2007年4月20日 (金)

想像力を喪失した似非リベラルのなれの果て ~香山リカ『なぜ日本人は劣化したか』を徹底糾弾する~

 (H19.4.21 10:40 書名の間違いがあったので訂正しました)

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 「ご冗談でしょう」。私が書店で、「ダ・ヴィンチ」(マガジンハウス)平成19年5月号に掲載されていた、平成19年4月に新たに発売される文庫や新書の一覧で、講談社現代新書の新刊の1冊として、香山リカ(精神科医)の新著として、『なぜ日本人は劣化したか』なる本が発売される、ということを知ったときの感想である。私はかつて、少し思うところがあって、仙台市内の古本屋を数軒周り、香山のほとんどの著書を収集したことがあるが、『多重化するリアル』(廣済堂ライブラリー/ちくま文庫)の頃から急激に文章が若い世代を糾弾するようなものになるとはいえ、このような実にストレートなタイトルの本が出るとは予想だにし得なかったのである。

 しかしながら、なんと本当に出てしまったのである。しかも、内容はもはや香山自身が劣化したとしか言いようがないほどのひどさなのだ。言うなれば、香山の初期の著書である『リカちゃんのサイコのお部屋』(ちくま文庫)に出てくるような、何らかの悩みを抱えて香山に手紙で相談してくるような人に対し、香山が「お前は劣化している。そしてこのように劣化した人間ばかりとなり、劣化した社会を構築しているのが、今の日本なのだ」と糾弾しているような本である、と考えれば、わかりやすいだろうか。

 香山の「変貌」に関してかいつまんで説明しよう。初期の香山は、おおむね、『リカちゃんのサイコのお部屋』の如き、「お悩み相談」系とでも言うべき仕事か、あるいは当時の女性における流行やテレビゲームに関して軽妙なエッセイを書いているような、単純に言えばエッセイスト的な存在であった。ただ、平成7年ごろを契機に、香山の言説の中に、なかんずく青少年や若い女性における流行を指し、これは社会の抱えている病理を表しているのではないか、と嘆いてみせるようなものが登場するようになった。とはいえ、当時の香山の態度は、そのように嘆きつつも、結局のところ嘆きを内に抱えながら考え込む、というようなスタンスで、簡単に糾弾するようなことはなかった。

 平成10年ごろには、香山の言説の中に「解離」や「離人症」という言葉が頻繁に出てくるようになる。契機は、同年に栃木県黒磯市(当時)で起こった、中学生による教師殺傷事件だ。この事件を契機に、宮台真司が「脱社会的存在」という概念を振りまいたのと同様、香山もまた「解離」「離人症」という概念を振りかざした。ただしスタンスとしては、それほど変化しているわけでもない。

 香山のスタンスが急激に変化するのは平成13年9月11日の、米国における同時多発テロである。この事件を契機に、香山は、現代人は「解離」的な状況を作り出すことによって多元的な自己を生きてきたが、現実はそういう生き方で生き抜くことはできない、だから「解離」的な人たち、なかんずく若年層を現実に引き戻すべきだ、という言説が頻出するようになった。その象徴とでも言うべき著作が『多重化するリアル』であり、この時期以降の香山のベストセラーである、『ぷちナショナリズム症候群』『就職がこわい』『いまどきの「常識」』では、おしなべてこのような認識が繰り返されている。

 そして、香山の「変貌」がもはや完全なものとなったとして認識できるのが、平成18年2月に上梓された『テレビの罠』であろう。同書においては、もはや「解離」という言葉すらほとんど見あたらず、しきりに日本人がだめになった、おかしくなったと連呼しているだけのものとなってしまったのだ。そして、完全に変貌しきった香山の象徴的な著書として記録されるべき著作――それが、『なぜ日本人は劣化したか』に他ならない。

 のみならず、同書は、主として若年層に対する罵詈雑言で満ちており、「左派」と呼ばれる側にいるはずの香山が、若年層に対する偏見を扇動しているのである。その意味では、本書は批判どころか、徹底的に糾弾されるべき本である。

 香山は同書の「まえがき」において、働こうとしない「ニート」の若年層や(このような認識が間違いであることくらい、『「ニート」って言うな!』などを読めば直ちにわかるだろうが)、子供を車に置き去りにして子供を死なせる若い母親(センセーショナルに採り上げられているだけではないか?)、そしてやる気のない東大生を採り上げ、次のように述べる。曰く、

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 私たちはこの変化を、「一過性」「一部の人だけの問題」として無視する、あるいは見守ることはできないのではないか。

 いや、「変化」などという留保つきの言い方は、もうやめよう。

 日本人は、「劣化」ししているのではないか。それも全世代、全階層、全分野にわたって。しかも、急速に。

 私自身、そういう″直感″を抱いてから、それが″真実″だと認めるまでには、やや時間がかかった。私はこれまで、病理的な現象からテクノロジーの普及まで、社会の変化をおおむね肯定的に受けとめ、解釈してきたからだ。

 しかしここに来て、私もいよいよ認めざるをえなくなった。

 日本人は、「劣化」しているのだ。

 それは本当なのか。希望はもうないのか。これから考えてみたい。(香山リカ[2007]pp.6-7)

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 《全世代、全階層、全分野にわたって。しかも、急速に》などと能書きを垂れているものの、香山が本書において、若年層ばかり問題にしており、他の世代を問題にする場合も、やはり若年層の「劣化」に結びつけて語りたがっているのは明らかである。従って、香山の言うところの「日本人」は、――多くの俗流「日本人論」がそうであるように――「今時の若者」と同義であることは言うまでもないだろう(どうでもいいけれども、香山は冒頭において、「日本人の志を取り戻せ」という趣旨の奥田碩の発言を肯定的に採り上げている。香山が「若者の人間力を高めるための国民運動」に委員として参加しているから、会長である経団連会長(現在は御手洗冨士夫にポストを譲ったけれど)は批判できないのか?)。

 しかし、感慨深いものがある。なぜならこのようなことは、少なくとも平成13年頃までの香山なら絶対に言わなかったことである。それまでの香山のスタイルというものは、社会に対してなにか言いたいけれども、とりあえず内に抱え込んで、結論を安易に出さずにしておく、というスタンスだったからだ。それがこのように断言するようになったとは。

 それはさておき、香山がここまで強く断言できるには、それなりの証拠があると見ていいだろう――だが、残念なことに、決してそうではない。香山が、日本人が「劣化」しているという証拠は、結局のところ香山の直感と、それを支持してくれそうな身近な人たちの発言なのである。真に客観的と言えるような証拠など、はっきり言って皆無なのだ。

 例を示してみよう。香山は、若年層の文字を読む能力が低下している証拠として、日本人が長い文章を読めなくなった、ということを示している。曰く、香山が最近頼まれた文章の長さに関して、当初、香山は1200字の原稿として書いた。ところが香山が編集者に問い合わせてみたところ、1200字ではなく200字であった。さらに、身近な編集者に尋ねたところ、かつては800字くらいでも多くの人が読めたが、今は200字くらいでなければ読者は読むことができない、というのが業界の常識なのだ、という。従って、日本人の知性が劣化しているのは明らかである(香山、前掲pp.14-18)。

 めまいがしてきた。だが、このような論証立てが、次から次へと続くのが本書なのである。つまり、まずはじめに自分の直感があり、それを都合良く正当化してくれるような身近な事実があり、そして自らの思っていることは正しかったのだ、日本人は劣化している!というのが本書の主たるストーリーなのである。もちろん、他の自称に関してもこれと同様。今の学生が90分の授業を聞けなくなったことの証拠としてあげているのは身近な教授。ちなみに私は、大学院生となった今まで、私の参加した全ての授業で、多くの学生が最後までしっかりと、90分の授業をしっかりと聴講していたが(まあ、中にはねる人も少なからずいるかもしれないけれど)。さらに言えば、今の学生の、授業への出席率は良くなっている、というのもよく聞く話である。ということは昔の学生は授業に出るほどの力すらなかったようである。日本人は進化しているのだ(ちなみにこの話にも根拠は示していないが、香山のやり方をまねれば、このように言うことだってできるのだ、ということを示したかっただけである)。フェミニズムやリベラルの衰退の原因について述べられたところも、引用しているのはせいぜい荷宮和子の言説や、山口二郎などの、平成17年の総選挙に関する「解説」だけであって(ちなみに、この選挙における「解説」のいかがわしさについては、後藤和智[2007]で採り上げるつもりである)、やはり公明党の協力や小選挙区制については採り上げられていない。

 もちろん、自らに都合のいいことが書かれている記事に関して、それを疑って読むことと言うこともない。例えばモラルの「劣化」を採り上げた第2章においては、そこで採り上げられているほとんど全ての事象が、産経新聞が今年から始めているシリーズものの企画「溶けゆく日本人」なのである。ちなみにこの記事については、「はてなブックマーク」などで、少なくない人から「釣り」「ネガティヴなことばかり採り上げすぎ」「また産経か」と言われているし、そして私が見た限りでは、この意見は正しい。

 ちなみに浅野智彦らは、都市部の若年層に対するアンケート調査から、現代の若年層の道徳、規範意識は決して低下していない、という結果を出しているのだが(浜島幸司[2006])、まあこれに関しては置いておこう。

 ゲームに関する記述も、はっきり言ってでたらめの極みである。例えば、次の文章を読んでいただきたい。

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 ″お得感″を目的とする実用ものとは異なるが、すぐに目に見えて結果が出るゲームの中に「暴力的ゲーム」を加えることもできるかもしれない。

 「スーパーマリオブラザーズ」など大ヒットゲームの開発者として知られる任天堂の宮本茂専務は、〇七年三月、アメリカで行われたゲーム開発者会議で基調講演を行い、その中で「ゲーム開発業者は熱心なファンが好む暴力的ゲーム作りを偏重し、一般利用者向けの楽しいゲーム開発を怠ってきたため、ゲーム業界は過去一〇年間に信望を失ってしまった」と、自らも属する業界のあり方を厳しく批判した(産経新聞、二〇〇七年三月一〇日)。(香山、前掲pp.75)

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 だが、ここで香山が採り上げている記事は、室田雅史によれば、誤報であるというのである。これを室田は、この記事が時事通信と産経新聞で配信されたときからかなり早い時期に、さらに言えば講演の原文に依拠して論証していた。

 香山の魔術にかかれば、近年になって、いわゆる「脳トレ」系のゲームが売れるようになったことも、日本人が劣化し、ゲーマーにおける想像力や我慢する力が低下したから、ということになる(ちなみに香山は、近年はすぐに結果が出るようなゲームしか売れなくなった、と嘆いているが、その根拠もまた《あるゲーム開発者》(香山、前掲pp.71)から聞いた話である。これでは、岡田尊司が、ゲームを制作している会社は、ゲームが売れなくなることを心配しているため、ゲームが子供の脳に及ぼす悪影響に関して口をつぐんでいる、という行為が業界における公然の常識である、と陰謀論を述べたのとどこが違うのか)。実用系のゲームが登場したことによって、これまでゲームに親和的でなかった層にも市場が開拓された、という見方のほうが有力だろう。

 第一、かつての香山は、テレビゲームについては親和的な立場をとってきたのではないか?まともだった頃の香山の中でも、さらに良質な著作として、『テレビゲームと癒し』(岩波書店)があるが、少なくとも同書は、テレビゲームによる精神医学への応用など、ポジティヴな側面にも触れられており、さらに言えば安易な擁護論にも与せずに、公平に評価を与えようとする態度が出ていた。それがこのざまだ。おそらく香山をゲームバッシングに走らせた要因としては、平成17年中頃に起こった監禁事件を挙げることができるのかもしれないが(その時の香山の言説を批判したものとして、私のブログの「俗流若者論ケースファイル33・香山リカ」がある。ちなみに当然本書においては、ここで批判した文章と同様の論調での「萌え」批判だってあり、なおかつ問題点までそっくり同じだ)、かつて香山が、斎藤環の「ゲーム脳」批判を引いて、「ゲーム脳」説の非科学性を訴えていた(香山リカ、森健[2004])のとは隔世の感がある。

 さらに言えば、これだけではない。同書においては、何が何でも若年層が悪い、若年層の性で香山が悪いと思っている事態が生じた、ということを主張するためのこじつけだって頻出する。例えば新聞の文字が大きくなったことについて、高齢者にも読みやすいようにしているのだろうと考えるのが普通だろうが、香山はこれだって若年層のせいになってしまうのだ。

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 よく言われることだが、いま六〇代から八〇代のいわゆる高齢者と呼ばれる人たちの多くはむしろ向学心にあふれ、むずかしい本、半ば難解な哲学の講義を受けにカルチャースクールに通いもする。電革で、昔の活字の小さな時代の文庫本を熱心に読む老紳士の姿も、しばしば見かける。

 そう考えると、「字を大きくして」「中身を簡単にして」と望んでいるのは、実は高齢者ではなくて、若い人たちなのではないか、という気もしてくる。実際に冒頭に述べたように、若い女性が読む雑誌でも「かつては一テーマ八〇〇字、いまは二〇〇字」というように″簡略化″が進んでいる。この人たちに関しては、視力が低下しているわけでも長い文章を読む体力がなくなっているわけでもないことは、明らかだ。(香山、前掲pp.26-27)

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 いい加減にしていただきたい。こういうことを言っているのは全世界で香山だけだ(おそらく)。第一、このような言い方が許されるのであれば、香山のここ1年ほどの発言こそ《簡略化》の象徴ではないか。

 香山はリストカットに代表されるような若年層の「生きづらさ」に関しても、若年層の精神が本質的に弱くなっているからであり、さらに言えば若年層の「問題行動」の原因さえも、若年層の体力の低下だと述べている(香山、前掲pp.85-94)。『生きさせろ!』なる秀逸な本が香山に書評されて喜んでいる雨宮処凜は、香山がこのように述べていることをどう思うのか、是非お訊きしたいものである(雨宮さん、ごめんなさい)。

 挙げ句の果てには、このようなことを言ってしまう。これでは戸塚宏と同じではないか。

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 しかも、これまでの章で述べたように、この劣化は知識やモラルといった主に脳内での活動に限って進んでいるのみならず、体力、身体能力などからだの領域でも起きているようなのである。すぐに「死にたい」「生きるのに疲れた」とつぶやく若者の例も紹介したが、「朝、起きて″ああ、今日もいちにち生きなければならないのか″と思うとそれだけでグッタリする。夜、眠るとき″このまま明日の朝が来なければいいのに″と祈ってしまう」と訴える若者を見ていると、何かをしろ、と言われているわけではないのに、ほとんど本能のレベルで片づくような呼吸、食事、睡眠といったものがこの人たちに″とてつもない負荷″として伸し掛かっているという事実に、愕然とすることがある。

 こうなるともはや、生物として生命を維持する力そのものが劣化しているのではないか、とさえ言いたくなる。ちょっとしたことで傷ついて、「もう死んだほうがいい」と考える若者が増えているのも、心が弱くなっているのではなくて、生物としての耐性が低くなっており、「死にたい」という発想がわくのは、彼らにとってはある意味で自然の反応なのではないか、とさえ思うことがある。(香山、前掲pp.144-145)

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 これから香山のことは差別者であると認定しよう――私にそのように決断させてくれた文章であった。もはや何とも言うまい。

 何とも言うまい、とは言ったものの、やはり無視できない部分がある。それは、インターネットに関する記述である。香山は、インターネット上のコミュニティ「セカンドライフ」について、以下のように述べる。やはり香山は差別者でしかない。

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 では、生物として劣化し、体力も性欲も繁殖能力さえ喪失しつつある人たちは、どこに向かうのだろうか。

 その″行き先″として注目されるのが、二〇〇七年春にも日本語版サービスが始まるとされる3D巨大仮想空間「Second life(セカンドライフ)」である。(香山、前掲pp.146-147)

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 つまり、インターネットのコミュニティは、生物として劣化したものの行き着く先であると!なんという物言いであろうか。

 これに関しては、実証的な視点からの批判が必要であろう。インターネットによる社会関係資本の形成については、既に少なくない研究が積み重ねられている。

 例えば池田謙一は、インターネットのメールの利用に関してアンケートを分析したところ、テクノロジーに対する親和性が高いことや、あるいはインターネットのメールの使用が、フォーマルな集団への参加を促し、また非寛容性を減少させる効果があるのではないか、ということを実証している。他方で池田らは、元々社会関係資本に恵まれた人ほどインターネットに親和的である、という見方もできるであろう、としている(池田謙一[2005]第2章)。他にも多くの研究があり、ここでは割愛するけれども、少なくとも香山が考えているような、インターネットのコミュニティが頽廃的な世界である、という見方は辞めたほうがいいようだ。

 ちなみに、香山のインターネットに対する偏見は、やはり平成14年の『多重化するリアル』が始祖である。なぜなら同書において「解離」を蔓延させている張本人として採り上げられているのが、インターネットであり、また携帯電話であるからだ。

 さて、これまで、私は同書における、香山の態度に対して批判を重ねてきた。具体的に言えば、香山は、社会的な問題に関して、自分で勝手に「劣化」の烙印を押しては、それを薄弱なる根拠で執拗に嘆いている、という行動を繰り返しているだけであり、言説としての価値は全くない。なるほど、帝塚山学院大の教授(助手でも准教授でもない!)なら、私にでもなれるようだ。大学院を卒業したらそこに就職しようか。

 同書において、香山は、まず日本人が「劣化」しているという事実を認めるべきだ、そこからでないと日本人の「劣化」を食い止めることはできない、と主張している。もちろん、このような見方が傲慢であることは言うまでもないだろう。第一、「劣化」なる烙印を、特に若年層に対して執拗に押し続けているのは、他ならぬ香山だからだ。そして現代の若年層は、香山によって「劣化」している日本人の象徴であるという烙印を押しつけられ、その存在価値を減じられる。香山の言っていることは全て偏見か、そうでなければ怪しい主張の受け売りに過ぎず、内容はないに等しい。

 さらに言えば、香山は同書の中では、日本人の「劣化」に警鐘を鳴らすべき人物として書いている。香山は後書きで言い訳臭く、「自分も「劣化」しているかもしれない」と書いているけれども、本書を読む限りでは、香山にそのような認識などかけらもないことは明らかだ。

 しかしながら、香山はそのようなヒロイズムに浸ることによって、実証的な議論を参照すること、あるいは実証的であるように心がけることを放棄している。同書が客観的な根拠をことごとく欠いていることも、これが原因であろうか。

 香山は、特に『ぷちナショナリズム症候群』を出した直後から、左派の若者論の指標として、その際前線で活躍してきた。それまでは自己満足の如きエッセイや、あるいは精神分析の流行の受け売りでしかなかったのが、同書によって急に最前線に出ることとなったのだ。爾来、香山は、特に若年層の「右傾化」なるものを嘆く記事で頻出するようになった。そして、その歴史は、香山の「劣化」(!)の歴史でもあった。左派が少年犯罪や青少年の規範意識に関して、実証的な視点からの反論を試みなかった、あるいはほとんど採り上げなかったことに関しても、香山という存在があったから、ということは大げさだが、少なくとも左派は若年層に関して、理解してあげるそぶりを見せながら、本音ではバッシングしてきた(その象徴としてあるのが、本書にも一部だけだがある「ネット右翼」論である)。その象徴が香山であったのかもしれない。

 とりあえず本書に関して私が言えることは、香山こそが「劣化」した、ということだ。香山は同書の中で、日本人が「劣化」している!という自らのでっち上げた物語に酔い、もはや何も見えなくなってしまった。これ以上、香山の自己満足に我々は付き合っている必要はない。それと同時に、左派もこのように何も生み出さなくなってしまった香山とは一刻も早く決別すべきだ。優れた論者はいくらでもいる。

 とはいえ、私如きがこのような文章を書いたとしても、香山の地位は低下しないだろう(第一、このように無意味な本が平気で出版されているのだ)。ただし、私は、香山の言説を嬉々として受け入れている読者や編集者に対して訴えたいことがある。香山の言説は、結局のところ中高年層と若年層を分断させ、上の世代が下の世代に対して「こいつらが生きづらいのは自己責任だ」と罵るようなものでしかないということだ。そしてそのような言説ばかりが蔓延する将来像とは何か、考える必要があるのではないか。少なくとも香山の暴走を止めることができるのはあなた方しかいないのだ――と。

 引用文献、資料
 後藤和智「左派は「若者」を見誤っていないか」(仮題)、「論座」2007年6月号、ページ未定、2007年5月(近刊)
 池田謙一(編著)『インターネット・コミュニティと日常世界』誠信書房、2005年10月
 浜島幸司「若者の道徳意識は衰退したのか」、浅野智彦(編)『検証・若者の変貌』pp.191-230、勁草書房、2006年2月
 香山リカ、森健『ネット王子とケータイ姫』中公新書ラクレ、2004年11月
 香山リカ『なぜ日本人は劣化したか』講談社現代新書、2007年4月

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2007年4月17日 (火)

本能の罠 ~戸塚宏『本能の力』から考える~

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 戸塚宏(戸塚ヨットスクール代表)が、平成19年4月の新潮新書の新刊として『本能の力』なる本を出した。とりあえず本書に対する感想としては、単なる自己肯定というか、ひたすら「自分は悪くない」ということが書かれているばかりであり、ある意味では駄々をこねているような本と言えるかもしれない(笑)。同スクールに批判的な人は、同書を読んで、「戸塚は全く反省していない!」と憤慨するかもしれないが、まあ実際そのとおりではある。とりあえず、同スクールがどのような理念で「教育」を行なっているかということが書かれており(まあ戸塚が出所したあとも自殺者が出ているわけだけれども(「週刊現代」平成18年11月28日号、pp.34-37)、その点に関する言及は一切なし)、その点においては資料的価値は確かに「ある」。

 しかし本書において真に問題とすべきは、第1章の体罰を肯定している部分ではない。そうではなく、本書のタイトルである「本能の力」という部分にある。

 まず戸塚の事実認識における間違いを検討しておきたい。以前私が石原慎太郎と義家弘介の対談を批判したときにも、広田照幸による研究を引き合いに出して反論したが(広田照幸[2001])、別に「体罰禁止」は戦後民主主義教育の元で行なわれたものではなく、明治の比較的早い時期から体罰は禁止されていた。戸塚も石原や義家とほぼ同等のことを言っているが(戸塚宏[2007]pp.23-24)、とりあえずこのことくらいは踏まえておいて欲しい。もう一つ、我が国において不登校が増加したのは、子供たちにおける「本能の力」が衰退したからだ、という認識があるけれども、滝川一廣によれば(滝川一廣[2007]pp.227-230)、少なくとも統計的には、現在よりも昭和30年代のほうが長欠率は高かった(さらに言えば我が国よりも英国や米国のほうが長欠率は高い)。もちろん、長欠や不登校に関する質的な変容は一部に見られるのだけれども、まあ統計的にはこのような事実があることを押さえておけばよろしい。もちろん、少年犯罪(まえがき)や「ニート」(第8章)に関する勉強不足も目立つ。これらに関しては、著書も含めてとにかくいろいろなところで解説してきたので、わざわざ繰り返すこともないと思うが(とりあえず前者に関しては、浜井浩一、芹沢一也[2006]を、後者に関しては、乾彰夫[2006]と雨宮処凜[2007]を参照されたし)、これらに関しては著者がそこらで聞きかじった話をそのまま記述してしまっているのは明らかである。

 事実認識に関する検討はこのくらいにして、同書において本当に問題とすべきのはどの部分なのか、ということについて述べていこう。

 さて、戸塚が本書においてその重要性を繰り返し述べるのは、戸塚が言うところの「本能の力」である。戸塚は、同書の「まえがき」において、以下のように述べている。

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 本書で述べたいことは、現代の子供たちが深刻な状況にあるのは、「本能」の弱さに原因があるということです。本能を強くしてやれば、子供の抱える問題の多くは解決できるのです。そして、その本能を強くするには、体罰がきわめて効果的であることを私は現場で経験的に学び、数多くの実績を残してきたのです。

 ところがマスコミは、子供が抱える問題の本質には一切目を向けず、体罰ばかりを問題にします。彼らは自分の頭で考えることなく、戦後教育の欺瞞の象徴ともいえる「体罰禁止」を盲目的に信じ込んでいます。その間違った前提をもとに私を批判しているとしか思えません。

 私に質問をした記者はその典型でしょう。そんな批判を繰り返したところで、子供の抱える問題が解決するはずはありません。(戸塚、前掲pp.15)

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 まあ、言い訳としか言いようのない文章ではあるが、戸塚の言説においては、「本能」の前には全ての実証的な教育言説が無力と化する。先ほど挙げた実証的な視点が見られないことは、ひとえにこのような認識が戸塚に横たわっているからか。同書においては、教育や青少年に関する記述のほとんどが、戸塚の直感で書かれているが、戸塚の言っていることに関する客観的な裏付けはないものばかりである(戸塚、前掲pp.85の部活動に関する記述など)。

 「いじめ」だって肯定される。戸塚によれば、「いじめ」という言葉を聞いて想起されるような「いじめ」とは、本来の「いじめ」とは違うという。

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 昔は異年齢集団という形で、子供はグループを作って遊んでいました。第一次反抗期に子供は母親に憎まれ口を叩いたり、言うことを聞かなくなったりします。その行動は、「母親から離れて外へ出て遊びたい」という欲求と結びついています。この欲求は進歩を促すものです。だから、三歳くらいから子供は自ら外へ出て子供同士で遊ぼうとします。このときに異年齢集団に入るわけです。この集団は三歳から十三歳くらいまでの子供たちで構成されていました。

 この集団の中では、小さな子供は大きな子供の支配を受ける。そして何年か後には自分が支配者になる。人間は被支配、支配その両方を経験しないと駄目です。被支配の経験が支配の能力を作り出していくのです。

(略)

 もちろん、支配階級の子供たちは本能でいじめているのであって、理性的、教育的観点からいじめているわけではないでしょう。それでも、子供は被支配時代にいじめられることによって進歩していきます。いじめられることによって、子供は子供なりに考えます。なぜいじめられたのか、いじめられないようにするにはどうしたらよいのか、と。

 いじめというのは本来、本能的であっさりとしたもので、相手を適切に評価しているだけなのです。体罰と一緒で、相手の利益のためのものです。そして、必ず出口があります。(戸塚、前掲pp.65-66)

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 ただし、残念ながら、戸塚の言っていることは単なる美辞麗句でしかないだろう。第一に、果たしていじめている側の評価が正当である、ということは誰が決めるのだろうか。戸塚は本書の別のところで、「体罰」の定義を《相手の進歩を目的とした有形力の行使》(戸塚、前掲pp.20)としているが、これも同様で、「相手の進歩を目的と」する、ということが、もしかしたら有形力を行使する側の身勝手である可能性を否定することはできないだろう。第二に、このように戸塚が「今の「いじめ」は間違っている、正しい「いじめ」はこういうものだ」としても、そのように述べることによって、果たして現在横行している「いじめ」をどのように解決するのか。その点に関しての言及が少しもないまま、戸塚はこのように語ってしまっているのだから、まさに美辞麗句としか言いようがないのだ。

 「本能」に依存してしまうと、特に労働環境や経済の問題が大きい問題に関しての不勉強も正当化されてしまうようで、戸塚は「ニート」に関して以下のように問題の多い記述をしている。

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 こういう子供の親に話を聞いてみると、共通項らしきものがありました。それは、本当に腹を空かせた経験がない、ということです。少しでも腹が空くと、スナック菓子か何かを口に入れる。幼児の頃からずっとその調子で育ってきた。ヨットスクールに入って規則正しい暮らしをして、初めて空腹感を味わったという生徒が大勢います。

 果たして、そんなふうに育った子供が中学生、高校生になってから、生産する喜びを感じることができるのか。私は絶望的な気持ちに襲われました。とにかくできるかぎりのことはやってみようと試行錯誤を始めました。誰かが少しでも彼らの本能を解発する手伝いをしてやらなければ、彼らは生産すること、つまり仕事に喜びを感じることなく人生を送らなければならない。あまりに哀れです。(戸塚、前掲pp.161)

―――――

 経団連とか「若者の人間力を高めるための国民運動」あたりが都合よく利用しそうな認識だなあ…などという邪推はさておき、少なくともこのことが当てはまるのは、戸塚のスクールに入所してくるような一部の子供であって、戸塚が問題にしているような「ニート」全般ではない。そもそも既に多くのところから、「ニート」は労働問題である、という認識が提出されているのだが、その点に関する配慮に欠けているのではないか。

 さて、ここまで、私は戸塚における認識を批判してきた。具体的に言えば、戸塚の認識に通底しているのは、現代の子供たちや青少年、若年層における問題の「本質」(つくづく戸塚はこの言葉が好きだよなあ)は、彼らにおける「本能の力」の衰退が根本的な原因であって、その原因は、戦後民主主義教育を代表とする「本能」や「力」を否定するような教育である、ということである。もちろん、このような認識に浸ることによって、戸塚が社会的な要因を排した議論を行なっていること、そしてその問題はここまで述べてきたとおりだが、このような認識を元に青少年や若年層について語っているのは、何も戸塚だけではない。

 例えば澤口俊之がいる。澤口は、やはり戦後民主主義教育をはじめとする、「適切な環境」から逸脱した子育ての環境が原因で、現代の青少年はおかしくなった、という認識を述べているが(澤口俊之[2000])、これに関しても、そもそも青少年に関する認識や客観的事実を踏まえていない点において問題がある言説と言うことができる(そういえば、澤口は理想的な環境として戸塚ヨットスクールを挙げていた。どこか象徴的だなあ)。

 そして、このような言説を振りまいているものの代表として、私は筑紫哲也を挙げることとする。読者としては、戸塚と筑紫は対極に位置するような人物だろう、と述べられる方もいるかもしれないが、筑紫の言説は、実際のところは戸塚とはかなり近いところにあるのだ。以前筑紫を批判した文章から、再度引用することとしよう。

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 この国の子どもたちは、生きもの(動物)としての人間が経験する実感から極力切り離される環境で育てられている。寒い、暑い、ひもじい、そして痛いという感覚から遠ざかるように日常が組み立てられている。何度も言うことだが、この国ほど、野に山に川にまちに子どもが遊んでいない国は世界中どこにもない。(筑紫哲也[2005])

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 いかがであろうか。この文章を読めば、少なくとも筑紫の認識は、根底のところで戸塚と相違ないではないか。

 追い打ちとしてもう一つ。

―――――

 子どもたちを一週間、自然のなかに置く。そこでどう遊ぶか、大人は指図せず放って置く。大人は野で寝そべっていて、子どもたちが危ないことにならないようにだけ注意しておればよい……。

 普段あまりにも「自然」から切り離されている者が、そこに戻ることは人間が生きもの、いや動物の一種だと実感する大事な機会だと私も思う。寒い、暑い、痛い、快い、など肉体の実感から遠ざかるように育てられている子どもたちにとっては、なおさらである。だが、これだけ遠ざかってしまうと、そこに回帰するのは容易ではない。

(略)

 自然のなかで過ごさせようと、山の中に泊めると、林のそよぐ音、谷川のせせらぎの音、虫の鳴く音などがうるさくて眠れない都会の子が多い。戻った都会の自宅は人工音だらけなのだが、そこではぐっすり眠れるという。

 虫の音に美しきを感ずるのが日本人の感性で、「騒音」と見なす西洋人とそこがちがう――というのが長らく日本人ユニーク論の論拠のひとつだったのだが、そういう日本人はやがて絶滅に向かうだろう。(筑紫哲也[2006]pp.88-89)

―――――

 いかがであろうか。結局のところ、「左派」であるはずの筑紫もまた、若年層における「自然」の喪失が全ての問題の起点である、というような認識を述べているのだ。

 私はこれは危険なナショナリズムの兆候であると考える。なぜなら、少なくとも彼らの議論は、第一に青少年に関して述べる際に重要である、犯罪統計などのデータを元にしていないという問題点があるが、それよりももっとも大きな問題点として、彼らが自らの生活環境、あるいは思い出を理想とし、なおかつそれが崩壊したことこそが物事の本質である、と考えている。裏返せば、彼らの理想とする生活環境が「あった頃の」日本人と、それが「ない」異形としての「日本人」(「今時の若者」!)に、身勝手に線を引いて考えているのである。

 そしてこの根底にあるのが、いわば(かつての)「日本」に対する無条件の信頼である。要するに、「かつての」日本人は無謬出会ったが、何か「問題のある」生活環境が開発された、あるいは輸入されることによって、「かつての」すばらしい日本人が壊された、という点に関しては、実際のところ多くの人が支持しているのである(戸塚、澤口、筑紫のみならず、例えばそのような傾向は、近年の高村薫や香山リカにも見られるものだ)。立ち位置の左右にかかわらず、そのような認識ばかりが横行しているような現在においては、もはや青少年に関する、科学的、客観的な議論は、もはや望めない、ということができるかもしれない。

 だが、事実や統計に基づいた研究が如実に示すのは、結局のところ問題の構造には普遍的なものと、時代によって特徴的なものがあり、さらに言えばそれらを青少年個人の問題に押しつけてはならない、ということだ。その点を踏まえない議論など、単なる理想論、あるいはイデオロギーの押しつけで終了してしまうだろう。いや、それだけではまだいいのだ。問題は、「解決策」に関しては違うことばかり述べているにもかかわらず、結局根底の認識が同じだから、なんだかんだ言って「今時の若者」は以上だ、というところで大同団結してしまうことである。そしてその兆候は既に出始めている。

 教育再生会議などの問題の多い教育政策に対して、実証的な、あるいは経済論的、政策論的な視点からの批判や反論ではなく、イデオロギーにイデオロギーをぶつけるような批判しかないというのも問題だ(その点では、いわゆる「学力テスト」の訴訟の原告として子供をダシにするのも大問題だ)。大事なのは、厳密に事実や統計に基づいた批判であって、言うなれば民主党や社民党、あるいは共産党などの野党の議員が、単純に少年犯罪は減少しており、「ニート」は労働問題であるという認識を示せばいいのである。

 また、戸塚をはじめとして、「こうすれば青少年問題は解決する!」と主張する人が多いが、確かに彼らの主張する方法論を用いれば、「彼らの施設に入所してくるような」青少年の抱える問題は解決するかもしれない。しかしながら、青少年全体の問題が解決するというのは、単なる妄想に過ぎないのではないか。このことに自覚的な「支援者」「教育者」は、私の知る限りでは、残念ながら工藤定次など極めて少数である(もっとも、工藤に関しても「家族丸ごとニート」なんて変なことを言っていたりするけれども…)。

 引用文献
 雨宮処凜『生きさせろ!』太田出版、2007年3月
 筑紫哲也「フツーの子の暗黒」、「週刊金曜日」2005年11月18日号、金曜日、2005年11月
 筑紫哲也『スローライフ』岩波新書、2006年4月
 浜井浩一、芹沢一也『犯罪不安社会』光文社新書、2006年12月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』、名古屋大学出版会、2001年1月
 乾彰夫(編著)『不安定を生きる若者たち』大月書店、2006年10月
 石原慎太郎、義家弘介「子供を守るための七つの提言」、「諸君!」2007年3月号、pp.124-138、文藝春秋、2007年2月
 澤口俊之「若者の「脳」は狂っている――脳科学が教える「正しい子育て」」、「新潮45」2001年1月号、pp.92-100、新潮社、2000年12月
 滝川一廣「不登校はどう理解されてきたか」、伊藤茂樹(編著)『リーディングス 日本の教育と社会・8 いじめ・不登校』日本図書センター、pp.227-242、2007年2月、初出1998年
 戸塚宏『本能の力』新潮新書、2007年4月

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2006年6月24日 (土)

コメントへの返答・06年06月24日

 「論壇私論:「論座」平成18年6月号」に寄せられた以下の質問にお答えします。

―――――

 本筋からそれますが、信田さよ子氏が「アダルト・チルドレン」に関する謝った理解も待て広めているとありますが、では管理人さんのアダルト・チルドレン理解はどのようなものでしょうか?ぜひお聞かせ下さい

―――――

 まず、引用文中の《「アダルト・チルドレン」に関する謝った理解も待て広めている》というくだりにおける、《謝った》は「誤った」の、《待て》は「また」の誤りでした。訂正します。

 さて、「アダルト・チルドレン」に関してですが、この言葉の本来の意味とは、《幼少期にアルコール依存症などの親から精神的・肉体的な虐待を受けたことが原因で、情緒不安定・鬱状態・拒食・過食などに陥りやすい性格が形成されている大人のこと》(『明鏡国語辞典』大修館書店)というものです。この言葉が生み出されたきっかけは、1980年代の米国におけるアルコール依存症の治療の「副産物」として生まれた概念です。

