『退化する若者たち』著者・丸橋賢氏への公開質問状
〈読者の皆様へ〉
平成18年5月のPHP新書の新刊として、丸橋全人歯科院長・丸橋賢氏が、『退化する若者たち』なる本を上梓しました。
しかしこの本は、同種のあらゆる本と同じように、現代の青少年に対して劣っている存在とレッテルを貼り付け、またいかに現代の青少年の生活環境が「生物学的に異常」であり、著者の理想とする一昔前の――つまり、著者が子供だったころの――生活環境が「生物学的に正常」であるか、ということを、論理の飛躍や青少年問題に対する乏しい認識で持って「正当化」するような本です。
本来であればこのような本は、このブログやbk1書評などで批判的に採り上げる類のものです。しかし今回は、あえて公開質問状という体裁を採らせていただいております。
なぜこのような行為に及んだかということに関する理由は次のとおりです。第一に、丸橋氏は本書の中において、「ニート」「ひきこもり」「不登校」などという形で表現される現代の若年層のいわゆる「無気力症」を、歯の噛み合わせの力の低下から来る「退化病」であるとしきりに表現しております。「退化」だけ、あるいは「病」だけ、というのはいくらか見たことがあるのですが、それが結びついてしまった例はかなり稀少です。しかもしきりに現代の若年層を「退化病」と表現しており、類書の中でもレイシズム(人種差別)の割合は高い部類に属しております。
第二に、本書が青少年に対する「治療」の口実として使われるのではないか、ということです。本書の中においては、青少年の「治療」に「成功」した事例のみが列挙されている上、巻末の著者プロフィール(カバーのほうではない)には著者への連絡先が掲載されています。もしかしたらこのような本は、「ひきこもり」や「不登校」の人たちに対する社会的な支援を否定し、また「ニート」問題から労働経済問題を引き離し、医学的な「治療」の強制につながってしまうのではないか、と私は危惧しております。
丸橋氏には、このブログの記事の内容に、私への連絡先を書き加えた「公開質問状」を、平成18年5月23日付でクロネコメール便にて、私もかかわっている本である『「ニート」って言うな!』(光文社新書)、および、私、そして貴戸理恵氏(東京大学大学院博士後期課程在籍)や雨宮処凜氏(作家)などのインタヴューやエッセイ、及び斎藤環氏(精神科医)の論考が掲載されている「ビッグイシュー日本版」平成18年5月15日号を同封して送付しており、24日に到着する予定です。
読者の皆様のご理解のほど、よろしくお願いいたします。
(5月24日補記:ご指摘により、誤字を訂正しました。丸橋様、丸橋全人歯科の関係者の皆様、及び読者の皆様に深くお詫びを申し上げます。)
――――――――――――――――――――
丸橋全人歯科 院長 丸橋賢様
はじめまして。
東北大学工学部建築学科4年の、後藤和智と申す者です。
突然のお手紙で失礼いたします。
本日は、丸橋様が本年5月18日に出されました、『退化する若者たち』(PHP新書。以下、「同書」と表記)の内容に関しまして、それに強い遺憾の意を示すとともに、同書におきまして「退化する若者たち」と批判されている世代と同世代の人間として抗議する目的で、筆を執った次第であります。
なお、この質問状は「公開質問状」という体裁をとっており、これと同内容の文章が、私のブログにて掲載されます。もし丸橋様がご返答されるのであれば、全文を引用してもかまわないか、あるいは要旨だけにしていただくか、あるいは掲載をお望みにならないかということを明記されると幸いです。
なにとぞご容赦ください。
本題に入ります前に、私のことについて簡単に述べさせていただきたいと思います。
私は昭和59年(1984年)、岩手県釜石市――かつて新日本製鐵の企業城下町として栄えた町で、新日鐵釜石のラグビーチームは、地域リーグとなった今でも有名です――に生を受けました。そして、福島県いわき市(~生後11ヶ月、および小学6年~中学卒業)と宮城県仙台市(生後11ヶ月~小学5年、および高校1年~)で育ちました。現在、冒頭にも示しましたとおり、東北大学工学部で建築学を学んでいます。
