2006年8月19日 (土)

正高信男という零落

 平成18年8月の講談社ブルーバックスの新刊として、曲学阿世の徒・正高信男氏(京都大学教授)による『他人を許せないサル』が出た。

 はっきり言っておくが、本書は、書評するに堪える代物ではない。なぜなら、著者の単なる思いこみが、ただただ連発されているだけなのだ。客観的なデータはほとんどなし、あっても極めて問題の多い統計だったりする(例えば、魚住絹代[2006])。

 本当に退屈な本なのだ。若者論オタクの私からしても、本書に書かれていることはどこかで聞いたような「愚痴」ばかりであり、ちっともおもしろくない。そのため、15分もかからないうちに読了することができた(付箋をつけながら!)。

 内容としては、『人間性の進化史』(NHK人間講座テキスト)及び、それを並べ替えただけの代物である『考えないヒト』(中公新書)と全く変わりがない。それどころか、特に後者を引いて、「事態はますます深刻になってしまった」と言ってしまっている始末の箇所まであるのだ。

 というわけで、このエントリーでは、私が見つけた主要なつっこみどころを列挙していくこととする。

 ・31ページ。電車内における携帯電話の利用(まあ、その観察も所詮は著者が見ただけなのだが)に関する記述、《彼ら(筆者注:電車内で携帯電話をいじる人たち)はケータイで何かの情報を検索しているのだろうか。字幕でいち早くニュースを入手しているのだろうか。いや、むしろ、メールのやりとりをしている頻度の方が高いに違いない》。そんなに簡単に断定するなよ。

 ・34ページ。著者によれば《ケータイの人口普及率では世界でもっとも進んでいる欧米でも、ケータイをこぜわしくそうさはまず見られない》。その証拠は?せめて写真くらい見せてくれ。

 ・37ページ。《日本人は世代を問わず、ともかく座りたがる》と書き、《身体的に緊張を保つことが困難になってきている》とする。そういうことを言うなら、かつてはどうだったか、ということを示すべきでは?

 ・45ページ。「右脳人間」「左脳人間」という言葉が出てくるが、右と左がそれぞれ別の役割を担っている、という考え方に関しては有意な批判がある(ロルフ・デーゲン[2003]、352~361ページ)。っていうか、このネタって前著の使い回しでしょ。

 ・88ページ。《いまの子どもたちというのは、目の前でいじめられている友だちがいても、その痛みを感じられない。自分の延長したところに、友達という存在を位置づけられない。テレビゲームで起きていることと、学校のクラスで起きていることが一緒になってしまったのが、テレビげーむっこの特徴だろう。つまり、現実と仮想の区別がつかないといった状況なのだろう。我々がイラク戦争をテレビで見ているのと同じような感じ方なのかもしれない。つまり、自我の延長の濃淡というものがなくなってしまった》だとさ。いささか無理のありすぎるアナロジーだ。

 ・105ページから106ページにかけて。小見出しに曰く《激増するケータイ犯罪》。しかし著者は、下田博次『ケータイ・リテラシー』(NTT出版)に引用されている事例2件だけを引いて、このような犯罪が増えるものであると確信しているようだ。しかしたったそれだけの事例でいいのだろうか?

 ・112ページ。先ほど述べたとおり、あまりにも統計学的に問題の多い、魚住絹代『いまどき中学生白書』(講談社)を真に受けている。これに関しては、私の「2006年1~3月の1冊」における書評、及び「たこの感想文」と「冬枯れの街」による批判を参照されたい。

 ・119ページ。「絵文字の使用は言語という抽象的表記スタイルを捨て去ったという点でユニークであり、それはコミュニケーションの退化である」という珍説を性懲りもなく展開している。このネタも使い回しだあ。

 ・141ページから142ページにかけて。完全にステレオタイプだけの「ひきこもり」イメージを展開している。すなわち、「ひきこもり」はネット中毒者でコミュニケーションを放棄した存在である、というもの。これを読むだけでも、少なくとも我が国における「ひきこもり」に関して全く無知であることがわかる。

 ・156ページ。括弧の中だが、《筆者個人は基本的にサルの行動になじんだ研究者である。だから、もっともっとサル化した人間がそこら中に溢れるのをじっくり見てみたいものだと願っている》キター!!

 ・159ページ。あくまでも核家族を悪者に仕立て上げたいらしい。これも使い回しのような気がする。

 などなど。これほどまでにどうでもいい記述が並ぶような本なのだ。繰り返すが、若者論オタクの私の目から見てもちっともおもしろい本ではない。このような本が、権威ある講談社ブルーバックスから出ている、ということに驚嘆したい人だけ買えばよろしい。

 それにしても、である。かつての正高氏、具体的に言えば『ケータイを持ったサル』の頃の正高氏は、どう見てもおかしいデータやグラフ、そしてでっち上げではないかと思わせるほどのボケをかましているような実験結果までも含めて、少なくとも「子供だまし」のテクニックは持っていたような気がする。そしてこのような「子供だまし」は、森昭雄然り、澤口俊之然り、岡田尊司然り、速水敏彦然り、丸橋賢然りと、本来「専門家」や「臨床医」であるはずの俗流若者論者の論理に共通してみられるものである(森氏の『ゲーム脳の恐怖』がトンデモ本大賞の候補に挙がったのも、ひとえに「子供だまし」があまりにも滑りすぎていたからだろう)。しかるに、『人間性の進化史』以降の正高氏は、そのような「子供だまし」すらも捨て去った。要するにこの系統の本をトンデモ本たらしめている要素である、「子供だまし」が滑ってしまう可能性がないのだ。なぜなら滑ってしまう「子供だまし」それ自体がないから。そして残ったのは「自分が不快に思うのは無条件に退化の証なのだ」という「子供だまし」どころか「子供の論理」だけだ。むしろその点を追っていきたいと思うのだが、いかがか。

 引用文献
 ロルフ・デーゲン『フロイト先生のウソ』文春文庫、2003年1月
 魚住絹代いまどき中学生白書』講談社、2006年3月

 参考文献
 こんな駄本を読むくらいなら以下の本を読め。
 ・青少年の行動、及び青少年のメディア使用について
 浅野智彦(編)『検証・若者の変貌』勁草書房、2006年2月
 岩田考、羽渕一代、菊池裕生、苫米地伸(編)『若者たちのコミュニケーション・サバイバル』恒星社厚生閣、2006年3月
 山崎敬一(編著)『モバイルコミュニケーション』大修館書店、2006年3月

 ・ウェブの将来像について
 佐々木俊尚『グーグル』文春新書、2006年2月

 ・青少年犯罪について
 浜井浩一(編著)『犯罪統計入門』日本評論社、2006年1月
 芹沢一也『ホラーハウス社会』講談社+α新書、2006年1月

この記事が面白いと思ったらクリックをお願いします。→人気blogランキング

| | コメント (12) | トラックバック (6)

2005年7月25日 (月)

正高信男という斜陽

 かの曲学阿世の徒、京都大学霊長類研究所教授の正高信男氏が、平成17年7月25日に、最新刊『考えないヒト』(中公新書)を上梓した。ちなみにサブタイトルは「ケータイ依存で退化した日本人」である。本書の構成は、かつて私が批判した『人間性の進化史』(NHK人間講座テキスト)の各章を各種テーマ、すなわち「出あるく」「キレる」「ネット依存症」「文化の喪失」「サル化する日本人」に基づいて再構成されたものである。

 本書を読んでみる限り、何も変わっていない、と感じた。基本的に本書における疑問点の全てが、『人間性の進化史』を批判した「正高信男という頽廃」と完全に重なっているので、詳しくはそちらを参照されたい。もちろん、新しい知見もなく、かといって修正された箇所もなく、反省もなく、ただ前掲のテキストを少しばかり話題を足しただけの本に過ぎなく、基本的に若年層のこと、あるいは自分の気に食わない行動を「退化」と罵るというスタンスも、霊長類に関するアナロジーを乱用するという行為も、まったく変わっていない。そもそも青少年問題であれば、例えば就業の問題とか、もっと語るべき問題があると思うのだが。マスコミで興味本位で採り上げられている「問題行動」ばかり、というのが、また本書の哀しいところだ。『人間性の進化史』を新書にしただけ、という極めて手軽な本である。

 NHK人間講座テキストと各章の対応は次の通り。

 「出あるく」…第3回「家族って何」、第4回「父親が求められる時」
 「キレる」…第2回「はじめに言語ありき」、第6回「なぜ「キレる」のか」
 「ネット依存症」…第5回「愛と性の分離」
 「文化の喪失」…第7回「文明が文化を滅ぼす」
 「サル化する日本人」…第1回「人間はいつ人間になったか」、第8回「「自分探し」のはじまり」

 ただし、ここで新しく指摘しておきたいことは、第2回と第6回が一つの章にまとめられていることによって、さも第2回で論じられている「ギャル文字」(蛇足:私はこの文字が嫌いである。しかし、そのことと、その文字を使う人たちに対しての正高氏の差別的な目線を批判することは矛盾しないと考える)と、近年多発しているといわれている(その実は単にマスコミが興味本位で採り上げているのに過ぎなかったりする)「キレる」少年犯罪と関連がある、と捉えられかねない、ということである。

 だが、このように第2回と第6回が一つの章としてまとまることによって、正高氏は《どう考えてももはや言語的コミュニケーションの範疇を逸脱していると、考えざるを得ない》(正高信男[2005]、以下、断りがないなら同様)文字を「今時の若者」は用いており、その結果言語能力が退化して、結果としてワーキングメモリーの機能が低下し、そして「キレる」犯罪が起こってしまう、と正高氏は主張していることになる。

 笑止千万なりき。まず、「キレる」という言葉が、極めて政治的に捏造されたものであるということをなぜ正高氏は考え付かないのか。具体的にいうならば、定義が曖昧なまま乱用されているとか、無責任なマスコミ人が時流に迎合して作り出した言葉だとか。また、正高氏は具体的な事例にあたろうとしない。さらに、正高氏は、印象だけで《行動の理解に苦しむ事件は、まちがいなく増えているだろう》と語っているのだが、まず「行動の理解」というのが極めて恣意的、すなわち自らの「物語」をそのまま犯罪者の性格にそのまま当てはめるもので検証としてかなり怪しいし、昨今のマスコミが若年層バッシングにばかり熱心になっているのではないか、という疑念も浮かんでいないようだ。これも、『人間性の進化史』の頃とまったく変わっていない問題点だ。

 何度も指摘していることだが、正高氏は、マスコミで問題と喧伝されている(注目!)ことに、彼らを人間と見る以前にサルとして見ることで、その行動を「退化」だと決め付けるだけの単なる御用評論家に過ぎない。そもそも、そのような「観察」方法自体、正高氏の傲慢さを表すものであることに他ならないからである。

 この本と同時期に発売された、評論家の斎藤美奈子氏の著書『誤読日記』(朝日新聞社)で、斎藤氏は、正高氏の『ケータイを持ったサル』(中公新書)を評して《サル並みに扱われた若者たちこそいい迷惑。愚書でもいいが、むしろ現代の奇書であろう》(斎藤美奈子[2005])と述べている。しかし正高氏は、若年層をサルとして見なすことに対してまったくの葛藤や躊躇がない。所詮正高氏にとって若年層とは、自分の「飯の種」でしかないのだろう。そして、このような人がもてはやされている現在のメディア状況にもまた、疑問を呈さざるにはいられない。

 参考文献・資料
 斎藤美奈子[2005]
 斎藤美奈子『誤読日記』朝日新聞社、2005年7月
 正高信男[2005]
 正高信男『考えないヒト』中公新書、2005年7月/正高信男『人間性の進化史』NHK人間講座テキスト、2004年12月

 基本的に参考文献は「正高信男という頽廃」と同じですが、それ以降に新しく読んだ参考文献を追記しておきます。
 鈴木謙介『カーニヴァル化する社会』講談社現代新書、2005年5月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月
 本田由紀『若者と仕事』東京大学出版会、2005年4月
 森真一『日本はなぜ諍いの多い国になったのか』中公新書ラクレ、2005年7月

この記事が面白いと思ったらクリックをお願いします。→人気blogランキング

| | コメント (2) | トラックバック (4)

2005年7月 3日 (日)