 それが我が国において平成7~8年頃に我が国に紹介されると、その言葉が意味を薄められて、自らも「アダルト・チルドレン」であると「宣言」してしまう人が続出しました。そればかりではなく、単純に「大人になりきれない「今時の若者」」という歪んだ解釈も一部で出てくるようになった。その延長上にあるのが、私が『「ニート」って言うな!』(光文社新書)でも批判的に触れた、荒木創造『ニートの心理学』(小学館文庫)です。

 話が少々脇道にそれてしまいましたので元に戻しますと、私が「ベター4」として採り上げた信田氏の文章では、下のように書かれています。

―――――

 イノセンスに魅せられ自己責任からの解放を求めたひとたちに対し、96年から私は一貫して①の方向性(筆者注:PTSD概念の、《フェミニズムや女性学の発展、虐待した親の告発》などにつながる影響)を目指したカウンセリングを行なってきた。(信田さよ子「タイム・トリップの快感?――江原啓之と前世ブームが意味するもの」=「論座」2006年6月号)

―――――

 しかし、米国における「アダルト・チルドレン」運動のもたらした悪影響に関し、信田氏が無視しているという点について私は疑問を持たざるを得なかったのです。たとえば、このような「アダルト・チルドレン」運動による「告発」によって、「告発」した人の父親に冤罪が生じ、家庭崩壊が起こってしまったというケースもあり、また、「カウンセリング」と見せかけて実のところほとんど「偽の記憶」だった、ということもあります。この点に関して、信田氏はどう思っているのか、と私は思います。

 また、前述の通り、我が国においては「アダルト・チルドレン」という言葉は本来の意味を通り越していつの間にかものすごく拡大解釈されるようになってしまった(「ニート」という言葉がそうであるように)。ですから私は、「アダルト・チルドレン」と言うことは極力使いたくないのです。

 もう一つ、この「アダルト・チルドレン」運動を支える「トラウマ理論」とでも言うようなものに関する私の疑問として、人間の行動に関してある2つの現象を単純に因果関係としてみることの妥当性に対するものもあります。これに関しては、児童虐待に関して質問を受けたときも述べましたので、ここで繰り返す必要はないと思います。

 最後になりますが、この問題を考える上で参考になるものをいくつか挙げておきます(「アダルト・チルドレン」運動に対して批判した矢幡洋氏の著書は残念ながら未読です)。

 岩波明『狂気の偽装』新潮社、2006年4月
 ウルズラ・ヌーバー『〈傷つきやすい子ども〉という神話』丘沢静也:訳、岩波現代文庫、2005年7月

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2006年3月11日 (土)

罪人よ、汝の名は「若者」なり――平成18年2月15日TBS「緊急大激論SP2006!」への疑問

 この文章は、ある雑誌に投稿して、番組の性格上載せることができない(シリーズではなく単発の番組なので、定量的な検証ができない、ということ)、とその雑誌の編集部から連絡をいただいたもので、従ってここで公開することとします。この文章は、平成18年2月15日にTBS系列で放送された番組「緊急大激論SP2006!“子供たちが危ない”全国民に喝!」を批判したものです。

 公開に当たって、以下のブログにトラックバックを送っておきます。

 この番組を直接採り上げたブログ:
 あなたの子どもを加害者にしないために:「緊急大激論SP2006!“子供たちが危ない”」(TBS)(中尾英司氏)
 さびしんぼうのブログ♪:緊急大激論スペシャル@TBSテレビ
 冬枯れの街:緊急大激論SP2006!“子供たちが危ない”って危ないのはあなたたちの妄想ですから!
 アキバの王に俺はなる!:子供、若者は大人の敵といったような番組を見て
 私がお世話になっているブログで、青少年問題について触れたエントリー
 女子リベ:どう少年が包囲されていくのか?(安原宏美氏:フリー編集者)
 社会と権力 研究の余白に:生命と統計 少年法改正をめぐって(芹沢一也氏:京都造形芸術大学講師)

――――――――――――――――――――

 ※番組内の発言の文字起こしに関しては、全て筆者(後藤)に文責があるものとする

 このような番組を放映して、一体TBSは何をしたいのだろう――それが、私が平成18年2月15日に放送された、特別番組「緊急大激論SP2006!“子供たちが危ない”こんな日本に誰がした!?全国民に“喝”!!」を見ての私の感想だ。この番組は、全体的に現代の若年層に対する否定的なトーンと、「大激論」という名を冠しているにもかかわらず、一方的な意見の応酬だけで貫かれており、単に出場者の、自分の「善」のイメージの露出合戦に過ぎない番組であった。

 TBSのウェブサイトによると、この番組のコンセプトは以下のとおりであるという。

 社会、学校、家庭……。今、子供たちを取り巻く環境で、様々な問題が山積みしている日本。

 この番組では緊急大激論スペシャルと題し、子育てや教育問題を徹底的に話し合い誰がこんな日本にしてしまったのか? これから日本は子供たちにとってどうしていくべきなのか?追求していく。
http://www.tbs.co.jp/program/kodomotachi_20060215.html

 などと綴られているが、実際にこの番組で行なわれたのは、単なる若年層に対するネガティブ・キャンペーン、すなわち現代の子供たちや若年層に対する不安を煽り、彼らは怖い、社会の害悪だ、どうすれば彼らに対処して自らにとって住みやすい社会になるか、ということが延々と語られただけである。

 司会者は草野仁、えなりかずき、海保知里の3氏で、出演者は、勝俣州和(タレント)、草薙厚子(ジャーナリスト)、田嶋陽子(元国会議員)、松居一代(女優)、RIKACO(タレント)、やくみつる(漫画家)、山下真司(俳優)と、「本気の大人たち」として伴茂樹(青少年育成クラブ主宰)、菱田慶文(スクールパートナー)、吉川英治(明大前ピースメーカーズ主宰)、小嶋映治(叱る大人の会代表)、原田隆史(天理大学非常勤講師、東京・大阪教師塾塾頭)、喜入克(高校教師)、今村克彦(小学校教師、関西京都今村組代表)、杉浦昌子(NPOアイメンタルスクール主宰)、廣中邦充(浄土宗西居院僧侶)の9氏である。

 1・番組構成の各部に関する疑問
 ウェブサイトによれば、この番組の構成は次のとおりである。

 番組では公共でのマナーやルールに対する若者のモラルについての「社会秩序崩壊編」、校内暴力や不登校の増加問題についての「学校崩壊編」、親が子供を、子供が親を殺してしまうような衝撃事件の増加に象徴される現在の家庭問題についての「家庭崩壊編」と3つのテーマで話し合いを行う。(前掲TBSウェブサイト)

 と書かれているが、この番組が若年層に対する不安扇動を目的としていることを私が確認するまでは、開始から30分もかからなかった。この番組は、第1部が「社会秩序崩壊編」、第2部が「家庭崩壊編」、第3部が「学校崩壊編」となっているが、第2部と第3部はもっぱら「本気の大人たち」として出演している人々の体験談が主であり、スタジオにおける「大激論」に関しては、その時間の大半を第1部が占める。その第1部において何が議論されたのであろうか。

 オープニングの後、第1部の問題提起として映されたVTRについて説明しよう。このVTRは、平成15年に実際に起こった事件を基に構成されている。その事件が、電車に乗ってきた、ヘッドフォンから音を漏らしている若い人に対して、ある中年のサラリーマンが注意した。ところがその若年は、近くにいた警察官に「酔っ払いが絡んでくる」といって、逆に自分を正当化した、というものである。

 まずここで疑問が浮かぶはずだ。このような若年は、果たして現代の若年層に典型的なものなのだろうか、と。しかしそのような疑問をすっ飛ばして、この「大激論」は、現代の若年層がさも件の若年の如く、自分を正当化することにだけは長けているのに、他人の迷惑はちっとも顧みない、というイメージで語られる(注1、2)。

 それだけではなく、この後の「大激論」においては、若年層に対する偏ったイメージが頻出する。このVTRの直後の、勝股州和氏の発言を引いてみよう。

草野「勝股さん、目撃したりしたことはあると思うのですが、(勝股:「ハイ」)もしあの場にいたらどうします?」

勝股「ビシッ、といいたいですけれども、怖いですね」

スタジオ笑う。

勝股「今の子たちって、逆ギレで刺すじゃないですか」

 勝股氏の語っているのは、単に報道で喧伝されるイメージを超えていないのであるが、この程度のステレオタイプはまだ甘いほうで、そのほかにも若年層をあからさまに蔑視した発言が頻出する。その中でももっとも問題を多く含んでいるのが、杉浦昌子氏と草薙厚子氏の以下のような発言である。

草野「杉浦さんはどうですか?先ほどのニュース」

杉浦「うーん。私は、生徒にはね、車両の中にそういう子がいたら、避けるようにと。私は日々子供と接してて、ちょっと感覚がゲーム感覚、ちょっとリセットしてもまた生まれ変わるんだ、ってしか考えないから、言っても無駄な人には、無駄なような気もするんですよ」

草薙「ゲームの感覚っておっしゃりましたけれども、その通りで、ゲームを長い時間やるじゃないですか。で、それがもう研究の結果出ているんですね。その世界だけなんです(えなり他「ゲーム脳」)そう、ゲーム脳と言われているんですけれども、前頭葉の前頭前野の血流が悪くなる。でその前頭前野というのが、羞恥心とか、理性とか、ここでみんなコントロールしている」

えなり「自分の感情を抑える所って言いますよね」

 「ゲーム脳」や、「前頭前野」などといった、草薙氏の振りかざしている論理は、既に学問的には論破されている点が多く(注3)、議論として成立したものではない。それにもかかわらず草薙氏がそのような理論を堂々と持ち出す、というところに、現代の我が国の青少年ジャーナリズムの暗黒面が垣間見えるし、杉浦氏の発言にもまた、「ゲーム感覚」などという、現代の青少年はゲームのせいでおかしくなったのだ、と言わんばかりの表現が出ている。だがもっとも問題なのは、草薙氏や杉浦氏の発言に対して、誰も制止する人がいないことである。特に「ゲーム脳」が疑似科学であることは、既に良心的な物書きであれば知っているはずだ。

 このような構成からもわかるとおり、この番組は、まず第1部において、現代の若年層がいかに「悪」であるか、ということが喧伝される。もちろん、先の勝股氏や草薙氏、及び杉浦氏に限らず、問題のある発言は多いし、それらの発言に対する反証も、今やかなり出揃っている状態である(注4)。しかし、それらが無視されるのは、やはりこの番組においては、定量的な議論よりも、「若年層=悪」というイメージ(あるいはこの番組の前提)を正当化するための「物語」であり、それゆえ出演者も、若年層の「悪」に立ち向かう「善」という図式が強調されるのだろう。

 更にこの番組を引き立てているのが、各部の最後に挿入される(従って合計3回挿入されたこととなる)、司会者の一人である草野仁氏と、石原慎太郎・東京都知事との対談である。草野氏の発言も、また石原氏の発言も、単に巷で流布しているイメージや自らの狭い体験だけに基づいている、空疎な「憂国」話でしかない。だが、この対談映像の中には、テレビ「ならでは」の演出が施され、この番組を盛り上げるのには絶好のものとなっている。例を示してみよう。

草野「一番知事にお伺いしたかったのは、今の若者たち、社会規範を破っても平然としている、マナーを守らない、そういう傾向の若者たちが増えている、というのは結構事実ですね。その若者たちを、知事はどういう風にご覧になっていますか?」

石原慎太郎「家庭のしつけ、学校の教育のせいだともちろん思いますがね、子供に我慢させないですね」

リピート「子供に我慢させないですね」

ナレーション「子供に我慢をさせない」

 さて、ここで、私が「リピート」と示した箇所は、石原氏の発言の注目すべき箇所に対し、まず石原氏の顔が白黒のアップになり当該箇所がもう一度繰り返され、そしてその後にその発言の趣旨のメッセージが画面に登場し、それをナレーションが読み上げるというものである。これはテレビ「ならでは」の演出で、草野・石原対談においてはこのような演出が頻出する。

 また、この種の演出が用いられた石原氏の発言には、他にも次のようなものがある(字幕として出たものを挙げることとする)。

 「子供の親そのものが、だらしなく育てられた」(1回目)

 「親が無責任までは行かないが無知」(2回目)

 「肝心なものは全部人に預けた他力本願で甘ったれな風潮」(3回目)

 現代の親や青少年に対するバッシングが含まれているのはこれくらいであるが、それ以外も単なる一般的な教育論を語っているに過ぎない。このような「お題目」で教育問題が解決される、という考え方は、結局のところ自分にとっての「当たり前」を取り戻せば教育問題は解決する、という短絡的な考え方でしかない。

 草野氏と石原氏の対談も含めて、結局のところこの番組は、「絶対善」としての自分をいかに強くアピールし、自分の教育論――単に一般的な「お題目」でしかないものが大半なのだが――の正当性をひけらかす以上のものではなかった。結局のところ、この番組で行なわれたことは、大々的な「私語り」だけだったのである。

 また、冒頭の出演者を見てもらえばわかるが、この番組が前提としている「「今時の若者」は傍若無人な振る舞いばかりをする社会の害悪だ」などという一方的な考えから、少々距離を置いて考えることができる人――内藤朝雄氏や浅野智彦氏など――は一人も出ていない(「本気の大人たち」でない出演者も、番組のストーリーに追従しているだけだった。特に、草野氏と勝股氏、草薙氏、そしてやくみつる氏の発言のひどさは特筆すべきものだ)。「大激論」などと言っておきながら、人選の狭隘さは目を見張るほどだし、彼らがバッシングの対象としている若年層は、えなり氏を除いて一人も「大激論」の場に存在していない。

 なるほど、確かに、他のスタジオでは、番組が言うところの「イマドキの若者24人」が、この「大激論」を見守っていた。しかし、彼らの発言が許されたのはたった2回、しかも1回あたりの発言時間が3分もなかったのだ。

 2・この番組全体の構成に対する疑問
 はっきり言おう。この番組は、「大激論」の名を騙った「欠席裁判」なのだ。もちろんこの「欠席裁判」で「裁かれている」のは若年層であり、裁判長は司会の3人で、判事は出席者全員、弁護人はいない。しかも裁判長も完全に判事よりである。

 この番組が「欠席裁判」であると考えれば、この番組全体の流れがわかるというものだ。まず第1部に「社会秩序崩壊編」を据えることによって、現代の若年層を「被告」として視聴者に認識させる。つまり、若い世代「全員」がこの「欠席裁判」において被告人席に立たされることの「正統性」を裏付ける。そして第1部の「大討論」において、被告人の「罪科」が――全て判事の口によって、しかも定量的な証拠もなしに!――延々と語られる。そこで以下に事実誤認が飛び出していても、なんら問題はない。先にも述べたとおり、必要なのは定量的な議論ではない、「物語」なのだ。「今時の若者」という存在がいかに「悪」であるかを証明するための。従って、以下の如く、最初から事実誤認のナレーションに彩られていても、その正当性に疑問がはさまれることはない。そもそも「キレる」やら「逆ギレ」などというのは、そのような言語が「発見」されてから、新たなプロファイリングとして定着するようになった、と考えたほうがよいのではないか。

ナレーション「世界一安全といわれたこの国が、今やモラルなき無法地帯と化している。連日飛び込んでくる衝撃的な事件。その中心には、傍若無人な若者たち。やりたい放題の彼らに、社会のルールやマナーなど存在しないのか。一方で、注意すべき立場の大人たちは…。」

街頭A「すぐ若い奴はキレるじゃない何されるかわからん、はっきり言うて」

街頭B「突発的に、何かをされるとか、そういった恐怖感はありますね」

ナレーション「そう、今時の若者たちの特徴は、「逆ギレ」。善悪の見境なしにとにかくキレる。そして、キレたら最後、もう誰にも手がつけられない。かつて世界から賞賛された、日本人のモラルは…」

 そして第2部と第3部は、まさに「犯人探し」だ。「被告」としての若年層を生み出した背景として、第2部においては家庭が、第3部においては学校が採り上げられる。だがこの2つの部分は、第1部に比して、冒頭において紹介された「本気の大人たち」の取り組みの紹介が多い。現に、第1部が1人(小嶋映治氏)だったのに対し、第2部は2人だった(杉浦昌子氏と廣中邦充氏)。第3部は1人だったが(原田隆史氏)、第3部自体の短さ、そして冒頭のVTRの長さを考慮すれば、「大激論」を行なった箇所は少ないほうである。

 ここで2つ目の疑問を提示したい。この番組において一つの重要なキーワードとなっているのは、「本気の大人たち」である。要するに、「悪」としての青少年、及び一歩間違ったら「悪」の世界に踏み込みかねない子供たちを「自分たち」の手に取り戻すための「本気の大人たち」の取り組みの礼賛である。

 だが、冷静に考えて欲しい。彼らのように、様々な条件に恵まれ、かつ能力もある「本気の大人たち」は極少数である。しかしこの番組は、そのような「本気の大人たち」を礼賛することによって、かえって彼らのような能力のない(と思いこんでいる)親たちは自信をそがれてしまうかもしれない。

 この番組のように、――元々境遇や能力に恵まれた人しか発しえず、しかもメディアによってその暗黒面が隠蔽されている――「本気」を礼賛し、子供たちに対して「本気」で接しなければ、いつ子供が「悪」(=「今時の若者」!)になってもおかしくないぞ、と煽ることは、むしろ若い親たちを追いつめることにならないだろうか。そもそも多くの子供たちは、そして青少年は、ごく普通に暮らしているのである。彼らを無視し、一部の人を採り上げて、さも世代全体が危険であるかのように煽るという行為は、それこそ青少年の価値を貶めることにならないか。それともこの番組の製作スタッフは、どうせ若い奴はこんな番組など見ないだろう、とでも高をくくっているのか。だとしたら、この番組は、日頃の鬱憤がたまっている年齢の高い人たちに対して、コメンテーターたちと自己を同一化させ、その「怒り」を若年層や若い親たちにぶつけることを提供していることとなる。

 この番組のエンディングは「翼をください」だった。私はこの曲は好きである。しかし、この番組のエンディングとして流れた「翼をください」は、私がこの曲を聴いて決して抱くことのなかった嫌悪感を、私に初めて抱かせた。散々若い世代に対して不安を抱かせて、そして自分の社会の将来に暗い気持ちを抱かせて、そこから希望を持ってください、といっても無理に決まっている。

 極めつけはこれだ。この世でもっとも不気味な「翼をください」が流れ終わった後、画面に大きく表示された文字である。

 「子供たちの笑顔がこの国の未来」

 このようなお題目がいかに空疎であるか、ということは、この番組を通して見たものならすぐにわかるはずだ。この番組は、決して「子供たちの笑顔」など望んでいない。子供たちが自分にとって都合のいいように成長してくれること、そして「悪」としての「今時の若者」たちが「私たち」の社会から排除されることだ。少なくともこの番組は、決して「子供たちの笑顔」のために作られているのではない。具体的に言えば、「大人たちの笑顔」なのだ。「今時の若者」を問題視してバッシングする大人たちのための番組としか言いようがないのである。だから、この番組に青少年の声、あるいは現在喧伝される青少年問題言説に懐疑的な人の声が反映されないのも、無理はないのかもしれない。

 しかし、これだけは言いたい。

 特定の世代を過剰に問題視し、その世代は「悪」で自分の世代は「善」であり、そして自分の子供をいかに「悪」にしてはならないか、といった半ば脅迫的な子育て言説がはびこる世の中に、誰が希望を持つことができるだろうか(そして、この番組に出席していた草薙厚子氏は、まさにこのような「半ば脅迫的な子育て言説」を喧伝している人だ)。
 堀江貴文被告がニッポン放送やフジテレビの実権を握ろうとしたとき、マスコミが堀江氏を批判する口実として用いたのが「放送の公共性」だった。だが、人々を絶望の淵に落としておいて何もしない、この番組に、果たして「公共性」を求めることができるだろうか。

 TBSは堀江貴文を笑えるのか。

――――――――――――――――――――

 注1
 現に、出演者の今村克彦氏が、「このような特異な話ばかり捉えていても無意味だ」と発言したのに対し、草野氏が、「でもこのような事件もあるのだから、今の若年層はやっぱり異常だ」と今村氏の発言を退けた部分もある。曰く、

今村「いえ、だから今言われたように、刃物持っている人間に話し込もうや、って言ったって、話になりませんやんか。特異な話ばかり捉えていたら、ほんまに怖なります」

草野「もちろんそうなんですが、現実に先ほどビデオでごらん頂いたケースもある。ただ非常に気になるのは、駅員の人を呼んで、その後の逃げ方です。口実をつけて、非情に狡猾なやり方で逃げていこう、つまり自分を正当化するということは、非情に巧みである。これは昔の子供たちには多分なかったことではないかと」

 更に、後に今村氏は、若い奴は大部分が怖いんだ、という趣旨の発言をしてしまう。

今村「僕はおかしいと思いますわ。怖ないってね、ここら辺の方って絶対に怖ないですやん。世の中の大部分、やっぱりあのわけの分からん若者がいたらやっぱり怖いですやん。……だから、怖いということは大前提、みんな共通して持たなあかんと。……」

 注2
 ちなみに、平成12年6月21日付の読売新聞によれば、JR東日本において報告された駅員や乗務員への暴力行為162件のうち、その加害者で最も多いのが50代で39人、次に多いのが40代で33人だった。

 注3
 草薙氏が持ち出している「ゲーム脳」理論は、既に多くの専門家や評論家によって疑義が提示されている。書籍では、斎藤環『心理学化する社会』(PHP研究所、平成15年)、と学会『トンデモ本の世界T』(太田出版、平成16年)、小笠原喜康『議論のウソ』(講談社現代新書、平成17年)を、雑誌の記事では、風野春樹「科学的検証はほぼゼロで疑問が残る「ゲーム脳の恐怖」の恐怖」(「ゲーム批評」平成14年11月号)、大和久将志「欲望する脳 心を造りだす」(「AERA」平成15年1月13日号)、小泉耕平、藤田知也、四本倫子「「17歳少年がおかしくなったのはゲームのせいじゃない!」」(「週刊朝日」平成17年3月4日号)、若狭毅「ゲームで脳が壊れる説に専門家はブーイング」(「サンデー毎日」平成18年2月26日号)を参照されたし。

 注4
 例えば、社会学者の浅野智彦氏らの研究グループは、平成4年と平成14年に都市部の若年層に対して行なったアンケートをもとに、若年層においては規範意識が後退(あるいは消滅)しているとはいえず、また人間関係も希薄化していない、ということを提示している(浅野智彦(編)『検証・若者の変貌』勁草書房、平成18年)。また、少年による凶悪犯罪が近年増加傾向にあるわけではない、ということも、既に多くの論者によって指摘されているし、少年による動機の不明な、あるいは短絡的な殺人事件も、今から40年ほど前の段階でも多く起こっている(赤塚行雄(編)『青少年非行・犯罪史資料』第2巻、刊々堂出版社、昭和57年)。

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2005年9月21日 (水)

俗流若者論ケースファイル71・森昭雄

 今度は産経新聞か。産経新聞のウェブ版である「ENAK」に、日本大学文理学部の曲学阿世の徒・森昭雄氏が登場している。日付は明記されていないが、記事中に《小学校で教職員3人が殺傷された大阪府寝屋川市の事件。逮捕された17歳の少年は、小学校時代から自宅に引きこもってゲームに興じていたという》(「ゲーム脳 神経回路の形成に影響」=産経web「ENAK」、以下、断りがないなら同様)、以下、断りがないなら同様)と書いてあるとおり、おそらく平成17年の2月下旬あたりであろう。この記事では、相も変わらず《事件との関連は分からないが、日本大学の森昭雄教授(脳神経科学)は「テレビゲームに没頭し、反射的な操作を繰り返していると、理性や判断など、人間らしさにかかわる脳の前頭前野の活動が低下し、キレやすく本能的な行動をとる可能性が高くなる」と独自の学説を唱えている》などと書かれているのだが、この理論がいかにデタラメかということは精神科医の斎藤環氏をはじめ多数の人に指摘されている。ただこの記事に関して言うと、《キレやすく本能的な行動をとる》と書かれているが、そもそも「キレる」という言葉の出自が極めて疑わしいものであるし、また《本能的な行動》が何をさすのかがわからない。そもそもゲームによって神経が未発達になると犯罪を起こしやすくなるとか「ひきこもり」になるだとか学力が低下するとか言うことに関する論証が立っていないのだが。このような「論理」は、所詮は彼らが腹を立てている青少年問題をゲームにかこつけたいだけのものである。

 もちろん、この記事の筆者が、脳波におけるα波の増加=脳が働いていない、日常的にゲームに親しんでいるとゲーム中にα波が減少しない、だからゲームをやりすぎると凶悪犯罪者になるぞ!という図式を少しも疑っていない。ここで我々が着目すべきは、脳波におけるα波の現象がゲーム中に限られることであろう。森氏の文章を読んでいると、どう考えても森氏は、ゲームとお手玉と10円立て以外(「メール脳」がらみなら携帯電話の使用時も)の作業時における、すなわち日常動作における脳波を計測した節がない。学者として不適切な態度であろう。少々記事から離れてしまったけれども、私が問題視したいのはこの記事の執筆者の態度で、少し読むだけでも明らかにおかしいと思える事例、例えば《β波が減少した状態》が《前頭前野に情報を伝える神経回路の働きが悪くなると考えられ、理性的な判断を伴わないまま、視覚情報から即行動に移される可能性》をもたらす、という部分に少しも疑問を持たないのがそれに当たろう。そもそも少年による凶悪犯罪(殺人・強盗・強姦・放火)は減少しているのだが。そのようなことを無視してこのようなことを語ってしまうのは、所詮は疑似科学に縋ってでも「今時の若者」を貶めたい、という未熟マスコミ人の「歪んだ欲望」(笑)なのだろう。

 また、この記事の執筆者は、《(筆者注:森氏は)「ゲーム脳」では、前頭前野の活動が低下しているため、ゲーム以外の集中力が落ちてボーッとした状態となるほか、判断力が低下してキレやすくなったり、本能的な行動をとりやすくなったりする、と述べる》と書いており、このアンチノミー(二律背反)の行動が同時に起こってしまう「ゲーム脳」とは一体何か、ということにも疑問をはさむべきだと思うが(そもそも《ゲーム以外の集中力が落ち》てしまうことは前頭葉の未発達として捉えるべきことなのだろうか?)、所詮は俗流若者論、そのような論理の上での疑問があってはいけないのだろう。

 もちろん、「ゲーム脳」理論の最大の「萌え要素」(笑)である《森教授は「ゲームだけでなくインターネットや携帯メールなどが氾濫(はんらん)する現代、友達と一緒に自然の中で体を使って遊び、創造の喜びを体感できるような遊び方も今の子供たちに必要ではないでしょうか」と話している》という物言いに代表される安易な懐古主義だって忘れてはいない。そもそもこの記事が書かれたのは少なくとも平成17年2月以降なのだから、「ゲーム脳」に対する批判は一般書のレヴェルでもかなり出ていた(例えば、斎藤環[2003]、と学会[2004]、香山リカ、森健[2004]など)。また、この記事の冒頭で触れられている《大阪府寝屋川市の事件》に関して、この記事と同様に「ゲーム脳」に強引に結びつけた報道が週刊誌を中心に行なわれたが、結局のところこのようなプロファイリングは無根拠である、ということ、そもそもこの事件における犯罪者が《自宅に引きこもってゲームに興じていた》のはせいぜい中即直後のある時期までで、それ以降は《ゲーム本には見向きもせず、昨年から若者向けのファッション誌「smart」を毎月買うように》(小泉耕平、藤田知也、四本倫子[2005])なるなどと、際立ってゲームに熱中している傾向は見られなくなったという証言すらあるほどだ。

 最後に、私が「ゲーム脳」に関して考えていることを語ろうと思う。この「ゲーム脳」理論について、この記事でも《それを防ぐため森教授は、子供たちのゲームの時間を1日あたり15分程度と決めたり、ゲームをしても読書をして感想文を書く時間をとる》と触れられている通り、「ゲーム脳」なる疑似科学が、子供を「正常化」するための監視を正当化するツールとして用いられているのが、最近の私の危惧することである。このような事態は、事実を放棄して疑似科学にすり寄る動向、または疑似科学が権力を正当化するツールとして働いていることなど、なにやらナチス・ドイツの匂いすら感じさせる我が国の社会を象徴するツールとして、私は「ゲーム脳」理論に興味を持っている。もちろん、これは「ゲーム脳」に限らず、正高信男氏の「ケータイを持ったサル」でも同様で、我が国における俗流若者論に支えられる疑似科学が、いかなる方向に我が国を導いていくのか、ということについて私は何らかの危うさを覚えずにはいられないのである。

 参考文献・資料
 と学会[2004]
 と学会『トンデモ本の世界T』太田出版、2004年5月
 香山リカ、森健[2004]
 香山リカ、森健『ネット王子とケータイ姫』中公新書ラクレ、2004年11月
 小泉耕平、藤田知也、四本倫子[2005]
 小泉耕平、藤田知也、四本倫子「「17歳少年がおかしくなったのはゲームのせいじゃない!」」=「週刊朝日」2005年3月4日号、朝日新聞社
 斎藤環[2003]
 斎藤環『心理学化する社会』PHP研究所、2003年10月

 杉田敦『権力』岩波書店、2000年10月
 森真一『自己コントロールの檻』講談社選書メチエ、2000年2月
 山本貴光、吉川浩満『心脳問題』朝日出版社、2004年6月

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2005年8月29日 (月)

俗流若者論ケースファイル69・小林道雄

 この連載の第64回において、NHK放送文化研究所専門委員の清川輝基氏が「世界」平成15年7月号に書いた文章を批判したとき、コメント欄に「「世界」ですらこのような俗流若者論を書いているのか」というコメントを頂いた。なるほど確かに「世界」には俗流若者論が掲載される確率は低い部類に属するけれども、だからといって俗流若者論が完全に出ないわけではない。今回は2000年代に「世界」に掲載された俗流若者論の中でも真打を検証する。

 今回検証するのは、ジャーナリストの小林道雄氏が「世界」平成12年12月号から平成13年3月号まで行なっていた短期集中連載「少年事件への視点」の第3回と第4回と、「世界」平成13年4月増刊号に掲載された小林氏の文章である。小林氏の最近の仕事に関しては、警察に関するものと、青少年に関するものの二つに大別されるのだが、この二つの仕事を見比べてみると、この二つの仕事は本当に同じ小林氏によって行なわれたものなのか、ということだ。警察に関する仕事は権力の深層にもぐりこむ、という気迫が感じられるけれども、こと青少年に関する仕事を読むと小林氏は俗流若者論しか知らないのではないか、と錯覚してしまうほどそのレヴェルは落ちる。中には疑似科学に陥ることまである。ここで検証する小林氏の文章は明らかに青少年に対する小林氏の蔑視の感情を感じることができる。

 まず短期集中連載の第3回「何が子どもを歪めさせたのか」(「世界」平成13年2月号に掲載)を検証しよう。この文章のリード文において、《小児神経学の知見から、幼児期の発達と思春期の犯罪の関係をさぐる。子どもが健やかに育つための環境が損なわれている現代において、「育つ」ことがいかに難しいことか》(小林道雄[2001a]、以下、断りがないなら同様)とかかれており、このような視点でかかれる俗流若者論というものが、いかに恣意的な《小児神経学の知見》やそれ以外の「科学」の濫用で構成されているか、ということに関しては、この連載の第485660646667回を参照していただきたい。そして小林氏のこの文章もまた、そのような疑似科学の隘路にはまっているのである。

 案の定、小林氏は102ページにおいて《いびつになった脳》と称した項に入ってしまうのである。ちなみにここまでの97~102ページの記述に対しては、その全てが家裁調査官などの回想や懐古主義で埋め尽くされており、そこで聞いた事例がどこまで広がりを持っているか、ということに小林氏は行なっていないので検証しない。しかし小林氏が、そして「世界」が俗流若者論において疑似科学、そしてそこから派生するレイシズムを肯定してしまうことは何度でも批判する必要があろう。

 小林氏は103ページにおいて以下のように書く。

 取材の結果、今の子どもには他人の痛みが分からない子が多いこと、きわめて感受性の未熟な子がいること、総体として思考能力が低下していること、またかこの心の傷や不満を位置人称的に悩んで申そうかさせる子がいることなど、いくつかのことを知らされた。

 それらの問題について、私は調査官の見解と共に状況から考えられる理由を述べてきたが、果たしてそれだけだろうかという思いは常につきまとっていた。そして、その想いをもっとも強く感じさせられたのは、保護監察官I氏の話を聞いたときだった。

 「今の子どもたちの問題は規範以前、人間としてのものがトータルとして足りないという感じがします。……」

 実を言えば、私には前から話を聞きたいと願っていた人がいた。それは〈少年事件の分析には小児神経学の眼が必要です〉と書かれた朝日新聞の『ひと』欄を読んだことによる。レット症候群(筆者注:「這い這い」や手を振って歩くことができないために大脳連合野が働くなった病気とされている)国際会議を主宰した医師として紹介されていた瀬川昌也氏は、〈一定年齢でおきることには必ず発達が関係しています。十七歳の事件も、乳幼児期の発達の問題だし、廊下も発達の繁栄です〉と述べていたのである。

 しかしこの瀬川氏ときたら、この時期の少年犯罪にして疑似科学的な俗流若者論を展開して全てを語った気になっている。発達の問題で全てが解決されるのであれば、犯罪を誘発する「発達の歪み」を生み出す家庭を摘発して矯正する、という言説が生まれかねないし、このような疑似科学的な俗流若者論を展開する人は我が国において少年が凶悪犯罪をしでかす確率が諸外国に比べて著しく低いことを引こうとはしない。まあ、彼らにとって少年犯罪は格好の飯の種だからそこまで想像力が及ばないのであろうが。

 小林氏の文章の分析に戻ろう。小林氏は瀬川氏から聞いた話を基にして、104ページにおいて以下のように述べているのだが、小林氏は明らかに疑似科学の罠にはめられている。

 結論から言えば、調査官が指摘している今の子供たちの問題点、未熟さ、他人の痛みが分からないこと、妄想への傾斜、保護監察官I氏が語ったような行動のアンバランス、そして私が感じている不登校児の問題などは、いずれも生後四ヵ月までの正常な睡眠と、その後の「這い這い」がきちんと行なわれてこなかったことに起因しているようである。

 なんとも意外に感じるが、瀬川氏に寄れば生後四ヵ月までの睡眠と、十ヵ月後に始まる「這い這い」のありようが、脳の土台というべき機能を決定するということなのである。

 つまり、言語や社会的理性など人間を人間たらしめている能力は、前頭葉にある大脳連合野の働きに夜が、その土台となる脳の仕組みが間違いなく作られていなければ大脳連合野は正常に作動しない、未熟になるということなのだ。

 小林氏はこのように書いているけれども、小林氏は昨今の犯罪少年、更にいえば今の子供たちにおける「這い這い」の実態を示した定量的なデータを最後まで示していない。これはむしろ小林氏が瀬川氏に問い詰めるべきことなのであったが、しかし小林氏は小林氏の思い込みだけで子供たちについて語ってしまっているので、データ抜きのステレオタイプにはまってしまうのも理の当然だと思うが、理の当然だからといって許されるわけではない。しかもここで語られている如き大脳前頭葉の発達の歪みが社会性を失わせる、というのははっきり言って脳機能障害者に対する差別につながる。「世界」の岡本厚編集長は気づかなかったのだろうか。

 さて、瀬川氏は明らかに俗流若者論御用達の疑似科学者の振る舞いをする。瀬川氏は何と不登校の原因は睡眠障害だ、という珍説を開陳してしまうのである。もちろん、瀬川氏は最近になって不登校が急増したと思いこんだ上でこのような珍説を語る。不登校に長い間付き合ってきた奥地圭子氏の話を、小林氏も瀬川氏も正座して聞くべきだろう(最近になって不登校が急増した、ということが以下に虚偽であるかについては奥地圭子[2003]を参照されたし)。106ページ。

 「ある方が不登校というのは時差ボケの状態が続いているのと同じだと指摘していますが、その通りなんです。というのは、おきたり寝たりする時間と体温のリズムが全然合っていないんです。体温のリズムというのは明け方に近い深夜がいちばん低くて、夕方五時ごろがいちばん高いという周期になっていて、起きたときには上昇に向かっているから気合が入るんです。それが遅れていてまだ低い状態にあったら、ぜんぜんやる気は起こらない。だから行きたくないとなるんです」

