2007年9月15日 (土)

統計学の常識、やってTRY!SPECIAL ~三浦展『下流社会 第2章』を嗤う~

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 たこの感想文:(書評)下流社会
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 冬枯れの街~呪詛粘着倶楽部~:立つ安倍、後を濁した環境「問題」~脱地球的兎問題とダンス~
 すごい生き方ブログ:「反撃タイムズ」第二回!!
 西野坂学園時報:武道必修化にカタルシスを感じる愚劣老人ども
 女子リベ  安原宏美--編集者のブログ:刑務所で自己実現・・・
 POSSE member's blog:職場のメンタルヘルス①

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 『下流社会 』(光文社新書)を平成17年9月に出して、それでベストセラーを飛ばした三浦展は、それ以降、連綿と同工異曲と言っていいような本を出し続けた。私はそれらについて、いちいちチェックして買い集めてきたわけだが、いい加減『難民世代』(NHK出版生活人新書)あたりで食傷気味になってしまった。というのも、三浦の言説においては、その根本において以下のような問題を抱えており、とてもまともな議論とは言えないからである。

 1. 三浦はいつも膨大なアンケート調査などをもとにして本を書くけれども、一応全国調査もあるけれども、詳細な調査については東京都とその周辺の3県(埼玉、千葉、神奈川)だけにとどまっており、他の都市圏(大阪など)との比較もないし、地方に至っては言わずもがな。彼の地方に対する態度は『ファスト風土化する日本』(洋泉社新書)に端的に表れており、せいぜい「重大な」少年犯罪が起こった場所にタクシーで行く程度でその地方の根本的な問題がわかった気になっている。週刊誌の記者でももっと取材するだろう。

 2. 三浦が「下流」と判断した人間(あるいは社会階層)に対しては、これでもかといわんばかりの罵倒を投げつけている。その態度は『仕事をしなければ、自分はみつからない。』(晶文社)と『「かまやつ女」の時代』(牧野出版)に顕著に表れている。

 この2点が三浦の根本的な問題なのだが、多くの人はこれに気づかずに、ただひたすら三浦の言説をありがたがっている。2で採り上げた著書に対する批判で述べたとおり、三浦の言説は極めて差別的な色を含んでいる。

 さて、このたび発売された、三浦の『下流社会 第2章』(光文社新書)を手に取ってみたわけだが、本書は間違いなく三浦がここ2年ほどの間に粗製濫造してきた著作の中でも最も悪い部類にはいるのではないかと確信した。三浦における、三浦が勝手に名付けるところの「下流」の人間に対する罵倒はもはや揺り戻しが不可能なくらいの地点まで進んでおり、それが、今回の著作における自分でとったアンケート調査の解釈の仕方に顕著に表れているのだ(というわけで、今回は「統計学の常識、やってTRY!」の特別版としてお送りします。というより、このシリーズ自体およそ2年ぶりだ)。

 まず、三浦の社会調査に対する認識が、大学の学部生レヴェルどころか、新書レヴェルの領域すら達していないことは、三浦が《毎度おなじみ》(三浦展[2007](以下、断りがなければ全てここからの引用)pp.3)として前書きに書く「下流度チェック」を見れば明らかだろう。今回もいくつかの項目が上がっているけれども(莫迦莫迦しいので書く気にもなれない)、本書は、三浦の怪しげなアンケート調査が、1億歩ほど譲って正しいものであると仮定しても、それは単に階層意識が「下」と答えた人がどのような意識や行動をとっていることを立証したに過ぎないのであって、こう考えているならお前は「下流」だ、と罵るための材料にはならない。要するに三浦は、統計のイロハのイ、つまり相関関係と因果関係の区別が付いていないのである。

 三浦の社会調査の知識が「この程度」であることを念頭に置いて、同書を検討していくこととしよう。本書の構成は以下の通りである(伊奈正人のブログから引用)。

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目次
第1章 すがりたい男たち
第2章 SPA!男とSMART男
第3章 上流なニート、下流な正社員
第4章 下流の自分探しを仕組んだビジネス
第5章 心が弱い男たち
第6章 危うい「下流ナショナリズム」
第7章 踊る下流女の高笑い――女30歳の勝ちパターンはどれか?
おわりに――あたらしい正社員像を描くべき時代

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 本書においては、主として第2,3,6章を中心に検討しておくこととする。まず、第2章については、三浦のアンケート調査の分析に対する意識が如実に表れているからである。また、三浦が、自らが「下流」と名付けたものたちに対して、これでもかと罵倒を続ける様が、後ろの2つの章にはっきりと現れているからだ。なお、採り上げないものの中でも、第1章は、延々と自慢話ばかりが続くので、採り上げるのも莫迦らしい。また、本書はあくまでも階層「意識」を中心に語られており、収入や支出などによる階層については語られていない。ちなみに当然のことながら、収入及び支出と階層「意識」の関連性も示されていない。

 まず第2章から。何せこの章は、調査結果の曲解や牽強付会が多い。例えば、こんな感じに。

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 それからおもしろいのは、『週刊プレイボーイ』で、派遣社員が11.1%と他の雑誌に比べてかなり多い。『週刊プレイボーイ』はしばしば反中国、反韓国的な記事を書くが、実際、30~34歳の派遣は61%が中国は嫌い、53.8%が韓国は嫌いと答えており、かつ同じく61.5%が反社会的な書き込みの多さで悪名高いインターネットサイトの「2ちゃんねる」を利用していると回答している。これは25~29歳のフリーターの77.3%に次ぐ高さである。30歳前後の一部の非正社員たちの抑圧された感情が、反韓・反中意識となって現れていることが推測される。(pp.43)

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 ここまで強引な解釈も珍しい。第一に、《反中国、反韓国的な記事を書く》雑誌として真っ先に「週刊プレイボーイ」を挙げているが、例えば「週刊新潮」などはどうなのだろうか。このアンケート調査でも採り上げられているが、三浦はこれについて記述していない。第二に、雑誌の購読者層については全ての年代のデータを用いているが、反韓・反中意識については就業形態の、しかも年齢別のデータを用いている。ここで必要なデータは、「週刊プレイボーイ」を読むものの反韓・反中意識と、そして「2ちゃんねる」の利用者率だろう。

 また三浦は49-51ページにかけて、購読誌別での政党の支持層を記述しているが、これの分析も強引である。ちなみに少しだけ注意しておくと、51ページでいきなり《秋葉原にいるオタク》という階層集団が出てくるけれども、この周辺の記述を見れば、《秋葉原にいるオタク》=「消費好きでパソコン好きな下流」、という『嫌オタク流』レヴェルの(笑)偏見を持っているのかもしれない。

 などとふざけるのはやめにしておいて、57ページも見てみよう。

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 また、SMART男(筆者注:雑誌「SMART」の購読者層)の居住地は埼玉県が32.3%と非常に多く(男性平均は19.1%)、買い物などでよく行く街としては新宿、地元、池袋、渋谷、原宿、お台場、表参道に次いで大宮が22.6%、そしてよく行く店として丸井、パルコに次いでルミネ、イオンが挙がっている。

 つまり、埼玉県在住で、日頃は地元のイオンか大宮のルミネか丸井でぶらぶらし、たまに渋谷、原宿に買い物に出てくるフリーターが多い読者層であることがわかる。(pp.57-58)

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 わからねえよ!

 さて、三浦の頭の悪さ(笑)を白日の下にさらした上で、本番の第3章に移行しよう。三浦は、若年層の非正規雇用者は本当は正社員になりたくない、ということを示そうと必至になっているのだが、これがとにかく笑えるのだ。

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 (筆者注:三浦は、朝日新聞が行なった、いわゆる「ロスト・ジェネレーション」に対する調査を引き合いに出している)まず、あなたは今後正社員として働きたいと思いますか。非正規雇用の社員のまま福利厚生面の待遇を上げてほしいですか」という質問に対して、「正社員として働きたい」と回答したのは男性派遣社員の53%、男性パート・アルバイト・フリーターの42%にすぎなかった。「非正規雇用の社員のまま福利厚生面の待遇を上げてほしい」と回答したのは、派遣社員の40%、パート・アルバイト・フリーターの36%だった。(女性についての記述は略)

 格差社会を批判する学者、政党、労働組合、メディア関係者は、非正社員がみな正社員になりたがっているのになれないと思っていると考えがちだ。そしてそう思ってくれた方が現政権を批判しやすい。ところが、非正社員は必ずしも正社員になりたいとは思っていないのだ。だから格差社会批判をするだけでは世論は盛り上がらないし、若者の支持は得られないのである。

 そこに「下層社会」あるいは「階級社会」とは質的に異なる「下流社会」の特徴がある。(略)(pp.70-71)