暴走列車を止めろ ~正高信男という堕落4~

 さて、このブログでしつこく批判している曲学阿世の徒・京都大学霊長類研究所教授の正高信男氏であるが、正高氏のマスコミに対する影響力、というよりも読売新聞に対する影響力はいまだに大きいらしく、読売はいまだに教育面の「学びの時評」というコラムの執筆者に採用している。また、正高氏は、平成14年ごろに俗流若者論に走り出してから、学者としての評価をすっかり落としてしまった代わりにマスコミに重宝されるお手軽な「評論家」としての評価を飛躍的に高めてしまい、文章のレヴェルは低下の一途を辿るばかりである。

 そしてその低下の帰結なのだろうか、とうとう正高氏、何を言いたいのかわからないコラムを「学びの時評」に2回連続で書いてしまっているのである。今回検証するのは、それらの文章だ。

 一つ目は、平成17年5月9日付読売新聞の「教科書に権威、今は昔」である。正高氏はこのコラムの冒頭において、《あまり品のよい表現ではないけれど、ほかに思いつかないのであえて書くが、今どきの日本の子どもは教師の話す内容など屁とも思っていない》(正高信男[2005a]、以下、断りがないなら同様)と書くけれども、なぜ正高氏はそのように述べるのだろうか。これ以外にも、正高氏のこのコラムには、根拠のない断定が続出するのである。また、正高氏は、コラムの1段目から2段目にかけて、《教科書に書いてあるから真に受ける子どもなど、天然記念物に近いのではないだろうか。「そう」書いてあるからこそ、疑ってかかる者の方が多いようにすら私には思える》とも書いているのだけれども、そのことに関する根拠を正高氏が示さないのが不可解である。

 はっきり言うがこのコラムは、主張というものがない。文末の《少なくとも、教育手段としての影響力を極端に低下させた教科書にこだわることで、多大なエネルギーの浪費をしているいとまは、ないように私には見えるのだが》というのが主張にあたる部分なのかもしれないが、そもそも正高氏の主張の根拠となっている「教科書の影響力が低下した」という事実が正高氏によって証明されていないのだから、このコラム自体が意味を成さないものになっているとしか言いようがないだろう。本来なら、教科書の影響力を低下せしめたのは何か、そもそも教科書の影響力は低下しているのか、というところからはじめなければならないはずなのだが、そのようなことを正高氏は放棄している。このような無意味・無内容な文章を書いても受け入れられてしまう正高氏とは一体なんなのであろうか。

 これは私の推測であるのだが、正高氏は、中国の「反日」騒動で江沢民政権以降の中国が若年層の反日感情を培養するために「教科書の影響力」なるものについて触れたのであるまいか。中国の江沢民政権移行の対日外交の変容に関しては、東京新聞論説委員の清水美和氏が詳細に検証しているのでそちらを参照してもらうとして(清水美和[2003])、教科書が強い影響力を持つ中国と、それがほとんど影響力を持たない(らしい)我が国の比較をするためにわざわざ取り繕ったのであろうが、それだったらもっと中国の教育の現状についての考察、あるいは我が国の教科書をめぐる状況についての考察を深めるべきだろう。この程度の比較では、表層をあげつらっただけで、結局のところどちらの国の教育のことも語ったことにはならないのではないか。正高氏のこのコラムは、主張というものが見られず、ただ無味乾燥な「お話」に終始しているだけなのである。正高氏は、まず自分の執筆するコラムの限界文字数を認識すべきではないか。

 そして、正高氏の無味乾燥な「お話」は、次のコラムにも引き継がれることになる。それが、平成17年6月20日付読売新聞に掲載された「そびえ立つ父を持つ苦悩」である。まあ、このコラムは、結局のところいわゆる「若貴騒動」とドラマの「エンジン」にかこつけた俗流若者論なのだけれども。

 実際、こちらのコラムは、単に二子山親方の死去をめぐる騒動と「エンジン」を強引に結び付けて現代の家族を語っているだけであった。それが表れているのが、下の3段落であろう。

 そして『エンジン』が高視聴率なのは、見ていて多くの人に「かつての日本の親と子は、こんなだったなぁ」とノスタルジーを喚起するからだろう。現実の世界では、疲れた我が子の背中をたたき、励ましを与えてやれる父親など、そうそうお目にかかれなくなってしまっている。

 思えば私が小学生だった頃は、『七人の孫』や『ただいま十一人』といった大家族ホームドラマが全盛だった。核家族化が急速に進行するなか、やはり「以前は…」と、懐かしさをかき立てていたのだろう。

 家をめぐるドラマをヒットさせるには、少なくとも日本では設定をひと昔前のそれにすることに、あるのかもしれない。(正高信男[2005b]、以下、断りがないなら同様)

 解釈自体は正高氏の勝手なのだけれども、正高氏の解釈が実際のヒットにつながっているか、ということに関しては、検証が必要だろう。また、正高氏が《家をめぐるドラマをヒットさせるには、少なくとも日本では設定をひと昔前のそれにすることに、あるのかもしれない》と語るのであれば、他のヒットしているドラマとの比較が必要である。しかも《現実の世界では、疲れた我が子の背中をたたき、励ましを与えてやれる父親など、そうそうお目にかかれなくなってしまっている》なんて、安易に語らないでいただけないものか。あと、これは蛇足なのだけれども、正高氏の推測を多くの製作者が真に受けてしまい、世の中が一昔前を懐かしむ構成になっているドラマばかりになったら、北朝鮮のような気持ち悪さを覚えてしまいそうだ。

 この2つのコラムを通して見えてくるのは、正高氏が、現代社会や教育に対する違和感を表明するなら、中途半端な文章でもいい、という無責任な態度である。正高氏は、学者としての良心を捨て、「世代」という幻想や、安易なアナロジーに頼った、内容のない文章ばかりを生産し続けるようになった。事実、正高氏は、京都大学の学生の多く集まるネット上の掲示板でも、正高氏の醜態が報告されており、私のブログにも正高氏を「告発」するコメントが書かれている。

 また、正高氏は、エッセイの書き手としても中途半端である。学者としても、エッセイの書き手としても中途半端な正高氏の文章を、このコラム欄の執筆者としてとどめておく意義があるのだろうか。私はかつて「正高信男は破綻した! ~正高信男という堕落みたび~」という文章で、正高氏に「破綻宣告」をしたが、どうやら正高氏は本当に破綻してしまったようである(ちなみに「学びの時評」で今のところ秀逸なのは市川伸一氏と平野啓子氏。市川氏は学者として、平野氏はエッセイの書き手として非常に良くまとまっている。堀田力氏は微妙。藤原正彦氏は、正高氏とは逆に主張がありすぎて暴走しており、問題が多い。機会があったら「俗流若者論ケースファイル」で採り上げる)。

 最後に読売にも言っておく。

 やめさせるのも英断である、と。

 参考文献・資料
 清水美和[2003]
 清水美和『中国はなぜ「反日」になったか』文春新書、2003年5月
 正高信男[2005a]
 正高信男「教科書に権威、今は昔」=2005年5月9日付読売新聞
 正高信男[2005b]
 正高信男「そびえ立つ父を持つ苦悩」=2005年6月20日付読売新聞

 広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書、1999年4月

この記事が面白いと思ったらクリックをお願いします。→人気blogランキング

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年4月 5日 (火)

正高信男は破綻した! ~正高信男という堕落みたび~

 科学者に限らず、評論や分析のプロというのは本来、時流や世間体に流されず、学問や経験によって蓄積された深い見識を持って物事の本質を見抜く論評が求められている。そしてそれを求めるマスコミも、本来であれば、そこで得られた識見が公に発表するに足るものか、ということを見極めなければならないはずである。
 ところが、いつの時代にも、そのような原理原則をかなぐり捨て、一見俗耳には聞こえがいいが、そこで大変な過ちを犯していたりとか、あるいは特定の人種に対する偏見、誹謗中傷が紛れ込んでいたりしようがまったく気にしないでステレオタイプを恬然と垂れ流してしまう「識者」が現れるのもまた事実である。マスコミもまた、その人がもてはやされているからといい、安易にその分野の第一人者として持ち上げてしまう。そうして、本来であれば優秀な学者でさえ、華やかな頽廃の道を歩んでいってしまう。気がついたときには、すでにその人の言動は思い込みと差別に溢れ、大衆に不要な恐怖と偏見を植え付けてしまうような暴論を垂れ流し続けるようになってしまう。
 曲学阿世の徒、京都大学霊長類研究所教授の正高信男氏も、このパターンに見事に当てはまる。正高氏は平成12年周辺から青少年問題について語り始め、読売新聞などに社会時評を連載してからは少しずつその言説に論理飛躍が表れ始め、その第一の帰結が『ケータイを持ったサル』(中公新書)として表れた。当然、マスコミは大絶賛したが、真面目な学者・評論家からは警戒され始めた。その本が飛ぶように売れてから、正高氏は飛躍的にマスコミに登場するようになり、読売新聞なんかはその本の書評を2度も掲載したり、記事中のコメントに積極的に登場させているばかりではなく、平成16年1月からは教育面の交代執筆のコラムで連載を始めた(このコラムの書き手は、正高氏と、藤原正彦、堀田力、市川伸一、平野啓子の各氏)。正高氏の文章は回を追うごとに論理飛躍と差別を増し、ついに当たり障りのない(しかし細かく検証すれば問題が大有りの)若年層批判を垂れ流し続ける、お手軽な「憂国」の人に成り下がった。そうして生まれたのが「NHK人間講座」のテキスト、『人間性の進化史』である。
 平成17年4月4日付読売新聞に掲載された正高氏の文章、「「ごくせん」に共感、元ヤンキー」を見て、嗚呼、ついに正高氏はここまで来てしまったのか、と嘆息せざるを得なかった。いや、そうなるのは必然か。
 最初に断っておくが、正高氏がここで採り上げている「ごくせん」に関しては、漫画もドラマもアニメも見たことがないので、その内容について論評することはできない。しかし、この文章に表れている正高氏の若年層に対する差別意識は、批判しておかねばなるまい。
 正高氏は1段目で、ドラマの内容を紹介した後、1行目から2行目にかけて、このドラマに共感する30~40代の人たちの深層心理を書く。曰く、《もっとも実際には「ごくせん」のような教師はいるはずもないのでで、みんな早く一人前と認められることを願った。それゆえ彼らの代表格の暴走族は、おおむね早婚だし、子どもを持つし、しかも子だくさんだったりする。次世代の気持ちの分かる人間を目指していた》(正高信男[2005]、以下、断りがないなら同様)と。どのような理由でもって《みんな早く一人前と認められることを願った》というのか、具体的な論証立てをすべきである。また、暴走族を《彼らの代表格》とするのは、簡単に言えば「暴走族的な」人がその世代全体に分布していて、真に《代表格》といえるかどうかを検証しなければならない。さらに、《それゆえ彼らの代表格の暴走族は、おおむね早婚だし、子どもを持つし、しかも子だくさんだったりする》というけれども、その統計的なデータもないし、その世代は上の世代に関して出生率が少ない(というより、我が国の出生率は戦後一貫して減少している)。私は出生率を無理に上げることは徒労だと考えているし、少子化に対しても楽観的なので、この点では正高氏とは明らかに立場を分かつのだが、正高氏が現代の人口に対して間違った認識を述べていること、さらにその認識が余りにも図式化しすぎた世代認識から来ていることは指摘しておきたい。
 本番はここからだ。正高氏は、その下の世代に当たる現代の若年層に関して、こういった暴言を吐いてしまう。曰く、《けれども願ったことが、そのまま現実にかなうとは限らない。ビデオ、CD、DVDのレンタルとテレビゲームに浸って育った連中は、そもそも自分のことの理解を周囲に求めようとすら思わない》だと。これは単なる正高氏のステレオタイプでしかない。自らの思い込みを、それがさも事実であるかのように語る正高氏は、下の世代というものに差別的な感情しか抱いていない、といわれても、仕方ないであろう。はっきり言っておくが、正高氏のこの文章中における《ビデオ、CD、DVDのレンタルとテレビゲーム》は、はっきり言ってシンボルでしかないのであり、本質の一部ではあるかもしれないが決して全部ではない。正高氏が本気で《ビデオ、CD、DVDのレンタルとテレビゲーム》が世代間断絶、親子間断絶の原因になっている、と考えているとしたら、それは他の要因を無視した架空の論証立て、と判断せざるを得ない。また、《そもそも自分のことの理解を周囲に求めようとす思わない》というものが、いかなる状態を指しているのかも分からない。まあ、考えられるとしたら、マスコミ的な若年層へのパブリック・イメージを過度に簡素化して述べているのだろう。それにしても《連中》とは…。
 正高氏は《改めて顧みた時、日本では子どもに対しまわりが幼少期より……気持ちを察してやる傾向が途方もなく強いことに気づく。結果として、分かってもらうことには慣れ親しんでいても、自分から相手に分からせるための労力を払うという訓練を受けずに成長していく》と一般論を述べた後、《時代の流れが速くない頃には、それでも支障はなかった。だが高度成長期以降、状況は変わってくる。それがまず、今となっては古典化したヤンキーの反乱を生んだ。そして今日、子を持つ年代に達した彼らは、次世代からなんらきたい(筆者注:おそらく誤植。正しくは「期待」だろう)をかけられないことに当惑し、「ごくせん」にただただ共感する》と書く。《次世代からなんらきたいをかけられない》というのはあるにしても、それはむしろ経済的な原因によるものが大きいのではないか。また、一般論の正しさや暴力性についても正高氏は考慮した形跡はない。自らの思い込みだけが全てになってしまっている。
 正高氏の図式は極めて明快だ。曰く、今日のような青少年による「理解できない」犯罪や「問題行動」を生み出したのは、携帯電話、インターネット、及びテレビゲームなどといったデジタル機器であり、それがかつてない世代間の断絶を引き起こし、社会を危機にさらしている。正高氏の最近の言動をまとめるとこのような図式になろう。正高氏がこのような思考に凝り固まっているため、最初から何かを「敵」と決め付ける、という学者としてはあるまじき行為、いうなれば陰謀論に走っている。そのため、若年層に対してそれをテレビやゲームや携帯電話などに侵食されて人間性が退化したそうであるという烙印を押すことも、そしてそれを過剰に敵視することもまったくいとわない。自らの言論に責任を負わないので、当然社会構築、制度構築という視座はことごとく欠落し、目先の事象を捕まえて「憂国」してみせる、というスタイルで自己完結する。
 世代論それ自体が問題なのではない。真に問題なのは、世代論を自らの優位性を誇示するために乱暴に振りかざすことである。正高氏はその隘路に見事にはまっている。信頼とか共生とか安心ではなく、若年層などの「理解できない」シンボルを持った人種に対して敵愾心をあおることにより、閉鎖的共同体的な「安全」ばかりを増幅させる売国奴を、正高氏は明らかに利している。
 正高氏は完全にアジテーターである。我々はそこに気付くべきだ。
 そしてこう言うべきだろう。
 「正高信男は破綻した!」と。