また、最近は、青少年問題に関して物書きとして仕事もしております。そもそも私が青少年問題に興味を持ったのが平成12年(2000年)、いわゆる「17歳」がキーワードとなった年です。そしてそこにおける青少年に対する「語り口」への疑問から青少年問題言説の研究を個人的に行うようになり、大学に入ってからは新聞や雑誌に投稿し、平成16年(2004年)11月――大学2年のときです――に、青少年問題言説研究をテーマとしたブログ「後藤和智事務所 ~若者報道と社会~」を開設しました。後に「新・後藤和智事務所 ~若者報道から見た日本~」とリニューアルし、現在に至ります。
そもそも私が青少年言説の「おかしさ」に本格的に気がついたのが、平成13年における「荒れる成人式」報道です。それ以来、特に成人式に関しては強い関心を持ち続け、平成17年と平成18年に2年にかけて、仙台市成人式実行委員会として、仙台市の成人式の企画・運営にかかわってきました(平成17年は副実行委員長)。いずれも大成功を収めました。
平成18年には、本田由紀氏(東京大学助教授)にお誘いいただいて、初の著書となる『「ニート」って言うな!』(光文社新書)を、本田氏と、内藤朝雄氏(明治大学助教授)との共著として出版しました。それ以降、主としていくつかの青少年関係のNPOからイヴェントやトークショーのお誘いをいただいて、その都度参加しております。今年6月には、2冊目の著書が、これも10数名の共著ですが、双風舎から出る予定です。
さて、これより本題に入ります。
丸橋様は、同書において青少年における不登校や「ひきこもり」の増加、および「ニート」の増加に関して、その原因は社会的なものではなく、むしろ若年層における「生物学的な」変化であるとしております。
しかし、青少年問題言説に深くかかわってきた私としましては、なぜ丸橋様がそこまで自らの理論に
自信を持てるのか、ということが理解できないのです。
・青少年問題をめぐる認識について
そもそも同書における、丸橋様の青少年問題に関する認識が極めて杜撰なのではないか、ということです。
第一に、丸橋様は、冒頭(3ページ)において、以下のように書かれております。曰く、
―――――
「日本人の活力は低下しているのではないか」と、危惧している人は多い。
とくに若者に対してである。若いくせに元気がなく、動きが鈍く、反応が遅く、耐久力がなく、疲れやすい。さらに、やる気がない。精神的に虚弱で、人間関係や社会の関係から破綻し、脱落する者が増加している。
不登校生徒やニートと呼ばれる働かない若者が社会問題となって久しい。
しかも、活力や能力の低下という状況を超えると、人格の崩壊に進んでしまい、暴力や非行、犯罪をひき起こす例も多くなっている。その犯罪の内容も、きわめて非人間的なものが多い。
―――――
と。
少なくとも、この部分だけに関しても、たくさんの事実誤認が確認できます。
例えば、故・小此木啓吾氏(精神科医)が、「モラトリアム人間」なる造語を発表したのが、昭和46年(1971年)のことで、その「モラトリアム人間」の心理構造が我が国のあらゆる年代・階層に共有する性格である、と発表したのが昭和52年(1977年)です(注1)。その年代においていわゆる「若者」と呼ばれていた人たち(つまり、昭和25年~35年ごろに生まれた人たちです)は、丸橋様の定義するような「退化病」が進行していた世代の範疇から外れています。
さらに言えば、古代エジプトの壁画から「今時の若い者は…」という趣旨の文章が発見された、とも言われますから、大人たちが、同時代の青少年を嘆いていた、というのは、洋の東西と時代を問わず普遍的に存在するものでしょう。
しかしながら、現代の青少年言説は、そのような、いわば「伝統的」な青少年不信の範疇からさらに逸脱しているようにも思えます。残念ながら、丸橋様の青少年論も、この「逸脱した青少年言説」の領域に踏み込んでいるように思えます。これに関しては後述します。
