2007年9月15日 (土)

統計学の常識、やってTRY!SPECIAL ~三浦展『下流社会 第2章』を嗤う~

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 たこの感想文:(書評)下流社会
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 冬枯れの街~呪詛粘着倶楽部~:立つ安倍、後を濁した環境「問題」~脱地球的兎問題とダンス~
 すごい生き方ブログ:「反撃タイムズ」第二回!!
 西野坂学園時報:武道必修化にカタルシスを感じる愚劣老人ども
 女子リベ  安原宏美--編集者のブログ:刑務所で自己実現・・・
 POSSE member's blog:職場のメンタルヘルス①

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 『下流社会 』(光文社新書)を平成17年9月に出して、それでベストセラーを飛ばした三浦展は、それ以降、連綿と同工異曲と言っていいような本を出し続けた。私はそれらについて、いちいちチェックして買い集めてきたわけだが、いい加減『難民世代』(NHK出版生活人新書)あたりで食傷気味になってしまった。というのも、三浦の言説においては、その根本において以下のような問題を抱えており、とてもまともな議論とは言えないからである。

 1. 三浦はいつも膨大なアンケート調査などをもとにして本を書くけれども、一応全国調査もあるけれども、詳細な調査については東京都とその周辺の3県(埼玉、千葉、神奈川)だけにとどまっており、他の都市圏(大阪など)との比較もないし、地方に至っては言わずもがな。彼の地方に対する態度は『ファスト風土化する日本』(洋泉社新書)に端的に表れており、せいぜい「重大な」少年犯罪が起こった場所にタクシーで行く程度でその地方の根本的な問題がわかった気になっている。週刊誌の記者でももっと取材するだろう。

 2. 三浦が「下流」と判断した人間(あるいは社会階層)に対しては、これでもかといわんばかりの罵倒を投げつけている。その態度は『仕事をしなければ、自分はみつからない。』(晶文社)と『「かまやつ女」の時代』(牧野出版)に顕著に表れている。

 この2点が三浦の根本的な問題なのだが、多くの人はこれに気づかずに、ただひたすら三浦の言説をありがたがっている。2で採り上げた著書に対する批判で述べたとおり、三浦の言説は極めて差別的な色を含んでいる。

 さて、このたび発売された、三浦の『下流社会 第2章』(光文社新書)を手に取ってみたわけだが、本書は間違いなく三浦がここ2年ほどの間に粗製濫造してきた著作の中でも最も悪い部類にはいるのではないかと確信した。三浦における、三浦が勝手に名付けるところの「下流」の人間に対する罵倒はもはや揺り戻しが不可能なくらいの地点まで進んでおり、それが、今回の著作における自分でとったアンケート調査の解釈の仕方に顕著に表れているのだ(というわけで、今回は「統計学の常識、やってTRY!」の特別版としてお送りします。というより、このシリーズ自体およそ2年ぶりだ)。

 まず、三浦の社会調査に対する認識が、大学の学部生レヴェルどころか、新書レヴェルの領域すら達していないことは、三浦が《毎度おなじみ》(三浦展[2007](以下、断りがなければ全てここからの引用)pp.3)として前書きに書く「下流度チェック」を見れば明らかだろう。今回もいくつかの項目が上がっているけれども(莫迦莫迦しいので書く気にもなれない)、本書は、三浦の怪しげなアンケート調査が、1億歩ほど譲って正しいものであると仮定しても、それは単に階層意識が「下」と答えた人がどのような意識や行動をとっていることを立証したに過ぎないのであって、こう考えているならお前は「下流」だ、と罵るための材料にはならない。要するに三浦は、統計のイロハのイ、つまり相関関係と因果関係の区別が付いていないのである。

 三浦の社会調査の知識が「この程度」であることを念頭に置いて、同書を検討していくこととしよう。本書の構成は以下の通りである(伊奈正人のブログから引用)。

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目次
第1章 すがりたい男たち
第2章 SPA!男とSMART男
第3章 上流なニート、下流な正社員
第4章 下流の自分探しを仕組んだビジネス
第5章 心が弱い男たち
第6章 危うい「下流ナショナリズム」
第7章 踊る下流女の高笑い――女30歳の勝ちパターンはどれか?
おわりに――あたらしい正社員像を描くべき時代

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 本書においては、主として第2,3,6章を中心に検討しておくこととする。まず、第2章については、三浦のアンケート調査の分析に対する意識が如実に表れているからである。また、三浦が、自らが「下流」と名付けたものたちに対して、これでもかと罵倒を続ける様が、後ろの2つの章にはっきりと現れているからだ。なお、採り上げないものの中でも、第1章は、延々と自慢話ばかりが続くので、採り上げるのも莫迦らしい。また、本書はあくまでも階層「意識」を中心に語られており、収入や支出などによる階層については語られていない。ちなみに当然のことながら、収入及び支出と階層「意識」の関連性も示されていない。

 まず第2章から。何せこの章は、調査結果の曲解や牽強付会が多い。例えば、こんな感じに。

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 それからおもしろいのは、『週刊プレイボーイ』で、派遣社員が11.1%と他の雑誌に比べてかなり多い。『週刊プレイボーイ』はしばしば反中国、反韓国的な記事を書くが、実際、30~34歳の派遣は61%が中国は嫌い、53.8%が韓国は嫌いと答えており、かつ同じく61.5%が反社会的な書き込みの多さで悪名高いインターネットサイトの「2ちゃんねる」を利用していると回答している。これは25~29歳のフリーターの77.3%に次ぐ高さである。30歳前後の一部の非正社員たちの抑圧された感情が、反韓・反中意識となって現れていることが推測される。(pp.43)

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 ここまで強引な解釈も珍しい。第一に、《反中国、反韓国的な記事を書く》雑誌として真っ先に「週刊プレイボーイ」を挙げているが、例えば「週刊新潮」などはどうなのだろうか。このアンケート調査でも採り上げられているが、三浦はこれについて記述していない。第二に、雑誌の購読者層については全ての年代のデータを用いているが、反韓・反中意識については就業形態の、しかも年齢別のデータを用いている。ここで必要なデータは、「週刊プレイボーイ」を読むものの反韓・反中意識と、そして「2ちゃんねる」の利用者率だろう。

 また三浦は49-51ページにかけて、購読誌別での政党の支持層を記述しているが、これの分析も強引である。ちなみに少しだけ注意しておくと、51ページでいきなり《秋葉原にいるオタク》という階層集団が出てくるけれども、この周辺の記述を見れば、《秋葉原にいるオタク》=「消費好きでパソコン好きな下流」、という『嫌オタク流』レヴェルの(笑)偏見を持っているのかもしれない。

 などとふざけるのはやめにしておいて、57ページも見てみよう。

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 また、SMART男(筆者注:雑誌「SMART」の購読者層)の居住地は埼玉県が32.3%と非常に多く(男性平均は19.1%)、買い物などでよく行く街としては新宿、地元、池袋、渋谷、原宿、お台場、表参道に次いで大宮が22.6%、そしてよく行く店として丸井、パルコに次いでルミネ、イオンが挙がっている。

 つまり、埼玉県在住で、日頃は地元のイオンか大宮のルミネか丸井でぶらぶらし、たまに渋谷、原宿に買い物に出てくるフリーターが多い読者層であることがわかる。(pp.57-58)

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 わからねえよ!

 さて、三浦の頭の悪さ(笑)を白日の下にさらした上で、本番の第3章に移行しよう。三浦は、若年層の非正規雇用者は本当は正社員になりたくない、ということを示そうと必至になっているのだが、これがとにかく笑えるのだ。

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 (筆者注:三浦は、朝日新聞が行なった、いわゆる「ロスト・ジェネレーション」に対する調査を引き合いに出している)まず、あなたは今後正社員として働きたいと思いますか。非正規雇用の社員のまま福利厚生面の待遇を上げてほしいですか」という質問に対して、「正社員として働きたい」と回答したのは男性派遣社員の53%、男性パート・アルバイト・フリーターの42%にすぎなかった。「非正規雇用の社員のまま福利厚生面の待遇を上げてほしい」と回答したのは、派遣社員の40%、パート・アルバイト・フリーターの36%だった。(女性についての記述は略)

 格差社会を批判する学者、政党、労働組合、メディア関係者は、非正社員がみな正社員になりたがっているのになれないと思っていると考えがちだ。そしてそう思ってくれた方が現政権を批判しやすい。ところが、非正社員は必ずしも正社員になりたいとは思っていないのだ。だから格差社会批判をするだけでは世論は盛り上がらないし、若者の支持は得られないのである。

 そこに「下層社会」あるいは「階級社会」とは質的に異なる「下流社会」の特徴がある。(略)(pp.70-71)

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 三浦も認めているとおり(pp.72)、この調査において、《非正規雇用の社員のまま福利厚生面の待遇を上げ》るという対案が示されている故、《「正社員として働きたい」と回答した》ものが減ったという可能性は大いにある(ちなみに三浦はいくらか留保をつけており、これは3つある内の2番目なのだが、特に3個目の留保はかなり回りくどいものである)。さらに三浦は、正社員の労働条件が、非正規よりも厳しい場合があることまで認めている。これについては、小林美希も書いているとおり(小林美希[2007]pp.34-35)、例えばキヤノンなどで大規模に非正規雇用者の正社員化を推し進めた場合に、結局のところ正社員という名の過酷な労働形態が生まれただけ、というケースもあるため、三浦の分析は正しい。

 そうすると、三浦が主張すべきことは、もし正社員が増えることを希望すれば、まず正社員の待遇をよくすることのはずだ。にもかかわらず、三浦は、こんなことを書いてしまう。

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 企業は、給料を上げること、昇進させることが正社員のメリットだと考えるが、若者は必ずしもそう考えない。給料が上がっても、束縛が増えるのは嫌なのである。残業も転勤も単身赴任もしたくないからである。(pp.76)

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 ちょっと待て、どこに《束縛が増えるのは嫌なのである。残業も転勤も単身赴任もしたくない》なんてことが書いてあるのだ?実をいうとこれは、三浦の身勝手な推論に過ぎないのである。ここに三浦の言説の特徴がある。要するに、自分が「下流」と見なした人間に対する度を超した罵倒である。

 しかも三浦は、同じ章で、「ニート」に関して大チョンボをしでかしてしまう。

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 念のためにいっておくと、この調査は学生を含んでいない。だから、無業の男性は、いわゆるニートにほぼ相当すると考えてさしつかえない。(pp.82)

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 三浦は80ページにおいて「ニート」の正しい定義を書いているのに、なぜこう考えてしまうのだろうか?第一に、一口に「無業」といっても、その中には求職中(求職型)、求職意欲はあるが求職中ではない(非求職型)、求職意欲がない(非希望型)に分けられ、なおかつ、内閣府の調査によれば、全国で、平成14年で、無業者およそ213.2万人の内、求職型がおよそ128.7万人にあたり、非求職型(42.6万人)と非希望型(42.1万人)をあわせた数、つまり「ニート」に相当する人数が84.7万人である(内閣府[2005]pp.7)。要するに、仮に三浦の調査における無業者の内、「ニート」の割合が内閣府のものと同じならば、《無業の男性は、いわゆるニートにほぼ相当すると考えてさしつかえない》などということはできず、《無業の男性》の内「ニート」に相当するものの割合は、全体のおよそ5分の2に過ぎないということになる。ちなみにこの調査において、三浦が、無業者に対して現在求職しているかどうかを問うた形跡は、少なくとも本書からは見られない。

 さらに87ページでは、三浦は「ニート」を《働く意欲がない若者》としてしまっており、また三浦は「ニート」の意識についてさんざん愚痴を述べているが、上記の指摘により、三浦の分析の全てが吹っ飛んでしまうと私は確信する。どうでもいいけれども、三浦は第4章でフリーターが増加した原因として、バブル時代に「自分探し」とやらが扇動された故、多くの若年層が自分にあった仕事をえり好みするようになったことを上げているが、それが数億歩譲って正しいとしても、三浦はそれを煽った一人として(そもそも三浦はバブル時代にパルコの雑誌に在籍しており、『「かまやつ女」の時代』に掲載されたプロフィールでは、「消費は宗教」とばかりに煽っていたと記述していたではないか!)、どう見ているのかということについては記述されていない。あくまで他人事である。

 三浦による、非正規雇用者に対する罵詈雑言集への批判はこれだけにしておいて、第6章(「危うい「下流ナショナリズム」」)の分析に移る。というのも、私は、冒頭で採り上げた伊奈正人のブログで章立てを知ったとき、ついに三浦が、いわゆる「赤木問題」にコミットする!と思ったのだ。ついでにこれをミクシィで書いたところ、ある人からは、「赤木問題」ではなく、高原基彰のいうところの「不安型ナショナリズム」(高原基彰[2006])ではないか、という意見をいただいた。まあ、どちらにしろ、もしこれらについて三浦の分析を読んでみたいものだ。

 ちなみに「赤木問題」とは、フリーターの赤木智弘が、「論座」平成19年1月号の特集で、「「丸山眞男」をひっぱたきたい――31歳フリーター。希望は、戦争。」と題する衝撃的な論考を発表したことに起因する問題であり(実際には、赤木の主張は、もっと深いもので、フリーターである自分を不可視化し、偽りの「平和」に甘んじている俗流左派への根本的な批判である。ちなみに、赤木の著書が、来月双風舎より発売されます。キャンペーンブログも展開中ですので、是非ご覧下さい)、それについて同年4月号で、佐高信、福島瑞穂、森達也などの左派の大御所が反論し、さらにそれについて、6月号で赤木が反論になっていないと再反論した。ちなみに赤木の再反論にほぼ便乗する形で、私も同号に書いている。

 さて、そのような期待を抱いて、私は本書の第6章を開いてみたのだが、なんと、赤木の名も、あるいは高原の名も、全く出てこないのである。まあ、半分の半分くらいは予想通りだったが。で、三浦がどのようなことをナショナリズムと捉えているかというと、「愛国心があるほうだ」「日本文化が好きだ」「中国は嫌いだ」「韓国は嫌いだ」「アメリカは嫌いだ」とか、さらには「オリンピックやサッカー・ワールドカップで日本を心から応援する」といったものなのである。正直言って呆れてしまった。これでは俗流左派のナショナリズム観と全く同じではないか(どうでもいいけれども、三浦が「週刊SPA!」と「SMART」の読者層を「SPA!男」「SMART男」と書いているのに、「日経ビジネス」の読者に対してはそういうネーミングをしていない、というところに、三浦の意識が見て取れると思うのだが、どうか)。また三浦は、「上」のナショナリズムは愛国心などのポジティヴなものであるのに対し、「下」のナショナリズムは、反中、反米などのネガティヴなものであるとしている。しかしながら、それについても、「日本の歴史には誇りや愛着がある」をのぞいて、各階層で、たかが数パーセントの差しかない。果たしてこれが有意な差なのだろうか?

 もう一ついうと、三浦の用いているアンケート調査においては、調査対象は20~44歳のみである。しかしながら、私が読売新聞の出口調査の分析を引用して示したとおり(平成17年9月28日付読売新聞、及び、後藤和智[2007])、あるいは朝日新聞が平成17年の総選挙の前に行なった調査にあるとおり(「朝日総研リポート AIR21」平成17年11月号、pp.146)、自民党の支持基盤は若年層よりも50代以上の高齢者であるのだ。その点についての三浦の配慮もない。

 さらにいうなら、三浦のいうところの「SMART男」の投票行動について、三浦はこんなことを言ってしまう。

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 それに対して(筆者注:格差社会を実感しつつも、仕方なく実力社会を容認する「SPA!男」に対して)SMART男は、政党支持や投票行動から新自由主義的政治を支持しているように見えるのに、自分自身は成果主義、実力主義がよいとは思っていないというのは、一見矛盾している。

 しかしそれは矛盾ではない。がんばりたい人は、どうぞがんばってください。でも僕はがんばりません。がんばらなくても、欲しいものはインターネットのオークションで安く手に入りますから、という価値観なのであろう。(pp.163)

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 まあ、これが三浦クオリティなのだろう。

 他にも、三浦が「下流」と見なした人間に対する罵倒は、特に本書の「下流コラム」と称されるコラムにおいて激しいのだが、これについては気持ちが悪くなるので特に批判しないこととする。これ以上気を悪くしたら、私の健康に関わる。しかしながら、同書を通読して気づいたことは、所詮は三浦にとっては「格差」、というより「下流社会」とは、結局のところ見世物に過ぎず、さも動物園の中の動物の如く罵倒して楽しむものなのだろう(本書、あるいは三浦の他の「格差」本における感嘆符の濫用が、まさにこれを示していると言えるかもしれない)。そして三浦が粗製濫造している本もまた、そういうものに過ぎないのだろう。同書において、「下流」と三浦が勝手に名付けた人たちは、徹頭徹尾無気力と見なされている。

 そんな三浦にとっては、例えば日雇い労働者の労働条件や、あるいは労働市場の構造変容、そして当事者による運動は見えないのだろう。事実、これらに関する記述は、全くと言っていいほど出てこない。ある言説に対して、それが語っていることと同時に、語っていないこともまた重要であると考えれば、様々な新聞やテレビが若年層の惨状を伝えているにもかかわらず(日本テレビやフジテレビだって報じているのだ)、三浦の認識は数年ほど遅れている。

 小林美希は、いわゆる「ネットカフェ難民」に関する報道について、ブログで以下のように語っている

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 社会問題ではない。これは、流行である。

 もしもネットカフェ難民という言葉が流行語大賞などをとったら、世も末だ・・・。

 この国は今、労働問題をきちんと論じていないことが多い。
 ネットカフェ難民とか、なんでも格差で、労働問題の本質を見誤っている。

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 三浦は間違いなく、「下流社会」なる言葉で若年層をめぐる格差や貧困を、ことごとく若年層の精神に押しつけ、疑似問題化、脱政治化させた張本人だ。それにもかかわらず、多くのメディアが、三浦の言説をありがたがり、そして若年層に自己責任論を浴びせかけている。

 派遣ユニオンは、グッドウィル・グループの不祥事に対して、折口雅博に対し「折口、ちょっと来い!」というデモを張った。私も「POSSE」に力を貸している以上、非正規雇用者などに関する運動の現実を伝えて、こういうしかないだろう。

 「三浦、ちょっと来い!」

 参考文献・資料
 内閣府政策統括官「青少年の就労に関する研究調査」、2005年7月

 後藤和智「左派は「若者」を見誤っていないか」、「論座」2007年6月号、pp.122-127、2007年5月
 小林美希『ルポ 正社員になりたい』影書房、2007年5月
 三浦展『下流社会 第2章』光文社新書、2007年9月
 高原基彰『不安型ナショナリズムの時代』洋泉社新書、2006年4月

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2007年4月20日 (金)

想像力を喪失した似非リベラルのなれの果て ~香山リカ『なぜ日本人は劣化したか』を徹底糾弾する~

 (H19.4.21 10:40 書名の間違いがあったので訂正しました)

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 冬枯れの街~呪詛粘着系公共圏~:エクソシストなんてこんなもんさ、命を賭けて悪魔を倒したって誉められることもない。
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 女子リベ  安原宏美--編集者のブログ:ワーキング・プアから抜け出せないシングル・マザーたち
 他山の石書評雑記:[雑記][社会][就職][社会学]「若者の人間力を高めるための国民運動」

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 「ご冗談でしょう」。私が書店で、「ダ・ヴィンチ」(マガジンハウス)平成19年5月号に掲載されていた、平成19年4月に新たに発売される文庫や新書の一覧で、講談社現代新書の新刊の1冊として、香山リカ(精神科医)の新著として、『なぜ日本人は劣化したか』なる本が発売される、ということを知ったときの感想である。私はかつて、少し思うところがあって、仙台市内の古本屋を数軒周り、香山のほとんどの著書を収集したことがあるが、『多重化するリアル』(廣済堂ライブラリー/ちくま文庫)の頃から急激に文章が若い世代を糾弾するようなものになるとはいえ、このような実にストレートなタイトルの本が出るとは予想だにし得なかったのである。

 しかしながら、なんと本当に出てしまったのである。しかも、内容はもはや香山自身が劣化したとしか言いようがないほどのひどさなのだ。言うなれば、香山の初期の著書である『リカちゃんのサイコのお部屋』(ちくま文庫)に出てくるような、何らかの悩みを抱えて香山に手紙で相談してくるような人に対し、香山が「お前は劣化している。そしてこのように劣化した人間ばかりとなり、劣化した社会を構築しているのが、今の日本なのだ」と糾弾しているような本である、と考えれば、わかりやすいだろうか。

 香山の「変貌」に関してかいつまんで説明しよう。初期の香山は、おおむね、『リカちゃんのサイコのお部屋』の如き、「お悩み相談」系とでも言うべき仕事か、あるいは当時の女性における流行やテレビゲームに関して軽妙なエッセイを書いているような、単純に言えばエッセイスト的な存在であった。ただ、平成7年ごろを契機に、香山の言説の中に、なかんずく青少年や若い女性における流行を指し、これは社会の抱えている病理を表しているのではないか、と嘆いてみせるようなものが登場するようになった。とはいえ、当時の香山の態度は、そのように嘆きつつも、結局のところ嘆きを内に抱えながら考え込む、というようなスタンスで、簡単に糾弾するようなことはなかった。

 平成10年ごろには、香山の言説の中に「解離」や「離人症」という言葉が頻繁に出てくるようになる。契機は、同年に栃木県黒磯市(当時)で起こった、中学生による教師殺傷事件だ。この事件を契機に、宮台真司が「脱社会的存在」という概念を振りまいたのと同様、香山もまた「解離」「離人症」という概念を振りかざした。ただしスタンスとしては、それほど変化しているわけでもない。

 香山のスタンスが急激に変化するのは平成13年9月11日の、米国における同時多発テロである。この事件を契機に、香山は、現代人は「解離」的な状況を作り出すことによって多元的な自己を生きてきたが、現実はそういう生き方で生き抜くことはできない、だから「解離」的な人たち、なかんずく若年層を現実に引き戻すべきだ、という言説が頻出するようになった。その象徴とでも言うべき著作が『多重化するリアル』であり、この時期以降の香山のベストセラーである、『ぷちナショナリズム症候群』『就職がこわい』『いまどきの「常識」』では、おしなべてこのような認識が繰り返されている。

 そして、香山の「変貌」がもはや完全なものとなったとして認識できるのが、平成18年2月に上梓された『テレビの罠』であろう。同書においては、もはや「解離」という言葉すらほとんど見あたらず、しきりに日本人がだめになった、おかしくなったと連呼しているだけのものとなってしまったのだ。そして、完全に変貌しきった香山の象徴的な著書として記録されるべき著作――それが、『なぜ日本人は劣化したか』に他ならない。

 のみならず、同書は、主として若年層に対する罵詈雑言で満ちており、「左派」と呼ばれる側にいるはずの香山が、若年層に対する偏見を扇動しているのである。その意味では、本書は批判どころか、徹底的に糾弾されるべき本である。

 香山は同書の「まえがき」において、働こうとしない「ニート」の若年層や(このような認識が間違いであることくらい、『「ニート」って言うな!』などを読めば直ちにわかるだろうが)、子供を車に置き去りにして子供を死なせる若い母親(センセーショナルに採り上げられているだけではないか?)、そしてやる気のない東大生を採り上げ、次のように述べる。曰く、

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 私たちはこの変化を、「一過性」「一部の人だけの問題」として無視する、あるいは見守ることはできないのではないか。

 いや、「変化」などという留保つきの言い方は、もうやめよう。

 日本人は、「劣化」ししているのではないか。それも全世代、全階層、全分野にわたって。しかも、急速に。

 私自身、そういう″直感″を抱いてから、それが″真実″だと認めるまでには、やや時間がかかった。私はこれまで、病理的な現象からテクノロジーの普及まで、社会の変化をおおむね肯定的に受けとめ、解釈してきたからだ。

 しかしここに来て、私もいよいよ認めざるをえなくなった。

 日本人は、「劣化」しているのだ。

 それは本当なのか。希望はもうないのか。これから考えてみたい。(香山リカ[2007]pp.6-7)

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 《全世代、全階層、全分野にわたって。しかも、急速に》などと能書きを垂れているものの、香山が本書において、若年層ばかり問題にしており、他の世代を問題にする場合も、やはり若年層の「劣化」に結びつけて語りたがっているのは明らかである。従って、香山の言うところの「日本人」は、――多くの俗流「日本人論」がそうであるように――「今時の若者」と同義であることは言うまでもないだろう(どうでもいいけれども、香山は冒頭において、「日本人の志を取り戻せ」という趣旨の奥田碩の発言を肯定的に採り上げている。香山が「若者の人間力を高めるための国民運動」に委員として参加しているから、会長である経団連会長(現在は御手洗冨士夫にポストを譲ったけれど)は批判できないのか?)。

 しかし、感慨深いものがある。なぜならこのようなことは、少なくとも平成13年頃までの香山なら絶対に言わなかったことである。それまでの香山のスタイルというものは、社会に対してなにか言いたいけれども、とりあえず内に抱え込んで、結論を安易に出さずにしておく、というスタンスだったからだ。それがこのように断言するようになったとは。

 それはさておき、香山がここまで強く断言できるには、それなりの証拠があると見ていいだろう――だが、残念なことに、決してそうではない。香山が、日本人が「劣化」しているという証拠は、結局のところ香山の直感と、それを支持してくれそうな身近な人たちの発言なのである。真に客観的と言えるような証拠など、はっきり言って皆無なのだ。

 例を示してみよう。香山は、若年層の文字を読む能力が低下している証拠として、日本人が長い文章を読めなくなった、ということを示している。曰く、香山が最近頼まれた文章の長さに関して、当初、香山は1200字の原稿として書いた。ところが香山が編集者に問い合わせてみたところ、1200字ではなく200字であった。さらに、身近な編集者に尋ねたところ、かつては800字くらいでも多くの人が読めたが、今は200字くらいでなければ読者は読むことができない、というのが業界の常識なのだ、という。従って、日本人の知性が劣化しているのは明らかである(香山、前掲pp.14-18)。

 めまいがしてきた。だが、このような論証立てが、次から次へと続くのが本書なのである。つまり、まずはじめに自分の直感があり、それを都合良く正当化してくれるような身近な事実があり、そして自らの思っていることは正しかったのだ、日本人は劣化している!というのが本書の主たるストーリーなのである。もちろん、他の自称に関してもこれと同様。今の学生が90分の授業を聞けなくなったことの証拠としてあげているのは身近な教授。ちなみに私は、大学院生となった今まで、私の参加した全ての授業で、多くの学生が最後までしっかりと、90分の授業をしっかりと聴講していたが(まあ、中にはねる人も少なからずいるかもしれないけれど)。さらに言えば、今の学生の、授業への出席率は良くなっている、というのもよく聞く話である。ということは昔の学生は授業に出るほどの力すらなかったようである。日本人は進化しているのだ(ちなみにこの話にも根拠は示していないが、香山のやり方をまねれば、このように言うことだってできるのだ、ということを示したかっただけである)。フェミニズムやリベラルの衰退の原因について述べられたところも、引用しているのはせいぜい荷宮和子の言説や、山口二郎などの、平成17年の総選挙に関する「解説」だけであって(ちなみに、この選挙における「解説」のいかがわしさについては、後藤和智[2007]で採り上げるつもりである)、やはり公明党の協力や小選挙区制については採り上げられていない。

 もちろん、自らに都合のいいことが書かれている記事に関して、それを疑って読むことと言うこともない。例えばモラルの「劣化」を採り上げた第2章においては、そこで採り上げられているほとんど全ての事象が、産経新聞が今年から始めているシリーズものの企画「溶けゆく日本人」なのである。ちなみにこの記事については、「はてなブックマーク」などで、少なくない人から「釣り」「ネガティヴなことばかり採り上げすぎ」「また産経か」と言われているし、そして私が見た限りでは、この意見は正しい。

 ちなみに浅野智彦らは、都市部の若年層に対するアンケート調査から、現代の若年層の道徳、規範意識は決して低下していない、という結果を出しているのだが(浜島幸司[2006])、まあこれに関しては置いておこう。

 ゲームに関する記述も、はっきり言ってでたらめの極みである。例えば、次の文章を読んでいただきたい。

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 ″お得感″を目的とする実用ものとは異なるが、すぐに目に見えて結果が出るゲームの中に「暴力的ゲーム」を加えることもできるかもしれない。

 「スーパーマリオブラザーズ」など大ヒットゲームの開発者として知られる任天堂の宮本茂専務は、〇七年三月、アメリカで行われたゲーム開発者会議で基調講演を行い、その中で「ゲーム開発業者は熱心なファンが好む暴力的ゲーム作りを偏重し、一般利用者向けの楽しいゲーム開発を怠ってきたため、ゲーム業界は過去一〇年間に信望を失ってしまった」と、自らも属する業界のあり方を厳しく批判した(産経新聞、二〇〇七年三月一〇日)。(香山、前掲pp.75)

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 だが、ここで香山が採り上げている記事は、室田雅史によれば、誤報であるというのである。これを室田は、この記事が時事通信と産経新聞で配信されたときからかなり早い時期に、さらに言えば講演の原文に依拠して論証していた。

 香山の魔術にかかれば、近年になって、いわゆる「脳トレ」系のゲームが売れるようになったことも、日本人が劣化し、ゲーマーにおける想像力や我慢する力が低下したから、ということになる(ちなみに香山は、近年はすぐに結果が出るようなゲームしか売れなくなった、と嘆いているが、その根拠もまた《あるゲーム開発者》(香山、前掲pp.71)から聞いた話である。これでは、岡田尊司が、ゲームを制作している会社は、ゲームが売れなくなることを心配しているため、ゲームが子供の脳に及ぼす悪影響に関して口をつぐんでいる、という行為が業界における公然の常識である、と陰謀論を述べたのとどこが違うのか)。実用系のゲームが登場したことによって、これまでゲームに親和的でなかった層にも市場が開拓された、という見方のほうが有力だろう。

 第一、かつての香山は、テレビゲームについては親和的な立場をとってきたのではないか?まともだった頃の香山の中でも、さらに良質な著作として、『テレビゲームと癒し』(岩波書店)があるが、少なくとも同書は、テレビゲームによる精神医学への応用など、ポジティヴな側面にも触れられており、さらに言えば安易な擁護論にも与せずに、公平に評価を与えようとする態度が出ていた。それがこのざまだ。おそらく香山をゲームバッシングに走らせた要因としては、平成17年中頃に起こった監禁事件を挙げることができるのかもしれないが(その時の香山の言説を批判したものとして、私のブログの「俗流若者論ケースファイル33・香山リカ」がある。ちなみに当然本書においては、ここで批判した文章と同様の論調での「萌え」批判だってあり、なおかつ問題点までそっくり同じだ)、かつて香山が、斎藤環の「ゲーム脳」批判を引いて、「ゲーム脳」説の非科学性を訴えていた(香山リカ、森健[2004])のとは隔世の感がある。

 さらに言えば、これだけではない。同書においては、何が何でも若年層が悪い、若年層の性で香山が悪いと思っている事態が生じた、ということを主張するためのこじつけだって頻出する。例えば新聞の文字が大きくなったことについて、高齢者にも読みやすいようにしているのだろうと考えるのが普通だろうが、香山はこれだって若年層のせいになってしまうのだ。

―――――

 よく言われることだが、いま六〇代から八〇代のいわゆる高齢者と呼ばれる人たちの多くはむしろ向学心にあふれ、むずかしい本、半ば難解な哲学の講義を受けにカルチャースクールに通いもする。電革で、昔の活字の小さな時代の文庫本を熱心に読む老紳士の姿も、しばしば見かける。

 そう考えると、「字を大きくして」「中身を簡単にして」と望んでいるのは、実は高齢者ではなくて、若い人たちなのではないか、という気もしてくる。実際に冒頭に述べたように、若い女性が読む雑誌でも「かつては一テーマ八〇〇字、いまは二〇〇字」というように″簡略化″が進んでいる。この人たちに関しては、視力が低下しているわけでも長い文章を読む体力がなくなっているわけでもないことは、明らかだ。(香山、前掲pp.26-27)

―――――

 いい加減にしていただきたい。こういうことを言っているのは全世界で香山だけだ(おそらく)。第一、このような言い方が許されるのであれば、香山のここ1年ほどの発言こそ《簡略化》の象徴ではないか。

 香山はリストカットに代表されるような若年層の「生きづらさ」に関しても、若年層の精神が本質的に弱くなっているからであり、さらに言えば若年層の「問題行動」の原因さえも、若年層の体力の低下だと述べている(香山、前掲pp.85-94)。『生きさせろ!』なる秀逸な本が香山に書評されて喜んでいる雨宮処凜は、香山がこのように述べていることをどう思うのか、是非お訊きしたいものである(雨宮さん、ごめんなさい)。

 挙げ句の果てには、このようなことを言ってしまう。これでは戸塚宏と同じではないか。

―――――

 しかも、これまでの章で述べたように、この劣化は知識やモラルといった主に脳内での活動に限って進んでいるのみならず、体力、身体能力などからだの領域でも起きているようなのである。すぐに「死にたい」「生きるのに疲れた」とつぶやく若者の例も紹介したが、「朝、起きて″ああ、今日もいちにち生きなければならないのか″と思うとそれだけでグッタリする。夜、眠るとき″このまま明日の朝が来なければいいのに″と祈ってしまう」と訴える若者を見ていると、何かをしろ、と言われているわけではないのに、ほとんど本能のレベルで片づくような呼吸、食事、睡眠といったものがこの人たちに″とてつもない負荷″として伸し掛かっているという事実に、愕然とすることがある。

 こうなるともはや、生物として生命を維持する力そのものが劣化しているのではないか、とさえ言いたくなる。ちょっとしたことで傷ついて、「もう死んだほうがいい」と考える若者が増えているのも、心が弱くなっているのではなくて、生物としての耐性が低くなっており、「死にたい」という発想がわくのは、彼らにとってはある意味で自然の反応なのではないか、とさえ思うことがある。(香山、前掲pp.144-145)

