも小林氏の暴走はまだ終わらない。62ページから63ページまで小林氏が述べていることもまた、現代の家庭に対する差別以外の何物でもない。小林氏は《教育中心家庭》で育った子供に《親への尊敬や長幼の序といった道徳をといたところで入るものではない》と書いているけれども、「世界」にこのような文章が載っていいのか。やはり俗流若者論は特異点なのか。蛇足だけれども、小林氏は学校教育というものをことごとく無視している。小林氏は、最近において少年による凶悪犯罪が諸外国と比して、あるいは昭和40年ごろに対して件数が極めて低い水準で推移していることをいかに説明してくれるのだろうか。

 65ページにおいて、小林氏は《現在の日本がなぜここまで政治や経済に停滞を招いているかを考えさせる。おそらくそれは、政界・財界に二世が増えたこと、つまり厳しい環境にもまれていない人間がその任に就いていることの結果にほかなるまい》とも述べるが、これも第3回の最終回と同じ問題意識だろう。ようは自分の問題意識の捌け口として疑似科学が使われているわけだが、そのような科学の濫用が、科学の氏につながる、ということに関して小林氏は極めて無頓着だ。

 3月号に掲載されている文章は、短期集中連載の最終回である。65ページには、小林氏が連載を終えるに当たってのことが書かれているのだが、そこで連載を始めたときに聞いた、横浜家庭裁判所の元調査官である野口のぶ子氏の言葉が引用されている。

 「厳罰化なんていってますが、これまで大人は子どもにどうかかわってきたんですか。子どもたちが何をしようと、どんなに苦しんでいようと見て見ぬふりをしてきただけじゃないですか。どうしてそのことが問われないんでしょうか」

 これは小林氏自身に突き返されるべき問いかけである。小林氏のやっていることは、《どんなに苦しんでいようと見て見ぬふりをしてきただけ》ということと罪の深さでは全く変わらない。小林氏のやっていることは、現代の青少年に対する差別を疑似科学でもって「正当性」を持たせ、青少年に対する不安をあおることでしかない。そのような態度が正しいとしている小林氏に、この野口氏の問いかけはどう響いたのだろうか。これが小林氏の残酷な態度を正すことになればいい、と思ったのだが、あいにくそうはならないらしい。66ページにおいて小林氏は《中には、異星人を見るような目を若者たちに向けている人もいる》とぬけぬけと語っているけれども、それは小林氏自身にも当てはまる。小林氏は自分のやっていることは全て正しい、と考えているようだが、小林氏の行為は倫理的にも誤りだ。そもそも小林氏は疑似科学によるレイシズムを肯定している。事実、小林氏は、《たとえば電車の中での化粧は、公徳心の欠如といったものではない。他人の気持が分からない、従って、他人の眼が期にならないから堂々とやれるのであって、公衆道徳という次元の問題ではないのである》と67ページにおいて語っている。このような文章が「世界」に載ることもまた大きな問題ではないのだろうか。

 一連の小林氏の狼藉から確認できることは、疑似科学がいかに小林氏の世代の正当性、つまり小林氏自身の正当性を主張することに役立っているか、ということだ。疑似科学がこのような形で役に立つためには、まず小林氏が現代の青少年に対して差別的な感情を持っていなければならないが、この短期集中連載の第3回と第4回では、その小林氏の持っている若年層に対する差別意識と、自意識の裏返しでしかない小林氏の自己肯定がことごとく繰り返されている。それは結局のところレイシズムしか生み出さず、不毛な議論にしかなりえない。

 小林氏のやっていることは、本当に「世界」という左派系のメディアに載るべきことなのだろうか。我が国の「論壇」の底の薄さ、特に左派論壇の底の薄さは、俗流若者論になったらいきなりプリンシプルを捨てて俗流右派論壇人と一緒になって若年層に罵声を浴びせかける。このような状況を、果たして放置しておいていいのだろうか。このような状況を俯瞰すると、我が国において、俗流若者論というものは自民党も公明党も民主党も社民党も共産党も諸派も無所属も無党派も巻き込んだ極めて大規模な「オール与党」というほかない。俗流若者論の名において行われる政治に争点などない。あるのはステレオタイプのみ。

 このような状況下で、若年層に対する適切な施策や救済が行なわれることを期待するほうが無理かもしれない。たとい若年層の投票率が上がったとしても、俗流若者論が多く席巻する状況を打破しない限りは、当分の間青少年にとっての暗黒時代は続くだろう。NPOなどが頑張ればいいのかもしれないが、そのような頑張りは一部のメディアで採り上げられるくらいで、国民的な理解が定着しているという状況には達していないし、フリーターや「ひきこもり」や若年無業者をめぐるバッシングにも見られるとおり、マスコミや大衆は適切な研究も参照せずに彼らに石と糞ばかり投げつける。「善良」を自称している大衆にとって、所詮は若年層は敵愾心のはけ口でしかない。若年層の政治利用は当分やみそうもない。そのような絶望的な状況に立っていることこそ、我々は自覚したほうがいいのかもしれない。そのような状況下において、それでも(ありもしない)希望を信じてやっていくことしか、我々にはもはや残されていないのかもしれない。

 最後に小林氏、「世界」平成13年4月号の増刊号に当たる「日本の選択肢」という雑誌において、小林氏は「少年犯罪」の項を書いているが、小林氏はこのサッシの211ページにおいて、以下のように書いている。

 少子化と都市化によって、そうした環境と機械は大きくうすなわれてしまいました。他人の気持ちが分からなくなったのはその結果ということなのですが、それは決して犯罪を犯すような少年に限ったことではありません。近ごろは電車の中で化粧をしている若い女性をよく見掛けますが、これも他人の気持ちが分からないから周囲の目垣に習いということで、同じことなのです。

 私たちが「人間性」と読んでいるのは社会的理性や心の理論そのもので、それが未発達だということは人間性を書いているということになります。ですから、そういう少年や若者には、私たちが人間として当然と考えているものさしは通用しません。最近の少年事件に感じる「不可解さ」はそのためで、単なる未熟ではないのです。(小林道雄[2001c])

 ……世界の辺境で叫ばせてくれ。

 助けてください!小林氏を、疑似科学の魔の手から、誰か助けてください!!

 そして私に、もうこれ以上同じことを言わせないでください!!

 参考文献・資料
 奥地圭子[2003]
 奥地圭子「新しい囲い込み――「不登校大幅減少計画」への疑問」=「世界」2003年9月号、岩波書店
 小林道雄[2001a]
 小林道雄「何が子どもを歪めさせたのか」/「少年事件への視点」第3回=「世界」2001年2月号、岩波書店
 小林道雄[2001b]
 小林道雄「「社会的理性」を育てるために必要なこと」/「少年事件への視点」最終回=「世界」2001年3月号、岩波書店
 小林道雄[2001c]
 小林道雄「Q49.少年犯罪」=「世界」2001年4月増刊号、岩波書店

 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 姜尚中『ナショナリズム』岩波書店、2001年10月
 斎藤環『心理学化する社会』PHP研究所、2003年10月
 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 杉田敦『権力』岩波書店、2000年10月
 十川幸司『精神分析』岩波書店、2003年11月
 内藤朝雄『いじめの社会理論』柏書房、2001年7月
 広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書、1999年4月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 宮崎哲弥、藤井誠二『少年の「罪と罰」論』春秋社、2001年5月
 山本貴光、吉川浩満『心脳問題』朝日出版社、2004年6月
 ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』岩波書店、上下巻、1987年2月

 大和久将志「欲望する脳 心を造りだす」=「AERA」2003年1月13日号、朝日新聞社
 瀬川茂子、野村昌二、宮嶋美紀「B型をいじめるな」=「AERA」2005年1月24日号、朝日新聞社
 内藤朝雄「お前もニートだ」=「図書新聞」2005年3月18日号、図書新聞

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 関連リンク
 「正高信男という頽廃
 「反スピリチュアリズム ~江原啓之『子どもが危ない!』の虚妄を衝く~
 「壊れる日本人と差別する柳田邦男
 「俗流若者論ケースファイル11・石原慎太郎
 「俗流若者論ケースファイル17・藤原智美
 「俗流若者論ケースファイル34・石原慎太郎&養老孟司
 「俗流若者論ケースファイル36・高畑基宏&清永賢二&千石保
 「俗流若者論ケースファイル46・石堂淑朗
 「俗流若者論ケースファイル47・武田徹
 「俗流若者論ケースファイル48・澤口俊之
 「俗流若者論ケースファイル51・ビートたけし
 「俗流若者論ケースファイル53・佐々木知子&町沢静夫&杢尾堯
 「俗流若者論ケースファイル56・片岡直樹
 「俗流若者論ケースファイル60・田村知則
 「俗流若者論ケースファイル64・清川輝基
 「俗流若者論ケースファイル66・小林ゆうこ
 「俗流若者論ケースファイル67・中村和彦&瀧井宏臣