 不躾ながら、私は中学から高校にかけて学校に行きたくない、と思うことは何度もあったし、授業を放棄して保健室に行っていたこともしばしばあるし、大学に入っても人付き合いがうまく行かずに困惑したことがよくある。また、私の近くには何名か不登校児がいた。そのような経験から私は不登校や「ひきこもり」は社会的要因ではなく発達の歪みから来るのだ、という論理がいかに暴力的であるか、ということについて十分熟知しているつもりである。もちろん一部には瀬川氏の述べた如き理由から不登校になる人もいるかもしれないが、不登校になる人の大抵の原因は学校内でのいじめや人間関係の悩みなどが大半である。このような社会的な影響を無視して不登校について語るのであれば、瀬川氏は不登校を語る上では明らかに能力として欠けているものがある、というほかない。小林氏も小林氏だ。小林氏が青少年に関して取材を重ねているのであれば、少しでも反証になりそうな事例を挙げて反論すべきだろう。小林氏は107ページにおいて《困ったことに不登校の子どもは、決まったように昼夜逆転の生活になる。行けないものを行かすわけにはいかないが、これではいつになっても時差ボケ状態は改善されない》と語っているけれども、原因と結果が逆転していないか。

 小林氏は108ページにおいて更に以下のように述べる。

 日中の活動が低下して深い睡眠がとれず、セロトニンが減ってドーパミンが編に活発になることは、まず他動になるということだが、それだけではなかった。小学校時代には無気力になって依頼心が強くなり、中学三年ぐらいの年代で甘えの反面の粗暴行為が出てくるようになる。また、セロトニンの減少は対人関係に問題を起こしがちで、環境への順応を難しくするということなのである。

 このような物言いは、自分は不登校とも「ひきこもり」とも、更には人間関係に支障をきたすことにすら関係ない、と思い込んでいるからこそ言えるのだろう。確かにそういう人たちはうらやましいけれども、だからといって不登校も「ひきこもり」も人間関係に支障をきたす人も病気だ、脳とか発達に障害を抱えている劣等人種だ、という論理を開陳するのを見ていると、かえって人付き合いは少ないほうがいいのかもしれない、とすら思ってしまうことがある。このような物言いを、「ひきこもり」とか不登校とかの当事者が見たらどう思うだろうか。もしこの文章を読んでいる人が「ひきこもり」とか不登校とかの経験を抱えているのであれば、あるいは人間関係で悩んでいれば考えて欲しい、あなたが悩んでいる(悩んでいた)のは脳や発達に障害があったからなのだ、といわれればあなたは納得するか?少なくとも私は納得しない。

 瀬川氏や小林氏は更に109ページにおいて以下のようにも述べてしまう。ここまで来るともはや与太話以外の何物でもない。

 「覚えるけど忘れないというのは、自閉症の子がそうなんです。最初に入ったパターンを覚えていて、決まったことはきちんとやれる。そこで最初に数が頭に入ると、算数から高等数学までどういう頭の回転でやるのかわかりませんが、ものすごい才能を発揮する。他のことは全然できませんが。で、ノーマルな子がそうなった場合も、ドリルなんかを早期教育でやらせると、答えがあることについてはどんどん伸びて、偏差値の上のほうに言ってまっすぐに一流大学に入る。だけど、そういう人は答えが出ないことにはすごく困る。それでも学歴社会ですからエリートコースに乗る。しかし、行政機関であれ学問の世界であれそういう人が指導的役割に就くと社会としてはちょっとまずいことが起こる。批判する人がいればいいけれど、修正しませんから硬直化が起きるんです。それと、答えの出ないことは分からないから、おかしなことも起こる。勉強の面で優秀な人にはときどきそういう脳の持ち主がいるということです」

 私が瀬川氏への取材で何より感じさせられたことは、臨床医としてレット症候群や自閉症という難病に取り組んで研究を深め、国際会議を主宰するほどの意思の知見が、なぜ一般に知られていないのかということだった。ことに寄れば、ノルアドレナリン障害型エリートによる硬直化がそれを阻んでいるのではないか、そんな気がしてならない。

 なるほど、この論理に従えば、いかなる社会問題でさえも《ノルアドレナリン障害型エリートによる硬直化》のせいにできる。しかし、このような問題意識は、社会や組織における人間関係がもたらす力学を無視する方向に走ってしまうのではないか、というよりも走ってしまっている。

 更に小林氏はこの直後にこのように語っている。

 とにかく、はるか昔から戦後二十年ぐらいまで、子どもたちは「遊びをせんとや生まれけむ」と詠まれた姿でそのままに戸外で遊び暮らしてきた。私たち世代は、家でぐずぐずしていると「子どもは風の子」と追い出されたものである。思えば、それはいかに正しかったかということだ。

 このような自己肯定を行い、現代の若年層を平然と貶める小林氏が、果たして「世界」という左派系のメディアに執筆する資格があるのか。いや、左派系のメディアでも、俗流若者論はどういうわけか徳移転となっており、ほとんど無法地帯であるから、このような物言いも許されるのだろう。しかし、先の引用文の如き、小林氏や小林氏が取材した人たちの話だけで、現代の若年層全体を貶めて、人間的に劣った人間だと差別する小林氏の正当性の主張は、いかに小林氏がマスコミによって捏造された「今時の若者」のイメージに踊らされているか、ということを映し出している。それに賛同する読者も然りである。

 2月号の文章だけでもこれだけ問題点があるのに、小林氏の暴走は3月号でも続いてしまう。3月号では、ついにかの曲学阿世の徒・北海道大学教授の澤口俊之氏が登場する(3月号56ページ)。

 小林氏は3月号に掲載された短期集中連載の第4回(最終回)において、以下のように述べている。57ページ。

 そうであれば、われわれが「人間性」と読んでいるものは心の理論や社会的理性そのものであるということになり、それが未発達だということは人間性を書いているということになる。そのような存在には、われわれが当然視している人間性や人間としての規範意識というものさしは通用しない。最近の少年事件に感じる「不可解さ」はそのためであって、単に未熟と受け止めては間違うこととなる。未熟や非常識と映る最近の少年や若者たちの変質は、実はそういうことのようで、……(小林道雄[2001b]、ここから先は断りがないなら同様)

 これは明らかにレイシズムであろう。「世界」はやはり俗流若者論であればレイシズムすら肯定してしまうらしい。岡本厚編集長も散々だ。このような疑似科学によって裏付けられたレイシズムが、いかに若年層に対する意識を貧困化させているか、ということは澤口氏などの疑似科学系の俗流若者論を読めばすぐにわかることだろう。また、小林氏は《最近の少年事件に感じる「不可解さ」》などと語っているけれども、私はむしろ情報が多すぎるが、しかしそれらの情報が全て「今時の若者」を文スタートして敵視するところから生まれているからこそ、たとえ情報だけ多くても全く本質を射抜くことはできない、と思っている。小林氏がさも現代の少年や若年層について当然だと思っている《変質》は、むしろ小林氏の認識の問題であろう。

 小林氏は澤口氏の疑似科学にのっとって、更に幼稚園まで敵視する。58ページ。

 私は幼稚園には行っていない。その頃いっていた子は良家の子女ばかりで、私はそうでなかったということだが、理由はそれだけではなかった。私の両親に限らず、当時の親には「幼稚園なんかに入れたら子どもがひ弱になる」という思いが強く会ったようなのだ。私はその判断は正しかったと思うのだが、戦後の経済成長とともに幼稚園にいくのは当たり前になった。それだけに抵抗のある人もいるかと思うが、やはりそれは本然の発達環境ではないのである。

 幼稚園というのは保母さんという大人を介在させた年齢輪切り社会であって、子どもたち自身が作る子ども社会とは本質的に異なる。ここでの遊びは、多くが与えられ指導されてのもので、何もない空間での自然発生的な遊びではない。しかも現在では、その保母さんは現代っ子のお姉さん先生で、「○○ちゃん、お友だちぶったらいけないんだなぁー」などといった口調での始動がもっぱらとなっている。

 いい加減にしてくれ。このような議論は一見正鵠を得ているように見えるが、しかし全くのデタラメ、というよりも小林氏の単なる思い込みをちっとも抜け出されていない。その上《しかも現在では、その保母さんは現代っ子のお姉さん先生で》などという文句が続けば、もはや小林氏は筆を折れ、などと浴びせかけたい衝動に駆られてしまう。

 その上小林氏と着たら、62ページにおいて《虐待された子どもが心に刷り込まれるのは「近い(親しい)関係は怖い」ということである。親密な関係を危険だと避けたとしたら、正常な人間関係は作れない。そうなれば、人間としての心は育たない》とまで言い出す始末。だったら何か。小林氏は、たとい子供が虐待を受けていても、《近い(親しい)関係は怖い》という感覚が生まれるのはもっと怖いから、虐待は我慢しろ、とでも言うのか!もちろん虐待は対処されて然るべきだけれども、しかしたとい近い関係であっても、その人が理不尽な暴力を振るったりするのであれば、一見距離を置くことも大切だ、と教えることもまた重要なのではないか。そもそも小林氏のこのような暴論は、親密なコミュニケーションこそ善である、という価値観につながり、コミュニケーション能力差別として現れている。

 それでも小林氏の暴走はまだ終わらない。62ページから63ページまで小林氏が述べていることもまた、現代の家庭に対する差別以外の何物でもない。小林氏は《教育中心家庭》で育った子供に《親への尊敬や長幼の序といった道徳をといたところで入るものではない》と書いているけれども、「世界」にこのような文章が載っていいのか。やはり俗流若者論は特異点なのか。蛇足だけれども、小林氏は学校教育というものをことごとく無視している。小林氏は、最近において少年による凶悪犯罪が諸外国と比して、あるいは昭和40年ごろに対して件数が極めて低い水準で推移していることをいかに説明してくれるのだろうか。

 65ページにおいて、小林氏は《現在の日本がなぜここまで政治や経済に停滞を招いているかを考えさせる。おそらくそれは、政界・財界に二世が増えたこと、つまり厳しい環境にもまれていない人間がその任に就いていることの結果にほかなるまい》とも述べるが、これも第3回の最終回と同じ問題意識だろう。ようは自分の問題意識の捌け口として疑似科学が使われているわけだが、そのような科学の濫用が、科学の氏につながる、ということに関して小林氏は極めて無頓着だ。

 3月号に掲載されている文章は、短期集中連載の最終回である。65ページには、小林氏が連載を終えるに当たってのことが書かれているのだが、そこで連載を始めたときに聞いた、横浜家庭裁判所の元調査官である野口のぶ子氏の言葉が引用されている。

 「厳罰化なんていってますが、これまで大人は子どもにどうかかわってきたんですか。子どもたちが何をしようと、どんなに苦しんでいようと見て見ぬふりをしてきただけじゃないですか。どうしてそのことが問われないんでしょうか」

 これは小林氏自身に突き返されるべき問いかけである。小林氏のやっていることは、《どんなに苦しんでいようと見て見ぬふりをしてきただけ》ということと罪の深さでは全く変わらない。小林氏のやっていることは、現代の青少年に対する差別を疑似科学でもって「正当性」を持たせ、青少年に対する不安をあおることでしかない。そのような態度が正しいとしている小林氏に、この野口氏の問いかけはどう響いたのだろうか。これが小林氏の残酷な態度を正すことになればいい、と思ったのだが、あいにくそうはならないらしい。66ページにおいて小林氏は《中には、異星人を見るような目を若者たちに向けている人もいる》とぬけぬけと語っているけれども、それは小林氏自身にも当てはまる。小林氏は自分のやっていることは全て正しい、と考えているようだが、小林氏の行為は倫理的にも誤りだ。そもそも小林氏は疑似科学によるレイシズムを肯定している。事実、小林氏は、《たとえば電車の中での化粧は、公徳心の欠如といったものではない。他人の気持が分からない、従って、他人の眼が期にならないから堂々とやれるのであって、公衆道徳という次元の問題ではないのである》と67ページにおいて語っている。このような文章が「世界」に載ることもまた大きな問題ではないのだろうか。

 一連の小林氏の狼藉から確認できることは、疑似科学がいかに小林氏の世代の正当性、つまり小林氏自身の正当性を主張することに役立っているか、ということだ。疑似科学がこのような形で役に立つためには、まず小林氏が現代の青少年に対して差別的な感情を持っていなければならないが、この短期集中連載の第3回と第4回では、その小林氏の持っている若年層に対する差別意識と、自意識の裏返しでしかない小林氏の自己肯定がことごとく繰り返されている。それは結局のところレイシズムしか生み出さず、不毛な議論にしかなりえない。

 小林氏のやっていることは、本当に「世界」という左派系のメディアに載るべきことなのだろうか。我が国の「論壇」の底の薄さ、特に左派論壇の底の薄さは、俗流若者論になったらいきなりプリンシプルを捨てて俗流右派論壇人と一緒になって若年層に罵声を浴びせかける。このような状況を、果たして放置しておいていいのだろうか。このような状況を俯瞰すると、我が国において、俗流若者論というものは自民党も公明党も民主党も社民党も共産党も諸派も無所属も無党派も巻き込んだ極めて大規模な「オール与党」というほかない。俗流若者論の名において行われる政治に争点などない。あるのはステレオタイプのみ。

 このような状況下で、若年層に対する適切な施策や救済が行なわれることを期待するほうが無理かもしれない。たとい若年層の投票率が上がったとしても、俗流若者論が多く席巻する状況を打破しない限りは、当分の間青少年にとっての暗黒時代は続くだろう。NPOなどが頑張ればいいのかもしれないが、そのような頑張りは一部のメディアで採り上げられるくらいで、国民的な理解が定着しているという状況には達していないし、フリーターや「ひきこもり」や若年無業者をめぐるバッシングにも見られるとおり、マスコミや大衆は適切な研究も参照せずに彼らに石と糞ばかり投げつける。「善良」を自称している大衆にとって、所詮は若年層は敵愾心のはけ口でしかない。若年層の政治利用は当分やみそうもない。そのような絶望的な状況に立っていることこそ、我々は自覚したほうがいいのかもしれない。そのような状況下において、それでも(ありもしない)希望を信じてやっていくことしか、我々にはもはや残されていないのかもしれない。

 最後に小林氏、「世界」平成13年4月号の増刊号に当たる「日本の選択肢」という雑誌において、小林氏は「少年犯罪」の項を書いているが、小林氏はこのサッシの211ページにおいて、以下のように書いている。

 少子化と都市化によって、そうした環境と機械は大きくうすなわれてしまいました。他人の気持ちが分からなくなったのはその結果ということなのですが、それは決して犯罪を犯すような少年に限ったことではありません。近ごろは電車の中で化粧をしている若い女性をよく見掛けますが、これも他人の気持ちが分からないから周囲の目垣に習いということで、同じことなのです。

 私たちが「人間性」と読んでいるのは社会的理性や心の理論そのもので、それが未発達だということは人間性を書いているということになります。ですから、そういう少年や若者には、私たちが人間として当然と考えているものさしは通用しません。最近の少年事件に感じる「不可解さ」はそのためで、単なる未熟ではないのです。(小林道雄[2001c])

 ……世界の辺境で叫ばせてくれ。

 助けてください!小林氏を、疑似科学の魔の手から、誰か助けてください!!

 そして私に、もうこれ以上同じことを言わせないでください!!

 参考文献・資料
 奥地圭子[2003]
 奥地圭子「新しい囲い込み――「不登校大幅減少計画」への疑問」=「世界」2003年9月号、岩波書店
 小林道雄[2001a]
 小林道雄「何が子どもを歪めさせたのか」/「少年事件への視点」第3回=「世界」2001年2月号、岩波書店
 小林道雄[2001b]
 小林道雄「「社会的理性」を育てるために必要なこと」/「少年事件への視点」最終回=「世界」2001年3月号、岩波書店
 小林道雄[2001c]
 小林道雄「Q49.少年犯罪」=「世界」2001年4月増刊号、岩波書店

 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 姜尚中『ナショナリズム』岩波書店、2001年10月
 斎藤環『心理学化する社会』PHP研究所、2003年10月
 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 杉田敦『権力』岩波書店、2000年10月
 十川幸司『精神分析』岩波書店、2003年11月
 内藤朝雄『いじめの社会理論』柏書房、2001年7月
 広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書、1999年4月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 宮崎哲弥、藤井誠二『少年の「罪と罰」論』春秋社、2001年5月
 山本貴光、吉川浩満『心脳問題』朝日出版社、2004年6月
 ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』岩波書店、上下巻、1987年2月

 大和久将志「欲望する脳 心を造りだす」=「AERA」2003年1月13日号、朝日新聞社
 瀬川茂子、野村昌二、宮嶋美紀「B型をいじめるな」=「AERA」2005年1月24日号、朝日新聞社
 内藤朝雄「お前もニートだ」=「図書新聞」2005年3月18日号、図書新聞

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 「俗流若者論ケースファイル60・田村知則
 「俗流若者論ケースファイル64・清川輝基
 「俗流若者論ケースファイル66・小林ゆうこ
 「俗流若者論ケースファイル67・中村和彦&瀧井宏臣

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2005年8月25日 (木)

俗流若者論ケースファイル66・小林ゆうこ

 それにしても、我が国には俗流若者論が得意とする、昨今になって急激に青少年による犯罪が凶悪化したとか、あるいは青少年における規範意識が弱くなった、とかいうレトリックを平気で引いていい気になる自称ジャーナリストやノンフィクション作家がこんなにも多いのだろうか。もちろん多くのジャーナリストやノンフィクション作家は良心的だけれども、たまに俗流若者論を言いふらしては世間に媚びて自分だけは安全だ、正常だと思いこんでいる「善良な」人たちの耳目を集めていい気になる人が出てくるのだから困る。最近になってこのような悪しき傾向に乗ってしまった人には、例えばノンフィクション界の古参である柳田邦男氏が上げられようが、柳田氏は自分の経験した、あるいはマスコミが興味本位で取り上げたがる「今時の若者」の行動に関して全てを携帯電話とインターネットなどのメディアのせいにしては論理飛躍・牽強付会・狼藉を加えていて、これが柳田氏の本なのか、と驚いてしまうほどのないようだったけれども、安易に俗流若者論に依拠したがるジャーナリストやノンフィクション作家は他にも結構いる。

 今回検証するのもそのような人の一人だ。書き手はノンフィクション作家の小林ゆうこ氏(声優の小林ゆう氏ではない)、記事は「「母子密着」男の子が危ない」(「新潮45」平成15年10月号に収録)である。また「新潮45」である。つくづく「新潮45」はこのような記事が好きだ。そしてこの記事は、具体的に言えば疑似科学系の俗流若者論の検証抜きのオンパレードである。

 そもそもこの記事、書き出しの118ページにおいてこのような文章が書かれているのだから救いようがない。

 少年犯罪が年々兇悪化して、「キレる17歳」が流行語になった。一歩間違えばわが子も犯罪の被害者か加害者になってしまうのではないか。その時に槍玉に上げられるのは母親と相場が決まっている…。(小林ゆうこ[2003]、以下、断りがないなら同様)

 それは誤解、あるいは事実誤認というものだ。犯罪白書を読めばわかるが少年による凶悪犯罪は年々減少しており、昨今になって青少年による凶悪犯罪が多発するようになったかのごとき錯覚が小林氏を含めて多くの人に共有されているのは、警察の方針転換ということもあろうが、基本的にはマスコミが少年による凶悪犯罪に対して「騒ぎすぎる」ようになったことが挙げられよう。そもそも小林氏、《「キレる17歳」が流行語になった》と安易に言っているけれども、昔の少年による凶悪犯罪を見れば、今だったら絶対「キレる」とか「逆ギレ」とか言われるような事件はたくさんあるし、このような「意味付け」は普通であれば殺人事件の中ではありふれた、例えば諍いが過ぎて相手を刺殺してしまった、というような犯罪を、わざわざ「キレる」「逆ギレ」みたいな言葉で装飾することで昨今の青少年に特有の犯罪として認識されるようになった、というのが正しい認識であろう。

 小林氏は、この文章の中で安易に疑似科学系の俗流若者論を濫用するのである。まず120ページ、《テレビにやられた子ども》という節において日本体育大学名誉教授の正木健雄氏の理論を紹介するのだが、正木氏の理論がもう噴飯ものだ。

 「72年は子どもの問題を考えるときのターニングポイントです。実はその年から死んで生まれてくる男の子の割合が急に増えたのです。当時はテレビの出荷高が頭打ちの横ばいになり、リモコン式のカラーテレビが出回ったので、原因は電磁波ではないかと考えています。72年に子どもたちの“手が不器用になる”調査結果が出て、74年に“目の悪い子”が増え、中学の不登校が減少から増加に転じました。75年から“背骨グニャ”“ボールが目に当たる”“背筋力が弱い”、78年“ちゃんと座っていられない”“朝からあくび”“朝礼でバタン”。すべて脳系統の問題ですね。85年からテレビゲームが流行すると、小学生の不登校が増加しました。子どもたちはテレビやゲームにやられたと、私は思っています。メディア環境によって体の調子が狂わされたのです」

 このような思考停止や論理飛躍、牽強付会に満ちた文章を読んでいると、《メディア環境によって》頭の《調子が狂わされた》のは、むしろ正木氏ではないかと思えてくる。まず正木氏はリモコン式のカラーテレビが普及してから男子の死産が増えた、といっているけれども、まずそれより過去のデータ、そして最近のデータも示すべきだろう。もし72年だけ急増して、その後は一貫して減少しているのであれば、正木氏の論理はそこで崩壊するし、また過去のデータを示さないのもアンフェアーである。更に言えば正木氏は電磁波によって死産が増えるというけれども、電磁波が原因というならばなぜ女子の死産が増えないのだ?また堕胎についても検証したのであろうか。更に言えば正木氏はこの頃から問題化した子供たちの体にかかわる問題(しかし正木氏は「この時期に増加した」といっているだけで現在はどうなっているか、ということは全く述べていない。正木氏は最初からテレビやゲームを敵視する目的でこのようなことを言っているのではないか、と疑われても仕方あるまい)を《すべて脳系統の問題です》といっているけれども、なぜそう言い切れるのか?このような脳還元主義には、むしろ思想的な批判が必要だろう。このような脳還元主義は、この連載で何度も示したとおり、「健全な心は健全な脳に宿る」みたいな錯覚を起こさせることによって、「今時の若者」の如き「異常な脳」を生み出した「原因」を排除しなければならない、という議論につながりかねない(というよりもつながっている)し、更に言えば彼らの言うところの「脳の異常」が所詮は彼らの私憤に過ぎないこと、またそのような疑似科学という補助を得て個人の私憤がそのまま国家による「対策」につながってしまうこと、もう一つ言えばそのような説明では少年による凶悪犯罪が減少していることなど、更にしつこく言えばそのような脳還元主義によって貧困とかあるいは怨恨などといった社会的な背景がことごとく隠蔽されてしまうことなど、問題は極めて多い。名誉教授ほどのポストについている正木氏であれば、そのようなことに対する想像力を働かせることはできるはずだが。それともテレビやゲームを敵視するためなら想像力など要らぬ、ということなのか?

 更に正木氏は大脳前頭葉未成熟というストーリーにも触れてしまう。この部分についても、具体的な数値データを正木氏は提示しようとしないし、小林氏もまたそれを求めるようなそぶりはしない。このような文章は、疑似科学とそれに疑いを持たないジャーナリストや編集者などの共犯関係によって生まれる。たとい疑似科学者だけいても、彼の妄想だけで社会に表出しないならば問題は生み出さないが、この手の疑似科学は最近になってニーズが高まっているので、自分こそが青少年問題の「本質」を知っているという曲学阿世の徒が続出してしまう可能性も否定できない、というよりも最近の我が国はそのような状況に陥っている。

 ここではかの曲学阿世の徒・北海道大学教授の澤口俊之氏も登場する(122ページ)。当然の如く小林氏が引くのは、《PQの障害》である。《PQ》の説明に関してはこの連載の第48回でやったのであまり詳しくは説明しないけれども、《PQ》とは「Prefrontal Quotient」すなわち「前頭前知性」の略称であり、これが障害を起こすと不登校にも家庭内暴力にもひきこもりにも「恥知らず」にもなるんだとさ(ちなみに最近《PQ》という言葉は「HQ(=Humanity Quotient;人間性指数)」という言葉に変容している。正高信男氏もそうだが、この手の疑似科学者の好きな言葉の一つに「人間性」がある)。この手の疑似科学者は、自分が不快に思う問題の全てを「脳」に還元させてしまうという態度にどうして疑いを持たないのだろうか。問題の全てを「脳」に押し付けるということは、すなわちレイシズムであって、あいつは俺たちとは違って脳が異常なんだ、だからあいつらは俺たちが不快に思う行動をとるんだ、という残酷なイメージの押し付けである。澤口氏は森昭雄氏と並んでそのパイオニアだ。要するに現代日本にはびこる俗流若者論と言う名のレイシズムを生み出した人として、澤口氏と森氏の名前を決して外すことはできまい。

 案の定、澤口氏は《それら困った若者たちに共通するのは母親に過保護に育てられたという点です。ことに母親が敏感、几帳面な性格である場合に、子どもは前頭連合野の知性PQの障害に陥る》と書いている。では澤口氏に訊きたいのだが、澤口氏は《それら困った若者たち》について、彼らが本当に《母親に過保護に育てられた》のか、ということを調査したのか?沢口氏の著書や論文などを読んでいる限り、そのようなデータは全く見当たらず、全て「「今時の若者」はみんな母子密着で育てられた」という澤口氏の思い込みで書いているような気がしてならないのである。蛇足だけれども、澤口氏は《ことに母親が敏感、几帳面な性格である場合》は危険である、としているけれども、そのような《敏感、几帳面な》母親たちを疑似科学によって煽っているのは果たして誰なのだろうか。本当は虚構である「少年犯罪の凶悪化」とか「キレる17歳」などといったイメージを垂れ流しているマスコミや自称「識者」であり、澤口氏もまさしくその中に入る。澤口氏は自分の言論に対する反省をいい加減したらどうか。

 そしてこのような疑似科学記事が往々にしてたどり着く結論が、父親の育児参加である。この文章の結論においても、以下のように書かれているのである。126ページ。

 社会が“母子密着”を防ぐシステムを持たなくては、不登校の子どもたちは100万人いるといわれる“ひきこもり”予備軍と化すかもしれない。いや、“母子密着”そのものが、すでに社会からひきこもっている状態にも見える。密着する母と娘が“一卵性母娘”と呼ばれ、通りを闊歩するのに比べ、母と息子の今日依存は家庭というカプセルで日々育まれる。父親の存在をありのままに望む時代を、私たちは初めて迎えている。

 はっきり言って私は、「母子密着の子育てをすると青少年問題が深刻化するぞ、子供がフリーターや「ひきこもり」や無業者になってしまうぞ、だから父親が子育てに参画しろ」という言説は、害悪しか生み出さないと思っている。このような言説は、子供たちを過度に政治化してしまうことによって、一人一人のリアルな現実を政治の下に取捨・希釈してしまう可能性を持つことのみならず、虚構にまみれた青少年言説に借りた垂れて、そのような青少年問題の「防止」のために父親が始めて子育てに参画する、という状況に私は不気味さ以外のなにものも覚えない。いまだ20歳、子供を持っていないどころか妻も持っていない、更には実家暮らしである私が言えることではないのかもしれないが、やはり子育ては楽しいほうがいいのではないか。

 「中央公論」平成15年5月号は、「少子化日本――男の生き方入門」という特集を組んでいるが、この特集は少子化社会における新しい父親像を模索しよう、というポジティブな感情に支えられている。詳しくは特集を読んで欲しいのだが、やはり実感することは青少年「問題」をベースにした扇動言説は人々を不安に駆り立てるだけで何も生み出さないのに対し、子育てに対してポジティブに取り組むことはやはり楽しそうだ、ということだ。自分を母親と父親の両方の役割を持った新しい親として生きることを実践している作家の川端裕人氏の文章や、育児休暇中の父親による座談会には、どこにも青少年問題に対する不安扇動言説は出てこない。しかし、これこそが子育て言説のあるべき姿ではないだろうか。

 世の中に流通している扇情的な青少年言説は、青少年のみならず多くの親たち、教師たちもまたゲットーに追いつめようとしている。そのような言説の暴走を止めるのがマスコミや知識人の役割だと思うのだが、世の中は移ろいやすいもの、なのかどうかはわからないが、少なくない良心的な知識人の働きかけも俗流若者論市場の中では無視される。このような状況を少しでも変えたいと思う人こそが、やがては日本を変えるのだと思う。青少年問題を過剰に、興味本位で採り上げている内が華であろう。そのような思考停止を繰り返していると、それこそ我が国は滅びるのである。

 参考文献・資料
 小林ゆうこ[2003]
 小林ゆうこ「「母子密着」男の子が危ない」=「新潮45」2003年10月号、新潮社

 広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書、1999年4月
 宮崎哲弥、藤井誠二『少年の「罪と罰」論』春秋社、2001年5月
 吉川浩満、山本貴光『心脳問題』朝日出版社、2004年6月

 大津和夫、重石稔、平野哲郎「子どもの笑顔と過ごす豊かな時間」=「中央公論」2003年5月号、中央公論新社
 川端裕人「マーパーの誕生」=「中央公論」2003年5月号、中央公論新社

 参考リンク
 「少年犯罪データベース

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2005年8月22日 (月)

俗流若者論ケースファイル64・清川輝基

 今回検証するのは、NHK放送文化研究所専門委員の清川輝基氏による「“メディア漬け”と子どもの危機」(「世界」平成15年7月号に収録)である。この連載の中で何度か示したとおり、清川氏もまた森昭雄氏や澤口俊之氏や片岡直樹氏などと並び、青少年問題において疑似科学を安易に用いる人である。結論から言えば、清川氏のこの論文も、疑似科学の検証抜きの濫用と安易な懐古主義に満ち満ちた文章であった。ちなみに清川氏は出だしのほうの206ページにおいて《この40年間、日本という国は、子どもたちにとってきわめて残酷な環境の変化をさせてしまった》(清川輝基[2003]、以下、断りがないなら同様)と書き、この文章の入っている段落の次の段落において清川氏は《60年代以降の40年間に日本の大人たちのやってきたことの結果が、現在の「人体実験」状態をつくり出し、それがいま明確に子どもの心とからだにあらわれている》と書いている。清川氏を含め、疑似科学系の自称「識者」は《人体実験》という言葉が好きだ。このような言葉は最初から彼らが現在の青少年に関して偏狭な認識しか持っていないことの証左なのだと思うがどうか。

 この以降に並べられる疑似科学のオンパレードの前に、いきなり私が噴き出してしまった部分がある。207ページ上段。

 NHKが1941年に実施した調査では、当時国民学校五~六年生の男子の一日の生活時間の中で「外遊び」の時間が一時間四六分、「癒えの手伝い」の時間が一時間二一分あった。「外遊び」は、子ども集団のなかにある、子ども自身の文化である。それはたとえば、缶蹴りや鬼ごっこやかくれんぼという集団の遊びが、緊張と弛緩の繰り返しによって心臓や肺、筋肉の機能をきわめて安全に有効に高めるように、子どもの文化は、文字通り豊かな子どもの心とからだを育てる時間でもあった。

 1941年とは、大東亜戦争の最中ではないか。しかも現在から見てかなり昔の話だ。そのような極端な時点の統計を持ち出して一体どうなるというのか。しかもこの文章を字面そのままで捉えるのであれば、清川氏は戦前に戻るべきだ、戦前はもっと子供が人間らしく生きていた、とでも主張することになる。「世界」の岡本厚編集長は疑問を持たなかったのだろうか。あるいはこのような主張であっても疑似科学系の俗流若者論なら許していい、という規定でもあるのだろうか。しかもこの文章においては、頻繁に《子どもの心とからだ》という表現が出てくるけれども、清川氏はこの言葉を明らかにイデオロギーとして用いている。すなわち、過去の《子どもの心とからだ》はいたって健全だが、今の《子どもの心とからだ》は病んでいる、それは《メディア漬け》が原因であって、直ちにその状況を「撲滅」しなければならない、というイデオロギーに、清川氏は染まっているのである。そのような態度を疑うことを捨てて清川氏は現在の青少年に対する偏見を振りまいているのである、しかも月刊誌の中ではもっとも「左寄り」とされている「世界」で。まあ、俗流若者論においては右も左も大同団結してしまうから、ある意味ではこのようなことが生まれるのも「正常」なのだが。悲しい話だ。

 少し筆が滑ってしまった。本題に戻ろう。さて清川氏は、208ページにおいて以下の通り述べる。曰く、

 当時(筆者注:1970年代後半)すでに「警告」という番組タイトルをつけなければならないほど子どもたちの発達の遅れや歪みは深刻だったが、その子どもたちは、生まれたときに既に茶の間にテレビがあった「テレビ第一世代」である。電子映像、テレビ画面にほとんど抵抗感がなく、テレビ画面は環境そのものである。

 その世代がいま親となり、子育てをしている。……

 要は、今は親が既に異常だから、子供も異常になるのは当たり前だ、というストーリーであるな。しかしこのようなストーリーの暴力性は指摘しておかねばなるまい。そもそも清川氏は今の親世代が「異常」である、という証拠を一つも提示していないし、子供に関するデータすら209ページから210ページにかけての《家ではほとんど勉強しない子の比率》だけだ。当然、これも《メディア漬け》が犯人とされているわけだが、このような調査は東京大学教授の苅谷剛彦氏がかなり前から調査しており、かなり蓄積されたデータがあるのだが、そこには触れようとしなかったのだろうか。

 清川氏のこの文章は、読者が現在の子供たちは「異常」である、という認識を持たなければ納得できないだろう。何せ清川氏は何が「異常」であるか、そして本当に「異常」と呼べるのか、というデータはほとんど示しておらず、あらかじめ「今の子供たちは異常である。その原因は《メディア漬け》である」ということを最初から設定して、それにかなうデータしか持ってこないのだから。少年による凶悪犯罪が減少している、というデータを示しても清川氏は馬耳東風だろう。

 だから清川氏が、210ページにおいて、かの曲学阿世の徒・日本大学教授の森昭雄氏の「ゲーム脳」理論を好意的に紹介していても何の不思議はないのである。当然のことながら清川氏、この「ゲーム脳」を紹介する文脈において《人間としての心をコントロールし表現する大脳の前頭前野とよばれる部分が、ゲームをやっている子どもの脳ではほとんど働いていないことを示している。自分を制御できないとは、切れやすいと言い換えてもいいが、そういう人間らしい心の欠如も、メディア接触ときわめて強い関係があることがわかってきたのである》と書いているのだが、これもまた現在の若い親たちと子供たちに対するステレオタイプが固定化されている清川氏であれば当然の振る舞いであろう。更に、明治大学の三沢直子教授による調査における《ゲームを長時間している子どもの方が現実と非現実を混同する率が高い》という結果も清川氏は引いているのだが、果たして清川氏は三沢氏のデータを引用する段階で《現実と非現実を混同する》ということがいかなる事を指しているのか、ということを検証しなかったのだろうか。ついでに前出の三沢氏もまた「ゲーム脳」を信奉していることを書き加えておく。

 これ以上は検証しない。これ以降も、安易なアナロジーの濫用、牽強付会、我田引水の連続だからである。そして結論が「テレビを消そう」。やはり安直な結論になったか。
 それにしても、清川氏の如き専門家として高い地位を得ている人が、その辺のワイドショーとかテレビ報道とか誰かの愚痴で語られているだけの内容と自分の狭い経験だけで、現在の青少年を「異常」と言い切ってしまうという態度をとっていていいのだろうか。これは清川氏に限らず、疑似科学系の俗流若者論を振りかざす、あるいはそれに何の疑問も持たず好意的に引用する人たちに言える。結局のところこのような策動は、自分の「理解できない」ものに責任を押し付けることによって自分だけは安全で正義なのだ、という錯覚に陥りたいだけなのだろう。このような態度が、専門家の、そして科学の死を意味する。

 清川氏らにとって、青少年とは単なる「自己実現」の道具でしかないのだろう。この論文において頻出する《子どもの心とからだ》は、それ自体がイデオロギーの言葉として作用している。現在の我が国において、このような言葉にこそ反動的なイデオロギーが宿る。要は「子供」を生け贄にしたナショナリズムが台頭しているのである。彼らにとって青少年問題とは自分の立場を上げてくれる格好の舞台装置でしかない。このような人たちに青少年問題を語らせるのは、もうやめにしないか。

 参考文献・資料
 清川輝基[2003]
 清川輝基「“メディア漬け”と子どもの危機」=「世界」2003年7月号、岩波書店

 斎藤環『心理学化する社会』PHP研究所、2003年10月
 広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書、1999年4月
 山本貴光、吉川浩満『心脳問題』朝日出版社、2004年6月

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2005年8月21日 (日)

俗流若者論ケースファイル63・和田秀樹

 この連載の第47回で武田徹氏の文章を批判したときにも少し触れたけれども、俗流若者論において精神科医とか心理学者の「ご託宣」もまた期待されている。彼らによる「ご託宣」は、自らは善良であると思い込んでいる人たちが一方的に排撃している「今時の若者」に対するフラストレーションを正当付けるためにしか働かず、例えば具体的な検証や反証とか、あるいは精密な分析は最初から放棄される。俗流若者論における心理学主義プロファイリングは、もはや「言った者勝ち」の状況であり、いかに刺激的な(=一見刺激的に聞こえるけれども内容が空疎な)プロファイリング概念を出した人が勝者となる。あるいはそのようなプロファイリングをして「善良な」大衆に「癒し」を与えることで自らの私腹を肥やすことができる。故に我が国には「~~症候群」とか「~~人間」とか「~~シンドローム」みたいなプロファイリングが続出する(武田氏の文章における「プログラム起動症候群」もその典型)。若年層は言説によって一方的に売り飛ばされる存在である。もっとも「善良な」大衆にとっては若年層とは言説によって売り飛ばされる存在でしかないのであるが。

 さて、連載第47回における武田徹氏の文章の検証では、精神科医による安易なアナロジーの捏造を無批判に紹介しているジャーナリスト(=武田氏)のことを検証したが、今回検証するのは本職の精神科医による心理学主義的なプロファイリングである。とはいえ、その文章の書き手が、最近までは主要な守備範囲の教育問題のみならず経済問題や北朝鮮問題にまでさまざまな問題に首を突っ込んでいる精神科医の和田秀樹氏であるから、このようなプロファイリング合戦に参加するのもまあ理解できないことではあるまい。

 その和田氏が「中央公論」の平成15年6月号の論文「日本はメランコの総中流社会に回帰せよ」で発明しているのが「シゾフレ人間/メランコ人間」である。このような分類は、昭和59年の流行語対象にもノミネートされた、浅田彰氏の「スキゾ/パラノ」を想起する人もいるだろうが、浅田氏の分類に関してはあまり知らないけれども、少なくとも和田氏のプロファイリングと浅田氏の分類において徹底的に違うのは、和田氏のプロファイリングは最初から最後まで青少年問題=「今時の若者」を意識していることだ。和田氏はこの文章の最初のほう、206ページにおいて《七〇年代後半に若者文化を支えていた世代から、日本人の主流となるパーソナリティは大きく変わり始め、さらにいえば、1985年以降に生まれた日本人から、決定的に別のタイプに変化を遂げたと私は考える。そして私は彼らを「シゾフレ人間」と名づけた》(和田秀樹[2003]、以下、断りがないなら同様)と書いている。そして和田氏は208ページにおいて、「シゾフレ人間/メランコ人間」の特徴を表にしているけれども、この表を見て私は一気にこの論文のからくりが解けてしまった。

 ・メランコ(鬱)人間とシゾフレ(分裂)人間の特徴(読み方:メランコ人間の特徴/シゾフレ人間の特徴)
 心の世界の主役:自分/他者(周囲)
 対人関係:特定他者への献身/不特定他者への同調
 周囲の世界の認知:理論的・現実的/魔術的・被害的
 自己・アイデンティティ:堅固なアイデンティティ/自分がない
 常識・価値観:内在/外在
 時間軸:過去へのこだわり・首尾一貫/周囲との同調・過去との不連続
 世代(日本):1955年以前生まれに多い/1965年以降生まれに多い

 要は和田氏は、巷で囁かれる「今時の若者」に対する不満に「わかりやすい」用語を与えただけだろう。和田氏はこのような分類をさも自分が始めて発見したかの如き説明をしているけれども(206ページの《若者が個性化しているという諸説はウソではないか》みたいな書き方など)、「今時の若者」に対するこのような批判はもはや噴出しているのだが。

 案の定、この論文には《シゾフレ人間は》とか《彼ら(筆者注:《シゾフレ人間》)は》といった言葉が頻出する。和田氏は最初から現代の若年層を《シゾフレ人間》と規定して、彼らを危険視することしか考えていないのだから、この文章全体がないよう空疎なものになるのももはやわかっている。その証左として、和田氏が《シゾフレ人間》の対等に関する検証を行なっていると思える部分が207ページ3段目の次のくだりしか見当たらないことが挙げられよう。

 なぜ、日本にシゾフレ主流の時代が訪れるようになったのだろうか。その最大の要因は、何はともあれ日本が経済的な豊かさを享受したことであろう。戦後、だれもが努力次第で豊かになれる社会になり、「運命を自分で切り開いていけるからこそ頑張る」メランコ人間が増え、受験や出世競争に勝ち抜くことに没頭した。やがて生活がある程度豊になると、今度は「みんなと同じだったら十分苦っていける。目立たずにみんなと一緒が大切」なシゾフレ人間が台頭する時代に移行してきた。

 本当にこれだけなのだ。しかもこれが全体6ページの中の2ページ目で、後はいかに《シゾフレ人間》が危険な存在であるかを喧伝しているだけなのである。このような文章に関してはもはやどうでもいい話なので検証は差し控えるけれども、少しだけ和田氏の事実誤認や歪曲が見られるので指摘したい。例えば208ページにおいて《先般の都知事選の結果(筆者注:平成15年4月12日に行なわれた東京都知事選挙。石原慎太郎氏が再選した)に、庶民のシゾフレ化を後列に感じたのは私だけではあるまい。石原慎太郎氏はシゾフレ人間たちからすれば崇め奉る対象。七割超の大量得票は、みんなと一緒でいたいのだという圧倒的な大衆が神様を求めている証しである》と述べている。ちなみにこの都知事選挙の投票率は約45パーセントで、確かにそのうち七割以上は石原氏に入れていたけれども、有権者全体からすれば約33パーセント半強に過ぎない。だったら和田氏は投票しなかった人を問題視すべきではないか?