 引用・参考文献
 正高信男[2005]
 正高信男「「ごくせん」に共感、元ヤンキー」=2005年4月4日付読売新聞

 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 広田照幸『教育不信と教育依存の時代』紀伊國屋書店、2005年3月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 松谷明彦『「人口減少経済」の新しい公式』日本経済新聞社、2004年5月
 山本七平『日本はなぜ敗れるのか』角川Oneテーマ21、2004年3月

 内藤朝雄「「友だち」の地獄」=「世界」2004年12月号、岩波書店
 内藤朝雄「お前もニートだ」=「図書新聞」2005年3月19日号、図書新聞

この記事が面白いと思ったらクリックをお願いします。→人気blogランキング

| | コメント (0) | トラックバック (2)

2005年3月 8日 (火)

正高信男という頽廃

 曲学阿世というのはいかにして生まれるか。「曲学阿世」とは、すなわち学を曲げて世に阿るということだが、この「世に阿る」というのが曲者である。曲学阿世は、阿る「世」がなければ存在しないのであろう。
 ならばその「世」とは何か。現在の我が国においては、それは若年層への敵愾心として表れているようだ。巷では若年層による凶悪犯罪や「問題行動」を採り上げる言説が横行し、「善良な」大人たちはそれらの「犯人」探しに没頭している。最近その「犯人」として採り上げられているのは、漫画、アニメ、ゲームなどのメディアと、そしてインターネットや携帯電話といった通信機器であろう。とりわけ後者に対しては、これらのメディアが例えば子供たちの脳を壊し、そこから凶悪犯罪や「問題行動」が生じる、といった、いわゆる「ゲーム脳」理論などに見られるように、そのようなメディアが人間性そのものを破壊している、という議論が噴出し始めた。しかしそのような珍説を唱える人たちにとって「人間性」が何を示すのか、ということが不明であることが多い。おそらく、その提唱者やそれに近い考え方をもった人たちにとっての「道徳的」価値観が「人間性」に置き換えられているのだろう。また、ここでは「脳」が「人間性」のメタファーとして語られているが、そのような問題設定をすることは暗黙のうちに脳機能に障害を持った人(山内リカ[2005]では高次脳機能障害の例が書かれている)を差別していることにならないか。
 現在の青少年の「人間性」が衰退している、という考えを持つ人たちは、彼らの問題にしたがる「今時の若者」が自分とは「本質的に」違う存在であると考えたいのだろう。しかし忘れてはいけないのは、そのような人も含めて我々は同じ社会に生きているということである。だが、彼らにとっては、そもそも「今時の若者」が「人間」であること自体が気に入らないことらしい。そのため、そのような人たちの「人間性」を意地でも否定したいという欲望が満ち満ちたような文章が頻出するのである。
 そろそろ本題に入ろう。
 曲学阿世の徒・京都大学霊長類研究所教授の正高信男氏が、NHKの「人間講座」に講師として出演した(平成16年12月~平成17年1月)。そのテキストのタイトルは『人間性の進化史』である。しかし本書を開いてみると、要は現代の日本人、特に若年層の「人間性」が退化し、我が国は急速にサル型の社会に移行しつつある、という内容である。これではタイトルを『人間性の退化』とでもしたほうがいいのではないかと思われるのだが、そんなことは枝葉末節であろう。
 かつてNHKの「人間講座」で、若年層のことを取り扱ったことはあった。精神科医の斎藤環氏による『若者の心のSOS』(平成15年8~9月)である。斎藤氏によるこの講座は、さすがに「ひきこもり」研究に長年付き合ってきた研究者だけあってか、過去や現在の学説や臨床事例をうまく引き合いに出しているし、その原因や解決策にも目を向けている。確かに違和感を感じる点も多いけれども、特に第7章と第8章に関しては、教えられるところも多い。少なくとも斎藤氏がどのような仕事をしてきたか、ということがよくまとまっているので、現在でも一読に値する文献であろう。
 ところが正高氏の講座は違う。斎藤氏の講座との比較に関して言うと、斎藤氏が《できるだけ多面的かつ共感的に理解することを目指していきたい》(斎藤環[2003a])と、安易な「理解」を排していたのに対し、正高氏の講座は《日本人の将来像はケータイ主義的人間という表現によって、集約できるのではないかと考えている》(正高信男[2004]、以下、断りがないなら同じ)と、いきなり一つのカテゴリを設けて、それにしたがって説明しようとしている。無論、このような論述法が間違いとはいえない。しかし正高氏の講座においては、長々と霊長類学の学説を紹介した後、唐突として若年層をサル的だと罵り、そして「憂国」する、というスタイルで一貫しており、具体的な事例はまったくなく、全てが俗流若者論が好んで採り上げるような「今時の若者」だけで成り立っている。まずこれだけで、正高氏の姿勢というものが明らかになっているだろう。
 本書の全体を通じた疑念に関して触れると、第一に、若年層以下(すなわち、物心ついたときから携帯電話やインターネットに親しんできた層)とそれ以外に関して強烈過ぎるほど線引きをしていること。第二に、いわゆる「情報化の進展」以外の要因が完全に除外されていること。メディアや若年層の心理に関する歴史に関しても触れられていない。第三に、全ての章において「憂国」してみせるというだけで終わっており、解決策には手がまわっておらず、一つの現象に「憂国」してみせたらまた別の現象を引き合いに出して「憂国」するだけである。そして最後に、正高氏の言うところの《ケータイ主義的人間》という安易なカテゴリに正高氏が意地でも当てはめようとしていること。科学者の態度ではない。むしろパオロ・マッツァリーノ言うところの「社会学者」の態度である(パオロ・マッツァリーノ[2004])。
 正高氏のこのような態度が本文中でいかに表れているか、本文の記述を追って見てみることにしよう。

 第1回・人間はいつ人間になったか――正高信男はいつ曲学阿世の徒になったか
 正高氏は携帯電話がもたらす生活の《本質的変化》について、《すべてのやっかいと感ずる知的作業を、肌身離さず持つ小さな電子機器に委ねるという点にあるのでは》と推測する。しかしこのような議論に関しては、《すべてのやっかいと感ずる知的作業》の定義がどこにあるかどうか分からない。その中には、例えば食事を作る作業とか、携帯電話端末では到底できそうにもないことが含まれているのだろうか。また、正高氏はその直後で人間を一台のコンピュータとみなし、そこから現在起こっている現象を論じているけれども、ここでは教育とか、あるいは知的事業の社会化ということに関してはまったく触れられていない。もっとも、このような設定をすると、コンピュータが別のコンピュータに内容を複写したりとか、あるいは別の単一で特大の外部メモリー(=社会)を設定しなければならなくなるので、議論が複雑になる、という点はある。しかし、人間の構造は少なくとも正高氏の用いたアナロジーよりははるかに複雑である、ということを正高氏には知ってほしい。また、正高氏はその後で《科学技術が発達し、身の回りが便利な人工物で埋め尽くされると共に、私たちの文化的な「まとい」をはぎ取ることにつながるのかもしれない》と表記しているけれども、これは読みようによっては文化の均一化を表しているととらえられてもおかしくない。
 もっとも、この部分は明らかに導入部分であり、正高氏の問題意識を表した章であるので、この章の記述に関して突っ込みを入れるのはここまでにしよう。しかし、これ以降の章は、正高氏の偏狭な認識や、論理飛躍、霊長類学の知見の暴力的な「適用」などが見られる。少なくともこの章を見ると、正高氏が現在の我が国に対していかなる感情を持っているかということがわかるので、読んでおいて損はないだろう。