閑話休題、本題に戻ります。さて、近年騒がしい「ニート」に関してですが、これも、丸橋様、というより、社会の大部分の認識が間違っているとしかいえません。そもそも我が国におきましては、「ニート」とは18~35歳の、仕事についていなければ、教育や職業訓練も「受けていない」人たちの事を指します。それが、特にマスコミを中心に、「精神の虚弱な若者」「不道徳な若者」などという、必要以上に病理的なレッテルばかりを貼り付けられて、もはや実態とはかけ離れたイメージばかりが過度に先行している、といった状況です。
しかしながら、その「ニート」と呼ばれる人たちの内実を見てみる限り、このようなプロファイリングは率直に言えば間違いとしか言いようがないのです。
「ニート」と呼ばれる人たちは、「非求職型」(注2)「非希望型」(注3)に大別されます。そのうち、ここ10数年で増加したのは、マスコミにおいて「典型的ニート」とでもいうように採り上げられるような「非希望型」――マスコミが好き好んで採り上げるのは、その中でも特に「病理的」に見えるケースです――ではなく、むしろ「非求職型」です(注4)。また、ここの事例を見ましても、一筋縄では決して語れないという、それぞれに異なった事情が見受けられます(注5)。
そもそも「ニート」という言葉は、平成15年(2003年)に英国から導入された概念です。この概念は、英国においては、年齢層を16~18歳に限定し、さらに「社会的排除」という観点を含んでおりました。しかしながら、我が国に導入され、さらにさまざまなメディアによって好き放題に採り上げられることによって、「社会的排除」という視点を剥奪され、通俗的な青少年問題言説の新しい概念として、現在に至るまで誤解にさらされ続けております(注6)。
少年による凶悪犯罪に関しましても、統計的な検挙数は昭和35年(1960年)ごろを境に減少し、殺人に関してはおよそ3分の1、強姦に至ってはおよそ10数分の1という減少度を示しております(犯罪白書)。平成9年(1997年)に、強盗が急増していますが、その後に強盗の件数がほぼ横ばいになっていることからもわかるとおり、これはむしろ「強盗」とカウントされる敷居が低くなったことを表しています。検挙率が低くなっているから実際の犯罪は増加しているのだ、という声もありますが、これも警察の検挙方針の転換によるものであり、実際の犯罪の件数とはあまり関係のないものです(注7)。
少年犯罪の事例に関しましても、『青少年非行・犯罪史資料』という本(注8)や、「少年犯罪データベース」というサイト(注9)を見ればわかるとおり、凶悪化というのがあまり正当性をもたない通説であることがわかります。
この点に関しまして、私が丸橋様にお伺いしたいことは以下のとおりです。
1. 丸橋様は、「ニート」や不登校について語るにあたって、何か客観的な資料、あるいは文献に当たったのでしょうか。
2. 丸橋様は、少年による凶悪犯罪に関しまして、それが減少していることをご存知でしょうか。
3. 丸橋様は、若年層に関する経済格差や不平等に関する文献、資料に当たったのでしょうか。
4. いわゆる「ニート」対策に関する本(注10)は参照されましたでしょうか。あるいは、景気回復・デフレ脱却こそが「ニート」問題の根本的な解決につながる、という経済学者の論説(注11)があることはご存知でしょうか。
・丸橋様の「語り口」について
さて、丸橋様は、青少年問題の「根本的な原因」として青少年の「生物学的」な「退化」であるとしておられます。
また、丸橋様は、この本の中でしきりに「退化病」という言葉を用いておられます。要するに、現代の若年層は「退化」し、しかもそれが「病」であるという風に丸橋様が捉えているとみなしてよろしいでしょうか。
しかし、丸橋様は、ある「生きづらさ」を抱えた個人、さらにはある世代全体の人たちに対して彼/彼女を「病」であると断定し、自分、あるいは彼/彼女ら以上の世代より劣った――つまり「退化」した!――人間として中傷する、ということに関しまして、何らかの羞恥心を抱かれたのでしょうか。
私が同書を読んでみる限り、丸橋様がそのような羞恥心を感じられていたようにはとても見えませんでした。