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2005年8月28日 (日)

俗流若者論ケースファイル68・瀬戸内寂聴&乃南アサ&久田恵&藤原智美

 俗流若者論を研究しているものにとって、過去に喧伝された「今時の若者」をめぐる事例や言論に関して、今振り返ってみると「あれはなんだったのか?」と思い返さざるを得ない。我が国において「今時の若者」をめぐる言説は、中にはそのまま(その非論理性が指摘されずに)ずっと使われ続けるものもあるし、あるいはすぐに消失してしまうものもある。「あれはなんだったのか?」と考えざるを得ないものは、もちろん後者に当たる。

 今回検証するのは、「文藝春秋」平成12年11月号に掲載された、「「なぜ人を殺してはいけないのか」と子供に聞かれたら」という特集の中におけるいくつかの論文である。このような問いかけは、今ではめっぽう聞かれなくなった。それがいい事なのか悪いことなのかは一概には言えないだろう。

 検証の前に、私なりに「なぜ人を殺してはいけないのか」ということに関して書きたいのだが、なかなかいい理由が見つからない。最大の理由としては、やはり「刑法で禁止されているから」であろう。しかしこのような解答をすると、「人を殺していい。ただし、警察権力に見つからないように最後まで隠し通せ」ということを容認してしまうことになる。ただこの答えは、法学的に突き詰めるならばある程度は正しい答えとなる。しかし「それではなぜ「人を殺してはいけない」ということが法律よって定められるようになったか」ということに関しても答えなければならないはずである。それに対する理由としては「人を殺すことが許されるならば多くの人が人を殺すようになり、社会秩序が崩壊する」というのがもっとも妥当かもしれない。要はホッブズの説明である。ホッブズは自然状態を「万人の万人に対する戦争状態」と捉え、そこから生まれる死の恐怖から回避するためには主権の確立が必要だ、という論理である。

 しかし、世の中にはたくさんの「殺人」で溢れている。もちろんここで言うところの「殺人」は人が人に対する殺人行為のみを指すのではなく、例えば国家が凶悪犯罪の被害者の代行として恩讐を行なう場合=死刑や、国家の主権の拡大のために自らの「敵」を殺す行為=戦争などといったものが溢れている。更には最近になって、脳死とかホスピスなどを巡る議論に代表されるとおり、そもそも「生」と「死」の境目に関する議論もまた存在している。このように考えれば、今ではめっぽう聴かれなくなった「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いもまた、「生」と「死」の境目が曖昧になった現代社会であるからこそ問われる問題なのかもしれない。もう一つ言えば、昨今のマスコミ、特に少年犯罪報道は、あまりにも「死」を物語化しすぎており、彼らの「死」に対する認識こそ私は疑いたくなる。

 本来ならそのような問いかけを真摯に受け止めることによって、我が国の社会にとって「死」とはいかなる意味を持っているか、ということを問い詰めなければならなかったのである。しかし我が国の自称「識者」にとって、そのようなことは許されなかったらしい。まあ、我が国の自称「識者」の役割が、ただ「今時の若者」の「問題行動」に「驚いてみせる」ことでしかないから、この特集の如くただページ数だけ多くて内容は空疎なものばかりそろってしまうのかもしれない。

 さて、検証に入ろう。

 ・瀬戸内寂聴氏(作家)「仏教第一の戒律「不殺生戒」」
 この文章において、瀬戸内氏は仏教の戒律に基づき、殺人のみならず戦争も死刑もいけない、と述べている。その一貫性は実に美しく、厳格であるのだが、どうも気になるのは瀬戸内氏が現代の若年層に対して偏狭なイメージしか持っていないのではないか、ということだ。

 例えば瀬戸内氏は、166ページにおいて、以下の如く述べている。曰く、

 最近の子供は、命の大切さ、重さを、家庭でも、学校でも教えられていないようだ。

 「なぜ人を殺してはいけないの」

 と母親に問うた子供に、その母親は何と答えて言いかわからなかったという話が、新聞に投書されて話題になった。多くの母親が投書者の困惑に共感を示した。八十近くまで生きた私は、それを聞いて心から驚愕してしまった。
 私の世代の者は、少なくとも物心つかない幼いうちに、人はもちろん、動物も鳥も殺してはならないと、誰からともなく教えられていたように思う。……(瀬戸内寂聴[2000]、この部分では断りがないなら同様)

 瀬戸内氏の如き力のある知識人ですら、この程度の「憂国」しかできないのだから哀しくなる。少なくともこのような瀬戸内氏の「憂国」エッセイレヴェルの議論が本当に論理として成立するためには、それは本当に瀬戸内氏の世代の特徴なのか、それとも瀬戸内氏の単なる思い込みなのか、ということにも検証が必要であろう。

 瀬戸内氏はまた、167ページにおいて、《青少年の自殺の増加も只ならぬものがある。彼等は、自分の命さえ軽んじているのである。自分を愛せない人間は他者を愛することも出来ない》と書いている。しかし自殺統計を見ればわかるとおり、我が国において人口10万人に対して最も自殺者が多いのは50歳代であり、青少年(未成年)の自殺は我が国において全世代と比較して低い。瀬戸内氏は、我が国でもっとも自殺している50歳代の人たちに、この文章の如き罵倒をすることが出来るのだろうか。ちなみに現在の50歳代は生涯を通じて自殺率の高かった世代であり、この世代が40歳代だったときは40歳代の自殺が急増している。瀬戸内氏の罵倒がいかに的はずれであるか、ということを証明しているだろう。

 ちなみに瀬戸内氏がらみで付け加えておくと、瀬戸内氏は日経新聞において「生少年の想像力が衰退したから、犯罪や自殺が増えた」ということを述べていたが、このことについては皇學館大学助教授の森真一氏が批判している。森氏は、瀬戸内氏の「想像力衰退説」に対し、《このような主張の裏には、「文字文化のほうが絵や映像の文化よりも高級である」という価値観、または信念が潜んでいると思われます。なぜなら、テレビや新聞で「衰退説」を唱えるのは作家や評論家、学者などのいわゆる知識人・文化人たちが圧倒的に多いからです。彼らは読書によって知識を獲得し、思考を鍛えてきた人たちです。その彼らが、テレビ・映画を観たりマンガを読んだりすることよりも、読書のほうに価値を置いても不思議ではありません》(森真一[2005])などと多方面から痛烈な批判を述べているので、参照されたし。

 ・乃南アサ氏(作家)「「なぜだと思う?」と問い返す」
 乃南氏がタイトルで掲げた如き理論もまた、大筋としては批判すべきものではないと思う。しかしやはりここでも乃南氏の若年層に対する認識の残酷さが見られる。

 乃南氏は171ページにおいて、《今の子どもたちは、特に外見の成長は早いから、ついこちらも一人前のような扱いをすることが多い。だが、その内面の成長といったら、呆れるほど遅滞している場合が珍しくない。情報の多様化、その量の豊富さと、大人が植えつけた「権利」についての強い意識によって、子どもは、言葉だけは巧みに弄するようになったし、見事なほどに物怖じしなくなったと思う。だが、そのことと精神的な成長とは別の問題であることを、大人自身が忘れている》(乃南アサ[2000]、この部分では断りがないなら同様)と書いているのだが、これはむしろ乃南氏が《内面の成長》をいかに捉えているか、ということの問題であろう。そもそも《呆れるほど遅滞している場合が珍しくない》といっているけれども、それがいかなる事象を指すのかがわからない。