 第2回・はじめに言語ありき――はじめに「コミュニケーションの劣化」ありき
 正高氏はこの章の初めのほうで、《言語を用いたコミュニケーションの仕方も、質が劣化しつつある》とぶち上げている。この章は、正高氏がなぜこのように考えるか、ということを示した章である。
 正高氏は37ページにおいて、ネット上のやり取りについて述べている。その中でメールの「顔文字」について、正高氏は地面だけでは発言者の感情的なニュアンスが伝わらないので、それを補助するために「顔文字」というアイコンを用いるという対抗策を発案した、と言っているのである。要するに正高氏は、「顔文字」を文字と併用して使われるコミュニケーション手段であり、決して文字そのものの代替物ではないことを示しているのである。ところが39ページの終わりのほう、節が変わった直後で、このようなコミュニケーション手段を《いかにも現代日本的な表現方法》と表現してしまう。勘違いしないでほしいのは、正高氏にとって《現代日本的》というのはすなわち「サル的」と言うことであり、本書において《現代日本的》という表現は「サル的」と置き換えて読んだほうがいいだろう。それはさておき、なぜ正高氏は「顔文字」が《現代日本的》であるというと、その理由として《私見であるが、欧米では同様のアイコン使用は、ほとんど見られない》と書くだけである。アジアはどうなのだろうか。しかもその証左としているのが、《周辺の知人》の証言だけである。しかしこのような間違いを指摘するのは些細なことかもしれない。
 もう一度書くけれども、正高氏は「顔文字」を文字と併用して使われるコミュニケーション手段として38ページで書いていたはずである。ところが40ページの中ごろにおいて、《顔マークがユニークなのは、もう言語という抽象的表記スタイルを捨て去ったという点にあるだろう》などと表現してしまっている。だったら何だ。我が国でメールを用いている人々はメールにおいて文字を使っていない、ということか。私はインターネット上でさまざまな日記サイトを見ているけれども、いわゆる「顔文字」が使われるのは全てのケースにおいて何らかの文章を書いた後に「(笑)」とかいった表現と同じようなニュアンスで使われているだけである。要するに我が国の人たちは《言語という抽象的表記スタイル》をまったく捨て去っていないのであり、「顔文字」はそれを補助するための手段に過ぎないのだが。現に正高氏は38ページでそう書いていたたはずだが。
 しかし正高氏は容赦しない。正高氏は《いったん従来の文字でなくてもよいのだと、いわば「タガ」がはずれると、非文字使用への勢いは怒涛のごとき流れとなってくるらしい》として、女子高生の間で流行っている「ギャル文字」(あるいは「へた文字」)を俎上に挙げる。蛇足だが、私はこのような「文字」がJRの広告に使われていたことに関して生理的嫌悪感を覚えたことがある。
 閑話休題、このような「文字」は正高氏にとっては《どう考えてももはや言語的コミュニケーションの範疇を逸脱していると、考えざるを得ない》ものであるらしい。このような論理への飛躍は明らかに異常である。正高氏は、これらの「文字」について、同じ表現でも感情のレヴェルによって違うということから、《ギャル文字・へた文字に慣れ親しんだ者は、それをもはや文字列としてほとんど把握していない》などと書いているけれども、《文字列としてほとんど把握していない》というのは本当にあるのだろうか。表記の仕方で感情のレヴェルが変わるというのであれば、むしろ文字列どころか、さらに高度な部分のところまで理解している、という見方もできるはずだが。さらに正高氏は言う、《これは言語的認知の枠をはみ出ている》と。しかし正高氏が42ページにおいて書いている通り、これらの「文字」も元の文字の形態的特徴をちゃんと残しているのであるのだが。このような物言いが許されるのであれば、人間の読む全ての言語に関して《文字列としてほとんど把握していない》ということもできる。
 正高氏は《畢竟、コミュニケーションを行なうに当たって、言語を使用する場合のように、心や脳を使わないようになってくると推測される》と書いているけれども、正高氏は43ページにおいて《こういう文字でメールすることのメリットとしては……「可愛」い印象を与える……「手作りのあったかい感じ」もする……「……がんばってくれたんだなー」という気持ちが相手に伝わる、という》と書いている。何だ、結構心や脳を使っているのではないか。それに入力に時間がかかるから、これを使ってメールを作成すると結構脳が活性化されるかもしれない。ちなみに正高氏が冒頭の暴論をでっち上げているのは46ページであるから、わずか3ページ前のことを忘れてこう書いてしまっているのである。驚くべき健忘とはいえないか。正高氏の脳が心配だ。
 しかし、ここまで前後矛盾が目立つのも珍しい。正高氏は、自分と同じ民族でありながら自分が使わない言葉を使うのはサルだ、とでも考えているのだろうか。要するに「女子高生」をバッシングするために、彼女らの間で流行っている表現方法を《現代日本的》すなわち「サル的」と罵っているのである。そう考えれば納得できる、というものだ。こう考えると、正高氏にとって「人間性」とは「自分が理解できること」に尽きるのかもしれない。このことはもちろんこれ以降の章にも言えることだが。

 第3回・家族って何――「出あるき人間」って何?
 正高氏は、この章において「出あるき人間」なる珍奇な概念をでっち上げる。正高氏によるとこの概念は、簡単に言えば「ひきこもり」と対を成す存在であり、《必ずしも自宅で家人と侵食を共にせず、しょっちゅう外を「ほっつき歩いて」生活する者の総称》であるという。正高氏は49ページにおいて、このようなタイプの人間を《実は同じ程度(筆者注:「ひきこもり」は100万人に及ぶという説があるが、それと同じ程度)、あるいはそれ以上に増加している》というけれども、残念ながら正高氏はそのようなことを示すデータをまったく提示しないのだから、このような論理が正当性を得るか、ということについてはない、というのが正直な答えではないか。
 正高氏は《渋谷センター街を歩いてみよう》という。どうやらこのような状況は渋谷においてよく観察できるらしい。正高氏は《仲間と共に行動し、単独でいることは少ない。グループ同士が出会うと、軽く立ち話をかわす》と表記する。その後が面白い。正高氏は《チンパンジーもパーティー同士が遭遇すると、「ホッホッホッ…」と音声を交換する》と言ってしまう。どうやら正高氏にとっては、「出あるき人間」の立ち話はチンパンジーの音声交換とまったく同じに聞こえてしまうのだ。正高氏の若年層に対する偏狭な認識がわかるというものではないか。このようなことを言っておきながら、正高氏は立ち話の内容には決して触れようとしない。正高氏にとっては、彼が「出あるき人間」の烙印を押したものたちの行動は、全てサル的に見えるのだろう。
 しかし正高氏のこの珍奇な概念に当てはまる事例は、正高氏の文章を見る限りでは渋谷にしか見られないのである。正高氏は他の場所(原宿にすら!)行っていないのであるから、このような事例が他の場所でも見られるかどうかは永久にわからずじまいだ。正高氏の辞書には地域差というものはないらしい。全ての都道府県に関して渋谷センター街のような光景が広がっている、と考えているようだ。私は石巻で家庭教師をしていたとき、帰りは常に終電一つ前の電車に乗っていたので、夜の街をよく見ていたが、そのような光景はまったく見当たらなかった。
 だが、正高氏はこのような疑問は少しも挟まない。正高氏はそのような現象が増加している、という前提で話を進めている。一億歩ほど譲って、増加しているということを受け入れるとしよう。正高氏はここでこうぶち上げる。曰く、《増加の引き金となったのは、疑いもなくケータイの普及である》と。その理由として、正高氏はこういう。曰く、《ケータイを持たせてあれば、いつでも連絡が可能である。だから夜に帰ってこなくたってかまわない、と「出あるき」を(筆者注:親は)容認するのだ》と。そんなに断定口調で語っていただきたいものだ。あなたも学者であれば実態調査ぐらいすべきであろうし、少なくとも新聞や雑誌の記事は引用すべきだろう。結局、正高氏はこのくだりに関しては、ただ不安だけを煽り、具体的な事例にはまったく触れずじまいなのである。俗流若者論の典型といえようか。
 これ以降の文章(62ページまで)を含めて言えることだが、正高氏にとって現在の如き「家族の崩壊」は現在に突如として起こった現象であり、それを言うためにはいかなる狼藉をもいとわない。簡単に言えば、自分の思いつき、あるいはマスコミで語られているようなことに関して擬似動物行動学的な視点から「解説」しているだけなのである。また、正高氏は決して具体的な事例を挙げようとしないが、一般論というものがいかに問題を持ちうるか、ということは議論されて然るべきではないのか。正高氏の中では最初から現在の家族の形や心理までもが決まっており、それがステレオタイプであるにもかかわらず「当たり前」だと信じ込んでしまっている。どう考えてもこれは学者の態度ではない。正高氏よ、あなたは京大の教授なのか、デマゴーグなのか。
 ちなみに社会学者の宮台真司氏がどこかで語っていたことなのだが、最近は渋谷の閉鎖性が強まって、地方出身者がまったく来なくなっているようだ。

 第4回・父親が求められる時――青年期病理学に関する勉強不足
 72ページまでの記述に関しては、まず明確な間違い、といえるような箇所はないので、ここでは触れない。もっとも、類人猿の行為を説明した後に唐突に人間の社会に話題をシフトしてしまうのは問題であるが、徒に暴力的なアナロジーを用いていない、というところは評価できよう。問題は73ページ以降である。73ページにおいて、現在の我が国に流布しているとされる「母性愛神話」を疑うのはいい。しかし《子育ては母親の役目だから、すべて母親にまかせておけばいい、という雰囲気が社会全体に根強く存在する》とあるが、各種の調査を見ている限り、そのような考え方はむしろ若い世代ほど希薄化している、というのが現実である(2003年2月20日付読売新聞など)。正高氏はこのような現実をどのように見るのだろうか。
 正高氏は74ページにおいて、《子供が母性ばかりを受け取って育ってきた結果は、不登校や引きこもりなどの発生と無関係ではない》と書いている。しかしそのような考え方、すなわち母性の過剰な敵視は、むしろ「母性愛神話」の単なる裏返しでしかないのではないか。また、正高氏は教育についても触れていない。さらに、正高氏は我が国の文化的背景にもまったく触れたがらないし、後に触れるが、我が国と同様に母子密着型の子育てが進展していたりとか、さらに言えば「ひきこもり」が深刻化している韓国についても触れたがらない。
 それにしてもこの後に正高氏が提示している解決策らしきものがなんといっても怪しい。というのも、甘言に満ちた美辞麗句しか言っていないのである。しかしここまで「ひきこもり」の危険性を煽ってきた正高氏にとって、そのようなことしか言わないのは、自らの言論人としての責任の放棄といえないか。また、76ページには、チンパンジーの母と子の写真があるけれども、なぜこのような写真を持ってきたのか。編集の側も、「母子密着型の子育てはチンパンジー方の子育てである」という正高氏の歪んだ考え方に同調してしまったからだろうか。
 ついでに韓国について触れておこう。斎藤環氏によると、韓国における不登校児には親が自分に独立性などを過剰に要求していると感じ、また学校のストレスについては対人関係のストレスのために不登校になった子供が多いという。これは我が国の「ひきこもり」事例と同じである。また、日刊で違うのは、韓国の場合はそのほとんど全てがインターネットゲームやチャットと関わっているという。これは我が国とは明確な違いである(斎藤環[2004])。また、韓国には徴兵制があるが、それも「ひきこもり」に対してはなんら影響を及ぼしていないという(斎藤環[2003b])。また、斎藤氏、及び韓国の翰林情報産業大学教授の尹載善氏によると、上流階級の間では兵役免除制度を利用して兵役を免れる子供が増えているという(斎藤環[2003b]、尹載善[2004])。
 もう一つ、我が国においては、現在名古屋大学名誉教授の笠原嘉氏が、1970年代から1980年代にかけて青少年の「アパシー・シンドローム」や「退却神経症」などに関して、論理的な研究を行なっており、これが現在、斎藤環氏など青少年の病理の研究者に強い影響を及ぼしている。笠原氏は、これらの背景にも「母子密着型の子育て」などを読み取っているが、笠原氏の研究は、正高氏の文章とは違い、さまざまな学説や臨床事例を引いて、論理的なアプローチをしており、現在の青少年問題を考えるうえでも参考になる記述が多い(笠原嘉[2002])。

 第5章・愛と性の分離――論理的混乱
 本格的に問題が表れるのは95ページからである。正高氏はこの章の最後3ページで、わけのわからないことを言っているのである。例えば95ページの最後の段落におけるくだり、

 「私的」であるべき他者との出会いの場で、「公的」なつき合いを展開しだした場合、メールでの後進にぷらいヴァシーを求めてしまう、いわば逃避的事態が発生してしまう。そして、そういう状態がもっとも先鋭的な形で表れるのが、究極的な「私的」つき合いの場面、つまり性的な交流においてであるのは、当然の帰結である。

 などという記述は、はっきりいって何を意味しているのかわからない。
 正高氏は「ネット恋愛」を引き合いに出して、《こうした事情を考慮せずには、およそ理解不可能なものではないだろうか》と言っている。しかし、このような「説明」は、前後の文脈からはほとんど切り離された形で唐突に引き合いに出されているので、流れを考慮して読むことができないのである。
 正高氏は「ネット恋愛」に関して、97ページにおいてその経験者の意見らしきものを出している。しかしそのような「意見」が、「ネット恋愛」の経験者を代表するものであるかはわからないし、もしかしたら正高氏の捏造、という可能性も否定できない。これらの「意見」が、正高氏の「理論」にとってとても都合よく組み立てられているからである。あまつさえこのページはイラストなのであるが、このイラストには具体的な人の顔が一つも出てきていないのである。全てが口だけ、あるいは顔が黒塗りなのである。正高氏とイラストを書いた人の思惑が透けて見えるというものだ。
 正高氏は最後のほうで、付き合いを求めてネットを利用する人と、性的関係のみを求めてネットを利用する人に関して、《いずれにも共通しているのは、性と愛の分離なのだ》などと言っているけれども、何をもってして《生と愛の分離》といっているのか不明である。結局のところ、正高氏は、現在の日本人、特に若年層が退化=「サル化」しているという強引な結論に導くために、論理的な検証を放棄し、結論を押し付けているような気がしてならない。それが、最後4ページの論理的混乱に表れている。