―――――

 これから香山のことは差別者であると認定しよう――私にそのように決断させてくれた文章であった。もはや何とも言うまい。

 何とも言うまい、とは言ったものの、やはり無視できない部分がある。それは、インターネットに関する記述である。香山は、インターネット上のコミュニティ「セカンドライフ」について、以下のように述べる。やはり香山は差別者でしかない。

―――――

 では、生物として劣化し、体力も性欲も繁殖能力さえ喪失しつつある人たちは、どこに向かうのだろうか。

 その″行き先″として注目されるのが、二〇〇七年春にも日本語版サービスが始まるとされる3D巨大仮想空間「Second life(セカンドライフ)」である。(香山、前掲pp.146-147)

―――――

 つまり、インターネットのコミュニティは、生物として劣化したものの行き着く先であると!なんという物言いであろうか。

 これに関しては、実証的な視点からの批判が必要であろう。インターネットによる社会関係資本の形成については、既に少なくない研究が積み重ねられている。

 例えば池田謙一は、インターネットのメールの利用に関してアンケートを分析したところ、テクノロジーに対する親和性が高いことや、あるいはインターネットのメールの使用が、フォーマルな集団への参加を促し、また非寛容性を減少させる効果があるのではないか、ということを実証している。他方で池田らは、元々社会関係資本に恵まれた人ほどインターネットに親和的である、という見方もできるであろう、としている(池田謙一[2005]第2章)。他にも多くの研究があり、ここでは割愛するけれども、少なくとも香山が考えているような、インターネットのコミュニティが頽廃的な世界である、という見方は辞めたほうがいいようだ。

 ちなみに、香山のインターネットに対する偏見は、やはり平成14年の『多重化するリアル』が始祖である。なぜなら同書において「解離」を蔓延させている張本人として採り上げられているのが、インターネットであり、また携帯電話であるからだ。

 さて、これまで、私は同書における、香山の態度に対して批判を重ねてきた。具体的に言えば、香山は、社会的な問題に関して、自分で勝手に「劣化」の烙印を押しては、それを薄弱なる根拠で執拗に嘆いている、という行動を繰り返しているだけであり、言説としての価値は全くない。なるほど、帝塚山学院大の教授(助手でも准教授でもない!)なら、私にでもなれるようだ。大学院を卒業したらそこに就職しようか。

 同書において、香山は、まず日本人が「劣化」しているという事実を認めるべきだ、そこからでないと日本人の「劣化」を食い止めることはできない、と主張している。もちろん、このような見方が傲慢であることは言うまでもないだろう。第一、「劣化」なる烙印を、特に若年層に対して執拗に押し続けているのは、他ならぬ香山だからだ。そして現代の若年層は、香山によって「劣化」している日本人の象徴であるという烙印を押しつけられ、その存在価値を減じられる。香山の言っていることは全て偏見か、そうでなければ怪しい主張の受け売りに過ぎず、内容はないに等しい。

 さらに言えば、香山は同書の中では、日本人の「劣化」に警鐘を鳴らすべき人物として書いている。香山は後書きで言い訳臭く、「自分も「劣化」しているかもしれない」と書いているけれども、本書を読む限りでは、香山にそのような認識などかけらもないことは明らかだ。

 しかしながら、香山はそのようなヒロイズムに浸ることによって、実証的な議論を参照すること、あるいは実証的であるように心がけることを放棄している。同書が客観的な根拠をことごとく欠いていることも、これが原因であろうか。

 香山は、特に『ぷちナショナリズム症候群』を出した直後から、左派の若者論の指標として、その際前線で活躍してきた。それまでは自己満足の如きエッセイや、あるいは精神分析の流行の受け売りでしかなかったのが、同書によって急に最前線に出ることとなったのだ。爾来、香山は、特に若年層の「右傾化」なるものを嘆く記事で頻出するようになった。そして、その歴史は、香山の「劣化」(!)の歴史でもあった。左派が少年犯罪や青少年の規範意識に関して、実証的な視点からの反論を試みなかった、あるいはほとんど採り上げなかったことに関しても、香山という存在があったから、ということは大げさだが、少なくとも左派は若年層に関して、理解してあげるそぶりを見せながら、本音ではバッシングしてきた(その象徴としてあるのが、本書にも一部だけだがある「ネット右翼」論である)。その象徴が香山であったのかもしれない。

 とりあえず本書に関して私が言えることは、香山こそが「劣化」した、ということだ。香山は同書の中で、日本人が「劣化」している!という自らのでっち上げた物語に酔い、もはや何も見えなくなってしまった。これ以上、香山の自己満足に我々は付き合っている必要はない。それと同時に、左派もこのように何も生み出さなくなってしまった香山とは一刻も早く決別すべきだ。優れた論者はいくらでもいる。

 とはいえ、私如きがこのような文章を書いたとしても、香山の地位は低下しないだろう(第一、このように無意味な本が平気で出版されているのだ)。ただし、私は、香山の言説を嬉々として受け入れている読者や編集者に対して訴えたいことがある。香山の言説は、結局のところ中高年層と若年層を分断させ、上の世代が下の世代に対して「こいつらが生きづらいのは自己責任だ」と罵るようなものでしかないということだ。そしてそのような言説ばかりが蔓延する将来像とは何か、考える必要があるのではないか。少なくとも香山の暴走を止めることができるのはあなた方しかいないのだ――と。

 引用文献、資料
 後藤和智「左派は「若者」を見誤っていないか」(仮題)、「論座」2007年6月号、ページ未定、2007年5月(近刊)
 池田謙一(編著)『インターネット・コミュニティと日常世界』誠信書房、2005年10月
 浜島幸司「若者の道徳意識は衰退したのか」、浅野智彦(編)『検証・若者の変貌』pp.191-230、勁草書房、2006年2月
 香山リカ、森健『ネット王子とケータイ姫』中公新書ラクレ、2004年11月
 香山リカ『なぜ日本人は劣化したか』講談社現代新書、2007年4月

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2007年4月17日 (火)

本能の罠 ~戸塚宏『本能の力』から考える~

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 戸塚宏(戸塚ヨットスクール代表)が、平成19年4月の新潮新書の新刊として『本能の力』なる本を出した。とりあえず本書に対する感想としては、単なる自己肯定というか、ひたすら「自分は悪くない」ということが書かれているばかりであり、ある意味では駄々をこねているような本と言えるかもしれない(笑)。同スクールに批判的な人は、同書を読んで、「戸塚は全く反省していない!」と憤慨するかもしれないが、まあ実際そのとおりではある。とりあえず、同スクールがどのような理念で「教育」を行なっているかということが書かれており(まあ戸塚が出所したあとも自殺者が出ているわけだけれども(「週刊現代」平成18年11月28日号、pp.34-37)、その点に関する言及は一切なし)、その点においては資料的価値は確かに「ある」。

 しかし本書において真に問題とすべきは、第1章の体罰を肯定している部分ではない。そうではなく、本書のタイトルである「本能の力」という部分にある。

 まず戸塚の事実認識における間違いを検討しておきたい。以前私が石原慎太郎と義家弘介の対談を批判したときにも、広田照幸による研究を引き合いに出して反論したが(広田照幸[2001])、別に「体罰禁止」は戦後民主主義教育の元で行なわれたものではなく、明治の比較的早い時期から体罰は禁止されていた。戸塚も石原や義家とほぼ同等のことを言っているが(戸塚宏[2007]pp.23-24)、とりあえずこのことくらいは踏まえておいて欲しい。もう一つ、我が国において不登校が増加したのは、子供たちにおける「本能の力」が衰退したからだ、という認識があるけれども、滝川一廣によれば(滝川一廣[2007]pp.227-230)、少なくとも統計的には、現在よりも昭和30年代のほうが長欠率は高かった(さらに言えば我が国よりも英国や米国のほうが長欠率は高い)。もちろん、長欠や不登校に関する質的な変容は一部に見られるのだけれども、まあ統計的にはこのような事実があることを押さえておけばよろしい。もちろん、少年犯罪(まえがき)や「ニート」(第8章)に関する勉強不足も目立つ。これらに関しては、著書も含めてとにかくいろいろなところで解説してきたので、わざわざ繰り返すこともないと思うが(とりあえず前者に関しては、浜井浩一、芹沢一也[2006]を、後者に関しては、乾彰夫[2006]と雨宮処凜[2007]を参照されたし)、これらに関しては著者がそこらで聞きかじった話をそのまま記述してしまっているのは明らかである。

 事実認識に関する検討はこのくらいにして、同書において本当に問題とすべきのはどの部分なのか、ということについて述べていこう。

 さて、戸塚が本書においてその重要性を繰り返し述べるのは、戸塚が言うところの「本能の力」である。戸塚は、同書の「まえがき」において、以下のように述べている。

―――――

 本書で述べたいことは、現代の子供たちが深刻な状況にあるのは、「本能」の弱さに原因があるということです。本能を強くしてやれば、子供の抱える問題の多くは解決できるのです。そして、その本能を強くするには、体罰がきわめて効果的であることを私は現場で経験的に学び、数多くの実績を残してきたのです。

 ところがマスコミは、子供が抱える問題の本質には一切目を向けず、体罰ばかりを問題にします。彼らは自分の頭で考えることなく、戦後教育の欺瞞の象徴ともいえる「体罰禁止」を盲目的に信じ込んでいます。その間違った前提をもとに私を批判しているとしか思えません。

 私に質問をした記者はその典型でしょう。そんな批判を繰り返したところで、子供の抱える問題が解決するはずはありません。(戸塚、前掲pp.15)

―――――

 まあ、言い訳としか言いようのない文章ではあるが、戸塚の言説においては、「本能」の前には全ての実証的な教育言説が無力と化する。先ほど挙げた実証的な視点が見られないことは、ひとえにこのような認識が戸塚に横たわっているからか。同書においては、教育や青少年に関する記述のほとんどが、戸塚の直感で書かれているが、戸塚の言っていることに関する客観的な裏付けはないものばかりである(戸塚、前掲pp.85の部活動に関する記述など)。

 「いじめ」だって肯定される。戸塚によれば、「いじめ」という言葉を聞いて想起されるような「いじめ」とは、本来の「いじめ」とは違うという。

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 昔は異年齢集団という形で、子供はグループを作って遊んでいました。第一次反抗期に子供は母親に憎まれ口を叩いたり、言うことを聞かなくなったりします。その行動は、「母親から離れて外へ出て遊びたい」という欲求と結びついています。この欲求は進歩を促すものです。だから、三歳くらいから子供は自ら外へ出て子供同士で遊ぼうとします。このときに異年齢集団に入るわけです。この集団は三歳から十三歳くらいまでの子供たちで構成されていました。

 この集団の中では、小さな子供は大きな子供の支配を受ける。そして何年か後には自分が支配者になる。人間は被支配、支配その両方を経験しないと駄目です。被支配の経験が支配の能力を作り出していくのです。

(略)

 もちろん、支配階級の子供たちは本能でいじめているのであって、理性的、教育的観点からいじめているわけではないでしょう。それでも、子供は被支配時代にいじめられることによって進歩していきます。いじめられることによって、子供は子供なりに考えます。なぜいじめられたのか、いじめられないようにするにはどうしたらよいのか、と。

 いじめというのは本来、本能的であっさりとしたもので、相手を適切に評価しているだけなのです。体罰と一緒で、相手の利益のためのものです。そして、必ず出口があります。(戸塚、前掲pp.65-66)

―――――

 ただし、残念ながら、戸塚の言っていることは単なる美辞麗句でしかないだろう。第一に、果たしていじめている側の評価が正当である、ということは誰が決めるのだろうか。戸塚は本書の別のところで、「体罰」の定義を《相手の進歩を目的とした有形力の行使》(戸塚、前掲pp.20)としているが、これも同様で、「相手の進歩を目的と」する、ということが、もしかしたら有形力を行使する側の身勝手である可能性を否定することはできないだろう。第二に、このように戸塚が「今の「いじめ」は間違っている、正しい「いじめ」はこういうものだ」としても、そのように述べることによって、果たして現在横行している「いじめ」をどのように解決するのか。その点に関しての言及が少しもないまま、戸塚はこのように語ってしまっているのだから、まさに美辞麗句としか言いようがないのだ。

 「本能」に依存してしまうと、特に労働環境や経済の問題が大きい問題に関しての不勉強も正当化されてしまうようで、戸塚は「ニート」に関して以下のように問題の多い記述をしている。

―――――

 こういう子供の親に話を聞いてみると、共通項らしきものがありました。それは、本当に腹を空かせた経験がない、ということです。少しでも腹が空くと、スナック菓子か何かを口に入れる。幼児の頃からずっとその調子で育ってきた。ヨットスクールに入って規則正しい暮らしをして、初めて空腹感を味わったという生徒が大勢います。

 果たして、そんなふうに育った子供が中学生、高校生になってから、生産する喜びを感じることができるのか。私は絶望的な気持ちに襲われました。とにかくできるかぎりのことはやってみようと試行錯誤を始めました。誰かが少しでも彼らの本能を解発する手伝いをしてやらなければ、彼らは生産すること、つまり仕事に喜びを感じることなく人生を送らなければならない。あまりに哀れです。(戸塚、前掲pp.161)

―――――

 経団連とか「若者の人間力を高めるための国民運動」あたりが都合よく利用しそうな認識だなあ…などという邪推はさておき、少なくともこのことが当てはまるのは、戸塚のスクールに入所してくるような一部の子供であって、戸塚が問題にしているような「ニート」全般ではない。そもそも既に多くのところから、「ニート」は労働問題である、という認識が提出されているのだが、その点に関する配慮に欠けているのではないか。

 さて、ここまで、私は戸塚における認識を批判してきた。具体的に言えば、戸塚の認識に通底しているのは、現代の子供たちや青少年、若年層における問題の「本質」(つくづく戸塚はこの言葉が好きだよなあ)は、彼らにおける「本能の力」の衰退が根本的な原因であって、その原因は、戦後民主主義教育を代表とする「本能」や「力」を否定するような教育である、ということである。もちろん、このような認識に浸ることによって、戸塚が社会的な要因を排した議論を行なっていること、そしてその問題はここまで述べてきたとおりだが、このような認識を元に青少年や若年層について語っているのは、何も戸塚だけではない。

 例えば澤口俊之がいる。澤口は、やはり戦後民主主義教育をはじめとする、「適切な環境」から逸脱した子育ての環境が原因で、現代の青少年はおかしくなった、という認識を述べているが(澤口俊之[2000])、これに関しても、そもそも青少年に関する認識や客観的事実を踏まえていない点において問題がある言説と言うことができる(そういえば、澤口は理想的な環境として戸塚ヨットスクールを挙げていた。どこか象徴的だなあ)。

 そして、このような言説を振りまいているものの代表として、私は筑紫哲也を挙げることとする。読者としては、戸塚と筑紫は対極に位置するような人物だろう、と述べられる方もいるかもしれないが、筑紫の言説は、実際のところは戸塚とはかなり近いところにあるのだ。以前筑紫を批判した文章から、再度引用することとしよう。

―――――

 この国の子どもたちは、生きもの(動物)としての人間が経験する実感から極力切り離される環境で育てられている。寒い、暑い、ひもじい、そして痛いという感覚から遠ざかるように日常が組み立てられている。何度も言うことだが、この国ほど、野に山に川にまちに子どもが遊んでいない国は世界中どこにもない。(筑紫哲也[2005])

―――――

 いかがであろうか。この文章を読めば、少なくとも筑紫の認識は、根底のところで戸塚と相違ないではないか。

 追い打ちとしてもう一つ。

―――――

 子どもたちを一週間、自然のなかに置く。そこでどう遊ぶか、大人は指図せず放って置く。大人は野で寝そべっていて、子どもたちが危ないことにならないようにだけ注意しておればよい……。

 普段あまりにも「自然」から切り離されている者が、そこに戻ることは人間が生きもの、いや動物の一種だと実感する大事な機会だと私も思う。寒い、暑い、痛い、快い、など肉体の実感から遠ざかるように育てられている子どもたちにとっては、なおさらである。だが、これだけ遠ざかってしまうと、そこに回帰するのは容易ではない。

(略)

 自然のなかで過ごさせようと、山の中に泊めると、林のそよぐ音、谷川のせせらぎの音、虫の鳴く音などがうるさくて眠れない都会の子が多い。戻った都会の自宅は人工音だらけなのだが、そこではぐっすり眠れるという。

 虫の音に美しきを感ずるのが日本人の感性で、「騒音」と見なす西洋人とそこがちがう――というのが長らく日本人ユニーク論の論拠のひとつだったのだが、そういう日本人はやがて絶滅に向かうだろう。(筑紫哲也[2006]pp.88-89)

―――――

 いかがであろうか。結局のところ、「左派」であるはずの筑紫もまた、若年層における「自然」の喪失が全ての問題の起点である、というような認識を述べているのだ。

 私はこれは危険なナショナリズムの兆候であると考える。なぜなら、少なくとも彼らの議論は、第一に青少年に関して述べる際に重要である、犯罪統計などのデータを元にしていないという問題点があるが、それよりももっとも大きな問題点として、彼らが自らの生活環境、あるいは思い出を理想とし、なおかつそれが崩壊したことこそが物事の本質である、と考えている。裏返せば、彼らの理想とする生活環境が「あった頃の」日本人と、それが「ない」異形としての「日本人」(「今時の若者」!)に、身勝手に線を引いて考えているのである。

 そしてこの根底にあるのが、いわば(かつての)「日本」に対する無条件の信頼である。要するに、「かつての」日本人は無謬出会ったが、何か「問題のある」生活環境が開発された、あるいは輸入されることによって、「かつての」すばらしい日本人が壊された、という点に関しては、実際のところ多くの人が支持しているのである(戸塚、澤口、筑紫のみならず、例えばそのような傾向は、近年の高村薫や香山リカにも見られるものだ)。立ち位置の左右にかかわらず、そのような認識ばかりが横行しているような現在においては、もはや青少年に関する、科学的、客観的な議論は、もはや望めない、ということができるかもしれない。

 だが、事実や統計に基づいた研究が如実に示すのは、結局のところ問題の構造には普遍的なものと、時代によって特徴的なものがあり、さらに言えばそれらを青少年個人の問題に押しつけてはならない、ということだ。その点を踏まえない議論など、単なる理想論、あるいはイデオロギーの押しつけで終了してしまうだろう。いや、それだけではまだいいのだ。問題は、「解決策」に関しては違うことばかり述べているにもかかわらず、結局根底の認識が同じだから、なんだかんだ言って「今時の若者」は以上だ、というところで大同団結してしまうことである。そしてその兆候は既に出始めている。

 教育再生会議などの問題の多い教育政策に対して、実証的な、あるいは経済論的、政策論的な視点からの批判や反論ではなく、イデオロギーにイデオロギーをぶつけるような批判しかないというのも問題だ(その点では、いわゆる「学力テスト」の訴訟の原告として子供をダシにするのも大問題だ)。大事なのは、厳密に事実や統計に基づいた批判であって、言うなれば民主党や社民党、あるいは共産党などの野党の議員が、単純に少年犯罪は減少しており、「ニート」は労働問題であるという認識を示せばいいのである。

 また、戸塚をはじめとして、「こうすれば青少年問題は解決する!」と主張する人が多いが、確かに彼らの主張する方法論を用いれば、「彼らの施設に入所してくるような」青少年の抱える問題は解決するかもしれない。しかしながら、青少年全体の問題が解決するというのは、単なる妄想に過ぎないのではないか。このことに自覚的な「支援者」「教育者」は、私の知る限りでは、残念ながら工藤定次など極めて少数である(もっとも、工藤に関しても「家族丸ごとニート」なんて変なことを言っていたりするけれども…)。

 引用文献
 雨宮処凜『生きさせろ!』太田出版、2007年3月
 筑紫哲也「フツーの子の暗黒」、「週刊金曜日」2005年11月18日号、金曜日、2005年11月
 筑紫哲也『スローライフ』岩波新書、2006年4月
 浜井浩一、芹沢一也『犯罪不安社会』光文社新書、2006年12月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』、名古屋大学出版会、2001年1月
 乾彰夫(編著)『不安定を生きる若者たち』大月書店、2006年10月
 石原慎太郎、義家弘介「子供を守るための七つの提言」、「諸君!」2007年3月号、pp.124-138、文藝春秋、2007年2月
 澤口俊之「若者の「脳」は狂っている――脳科学が教える「正しい子育て」」、「新潮45」2001年1月号、pp.92-100、新潮社、2000年12月
 滝川一廣「不登校はどう理解されてきたか」、伊藤茂樹(編著)『リーディングス 日本の教育と社会・8 いじめ・不登校』日本図書センター、pp.227-242、2007年2月、初出1998年
 戸塚宏『本能の力』新潮新書、2007年4月

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2006年8月19日 (土)

正高信男という零落

 平成18年8月の講談社ブルーバックスの新刊として、曲学阿世の徒・正高信男氏(京都大学教授)による『他人を許せないサル』が出た。

 はっきり言っておくが、本書は、書評するに堪える代物ではない。なぜなら、著者の単なる思いこみが、ただただ連発されているだけなのだ。客観的なデータはほとんどなし、あっても極めて問題の多い統計だったりする(例えば、魚住絹代[2006])。

 本当に退屈な本なのだ。若者論オタクの私からしても、本書に書かれていることはどこかで聞いたような「愚痴」ばかりであり、ちっともおもしろくない。そのため、15分もかからないうちに読了することができた(付箋をつけながら!)。

 内容としては、『人間性の進化史』(NHK人間講座テキスト)及び、それを並べ替えただけの代物である『考えないヒト』(中公新書)と全く変わりがない。それどころか、特に後者を引いて、「事態はますます深刻になってしまった」と言ってしまっている始末の箇所まであるのだ。

 というわけで、このエントリーでは、私が見つけた主要なつっこみどころを列挙していくこととする。

 ・31ページ。電車内における携帯電話の利用(まあ、その観察も所詮は著者が見ただけなのだが)に関する記述、《彼ら(筆者注:電車内で携帯電話をいじる人たち)はケータイで何かの情報を検索しているのだろうか。字幕でいち早くニュースを入手しているのだろうか。いや、むしろ、メールのやりとりをしている頻度の方が高いに違いない》。そんなに簡単に断定するなよ。

 ・34ページ。著者によれば《ケータイの人口普及率では世界でもっとも進んでいる欧米でも、ケータイをこぜわしくそうさはまず見られない》。その証拠は?せめて写真くらい見せてくれ。

 ・37ページ。《日本人は世代を問わず、ともかく座りたがる》と書き、《身体的に緊張を保つことが困難になってきている》とする。そういうことを言うなら、かつてはどうだったか、ということを示すべきでは?

 ・45ページ。「右脳人間」「左脳人間」という言葉が出てくるが、右と左がそれぞれ別の役割を担っている、という考え方に関しては有意な批判がある(ロルフ・デーゲン[2003]、352~361ページ)。っていうか、このネタって前著の使い回しでしょ。

 ・88ページ。《いまの子どもたちというのは、目の前でいじめられている友だちがいても、その痛みを感じられない。自分の延長したところに、友達という存在を位置づけられない。テレビゲームで起きていることと、学校のクラスで起きていることが一緒になってしまったのが、テレビげーむっこの特徴だろう。つまり、現実と仮想の区別がつかないといった状況なのだろう。我々がイラク戦争をテレビで見ているのと同じような感じ方なのかもしれない。つまり、自我の延長の濃淡というものがなくなってしまった》だとさ。いささか無理のありすぎるアナロジーだ。

 ・105ページから106ページにかけて。小見出しに曰く《激増するケータイ犯罪》。しかし著者は、下田博次『ケータイ・リテラシー』(NTT出版)に引用されている事例2件だけを引いて、このような犯罪が増えるものであると確信しているようだ。しかしたったそれだけの事例でいいのだろうか?

 ・112ページ。先ほど述べたとおり、あまりにも統計学的に問題の多い、魚住絹代『いまどき中学生白書』(講談社)を真に受けている。これに関しては、私の「2006年1~3月の1冊」における書評、及び「たこの感想文」と「冬枯れの街」による批判を参照されたい。

 ・119ページ。「絵文字の使用は言語という抽象的表記スタイルを捨て去ったという点でユニークであり、それはコミュニケーションの退化である」という珍説を性懲りもなく展開している。このネタも使い回しだあ。

 ・141ページから142ページにかけて。完全にステレオタイプだけの「ひきこもり」イメージを展開している。すなわち、「ひきこもり」はネット中毒者でコミュニケーションを放棄した存在である、というもの。これを読むだけでも、少なくとも我が国における「ひきこもり」に関して全く無知であることがわかる。

 ・156ページ。括弧の中だが、《筆者個人は基本的にサルの行動になじんだ研究者である。だから、もっともっとサル化した人間がそこら中に溢れるのをじっくり見てみたいものだと願っている》キター!!

 ・159ページ。あくまでも核家族を悪者に仕立て上げたいらしい。これも使い回しのような気がする。

 などなど。これほどまでにどうでもいい記述が並ぶような本なのだ。繰り返すが、若者論オタクの私の目から見てもちっともおもしろい本ではない。このような本が、権威ある講談社ブルーバックスから出ている、ということに驚嘆したい人だけ買えばよろしい。

 それにしても、である。かつての正高氏、具体的に言えば『ケータイを持ったサル』の頃の正高氏は、どう見てもおかしいデータやグラフ、そしてでっち上げではないかと思わせるほどのボケをかましているような実験結果までも含めて、少なくとも「子供だまし」のテクニックは持っていたような気がする。そしてこのような「子供だまし」は、森昭雄然り、澤口俊之然り、岡田尊司然り、速水敏彦然り、丸橋賢然りと、本来「専門家」や「臨床医」であるはずの俗流若者論者の論理に共通してみられるものである(森氏の『ゲーム脳の恐怖』がトンデモ本大賞の候補に挙がったのも、ひとえに「子供だまし」があまりにも滑りすぎていたからだろう)。しかるに、『人間性の進化史』以降の正高氏は、そのような「子供だまし」すらも捨て去った。要するにこの系統の本をトンデモ本たらしめている要素である、「子供だまし」が滑ってしまう可能性がないのだ。なぜなら滑ってしまう「子供だまし」それ自体がないから。そして残ったのは「自分が不快に思うのは無条件に退化の証なのだ」という「子供だまし」どころか「子供の論理」だけだ。むしろその点を追っていきたいと思うのだが、いかがか。

 引用文献
 ロルフ・デーゲン『フロイト先生のウソ』文春文庫、2003年1月
 魚住絹代いまどき中学生白書』講談社、2006年3月

 参考文献
 こんな駄本を読むくらいなら以下の本を読め。
 ・青少年の行動、及び青少年のメディア使用について
 浅野智彦(編)『検証・若者の変貌』勁草書房、2006年2月
 岩田考、羽渕一代、菊池裕生、苫米地伸(編)『若者たちのコミュニケーション・サバイバル』恒星社厚生閣、2006年3月
 山崎敬一(編著)『モバイルコミュニケーション』大修館書店、2006年3月

 ・ウェブの将来像について
 佐々木俊尚『グーグル』文春新書、2006年2月

 ・青少年犯罪について
 浜井浩一(編著)『犯罪統計入門』日本評論社、2006年1月
 芹沢一也『ホラーハウス社会』講談社+α新書、2006年1月

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2006年5月24日 (水)

『退化する若者たち』著者・丸橋賢氏への公開質問状

〈読者の皆様へ〉

 平成18年5月のPHP新書の新刊として、丸橋全人歯科院長・丸橋賢氏が、『退化する若者たち』なる本を上梓しました。

 しかしこの本は、同種のあらゆる本と同じように、現代の青少年に対して劣っている存在とレッテルを貼り付け、またいかに現代の青少年の生活環境が「生物学的に異常」であり、著者の理想とする一昔前の――つまり、著者が子供だったころの――生活環境が「生物学的に正常」であるか、ということを、論理の飛躍や青少年問題に対する乏しい認識で持って「正当化」するような本です。

 本来であればこのような本は、このブログやbk1書評などで批判的に採り上げる類のものです。しかし今回は、あえて公開質問状という体裁を採らせていただいております。

 なぜこのような行為に及んだかということに関する理由は次のとおりです。第一に、丸橋氏は本書の中において、「ニート」「ひきこもり」「不登校」などという形で表現される現代の若年層のいわゆる「無気力症」を、歯の噛み合わせの力の低下から来る「退化病」であるとしきりに表現しております。「退化」だけ、あるいは「病」だけ、というのはいくらか見たことがあるのですが、それが結びついてしまった例はかなり稀少です。しかもしきりに現代の若年層を「退化病」と表現しており、類書の中でもレイシズム(人種差別)の割合は高い部類に属しております。

 第二に、本書が青少年に対する「治療」の口実として使われるのではないか、ということです。本書の中においては、青少年の「治療」に「成功」した事例のみが列挙されている上、巻末の著者プロフィール(カバーのほうではない)には著者への連絡先が掲載されています。もしかしたらこのような本は、「ひきこもり」や「不登校」の人たちに対する社会的な支援を否定し、また「ニート」問題から労働経済問題を引き離し、医学的な「治療」の強制につながってしまうのではないか、と私は危惧しております。

 丸橋氏には、このブログの記事の内容に、私への連絡先を書き加えた「公開質問状」を、平成18年5月23日付でクロネコメール便にて、私もかかわっている本である『「ニート」って言うな!』(光文社新書)、および、私、そして貴戸理恵氏(東京大学大学院博士後期課程在籍)や雨宮処凜氏(作家)などのインタヴューやエッセイ、及び斎藤環氏(精神科医)の論考が掲載されている「ビッグイシュー日本版」平成18年5月15日号を同封して送付しており、24日に到着する予定です。

 読者の皆様のご理解のほど、よろしくお願いいたします。

 (5月24日補記:ご指摘により、誤字を訂正しました。丸橋様、丸橋全人歯科の関係者の皆様、及び読者の皆様に深くお詫びを申し上げます。)

――――――――――――――――――――

 丸橋全人歯科 院長 丸橋賢様

 はじめまして。

 東北大学工学部建築学科4年の、後藤和智と申す者です。

 突然のお手紙で失礼いたします。

 本日は、丸橋様が本年5月18日に出されました、『退化する若者たち』(PHP新書。以下、「同書」と表記)の内容に関しまして、それに強い遺憾の意を示すとともに、同書におきまして「退化する若者たち」と批判されている世代と同世代の人間として抗議する目的で、筆を執った次第であります。

 なお、この質問状は「公開質問状」という体裁をとっており、これと同内容の文章が、私のブログにて掲載されます。もし丸橋様がご返答されるのであれば、全文を引用してもかまわないか、あるいは要旨だけにしていただくか、あるいは掲載をお望みにならないかということを明記されると幸いです。

 なにとぞご容赦ください。

 本題に入ります前に、私のことについて簡単に述べさせていただきたいと思います。

 私は昭和59年(1984年)、岩手県釜石市――かつて新日本製鐵の企業城下町として栄えた町で、新日鐵釜石のラグビーチームは、地域リーグとなった今でも有名です――に生を受けました。そして、福島県いわき市(~生後11ヶ月、および小学6年~中学卒業)と宮城県仙台市(生後11ヶ月~小学5年、および高校1年~)で育ちました。現在、冒頭にも示しましたとおり、東北大学工学部で建築学を学んでいます。

 また、最近は、青少年問題に関して物書きとして仕事もしております。そもそも私が青少年問題に興味を持ったのが平成12年(2000年)、いわゆる「17歳」がキーワードとなった年です。そしてそこにおける青少年に対する「語り口」への疑問から青少年問題言説の研究を個人的に行うようになり、大学に入ってからは新聞や雑誌に投稿し、平成16年(2004年)11月――大学2年のときです――に、青少年問題言説研究をテーマとしたブログ「後藤和智事務所 ~若者報道と社会~」を開設しました。後に「新・後藤和智事務所 ~若者報道から見た日本~」とリニューアルし、現在に至ります。

 そもそも私が青少年言説の「おかしさ」に本格的に気がついたのが、平成13年における「荒れる成人式」報道です。それ以来、特に成人式に関しては強い関心を持ち続け、平成17年と平成18年に2年にかけて、仙台市成人式実行委員会として、仙台市の成人式の企画・運営にかかわってきました(平成17年は副実行委員長)。いずれも大成功を収めました。

 平成18年には、本田由紀氏(東京大学助教授)にお誘いいただいて、初の著書となる『「ニート」って言うな!』(光文社新書)を、本田氏と、内藤朝雄氏(明治大学助教授)との共著として出版しました。それ以降、主としていくつかの青少年関係のNPOからイヴェントやトークショーのお誘いをいただいて、その都度参加しております。今年6月には、2冊目の著書が、これも10数名の共著ですが、双風舎から出る予定です。

 さて、これより本題に入ります。

 丸橋様は、同書において青少年における不登校や「ひきこもり」の増加、および「ニート」の増加に関して、その原因は社会的なものではなく、むしろ若年層における「生物学的な」変化であるとしております。

 しかし、青少年問題言説に深くかかわってきた私としましては、なぜ丸橋様がそこまで自らの理論に
自信を持てるのか、ということが理解できないのです。

 ・青少年問題をめぐる認識について

 そもそも同書における、丸橋様の青少年問題に関する認識が極めて杜撰なのではないか、ということです。

 第一に、丸橋様は、冒頭(3ページ)において、以下のように書かれております。曰く、

―――――

 「日本人の活力は低下しているのではないか」と、危惧している人は多い。

 とくに若者に対してである。若いくせに元気がなく、動きが鈍く、反応が遅く、耐久力がなく、疲れやすい。さらに、やる気がない。精神的に虚弱で、人間関係や社会の関係から破綻し、脱落する者が増加している。

 不登校生徒やニートと呼ばれる働かない若者が社会問題となって久しい。

 しかも、活力や能力の低下という状況を超えると、人格の崩壊に進んでしまい、暴力や非行、犯罪をひき起こす例も多くなっている。その犯罪の内容も、きわめて非人間的なものが多い。

―――――

 と。

 少なくとも、この部分だけに関しても、たくさんの事実誤認が確認できます。

 例えば、故・小此木啓吾氏(精神科医)が、「モラトリアム人間」なる造語を発表したのが、昭和46年(1971年)のことで、その「モラトリアム人間」の心理構造が我が国のあらゆる年代・階層に共有する性格である、と発表したのが昭和52年(1977年)です(注1)。その年代においていわゆる「若者」と呼ばれていた人たち(つまり、昭和25年~35年ごろに生まれた人たちです)は、丸橋様の定義するような「退化病」が進行していた世代の範疇から外れています。