そもそもわが国において、丸橋様のような大っぴらな青少年言説が展開されるようになったのは、ここ10年のことです。それまでは、青少年を批判しつつも、青少年に希望や期待を寄せているような青少年言説が主流でした。ところが、平成9年(1997年)の、いわゆる「酒鬼薔薇聖斗」事件以降、青少年を過激に罵り、あるいは青少年が「生物学的に」劣ったものである、とする言説が平然とまかり通るようになりました(注12)。「~症候群」といった類の言説もまた、やはり平成9年ごろから青少年をバッシングするようなプロファイリングがやたらと目に付くようになりました(注13)。
こと青少年の「退化」「劣化」を「科学的」に「証明」したとする本(注14)に関しましては、その多くが科学を濫用して現代の青少年をバッシングするとともに、自分の理論について根拠の乏しい自信を持っているのが特徴です。しかし、彼らの論理も、結局のところ、たとえば少年による凶悪犯罪は増加していない、「ニート」は「怠けた若者」を意味するわけではない、という事実を提示すればたちどころに崩れてしまうのもまた特徴です。
現代の青少年が、「生物学的に」劣ったものである、と証明なさりたいのであれば、まず客観的なエヴィデンス(証拠立て)が必要です。丸橋様の主張であれば、不登校や「ひきこもり」、および「ニート」の人たちが、そうでない人たちに比して歯の噛み合わせや骨格が悪い人が有意に多い、という客観的なデータが必要です。
ところが丸橋様は、例えば「今の若者には~」などといった語り口で、そのようなエヴィデンスの提示を放棄されております。しかしながら、たといあなたが学者ではなくとも、相手を納得させるのであれば、具体的な資料の提示、および反証可能な緻密な論理立てが必要ではないかと思いますし、私も青少年言説を研究する際にはできるだけ実践できるようにと心がけております。
また、統計学には、逆相関逆因果(指摘がありましたので5月24日に訂正しました)という考え方があります。つまり、AとBに有意な相関関係があり、「AからBが引き起こされている」と思っていましたが、実際に精査してみたら「BからAが引き起こされる」というのが正しかった、というものです。また、擬似相関という考え方もあます。つまるところ、AとBに有意な相関関係があり、「AからBが引き起こされている」と思っていましたが、実際に精査してみたら、「(AやBとは別の事象である)CからAとBが引き起こされていた」というのが正しかった、というものです。
要するに、丸橋様の「観察」された事例において、歯の噛み合わせと不登校に有意な相関がありましたが、それが「歯の噛み合わせが悪いから不登校になる」のか、あるいは「不登校だから歯の噛み合わせが悪くなった」のか、あるいは擬似相関なのか、というのが曖昧にされたままなのです。さらに丸橋様は、自らの経験談を世代全体に暴力的に一般化して、「噛み合わせの力が弱くなった現代の若者は~」などという方向に飛躍してしまっているのです。
「退化」の話に戻りますが、このような言説を振りかざすことによって、現実の青少年が不利益を被る、あるいは同書を読んだ青少年が不快に思う、ということに関して、何らかの想像力は働いているのでしょうか。そもそも、たとえば「体罰」と称して4人の若い人たちを死に至らしめたのに、たった6年で娑婆に戻ってきて、何事もなかったかのように教育論を展開するような人とは違い、彼らはただ学校に通っていない、あるいは働いていない、あるいは諸事情によって何らかの「生きづらさ」を抱えているだけなのに、丸橋様は彼/彼女らを「退化」した、劣った人間と、蔑視しているのです。そのような丸橋様に、私は絶対に診療を受けたくない、と思いました。私は軽い顎関節症をわずらっていますが、通常の歯医者で教わった顎関節症治療のトレーニングをして治しています。
丸橋様のこのような行為は――このような言葉はあまり使いたくないのですが――言論の「品格」をあまりに欠いた行為であり、さらにいうなればレイシズム(人種差別)と言うほかありません。
付け加えますと、若い人たちのみならず、近年においては35~50歳の人たちにおいても「無業」の人が増加しております(注15)。丸橋様は、彼らもまた、「退化」して求職行動を放棄したものとみなすのでしょうか。
この点に関しまして、丸橋様にお伺いしたいのは以下のとおりです。
1. そもそも同書は、どのような人をターゲットにして書かれたのでしょうか。