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 三浦も認めているとおり(pp.72)、この調査において、《非正規雇用の社員のまま福利厚生面の待遇を上げ》るという対案が示されている故、《「正社員として働きたい」と回答した》ものが減ったという可能性は大いにある(ちなみに三浦はいくらか留保をつけており、これは3つある内の2番目なのだが、特に3個目の留保はかなり回りくどいものである)。さらに三浦は、正社員の労働条件が、非正規よりも厳しい場合があることまで認めている。これについては、小林美希も書いているとおり(小林美希[2007]pp.34-35)、例えばキヤノンなどで大規模に非正規雇用者の正社員化を推し進めた場合に、結局のところ正社員という名の過酷な労働形態が生まれただけ、というケースもあるため、三浦の分析は正しい。

 そうすると、三浦が主張すべきことは、もし正社員が増えることを希望すれば、まず正社員の待遇をよくすることのはずだ。にもかかわらず、三浦は、こんなことを書いてしまう。

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 企業は、給料を上げること、昇進させることが正社員のメリットだと考えるが、若者は必ずしもそう考えない。給料が上がっても、束縛が増えるのは嫌なのである。残業も転勤も単身赴任もしたくないからである。(pp.76)

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 ちょっと待て、どこに《束縛が増えるのは嫌なのである。残業も転勤も単身赴任もしたくない》なんてことが書いてあるのだ?実をいうとこれは、三浦の身勝手な推論に過ぎないのである。ここに三浦の言説の特徴がある。要するに、自分が「下流」と見なした人間に対する度を超した罵倒である。

 しかも三浦は、同じ章で、「ニート」に関して大チョンボをしでかしてしまう。

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 念のためにいっておくと、この調査は学生を含んでいない。だから、無業の男性は、いわゆるニートにほぼ相当すると考えてさしつかえない。(pp.82)

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 三浦は80ページにおいて「ニート」の正しい定義を書いているのに、なぜこう考えてしまうのだろうか?第一に、一口に「無業」といっても、その中には求職中(求職型)、求職意欲はあるが求職中ではない(非求職型)、求職意欲がない(非希望型)に分けられ、なおかつ、内閣府の調査によれば、全国で、平成14年で、無業者およそ213.2万人の内、求職型がおよそ128.7万人にあたり、非求職型(42.6万人)と非希望型(42.1万人)をあわせた数、つまり「ニート」に相当する人数が84.7万人である(内閣府[2005]pp.7)。要するに、仮に三浦の調査における無業者の内、「ニート」の割合が内閣府のものと同じならば、《無業の男性は、いわゆるニートにほぼ相当すると考えてさしつかえない》などということはできず、《無業の男性》の内「ニート」に相当するものの割合は、全体のおよそ5分の2に過ぎないということになる。ちなみにこの調査において、三浦が、無業者に対して現在求職しているかどうかを問うた形跡は、少なくとも本書からは見られない。

 さらに87ページでは、三浦は「ニート」を《働く意欲がない若者》としてしまっており、また三浦は「ニート」の意識についてさんざん愚痴を述べているが、上記の指摘により、三浦の分析の全てが吹っ飛んでしまうと私は確信する。どうでもいいけれども、三浦は第4章でフリーターが増加した原因として、バブル時代に「自分探し」とやらが扇動された故、多くの若年層が自分にあった仕事をえり好みするようになったことを上げているが、それが数億歩譲って正しいとしても、三浦はそれを煽った一人として(そもそも三浦はバブル時代にパルコの雑誌に在籍しており、『「かまやつ女」の時代』に掲載されたプロフィールでは、「消費は宗教」とばかりに煽っていたと記述していたではないか!)、どう見ているのかということについては記述されていない。あくまで他人事である。

 三浦による、非正規雇用者に対する罵詈雑言集への批判はこれだけにしておいて、第6章(「危うい「下流ナショナリズム」」)の分析に移る。というのも、私は、冒頭で採り上げた伊奈正人のブログで章立てを知ったとき、ついに三浦が、いわゆる「赤木問題」にコミットする!と思ったのだ。ついでにこれをミクシィで書いたところ、ある人からは、「赤木問題」ではなく、高原基彰のいうところの「不安型ナショナリズム」(高原基彰[2006])ではないか、という意見をいただいた。まあ、どちらにしろ、もしこれらについて三浦の分析を読んでみたいものだ。

 ちなみに「赤木問題」とは、フリーターの赤木智弘が、「論座」平成19年1月号の特集で、「「丸山眞男」をひっぱたきたい――31歳フリーター。希望は、戦争。」と題する衝撃的な論考を発表したことに起因する問題であり(実際には、赤木の主張は、もっと深いもので、フリーターである自分を不可視化し、偽りの「平和」に甘んじている俗流左派への根本的な批判である。ちなみに、赤木の著書が、来月双風舎より発売されます。キャンペーンブログも展開中ですので、是非ご覧下さい)、それについて同年4月号で、佐高信、福島瑞穂、森達也などの左派の大御所が反論し、さらにそれについて、6月号で赤木が反論になっていないと再反論した。ちなみに赤木の再反論にほぼ便乗する形で、私も同号に書いている。

 さて、そのような期待を抱いて、私は本書の第6章を開いてみたのだが、なんと、赤木の名も、あるいは高原の名も、全く出てこないのである。まあ、半分の半分くらいは予想通りだったが。で、三浦がどのようなことをナショナリズムと捉えているかというと、「愛国心があるほうだ」「日本文化が好きだ」「中国は嫌いだ」「韓国は嫌いだ」「アメリカは嫌いだ」とか、さらには「オリンピックやサッカー・ワールドカップで日本を心から応援する」といったものなのである。正直言って呆れてしまった。これでは俗流左派のナショナリズム観と全く同じではないか(どうでもいいけれども、三浦が「週刊SPA!」と「SMART」の読者層を「SPA!男」「SMART男」と書いているのに、「日経ビジネス」の読者に対してはそういうネーミングをしていない、というところに、三浦の意識が見て取れると思うのだが、どうか)。また三浦は、「上」のナショナリズムは愛国心などのポジティヴなものであるのに対し、「下」のナショナリズムは、反中、反米などのネガティヴなものであるとしている。しかしながら、それについても、「日本の歴史には誇りや愛着がある」をのぞいて、各階層で、たかが数パーセントの差しかない。果たしてこれが有意な差なのだろうか?

 もう一ついうと、三浦の用いているアンケート調査においては、調査対象は20~44歳のみである。しかしながら、私が読売新聞の出口調査の分析を引用して示したとおり(平成17年9月28日付読売新聞、及び、後藤和智[2007])、あるいは朝日新聞が平成17年の総選挙の前に行なった調査にあるとおり(「朝日総研リポート AIR21」平成17年11月号、pp.146)、自民党の支持基盤は若年層よりも50代以上の高齢者であるのだ。その点についての三浦の配慮もない。

 さらにいうなら、三浦のいうところの「SMART男」の投票行動について、三浦はこんなことを言ってしまう。

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 それに対して(筆者注:格差社会を実感しつつも、仕方なく実力社会を容認する「SPA!男」に対して)SMART男は、政党支持や投票行動から新自由主義的政治を支持しているように見えるのに、自分自身は成果主義、実力主義がよいとは思っていないというのは、一見矛盾している。

 しかしそれは矛盾ではない。がんばりたい人は、どうぞがんばってください。でも僕はがんばりません。がんばらなくても、欲しいものはインターネットのオークションで安く手に入りますから、という価値観なのであろう。(pp.163)

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 まあ、これが三浦クオリティなのだろう。

 他にも、三浦が「下流」と見なした人間に対する罵倒は、特に本書の「下流コラム」と称されるコラムにおいて激しいのだが、これについては気持ちが悪くなるので特に批判しないこととする。これ以上気を悪くしたら、私の健康に関わる。しかしながら、同書を通読して気づいたことは、所詮は三浦にとっては「格差」、というより「下流社会」とは、結局のところ見世物に過ぎず、さも動物園の中の動物の如く罵倒して楽しむものなのだろう(本書、あるいは三浦の他の「格差」本における感嘆符の濫用が、まさにこれを示していると言えるかもしれない)。そして三浦が粗製濫造している本もまた、そういうものに過ぎないのだろう。同書において、「下流」と三浦が勝手に名付けた人たちは、徹頭徹尾無気力と見なされている。

 そんな三浦にとっては、例えば日雇い労働者の労働条件や、あるいは労働市場の構造変容、そして当事者による運動は見えないのだろう。事実、これらに関する記述は、全くと言っていいほど出てこない。ある言説に対して、それが語っていることと同時に、語っていないこともまた重要であると考えれば、様々な新聞やテレビが若年層の惨状を伝えているにもかかわらず(日本テレビやフジテレビだって報じているのだ)、三浦の認識は数年ほど遅れている。