 さらに言えば、古代エジプトの壁画から「今時の若い者は…」という趣旨の文章が発見された、とも言われますから、大人たちが、同時代の青少年を嘆いていた、というのは、洋の東西と時代を問わず普遍的に存在するものでしょう。

 しかしながら、現代の青少年言説は、そのような、いわば「伝統的」な青少年不信の範疇からさらに逸脱しているようにも思えます。残念ながら、丸橋様の青少年論も、この「逸脱した青少年言説」の領域に踏み込んでいるように思えます。これに関しては後述します。

 閑話休題、本題に戻ります。さて、近年騒がしい「ニート」に関してですが、これも、丸橋様、というより、社会の大部分の認識が間違っているとしかいえません。そもそも我が国におきましては、「ニート」とは18~35歳の、仕事についていなければ、教育や職業訓練も「受けていない」人たちの事を指します。それが、特にマスコミを中心に、「精神の虚弱な若者」「不道徳な若者」などという、必要以上に病理的なレッテルばかりを貼り付けられて、もはや実態とはかけ離れたイメージばかりが過度に先行している、といった状況です。

 しかしながら、その「ニート」と呼ばれる人たちの内実を見てみる限り、このようなプロファイリングは率直に言えば間違いとしか言いようがないのです。

 「ニート」と呼ばれる人たちは、「非求職型」(注2)「非希望型」(注3)に大別されます。そのうち、ここ10数年で増加したのは、マスコミにおいて「典型的ニート」とでもいうように採り上げられるような「非希望型」――マスコミが好き好んで採り上げるのは、その中でも特に「病理的」に見えるケースです――ではなく、むしろ「非求職型」です(注4)。また、ここの事例を見ましても、一筋縄では決して語れないという、それぞれに異なった事情が見受けられます(注5)。

 そもそも「ニート」という言葉は、平成15年(2003年)に英国から導入された概念です。この概念は、英国においては、年齢層を16~18歳に限定し、さらに「社会的排除」という観点を含んでおりました。しかしながら、我が国に導入され、さらにさまざまなメディアによって好き放題に採り上げられることによって、「社会的排除」という視点を剥奪され、通俗的な青少年問題言説の新しい概念として、現在に至るまで誤解にさらされ続けております(注6)。

 少年による凶悪犯罪に関しましても、統計的な検挙数は昭和35年(1960年)ごろを境に減少し、殺人に関してはおよそ3分の1、強姦に至ってはおよそ10数分の1という減少度を示しております(犯罪白書)。平成9年(1997年)に、強盗が急増していますが、その後に強盗の件数がほぼ横ばいになっていることからもわかるとおり、これはむしろ「強盗」とカウントされる敷居が低くなったことを表しています。検挙率が低くなっているから実際の犯罪は増加しているのだ、という声もありますが、これも警察の検挙方針の転換によるものであり、実際の犯罪の件数とはあまり関係のないものです(注7)。

 少年犯罪の事例に関しましても、『青少年非行・犯罪史資料』という本(注8)や、「少年犯罪データベース」というサイト(注9)を見ればわかるとおり、凶悪化というのがあまり正当性をもたない通説であることがわかります。

 この点に関しまして、私が丸橋様にお伺いしたいことは以下のとおりです。

 1. 丸橋様は、「ニート」や不登校について語るにあたって、何か客観的な資料、あるいは文献に当たったのでしょうか。
 2. 丸橋様は、少年による凶悪犯罪に関しまして、それが減少していることをご存知でしょうか。
 3. 丸橋様は、若年層に関する経済格差や不平等に関する文献、資料に当たったのでしょうか。
 4. いわゆる「ニート」対策に関する本(注10)は参照されましたでしょうか。あるいは、景気回復・デフレ脱却こそが「ニート」問題の根本的な解決につながる、という経済学者の論説(注11)があることはご存知でしょうか。

 ・丸橋様の「語り口」について

 さて、丸橋様は、青少年問題の「根本的な原因」として青少年の「生物学的」な「退化」であるとしておられます。

 また、丸橋様は、この本の中でしきりに「退化病」という言葉を用いておられます。要するに、現代の若年層は「退化」し、しかもそれが「病」であるという風に丸橋様が捉えているとみなしてよろしいでしょうか。

 しかし、丸橋様は、ある「生きづらさ」を抱えた個人、さらにはある世代全体の人たちに対して彼/彼女を「病」であると断定し、自分、あるいは彼/彼女ら以上の世代より劣った――つまり「退化」した!――人間として中傷する、ということに関しまして、何らかの羞恥心を抱かれたのでしょうか。

 私が同書を読んでみる限り、丸橋様がそのような羞恥心を感じられていたようにはとても見えませんでした。

 そもそもわが国において、丸橋様のような大っぴらな青少年言説が展開されるようになったのは、ここ10年のことです。それまでは、青少年を批判しつつも、青少年に希望や期待を寄せているような青少年言説が主流でした。ところが、平成9年(1997年)の、いわゆる「酒鬼薔薇聖斗」事件以降、青少年を過激に罵り、あるいは青少年が「生物学的に」劣ったものである、とする言説が平然とまかり通るようになりました(注12)。「~症候群」といった類の言説もまた、やはり平成9年ごろから青少年をバッシングするようなプロファイリングがやたらと目に付くようになりました(注13)。

 こと青少年の「退化」「劣化」を「科学的」に「証明」したとする本(注14)に関しましては、その多くが科学を濫用して現代の青少年をバッシングするとともに、自分の理論について根拠の乏しい自信を持っているのが特徴です。しかし、彼らの論理も、結局のところ、たとえば少年による凶悪犯罪は増加していない、「ニート」は「怠けた若者」を意味するわけではない、という事実を提示すればたちどころに崩れてしまうのもまた特徴です。

 現代の青少年が、「生物学的に」劣ったものである、と証明なさりたいのであれば、まず客観的なエヴィデンス(証拠立て)が必要です。丸橋様の主張であれば、不登校や「ひきこもり」、および「ニート」の人たちが、そうでない人たちに比して歯の噛み合わせや骨格が悪い人が有意に多い、という客観的なデータが必要です。

 ところが丸橋様は、例えば「今の若者には~」などといった語り口で、そのようなエヴィデンスの提示を放棄されております。しかしながら、たといあなたが学者ではなくとも、相手を納得させるのであれば、具体的な資料の提示、および反証可能な緻密な論理立てが必要ではないかと思いますし、私も青少年言説を研究する際にはできるだけ実践できるようにと心がけております。

 また、統計学には、逆相関逆因果(指摘がありましたので5月24日に訂正しました)という考え方があります。つまり、AとBに有意な相関関係があり、「AからBが引き起こされている」と思っていましたが、実際に精査してみたら「BからAが引き起こされる」というのが正しかった、というものです。また、擬似相関という考え方もあます。つまるところ、AとBに有意な相関関係があり、「AからBが引き起こされている」と思っていましたが、実際に精査してみたら、「(AやBとは別の事象である)CからAとBが引き起こされていた」というのが正しかった、というものです。

 要するに、丸橋様の「観察」された事例において、歯の噛み合わせと不登校に有意な相関がありましたが、それが「歯の噛み合わせが悪いから不登校になる」のか、あるいは「不登校だから歯の噛み合わせが悪くなった」のか、あるいは擬似相関なのか、というのが曖昧にされたままなのです。さらに丸橋様は、自らの経験談を世代全体に暴力的に一般化して、「噛み合わせの力が弱くなった現代の若者は~」などという方向に飛躍してしまっているのです。

 「退化」の話に戻りますが、このような言説を振りかざすことによって、現実の青少年が不利益を被る、あるいは同書を読んだ青少年が不快に思う、ということに関して、何らかの想像力は働いているのでしょうか。そもそも、たとえば「体罰」と称して4人の若い人たちを死に至らしめたのに、たった6年で娑婆に戻ってきて、何事もなかったかのように教育論を展開するような人とは違い、彼らはただ学校に通っていない、あるいは働いていない、あるいは諸事情によって何らかの「生きづらさ」を抱えているだけなのに、丸橋様は彼/彼女らを「退化」した、劣った人間と、蔑視しているのです。そのような丸橋様に、私は絶対に診療を受けたくない、と思いました。私は軽い顎関節症をわずらっていますが、通常の歯医者で教わった顎関節症治療のトレーニングをして治しています。

 丸橋様のこのような行為は――このような言葉はあまり使いたくないのですが――言論の「品格」をあまりに欠いた行為であり、さらにいうなればレイシズム(人種差別)と言うほかありません。

 付け加えますと、若い人たちのみならず、近年においては35~50歳の人たちにおいても「無業」の人が増加しております(注15)。丸橋様は、彼らもまた、「退化」して求職行動を放棄したものとみなすのでしょうか。

 この点に関しまして、丸橋様にお伺いしたいのは以下のとおりです。

 1. そもそも同書は、どのような人をターゲットにして書かれたのでしょうか。
 2. 丸橋様は、「退化」という言葉を使うに際して、慎重に取り扱おうとされたでしょうか。

 ・「保守主義」について

 丸橋様は、最後のほうで、「いのちの保守宣言」と題し、文化の型と質を取り戻すことを主張されています。

 しかしながら、丸橋様の「保守主義」とは、私には単なる青少年への憎悪にしか見えないのです。

 そもそも丸橋様は、次のように述べておられます。曰く、

―――――

 戦後の日本人は右も左も、保守も革新も、家族制度や家業や故郷、景観といった伝統の基礎から離れることこそ、自由であるかのように誤解してきた。その結果、文化は形なきまでに崩壊し、人間の形も質も融解してしまったのである。人間とは思えないような若者の増加が、それを示しているのである。(191ページ)

―――――

 このような物言いを、青少年言説の研究家としての私は、何度も見てきました。特に「人間とは思えないような若者」など、若年層を見下すのもいいところですが、青少年の「堕落」なるものが戦後日本の「失敗」を象徴している、といわれたら、若い人たちはどのような反応を示すでしょうか(私の理想としましては、「あ、そうなの。で、それと自分が何の関係があるの?」とばかりに受け流すのが望ましいと思っているのですが)。

 丸橋様、および世の中の青少年をしきりにバッシングしている人たちは、多くの青少年は、バッシングしている人たちが見ていない、あるいは意図的に無視しているところで一生懸命に自らの人生を生きているということを忘れているのではないでしょうか。

 たとえば丸橋様は、不登校に関して、医学的な「治療」が必要な対象として捉えているように思えます。しかし、世の中には、丸橋氏のような、あるいは医学的な「治療」を受けずに、自分の力で、あるいは社会的な支援でもって不登校や「ひきこもり」から脱却した人がたくさんいます。もちろん、医学的な「治療」を要する人もいるかもしれませんが、そのような主張が高じて、現代の若年層全員が「病気」であるような物言いはやめてほしいのです。

 また、乾彰夫氏(東京都立大学教授)らが行った、東京圏の18歳の人たちに対して行ったアンケートにおいても、彼らはしっかりとビジョンを持っていること、しかしそのビジョンが親の経済的状況によって左右されたり、あるいは何らかの理由で崩されたりしていること、そしてそれでも彼らは懸命に生きていることが見受けられます(注16)。

 付け加えて言いますと、丸橋様のおっしゃっているような「いのちの保守宣言」は、果たして誰に向かって言われるものなのでしょうか。丸橋様は、現代の子育てが青少年を堕落せしめた、とおっしゃっていますが、それは結局のところ、現実の若い親たちに対するバッシングに他ならないのではないでしょうか。要するに、丸橋様のごとき人が、昔はよかった、それに比べて今の若いやつらは本当にだめだ、自分の若いころに戻せ、と叫べば叫ぶほど、若い人たち、特に若い親たちの肩身は狭くなってしまうのではないか、ということです。

 結局のところ、丸橋様は、自意識を満たすために、現代の青少年がいかに「劣っているか」ということを「科学的」説明――しかし、その前提からして間違っている――でもって「証明」しているだけではないか、と私は思うのです。

 宮崎哲弥氏(評論家)は、最近の「保守主義」の潮流について、興味深い論考を朝日新聞に発表しています。曰く、

―――――

(前略)

 彼ら(筆者注:注17)は、関係概念としての保守のあり方に不満を抱き、自性的、体系的な「主義」への再編を目指した。「~に対する保守」から「~へ向かう保守」への脱皮を志向したのである。

 そこで、従来は自明視されていた「伝統」や「慣習」を反省的に捉え直し、高度に抽象的な理念として再提示する方法が採られた。その再帰的な構成は、確かに保守主義という名に相応しい思想的内実を備えていた。然るに、保守派における理解や支持は十分に拡がらなかった。

(略)

 近年のジェンダーフリー・バッシングに伴う、性教育に対する一部保守派の攻撃の様子をみれば、もはや保守の美点の一つであった現実主義すら失調しているのではないかとすら思える。

 適切な性教育が、性病の蔓延や妊娠中絶の増加を食い止め、性交の初体験年齢を上げる効果があるとしても、彼らはほとんど聞く耳を持たない。純潔を教えさえすれば、純潔が実現すると信じているかのような彼らの態度は、平和さえ唱えていれば、それが実現すると信じた空想的平和論著の姿勢と瓜二つだ。

 そこに自省の契機も、熟慮のよすがもなく、ただ断片的な反応――それもしばしば激越に走る――しか看取できないとすれば、それらはもはや保守とも保守主義とも無縁の、単なる憎悪の表出に過ぎない。

(宮崎哲弥「進む保守思想の空疎化 「新たな敵」求めて散乱」2006年5月9日付朝日新聞夕刊/夕刊のない地域は10日付朝刊)

―――――

 果たして、丸橋氏の「いのちの保守宣言」は、どちらに該当するでしょうか。私には、どうしても後者――すなわち、青少年に対する「憎悪の表出」としての空想的「保守主義」――にしか見えないのです。

 ここに興味深いデータがあります。社会学者の浅野智彦氏らが、都市部の若年層に対して平成4年(1992年)と平成14年(2002年)行ったアンケートがあります\footnote{浅野、前掲書}。興味深いデータはいろいろありますが、その中でもさらに興味深いのが、現代の青少年の道徳・規範意識は決して後退していない、さらには、見た目・所持品・日ごろの行動、大きな社会への意識――たとえば「愛国心」――、「いま-ここ」重視の志向性などと、道徳・規範意識との有意な相関関係は認められない、としています(注18)。そして、アンケートを分析した人は、以下のように結論付けています。

―――――

 若者たちに規範意識があるか/ないかという議論は、もうこのくらいにしていいのではないか。批判を受ける当事者(=若者)に尋ねてみると、規範の崩れを垣間見ることはできない。これは決して、若者たちの自意識が高いのではなく、また自己を省みる能力が薄れているからというわけでもなさそうだ。批判をしている発信者にこそ、穿った固定観念があるのではないか。なぜ大人社会は若者への評価を厳しくするのか、その背後にある要求を解明していく時期にきたのかもしれない。

(略)

 では、大人が承認したがらないのはなぜか。たとえば、大人社会の疲弊した内部システムへのバッシングは自己否定になる。しかし、未承認者へのバッシングは自己否定にならない。部外者として扱えばよいからだ。若者を事前に怪しいと予言しておいて、何か問題が起きたときに、「彼らを承認しなくてよかった」と自己肯定できるストーリーが用意されている。部外者のしたことは、当事者の責任にならずに済む。少年法改正のときの手法と同じように、悪役を用意し、現状の大人社会の維持のために都合よく操作したいという目論見が隠されている。

(浜島幸司「若者の道徳意識は衰退したのか」、浅野智彦(編)『検証・若者の変貌』勁草書房、222~224ページ)

―――――

 現代の青少年言説は、まさに当事者のいないところで自称「善良な」大人たちが勝手に騒いでいるだけ、としか言いようがないのです。もし丸橋様が、現代の青少年や若い親たちの心理を無視し、ただ空疎に「いのちの保守宣言」だったり、あるいは「故郷」だとか「人間性」などを唱え続けるのでしたら、丸橋様もまた、「愛国」を叫びながら、結局のところ何もしようとしない、それどころか国を滅ぼす「売国奴」としかいいようがありません。現実の青少年を救うのは、大言壮語にまみれた青少年言説ではなく、青少年を取り巻く現実に対して、物事を個人の内面や身体的能力、および教育に責任を帰してしまうのではなく、さらに経済システムや政策までも含めて考えることではないでしょうか。

 残念ながら丸橋様は、単純に大言壮語を振りまいているようにしか、私には見えないのです。それが青少年にとって効果があるのか、ということに関しては、もう少しお考えになったほうがいいのではないかと思います。もし丸橋様が本気で社会をよくしたいとお考えであれば、むしろ一つの世代を、当事者のいないところで誹謗中傷するような議論は避けるべきではないでしょうか。

 戦後民主主義教育が悪い、戦後の食生活が青少年から活気を奪ったのだ、といくら丸橋様が主張したとしても、それは結局のところ、一部の「善良な大人」たちが「そうだ、やっぱり今の青少年は異常なんだ」と内輪で納得するだけの「証拠」として簡単に消費されるだけなのです。そして当事者には何の利益もありません。これは決して、彼/彼女らが、戦後民主主義という「異常な」空間で育ってきたから、彼ら自身が異常であることに気がつかない、というものではありません。むしろ、「語る」側、あるいは青少年言説を「消費」する側こそが問題にされるべきなのです。

 確かに、現代の青少年は、丸橋様の「理想」とする社会とはまったく違う社会を生きていることは間違いないでしょう。しかし、だからといって現代の青少年や若い親たちを、自らの空疎な主張の押し付けによってバッシングしていい、という理由には決してなりません。青少年や若い親たちを「研究」する人に認められることは、むしろただ声が大きいだけの甘言から一歩引いて、冷静な目で見ることではないでしょうか。

 この点に関して、私が丸橋様にお伺いしたいのは次のとおりです。

 1. 丸橋様は、青少年や若い親の現実についてどれほど考慮なさったのでしょうか。
 2. 丸橋様は、青少年問題に関する、スローガンではない現実的な解決策をお持ちでしょうか。
 3. 丸橋様は同書を、自らの「治療」の宣伝としてお書きになったのでしょうか。

・最後に

 政治学者のマックス・ヴェーバーは、著書『職業としての政治』の結びにおいて、以下のように述べております。

―――――

 政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である。もしこの世の中で不可能事を目指して粘り強くアタックしないようでは、およそ可能なことの達成も覚束ないというのは、まったく正しく、あらゆる歴史上の経験がこれを証明している。

(マックス・ヴェーバー『職業としての政治』脇圭平:訳、岩波文庫、1980年3月)

―――――

 この言葉は、私の座右の銘としている言葉です。ここで書かれたことは、決してひとり政治のみを
さしているのではなく、何かについて論じる場合も、同様のことであると思います。

 最後になりますが、丸橋様のご健康と、ますますのご発展をお祈りします。

 後藤和智 拝

(注1)小此木啓吾『モラトリアム人間の時代』中公文庫、1981年11月に収録
(注2)働きたいという意思はあるが、具体的な求職行動を取っていない人たちを指します。
(注3)働きたいという意思もなく、具体的な求職行動も取っていない人たちを指します。
(注4)本田由紀ほか『「ニート」って言うな!』光文社新書、2006年1月、25ページ
(注5)小杉礼子(編)『フリーターとニート』勁草書房、2005年4月
(注6)「サンデー毎日」2005年1月9・16日号
(注7)浜井浩一(編著)『犯罪統計入門』日本評論社、2006年1月
(注8)赤塚行雄(編)、犀門洋治(協力)、刊々堂出版社、全3巻、1982~1983年
(注9)http://kangaeru.s59.xrea.com/
(注10)例えば、二神能基『希望のニート』(東洋経済新報社、2005年6月)、あるいは、工藤啓『「ニート」支援マニュアル』(PHP研究所、2005年11月)など
(注11)例えば、若田部昌澄『改革の経済学』ダイヤモンド社、あるいは、田中秀臣「景気回復で半減するはずのニートを「経済失政」と「予算」の口実にするな」(「SAPIO」2005年11月22日号)
(注12)浅野智彦「若者論の失われた十年」、浅野智彦(編)『検証・若者の変貌』勁草書房、2006年2月
(注13)斉藤弘子『器用に生きられない人たち』中公新書ラクレ、2005年1月
(注14)森昭雄『ゲーム脳の恐怖』NHK出版生活人新書、正高信男『ケータイを持ったサル』中公新書、澤口俊之『平然と車内で化粧する脳』扶桑社文庫、岡田尊司『脳内汚染』文藝春秋、など
(注15)玄田有史「中年齢無業者から見た格差問題」、白波瀬佐和子(編)『変化する社会の不平等』東京大学出版会、2006年1月
(注16)乾彰夫(編)『18歳の今を生きぬく』青木書店、2006年4月
(注17)評論家の西部邁氏や、京都大学教授の佐伯啓思氏など
(注18)浜島幸司「若者の道徳意識は衰退したのか」、浅野、前掲書

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2005年11月12日 (土)

子育て言説は「脅迫」であるべきなのか ~草薙厚子『子どもが壊れる家』が壊しているもの~

 ジャーナリスト・草薙厚子氏の最新刊『子どもが壊れる家』(文春新書)、及び草薙氏が最近になって立て続けに「週刊文春」において発表している少年犯罪論を読んで、私は草薙氏が、我が国における「ジャーナリスト」と呼ばれる職種の人の中で最悪の部類に入る人なのではないか、と確信した。本書は、一番悪い意味で「ジャーナリスト的」な作品であり、単純に言えば本書は子供たちに対する危機・不信を煽る言説のみで構成されている。

 本書がいかなる本であるか、ということは、第1章「「普通の家庭」で犯罪が起きた」を読めば直ちに分かるであろう。まず、この章のタイトルが「「普通の家庭」で犯罪が起きた」。要するに、このようなあおり方は、最近の「普通の」子育てこそが犯罪者を生むのだ、という危険扇動言説そのものである。

 それだけではない。この第1章は、マスコミで喧伝されている、少年による凶悪犯罪を列挙されたのち、「今時の子供」「今時の若者」の「頽廃的な」特徴を示す(と錯覚している)アナロジーがたくさん詰まっている。私が本書を読んでいるとき、この章だけで大量に栞がついてしまった、ということをあらかじめ言っておきたい。

 《東京近郊の小学校教師によると、ここ十年くらいの間に「家ではいい子、学校ではやりたい放題」の子が男女ともに増えているそうです》(草薙厚子[2005]、以下、断りがないなら同様)24ページ。《「自分は自分のままでいい」と文化の鎧を拒否する生徒が増えていると言うのです(筆者注:だから校内暴力が増える、と草薙氏は説いている)》29ページ。《学級崩壊が叫ばれている昨今、協調性がない子どもたちが増えているのは確かです》同じく29ページ。《母親の中には、中学生だってプラダやグッチなどの高級ブランド品を持っていてもいい、と考える人がいるでしょう。それが親子の話題の中心だとしたら、コミュニケーションのとり方は本当にそれでいいのでしょうか?》32ページ。《各学校の現場教師は、生徒が友達同士のコミュニケーションを対面で取れなくなってきていることを危惧しています。今まであっていた子に言いたいことをその場で話さず、別れた後でメールを送りつける》34ページ。《確かに子どもが勝手に皮って言ったのではなく、親が変わり、その姿が鏡に映るように子どもが変わっていったのです》36ページ。《(筆者注:昨今の携帯電話を媒介したコミュニケーションは)希薄な人間関係の中で、対人的な共感性や感動もなく、その場での刹那的な快楽に支配された行動なのです》42ページ。《以前と比べてさらに同期が不明瞭な非行が増え、一体何を求めて危険を犯すのか判らない犯罪が多くなりました》43ページ。《戦後の混乱や貧しさゆえに子どもをかまう余裕を失った世代から、管理社会・競争社会を行きぬくために子どもを犠牲にした世代を経て、衣食足りて礼節を教えない世代へ》43ページから44ページにかけて。《誰もがしている「普通の行為」の中に、意外と大きな落とし穴が隠されているのではないでしょうか》44ページ。《核家族化は両親に快適な家庭生活をもたらしましたが、子どもを見る目、育てる手は確実に減りました。一方で少子化は、モノだけでなく親の関心までも過剰に子供に集中する結果を招いています》44ページから45ページにかけて。《誰もが少年犯罪を他人事とは思えない時代がこうしてやってきました》45ページ。

 24ページに~45ページにかけて、こういった言説がおよそ2ページに一つ出てくるのである。これらの言説は、特に新しい視座を開拓するわけでもなく、あるいは現在喧伝されている言説に対するアンチテーゼになることは当然なく、ただ「不安」を増長するだけである。特にこの章の最後にあたる、44ページから45ページにかけては密度が極めて高い。私が本書を、最悪の意味で「ジャーナリスト的な」本であると断定した所以である。

 草薙氏の狼藉はこればかりではない。本書第3章「過干渉とゲーム」に至っては、もはや学問的には完全に論破されたはずの「ゲーム脳」理論をはじめ、「今の子供たちはゲームのせいでおかしくなった」という俗論を「裏付ける」ための「証拠」なるものが次々と登場する。無論、それらに対する批判的な視座もなしで。もとより草薙氏は、平成15年に長崎での児童殺傷事件において犯人が「ゲーム脳」ではないか、という記事を「週刊文春」に書き、平成14年には講談社の「web現代」において「ゲーム脳」理論を喧伝していたという経歴もあるため、草薙氏がかのようにゲームを敵視する理由もわからぬでもないが。

 閑話休題、第3章においてゲームが子供たちの死生観を歪めることの「証拠」としていまや「定説」となってしまった、長崎県教育委員会の「生と死のイメージ」に関する意識調査が109ページから110ページにおいて引かれている。そして案の定、「死んだ人は生き返る」と応えたのが15.4パーセントだったという記述と、そのうち「ゲームでリセットできるから」と応えたのが7.2パーセントだったという記述が出てきている。
 私事で申し訳ないが、私はこの調査を「統計学の常識、やってTRY!第2回」という記事で検証したことがある。この調査の問題点に関してはこちらを参照していただきたいが、草薙氏は、この調査の調査票を読んだのだろうか。少なくともこの調査票は、「なぜ「死んだ人が生き返る」と考えるのか」というアンケートに関しては、全てがメディアがらみという、誘導尋問といっても仕方のないやり方が採用されていたのだが。

 111ページから136ページにかけては、「ゲームの脳に与える悪影響」なるものが紹介されているのだが、ここで出てくるのは、森昭雄(日本大学教授)、澤口俊之(北海道大学教授)、川島隆太(東北大学教授)、片岡直樹(川崎医科大学教授)といった、これまた「お決まり」の面子である。しかも川島氏以外は、「ゲーム脳」の熱心な支持者(森氏に至っては「ゲーム脳」の「教祖」)であるから、草薙氏がいかにゲームを敵視することを本書で目的としているかがわかるであろう。これらの面子に対する批判は、過去に何度も指弾しているので、改めて述べることはここではしない。(詳しくは、「俗流若者論ケースファイル」シリーズの「07・森昭雄」「08・瀧井宏臣&森昭雄」「16・浜田敬子&森昭雄」「37・宮内健&片岡直樹&澤口俊之」「48・澤口俊之」「56・片岡直樹」「64・清川輝基」「69・中村和彦&瀧井宏臣」「71・森昭雄」を参照されたし)しかし根拠の極めて疑わしい言説を平然として「子供がおかしくなった証拠」として持ち上げるのは、ジャーナリストとして、というよりも青少年言説に携わるものとしてあってはならない行為であると指摘しておきたい。

 ついでに川島氏は、「ゲームが脳に及ぼす悪影響」を実証した人と本書では扱われているが、川島氏の分析はもっとニュートラルなものだし(「ゲームは前頭葉を活性化させることはないが、「癒し」としての効果はあるかもしれない」というもの。ちなみに川島氏の「癒し効果」説については本書でも触れられているが、なぜか草薙氏は127ページで否定してしまっている)、川島氏自身も「ゲーム脳」との関与を必死に否定している状況である。

 ここまで、本書第1章と第3章における草薙氏の記述を検証してきたけれども、私がもっとも衝撃を受けた記述は、第4章139ページにある。曰く、

 しかし子どもを育てる親は、すべてが解明されるのをただ待っているわけにはいきません。子どもに悪影響を与えるものを推測し、常識で判断し、予防的に行動する必要があります。

 と。草薙氏は、13ページにおいても、《「少年A」(筆者注:酒鬼薔薇聖斗)の出現以降、私たちは子育てのマニュアルを書きなおす必要に迫られています。今、日本の子育てが問われ始めているのです》と書いている。もとより、《子どもに悪影響を与えるもの》なるものが扇動言説によって左右されるのも問題であるが、私はこのような記述を見るにつけて、次のような疑問を強く持つ。

 子育て言説は「脅迫」であるべきなのか?

 本書の底流において、重低音の如く常に流れている思想は、「今の子供たちは危険だ、それは今の親たちの間に広まっている「普通の」子育てが「今時の危険な子供たち」を生み出しているからだ」というものである。これはすなわち、あなたが「普通の」子育てをしている限り、あなたの子供がいつ凶悪犯罪者になってもおかしくない、という「脅迫」に他ならない。

 何度も指摘していることだが、我が国においては少年が凶悪犯罪を起こす数は減少している。それは人口比でもいえることである。しかし昨今の我が国において、青少年の「悪化」「劣化」「凶悪化」を煽り立てる言説はバブルの如く増加し、かえってそちらのほうが、「善良な」大人たちの現実感覚、あるいは青少年に対する感覚を規定しているのかもしれない(この証左として、内閣府が平成17年1月に行なった「少年非行に関する世論調査」を挙げておこう。同調査によると、「青少年による重大な事件などが増えていると思うか」という問いに対して、「増えている」と答えた人が約93パーセントも存在したそうだ)。

 言説の増大が、やがて不安を増長させ、さらにまた不安言説を増加させる、という構造も存在しているのかもしれない。これに関しては、そのような構造を示す記述として、東京大学助教授の広田照幸氏による記述《親が子どもへの要求水準を高めれば高めるほど、また、子どもに対して時間や熱意を注げば注ぐほど、親の期待通りに子供が反応してくれないことが気になるし、自分のミスや失敗が気になる。「子育ての失敗」への不安が強まっているのは、現代の親が子どもへの要求が高すぎたり、子育てに熱心すぎることに一つの理由があるのではないだろうか》(広田照幸[2003])、及び皇學館大学助教授の森真一氏による記述《現代社会はデュルケムのいう「聖人たちから成る一社会」あるいは「僧院」のような社会である。また、「共同意識がより協力となり」人々の間のズレが金賞貸地得る社会でもある。それゆえ、人々は相互に「共同意識」からの微妙なズレも見逃さず、これを避難する》(森真一[2000])を採り上げておく程度にしておく。

 私がここで問題にしたいのは、これからの子育てマニュアルは、「教育の失敗」としての「今時の若者」「今時の子供」を設定し、あいつらは社会の「敵」だ、だから自分の子供をあいつらの如き社会の「敵」にしてはならない、というものでなければならないのだろうか、ということだ。このような子育て言説の蔓延は、草薙氏の本書に限らず、例えば最近出た、株式会社海外教育コンサルタンツ代表取締役の浅井宏純氏と、ジャーナリストの森本和子氏による共著『自分の子どもをニートにさせない方法』(宝島社)という本においては、「社会悪」としての若年無業者(=「ニート」)という姿が強調され、こいつらの如くさせないための「子育て」の手法――とはいえ、本書において展開されているのが、国に対する誇りを持たせよ、とか、生活習慣を見直せ、とかいったものなのだが――が――そのような子育てで本当に子供が「ニート」にならずに済むのか、ということを置き去りにしたまま――が展開される。

 ここで壊されているのは、「信頼」をベースにした関係性ではなく、むしろ自分の子供を「敵」にさせないという、「不信」をベースにした関係性ではないのか。草薙氏は本書において、自分の子供をペット化させてはならない、といっているが、かえってこのような不安扇動言説、並びに「敵」を設定してそれに「させてはならない」という子育て言説の増大こそ、子供をペット化させる最大の要因ではないか。

 今の時代の子育て言説は、「今時の」若年層や青少年を「敵」として規定することからはじめなければならないのか。子育て言説の変遷に関しては、もう少し深く追っていく必要があるようだ。

 ちなみに草薙氏は、「酒鬼薔薇聖斗」の更正プログラムに関して記述した本『少年A矯正2500日全記録』(文藝春秋)という本を、この「酒鬼薔薇聖斗」が仮釈放される平成16年4月という絶妙のタイミングで刊行して、更に本書は大宅壮一ノンフィクション賞の候補になるが、草薙氏に盗作疑惑が浮上して受賞は逃している。また、草薙氏に関しては、ジャーナリストの横山政起氏が「ジャーナリスト草薙厚子氏を告発する会」なるウェブサイトで、横山氏が草薙氏から受けた被害を記している。

 参考文献・資料
 草薙厚子[2005]
 草薙厚子『子どもが壊れる家』文春新書、2005年10月
 広田照幸[2003]
 広田照幸『教育には何ができないか』春秋社、2003年2月
 森真一[2000]
 森真一『自己コントロールの檻』講談社選書メチエ、2000年2月

 小笠原喜康『議論のウソ』講談社現代新書、2005年9月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月

 参考リンク
 「たこの感想文:(書評)子どもが壊れる家
 「草薙厚子,子どもが壊れる家-タカマサの気まぐれ時評

 酒井隆史「「世間」の膨張によって扇動されるパニック」=「論座」2005年9月号、朝日新聞社
 内藤朝雄「お前もニートだ」=「図書新聞」2005年3月18日号、図書新聞
 内藤朝雄「憎悪の社会空間論」=「10+1」40号、INAX出版

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2005年9月28日 (水)

三浦展研究・後編 ~消費フェミニズムの罠にはまる三浦展~

 (前編はこちら、中編はこちら
 民間シンクタンク研究員・三浦展氏の著書『「かまやつ女」の時代』(牧野出版)を読んでいて、私の頭の中で常に浮かんでいた言葉は「消費フェミニズム」である。「消費フェミニズム」とは何かというと、これは米誌「ニューズウィーク」のコラムニスト、スーザン・ファルーディが使っている言葉である。ファルーディによると、平成12年の米国において、米国の女性が米国の現状をどう思うか、というインタヴューをしたところ、経済的には豊かなはずの米国において、返ってきた答えは《「怒りを感じる」「ひどすぎる」「うんざりする」》(スーザン・ファルーディ[2001]、以下、断りがないなら同様)というものである。ファルーディはこれを《新たな「性(ジェンダー)のギャップ》だと呼んでいる。

 ファルーディは、米国において、《ここ数十年、「あればあるほどいい」が、商業化されたフェミニズムの合い言葉となってきた》ことに対して苦言を呈している。そのようなフェミニズムの状況が何を生んだか。ファルーディは以下のように述べる。曰く、

 人気テレビドラマ「セックス・アンド・ザ・シティー」のおしゃれなファッションもしかり。東芝のノートパソコンのCMでは、サイバーギャルが「自由を選べ!」と女性たちに訴えかける。いまや女性解放とは「買う」自由なのだ。

 ファルーディが嘆いているのは、フェミニズムが消費文化に屈服してしまった状況である。元来、フェミニズムとは、女性が一人の責任ある市民として自由を得るための運動だったが、大衆的フェミニズムが女性の「幸せ」を最大の目標に掲げたが為に、商業主義に屈服してしまった。こうして、フェミニズムは力を失った、とファルーディは説く。そして商業主義に屈服してしまった大衆的フェミニズムが、「消費フェミニズム」ということになる。

 さて、このコラムがいかに三浦展氏の所論と絡むかというと、私が本書を読んで思うに三浦氏こそフェミニズムを消費文化に屈服させた張本人だと思うからである。しかし、その前に三浦氏が件の著書、『「かまやつ女」の時代』で行なっている女性の分類について説明して以降と思う。三浦氏は、同署において、女性をファッションによって4分類している。その仲でも三浦氏の所論の中核となっているのが《かまやつ女》(三浦展[2005]、ここから先は断りがないなら同様)と《六條女》である。この2つについて定義を説明しておこう。三浦氏は、《かまやつ女》に以下のような定義を与えている。11ページに曰く、

 最近、20歳前後の若い女の子の中に、昔の中年男性のような帽子をかぶっている女の子がたくさんいる。髪型はどこかもっさりしていて、服はルーズフィット。全体的にゆるゆる、だぼだぼしている。スカートをはく子はほぼ皆無で、たいてい色落ちしたジーンズか何かをはいている。

 その風袋がまるでミュージシャンのかまやつひろしのようなので、私は、こういう女の子を「かまやつ女」と名付け、2003年から2004年にかけて4回調査を行なった。

 これに対し、《六條女》は以下のように定義付けられる。20ページから22ページにかけて曰く、

 最近は東大、京大の現役生の女性タレントというのも人気がある。特に、現役の東大法学部学生でありながら、週刊誌でセミヌードを発表するなどで話題になった六條華(現在楠城華子に改名)は有名。

 (略)

 「色男、金と力はなかりけり」ということわざがあるが、そのことわざとは裏腹に、色(美貌、セクシーさ)と金(所得)と力(職業的地位の高さ、それを支える学歴、知力、そして意欲)を兼ね備えた女性が不得手着ているらしいのである。こういう女性を本書では、六條華にあやかって「六條女」と名付けよう。

 そして他の2つの分類が《お嫁系》と《ギャル系》となる。ちなみにこの4分類に関して、三浦氏は以下のような特徴を挙げている。それに曰く、職業志向が高く上昇志向が高ければ《六條女》、職業志向が高く現状指向が高ければ(上昇志向が低ければ)《かまやつ女》、専業主婦指向が高く(職業志向が低く)上昇志向が高ければ《お嫁系》、そして専業主婦指向が高く現状指向が低ければ《ギャル系》となる。この分類に関しては、三浦氏の定義に従うほかないだろう。

 しかしなぜかこの本では、一貫して《かまやつ女》が一方的にバッシングされるばかりである。とくに本書の中でも、私が読んでいてもっとも恥ずかしくなった部分、第3章(75~90ページ)の「かまやつ女にいら立つ大人たち」という部分に至っては、そこらで該当インタヴューを試みた「大人の女」による《かまやつ女》に対する罵詈雑言集だ。「AERA」の女性特集ではないのだし、三浦氏は立派なシンクタンク研究員(というより所長)なのだから、こんな読んでいて恥ずかしくなるようなことをしでかすのは慎むべきだろう。
 しかし、三浦氏はなぜ《かまやつ女》をかくも一方的にバッシングしたがるのか?というのも、この連載の前編と中編で示したとおり、三浦氏は上昇志向を持たない若年層を過激なレイシズムを用いて一方的にバッシングして恥じない都市型新保守主義者である、ということが如実に示している。そして、都市型新保守主義と消費フェミニズムはコインの裏表である。

 なぜそのようなことがいえるのか?