 172ページにおける《想像力の欠如。生の実感の希薄化。事実、死ぬことなんて怖くないという子どもが増えているとも聞いた。長生きしようとも思わないし、未来が明るいとも思わない》という物言いもまた然り。そもそも《死ぬことなんて怖くない》《長生きしようとも思わないし、未来が明るいとも思わない》という子供が本当に増えているとしたら、それは《想像力の欠如。生の実感の希薄化》ではもはや済まされない大変な問題が起こっていると考えるべきかもしれない。そもそも我が国において、平成に入ってから一貫して自分の生活を「苦しい」と思う人の割合が増加傾向にある(厚生労働省の国民生活基礎調査より)。乃南氏の如く《想像力の欠如。生の実感の希薄化》という俗流若者論お得意のレトリックで茶を濁せば、間違いなく事態は悪化する。それでもいい、と乃南氏が考えるのであれば、乃南氏こそ《想像力の欠如。生の実感の希薄化》と罵倒されて叱るべきであろう。もっとも、この文章が書かれた時期は青少年と社会階層の問題についてまとまった本や研究がほとんど世に出回っていなかった(例えば、東京大学助教授の玄田有史氏の著書『仕事のなかの曖昧な不安』が刊行されたのは平成13年)から、一概に責めることは出来ないのかもしれないが。

 ・久田恵氏(作家)「問われてからではでは遅すぎる」
 どういうわけか作家が多いな。ついでに言うと久田氏のひとつ前に掲載されている精神科医の野田正彰氏の文章が意外とまともだったことを付け加えておく(野田氏の青少年に対する認識の支離滅裂さについてはこの連載の第32回第61回を参照されたし)。

 さて久田氏の文章に映るのだが、久田氏がこのように述べている時点でもはやアウトである。

 現代の子どもたちは、幼児期から個別に育てられ、喧嘩などで他者とまみれて心身を通して共感性を養う体験を持たずに育っている。学校では陰湿ないじめ関係を泳ぐようにしてわたり、思春期とに友と哲学を語って他者と共に思考を鍛える機会もない。

 毎日のようにバーチャルな世界でのゲームで「狩り」と称して登場するキャラクターを殺して遊び、死体ビデオなどを見てひそかに興奮しているような子どもも少なくない。この時期に至って慌ててなにかを大人が語っても、向こうなのだ。

 こういった子どもの精神生活に悪影響を及ぼすものだらけの中で、その環境に抵抗力を持ち、危険な思春期をサバイバルできるかどうかは、幼児期からどれほど豊かな対話が他者となされ、自尊の心がその子どもの内面にかっちりと形成されているか、もうその一点にかかっていると私は思う。(久田恵[2000]、この部分では断りがないなら同様)

 このように単なる自意識の発露でしかない俗流若者論を読んでいると、我が国においていかに自称「知識人」というのが現実を見極め、対峙する能力を失っているのか、ということを実感する。そもそもこのような奇麗事で社会が良くなるのであれば、誰だって苦労はしない。しかし昨今の状況と照らし合わせてみれば、このような「奇麗事」ばっかり論壇では溢れかえって統計やフィールドワークなどを中心としたリアルな論議が「奇麗事」乱発の中で霞んでしまうことによって、事態が改善されたか、と考えれば、決して改善されていない。しかしそれでも「奇麗事」を乱発できる人たちは、本当に恵まれた人たちなのだなあ、とつくづく思ってしまう。

 とりあえず本文の検証をしてみれば、特に久田氏の現代の青少年に対する認識の残酷さが現れているのが《毎日のようにバーチャルな世界でのゲームで「狩り」と称して登場するキャラクターを殺して遊び、死体ビデオなどを見てひそかに興奮しているような子どもも少なくない》《こういった子どもの精神生活に悪影響を及ぼすものだらけ》みたいなくだりであろう。しかし、こういったものがなかったはずの過去においては、例えば昭和40年代には青少年による凶悪犯罪の件数がピークを迎えている。ついでに言うと我が国において10歳代における殺人率よりも50歳代における殺人率のほうが若干多い。このような傾向は我が国独特である。久田氏はそこにも触れるべきであろう(評論家の岸田秀氏はこの点に触れていた。岸田氏は《日本では、殺人事件は欧米、とくにアメリカよりはるかに少ないとのことであるが、これは、日本人が心やさしいとかのためではなくて、人殺しに対する文化的ブレーキの違いによると思われる》(岸田秀[2000])と述べている)。

 ・藤原智美氏(作家)「また造ればいいじゃん!」
 真打登場である。藤原氏の文章は、もう全部が全部突っ込みどころといってもいいほど残酷かつ支離滅裂で、藤原氏が青少年問題について語ることは一切信用してはならぬ、といいたいくらいだ。ちなみに、藤原氏がタイトルに掲げたのは、藤原氏の答えではないのだが、これは後々触れていくこととする。

 とにかく藤原氏、一番最初にこのように語っているのだから。189ページ1段目から2段目にかけて。

 「なぜ人を殺してはいけないのか」と、面とむかって訊かれた人はむしろ幸運だと思う。そもそも「問い」を可能にする対話じたいが、ほとんど成り立っていないのが現実だからである。奇妙なことに、だれに訊かれたわけでもないのに私たちは、人を殺してはいけない「理由」を探しているのだ。それは子どもたちのもつ理解をこえた「命への感覚」に気づき、私たち自身がひどく不安になっているからにほかならない。たとえばこういう十代の「気分」が存在する。

 「いいじゃん、殺してみたくなったって。本人がつかまる覚悟でやるなら」

 この言葉をまえにしたとき、これまでの倫理、道徳観に根ざした殺してはいけない「理由」は無力だ。……私たちが、あるいはこの社会が「人の命は尊い」などと本当に信じているのかが問われているのだ。(藤原智美[2000]、以下、断りがないなら同様)

 これだけでも事実誤認なのである。そもそも《いいじゃん、殺してみたくなったって。本人がつかまる覚悟でやるなら》なる《十代の「気分」》なるものが本当に存在しているか、ということに関して疑問視されるべきなのは、昨今の殺人統計を見ても一目瞭然だろう。そもそもこの文章、そして藤原氏の青少年問題に関する記述は、そのほとんどが懐古主義という名の自意識の塊、あるいは青少年に対するステレオタイプの蒸し返しがほとんどである。それにしても藤原氏、《私たちが、あるいはこの社会が「人の命は尊い」などと本当に信じているのかが問われているのだ》としたり顔で言うけれども、そのようなことは昨今のマスコミや青少年「問題」に蠢動する政治家や自称「知識人」の醜態を見てから言うべきことだろう。少なくともこれらの人たちは、少年による凶悪犯罪を俗流若者論を垂れ流す好機、あるいは自分の政策の正当性を主張する好機としか捉えていない。このような人たちにこそ藤原氏は問いかけるべきであろう。

 藤原氏の論理はまだ暴走する。前の引用文の直後ではこのようにも述べている。

 いうまでもなく命を奪うのが殺人である。その「尊い」命はどのようにして生まれるのか。男と女の愛によってか?かもしれない。そう信じている人々にとっては、まさに命はそのように誕生するだろう。だが、こんにち命の誕生は遺伝子操作の技術、生殖技術を抜きに語られなくなっている。「尊い」命の誕生は神秘でも感動でもなく「技術」によって支えられている。生殖は愛の分野ではなく医療産業とその技術の側に移管されたのだ。

 もしかすると「かけがえのない」と信じられている命、「地球より思い」などと形容される命が一個につき○○万円でコピーされなおかつ保存される。そういう状況をむかえるかもしれない(私はそうなると革新しているが)。……簡単に作ることが出来るものは、簡単に壊すことも出来る。「殺されても同じものを造ればいいじゃん!」というセリフがきかれるのもそう遠い将来ではない気がする。

 これもまた事実誤認と歪曲に満ちた文章である。例えば藤原氏は昨今の生殖技術の発展に関して《こんにち命の誕生は遺伝子操作の技術、生殖技術を抜きに語られなくなっている》《生殖は愛の分野ではなく医療産業とその技術の側に移管されたのだ》と書いているけれども、それは事実誤認で、現実には多くの子供たちが男女の性行為(=自然受精)によって生まれている、というのは今でも変わらない。昨今行なわれている生殖技術は、例えば子供を産むことのできない体を持ちながらも子供を産みたい、という人(不妊治療)などに対して行なわれているくらいで、本格的な精子ビジネスなどが成立している状況ではない。無論そのようなことが将来的に起こる可能性が全くないとは言い切れないけれども、少なくとも現在では起こっていない。この文章が書かれた5年弱後に当たる現在でも然りである。そもそも藤原氏は出産に関する社会的な状況を無視しており、女性が陣痛などを経験しないで遺伝子操作で体外で胎児を、自然出産により生まれた胎児と同様に周囲の環境に耐えうるほどに成長できるようになるには、気の遠くなるほど時間がかかるだろう。さらに胚の状態から即時にある年齢の状態に達成させるのは生物学的に不可能だし、言語や社会性についても一瞬で身につくものではない。故に《「かけがえのない」と信じられている命、「地球より思い」などと形容される命が一個につき○○万円でコピーされなおかつ保存される》という状況が生まれたとしても《「殺されても同じものを造ればいいじゃん!」というセリフがきかれる》というのは完全に誤りである。藤原氏のアナロジーは安易な科学信仰の単なる裏返しでしかない過剰な科学敵視でしかない。