 小林美希は、いわゆる「ネットカフェ難民」に関する報道について、ブログで以下のように語っている

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 社会問題ではない。これは、流行である。

 もしもネットカフェ難民という言葉が流行語大賞などをとったら、世も末だ・・・。

 この国は今、労働問題をきちんと論じていないことが多い。
 ネットカフェ難民とか、なんでも格差で、労働問題の本質を見誤っている。

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 三浦は間違いなく、「下流社会」なる言葉で若年層をめぐる格差や貧困を、ことごとく若年層の精神に押しつけ、疑似問題化、脱政治化させた張本人だ。それにもかかわらず、多くのメディアが、三浦の言説をありがたがり、そして若年層に自己責任論を浴びせかけている。

 派遣ユニオンは、グッドウィル・グループの不祥事に対して、折口雅博に対し「折口、ちょっと来い!」というデモを張った。私も「POSSE」に力を貸している以上、非正規雇用者などに関する運動の現実を伝えて、こういうしかないだろう。

 「三浦、ちょっと来い!」

 参考文献・資料
 内閣府政策統括官「青少年の就労に関する研究調査」、2005年7月

 後藤和智「左派は「若者」を見誤っていないか」、「論座」2007年6月号、pp.122-127、2007年5月
 小林美希『ルポ 正社員になりたい』影書房、2007年5月
 三浦展『下流社会 第2章』光文社新書、2007年9月
 高原基彰『不安型ナショナリズムの時代』洋泉社新書、2006年4月

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2007年4月20日 (金)

想像力を喪失した似非リベラルのなれの果て ~香山リカ『なぜ日本人は劣化したか』を徹底糾弾する~

 (H19.4.21 10:40 書名の間違いがあったので訂正しました)

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 冬枯れの街~呪詛粘着系公共圏~:エクソシストなんてこんなもんさ、命を賭けて悪魔を倒したって誉められることもない。
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 女子リベ  安原宏美--編集者のブログ:ワーキング・プアから抜け出せないシングル・マザーたち
 他山の石書評雑記:[雑記][社会][就職][社会学]「若者の人間力を高めるための国民運動」

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 「ご冗談でしょう」。私が書店で、「ダ・ヴィンチ」(マガジンハウス)平成19年5月号に掲載されていた、平成19年4月に新たに発売される文庫や新書の一覧で、講談社現代新書の新刊の1冊として、香山リカ(精神科医)の新著として、『なぜ日本人は劣化したか』なる本が発売される、ということを知ったときの感想である。私はかつて、少し思うところがあって、仙台市内の古本屋を数軒周り、香山のほとんどの著書を収集したことがあるが、『多重化するリアル』(廣済堂ライブラリー/ちくま文庫)の頃から急激に文章が若い世代を糾弾するようなものになるとはいえ、このような実にストレートなタイトルの本が出るとは予想だにし得なかったのである。

 しかしながら、なんと本当に出てしまったのである。しかも、内容はもはや香山自身が劣化したとしか言いようがないほどのひどさなのだ。言うなれば、香山の初期の著書である『リカちゃんのサイコのお部屋』(ちくま文庫)に出てくるような、何らかの悩みを抱えて香山に手紙で相談してくるような人に対し、香山が「お前は劣化している。そしてこのように劣化した人間ばかりとなり、劣化した社会を構築しているのが、今の日本なのだ」と糾弾しているような本である、と考えれば、わかりやすいだろうか。

 香山の「変貌」に関してかいつまんで説明しよう。初期の香山は、おおむね、『リカちゃんのサイコのお部屋』の如き、「お悩み相談」系とでも言うべき仕事か、あるいは当時の女性における流行やテレビゲームに関して軽妙なエッセイを書いているような、単純に言えばエッセイスト的な存在であった。ただ、平成7年ごろを契機に、香山の言説の中に、なかんずく青少年や若い女性における流行を指し、これは社会の抱えている病理を表しているのではないか、と嘆いてみせるようなものが登場するようになった。とはいえ、当時の香山の態度は、そのように嘆きつつも、結局のところ嘆きを内に抱えながら考え込む、というようなスタンスで、簡単に糾弾するようなことはなかった。

 平成10年ごろには、香山の言説の中に「解離」や「離人症」という言葉が頻繁に出てくるようになる。契機は、同年に栃木県黒磯市(当時)で起こった、中学生による教師殺傷事件だ。この事件を契機に、宮台真司が「脱社会的存在」という概念を振りまいたのと同様、香山もまた「解離」「離人症」という概念を振りかざした。ただしスタンスとしては、それほど変化しているわけでもない。

 香山のスタンスが急激に変化するのは平成13年9月11日の、米国における同時多発テロである。この事件を契機に、香山は、現代人は「解離」的な状況を作り出すことによって多元的な自己を生きてきたが、現実はそういう生き方で生き抜くことはできない、だから「解離」的な人たち、なかんずく若年層を現実に引き戻すべきだ、という言説が頻出するようになった。その象徴とでも言うべき著作が『多重化するリアル』であり、この時期以降の香山のベストセラーである、『ぷちナショナリズム症候群』『就職がこわい』『いまどきの「常識」』では、おしなべてこのような認識が繰り返されている。

 そして、香山の「変貌」がもはや完全なものとなったとして認識できるのが、平成18年2月に上梓された『テレビの罠』であろう。同書においては、もはや「解離」という言葉すらほとんど見あたらず、しきりに日本人がだめになった、おかしくなったと連呼しているだけのものとなってしまったのだ。そして、完全に変貌しきった香山の象徴的な著書として記録されるべき著作――それが、『なぜ日本人は劣化したか』に他ならない。

 のみならず、同書は、主として若年層に対する罵詈雑言で満ちており、「左派」と呼ばれる側にいるはずの香山が、若年層に対する偏見を扇動しているのである。その意味では、本書は批判どころか、徹底的に糾弾されるべき本である。

 香山は同書の「まえがき」において、働こうとしない「ニート」の若年層や(このような認識が間違いであることくらい、『「ニート」って言うな!』などを読めば直ちにわかるだろうが)、子供を車に置き去りにして子供を死なせる若い母親(センセーショナルに採り上げられているだけではないか?)、そしてやる気のない東大生を採り上げ、次のように述べる。曰く、

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 私たちはこの変化を、「一過性」「一部の人だけの問題」として無視する、あるいは見守ることはできないのではないか。

 いや、「変化」などという留保つきの言い方は、もうやめよう。

 日本人は、「劣化」ししているのではないか。それも全世代、全階層、全分野にわたって。しかも、急速に。

 私自身、そういう″直感″を抱いてから、それが″真実″だと認めるまでには、やや時間がかかった。私はこれまで、病理的な現象からテクノロジーの普及まで、社会の変化をおおむね肯定的に受けとめ、解釈してきたからだ。

 しかしここに来て、私もいよいよ認めざるをえなくなった。

 日本人は、「劣化」しているのだ。

 それは本当なのか。希望はもうないのか。これから考えてみたい。(香山リカ[2007]pp.6-7)

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 《全世代、全階層、全分野にわたって。しかも、急速に》などと能書きを垂れているものの、香山が本書において、若年層ばかり問題にしており、他の世代を問題にする場合も、やはり若年層の「劣化」に結びつけて語りたがっているのは明らかである。従って、香山の言うところの「日本人」は、――多くの俗流「日本人論」がそうであるように――「今時の若者」と同義であることは言うまでもないだろう(どうでもいいけれども、香山は冒頭において、「日本人の志を取り戻せ」という趣旨の奥田碩の発言を肯定的に採り上げている。香山が「若者の人間力を高めるための国民運動」に委員として参加しているから、会長である経団連会長(現在は御手洗冨士夫にポストを譲ったけれど)は批判できないのか?)。

 しかし、感慨深いものがある。なぜならこのようなことは、少なくとも平成13年頃までの香山なら絶対に言わなかったことである。それまでの香山のスタイルというものは、社会に対してなにか言いたいけれども、とりあえず内に抱え込んで、結論を安易に出さずにしておく、というスタンスだったからだ。それがこのように断言するようになったとは。

 それはさておき、香山がここまで強く断言できるには、それなりの証拠があると見ていいだろう――だが、残念なことに、決してそうではない。香山が、日本人が「劣化」しているという証拠は、結局のところ香山の直感と、それを支持してくれそうな身近な人たちの発言なのである。真に客観的と言えるような証拠など、はっきり言って皆無なのだ。

 例を示してみよう。香山は、若年層の文字を読む能力が低下している証拠として、日本人が長い文章を読めなくなった、ということを示している。曰く、香山が最近頼まれた文章の長さに関して、当初、香山は1200字の原稿として書いた。ところが香山が編集者に問い合わせてみたところ、1200字ではなく200字であった。さらに、身近な編集者に尋ねたところ、かつては800字くらいでも多くの人が読めたが、今は200字くらいでなければ読者は読むことができない、というのが業界の常識なのだ、という。従って、日本人の知性が劣化しているのは明らかである(香山、前掲pp.14-18)。