 三浦氏は、《かまやつ女》の、そして若年層全体の「自分らしさ」指向を一貫して批判する(罵詈雑言を浴びせかける)。例えば三浦氏は、94ページから97ページにかけて、《かまやつ女》が男性の眼をあまり気にかけないことに関して、97ページにおいて《男の眼を意識するのは女々しい、こびてるという、積極的な否定異見があるほか、女らしさを気にすると、自分でなくなるという意見が二名あるのが印象的である。/かまやつ女にとっては、女らしいことと自分らしいことはしばしば矛盾し、矛盾した場合は自分らしさが優先されるということである》と書き、更にそのあと、99ページにおいて、《かまやつ女》に関して《たしかにかまやつファッションは幼児のようだ。ただ動きやすいこと、楽なことを考えている。そして少しだけかわいい要素も入れている。そんな感じだ。/どうしてこんな未成熟な女性が増えたのか》と歪んだ視線を浴びせてしまう。

 ついでに三浦氏は男性についてもこういうことを書いていることをメモ程度に採り上げておく。まず、99ページ。

 また、女性らしさを拒むかまやつ女は、そもそも大人になることを拒否しているのではないかとも思える。男性で言えばおたくに近い。

 おたくは、メディアの助けをかりて自分の世界にこもるので、実社会でのコミュニケーション力が不足しがちだ。かまやつ女もそれに似ていて、メディアに頼ってではないかもしれないが、自分の世界にややひきこもり気味という印象を受ける。

 また、106ページに曰く、

 広告代理店の博報堂のレポートに寄れば、最近の若い男女は夜二人きりで部屋にいても何ごとも起こらないのが普通らしい。……男女が恋愛やセックス抜きにして友達として付き合う傾向が強まってきたともいえるが、他方では性の意識が相当変わってきたと考えられる。

 あるいはアニメやマンガでないと「萌えない」男性が増えているのかも知れないし、AVやインターネットで露骨な画像を見すぎたために不感症になったか、女性への幻想が消えているのかも知れない。まあ、とにかく男女が普通に相対したときに、昔のようにどきどきするとか、ムラムラすろということが減っているらしいのである。付き合い方が淡白になったというのか何なのかわからないが、そもそも相手を異性として見なくなっているのかもしれない。

 ここまで若年層を悪く言えるのも、三浦氏の差別意識のなせる業であろう。

 あまつさえ三浦氏ときたら、111ページにおいては《服装はいやでも人の目に入る。人の目にはいるからには、その人にどう思われるかを考えるのが普通の人間だ。それがかまやつ女には欠落しているように感じられるのだ。それは完全な自己満足であり、一種の自閉である》などと、もはや言いたい放題である。私にとっては、最近の三浦氏の諸著作こそ《完全な自己満足であり、一種の自閉》でしかない。最近の三浦氏の諸著作を、まともな論文として認めるには、あまりにも感情的な部分が多すぎており、客観性に著しく欠けるものも多いからだ。

 さて、私の疑問は、この部分に集約されている。三浦氏は、やけに《かまやつ女》が他人の眼線を「気にしない」ことを問題視する。なぜか?それは三浦氏が、他人の眼線を気にすることこそ自己表現であり、「自分らしさ」を実現するための最大のツールであると考えている節があるからだ。事実、三浦氏は、139ページにおいて以下のように述べている。

 ブランド志向の強いコンサバ系の洋服代が高いのは当然だ。かまやつ女系は、高級ブランドなどは身に着けないので、もっと金額が低いかと思ったが、化粧品代もファッション代もコンサバ系の半分とはいえ、それなりに高かった。あれはあれでひとつのファッションであり、こだわりであるため、お金もかかるということだろう。

 自分らしさを表現するために洋服や化粧が必要だとすれば、自分らしさがある(ほしい)と思う人ほど、それらの支出が増えるのは当然だ。逆に言えば、自分らしさをはっきり造りたいと思う人ほど洋服や化粧品を買うということである。今回の調査では、コンサバ系がもっとも自分らしさに自信をもち、ファッションにも化粧にもお金をかけるという結果になった。言い換えると、お金がないと自分らしさに自身が持ちにくいとも言える。恐い話である。

 なんとも示唆的な文章である。というのも、三浦氏は、化粧品やファッションを消費することによってしか「自分らしさ」を達成し得ないと考えているらしいことをここで示している。要するに、三浦氏にとって――冒頭で採り上げた「ニューズウィーク」のコラムの著者であるスーザン・ファルーディが喝破している通り――消費こそが女性の解放であり、自らを解放するための消費を拒否する《かまやつ女》は、上昇志向を捨てた非人間として批判されるべき存在なのだ。

 しかし、最近の世界史的な成長経済の終焉やスローライフ指向などを目の当たりにして、私はそんなに上昇志向を持つことは偉いことなのか、と考えてしまう。フェミニズムを主軸に据えて考えるのであれば、たとい《六條女》であっても《かまやつ女》であっても、自立した市民として責任をもって行動できるのであればそれでいいし、リベラリズムを主軸に据えて考えるのであればたとい上昇志向を持たぬ《かまやつ女》であっても《六條女》と比較してさげすまれる理由はない。若年無業者の自立支援を続けるNPO「ニュースタート事務局」代表の二神能基氏の言葉を借りるとすれば、《いままでの社会では効率至上主義一本やりだったから、そこにスローワーク(筆者注:年収に関わらず、仕事の中で自分の存在を確認できる働き方)を、お互いに認め合う違う生き方として並列に位置づける――わたしはそういう「もうひとつの日本」をつくりたい》(二神能基[2005]、199ページ)という考え方がリベラリズムを主軸に据えた考え方となる。

 このように考えれば、三浦氏の政治的立ち位置は、――この短期集中連載の前編と中編でも述べたが――都市型新保守主義といっていいだろう。要するに、成長を第一のイデオロギーとし、それに見合わぬもの、あるいはそれを指向しないものは過剰にバッシングを繰り返す。このような都市型新保守主義者が、消費フェミニズムの罠にはまるのも当然だろう。消費フェミニズムは、端的に言えば投票権を持つことよりも金持ちの妾になることのほうを目指す。他人の眼を気にして消費しなければ未来は開けない、所謂「自分らしさ」指向は一時しのぎの逃避行に過ぎない、と罵る三浦氏は、消費こそが自己実現であり、開放であるという思想の持ち主というべきである。

 そもそも三浦氏はバブル期に消費ブームを煽ってきた一人としてカウントされるのだから、バブル的な上昇志向を持たぬ《かまやつ女》を三浦氏が過剰にバッシングするのも一理あるだろう。「女らしさ」(消費による!)を指向しない《かまやつ女》は、成熟の拒否であり、さげすまれる存在として描かれる。これは、この短期集中連載の前編で採り上げた、上昇志向を失った地方の(郊外の)若年層に向けた視線と同じだ。要するに、現状にとどまっていることを好む人たちは、三浦氏のバブル期にターゲットしていた客層ではないから――要するに、わざわざ東京のパルコや丸井などに行って「おしゃれに」服装を決めず、せいぜい近場のジャスコやユニクロなどで済ませるから――、その客層になることを求めてひたすら尻を叩く。既存の社会情勢は無視して。ただひたすら若年層を叩けば若年層の上昇へのモチベーションは上がると思いこんでいる。悪魔の思想家とは三浦氏のことを言うのであろう。本稿では、三浦氏の最新刊『下流社会』(光文社新書)には触れなかったが、本書は、上昇へのモチベーションを失った若年層が増えることに対する危機の扇動として書かれており、ある意味では三浦氏の集大成といっていいだろう。従って特に触れなかった。

 ちなみに私は服装にはあまりこだわらないタイプで、服装は大抵近場のジャスコやユニクロで買ったもので済ませる。洋服は消費せずに、ボロが出るまで使い続ける。だから私の服飾費は極めて安く済む。事実、私が着ているシャツの中には高校1年の頃から着ているものもある。要するに私も、三浦氏のバッシングする、上昇志向を失った若年でしかなかったのである。

 参考文献・資料
 スーザン・ファルーディ[2001]
 スーザン・ファルーディ「消費フェミニズムからめざめよ」=「ニューズウィーク日本版」2001年1月24日号、TBSブリタニカ
 二神能基[2005]
 二神能基『希望のニート』東洋経済新報社、2005年6月
 三浦展[2005]
 三浦展『「かまやつ女」の時代』牧野出版、2005年3月

 広田照幸『教育』岩波書店、2004年5月
 吉見俊哉『万博幻想』ちくま新書、2005年3月

 速水由紀子「現代の肖像 押切もえ」=「AERA」2005年3月28日号
 山極寿一「成熟とは人間らしい生き方」=2003年5月2日付読売新聞

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2005年9月27日 (火)

三浦展研究・中編 ~空疎なるマーケティング言説の行き着く先~

 (前編はこちら、後編はこちら

 江戸の敵を長崎で討つ。

 桑を指して槐(えんじゅ)を罵る。

 民間シンクタンク研究員・三浦展氏の著書『仕事をしなければ、自分はみつからない。』(晶文社)を読んでいるとき、私の頭の中に常にこの2つの言葉が飛び交っていた。本書において、三浦氏は、若年層に関する統計データ(仲には信憑性の強く疑われるべきものも存在するが)を寄せ集めて、そこから飛躍して三浦氏の狭隘な道徳的基準に照らして若年層に対して罵詈雑言を浴びせている。本書における全ての言説は空疎極まりなく、また完全に空回りしているといっても過言ではない。この短期集中連載において、私は三浦氏は小さい根拠で大きく煽ることを得意としているのかもしれない、と書いたが、本書はその三浦氏の得意技が存分に現れている本だといってもいいだろう。

 本書は、タイトルにもあるとおり、一見すれば仕事を「したがらない」若年層に「仕事をしなければ、自分はみつからない。」と述べているような本に見える。しかし実際には、本書は若年層のほうを向いているのではなく、むしろ「今時の若者」に対して偏狭な認識しか抱いていない「善良な」人たちを向いている、しかも彼らの若年層に対する無知・偏見を高める方向に。本書においては、三浦氏はフリーターや若年無業者の問題を若年層の「気分」や「文化」という視点からアプローチしているのかもしれないが、実際には首都圏の一部の若年層に見られる「問題行動」の感情的な「分析」に基づいて若年層を不当にバッシングしている本だ。そもそも、本書における若年層の行動の分析ですら、その打倒性は極めて疑わしい。まさに、江戸の敵を長崎で討つ、桑を指して槐を罵る行為の産物であることは言うまでもない。

 三浦氏の「分析」がいかにデタラメか、ということを今回は強調したいため、本稿では収録されているいくつかの文章について、三浦氏の記述に基づいて逐語的に論証していきたいと思う。

 14~49ページ「フリーター世代の職業意識」
 そもそも「フリーター世代」というカテゴライズ自体問題はありやしないか?すなわちフリーターが若年層に対して歓迎をもって迎えられたのはバブル期であり、現在はむしろ職業選択の幅が狭いからフリーターにならざるを得ない、あるいはフリーターになるしかない人のほうが主流になりつつある。三浦氏はこの「フリーター世代」(おそらく私もその世代の中に入っているのだろう)の《のんびり派》(三浦展[2005a]、以下、断りがないなら同様)が昨今のフリーターの増加と密接に結びついていると説いているが、それはフリーター問題の一部かもしれないが全部では決してない。こういうカテゴライズをするから、三浦氏は夢を実現するためにフリーターをやっている人は許容するのか、といえば案外そうでもないようで、結局のところ若年層を叩きたいだけではないか、と思えてくる。

 余談で始まってしまったことをお詫びしたいが、25ページにおいて三浦市の暴走は始まるのだから興味深い。三浦氏は現代の若年層の向上心、及び上昇へのモチベーションが低下していることを参照して、以下のように言い出す。曰く、《のんびり派で、その日暮らし派の真性団塊ジュニア世代が、フリーターを選択するのは当然だ。せっせと就職活動をするわけはないし、就職するとしても、気楽な仕事を選ぶだろう。そして気に入らないことがあれば、すぐに辞めるに違いない。勤労意欲が低下していることは間違いない》と。「間違いない」を連発するのは長井秀和氏だけでよろしい。少なくとも三浦氏の提示したデータと三浦氏のこの結論の間には極めて広く深い溝が横たわっている。《当然だ》《選ぶだろう》《辞めるに違いない》等と、三浦氏の勝手な思い込みに基づく断定が続くこの文章を、まともな論文として評価するのは普通の論文の読み手であれば毛嫌いして当然だろう。また三浦氏は、26ページにおいて、サラリーマンを「サラリー」という女子高生(いわゆる「コギャル」である。この人種は既に絶滅したんかいな、と思っていたら平成17年9月25日のTBS系列(宮城県では東北放送)「さんまのSUPERからくりTV」で出てきて驚いた)を引いて《幾らなんでもサラリーマンをサラリーと呼ぶことはないだろと私は思った。彼女たちにとって、サラリーマンはマン(人間)ではないのだ》と仰々しく驚いて見せるけれども、面倒くさいから省略しただけではないのか、ということは三浦氏は思いつかないらしい。三浦氏にとって、全ての道は「若年層の劣化」に通ず。

 ここで三浦氏の発明した概念《真性団塊ジュニア世代》について説明及び検証をさせていただく。三浦氏は、この世代を《75年(筆者注:1975年)から79年に生まれた子どもは、団塊世代の父親が46.7%に倍増する。両親とも団塊世代は23.1%、父親が団塊で母親がその下の世代……は22.1%いる》ことからそのように読んでいるのだが、三浦氏がこの直前で述べている通り、第2次ベビーブーム世代だって母親が団塊なのは47.5%いる。この《真性団塊ジュニア世代》の定義付けでは母親が除外されているので、分析としてはフェアとはいえない。ただし、これより先は便宜の為に三浦氏の定義を受け入れることとする。

 三浦氏は31ページにおいて《夢のために何もしないフリーターも、セックスはする。おかげで最近同棲が流行っているらしい》と欠くけれども、根拠を開示していない。あまつさえ三浦氏ときたら32ページにおいて《経済のない結婚なんてあるのか?もちろん親の家があるからフリーターどうしでも結婚できるのだ。パラサイト同棲である》などと暴言を言い放つ。そんな暴言を言い放つ前に、あなたもシンクタンクの研究員なら調査しなさい。しかも同じページから33ページにかけて、所謂「できちゃった結婚」の増加さえも以下のように「分析」してしまう(33ページ)。根拠のない不安を煽り特定の社会階層に敵愾心を煽るポピュリストとは三浦氏のことを言うのだろう。

 このように、一昔前の価値観からすれば、なんだかだらしのない、ゆるーい価値観が普通になり、なんとなく同棲して、なんとなく子どもができて、じゃあ、という感じで入籍するというパターンが増えているのだろう。

 しかしそういう行動様式は、近代化以前の農民と似ているような気もする。独立心や将来の希望ももてずただ現状の中で停滞している。中流社会の固定化の中で、価値観の農民化が進んでいると言えないこともない。

 明らかに百姓を差別しているこの文章。農村は劣っていて都市は素晴らしいという妄信。まさに三浦氏は都市型新保守主義者の名を冠せられるに相応しい。そもそもこの三浦氏の「分析」を裏付ける資料を三浦氏は開示していない。三浦氏の主観的な判断でしかないのである。

 37ページから49ページに至っては、見ている私が恥ずかしくなるくらいの悪文である。要するに、三浦氏の単なる矮小な経験談から、現代の若年フリーター、更には若年層全体がいかに堕落しているか、ということを「立証」してしまうのだけれども、よくもここまで狭い経験を若年層全体に広げることができるものだ。この程度で若年層を「分析」したと言い張ることのできる三浦氏は掛け値なしで素晴らしい。おそらく俗流若者論の書き手として求められているのはこういう人であろう。

 三浦氏の文章では、《このように》、まともな社会学の《価値観からすれば、なんかだらしのない、ゆるーい価値観が普通になり、なんとなく》自分の身辺の事例を拾って、《なんとなく》妄想を膨らまして、《じゃあ、という感じで》不安と不信感と敵愾心を煽るという《パターンが増えているのだろう》。

 《しかしそういった行動様式は》、ナチス・ドイツ期のヒットラーと《似ているような気もする》。既存の不安や不信に乗じて《ただ現状の中で》何も変えようとせず不安ばかり煽る。若年層に対するイメージの《固定化の中で》、三浦氏の《価値観の》俗流保守主義化が《進んでいると言えなくもない》。

 114~123ページ「都市が居間になる。」
 基本的にこの文章は、おそらく三浦氏がふらふらと出かけて、都内(渋谷と吉祥寺と高円寺あたり)でたまたま目にした若年層の「問題行動」に単にけちをつけているだけの文章である。はっきりいってこの文章に問題意識というものはない。

 若年層が劣った存在であるかのごときネーミングはこの部分で頻出する。例えば118ページでは《ここ3、4年、歩きながらものを食べる人々を多く見かけるようになった。それはあたかも「ジベタリアンの直立猿人化」、つまり四速歩行から二足歩行への進化の過程をみているかのようである》と、また120ページでは《写真14は、吉祥寺の朝の八時頃。パチンコ屋の開店を待っている人の列を撮ったものである。それぞれ寝ころんだり、本を読んだり、ヘッドフォンで音楽を聴いたり、携帯電話をいじっている人など、思い思いの時間を過ごしている。まるで路上が居間になったかのようであるが、動物園の猿山のようにも見える》と(一瞬正高信男の文章かと思った)、更にこの直後では早稲田大学の《校舎の中の床で寝ている学生》についても述べているが、この一人の行動から三浦氏の捻出する結論は《こういうモラルの低下が、スーパーフリーのようなレイプサークルを生む土壌になっているのだと思った》と。立てよ早大生!このような理不尽なるレッテルを貼り付ける俗流マーケッターに、諸君らは直ちに反論すべきである!

 私が早大を受けて落ちたことがあるからか、ついつい煽ってしまった。だからといって三浦氏の罪が消えるわけではない。123ページ、これも正高信男の文章と勘違いしてしまった。曰く、《発達した文明は携帯電話をつくり出し、街中にあるコンビニからは二十四時間自由に好きな食べ物を選べる都市環境を生み出した。それはまるで南洋の楽園のようである。そして人は食べ名が荒歩き、歩きながら絵文字という象形文字でメールをするようになった。歩き食べと象形文字。まるで旧石器時代である。文明の進化が人間を旧石器時代に引き戻したのだろうか》と。少なくとも三浦氏は俗情という文明の利器(笑)によって、第二次世界大戦時代のナチス党員に引き戻されたのはいうまでもないだろう。

 124~133ページ「コンビニ文明」
 この文章は、三浦氏はやたらと現在問題化されていることをコンビニに結び付けたがる。例えば三浦氏はコンビニが晩婚化を引き起こしているという。127ページに曰く、

 新人類世代は晩婚化が進んだ世代でもあるが、晩婚化のひとつの背景には、コンビニの普及と二十四時間化があると私は思っている。一人暮らしでも、コンビニがあればいつでも食べ物を手に入れることができるようになったからだ。

 昔なら、深夜に家に帰った男たちは、奥さんにお茶漬けを作ってもらいたいと思っただろう。だから早く結婚したいと思った。しかしコンビニの二十四時間化により、男たちは夜遊びの後でも気軽に食べ物を買えるようになった。一人で食べるのは寂しいかもしれないが、とにかく食べ物にはありつけたし、コンビニの食べ物はどんどんおいしくなっていった。その文、結婚したいと思う気持ちは減ったのではなかろうか。

 男性から見た結婚の条件が女性の料理のうまさなんて、「AERA」の記事でも見たことがない。そもそもこのようなアナロジーが許されるのであれば、男性の料理のスキルが上がっても晩婚化が進むはずなのだが。そもそもこの文章は、男性にはまともな生活力がない、だから女性と結婚することによって男性は生活力を補完する、しかしコンビニができたから生活力を結婚によって生活力を補完する必要が無くなった、だから晩婚化が進むのだ、といっているようだが、これでは男性も女性も両方差別していることにならないか。すなわち男性は生活力が過度に貶められている。女性は男性に奉仕する存在としてしか見られていない。三浦氏の差別意識がここでも透けて見える。

 また三浦氏は131ページから133ページにかけて、米国の映画「ゾンビ」を引き合いに出す。その映画においてはゾンビ(生き返った死体)は生きているときにいつもそこに来ていたから死んでも郊外のショッピングモールに本能として行く、と説明される。しかし三浦氏がその直後に我が国の現状に向ける視線は極めて残酷だ。曰く、三浦氏は、《まだショッピングモールやコンビニがコミュニティだというところまでは来ていないが、あと十年もすればそういう感覚が一般化するだろう》(133ページ)といい、その後、この文章の結びとして、以下のように言う。

 消費者を本能で行動させる。これはマーケティングの常道だ。消費社会は人間を本能だけで動く動物にしようとしている。

 いずれ、死んでも夜中にコンビニに行くゾンビが日本でも増えるだろう。

 だったら、三浦氏こそ人間をゾンビ化させる張本人といわざるを得ないだろう。何故なら三浦氏はバブル期にはパルコの雑誌の編集者として消費社会を先導してきたからだ。そもそも三浦氏は、他の著書の著者略歴において(三浦展[2005b]。これがまたすさまじく恥ずかしい著者略歴だ)、三浦氏はパルコで働いていたときに、現代の宗教は消費である、としてパルコのマーケティング雑誌の編集に邁進していた、と紹介されている。三浦氏はこのような自らの行為についてどのように落とし前をつけるのか?

 134~149ページ「歩き食べの研究」
 唯一、真面目に調査したと思わせる記事だが、サンプル数は134ページに述べられている通り《年齢は15歳から29歳、内訳は15~19歳が37人、20~24歳が41人、25~29歳が5人》だという。しかも首都圏だけ、地方は無視。仙台在住の私は疎外。とりあえずここから有効な結論を引き出すのはきわめて難しい、といっておく。

 174~195ページ「『週刊自分自身』――若者と新聞」
 東北大学助教授の五十嵐太郎氏と、東北大学工学部建築学科3年の同級生1人と会食していたとき、私は月に一度は読売新聞と朝日新聞を1か月分通読する、と発言したとき、五十嵐氏とその同級生が驚いていたことがある。また、私は基本的に必要な情報は新聞とインターネットから入手しているし、平成17年9月11日~16日の東京・名古屋の長期旅行中でも、新聞を読まなければ落ち着かなかった。だからコンビニで、東京にいるときは東京新聞を、名古屋にいるときは中日新聞を買って読んだ。しかし新聞は電車の中では読まず、駅や万博のベンチやホテルの中で読んだ。電車の中で読むのは他人の迷惑になると考えたからだ。

 それはさておき、三浦氏はこの文章で若年層が新聞を読まないこと、更には本を読まないことを問題化する。しかし三浦氏の若年層の行動の「超訳」(跳躍?)はすさまじい。何がすさまじいかというと、現代の若年層にとって《感覚的にどうもこれは嫌だと思うのは何かと訊きますと、電車で新聞を読むことなのです。「あんな満員電車のなかで新聞を広げて読んでいるなんて信じられない」と言う》(176~177ページ)ということに触れて、三浦氏は《電車のなかで化粧をしたり物を食べたりしている人間、これはわれわれの世代から見れば、何ともはしたない、迷惑だと思うのですが、逆に彼らから見ると、食べるのは仕方がない、新聞読むのは邪魔くさいと思っているようです。かくのごとく世代の価値観の差は大きいのです》(177ページ)と語ってしまっている。そもそもこの前の部分で、三浦氏がアルバイトで使っている学生の、新聞を取らない理由として「ゴミが出ること」(176ページ)を挙げて、それを《ゴミとは失礼ですよね》とイチャモンをつけているのだが、若年層を散々ゴミ扱いしてきた三浦氏の言うことか。しかも三浦氏は、新聞を中流家庭の消費財と規定している。消費財ということはやがてはゴミになるということだな、三浦氏よ。若年層が新聞をゴミにしたらそれを問題にして、普通の中流家庭が新聞をゴミにしたら問題にならない、ということか。

 しかも190ページにおいて、若年層が新聞を読まないことについて《みんな豊かですから、非常に現状維持志向が強いのです。不況だなんだと言われてもほとんど上昇志向がありません。だから「新聞を読むと上昇できるよ」といっても、買いません》と述べている。新聞を読んだら本当に上昇できるのか、という私の疑問は三浦氏にとっては皆無なようだ。どの新聞も、特に若者報道に関しては全て同じような切り口で報道を行い、最近では捏造や虚報や不祥事まで起こしている新聞を読んで上昇できるのか。朝日新聞は捏造をしでかした。日経新聞は不祥事を起こした。毎日と読売は「ゲーム脳」を大々的に支持するほか、少年犯罪に関してはかなりひどい社説をよく書く。産経は右派政治家と右派論壇人の機関紙といっても過言ではない。こういう新聞を読んで上昇できるのか。

 194ページ、ここでやっと表題の《週刊自分自身》が出てくる。三浦氏によると、これは携帯電話のメールの事を指しているという。三浦氏曰く、

 若者が携帯のメールで何をそんなに通信しているのかと言うと、ほとんどは友達とメールの交換をしているわけです。つまり、その携帯メールのなかで行なわれていることは、自分専用の週刊誌をつくっているようなものだということで、私は携帯メールで交わされている情報を『週刊自分自身』と名づけてみました。

 つまり、もう電車の中吊り広告の『週刊女性自身』も見ないわけです。タレントのだれが何したということすら関心がない。さっき別れたばかりの友達とメールして、今何をしているのとか、知り合いの太郎と花子が別れたとか、くっついたとか、そんなことばかりやり取りしているわけです。それは自分だけの週刊誌をつくっているようなものなわけです。だから『週刊自分自身』であると思ったわけです。

 だったら友達と交わす私信や交換日記も《週刊自分自身》となるのだな、三浦氏よ。要するに三浦氏は思い込みと偏見だけで語っているに過ぎないのである。そもそも携帯電話のメールに《自分だけの週刊誌をつくっているようなもの》という比喩はかなり無理があるのだと思うのだが。だったらなぜ日記ばかりのブログに触れようとしない?いや、見方によっては、若者論や社会に関する論評を欠き続けて公開している私のブログも《週刊自分自身》と言うこともできるかもしれない(その点では、エコノミストの木村剛氏のブログのタイトルが「週刊!木村剛」となっているのは象徴的だろう)。携帯電話でのやり取りが極めて私的になることは、例えば社会学者の宮台真司氏によってポケベルの時代から指摘されており(宮台真司[2000])、宮台氏はポケベルに関して女子高生の「仲間意識」を検証している。携帯電話に関しては、同様の指摘を横浜市立大学助教授の中西新太郎氏や(中西新太郎[2004])、皇學館大学助教授の森真一氏(森真一[2005])、関西大学助教授の辻大介氏(辻大介[2005]。ついでに言うとこの辻氏の論文は正高信男『ケータイを持ったサル』(中公新書)に対する批判として書かれている)などが行なっている。三浦氏の分析では有効な結論を出すのは難しいように思える。

 最後に一つだけ言っておく。それは、現在の我が国の新聞配達というシステムこそが我が国における新聞の購読率の高さに極めて協力に結びついており、新聞社の既得権となっているといっても過言ではない状況であり、このようなことは外国にはほとんど見られないという。日本の新聞のシステムを絶対視して、新聞を読まない、あるいはコンビニで購読する若年層を「異常」と見なす行為が、いかに配達制度という牙城に触れていないか、ということを三浦氏は理解すべきだろう。

 今回は三浦氏の文章の中でも、特に問題の多い部分を検証してきたわけだが、それにしても本書における三浦氏の造語センスは非凡である。ただし、確かに量やインパクトの点においては西川りゅうじん氏が飛んで逃げるほどだが、その言葉に秘められたレイシズムや差別感覚は、むしろ石原慎太郎氏が飛んで逃げるほどである。それほど三浦氏の若年層に対する蔑視的な感情はすさまじいのである。

 このような三浦氏の態度は、結局のところこの短期集中連載の前編でも明らかにした、三浦氏の都市型新保守主義的な思想、すなわち上昇志向を持たない奴はみんな劣った奴である、という差別意識のなせる業ではないかと思っている。このような本の著者が、帯にあるような《若者カルチャー研究家》として規定されるとすれば、それほど若年層という存在が軽く、あるいは蔑まれて見られている証拠となるだろう。

 ついでにもし三浦氏がこの文章を読んで反論できないとすれば、三浦氏に私の論文を批判する隙を与えてみようと思う。私はこの文章を、ポータブルMP3プレーヤーで、声優の田村ゆかり氏や野川さくら氏などの楽曲を聞きながら執筆した。また、この文章を書いているときに、何度か台所にいって水を汲んで飲んだ。要するに私も、《ウォークマンなどの携帯音楽機器とコンビニが携帯空間願望の実現をますます可能にする。腹が減ったら二十四時間いつでも食べ物が手にはいる。音楽も二十四時間いつでも聴ける。喫茶店に入らなくても、街に座り込めば、そこが自分の快適な部屋になる。そう感じる若者》(156ページ)の一人でしかなかったのだ(深夜にコンビニに出かけたり、あるいは地面に座ったりしたことはないけれども)。