 藤原氏は先ほどの引用文の次に、以下のようにも述べている。曰く、

 第二次大戦中のアメリカ軍兵士の発砲率はわずか二割だったという。戦闘中、八割の兵士が引き金を引かなかった。人を殺せなかったのだ。が、ベトナム戦争での発砲率は九割に上昇する。シミュレーション技法を取り入れた訓練の成果である。ピンポイント爆撃の現代、それはモニター上の仮想戦の様相を呈して、発砲率という言葉がもはや意味を成さないほど無自覚に殺せるようになった。それは軍隊という特殊な分野だけにとどまらない。ゲームセンターや家庭用ゲーム機器ではその擬似的感覚であふれ返っている。殺人への衝動をゲームによって解消させるということはあるだろう。けれど群の訓練実態を見れば、反対に殺人へのアレルギーをなくすという可能性も否定しきれない。いまの十代はそんな危うい環境の中にいる。

 そもそも発砲率に関するデータの出所はどこだ。出所な不明瞭なデータは最初から疑われて叱るべきであるし、また藤原氏はヴェトナム戦争になって発砲率が上昇した理由を即座に《シミュレーション技法を取り入れた訓練の成果》と答えているけれども、例えば戦争に対する軍人のモチベーションとか、あるいは政府や軍の上層部による圧力とか(かの有名な「アイヒマン実験」の例を引くまでもないだろう)への想像力は働かなかったのか?しかも《それは軍隊という特殊な分野だけにとどまらない》いこうのレトリックは支離滅裂もいいところだ。そもそも藤原氏は《ゲームセンターや家庭用ゲーム機器ではその擬似的感覚であふれ返っている》と書いているけれども、そのようなものがなかったはずの時代のほうが青少年による凶悪犯罪は多かった。藤原氏はそれをどうやって説明してくれるのだろうか。前掲の岸田秀氏が述べている通り、殺人とは極めて文化的な状況に左右される。もし我が国において青少年が人を殺さなくなっており、逆に中高年が人を多く殺すようになっている、という状況があるとすれば(実際にある状況であるのだが)、そのような状況を生み出した「原因」に対する想像力こそ問われるべきだ。藤原氏の文章は、現代の青少年どころか社会に対する偏狭な認識の塊でしかなく、この文章は藤原氏の力量のなさを如実に表しているのである。

 問題の大きかったのはこの4つであり、他にも問題のあるものはいくつかあるのだが、検証は控えておこう。もちろんこの特集が俗流若者論ばかりで凝り固まっていたわけではなく、今日と造形芸術大学大学院長(当時)の山折哲雄氏、作家の重松清氏、ノンフィクション作家の髙山文彦氏の文章は特に読み応えがある。しかし裏を返せば、この深刻な問いかけに、「知識人」が多く集まるはずの「文藝春秋」に14人も執筆して、読むに堪えうるのが先の山折氏、重松氏、髙山氏と、あと岸田秀氏と作家の野坂昭如氏くらいしかないことは深刻な問題ではないだろうか。他の執筆者は、多かれ少なかれ俗流若者論を含んでいる。しかし人生観・自然観・文明観の根本に関わるこの問題に対して知恵を絞って答えられる人が少ないことに、私たちはもっと危機感を持っていいと思う。

 私は、ジャーナリストの櫻井よしこ氏の著書『日本の危機』に引かれている、国語作文研究所所長(当時)の宮川俊彦氏の異見に全面的に賛同する(とはいえ、この宮川氏の発言が引かれている櫻井氏の著書の第10章のこれ以外の部分に、私は全面的に賛同できないのだが)。

 「作文教室をやってますと子供たちからハッとする問いかけをされます。“人を殺してもいいじゃない”“したい事をしてなんでいけないの”という問いかけに、大人はどう答えていくか」

 宮川氏が語る。

 「こういう問いかけをする事はとても大切です。客観しできる人間はすぐには行動に移りませんから。

 子供たちは深い部分で秩序を求めている。哲学を求めていると僕は感じます。対する社会が単にこれはいけないことだというだけでは押さえきれないと感じます。

 子供たちに性の実感、展望をもって生きていく指針、自分が自分であってよいのだという安心感を与えることが出来るか否かだと思います」

 日本の母親は、そして家庭は、子供たちにその前向きの生の実感を抱かせることが出来るか。

 「現代の母親は論理や知識を見につけていても、子供の教育には失敗しています」
 と宮川氏。(櫻井よしこ[2000])

 このようにポジティブに考える人が、どうして我が国には少ないのだろう。我が国は青少年に関するネガティブな情報ばかり溢れ、それらが家庭を、社会を、学校を圧迫している。そして我が国の自称「知識人」は自らの役割を誤認し、ただひたすら「憂国」言説を繰り返してこれらの情報の主たる受け手である人たちの自意識を満たすことしか考えていない。このような状況下において、世の中を変えてくれるような先駆的な言論など生まれるはずもない。

 このような言論の貧困は、執筆者と編集者と読者の共犯関係において起こる。執筆者の認識が貧困であり、態度が甘ければその程度の言論しか算出されないし、編集者にそのおかしさを見破る能力がなければその程度の言論が平気で流通し、読者がその偏向性に気づかずに踊らされてばかりでは執筆者や編集者を助長させることにしかならない。我が国における自称「知識人」の貧困ぶりは俗流若者論にこそ現れる。我々は言論の「死」としての俗流若者論を真剣に見つめるべきかもしれない。

 人々は、疑うことを捨てて、俗流若者論に走るのだろう。

 参考文献・資料
 岸田秀[2000]
 岸田秀「仲間を殺す動物は人間だけ」=「文藝春秋」2000年11月号/「文藝春秋」2000年11月号特集「「なぜ人を殺してはいけないのか」と子供に聞かれたら」、文藝春秋
 櫻井よしこ[2000]
 櫻井よしこ『日本の危機』新潮文庫、2000年4月
 瀬戸内寂聴[2000]
 瀬戸内寂聴「仏教第一の戒律「不殺生戒」」=「文藝春秋」2000年11月号/「文藝春秋」2000年11月号特集「「なぜ人を殺してはいけないのか」と子供に聞かれたら」、文藝春秋
 乃南アサ[2000]
 乃南アサ「「なぜだと思う?」と問い返す」=「文藝春秋」2000年11月号/「文藝春秋」2000年11月号特集「「なぜ人を殺してはいけないのか」と子供に聞かれたら」、文藝春秋
 久田恵[2000]
 久田恵「問われてからではでは遅すぎる」=「文藝春秋」2000年11月号/「文藝春秋」2000年11月号特集「「なぜ人を殺してはいけないのか」と子供に聞かれたら」、文藝春秋
 藤原智美[2000]
 藤原智美「また造ればいいじゃん!」=「文藝春秋」2000年11月号/「文藝春秋」2000年11月号特集「「なぜ人を殺してはいけないのか」と子供に聞かれたら」、文藝春秋
 森真一[2005]
 森真一『日本はなぜ諍いの多い国になったのか』中公新書ラクレ、2005年7月

 B・R・アンベードカル、山際素男:訳『ブッダとそのダンマ』光文社新書、2004年8月
 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 杉田敦『権力』岩波書店、2000年6月
 エミール・デュルケーム、宮島喬:訳『自殺論』中公文庫、1985年6月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』岩波文庫、上下巻、1987年2月

 植木不等式「♪これぞ真のクローンだ節――ラエル『クローン人間にYes!』」=と学会『トンデモ本の世界T』太田出版、2004年6月
 加藤尚武「日本クローン法は欠陥品である」=「中央公論」2003年3月号、中央公論新社
 長谷川真理子、長谷川寿一「戦後日本の殺人動向」=「科学」2000年6月号、岩波書店
 根津八紘「不妊治療のためなら推進すべきだ」=「中央公論」2003年3月号、中央公論新社