 第6回・なぜ「キレる」のか――文学作品のトンデモ珍解釈
 本書の中でもっとも劣悪な部分である。この章は少年犯罪に関して書かれているのだけれども、正高氏は明らかにマスコミの「嘆き」に同調し、それらを疑う、ということはしない。あまつさえ、最後には正高氏はとんでもない結論を打ち出してしまうのである。
 とはいっても、この章の内容は、平成16年11月22日付読売新聞に書いた内容と大方で重複しているので、その文章に関しては「正高信男という堕落」を読んでもらいたい。なので、今回は、「堕落」で触れられていなかった部分について論理的検証を行なっていきたい。
 正高氏は102・103ページおいて、言語の操作について語る。しかし正高氏は104ページで、《ことばをあやつる程度には個人差が存在するのだ。……著しく言語操作を行なわない例として、「キレ」やすい人間を位置づけることができるのである》と書いている。ならば訊こう。正高氏は《著しく言語操作を行なわない例》を《「キレ」やすい人間》として位置しているけれども、《ことばをあやつる程度》の個人差はいかにして計ることができるのだろうか。そして、《著しく言語操作を行なわない》という人間が《「キレ」やすい人間》であるということに関して、どのような論理的、あるいはデータ的な裏づけがあるのだろうか。
 それに関して、正高氏は104ページから110ページにかけて、正高氏は「ワーキングメモリー」という考え方を用いて説明している。しかし111ページになると、正高氏はいきなりその仮説とIT化の影響を結び付けてしまうのである。正高氏は111ページにおいて、《通常は双方(筆者注:視覚と聴覚)が程よくミックスされた状態になっている。けれど判断がメモからの者に一方的に偏ると、行動はとてつもなく瞬間的すなわち、あと先を顧みない側面を見せるようになることが往々に起こる。……昨今、そういうタイプの人間は確実にその数を増やしていると考えられる》と書く。そして正高氏は、《明らかに生活のIT化の影響と想像されるのだ》とぶち上げてしまう。正高氏は《ケータイによるコミュニケーションのサル化が、言語による情報処理に依存しない思考判断傾向を加速化させている》と書いている。しかしこれは正高氏の印象でしかないのではないか。正高氏は《ケータイでは、知人の番号はおそらく間違いなく、メモリーに登録されていることだろう》と表記し(112ページ)、《しかしこれが、今まで自分たちがワーキングメモリーの、とりわけ主としてループに負担させていた作業を、機械に代替させているものであることは明々白々である》とし、さらに《まして生まれた時、すでに社会がIT化していた今の年代の若年層となると、……廃用性どころか、生まれてこの方、ループをまっとうに使ったことのない人間が、大量に創出されつつある》(113ページ)といってしまうのである。正気の沙汰か。《生まれた時、すでに社会がIT化していた》といっても、人間が情報機器を身につけられるための知識を身につけるのは相当物心がついてからではないか。それまでは家族や教育機関などでさまざまな経験を用いてループを用いるはずなのに、正高氏はそのような常識的判断をも持ち合わせていないのだろうか。明らかにこれこそ思考停止ではないか。《今の年代の若年層》というのは、おそらく1980~1990年ごろに生まれた人のことを指すのかもしれないが、それらの人々が物心つく前、簡単に言えば思考回路が形成する前から情報機器を使っていた、と正高氏は考えているのだろうか。
 はっきり言う、これは明白な差別である。正高氏は現在の若年層、すなわち《生まれた時、すでに社会がIT化していた今の年代の若年層》と、それ以外の年代をきわめて明確に線引きをし、前者を社会性、人間性にかけた年代としてバッシングを行なっているのである。しかしこれには論理的な推察は皆無に等しく、全て印象論だけで語っているのである。結局正高氏は、《IT化》が人間性の衰退を促すものでないと納得できないのであろう。正高氏の文章においては最初から「敵」が決まっており、その「敵」を潰すためならいかなる狼藉も容赦しない。これを陰謀論というのである。
 正高氏は最後のほうでカミュの『異邦人』を引き合いに出し、そこにおける殺人犯ムルソーに関して、《ムルソーの場合、犯行に駆り立てたのはほとんどメモからの信号であると考えられる》といってしまう。《メモからの信号》といっているのだから、ムルソーは常に自らの近くにメモを置いていた、ということになるのではないか。それともムルソーの時代にはすでに携帯電話があったということか。すごい。超古代文明論もびっくりである。それにしても《犯行に駆り立てたのはほとんどメモからの信号であると考えられる》と考える理由がどこにも示されていないというのはどういうわけか。正高氏は文学作品にすらIT化の「闇」を見出してしまっているのである。この神経の図太さは一体なんだ。ついでに正高氏は《それを「どうして」とループに問い合わせたところで、答えようがないという者である。そこで、メモが送り込んだイメージをただ言語化して叙述するばかりという自体が出現するのだ》と書いている。これに関しても、根拠不明な「お話」である。どこまで事実なのかわからない。あなたは本当に学者なのか。
 しかし正高氏にとってはそんなことどうでもいいらしい。さすが陰謀論である。正高氏は《カミュの『異邦人』を読んで、「まっ白」という印象を抱くのは、私だけだろうか?》といい、《白い心に、「なぜ」と問うことはそれ自体、まったくの筋違いというものなのだ》さらに《生物は自己の生存のために、瞬間瞬間に判断を下す。その即時的判断を一時的に停止し、「私はこう思っている」と自らの心中を再認し始めたとき、人間は単なる生物から脱却したのだが、いまや出発点に、逆戻りしてきている。「一匹」の存在として暮らす者に、心の闇などありえるはずもないのである》とまで言ってしまっている。やはり正高氏にとって、現在の日本人、特に若年層の人間性は退化しているものでなければ気がすまないのだろう。もう一つ言っておくが、正高氏の議論は、かの曲学阿世の徒、日本大学教授・森昭雄氏の「ゲーム脳」理論に接近している。
 ちなみに「キレる」なる現象も含めて、このようなことに関しては精神分析の「解離」概念を用いたほうがわかりやすい。「解離」とは、《過去の記憶、同一性と直感的感覚の意識、そして身体運動のコントロールの間の正常な統合が一部ないし完全に失われた状態》(斎藤環[2003a])を指す。斎藤環氏は、前出の「人間講座」のテキストにおいて、「キレ」た少年犯罪者に関して《一種の解離状態》にあるといっているけれども、その犯罪者が動機を言うことができない、あるいはそれを把握するのが難しいというのであれば、「解離」が起こっていると考えたほうが、多少は誤りがあるかもしれないが、少なくとも正高氏の暴論よりは納得しやすいだろう。また、「解離」は健常者に関しても見られることがよくある、と斎藤氏は言っている。このように、最初から自らの行動が全て説明できる、ということは心理学によって否定されている。
 また、正高氏は「右脳人間」「左脳人間」なるカテゴリを持ち出し、現在の我が国においては「右脳人間」、すなわち視覚イメージに頼る人が増えているといっているが、ロルフ・デーゲン『フロイト先生のウソ』によると、最新の実験では、人間のさまざまな行動に関して脳のどの部位が活動しているか、ということを計測した結果、全てのケースにおいて右脳と左脳がほとんど等しく活動していた、という結果が出ている(ロルフ・デーゲン[2003])。
 もう一つ、東京大学助教授の広田照幸氏によると、青少年による凶悪犯罪や「問題行動」に関して、その言説が青少年の「心」に急激に関心を持つようになったのは1970年代ごろの話であり、それが顕著になったのは最近で、広田氏は《子供の「心の軌跡」から非行を理解する――その際、親の育て方や学校・教師の対応に間違いや問題がなかったかどうか、教育的に望ましくないメディアや空間が問題ではないか、といった枠組みで、現在の青少年問題は語られるようになっている》(広田照幸[2003])と分析している。

 第7回・文明が文化を滅ぼす――文明が正高信男の思考を滅ぼす
 この章においては、全般的に程度の低い狼藉が観察される。いうなれば、この章は単なる「感想語り」に終始しており、実例の提示はほとんど皆無に等しい。
 119ページにおいて、正高氏は幸島のサルにおける「イモ洗い」を取り上げ、日本人の食物の味わい方に関して、《人間の食物の味わい方は、多様である。舌で賞味するに加え、日本人は見た目を大切にする。型やインドやインドネシアの人は、口に入れる前に指で食感を楽しむようだ。その変異は、明らかに幸島のサルのイモ洗いの延長線上にあると、とらえられるだろう》(121ページ)と書いている。しかし、幸島のサルの例に関しても、人類の文化の形成と同じくらいの時間をかけて形成されたのではないか。幸島のサルの行動が、その進化形として日本人の行動になっている、と正高氏が考えているのであれば、それは完全にお門違いというものである。
 正高氏は《文化的な生活とは、共に生活するものが互いに何か「尊い」と敬うものを共有しつつ、日々を送るようなことを指すのだろう》(123ページ)とする。正高氏における《文化的な生活》の定義がここで示されているわけだ。で、正高氏は《それが非常に先鋭化された形で起こっているのが、日本なのだろう》と書くのだが、その証左として正高氏が引き合いに出すのが日本人の「ブランド指向」である。正高氏はこう書く。曰く、《ただつながっていることだけのために、つながりを保つという自己撞着が生じつつある。そのために中身のない空虚な象徴を作り上げ、それを「みんなが敬うから」というだけの理由で自分も敬うということが起きてきている》と。さらに正高氏は、126ページにおいて、《そして、こうした傾向はここ十年来、急速に傾斜を深めてきたように思えるのだが、それはケータイ(とりわけケータイメール)の普及とまったく軌を一にしている》と書く。しかし、それを証明するような証拠が、《私の研究所に勤務している同僚》の、携帯電話を肌身離さないようにしておかないと気が済まない、という話のみである。これでは証拠が不足している。簡単に言えば、《こうした傾向はここ十年来、急速に傾斜を深めてきた》ことと《ケータイ(とりわけケータイメール)の普及》の有意な因果関係が見出せないのである。
 正高氏は、《コミュニケーションにおける対面的状況の重要性を破壊したのが、ケータイの発明である。……しかし、双方(筆者注・ラジオ以前の状況と現在の状況)をまったく別な者に仕立て上げているのは、集団のまとまりを表示する境界というものが、ケータイの下では完全にとっぱらわれてしまったという点にある》といっているけれども、これは完璧に誤りである。正高氏は携帯電話の導入によって、コミュニティの所属に関わらず多くの人が関係をもてると考えているようだけれども、携帯電話を用いたコミュニケーションですら、基本的に違う所属、あるいは違う趣味を持った者と無関係に関わることはできない。疑う向きは想像してもらいたい。あなたが携帯電話を持っているからといって、無関係の「誰か」から勝手に電話がかかってきたり、メールが送られてくる、ということはまずありえないではないか(迷惑電話とスパムメールは除く)。正高氏の問題設定は誤りで、正確に言えば、東京大学教授の松原隆一郎氏が指摘するような《それまでとても出会えなかった偏った趣味の人間が集まることを可能にした》(松原隆一郎[2003])と考えたほうがよほど実感に近い。
 また、この章のタイトルは「文明が文化を滅ぼす」であるが、結局123ページにおける正高氏の《文化的な生活》の定義に従えば、「文明が文化を滅ぼす」ということはまったくありえないことになる。もう一度引用するけれども、正高氏は《文化的な生活》を《共に生活するものが互いに何か「尊い」と敬うものを共有しつつ、日々を送るようなこと》と定義していたはずだ。「文明が文化を滅ぼす」とは、《「尊い」と敬うもの》の喪失を意味するのだろうが、正高氏の結論からはそのようなことは見出すことができない。結局、正高氏は現在の若年層を口汚く言うためにそのことを隠蔽しているのである。
 それにしても、この章の最後、130ページにおける《群れるトリやサカナのように均一のファッション》というのは、正高氏の歪んだ考え方が表出しているような気がしてならない。正高氏はおそらく渋谷しか見ていないだろうから(この証拠として、正高信男[2003]のまえがきを挙げておく)、同じようなファッションの人が大量に現れる、というのは日常茶飯事なのかもしれないが、少なくとも私の住んでいる仙台においては、流行現象がそう速く広まっているわけではない。正高氏の辞書に地域性は存在しない。