 参考文献・資料
 辻大介[2005]
 辻大介「ケータイ・コミュニケーションと「公/私」の変容」=日本放送協会放送文化研究所(編)『放送メディア研究3』丸善、2005年6月
 中西新太郎[2004]
 中西新太郎『若者たちに何が起こっているのか』花伝社、2004年7月
 三浦展[2005a]
 三浦展『仕事をしなければ、自分はみつからない。』晶文社、2005年2月
 三浦展[2005b]
 三浦展『「かまやつ女」の時代』牧野出版、2005年4月
 宮台真司[2000]
 宮台真司『世紀末の作法』角川文庫、2000年3月
 森真一[2005]
 森真一『日本はなぜ諍いの多い国になったのか』中公新書ラクレ、2005年7月

 植田和弘、神野直彦、西村幸夫、間宮陽介(編)『(岩波講座・都市の再生を考える・3)都市の個性と市民生活』岩波書店、2005年7月
 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 斎藤環『「負けた」教の信者たち』中公新書ラクレ、2005年4月
 数土直紀『自由という服従』光文社新書、2005年1月
 芹沢一也『狂気と犯罪』講談社+α新書、2005年1月
 浜口恵俊『「日本らしさ」の再発見』講談社学術文庫、1988年5月
 広田照幸『教育』岩波書店、2004年5月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 松原隆一郎『長期不況論』NHKブックス、2003年5月
 森岡孝二『働きすぎの時代』岩波新書、2005年8月
 ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』岩波文庫、上下巻、1987年2月

 伊藤隆太郎「新リーズナブル主義 ~ワタシの中の「消費の二極化」~」=「AERA」2003年11月24日号、朝日新聞社
 藤生明「早稲田再生はあるか」=「AERA」2004年7月14日号、朝日新聞社

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2005年9月25日 (日)

三浦展研究・前編 ~郊外化と少年犯罪の関係は立証されたか~

 (中編はこちら、後編はこちら

 短期集中連載「三浦展研究」を実施します。この連載では、最近精力的に執筆活動を行なっている、民間シンクタンク研究員の三浦展氏の諸著作に対する批判的検証を行ないます。検証する本は、前編が『ファスト風土化する日本』(洋泉社新書y)、中編が『仕事をしなければ、自分はみつからない。』(晶文社)、後編が『「かまやつ女」の時代』(牧野出版)です。

 ※一時期、このエントリーにトラックバックができないようになってしまうというミスが生じてしまいましたことをお詫びいたします。現在は正常にトラックバックできますのでご安心ください。

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 岩手県盛岡市、東北自動車道盛岡インターチェンジの近くに、大釜という地区がある。この地区は、ここ10年ほどで大きく様変わりしてしまった。というのも、およそ10年前はあまり建物がない地域だったのだが、久しぶりに大釜を通ったのでその様子を見てみると、一つの商業地域として変貌してしまっている。そしてその中心には、ジャスコが建っている。
 また、東京に出かけた際、東北新幹線の窓から見える、福島、郡山、宇都宮などといった郊外の都市の風景は、ほとんど変わり映えするものはなかった。ほとんどの都市が均質な風景を映し出し、少なくとも私が見聞した限りではどこに行ってもほとんど同様の光景が広がっている。

 しかし、このような都市の均質化が、青少年の「心」の荒廃をもたらし、少年犯罪の温床になっているといわれたら、若者論を研究している立場からしてみると、納得するどころかむしろ首を傾げてしまう。民間シンクタンク研究員の三浦展氏は、昨今マスコミをにぎわせている「理解できない」少年犯罪が、全て東京や大阪といった大都市ではなく、むしろ中小規模の都市で起こっていることに着目し、郊外化が少年犯罪を触発する、といった「理論」を構築した。その「成果」としての本が、平成16年9月に出版された三浦氏の著書、『ファスト風土化する日本』(洋泉社新書y)である。

 まず本書全体の感想を述べるとすれば、本書は重大な問題提起を行なっているにもかかわらず、著者である三浦氏が青少年問題にこだわりすぎるあまり、また青少年に対して偏狭な認識しか持っていないばかりに、本書は単なるトンデモ本――すなわち、著者の意図したところとはまた別のところで楽しむべき本になってしまっているのである。

 はっきり言うが、本書において、都市計画論的なことが述べられている部分は、建築学科の学生としてみればそこそこ役に立つ。本書で唯一収穫があるとすれば第7章の189ページから215ページで、ここではこれからの都市計画に関していかなる思想で行なわれるべきか、ということが展開されている。これが現実を無視した机上の空論ということもできるけれども、少なくとも思想としては間違った方向ではないと思える。

 しかしそれ以外の部分では、著者の青少年に対する蔑視的な感情があからさまに見えてくるのである。具体的に言えば、地域コミュニティと大都市の安易な礼賛と、ことさら現代の青少年、特に郊外に住んでいるものを「異常」とレッテルを貼りたがること。

 第7章(209ページ)においても、三浦氏は、《ファスト風土しか知らず、リアルな生活の場を失ったまま育つ子どもは、ファストフードしか食べずに育つ子どもと同じである。そう言えば、ことの異常さが分かるだろうか》(三浦展[2004]、以下、断りがないなら同様)といったことを述べている。三浦氏が、郊外で育った子供たちをただ「異常」とみなしたいという感情がここでも見て取れるだろう。

 さて、本書のキーワードとなる《ファスト風土》とは何か。三浦氏は、27ページで、以下のように述べている。

 本来、日本の地方には、城下町など固有の歴史を持った美しい年が多数存在していた。都市の周辺には農村が広がり、やはりその地域の固有の自然と歴史の中で過ごしていた。しかし、過去20年に起きた交通網の整備と総郊外化の波は、そうした地域固有の歴史的風土を徹底的に崩壊させた。歴史的な街並を持つ地方の都市中心部はモータリゼーションに対応できず衰退し、田園地帯にショッピングセンターができた農村部もまた、それまであった生活を激変させ、コミュニティを衰退させた。日本中の地方が二重の意味で衰退し、画一化し、均質化し、「マクドナルド化」し、固有の地域性とは無縁の、全国一律の「ファスト風土」が生まれたのだ!

 《ファスト風土》の定義については、三浦氏の説明に従うほかないだろう。しかしここで苦言を述べさせてもらうと、三浦氏は「マクドナルド化」のことを都市の均質化と説明しているようだが、この概念は自助マニュアルによる社会の合理化を指す(森真一[2000]を参照されたし。ついでに言うと三浦氏は28ページで「マクドナルド化」の正しい説明を行なっている)。語感が自分の問題意識と合っているからといって、用語を誤用しないで頂きたい。しかしこのような批判は蛇足であろう。

 本書で展開されている論旨は、そのような三浦氏言うところの《ファスト風土》が、青少年を荒廃させるというものなのだが、はっきり言って著者の経験論に基づく牽強付会ばかりが展開される。更にこの著者ときたら、少年犯罪と《ファスト風土》の関係性が証明された!としきりにはしゃいでおり、私からすれば痛快というよりもむしろ痛い。

 まず三浦氏の少年犯罪に関する認識の誤謬を指摘しておきたい。三浦氏は16ページにおいて、刑法犯の認知件数が増加している、と説く。しかしここ数年の刑法犯の認知件数の増加が、警察の方針転換と深く関わっている、ということを指摘しなければならないだろう。具体的に言えば、警察は、ここ最近になって、これまで握り潰してきた被害届けを素直に受理するようになったり、警察官の増員などで犯罪の摘発に力を入れるようになったりしたことで、それまで暗数であった犯罪が統計に表面化するようになった。三浦氏は19ページにおいて検挙率の低下を単純に犯罪の増加と捉えているようだけれども、これも警察機能の限界という視点で説明できる。三浦氏が少年犯罪の「凶悪化」の理由として、東京都の青少年政策のブレーンとなっている首都大学東京の都市教養学部長・社会科学研究科長の前田雅英氏の『少年犯罪』(東京大学出版会)を挙げている限り、この手の少年犯罪凶悪化論を三浦氏は疑っていない、ということがいえるだろう。

 さて、ここから三浦氏の主張の中心、すなわち《ファスト風土》が少年犯罪を誘発する、ということについて検証を行なっていきたい。第2章は「道路整備が犯罪を助長する」というタイトルで、内容もまたこの言葉でまとめることができる。三浦氏は34ページにおいて、平成15年に起こった長崎県長崎市の12歳の少年による小児殺害事件に触発されて長崎と佐賀に行ったことが報告されている。しかしここで三浦氏が行なったことといったら、せいぜいタクシーで2・3の郊外の団地を回った程度である。その程度でフィールドワークと呼べるか。三浦氏は43ページにおいて「はなわ」こと塙尚輝氏の曲にイチャモンをつけるけれども、その前にやることがあるだろう。なぜ三浦氏は現地の人に対して聞き取り調査を行わないのか。あるいはなぜ三浦氏は何日か長い時間をかけてフィールドワークをしないのか。結局のところ、この「調査」は、「「あの事件」を起こした場所は郊外だった!」ということを書きたいが為に行なった、つまり「為にする」調査なのである。

 第3章「ジャスコ文明と流動化する地域社会」は、三浦氏が、郊外の犯罪の近くにはジャスコがある!ということを仰々しく「発見」してみせる、という内容。この著者が、「「あの事件」を起こした場所の近くにジャスコがあった!」と仰々しくはしゃいでみる様は、見ていて滑稽を通り越して痛いくらいだ。そんなにジャスコが嫌いなら、なぜジャスコのない場所に三浦氏が問題視するような犯罪が「ない」のか比較してみてはどうか。実際問題、三浦氏も認めている通り、ジャスコは郊外の結構多くの街に(泉区にあるジャスコ南中山店は徒歩圏内だし、少し原付を飛ばせば利府店や多賀城店にもいける。多賀城店はもうすぐ閉店するようだが)あり、郊外の事件を少し探せばジャスコに当たる、というのはかなり必然性があるような気がするのだが。そういう状況下にあって、ジャスコ(とそれがもたらすらしい地域コミュニティの崩壊)を唯一の原因として鬼の首を取った如く問題化するのは極めて問題の多い態度であろう。そもそもなぜジャスコが「ない」場所の犯罪が問題化されないのか?三浦氏の態度は至極アンフェアである。

 笑ったのは、70ページから72ページの「佐世保事件とジャスコの関係」について述べた文章。三浦氏は平成16年12月の佐世保の女子児童殺害事件について、母親がジャスコで働いていることを問題化している。三浦氏は99ページにおいて、この事件の犯人の父親についても《乳は病後のためにあまり仕事ができず、母はジャスコで働いていた。ゴールデンウイークもどこにもいけず、それどころか少女は朝一人でパンを食べていたという》ことを問題化しているのだが、これをもってジャスコが悪いのだ、というのはあまりにも早計であろう。

 三浦氏は佐世保から少し伸ばして大塔に行って、そこにジャスコシティがあることや、大塔駅周辺の状況を踏まえて《典型的なファスト風土的風景である》(71ページ)と言っているが、ことこの事件に関しては、ジャスコよりも行くべきところがあった気がしてならない。
 ちなみに作家の重松清氏は、この事件の犯人の住んでいた場所について、この犯人の通っていた《大久保小学校からさらに山を登ったところにある。学校まではバスで10分以上》(重松清[2004])という場所であると報告している。ちなみに大久保小学校は佐世保の中心市街地を見渡せる位置にあるという。また、重松氏は、この犯人の行動圏の狭さにも着目しており、《朝夕の通学時間帯でさえ、1時間に1本》(重松清[2004])ということを問題に挙げていた。三浦氏が問題化する大塔のジャスコシティは佐世保駅から2駅行ったところにあるため、この犯人の行動圏には当てはまらないだろう。もとより三浦氏は佐世保の事件について語っているのになぜか大塔に行ってしまっている。佐賀のバスジャック事件の犯人に関して《受験の失敗がバスジャックに関係したかどうかは知らない。そんなことはどうでもよい》(46ページ)と簡単に切り捨ててしまっている三浦氏だ、佐世保の事件の犯人がバスケットボールクラブを辞めさせられて受験勉強に邁進するように差し向けられてしまった、という報告にも《そんなことはどうでもよい》と処理してしまうのだろう。

 しかし三浦氏はなぜここまでジャスコを敵視するのか。それにはしっかりとした理由があり、その理由が述べられているのが第5章「消費天国になった地方」である。要は地方にジャスコができて、地方が《消費天国》になったことが三浦氏は気に食わないらしい。三浦氏のその意識が特に表れているのは136ページから137ページにかけてのこのくだりであろう。

 2004年に公開された『下妻物語』という映画では、ジャスコがパロディ化されて登場する。いや、パロディではなく現実そのものの戯画化といったほうが正しい。舞台は北関東、茨城県の下妻市。東京まで服を買いに行くという主人公の女性に向かって、八百屋は言う。

 「わざわざ東京まで買物に行かんくても、ジャスコがあっぺ。下妻のジャスコは東京のパルコよりでっかいぞ。ジャスコには何でもあっぺ」

 たしかにジャスコには何でもある。最新のファッションも、世界中の食品も、高級ブランドもある。……いま話題の商品と店が、これでもか、と詰め込まれている。そこにさえ行けば、ほかのどこにも行かずにすむようにできている。たとえ東京でさえも。

 その意味で、ジャスコは街である。しかも24時間、365日、全館エアコンが利いた人口の街である。これこそが人類の発明だと言いたげだ。事実、私が見た太田市のジャスコには、レオナルド・ダ・ヴィンチの飛行機を模した物が天井からぶら下げられていた。ショッピングセンターは人類の発明だといいたいのであろうか?

 ここまで妄想を展開できるのも素晴らしい。三浦氏は全てのジャスコが《24時間、365日、全館エアコンが利いた》であるかの如く書いているけれども、私の近所のジャスコ南中山店は24時間営業なのは食品売り場だけである。しかも三浦氏は《いま話題の商品と店が、これでもか、と詰め込まれている》と書いているが、それも店舗の立地によるのではないか?

 また三浦氏は各種家計調査を用いて、地方が東京よりも消費社会化していることを問題視している。しかしこの調査において、一貫して無視されているのは年収と昼間の人口である。そこを無視して《消費はこれまで都市から地方に波及した。あるいは、より所得の高い人から低い人に波及した》(146ページ)と述べられては、根拠を失っているといわざるを得ない。三浦氏は、147ページにおいて、地方で生まれたコジマ電機(宇都宮)、ヤマダ電機(前橋)、ユニクロ(山口)、ダイソーと洋服の青山(広島)といった地方で生まれた企業や商店のスタイルが全国に波及することを問題化する。しかし資本主義社会においては、より人々の消費者心理を掴むスタイルが全国に波及するのは必然だと思われるのだが。東京だけが正義ではない。

 あまつさえ三浦氏ときたら、153ページにおいて《宇都宮のパチンコ屋が実家という女子大生》の事例を引いて《「消費しかできない」子どもたちが育っているのだ!》(155ページ)などとはしゃいでいるけれども、この女子大生の状況のほうが特殊なのではないか?
 それにしてもどうして三浦氏は地方の消費社会化をここまで露骨に嘆くことができるのだろう?身の回りに何でもそろっていて、欲しいものがすぐに消費できるのであれば、東京こそが危ないといわなければならないはずなのだが。また、三浦氏は、現代の社会が脱工業化に向かっていること、そしてそれに対応した地域経済の再生策が問われていることも触れない。東京大学教授の神野直彦氏が述べている通り、情報を動かすことによって技術移転が成功すれば不必要な人間や物品の移動を抑制することができ、情報化による知識社会の創造こそ在宅勤務が進んで職住一体の地域経済を実現することができる、という見方もできる(神野直彦[2002])。しかし三浦氏はただ地方が消費社会化することをしきりに攻撃するだけだ。一体三浦氏のこの態度はどこから生まれているのであろう?

 これはあくまでも推測なのだが、三浦氏が元々パルコの発行する雑誌の編集部で働いていたことが少なからず影響しているのではないかと思う。言うまでもなく、パルコはバブル期の都市における消費ブームを煽った商店の一つであるが、おそらく三浦氏はポストバブル時代の消費の主導権を、大都市住民をターゲットにしたパルコから農村型消費社会を実現させたジャスコに奪われたことに対して苛立ちを持っているのではないか。そう考えれば三浦氏がしきりにジャスコを敵視するのも分かるような気がする。もちろんこのような考え方は一つの邪推でしかないのだが、少なくともこのようなことは言える、三浦氏は素朴なコミュニティ主義に浸かっており、そのような素朴なコミュニティを大規模小売店や学校(三浦氏が学校というファクターを完全に無視していることを我々は忘れてはならない)に引き裂かれた状態を異常としか捉えることができないことから三浦氏の牽強付会は始まっているのかもしれない。

 三浦氏の現代の若年層に対する認識がどこから来ているかということに関しては、第6章「階層化の波と地方の衰退」の以下のくだりを読めば分かる。

 昔の若者に内発的にやる気があったわけではない。30年前まで、地方の若者にはまだ東京に集団就職をしなければならない者がいた。地方の男たちは冬に出稼ぎをしなければならぬ者がいた。そういう貧しさが外圧となって人々にやる気を起こさせていただけだ。

 外圧が、つまり貧しさが解消されればやる気はいらない。こうして、いま地方の若者に生じている意欲の低下、向上心の低下が起こっているように思える。(169ページ)

 しかし三浦氏のこのような物言いに欠けているのは、人口は既に減少を始めており、また世界史的に見ても成長一辺倒の経済は限界を告げられていることである。三浦氏は人々を寄り上へ上へと突き動かす《外圧》が必要である、と考えている節があるが、そのようなただひたすら「成長」を目指すイデオロギーは、確かに終戦直後のまだまだ貧しい時期には必要だったかもしれないが、やがてそのようなイデオロギーは現在になって深刻な環境問題と都市型貧困層の増加を引き起こした。環境問題やフリーター問題は、そのような次元で捉えられるべきものであるが、それはさておき、「成長の限界」が指摘される現在は、そのような「成長」に代わる新たな概念が提示されることであろう。

 三浦氏の最大の価値観は「都市型消費」であろう。要するに、三浦氏は、都市が(パルコを中心として!)消費の享楽を味わうことができればいいのであって、地方が消費の享楽を味わうのは問題であり、犯罪を引き起こす、と考えている節がある。都市で消費することはかまわないが、地方で消費するのは駄目だ、という三浦氏の発想は、153ページから155ページにおける《宇都宮のパチンコ屋が実家という女子大生》の発言を引用していることでも分かるし、本書において一貫して都市が消費社会化することを問題と見なしていないことでも分かる。本書で納得してしまう人がいれば、かなりの確率でその人は都市型新保守主義者と見なすことができるかもしれない。

 蛇足だけれども、三浦氏の青少年に関する認識の偏狭さも第6章でよく見られる。例えば、

 これも従来的なイメージだが、体験というと東京の子どもには欠如していて、地方の子どもにはたくさんあると考えられがちだ。だが、地方でも近年都市開発が盛んに行なわれているので必ずしも自然がそのままの姿で残っているわけではないし、過疎地の子どもですら木登りはできなくなって久しい。むしろ、彼らも暇な時間はテレビゲームにハマっている。(169ページ)

 三浦氏はこの文章の直前において、《体験》をかなり幅広く捉えられていたのに対し、なぜかこの段落においては「自然の体験」に矮小化されている。

 おそらく、子どもは自分の家とジャスコの位置関係を把握していない。いえとジャスコは恬として存在するだけで、それらが線や面としてつなぎあわされていない。つまり、自分がお菓子や消しゴムを買うという行為はたんなる消費行為であり、地域と結び付けられていないのだ。

 これで地域への愛着が育つのだろうか。自立心が育つだろうか。挨拶の仕方、コミュニケーションの仕方を自然に学べるだろうか。はなはだ疑問である。地方で連れ去り事件などを起こす若者が、無職でひきこもり気味だったりするのを新聞で見ても、やはり地方でコミュニケーション力のない若者が増えているのではないかと懸念される。

 たんに無職というだけでなく、毎日、家にこもってテレビゲームか何かをしているだけの若者だったりする。そういう若者は都会に多いというイメージがあったが、いまは日本中にいるし、どんな田舎にもいる。下手をすると田舎のほう多いかもしれないのだ。(172ページ)

 ここまで俗論を平然と述べることのできる三浦氏はすごい。私もここまで根拠のない断定ができるようになりたいものだ。もちろん皮肉だけれど。

 Jリーグもあって、ジャスコもあって、アウトレットもある。そういう生活に地方の人は満足している。自分の力を試しに東京に出たいという若者は減っていく。東京には買物とレジャーにたまに出かけるだけでよい。ディズニーランドと丸ビルと六本木ヒルズとお台場、それらはすべて地方からの客でもっている。そうした地方人は、豊で平和な日本の象徴だ。しかし、それは他方では、目標も意欲もなく、適当に働き、テレビを観て、漫画を読んで、ゲームをして、買い物をしているだけの、たいへん視野の狭い消費人間にも見える。(183ページ)

 このような暴論をたやすく述べている三浦氏に、青少年問題を語って欲しくない。しかし三浦氏は少ない根拠で大きく煽ることを得意としているようだ。

 だが、それは明らかにポピュリズムの兆候であり、都市型新保守主義の暗部を如実に表している。三浦展という都市型新保守主義のもっともヴィヴィッドな語り手から我々が学ぶべきは、多数の人が少なくとも最小限の幸福を得ることのできる社会の構築にとって、このような単なるポピュリストこそが障害となることかもしれない。

 参考文献・資料
 重松清[2004]
 重松清「少女と親が直面した「見えない受験」という闇」=「AERA」2004年7月19日号、朝日新聞社
 神野直彦[2002]
 神野直彦『地域再生の経済学』中公新書、2002年9月
 三浦展[2004]
 三浦展『ファスト風土化する日本』洋泉社新書y、2004年9月
 森真一[2000]
 森真一『自己コントロールの檻』講談社選書メチエ、2000年2月

 五十嵐太郎『過防備都市』中公新書ラクレ、2004年7月
 植田和弘、神野直彦、西村幸夫、間宮陽介(編)『岩波講座・都市の再生を考える』1~7巻、2004年12月~2005年7月、岩波書店
 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 玄田有史『仕事のなかの曖昧な不安』中央公論新社、2001年12月
 越澤明『復興計画』中公新書、2005年8月
 小杉礼子(編)『フリーターとニート』勁草書房、2005年4月
 望田幸男、広田照幸(編)『実業社会の教育社会史』昭和堂、2004年10月

 安藤忠雄「「美しい大阪」をつくる」=「Voice」2005年1月号、PHP研究所
 神田順「まちづくり 建築基準法見直しが先決」=2005年5月11日付朝日新聞
 野田一夫「低い仙台の都市機能 納得できる街創ろう」=2003年10月12日付河北新報

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2005年7月25日 (月)

正高信男という斜陽

 かの曲学阿世の徒、京都大学霊長類研究所教授の正高信男氏が、平成17年7月25日に、最新刊『考えないヒト』(中公新書)を上梓した。ちなみにサブタイトルは「ケータイ依存で退化した日本人」である。本書の構成は、かつて私が批判した『人間性の進化史』(NHK人間講座テキスト)の各章を各種テーマ、すなわち「出あるく」「キレる」「ネット依存症」「文化の喪失」「サル化する日本人」に基づいて再構成されたものである。

 本書を読んでみる限り、何も変わっていない、と感じた。基本的に本書における疑問点の全てが、『人間性の進化史』を批判した「正高信男という頽廃」と完全に重なっているので、詳しくはそちらを参照されたい。もちろん、新しい知見もなく、かといって修正された箇所もなく、反省もなく、ただ前掲のテキストを少しばかり話題を足しただけの本に過ぎなく、基本的に若年層のこと、あるいは自分の気に食わない行動を「退化」と罵るというスタンスも、霊長類に関するアナロジーを乱用するという行為も、まったく変わっていない。そもそも青少年問題であれば、例えば就業の問題とか、もっと語るべき問題があると思うのだが。マスコミで興味本位で採り上げられている「問題行動」ばかり、というのが、また本書の哀しいところだ。『人間性の進化史』を新書にしただけ、という極めて手軽な本である。

 NHK人間講座テキストと各章の対応は次の通り。

 「出あるく」…第3回「家族って何」、第4回「父親が求められる時」
 「キレる」…第2回「はじめに言語ありき」、第6回「なぜ「キレる」のか」
 「ネット依存症」…第5回「愛と性の分離」
 「文化の喪失」…第7回「文明が文化を滅ぼす」
 「サル化する日本人」…第1回「人間はいつ人間になったか」、第8回「「自分探し」のはじまり」

 ただし、ここで新しく指摘しておきたいことは、第2回と第6回が一つの章にまとめられていることによって、さも第2回で論じられている「ギャル文字」(蛇足:私はこの文字が嫌いである。しかし、そのことと、その文字を使う人たちに対しての正高氏の差別的な目線を批判することは矛盾しないと考える)と、近年多発しているといわれている(その実は単にマスコミが興味本位で採り上げているのに過ぎなかったりする)「キレる」少年犯罪と関連がある、と捉えられかねない、ということである。

 だが、このように第2回と第6回が一つの章としてまとまることによって、正高氏は《どう考えてももはや言語的コミュニケーションの範疇を逸脱していると、考えざるを得ない》(正高信男[2005]、以下、断りがないなら同様)文字を「今時の若者」は用いており、その結果言語能力が退化して、結果としてワーキングメモリーの機能が低下し、そして「キレる」犯罪が起こってしまう、と正高氏は主張していることになる。

 笑止千万なりき。まず、「キレる」という言葉が、極めて政治的に捏造されたものであるということをなぜ正高氏は考え付かないのか。具体的にいうならば、定義が曖昧なまま乱用されているとか、無責任なマスコミ人が時流に迎合して作り出した言葉だとか。また、正高氏は具体的な事例にあたろうとしない。さらに、正高氏は、印象だけで《行動の理解に苦しむ事件は、まちがいなく増えているだろう》と語っているのだが、まず「行動の理解」というのが極めて恣意的、すなわち自らの「物語」をそのまま犯罪者の性格にそのまま当てはめるもので検証としてかなり怪しいし、昨今のマスコミが若年層バッシングにばかり熱心になっているのではないか、という疑念も浮かんでいないようだ。これも、『人間性の進化史』の頃とまったく変わっていない問題点だ。

 何度も指摘していることだが、正高氏は、マスコミで問題と喧伝されている(注目!)ことに、彼らを人間と見る以前にサルとして見ることで、その行動を「退化」だと決め付けるだけの単なる御用評論家に過ぎない。そもそも、そのような「観察」方法自体、正高氏の傲慢さを表すものであることに他ならないからである。

 この本と同時期に発売された、評論家の斎藤美奈子氏の著書『誤読日記』(朝日新聞社)で、斎藤氏は、正高氏の『ケータイを持ったサル』(中公新書)を評して《サル並みに扱われた若者たちこそいい迷惑。愚書でもいいが、むしろ現代の奇書であろう》(斎藤美奈子[2005])と述べている。しかし正高氏は、若年層をサルとして見なすことに対してまったくの葛藤や躊躇がない。所詮正高氏にとって若年層とは、自分の「飯の種」でしかないのだろう。そして、このような人がもてはやされている現在のメディア状況にもまた、疑問を呈さざるにはいられない。

 参考文献・資料
 斎藤美奈子[2005]
 斎藤美奈子『誤読日記』朝日新聞社、2005年7月
 正高信男[2005]
 正高信男『考えないヒト』中公新書、2005年7月/正高信男『人間性の進化史』NHK人間講座テキスト、2004年12月

 基本的に参考文献は「正高信男という頽廃」と同じですが、それ以降に新しく読んだ参考文献を追記しておきます。
 鈴木謙介『カーニヴァル化する社会』講談社現代新書、2005年5月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月
 本田由紀『若者と仕事』東京大学出版会、2005年4月
 森真一『日本はなぜ諍いの多い国になったのか』中公新書ラクレ、2005年7月

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2005年6月 6日 (月)

壊れる日本人と差別する柳田邦男

 私が俗流若者論に対して違和感を持つようになったのは高校1年の頃だ。私が高校1年だった平成12年5月、マスコミで「17歳の殺人」が喧伝され、私が世間から殺人者として見られているのではないか、という恐怖心に駆られていた。そして、私が俗流若者論に対して本格的に批判的検証を行うようになったのは、高校2年のとき、17歳になる数ヶ月前であった。最初の頃は、感情論的な「反論」ばかりであったが、大学生になってからは疑似科学批判や俗流若者論が生み出すナショナリズムやレイシズム(人種差別)に対して批判を行なうようになった。

 俗流若者論を読んでいると、吐き気を催すほどの空疎な言葉ばかりが飛び交う。国家、愛国心、日本人、心、伝統、文化、道徳、本質、堕落、失敗、そして崩壊。これらの言葉は、単なる自らの自意識の発露でしかなく、そこから読み取れるのはただ自分だけを肯定した上で若年層をしきりにバッシングしようとする残酷な意識である。

 もちろん、彼らにとっては「正義」なのかもしれない。しかし、その「正義」が現実に生きる青少年にいわれなき誤解をかぶせられ、彼らが亡国の鬼胎として不当に「政治利用」されることを正当化しているのであるから、当の青少年にとっては迷惑千万であろう。

 彼らが「日本の崩壊」を好んで語るとき、限りなく10割に近い人たちが「今時の若者」をしきりに嘆く。しかし、彼らの「憂国」は、所詮はマスコミで興味本位に報じられているような表層的なものでしかなく、マスコミの報道に対して疑ったり、あるいはマスコミが報じないような青少年の「現実」を探り当てようとする人は、この分野においては皆無である。なぜか。そのような試みは地味であるから、たとえ実りのある結果が出たとしても、人々はマスコミの喧伝する「今時の若者」なるバーチャルリアリティーに踊らされている。なので、ほとんどの人が気づかない。

 作家の柳田邦男氏の最新刊、『壊れる日本人』(新潮社)も、所詮はマスコミの「憂国」にただ乗りしたものでしかないのである。なぜ私がそう考えるのかといえば、柳田氏の問題意識が同書のあとがき(217ページ)にこのように記されているからである。

 超一流企業のエリート経営者がなぜあのようなおろかな判断を下したのかと理解に苦しむような企業不祥事が続発する。若者たちが見ず知らずの相手とネットで交信して、ある日あるとき、集合して集団自殺をする。少年や少女による残忍な殺人事件が相次いで起こる。

 この国が変になっている。この国の人々がおかしくなっている。それは確かなことだ。だが、日本人のどこがどのようにおかしくなっているのか。なぜそうなったのか。そう問いかけても、根源にあるものは見えにくく、答を見出すのは難しい。(柳田邦男[2005]、以下、断りがないなら同様)

 極めてデ・ジャ・ヴュに満ちた文言である。この程度の「憂国」言説において、問題視されるのが《超一流企業のエリート経営者》と《若者たち》と《少年や少女》であることはもはや定番としか言いようがない。しかも《なぜあのようなおろかな判断を下したのかと理解に苦しむような企業不祥事》と《集合して集団自殺》にはかなりの飛躍があると思うのだが、柳田氏にとっては同列のものなのであろう。

 なぜか。それは、柳田氏が《この国が変になっている。この国の人々がおかしくなっている。それは確かなことだ。だが、日本人のどこがどのようにおかしくなっているのか。なぜそうなったのか》と語っている通り、これらの問題は柳田氏にとっては日本人の根源において精神構造が崩壊していることの証左だからである。個人や企業構造の問題を解決する前に、一足飛びに「日本人」全体の精神病理として批判してしまうことは、短絡的なナショナリストの常套手段である。

 そして、柳田氏は、このような日本人の精神構造の崩壊をもたらしたものが、《「人間を壊す見えない魔手」「二十一世紀の『負の遺産』は心と言葉にかかわる見えないもの」「IT時代がかかえこむ見えないジレンマ」》であると推測する。もちろん、他のファクターは無視されている。柳田氏は、218ページから219ページにかけてこのように書いている。曰く、

 IT革命による情報化は、言葉の世界に直接的に影響をおよぼす。同時にIT機器とりわけメディアへの長時間の接触と依存は、心の影響を与えないわけがない。とくに子どもの場合は、心の発達と人格形成に影響をおよぼす危険性が高い。いずれにせよ、IT革命という二十一世紀型の科学技術の担い手の「負の側面」は、情報処理やコミュニケーションという見えにくいものによってもたらされ、その結果も、心と見えない世界に生じる現象なのだ。

 極めて興味深い指摘である。特に、柳田氏が《言葉の世界に直接的に影響をおよぼす》だとか《心の影響を与えないわけがない》だとか《心と見えない世界に生じる現象なのだ》だとか、定量化が難しい事例に対してただ憶測だけを重ねて警鐘を乱打していることが(しかし空回りしてばかり)。これは現代における「非社会的な若者」への不安を扇動する言論に共通して言えるもので、「反社会的な若者」が既存の「世間」によって与えられた境界線の枠組みにのっとって反社会的行動をしているのに対し、「非社会的な若者」は既存の境界線の枠組みに関わる行動をしているので、「世間」の境界線を死守するだけの俗流若者論は、彼らを「世間」の枠組みの中に再び囲い込め、としか言うことができない。「非社会的な若者」は、「反社会的な若者」とは違い、不可視的であるから、好きなように不安を扇動することが可能だ。柳田氏は、まさに「不可視的なものに対する過剰な不安扇動」をやってのけている。

 そして、詳しくはこの後の議論に譲るが、柳田氏にとっての「言葉」だとか「心」だとかいった文言は、所詮は「想い出の美化」イデオロギーに満ちたものでしかなく、それが現実の青少年をいかに苦しめるものであるか、ということに対する柳田氏の想像力は、完全に放棄されている。これは、昨今の憲法や教育基本法の改正論にも共通するものでもある。柳田氏は、いつから御用ジャーナリストになったのか。