2. 丸橋様は、「退化」という言葉を使うに際して、慎重に取り扱おうとされたでしょうか。
・「保守主義」について
丸橋様は、最後のほうで、「いのちの保守宣言」と題し、文化の型と質を取り戻すことを主張されています。
しかしながら、丸橋様の「保守主義」とは、私には単なる青少年への憎悪にしか見えないのです。
そもそも丸橋様は、次のように述べておられます。曰く、
―――――
戦後の日本人は右も左も、保守も革新も、家族制度や家業や故郷、景観といった伝統の基礎から離れることこそ、自由であるかのように誤解してきた。その結果、文化は形なきまでに崩壊し、人間の形も質も融解してしまったのである。人間とは思えないような若者の増加が、それを示しているのである。(191ページ)
―――――
このような物言いを、青少年言説の研究家としての私は、何度も見てきました。特に「人間とは思えないような若者」など、若年層を見下すのもいいところですが、青少年の「堕落」なるものが戦後日本の「失敗」を象徴している、といわれたら、若い人たちはどのような反応を示すでしょうか(私の理想としましては、「あ、そうなの。で、それと自分が何の関係があるの?」とばかりに受け流すのが望ましいと思っているのですが)。
丸橋様、および世の中の青少年をしきりにバッシングしている人たちは、多くの青少年は、バッシングしている人たちが見ていない、あるいは意図的に無視しているところで一生懸命に自らの人生を生きているということを忘れているのではないでしょうか。
たとえば丸橋様は、不登校に関して、医学的な「治療」が必要な対象として捉えているように思えます。しかし、世の中には、丸橋氏のような、あるいは医学的な「治療」を受けずに、自分の力で、あるいは社会的な支援でもって不登校や「ひきこもり」から脱却した人がたくさんいます。もちろん、医学的な「治療」を要する人もいるかもしれませんが、そのような主張が高じて、現代の若年層全員が「病気」であるような物言いはやめてほしいのです。
また、乾彰夫氏(東京都立大学教授)らが行った、東京圏の18歳の人たちに対して行ったアンケートにおいても、彼らはしっかりとビジョンを持っていること、しかしそのビジョンが親の経済的状況によって左右されたり、あるいは何らかの理由で崩されたりしていること、そしてそれでも彼らは懸命に生きていることが見受けられます(注16)。
付け加えて言いますと、丸橋様のおっしゃっているような「いのちの保守宣言」は、果たして誰に向かって言われるものなのでしょうか。丸橋様は、現代の子育てが青少年を堕落せしめた、とおっしゃっていますが、それは結局のところ、現実の若い親たちに対するバッシングに他ならないのではないでしょうか。要するに、丸橋様のごとき人が、昔はよかった、それに比べて今の若いやつらは本当にだめだ、自分の若いころに戻せ、と叫べば叫ぶほど、若い人たち、特に若い親たちの肩身は狭くなってしまうのではないか、ということです。
結局のところ、丸橋様は、自意識を満たすために、現代の青少年がいかに「劣っているか」ということを「科学的」説明――しかし、その前提からして間違っている――でもって「証明」しているだけではないか、と私は思うのです。
宮崎哲弥氏(評論家)は、最近の「保守主義」の潮流について、興味深い論考を朝日新聞に発表しています。曰く、
―――――
(前略)
彼ら(筆者注:注17)は、関係概念としての保守のあり方に不満を抱き、自性的、体系的な「主義」への再編を目指した。「~に対する保守」から「~へ向かう保守」への脱皮を志向したのである。
そこで、従来は自明視されていた「伝統」や「慣習」を反省的に捉え直し、高度に抽象的な理念として再提示する方法が採られた。その再帰的な構成は、確かに保守主義という名に相応しい思想的内実を備えていた。然るに、保守派における理解や支持は十分に拡がらなかった。
(略)
近年のジェンダーフリー・バッシングに伴う、性教育に対する一部保守派の攻撃の様子をみれば、もはや保守の美点の一つであった現実主義すら失調しているのではないかとすら思える。