 第8回・「自分探し」のはじまり――そして正高信男は考えなくなった
 本書のクライマックスである。この章は、本書の中で第6回に並ぶ劣悪さであり、正高氏の偏狭な思考がこの章には詰まっている。
 とりわけ145ページ以降がひどい。《個々人がケータイを所有することで、いつでも誰とでも情報交換できます、という。しかもなし崩し的に、今までの集団のまとまりは度外視して、そこでこれからやっていったらいいじゃないですかというムードで、日常が変わりだしたのだ》とあるが、これは前章の検証でも述べたとおり、《なし崩し的に、今までの集団のまとまりは度外視して》ということはまったくありえない。携帯電話で情報交換する関係も、結局は同じ所属、あるいは同じ趣味を持った者にとどまるのであり、れっきとした集団の境目が存在するのである。考えてみるがいい、仮にあなたがある趣味を持ったパソコン通信集団に所属しているが、他の趣味をもった集団に所属している人があなたの集団にメールなどを送ってきたら困るだろう。
 正高氏は149ページについてオウム真理教について触れて、《日本から文化的なまとまりというものが消え去ることに、いらだつ人間による最後の抵抗》としている。しかしその理由として、正高氏が挙げるのが《理系エリートとは、要するにIT化というもののハードウェアについて、他の人間よりも深い知識を持った人々と、とらえて差し支えないだろう》ということであるが、オウムの幹部となった「理系エリート」が大学に在籍していたのは、おそらくパソコン通信以前のことであろうから、このような考え方は、現在のコンテクストに即して過去を捉えていることに他ならない。正高氏が151ページで引用しているように、オウムの幹部となった「理系エリート」たちの絶望は、情報化ではなく、むしろそれ以外の科学文明への失望や、1980年ごろに流行したオカルティズムやニューサイエンスの隆盛などを挙げたほうが適切であろう(宮崎哲弥[2001])。
 152ページに挙げられている節のタイトルは「そして誰も考えなくなった」である。しかし本書を読んでみる限りでは、この節以降は「そして正高信男は考えなくなった」であろう。正高氏は153ページにおいて、オウムに入信した人について《コミュニケーションの手段ばかりが簡便で効率的になる技術を研究したところで、それが一体何になるというのだろう――こういう疑念をもなげだしたあげく、強烈なカリスマを核とするカルト集団に参加し、しかもそのなかで科学者として、自らの研究で駆るとの繁栄に貢献できるとわかったならば、むしろ入信して当然とも考えられなくないように私には、思える》と書いている。驚くことに正高氏は、1ページ前(!)でオウムの幹部たちがコミュニケーションの手段が効率的になることに抵抗したからこそオウムの事件が起こった、と書いたことを忘れているのだ。正高信男は考えていない。
 154ページ。この節のタイトルは「サル化する日本人」である。154ページから155ページにかけては、本書で正高氏が論じてきたことをまとめて一つの文章になっている。これらの正高氏の「推測」がいかに間違った者であるか、あるいはいかに不適切なアナロジーの利用によるものであるかは、ここまで私が検証してきたとおりである。正高氏は155ページの最後から156ページの最初にかけて《要するに人間は、言語遺伝子が進化した十万年余り前の姿に近い所へ、戻ってしまったことになる。これを、サル化と呼ぶことに私自身はあまり、ためらいを感じないのだ》と書いているが、このような考え方がいかに歪んでいることは、本稿の最後で論じたい。

 終わりである。私はここまで正高氏の狼藉に関してできるだけ論理的に検証を行なってきたつもりである。
 本書においては最初からストーリイが決まっている。すなわち、携帯電話に代表されるような高度な情報化は人間がこれまで培ってきた人間性というものを壊し、現代の日本人は10万年前の姿、すなわちサルになっている、というものである。しかし、このような考え方は、霊長類の研究という側面からしてみれば大変失礼極まりない。
 なぜか。それは、進化樹形図を見ればわかる。まずは進化の系統的な視点から正高氏の論理のおかしさを指摘しておくと、現在の人類(ホモ・サピエンス)はヒト上科に属し、性質としてはオランウータンやテナガザルに近いものである。他方、正高氏が「サル」と言っているのはおそらくニホンザルであろうが、ニホンザルはオナガザル上科に属し、性質としてはオナガザルに近い。要するに、ホモ・サピエンスとニホンザルの生物学的性質はまったく異なるのである(島泰三[2003])。
 もう一つ言うと、現在のサルの行動から10万年前の人類の行動を推し量ることはできない、ということも指摘しておきたい。なぜか。それはホモ・サピエンスであろうがニホンザルであろうがキツネザルであろうがテナガザルであろうがオナガザルであろうが、現在生きている生物は、全てが独自の進化過程を経て現在に至るのである。だからホモ・サピエンスを進化の最上位に位置づけ、それ以外の霊長類に「文化的に」ランクをつけるという行為は、霊長類研究の視点から見れば失笑を買うものである。現在のオランウータンやニホンザルだって、10万年前には現在と違った暮らしぶりをしている可能性も高いのである。
 正高氏の議論は、さまざまなサルの行動を人間の尺度に当てはめて「文化的な」優劣をつけ(当然人類は一番優れている)、ニホンザルの行動にさまざまな「文化的」な特徴を見出し、その上で日本人は「退化」している、とぶち上げているのである。このような態度がいかに科学の態度から外れたものであり、学を曲げて世に阿るものであるかということは、すでにお分かりいただけただろう。冒頭でも触れたとおり、正高氏は情報化以前の人類と情報化以後の人類に関して過激なまでに明確な線引きを行い、我が国において後者の人類の問題が多くのマスコミに採り上げられていることを利用して、後者を文化的に劣った者(「ケータイを持ったサル」!)である、と「科学的に」決め付けているのである。しかし、青少年問題というものは常に問題視されており、本来であれば「識者」にも止められているものは、巷の認識を疑い新たな分析を提示することか、あるいは巷の認識に添う形でもそれを深い教養を持ち、差別意識を配した態度でもって臨むことである。
 正高氏をはじめ、俗流若者論にとって「新しい」ものにはちっとも価値はない。「新しい」ということは、すなわち既存のステレオタイプを突き崩す可能性だってあるからである。ところが俗流若者論においては、既存のステレオタイプを「正当化」するばかりの言説ばかりがはびこる。
 そしてそれらの言説に最も求められる価値は「新しさ」ではなく「珍奇さ」である。要するに、一見聞こえのいい、しかし論理的に検証してみると穴だらけの概念で「善良な」人たちを煙に巻くことである。
 この考えを行なったのが、例えばナチス・ドイツである。ナチス・ドイツは、ユダヤ人を迫害するために、以下に生粋のドイツ民族がユダヤよりも優れているかということを「科学的」に証明し、圧政や虐殺の根拠とした。また、スターリニズムもそうだ。スターリニズムは、国家の押し付ける概念に従わない者を「反社会的」属性と規定し、それに対する迫害や圧政を行なってきた。
 正高氏の議論のほか、例えば日本大学教授・森昭雄氏の「ゲーム脳」理論など、現在の我が国においては特に若年層をそれ以外の人類より「劣った」人類である(正高氏の議論においては人類ですらない)と「科学的」に「証明」してしまう議論がはびこっている。これらの暴論を嬉々として受け入れるような「世」が我が国には強く存在し、それらの言説は青少年問題に関して真剣に向き合うことをせず、むしろ青少年を現代の「鬼胎」として「消費」することにのみ使われる。多くの良心的な人たちにとって、このような言説がうっとうしくなるのは当然だろう。多くの「善良な」人たちが疑似科学という基盤にすがりより、差別すら容認しかねない暴論が我が国において受け入れられる。日本社会の「右傾化」を嘆く人たちは、このような事態の存在をどう見ているのだろうか。

 参考文献・参考資料
 笠原嘉[2002]
 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 斎藤環[2003a]
 斎藤環『若者の心のSOS』日本放送出版協会、2003年8月
 斎藤環[2003b]
 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 斎藤環[2004]
 斎藤環「韓国の「隠匿型ひとりぼっち」と日本の「ひきこもり」」=「中央公論」2004年4月号、中央公論新社
 島泰三[2003]
 島泰三『親指はなぜ太いのか』中公新書、2003年8月
 ロルフ・デーゲン[2003]
 ロルフ・デーゲン、赤根洋子:訳『フロイト先生のウソ』文春文庫、2003年1月
 広田照幸[2003]
 広田照幸『教育には何ができないか』春秋社、2003年2月
 正高信男[2003]
 正高信男『ケータイを持ったサル』中公新書、2003年9月
 正高信男[2004]
 正高信男『人間性の進化史』日本放送出版協会、2004年12月
 松原隆一郎[2003]
 松原隆一郎『長期不況論』NHKブックス、2003年5月
 パオロ・マッツァリーノ[2004]
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 宮崎哲弥[2001]
 宮崎哲弥『正義の見方』新潮OH!文庫、2001年3月
 山内リカ[2005]
 山内リカ「高次脳機能障害とは何か」=「論座」2005年2月号
 尹載善[2004]
 尹載善『韓国の軍隊』中公新書、2004年8月

 池内恵『現代アラブの社会思想』講談社現代新書、2002年1月
 市川伸一『考えることの科学』中公新書、1997年2月
 笠原嘉『青年期』中公新書、1977年2月
 北田暁大『嗤う日本のナショナリズム』NHKブックス、2005年2月
 近藤康太郎『朝日新聞記者が書いたアメリカ人「アホ・マヌケ」論』講談社+α新書、2004年7月
 斎藤環『心理学化する社会』PHP研究所、2003年10月
 斎藤美奈子『物は言いよう』平凡社、2004年11月
 坪内祐三、福田和也『暴論・これでいいのだ!』扶桑社、2004年11月
 十川幸司『精神分析』岩波書店、2003年11月
 橋本健午『有害図書と青少年問題』明石書店、2002年12月
 原克『悪魔の発明と大衆操作』集英社新書、2003年6月
 歪、鵠『「非国民」手帖』情報センター出版局、2004年4月
 間宮陽介『市場社会の思想史』中公新書、1999年3月
 宮崎哲弥、藤井誠二『少年の「罪と罰」論』春秋社、2001年5月
 宮台真司、宮崎哲弥『エイリアンズ』インフォバーン、2004年10月
 山本七平『日本はなぜ敗れるのか』角川Oneテーマ21、2004年3月
 ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』上下巻、岩波文庫、1987年2月

 青山瑠妙「インターネットが導く中国式民主化」=「論座」2005年3月号、朝日新聞社
 五百旗頭真「近ごろの若者考」=2004年10月7日付朝日新聞
 石川雅彦「女子高生はケータイで脱皮する」=「AERA」2004年5月31日号、朝日新聞社
 姜尚中「「こころ主義」まん延した一年」=2000年12月29日付朝日新聞
 玄田有史「自己実現疲れ、個性疲れの若者を支援せよ」=「論座」2004年8月号、朝日新聞社
 斎藤環「韓国のネット依存者たちに学ぶ」=「中央公論」2004年9月号、中央公論新社
 斎藤環「「ひきこもり」がもたらす構造的悲劇」=「中央公論」2004年12月号
 神保哲生「ニュースのラインナップはメディアの都合で勝手に決まる」=「サイゾー」2004年3月号、インフォバーン
 杉田敦「「彼ら」とは違う「私たち」――統一地方選の民意を考える」=「世界」2003年6月号、岩波書店
 田口亜紗「岩月教授は、女のどこを見ているか」=「諸君!」2003年11月号、文藝春秋
 武田徹「ケータイを敵視する“メディア一世”たちの傲慢」=「中央公論」2004年4月号、中央公論新社
 内藤朝雄「「友だち」の地獄」=「世界」2004年12月号、岩波書店

この記事が面白いと思ったらクリックをお願いします。→人気blogランキング

| | コメント (4) | トラックバック (4)

2005年2月24日 (木)