 それにしても、和田氏の立論に従えば、和田氏が(勝手に)問題化している《メランコ人間》を生み出さないためには、たくさん競争をして、ひたすら成長しなければならない、ということになろうけれども、果たしてそれが我が国の採用すべき戦略なのだろうか。経済的な成長だけを重視する時代は、やがては格差の拡大、地球環境の破壊、資源の枯渇などにつながっていく。更に我が国は人口減少社会に突入する。そのような状況を考えたとき、我が国が採るべき社会システムは、むしろ経済成長「しないこと」を前提にしたシステムであり、全ての人がそこそこの豊かさを享受できるような社会である。和田氏の如く、ひたすら経済成長せよ、そうしないと「今時の若者」の如き無能な人間が量産されてしまうぞ、とひたすら大衆の尻を叩くのは、結局のところ自分を肯定して若年層を否定したい人たちの残酷な願いをかなえるだけではないのか。

 また、精神分析に関する倫理の面からも和田氏を批判してみたい。和田氏はこの文章では明らかに個々人を診断しないで専門用語を弄して若年層をバッシングしている。直接の臨床を抜きにして診断する、ということに関しては例えば「ひきこもり」の人に対する精神分析などではありえることらしいし、精神分析の概念に安易に自分が診断していない個人を当てはめてタイプを規定すること、例えば精神科医の斎藤環氏が「諸君!」平成14年4月号でやったような(斎藤環[2002])政治家の「精神分析」などのように、明らかにネタと認識できるものであれば許容できるが、和田氏は本気(ベタ)だ。明らかに現在の青少年について「警鐘」を鳴らす目的でやっているが、そのような安易なレトリックの濫用に熱中するのであれば、まず自らさまざまな臨床事例の積み重ねやアプローチの変更などを繰り返す必要があるのではないか。これは和田氏に限らず、安易に心理学主義的なプロファイリングを安易に振りかざす人たちにも言えることだ。

 ちなみに和田氏のプロファイリングと同様の分類に、斎藤環氏の「ひきこもり型/自分探し型」という分類がある(「ひきこもり型」は《メランコ人間》に、「自分探し型」は《シゾフレ人間》に近い)が、こちらの分類は和田氏のプロファイリングよりもより説得力がある。斎藤氏もまた「今時の若者」に対する思い込みの安易な類型化という点では和田氏と同様の問題点を持っているけれども、少なくとも斎藤氏はある程度のフィールドワークを行なっているし、このような分類が和田氏のような「日本が経済的に豊かになって、努力する必要がなくなった」みたいな安易なアプローチではなく、コミュニケーションに対する指向性に目をつけていることもまた興味深い。

 これは蛇足なのだが、「中央公論」の平成15年7月号に、和田氏の立論を絶賛する投書が掲載されていたのだが、この投書を読むと、すくな事もこの投書子にとっていかに和田氏の文章が自分の世代(=自分)の肯定と若年層の否定の役に立ったか、ということがよく分かる。

 参考文献・資料
 斎藤環[2002]
 斎藤環「気になるあの人たちの「精神分析」報告」=「諸君!」2002年4月号、文藝春秋
 和田秀樹[2003]
 和田秀樹「日本はメランコの総中流社会に回帰せよ」=「中央公論」2003年6月号、中央公論新社

 小此木啓吾『モラトリアム人間の時代』中公文庫、1981年11月
 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 十川幸司『精神分析』岩波新書、2003年11月

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2005年8月20日 (土)

俗流若者論ケースファイル61・野田正彰

 このブログにおいて、私は一貫して「心の教育」なるものに反対してきた。私がこれに反対するロジックとしては、青少年問題を「心」の問題として捉える現在の傾向は、それが「ひきこもり」やフリーターや若年無業者問題に関して用いられるならばそれらを生み出した社会的・経済的背景を無視して「心」の問題として処理することによって不当な「自己責任」をそれらに苦しんでいる人たちに押し付けてしまうこと、また少年犯罪も含めてこのようなロジックは正常な「心」と異常な「心」という図式が前提としてあり、「今時の若者」の異常な「心」を「正常化」しなければならない、そのためには異常な「心」を生み出したものを撲滅しなければならない、というロジックにつながり、その代替物として安易に愛国心とか情操教育とかいったロジックが持ち出されることに対する疑問である。

 その点からすれば、関西学院大学教授の野田正彰氏が「世界」平成14年10月号に寄稿した「「心の教育」が学校を押し潰す」という論文は、本来であれば私の味方となる論文なのかもしれない(ちなみにこの論文が発表されたときの野田氏の肩書きは京都女子大学教授)。野田氏はこの論文の冒頭において、平成11年6月の中教審の答申「新しい時代を拓く心を育てるために――次世代を育てる心を失う危機」を以下のように批判する(88ページ)。曰く、

 続いて答申を説明していくのだが、その前に文部省(筆者注:中教審の答申が発表された当時は文部科学省ではなく文部省だった)の文章は表題から日本語の体をなしていないことを理解しておこう。副題の「次世代を育てる心を失う危機」とは何を意味するのか。「次世代を育てる心」とは大人たちの心のことか。「育てる心」という表現はありえない。「心を失う危機」とは何か。精神的危機という概念はあるが、心を失うとは失神することなのか。ましてや「心を失う危機」とはどんな危機なのか、想像すらできない。通して「次世代を育てる心を失う危機」と読み直すと、頭がおかしくなってくる。「次世代の心を貧しくする危機状況」とでも言いたいのだろう。さらに「新しい時代を拓く心を育てるため」の答申なのに、なぜ副題は「心を失う危機」なのか。もう少し正常な日本語を書ける人はいないのか。(野田正彰[2002]、以下、断りがないなら同様)

 この批判に関しては異存はない、むしろ大いに賛同する。

 しかし野田氏のこの論文において問題なのは、所謂「心の教育」が青少年の「病理」を加速させる、という視点に野田氏が立っていることだ。これは、野田氏は中教審の答申のタイトルにある「新しい時代を拓く心を育てるために」とか「次世代を育てる心を失う危機」といった美辞麗句を批判しているけれども、しかし野田氏もまた現代の青少年が精神的な病理状況に陥っている、と認識しており、結局のところ「心の教育」推進派と同じ認識を共有しているのであって、そのような野田氏が「心の教育」推進派を撃っても所詮は俗流若者論の中の内ゲバにしかなりえないのである。もっとも、野田氏がこのような認識を持っているのは、この連載の第32回で紹介したのだが、そのときは週刊誌の記事のコメント程度だったので、まとまった論文として野田氏の立論を批判するのは今回が始めてである。

 さて、野田氏のこの論文において問題が出ているのは95ページから98ページの4ページである。野田氏は95ページ1段目から2段目にかけて、「心のノート」が次のように記述していることを問題視する。曰く、

 「街中で 大きな硝子窓に映った自分に気づいた。いつもまっすぐに胸を張って歩いているつもりなのに なんだか 自信なさげにうつむきかげんに歩く私がいた。上方や服装、スタイルばかり気になっていたけれど 自分の中身は、ぜんぜん気にもしなかった。――でも、この硝子窓には、わたしの心が映っているよう」といったふうに。一方では「心を形に表して以降」、「T.P.O.を考えた行動ができているか?」、「礼儀には脈々と受け継がれている伝統がある」と畳み掛ける。

 野田氏はこのように紹介するのだが、しかしこのあとに続く野田氏の立論は、あらかじめ現代の青少年が精神的な病理的状況に陥っている、あるいは現代の青少年は自分たちとは違う「異常な「心」」を持っている、と読者が認識していなければ意味を持たない文章が来るのである。

 そこで子どもは何を求められているか、すぐ察知するであろう。自分を見つめ、良い自分と悪い自分を分割し、場面に応じて良い自分を装うこと。これが学校の先生の要求する「こころ」であることを、心から、知るであろう。何のことはない、これでは、現代の若者が得意とする、自分のなかに別の自分がいるといった、ファッションとなった解離体験を推奨しているようなものである。

 私が疑問を持ったのは《何のことはない、これでは、》以下の文章である。野田氏は《現代の若者が徳意図する、自分のなかに別の自分がいるといった、ファッションとなった解離体験を推奨しているようなものである》と書いているけれども、野田氏が何をもって《ファッションとなった乖離体験》を指しているのかがわからないし、そもそも《現代の若者が得意とする》といったくだりに、野田氏の若年層に対する認識が表れているように見える。野田氏はこの文章において、《ファッションとなった解離体験》を推奨することは現代の病理状況を広めるかのごとき説明をしているけれども、それが本当に問題なのか、あるいは本当に現代の病理状況として捉えるべきなのか、という議論を野田氏は最初から放棄している。読者に「今時の若者」は精神的な病理を持っている、という前提が共有されない限り意味を成さない。もう一つ言うと、野田氏は96ページにおいても《精神障害としての解離――解離性健忘、遁走、昏迷、憑依などと違った、若者ファッションとしての解離の言い訳は枚挙にいとまがない》とも述べている。

 野田氏は更に、この段落の直後に、更に《八〇年代より、日本の子どもは他の子どもと深い交流を避け、表層の情報の交換を好み、周囲のT.P.O.に応じた行動を取る適応力を高めてきた。……ただ(筆者注:現代の子供たちが)自分ら勝手な言動をとっていると見えるのは、大人たちのT.P.O.とズレがあるからである》と述べている。だったら、例えば製造年月日や生産地を偽装して、店舗では何の操作もしてなかったかのごとく売る店員とか、トラブルが生じてもひたすらひた隠しにしてさも何の問題も起こっていないかのごとく装う人たちとか、またあるいは大銀行や大企業に対しては甘いのに民衆にはいまだに極めて低い金利を押し付ける経済政策などは野田氏の理論では説明することができるのだろうか。それとも野田氏は、「田中均は右翼に爆弾を仕掛けられて当たり前」と言った石原慎太郎氏や「少年犯罪の加害者の親は市中引き回しにして打ち首にしろ」と言った鴻池祥肇氏や「少女がカッターで頚動脈を切る事件が発生したのは女性が元気になった証拠だ」と言った井上喜一氏や「公約が達成できなかったからといって大したことはない」と言った小泉純一郎氏は「今時の若者」よりもマシと考えているのか?いずれにせよ、野田氏が現代の若年層を過剰に危険視していることは明らかであろう。

 更に野田氏は、以下のようにも述べる。96ページ。

 このような切りかえ(筆者注:《過剰反応する自分》=周囲に対して敏感になりひたすら事故を抑えることと《自閉思考に安らぐ自分》=ビデオや漫画やアニメや情報雑誌などの接触を通じて自分だけの世界を構築すること。このような図式化は野田氏もまた漫画やアニメなどを病的な青少年が部屋の中で自分の殻に閉じこもって一人でやるもの、と認識していることが窺える)のの敏速さを表現した若者言葉に「切れる」がある。「切れる」とはどういうことか。中学生たちは、「副が切れて、髪の毛が逆立って、威嚇して、エラ呼吸しはじめてジャンプ」、「澄んだ眼をしていて、口をきかない」、「ちょっと肘が当たっただけで、一発殴って叫びだした」、「先生に怒られて、その先生の強化のノートをビリビリにしたり、黒板で“死ね”と大きく書いていた」と説明している(深谷昌志教授らによる調査、「モノグラフ・中学生の世界」、98年12月、「キレる、ムカつく」)。明らかに現代日本の子ども文化として定着した「解離」が述べられている。

 解離(あるいは転換性)障害とは、困難な葛藤に直面したとき、自己同一性と直接感覚の意識、身体運動のコントロールに関する東郷が、部分的あるいは全面的に失われることを言う。子どもたちの「切れる」は解離に似ているが、異なるのは極めて意識的な行為であることだ。「それは誤っている」、「いやだ」と言葉で表せないので、替わりに「切れる」事が定型表現として許容されている。現代日本の子ども文化としての「解離」が「切れる」である。

 野田氏は何を血迷ったのか。この引用文から読み取れることは、明らかに「キレる」なる表現が極めて政治的に脚色・潤色・希釈・拡大解釈されることによって、現代の青少年の病理的状況を表しているかのごとく使われていることである。しかし、このような状況が、果たして現代の青少年に特有のものなのか、ということに関する検証は、この調査者たる深谷昌志氏はは一切していない。その点を野田氏は指摘しないのだから、野田氏が「キレる」なる表現の政治性に見事にすくい取られていることがわかるだろう。そもそものだしが引いている部分からも、「キレる」という言葉が至極広く希釈されていることを垣間見ることができる。

 とりわけ野田氏が「キレる」という表現がもたらす青少年幻想に酔っていることは後半の段落にこそ見ることができるだろう。野田氏は《子どもたちの「切れる」は解離に似ているが、異なるのは極めて意識的な行為であることだ》と書いているけれども、前出の深谷氏の(狭小なる)事例からどこをどうすればこのように解釈できるのだろうか。このように、野田氏はあらかじめ青少年は精神的な病理を持っている、と認識しているので、たとい野田氏が「心の教育」に関して反対の論陣を張っていても、「心の教育」推進派はそもそも野田氏と同様に現代の青少年は精神的な病理を持っている、というパターンから始まっているので、その反対論は空疎に響くだけであろう。

 改めて指摘しておくけれども、野田氏は「「心の教育」は現代の青少年における病理的状況を加速させる」という理由に基づいて「心の教育」に反対している。しかしこのような論理は、「青少年における病理的状況」というものが至極イデオロギー的なものであることに対する注意を少しでも払っていれば展開できないものであろう。「心の教育」を撃つのであれば、まず推進派が共有している「青少年における病理的状況」という認識それ自体を撃ったほうが戦略的には有効である。要するに、例えば彼らは少年による凶悪犯罪の増加、不登校や「ひきこもり」の増加、及び青少年による「問題行動」の増加をもってして「青少年における病理的状況」としている。しかし、少年による凶悪犯罪は昭和35年ごろに比して大幅に減少しているし、不登校や「ひきこもり」にしても最近になって爆発的に増大したわけではない。青少年による「問題行動」にしろ、まず青少年に対する社会の認識、及びその認識を構築するマスコミ報道から疑う必要があろう。「心の教育」の推進派と反推進派が「青少年における病理的状況」という、例えば地球環境の悪化や経済成長の低下といったものとは違って定量化や数値化が不可能であり、イデオロギーによって大きく左右されやすい認識を共有している限り、議論は果てしなく不毛な俗流若者論の応酬にしかならない。野田氏の文章は、それを見事に表しているのである。

 参考文献・資料
 野田正彰[2002]
 野田正彰「「心の教育」が学校を押し潰す」=「世界」2002年10月号、岩波書店

 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 斎藤環『心理学化する社会』PHP研究所、2003年10月
 斎藤美奈子『物は言いよう』平凡社、2004年11月
 十川幸司『精神分析』岩波書店、2003年11月
 保阪正康『戦後政治家暴言録』中公新書ラクレ、2005年4月
 森真一『日本はなぜ諍いの多い国になったのか』中公新書ラクレ、2005年7月

 内藤朝雄「お前もニートだ」=「図書新聞」2005年3月18日号、図書新聞

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2005年8月12日 (金)

俗流若者論ケースファイル56・片岡直樹

 さて、川崎医科大学教授・片岡直樹氏の登場である。片岡氏に関しては、この連載の37回目で検証したが、片岡氏単独の論文の検証は始めてである。検証する論文は、「テレビを観ると子どもがしゃべれなくなる」(「新潮45」平成13年11月号)である。片岡氏が、テレビの視聴により所謂「新しいタイプの言葉遅れ」が生じる、という説を発表しているのは、丁度この時期からだと推測される。この記事が発表される数ヶ月前に、片岡氏は『テレビ・ビデオが子どもの心を破壊している!』なる著書を発表しているので、この推測はおそらく正しいだろう。

 しかしこの文章において、片岡氏の自閉症というものに対する認識はこの時期から現在まで変わっていない、という気がするのである。また、片岡氏の、現代の子育てや若年層に対する認識に関しても同様である。例えば片岡氏は、133ページにおいて、《先に示した症状(筆者注:所謂「新しいタイプの言葉遅れ」)がある子どもの普段の生活などを細かく聞きますと、共通点があるのです。生まれながらにしてテレビが付いている環境で育っている、または生まれた時にはテレビがなくても生後半年や一年ぐらいからテレビ漬けになっており、母親など生身の人間との情緒的なかかわりが非常に乏しい》(片岡直樹[2001]、以下、断りがないなら同様)と書いている。ならば片岡氏は、テレビ以外のファクターをコントロールした(影響を排除した)のだろうか。もちろん、排除することは無視することとは違う。「排除」とはさまざまな影響を考慮した上で取り除くのに対し、「無視」は最初からないものとして扱うことを言う。

 そのほか、このような問題発言もある。135ページから136ページにかけて。

 言葉が遅れて出てきた子は、大人とは会話が出来ます。それは大人が子どものことを配慮しながら、応答してあげるからです。ところが同世代の子どもとは無理。周りに上手に反応することが出来ないので、一緒に遊べない。ここで強い子だと、友だちがワーッと寄って来たときに、逆にボンと叩いたり、突き飛ばしたりする。弱い子だと、逃げて独りぼっちになる。こうした状態は、ADHDと言われているものと酷似しています。

 そのまま大きくなると、学童期に入って、LD(学習障害。知的な遅れはないが、聞く、話す、読む、読む、書く、計算するなどの特定の能力の習得や使用に著しい困難を示す)と言われるものにつながる可能性もあります。
 今年になって、私が診た中学1年の男の子C君が、そのような症例に当たるでしょう。

 この子は、毎日、家でテレビゲームばかりしているので、親がゲームを取り上げたところ、学校で先生に「死にたい」などと言い出し、先生が驚いて親に連絡しました。それで、親が近くの病院に相談しに行き、そこから、私のところへ紹介があったのです。

 まずこれのどこに問題があるかというと、まず片岡氏のADHD(注意欠陥/多動性障害)に関する認識である。片岡氏は、どうもADHDという言葉だけを乱発して、その不安を煽ろうとしているのではないか。実際問題、ADHDに深く関わってきた医者からは、このような傾向に対して不安の声も少なくないようだ。ADHDに深く関わってきたライターの品川裕香氏は、現状を《児童がADHD的な行動を取るからといって、必ずしもADHDとは限らないのに、DSM-Ⅳ(筆者注:アメリカ精神医学会が定めた、「精神疾患の分類と診断の手引き」の第4版)の診断基準などに照らすだけで「チェック項目がいくつですから、あなたのお子さんはADHDの○○型です」などと「コンビニ診断」している医療現場がある》(品川裕香[2002])と批判する。片岡氏の行動は、DSMこそ出てこないものの、まさしくこれに当てはまる。

 しかも、この引用部分の後半2段落に関しては、かつて「潮」平成17年4月号に掲載された曲学阿世の徒・日本大学教授の森昭雄氏の文章(この連載の第7回にあたる)における、《「この子は覚えることや考えることが苦手なんです。どうしたらいいでしょうか」と、小学生の子どもをつれて相談にきたお母さん》(森昭雄[2005])と同様の危なさを覚える。この《中学1年の男の子C君》の親もまた、自分の子供が問題のあると思われる行動(ここでは《先生に「死にたい」などと》言い出すこと)を病気だと短絡させ、病院に相談にいく、という態度をとっているのである。もしこの親が『ゲーム脳の恐怖』を読んでいたら(とはいえ、この論文が掲載されたのは『ゲーム脳の恐怖』が出版される遥かに前だが)、間違いなく森氏のもとに駆けつけるだろう、という邪推はここで終わりにしておくが、少なくとも我が国の子育て言説の一部において「親の思うとおりに育たなければ子供は病気である」という思考が蔓延しつつある、ということに関して我々はもっと危機感を持ったほうがいい。

 また、片岡氏は136ページにおいて《現在も精神安定の薬をもらいに通院している30歳になるDさん》の事例も紹介しているけれども、片岡氏は《彼も白黒テレビのコマーシャルが大好き。3歳になっても多動であり意味のある言葉が話せないので、ここへ診察を受けに来たわけです》という理由だけをもって《テレビがなければ、普通の子だったのではないかと思っています》などと短絡している。

 また、片岡氏は、138ページにおいて曲学阿世の徒・北海道大学教授の澤口俊之氏の「PQ」概念という問題の大きい珍概念(これについてはこの連載の第48回を参照されたし)を好意的に紹介しているほか、信憑性の極めて低い《オオカミ少女》の話も真に受けている(この連載の第37回を参照されたし)。当然の如く、他の曲学阿世の徒の論法がそうであるとおり、片岡氏もまた、他の曲学阿世の徒の論理を自分の曲学阿世の都合のいいように歪曲して用いる。その証左として、片岡氏は、《テレビや早期教育はPQの発達を阻害するものです。先に症例で示したように、言葉が出ないだけではなく、周りとコミュニケーションが取れなくなり、ADHDになってしまうのも、PQが育たないためだと思われます》(138ページ)と述べている。疑似科学市場とは所詮曲学阿世の縮小再生産なのである。

 片岡氏は最後の139ページにおいて、特に高学歴の親に警鐘を鳴らしている。曰く、《高学歴で神経質な方だと、お母さん自身がノイローゼになるし、子どもも良くならない》《高学歴なお母さんは他の子どもがどんどん賢くなるのを見ていられなくて、無理やり言葉を教え込もうとする》と。しかし、テレビの視聴が子供を自閉症にする、という自閉症に関する誤解をまき散らし、この手の言説に至極敏感な高学歴の親たちを脅しているのは一体誰なのか?親の「自閉症かもしれない」「ADHDかもしれない」という不安をそのまま「自閉症である」「ADHDである」と短絡的に昇華しているのは一体誰なのか?

 自らの言動に無責任で無頓着なのもまた、曲学阿世の徒の一つの特徴である。

 参考文献・資料
 片岡直樹[2001]
 片岡直樹「テレビを観ると子どもがしゃべれなくなる」=「新潮45」2001年11月号、新潮社
 品川裕香[2002]
 品川裕香「「ADHD」にとまどう教育現場」=「論座」2002年11月号、朝日新聞社
 森昭雄[2005]
 森昭雄「“ゲーム脳”に冒される現代人」=「潮」2005年4月号、潮出版社

 斎藤環『心理学化する社会』PHP研究所、2003年10月
 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 十川幸司『精神分析』岩波書店、2003年11月
 日垣隆『現代日本の問題集』講談社現代新書、2004年6月
 広田照幸『教育には何ができないか』春秋社、2001年1月

 品川裕香「大人のADHDにも理解と支援を」=「論座」2002年12月号、朝日新聞社
 村田和木「「片づけられない女」と片づけないで」=「中央公論」2002年11月号、中央公論新社

 参考ウェブサイト
 「こどものおいしゃさん日記 おおきくなりたいね」から「「テレビ・ビデオの長時間視聴が幼児の言語発達に及ぼす影響」
 日本自閉症協会東京都支部ウェブサイトから「繰り返される「テレビ視聴=自閉症」の発言

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2005年8月 8日 (月)

俗流若者論ケースファイル48・澤口俊之

 曲学阿世の徒・北海道大学教授の澤口俊之氏の登場である。澤口氏に関しては、この連載の第37回で一回登場したが、澤口氏単独の論文の検証は今回が始めてである。検証する文章は、「新潮45」平成13年1月号に発表された「若者の「脳」は狂っている――脳科学が教える「正しい子育て」」と、「諸君!」平成13年8月号に発表された「「スポック博士」で育った子はヘンだ」で、特に前者を中心に検証することにしよう。前者の論文が発表された数ヶ月前に、澤口氏はイラストレーターの南伸坊氏との共著で『平然と車内で化粧する脳』(扶桑社文庫)を出し、「今時の若者」は脳が異常だから恥知らずになるのだ、という、現在流通しているさまざまな擬似脳科学の基盤となるような論理をでっち上げた。これはマスコミには大きな喝采をもって迎えられたが、斎藤環氏(精神科医)や宮崎哲弥氏(評論家)や山形浩生氏(シンクタンク研究員・翻訳家)といった専門家や評論家からは冷淡な目で見られている。

 そんな澤口氏の思想を、「新潮45」の論文をテキストに検証してみよう。澤口氏は論文の冒頭、92ページにおいていきなり《昨今の若者たちの脳は機能障害に陥っているといわなければならない。早急になんとかしなければ、わが国の将来は危うい》(澤口俊之[2000]、以下、断りがないなら同様)とぶち上げる。そして澤口氏は以下のように述べる。

 近頃の若者たちで目立つのは、周りの目を気にしない行動だ。ひと目を気にしないで路上でキスする、駅で着替えをする。あるいは車内で平然と化粧し、携帯電話で私生活を暴露する。さらには、授業中に悠々とパンをかじったり、携帯電話を受けたりする。

 こうした恥知らずな行動」を「周りの目は気にしているけれどもあえてしている」というのであれば、問題は、まあ、それほど深刻ではない。ところが、事実はそうではない。周りの目を気にできない、のである。

 なぜか?脳科学からみれば、非常にシンプルな答えが返ってくる。彼らは、脳機能に傷害を負っているということだ。こうした「不可解な若者たち」の全てで、脳に具体的な傷や腫瘍があるわけではあるまい。そうではなく、「ある事情」で脳機能障害に陥ってしまったとみなせるのだ。

 このような論理が学者のものとして捉えられるのだから、我が国の論壇において科学というものがいかに軽視されているか、ということがわかるだろう。まず、澤口氏が「今時の若者」の行動に脳機能障害を見出す、というのであれば、この程度の単なる印象論ではなく、もっと具体的に数値化されたデータを提示するべきであろうし、安易に脳科学の知見を「今時の若者」にて起用することが倫理的に正統であるかどうかも検証すべきであろう。なお、澤口氏は、93ページにおいて、大脳前頭葉の傷害が人間性の欠落を引き起こす、ということに関する事例をあげているが、ここで採り上げられている事例の怪しさはこの連載の第37回において既に検証済みであるので、ここで触れることはしない。また、95ページで、澤口氏は所謂「狼少女」の事例にも触れているけれども、これも極めて信頼性の低い事例であり、第37回で検証済みなのでここでは触れない。

 さて、澤口氏の擬似脳科学の根本を支える(珍)概念とは何か。それは《PQ》と《ネオテニー》だ。いずれも澤口氏独自の概念である。《PQ》とは澤口氏の説明によると《前頭知性、Prefrontal Quotient》であり、《将来への展望・計画、自分の行動や感情のコントロール、他人の心の理解》という大脳前頭葉の基本的な働きの能力を示すらしい。また《ネオテニー》に関しては、この語句に関しては以前から存在するけれども、澤口氏の使い方では語句は同じでも本来の「幼形成熟」の意味からはかけ離れている、というよりは《PQ》概念に都合のいい形に換骨奪胎されている(ちなみに最近になって《PQ》は「HQ」(Humanity Quality;人間性指数)なる語句に変貌している)。当然の如く、澤口氏の説明によると、「今時の若者」は《PQ》が不足しているから《この観点からいえば、彼らは「周りの目を着にできない」という症状に加えて、「他人の気持ちがわからない」「欲望を抑えられない」「夢をもてない」「目標に向かって努力できない」といった症状も併発しているはずである》(94ページ)ということになる。ちなみに澤口氏は「今時の若者」における《PQ》障害という捉え方を《脳科学の観点からは当然》としているけれども、このような捕らえ方は澤口氏の独自のやり方であり、当然どころか異端である。

 しかし澤口氏は容赦しないようだ。澤口氏は「今時の若者」において《PQ》が不足している(と澤口氏が勝手に見なしている)原因を、母子密着型の子育てに求める。澤口氏は以下のように述べる。

 幼少期での不適切な環境によってPQは傷害されてしまうわけだが、このことをさらに議論する前にぜひとも抑えておくべき点がある。「ネオテニー」である。「日本人の幼少期」を議論する際にはこの点は避けて通れないからだ。(97ページ)

 近代の日本、とくに戦後の日本の状況をみると、「複雑で厳しい社会関係」とはまさに層反する環境が「普通」になっているといわなければならない。少子化が進んで兄弟姉妹の数は少ない。少ない子どもを(とくに母親が)大事に大事に(過保護に)育てる。母親による過保護がPQの障害をもたらすことは多くのデータからはっきりしていることだ。家の作りも問題で、LDKという欧米流の住居が蔓延してしまっている。……

 「モンゴロイド流幼少期環境」とは相反するこうした「単純で甘い社会関係」の中で育ったらどうなるか、答えははっきりしている。長じてもPQは未熟のままで、夢も希望もなく、その日暮らしで、努力知らず、恥知らずな若者ができあがる。(98~99ページ)

 このような物言いを見ていると、以下に俗流若者論における擬似脳科学というものが単なるロールシャッハ・テストに過ぎないか、ということがわかるだろう。ここで澤口氏が採り上げている事例は、どう考えてもマスコミの俗流若者論において散々取り上げられ、既に手垢が付きまくったイメージでしかない。また澤口氏は《母親による過保護がPQの障害をもたらすことは多くのデータからはっきりしていることだ》と自信満々に語っているけれども、あなたも科学者ならそのデータの情報源を提示するべきだろう。そして澤口氏、99ページにおいて《不可解な若者たちが激増しているのは、日本の現状からみればいわば当然のことなのだ》と書いている。しかし《不可解な若者たち》の《激増》というものが、極めて政治的なものである、ということに澤口氏は無頓着すぎる。

 そして、澤口氏のこの論文がどこに着地するか、というと、何と戸塚ヨットスクールを礼賛するのである。まあ、「戸塚ヨットスクール」というのは結局のところたとえ話に過ぎず、澤口氏は《子どもをたくさん作って大家族にし、LDKを壊して長屋を復活させ、学校教育を根本から見直し……ということになる》(100ページ)のが理想だと考えているようだ。もっともそれが無理難題であることは澤口氏も認めるところであるが。

 しかしここで我々が衝くべきは、澤口氏がここまで安易なアナロジーの濫用の問題点に無頓着である、ということだろう。そして澤口氏はその点に関してはなんら反省せずに「諸君!」の論文でも同様の論理飛躍を展開する。

 ただ「新潮45」の論文と違うのが、我が国において《PQ》を欠如させる(と澤口氏が勝手に規定している)子育てを『スポック博士の育児書』に求めていることである。ここでも澤口氏の安易な前頭葉信仰は変わらず、《進化生物学や脳科学を総合して考えると、私たち人類にとっての子育ての機軸は「前頭連合野を豊に育てること」にある》(澤口俊之[2001]、この段落に関しては断りがないなら同様)書いている他、ここで提示されている「子育ての失敗」の例もまた、マスコミで採り上げられている程度のもの、例えば《今の日本人がおかしいことは誰でも画漢字、指摘していることである。……若者たちでなく、我が国では首相さえこのことができていないようで、状況にふさわしくない発言(失言)を繰り返す始末だ。「状況に不適切に欲望を発露する」ということなど、有名人、一般人を問わず頻繁に見聞きする》というもので、根源的な問題点は「新潮45」の論文と変わらない。このように自分を無垢な場所に置ける人を、私は極めてうらやましく思う。

 澤口氏は「諸君!」の論文において、育児書の氾濫を批判している。しかし、澤口氏の如き安易な「憂国」言説こそ、育児書の氾濫という状況を生み出している真犯人ではないか。澤口氏が幾ら育児書など不要だ、生物学的伝統に従った子育てをしさえすればいいと叫んでいても、所詮は育児書の氾濫という状況を助長しているに過ぎないのである。