 めまいがしてきた。だが、このような論証立てが、次から次へと続くのが本書なのである。つまり、まずはじめに自分の直感があり、それを都合良く正当化してくれるような身近な事実があり、そして自らの思っていることは正しかったのだ、日本人は劣化している!というのが本書の主たるストーリーなのである。もちろん、他の自称に関してもこれと同様。今の学生が90分の授業を聞けなくなったことの証拠としてあげているのは身近な教授。ちなみに私は、大学院生となった今まで、私の参加した全ての授業で、多くの学生が最後までしっかりと、90分の授業をしっかりと聴講していたが(まあ、中にはねる人も少なからずいるかもしれないけれど)。さらに言えば、今の学生の、授業への出席率は良くなっている、というのもよく聞く話である。ということは昔の学生は授業に出るほどの力すらなかったようである。日本人は進化しているのだ(ちなみにこの話にも根拠は示していないが、香山のやり方をまねれば、このように言うことだってできるのだ、ということを示したかっただけである)。フェミニズムやリベラルの衰退の原因について述べられたところも、引用しているのはせいぜい荷宮和子の言説や、山口二郎などの、平成17年の総選挙に関する「解説」だけであって(ちなみに、この選挙における「解説」のいかがわしさについては、後藤和智[2007]で採り上げるつもりである)、やはり公明党の協力や小選挙区制については採り上げられていない。

 もちろん、自らに都合のいいことが書かれている記事に関して、それを疑って読むことと言うこともない。例えばモラルの「劣化」を採り上げた第2章においては、そこで採り上げられているほとんど全ての事象が、産経新聞が今年から始めているシリーズものの企画「溶けゆく日本人」なのである。ちなみにこの記事については、「はてなブックマーク」などで、少なくない人から「釣り」「ネガティヴなことばかり採り上げすぎ」「また産経か」と言われているし、そして私が見た限りでは、この意見は正しい。

 ちなみに浅野智彦らは、都市部の若年層に対するアンケート調査から、現代の若年層の道徳、規範意識は決して低下していない、という結果を出しているのだが(浜島幸司[2006])、まあこれに関しては置いておこう。

 ゲームに関する記述も、はっきり言ってでたらめの極みである。例えば、次の文章を読んでいただきたい。

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 ″お得感″を目的とする実用ものとは異なるが、すぐに目に見えて結果が出るゲームの中に「暴力的ゲーム」を加えることもできるかもしれない。

 「スーパーマリオブラザーズ」など大ヒットゲームの開発者として知られる任天堂の宮本茂専務は、〇七年三月、アメリカで行われたゲーム開発者会議で基調講演を行い、その中で「ゲーム開発業者は熱心なファンが好む暴力的ゲーム作りを偏重し、一般利用者向けの楽しいゲーム開発を怠ってきたため、ゲーム業界は過去一〇年間に信望を失ってしまった」と、自らも属する業界のあり方を厳しく批判した(産経新聞、二〇〇七年三月一〇日)。(香山、前掲pp.75)

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 だが、ここで香山が採り上げている記事は、室田雅史によれば、誤報であるというのである。これを室田は、この記事が時事通信と産経新聞で配信されたときからかなり早い時期に、さらに言えば講演の原文に依拠して論証していた。

 香山の魔術にかかれば、近年になって、いわゆる「脳トレ」系のゲームが売れるようになったことも、日本人が劣化し、ゲーマーにおける想像力や我慢する力が低下したから、ということになる(ちなみに香山は、近年はすぐに結果が出るようなゲームしか売れなくなった、と嘆いているが、その根拠もまた《あるゲーム開発者》(香山、前掲pp.71)から聞いた話である。これでは、岡田尊司が、ゲームを制作している会社は、ゲームが売れなくなることを心配しているため、ゲームが子供の脳に及ぼす悪影響に関して口をつぐんでいる、という行為が業界における公然の常識である、と陰謀論を述べたのとどこが違うのか)。実用系のゲームが登場したことによって、これまでゲームに親和的でなかった層にも市場が開拓された、という見方のほうが有力だろう。

 第一、かつての香山は、テレビゲームについては親和的な立場をとってきたのではないか?まともだった頃の香山の中でも、さらに良質な著作として、『テレビゲームと癒し』(岩波書店)があるが、少なくとも同書は、テレビゲームによる精神医学への応用など、ポジティヴな側面にも触れられており、さらに言えば安易な擁護論にも与せずに、公平に評価を与えようとする態度が出ていた。それがこのざまだ。おそらく香山をゲームバッシングに走らせた要因としては、平成17年中頃に起こった監禁事件を挙げることができるのかもしれないが(その時の香山の言説を批判したものとして、私のブログの「俗流若者論ケースファイル33・香山リカ」がある。ちなみに当然本書においては、ここで批判した文章と同様の論調での「萌え」批判だってあり、なおかつ問題点までそっくり同じだ)、かつて香山が、斎藤環の「ゲーム脳」批判を引いて、「ゲーム脳」説の非科学性を訴えていた(香山リカ、森健[2004])のとは隔世の感がある。

 さらに言えば、これだけではない。同書においては、何が何でも若年層が悪い、若年層の性で香山が悪いと思っている事態が生じた、ということを主張するためのこじつけだって頻出する。例えば新聞の文字が大きくなったことについて、高齢者にも読みやすいようにしているのだろうと考えるのが普通だろうが、香山はこれだって若年層のせいになってしまうのだ。

―――――

 よく言われることだが、いま六〇代から八〇代のいわゆる高齢者と呼ばれる人たちの多くはむしろ向学心にあふれ、むずかしい本、半ば難解な哲学の講義を受けにカルチャースクールに通いもする。電革で、昔の活字の小さな時代の文庫本を熱心に読む老紳士の姿も、しばしば見かける。

 そう考えると、「字を大きくして」「中身を簡単にして」と望んでいるのは、実は高齢者ではなくて、若い人たちなのではないか、という気もしてくる。実際に冒頭に述べたように、若い女性が読む雑誌でも「かつては一テーマ八〇〇字、いまは二〇〇字」というように″簡略化″が進んでいる。この人たちに関しては、視力が低下しているわけでも長い文章を読む体力がなくなっているわけでもないことは、明らかだ。(香山、前掲pp.26-27)

―――――

 いい加減にしていただきたい。こういうことを言っているのは全世界で香山だけだ(おそらく)。第一、このような言い方が許されるのであれば、香山のここ1年ほどの発言こそ《簡略化》の象徴ではないか。

 香山はリストカットに代表されるような若年層の「生きづらさ」に関しても、若年層の精神が本質的に弱くなっているからであり、さらに言えば若年層の「問題行動」の原因さえも、若年層の体力の低下だと述べている(香山、前掲pp.85-94)。『生きさせろ!』なる秀逸な本が香山に書評されて喜んでいる雨宮処凜は、香山がこのように述べていることをどう思うのか、是非お訊きしたいものである(雨宮さん、ごめんなさい)。

 挙げ句の果てには、このようなことを言ってしまう。これでは戸塚宏と同じではないか。

―――――

 しかも、これまでの章で述べたように、この劣化は知識やモラルといった主に脳内での活動に限って進んでいるのみならず、体力、身体能力などからだの領域でも起きているようなのである。すぐに「死にたい」「生きるのに疲れた」とつぶやく若者の例も紹介したが、「朝、起きて″ああ、今日もいちにち生きなければならないのか″と思うとそれだけでグッタリする。夜、眠るとき″このまま明日の朝が来なければいいのに″と祈ってしまう」と訴える若者を見ていると、何かをしろ、と言われているわけではないのに、ほとんど本能のレベルで片づくような呼吸、食事、睡眠といったものがこの人たちに″とてつもない負荷″として伸し掛かっているという事実に、愕然とすることがある。

 こうなるともはや、生物として生命を維持する力そのものが劣化しているのではないか、とさえ言いたくなる。ちょっとしたことで傷ついて、「もう死んだほうがいい」と考える若者が増えているのも、心が弱くなっているのではなくて、生物としての耐性が低くなっており、「死にたい」という発想がわくのは、彼らにとってはある意味で自然の反応なのではないか、とさえ思うことがある。(香山、前掲pp.144-145)

―――――

 これから香山のことは差別者であると認定しよう――私にそのように決断させてくれた文章であった。もはや何とも言うまい。

 何とも言うまい、とは言ったものの、やはり無視できない部分がある。それは、インターネットに関する記述である。香山は、インターネット上のコミュニティ「セカンドライフ」について、以下のように述べる。やはり香山は差別者でしかない。