またも正高信男の事実誤認と歪曲 ~正高信男という堕落ふたたび~

 曲学阿世の徒、京都大学霊長類研究所教授・正高信男氏にとって、「社会的ひきこもり」、さらには不登校は現代に突如として生じた現象であり、なおかつ暴力性、犯罪性の高いものでないと気が済まないのだろう。私がそれを痛感したのが、平成17年1月10日付読売新聞「学びの時評」欄に掲載された正高氏の文章「教育の本質は「攻撃性の転換」」である。この文章もまた、論理の飛躍といわれなき中傷に満ちていた。
 まず、冒頭で《とりわけ思春期以降の子どもが、親に向って攻撃衝動を向ける事件が、昨年の下半期に頻発した》(正高信男[2005]、以下同じ)というのであれば、その統計データぐらい見せてほしい。また、《こうした現象が顕著化する一因としては、若年層で社会的自立ができないまま成人するものの割合が急増していることも無視できないだろう》と正高氏は書いているのだが、《思春期以降の子どもが、親に向って攻撃衝動を向ける事件》と《若年層で社会的自立ができないまま成人するものの割合》に関して有効な相関関係が見出せるかどうか、という検討もすべきであろう。無論、統計学の常識として、相関関係は因果関係にあらず、というのがあるが、少なくともそのような議論を抜きにして安易に《それ(筆者注:社会的自立ができない人)がいつまでたってもできない人》の暴力性なるものについて語らないでいただきたい。
 この後、正高氏は、「攻撃性」と「社会性」について語る。しかし、正高氏の議論において欠如しているのが、子供が初めて「家族」以外の世界(いわば「家の外」)に踏み出すのは、幼稚園や保育園、遅くとも小学校であり、そのことについてまったく考慮していないのは解せない。もう少し言えば、子供が何らかの習い事をやっていたとしても、それはそれでそこに別の世界が登場するはずである。正高氏は、近代において教育というシステムが、社会へ自立を促すために段階的に子供を育てるというものであることを知っているのだろうか。子供は就職(ないしアルバイト)していきなり社会に出るわけではないのである。
 正高氏は、最後近くになって《ところが昨今、いつまでたっても家の外が、未知でおそれに満ちた世界のままでいる者が、その数を増しつつあるらしい》と言ってしまう。しかし、《その数を増しつつあるらしい》というのであれば、その定義と、統計的なデータを示すべきであり、《らしい》のままでは何も進まない、ということを正高氏は知るべきであろう。あなたも学者であれば、まず実証的なデータを示すべきであろうが。
 この文章において、正高氏は暗に「ひきこもり」や不登校、ないし若年無業者の犯罪率が高く、それらが急増している昨今において青少年による凶悪犯罪が急増するのは当たり前だ、といいたいらしい。しかし、まず青少年の凶悪犯罪それ自体に関して言うと、昭和40年ごろに比べて激減している。確かに強盗罪に関しては平成9年ごろに急増しているが、その最大の理由は強盗罪の水準が極めて低くなったことであり、全体的に見れば凶悪犯罪は急増しているという事実はない(浜井浩一[2005])。また、精神科医の斎藤環氏によると、「ひきこもり」による親族に対する殺人事件は、「ひきこもり」の中においても極めて少数であり、また、殺人事件を起こしてしまう場合も、さまざまな不安のファクター(当事者や両親の高齢化・衰弱、経済的困窮、周囲の無理解)が重なり、そこに就労のプレッシャーなどの「一押し」が重なることによって起こってしまう、という場合が多いという(斎藤環[2004])。そもそも正高氏は、多くの「ひきこもり」の青少年が、その多さにもかかわらず凶悪犯罪を起こしていない、ということをわかっているのだろうか。
 正高氏のこの議論において置き去りなのは、本当に不登校や「ひきこもり」の暴力性が、そうでない人に比べて暴力性が高いのか、ということである。正高氏は、動物行動学(多分)の理論を用いて、この答えにイエスと答えているが、正高氏の議論はあくまでもアナロジーの域を超えず、実証的なデータを示してこそはじめてそのアナロジーが成立する、というものである。確かに、教育論に動物行動学の視点を導入することは必要かもしれないが、だからといってデータや臨床事例がないと、その有効性は疑われて然るべきだろう。
 正高氏にとって、青少年による凶悪な犯罪は動物行動学的に潤色したお手軽なエッセイのネタに過ぎない、ということが、本書でも明らかになっている。正高氏は自らの専門性に陶酔して、信頼性の高い実証的なデータにあたろうとしない。こんな正高氏にコメントをいただいて、青少年問題を「わかった」気になっている「善良な」人たちに、私は危機感を禁じえない。
 さらにこの連載における正高氏のスタイルは「憂国して」終わり、というものである。特に「ひきこもり」や不登校といった、過分に社会問題や青少年問題とつながっている問題に関しては、その対応策についても、余裕があればでいいが語るべきだろう。しかし、「ひきこもり」や不登校に関して正高氏の述べることは、この文章のように、同じことばかりである。同じことばかり言って、その対応策はまったく語らない、語ったとしても曖昧な一般論に終始している。そう、一般論を「善良な」人たちに都合の言いように潤色し、実際に「ひきこもり」に苦しんでいる人たちは自らとは「本質的に」(「動物行動学的」に?)違う者(サル!)として阻害するのが、最近の正高氏の理論に他ならない。
 最近、玄田有史『仕事の中の曖昧な不安』(中央公論新社)、宮本みち子『若者が《社会的弱者》に転落する』(洋泉社新書)みたいに、青少年問題に関して、社会学的な視点から真剣に取り組んだ本が話題を呼んでおり、「ひきこもり」や不登校や無業者を過度に犯罪者予備軍と見做すような風潮は時代遅れになりつつあるように見える。しかし、それでも正高氏のような「若者論」が幅を利かし、歴史的な文脈を無視した(現在見られるような青少年問題に関しては、それらと強く関連しているような事例が、現在名古屋大学名誉教授の笠原嘉氏によって昭和50年ごろから指摘されてきた。詳しくは笠原嘉[1977][2002]を参照されたし)安易な「憂国」言説が受け入れられるような土壌は、確かに根強くある。このような状況を打破するには、「得体の知れない」=「共同体の「善」を犯す」という、「若者論」の元になっている思考を解体するしかないのかもしれないが、そのために要する時間は長く険しいかもしれない。しかし、そのために深く考えることは、決して無益ではないのである。
 それが、正高氏、及びその信奉者に理解できるのだろうか?かえって正高氏の議論は、「ひきこもり」の人たちをさらに囲い込むような者になる可能性のほうが極めて高いのではないか、と思えてならない。
 蛇足だが、正高氏は本文の最後で、奈良の女子児童誘拐殺人事件について触れて、その《背景にもこれと共通するものがあると思えてならない》と書いているけれども、この事件と、正高氏がここまで取り上げてきた事件は明らかに異質であり、もし共通する背景があるとするならば別に検証すべきだろう。あまりにも唐突過ぎる。

 引用・参考文献
 笠原嘉[1977]
 笠原嘉『青年期』中公新書、1977年2月
 笠原嘉[2002]
 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 斎藤環[2004]
 斎藤環「「ひきこもり」がもたらす構造的悲劇」=「中央公論」2004年12月号、中央公論新社
 浜井浩一[2005]
 浜井浩一「「治安悪化」と刑事政策の転換」=「世界」2005年3月号、岩波書店
 正高信男[2005]
 正高信男「教育の本質は「攻撃性の転換」=2005年1月10日付読売新聞

 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 広田照幸『教育に何ができないか』春秋社、2003年2月
 広田照幸『教育』岩波書店、2004年5月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月

 斎藤環「ひきこもり対策は「予防」から「対応」へ」=「中央公論」2003年10月号、中央公論新社
 諸永裕司「大学生の自殺 急増の今なぜ」=「AERA」2001年1月29日号、朝日新聞社

この記事が面白いと思ったらクリックをお願いします。→人気blogランキング

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2004年12月 4日 (土)

正高信男という堕落

 NHK人間講座のテキスト『人間性の進化史』を取り扱った「正高信男という頽廃」は、現在執筆中ですので、もう少しお待ちください。今回取り扱うのは、その正高氏が先日の読売新聞に書いた少年犯罪論です。

――――――――――――――――――――

 あの曲学阿世の徒、京都大学霊長類研究所教授の正高信男氏が、平成16年11月22日付読売新聞の「学びの時評」にて、少年犯罪について論じておられる。
 タイトルは、「「心の闇」指摘は的はずれ」。そのとおりである。わが国において、「不可解な」少年犯罪が起こると、即刻「心の闇」を問う報道が多い。しかし、その「心の闇」なるものは、結局マスコミ報道の受けでである「善良な」大人たちが脅えているもの(例えば、漫画、ゲーム、インターネット、携帯電話など)をスケープゴートにするための方便であり、自己検証を含むあらゆる検証を放棄する暴論である。
 正高氏もたまにはやるではないか、と思って本文を読んでいたら、この文章は、むしろ「心の闇」報道よりもさらに奇っ怪なものであった。やはり正高氏は正高氏であったか。
 とはいえ、一番最初の正高氏の問題提起は真っ当である。
《凶悪としか言いようのない少年犯罪が、頻繁に報ぜられるようになって久しい。……そのたびにマスコミは「心の闇」という表現を用いる。しかし、こういった発想は根本的なところで、問題の本質を見誤っている気がしてならない。》(正高[2004]、以下、注意がないなら全てここからの引用)
 しかし、正高氏の言うところの《問題の本質》は、なんと擬似心理学的決定論であるのだ。
 正高氏によると、《私たちが自分自身の行いを説明できるのは……心の中で、ことばによる判断を下しているからに他ならない》。この《判断》を「内的言語」といい、思考の基礎となっている。そして、その「内的言語」は、人間の《長い間の養育と教育を経て、ようやくたどり着く一つの到着点にすぎない》という指摘も、正しいのだろう。
 しかし、正高氏は、だから「心の闇」なんて存在しない、といってしまうのである。正高氏によると、自らの言動は全て内的言語で律することができるから、「心の闇」などあり得ない、というのである。しかし、本当だろうか。正高氏は、「心の闇」という言葉を誤解しているとしか思えない。マスコミが使う「心の闇」は、自分が理解できない(と勝手に思い込んでいる)存在=若年の、「理解できない」部分を「心の闇」というレッテルを貼って逃げているのである。従って正高氏が言うところの「心の闇」、すなわち内的言語で説明できない部分は、マスコミの言うところの「心の闇」とずれている。
 百歩譲って、正高氏の「心の闇」概念を受け入れるとしよう。しかし、仮に内的言語で自らの行動が全て説明できるとしても、それをアウトプットするためには「外的言語」でもって表出させるしかない。しかし、内的言語を全て外的言語でアウトプットさせることができる、という保証など、どこにあるのだろうか。
 そして、正高氏の議論はさらに混乱する。正高氏は、正岡子規の「一匹の人間」という言葉を引いて、
 《私たちは「一匹の人間」として、この世に生を受ける。そののち成長していく中で、ことばによって思考していく術を、ふつうは学んでいく。ところが成人してなお「一匹」として暮らす者の数が、急増しつつあるらしい》
 と説く。
 最後の一文は、一体何を言っているのか、さっぱりわからない文章である。まず、《急増しつつあるらしい》というなら、まずその根拠を示すべきであろう。さらに、《成人してなお「一匹」として暮らす者》の定義がない。これでは、正高氏が自らの思い込みによって物を書いていると謗られても仕方ないだろう。
 これはあくまでも私の推測であるが、正高氏が言うところの《成人してなお「一匹」として暮らす者》の定義は、いわゆる「社会的ひきこもり」だと思う。しかし、「社会的ひきこもり」のものが暴力的であるか、というと、決してそうではない、というのが、「社会的ひきこもり」研究の第一人者である斎藤環氏から提示されている(斎藤環[2003b][2004])。また、斎藤氏は、確かに「社会的ひきこもり」から引き起こされたとしかいえない殺人もあるけれど、それは極限まで追いつめられた「ひきこもり」のものが反社会的な行動に向けて暴発できないからこそ起こった。と指摘している。その証左として、「社会的ひきこもり」が引き起こす殺人は、その対象の多くが家族であり、あるいはその殺人犯と同様の状態に置かれた「ひきこもり」のものの多くが自滅、すなわち自殺を選ぶという。
 正高氏はその前で、アルベール・カミュの小説『異邦人』における殺人犯を紹介している。
《主人公ムルソーは、……友人の女出入りに関係して人を殺し、動機を「太陽のせい」と応える。判事に自分の行動を要約して、「レエモン、浜、海水浴、争い、また浜辺、小さな泉、太陽、そしてピストルを五発打ち込んだこと」……と述べるばかりである》
 断言するが、もし今、ここで殺人事件が起きて、その犯人が引用文のような「動機」を口にしたら、犯人が若年(少年ではない)なら直ちに「心の闇」として報道されるだろう。
 「不可解な」少年犯罪に関して「心の闇」が問われているのは、むしろその「動機」である。少なくとも一昔前は、すなわち、「酒鬼薔薇聖斗」事件や、「人を殺してみたかった」殺人事件に代表されるような殺人事件が喧伝されているときは、自らの動機から行動まで全てクリアにしてしまえる「不可解さ」が問題視されていた(宮崎、藤井[2001])。「心の闇」という言葉は、その検証を逃げるための方便に過ぎない。もっとも最近は、少年犯罪が起こったら、パブロフの犬の如く「心の闇」を振りかざすようになったのだが。
 正高氏は、心理学に心酔する、あるいは心理学を乱用するあまり、物事には全て「動機」がある、と思い込んでしまっている。しかし、自らの言動の「動機」を全て説明できないことこそ、既に心理学によって証明済みなのである。
 正高氏、少なくとも『ケータイを持ったサル』以降の正高氏は、自らの「専門性」に陶酔するあまり、多数の事実誤認と論理飛躍を働いている。しかも、それを検証すべきマスコミも、正高氏のそんな態度を賞賛し、検証しようとする態度はどこにも見られない。正高氏に近い分野の専門家、すなわち認知科学や認知心理学、動物行動学の専門家も、君子危うきに近寄らず、とばかりに黙視を決め込むのではなく、徹底的に批判するべきであろう。今のところ、マスコミで正高氏の言動を批判しているのは、宮崎哲弥氏(宮崎[2003]、宮台、宮崎[2004])と斎藤美奈子氏(斎藤美奈子[2003])しかいないのが現状だ。
 ついでに正高氏の事実誤認に関しても指摘しておく。正高氏は第3段落で《詳細が明らかになったのちも……理解に苦しむ事件は、確かに間違いなく増えている》と書いているが、戦後の少年犯罪を検証してみれば(宮崎、藤井・前掲書、斎藤環[2003a])、現在の観点から「理解できない」犯罪、例えば「切り裂きジャック」事件(1964年)や予備校生金属バット殺人事件(1980年)など、数多くあった。文化庁長官の河合隼雄氏と、評論家の芹沢俊介氏が指摘するとおり、報道の量が殺人の件数を大幅に上回ってしまった、という現実もある(河合隼雄、芹沢[2004])。また、宮崎氏らが指摘する通り(重松、河合幹雄、土井、宮崎[2004])、「大人の犯罪」や過去の少年犯罪が現在のマスコミにとってタブーになっているということも看過できない。
 さらに正高氏は、最後の段落で、《(「不可解な」少年犯罪を)厳罰に処すべきかどうかについても、議論されたことはない》と言っているが、最近になって、「不可解な」少年犯罪が起こるたびに何度「厳罰化」が叫ばれたことか。平成15年7月、長崎県で12歳の少年が5歳の少年を殺害したときに、当時防災担当大臣の鴻池祥肇氏が「殺人犯の親を始終引き回しの上打ち首にせよ。完全懲罰の原則にのっとった刑罰をしないと、戦後教育で育った子供たちを攻勢することは出来ない」と言う趣旨の失言をしたこと、平成16年6月、佐賀県で12歳の少女が同級生を殺害したことに際して、防災担当大臣の井上喜一氏が「元気な女性が増えた」と言う趣旨の失言をしたことを覚えていないとは言わせまい(芹沢[2003]、斎藤美奈子[2004])。
 どうやら正高氏は、論じる対象についての基礎的な知識すら欠いているようである。結局、最近の正高氏の仕事は、「善良な」大人たちや「優等生」たちが抱いている「今時の若者」のイメージに屋上屋を架すことしかしていない。「若者論」に溺れ、マスコミや「識者」にもてはやされている正高氏は、やがて自らの言動を律することができなくなり、華やかな頽廃の道を歩んでいくことになるであろう。
 (2004年12月3日)