 それにしても俗流若者論がらみの澤口氏の言動で目立つのは、安易に科学の知見を換骨奪胎して「今時の若者」を批判したがる「善良な」人々に都合のいいように再構築して「今時の若者」に対する蔑視を煽る行為である。これはもはや科学者の行為ではなく御用学者の行為ではないか。このような俗流若者論の書き手により科学がないがしろにされ、科学の知見が歪められるのは、澤口氏のこれらの論文が発表された時期よりももっと深刻化している。それはマスメディアにおける「今時の若者」に対する敵愾心の高まりと動きを一つにしている。我々には、巷で「科学的」として語られている論理が、本当に科学的なものであるか、それとも科学ではないかを見極める能力が求められているのである。

 参考文献・資料
 澤口俊之[2000]
 澤口俊之「若者の「脳」は狂っている――脳科学が教える「正しい子育て」」=「新潮45」2001年1月号、新潮社
 澤口俊之[2001]
 澤口俊之「「スポック博士」で育った子はヘンだ」=「諸君!」2001年8月号、文藝春秋

 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 斎藤環『心理学化する社会』PHP研究所、2003年10月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月

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2005年8月 7日 (日)

俗流若者論ケースファイル47・武田徹

 私が俗流若者論の研究で培ったものの中でもっとも大きいものの一つは、物事をさも安易に説明するかのごときアナロジーを濫用してはならぬ、という精神である。巷には「今時の若者」を「説明」するための(=彼らの行動を過度に図式化し、彼らの精神の問題として捉えることによって、彼らを「劣等」と見なすための)珍概念が溢れている。「ゲーム脳」「ケータイを持ったサル」「フィギュア萌え族」さまざまだ。そしてそのような概念を用いる際は、その概念によって世界が簡単に説明されることに関する危機感を常に持たなければならない。少なくとも世界も人間の行動も単一の概念で説明できないほど複雑であり、俗流若者論は人間の、というよりも「今時の若者」の行動は簡単に説明できる、という錯誤に陥っているから、最終的にはいかなるアプローチでもレイシズムに辿り着く。森昭雄、正高信男、大谷昭宏など、採り上げると切りがない。

 たとい若者論であっても、そのような安易な概念に依拠して簡単に若年層を説明することを疑うことは、良識ある書き手であれば必然だ。もし誰かの発明した概念をそのまま批判的検証もなしに広めてしまったら、それは言論でもジャーナリズムでもなく大本営発表になる。そのような事態をもっとも避けるべきはジャーナリストであろう――。

 ここから本題に入る。今回検証する記事は、ジャーナリストの武田徹氏による「プログラム人間に「心」を」(「Voice」平成12年11月号)、である。この《プログラム人間》という表現は、心理学者の三森創氏による概念であり、武田氏は三森氏のこの概念を《何かを自分で感じて、それをきっかけとして行動を動機づけてゆくメカニズムを、彼(筆者注:三森氏)は「心」と読んでおり、最近の若い世代はそうしたメカニズムを形成させることなく育ってしまっているのが、三森の指摘だ》(武田徹[2000]、以下、断りがないなら同様)と紹介している。

 なぜ武田氏がこの概念に惹かれたのか。そのことについて、武田氏は、104ページから105ページにかけて、当時テレビで大流行りだった「片づけができない若者」なるものを紹介している。武田氏によると、それらの人は《たしかに大学や会社から帰宅した部屋の主は、服装などもこざっぱりしている。つまり社会的にはごく「まとも」な普通の若者なのだが、ただ片づけをする意欲だけが欠けていた》という。それが武田氏には、《ごくまともな若者の唯一の奇行》として片付けることができなかったらしく、武田氏は105ページの最後で、

 たしかに先にあげた例では、乱雑な部屋を不快に感じる「心」、不快感を動機として掃除という行動を選択する「心」が存在しなくなっていると考えれば、常軌を逸した散らかりぶりをうまく説明できる。

 と述べている。武田氏がジャーナリストであれば、まずそのように安易なアナロジーをテレビで見た程度の「今時の若者」のイメージに重ね合わせる前に、まずそのような事態がどこまで広がっているか、ということを取材すべきであろう。しかし武田氏は最後までこのアナロジーに依拠してしまう。ちなみに106ページにおいて、この三森氏の著書の一説が紹介されているのだが、その著書のタイトルが「プログラム駆動症候群」ときた。つくづく心理学主義系の俗流若者論は「症候群」が好きだ。

 武田氏のこの文章は、単純な概念に依拠すると、多面的な見方を拒絶するようになる、という格好の事例として見ることができる。例えば107ページの記述を見てみよう。

 そこで、まず注意すべきなのは、彼らが全面的に無責任なのかということだ。なぜ避妊しないのかと尋ねられた若い女性の多くは、それが最愛の恋人への忠誠の証なのだと答えるだろう。なぜ中絶しないで産んだのかと尋ねられたら、せっかく授かった生命を殺すなんて人道的に許されないことだと主張するのではないか。育児を放棄して遊びに行くことは、友人をなにより大事にしたいからだと述べるかもしれない。つまり、大人の眼からは一様に無責任だと移る行動は、彼らにしてみればそれぞれに「スジを通した」結果なのであり、彼らなりに責任を取ろうとしているのだ。

 ……

 若い世代の場合は、そうしたすべての行為に責任をとる個人であろうとはしない。部分的に筋が通れば突進して行ってしまう。それもまた「心」ではなく、「プログラム」で駆動されているということと関係している。動機づけがすべて「心」に統合されていれば、行動のすべてを統一的に見渡し、取捨選択をすることが可能となるが、若い世代は「心」を育んでいないからそれができない。読み込んだ「プログラム」どおりに行動する彼らの選択は、大人から見るとあまりに唐突で配慮に欠けており、無責任に映る。

 まず中絶に関する記述なのだが、ここで採り上げられている(武田氏の図式化による)若い女性の考え方は、ある意味極めて正統的だと言えるかもしれないし、あるいは相手である男性を傷つけたくないから自分で責任を取らなければいけない、と思いこんでいるのかもしれない。これは極めて文化的な状況の問題であり、決して武田氏=三森氏の如き安易なアナロジーで説明すべき問題ではない。また、前半の段落の途中において、武田氏は唐突に《育児を放棄して遊びに行くこと》を採り上げているけれども、これが若い世代で広まっているのか否かを武田氏は説明しようとしない。これは問題ではあるまいか。武田氏は「今時の若者」だからそういうこともしているだろう、と安易に思い込んでいるのではないか。

 それにしても後半の段落において、安易な断定が目立つのが気になるところだ。武田氏がこのような安易なアナロジーの使用に疑問を持たないのもまた、武田氏がこの文章を書く際《「心」ではなく、「プログラム」で駆動されている》からではないか。もちろんこのような表現は単なる冗談でしかないのだが、少なくとも武田氏が安易なアナロジーの使用に疑問を持たずに突き進んでいるのは確かであろう。

 この文章において、例えば近代以前からの刑罰の取り方に関する説明は特に間違っていると思われる部分はない。ただ、武田氏のこの文章において、問題は110ページにおいて再燃する。

 武田氏が安易なアナロジーの使用から脱却できていないことは、110ページの記述からも確認できる。武田氏は110ページにおいて、(武田氏=三森氏の勝手な規定による)現代の若年層の精神(無)状況の原因として、以下のように述べている。

 産業化の進展で一応は衣食足りた日本社会で、商品やサービスは欲望の対象となる異常の徒歩を求められるようになる。それは次官をこのように使えばいいという手順を示すという付加価値である。……

 これは多くの商品やサービスが「プログラム」内蔵型になったということだ。こうした状況が若い世代の生活様式に変化を及ぼす。

 たとえば冒頭に引いた散らかされたモノが積み上げられた部屋は、そこに内蔵されていた「プログラム」の作動が終了してしまい、もはやどういう手順で扱えばよいのかわからないまま、使い手によってモノが放置されていた光景だった(散らかった空間に住む不快感を感じる「心」をもたない彼らは、インテリア雑誌などで部屋ははくあるべしという新しい「プログラム」を読み込まないかぎり、いかに、そこが散らかっていようと片づけようとしない)。

 論理飛躍の目立つ文章である。そして、そのような論理飛躍の根源は、武田氏が単一の安易なアナロジーに依拠し、それによって全体のバランスを顧みずに、見かけだけの整合性に満足して文章を進めていることであることはもはや明らかであろう。そもそも武田氏が現代の若年層の病理的状況の典型として書いている「片付けられない若者」は、ある意味では掃除しようと思っているがなかなかできない、という状況としても読み取ることができるし、少なくとも《散らかった空間に住む不快感を感じる「心」をもたない彼らは、インテリア雑誌などで部屋ははくあるべしという新しい「プログラム」を読み込まないかぎり、いかに、そこが散らかっていようと片づけようとしない》などという若年層を蔑視したことを言うにはかなりの留保が必要となるだろう。

 そして武田氏はこの文章全体の結びにあたる111ペーにおいてこれまた問題の多い文章を書いてしまう。

 それぞれの文脈の限定された範囲内ではスジが通っているのかもしれないが、そうした作業にいかなる建設性があるのか。そして断片的にスジを通す姿勢は、統合された責任主体の目配りによって制御されることがないので、時にコミュニケーション不全の段階を飛び越えて具体的な暴力にまでいたることもなる。キレるというのは往々にしてそうした事態を意味するのだろう。

 そのような事態を望ましいと思わないのなら、責任主体を解体させているいまの社会状況をもう一度冷静に見直し、適度な「心」の再・仮構化に重点を置いた教育システムの構築など、現実的に対応可能な改善策を打ち出していくべきなのではないか。

 残念ながら、これもまた飛躍の目立つ文章だ。この文章を読んできた人であれば、ここでも武田氏がこれまで用いてきたアナロジーに批判的な視座を加えていないことが結局のところ最後まで改善されていないのがわかるだろう。武田氏は前半の段落の結びで《キレるというのは往々にしてそうした事態を意味するのだろう》と書いているけれども、《キレる》という表現が、極めて政治的に捏造された語句であるということを少しは気に留めておくべきだろう。まあ、このような主張は、この表現が恐ろしいまでに定着してしまった現状においては虚しく響くだけかもしれないが。

 武田氏は最後において《適度な「心」の再・仮構化に重点を置いた教育システムの構築など、現実的に対応可能な改善策を打ち出していくべきなのではないか》と書いている。しかしこのような物言いに関して、まず武田氏は散々安易なアナロジーに依拠し、そのアナロジーに対する批判的な視座を書いた論理を展開してきて、そして最後にこれまた安易で抽象的な「提言」を持ってくるということは、私から見れば明らかに無責任としか言いようがないのだが。もう一つ、ここで武田氏は唐突に《教育システムの構築》と書いているけれども、そもそも武田氏はこの文章において教育について少しも触れていない。おそらく教育について触れたらこの文章が崩壊するか、あるいは大幅に膨張するからだろうが、唐突に教育を持ち出されても困る。

 安易なアナロジーに依拠した俗流若者論は、「今時の若者」に対するフラストレーションを簡単に説明してもらえる、という点ではきわめて強い魅力を持っているようだ。しかし、そのような論理の蔓延が人々の思考停止や、あるいはレイシズムを招くことになりはしまいか。武田氏はその点に関して最後まで無頓着であった。武田氏はいくつかいい仕事を残しているだけに残念である。

 また、ここで用いられた「プログラム駆動症候群」なる珍概念は、心理学主義的なプロファイリングであるが、これに限らず我が国においてこのような心理学主義的なプロファイリングが増加している。このようなプロファイリングは、「今時の若者」の内面をその提唱者の中で勝手に構築し、若年層全体の内面を彼らの都合のいいように構成して「世間」に説明する。若年層の内面が、一人の心理学主義者(心理学者ではない)によって規定され、それがイメージとして定着してしまう。このような状況を思想的に批判する視座が、蔓延する心理学主義に対する批判には必要になる。

 まあ、このような心理学的なプロファイリングが大量に流通されると、かえって各々のプロファイリングの価値が薄まるかもしれないが、現実はそうでもないのが哀しいところだ。

 参考文献・資料
 武田徹[2000]
 武田徹「プログラム人間に「心」を」=「Voice」2000年11月号、PHP研究所

 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 芹沢一也『狂気と犯罪』講談社+α新書、2005年1月
 十川幸司『精神分析』岩波書店、2003年11月

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2005年7月10日 (日)

俗流若者論ケースファイル35・斎藤滋

 相変わらず、曲学阿世の徒・日本大学教授の森昭雄氏の「ゲーム脳」理論という疑似科学に対する支持者は後を絶たないが、今回はちょっと面白いのを見つけたので紹介したい。

 宮城県図書館で東京新聞のマイクロフィルムを見ていたとき、斎藤滋という人物が書いているコラムを見つけた。斎藤氏の肩書きについては、ここでは少し伏せておこう。今回検証するのは平成15年10月31日付東京新聞に掲載された斎藤氏の「人間らしさを育てる」というコラムなのだが、この人、いきなりこのように書き出してしまうのだから救いようがない。

 いつもイライラしている、すぐ頭に来る、食卓や机をたたいて怒る。まさか、みなさんの周辺にはこんな光景はありませんよね!

 最近、テレビゲームや携帯電話でのゲームに熱中する子どもや若者が増えています。これらのゲームは瞬発的な判断が必要ですが、知、情、意といった人間としての判断力が育ちません。脳神経科学の専門家である日大医学部・森昭雄教授(ゲーム脳の恐怖:NHK出版・生活人新書)は、これらのゲームに長時間熱中していると、前頭前野(脳の前方部分で、脳に入った情報を総合的に統合している)がうまく機能しなくなり、痴ほう症の人と類似した状態(若年痴ほう)になると警告しています。(斎藤滋[2003]、以下、断りがないなら同様)

 ついでに言っておくと、このコラムが掲載されたのは、精神科医の斎藤環氏(以下、この文章において単に「斎藤氏」と表記したときは、斎藤滋氏を表すものとする)による「ゲーム脳」理論への徹底批判が掲載された著書『心理学化する社会』(PHP研究所)が発行されたおよそ1ヶ月後であり、一般書に「ゲーム脳」理論への批判が載り始めた頃であるから、今更このような「ゲーム脳」礼賛記事が載るのはいかがなものか、と思った人も少なくないかもしれない。とりあえず、《これらのゲームは瞬発的な判断が必要ですが、知、情、意といった人間としての判断力が育ちません》という物言いは、ゲームに対する無理解の裏返しでしかないことは言っておきたい。例えばロールプレイングゲームやシミュレーションゲーム、アドヴェンチャーゲームなどは熟考を必要とする。また、斎藤氏は《ゲームに長時間熱中していると、前頭前野(脳の前方部分で、脳に入った情報を総合的に統合している)がうまく機能しなくなり、痴ほう症の人と類似した状態(若年痴ほう)になる》と言っているけれども、森氏がその根拠としたのはただ痴呆症患者と「ゲーム脳」の人の脳波が類似していた、ということだけ。このような疑似科学の論法を批判できなくて、コラムを書く資格があるのか。

 しかも、斎藤氏は(森氏の受け売りで)このようなことを言い出すのだからますます救いようがない。

 なんと、テレビゲームを始めて約一分後に脳波的には痴ほう症状態になります。通常はゲームを止めて20~30秒で元の状態に回復します。しかし、ゲーム常習者は、止めても痴呆症と同じような脳波が持続するという衝撃的なデータを森教授は例示しています。

 《なんと》とか《衝撃的なデータ》なんて、冗談も休み休み言っていただきたいものだ。ゲームのような単純作業の熟練者は、熟練した作業をやっていても脳波にさして変化が見られなくなる、というのは脳科学の常識なのだが。

 ちなみに、ドイツのジャーナリストであるロルフ・デーゲンの著書『フロイト先生のウソ』の349ページでは、米国の実験で、単語の記憶テストを行なったところ、成績の低い人は前頭葉や海馬が活発に活動していた、という事例が紹介されている(ロルフ・デーゲン[2003])。ということは、成績の高い人は暗記テストをやっても脳が活性化されない!これは問題だ!まさに「暗記脳の恐怖」(笑)!!まあ、森氏と斎藤氏はこう言っているのに等しい、ということを認識されていただければ十分である。森氏や斎藤氏、及び他の「ゲーム脳」賛同者は、ゲームなら、さらに踏み込むなら若年層なら何を言っても許される、と思い込んでいる節がある。

 このコラム自体が斎藤氏の妄想爆発コラムなのであるのだが、しかしこれでは私が冒頭で言った「ちょっと面白い」コラムではないだろう。そこらの「ゲーム脳」礼賛記事と大差ない。ではここで種明かしをしよう。斎藤氏は、この妄想コラムを、このような文章で締めくくっている。

 現在、日常の社会・学校生活でも、前頭前野をはぐくむ環境づくりの必要性が指摘されています。最近、食物やガムを噛むことで、若者・中年・高齢者の前頭前野が顕著に活性化されることを世界で岐阜大医学部・藤田雅文講師らのMRI(磁気共鳴機能画像)で証明されました。……

 食物やガムをよく噛んで、人間らしい感性・情緒感を育てましょう!

 噛むことが「ゲーム脳」の「治療」になる?森氏はお手玉が「ゲーム脳」の「治療」になると言っていたはずなのだが。

 実を言うと斎藤氏、日本咀嚼学会の前理事長(現在は監事)なのだ。このコラムも実は斎藤氏の連載コラム「噛んで元気」の第18回なのである。そう考えれば、斎藤氏が「噛むこと」をここまで重要視するのも納得がいくだろう。しかし、ここで「ゲーム脳」など持ち出してくる必要などあったのだろうか。

 岐阜大の藤田講師らによってガムを噛むことで前頭葉が活性化されることが証明された、というのは事実である。私も大学受験期、ガムを噛みながら勉強していたことがあるので、「噛むこと」の有意性については否定するつもりはない。しかし、それを(諸悪の根源とされている)「ゲーム脳」と結び付けて、ゲームは人間性を奪い、そこで奪われた人間性を「噛むこと」が取り戻してくれる、と書いてしまうのは、結局のところ「ゲーム脳」は自分の営利のための道具でしかないのではないか、と言われても仕方ないのではないか。斎藤氏よ、少なくともあなたは日本咀嚼学会の理事長まで上り詰めた身分なのだから、「ゲーム脳」の如き疑似科学に踊らされてはまずいと思うのだが。

 しかし、青少年問題言説を自分の営利に結び付けてしまうのは、悪しき商業主義ここに極まれり、である。そういえば私がかつてネットを巡回していた頃、ある空手の道場が「青少年問題の解決の成果」をサイトに掲げて、その道場がいかに「ひきこもり」を解決したか、ということを喧伝していたものがあった。どことは言わないけれども、とりあえず現在の状況に関して言えることは、政治や俗流論壇に限らず、一般社会でも青少年問題を「自己実現」の為に利用するという事態が蔓延している、ということだろう。

 参考文献・資料
 斎藤滋[2003]
 斎藤滋「人間らしさを育てる」=2003年10月31日付東京新聞
 ロルフ・デーゲン[2003]
 ロルフ・デーゲン、赤根洋子:訳『フロイト先生のウソ』文春文庫、2003年1月

 池谷裕二『進化しすぎた脳』朝日出版社、2004年10月
 斎藤環『心理学化する社会』PHP研究所、2003年10月

 柄本三代子「科学のワイドショー化を笑えない時代」=「中央公論」2002年11月号

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2005年7月 8日 (金)

俗流若者論ケースファイル34・石原慎太郎&養老孟司

 ゲーム規制を推し進めている神奈川県の松沢成文知事が、自身のブログでゲーム規制に対する反対論への再反論を掲載した。しかしその文章は、結局のところ私が「俗流若者論ケースファイル12・松沢成文」で批判したものとなんら変わらず、結局のところコメント欄は「まだ疑問だ」「答えになっていない」といったものが多数書かれていた。

 詳しい検証は避けるが、松沢氏のみならずゲーム規制論者の思考を突き詰めれば、それは「俺が有害だと言っているから有害なんだ」というトートロジー(同語反復)になる。このような論理を振りかざす人たちに「それはトートロジーだ」と指摘するのは簡単だし、またそれがもっとも正しい態度なのだが、しかしトートロジーを平然と振りかざすようになっている人たちには、いくら論理的に説明しても聞いてもらえないケースが多い。そして現在、そのようなトートロジーを持った人たちが政治を牛耳り、無意味どころか有害なメディア規制に走っている、というのが現状である。

 また、トートロジーは脳科学を犯し、脳科学を疑似科学として再構築するのにも役立っている。典型的なのは曲学阿世の徒・日本大学教授の森昭雄氏であろうし、また同じく曲学阿世の徒・京都大学教授の正高信男氏も擬似脳科学に陥りつつあるのであるが(詳しくは「正高信男という頽廃」参照)、彼らがいかに「科学」を偽装しようとも、結局のところは推測の積み重ねであり、脳機能の欠陥が社会性を奪う、ということは証明されていない。というよりも、現に脳に障害を抱えている人も、福祉工学の発達によって人並みの生活を送れるようになっており、脳機能の欠陥により社会性が失われる、というのは脳機能障害者に対する差別に他ならない。まあ、擬似脳科学の徒には、このようなことを考えることもないのだろうが。

 なぜ私がこのような物言いをするのか。

 それは、ついにトートロジーにより強大な権力を振りかざす人と、擬似脳科学の最悪の結婚を見てしまったからである。

 それが、「文藝春秋」平成17年8月号に掲載された、東京都知事の石原慎太郎氏と、北里大学教授の養老孟司氏による対談「子供は脳からおかしくなった」だ。

 先に言っておくが、私は養老氏の『涼しい脳味噌』『毒にも薬にもなる話』『「都市主義」の限界』などの本はよく読んできた。ただ『バカの壁』などの最近の本は何となく忌避してきた。それでも、私が定期購読している「中央公論」の文章で養老氏のエッセイを楽しんできたが、石原氏とのこの対談を読んでみた限り、養老氏は一体どうしたのだろう、と思った。以前からも、養老氏が若年層について書いている文章の内容には少々疑問を持ってきたが、この対談における養老氏の発言は私が抱いてきたその疑問の集大成であった。

 そして石原氏。私は、この3ヶ月前に発売された「文藝春秋」平成17年5月号の文章を検証したけれども(「俗流若者論ケースファイル11・石原慎太郎」を参照されたし)、この座談会における石原氏の発言は、5月号の文章から少しも改善されていない。

 前置きが長くなってしまったので、ここから、話の流れに沿って検証を行なうことにしよう。養老氏は130ページにおいて、《このところ、子供たちの描く絵の多くが「下手なマンガ」のようになっていた、中には絵が描けない子供も出てきているそうです》(石原慎太郎、養老孟司[2005]、以下、断りがないなら同様)ということを紹介しており(おそらく作家の藤原智美氏の本を読んだのだと思う。藤原氏の立論の問題点については「俗流若者論ケースファイル17・藤原智美」を参照されたし)、なぜそのような事態が生じてしまったのか、ということについて、養老氏は131ページにおいて自閉症の子供が疾走する馬を素晴らしくデッサンしていたが、いざ自閉症が治ると《今そこにある馬を感覚的に捉える、という、彼女がかつてもっていた豊かな世界がとたんに痩せてしまった》ことを紹介している。まず笑えるのは、その直後における石原氏の発言だ。曰く、

 石原 象徴的な話ですね。ということは今大方の子供たちも、感覚的な世界が痩せて、絵が描けなくなっている可能性は十分にありますね。それはやはりテレビなどの影響、ということになるのかな。

 《感覚的な世界が痩せて》いるのは石原氏のほうであろう。養老氏の提示した実例から《今大方の子供たちも、感覚的な世界が痩せて、絵が描けなくなっている可能性は十分にありますね》と言ってしまうのは飛躍というものである。石原氏は、今の子供たちをみんな自閉症の状態にしろ、とでも言ってしまうのだろうか。まさかそのようなことは言わないだろうが、冒頭で養老氏の提示した事例がどこまで広がりを持っているのか、そして過去はどうだったのか、ということについての検証が必要だと思うのだが。

 そして、やはり来たか、メディア悪影響論。《やはりテレビなどの影響、ということになるのかな》など、勝手に「犯人」を決め付けないでいただきたいものだ。ところがそれを受けたよう労使は、そのような石原氏の発言を諌めるどころか、むしろ肯定してしまうのである。あなたは本当に科学者なのか。

 曰く、

 養老 そうですね。よく最近はバーチャル・リアリティーなんていわれますが、テレビの中のことと、現実に起こることは違いますよね。ところが今の子供たちはそれが混乱してしまっているんです。たとえば子供が険しい道を歩いていて、崖から落ちそうになれば普通「危ないよ」と声をかける。でも、それがテレビの映像であれば、崖から落ちる設定になっていれば声をかけようがかけまいが子供は落ちる。だからどんなに深刻な映像であっても、感情移入することなく淡々と見ることができるようになります。それどころか、実際の現実世界もまるでテレビの中の出来事であるかのように捉え、「現実に対して自分は以下に無力か」とシラケきってしまう。そういう乖離が子供の頃から起きているんです。

 と。かつて養老氏は、同様の論理を過去の著書で述べていたが(養老孟司[2002]159ページ)、私はそれを読んだときそんなわけないだろう、と苦笑したけれども、まさか今でもそのような考えを持っているとは思わなかった。

 まず《たとえば子供が険しい道を歩いていて、崖から落ちそうになれば普通「危ないよ」と声をかける。でも、それがテレビの映像であれば、崖から落ちる設定になっていれば声をかけようがかけまいが子供は落ちる。だからどんなに深刻な映像であっても、感情移入することなく淡々と見ることができるようになります》というのはどこで聞いた話なのだろうか。それとも養老氏の捏造か?また、《どんなに深刻な映像であっても、感情移入することなく淡々と見ることができるようになります》と養老氏は述べているけれども、あなたも科学者であればそのようなことを照明するデータの提示が必要だろう。ここまで無理のあるアナロジーに依拠するなど、森昭雄・正高信男並みの疑似科学者の行為である。文学者である石原氏は、そのような養老氏の無理のあるアナロジーを諌めるべきだろうが、案の定石原氏は賛同してしまう。この2人の蜜月は、最初2ページからすさまじい。

 この2ページで最も笑えるのはこの箇所であろう。

 養老 ……宮崎駿さんが、『千と千尋の神隠し』を三十回観ました、という手紙を受け取ってぞっとした、という話があって(笑)。

 石原 確かにぞっとするなあ、それは(笑)。反復可能な映像は、反復すればするほど単純に記号化されていくわけだから。そんな情報ばかりが氾濫する社会の中で、何がリアルで何がバーチャルなのか、未熟な人間である子供が一人で識別できるはずがない。

 笑いを取りたいのだろうか。特に石原氏。同じ映画を三十回も観たと聞いて、むしろぞっとしない人のほうが少ないと思うけれども。それに、《そんな情報ばかりが氾濫する社会の中で、何がリアルで何がバーチャルなのか、未熟な人間である子供が一人で識別できるはずがない》などと、勝手に決め付けないでいただきたいものだ。

 そもそもバーチャルとリアルの境界を厳密に決めることは可能なのだろうか。少し極論すれば、リアルはバーチャルによってしか成立し得ない。なぜなら、我々の見ているものそれ自体が、バーチャルであるからだ。というのも、我々の見ているものは、所詮はリアルの一部に過ぎないわけで、それ以外の世界は「推測」によってしか成立し得ない。それに、《反復可能な映像は、反復すればするほど単純に記号化されていくわけだから》などという言葉は、まずマスコミに言うべき言葉であろう。

 石原氏が132ページで採り上げている赤枝恒雄氏の例に関しては、前回検証したのでここでは触れない。しかし、132ページにおいては、養老氏の側に問題のある発言を見つけた。

 養老 ……親子関係、母子関係なんて、ヒトの脳がこんな風に発達するはるか以前、それこそ「理解」のはるか以前から成立しているんですよ。むしろ脳が関係を邪魔しているんです。昔の人はそうした「理解」以前の「実体」への信頼感があったから、「以心伝心」といっていたし、「人間てこういうものだろう」という事の順序みたいなものが長年の知恵で頭の中に入っていましたからね。そういう知恵がもはや親子間で共有できなくなってしまったところに、ちゃんとした親子関係ができるはずもありませんよ。

 《「理解」以前の「実体」》とか、《ちゃんとした親子関係》とは、一体何を指すのだろうか。結局のところ、養老氏と石原氏は、過去では親子関係が成立していたが、現在は成立していない、という共同幻想に浸っているだけだろう。なぜ私がこのように言うのかというと、同じページで石原氏が提示していた2つの事例が、それが典型的なものなのか極端なものなのかを例示しないまま、石原氏の提示した事例を典型的な現代の事例として扱っているからである。そして、過去の家族にも問題があったか、ということについては、一切触れずじまい。

 133ページでは、成人式論の研究家として怒らねばならぬ発言が石原・養老の両氏から発せられた。

 石原 ……精神科医の斎藤環さんが……日本人を分析してみて、「日本人の本当の成人は三十歳だ」ということになったそうです。確かに成人式が荒れていて、混乱が起こるから親の同伴が必要だ、なんてことになってるわけですから。

 養老 もっと遅くて、四十代でいいんじゃないかな。僕は三十代はじめにオーストラリアに留学したんですが、そのときに向こうの二十代半ばの人間と話していてちょうどよかったんです。しみじみ感じましたね。オーストラリアでさえそうなんだから、個々人の成熟は向こうの社会の方がはるかに早い。

 石原 ということは、二十代、三十代のまだまだ未熟な親に育てられている今の子供たちがおかしくなるのも、無理のない話ですな。

 もういい加減にしてもらいたい。石原氏よ、養老氏よ、ここは酒場ではないのである。養老氏は個人の成熟は早いほうがいい、と考えているのかもしれないが、石原氏が引き合いに出している斎藤環氏は、個人の成熟と社会の成熟は反比例する、という趣旨のことを述べているから(斎藤環[2005])、個人の成熟の速さが社会の質の良さを示すのか、といえばまんざらでもないのである。

 しかし、養老氏よりも問題があるのは石原氏だ。石原氏、ここ数年で加速度的にひどくなった成人式報道をそのまま真に受けているのだから救いようがない。何がひどくなったかというと、マスコミはみんな俗流若者論、若年層バッシングのために成人式を「政治利用」するようになった。私は平成17年仙台市成人式実行委員会で吹く実行委員長をしていたからわかるのであるが、我々の苦労、及び他の自治体における裏方の苦労はほとんど報道されない(かろうじてNHKで岩手県水沢市のが報道されたくらいだろう)。しかもマスコミが大好きな「荒れる成人式」がそのまま我が国の20歳の人たちが成熟していない証左として取り上げる、ということに関してはもはや莫迦莫迦しくて検証する気もないのだけれども、ただ一つだけいえることは、一部で怒っている単なる莫迦騒ぎをさも国家的・社会的な大事のように捉えるマスコミも、「今時の若者」という虚像に脅えて成人式を家族同伴にするという大愚作をしでかしてしまう自治体も、結局のところ単なる事なかれ主義者、ということだ。

 133ページから134ページにおける石原氏の発言。

 石原 ティーンエイジャーの娘をもつ親たちは、子供に携帯電話をもたせていると、たとえ子供が菅家で援助交際なんかをしていても、親子の心が通っている、つながっていると思い込もうとする。実際は互いにケータイを操作してなれ合っているだけでしょう。そんな関係、昔はありえなかった。つまり親子の関係での本質が欠落してしまっている。

 これもまた石原氏の思い込みに過ぎない。《そんな関係、昔はありえなかった》など、当たり前ではないか、昔は携帯電話など存在しなかったのだから。けれども、携帯電話の普及について、アプローチとして自然なのは、まず昔からある一定の感情があり、それが携帯電話にマッチしたから広まったとかそのようなところから入ることだと思うのだが、石原氏は最初から「昔の親子は正常で、現代の親子は異常だ」という幻想に浸っているから、現代の親子を罵ることしかできなくなってしまっているのだろう。

 さて、134ページから135ページであるが、ここで擬似脳化学が出てくる。といっても、マスコミが大好きな「キレる子供」は前頭葉が異常である、というもう聞き飽きたものなのだけれども。しかも前頭葉の以上は戦後教育が原因だ、といってしまう始末。まあ、この2人の蜜月からこのような暴論が生まれるのは、十分に想定しうるものなのだけれども。ここもあまりにも莫迦莫迦しいのでもう検証しない。そして135ページ下段において、また出てきた、脳幹が。まあ、この人にとって脳幹は国家(=石原氏の幻想としての「国家」)のメタファーなのだから仕方ないのだけれども。

 また、石原氏は、137ページでまた問題の大きい発言を行なっている。

 石原 ……最近の集団自殺というのは、インターネットなどで知り合った同士が集まって、互いに名乗りもせずに、ただ黙々と死んでいく。その間にセックスがあるわけでもない。一人で死ぬより数人で死んだほうが寂しくないということなのか。彼らは人とのつながり方において、大きな問題を抱えている。つまり、インポテンツだった、と考えるしかないのかもしれない。

 まったく、石原氏にとっては、現代の青少年は本質(=石原氏の幻想としての「本質」)が欠落した存在、「本質」を持ったものにより統制されるべき存在、としてしか捉えられていないのだから、このような暴言を吐けるのだろう。まず、我が国において、青少年の自殺よりもむしろ中高年の自殺のほうが多い。また、石原氏はインターネットによる集団自殺を、単に青少年の精神の問題として考えているけれども、実際には死にたい想いを抱えていても死に切れない人も多くいる。さらに、これは斎藤環氏の指摘なのだけれども、このような事態は韓国やアメリカでも起こっている(斎藤環[2005])。

 問題があるのは養老氏も同様だ。養老氏は、138ページにおいてこのように発言している。養老氏の発言だ、というキャプションがなければ正高信男の発言と見間違うところだった。

 養老 ……そこで、携帯電話依存の問題です。ケータイならば、ミラーニューロンが働きにくい。相手の視覚的な印象はないんですから。メールでのやり取りなら音声もないわけで、言葉以外の情報を一切シャットアウトできる。これは弱い自我を守るための貴重な方法なのではないか。だから若者が、面と向かって話をするよりケータイでコミュニケーションする方が、ずっと居心地がいい、というのも分かるような気がするんです。

 そんなに《ミラーニューロン》は重要なのだろうか。いや、少なくとも脳構造の解明にとっては重要なのは間違いないのだろうが、だからといってメールはミラーニューロンを働かせない、とか、だから弱い自我を守るだけの貴重な方法だとか、この論理には飛躍が多い。

 ついでにミラーニューロンの(本当の)意味について解説する。この対談では当てにならないので、薬学博士の池谷裕二氏の説明を引用すると、《自分であろうと、他人であろうと関係なく、ある〈しぐさ〉に対して反応する神経》だとか、《「2」という数字に反応する神経が見つかった。つまり、リンゴが2個ある、サルが2匹いる、何でもいい。とにかく「2」というものが目の前にあったときに反応する神経》(共に、池谷裕二[2004])と説明されている。とはいっても、池谷氏も言うとおり、これはサルでその存在が確認されたことだし、ミラーニューロンに関しても脳科学はまだ断片的なことしか分かっていないので、ましてやメールはミラーニューロンを発達させないだとか、ミラーニューロンを使わないから若年層にとっては快感になるとか言ってしまうのは言語道断というものだろう。

 もう一つ養老氏に関して言うけれども、養老氏は同じページにおいて《今の若い子はその「自分」がもともとあることに確信がもてないんでしょうね、だから不安になって「自分探し」をしているんです。フリーター、ニートなどといって》といっているけれども、若年層がフリーターや若年無業者になる背景には、経済構造的なところも大きいのではないか。例えば経済学者の玄田有史氏が長い間指摘していることなのだけれども、我が国では中高年雇用の既得権が強まっており、それにより若年者雇用が開拓されない、という事態が起こっている(玄田有史[2001])。さらに玄田氏は最近になって、若年無業者の問題にも経済格差が影響している、という発表をしている(平成17年4月中ごろの日経新聞の記事だったが、あいにくその記事を紛失してしまった)。雇用構造の変化ということで言うと、企業が自分に都合のいい若年労働力しか採用しなくなっている、という現状もある。安易な精神論は、現実の社会構造の問題を隠蔽する方向にしか働かない。

 最終的には、まあ完全に予想の範疇であるが、《身体的な体験をさせるしかない》(石原氏、140ページ)という方向に進んでしまう。ここから先はもう退屈なのでいちいち検証はしないけれども、気になった箇所について2点。まず、141ページにおいて、石原氏は

 石原 昨年末、小中学生を対象とした調査で、死んだ人が生き返ることがあると考える子供が五人に一人いる、という統計が発表されましたが、若い人たちにとって「死」はもはやリアリティを感じるものではないのかもしれない。

 この統計は長崎県教委のもので間違いないだろう。たくさんのところで引かれているのでうんざりする。この統計にはかなりの問題点が含まれており、その議論は「統計学の常識、やってTRY!第2回」に譲るけれども、このような調査において他の世代との比較がないのはどういうわけなのだろうか。結局のところ、このようなアンケートは、若年層を貶めることにしか使われない。そのような問題意識の低いアンケートを引用していい気になっている石原氏は、いい加減目を覚ましていただきたいものだ。