―――――

 では、生物として劣化し、体力も性欲も繁殖能力さえ喪失しつつある人たちは、どこに向かうのだろうか。

 その″行き先″として注目されるのが、二〇〇七年春にも日本語版サービスが始まるとされる3D巨大仮想空間「Second life(セカンドライフ)」である。(香山、前掲pp.146-147)

―――――

 つまり、インターネットのコミュニティは、生物として劣化したものの行き着く先であると!なんという物言いであろうか。

 これに関しては、実証的な視点からの批判が必要であろう。インターネットによる社会関係資本の形成については、既に少なくない研究が積み重ねられている。

 例えば池田謙一は、インターネットのメールの利用に関してアンケートを分析したところ、テクノロジーに対する親和性が高いことや、あるいはインターネットのメールの使用が、フォーマルな集団への参加を促し、また非寛容性を減少させる効果があるのではないか、ということを実証している。他方で池田らは、元々社会関係資本に恵まれた人ほどインターネットに親和的である、という見方もできるであろう、としている(池田謙一[2005]第2章)。他にも多くの研究があり、ここでは割愛するけれども、少なくとも香山が考えているような、インターネットのコミュニティが頽廃的な世界である、という見方は辞めたほうがいいようだ。

 ちなみに、香山のインターネットに対する偏見は、やはり平成14年の『多重化するリアル』が始祖である。なぜなら同書において「解離」を蔓延させている張本人として採り上げられているのが、インターネットであり、また携帯電話であるからだ。

 さて、これまで、私は同書における、香山の態度に対して批判を重ねてきた。具体的に言えば、香山は、社会的な問題に関して、自分で勝手に「劣化」の烙印を押しては、それを薄弱なる根拠で執拗に嘆いている、という行動を繰り返しているだけであり、言説としての価値は全くない。なるほど、帝塚山学院大の教授(助手でも准教授でもない!)なら、私にでもなれるようだ。大学院を卒業したらそこに就職しようか。

 同書において、香山は、まず日本人が「劣化」しているという事実を認めるべきだ、そこからでないと日本人の「劣化」を食い止めることはできない、と主張している。もちろん、このような見方が傲慢であることは言うまでもないだろう。第一、「劣化」なる烙印を、特に若年層に対して執拗に押し続けているのは、他ならぬ香山だからだ。そして現代の若年層は、香山によって「劣化」している日本人の象徴であるという烙印を押しつけられ、その存在価値を減じられる。香山の言っていることは全て偏見か、そうでなければ怪しい主張の受け売りに過ぎず、内容はないに等しい。

 さらに言えば、香山は同書の中では、日本人の「劣化」に警鐘を鳴らすべき人物として書いている。香山は後書きで言い訳臭く、「自分も「劣化」しているかもしれない」と書いているけれども、本書を読む限りでは、香山にそのような認識などかけらもないことは明らかだ。

 しかしながら、香山はそのようなヒロイズムに浸ることによって、実証的な議論を参照すること、あるいは実証的であるように心がけることを放棄している。同書が客観的な根拠をことごとく欠いていることも、これが原因であろうか。

 香山は、特に『ぷちナショナリズム症候群』を出した直後から、左派の若者論の指標として、その際前線で活躍してきた。それまでは自己満足の如きエッセイや、あるいは精神分析の流行の受け売りでしかなかったのが、同書によって急に最前線に出ることとなったのだ。爾来、香山は、特に若年層の「右傾化」なるものを嘆く記事で頻出するようになった。そして、その歴史は、香山の「劣化」(!)の歴史でもあった。左派が少年犯罪や青少年の規範意識に関して、実証的な視点からの反論を試みなかった、あるいはほとんど採り上げなかったことに関しても、香山という存在があったから、ということは大げさだが、少なくとも左派は若年層に関して、理解してあげるそぶりを見せながら、本音ではバッシングしてきた(その象徴としてあるのが、本書にも一部だけだがある「ネット右翼」論である)。その象徴が香山であったのかもしれない。

 とりあえず本書に関して私が言えることは、香山こそが「劣化」した、ということだ。香山は同書の中で、日本人が「劣化」している!という自らのでっち上げた物語に酔い、もはや何も見えなくなってしまった。これ以上、香山の自己満足に我々は付き合っている必要はない。それと同時に、左派もこのように何も生み出さなくなってしまった香山とは一刻も早く決別すべきだ。優れた論者はいくらでもいる。

 とはいえ、私如きがこのような文章を書いたとしても、香山の地位は低下しないだろう(第一、このように無意味な本が平気で出版されているのだ)。ただし、私は、香山の言説を嬉々として受け入れている読者や編集者に対して訴えたいことがある。香山の言説は、結局のところ中高年層と若年層を分断させ、上の世代が下の世代に対して「こいつらが生きづらいのは自己責任だ」と罵るようなものでしかないということだ。そしてそのような言説ばかりが蔓延する将来像とは何か、考える必要があるのではないか。少なくとも香山の暴走を止めることができるのはあなた方しかいないのだ――と。

 引用文献、資料
 後藤和智「左派は「若者」を見誤っていないか」(仮題)、「論座」2007年6月号、ページ未定、2007年5月(近刊)
 池田謙一(編著)『インターネット・コミュニティと日常世界』誠信書房、2005年10月
 浜島幸司「若者の道徳意識は衰退したのか」、浅野智彦(編)『検証・若者の変貌』pp.191-230、勁草書房、2006年2月
 香山リカ、森健『ネット王子とケータイ姫』中公新書ラクレ、2004年11月
 香山リカ『なぜ日本人は劣化したか』講談社現代新書、2007年4月

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2007年4月17日 (火)

本能の罠 ~戸塚宏『本能の力』から考える~

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 戸塚宏(戸塚ヨットスクール代表)が、平成19年4月の新潮新書の新刊として『本能の力』なる本を出した。とりあえず本書に対する感想としては、単なる自己肯定というか、ひたすら「自分は悪くない」ということが書かれているばかりであり、ある意味では駄々をこねているような本と言えるかもしれない(笑)。同スクールに批判的な人は、同書を読んで、「戸塚は全く反省していない!」と憤慨するかもしれないが、まあ実際そのとおりではある。とりあえず、同スクールがどのような理念で「教育」を行なっているかということが書かれており(まあ戸塚が出所したあとも自殺者が出ているわけだけれども(「週刊現代」平成18年11月28日号、pp.34-37)、その点に関する言及は一切なし)、その点においては資料的価値は確かに「ある」。

 しかし本書において真に問題とすべきは、第1章の体罰を肯定している部分ではない。そうではなく、本書のタイトルである「本能の力」という部分にある。

 まず戸塚の事実認識における間違いを検討しておきたい。以前私が石原慎太郎と義家弘介の対談を批判したときにも、広田照幸による研究を引き合いに出して反論したが(広田照幸[2001])、別に「体罰禁止」は戦後民主主義教育の元で行なわれたものではなく、明治の比較的早い時期から体罰は禁止されていた。戸塚も石原や義家とほぼ同等のことを言っているが(戸塚宏[2007]pp.23-24)、とりあえずこのことくらいは踏まえておいて欲しい。もう一つ、我が国において不登校が増加したのは、子供たちにおける「本能の力」が衰退したからだ、という認識があるけれども、滝川一廣によれば(滝川一廣[2007]pp.227-230)、少なくとも統計的には、現在よりも昭和30年代のほうが長欠率は高かった(さらに言えば我が国よりも英国や米国のほうが長欠率は高い)。もちろん、長欠や不登校に関する質的な変容は一部に見られるのだけれども、まあ統計的にはこのような事実があることを押さえておけばよろしい。もちろん、少年犯罪(まえがき)や「ニート」(第8章)に関する勉強不足も目立つ。これらに関しては、著書も含めてとにかくいろいろなところで解説してきたので、わざわざ繰り返すこともないと思うが(とりあえず前者に関しては、浜井浩一、芹沢一也[2006]を、後者に関しては、乾彰夫[2006]と雨宮処凜[2007]を参照されたし)、これらに関しては著者がそこらで聞きかじった話をそのまま記述してしまっているのは明らかである。

 事実認識に関する検討はこのくらいにして、同書において本当に問題とすべきのはどの部分なのか、ということについて述べていこう。

 さて、戸塚が本書においてその重要性を繰り返し述べるのは、戸塚が言うところの「本能の力」である。戸塚は、同書の「まえがき」において、以下のように述べている。

―――――

 本書で述べたいことは、現代の子供たちが深刻な状況にあるのは、「本能」の弱さに原因があるということです。本能を強くしてやれば、子供の抱える問題の多くは解決できるのです。そして、その本能を強くするには、体罰がきわめて効果的であることを私は現場で経験的に学び、数多くの実績を残してきたのです。

 ところがマスコミは、子供が抱える問題の本質には一切目を向けず、体罰ばかりを問題にします。彼らは自分の頭で考えることなく、戦後教育の欺瞞の象徴ともいえる「体罰禁止」を盲目的に信じ込んでいます。その間違った前提をもとに私を批判しているとしか思えません。