 参考リンク
 「kitanoのアレ」から「小泉内閣の実現力(3):国民生活4年連続悪化の実績
 「少年犯罪データベースドア」から「養老孟司先生世代の脳は狂っている
 「自殺死亡統計の概況 人口動態統計特殊報告」(厚生労働省)

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2005年8月27日 (土)

俗流若者論ケースファイル67・中村和彦&瀧井宏臣

 岩波書店から発行されている月刊誌「世界」では、平成15年の一時期に、ライターの瀧井宏臣氏が「こどもたちのライフハザード」なる連載を平成15年11月号まで行なっていた。その内容は、これが本当に「世界」に載っていたものなのか、というくらいで、その反動性は文芸評論家の斎藤美奈子氏にも《岩波書店の『世界』は「進歩的」な雑誌ということになっているのだろうけれど、こと子どもや家庭の問題となると、驚くほど「保守的」になるのがおもしろい》(斎藤美奈子[2004])と突っ込まれているくらいである。この連載は平成16年1月に書籍としてまとめられて岩波書店から発行されており、そこに収録されている分の内容についてはそちらを検証するときに触れることにしよう。今回検証するのは、書籍版には掲載されていないこの連載の最終回となる瀧井氏と筑波大学教授の中村和彦氏の対談「育ちを奪われたこどもたち」である。蛇足だが中村氏は発達運動学専攻である。日本大学文理学部教授の森昭雄氏や、前回採り上げた日本体育大学名誉教授の正木健雄氏もそうだったけれども、つくづくメディア御用達の体育学系統の学者はこんなにも疑似科学に親和的な人が多いのだろうか。私が高校時代までに出会った、「恩師」と呼びたい教師の中に、体育教師が多いので、複雑な気分である。

 この対談は瀧井氏の連載(この連載自体が疑似科学や論理飛躍、懐古主義のオンパレードなのだが。森昭雄氏や澤口俊之氏も当然出てくる!)を瀧井氏がたびたび意見を求めてきた中村氏に報告する形になっているのだが、瀧井氏も中村氏も、子育てや子供の身体についてある種の(残酷な)「幻想」を共有し、そのような態度に少しも疑問を示さない、あるいは彼らが勝手に最近の青少年「だけ」異常になった、と決め付けているので、はっきり言ってここでも論理飛躍や疑似科学や懐古主義のオンパレードが繰り広げられる。

 まず、瀧井氏がかなり最初のほう(209ページ)で発言している内容に、私は笑ってしまった。瀧井氏が「こどもたちのライフハザード」なる連載を始めたきっかけというのは、《自分のこどもが重度のアトピーだったという非常に個人的な理由》(中村和彦、瀧井宏臣[2003]、以下、断りがないなら同様)だったというのである。まあそれだけなら問題がないのであるが、瀧井氏はそれに続いて《唯一の父親として公園デビューして地域のこどもたちに接してみると、アトピーの子が驚くほど多かっただけでなく、無表情だったり、ボーっとして不活発だったり、キレたり落ち着かなかったりする子が見られました。私自身のこどものイメージと全くかけ離れていたことに大変驚いたのです》と発言している。私はこれを読んで瀧井氏は正気の沙汰なのだろうか、と心配になった。《私自身のこどものイメージと全くかけ離れていたことに大変驚いた》からといって、今の子供たちを「異常」と決め付けていい理由はどこにもないのである。

 それにしても瀧井氏と中村氏が共に現在の子供と親を過剰に蔑視し、彼ら自身の世代と親を過剰に擁護しているのが痛いところだ。例えば中村氏は《酒鬼薔薇事件や黒磯ナイフ事件などがあって、文部省(当時)が危機感を募らせていた1998(平成10)年6月30日の中教審の答申では、地域や家庭での遊びの重要性を訴えているのですが、あくまで言葉だけで、どのような処方箋を施すかには至っていない》と発言しているのだが、このような俗流若者論に心酔する人たちは決まって《酒鬼薔薇事件や黒磯ナイフ事件》などといった最近マスコミで報じられた「衝撃的な」事件をもって今の子供たちは異常だとするけれども、例えば過去に起こっていた「杉並切り裂きジャック」みたいな異常犯罪はことごとく無視するし、そもそも少年による凶悪犯罪が昭和45年ごろから一貫して極めて低い水準で推移していることにも触れようとしない。しかも中村氏は《どのような処方箋を施すかには至っていない》といっているようだが、それは中村氏だって然りだろう。中村氏は《遊び》を復活させよ、といっているけれども、それをどのような手段でもって行えばいいのかということを中村氏は少なくともこの対談では一度も提示していない。

 あまつさえ中村氏と瀧井氏が思い込みだけで語っているようなくだりを見つけた。212ページ。

 中村 親の側に危機感がなさ過ぎます。自分が深夜番組を見るのに子どもをひきずりこんでいる。(筆者注:この文章では一貫して子供を《こども》と表現しているのに、この部分だけなぜか《子ども》となっているのはなぜだろう)。大きな社会環境の変化との関係で見ると、24時間営業のファミレスやコンビニに、夜中に赤ちゃんを抱き幼稚園くらいの子の手を引いてやってくる親がたくさんいます。便利だと渇仰がいいとか言われていた文化が、逆に私たちの生活を崩壊させ、生活パターンの乱れが生体リズムを崩しています。

 瀧井 私がこどもの時代には、親の生活とこどもの生活を峻別して、「早く寝なさい」「テレビを消しなさい」というような、こどもを尊重する文化があったと思います。それがどうしてこんなに壊れてしまったのでしょうか。

 中村 勉強して成績が上がればゲームを買ってあげるとか、試験が終わったから今日は遅くまでテレビを見てもいいよというように、大人の「知的学力」への偏向がこどもの生活を乱しています。……

 突っ込みどころ満載で、どこから突っ込んでいいのか困るのだが。とりあえず、中村氏も瀧井氏も今の子供たちを「異常」と決め付けて悦に入っていることは触れておこう。突っ込む順番がわからないので文章の最初から順番に検証することとする。中村氏は《自分が深夜番組を見るのに子どもをひきずりこんでいる》といっているけれども、これは明らかな「決めつけ」であろう。またこの直後の《夜中に赤ちゃんを抱き余地円くらいの子の手を引いてやってくる親がたくさんいます》という発言にも、具体的な数値データが出ていないし、親の職種や社会階層などにも触れられていない。おまけに中村氏がどこで「観測」を行なったのかも触れていない。都市部なのか?郊外なのか?農村部なのか?中村氏がこれが科学的に実証されたデータと言い張るのであれば、そこまで開示しなければ習いのだが。瀧井氏も同様。《親の生活とこどもの生活を峻別して、「早く寝なさい」「テレビを消しなさい」というような、こどもを尊重する文化があったと思います》と発言しているけれども、なぜこれらが《こどもを尊重する文化》と瀧井氏が考えているのかがわからない。中村氏の発言に移るけれども、中村氏は更に《大人の「知的学力」への偏向がこどもの生活を乱しています》と発言するけれども、それ以前の発言の内容がなぜ《大人の「知的学力」への偏向》へとつながるのか、私には皆目わからないのだが。おそらく私の不勉強・無学のせいだろう。

 同じ212ページで、瀧井氏は《睡眠について警鐘を鳴らす数少ない研究者のひとりが東京医科歯科大学の神山潤先生です。「これはもう人体実験だ」とかなり激しい言葉で警告していらっしゃいます》と発言している。また来たか、《人体実験》。この手の人たちはなぜこのような残酷な言葉を使うのか。これでは大人たちが「ある悪意」を持って子供たちを「異常」にさせているかのごときイメージを抱かせてしまうのではないか。これは陰謀論ではないのか?いい加減この手の学者は《人体実験》なる言葉を安易に使うのをやめたらどうか?警鐘を鳴らしたい気持ちは分かるが、もっと適切な言葉を見つけるべきだろう。ついでに言うと「人体実験」という言葉は自分の世代を免責するための言葉でもある。