 また、142ページにおいて、石原・養老の両氏が戸塚ヨットスクールについて賛同しているのにも驚いた。まあ、石原氏が後援会の会長だということは前から分かっていたのだが、養老氏も賛同していたのには少々驚きを禁じえなかった。

 ここで検証は終わるのだけれども、私は石原・養老の両氏に問い詰めたい。

 なぜ、このように、問題の多い発言をして恬然としているのだろうか。

 はっきり言っておくけれども、この対談は、単なる「居酒屋の愚痴」異常の何物でもない。また、このような対談を平然と載せている「文藝春秋」の編集部も厳しくその責任を問われるべきだろう。

 それにしても、前回の「仮想と虚妄の時代」と同様に石原氏の暴言が炸裂している対談であった。所詮石原氏にとって青少年問題とは、国家の恥として吐き捨てるべきものでしかないのだけれども、石原氏が青少年に対してあまりにも軽い、また残酷な態度で望んでいるばかりに、安易な規制論や疑似科学に依拠して青少年を現代社会の鬼胎として語り、彼らを嘲りその「対策」こそが至上命題だとすることによって、結局は「今時の若者」に対する敵愾心の共同体を作り上げていく。

 俗流若者論は「今時の若者」に対する敵愾心の共同体を作り上げていくのに余念がない。そして彼らは、たとい言いたい放題言っているとしても、敵愾心の共同体の中で言っているのだから、外部からの検証には至極弱いだろう。それでも、俗流若者論は着々と支持を得ており、それらが作る敵愾心の共同体に入っていく人たちは後を絶たない。

 しかし、考えていただきたい。昨今推し進められている国家主義的な動き、例えば憲法や教育基本法の改正は、それらのルーツをたどっていけば俗流若者論を源流とする。そのような挙動に隠された危険な動きを、彼らは俗流若者論でもって甘い匂いをつけ、従わせようとする。しかし、我々に求められているのは、そのような俗流若者論の歪んだ欲望を見通すことであり、俗流若者論によって突き動かされる政治というものが、いかに異常なものであるかを見極めることだ。

 俗流若者論に突き動かされて、「本質」の再建こそが必要だ、と叫ぶ石原氏に、政治家としての資格があるのだろうか。マックス・ヴェーバーも言っているではないか、《政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である。もしこの世の中で不可能事を目指して粘り強くアタックしないようでは、およそ可能なことの達成も覚束ないというのは、まったく正しく、あらゆる歴史上の経験がこれを証明している》(マックス・ヴェーバー[1980])と。そして石原氏のみならず、神奈川県知事の松沢成文氏なども、問題を正面から受け止めることをせずに、俺が有害だと言っているから有害だ、というトートロジーに陥ったり、「今時の若者」を過剰に敵視したポピュリズムに陥ったりしているが、それでも彼らを政治家として信頼に足る人物である、と評価したいのであれば、もう私は勝手にしろ、と言うほかない。

 しかし、それでも、より多くの人が俗流若者論に牛耳られる政治の危険さを知って欲しいと、私は祈り続ける。

 参考文献・資料
 池谷裕二[2004]
 池谷裕二『進化しすぎた脳』朝日出版社、2004年10月
 石原慎太郎、養老孟司[2005]
 石原慎太郎、養老孟司「子供は脳からおかしくなった」=「文藝春秋」2005年8月号、文藝春秋
 マックス・ヴェーバー[1980]
 マックス・ヴェーバー、脇圭平:訳『職業としての政治』岩波文庫、1980年3月
 玄田有史[2001]
 玄田有史『仕事のなかの曖昧な不安』中央公論新社、2001年10月
 斎藤環[2005]
 斎藤環『「負けた」教の信者たち』中公新書ラクレ、2005年4月
 養老孟司[2002]
 養老孟司『異見あり』文春文庫、2002年6月

 マックス・ヴェーバー、大塚久雄:訳『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波文庫、1989年1月
 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 姜尚中『ナショナリズム』岩波書店、2001年10月
 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 ロナルド・ドーア、石塚雅彦:訳『働くということ』中公新書、2005年4月
 中西新太郎『若者たちに何が起こっているのか』花伝社、2004年7月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月
 二神能基『希望のニート』東洋経済新報社、2005年6月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 山本七平『日本はなぜ敗れるのか』角川Oneテーマ21、2004年3月
 ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』岩波文庫、上下巻、1987年2月

 大和久将志「欲望する脳 心を創りだす」=「AERA」2003年1月13日号、朝日新聞社
 齋藤純一「都市空間の再編と公共性」=植田和弘、神野直彦、西村幸夫、間宮陽介(編)『(岩波講座・都市の再生を考える・1)都市とは何か』2004年3月、岩波書店
 瀬川茂子「東京都発「正しい性教育」」=「AERA」2004年10月25日号、朝日新聞社
 内藤朝雄「お前もニートだ」=「図書新聞」2005年3月18日号、図書新聞
 藤生明「サプライズ辞任の可能性」=「AERA」2005年6月20日号、朝日新聞社

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2005年6月14日 (火)

俗流若者論ケースファイル28・石堂淑朗

 私はこれまで、俗流若者論の、「今時の若者」の発生した「原因」に関して、その「原因」を何かに特定し、そしてそれに対する悪影響論をしきりに唱える、という態度に対して、まるで陰謀論のようだと指摘してきた(罵ってきた)。しかし、俗流若者論の研究において、まさか本物の陰謀論に出会えるとは思わなかった。

 その主張とは、昨今推し進められている「教育改革」は、なんと我が国を衰亡させるイスラームの陰謀だというのである!もっとも、正確に言えば、現在推し進められている「教育改革」の推進派とイスラームが手を組めば、我が国が滅びる、というものだが(これでも驚愕ものであろう)。提唱しているのは、産経新聞の月刊誌「正論」で「平成餓鬼草子」なる、俗流若者論の頻度がかなり高い連載を執筆している、脚本家で評論家の石堂淑朗氏だ。今回採り上げるのは、石堂氏のこの連載の第88回と89回(「正論」平成17年3月号、4月号)である。

 なにせ石堂氏、第88回の最初からいきなり《9・11の犯人の事を考えているうちに、イスラム人は本質的に全員過激派ではないかとの思いを強く持つようになった》(石堂淑郎[2005a]、以下、断りがないなら同様)と断定してしまっているのだから。まあ、この雑誌のスタンスが明らかに「親米保守」だから、キリスト教がいかなる状況であるか、ということを持ち出すと、キリスト教原理主義者に牛耳られている米国を批判することになりかねないから、キリスト教、あるいは他の宗教との比較をしないのだろう。ちなみに、キリスト教に関しては、最近、ドイツの哲学者、フリードリッヒ・ヴィルヘルム・ニーチェの著書『アンチクリスト』が会話調の現代日本語で講談社から出版されているから、そちらを参照していただきたい(フリードリッヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ[2005])。

 さて、石堂氏の問題意識がどのようなものであるかを観察するには、86回の189ページの下段が参考になろう。曰く、《出稼ぎに繰る貧しいフィリピン人には、一日五回跪いてメッカを向いて祈るイスラムもいる。アラーアクバル(偉大なり)である。アラーのほかに神は無し!日本人の医療行為よりお祈りが優先するだろう。ラマダン(断食月)の日だと大変だ。彼らは朝から晩まで食わない。食うと言えばそもそも豚は食わない。民族のアイデンティティーが絡む故にこの種の課題は小直しが利かない》。《日本人の医療行為よりお祈りが優先するだろう》とは、単なる邪推でしかないのだが。ちなみに石堂氏は、190ページの上段で次のように記述する。曰く、《私はその国の基本を知るには先ず小中学校を知ることだろうとずっと思っている。……過激派が理系の勉学にストップを掛けるという話を知った今、……》と。石堂氏は、米国の小中学校でも、キリスト教原理主義に基づき進化論を教えることが禁止されている事例がある、ということをご存知なのだろうか(マーティン・ガードナー[2003])。それだけでなく、キリスト教原理主義による勢力は、進化論だけでなく性教育も禁じている(ジュディス・レヴァイン[2004])。

 そして192ページにおいて、石堂氏はついに本音を語ってしまう。何でも、イスラーム人は理系科目ができないから、過激派なのだそうな。曰く、《自然科学を拒否するとは粗雑で直ぐに切れる頭を作ろうという事に他ならない。思うにイスラム過激派が血の気が多く直ぐに人殺しをやるのは自然科学不勉強の結果なのだ》と。ここまでぶっ飛んだ論理を開陳できるのも、石堂氏がこのようなタコツボ化したオピニオン雑誌の典型とでも言うべきメディアで日々俗流若者論を開陳しているからに違いない…、と、少々口が滑ってしまったことをここで謝罪したいが、少なくとも、石堂氏は、《自然科学不勉強の結果》がいかに《粗雑で直ぐに切れる頭》を作るか、ということに関して論証的な研究を提示すべきであろう(理系科目の成績と犯罪率の相関関係とか)。さもないと、単なるカタルシスのためのレイシズムに過ぎない…、いや、この石堂氏の連載それ自体がカタルシスなのだから、しょうがないか。また口が滑ってしまった。

 それでも、石堂氏のこのような論証立てに対して、今の我が国の(!)マスコミがいかに自然科学や統計学に無知であるか、ということを立証すれば、石堂氏は立ち往生するのではないか。精神科医の斎藤環氏を始め、私を含めて多くの人が批判している、日本大学教授の森昭雄氏の「ゲーム脳」理論が、マスコミや俗流若者論において、その「理論」が科学的に穴だらけであるにもかかわらず、無批判に受け入れられている、という現象を見れば、今の俗流若者論がいかに《自然科学不勉強》であるかがわかるであろう。それ以外にも、マスコミには、初歩的な自然科学や統計学の間違いが数多く存在する。そもそも石堂氏は理系科目ができるのであろうか。一度、学力テストでも受けてみるがいい。そしてその成績を開示してほしい。

 ちなみにこの文章において、石堂氏は京都大学教授の小杉泰氏を批判するのだけれど、この小杉氏に対する批判もまた、石堂氏の妄想から来ているものである、ということを指摘しておきたい。曰く、《過激派が一過激派である所以は物の神を軽視し、神学という名の屁理屈ばかり捏ねている結果である、という風な私の疑問と言うか一般人の疑問に小杉教授は答えるように番組を進めて行くのがマトモナ学者の四つ相撲であろう。同教授もイスラムはプロダクト(物作り)に弱い面があると口走りはするのだが、一番肝心な教育問題には触れようとしないのだ。何か怖がっている、腰が引けている。過激派が怖いか》(192ページ)と。

 石堂氏が石堂氏である所以は論理と実証を軽視し、陰謀論という名の《屁理屈ばかり捏ねている結果である、と言う風な私の疑問と言うか一般人の疑問に》石堂氏は答えるように文章を進めて行くのが《マトモナ》評論家の《四つ相撲であろう》。石堂氏は《一番肝心な》その点には《触れようとしないのだ》。《何か怖がっている、腰が引けている》。産経新聞社や、編集長の大島信三氏が怖いか。

 閑話休題、石堂氏はついに本音を語ってしまう。192ページ下段において石堂氏曰く、《この悲惨な結果(筆者注:我が国において理系科目の成績の低下が進行していること)を齎しつつあるゆとり教育の推進者が自然科学の勉学中止を要求するイスラム過激派と結託したら日本はどうなるかというのが私の不吉な予感なのである》と。ここまで妄想によって自分で自分を盛り上げることのできる石堂氏に、ほとほと感服するほかないのであるが、何も《イスラム過激派》でなくとも、キリスト教の過激派だって自然科学を敵視している。というのは枝葉末節であるが、このような石堂氏の論理が、単なる妄想の産物でしかなく、しかもいわれなきレイシズムにも満ちている、ということについては指摘しなければなるまい。

 それはさておき、ついに石堂氏はこのような陰謀論に走ってしまった、というのは事実なのだから、この次の回を楽しみにすることにしよう。ここから、石堂氏の連載の第89回の検証に映るのだが、ここにおいて石堂氏は数多くの事実誤認をやらかしている。

 例えば、89回の184ページから185ページにかけて、

 そこへ持ってきて駄目押しさながらに大阪寝屋川の小学校で起きた教師刺殺事件の発生である。犯人の少年は中学を止めた後大検に合格、大学受験を狙いつつ、相当程度ゲームに嵌っていたようである。事は旧聞に属しつつあるが長崎で起きた少女による少女の頸部切傷が原因の殺人事件、これはメール交換がついに殺意の増幅を生んだとされており、インターネットによる集団自殺事件は言うに及ばず、飛躍するがライブドアのホリエモン(筆者注:ライブドア社長の堀江貴文氏)が起こした世にも世知辛い株買占め事件など薄ら寒い事件は全てコンピューター無くしては起き得ない種類の事ばかりである(石堂淑朗[2005b]、これ以降は断りがないなら同様)

 と言っている。もちろん、過去にあった《世にも世知辛い事件》を無視して、だ。ここまでマスコミが叫びまくった事例を提示しまくったら、「正論」の読者なら安易にインターネット有害論に引き込めるかもしれないが、皮肉屋の目は騙せない。原因をひとつのものに求めたがるのは、俗流若者論の基本である。ちなみに、いい加減うんざりしているのだが、文中の長崎の事件について、安易に《メール交換がついに殺意の増幅を生んだ》と書いているのだけれども、実際にはチャットである。しかも、このような暴論を振りかざす人たちは往々にして無視するのだが、この事件の犯人と被害者は以前から親密な繋がりがあり、それと思春期の心情に即して考えたほうがよほど説得力がある(ちなみに明治学院大学専任講師の内藤朝雄氏が、この二つの側面からアプローチを行なっている。内藤朝雄[2004])。

 しかも石堂氏は、185ページにおいて相当な事実誤認をやらかしている。曰く、

 パソコンすなわち個人専用コンピューターの本質が使用者の大脳無差別破壊につながる可能性ありということを、発明者はじめ科学者が誰も言わなかったのは不可解千万だと、今頃喚いてももう遅い。パソコン関連の諸活動は儲かるからだ。金が倫理より強いと言うことをライブドアの実践が日々示しつつある。

 拙者、ギター侍じゃ…。

 俺は石堂淑朗。

 このごろの、不可解な、事件はみんな、コンピュータが原因だ。

 コンピュータの使用が、大脳の、破壊を、もたらすのを、どうして誰も指摘しない!!

 …って、言うじゃな~い…。

 でも、そんなことは、とっくに日大の教授・森昭雄が喧伝してますから!!残念!!

 ついでに言うと『ゲーム脳の恐怖』は、第12回日本トンデモ本大賞次点、斬り!!!

 所詮、この世は、お金です。

 倫理は、この世にゃ、無用です。

 問題の多いインターネットを誰も批判しないのも、全ては金のため!

 …って、言うじゃな~い…。

 でも、「理解できない」若年犯罪が起こるたびに巷はインターネット批判で溢れかえり、しかもそのようなインターネット批判にこそまったく倫理が見当たりませんから!!残念!!

 インターネット批判こそ、自称「識者」にとっては最大のドル箱、斬り!!!

 まあ、所詮私の如きが「ギター侍」の真似事をやっても、本家の足下にも及ばないのだが、読者諸賢には、石堂氏の物言いがいかに間違いに満ちているかがお分かりになるだろう。それにしても、前回の冒頭でもそうだったけれども、石堂氏は安易に《本質》という言葉を使いすぎる。所詮この《本質》と言うことが、石堂氏の妄想の産物に過ぎない、ということは、我々は覚えておいて然るべきだろう。

 ついでに言うと石堂氏は188ページ下段において同様の記述を行なっている、ということもここで指摘しておく。

 この文章には、他にも事実誤認、論理飛躍がそこらじゅうに見られるのだが、この石堂氏の連載の89回目において言えることは、石堂氏が我が国をここまで堕落せしめた原因としてコンピュータを「発見」し、それを壊すことこそが我が国を救う近道だ、という安易な「憂国」に走っていること、また、石堂氏が自分の論じたいことに対してろくに取材や調査(新聞記事レヴェルの調査すらも)行なわず、ただ自分の思い込みだけで物事を語り、そこに事実誤認があっても気にしない、という、物書きとして犯してはならない過ちを抱えていることだろう。

 石堂氏は、自分こそが現代の問題の本質を知っている、と思っているだろうが、所詮は自らの妄想の産物でしかない「本質」なるものを無批判に信奉し、それに退治している自分を盛り上げることによってヒロイズムに浸っているしかないのである。しかも、先ほども指摘したとおり、石堂氏は、特定の民族に対する差別や、事実誤認を多く抱えており、もはや言論を生業とするものとしての倫理をかなぐり捨てているのではないか、と思えるほどだ。

 ついでに言っておくと、自分こそが現代の問題の本質を知っている、という叙述方法は、明らかに陰謀論のものである。また、陰謀論は、自分以外を問題の「本質」を知らない者として貶めることによって成り立つため、他者に対する自己の優位性を誇示するための最も簡単な、しかし最も問題の大きい方法でもある。また、陰謀論は、自分を「正義」に設定して、誰か「悪」を決めてしまえば、後はそれに従ってひたすらその「悪」を叩けばいいから、誰だって書けるものである。

 現代の抱える問題は、所詮、コンピュータを破壊しただけで解決できる代物ではないことぐらい、石堂氏には理解していただきたい。自分を「正義」と夢想する石堂氏は、自らの安易な歴史観と問題意識を一度捨て去ってみてはどうか。

 それにしても、石堂氏のこの連載には、俗流若者論がかなり頻繁に出没する。機会があったら、集中的に採り上げることにしよう。

 参考文献・資料
 石堂淑朗[2005a]
 石堂淑朗「褌を締め直そう!」=「正論」2005年3月号/石堂淑朗「平成餓鬼草子」第88回、産経新聞社
 石堂淑朗[2005b]
 石堂淑朗「豆炭心中」=「正論」2005年4月号/石堂淑朗「平成餓鬼草子」第89回、産経新聞社
 マーティン・ガードナー[2003]
 マーティン・ガードナー、市場泰男:訳『奇妙な論理』全2巻、ハヤカワ文庫、2003年1月
 内藤朝雄[2004]
 内藤朝雄「「友だち」の地獄」=「世界」2004年12月号、岩波書店
 フリードリッヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ[2005]
 フリードリッヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ、適菜収:訳『キリスト教は邪教です!』講談社+α新書、2005年4月
 ジュディス・レヴァイン[2004]
 ジュディス・レヴァイン、藤田真利子:訳『青少年に有害!』河出書房新社、2004年6月

 B・R・アンベードカル、山際素男:訳『ブッダとそのダンマ』光文社新書、2004年8月
 大川玲子『聖典「クルアーン」の思想』講談社現代新書、2004年5月
 酒井啓子『イラク 戦争と占領』岩波新書、2004年1月
 カール・セーガン、青木薫:訳『人はなぜエセ科学に騙されるのか』新潮文庫、2000年11月
 寺島実郎、小杉泰、藤原帰一(編著)『イラク戦争 検証と展望』岩波書店、2003年7月
 日垣隆『世間のウソ』新潮新書、2005年1月
 宮台真司『亜細亜主義の顛末に学べ』実践社、2004年9月

 石川雅彦「アメリカ帝国の神々」=「AERA」2005年4月4日号、朝日新聞社
 諸永裕司「日本人ムスリムの暮らしぶり」=「AERA」2001年7月2日号、朝日新聞社
 山本弘「君にもユダヤ陰謀論が書ける」=と学会(編)『トンデモ本の世界』宝島社文庫、1999年2月

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2005年6月 6日 (月)

壊れる日本人と差別する柳田邦男

 私が俗流若者論に対して違和感を持つようになったのは高校1年の頃だ。私が高校1年だった平成12年5月、マスコミで「17歳の殺人」が喧伝され、私が世間から殺人者として見られているのではないか、という恐怖心に駆られていた。そして、私が俗流若者論に対して本格的に批判的検証を行うようになったのは、高校2年のとき、17歳になる数ヶ月前であった。最初の頃は、感情論的な「反論」ばかりであったが、大学生になってからは疑似科学批判や俗流若者論が生み出すナショナリズムやレイシズム(人種差別)に対して批判を行なうようになった。

 俗流若者論を読んでいると、吐き気を催すほどの空疎な言葉ばかりが飛び交う。国家、愛国心、日本人、心、伝統、文化、道徳、本質、堕落、失敗、そして崩壊。これらの言葉は、単なる自らの自意識の発露でしかなく、そこから読み取れるのはただ自分だけを肯定した上で若年層をしきりにバッシングしようとする残酷な意識である。

 もちろん、彼らにとっては「正義」なのかもしれない。しかし、その「正義」が現実に生きる青少年にいわれなき誤解をかぶせられ、彼らが亡国の鬼胎として不当に「政治利用」されることを正当化しているのであるから、当の青少年にとっては迷惑千万であろう。

 彼らが「日本の崩壊」を好んで語るとき、限りなく10割に近い人たちが「今時の若者」をしきりに嘆く。しかし、彼らの「憂国」は、所詮はマスコミで興味本位に報じられているような表層的なものでしかなく、マスコミの報道に対して疑ったり、あるいはマスコミが報じないような青少年の「現実」を探り当てようとする人は、この分野においては皆無である。なぜか。そのような試みは地味であるから、たとえ実りのある結果が出たとしても、人々はマスコミの喧伝する「今時の若者」なるバーチャルリアリティーに踊らされている。なので、ほとんどの人が気づかない。

 作家の柳田邦男氏の最新刊、『壊れる日本人』(新潮社)も、所詮はマスコミの「憂国」にただ乗りしたものでしかないのである。なぜ私がそう考えるのかといえば、柳田氏の問題意識が同書のあとがき(217ページ)にこのように記されているからである。

 超一流企業のエリート経営者がなぜあのようなおろかな判断を下したのかと理解に苦しむような企業不祥事が続発する。若者たちが見ず知らずの相手とネットで交信して、ある日あるとき、集合して集団自殺をする。少年や少女による残忍な殺人事件が相次いで起こる。

 この国が変になっている。この国の人々がおかしくなっている。それは確かなことだ。だが、日本人のどこがどのようにおかしくなっているのか。なぜそうなったのか。そう問いかけても、根源にあるものは見えにくく、答を見出すのは難しい。(柳田邦男[2005]、以下、断りがないなら同様)

 極めてデ・ジャ・ヴュに満ちた文言である。この程度の「憂国」言説において、問題視されるのが《超一流企業のエリート経営者》と《若者たち》と《少年や少女》であることはもはや定番としか言いようがない。しかも《なぜあのようなおろかな判断を下したのかと理解に苦しむような企業不祥事》と《集合して集団自殺》にはかなりの飛躍があると思うのだが、柳田氏にとっては同列のものなのであろう。

 なぜか。それは、柳田氏が《この国が変になっている。この国の人々がおかしくなっている。それは確かなことだ。だが、日本人のどこがどのようにおかしくなっているのか。なぜそうなったのか》と語っている通り、これらの問題は柳田氏にとっては日本人の根源において精神構造が崩壊していることの証左だからである。個人や企業構造の問題を解決する前に、一足飛びに「日本人」全体の精神病理として批判してしまうことは、短絡的なナショナリストの常套手段である。

 そして、柳田氏は、このような日本人の精神構造の崩壊をもたらしたものが、《「人間を壊す見えない魔手」「二十一世紀の『負の遺産』は心と言葉にかかわる見えないもの」「IT時代がかかえこむ見えないジレンマ」》であると推測する。もちろん、他のファクターは無視されている。柳田氏は、218ページから219ページにかけてこのように書いている。曰く、

 IT革命による情報化は、言葉の世界に直接的に影響をおよぼす。同時にIT機器とりわけメディアへの長時間の接触と依存は、心の影響を与えないわけがない。とくに子どもの場合は、心の発達と人格形成に影響をおよぼす危険性が高い。いずれにせよ、IT革命という二十一世紀型の科学技術の担い手の「負の側面」は、情報処理やコミュニケーションという見えにくいものによってもたらされ、その結果も、心と見えない世界に生じる現象なのだ。

 極めて興味深い指摘である。特に、柳田氏が《言葉の世界に直接的に影響をおよぼす》だとか《心の影響を与えないわけがない》だとか《心と見えない世界に生じる現象なのだ》だとか、定量化が難しい事例に対してただ憶測だけを重ねて警鐘を乱打していることが(しかし空回りしてばかり)。これは現代における「非社会的な若者」への不安を扇動する言論に共通して言えるもので、「反社会的な若者」が既存の「世間」によって与えられた境界線の枠組みにのっとって反社会的行動をしているのに対し、「非社会的な若者」は既存の境界線の枠組みに関わる行動をしているので、「世間」の境界線を死守するだけの俗流若者論は、彼らを「世間」の枠組みの中に再び囲い込め、としか言うことができない。「非社会的な若者」は、「反社会的な若者」とは違い、不可視的であるから、好きなように不安を扇動することが可能だ。柳田氏は、まさに「不可視的なものに対する過剰な不安扇動」をやってのけている。

 そして、詳しくはこの後の議論に譲るが、柳田氏にとっての「言葉」だとか「心」だとかいった文言は、所詮は「想い出の美化」イデオロギーに満ちたものでしかなく、それが現実の青少年をいかに苦しめるものであるか、ということに対する柳田氏の想像力は、完全に放棄されている。これは、昨今の憲法や教育基本法の改正論にも共通するものでもある。柳田氏は、いつから御用ジャーナリストになったのか。

 以下、柳田氏の著書における、特に問題の多い箇所を検証していくことにしよう。

 ・7~22ページ「見えざる手が人間を壊す時代」…見えざる手が柳田邦男を壊す時代
 7ページにおいて、柳田氏はテレビで見た《東京の山の手の住宅街にある有名幼稚園の話題》について述べる。そのとき、柳田氏は、その幼稚園の多くの子供が高級車で一人一人送られる、という事実に驚愕した。確かに、柳田氏が驚いた理由もわからぬでもない。しかし、柳田氏は8ページにおいて、《子育てに関して、何か凄いことが、この国を覆いつつあるように思えた》と、一つの特殊な事情を持った(柳田氏は8ページにおいて《所得水準の高い過程であるのは確かだ》と言っていたはずだが)幼稚園における情景を元に、日本全体に関して論じてしまうのである。おかしくはないか。

 しかも11ページにおいて、柳田氏は、そのような状況にある現代の子供たちに関して(もちろん、柳田氏の誇大妄想だろうが)《今の子どもはそういう状況の中にあっても、なぜか気が変にならない。いや、実際には変になっているにちがいないのだが、みんなが同じように変になっているので、変であることに気づかないだけのことなのだろう。最近変な事件が頻発しているではないか》とさらに妄想を深化させてしまう。はっきりいって、この短い文章の中に《変》という言葉が繰り返し、しかもなんの躊躇もなく使われていることが、私にとっては恐ろしいことである。しかも《最近変な事件が頻発しているではないか》と書いて、読者の感情に訴える形をとっているけれども、柳田氏はいかなる事件を指してそういっているのか、開示を望む。

 また、柳田氏は、14ページにおいてある疑似科学について好意的に触れる。もちろん、ゲームをやると脳が異常になって、子供たちの社会性の発達を阻害する、という「ゲーム脳」理論だ。この理論に対する論理的検証、さらに思想的な検証は、精神科医の風野春樹氏が行なっているのでそちらを参照してもらうとして(風野春樹[2002])、柳田氏が、「最近の子供たちは異常だ」という一点張りでこの問題の多い「ゲーム脳」理論を信奉していることが恐ろしい。しかも、15ページから16ページにかけて、科学的検証など無用だ、と開き直っているのだからさらに戦慄する。

 その上17ページにおいて、柳田氏は、次のように述べている。

 そこで私は情報環境の変化に焦点をあてて考察しているのだが、テレビやゲームはバーチャルリアリティ(仮想現実)の世界だ。ところが、社会生活の経験が少なく、情報への批判力もない子どもが、毎日長時間テレビを見たりゲームにふけったりしていると、その子にとっては、仮想現実の世界と現実の世界の区別がつかなくなるばかりか、やがて仮想現実の世界のほうに現実味を感じるという逆転現象が起きてくる。そういう点で“先駆的”と言える世代が、すでに二十代になっている。

 で、柳田氏がその証左として17ページから18ページにかけて述べているのが、結局のところ《若い女の子》の行動。当然、私は腰が抜けた。柳田氏にとっては、その行動が《脳が仮想現実の世界から抜け出していない、つまり自宅のソファーでテレビを見ているのと同じ感覚で電車に乗っているからだととらえたほうが納得できる》のだそうだ。柳田氏は、ここまでわけわからずのアナロジーでも、相手が「今時の若者」ならば通用するとでも高を括っているのか。いい加減、マスコミが興味本位で採り上げたがる「今時の若者」の「問題行動」から、空疎な「時代の病理」を読み取って悦に入ることをやめてはくれないか。

 当然の如く、柳田氏は、20ページから21ページにかけて、平成12年の佐賀のバスジャック事件にかこつけて、《本来なら心の中だけの幻想で終わってしまうこういう想いを、仮想現実で終わらせないでそのまま現実世界に持ち込んでいく。「バーチャルな多重人格」においては、仮想現実が現実世界を圧倒してしまうのだ》と平気で論じてしまう。マスコミと俗流若者論によって意図的に捏造された仮想現実が、現実世界を圧倒しているのは、柳田氏のほうであろう。

 ・23~39ページ「広がるケータイ・ネット依存症」…「敵」はどこにいる?
 この章において、柳田氏は明確に携帯電話とインターネットを「敵」として「発見」する。柳田氏は、25ページにおいて、壮大な差別言説を開陳してしまっているのである。

 私などの目から見ると、今時の若者たちは気の毒だなと思う。ファミリー・レストランなどに入ると、あちこちの席に若い男女の二人連れが座っている。ところが、お互いに顔を見つめ合って話しにはずみをつけているカップルは、少ない。何をしているのかと思って見ると、二人がそれぞれに手許のケータイでピコピコとやっている。私はそういう若者たちを不思議な動物だなと思うのだが、若者たちはいまや総ケータイ依存症になっているから、自分たちを変だとは思わない。

 ここまでひどい差別はあるまい。何せ、柳田氏にとっては現代の若年層は《不思議な動物》、すなわち人間以外のものとして認識されているのだから。これは明白なレイシズムであろう。いつから柳田氏はレイシズムを許容するようになったのか。しかも《若者たちはいまや総ケータイ依存症になっているから、自分たちを変だとは思わない》と、検証もなしに自らの思い込みだけでものを語ってしまっているのだから、救いようがない。もう一つ、このようなことが、どこまで広がっているのか、ということについて、柳田氏は検証したのだろうか。

 このような態度だから、柳田氏は《ビジネス界の「人の砂漠」》(26ページ)だとか《患者の顔を見ない医師》(28ページ)も、全て携帯電話とインターネットのせいにしてしまえるのである。

 笑ってしまったのは32ページで紹介されている「事例」だ。曰く、聴診器と間違えてパソコンのマウスを患者の胸に当てようとしたという。このような事例は、患者にとっては「しっかりしてくださいよ」と言いたくなるような単純なミスであるし、単にこの医者がおっちょこちょいだった、という可能性もある。しかし柳田氏にとって、こんな些細なことですらも《コンピュータ化時代ならではの問題点が見えている》のだそうだ。では聞こう。もし、ここで間違って患者の胸に当ててしまったのがメモ帳とか文鎮だったら?柳田氏は口が裂けても《コンピュータ化時代ならではの問題点》などとは言うまい。結局、柳田氏の問題意識は、この程度のものでしかないのだ。それ以外にも、柳田氏は、36ページにおいて、《四国八十八ヶ所の霊場をクルマでいかに早く回ったかを自慢する人がいるほど、効率化の価値を重視する時代だ》と、一部の(柳田氏にとって)衝撃的な事例を「時代の病理」と短絡してしまっている。

 他にも、この章においては、医療を始め、さまざまなことが、コンピュータ化時代の「負の側面」として描かれているのだが、コンピュータ以前の時代の状況がどうであったか、ということについては一切触れずじまいだ。

 結局のところ、この章は、柳田氏が携帯電話とインターネットを「敵」と見なして、それを潰すために的はずれな「批判のための批判」を重ねているだけの下らない章であり、そのような態度でいいのか、という根本的な疑問は一切放棄されているのである。

 柳田氏は、これ以降において、「非効率主義」「あいまい文化」の重要性について論じる。それについて述べたところは、私も共鳴するところは少なくない。だが、しかし。柳田氏が本書で開陳している俗流若者論は、明らかに白と黒を明確に線引きし(当然自分は「白」である)、グレーゾーンはまったく存在しない。しかも、柳田氏の文章からは、ある事象に対して多面的に検証する、という態度がまったく欠けており、「非効率主義」「あいまい文化」とは明らかに相反する執筆姿勢であることには疑いはないだろう。

 ・58~74ページ「「ちょっとだけ非効率」の社会文化論」…単なる憂国的妄想の開陳
 この章は要するに、カーナビゲーションシステムに対する柳田氏の恨み節だけで終始しているのだが、ここにも《人間同士や人と環境(街や自然)とのコミュニケーションに電気機器が介入すると、深いところで本質的なコミュニケーションはむしろ阻害されてくるのではないか》(61ページ)と、《深いところ》や《本質》などといった空疎なアナロジーが安易に使用されている。

 また、《現実とバーチャルの倒錯》というアナロジーは、この章にも出現する(70~74ページ)。しかし、ここで採り上げられている事件に関しても、そのようなアナロジーを持ち出すのは、それこそ倒錯した論理ではないか。結局のところ、柳田氏は、コンピュータ化によって日本人の「本質」が壊されている、という妄想に浸りたいだけなのかもしれない。

 ・145~161ページ「人の傷みを思わない子の育て方」…人の傷みを思わない俗流若者論の育て方
 柳田氏は、145ページにおいて、《人が人を殺すのは、極めて人間的だ》と述べる。ここで言う《人間的》という言葉は、《他の動物には見られない人間特有》という意味である。柳田氏は、146ページにおいて《これほどまでに殺人が日常化し、システム化しているのは、この地球上にヒト科を措いて他にない》と述べているのだが、見方によっては、柳田氏が145ページにおいて述べているハヌマンラングール(サルの一種)の子殺しもシステム化されたもの、ということができるだろう。このような安易なアナロジーの使用は、論理を崩壊させる力を持つ。

 柳田氏は、147ページから、現代の少年や少女による殺人事件について述べる。しかし、《子どもが同じ子どもを殺すという事件が、しばしば起こるという状況はかつてなかった》だとか、《凶悪事件を起こす少年少女の低年齢化も不気味だ》と事実に反することを言う。実際問題、犯罪白書を見ればわかるとおり、少年による凶悪犯罪(殺人、強盗、強姦、放火)はすべてにおいて昭和35年ごろの数分の一に減少しており(強盗に関しては近年増加が認められるが、これは実数が増加したというよりも強盗罪の基準が低くなったことに起因する。土井隆義[2003]、浜井浩一[2005])、各事例に関しても、子供が子供を殺す、という事件は少なくなかった(宮崎哲弥、藤井誠二[2001])。このような事実が存在することを、柳田氏はどう考えているのか。柳田氏は、青少年の凶悪犯罪について、過去にさかのぼって調査したのか。

 しかし、柳田氏は、少年による凶悪犯罪の「増加」を前提として語っているので、しばらくはその前提を受け入れることにしよう。149ページからその原因論に入るのだけれども、そこにも(当然の如く、というべきか)過度な図式化や線引きが目立つのである。
 柳田氏は、151ページにおいて、「普通」の家庭について述べているのだが、これもまた柳田氏の妄想の産物に過ぎない。曰く、

 家計を受け持つ妻は、家賃の負担を感じながら、早く持ち家に住みたいと思い、その頭金作りの一助にと、パートに出ている。おしゃれのために、自分で自由になるお金もほしいという理由もある。時折娘に絵本を買い与えることはしても、自ら読んで聞かせることはしていない。読み気加瀬をすることが、母とこのスキンシップを深めることによる安定のためにも、幼い子の感性と物語の楽しさを味わう力を身につけるためにも、非常に重要だということを知らない。

 子どもはといえば、留守番の多い鍵っ子。ひとりでテレビを見たり、ゲームで遊んだりしている。ケータイも使える。母親が留守がちなので、連絡のためにケータイを買い与えたのだ。絵本を落ち着いて読む習慣がない。保育園では、協調性が乏しく、すぐに友達を手でぶつと、保育士から言われている。

 これは今の日本では、まさに「普通」の家庭だ。つまり「一般的」という意味で「普通」なのだ。しかし、このような状態を、子育ての条件として「正常」と言えるだろうか。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」とよく言われるが、大部分の家庭や家族が「赤信号」の中で暮らしていると、それが「普通」となり、誰も危険を意識しなくなってしまう。