 私に質問をした記者はその典型でしょう。そんな批判を繰り返したところで、子供の抱える問題が解決するはずはありません。(戸塚、前掲pp.15)

―――――

 まあ、言い訳としか言いようのない文章ではあるが、戸塚の言説においては、「本能」の前には全ての実証的な教育言説が無力と化する。先ほど挙げた実証的な視点が見られないことは、ひとえにこのような認識が戸塚に横たわっているからか。同書においては、教育や青少年に関する記述のほとんどが、戸塚の直感で書かれているが、戸塚の言っていることに関する客観的な裏付けはないものばかりである(戸塚、前掲pp.85の部活動に関する記述など)。

 「いじめ」だって肯定される。戸塚によれば、「いじめ」という言葉を聞いて想起されるような「いじめ」とは、本来の「いじめ」とは違うという。

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 昔は異年齢集団という形で、子供はグループを作って遊んでいました。第一次反抗期に子供は母親に憎まれ口を叩いたり、言うことを聞かなくなったりします。その行動は、「母親から離れて外へ出て遊びたい」という欲求と結びついています。この欲求は進歩を促すものです。だから、三歳くらいから子供は自ら外へ出て子供同士で遊ぼうとします。このときに異年齢集団に入るわけです。この集団は三歳から十三歳くらいまでの子供たちで構成されていました。

 この集団の中では、小さな子供は大きな子供の支配を受ける。そして何年か後には自分が支配者になる。人間は被支配、支配その両方を経験しないと駄目です。被支配の経験が支配の能力を作り出していくのです。

(略)

 もちろん、支配階級の子供たちは本能でいじめているのであって、理性的、教育的観点からいじめているわけではないでしょう。それでも、子供は被支配時代にいじめられることによって進歩していきます。いじめられることによって、子供は子供なりに考えます。なぜいじめられたのか、いじめられないようにするにはどうしたらよいのか、と。

 いじめというのは本来、本能的であっさりとしたもので、相手を適切に評価しているだけなのです。体罰と一緒で、相手の利益のためのものです。そして、必ず出口があります。(戸塚、前掲pp.65-66)

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 ただし、残念ながら、戸塚の言っていることは単なる美辞麗句でしかないだろう。第一に、果たしていじめている側の評価が正当である、ということは誰が決めるのだろうか。戸塚は本書の別のところで、「体罰」の定義を《相手の進歩を目的とした有形力の行使》(戸塚、前掲pp.20)としているが、これも同様で、「相手の進歩を目的と」する、ということが、もしかしたら有形力を行使する側の身勝手である可能性を否定することはできないだろう。第二に、このように戸塚が「今の「いじめ」は間違っている、正しい「いじめ」はこういうものだ」としても、そのように述べることによって、果たして現在横行している「いじめ」をどのように解決するのか。その点に関しての言及が少しもないまま、戸塚はこのように語ってしまっているのだから、まさに美辞麗句としか言いようがないのだ。

 「本能」に依存してしまうと、特に労働環境や経済の問題が大きい問題に関しての不勉強も正当化されてしまうようで、戸塚は「ニート」に関して以下のように問題の多い記述をしている。

―――――

 こういう子供の親に話を聞いてみると、共通項らしきものがありました。それは、本当に腹を空かせた経験がない、ということです。少しでも腹が空くと、スナック菓子か何かを口に入れる。幼児の頃からずっとその調子で育ってきた。ヨットスクールに入って規則正しい暮らしをして、初めて空腹感を味わったという生徒が大勢います。

 果たして、そんなふうに育った子供が中学生、高校生になってから、生産する喜びを感じることができるのか。私は絶望的な気持ちに襲われました。とにかくできるかぎりのことはやってみようと試行錯誤を始めました。誰かが少しでも彼らの本能を解発する手伝いをしてやらなければ、彼らは生産すること、つまり仕事に喜びを感じることなく人生を送らなければならない。あまりに哀れです。(戸塚、前掲pp.161)

―――――

 経団連とか「若者の人間力を高めるための国民運動」あたりが都合よく利用しそうな認識だなあ…などという邪推はさておき、少なくともこのことが当てはまるのは、戸塚のスクールに入所してくるような一部の子供であって、戸塚が問題にしているような「ニート」全般ではない。そもそも既に多くのところから、「ニート」は労働問題である、という認識が提出されているのだが、その点に関する配慮に欠けているのではないか。

 さて、ここまで、私は戸塚における認識を批判してきた。具体的に言えば、戸塚の認識に通底しているのは、現代の子供たちや青少年、若年層における問題の「本質」(つくづく戸塚はこの言葉が好きだよなあ)は、彼らにおける「本能の力」の衰退が根本的な原因であって、その原因は、戦後民主主義教育を代表とする「本能」や「力」を否定するような教育である、ということである。もちろん、このような認識に浸ることによって、戸塚が社会的な要因を排した議論を行なっていること、そしてその問題はここまで述べてきたとおりだが、このような認識を元に青少年や若年層について語っているのは、何も戸塚だけではない。

 例えば澤口俊之がいる。澤口は、やはり戦後民主主義教育をはじめとする、「適切な環境」から逸脱した子育ての環境が原因で、現代の青少年はおかしくなった、という認識を述べているが(澤口俊之[2000])、これに関しても、そもそも青少年に関する認識や客観的事実を踏まえていない点において問題がある言説と言うことができる(そういえば、澤口は理想的な環境として戸塚ヨットスクールを挙げていた。どこか象徴的だなあ)。

 そして、このような言説を振りまいているものの代表として、私は筑紫哲也を挙げることとする。読者としては、戸塚と筑紫は対極に位置するような人物だろう、と述べられる方もいるかもしれないが、筑紫の言説は、実際のところは戸塚とはかなり近いところにあるのだ。以前筑紫を批判した文章から、再度引用することとしよう。

―――――

 この国の子どもたちは、生きもの(動物)としての人間が経験する実感から極力切り離される環境で育てられている。寒い、暑い、ひもじい、そして痛いという感覚から遠ざかるように日常が組み立てられている。何度も言うことだが、この国ほど、野に山に川にまちに子どもが遊んでいない国は世界中どこにもない。(筑紫哲也[2005])

―――――

 いかがであろうか。この文章を読めば、少なくとも筑紫の認識は、根底のところで戸塚と相違ないではないか。

 追い打ちとしてもう一つ。

―――――

 子どもたちを一週間、自然のなかに置く。そこでどう遊ぶか、大人は指図せず放って置く。大人は野で寝そべっていて、子どもたちが危ないことにならないようにだけ注意しておればよい……。

 普段あまりにも「自然」から切り離されている者が、そこに戻ることは人間が生きもの、いや動物の一種だと実感する大事な機会だと私も思う。寒い、暑い、痛い、快い、など肉体の実感から遠ざかるように育てられている子どもたちにとっては、なおさらである。だが、これだけ遠ざかってしまうと、そこに回帰するのは容易ではない。

(略)

 自然のなかで過ごさせようと、山の中に泊めると、林のそよぐ音、谷川のせせらぎの音、虫の鳴く音などがうるさくて眠れない都会の子が多い。戻った都会の自宅は人工音だらけなのだが、そこではぐっすり眠れるという。

 虫の音に美しきを感ずるのが日本人の感性で、「騒音」と見なす西洋人とそこがちがう――というのが長らく日本人ユニーク論の論拠のひとつだったのだが、そういう日本人はやがて絶滅に向かうだろう。(筑紫哲也[2006]pp.88-89)

―――――

 いかがであろうか。結局のところ、「左派」であるはずの筑紫もまた、若年層における「自然」の喪失が全ての問題の起点である、というような認識を述べているのだ。

 私はこれは危険なナショナリズムの兆候であると考える。なぜなら、少なくとも彼らの議論は、第一に青少年に関して述べる際に重要である、犯罪統計などのデータを元にしていないという問題点があるが、それよりももっとも大きな問題点として、彼らが自らの生活環境、あるいは思い出を理想とし、なおかつそれが崩壊したことこそが物事の本質である、と考えている。裏返せば、彼らの理想とする生活環境が「あった頃の」日本人と、それが「ない」異形としての「日本人」(「今時の若者」!)に、身勝手に線を引いて考えているのである。

 そしてこの根底にあるのが、いわば(かつての)「日本」に対する無条件の信頼である。要するに、「かつての」日本人は無謬出会ったが、何か「問題のある」生活環境が開発された、あるいは輸入されることによって、「かつての」すばらしい日本人が壊された、という点に関しては、実際のところ多くの人が支持しているのである(戸塚、澤口、筑紫のみならず、例えばそのような傾向は、近年の高村薫や香山リカにも見られるものだ)。立ち位置の左右にかかわらず、そのような認識ばかりが横行しているような現在においては、もはや青少年に関する、科学的、客観的な議論は、もはや望めない、ということができるかもしれない。