 213ページでは中村氏、《テレビゲームは自分で考えているように見えるが、あくまでも仕組まれたプログラムの範囲内であり、結果的にはコミュニケーションに至っていない》と発言している。これを額面どおり受け取れば、ある程度のルールが存在した盤上のゲームやカードゲーム(将棋や双六や麻雀やトランプなど)ですら許されないことになる。これらのゲームもまた《あくまでも仕組まれたプログラムの範囲内》で行っているものに過ぎないからである。中村氏がここまで強弁するのであれば、普通のカードゲームとテレビゲームにおけるパズルゲームの、思考に関する違いを説明していただきたいのであるが。

 214ページにおける瀧井氏の発言にも大いに疑問を持つ。

 瀧井 乳幼児に母親とかかわり、兄弟や友だちと遊び、その後大人社会にかかわることによってこどもは発達するというのが「サル学」の常識であり、ヒトでも当たり前だったわけですが、それがいつのまにか忘れ去られ、軽視されている。乳幼児期から始まる人間関係の学習不足が、学童期以降、思春期のさまざまな問題行動――キレる、いじめ、ひきこもりなどといった異変の引き金になっているのではないかという疑いを、今回の取材で強く持ったわけです。

 このような発言を見る限り、「世界」もまた澤口俊之や正高信男といった疑似科学者に接近してしまうのか、と嘆きたくなる。少なくともここで瀧井氏が言っていることは、澤口氏が「諸君!」平成13年8月号の論文で、ヒトは大昔から大脳を発達させるための子育てを戦略として行なっていた、それが昨今の社会状況によって崩壊してしまった、という擬似社会生物学と全く等しいのである!しかも瀧井氏ときたら、《思春期のさまざまな問題行動――キレる、いじめ、ひきこもりなど》などと軽々しく語る。もう何度も言ってきたのではっきり言おう。《キレる》はもはや「政治」の言葉だ。「ひきこもり」は昭和55年ごろから存在した。ついでに言うとその前兆といわれている「退却神経症」や「スチューデント・アパシー」などの《問題行動》は更に前、昭和45年ごろから存在していた。いじめに関しても現在に名って急激に問題化したという事実はない。

 しかも瀧井氏と中村氏が互いに矛盾したことを言っているのになぜか同意している部分もある。214ページ。

 瀧井 自分でも子育てをしていて、非常に苦しいのです。最初は親としての力量が低いからだと思ったのですが、それだけではなく、こどもを育てるゆりかごが消失し、いつも親子が一対一でこどもと向き合わざるを得ないからではないのか。そのけっか、こどもをしばり、かつこどもにしばられています。実際に子育てをしてみて、教育評論家の尾木直樹さんが言われた「母子カプセル」の意味がわかったのです。

 中村 ゆりかごがなくなって、虫かごになった。虫かごはいつも覗けるわけです。中の虫は、どうやって気に入られるかにばかり気を使って、かごの外の世界に出られない。それがいまのこどもたちです。

 瀧井氏よ反問せよ!瀧井氏の言っていることは大筋で正しいのだが、中村氏ときたら《虫かご》なるアナロジーを用いて《どうやって気に入られるかにばかり気を使って、かごの外の世界に出られない。それがいまのこどもたちです》などと言い放っているけれども、瀧井氏の言い方が正しいのであれば《虫かご》に入っているのは親子共々ではないか?しかも中村氏が、《それがいまのこどもたちです》などといっている部分を読んでいると、中村氏の現代の子供たちに対する残酷な考え方が見て取れる。

 だから中村氏が215ページにおいて、瀧井氏の《ひきこもりという現象は、失敗の一つの例として捉えた方がいいのでしょうか》という質問に対して《その時点の現象としてみれば、失敗でしょう。けれど、ひきこもっていた子が、ひきこもらないような気持ちになれるとか、少しずつ心を開いていくところに本当の人間関係が生まれてくると思います》と答えていてももはや驚かない。このような思考もまた、中村氏が「ひきこもり」を現代の青少年に特有な病理的な現象と考えているからだろう。少しは「ひきこもり」に関する研究、特に精神科医の斎藤環氏の議論や研究でも参照してみろ、と愚痴をこぼしたくなる。しかも中村氏が金科玉条の如く掲げる《本当の人間関係》というけれども、それはなんなのか?このような言葉は、石原慎太郎氏や石堂淑朗氏が平気で振りかざす「本質」という言葉と響きも意味もまた大変似通っている。「世界」は俗流若者論なら急速に保守化化してもいいのだろう。

 あまつさえ中村氏ときたら、最後のほう(218ページ)でも《大人に危機感を持ってもらうことが大切です。たぶん育児雑誌も「きれいごと」ばかりでしょう。逆に「いまのこどもたちはこんなに追い込まれた生活をしていて、このままではあなたのお子さんにはこんなところにこういう影響が出ますよ」と危機感を煽らない限り、なかなか親は問題を直視しにくい》とまで発言してしまっている。私はもう絶望している。所詮中村氏は「この程度」だったのか、ということを(いや、大体予想はしていたが)。中村氏は、いかに我が国において青少年問題視言説ばかり売れるか、ということをもっと直視すべきではないか。中村氏はその状況に屋上屋を架することしか考えていないようだが、これだけ青少年問題視言説ばかり溢れているのに一行に状況が改善されない、というのであれば、まずやり方を変えるべきだろう。「もっと青少年危機扇動言説を!」では、もっと親たちを追いつめるだけだ。それどころか我が国にはびこっている子育て言説(中村氏はこれらも《きれいごと》として扱うのだろう)の大半が、マスコミが興味本位で採り上げる青少年問題を貴店としているのであるが。中村氏のかくのごとき態度を見ていると、故・山本七平氏のフィリピン戦論を想起してしまう。

 ちなみに山本氏は、大東亜戦争時の日本軍がフィリピンに兵を送る際、上層部が大量の兵を送ることばかり専念し、終いには老朽化した船に3000人もの兵士を詰め込んでフィリピンに送ったと述べているが、そのような船は当然の如くバシー海峡で簡単に落とされてしまう。しかも撃沈するまで15秒であるから、かのアウシュヴィッツをも上回る(!)殺戮システムが登場してしまうのである。この状況を、山本氏は以下のように述べている。

 ……バシー海峡ですべての船舶を喪失し、何十万という兵員を海底に沈め終ったとき、軍の首脳はやはり言ったであろう、「やるだけのことはやった」と。
 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探究し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方項に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するために投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして事故を正当化しているということだけであろう。(山本七平[2004])

 そして中村氏が瀧井氏が青少年問題視言説を散々振りまいても一向に状況が改善されずに、ネタが尽きてしまったら、瀧井氏や中村氏も「やるだけのことはやった」と言うのだろう。

 そして218ページ、最後の発言。

 中村 ……大学生の生活を調査したことがあるのですが、朝から一日中ひとこともしゃべらない人もいます。約800人を対象に無記名のアンケート調査をしたところ、5%、40人の学生がそうでした。食事も昼と夜は絶対に友だちと食べない。クラブ活動やサークルは一切やらない。そういう人たちは、かかわりたくないから、アルバイトもしないのです。講義が終わるとビデオ屋でビデオを借り、「ほか弁」を買って帰る。コンパも成り立たないのです。新歓コンパも合コンもなし。大学祭も出典以外は成り立たない。大学祭=休みの日(笑)。

 瀧井 卒業しても、社会生活を遅れるんでしょうかね。

 中村 まともに子育てなんかできないでしょうね。知的なマニュアルに頼っていけるところだけで生きているから、生活体験が無きに等しい。本当の意味のかかわりを知らず、自分で何かを考えたり工夫したり、総合的にものを考えたりといったこともできないのです。まさにライフハザードです。

 瀧井 ゾッとするような話です。乳幼児の次は、大学生のライフハザードを取材しなければなりませんね。今日は、どうもありがとうございました。

 私は、瀧井氏が《大学生のライフハザード》を取材する前に、まず中村氏と瀧井氏のモラルハザードについて反省すべきだと本気で考える。なぜならこの最後のやり取りは、単なる「酒場の愚痴」、更に言えば彼らが思い込みでしか青少年問題を捉えていないことを如実に示しているのだから。

 これでいいのだろうか。

 中村氏も瀧井氏も、はっきり言って子供たちをヴァーチャル・リアリティーでしか捉えていない。ここで言うところの「ヴァーチャル・リアリティー」とは、彼らが好んで用いる子供たちに対するステレオタイプであり、あるいはこの文章の中で飽きるほど出てきている《本当の意味のかかわり》だとか《本質》みたいな幻想である。瀧井氏も中村氏も、彼らは自分が青少年に対して真剣に向き合っていると考えているのかもしれないが、本当はまんざらでもないのではないか。要するに、瀧井氏も中村氏も、自分の世代と自分の親と自分の子供はみんな正しいが、今の親と子供はみんな異常である、という残酷な認識で共通しているのではないか。だからこのような疑似科学や論理飛躍や我田引水や懐古主義も平然と語れるのではないか。このような人たちが、どうして青少年問題に関して真剣に言えるといえるのだろうか?