 このような図式化が今の俗流若者論では、《まさに「普通」の》若者論だ。《つまり「一般的」という意味での「普通」なのだ。しかし、このような》暴論を、青少年に関する言説として《「正常」と言えるだろうか。《「赤信号、みんなで渡れば怖くない」とよく言われるが、大部分の》自称「識者」が《「赤信号」の中で》馴れ合って暴論を開陳していると、《それが「普通」となり、誰も危険を意識しなくなってしまう》。

 結局のところ、これは、「批判のための批判」としか言いようがない。つまり、あらかじめ「犯罪を簡単に起こす子供達を育てる家庭」なるものを批判するために、このような図式をでっち上げているのである。柳田氏よ、貴方もジャーナリストであれば、現代の家庭に関しても綿密な取材・調査を行うべきではないか。

 当然、151ページの最後から152ページの最後においては、柳田氏の生まれ育った環境と現在の家庭環境の比較を行なうのだが、これを印象操作という。要するに、柳田氏の生まれ育った環境は過度に美化されているのに加え、現在の家庭環境は過度に醜悪化されているのである。

 そして、案の定、153ページから154ページにかけてこのようなことを述べてしまう。曰く、《どのようにすれば子供の心が真っ当に育つのかという問題に対し、国も地域も親たちも具体的で有効な対応策を見つけ出せないまま立ちすくんでいるという状況を、私は論じているのだ》と。「真っ当な心」など、イデオロギー的な妄想に過ぎないのに。

 また、柳田氏は、155ページから157ページにかけて、今規制が推し進められている「有害な」映画について述べているのだが、そこにもただ不安を煽るだけの論理だけが繰り返されるばかりだ。現在、柳田氏が問題視したがる「有害な」映画やゲームへの規制が東京都、神奈川県、埼玉県を中心にさまざまなところで行なわれているのだが、もしそのような規制が行なわれたら、柳田氏は喜ぶのだろう。「表現の自由」という、もの書きにとってもっとも大事なこともかなぐり捨てて。

 しかも柳田氏は、157ページにおいて《凶悪事件を起こした少年(少女)のほとんどが、他者の痛みを思っても見ない完璧なまでの自己中心の精神構造になっている》と言っているのだが、なぜそのような考えているのか、ということに関しては、平成16年6月の佐世保の事件における、犯人の日記、小説、ホームページでの書き込みしか触れられていない。さらに、柳田氏は、160ページにおいて、《幼少期のテレビゲームへの熱中による脳の発達のゆがみ》と書いている。幼少期からテレビゲームに熱中していた子供が、果たしてどれほどいるのだろうか。

 俗流若者論は、人の傷みを思わない。

 ・162~180ページ「ノーケータイ、ノーテレビデーを」…敵愾心の産物に期待が持てるか
 高校時代、私は教室掃除をしていたとき、友達と、「漢字を覚えてしまったら、漢字がない文章はとても読みづらくなる」ということを笑いながら話していたことがある。

 そして、そのような漢字を使わない文章が、まさか社会的に一定の地位を得た作家が、現代人に対する罵詈雑言に使うだろう事など、夢にも思わなかったのである。

 そう、柳田氏は、162ページから、165ページにかけての節で、《ケータイはカミサマ》と題して、柳田氏の携帯電話に対する敵愾心たっぷりの文章を、漢字をまったく使わないで書いているのである。読んでいて、激しい怒りが私の中に募った。これこそ俗流若者論の暴走だ、と私は確信した。このような漢字のない文章にすることで、《ケータイ》なるものに(私がこのような表現を使ったのは、《ケータイ》というのはもはやイデオロギーでしかないからであり、携帯電話及び携帯端末とは極めて乖離した存在であるからである)侵された者がいかに貧困な思考しか抱き得ないか、ということが極めて残酷に描かれているのである。柳田氏は、最初から「敵」を決めて、それに対する狼藉は、たとえ不当なものであってもいとわない、という考え方を暴走させ、ついにこのような暴挙に出てしまったのだ。本書のタイトルは《壊れる日本人》だが、壊れているのは確実に柳田氏だ。

 柳田氏は《ノーケータイデー》《「ノーゲームデー」「ノーテレビデー」「ノーインターネットデー」「ノー電子メディアデー」》が必要だ、と述べる。しかし、私はこれらには反対である。
 なぜか。柳田氏がこのような結論に至る過程には、さまざまな狼藉と誹謗中傷がある、ということは今まで述べたとおりであり、そのようなものから生まれた思索を、到底認めることなどできないのである。

 柳田氏は、当然の如く電子メディアの悪影響について自信満々で述べて、そしてそれらの「ノー○○○デー」がいかに子供たちにいい影響を及ぼすかを、実例を引いて述べている。しかし、柳田氏の視点に決定的に欠落しているものがある。それは、子供はどこまで親の監視監督下におかれるべきか、ということと、ある不安を抱えており、それに対する脱却にインターネットが大いに役立つこともある、ということの二つである。

 前者について言うと、柳田氏が述べている通り、現代の子供たちは昔以上に親の監視監督下におかれている。だからこそ、インターネットが、彼らの唯一の「居場所」になっていることがあるのだ。柳田氏は、そのような環境におかれた子供たちに対する想像力を、果たして持っているのか、問い詰めたい。柳田氏は、インターネット以外にも子供たちが「居場所」を探し出せるような環境作りという極めて大事なことを忘れて、電子メディアから子供を引き離せ、と主張しているのだから、柳田氏の論理が時代遅れだ、ということ以前に、柳田氏の論理は極めて暴力的なのである。

 また、精神科医の斎藤環氏によると、「ひきこもり」の解決にはむしろインターネットが有効だという(斎藤環[2003])。電子メディアの負の側面ばかりを強調して、それらを突き放すことによってよい面だけを生かすようにしよう、と柳田氏は述べているけれども、そんなことは単なる幻想に過ぎない。使用する過程で、いい側面も悪い側面も出てくるものだ、それは電子メディアに限ったものではないが。

 とにかく、敵愾心にまみれた汚れた「対策」に、何の期待が持てようか。

 ・181ページ~198ページ「異常が「普通」の時代」…そもそも「異常/普通」とは?
 182ページ、柳田氏は、前出の佐世保の事件について、《ケータイ・ネット時代ならではの側面に絞って詳しく分析した》と書いている。あれが《詳しく分析した》結果なのだ、と言われると、へそで茶を沸かしてしまう。これまで述べたとおり、柳田氏は、マスコミで報じられているあらゆる事件事象から、日常の些細な失敗まで、全てをコンピュータ化時代の病理に強引に結び付けて述べているのだから、本書は最初からアンフェアなスタンスで書かれている、ということを我々は自覚すべきだろう。

 183ページから184ページにかけて、柳田氏は、佐世保の事件の犯人の、長崎家庭裁判所佐世保支部による「審判決定要旨」を引用して、さらに185ページにおいて教育評論家の尾木直樹氏のある調査も引用して、この犯人の人格特性と絡めつつ、現代の子供たちがいかに危険であるかについて警鐘を鳴らす(書き飛ばす)。

 しかし、この尾木氏の調査に問題がある。尾木氏の調査は、平成10年に行われたもので、東京、京都、福島、長野の保育士456人に対して「子どもと親の最近の変化」についての調査をした、というものである。それによると、《1、夜型生活、2、自己中心的、3、パニックに陥りやすい、4、粗暴、5、基本的しつけの欠落、6、親の前ではよい子になる》という傾向が見られたらしいが、このような調査は、そのような答えを示した保育士が何を基準に語っているか、ということが問われるべきだろう。そもそもこのような回答には、「想い出の美化」というものが関わっている可能性もなくはないだろう。尾木氏、そして柳田氏は、そのことに関してコントロール(影響を排除すること)を行なったのか。しかし、柳田氏は、そのような疑問をはさむことはない。

 これ以外の内容は、柳田氏が以前に書いていた内容と大部分で重複するので、検証は控える。しかし、これだけは言いたい、柳田氏は、過去の自分を過剰に美化し、さらに現代の子供たちに過剰なまでの敵愾心を煽ることによって、差別や短絡的なナショナリズムの復活に貢献しているのだ、貴方はいつからそのような御用ジャーナリストになったのか、と。

 とりあえず、個々に関する検証はここで終わりにしよう。

 実を言うと、私は柳田氏のこの文章を、新潮社の月刊誌である「新潮45」に「日本人の教養」として連載していたときから愛読していた(もちろん、突っ込むことを楽しみにして。「日本人の教養」は、今も連載中)。柳田氏は、ノンフィクション界では相当の業績を残した人である、ということは知っていたし、また柳田氏の文章もいくつか読んだことがあるので、柳田氏がこのような文章を書いていることに、この連載の第1回を読んだ私は強い衝撃を覚えた。

 柳田氏のこの文章は、決して人間の視点で書かれたものではない。それでは、何の視点で書かれたものなのか。神の視点なのか。いや、違う。

 それは、政治の視点である。柳田氏は、過度に政治言説化された「今時の若者」のイメージを疑うことをせず、それどころかそれにただ乗りする形で、「今時の若者」の「政治利用」、要するに「今時の若者」を異物と見なして、それに対する「対策」をこそ至上の政策課題とする形で、本書は書かれている。そのようなスタンスで書かれた本書を、どうしてフェアーな書といえようか。本書は、限りなく政治に隷属された、人間味のない、罵詈雑言ばかりが繰り返された文章としかいえない。

 確かに、本書で問題のある部分として採り上げた以外の場所には、納得できる、あるいは共感できる部分もある。しかし、本書の中で「今時の若者」を敵視した文章に触れると、それ以外の部分で得た感動を一挙に裏切られてしまう。考えてみれば、本書で問題視しなかった部分でも、うわべだけの空疎な美辞麗句が頻出していた。

 このような、「今時の若者」を個々まで堕落せしめた「原因」を探し出し、それを排除する、あるいはそれに対する敵愾心を煽ることによって、子供たちを「今時の若者」にしないために、それらを過剰に敵視する。このような「残酷な温情主義」が、実在の子供たちを囲い込み、問題の解決を遅らせて、青少年から「居場所」を奪う。そして、このような残酷な温情主義と、子供たちを「国家」に従わせることによって自立心と社会性を育もうとする倒錯した論理が、戦略なき憲法と教育基本法の改正、あるいはメディア規制として析出している。

 そうでなくとも、今、手軽な社会批判として、多くの自称「識者」がインターネットを敵視し、自分の「理解できない」事件は何でもインターネットが原因と決め付ける。そして、インターネットを過剰に問題視し、「今の社会はここまで駄目になってしまった」とのコメントを流せば、マスコミは好意的にそれを紹介し、事件の真相を掘り起こすことを放棄して、そのような「憂国」に終始してしまう。

 なるほど、確かにインターネットや携帯電話といった存在、あるいはひきこもりや不登校といった存在は、強固な共同幻想によって結び付けられた「世間」にとっては「境界線の撹乱者」だ。そして今、その「境界線の撹乱者」に対して起こっている過剰なバッシングが、少年犯罪や「オタクの犯罪」にかこつけて行なわれている。しかし、我々にとって必要なのは、そのような「境界線の撹乱者」に対してどう向き合うか、ということではないか。

 俗流若者論は逃避の論理だ。俗流若者論は、自分の持っている幻想と、「世間」という幻想に逃げ込むことにより、自分を絶対化して、他者の痛みに気づくことを阻害させる。まさに、俗流若者論に感化した人こそ、他者の痛みを思わない存在である。柳田氏もそうだ。

 今、この文章を書いているときに、ラジオを聴いている。声優がパーソナリティを務めているラジオで、最近のものはメールでやり取りするものも多くなったが(小森まなみ氏の番組など、メールを使っていないものもある)、これらのラジオに共通するものは、あらゆる作業の手を止めて静かに、あるいは勉強や作業をしながら、リスナーはパーソナリティの発言を楽しみ、番組にあてられる手紙やメールをを媒介して、電波によって多くの人がその空間を共有できる。そこには確かに「人間」がいる。このように、一人一人のリスナーに即しつつ、しかし不特定多数のリスナーにも、電波の向こうの情景を楽しむことができる。俗流若者論が決して実現し得ない、メディアを通じた濃密な時間が、そこにはある。「人間」によってつむがれる言葉は、強く、深く、美しい。

 柳田氏のこの文章は、元々は手書きでかかれたものであろうが、その言葉が「政治」と強く結びついており、「人間」の入る余地がなくなっている。「政治」に隷属させられた言葉は、輝きを失い、魂を殺し、弱く、浅く、醜い。

 もう一度言おう。

 貴方は、いつから、このような物言いを許された、御用ジャーナリストになったのか、と。

 参考文献・資料
 風野春樹[2002]
 風野春樹「科学的検証はほぼゼロで疑問が残る「ゲーム脳の恐怖」の恐怖」=「ゲーム批評」2002年11月号、マイクロマガジン社
 斎藤環[2003]
 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 土井隆義[2003]
 土井隆義『〈非行少年〉の消滅』信山社、2003年12月
 浜井浩一[2005]
 浜井浩一「「治安悪化」と刑事政策の転換」=「世界」2005年3月号、岩波書店
 宮崎哲弥、藤井誠二[2001]
 宮崎哲弥、藤井誠二『少年の「罪と罰」論』2001年5月、春秋社
 柳田邦男[2005]
 柳田邦男『壊れる日本人』新潮社、2005年3月

 五十嵐太郎『過防備都市』中公新書ラクレ、2004年7月
 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 姜尚中『ナショナリズム』岩波書店、2001年10月
 斎藤環『「負けた」教の信者たち』中公新書ラクレ、2005年4月
 芹沢一也『狂気と犯罪』講談社+α新書、2005年1月
 谷岡一郎『「社会調査」のウソ』文春新書、2000年5月
 内藤朝雄『いじめの社会理論』柏書房、2001年7月
 中西新太郎『若者たちに何が起こっているのか』花伝社、2004年7月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月
 宮台真司『宮台真司interviews』世界書院、2005年2月
 ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』岩波文庫、上下巻、1987年2月

 石田英敬「「象徴的貧困」の時代」=「世界」2004年7月号、岩波書店
 小熊英二「改憲という名の「自分探し」」=「論座」2005年6月号、朝日新聞社
 渋谷望「万国のミドルクラス諸君、団結せよ!?」=「現代思想」2005年1月号、青土社
 内藤朝雄「「友だち」の地獄」=「世界」2004年12月、岩波書店
 内藤朝雄「お前もニートだ」=「図書新聞」2005年3月18日号、図書新聞

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2005年6月 4日 (土)

俗流若者論ケースファイル27・毎日新聞社説

 1件の衝撃的な凶悪少年犯罪だけをもって、その世代について語った気になってみせる、ということがいかに愚かであることは、この連載で何回も述べている通りである。たった1件の凶悪犯罪をもって、現代の若年層を訳知り顔で語ってしまう人たちは、その認識に至るまでの交渉を放棄し、飛躍した考えでもって世間の「同情」を得て、そして若年層に対する敵愾心を煽る。

 笑止千万。彼らの視点に欠けているのは、まず、大多数の少年が凶悪犯罪を起こしていないことである。現在、たとえば殺人犯に関して言うと、現在我が国で1年間で検挙される少年殺人犯の数は約110人前後(昭和35年ごろの約4分の1)であるから、少年の人口から考えてみれば、現代の青少年が、青少年に「悪影響」を及ぼす風潮なるものによって毒されている少年たちがなぜこれほどまでに殺人を犯していないのか、というところまず突っ込むべきであろう。

 「理解できない」もの、すなわち漫画・アニメ・ゲーム・インターネット・携帯電話に対して彼らが過剰に反抗する理由は、そのようなものが社会に台頭することによって、彼らの自意識の基盤が崩れるからに他ならない。要するに、俗流若者論とは自意識の問題なのである。すなわち、彼らの幻想する共同性の質を、例えばゲームやインターネットがもたらすコミュニケーションは突きつけているのだが、彼らがこの「問い」に答えるのを避けるからこそ、メディア悪影響論を基盤とした俗流若者論が生まれる。俗流若者論は逃避の論理でもある。そして、彼らの逃避を正当化するのが、「風潮」とか「現代」とか「時代」とか「本質」とか、それこそ実体を伴っていない空疎な美辞麗句であり、あるいは「ゲーム脳」「ケータイを持ったサル」「フィギュア萌え族」といった、レイシズムのための「人種」捏造である。

 というわけで、このような私の考えを頭に入れつつ、平成17年2月17日付毎日新聞の社説を読んでほしい。この社説は、平成17年2月に大阪府寝屋川市で起こった教師刺殺事件について論じた社説であるのだが、突っ込みどころが満載だ。今回は、特に問題のある箇所を全文引用して、検証しようと思う。この社説の3段目から4段目である。

 かつて学校への不満は、窓ガラスなどを壊して発散するケースが多かった。いまは、いとも簡単に教職員を殺傷する。時代の影を感じる。

 最近の青少年の反抗にはテレビゲーム世代の特性がみられる。バーチャル(仮想)な空間では殺人がゲーム感覚で行なわれて、それに没頭するあまりに現実の生活感覚と区別がつかなくなっているのではないか、とゲーム文化を憂慮する声が広がっている。

 少年も小学校の卒業文集に「ゲームクリエーター」への夢を描いていた。この事件の背景にゲーム文化の影響があるのか、注意深く分析しなければならない。

 「ゆとり教育」のあり方を見直すために15日開かれた中央教育審議会の初総会では、委員から「少年が閉じこもってゲームをしていて、生活のリズムが崩れた。身体を動かす場所があって、よいコミュニケーションが取れていたら」との発言があった。

 周りの人間とのふれあいを避け、テレビゲームの世界に没入し、孤立していく少年たちに、どのように働きかけていけばいいのだろうか。少年たちの社会性を育てるために学校や地域によるサポート体制が求められている。

 いったい何が少年の心の傷となったのか、その過程と社会的な背景を可能な限り解明する必要がある。そのことが遠回りに見えても、学校への襲撃を避けるための手掛かりとなる。

 (2005年2月17日付毎日新聞社説、以下、断りがないなら同様)

 いや、ここまで露骨な俗流若者論を平気で社説で開陳できる毎日の社説子の強心臓ぶりに、ほとほと感心してしまう。例えば《かつて学校への不満は、窓ガラスなどを壊して発散するケースが多かった。いまは、いとも簡単に教職員を殺傷する》などと簡単に言ってしまっているけれども、それを裏付けるような事例的・数値的証拠を提示していないのだから、これは単なる「居酒屋の愚痴」の領域を超えることはないだろう。

 また、《最近の青少年の反抗にはテレビゲーム世代の特性がみられる。バーチャル(仮想)な空間では殺人がゲーム感覚で行なわれて、それに没頭するあまりに現実の生活感覚と区別がつかなくなっているのではないか、とゲーム文化を憂慮する声が広がっている》だとか《周りの人間とのふれあいを避け、テレビゲームの世界に没入し、孤立していく少年たちに、どのように働きかけていけばいいのだろうか。少年たちの社会性を育てるために学校や地域によるサポート体制が求められている》だとかいう記述を見たときは、思わず笑ってしまった、このような、思い込みに基づいた俗説を、いまだに毎日の社説子は信じているようである。

 大体、毎日の社説子は、「テレビゲーム=誰とも関わらずに一人で部屋に閉じこもってやるもの」だとか「少年の孤立化を促し、社会性の発達を阻害する」という偏ったイメージをいまだに信奉しているのだから救いようがない。もちろんそれはゲームのイメージの一面ではあるけれども、はっきり言ってそれは悪い一面をさらに強調して、よい一面(例えばゲームを仲介したコミュニケーションが成り立つこと)に対する検証をまったく放棄している行為に他ならない。

 そもそも《テレビゲーム世代の特性》とはなんなのか?もし、毎日の社説子がそのような図式化を行なうのであれば、《テレビゲーム世代》による殺人と《テレビゲーム世代》以前による殺人を峻別すべきであろう。もちろん、《バーチャル(仮想)な空間では殺人がゲーム感覚で行なわれて、それに没頭するあまりに現実の生活感覚と区別がつかなくなっている》という、既に論破されつくしている俗説ではなしに。もう一つ、《それに没頭するあまりに現実の生活感覚と区別がつかなくなっている》ということについて、どこまでが《現実の生活感覚と区別がつかなくなっている》状態であるかという定義もまず必要なのではないか。

 しかも、この毎日社説子が引いている《15日開かれた中央教育審議会の初総会》における発言の中に《少年が閉じこもってゲームをしていて、生活のリズムが崩れた。体を動かす場所があって、よいコミュニケーションが取れていたら》という発言があることには失笑を感じ得なかった。では聞こう。《体を動かす場所》が子供たちから奪われていたら?これは大袈裟に言っているのではない。実際問題、小学生がキャッチボールをしているときに、誤ってそれが関係のない子供の胸に当たってしまい、しかもその子供が死亡してしまった事件に関する裁判について、ボールを投げた子供に対する「親の監督責任」が司法によって問われたという実例があるのだ。すなわち、子供は親の監督の元でしか遊べない、という時代が到来しているのではないか、というのは少々大袈裟かもしれないが、それでも「ゲーム」という存在に頽廃的なイメージを供給し続けるのは、そろそろやめるべきではないか。

 毎日社説子は、《周りの人間とのふれあいを避け、テレビゲームの世界に没入し、孤立していく少年たちに、どのように働きかけていけばいいのだろうか。少年たちの社会性を育てるために学校や地域によるサポート体制が求められている》と気楽なことを言う。しかし、現在の学校や地域にそれが可能か、という議論もあることを忘れてはならない。学校に関して言うと、明治学院大学非常勤講師の内藤朝雄氏は、現在の学校の状況について、《生徒にされた人たちは、たまたま同じ箱に強制収用された他人たちと一日中べたべた共同生活し、諸関係のアンサンブルのようにふるまうことをきめ細かく強制される》(内藤朝雄[2004])ものであると批判している。内藤氏は、このような環境下によって生まれる集団意識が生み出す全能意識こそが、深刻な「いじめ」を引き起こす、とも論じている(内藤朝雄[2001])。内藤氏の視点から言えば、毎日の社説子の学校観は、あまりにも能天気なものといわざるを得ないだろう。

 また、地域にしても、東北大学助教授の五十嵐太郎氏が、見えない「敵」に対抗するために地域を閉鎖化させている様子を淡々と論じている文章を見ていると(例えば、五十嵐太郎[2004])、「今時の若者」なる存在に脅える地域社会に、青少年を育成する能力があるのか、と疑問を持ってしまう。

 現在、「今時の若者」への敵愾心を最も煽っているのは、マスコミといわざるを得ない。そして、残念ながら、今回採り上げた毎日の社説を始め、多くのマスコミが、そのような現状を棚に上げて、ひたすら「今時の若者」に対する「対策」としての政策ばかり掲げている。このような倒錯した状況を突き崩すのは、もはや外部からの圧力を強化するほかないのではあるまいか?

 参考文献・資料
 五十嵐太郎[2004]
 五十嵐太郎『過防備都市』中公新書ラクレ、2004年7月
 内藤朝雄[2001]
 内藤朝雄『いじめの社会理論』柏書房、2001年7月
 内藤朝雄[2004]
 内藤朝雄「「友だち」の地獄」=「世界」2004年12月号、岩波書店

 中西新太郎『若者たちに何が起こっているのか』花伝社、2004年7月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月

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2005年5月17日 (火)

反スピリチュアリズム ~江原啓之『子どもが危ない!』の虚妄を衝く~

 私自身、高校時代にカウンセリングを受けてきた経験から言うが、カウンセラーを自称している者が安直に社会について、精神分析的なことを論じるのはどうか、と思う。本来カウンセリングというのは、個人と個人の間で行われるものであり、そこには、カウンセラーとクライアントの、いわば権力関係のようなものであっても、1対1の関係があるように思われる(インターネットを用いたカウンセリングでも然りである)。

 ところが、我々の目に見えないものとしての社会を俯瞰するとき、そこにおいては個人が個人に対するカウンセリングを行なうときのような安直な「処方箋」は処方できないように思える。確かに、一般的なカウンセリングの場合においては、簡単な「処方箋」がその個人の問題の解決になることはあるにしても、人々の営みとしての社会に対して「処方箋」を処方する場合は、単なる安直な社会批判――俗流若者論の場合もある――に終始してしまう可能性が高いし、そのような言説に対する政治性、権力性にも自覚的でなくてはならないだろう。故に、カウンセラーであれ、精神科医であれ、学者であれ、社会を俯瞰し、何らかの言説を発する場合に求められるのは、言論人としての倫理や良心のはずである。
 しかし、我が国において、自称カウンセラーが社会について擬似「カウンセリング」を施し、社会の病理(その大抵はマスコミで喧伝されている「病理」であるが)を論じた「つもり」になっている、という事態が後を絶たない。特に、若年層の「病理」に関するものが多いが、彼らにとってすれば、現代の若年層というものは、彼らの「自己実現」のための道具にしか過ぎないのだろう。このような人たちに現代の若年層を生贄に捧げることに、私は強い抵抗を覚える。

 今回検証するのは、スピリチュアル・カウンセラーの江原啓之氏による俗流若者論、『子どもが危ない!』(集英社)である。本書において、江原氏は、現代の青少年問題について述べているものの、その認識は安易な懐古主義や狼藉に溢れ、結局のところ江原氏は自分だけが青少年問題の「本質」を知っている、という幻想に浸って自分に対する責任を回避したいだけではないか、と思えてならない。

 江原氏は、本書の冒頭で、このように記述している(6ページ)。曰く、

 傲慢ながら申し上げます。

 現代の大人たちは、これらの闇を光に変える術を持ち合わせてはいません。 なぜならば、子どもに起きている問題の全ては、大人たち、または社会の問題の投影だからです。

 生まれてくる子供たちは、今も昔も何ひとつ変わってはいません。その子供たちを、今のように育てた大人たちや社会に責任があるのです。
 (江原啓之[2004]、以下、断りがないなら同様)

 しかし、江原氏の記述を読んでみる限り、江原氏は《子どもに起きている問題の全ては、大人たち、または社会の問題の投影だからです。/生まれてくる子供たちは、今も昔も何ひとつ変わってはいません》とはさらさら思っているのではなく、《今のように育てた大人たちや社会に責任があるのです》という問題にすり替えることによって、結局のところ現代の青少年をモンスター化し、さらに自らのみがその処方箋を知っていると傲慢になっているのである。

 蛇足ながら、本書4ページで、《子どもたちが心にトラウマを抱えたまま成人すると、今度は自分の子どもに虐待を繰り返してしまうなど、さまざまな問題を抱えることになります。そのため最近は、若い親たちによる児童虐待の事件が後を絶たないのです》と述べているが、江原氏がこのような俗説を真に受けているのがいただけない。

 本書は、全体で一つの問題を扱っているので、江原氏の問題意識ごとに章が分けられている。簡単に言えば、第1章が江原氏の社会認識、第2章が子育てに関する一般論、第3章が江原氏の現代の青少年に対する認識、第4章が教育に関する一般論、第5章がメディアに対する議論(正確に言えばメディア悪影響論)、そして第6章が家族に関する議論である。拙稿では、その中でも特に問題の多い第1・2・3・5章を検証することによって、江原氏の認識の残酷さを明らかにしていくことにしよう。

 ついでに言わせてもらうけれども、本書各章のはじめに掲載されている、まさに(江原氏が妄想するところの)「今時の社会」を表しているかのごとき写真は、その選定があまりにも恣意的すぎるとはいえまいか。

 第1章のタイトルは「子供の未来を憂えるすべての大人たちへ」である。本章では、一番最初の章ということで、冒頭でも述べたとおり、江原氏の社会認識が述べられている。

 江原氏は、本書の基本姿勢について、《スピリチュアル・カウンセラーである私が本書を著す理由は、人間の本質は「たましい」であるという視点を、ぜひみなさまに持っていただきたいと願うからなのです》(16ページ)と記している。しかし、このような態度、すなわち《たましい》という概念の乱用することによって、本書が壮大な無責任体系と化していることに、私は警鐘を鳴らしておこう。

 ちなみに江原氏言うところの《たましい》は、我々が普段「精神」だとか「心」だとかいう意味で使われている「魂」とは違うものであり、江原氏の《たましい》とは、人間の行動を規定する霊的な要素とされている(「霊魂」という表現に近いかもしれない)。もちろん、このような考え方を否定することは出来ないし、このような親交は昔からあったし、今でも理解を示す人も多いと思われる。

 しかし、江原氏の最大の問題点は、現代を《たましい》の過度に劣化した時代と勝手に規定して罵っていることであろう。例えば、23ページにおいて、江原氏は《今の世の中に浸透している価値観とは、一言で言って「物質主義的価値観」です》と表記し、さらに25ページにおいては《残念ながら、今の日本はまさに物質主義的価値観の王国です》と表記している。しかし、最近においては、そのような「成長」一辺倒でやってきて、バブル期以降その破綻が明らかになってきてからは、「成長」から「成熟」に多くの人が価値観をシフトしている時代に入りつつある。少子化に対する楽観論が出てき始めているのもこの影響があるだろう。

 しかし、江原氏は、このような硬直した思考に陥っているから、このような妄言を吐いてしまう。曰く、《初詣などでの願い事を言えば、物質面で豊かになることや、誰の目にも見えるような成功。高価なもの、贅沢な暮らし目をきらきらさせて憧れるその姿は、偏った宗教を妄信する人と何ら違いはありません》(25ページ)と。なるほど、江原氏にとって、初詣で願い事をする人はみな《物質面で豊かになることや、誰の目にも見えるような成功》を願っているのであって、家内安全、夫婦円満などを願っている人は皆無なわけか。このような態度こそ、江原氏の傲慢な態度、カウンセラーとして決してあってはならない態度が端的に表されている。しかも《偏った宗教を妄信する人と何ら違いはありません》とは…。

 それでは、このような考え方をもった現代の日本人(このような安直な規定をすることもそれなりの留保が必要だろう。私がこう指摘したら、江原氏は私のことを「物質主義的価値観」に毒された奴だと思うのだろうが)、特に青少年が、なぜ問題を起こすようになったのか(このような図式を疑いなく受け入れることこそ問題だろうが)、ということに対して、江原氏は《未浄化な低級自然霊たちが、今という時代、日本じゅう、いや世界じゅうに、はびこっています》と書いている。だったらなぜ江原氏は外国の事例(ブッシュや金正日がいい例だろう)を採り上げないのだろうか。このような問題を採り上げると、求心力がなくなったり、記述が散漫になったりするという弊害が出るかもしれないが、少なくとも人間の本質を、江原氏は《たましい》に求めているのだから、過去や外国の事例をタブー化してはならない。

 《自然霊》なるものに関して、江原氏は、人間の霊(江原氏は《人霊》と述べている)との最大の違いを、《その増え方》にあると言っている。曰く、自然霊は分裂することによって増えるという。なので、《人霊のような理屈抜きの情愛がありません。血肉を分けての絆がないので、人間の親子にあるようなウェットな感性とはもともと無縁なのです。/ですから、いいものはいい、悪いものは悪いという、白か黒かのきわめてデジタルな判断をくだすのが特徴》だというのである。論理が破綻しているのは、言うまでもないだろう。

 しかも江原氏は、現代の《人霊》に関して、《人霊の低級自然霊化》が起こっているというのである。当然、《自然霊》というものが《人間の親子にあるようなウェットな感性とはもともと無縁》だとか《白か黒かのきわめてデジタルな判断をくだす》とかいう特徴を持っているから(しかも《自然霊》は疎かにされると低級化するという。ちなみに、最近の人類が自然に対して傲慢な態度を取っているから、《高級自然霊》はこの世から離れていったらしい。では、《高級自然霊》は、どこに行ったのだろうか?消えたのか?)、現在の青少年問題(マスコミが面白がって採り上げる類のものだけれども)が起こるのも必然であるという。

 その証拠に、江原氏は、31ページにおいて、少年犯罪の「動機」について述べる。しかし、このような「動機」が、警察から発表されたものに、さらにマスコミがその中でも過激なものを選定して報じているのではないか、という常識的な疑念は江原氏の中にはないようだ。江原氏は31ページで《ひと昔前の殺人事件は、憎しみや葛藤という人間くさい感情がきわまって起きるものでした。……/ところが最近の殺人犯の言い分はどうでしょう。……理由らしい理由のないものばかりです》と述べているけれども、あまりにも杜撰すぎる図式化とはいえまいか。もっとも、このような図式化をすることに、江原氏のスピリチュアリズムの(残酷な)「本質」があるのだろうけれども。

 第2章は、子育てについて述べた箇所で、タイトルは「打算の愛、無償の愛」である。本書のような不安扇動本を「無償の愛」で買っている人などいないだろう、と突っ込みを入れて、この章の特に問題のある箇所を指摘したい。

 江原氏は58ページにおいて、《この答えの核心を探るには、ここ百年ほどの日本の歴史を振り返る作業が必要です》と言っておきながら、戦前についてはまったく触れられていない。特に昭和史をめぐる上で最も重要なファクターになる柳条湖事件から日華事変を経て大東亜戦争までの15年戦争、特にその敗因についてまったく触れられていないのはどういうわけか。おそらく、それらについて触れると、話がややこしくなるばかりでなく、江原氏の論理(というよりも妄想)が破綻してしまう可能性があるからではないか(柳条湖事件と満州国については山室信一[2004]を、大東亜戦争に関する分析については山本七平[2004]を参照されたし)。

 閑話休題、江原氏は65ページにおいて世代論的な図式を持ち出す。曰く、昭和1桁~10年代(江原氏の記述を参照すれば、それ以降の段階の世代もこの範疇に入るだろう)が《物質信仰世代》、昭和30年代生まれが《主体性欠如世代》、そして昭和50年代以降(私だ!)は《無垢世代》だという。特に《無垢世代》は、親になった《主体性欠如世代》、すなわち《みずからのたましいも未成熟なまま、親だのみで育ってきている》(69ページ)世代によって育てられてきたから、《そこに「真善美」の軸が据えられていないので、繁華街の地べたに座るのも平気、ということにもなってしまいます。自然の中で、広い芝生に座ることと、渋谷駅の構内に座り込むことの間にあるはずの、美醜の区別ができないのです》。ついに来た、渋谷が。江原氏は、「今時の若者」について、結局のところそこらじゅうの「憂国」言説と同じ印象しか持っていないのである。江原氏はそこらじゅうで「憂国」されているものの表層だけをなぞっているのに過ぎない。このような人にカウンセリングをされることに、元クライアント(江原氏のクライアントではないけれども)の私は強い抵抗を覚える。

 あと、71ページにおいて、江原氏は《「真」とは正しいこと、「善」とは善いこと、「日」は美しいこと。これらはみな、神のエネルギーの側面です》と書いているけれども、文化が違えば「真・善・美」もまた違ってくる、ということを、江原氏は知っておいたほうがいい。このような図式は、ブッシュのイラク戦争を正当化する論理にもつながる残酷さがある。

 第3章、「子どもたちのSOS」。第5章と並んで、本書で一番醜悪な部分である。

 この章においては、江原氏がしきりに「憂国」してみせる、という章である。しかも、ここで「憂国」されている事例が、何度も指摘したけれども、マスコミが好んで採り上げているような「今時の若者」であるというのが悲しい。江原氏にとって、彼らは自己実現の道具でしかないのである。

 例えば江原氏や78ページにおいて、《ところが物質信仰の世の中になると、「愛」と「真善美」に代わる新しい神が現れたのです。/「力」です》と述べている。カウンセラーという立場の「力」に陶酔している江原氏にそんなことをいわれる筋合いはない、そう反論したくなるけれども、ここは少し落ち着き、江原氏の記述をもう少したどってみることにしよう。

 江原氏は「力」が至上の価値である世の中について、79ページでこう述べる。ちなみに私はこの部分を読んで、思わず「ついに来たか!」と叫んでしまったことを書いておきたい。

 そんな世相を見るにつけ、人間界も「野生の王国」さながらの世界になってきてしまったように思えます。人間がアニマル化しつつあるのです。人霊としての「品性」の欠落という点でも、アニマル化は進行しています。

 一時期、渋谷あたりにあふれていた「ガングロ」、「ヤマンバ」。

 地べたに座っても平気な「ジベタリアン」。

 お風呂にも入らず、路上で眠る「プチ家出」。

 お腹がすけば、電車の中だろうと、人目を気にせずむしゃむしゃ食事。

 最近の若者たちの生態は、まさにアニマルを思わせます。それもこれも、「愛」と「真善美」にふれて育っていないからなのです。

 なんという既視感。江原氏が現在の青少年について、「今時の若者」という単純な図式しか持っていないからこそ、このような安易で残酷なことが言えるのであろう。

 このような「今時の若者」の「記号的」な事例ばかり取り出して、現代社会を論じた気になっている人たちは、自らの言論の政治性というものを理解しているのだろうか、と思えてならない。結局のところ、このような扇動言説が、現代の若年層に対する敵愾心を煽り、本当の問題の解決を遅らせる羽目になる。しかも《アニマルを思わせます》、だからあいつらは《アニマル》だ!という決め付けは、壮大なレイシズムであり、狼藉であろう。江原氏が、このような狼藉を平気でできるようになるのは、江原氏が「力」を信仰しているからであり、「愛」も「真善美」も知らないからである(と、言っておく。江原氏は困るだろうが、こう判断するほかないのである)。

 また、この章の中でも、全体的に問題のある部分が、102ページから109ページにかけて「ひきこもり」について論じた部分である。この部分は、当事者の救済になんら役に立たないばかりでなく、「ひきこもり」や不登校、さらにはフリーターに対する差別に溢れている。江原氏こそ自らの中心に「力」を据えていることの証左になろうか。

 江原氏によると、「ひきこもり」には二種類あるという。その一つ目として、《前世を含むこれまでのたましいの歴史の中で、既にかなりの浄化向上を進めてきたたましい》(102~103ページ)を持った人による「ひきこもり」を江原氏は上げている。そのタイプの「ひきこもり」は問題が低いようだ。曰く、《彼らにとってひきこもりの期間は、いわば「たましいの整理」の期間。そこを通過すれば、霊的価値観を大事にしながら、一方で物質主義的価値観の社会と折り合うための知恵もそなえた、たのもしい大人に育っていくことが多いのです》(103ページ)と。

 しかし、このタイプの「ひきこもり」は少数である。大多数は《心の弱さ、たましいの幼さからくる》(104ページ)という。これについて述べた箇所で《心が幼稚なまま大人になるとどうなるかは、今どきの若者たちを見ればわかります》と述べているのが痛かったが、これについてはあまり深く述べることはよそう。

 しかし、江原氏の、このタイプの「ひきこもり」に対する認識の残酷さは目を覆いたいほどだ。何しろ、105ページにおいて、《つらいことだらけの外の世界に出るより、自分の部屋でゲームやインターネットをしていたほうがいいと、ひきこもり始めた子供たちは思うのでしょう。そのほうが楽だし傷つきません。あとは親さえ許せば、いとも簡単にひきこもりの成立です》と書いているのだから。「ひきこもり」に真摯に向かい合ってきた多くの人が指摘している通り、「ひきこもり」が《楽だし傷つきません》ということはまったく事実に反する。精神科医の斎藤環氏が監修した、NHKの「ひきこもりサポートキャンペーン」に寄せられた事例を眺めていれば、彼らは決してゲームやインターネットに逃げているのではない(斎藤環[2004])、そればかりでなくインターネットが「ひきこもり」の救済になったという事例すらあるほどである(斎藤環[2003])。

 そして107ページにおいて江原氏曰く、

 これだけは確かに言えます。

 本当の愛で親と結ばれ、たましいをしっかり成熟させながら育った子どもは、決してひきこもりにはなりません。たとえ一時的になったとしても、立ち直っていけます。

 こうして、江原氏のこのような甘言によって「癒される」、「ひきこもり」にはまったく関係のない人たちが増えていくのである。

 もう一つ、108ページにおいて、江原氏は《遅いと考えるのも物質主義的価値観です》と述べている。しかし、江原氏のこれまでの態度、すなわち現在の青少年問題に関して、現代の青少年に対して《たましい》の劣化した存在と決めつけ、その「問題行動」なるものを「起こるべくして起こった」と規定することによって、モンスターとしての「今時の若者」という「階級」を捏造してしまうこともまた、物質主義的価値観であろう。

 最後に、江原氏は、冒頭に掲げている二つのタイプの「ひきこもり」に関して、その二つのタイプを分かつ分水嶺をまったく示していない。それにもかかわらず、江原氏は、108ページの最後の段落において《子どもがひきこもりの兆候を見せ始めたら、親は決してあわてず、二種類あるうちのどちらのひきこもりなのかを冷静に見きわめてください》などと平気でのたまっている。江原氏は、ここまで現代に生きる人々を《たましい》の劣化した存在と決め付けてきたのだから、そのような人たちにこのようなことを押し付けること自体、江原氏の考え方に即して考えるのであればかなわぬ夢ではないか?