 だが、事実や統計に基づいた研究が如実に示すのは、結局のところ問題の構造には普遍的なものと、時代によって特徴的なものがあり、さらに言えばそれらを青少年個人の問題に押しつけてはならない、ということだ。その点を踏まえない議論など、単なる理想論、あるいはイデオロギーの押しつけで終了してしまうだろう。いや、それだけではまだいいのだ。問題は、「解決策」に関しては違うことばかり述べているにもかかわらず、結局根底の認識が同じだから、なんだかんだ言って「今時の若者」は以上だ、というところで大同団結してしまうことである。そしてその兆候は既に出始めている。

 教育再生会議などの問題の多い教育政策に対して、実証的な、あるいは経済論的、政策論的な視点からの批判や反論ではなく、イデオロギーにイデオロギーをぶつけるような批判しかないというのも問題だ(その点では、いわゆる「学力テスト」の訴訟の原告として子供をダシにするのも大問題だ)。大事なのは、厳密に事実や統計に基づいた批判であって、言うなれば民主党や社民党、あるいは共産党などの野党の議員が、単純に少年犯罪は減少しており、「ニート」は労働問題であるという認識を示せばいいのである。

 また、戸塚をはじめとして、「こうすれば青少年問題は解決する!」と主張する人が多いが、確かに彼らの主張する方法論を用いれば、「彼らの施設に入所してくるような」青少年の抱える問題は解決するかもしれない。しかしながら、青少年全体の問題が解決するというのは、単なる妄想に過ぎないのではないか。このことに自覚的な「支援者」「教育者」は、私の知る限りでは、残念ながら工藤定次など極めて少数である(もっとも、工藤に関しても「家族丸ごとニート」なんて変なことを言っていたりするけれども…)。

 引用文献
 雨宮処凜『生きさせろ!』太田出版、2007年3月
 筑紫哲也「フツーの子の暗黒」、「週刊金曜日」2005年11月18日号、金曜日、2005年11月
 筑紫哲也『スローライフ』岩波新書、2006年4月
 浜井浩一、芹沢一也『犯罪不安社会』光文社新書、2006年12月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』、名古屋大学出版会、2001年1月
 乾彰夫(編著)『不安定を生きる若者たち』大月書店、2006年10月
 石原慎太郎、義家弘介「子供を守るための七つの提言」、「諸君!」2007年3月号、pp.124-138、文藝春秋、2007年2月
 澤口俊之「若者の「脳」は狂っている――脳科学が教える「正しい子育て」」、「新潮45」2001年1月号、pp.92-100、新潮社、2000年12月
 滝川一廣「不登校はどう理解されてきたか」、伊藤茂樹(編著)『リーディングス 日本の教育と社会・8 いじめ・不登校』日本図書センター、pp.227-242、2007年2月、初出1998年
 戸塚宏『本能の力』新潮新書、2007年4月

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2006年8月19日 (土)

正高信男という零落

 平成18年8月の講談社ブルーバックスの新刊として、曲学阿世の徒・正高信男氏(京都大学教授)による『他人を許せないサル』が出た。

 はっきり言っておくが、本書は、書評するに堪える代物ではない。なぜなら、著者の単なる思いこみが、ただただ連発されているだけなのだ。客観的なデータはほとんどなし、あっても極めて問題の多い統計だったりする(例えば、魚住絹代[2006])。

 本当に退屈な本なのだ。若者論オタクの私からしても、本書に書かれていることはどこかで聞いたような「愚痴」ばかりであり、ちっともおもしろくない。そのため、15分もかからないうちに読了することができた(付箋をつけながら!)。

 内容としては、『人間性の進化史』(NHK人間講座テキスト)及び、それを並べ替えただけの代物である『考えないヒト』(中公新書)と全く変わりがない。それどころか、特に後者を引いて、「事態はますます深刻になってしまった」と言ってしまっている始末の箇所まであるのだ。

 というわけで、このエントリーでは、私が見つけた主要なつっこみどころを列挙していくこととする。

 ・31ページ。電車内における携帯電話の利用(まあ、その観察も所詮は著者が見ただけなのだが)に関する記述、《彼ら(筆者注:電車内で携帯電話をいじる人たち)はケータイで何かの情報を検索しているのだろうか。字幕でいち早くニュースを入手しているのだろうか。いや、むしろ、メールのやりとりをしている頻度の方が高いに違いない》。そんなに簡単に断定するなよ。

 ・34ページ。著者によれば《ケータイの人口普及率では世界でもっとも進んでいる欧米でも、ケータイをこぜわしくそうさはまず見られない》。その証拠は?せめて写真くらい見せてくれ。

 ・37ページ。《日本人は世代を問わず、ともかく座りたがる》と書き、《身体的に緊張を保つことが困難になってきている》とする。そういうことを言うなら、かつてはどうだったか、ということを示すべきでは?

 ・45ページ。「右脳人間」「左脳人間」という言葉が出てくるが、右と左がそれぞれ別の役割を担っている、という考え方に関しては有意な批判がある(ロルフ・デーゲン[2003]、352~361ページ)。っていうか、このネタって前著の使い回しでしょ。

 ・88ページ。《いまの子どもたちというのは、目の前でいじめられている友だちがいても、その痛みを感じられない。自分の延長したところに、友達という存在を位置づけられない。テレビゲームで起きていることと、学校のクラスで起きていることが一緒になってしまったのが、テレビげーむっこの特徴だろう。つまり、現実と仮想の区別がつかないといった状況なのだろう。我々がイラク戦争をテレビで見ているのと同じような感じ方なのかもしれない。つまり、自我の延長の濃淡というものがなくなってしまった》だとさ。いささか無理のありすぎるアナロジーだ。

 ・105ページから106ページにかけて。小見出しに曰く《激増するケータイ犯罪》。しかし著者は、下田博次『ケータイ・リテラシー』(NTT出版)に引用されている事例2件だけを引いて、このような犯罪が増えるものであると確信しているようだ。しかしたったそれだけの事例でいいのだろうか?

 ・112ページ。先ほど述べたとおり、あまりにも統計学的に問題の多い、魚住絹代『いまどき中学生白書』(講談社)を真に受けている。これに関しては、私の「2006年1~3月の1冊」における書評、及び「たこの感想文」と「冬枯れの街」による批判を参照されたい。

 ・119ページ。「絵文字の使用は言語という抽象的表記スタイルを捨て去ったという点でユニークであり、それはコミュニケーションの退化である」という珍説を性懲りもなく展開している。このネタも使い回しだあ。

 ・141ページから142ページにかけて。完全にステレオタイプだけの「ひきこもり」イメージを展開している。すなわち、「ひきこもり」はネット中毒者でコミュニケーションを放棄した存在である、というもの。これを読むだけでも、少なくとも我が国における「ひきこもり」に関して全く無知であることがわかる。

 ・156ページ。括弧の中だが、《筆者個人は基本的にサルの行動になじんだ研究者である。だから、もっともっとサル化した人間がそこら中に溢れるのをじっくり見てみたいものだと願っている》キター!!

 ・159ページ。あくまでも核家族を悪者に仕立て上げたいらしい。これも使い回しのような気がする。

 などなど。これほどまでにどうでもいい記述が並ぶような本なのだ。繰り返すが、若者論オタクの私の目から見てもちっともおもしろい本ではない。このような本が、権威ある講談社ブルーバックスから出ている、ということに驚嘆したい人だけ買えばよろしい。

 それにしても、である。かつての正高氏、具体的に言えば『ケータイを持ったサル』の頃の正高氏は、どう見てもおかしいデータやグラフ、そしてでっち上げではないかと思わせるほどのボケをかましているような実験結果までも含めて、少なくとも「子供だまし」のテクニックは持っていたような気がする。そしてこのような「子供だまし」は、森昭雄然り、澤口俊之然り、岡田尊司然り、速水敏彦然り、丸橋賢然りと、本来「専門家」や「臨床医」であるはずの俗流若者論者の論理に共通してみられるものである(森氏の『ゲーム脳の恐怖』がトンデモ本大賞の候補に挙がったのも、ひとえに「子供だまし」があまりにも滑りすぎていたからだろう)。しかるに、『人間性の進化史』以降の正高氏は、そのような「子供だまし」すらも捨て去った。要するにこの系統の本をトンデモ本たらしめている要素である、「子供だまし」が滑ってしまう可能性がないのだ。なぜなら滑ってしまう「子供だまし」それ自体がないから。そして残ったのは「自分が不快に思うのは無条件に退化の証なのだ」という「子供だまし」どころか「子供の論理」だけだ。むしろその点を追っていきたいと思うのだが、いかがか。