適切な性教育が、性病の蔓延や妊娠中絶の増加を食い止め、性交の初体験年齢を上げる効果があるとしても、彼らはほとんど聞く耳を持たない。純潔を教えさえすれば、純潔が実現すると信じているかのような彼らの態度は、平和さえ唱えていれば、それが実現すると信じた空想的平和論著の姿勢と瓜二つだ。
そこに自省の契機も、熟慮のよすがもなく、ただ断片的な反応――それもしばしば激越に走る――しか看取できないとすれば、それらはもはや保守とも保守主義とも無縁の、単なる憎悪の表出に過ぎない。
(宮崎哲弥「進む保守思想の空疎化 「新たな敵」求めて散乱」2006年5月9日付朝日新聞夕刊/夕刊のない地域は10日付朝刊)
―――――
果たして、丸橋氏の「いのちの保守宣言」は、どちらに該当するでしょうか。私には、どうしても後者――すなわち、青少年に対する「憎悪の表出」としての空想的「保守主義」――にしか見えないのです。
ここに興味深いデータがあります。社会学者の浅野智彦氏らが、都市部の若年層に対して平成4年(1992年)と平成14年(2002年)行ったアンケートがあります\footnote{浅野、前掲書}。興味深いデータはいろいろありますが、その中でもさらに興味深いのが、現代の青少年の道徳・規範意識は決して後退していない、さらには、見た目・所持品・日ごろの行動、大きな社会への意識――たとえば「愛国心」――、「いま-ここ」重視の志向性などと、道徳・規範意識との有意な相関関係は認められない、としています(注18)。そして、アンケートを分析した人は、以下のように結論付けています。
―――――
若者たちに規範意識があるか/ないかという議論は、もうこのくらいにしていいのではないか。批判を受ける当事者(=若者)に尋ねてみると、規範の崩れを垣間見ることはできない。これは決して、若者たちの自意識が高いのではなく、また自己を省みる能力が薄れているからというわけでもなさそうだ。批判をしている発信者にこそ、穿った固定観念があるのではないか。なぜ大人社会は若者への評価を厳しくするのか、その背後にある要求を解明していく時期にきたのかもしれない。
(略)
では、大人が承認したがらないのはなぜか。たとえば、大人社会の疲弊した内部システムへのバッシングは自己否定になる。しかし、未承認者へのバッシングは自己否定にならない。部外者として扱えばよいからだ。若者を事前に怪しいと予言しておいて、何か問題が起きたときに、「彼らを承認しなくてよかった」と自己肯定できるストーリーが用意されている。部外者のしたことは、当事者の責任にならずに済む。少年法改正のときの手法と同じように、悪役を用意し、現状の大人社会の維持のために都合よく操作したいという目論見が隠されている。
(浜島幸司「若者の道徳意識は衰退したのか」、浅野智彦(編)『検証・若者の変貌』勁草書房、222~224ページ)
―――――
現代の青少年言説は、まさに当事者のいないところで自称「善良な」大人たちが勝手に騒いでいるだけ、としか言いようがないのです。もし丸橋様が、現代の青少年や若い親たちの心理を無視し、ただ空疎に「いのちの保守宣言」だったり、あるいは「故郷」だとか「人間性」などを唱え続けるのでしたら、丸橋様もまた、「愛国」を叫びながら、結局のところ何もしようとしない、それどころか国を滅ぼす「売国奴」としかいいようがありません。現実の青少年を救うのは、大言壮語にまみれた青少年言説ではなく、青少年を取り巻く現実に対して、物事を個人の内面や身体的能力、および教育に責任を帰してしまうのではなく、さらに経済システムや政策までも含めて考えることではないでしょうか。
残念ながら丸橋様は、単純に大言壮語を振りまいているようにしか、私には見えないのです。それが青少年にとって効果があるのか、ということに関しては、もう少しお考えになったほうがいいのではないかと思います。もし丸橋様が本気で社会をよくしたいとお考えであれば、むしろ一つの世代を、当事者のいないところで誹謗中傷するような議論は避けるべきではないでしょうか。