 以下、柳田氏の著書における、特に問題の多い箇所を検証していくことにしよう。

 ・7~22ページ「見えざる手が人間を壊す時代」…見えざる手が柳田邦男を壊す時代
 7ページにおいて、柳田氏はテレビで見た《東京の山の手の住宅街にある有名幼稚園の話題》について述べる。そのとき、柳田氏は、その幼稚園の多くの子供が高級車で一人一人送られる、という事実に驚愕した。確かに、柳田氏が驚いた理由もわからぬでもない。しかし、柳田氏は8ページにおいて、《子育てに関して、何か凄いことが、この国を覆いつつあるように思えた》と、一つの特殊な事情を持った(柳田氏は8ページにおいて《所得水準の高い過程であるのは確かだ》と言っていたはずだが)幼稚園における情景を元に、日本全体に関して論じてしまうのである。おかしくはないか。

 しかも11ページにおいて、柳田氏は、そのような状況にある現代の子供たちに関して(もちろん、柳田氏の誇大妄想だろうが)《今の子どもはそういう状況の中にあっても、なぜか気が変にならない。いや、実際には変になっているにちがいないのだが、みんなが同じように変になっているので、変であることに気づかないだけのことなのだろう。最近変な事件が頻発しているではないか》とさらに妄想を深化させてしまう。はっきりいって、この短い文章の中に《変》という言葉が繰り返し、しかもなんの躊躇もなく使われていることが、私にとっては恐ろしいことである。しかも《最近変な事件が頻発しているではないか》と書いて、読者の感情に訴える形をとっているけれども、柳田氏はいかなる事件を指してそういっているのか、開示を望む。

 また、柳田氏は、14ページにおいてある疑似科学について好意的に触れる。もちろん、ゲームをやると脳が異常になって、子供たちの社会性の発達を阻害する、という「ゲーム脳」理論だ。この理論に対する論理的検証、さらに思想的な検証は、精神科医の風野春樹氏が行なっているのでそちらを参照してもらうとして(風野春樹[2002])、柳田氏が、「最近の子供たちは異常だ」という一点張りでこの問題の多い「ゲーム脳」理論を信奉していることが恐ろしい。しかも、15ページから16ページにかけて、科学的検証など無用だ、と開き直っているのだからさらに戦慄する。

 その上17ページにおいて、柳田氏は、次のように述べている。

 そこで私は情報環境の変化に焦点をあてて考察しているのだが、テレビやゲームはバーチャルリアリティ(仮想現実)の世界だ。ところが、社会生活の経験が少なく、情報への批判力もない子どもが、毎日長時間テレビを見たりゲームにふけったりしていると、その子にとっては、仮想現実の世界と現実の世界の区別がつかなくなるばかりか、やがて仮想現実の世界のほうに現実味を感じるという逆転現象が起きてくる。そういう点で“先駆的”と言える世代が、すでに二十代になっている。

 で、柳田氏がその証左として17ページから18ページにかけて述べているのが、結局のところ《若い女の子》の行動。当然、私は腰が抜けた。柳田氏にとっては、その行動が《脳が仮想現実の世界から抜け出していない、つまり自宅のソファーでテレビを見ているのと同じ感覚で電車に乗っているからだととらえたほうが納得できる》のだそうだ。柳田氏は、ここまでわけわからずのアナロジーでも、相手が「今時の若者」ならば通用するとでも高を括っているのか。いい加減、マスコミが興味本位で採り上げたがる「今時の若者」の「問題行動」から、空疎な「時代の病理」を読み取って悦に入ることをやめてはくれないか。

 当然の如く、柳田氏は、20ページから21ページにかけて、平成12年の佐賀のバスジャック事件にかこつけて、《本来なら心の中だけの幻想で終わってしまうこういう想いを、仮想現実で終わらせないでそのまま現実世界に持ち込んでいく。「バーチャルな多重人格」においては、仮想現実が現実世界を圧倒してしまうのだ》と平気で論じてしまう。マスコミと俗流若者論によって意図的に捏造された仮想現実が、現実世界を圧倒しているのは、柳田氏のほうであろう。

 ・23~39ページ「広がるケータイ・ネット依存症」…「敵」はどこにいる?
 この章において、柳田氏は明確に携帯電話とインターネットを「敵」として「発見」する。柳田氏は、25ページにおいて、壮大な差別言説を開陳してしまっているのである。

 私などの目から見ると、今時の若者たちは気の毒だなと思う。ファミリー・レストランなどに入ると、あちこちの席に若い男女の二人連れが座っている。ところが、お互いに顔を見つめ合って話しにはずみをつけているカップルは、少ない。何をしているのかと思って見ると、二人がそれぞれに手許のケータイでピコピコとやっている。私はそういう若者たちを不思議な動物だなと思うのだが、若者たちはいまや総ケータイ依存症になっているから、自分たちを変だとは思わない。

 ここまでひどい差別はあるまい。何せ、柳田氏にとっては現代の若年層は《不思議な動物》、すなわち人間以外のものとして認識されているのだから。これは明白なレイシズムであろう。いつから柳田氏はレイシズムを許容するようになったのか。しかも《若者たちはいまや総ケータイ依存症になっているから、自分たちを変だとは思わない》と、検証もなしに自らの思い込みだけでものを語ってしまっているのだから、救いようがない。もう一つ、このようなことが、どこまで広がっているのか、ということについて、柳田氏は検証したのだろうか。

 このような態度だから、柳田氏は《ビジネス界の「人の砂漠」》(26ページ)だとか《患者の顔を見ない医師》(28ページ)も、全て携帯電話とインターネットのせいにしてしまえるのである。

 笑ってしまったのは32ページで紹介されている「事例」だ。曰く、聴診器と間違えてパソコンのマウスを患者の胸に当てようとしたという。このような事例は、患者にとっては「しっかりしてくださいよ」と言いたくなるような単純なミスであるし、単にこの医者がおっちょこちょいだった、という可能性もある。しかし柳田氏にとって、こんな些細なことですらも《コンピュータ化時代ならではの問題点が見えている》のだそうだ。では聞こう。もし、ここで間違って患者の胸に当ててしまったのがメモ帳とか文鎮だったら?柳田氏は口が裂けても《コンピュータ化時代ならではの問題点》などとは言うまい。結局、柳田氏の問題意識は、この程度のものでしかないのだ。それ以外にも、柳田氏は、36ページにおいて、《四国八十八ヶ所の霊場をクルマでいかに早く回ったかを自慢する人がいるほど、効率化の価値を重視する時代だ》と、一部の(柳田氏にとって)衝撃的な事例を「時代の病理」と短絡してしまっている。

 他にも、この章においては、医療を始め、さまざまなことが、コンピュータ化時代の「負の側面」として描かれているのだが、コンピュータ以前の時代の状況がどうであったか、ということについては一切触れずじまいだ。

 結局のところ、この章は、柳田氏が携帯電話とインターネットを「敵」と見なして、それを潰すために的はずれな「批判のための批判」を重ねているだけの下らない章であり、そのような態度でいいのか、という根本的な疑問は一切放棄されているのである。

 柳田氏は、これ以降において、「非効率主義」「あいまい文化」の重要性について論じる。それについて述べたところは、私も共鳴するところは少なくない。だが、しかし。柳田氏が本書で開陳している俗流若者論は、明らかに白と黒を明確に線引きし(当然自分は「白」である)、グレーゾーンはまったく存在しない。しかも、柳田氏の文章からは、ある事象に対して多面的に検証する、という態度がまったく欠けており、「非効率主義」「あいまい文化」とは明らかに相反する執筆姿勢であることには疑いはないだろう。

 ・58~74ページ「「ちょっとだけ非効率」の社会文化論」…単なる憂国的妄想の開陳
 この章は要するに、カーナビゲーションシステムに対する柳田氏の恨み節だけで終始しているのだが、ここにも《人間同士や人と環境(街や自然)とのコミュニケーションに電気機器が介入すると、深いところで本質的なコミュニケーションはむしろ阻害されてくるのではないか》(61ページ)と、《深いところ》や《本質》などといった空疎なアナロジーが安易に使用されている。

 また、《現実とバーチャルの倒錯》というアナロジーは、この章にも出現する(70~74ページ)。しかし、ここで採り上げられている事件に関しても、そのようなアナロジーを持ち出すのは、それこそ倒錯した論理ではないか。結局のところ、柳田氏は、コンピュータ化によって日本人の「本質」が壊されている、という妄想に浸りたいだけなのかもしれない。

 ・145~161ページ「人の傷みを思わない子の育て方」…人の傷みを思わない俗流若者論の育て方
 柳田氏は、145ページにおいて、《人が人を殺すのは、極めて人間的だ》と述べる。ここで言う《人間的》という言葉は、《他の動物には見られない人間特有》という意味である。柳田氏は、146ページにおいて《これほどまでに殺人が日常化し、システム化しているのは、この地球上にヒト科を措いて他にない》と述べているのだが、見方によっては、柳田氏が145ページにおいて述べているハヌマンラングール(サルの一種)の子殺しもシステム化されたもの、ということができるだろう。このような安易なアナロジーの使用は、論理を崩壊させる力を持つ。

 柳田氏は、147ページから、現代の少年や少女による殺人事件について述べる。しかし、《子どもが同じ子どもを殺すという事件が、しばしば起こるという状況はかつてなかった》だとか、《凶悪事件を起こす少年少女の低年齢化も不気味だ》と事実に反することを言う。実際問題、犯罪白書を見ればわかるとおり、少年による凶悪犯罪(殺人、強盗、強姦、放火)はすべてにおいて昭和35年ごろの数分の一に減少しており(強盗に関しては近年増加が認められるが、これは実数が増加したというよりも強盗罪の基準が低くなったことに起因する。土井隆義[2003]、浜井浩一[2005])、各事例に関しても、子供が子供を殺す、という事件は少なくなかった(宮崎哲弥、藤井誠二[2001])。このような事実が存在することを、柳田氏はどう考えているのか。柳田氏は、青少年の凶悪犯罪について、過去にさかのぼって調査したのか。

 しかし、柳田氏は、少年による凶悪犯罪の「増加」を前提として語っているので、しばらくはその前提を受け入れることにしよう。149ページからその原因論に入るのだけれども、そこにも(当然の如く、というべきか)過度な図式化や線引きが目立つのである。
 柳田氏は、151ページにおいて、「普通」の家庭について述べているのだが、これもまた柳田氏の妄想の産物に過ぎない。曰く、

 家計を受け持つ妻は、家賃の負担を感じながら、早く持ち家に住みたいと思い、その頭金作りの一助にと、パートに出ている。おしゃれのために、自分で自由になるお金もほしいという理由もある。時折娘に絵本を買い与えることはしても、自ら読んで聞かせることはしていない。読み気加瀬をすることが、母とこのスキンシップを深めることによる安定のためにも、幼い子の感性と物語の楽しさを味わう力を身につけるためにも、非常に重要だということを知らない。

 子どもはといえば、留守番の多い鍵っ子。ひとりでテレビを見たり、ゲームで遊んだりしている。ケータイも使える。母親が留守がちなので、連絡のためにケータイを買い与えたのだ。絵本を落ち着いて読む習慣がない。保育園では、協調性が乏しく、すぐに友達を手でぶつと、保育士から言われている。

 これは今の日本では、まさに「普通」の家庭だ。つまり「一般的」という意味で「普通」なのだ。しかし、このような状態を、子育ての条件として「正常」と言えるだろうか。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」とよく言われるが、大部分の家庭や家族が「赤信号」の中で暮らしていると、それが「普通」となり、誰も危険を意識しなくなってしまう。

 このような図式化が今の俗流若者論では、《まさに「普通」の》若者論だ。《つまり「一般的」という意味での「普通」なのだ。しかし、このような》暴論を、青少年に関する言説として《「正常」と言えるだろうか。《「赤信号、みんなで渡れば怖くない」とよく言われるが、大部分の》自称「識者」が《「赤信号」の中で》馴れ合って暴論を開陳していると、《それが「普通」となり、誰も危険を意識しなくなってしまう》。

 結局のところ、これは、「批判のための批判」としか言いようがない。つまり、あらかじめ「犯罪を簡単に起こす子供達を育てる家庭」なるものを批判するために、このような図式をでっち上げているのである。柳田氏よ、貴方もジャーナリストであれば、現代の家庭に関しても綿密な取材・調査を行うべきではないか。

 当然、151ページの最後から152ページの最後においては、柳田氏の生まれ育った環境と現在の家庭環境の比較を行なうのだが、これを印象操作という。要するに、柳田氏の生まれ育った環境は過度に美化されているのに加え、現在の家庭環境は過度に醜悪化されているのである。

 そして、案の定、153ページから154ページにかけてこのようなことを述べてしまう。曰く、《どのようにすれば子供の心が真っ当に育つのかという問題に対し、国も地域も親たちも具体的で有効な対応策を見つけ出せないまま立ちすくんでいるという状況を、私は論じているのだ》と。「真っ当な心」など、イデオロギー的な妄想に過ぎないのに。

 また、柳田氏は、155ページから157ページにかけて、今規制が推し進められている「有害な」映画について述べているのだが、そこにもただ不安を煽るだけの論理だけが繰り返されるばかりだ。現在、柳田氏が問題視したがる「有害な」映画やゲームへの規制が東京都、神奈川県、埼玉県を中心にさまざまなところで行なわれているのだが、もしそのような規制が行なわれたら、柳田氏は喜ぶのだろう。「表現の自由」という、もの書きにとってもっとも大事なこともかなぐり捨てて。

 しかも柳田氏は、157ページにおいて《凶悪事件を起こした少年(少女)のほとんどが、他者の痛みを思っても見ない完璧なまでの自己中心の精神構造になっている》と言っているのだが、なぜそのような考えているのか、ということに関しては、平成16年6月の佐世保の事件における、犯人の日記、小説、ホームページでの書き込みしか触れられていない。さらに、柳田氏は、160ページにおいて、《幼少期のテレビゲームへの熱中による脳の発達のゆがみ》と書いている。幼少期からテレビゲームに熱中していた子供が、果たしてどれほどいるのだろうか。

 俗流若者論は、人の傷みを思わない。

 ・162~180ページ「ノーケータイ、ノーテレビデーを」…敵愾心の産物に期待が持てるか
 高校時代、私は教室掃除をしていたとき、友達と、「漢字を覚えてしまったら、漢字がない文章はとても読みづらくなる」ということを笑いながら話していたことがある。

 そして、そのような漢字を使わない文章が、まさか社会的に一定の地位を得た作家が、現代人に対する罵詈雑言に使うだろう事など、夢にも思わなかったのである。

 そう、柳田氏は、162ページから、165ページにかけての節で、《ケータイはカミサマ》と題して、柳田氏の携帯電話に対する敵愾心たっぷりの文章を、漢字をまったく使わないで書いているのである。読んでいて、激しい怒りが私の中に募った。これこそ俗流若者論の暴走だ、と私は確信した。このような漢字のない文章にすることで、《ケータイ》なるものに(私がこのような表現を使ったのは、《ケータイ》というのはもはやイデオロギーでしかないからであり、携帯電話及び携帯端末とは極めて乖離した存在であるからである)侵された者がいかに貧困な思考しか抱き得ないか、ということが極めて残酷に描かれているのである。柳田氏は、最初から「敵」を決めて、それに対する狼藉は、たとえ不当なものであってもいとわない、という考え方を暴走させ、ついにこのような暴挙に出てしまったのだ。本書のタイトルは《壊れる日本人》だが、壊れているのは確実に柳田氏だ。

 柳田氏は《ノーケータイデー》《「ノーゲームデー」「ノーテレビデー」「ノーインターネットデー」「ノー電子メディアデー」》が必要だ、と述べる。しかし、私はこれらには反対である。
 なぜか。柳田氏がこのような結論に至る過程には、さまざまな狼藉と誹謗中傷がある、ということは今まで述べたとおりであり、そのようなものから生まれた思索を、到底認めることなどできないのである。

 柳田氏は、当然の如く電子メディアの悪影響について自信満々で述べて、そしてそれらの「ノー○○○デー」がいかに子供たちにいい影響を及ぼすかを、実例を引いて述べている。しかし、柳田氏の視点に決定的に欠落しているものがある。それは、子供はどこまで親の監視監督下におかれるべきか、ということと、ある不安を抱えており、それに対する脱却にインターネットが大いに役立つこともある、ということの二つである。

 前者について言うと、柳田氏が述べている通り、現代の子供たちは昔以上に親の監視監督下におかれている。だからこそ、インターネットが、彼らの唯一の「居場所」になっていることがあるのだ。柳田氏は、そのような環境におかれた子供たちに対する想像力を、果たして持っているのか、問い詰めたい。柳田氏は、インターネット以外にも子供たちが「居場所」を探し出せるような環境作りという極めて大事なことを忘れて、電子メディアから子供を引き離せ、と主張しているのだから、柳田氏の論理が時代遅れだ、ということ以前に、柳田氏の論理は極めて暴力的なのである。

 また、精神科医の斎藤環氏によると、「ひきこもり」の解決にはむしろインターネットが有効だという(斎藤環[2003])。電子メディアの負の側面ばかりを強調して、それらを突き放すことによってよい面だけを生かすようにしよう、と柳田氏は述べているけれども、そんなことは単なる幻想に過ぎない。使用する過程で、いい側面も悪い側面も出てくるものだ、それは電子メディアに限ったものではないが。

 とにかく、敵愾心にまみれた汚れた「対策」に、何の期待が持てようか。

 ・181ページ~198ページ「異常が「普通」の時代」…そもそも「異常/普通」とは?
 182ページ、柳田氏は、前出の佐世保の事件について、《ケータイ・ネット時代ならではの側面に絞って詳しく分析した》と書いている。あれが《詳しく分析した》結果なのだ、と言われると、へそで茶を沸かしてしまう。これまで述べたとおり、柳田氏は、マスコミで報じられているあらゆる事件事象から、日常の些細な失敗まで、全てをコンピュータ化時代の病理に強引に結び付けて述べているのだから、本書は最初からアンフェアなスタンスで書かれている、ということを我々は自覚すべきだろう。

 183ページから184ページにかけて、柳田氏は、佐世保の事件の犯人の、長崎家庭裁判所佐世保支部による「審判決定要旨」を引用して、さらに185ページにおいて教育評論家の尾木直樹氏のある調査も引用して、この犯人の人格特性と絡めつつ、現代の子供たちがいかに危険であるかについて警鐘を鳴らす(書き飛ばす)。

 しかし、この尾木氏の調査に問題がある。尾木氏の調査は、平成10年に行われたもので、東京、京都、福島、長野の保育士456人に対して「子どもと親の最近の変化」についての調査をした、というものである。それによると、《1、夜型生活、2、自己中心的、3、パニックに陥りやすい、4、粗暴、5、基本的しつけの欠落、6、親の前ではよい子になる》という傾向が見られたらしいが、このような調査は、そのような答えを示した保育士が何を基準に語っているか、ということが問われるべきだろう。そもそもこのような回答には、「想い出の美化」というものが関わっている可能性もなくはないだろう。尾木氏、そして柳田氏は、そのことに関してコントロール(影響を排除すること)を行なったのか。しかし、柳田氏は、そのような疑問をはさむことはない。

 これ以外の内容は、柳田氏が以前に書いていた内容と大部分で重複するので、検証は控える。しかし、これだけは言いたい、柳田氏は、過去の自分を過剰に美化し、さらに現代の子供たちに過剰なまでの敵愾心を煽ることによって、差別や短絡的なナショナリズムの復活に貢献しているのだ、貴方はいつからそのような御用ジャーナリストになったのか、と。

 とりあえず、個々に関する検証はここで終わりにしよう。

 実を言うと、私は柳田氏のこの文章を、新潮社の月刊誌である「新潮45」に「日本人の教養」として連載していたときから愛読していた(もちろん、突っ込むことを楽しみにして。「日本人の教養」は、今も連載中)。柳田氏は、ノンフィクション界では相当の業績を残した人である、ということは知っていたし、また柳田氏の文章もいくつか読んだことがあるので、柳田氏がこのような文章を書いていることに、この連載の第1回を読んだ私は強い衝撃を覚えた。

 柳田氏のこの文章は、決して人間の視点で書かれたものではない。それでは、何の視点で書かれたものなのか。神の視点なのか。いや、違う。

 それは、政治の視点である。柳田氏は、過度に政治言説化された「今時の若者」のイメージを疑うことをせず、それどころかそれにただ乗りする形で、「今時の若者」の「政治利用」、要するに「今時の若者」を異物と見なして、それに対する「対策」をこそ至上の政策課題とする形で、本書は書かれている。そのようなスタンスで書かれた本書を、どうしてフェアーな書といえようか。本書は、限りなく政治に隷属された、人間味のない、罵詈雑言ばかりが繰り返された文章としかいえない。

 確かに、本書で問題のある部分として採り上げた以外の場所には、納得できる、あるいは共感できる部分もある。しかし、本書の中で「今時の若者」を敵視した文章に触れると、それ以外の部分で得た感動を一挙に裏切られてしまう。考えてみれば、本書で問題視しなかった部分でも、うわべだけの空疎な美辞麗句が頻出していた。

 このような、「今時の若者」を個々まで堕落せしめた「原因」を探し出し、それを排除する、あるいはそれに対する敵愾心を煽ることによって、子供たちを「今時の若者」にしないために、それらを過剰に敵視する。このような「残酷な温情主義」が、実在の子供たちを囲い込み、問題の解決を遅らせて、青少年から「居場所」を奪う。そして、このような残酷な温情主義と、子供たちを「国家」に従わせることによって自立心と社会性を育もうとする倒錯した論理が、戦略なき憲法と教育基本法の改正、あるいはメディア規制として析出している。

 そうでなくとも、今、手軽な社会批判として、多くの自称「識者」がインターネットを敵視し、自分の「理解できない」事件は何でもインターネットが原因と決め付ける。そして、インターネットを過剰に問題視し、「今の社会はここまで駄目になってしまった」とのコメントを流せば、マスコミは好意的にそれを紹介し、事件の真相を掘り起こすことを放棄して、そのような「憂国」に終始してしまう。

 なるほど、確かにインターネットや携帯電話といった存在、あるいはひきこもりや不登校といった存在は、強固な共同幻想によって結び付けられた「世間」にとっては「境界線の撹乱者」だ。そして今、その「境界線の撹乱者」に対して起こっている過剰なバッシングが、少年犯罪や「オタクの犯罪」にかこつけて行なわれている。しかし、我々にとって必要なのは、そのような「境界線の撹乱者」に対してどう向き合うか、ということではないか。

 俗流若者論は逃避の論理だ。俗流若者論は、自分の持っている幻想と、「世間」という幻想に逃げ込むことにより、自分を絶対化して、他者の痛みに気づくことを阻害させる。まさに、俗流若者論に感化した人こそ、他者の痛みを思わない存在である。柳田氏もそうだ。

 今、この文章を書いているときに、ラジオを聴いている。声優がパーソナリティを務めているラジオで、最近のものはメールでやり取りするものも多くなったが(小森まなみ氏の番組など、メールを使っていないものもある)、これらのラジオに共通するものは、あらゆる作業の手を止めて静かに、あるいは勉強や作業をしながら、リスナーはパーソナリティの発言を楽しみ、番組にあてられる手紙やメールをを媒介して、電波によって多くの人がその空間を共有できる。そこには確かに「人間」がいる。このように、一人一人のリスナーに即しつつ、しかし不特定多数のリスナーにも、電波の向こうの情景を楽しむことができる。俗流若者論が決して実現し得ない、メディアを通じた濃密な時間が、そこにはある。「人間」によってつむがれる言葉は、強く、深く、美しい。

 柳田氏のこの文章は、元々は手書きでかかれたものであろうが、その言葉が「政治」と強く結びついており、「人間」の入る余地がなくなっている。「政治」に隷属させられた言葉は、輝きを失い、魂を殺し、弱く、浅く、醜い。

 もう一度言おう。

 貴方は、いつから、このような物言いを許された、御用ジャーナリストになったのか、と。

 参考文献・資料
 風野春樹[2002]
 風野春樹「科学的検証はほぼゼロで疑問が残る「ゲーム脳の恐怖」の恐怖」=「ゲーム批評」2002年11月号、マイクロマガジン社
 斎藤環[2003]
 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 土井隆義[2003]
 土井隆義『〈非行少年〉の消滅』信山社、2003年12月
 浜井浩一[2005]
 浜井浩一「「治安悪化」と刑事政策の転換」=「世界」2005年3月号、岩波書店
 宮崎哲弥、藤井誠二[2001]
 宮崎哲弥、藤井誠二『少年の「罪と罰」論』2001年5月、春秋社
 柳田邦男[2005]
 柳田邦男『壊れる日本人』新潮社、2005年3月

 五十嵐太郎『過防備都市』中公新書ラクレ、2004年7月
 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 姜尚中『ナショナリズム』岩波書店、2001年10月
 斎藤環『「負けた」教の信者たち』中公新書ラクレ、2005年4月
 芹沢一也『狂気と犯罪』講談社+α新書、2005年1月
 谷岡一郎『「社会調査」のウソ』文春新書、2000年5月
 内藤朝雄『いじめの社会理論』柏書房、2001年7月
 中西新太郎『若者たちに何が起こっているのか』花伝社、2004年7月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月
 宮台真司『宮台真司interviews』世界書院、2005年2月
 ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』岩波文庫、上下巻、1987年2月

 石田英敬「「象徴的貧困」の時代」=「世界」2004年7月号、岩波書店
 小熊英二「改憲という名の「自分探し」」=「論座」2005年6月号、朝日新聞社
 渋谷望「万国のミドルクラス諸君、団結せよ!?」=「現代思想」2005年1月号、青土社
 内藤朝雄「「友だち」の地獄」=「世界」2004年12月、岩波書店
 内藤朝雄「お前もニートだ」=「図書新聞」2005年3月18日号、図書新聞

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2005年5月17日 (火)

反スピリチュアリズム ~江原啓之『子どもが危ない!』の虚妄を衝く~

 私自身、高校時代にカウンセリングを受けてきた経験から言うが、カウンセラーを自称している者が安直に社会について、精神分析的なことを論じるのはどうか、と思う。本来カウンセリングというのは、個人と個人の間で行われるものであり、そこには、カウンセラーとクライアントの、いわば権力関係のようなものであっても、1対1の関係があるように思われる(インターネットを用いたカウンセリングでも然りである)。

 ところが、我々の目に見えないものとしての社会を俯瞰するとき、そこにおいては個人が個人に対するカウンセリングを行なうときのような安直な「処方箋」は処方できないように思える。確かに、一般的なカウンセリングの場合においては、簡単な「処方箋」がその個人の問題の解決になることはあるにしても、人々の営みとしての社会に対して「処方箋」を処方する場合は、単なる安直な社会批判――俗流若者論の場合もある――に終始してしまう可能性が高いし、そのような言説に対する政治性、権力性にも自覚的でなくてはならないだろう。故に、カウンセラーであれ、精神科医であれ、学者であれ、社会を俯瞰し、何らかの言説を発する場合に求められるのは、言論人としての倫理や良心のはずである。
 しかし、我が国において、自称カウンセラーが社会について擬似「カウンセリング」を施し、社会の病理(その大抵はマスコミで喧伝されている「病理」であるが)を論じた「つもり」になっている、という事態が後を絶たない。特に、若年層の「病理」に関するものが多いが、彼らにとってすれば、現代の若年層というものは、彼らの「自己実現」のための道具にしか過ぎないのだろう。このような人たちに現代の若年層を生贄に捧げることに、私は強い抵抗を覚える。

 今回検証するのは、スピリチュアル・カウンセラーの江原啓之氏による俗流若者論、『子どもが危ない!』(集英社)である。本書において、江原氏は、現代の青少年問題について述べているものの、その認識は安易な懐古主義や狼藉に溢れ、結局のところ江原氏は自分だけが青少年問題の「本質」を知っている、という幻想に浸って自分に対する責任を回避したいだけではないか、と思えてならない。

 江原氏は、本書の冒頭で、このように記述している(6ページ)。曰く、

 傲慢ながら申し上げます。

 現代の大人たちは、これらの闇を光に変える術を持ち合わせてはいません。 なぜならば、子どもに起きている問題の全ては、大人たち、または社会の問題の投影だからです。

 生まれてくる子供たちは、今も昔も何ひとつ変わってはいません。その子供たちを、今のように育てた大人たちや社会に責任があるのです。
 (江原啓之[2004]、以下、断りがないなら同様)

 しかし、江原氏の記述を読んでみる限り、江原氏は《子どもに起きている問題の全ては、大人たち、または社会の問題の投影だからです。/生まれてくる子供たちは、今も昔も何ひとつ変わってはいません》とはさらさら思っているのではなく、《今のように育てた大人たちや社会に責任があるのです》という問題にすり替えることによって、結局のところ現代の青少年をモンスター化し、さらに自らのみがその処方箋を知っていると傲慢になっているのである。

 蛇足ながら、本書4ページで、《子どもたちが心にトラウマを抱えたまま成人すると、今度は自分の子どもに虐待を繰り返してしまうなど、さまざまな問題を抱えることになります。そのため最近は、若い親たちによる児童虐待の事件が後を絶たないのです》と述べているが、江原氏がこのような俗説を真に受けているのがいただけない。

 本書は、全体で一つの問題を扱っているので、江原氏の問題意識ごとに章が分けられている。簡単に言えば、第1章が江原氏の社会認識、第2章が子育てに関する一般論、第3章が江原氏の現代の青少年に対する認識、第4章が教育に関する一般論、第5章がメディアに対する議論(正確に言えばメディア悪影響論)、そして第6章が家族に関する議論である。拙稿では、その中でも特に問題の多い第1・2・3・5章を検証することによって、江原氏の認識の残酷さを明らかにしていくことにしよう。

 ついでに言わせてもらうけれども、本書各章のはじめに掲載されている、まさに(江原氏が妄想するところの)「今時の社会」を表しているかのごとき写真は、その選定があまりにも恣意的すぎるとはいえまいか。

 第1章のタイトルは「子供の未来を憂えるすべての大人たちへ」である。本章では、一番最初の章ということで、冒頭でも述べたとおり、江原氏の社会認識が述べられている。

 江原氏は、本書の基本姿勢について、《スピリチュアル・カウンセラーである私が本書を著す理由は、人間の本質は「たましい」であるという視点を、ぜひみなさまに持っていただきたいと願うからなのです》(16ページ)と記している。しかし、このような態度、すなわち《たましい》という概念の乱用することによって、本書が壮大な無責任体系と化していることに、私は警鐘を鳴らしておこう。

 ちなみに江原氏言うところの《たましい》は、我々が普段「精神」だとか「心」だとかいう意味で使われている「魂」とは違うものであり、江原氏の《たましい》とは、人間の行動を規定する霊的な要素とされている(「霊魂」という表現に近いかもしれない)。もちろん、このような考え方を否定することは出来ないし、このような親交は昔からあったし、今でも理解を示す人も多いと思われる。

 しかし、江原氏の最大の問題点は、現代を《たましい》の過度に劣化した時代と勝手に規定して罵っていることであろう。例えば、23ページにおいて、江原氏は《今の世の中に浸透している価値観とは、一言で言って「物質主義的価値観」です》と表記し、さらに25ページにおいては《残念ながら、今の日本はまさに物質主義的価値観の王国です》と表記している。しかし、最近においては、そのような「成長」一辺倒でやってきて、バブル期以降その破綻が明らかになってきてからは、「成長」から「成熟」に多くの人が価値観をシフトしている時代に入りつつある。少子化に対する楽観論が出てき始めているのもこの影響があるだろう。

 しかし、江原氏は、このような硬直した思考に陥っているから、このような妄言を吐いてしまう。曰く、《初詣などでの願い事を言えば、物質面で豊かになることや、誰の目にも見えるような成功。高価なもの、贅沢な暮らし目をきらきらさせて憧れるその姿は、偏った宗教を妄信する人と何ら違いはありません》(25ページ)と。なるほど、江原氏にとって、初詣で願い事をする人はみな《物質面で豊かになることや、誰の目にも見えるような成功》を願っているのであって、家内安全、夫婦円満などを願っている人は皆無なわけか。このような態度こそ、江原氏の傲慢な態度、カウンセラーとして決してあってはならない態度が端的に表されている。しかも《偏った宗教を妄信する人と何ら違いはありません》とは…。

 それでは、このような考え方をもった現代の日本人(このような安直な規定をすることもそれなりの留保が必要だろう。私がこう指摘したら、江原氏は私のことを「物質主義的価値観」に毒された奴だと思うのだろうが)、特に青少年が、なぜ問題を起こすようになったのか(このような図式を疑いなく受け入れることこそ問題だろうが)、ということに対して、江原氏は《未浄化な低級自然霊たちが、今という時代、日本じゅう、いや世界じゅうに、はびこっています》と書いている。だったらなぜ江原氏は外国の事例(ブッシュや金正日がいい例だろう)を採り上げないのだろうか。このような問題を採り上げると、求心力がなくなったり、記述が散漫になったりするという弊害が出るかもしれないが、少なくとも人間の本質を、江原氏は《たましい》に求めているのだから、過去や外国の事例をタブー化してはならない。

 《自然霊》なるものに関して、江原氏は、人間の霊(江原氏は《人霊》と述べている)との最大の違いを、《その増え方》にあると言っている。曰く、自然霊は分裂することによって増えるという。なので、《人霊のような理屈抜きの情愛がありません。血肉を分けての絆がないので、人間の親子にあるようなウェットな感性とはもともと無縁なのです。/ですから、いいものはいい、悪いものは悪いという、白か黒かのきわめてデジタルな判断をくだすのが特徴》だというのである。論理が破綻しているのは、言うまでもないだろう。

 しかも江原氏は、現代の《人霊》に関して、《人霊の低級自然霊化》が起こっているというのである。当然、《自然霊》というものが《人間の親子にあるようなウェットな感性とはもともと無縁》だとか《白か黒かのきわめてデジタルな判断をくだす》とかいう特徴を持っているから(しかも《自然霊》は疎かにされると低級化するという。ちなみに、最近の人類が自然に対して傲慢な態度を取っているから、《高級自然霊》はこの世から離れていったらしい。では、《高級自然霊》は、どこに行ったのだろうか?消えたのか?)、現在の青少年問題(マスコミが面白がって採り上げる類のものだけれども)が起こるのも必然であるという。