 引用文献
 ロルフ・デーゲン『フロイト先生のウソ』文春文庫、2003年1月
 魚住絹代いまどき中学生白書』講談社、2006年3月

 参考文献
 こんな駄本を読むくらいなら以下の本を読め。
 ・青少年の行動、及び青少年のメディア使用について
 浅野智彦(編)『検証・若者の変貌』勁草書房、2006年2月
 岩田考、羽渕一代、菊池裕生、苫米地伸(編)『若者たちのコミュニケーション・サバイバル』恒星社厚生閣、2006年3月
 山崎敬一(編著)『モバイルコミュニケーション』大修館書店、2006年3月

 ・ウェブの将来像について
 佐々木俊尚『グーグル』文春新書、2006年2月

 ・青少年犯罪について
 浜井浩一(編著)『犯罪統計入門』日本評論社、2006年1月
 芹沢一也『ホラーハウス社会』講談社+α新書、2006年1月

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2006年5月24日 (水)

『退化する若者たち』著者・丸橋賢氏への公開質問状

〈読者の皆様へ〉

 平成18年5月のPHP新書の新刊として、丸橋全人歯科院長・丸橋賢氏が、『退化する若者たち』なる本を上梓しました。

 しかしこの本は、同種のあらゆる本と同じように、現代の青少年に対して劣っている存在とレッテルを貼り付け、またいかに現代の青少年の生活環境が「生物学的に異常」であり、著者の理想とする一昔前の――つまり、著者が子供だったころの――生活環境が「生物学的に正常」であるか、ということを、論理の飛躍や青少年問題に対する乏しい認識で持って「正当化」するような本です。

 本来であればこのような本は、このブログやbk1書評などで批判的に採り上げる類のものです。しかし今回は、あえて公開質問状という体裁を採らせていただいております。

 なぜこのような行為に及んだかということに関する理由は次のとおりです。第一に、丸橋氏は本書の中において、「ニート」「ひきこもり」「不登校」などという形で表現される現代の若年層のいわゆる「無気力症」を、歯の噛み合わせの力の低下から来る「退化病」であるとしきりに表現しております。「退化」だけ、あるいは「病」だけ、というのはいくらか見たことがあるのですが、それが結びついてしまった例はかなり稀少です。しかもしきりに現代の若年層を「退化病」と表現しており、類書の中でもレイシズム(人種差別)の割合は高い部類に属しております。

 第二に、本書が青少年に対する「治療」の口実として使われるのではないか、ということです。本書の中においては、青少年の「治療」に「成功」した事例のみが列挙されている上、巻末の著者プロフィール(カバーのほうではない)には著者への連絡先が掲載されています。もしかしたらこのような本は、「ひきこもり」や「不登校」の人たちに対する社会的な支援を否定し、また「ニート」問題から労働経済問題を引き離し、医学的な「治療」の強制につながってしまうのではないか、と私は危惧しております。

 丸橋氏には、このブログの記事の内容に、私への連絡先を書き加えた「公開質問状」を、平成18年5月23日付でクロネコメール便にて、私もかかわっている本である『「ニート」って言うな!』(光文社新書)、および、私、そして貴戸理恵氏(東京大学大学院博士後期課程在籍)や雨宮処凜氏(作家)などのインタヴューやエッセイ、及び斎藤環氏(精神科医)の論考が掲載されている「ビッグイシュー日本版」平成18年5月15日号を同封して送付しており、24日に到着する予定です。

 読者の皆様のご理解のほど、よろしくお願いいたします。

 (5月24日補記:ご指摘により、誤字を訂正しました。丸橋様、丸橋全人歯科の関係者の皆様、及び読者の皆様に深くお詫びを申し上げます。)

――――――――――――――――――――

 丸橋全人歯科 院長 丸橋賢様

 はじめまして。

 東北大学工学部建築学科4年の、後藤和智と申す者です。

 突然のお手紙で失礼いたします。

 本日は、丸橋様が本年5月18日に出されました、『退化する若者たち』(PHP新書。以下、「同書」と表記)の内容に関しまして、それに強い遺憾の意を示すとともに、同書におきまして「退化する若者たち」と批判されている世代と同世代の人間として抗議する目的で、筆を執った次第であります。

 なお、この質問状は「公開質問状」という体裁をとっており、これと同内容の文章が、私のブログにて掲載されます。もし丸橋様がご返答されるのであれば、全文を引用してもかまわないか、あるいは要旨だけにしていただくか、あるいは掲載をお望みにならないかということを明記されると幸いです。

 なにとぞご容赦ください。

 本題に入ります前に、私のことについて簡単に述べさせていただきたいと思います。

 私は昭和59年(1984年)、岩手県釜石市――かつて新日本製鐵の企業城下町として栄えた町で、新日鐵釜石のラグビーチームは、地域リーグとなった今でも有名です――に生を受けました。そして、福島県いわき市(~生後11ヶ月、および小学6年~中学卒業)と宮城県仙台市(生後11ヶ月~小学5年、および高校1年~)で育ちました。現在、冒頭にも示しましたとおり、東北大学工学部で建築学を学んでいます。

 また、最近は、青少年問題に関して物書きとして仕事もしております。そもそも私が青少年問題に興味を持ったのが平成12年(2000年)、いわゆる「17歳」がキーワードとなった年です。そしてそこにおける青少年に対する「語り口」への疑問から青少年問題言説の研究を個人的に行うようになり、大学に入ってからは新聞や雑誌に投稿し、平成16年(2004年)11月――大学2年のときです――に、青少年問題言説研究をテーマとしたブログ「後藤和智事務所 ~若者報道と社会~」を開設しました。後に「新・後藤和智事務所 ~若者報道から見た日本~」とリニューアルし、現在に至ります。

 そもそも私が青少年言説の「おかしさ」に本格的に気がついたのが、平成13年における「荒れる成人式」報道です。それ以来、特に成人式に関しては強い関心を持ち続け、平成17年と平成18年に2年にかけて、仙台市成人式実行委員会として、仙台市の成人式の企画・運営にかかわってきました(平成17年は副実行委員長)。いずれも大成功を収めました。

 平成18年には、本田由紀氏(東京大学助教授)にお誘いいただいて、初の著書となる『「ニート」って言うな!』(光文社新書)を、本田氏と、内藤朝雄氏(明治大学助教授)との共著として出版しました。それ以降、主としていくつかの青少年関係のNPOからイヴェントやトークショーのお誘いをいただいて、その都度参加しております。今年6月には、2冊目の著書が、これも10数名の共著ですが、双風舎から出る予定です。

 さて、これより本題に入ります。

 丸橋様は、同書において青少年における不登校や「ひきこもり」の増加、および「ニート」の増加に関して、その原因は社会的なものではなく、むしろ若年層における「生物学的な」変化であるとしております。

 しかし、青少年問題言説に深くかかわってきた私としましては、なぜ丸橋様がそこまで自らの理論に
自信を持てるのか、ということが理解できないのです。

 ・青少年問題をめぐる認識について

 そもそも同書における、丸橋様の青少年問題に関する認識が極めて杜撰なのではないか、ということです。

 第一に、丸橋様は、冒頭(3ページ)において、以下のように書かれております。曰く、

―――――

 「日本人の活力は低下しているのではないか」と、危惧している人は多い。

 とくに若者に対してである。若いくせに元気がなく、動きが鈍く、反応が遅く、耐久力がなく、疲れやすい。さらに、やる気がない。精神的に虚弱で、人間関係や社会の関係から破綻し、脱落する者が増加している。

 不登校生徒やニートと呼ばれる働かない若者が社会問題となって久しい。

 しかも、活力や能力の低下という状況を超えると、人格の崩壊に進んでしまい、暴力や非行、犯罪をひき起こす例も多くなっている。その犯罪の内容も、きわめて非人間的なものが多い。

―――――

 と。

 少なくとも、この部分だけに関しても、たくさんの事実誤認が確認できます。

 例えば、故・小此木啓吾氏(精神科医)が、「モラトリアム人間」なる造語を発表したのが、昭和46年(1971年)のことで、その「モラトリアム人間」の心理構造が我が国のあらゆる年代・階層に共有する性格である、と発表したのが昭和52年(1977年)です(注1)。その年代においていわゆる「若者」と呼ばれていた人たち(つまり、昭和25年~35年ごろに生まれた人たちです)は、丸橋様の定義するような「退化病」が進行していた世代の範疇から外れています。

 さらに言えば、古代エジプトの壁画から「今時の若い者は…」という趣旨の文章が発見された、とも言われますから、大人たちが、同時代の青少年を嘆いていた、というのは、洋の東西と時代を問わず普遍的に存在するものでしょう。

 しかしながら、現代の青少年言説は、そのような、いわば「伝統的」な青少年不信の範疇からさらに逸脱しているようにも思えます。残念ながら、丸橋様の青少年論も、この「逸