 さて、私が、この対談のみならず、瀧井氏の連載全体を俯瞰して感じたのは、瀧井氏が極めて残酷な「自己責任論」に依拠しているということだ。ここで言うところの「自己責任論」とは、いうなれば親に対する「自己責任論」で、子供が(実際はマスコミが過剰に問題化している)ある問題を起こせば、それは全て親のせいだ、という議論である。

 今、青少年言説の大半が「自己責任論」化している。要するに、子供がこれこれの問題を起こすようになったのはこのような子育てを行なったからだ、という言説である。最近では、滝意思にも見られるとおり、この「自己責任論」に疑似科学が混入され、更にこのような議論は勢いを増している。しかし、このような言説は、子供たちは親子関係だけでなく、例えば学校や友達の関係でも成長していく。更に言えば子供たちは家庭の経済的な影響の側面、更にはマスコミや情報雑誌などが喧伝するメディア的な側面にもまた影響される。それらを一切無視して、青少年が「問題」ばかり起こすようになったのは親が無能だからだ、という議論が勢いを増しているのである。このような議論は往々にして、やがては今の親はみんな無能だ、という差別につながる。瀧井氏と中村氏のやり取りはそれを如実に表している。

 中村氏や瀧井氏の振りかざしている《本当の意味でのかかわり》みたいな幻想は、はっきり言って例えば「ひきこもり」などのコミュニケーション不全からくる状態を改善することはできないだろう。何故なら、このような《本当の意味でのかかわり》を煽るような言説が、やがては人とコミュニケーションできるような人が偉い、いつも一人でいるような人は病的だ、ということにコンセンサスを与え、コミュニケーション能力に対する差別が起こるからである。一部の「ひきこもり」の人には、そのようなコミュニケーション能力差別に苦しんでいる人が存在する。

 青少年言説がことごとく「自己責任論」化すると、全ての親子は言説によって「監視」される状況になる。現在の俗流若者論/子育て論をめぐる状況にこそ、まさしく社会が子供を、親を、そして社会を「監視」したがる状況を見ることができる。平成17年8月25日付の産経新聞社説にも、子供が犯行に向かうシグナルを親や教師や地域社会は見逃すな、という論調が掲載されていた。ここで親や教師や地域社会に求められるのは、監視カメラとしての役割である。しかしそのような状況を巻かされている親や教師や地域社会が、空疎な言説ばかりを基盤にしており、例えば暴力や不満の捌け口を許すような環境を整えていなかったら、子供たちはどこにも行き場所を見つけられなくなり、鬱屈した不満を抱えたまま暴走する、あるいは自殺するだろう(これもまた極めて深刻な「ひきこもり」の人に見られる状況である)。そのような言説状況を考慮してこそ、地域社会の再生は行なわれるべきだ。青少年問題の安易な「解決」を起点にしては、青少年にとって息苦しい社会を再生産する以外の成果はない。

 果たして瀧井氏や中村氏に、そのような覚悟、それどころかそのような認識があるか!我々が撃つべきは、瀧井氏や中村氏の如く自分を理想化して今の親たちの「自己責任」を過剰に煽り立てる、俗流若者論である。

 参考文献・資料
 斎藤美奈子[2004]
 斎藤美奈子『物は言いよう』平凡社、2004年11月
 中村和彦、瀧井宏臣[2003]
 中村和彦、瀧井宏臣「育ちを奪われたこどもたち」=「世界」2003年11月号、岩波書店
 山本七平[2004]
 山本七平『日本はなぜ敗れるのか』角川Oneテーマ21、2004年3月

 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 斎藤環『「負けた」教の信者たち』中公新書ラクレ、2005年4月
 広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書、1999年4月
 森真一『日本はなぜ諍いの多い国になったのか』中公新書ラクレ、2005年7月

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2005年8月25日 (木)

俗流若者論ケースファイル66・小林ゆうこ

 それにしても、我が国には俗流若者論が得意とする、昨今になって急激に青少年による犯罪が凶悪化したとか、あるいは青少年における規範意識が弱くなった、とかいうレトリックを平気で引いていい気になる自称ジャーナリストやノンフィクション作家がこんなにも多いのだろうか。もちろん多くのジャーナリストやノンフィクション作家は良心的だけれども、たまに俗流若者論を言いふらしては世間に媚びて自分だけは安全だ、正常だと思いこんでいる「善良な」人たちの耳目を集めていい気になる人が出てくるのだから困る。最近になってこのような悪しき傾向に乗ってしまった人には、例えばノンフィクション界の古参である柳田邦男氏が上げられようが、柳田氏は自分の経験した、あるいはマスコミが興味本位で取り上げたがる「今時の若者」の行動に関して全てを携帯電話とインターネットなどのメディアのせいにしては論理飛躍・牽強付会・狼藉を加えていて、これが柳田氏の本なのか、と驚いてしまうほどのないようだったけれども、安易に俗流若者論に依拠したがるジャーナリストやノンフィクション作家は他にも結構いる。

 今回検証するのもそのような人の一人だ。書き手はノンフィクション作家の小林ゆうこ氏(声優の小林ゆう氏ではない)、記事は「「母子密着」男の子が危ない」(「新潮45」平成15年10月号に収録)である。また「新潮45」である。つくづく「新潮45」はこのような記事が好きだ。そしてこの記事は、具体的に言えば疑似科学系の俗流若者論の検証抜きのオンパレードである。

 そもそもこの記事、書き出しの118ページにおいてこのような文章が書かれているのだから救いようがない。

 少年犯罪が年々兇悪化して、「キレる17歳」が流行語になった。一歩間違えばわが子も犯罪の被害者か加害者になってしまうのではないか。その時に槍玉に上げられるのは母親と相場が決まっている…。(小林ゆうこ[2003]、以下、断りがないなら同様)

 それは誤解、あるいは事実誤認というものだ。犯罪白書を読めばわかるが少年による凶悪犯罪は年々減少しており、昨今になって青少年による凶悪犯罪が多発するようになったかのごとき錯覚が小林氏を含めて多くの人に共有されているのは、警察の方針転換ということもあろうが、基本的にはマスコミが少年による凶悪犯罪に対して「騒ぎすぎる」ようになったことが挙げられよう。そもそも小林氏、《「キレる17歳」が流行語になった》と安易に言っているけれども、昔の少年による凶悪犯罪を見れば、今だったら絶対「キレる」とか「逆ギレ」とか言われるような事件はたくさんあるし、このような「意味付け」は普通であれば殺人事件の中ではありふれた、例えば諍いが過ぎて相手を刺殺してしまった、というような犯罪を、わざわざ「キレる」「逆ギレ」みたいな言葉で装飾することで昨今の青少年に特有の犯罪として認識されるようになった、というのが正しい認識であろう。

 小林氏は、この文章の中で安易に疑似科学系の俗流若者論を濫用するのである。まず120ページ、《テレビにやられた子ども》という節において日本体育大学名誉教授の正木健雄氏の理論を紹介するのだが、正木氏の理論がもう噴飯ものだ。

 「72年は子どもの問題を考えるときのターニングポイントです。実はその年から死んで生まれてくる男の子の割合が急に増えたのです。当時はテレビの出荷高が頭打ちの横ばいになり、リモコン式のカラーテレビが出回ったので、原因は電磁波ではないかと考えています。72年に子どもたちの“手が不器用になる”調査結果が出て、74年に“目の悪い子”が増え、中学の不登校が減少から増加に転じました。75年から“背骨グニャ”“ボールが目に当たる”“背筋力が弱い”、78年“ちゃんと座っていられない”“朝からあくび”“朝礼でバタン”。すべて脳系統の問題ですね。85年からテレビゲームが流行すると、小学生の不登校が増加しました。子どもたちはテレビやゲームにやられたと、私は思っています。メディア環境によって体の調子が狂わされたのです」