 その証拠に、江原氏は、31ページにおいて、少年犯罪の「動機」について述べる。しかし、このような「動機」が、警察から発表されたものに、さらにマスコミがその中でも過激なものを選定して報じているのではないか、という常識的な疑念は江原氏の中にはないようだ。江原氏は31ページで《ひと昔前の殺人事件は、憎しみや葛藤という人間くさい感情がきわまって起きるものでした。……/ところが最近の殺人犯の言い分はどうでしょう。……理由らしい理由のないものばかりです》と述べているけれども、あまりにも杜撰すぎる図式化とはいえまいか。もっとも、このような図式化をすることに、江原氏のスピリチュアリズムの(残酷な)「本質」があるのだろうけれども。

 第2章は、子育てについて述べた箇所で、タイトルは「打算の愛、無償の愛」である。本書のような不安扇動本を「無償の愛」で買っている人などいないだろう、と突っ込みを入れて、この章の特に問題のある箇所を指摘したい。

 江原氏は58ページにおいて、《この答えの核心を探るには、ここ百年ほどの日本の歴史を振り返る作業が必要です》と言っておきながら、戦前についてはまったく触れられていない。特に昭和史をめぐる上で最も重要なファクターになる柳条湖事件から日華事変を経て大東亜戦争までの15年戦争、特にその敗因についてまったく触れられていないのはどういうわけか。おそらく、それらについて触れると、話がややこしくなるばかりでなく、江原氏の論理(というよりも妄想)が破綻してしまう可能性があるからではないか(柳条湖事件と満州国については山室信一[2004]を、大東亜戦争に関する分析については山本七平[2004]を参照されたし)。

 閑話休題、江原氏は65ページにおいて世代論的な図式を持ち出す。曰く、昭和1桁~10年代(江原氏の記述を参照すれば、それ以降の段階の世代もこの範疇に入るだろう)が《物質信仰世代》、昭和30年代生まれが《主体性欠如世代》、そして昭和50年代以降(私だ!)は《無垢世代》だという。特に《無垢世代》は、親になった《主体性欠如世代》、すなわち《みずからのたましいも未成熟なまま、親だのみで育ってきている》(69ページ)世代によって育てられてきたから、《そこに「真善美」の軸が据えられていないので、繁華街の地べたに座るのも平気、ということにもなってしまいます。自然の中で、広い芝生に座ることと、渋谷駅の構内に座り込むことの間にあるはずの、美醜の区別ができないのです》。ついに来た、渋谷が。江原氏は、「今時の若者」について、結局のところそこらじゅうの「憂国」言説と同じ印象しか持っていないのである。江原氏はそこらじゅうで「憂国」されているものの表層だけをなぞっているのに過ぎない。このような人にカウンセリングをされることに、元クライアント(江原氏のクライアントではないけれども)の私は強い抵抗を覚える。

 あと、71ページにおいて、江原氏は《「真」とは正しいこと、「善」とは善いこと、「日」は美しいこと。これらはみな、神のエネルギーの側面です》と書いているけれども、文化が違えば「真・善・美」もまた違ってくる、ということを、江原氏は知っておいたほうがいい。このような図式は、ブッシュのイラク戦争を正当化する論理にもつながる残酷さがある。

 第3章、「子どもたちのSOS」。第5章と並んで、本書で一番醜悪な部分である。

 この章においては、江原氏がしきりに「憂国」してみせる、という章である。しかも、ここで「憂国」されている事例が、何度も指摘したけれども、マスコミが好んで採り上げているような「今時の若者」であるというのが悲しい。江原氏にとって、彼らは自己実現の道具でしかないのである。

 例えば江原氏や78ページにおいて、《ところが物質信仰の世の中になると、「愛」と「真善美」に代わる新しい神が現れたのです。/「力」です》と述べている。カウンセラーという立場の「力」に陶酔している江原氏にそんなことをいわれる筋合いはない、そう反論したくなるけれども、ここは少し落ち着き、江原氏の記述をもう少したどってみることにしよう。

 江原氏は「力」が至上の価値である世の中について、79ページでこう述べる。ちなみに私はこの部分を読んで、思わず「ついに来たか!」と叫んでしまったことを書いておきたい。

 そんな世相を見るにつけ、人間界も「野生の王国」さながらの世界になってきてしまったように思えます。人間がアニマル化しつつあるのです。人霊としての「品性」の欠落という点でも、アニマル化は進行しています。

 一時期、渋谷あたりにあふれていた「ガングロ」、「ヤマンバ」。

 地べたに座っても平気な「ジベタリアン」。

 お風呂にも入らず、路上で眠る「プチ家出」。

 お腹がすけば、電車の中だろうと、人目を気にせずむしゃむしゃ食事。

 最近の若者たちの生態は、まさにアニマルを思わせます。それもこれも、「愛」と「真善美」にふれて育っていないからなのです。

 なんという既視感。江原氏が現在の青少年について、「今時の若者」という単純な図式しか持っていないからこそ、このような安易で残酷なことが言えるのであろう。

 このような「今時の若者」の「記号的」な事例ばかり取り出して、現代社会を論じた気になっている人たちは、自らの言論の政治性というものを理解しているのだろうか、と思えてならない。結局のところ、このような扇動言説が、現代の若年層に対する敵愾心を煽り、本当の問題の解決を遅らせる羽目になる。しかも《アニマルを思わせます》、だからあいつらは《アニマル》だ!という決め付けは、壮大なレイシズムであり、狼藉であろう。江原氏が、このような狼藉を平気でできるようになるのは、江原氏が「力」を信仰しているからであり、「愛」も「真善美」も知らないからである(と、言っておく。江原氏は困るだろうが、こう判断するほかないのである)。

 また、この章の中でも、全体的に問題のある部分が、102ページから109ページにかけて「ひきこもり」について論じた部分である。この部分は、当事者の救済になんら役に立たないばかりでなく、「ひきこもり」や不登校、さらにはフリーターに対する差別に溢れている。江原氏こそ自らの中心に「力」を据えていることの証左になろうか。

 江原氏によると、「ひきこもり」には二種類あるという。その一つ目として、《前世を含むこれまでのたましいの歴史の中で、既にかなりの浄化向上を進めてきたたましい》(102~103ページ)を持った人による「ひきこもり」を江原氏は上げている。そのタイプの「ひきこもり」は問題が低いようだ。曰く、《彼らにとってひきこもりの期間は、いわば「たましいの整理」の期間。そこを通過すれば、霊的価値観を大事にしながら、一方で物質主義的価値観の社会と折り合うための知恵もそなえた、たのもしい大人に育っていくことが多いのです》(103ページ)と。

 しかし、このタイプの「ひきこもり」は少数である。大多数は《心の弱さ、たましいの幼さからくる》(104ページ)という。これについて述べた箇所で《心が幼稚なまま大人になるとどうなるかは、今どきの若者たちを見ればわかります》と述べているのが痛かったが、これについてはあまり深く述べることはよそう。

 しかし、江原氏の、このタイプの「ひきこもり」に対する認識の残酷さは目を覆いたいほどだ。何しろ、105ページにおいて、《つらいことだらけの外の世界に出るより、自分の部屋でゲームやインターネットをしていたほうがいいと、ひきこもり始めた子供たちは思うのでしょう。そのほうが楽だし傷つきません。あとは親さえ許せば、いとも簡単にひきこもりの成立です》と書いているのだから。「ひきこもり」に真摯に向かい合ってきた多くの人が指摘している通り、「ひきこもり」が《楽だし傷つきません》ということはまったく事実に反する。精神科医の斎藤環氏が監修した、NHKの「ひきこもりサポートキャンペーン」に寄せられた事例を眺めていれば、彼らは決してゲームやインターネットに逃げているのではない(斎藤環[2004])、そればかりでなくインターネットが「ひきこもり」の救済になったという事例すらあるほどである(斎藤環[2003])。

 そして107ページにおいて江原氏曰く、

 これだけは確かに言えます。

 本当の愛で親と結ばれ、たましいをしっかり成熟させながら育った子どもは、決してひきこもりにはなりません。たとえ一時的になったとしても、立ち直っていけます。

 こうして、江原氏のこのような甘言によって「癒される」、「ひきこもり」にはまったく関係のない人たちが増えていくのである。

 もう一つ、108ページにおいて、江原氏は《遅いと考えるのも物質主義的価値観です》と述べている。しかし、江原氏のこれまでの態度、すなわち現在の青少年問題に関して、現代の青少年に対して《たましい》の劣化した存在と決めつけ、その「問題行動」なるものを「起こるべくして起こった」と規定することによって、モンスターとしての「今時の若者」という「階級」を捏造してしまうこともまた、物質主義的価値観であろう。

 最後に、江原氏は、冒頭に掲げている二つのタイプの「ひきこもり」に関して、その二つのタイプを分かつ分水嶺をまったく示していない。それにもかかわらず、江原氏は、108ページの最後の段落において《子どもがひきこもりの兆候を見せ始めたら、親は決してあわてず、二種類あるうちのどちらのひきこもりなのかを冷静に見きわめてください》などと平気でのたまっている。江原氏は、ここまで現代に生きる人々を《たましい》の劣化した存在と決め付けてきたのだから、そのような人たちにこのようなことを押し付けること自体、江原氏の考え方に即して考えるのであればかなわぬ夢ではないか?

 第5章、「メディアから受ける影響」。ここでは、江原氏の《たましい》理論をベースに、メディア悪影響論のみがただただ繰り返されるだけである。

 曰く、《コンピュータゲームは基本的に、いっしょに遊ぶ友だちを必要としません。一人で部屋にこもりきりでもできます。/子どもたちの成長にゲームがいいものでないことは、そこからだけでも推察できます》(142ページ)と。そのような「推察」だけで断定していただきたいものだ。そもそも、このような論証立て自体、ゲームというものの一面しか見ておらず、その一面的な判断だけで全てを断定してしまうことに対する留保がないのが気にかかる。ゲームを用いたコミュニケーションというのも十分可能なはずであるのだが、そのようなことに関しては江原氏にとっては存在しないことのようだ。

 151ページ、《心は機械と連動しない》と書かれた小項において、江原氏は《そもそも、コンピュータによる文章には、「言霊」、すなわち言葉のたましいがこもりません。心と機械は連動しないからです》だとか《Eメールにも「言霊」は宿りません。ですからEメールによるけんかほどたちの悪いものはないのです。佐世保の女子小学生による同級生殺害事件も、自作のホームページにいやなことを書き込まれたことがもとだったようです》と意味不明なことを言っている。コンピュータによる文章に《言霊》が宿らないというなら、活字印刷された書籍はどうなるのだろうか。もちろん、活字印刷とは言いながらも、現代の印刷技術では文章をデータ化してそれを印字するのだから、江原氏のこの本に関しても《言霊》が宿っていない、ということになるのだが、そのことについて江原氏はどう考えているのだろうか。さらに、佐世保の事件に関しても、外見に関わる罵詈雑言が時として暴力衝動を蓄積させることになりうる、ということを忘れてはならない、と思う。

 また、江原氏は153ページから157ページに賭けて、インターネットにおける匿名の書き込みを問題視している。ちなみに私のブログでは、ブログの機能を用いて、匿名でのコメントを掲載できないようにしている。それは、単に匿名での書き込みが気に入らない、という生理的理由による。そして、そのような問題意識は、ウェブ上でも持っている人が少なくないし、江原氏もまたそのような意識を持っている。

 ところが江原氏と着たら、ウェブ上における匿名での書き込みを強引に犯罪と結び付けてしまうのである。特に、155ページにおけるこのような記述には、正気の沙汰か、と天を見上げてしまうほどだ。

 「インターネットが普及してから、匿名で本音が言えたり、愚痴を吐き出せたり、内部リークができるようになった。おかげで世の中の風通しが良くなった。だから、インターネットの掲示板は必要悪である」と考える人は多いようです。
 ネガティブな言霊だと自覚した上で、無責任にそれを垂れ流している、姿なき確信犯たちが、それだけ暗躍しているということなのでしょう。

 そこにすでに「自然霊」化するこの世の闇の深さを見ます。「愛」と「真善美」の光を見失い、さまよう人霊たちの姿を見ます。

 「表向き誰だかわからなければ、何を発言してもいい」という身勝手な理屈を許せば、嘘を言ってもいいことになります。「表向きいい子の体裁を保てたら、陰でいじめをしてもいい」と考える子どもたちと同じです。

 そうなれば、この世はまったく歯止めが利かない無法地帯と化します。一人ひとりがてんでんばらばらに不平不満、罵詈雑言、ねたみ、そねみを垂れ流すだけ。

 当然、殺人も増えるでしょう。「匿名なら悪口を言っていい」なら、「覆面なら殺人をしてもいい」と流れていくのはたやすいことです。

 いい加減にしてくれ。

 このような態度は、江原氏が自分だけが全ての心理真理を知っていて、他の人たちは知らない、という傲慢な態度なくしては成り立たない。もう一つ、《匿名なら悪口を言っていい》というのが《覆面なら殺人をしてもいい》に結びつくのは、到底考えられない、というよりも溝が深すぎる。事実、我が国における殺人事件の大半は、顔見知りの間で起こっているのであり、通り魔や無差別殺人は(交通死亡事故を除いては)少数派である。このような論証立てをするなら、むしろ無理心中を問題化すべきではないか?

 いかがであろうか。本書における江原氏の立場、というものが少しでも皆様に理解いただければ幸いである。

 本書における江原氏は、決して人間愛や真善美に満ちた存在ではない。むしろ、力を信仰し、自分の考え方に合わない者を全て《たましい》の劣化した存在として線引きを行い、レイシズム的な思考によって罵詈雑言を繰り返し、自分だけは全てを知っているという傲慢な立場に立つことによって、他の考え方を全て無能なものと決め付ける。また、そのような態度をとることによって、現代の青少年に対しては記号的な視点でもってしか語ることができず、彼らはただ江原氏のヒロイズムの生贄にされるのみである。そして、江原氏言うところの「愛」や「真善美」は、結局のところは江原氏の自意識及びそれのよりどころになっているものに過ぎない。いわば、江原氏こそ、「物質信仰主義」の最大の体現者といえるだろう。

 また、本書においては、例えば凶悪犯罪などについて、自らの論拠を示すデータ的なものをまったく提示しない。新聞記事すら引用していないのだ。単に思い込みだけで書かれた文章であり、巷で(興味本位で)嘆かれているような「今時の若者」という記号に対する疑念を挟んでいる余地はまったくない。

 このような文章になってしまったのは、間違いなく江原氏が現代社会を「スピリチュアル・カウンセリング」したつもりになっているからだろう。しかし、冒頭でも触れたとおり、社会というものに対してカウンセリングを行なう場合には、その政治性、権力性に対して自覚的でなければならない。江原氏は、その政治性を自覚していないのか、それとも自覚した上でこのような言説を垂れ流しているのかは知らないが、江原氏は自らが言論という権力主体として振る舞うことになんら抵抗を感じていない、それどころかそれに陶酔しているのである。

 ただでさえ、青少年に関する「問題」が山のように取りざたされる状況下において、それらの根源を《たましい》に求めてしまう江原氏の態度は、合意形成だとか秩序だとか社会政策だとかを無視して、「心」あるいは「内面」を律することによって「問題」を撲滅しようとするものに他ならない。そして、このような態度は、昨今台頭しつつある憲法や教育基本法の改正論、ならびに「新しい歴史教科書をつくる会」などに見られるような、短絡した国粋主義と容易に結びついてしまう危険性が高い。

 江原氏のこのような暴論が受け入れられる背景には、間違いなく俗流若者論による「線引き」の横行があるだろう。江原氏を含め、この手の俗流若者論は、青少年「問題」を、さらには青少年を「私たち」とは「本質的」に違う者としてゲットー化し、「彼ら」に対する敵愾心によるアジテーションを行い、最終的にはそのようなアジテーションを行なっている自分に陶酔する。自分が社会に対して何かをしている、という幻想に浸ってくる。そのような幻想は、そのアジテーターの論理に共感して、敵愾心の共同体に加わる者が多くなるほど強くなる。

 また、敵愾心の共同体に加わる者たちは、ゲットー化された「彼ら」を怖れると共に、自分、あるいは共同体の所有物としての子供たちが「彼ら」に加わってしまうことを怖れる。社会学者の渋谷望氏の表現を借りれば、《「ちゃんとした」ミドルクラスの親が、自分たちの子どもが「フリーター」や「ひきこもり」、要するに「汚物(アブジェクション)」になるかもしれないと怯えるときに取りうる、唯一のリアクション》(渋谷望[2005])である。江原氏の暴論に「納得」してしまう人たちの真理、いや、江原氏に限らず、正高信男然り、森昭雄然り、大谷昭宏然り、小原信然り、荷宮和子然り、俗流若者論を支えるマインドの全てが、若年層を「異物」としてゲットー化しようとする論理に裏付けられている。私はこの状況を、「自分で作った張り子のリヴァイアサンに怯えている自分の姿に感激する」状況であるととらえる。

 ならば、そのリヴァイアサンが張り子であることを証明することこそ、反・俗流若者論の立場に立つ者に与えられた使命といえよう。江原氏の用いている《たましい》は、その原理を江原氏しか知りえないからこそ、このような暴論が可能になる。もし、江原氏の《たましい》が、学問的に体系化されたものになったら、早晩崩壊してしまうだろう(もっとも、江原氏の《たましい》はそれ自体が体系化を拒む。なぜなら、体系化することは「物質主義的価値観」によるものでしかないからである)。

 参考文献・資料
 江原啓之[2004]
 江原啓之『子どもが危ない!』集英社、2004年9月
 斎藤環[2003]
 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 斎藤環[2004]
 斎藤環(監修)『ひきこもり』NHK出版、2004年1月
 渋谷望[2005]
 渋谷望「万国のミドルクラス諸君、団結せよ!?」=「現代思想」2005年1月号、青土社
 山室信一[2004]
 山室信一『キメラ――満洲国の肖像(増補版)』中公新書、2004年7月、1993年4月初版発行
 山本七平[2004]
 山本七平『日本はなぜ敗れるのか』角川Oneテーマ21、2004年3月

 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 姜尚中『ナショナリズム』岩波書店、2001年10月
 芹沢一也『狂気と犯罪』講談社+α新書、2005年1月
 十川幸司『精神分析』岩波書店、2003年11月
 日垣隆『世間のウソ』新潮新書、2005年1月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 宮台真司『宮台真司interviews』世界書院、2005年2月
 ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』岩波文庫、上下巻、1987年2月

 植木不等式「タラコにまで取り憑かれた直木賞作家の聖戦――佐藤愛子『私の遺言』」=と学会(編)『トンデモ本の世界T』太田出版、2004年5月
 齋藤純一「都市空間の再編と公共性」=植田和弘、神野直彦、西村幸夫、間宮陽介(編)『(岩波講座・都市の再生を考える・1)都市とは何か』
 斎藤美奈子「江原啓之『スピリチュアル夢百科』」=「AERA」2004年6月28日号・「斎藤美奈子ほんのご挨拶」、朝日新聞社
 杉田敦「「彼ら」とは違う「私たち」――統一地方選の民意を考える」=「世界」2003年6月号、岩波書店
 内藤朝雄「「友だち」の地獄」=「世界」2004年12月号、岩波書店
 内藤朝雄「お前もニートだ」=「図書新聞」2005年3月18日号、図書新聞

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2005年3月 8日 (火)

正高信男という頽廃

 曲学阿世というのはいかにして生まれるか。「曲学阿世」とは、すなわち学を曲げて世に阿るということだが、この「世に阿る」というのが曲者である。曲学阿世は、阿る「世」がなければ存在しないのであろう。
 ならばその「世」とは何か。現在の我が国においては、それは若年層への敵愾心として表れているようだ。巷では若年層による凶悪犯罪や「問題行動」を採り上げる言説が横行し、「善良な」大人たちはそれらの「犯人」探しに没頭している。最近その「犯人」として採り上げられているのは、漫画、アニメ、ゲームなどのメディアと、そしてインターネットや携帯電話といった通信機器であろう。とりわけ後者に対しては、これらのメディアが例えば子供たちの脳を壊し、そこから凶悪犯罪や「問題行動」が生じる、といった、いわゆる「ゲーム脳」理論などに見られるように、そのようなメディアが人間性そのものを破壊している、という議論が噴出し始めた。しかしそのような珍説を唱える人たちにとって「人間性」が何を示すのか、ということが不明であることが多い。おそらく、その提唱者やそれに近い考え方をもった人たちにとっての「道徳的」価値観が「人間性」に置き換えられているのだろう。また、ここでは「脳」が「人間性」のメタファーとして語られているが、そのような問題設定をすることは暗黙のうちに脳機能に障害を持った人(山内リカ[2005]では高次脳機能障害の例が書かれている)を差別していることにならないか。
 現在の青少年の「人間性」が衰退している、という考えを持つ人たちは、彼らの問題にしたがる「今時の若者」が自分とは「本質的に」違う存在であると考えたいのだろう。しかし忘れてはいけないのは、そのような人も含めて我々は同じ社会に生きているということである。だが、彼らにとっては、そもそも「今時の若者」が「人間」であること自体が気に入らないことらしい。そのため、そのような人たちの「人間性」を意地でも否定したいという欲望が満ち満ちたような文章が頻出するのである。
 そろそろ本題に入ろう。
 曲学阿世の徒・京都大学霊長類研究所教授の正高信男氏が、NHKの「人間講座」に講師として出演した(平成16年12月~平成17年1月)。そのテキストのタイトルは『人間性の進化史』である。しかし本書を開いてみると、要は現代の日本人、特に若年層の「人間性」が退化し、我が国は急速にサル型の社会に移行しつつある、という内容である。これではタイトルを『人間性の退化』とでもしたほうがいいのではないかと思われるのだが、そんなことは枝葉末節であろう。
 かつてNHKの「人間講座」で、若年層のことを取り扱ったことはあった。精神科医の斎藤環氏による『若者の心のSOS』(平成15年8~9月)である。斎藤氏によるこの講座は、さすがに「ひきこもり」研究に長年付き合ってきた研究者だけあってか、過去や現在の学説や臨床事例をうまく引き合いに出しているし、その原因や解決策にも目を向けている。確かに違和感を感じる点も多いけれども、特に第7章と第8章に関しては、教えられるところも多い。少なくとも斎藤氏がどのような仕事をしてきたか、ということがよくまとまっているので、現在でも一読に値する文献であろう。
 ところが正高氏の講座は違う。斎藤氏の講座との比較に関して言うと、斎藤氏が《できるだけ多面的かつ共感的に理解することを目指していきたい》(斎藤環[2003a])と、安易な「理解」を排していたのに対し、正高氏の講座は《日本人の将来像はケータイ主義的人間という表現によって、集約できるのではないかと考えている》(正高信男[2004]、以下、断りがないなら同じ)と、いきなり一つのカテゴリを設けて、それにしたがって説明しようとしている。無論、このような論述法が間違いとはいえない。しかし正高氏の講座においては、長々と霊長類学の学説を紹介した後、唐突として若年層をサル的だと罵り、そして「憂国」する、というスタイルで一貫しており、具体的な事例はまったくなく、全てが俗流若者論が好んで採り上げるような「今時の若者」だけで成り立っている。まずこれだけで、正高氏の姿勢というものが明らかになっているだろう。
 本書の全体を通じた疑念に関して触れると、第一に、若年層以下(すなわち、物心ついたときから携帯電話やインターネットに親しんできた層)とそれ以外に関して強烈過ぎるほど線引きをしていること。第二に、いわゆる「情報化の進展」以外の要因が完全に除外されていること。メディアや若年層の心理に関する歴史に関しても触れられていない。第三に、全ての章において「憂国」してみせるというだけで終わっており、解決策には手がまわっておらず、一つの現象に「憂国」してみせたらまた別の現象を引き合いに出して「憂国」するだけである。そして最後に、正高氏の言うところの《ケータイ主義的人間》という安易なカテゴリに正高氏が意地でも当てはめようとしていること。科学者の態度ではない。むしろパオロ・マッツァリーノ言うところの「社会学者」の態度である(パオロ・マッツァリーノ[2004])。
 正高氏のこのような態度が本文中でいかに表れているか、本文の記述を追って見てみることにしよう。

 第1回・人間はいつ人間になったか――正高信男はいつ曲学阿世の徒になったか
 正高氏は携帯電話がもたらす生活の《本質的変化》について、《すべてのやっかいと感ずる知的作業を、肌身離さず持つ小さな電子機器に委ねるという点にあるのでは》と推測する。しかしこのような議論に関しては、《すべてのやっかいと感ずる知的作業》の定義がどこにあるかどうか分からない。その中には、例えば食事を作る作業とか、携帯電話端末では到底できそうにもないことが含まれているのだろうか。また、正高氏はその直後で人間を一台のコンピュータとみなし、そこから現在起こっている現象を論じているけれども、ここでは教育とか、あるいは知的事業の社会化ということに関してはまったく触れられていない。もっとも、このような設定をすると、コンピュータが別のコンピュータに内容を複写したりとか、あるいは別の単一で特大の外部メモリー(=社会)を設定しなければならなくなるので、議論が複雑になる、という点はある。しかし、人間の構造は少なくとも正高氏の用いたアナロジーよりははるかに複雑である、ということを正高氏には知ってほしい。また、正高氏はその後で《科学技術が発達し、身の回りが便利な人工物で埋め尽くされると共に、私たちの文化的な「まとい」をはぎ取ることにつながるのかもしれない》と表記しているけれども、これは読みようによっては文化の均一化を表しているととらえられてもおかしくない。
 もっとも、この部分は明らかに導入部分であり、正高氏の問題意識を表した章であるので、この章の記述に関して突っ込みを入れるのはここまでにしよう。しかし、これ以降の章は、正高氏の偏狭な認識や、論理飛躍、霊長類学の知見の暴力的な「適用」などが見られる。少なくともこの章を見ると、正高氏が現在の我が国に対していかなる感情を持っているかということがわかるので、読んでおいて損はないだろう。

 第2回・はじめに言語ありき――はじめに「コミュニケーションの劣化」ありき
 正高氏はこの章の初めのほうで、《言語を用いたコミュニケーションの仕方も、質が劣化しつつある》とぶち上げている。この章は、正高氏がなぜこのように考えるか、ということを示した章である。
 正高氏は37ページにおいて、ネット上のやり取りについて述べている。その中でメールの「顔文字」について、正高氏は地面だけでは発言者の感情的なニュアンスが伝わらないので、それを補助するために「顔文字」というアイコンを用いるという対抗策を発案した、と言っているのである。要するに正高氏は、「顔文字」を文字と併用して使われるコミュニケーション手段であり、決して文字そのものの代替物ではないことを示しているのである。ところが39ページの終わりのほう、節が変わった直後で、このようなコミュニケーション手段を《いかにも現代日本的な表現方法》と表現してしまう。勘違いしないでほしいのは、正高氏にとって《現代日本的》というのはすなわち「サル的」と言うことであり、本書において《現代日本的》という表現は「サル的」と置き換えて読んだほうがいいだろう。それはさておき、なぜ正高氏は「顔文字」が《現代日本的》であるというと、その理由として《私見であるが、欧米では同様のアイコン使用は、ほとんど見られない》と書くだけである。アジアはどうなのだろうか。しかもその証左としているのが、《周辺の知人》の証言だけである。しかしこのような間違いを指摘するのは些細なことかもしれない。
 もう一度書くけれども、正高氏は「顔文字」を文字と併用して使われるコミュニケーション手段として38ページで書いていたはずである。ところが40ページの中ごろにおいて、《顔マークがユニークなのは、もう言語という抽象的表記スタイルを捨て去ったという点にあるだろう》などと表現してしまっている。だったら何だ。我が国でメールを用いている人々はメールにおいて文字を使っていない、ということか。私はインターネット上でさまざまな日記サイトを見ているけれども、いわゆる「顔文字」が使われるのは全てのケースにおいて何らかの文章を書いた後に「(笑)」とかいった表現と同じようなニュアンスで使われているだけである。要するに我が国の人たちは《言語という抽象的表記スタイル》をまったく捨て去っていないのであり、「顔文字」はそれを補助するための手段に過ぎないのだが。現に正高氏は38ページでそう書いていたたはずだが。
 しかし正高氏は容赦しない。正高氏は《いったん従来の文字でなくてもよいのだと、いわば「タガ」がはずれると、非文字使用への勢いは怒涛のごとき流れとなってくるらしい》として、女子高生の間で流行っている「ギャル文字」(あるいは「へた文字」)を俎上に挙げる。蛇足だが、私はこのような「文字」がJRの広告に使われていたことに関して生理的嫌悪感を覚えたことがある。
 閑話休題、このような「文字」は正高氏にとっては《どう考えてももはや言語的コミュニケーションの範疇を逸脱していると、考えざるを得ない》ものであるらしい。このような論理への飛躍は明らかに異常である。正高氏は、これらの「文字」について、同じ表現でも感情のレヴェルによって違うということから、《ギャル文字・へた文字に慣れ親しんだ者は、それをもはや文字列としてほとんど把握していない》などと書いているけれども、《文字列としてほとんど把握していない》というのは本当にあるのだろうか。表記の仕方で感情のレヴェルが変わるというのであれば、むしろ文字列どころか、さらに高度な部分のところまで理解している、という見方もできるはずだが。さらに正高氏は言う、《これは言語的認知の枠をはみ出ている》と。しかし正高氏が42ページにおいて書いている通り、これらの「文字」も元の文字の形態的特徴をちゃんと残しているのであるのだが。このような物言いが許されるのであれば、人間の読む全ての言語に関して《文字列としてほとんど把握していない》ということもできる。
 正高氏は《畢竟、コミュニケーションを行なうに当たって、言語を使用する場合のように、心や脳を使わないようになってくると推測される》と書いているけれども、正高氏は43ページにおいて《こういう文字でメールすることのメリットとしては……「可愛」い印象を与える……「手作りのあったかい感じ」もする……「……がんばってくれたんだなー」という気持ちが相手に伝わる、という》と書いている。何だ、結構心や脳を使っているのではないか。それに入力に時間がかかるから、これを使ってメールを作成すると結構脳が活性化されるかもしれない。ちなみに正高氏が冒頭の暴論をでっち上げているのは46ページであるから、わずか3ページ前のことを忘れてこう書いてしまっているのである。驚くべき健忘とはいえないか。正高氏の脳が心配だ。
 しかし、ここまで前後矛盾が目立つのも珍しい。正高氏は、自分と同じ民族でありながら自分が使わない言葉を使うのはサルだ、とでも考えているのだろうか。要するに「女子高生」をバッシングするために、彼女らの間で流行っている表現方法を《現代日本的》すなわち「サル的」と罵っているのである。そう考えれば納得できる、というものだ。こう考えると、正高氏にとって「人間性」とは「自分が理解できること」に尽きるのかもしれない。このことはもちろんこれ以降の章にも言えることだが。

 第3回・家族って何――「出あるき人間」って何?
 正高氏は、この章において「出あるき人間」なる珍奇な概念をでっち上げる。正高氏によるとこの概念は、簡単に言えば「ひきこもり」と対を成す存在であり、《必ずしも自宅で家人と侵食を共にせず、しょっちゅう外を「ほっつき歩いて」生活する者の総称》であるという。正高氏は49ページにおいて、このようなタイプの人間を《実は同じ程度(筆者注:「ひきこもり」は100万人に及ぶという説があるが、それと同じ程度)、あるいはそれ以上に増加している》というけれども、残念ながら正高氏はそのようなことを示すデータをまったく提示しないのだから、このような論理が正当性を得るか、ということについてはない、というのが正直な答えではないか。
 正高氏は《渋谷センター街を歩いてみよう》という。どうやらこのような状況は渋谷においてよく観察できるらしい。正高氏は《仲間と共に行動し、単独でいることは少ない。グループ同士が出会うと、軽く立ち話をかわす》と表記する。その後が面白い。正高氏は《チンパンジーもパーティー同士が遭遇すると、「ホッホッホッ…」と音声を交換する》と言ってしまう。どうやら正高氏にとっては、「出あるき人間」の立ち話はチンパンジーの音声交換とまったく同じに聞こえてしまうのだ。正高氏の若年層に対する偏狭な認識がわかるというものではないか。このようなことを言っておきながら、正高氏は立ち話の内容には決して触れようとしない。正高氏にとっては、彼が「出あるき人間」の烙印を押したものたちの行動は、全てサル的に見えるのだろう。
 しかし正高氏のこの珍奇な概念に当てはまる事例は、正高氏の文章を見る限りでは渋谷にしか見られないのである。正高氏は他の場所(原宿にすら!)行っていないのであるから、このような事例が他の場所でも見られるかどうかは永久にわからずじまいだ。正高氏の辞書には地域差というものはないらしい。全ての都道府県に関して渋谷センター街のような光景が広がっている、と考えているようだ。私は石巻で家庭教師をしていたとき、帰りは常に終電一つ前の電車に乗っていたので、夜の街をよく見ていたが、そのような光景はまったく見当たらなかった。
 だが、正高氏はこのような疑問は少しも挟まない。正高氏はそのような現象が増加している、という前提で話を進めている。一億歩ほど譲って、増加しているということを受け入れるとしよう。正高氏はここでこうぶち上げる。曰く、《増加の引き金となったのは、疑いもなくケータイの普及である》と。その理由として、正高氏はこういう。曰く、《ケータイを持たせてあれば、いつでも連絡が可能である。だから夜に帰ってこなくたってかまわない、と「出あるき」を(筆者注:親は)容認するのだ》と。そんなに断定口調で語っていただきたいものだ。あなたも学者であれば実態調査ぐらいすべきであろうし、少なくとも新聞や雑誌の記事は引用すべきだろう。結局、正高氏はこのくだりに関しては、ただ不安だけを煽り、具体的な事例にはまったく触れずじまいなのである。俗流若者論の典型といえようか。
 これ以降の文章(62ページまで)を含めて言えることだが、正高氏にとって現在の如き「家族の崩壊」は現在に突如として起こった現象であり、それを言うためにはいかなる狼藉をもいとわない。簡単に言えば、自分の思いつき、あるいはマスコミで語られているようなことに関して擬似動物行動学的な視点から「解説」しているだけなのである。また、正高氏は決して具体的な事例を挙げようとしないが、一般論というものがいかに問題を持ちうるか、ということは議論されて然るべきではないのか。正高氏の中では最初から現在の家族の形や心理までもが決まっており、それがステレオタイプであるにもかかわらず「当たり前」だと信じ込んでしまっている。どう考えてもこれは学者の態度ではない。正高氏よ、あなたは京大の教授なのか、デマゴーグなのか。
 ちなみに社会学者の宮台真司氏がどこかで語っていたことなのだが、最近は渋谷の閉鎖性が強まって、地方出身者がまったく来なくなっているようだ。