 引用・参考文献資料
 河合隼雄、芹沢[2004]:河合隼雄、芹沢俊介「「ぬくもり」を求める子どもたちの現実」=「潮」2004年12月号、潮出版社
 斎藤環[2003a]:斎藤環『心理学化する社会』PHP研究所、2003年10月
 斎藤環[2003b]:斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 斎藤環[2004]:斎藤環「「ひきこもり」がもたらす構造的悲劇」=「中央公論」2004年12月号、中央公論新社
 斎藤美奈子[2003]:斎藤美奈子「斎藤美奈子 ほんのご挨拶」、「AERA」2003年12月8日号掲載分、朝日新聞社
 斎藤美奈子[2004]:斎藤美奈子『物は言いよう』平凡社、2004年11月
 重松、河合幹雄、土井、宮崎[2004]:重松清、河合幹雄、土井隆義、宮崎哲弥「日本社会はどこまで危険になったか」=「諸君!」2005年1月号、文藝春秋
 芹沢[2003]:芹沢俊介「長崎少年事件にみる子供と親の罪と罰」=「論座」2003年9月号、朝日新聞社
 正高[2004]:正高信男「「心の闇」指摘は的はずれ」=2004年11月22日付読売新聞
 宮崎[2003]:宮崎哲弥「今月の新書 完全読破」、「諸君!」2003年12月号掲載分、文藝春秋
 宮崎、藤井[2001]:宮崎哲弥、藤井誠二『少年の「罪と罰」論』春秋社、2001年5月
 宮台、宮崎[2004]:宮台真司、宮崎哲弥「M2 われらの時代に」、「サイゾー」2004年9月号掲載分、インフォバーン

 マーティン・ガードナー『奇妙な論理』全2巻、市場泰男:訳、ハヤカワ文庫NF、2003年1月(上巻)、2003年2月(下巻)
 笠原嘉『青年期』中公新書、1977年2月
 ロルフ・デーゲン『フロイト先生のウソ』赤根洋子:訳、文春文庫、2003年1月
 十川幸司『精神分析』岩波書店、2003年11月
 広田照幸『教育には何ができないか』春秋社、2003年2月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 山本七平『日本はなぜ敗れるのか』角川Oneテーマ21、2004年3月
 ウォルター・リップマン『世論』上下巻、掛川トミ子:訳、岩波文庫、1987年7月(上巻)、1987年12月(下巻)

この記事が面白いと思ったらクリックをお願いします。→人気blogランキング

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004年11月 7日 (日)

正高信男という病 ~正高信男『ケータイを持ったサル』の誤りを糾す~

 以下の文章は、私が2004年に入ってはじめて書いた文章ですが、最近正高信男氏の『ケータイを持ったサル』(中公新書)という本が20万部を突破したそうで。おめでとうございます。
 しかし、この本は内容的に間違いだらけであるのに重ねて、思想的な問題もはらんでいますので、私の現在の見解としてこの文章を公開いたします。なお、現在、この本に関する新しい論考を執筆中です。
 この本に関しては、オンライン書店「bk1(ビーケーワン)」でも批判しておりますので、そちらもご覧ください。
 トップページ→「書評ポータル」→「書評検索」:「書評者名:後藤和智」からアクセスできます。

――――――――――――――――――――

 ついに中公新書からトンデモ本が出た――そう言っても差し支えのないような、あまりにも乱暴で、杜撰な本が出た。
 京都大学霊長類研究所教授の正高信男氏の著作、『ケータイを持ったサル』である。この本は発売以来、新聞その他で大評判になり、新書では、解剖学者の養老孟司氏の一連の著作と並んで、現在でもベストセラー街道を行進中である。今年1月4日付の朝日新聞に掲載された中央公論新社の広告によると、掲載時点で15万部も売れているそうだ(ちなみに養老孟司氏の『まともな人』は24万部だそうだ)。
 私がこの本を手にしたのは昨年12月の上旬で、各所で話題になっていたし、タイトルからして「今時の若者」について取り扱っている本だろうから読んでみようか、という気持ちで読んでみたのだが、一読して唖然とした。冒頭の文は、この本に対する私の第一印象である。
 あまりにもステレオタイプな若者観。あまりにもデタラメな考証。その執筆スタンスは学者のものとは到底思えない。何故このような本がベストセラーとなり、「識者」と呼ばれる人にもてはやされるのか(現役の生物学者までもがこの本を絶賛していた)。そう思えてならない。
 例えばルーズソックスについて述べたくだりで、正高氏は《(筆者注・ルーズソックスの)真の機能にはたと気づいたのだ!》とはしゃいでいるが、正高氏をしてその《真の機能》なるものに気付かせしめたものが、なんとホテルのスリッパなのだ(11~12ページ)。しかも、その正高氏の珍説を裏付けるかのように、正高氏が持ち出してくるのは、①渋谷で靴のかかとを潰して履いている人100人のうち98人がルーズソックスを着用していたこと、②実際自分で着用してみて、ルーズソックスを履いてみると靴の感覚がなくなること、だ。
 これがいかにデタラメな考証であるかは明らかであろう。まず①に関しては、このような街頭調査は「偶然」に極めて左右されやすいし、調査地点が1箇所しかないのも統計学的には極めて大きな問題だ。サンプル数も少なすぎるし、靴のかかとを潰している人だけに限定する理由も分からない。②に至っては、何でこんなものを考証に持ち出してくるのか、と、もはや失笑するほかない。
 そんな初歩的な疑問は少しも抱かずに、正高氏は、ルーズソックスなどの現象を、たとえ家の外であっても「家の中」の感覚でいたい、とする今時の若者の感覚の表れだ、と結論付けている。だが、少し考えれば分かることだが、このような考証で導かれた「結論」に少しの信憑性も見出せまい。
 第3章では、ニホンザルがお互いの位置を確認するために「クー」という音を発する行為に触れ(これを「クーコール」というらしい)、その後唐突に《若者が携帯でメールをやり取りするのと、そっくりだと思う》と切り出してくる(67ページ)。こんな雑駁な比較で「コミュニケーションが退化している」と言ってしまう正高氏の感覚が分からない。他にも、特に第1章と第3章に、同じような粗雑な比較が頻繁に出てくる。こんな比較ができるのも、正高氏が、今時の若者はみんなサルだ、と思い込んでいるからだろう(事実、正高氏は、まえがきで渋谷の女子高生を「珍種のサル」と決め付けている)。
 統計データの面にも大きな問題がある。第2章は、親の年収や養育費の調査が載っているが、どうもこの調査がいただけない。まず、全体的にサンプル数が少なすぎる。また、都市部や農村部、郊外との比較もなく、時系列での比較もない。変数として採用されているのは現在の年収だけだ。あまつさえ、養育費の内訳は、他に統計を調べれば出てくるだろうに、正高氏は、推測だけで計算してしまっている(39ページ)。第3章・87ページの「エレベーターの会話」の調査では、サンプル数と調査方法すら明記されていない。
 第4章で採り上げられている「投資ゲーム」問題でも、正高氏は、女子高生50人を、携帯電話を頻繁に使う人とまったく使わない人、それぞれ25人ずつに分けて、そのグループの中でペアを組ませる、と書いているが、25人でペアは組めない。第5章の「4枚カード」問題でも、何故カードに書かれている文字を「数字」と「アルファベット」から「年齢」とか「社会的な決まり」に変えるだけで、「社会的かしこさ」を測定するテストになるのか疑問である。
 これほどまでに杜撰な本であるが、この程度で驚いてはいけない。同書のあとがきで、正高氏は、こんな恐ろしいことを書いているのだ。
 《ただ、私個人は基本的にサルとなじんだ行動の研究者である。だから、もっともっとサルに近づいた人間が社会にあふれるのを見てみたいと思っている。せいぜい体に気をつけて、長生きを心がけよう。》(184ページ)
 なんということだろう。正高氏は、「現代の日本人はサルに退化している」という架空の仮説を立て、その中で妄想を膨らまして、人間がサルに退化することがさも社会の危機であるかのように煽り立てていたのに、最終的には、日本人が退化することを望んでいるのだ。正高氏にとっては、《サルに近づいた人間が社会にあふれる》事は「よいこと」なのかもしれないが、それが度し難い無責任であることを、正高氏は何故知ろうとしない?
 最後に、私も、正高氏に長生きしてもらいたいと考えている。正高氏が、妄想から脱出し、元の真面目な動物行動学者に戻ることを、私は切に望んでいるからである。
 (2004年1月8日)

この記事が面白いと思ったらクリックをお願いします。→人気blogランキング

| | コメント (1) | トラックバック (1)