 このような思考停止や論理飛躍、牽強付会に満ちた文章を読んでいると、《メディア環境によって》頭の《調子が狂わされた》のは、むしろ正木氏ではないかと思えてくる。まず正木氏はリモコン式のカラーテレビが普及してから男子の死産が増えた、といっているけれども、まずそれより過去のデータ、そして最近のデータも示すべきだろう。もし72年だけ急増して、その後は一貫して減少しているのであれば、正木氏の論理はそこで崩壊するし、また過去のデータを示さないのもアンフェアーである。更に言えば正木氏は電磁波によって死産が増えるというけれども、電磁波が原因というならばなぜ女子の死産が増えないのだ?また堕胎についても検証したのであろうか。更に言えば正木氏はこの頃から問題化した子供たちの体にかかわる問題(しかし正木氏は「この時期に増加した」といっているだけで現在はどうなっているか、ということは全く述べていない。正木氏は最初からテレビやゲームを敵視する目的でこのようなことを言っているのではないか、と疑われても仕方あるまい)を《すべて脳系統の問題です》といっているけれども、なぜそう言い切れるのか?このような脳還元主義には、むしろ思想的な批判が必要だろう。このような脳還元主義は、この連載で何度も示したとおり、「健全な心は健全な脳に宿る」みたいな錯覚を起こさせることによって、「今時の若者」の如き「異常な脳」を生み出した「原因」を排除しなければならない、という議論につながりかねない(というよりもつながっている)し、更に言えば彼らの言うところの「脳の異常」が所詮は彼らの私憤に過ぎないこと、またそのような疑似科学という補助を得て個人の私憤がそのまま国家による「対策」につながってしまうこと、もう一つ言えばそのような説明では少年による凶悪犯罪が減少していることなど、更にしつこく言えばそのような脳還元主義によって貧困とかあるいは怨恨などといった社会的な背景がことごとく隠蔽されてしまうことなど、問題は極めて多い。名誉教授ほどのポストについている正木氏であれば、そのようなことに対する想像力を働かせることはできるはずだが。それともテレビやゲームを敵視するためなら想像力など要らぬ、ということなのか?

 更に正木氏は大脳前頭葉未成熟というストーリーにも触れてしまう。この部分についても、具体的な数値データを正木氏は提示しようとしないし、小林氏もまたそれを求めるようなそぶりはしない。このような文章は、疑似科学とそれに疑いを持たないジャーナリストや編集者などの共犯関係によって生まれる。たとい疑似科学者だけいても、彼の妄想だけで社会に表出しないならば問題は生み出さないが、この手の疑似科学は最近になってニーズが高まっているので、自分こそが青少年問題の「本質」を知っているという曲学阿世の徒が続出してしまう可能性も否定できない、というよりも最近の我が国はそのような状況に陥っている。

 ここではかの曲学阿世の徒・北海道大学教授の澤口俊之氏も登場する(122ページ)。当然の如く小林氏が引くのは、《PQの障害》である。《PQ》の説明に関してはこの連載の第48回でやったのであまり詳しくは説明しないけれども、《PQ》とは「Prefrontal Quotient」すなわち「前頭前知性」の略称であり、これが障害を起こすと不登校にも家庭内暴力にもひきこもりにも「恥知らず」にもなるんだとさ(ちなみに最近《PQ》という言葉は「HQ(=Humanity Quotient;人間性指数)」という言葉に変容している。正高信男氏もそうだが、この手の疑似科学者の好きな言葉の一つに「人間性」がある)。この手の疑似科学者は、自分が不快に思う問題の全てを「脳」に還元させてしまうという態度にどうして疑いを持たないのだろうか。問題の全てを「脳」に押し付けるということは、すなわちレイシズムであって、あいつは俺たちとは違って脳が異常なんだ、だからあいつらは俺たちが不快に思う行動をとるんだ、という残酷なイメージの押し付けである。澤口氏は森昭雄氏と並んでそのパイオニアだ。要するに現代日本にはびこる俗流若者論と言う名のレイシズムを生み出した人として、澤口氏と森氏の名前を決して外すことはできまい。

 案の定、澤口氏は《それら困った若者たちに共通するのは母親に過保護に育てられたという点です。ことに母親が敏感、几帳面な性格である場合に、子どもは前頭連合野の知性PQの障害に陥る》と書いている。では澤口氏に訊きたいのだが、澤口氏は《それら困った若者たち》について、彼らが本当に《母親に過保護に育てられた》のか、ということを調査したのか?沢口氏の著書や論文などを読んでいる限り、そのようなデータは全く見当たらず、全て「「今時の若者」はみんな母子密着で育てられた」という澤口氏の思い込みで書いているような気がしてならないのである。蛇足だけれども、澤口氏は《ことに母親が敏感、几帳面な性格である場合》は危険である、としているけれども、そのような《敏感、几帳面な》母親たちを疑似科学によって煽っているのは果たして誰なのだろうか。本当は虚構である「少年犯罪の凶悪化」とか「キレる17歳」などといったイメージを垂れ流しているマスコミや自称「識者」であり、澤口氏もまさしくその中に入る。澤口氏は自分の言論に対する反省をいい加減したらどうか。

 そしてこのような疑似科学記事が往々にしてたどり着く結論が、父親の育児参加である。この文章の結論においても、以下のように書かれているのである。126ページ。

 社会が“母子密着”を防ぐシステムを持たなくては、不登校の子どもたちは100万人いるといわれる“ひきこもり”予備軍と化すかもしれない。いや、“母子密着”そのものが、すでに社会からひきこもっている状態にも見える。密着する母と娘が“一卵性母娘”と呼ばれ、通りを闊歩するのに比べ、母と息子の今日依存は家庭というカプセルで日々育まれる。父親の存在をありのままに望む時代を、私たちは初めて迎えている。

 はっきり言って私は、「母子密着の子育てをすると青少年問題が深刻化するぞ、子供がフリーターや「ひきこもり」や無業者になってしまうぞ、だから父親が子育てに参画しろ」という言説は、害悪しか生み出さないと思っている。このような言説は、子供たちを過度に政治化してしまうことによって、一人一人のリアルな現実を政治の下に取捨・希釈してしまう可能性を持つことのみならず、虚構にまみれた青少年言説に借りた垂れて、そのような青少年問題の「防止」のために父親が始めて子育てに参画する、という状況に私は不気味さ以外のなにものも覚えない。いまだ20歳、子供を持っていないどころか妻も持っていない、更には実家暮らしである私が言えることではないのかもしれないが、やはり子育ては楽しいほうがいいのではないか。

 「中央公論」平成15年5月号は、「少子化日本――男の生き方入門」という特集を組んでいるが、この特集は少子化社会における新しい父親像を模索しよう、というポジティブな感情に支えられている。詳しくは特集を読んで欲しいのだが、やはり実感することは青少年「問題」をベースにした扇動言説は人々を不安に駆り立てるだけで何も生み出さないのに対し、子育てに対してポジティブに取り組むことはやはり楽しそうだ、ということだ。自分を母親と父親の両方の役割を持った新しい親として生きることを実践している作家の川端裕人氏の文章や、育児休暇中の父親による座談会には、どこにも青少年問題に対する不安扇動言説は出てこない。しかし、これこそが子育て言説のあるべき姿ではないだろうか。

 世の中に流通している扇情的な青少年言説は、青少年のみならず多くの親たち、教師たちもまたゲットーに追いつめようとしている。そのような言説の暴走を止めるのがマスコミや知識人の役割だと思うのだが、世の中は移ろいやすいもの、なのかどうかはわからないが、少なくない良心的な知識人の働きかけも俗流若者論市場の中では無視される。このような状況を少しでも変えたいと思う人こそが、やがては日本を変えるのだと思う。青少年問題を過剰に、興味本位で採り上げている内が華であろう。そのような思考停止を繰り返していると、それこそ我が国は滅びるのである。

 参考文献・資料
 小林ゆうこ[2003]
 小林ゆうこ「「母子密着」男の子が危ない」=「新潮45」2003年10月号、新潮社

 広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書、1999年4月
 宮崎哲弥、藤井誠二『少年の「罪と罰」論』春秋社、2001年5月
 吉川浩満、山本貴光『心脳問題』朝日出版社、2004年6月

 大津和夫、重石稔、平野哲郎「子どもの笑顔と過ごす豊かな時間」=「中央公論」2003年5月号、中央公論新社
 川端裕人「マーパーの誕生」=「中央公論」2003年5月号、中央公論新社

 参考リンク
 「少年犯罪データベース

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