戦後民主主義教育が悪い、戦後の食生活が青少年から活気を奪ったのだ、といくら丸橋様が主張したとしても、それは結局のところ、一部の「善良な大人」たちが「そうだ、やっぱり今の青少年は異常なんだ」と内輪で納得するだけの「証拠」として簡単に消費されるだけなのです。そして当事者には何の利益もありません。これは決して、彼/彼女らが、戦後民主主義という「異常な」空間で育ってきたから、彼ら自身が異常であることに気がつかない、というものではありません。むしろ、「語る」側、あるいは青少年言説を「消費」する側こそが問題にされるべきなのです。
確かに、現代の青少年は、丸橋様の「理想」とする社会とはまったく違う社会を生きていることは間違いないでしょう。しかし、だからといって現代の青少年や若い親たちを、自らの空疎な主張の押し付けによってバッシングしていい、という理由には決してなりません。青少年や若い親たちを「研究」する人に認められることは、むしろただ声が大きいだけの甘言から一歩引いて、冷静な目で見ることではないでしょうか。
この点に関して、私が丸橋様にお伺いしたいのは次のとおりです。
1. 丸橋様は、青少年や若い親の現実についてどれほど考慮なさったのでしょうか。
2. 丸橋様は、青少年問題に関する、スローガンではない現実的な解決策をお持ちでしょうか。
3. 丸橋様は同書を、自らの「治療」の宣伝としてお書きになったのでしょうか。
・最後に
政治学者のマックス・ヴェーバーは、著書『職業としての政治』の結びにおいて、以下のように述べております。
―――――
政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である。もしこの世の中で不可能事を目指して粘り強くアタックしないようでは、およそ可能なことの達成も覚束ないというのは、まったく正しく、あらゆる歴史上の経験がこれを証明している。
(マックス・ヴェーバー『職業としての政治』脇圭平:訳、岩波文庫、1980年3月)
―――――
この言葉は、私の座右の銘としている言葉です。ここで書かれたことは、決してひとり政治のみを
さしているのではなく、何かについて論じる場合も、同様のことであると思います。
最後になりますが、丸橋様のご健康と、ますますのご発展をお祈りします。
後藤和智 拝
(注1)小此木啓吾『モラトリアム人間の時代』中公文庫、1981年11月に収録
(注2)働きたいという意思はあるが、具体的な求職行動を取っていない人たちを指します。
(注3)働きたいという意思もなく、具体的な求職行動も取っていない人たちを指します。
(注4)本田由紀ほか『「ニート」って言うな!』光文社新書、2006年1月、25ページ
(注5)小杉礼子(編)『フリーターとニート』勁草書房、2005年4月
(注6)「サンデー毎日」2005年1月9・16日号
(注7)浜井浩一(編著)『犯罪統計入門』日本評論社、2006年1月
(注8)赤塚行雄(編)、犀門洋治(協力)、刊々堂出版社、全3巻、1982~1983年
(注9)http://kangaeru.s59.xrea.com/
(注10)例えば、二神能基『希望のニート』(東洋経済新報社、2005年6月)、あるいは、工藤啓『「ニート」支援マニュアル』(PHP研究所、2005年11月)など
(注11)例えば、若田部昌澄『改革の経済学』ダイヤモンド社、あるいは、田中秀臣「景気回復で半減するはずのニートを「経済失政」と「予算」の口実にするな」(「SAPIO」2005年11月22日号)
(注12)浅野智彦「若者論の失われた十年」、浅野智彦(編)『検証・若者の変貌』勁草書房、2006年2月
(注13)斉藤弘子『器用に生きられない人たち』中公新書ラクレ、2005年1月
(注14)森昭雄『ゲーム脳の恐怖』NHK出版生活人新書、正高信男『ケータイを持ったサル』中公新書、澤口俊之『平然と車内で化粧する脳』扶桑社文庫、岡田尊司『脳内汚染』文藝春秋、など
(注15)玄田有史「中年齢無業者から見た格差問題」、白波瀬佐和子(編)『変化する社会の不平等』東京大学出版会、2006年1月
(注16)乾彰夫(編)『18歳の今を生きぬく』青木書店、2006年4月
(注17)評論家の西部邁氏や、京都大学教授の佐伯啓思氏など
(注18)浜島幸司「若者の道徳意識は衰退したのか」、浅野、前掲書
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