 第4回・父親が求められる時――青年期病理学に関する勉強不足
 72ページまでの記述に関しては、まず明確な間違い、といえるような箇所はないので、ここでは触れない。もっとも、類人猿の行為を説明した後に唐突に人間の社会に話題をシフトしてしまうのは問題であるが、徒に暴力的なアナロジーを用いていない、というところは評価できよう。問題は73ページ以降である。73ページにおいて、現在の我が国に流布しているとされる「母性愛神話」を疑うのはいい。しかし《子育ては母親の役目だから、すべて母親にまかせておけばいい、という雰囲気が社会全体に根強く存在する》とあるが、各種の調査を見ている限り、そのような考え方はむしろ若い世代ほど希薄化している、というのが現実である(2003年2月20日付読売新聞など)。正高氏はこのような現実をどのように見るのだろうか。
 正高氏は74ページにおいて、《子供が母性ばかりを受け取って育ってきた結果は、不登校や引きこもりなどの発生と無関係ではない》と書いている。しかしそのような考え方、すなわち母性の過剰な敵視は、むしろ「母性愛神話」の単なる裏返しでしかないのではないか。また、正高氏は教育についても触れていない。さらに、正高氏は我が国の文化的背景にもまったく触れたがらないし、後に触れるが、我が国と同様に母子密着型の子育てが進展していたりとか、さらに言えば「ひきこもり」が深刻化している韓国についても触れたがらない。
 それにしてもこの後に正高氏が提示している解決策らしきものがなんといっても怪しい。というのも、甘言に満ちた美辞麗句しか言っていないのである。しかしここまで「ひきこもり」の危険性を煽ってきた正高氏にとって、そのようなことしか言わないのは、自らの言論人としての責任の放棄といえないか。また、76ページには、チンパンジーの母と子の写真があるけれども、なぜこのような写真を持ってきたのか。編集の側も、「母子密着型の子育てはチンパンジー方の子育てである」という正高氏の歪んだ考え方に同調してしまったからだろうか。
 ついでに韓国について触れておこう。斎藤環氏によると、韓国における不登校児には親が自分に独立性などを過剰に要求していると感じ、また学校のストレスについては対人関係のストレスのために不登校になった子供が多いという。これは我が国の「ひきこもり」事例と同じである。また、日刊で違うのは、韓国の場合はそのほとんど全てがインターネットゲームやチャットと関わっているという。これは我が国とは明確な違いである(斎藤環[2004])。また、韓国には徴兵制があるが、それも「ひきこもり」に対してはなんら影響を及ぼしていないという(斎藤環[2003b])。また、斎藤氏、及び韓国の翰林情報産業大学教授の尹載善氏によると、上流階級の間では兵役免除制度を利用して兵役を免れる子供が増えているという(斎藤環[2003b]、尹載善[2004])。
 もう一つ、我が国においては、現在名古屋大学名誉教授の笠原嘉氏が、1970年代から1980年代にかけて青少年の「アパシー・シンドローム」や「退却神経症」などに関して、論理的な研究を行なっており、これが現在、斎藤環氏など青少年の病理の研究者に強い影響を及ぼしている。笠原氏は、これらの背景にも「母子密着型の子育て」などを読み取っているが、笠原氏の研究は、正高氏の文章とは違い、さまざまな学説や臨床事例を引いて、論理的なアプローチをしており、現在の青少年問題を考えるうえでも参考になる記述が多い(笠原嘉[2002])。

 第5章・愛と性の分離――論理的混乱
 本格的に問題が表れるのは95ページからである。正高氏はこの章の最後3ページで、わけのわからないことを言っているのである。例えば95ページの最後の段落におけるくだり、

 「私的」であるべき他者との出会いの場で、「公的」なつき合いを展開しだした場合、メールでの後進にぷらいヴァシーを求めてしまう、いわば逃避的事態が発生してしまう。そして、そういう状態がもっとも先鋭的な形で表れるのが、究極的な「私的」つき合いの場面、つまり性的な交流においてであるのは、当然の帰結である。

 などという記述は、はっきりいって何を意味しているのかわからない。
 正高氏は「ネット恋愛」を引き合いに出して、《こうした事情を考慮せずには、およそ理解不可能なものではないだろうか》と言っている。しかし、このような「説明」は、前後の文脈からはほとんど切り離された形で唐突に引き合いに出されているので、流れを考慮して読むことができないのである。
 正高氏は「ネット恋愛」に関して、97ページにおいてその経験者の意見らしきものを出している。しかしそのような「意見」が、「ネット恋愛」の経験者を代表するものであるかはわからないし、もしかしたら正高氏の捏造、という可能性も否定できない。これらの「意見」が、正高氏の「理論」にとってとても都合よく組み立てられているからである。あまつさえこのページはイラストなのであるが、このイラストには具体的な人の顔が一つも出てきていないのである。全てが口だけ、あるいは顔が黒塗りなのである。正高氏とイラストを書いた人の思惑が透けて見えるというものだ。
 正高氏は最後のほうで、付き合いを求めてネットを利用する人と、性的関係のみを求めてネットを利用する人に関して、《いずれにも共通しているのは、性と愛の分離なのだ》などと言っているけれども、何をもってして《生と愛の分離》といっているのか不明である。結局のところ、正高氏は、現在の日本人、特に若年層が退化=「サル化」しているという強引な結論に導くために、論理的な検証を放棄し、結論を押し付けているような気がしてならない。それが、最後4ページの論理的混乱に表れている。

 第6回・なぜ「キレる」のか――文学作品のトンデモ珍解釈
 本書の中でもっとも劣悪な部分である。この章は少年犯罪に関して書かれているのだけれども、正高氏は明らかにマスコミの「嘆き」に同調し、それらを疑う、ということはしない。あまつさえ、最後には正高氏はとんでもない結論を打ち出してしまうのである。
 とはいっても、この章の内容は、平成16年11月22日付読売新聞に書いた内容と大方で重複しているので、その文章に関しては「正高信男という堕落」を読んでもらいたい。なので、今回は、「堕落」で触れられていなかった部分について論理的検証を行なっていきたい。
 正高氏は102・103ページおいて、言語の操作について語る。しかし正高氏は104ページで、《ことばをあやつる程度には個人差が存在するのだ。……著しく言語操作を行なわない例として、「キレ」やすい人間を位置づけることができるのである》と書いている。ならば訊こう。正高氏は《著しく言語操作を行なわない例》を《「キレ」やすい人間》として位置しているけれども、《ことばをあやつる程度》の個人差はいかにして計ることができるのだろうか。そして、《著しく言語操作を行なわない》という人間が《「キレ」やすい人間》であるということに関して、どのような論理的、あるいはデータ的な裏づけがあるのだろうか。
 それに関して、正高氏は104ページから110ページにかけて、正高氏は「ワーキングメモリー」という考え方を用いて説明している。しかし111ページになると、正高氏はいきなりその仮説とIT化の影響を結び付けてしまうのである。正高氏は111ページにおいて、《通常は双方(筆者注:視覚と聴覚)が程よくミックスされた状態になっている。けれど判断がメモからの者に一方的に偏ると、行動はとてつもなく瞬間的すなわち、あと先を顧みない側面を見せるようになることが往々に起こる。……昨今、そういうタイプの人間は確実にその数を増やしていると考えられる》と書く。そして正高氏は、《明らかに生活のIT化の影響と想像されるのだ》とぶち上げてしまう。正高氏は《ケータイによるコミュニケーションのサル化が、言語による情報処理に依存しない思考判断傾向を加速化させている》と書いている。しかしこれは正高氏の印象でしかないのではないか。正高氏は《ケータイでは、知人の番号はおそらく間違いなく、メモリーに登録されていることだろう》と表記し(112ページ)、《しかしこれが、今まで自分たちがワーキングメモリーの、とりわけ主としてループに負担させていた作業を、機械に代替させているものであることは明々白々である》とし、さらに《まして生まれた時、すでに社会がIT化していた今の年代の若年層となると、……廃用性どころか、生まれてこの方、ループをまっとうに使ったことのない人間が、大量に創出されつつある》(113ページ)といってしまうのである。正気の沙汰か。《生まれた時、すでに社会がIT化していた》といっても、人間が情報機器を身につけられるための知識を身につけるのは相当物心がついてからではないか。それまでは家族や教育機関などでさまざまな経験を用いてループを用いるはずなのに、正高氏はそのような常識的判断をも持ち合わせていないのだろうか。明らかにこれこそ思考停止ではないか。《今の年代の若年層》というのは、おそらく1980~1990年ごろに生まれた人のことを指すのかもしれないが、それらの人々が物心つく前、簡単に言えば思考回路が形成する前から情報機器を使っていた、と正高氏は考えているのだろうか。
 はっきり言う、これは明白な差別である。正高氏は現在の若年層、すなわち《生まれた時、すでに社会がIT化していた今の年代の若年層》と、それ以外の年代をきわめて明確に線引きをし、前者を社会性、人間性にかけた年代としてバッシングを行なっているのである。しかしこれには論理的な推察は皆無に等しく、全て印象論だけで語っているのである。結局正高氏は、《IT化》が人間性の衰退を促すものでないと納得できないのであろう。正高氏の文章においては最初から「敵」が決まっており、その「敵」を潰すためならいかなる狼藉も容赦しない。これを陰謀論というのである。
 正高氏は最後のほうでカミュの『異邦人』を引き合いに出し、そこにおける殺人犯ムルソーに関して、《ムルソーの場合、犯行に駆り立てたのはほとんどメモからの信号であると考えられる》といってしまう。《メモからの信号》といっているのだから、ムルソーは常に自らの近くにメモを置いていた、ということになるのではないか。それともムルソーの時代にはすでに携帯電話があったということか。すごい。超古代文明論もびっくりである。それにしても《犯行に駆り立てたのはほとんどメモからの信号であると考えられる》と考える理由がどこにも示されていないというのはどういうわけか。正高氏は文学作品にすらIT化の「闇」を見出してしまっているのである。この神経の図太さは一体なんだ。ついでに正高氏は《それを「どうして」とループに問い合わせたところで、答えようがないという者である。そこで、メモが送り込んだイメージをただ言語化して叙述するばかりという自体が出現するのだ》と書いている。これに関しても、根拠不明な「お話」である。どこまで事実なのかわからない。あなたは本当に学者なのか。
 しかし正高氏にとってはそんなことどうでもいいらしい。さすが陰謀論である。正高氏は《カミュの『異邦人』を読んで、「まっ白」という印象を抱くのは、私だけだろうか?》といい、《白い心に、「なぜ」と問うことはそれ自体、まったくの筋違いというものなのだ》さらに《生物は自己の生存のために、瞬間瞬間に判断を下す。その即時的判断を一時的に停止し、「私はこう思っている」と自らの心中を再認し始めたとき、人間は単なる生物から脱却したのだが、いまや出発点に、逆戻りしてきている。「一匹」の存在として暮らす者に、心の闇などありえるはずもないのである》とまで言ってしまっている。やはり正高氏にとって、現在の日本人、特に若年層の人間性は退化しているものでなければ気がすまないのだろう。もう一つ言っておくが、正高氏の議論は、かの曲学阿世の徒、日本大学教授・森昭雄氏の「ゲーム脳」理論に接近している。
 ちなみに「キレる」なる現象も含めて、このようなことに関しては精神分析の「解離」概念を用いたほうがわかりやすい。「解離」とは、《過去の記憶、同一性と直感的感覚の意識、そして身体運動のコントロールの間の正常な統合が一部ないし完全に失われた状態》(斎藤環[2003a])を指す。斎藤環氏は、前出の「人間講座」のテキストにおいて、「キレ」た少年犯罪者に関して《一種の解離状態》にあるといっているけれども、その犯罪者が動機を言うことができない、あるいはそれを把握するのが難しいというのであれば、「解離」が起こっていると考えたほうが、多少は誤りがあるかもしれないが、少なくとも正高氏の暴論よりは納得しやすいだろう。また、「解離」は健常者に関しても見られることがよくある、と斎藤氏は言っている。このように、最初から自らの行動が全て説明できる、ということは心理学によって否定されている。
 また、正高氏は「右脳人間」「左脳人間」なるカテゴリを持ち出し、現在の我が国においては「右脳人間」、すなわち視覚イメージに頼る人が増えているといっているが、ロルフ・デーゲン『フロイト先生のウソ』によると、最新の実験では、人間のさまざまな行動に関して脳のどの部位が活動しているか、ということを計測した結果、全てのケースにおいて右脳と左脳がほとんど等しく活動していた、という結果が出ている(ロルフ・デーゲン[2003])。
 もう一つ、東京大学助教授の広田照幸氏によると、青少年による凶悪犯罪や「問題行動」に関して、その言説が青少年の「心」に急激に関心を持つようになったのは1970年代ごろの話であり、それが顕著になったのは最近で、広田氏は《子供の「心の軌跡」から非行を理解する――その際、親の育て方や学校・教師の対応に間違いや問題がなかったかどうか、教育的に望ましくないメディアや空間が問題ではないか、といった枠組みで、現在の青少年問題は語られるようになっている》(広田照幸[2003])と分析している。

 第7回・文明が文化を滅ぼす――文明が正高信男の思考を滅ぼす
 この章においては、全般的に程度の低い狼藉が観察される。いうなれば、この章は単なる「感想語り」に終始しており、実例の提示はほとんど皆無に等しい。
 119ページにおいて、正高氏は幸島のサルにおける「イモ洗い」を取り上げ、日本人の食物の味わい方に関して、《人間の食物の味わい方は、多様である。舌で賞味するに加え、日本人は見た目を大切にする。型やインドやインドネシアの人は、口に入れる前に指で食感を楽しむようだ。その変異は、明らかに幸島のサルのイモ洗いの延長線上にあると、とらえられるだろう》(121ページ)と書いている。しかし、幸島のサルの例に関しても、人類の文化の形成と同じくらいの時間をかけて形成されたのではないか。幸島のサルの行動が、その進化形として日本人の行動になっている、と正高氏が考えているのであれば、それは完全にお門違いというものである。
 正高氏は《文化的な生活とは、共に生活するものが互いに何か「尊い」と敬うものを共有しつつ、日々を送るようなことを指すのだろう》(123ページ)とする。正高氏における《文化的な生活》の定義がここで示されているわけだ。で、正高氏は《それが非常に先鋭化された形で起こっているのが、日本なのだろう》と書くのだが、その証左として正高氏が引き合いに出すのが日本人の「ブランド指向」である。正高氏はこう書く。曰く、《ただつながっていることだけのために、つながりを保つという自己撞着が生じつつある。そのために中身のない空虚な象徴を作り上げ、それを「みんなが敬うから」というだけの理由で自分も敬うということが起きてきている》と。さらに正高氏は、126ページにおいて、《そして、こうした傾向はここ十年来、急速に傾斜を深めてきたように思えるのだが、それはケータイ(とりわけケータイメール)の普及とまったく軌を一にしている》と書く。しかし、それを証明するような証拠が、《私の研究所に勤務している同僚》の、携帯電話を肌身離さないようにしておかないと気が済まない、という話のみである。これでは証拠が不足している。簡単に言えば、《こうした傾向はここ十年来、急速に傾斜を深めてきた》ことと《ケータイ(とりわけケータイメール)の普及》の有意な因果関係が見出せないのである。
 正高氏は、《コミュニケーションにおける対面的状況の重要性を破壊したのが、ケータイの発明である。……しかし、双方(筆者注・ラジオ以前の状況と現在の状況)をまったく別な者に仕立て上げているのは、集団のまとまりを表示する境界というものが、ケータイの下では完全にとっぱらわれてしまったという点にある》といっているけれども、これは完璧に誤りである。正高氏は携帯電話の導入によって、コミュニティの所属に関わらず多くの人が関係をもてると考えているようだけれども、携帯電話を用いたコミュニケーションですら、基本的に違う所属、あるいは違う趣味を持った者と無関係に関わることはできない。疑う向きは想像してもらいたい。あなたが携帯電話を持っているからといって、無関係の「誰か」から勝手に電話がかかってきたり、メールが送られてくる、ということはまずありえないではないか(迷惑電話とスパムメールは除く)。正高氏の問題設定は誤りで、正確に言えば、東京大学教授の松原隆一郎氏が指摘するような《それまでとても出会えなかった偏った趣味の人間が集まることを可能にした》(松原隆一郎[2003])と考えたほうがよほど実感に近い。
 また、この章のタイトルは「文明が文化を滅ぼす」であるが、結局123ページにおける正高氏の《文化的な生活》の定義に従えば、「文明が文化を滅ぼす」ということはまったくありえないことになる。もう一度引用するけれども、正高氏は《文化的な生活》を《共に生活するものが互いに何か「尊い」と敬うものを共有しつつ、日々を送るようなこと》と定義していたはずだ。「文明が文化を滅ぼす」とは、《「尊い」と敬うもの》の喪失を意味するのだろうが、正高氏の結論からはそのようなことは見出すことができない。結局、正高氏は現在の若年層を口汚く言うためにそのことを隠蔽しているのである。
 それにしても、この章の最後、130ページにおける《群れるトリやサカナのように均一のファッション》というのは、正高氏の歪んだ考え方が表出しているような気がしてならない。正高氏はおそらく渋谷しか見ていないだろうから(この証拠として、正高信男[2003]のまえがきを挙げておく)、同じようなファッションの人が大量に現れる、というのは日常茶飯事なのかもしれないが、少なくとも私の住んでいる仙台においては、流行現象がそう速く広まっているわけではない。正高氏の辞書に地域性は存在しない。

 第8回・「自分探し」のはじまり――そして正高信男は考えなくなった
 本書のクライマックスである。この章は、本書の中で第6回に並ぶ劣悪さであり、正高氏の偏狭な思考がこの章には詰まっている。
 とりわけ145ページ以降がひどい。《個々人がケータイを所有することで、いつでも誰とでも情報交換できます、という。しかもなし崩し的に、今までの集団のまとまりは度外視して、そこでこれからやっていったらいいじゃないですかというムードで、日常が変わりだしたのだ》とあるが、これは前章の検証でも述べたとおり、《なし崩し的に、今までの集団のまとまりは度外視して》ということはまったくありえない。携帯電話で情報交換する関係も、結局は同じ所属、あるいは同じ趣味を持った者にとどまるのであり、れっきとした集団の境目が存在するのである。考えてみるがいい、仮にあなたがある趣味を持ったパソコン通信集団に所属しているが、他の趣味をもった集団に所属している人があなたの集団にメールなどを送ってきたら困るだろう。
 正高氏は149ページについてオウム真理教について触れて、《日本から文化的なまとまりというものが消え去ることに、いらだつ人間による最後の抵抗》としている。しかしその理由として、正高氏が挙げるのが《理系エリートとは、要するにIT化というもののハードウェアについて、他の人間よりも深い知識を持った人々と、とらえて差し支えないだろう》ということであるが、オウムの幹部となった「理系エリート」が大学に在籍していたのは、おそらくパソコン通信以前のことであろうから、このような考え方は、現在のコンテクストに即して過去を捉えていることに他ならない。正高氏が151ページで引用しているように、オウムの幹部となった「理系エリート」たちの絶望は、情報化ではなく、むしろそれ以外の科学文明への失望や、1980年ごろに流行したオカルティズムやニューサイエンスの隆盛などを挙げたほうが適切であろう(宮崎哲弥[2001])。
 152ページに挙げられている節のタイトルは「そして誰も考えなくなった」である。しかし本書を読んでみる限りでは、この節以降は「そして正高信男は考えなくなった」であろう。正高氏は153ページにおいて、オウムに入信した人について《コミュニケーションの手段ばかりが簡便で効率的になる技術を研究したところで、それが一体何になるというのだろう――こういう疑念をもなげだしたあげく、強烈なカリスマを核とするカルト集団に参加し、しかもそのなかで科学者として、自らの研究で駆るとの繁栄に貢献できるとわかったならば、むしろ入信して当然とも考えられなくないように私には、思える》と書いている。驚くことに正高氏は、1ページ前(!)でオウムの幹部たちがコミュニケーションの手段が効率的になることに抵抗したからこそオウムの事件が起こった、と書いたことを忘れているのだ。正高信男は考えていない。
 154ページ。この節のタイトルは「サル化する日本人」である。154ページから155ページにかけては、本書で正高氏が論じてきたことをまとめて一つの文章になっている。これらの正高氏の「推測」がいかに間違った者であるか、あるいはいかに不適切なアナロジーの利用によるものであるかは、ここまで私が検証してきたとおりである。正高氏は155ページの最後から156ページの最初にかけて《要するに人間は、言語遺伝子が進化した十万年余り前の姿に近い所へ、戻ってしまったことになる。これを、サル化と呼ぶことに私自身はあまり、ためらいを感じないのだ》と書いているが、このような考え方がいかに歪んでいることは、本稿の最後で論じたい。

 終わりである。私はここまで正高氏の狼藉に関してできるだけ論理的に検証を行なってきたつもりである。
 本書においては最初からストーリイが決まっている。すなわち、携帯電話に代表されるような高度な情報化は人間がこれまで培ってきた人間性というものを壊し、現代の日本人は10万年前の姿、すなわちサルになっている、というものである。しかし、このような考え方は、霊長類の研究という側面からしてみれば大変失礼極まりない。
 なぜか。それは、進化樹形図を見ればわかる。まずは進化の系統的な視点から正高氏の論理のおかしさを指摘しておくと、現在の人類(ホモ・サピエンス)はヒト上科に属し、性質としてはオランウータンやテナガザルに近いものである。他方、正高氏が「サル」と言っているのはおそらくニホンザルであろうが、ニホンザルはオナガザル上科に属し、性質としてはオナガザルに近い。要するに、ホモ・サピエンスとニホンザルの生物学的性質はまったく異なるのである(島泰三[2003])。
 もう一つ言うと、現在のサルの行動から10万年前の人類の行動を推し量ることはできない、ということも指摘しておきたい。なぜか。それはホモ・サピエンスであろうがニホンザルであろうがキツネザルであろうがテナガザルであろうがオナガザルであろうが、現在生きている生物は、全てが独自の進化過程を経て現在に至るのである。だからホモ・サピエンスを進化の最上位に位置づけ、それ以外の霊長類に「文化的に」ランクをつけるという行為は、霊長類研究の視点から見れば失笑を買うものである。現在のオランウータンやニホンザルだって、10万年前には現在と違った暮らしぶりをしている可能性も高いのである。
 正高氏の議論は、さまざまなサルの行動を人間の尺度に当てはめて「文化的な」優劣をつけ(当然人類は一番優れている)、ニホンザルの行動にさまざまな「文化的」な特徴を見出し、その上で日本人は「退化」している、とぶち上げているのである。このような態度がいかに科学の態度から外れたものであり、学を曲げて世に阿るものであるかということは、すでにお分かりいただけただろう。冒頭でも触れたとおり、正高氏は情報化以前の人類と情報化以後の人類に関して過激なまでに明確な線引きを行い、我が国において後者の人類の問題が多くのマスコミに採り上げられていることを利用して、後者を文化的に劣った者(「ケータイを持ったサル」!)である、と「科学的に」決め付けているのである。しかし、青少年問題というものは常に問題視されており、本来であれば「識者」にも止められているものは、巷の認識を疑い新たな分析を提示することか、あるいは巷の認識に添う形でもそれを深い教養を持ち、差別意識を配した態度でもって臨むことである。
 正高氏をはじめ、俗流若者論にとって「新しい」ものにはちっとも価値はない。「新しい」ということは、すなわち既存のステレオタイプを突き崩す可能性だってあるからである。ところが俗流若者論においては、既存のステレオタイプを「正当化」するばかりの言説ばかりがはびこる。
 そしてそれらの言説に最も求められる価値は「新しさ」ではなく「珍奇さ」である。要するに、一見聞こえのいい、しかし論理的に検証してみると穴だらけの概念で「善良な」人たちを煙に巻くことである。
 この考えを行なったのが、例えばナチス・ドイツである。ナチス・ドイツは、ユダヤ人を迫害するために、以下に生粋のドイツ民族がユダヤよりも優れているかということを「科学的」に証明し、圧政や虐殺の根拠とした。また、スターリニズムもそうだ。スターリニズムは、国家の押し付ける概念に従わない者を「反社会的」属性と規定し、それに対する迫害や圧政を行なってきた。
 正高氏の議論のほか、例えば日本大学教授・森昭雄氏の「ゲーム脳」理論など、現在の我が国においては特に若年層をそれ以外の人類より「劣った」人類である(正高氏の議論においては人類ですらない)と「科学的」に「証明」してしまう議論がはびこっている。これらの暴論を嬉々として受け入れるような「世」が我が国には強く存在し、それらの言説は青少年問題に関して真剣に向き合うことをせず、むしろ青少年を現代の「鬼胎」として「消費」することにのみ使われる。多くの良心的な人たちにとって、このような言説がうっとうしくなるのは当然だろう。多くの「善良な」人たちが疑似科学という基盤にすがりより、差別すら容認しかねない暴論が我が国において受け入れられる。日本社会の「右傾化」を嘆く人たちは、このような事態の存在をどう見ているのだろうか。

 参考文献・参考資料
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 池内恵『現代アラブの社会思想』講談社現代新書、2002年1月
 市川伸一『考えることの科学』中公新書、1997年2月
 笠原嘉『青年期』中公新書、1977年2月
 北田暁大『嗤う日本のナショナリズム』NHKブックス、2005年2月
 近藤康太郎『朝日新聞記者が書いたアメリカ人「アホ・マヌケ」論』講談社+α新書、2004年7月
 斎藤環『心理学化する社会』PHP研究所、2003年10月
 斎藤美奈子『物は言いよう』平凡社、2004年11月
 坪内祐三、福田和也『暴論・これでいいのだ!』扶桑社、2004年11月
 十川幸司『精神分析』岩波書店、2003年11月
 橋本健午『有害図書と青少年問題』明石書店、2002年12月
 原克『悪魔の発明と大衆操作』集英社新書、2003年6月
 歪、鵠『「非国民」手帖』情報センター出版局、2004年4月
 間宮陽介『市場社会の思想史』中公新書、1999年3月
 宮崎哲弥、藤井誠二『少年の「罪と罰」論』春秋社、2001年5月
 宮台真司、宮崎哲弥『エイリアンズ』インフォバーン、2004年10月
 山本七平『日本はなぜ敗れるのか』角川Oneテーマ21、2004年3月
 ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』上下巻、岩波文庫、1987年2月

 青山瑠妙「インターネットが導く中国式民主化」=「論座」2005年3月号、朝日新聞社
 五百旗頭真「近ごろの若者考」=2004年10月7日付朝日新聞
 石川雅彦「女子高生はケータイで脱皮する」=「AERA」2004年5月31日号、朝日新聞社
 姜尚中「「こころ主義」まん延した一年」=2000年12月29日付朝日新聞
 玄田有史「自己実現疲れ、個性疲れの若者を支援せよ」=「論座」2004年8月号、朝日新聞社
 斎藤環「韓国のネット依存者たちに学ぶ」=「中央公論」2004年9月号、中央公論新社
 斎藤環「「ひきこもり」がもたらす構造的悲劇」=「中央公論」2004年12月号
 神保哲生「ニュースのラインナップはメディアの都合で勝手に決まる」=「サイゾー」2004年3月号、インフォバーン
 杉田敦「「彼ら」とは違う「私たち」――統一地方選の民意を考える」=「世界」2003年6月号、岩波書店
 田口亜紗「岩月教授は、女のどこを見ているか」=「諸君!」2003年11月号、文藝春秋
 武田徹「ケータイを敵視する“メディア一世”たちの傲慢」=「中央公論」2004年4月号、中央公論新社
 内藤朝雄「「友だち」の地獄」=「世界」2004年12月号、岩波書店

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2004年11月 7日 (日)

正高信男という病 ~正高信男『ケータイを持ったサル』の誤りを糾す~

 以下の文章は、私が2004年に入ってはじめて書いた文章ですが、最近正高信男氏の『ケータイを持ったサル』(中公新書)という本が20万部を突破したそうで。おめでとうございます。
 しかし、この本は内容的に間違いだらけであるのに重ねて、思想的な問題もはらんでいますので、私の現在の見解としてこの文章を公開いたします。なお、現在、この本に関する新しい論考を執筆中です。
 この本に関しては、オンライン書店「bk1(ビーケーワン)」でも批判しておりますので、そちらもご覧ください。
 トップページ→「書評ポータル」→「書評検索」:「書評者名:後藤和智」からアクセスできます。

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 ついに中公新書からトンデモ本が出た――そう言っても差し支えのないような、あまりにも乱暴で、杜撰な本が出た。
 京都大学霊長類研究所教授の正高信男氏の著作、『ケータイを持ったサル』である。この本は発売以来、新聞その他で大評判になり、新書では、解剖学者の養老孟司氏の一連の著作と並んで、現在でもベストセラー街道を行進中である。今年1月4日付の朝日新聞に掲載された中央公論新社の広告によると、掲載時点で15万部も売れているそうだ(ちなみに養老孟司氏の『まともな人』は24万部だそうだ)。
 私がこの本を手にしたのは昨年12月の上旬で、各所で話題になっていたし、タイトルからして「今時の若者」について取り扱っている本だろうから読んでみようか、という気持ちで読んでみたのだが、一読して唖然とした。冒頭の文は、この本に対する私の第一印象である。
 あまりにもステレオタイプな若者観。あまりにもデタラメな考証。その執筆スタンスは学者のものとは到底思えない。何故このような本がベストセラーとなり、「識者」と呼ばれる人にもてはやされるのか(現役の生物学者までもがこの本を絶賛していた)。そう思えてならない。
 例えばルーズソックスについて述べたくだりで、正高氏は《(筆者注・ルーズソックスの)真の機能にはたと気づいたのだ!》とはしゃいでいるが、正高氏をしてその《真の機能》なるものに気付かせしめたものが、なんとホテルのスリッパなのだ(11~12ページ)。しかも、その正高氏の珍説を裏付けるかのように、正高氏が持ち出してくるのは、①渋谷で靴のかかとを潰して履いている人100人のうち98人がルーズソックスを着用していたこと、②実際自分で着用してみて、ルーズソックスを履いてみると靴の感覚がなくなること、だ。
 これがいかにデタラメな考証であるかは明らかであろう。まず①に関しては、このような街頭調査は「偶然」に極めて左右されやすいし、調査地点が1箇所しかないのも統計学的には極めて大きな問題だ。サンプル数も少なすぎるし、靴のかかとを潰している人だけに限定する理由も分からない。②に至っては、何でこんなものを考証に持ち出してくるのか、と、もはや失笑するほかない。
 そんな初歩的な疑問は少しも抱かずに、正高氏は、ルーズソックスなどの現象を、たとえ家の外であっても「家の中」の感覚でいたい、とする今時の若者の感覚の表れだ、と結論付けている。だが、少し考えれば分かることだが、このような考証で導かれた「結論」に少しの信憑性も見出せまい。
 第3章では、ニホンザルがお互いの位置を確認するために「クー」という音を発する行為に触れ(これを「クーコール」というらしい)、その後唐突に《若者が携帯でメールをやり取りするのと、そっくりだと思う》と切り出してくる(67ページ)。こんな雑駁な比較で「コミュニケーションが退化している」と言ってしまう正高氏の感覚が分からない。他にも、特に第1章と第3章に、同じような粗雑な比較が頻繁に出てくる。こんな比較ができるのも、正高氏が、今時の若者はみんなサルだ、と思い込んでいるからだろう(事実、正高氏は、まえがきで渋谷の女子高生を「珍種のサル」と決め付けている)。
 統計データの面にも大きな問題がある。第2章は、親の年収や養育費の調査が載っているが、どうもこの調査がいただけない。まず、全体的にサンプル数が少なすぎる。また、都市部や農村部、郊外との比較もなく、時系列での比較もない。変数として採用されているのは現在の年収だけだ。あまつさえ、養育費の内訳は、他に統計を調べれば出てくるだろうに、正高氏は、推測だけで計算してしまっている(39ページ)。第3章・87ページの「エレベーターの会話」の調査では、サンプル数と調査方法すら明記されていない。
 第4章で採り上げられている「投資ゲーム」問題でも、正高氏は、女子高生50人を、携帯電話を頻繁に使う人とまったく使わない人、それぞれ25人ずつに分けて、そのグループの中でペアを組ませる、と書いているが、25人でペアは組めない。第5章の「4枚カード」問題でも、何故カードに書かれている文字を「数字」と「アルファベット」から「年齢」とか「社会的な決まり」に変えるだけで、「社会的かしこさ」を測定するテストになるのか疑問である。
 これほどまでに杜撰な本であるが、この程度で驚いてはいけない。同書のあとがきで、正高氏は、こんな恐ろしいことを書いているのだ。
 《ただ、私個人は基本的にサルとなじんだ行動の研究者である。だから、もっともっとサルに近づいた人間が社会にあふれるのを見てみたいと思っている。せいぜい体に気をつけて、長生きを心がけよう。》(184ページ)
 なんということだろう。正高氏は、「現代の日本人はサルに退化している」という架空の仮説を立て、その中で妄想を膨らまして、人間がサルに退化することがさも社会の危機であるかのように煽り立てていたのに、最終的には、日本人が退化することを望んでいるのだ。正高氏にとっては、《サルに近づいた人間が社会にあふれる》事は「よいこと」なのかもしれないが、それが度し難い無責任であることを、正高氏は何故知ろうとしない?
 最後に、私も、正高氏に長生きしてもらいたいと考えている。正高氏が、妄想から脱出し、元の真面目な動物行動学者に戻ることを、私は切に望んでいるからである。
 (2004年1月8日)

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