 第5章、「メディアから受ける影響」。ここでは、江原氏の《たましい》理論をベースに、メディア悪影響論のみがただただ繰り返されるだけである。

 曰く、《コンピュータゲームは基本的に、いっしょに遊ぶ友だちを必要としません。一人で部屋にこもりきりでもできます。/子どもたちの成長にゲームがいいものでないことは、そこからだけでも推察できます》(142ページ)と。そのような「推察」だけで断定していただきたいものだ。そもそも、このような論証立て自体、ゲームというものの一面しか見ておらず、その一面的な判断だけで全てを断定してしまうことに対する留保がないのが気にかかる。ゲームを用いたコミュニケーションというのも十分可能なはずであるのだが、そのようなことに関しては江原氏にとっては存在しないことのようだ。

 151ページ、《心は機械と連動しない》と書かれた小項において、江原氏は《そもそも、コンピュータによる文章には、「言霊」、すなわち言葉のたましいがこもりません。心と機械は連動しないからです》だとか《Eメールにも「言霊」は宿りません。ですからEメールによるけんかほどたちの悪いものはないのです。佐世保の女子小学生による同級生殺害事件も、自作のホームページにいやなことを書き込まれたことがもとだったようです》と意味不明なことを言っている。コンピュータによる文章に《言霊》が宿らないというなら、活字印刷された書籍はどうなるのだろうか。もちろん、活字印刷とは言いながらも、現代の印刷技術では文章をデータ化してそれを印字するのだから、江原氏のこの本に関しても《言霊》が宿っていない、ということになるのだが、そのことについて江原氏はどう考えているのだろうか。さらに、佐世保の事件に関しても、外見に関わる罵詈雑言が時として暴力衝動を蓄積させることになりうる、ということを忘れてはならない、と思う。

 また、江原氏は153ページから157ページに賭けて、インターネットにおける匿名の書き込みを問題視している。ちなみに私のブログでは、ブログの機能を用いて、匿名でのコメントを掲載できないようにしている。それは、単に匿名での書き込みが気に入らない、という生理的理由による。そして、そのような問題意識は、ウェブ上でも持っている人が少なくないし、江原氏もまたそのような意識を持っている。

 ところが江原氏と着たら、ウェブ上における匿名での書き込みを強引に犯罪と結び付けてしまうのである。特に、155ページにおけるこのような記述には、正気の沙汰か、と天を見上げてしまうほどだ。

 「インターネットが普及してから、匿名で本音が言えたり、愚痴を吐き出せたり、内部リークができるようになった。おかげで世の中の風通しが良くなった。だから、インターネットの掲示板は必要悪である」と考える人は多いようです。
 ネガティブな言霊だと自覚した上で、無責任にそれを垂れ流している、姿なき確信犯たちが、それだけ暗躍しているということなのでしょう。

 そこにすでに「自然霊」化するこの世の闇の深さを見ます。「愛」と「真善美」の光を見失い、さまよう人霊たちの姿を見ます。

 「表向き誰だかわからなければ、何を発言してもいい」という身勝手な理屈を許せば、嘘を言ってもいいことになります。「表向きいい子の体裁を保てたら、陰でいじめをしてもいい」と考える子どもたちと同じです。

 そうなれば、この世はまったく歯止めが利かない無法地帯と化します。一人ひとりがてんでんばらばらに不平不満、罵詈雑言、ねたみ、そねみを垂れ流すだけ。

 当然、殺人も増えるでしょう。「匿名なら悪口を言っていい」なら、「覆面なら殺人をしてもいい」と流れていくのはたやすいことです。

 いい加減にしてくれ。

 このような態度は、江原氏が自分だけが全ての心理真理を知っていて、他の人たちは知らない、という傲慢な態度なくしては成り立たない。もう一つ、《匿名なら悪口を言っていい》というのが《覆面なら殺人をしてもいい》に結びつくのは、到底考えられない、というよりも溝が深すぎる。事実、我が国における殺人事件の大半は、顔見知りの間で起こっているのであり、通り魔や無差別殺人は(交通死亡事故を除いては)少数派である。このような論証立てをするなら、むしろ無理心中を問題化すべきではないか?

 いかがであろうか。本書における江原氏の立場、というものが少しでも皆様に理解いただければ幸いである。

 本書における江原氏は、決して人間愛や真善美に満ちた存在ではない。むしろ、力を信仰し、自分の考え方に合わない者を全て《たましい》の劣化した存在として線引きを行い、レイシズム的な思考によって罵詈雑言を繰り返し、自分だけは全てを知っているという傲慢な立場に立つことによって、他の考え方を全て無能なものと決め付ける。また、そのような態度をとることによって、現代の青少年に対しては記号的な視点でもってしか語ることができず、彼らはただ江原氏のヒロイズムの生贄にされるのみである。そして、江原氏言うところの「愛」や「真善美」は、結局のところは江原氏の自意識及びそれのよりどころになっているものに過ぎない。いわば、江原氏こそ、「物質信仰主義」の最大の体現者といえるだろう。

 また、本書においては、例えば凶悪犯罪などについて、自らの論拠を示すデータ的なものをまったく提示しない。新聞記事すら引用していないのだ。単に思い込みだけで書かれた文章であり、巷で(興味本位で)嘆かれているような「今時の若者」という記号に対する疑念を挟んでいる余地はまったくない。

 このような文章になってしまったのは、間違いなく江原氏が現代社会を「スピリチュアル・カウンセリング」したつもりになっているからだろう。しかし、冒頭でも触れたとおり、社会というものに対してカウンセリングを行なう場合には、その政治性、権力性に対して自覚的でなければならない。江原氏は、その政治性を自覚していないのか、それとも自覚した上でこのような言説を垂れ流しているのかは知らないが、江原氏は自らが言論という権力主体として振る舞うことになんら抵抗を感じていない、それどころかそれに陶酔しているのである。

 ただでさえ、青少年に関する「問題」が山のように取りざたされる状況下において、それらの根源を《たましい》に求めてしまう江原氏の態度は、合意形成だとか秩序だとか社会政策だとかを無視して、「心」あるいは「内面」を律することによって「問題」を撲滅しようとするものに他ならない。そして、このような態度は、昨今台頭しつつある憲法や教育基本法の改正論、ならびに「新しい歴史教科書をつくる会」などに見られるような、短絡した国粋主義と容易に結びついてしまう危険性が高い。

 江原氏のこのような暴論が受け入れられる背景には、間違いなく俗流若者論による「線引き」の横行があるだろう。江原氏を含め、この手の俗流若者論は、青少年「問題」を、さらには青少年を「私たち」とは「本質的」に違う者としてゲットー化し、「彼ら」に対する敵愾心によるアジテーションを行い、最終的にはそのようなアジテーションを行なっている自分に陶酔する。自分が社会に対して何かをしている、という幻想に浸ってくる。そのような幻想は、そのアジテーターの論理に共感して、敵愾心の共同体に加わる者が多くなるほど強くなる。

 また、敵愾心の共同体に加わる者たちは、ゲットー化された「彼ら」を怖れると共に、自分、あるいは共同体の所有物としての子供たちが「彼ら」に加わってしまうことを怖れる。社会学者の渋谷望氏の表現を借りれば、《「ちゃんとした」ミドルクラスの親が、自分たちの子どもが「フリーター」や「ひきこもり」、要するに「汚物(アブジェクション)」になるかもしれないと怯えるときに取りうる、唯一のリアクション》(渋谷望[2005])である。江原氏の暴論に「納得」してしまう人たちの真理、いや、江原氏に限らず、正高信男然り、森昭雄然り、大谷昭宏然り、小原信然り、荷宮和子然り、俗流若者論を支えるマインドの全てが、若年層を「異物」としてゲットー化しようとする論理に裏付けられている。私はこの状況を、「自分で作った張り子のリヴァイアサンに怯えている自分の姿に感激する」状況であるととらえる。

 ならば、そのリヴァイアサンが張り子であることを証明することこそ、反・俗流若者論の立場に立つ者に与えられた使命といえよう。江原氏の用いている《たましい》は、その原理を江原氏しか知りえないからこそ、このような暴論が可能になる。もし、江原氏の《たましい》が、学問的に体系化されたものになったら、早晩崩壊してしまうだろう(もっとも、江原氏の《たましい》はそれ自体が体系化を拒む。なぜなら、体系化することは「物質主義的価値観」によるものでしかないからである)。

 参考文献・資料
 江原啓之[2004]
 江原啓之『子どもが危ない!』集英社、2004年9月
 斎藤環[2003]
 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 斎藤環[2004]
 斎藤環(監修)『ひきこもり』NHK出版、2004年1月
 渋谷望[2005]
 渋谷望「万国のミドルクラス諸君、団結せよ!?」=「現代思想」2005年1月号、青土社
 山室信一[2004]
 山室信一『キメラ――満洲国の肖像(増補版)』中公新書、2004年7月、1993年4月初版発行
 山本七平[2004]
 山本七平『日本はなぜ敗れるのか』角川Oneテーマ21、2004年3月

 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 姜尚中『ナショナリズム』岩波書店、2001年10月
 芹沢一也『狂気と犯罪』講談社+α新書、2005年1月
 十川幸司『精神分析』岩波書店、2003年11月
 日垣隆『世間のウソ』新潮新書、2005年1月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 宮台真司『宮台真司interviews』世界書院、2005年2月
 ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』岩波文庫、上下巻、1987年2月

 植木不等式「タラコにまで取り憑かれた直木賞作家の聖戦――佐藤愛子『私の遺言』」=と学会(編)『トンデモ本の世界T』太田出版、2004年5月
 齋藤純一「都市空間の再編と公共性」=植田和弘、神野直彦、西村幸夫、間宮陽介(編)『(岩波講座・都市の再生を考える・1)都市とは何か』
 斎藤美奈子「江原啓之『スピリチュアル夢百科』」=「AERA」2004年6月28日号・「斎藤美奈子ほんのご挨拶」、朝日新聞社
 杉田敦「「彼ら」とは違う「私たち」――統一地方選の民意を考える」=「世界」2003年6月号、岩波書店
 内藤朝雄「「友だち」の地獄」=「世界」2004年12月号、岩波書店
 内藤朝雄「お前もニートだ」=「図書新聞」2005年3月18日号、図書新聞

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2005年4月28日 (木)

俗流若者論ケースファイル18・陰山英男

 最初に言っておくけれども、尾道市立土堂小学校校長の陰山英男氏が「文藝春秋」平成17年5月号に書いた「「学力低下」世代が教師になる日」は、タイトルだけは極めて扇動的だけれども、論旨の大部分に関しては特に異論はない。しかし、看過できない箇所があったのでそこを批判したい。

 陰山氏は294ページにおいて、《学力低下問題の本質があり、処方箋が存在する》(陰山英男[2005]、以下、断りがないなら同様)とした上で、こう述べる。曰く、《結論から言おう。テレビ漬けと塾漬けで崩れた生活習慣が子供の元気を奪い、学力低下を招いているのだ》と。このような論旨の問題点に関しては後述する。陰山氏は294ページ2段目から次のページ、すなわち295ページの2段目中ごろにかけて、陰山氏が校長を勤める土堂小学校の事例を提示した上で、《こうした基礎学習の反復や音読は、知識の習得もさることながら、脳にある前頭葉の働きを活性化させる効果があることが、大脳生理学の専門家である東北大学の川島隆太教授の研究で明らかになっている》と書いている。どうもこの文章の文脈から考えると、前頭葉云々の記述は余計なものではないか、と思われる。
 陰山氏は295ページの3行目において、《昨年3月に発表された東京都民研学校保健部会と東京総合教育センターの子供の終身時間に関する調査は、1979年と2002年で大きな様変わりをしている。小学四年生では22時以降に就寝する子は10パーセント台から40パーセント台に、小学6年生では60パーセント大と大幅に増えている。すると、どういうことが起こるのか。広島県の基礎基本調査では睡眠時間と学力の相関関係が明らかになっている》と書いているのだが、これに関しては統計学的な検証が必要だろう。例えば、陰山氏が提示している睡眠時間の統計は東京のものであるのに対し、睡眠時間とテストの点数(=学力)の相関関係を示したものは広島県のものである。種類の違うデータを無理やり結びつけたところで、そこから優位な結論が生まれることはまずありえないだろう。陰山氏は、この文章の中で、子供たちの睡眠時間が少なくなったから学力低下が起こったのだ、といいたいのかもしれないが、すくなこともこのような問題点を克服しない限り、そのような論証立てをするのはむしろ危険といわざるを得ない。蛇足だが、相関関係は因果関係にあらず、ということは、統計学の常識として頭に入れていただきたい。

 陰山氏はこの後、さらに暴走してしまう。296ページの2段目はじめのほうから、3段目の中ごろまでを全文引用しよう。

 では、子供の睡眠時間を奪ったものはなんだろうか。それが受験競争の低年齢化と、テレビ、ゲーム、インターネット、携帯電話である。こうしたディスプレーが一日中手放せない。子供たちに人気の「3年B組金八先生」は、昔は午後9時からの放送だったが、今では10時から。それくらい子供たちの夜更かしが進んでいる。一言でいえば、ディスプレー依存症にかかっているのだ。

 一日に二時間を越えるテレビの視聴は、学校教育にとって致命的な意味があることを、ぜひわかっていただきたい。一年365日で730時間い達し、小学校の全学習時間706時間を軽く越えてしまうのだ。テレビ視聴についてはいろいろ議論があるが、音読なみに脳を活性化させる親子の対話や言語能力の獲得に必要な読書の時間を食ってしまっていることは間違いない。最近起きた佐世保や寝屋川の事件の背景にはビデオやゲーム、インターネットなどへの接触が中毒といってもいい段階に達することが一つの引き金になっていたことを考えると、ことは学力にとどまらない深刻な問題である。道徳の授業を週一時間くらいやったところで、心の教育に勝ち目はない。

 しかし、世の批判は学校に向かい、ただこうしたディスプレー依存の問題は真剣に取り組まれていない。土堂小学校では私の呼びかけにこたえ、ほとんどの子供のテレビ視聴は二時間以内である。土堂小学校の観察者が誰でも口にする「子供が元気」の秘密はここにある。

 正気の沙汰で書いているのだとしたら、陰山氏は本当に教師として相応しいマインドを持っているのか、と疑いたくなってしまう文章である。まず、引用文の一段落目において、《子供の睡眠時間を奪ったものはなんだろうか。それが受験競争の低年齢化と、テレビ、ゲーム、インターネット、携帯電話である》と陰山氏は断定的に語ってしまうけれども、それが本当に影響を及ぼしているか、ということに関して陰山氏は具体的なデータを示すべきだろう。また、陰山氏は《子供たちの夜更かしが進んでいる》証拠として、《子供たちに人気の「3年B組金八先生」は、昔は午後9時からの放送だったが、今では10時から》ということを示しているのだが、これは子供たちの睡眠時間が遅くなった、ということよりも番組の編成の問題だろう。また、何割の子供が「金八先生」を視聴しているか、ということに関しても、陰山氏は答える必要があろう。しかも陰山氏は《一言でいえば、ディスプレー依存症にかかっているのだ》といっている。安易に「依存症」という言葉を使わないほうがいい、と言っておく。

 二段落目、陰山氏は《音読なみに脳を活性化させる親子の対話や言語能力の獲得に必要な読書の時間を食ってしまっていることは間違いない》と、これまた断定的に語っているのであるが、影山氏の文章から見えてくるのは、学力低下は「脳」の異常から起こっている、と陰山氏が考えていることだろう。しかし、例えば音読や対話や読書が「どのように」脳を活性化するのか、またテレビの視聴やゲームなどが「どのように」脳を活性化しないのか、ということを、陰山氏はそのデータを提示した上で説明する必要があるのではないか。

 しかも陰山氏は、自らの思い込みに固執するあまり、事実誤認をやらかす。それが、《最近起きた佐世保や寝屋川の事件》に関する認識である。例えば佐世保の事件に関しては、この事件の犯人と被害者が、学校の中でも常に顔を合わせている関係であり、しかもチャットでも頻繁に言葉を交し合っていた、ということは報道などから明らかになっているのだが、陰山氏など、この事件を「ゲームの悪影響」なるものと絡めて語りたがる人たちは、前者をさも「なかったもの」として、後者をセンセーショナルに取り上げることが多い。寝屋川の事件に関しても、多くの報道は「ゲーム」だとか「ひきこもり」だとかをセンセーショナルに採り上げたけれども、それらはマスコミがパブロフの犬の如く反応する「しるし」に過ぎなく、例えば精神科医の斎藤環氏はこの事件に関して「ゲームの悪影響」を語ることは問題だ、としている(「週刊朝日」平成17年3月4日号)。いずれにせよ、これらの象徴的事件だけを引いて、ゲームやテレビが子供に悪影響を及ぼす、と断定してしまうのは、危険といわなければならないが、陰山氏はそこをわかっているのだろうか。そもそも、我が国において、少年による凶悪犯罪は、ゲームがなかった頃に比べて著しく減少しているのだが、そのことに関しても陰山氏は考慮する必要があろう。

 陰山氏の文章は、他の部分はおおむね理解できるのに、なまじこの部分によって俗流若者論に堕してしまっているのが気がかりだ。陰山氏は、徒にゲームを敵視するのではなく、それを子供を巡る環境の多層的なファクターとして正確にとらえて、その上で議論をしていただきたい。さもないと、森昭雄や正高信男の如き疑似科学に足をすくわれることになろう(既にすくわれているのかもしれないが)。

 参考文献・資料
 陰山英男[2005]
 陰山英男「「学力低下」世代が教師になる日」=「文藝春秋」2005年5月号

 苅谷剛彦、志水宏吉(編)『学力の社会学』岩波書店、2004年12月
 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 谷岡一郎『「社会調査」のウソ』文春新書、2000年5月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月

 岩川直樹「誤読/誤用されるPISA報告」=「世界」2005年5月号
 佐藤学「「改革」によって拡大する危機」=「論座」2005年2月号、朝日新聞社
 佐藤学「劣化する学校教育をどう改革するか」=「世界」2005年5月号、岩波書店

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俗流若者論ケースファイル17・藤原智美

 今回も俗流脳科学で申し訳ない。しかし、我が国においては、一見たわいのないような青少年問題をすぐさま「脳」の問題と結び付けてしまうような議論が後を絶たない。しかも、そのような「議論」は、大抵はただ不安を煽るだけの議論であり、論理的に穴ばかりの文章だらけであることが多い。しかし、そのような「議論」が、多くの新聞や雑誌で好意的に取り上げられ、多くの「読者」が納得してしまうのはなぜだろう。そのような倒錯の存在を野放しにしておいていいのか。

 今回検証するのは、作家の藤原智美氏による「目をつむれない子どもたち」である。この文章は「文藝春秋」平成17年5月号の教育特集に掲載された文章であるが、この文章もまた、ただ「実例」ら敷物を出して読者を不安に陥れるだけの文章で、さらに、この手の文章では往々にしてよくあることではあるが、その原因をすぐさまゲームだとかインターネットだとかに結びつけたり、このような「異常な脳」を持った子供たちが成長したときを想像してもらいたい、と煽っている。この書き手に、書き手としての良心はないのか。蛇足であるが、そういえば東京都の石原慎太郎氏が「衝撃の現代若者論」と題し、本当に(別の意味で)衝撃的だった論文「仮想と虚妄の時代」が掲載されたのも「文藝春秋」5月号だった(石原慎太郎[2005])。これは偶然の一致だろうか。

 藤原氏は冒頭で、《目をつむれない子と奇妙な絵》(藤原智美[2005]、以下、断りがないなら同様)など、「実例」らしきものを提示する。例えば、310ページにおいて、藤原氏は《レッスンは昼下がりに始まった。子どもたちが神妙な顔つきで席についていた。小学校の受験にそなえて、母親と教室へやってきた三人の幼児たちだった》と書き始めるけれども、これがどこの幼稚園、あるいはどこの保育園で行われたものであるかどうかはわからない。小学校(おそらく私立であろう)の受験を受けるというのだから、おそらくその親は経済的に恵まれた層であり、また親も(歪んだ意味で、ということもあるが)「教育熱心」な親である可能性も高い。これはあくまでも私の推測なのであるが、このような環境であるから、「早期教育」と題してかなり無理な詰め込み教育をやらされている場合もあるかもしれない。少なくとも、藤原氏が提示するこのような「事例」は、そのようなことを頭に入れて読む必要がある。

 また、藤原氏は311ページにおいて、《今、幼児のなかにひどく奇妙な絵を書く子がいる。自分や母親を描写したのだが、腕を描き忘れるのだ。そればかりか首もない。なかには足さえも忘れる子がいる。三角形の胴体に顔だけの自画像である。まるで積み木を重ねたような人間だ》といった「事例」を提示する。藤原氏は《今、幼児のなかにひどく奇妙な絵を書く子がいる》と書いているのだから、《ひどく奇妙な絵を書く子》が昔と比べていかように増えたのか、ということを提示する必要があるのではないか。それにしても《まるで積み木を重ねたような人間だ》と藤原氏は表現しているけれども、このような絵は(さすがに手や足がない、というのは少なかったけれども)結構多く見た経験がある。子供(幼稚園児あたりを考えていただきたい)が胴体を三角形に描いて、その上に顔を書くような絵は、結構あるのではないだろうか。

 311ページ、藤原氏は《西宮(筆者注:西宮レクタス教育研究所。藤原氏は、この研究所がどういう性格を持った研究所であるか提示していない)でも、福岡(筆者注:この引用文の直前にある《福岡県のある小学校》。都市部なのか郊外なのか山間部なのかわからない)でも起こっていることは、全国で起こっていると考えるべきです。いま子どもたちがおかしくなっている。社会が早く気づかないと、大変なことになります》という、誰が言ったのかわからない(ひょっとしたら藤原氏の捏造かもしれない)コメントを引く。仮にこれが藤原氏の捏造ではないとして(もう少し突っ込んで言うと、藤原氏の提示する「事例」もまた捏造の可能性があるのではないか)、藤原氏が実際に取材の過程でこのようなことを聞いたのなら、アカデミズムの立場であっても、ジャーナリズムの立場であっても、まず疑うのが筋ではないか。実証的な検証もなく、《全国で起こっていると考えるべきです》《いま子どもたちがおかしくなっている。社会が早く気づかないと、大変なことになります》という言葉を垂れ流してしまう、ということは、藤原氏の文章は、この点で明らかに「大本営発表」に堕している。

 藤原氏は、文章も始まったばかりの311ページにおいて、大きなヘマをやらかす。同じページの2段目の終わりから3段目にかけて、藤原氏は《小中高の教育については、いたるところで声があがり議論が沸騰している。校内暴力とイジメ、そして不登校が問題になったのは80年代だった。現在はもっぱら学力「低下」と安全がテーマとなっている》と述べるけれども、これは正しい。しかし、藤原氏は《筆算で使う円周率が3.14から3でも良いとなったのは、子どもの計算力が落ちたからだといわれている》《なぜ幼児の有様が問題とされなかったのか。OECDが世界の五歳児の「学力」調査を実施しないからか、幼稚園児が園内暴力で注目されたり、「不登園児」が社会問題にならないからだろうか》などと書いてしまう。嗤うべし。まず、前者に関しては、《子どもの計算力が落ちたからだといわれている》と言うけれども、藤原氏はその根拠を示すべきだ。後者に至っては、藤原氏は幼稚園は、我が国においては義務教育ではないということを忘れているようだ。それにしても《園内暴力》《不登園児》なんてものが存在するのだろうか。もし存在するのであれば、幼稚園すらかくも息苦しい空間になっているのか、ということを衝かなければならないはずだが。始まってまだ1ページなのに、ここまで誤認と偏見と疑惑の頻出する文章を、文春の編集部は放置しておいていいのか。

 これ以降も藤原氏は「実例」らしきものを続々と提示するけれども、結局のところこれらの「実例」はただただ不安を煽るだけの叙述である、それが全国的な傾向なのか、ということは結局わからずじまいだ。そして藤原氏は、313ページにおいて、《原因はどこにあるのか?すぐに思い浮かぶのがテレビ、ビデオ、ゲームといった映像機器である》とぶち上げてしまうのである。やはりそうきたか!しかもこの直後、藤原氏は《「ゲーム脳」という言葉を耳にすることも多い》と著述してしまう。《ゲーム脳》!この疑似科学が、専門家からは総スカンを食らい、良心的な臨床家や評論家からは冷笑の的にしかなっていない、いうなれば「曰くつき」の疑似科学であることを、藤原氏は知っているのだろうか。例えば、「ゲーム脳」理論の批判者の一人である精神科医の香山リカ氏は、この「ゲーム脳」理論について述べた、この「ゲーム脳」理論の伝道者である日本大学教授の森昭雄氏の著書『ITに殺される子どもたち』(講談社)の文章における、《本文中、例えばケータイのメールでは「ゲーム脳と同じか、よりひどい状態」になっている、といわれる》(香山リカ、森健[2004])という記述に関して、香山氏は《ところが、ネットに関してはデータがないのか、著者の見解もまとまっていないのか、「ゲーム脳」状態になっているとは言われていない。ただ「人と人との社会的な結びつきとは、直接、ひんぱんに連絡を取り合う結びつきのことなので、ネットのバーチャル・コミュニティではかえって社会性が欠落する」といった感想が述べられているだけにとどまる》(香山・森前掲書)と記述した上で、《しかし、こういった著者の個人的な感想や印象と、誤っているにはせよ、とりあえず科学的には見える「ゲーム脳」の議論とが、それこそ「現実とバーチャルの混同」のように入り混じりながら展開されている》(香山・森前掲書)と反駁している。このような香山氏の批判は、他の多くの「ゲーム脳」ないしそれに酷似した疑似科学の伝道者に当てはまる。藤原氏も然りである。

 事実、藤原氏は《けれどこのゲーム、そしてテレビ、ビデオが、子どもの認知力にどのような影響をおよぼしているのか、はっきりしたことはわかっていない》というけれども、その後に続く言葉は《けれど確かに、幼児の背丈を凌駕するほどの大画面化したテレビを目の当たりにすると、やはり子どもの視覚に何らかの影響があるのではないか、という心配も分からないではない》だとか(《幼児の背丈を凌駕するほどの》テレビなど、買える家庭がどれくらいあるのだろうか、ということは、近くの電気屋に行けば簡単に思いつく疑問ではないか)、あるいは幼児の発達に関する一般論を述べるのだが、藤原氏は、最後まで現実の子供の脳の状態に関して、一言も述べないまま、ただ「今時の子供は脳が異常だ」という前提で話を進めてしまうのである。正気の沙汰だろうか。藤原氏は、そのような論理の運び方もまったく使わずに、ただただ一般論を述べるだけで、結局のところ解決策を示すことはない。この文章が6ページの論文であるとはいえ、この論理はあまりにも暴力的ではないか。

 しかも藤原氏は316ページにおいて、《もう一つ気になることがある》として、以下のように叙述する。曰く、

 ぼくは1955年に生まれた、一人遊びも群れ遊びも存分に経験した。幼稚園は半年しか行かなかった。病欠したまま中退してしまった。それでも南野不自由も孤独感も感じなかったのは、群れ遊びがあふれていたからだ。一日の多くを屋外ですごした。

 現代日本の子供には、この群れ遊びが見事なまでになくなっている。ことに埼玉・東京の連続幼女殺人事件を発端に、神戸の酒鬼薔薇事件以降は、子どもを被害者とする事件の連続的な発生で、子どもの姿が町から消えている。群れ遊びの場がない。

 それは子供の発育にきわめて大きな歪みを与えている気がする。他者とのコミュニケーションと言葉の発達は、この群れ遊びを通じてもっとも培われる。

 いい加減にしてくれ。このような議論は、結局のところ藤原氏の個人的な体験を何の抵抗もないまま一般論として拡大解釈しているだけであって、それがどこまで一般性を持つか、ということはわからない。そもそも藤原氏は過去との比較をまったくせずに、現在の「衝撃的な」事例を提示するだけで、現在の子供たちが過去と比べて劣っている、と述べてしまうのだから、藤原氏の言論に対する倫理観が問われよう、というものだろう。

 ちなみに藤原氏は、後のほうで《ここでいう群れ遊びとは、大人がまったく介在しない「遊び」の時間のことだ》と述べた上で、《保育園や幼稚園の教室でのお遊びは、群れ遊びとは本質的に異なる。子どもは大人の存在に、大人以上に敏感である。なぜなら自分が大人の保護がなければ最終的に生きていかない存在であるということを、「本能的に」知っているからだ。であるからこそ、その大きな存在からはなれたところで……独自の世界をつくる、群れ遊びの役割が大きくなるのだ。それは保護からいったんはなれる「冒険」であり、擬似的に自立を訓練する時間である》と、倒錯した議論をしてしまう。どのように倒錯しているかというと、藤原氏はここまで断定的に語っていながらも、ここで述べられている《群れ遊び》が子供に対していかに心理的な影響を及ぼしているか、そしてそれは《保育園や幼稚園の教室でのお遊び》とどう違うのか、ということをまったく述べることもなく、ただただ《群れ遊び》を絶対善として、《保育園や幼稚園の教室でのお遊び》が自立を促さないものである、と断定しているのである。藤原氏の目に学校教育(義務教育)というものは存在しないのか。

 藤原氏は最後のほうで、《ぼくはレクタス教育研究所の正司さんが最後にいった言葉が忘れられない》として、その言葉を引用する。曰く、《10年まえの子どもたちが、いまここにいたら全員天才児です。それくらい今の子はかつてできていたことが、まったくできなくなっている》と。私は1984年生まれで、執筆時は20歳であるから、私は《10年まえの子ども》の範疇に入るのだろうが、その立場からしても、この言葉は私にとって忘れられない言葉であった。ただし、藤原氏とは別の意味で。なぜなら、このような物言いを過去の事例との提示もないまま言ってしまう、ということが(藤原氏が問い質さなかった、ということも原因なのだが)、このレクタス教育研究所の立場というものを如実に表しているような気がしてならないのだ。

 最後に藤原氏は、このような恐ろしいことを述べる。曰く、《あと20年もすると、そんな幼児たちが成長し、あなたのオフィスの隣の席でパソコンにむかっているかもしれない。そのとき、あなたはどんな話ができるだろうか》と。私は藤原氏に《どんな話ができるだろうか》と苦笑してしまった。なぜなら、藤原氏は、今の子供たちが少しも成長しないまま(あるいは彼らの脳が改善されないまま)大人になって、社会を脅かす、と本気で考えているからだ。藤原氏はここで残酷な認識を易々と披露していることになる。すなわち、今の子供たちは「異常」だから大人になっても「異常」だ、と。

 藤原氏は316ページから317ページにかけて、《幼児の脳が市場化したのだ》として、早期教育を批判する。しかし、ほかならぬ藤原氏の如き言説が、幼児の脳の市場化を促したのである。つまり、子供たちの「凶悪化」だとか「劣化」を嘆くような言説の横行が、世の中の親たち(特に高学歴の親たち、さらに言えばいわゆる「教育ママ」)の不安を増大させ、我が子だけはそういう風にさせまいぞ、という「世論」が増大し、それによって子育てのマニュアルが増大した。そして、子育ての「失敗」が残酷な少年犯罪をもたらす、と国家のレヴェルで平然と語られるようになり、子育ての「失敗」は許されざる愚行となった。東京大学助教授の広田照幸氏は、そのような言説を《多くのマニュアル本やきじは、微妙なやり方で、親たちの不安をつのらせる。「こうしなさい、そうすればきっとうまくいく」という、断定的な口調の裏側にあるのは、「もしこうやらないと、子育てに失敗して、とりかえしのつかないことになりますよ」という、隠れた恫喝を含んでいたりするからである》(広田照幸[2003])と分析しているけれども、結局のところこのような言説の横行は、「今時の「異常な」子供たち」というステレオタイプが背景にないと成り立たないだろう。

 藤原氏の言説は、極めて断定的であり、しかも残酷だ。このような「不安」の扇動が、結局のところ藤原氏が批判する早期教育の横行を許すような言説と同様の文脈で受容されてしまうのは避けられないところであろう。この文章で最も藤原氏が示すべきことは、その解決策だった。しかし藤原氏は、結局のところ自分の「想い出話」を語るだけで、現在の子供たちを「敵」あるいは「エイリアン」「モンスター」として切り捨てて、あいつらは俺たちとは違うんだ、という感情を増幅しているとはいえまいか。もし、現在の子供たちが数年後に、早々問題も起こさずにそれなりに個性的に成長したら、藤原氏は大人としてどのように身を処するのか。

 ちなみにこの文章の中ごろを書いているとき、私の傍らのCDラジカセから声優の皆川純子氏が歌う「TRUTH」という曲(皆川氏のアルバム「アイコトバ」(キングレコード)に収録)が流れていた。この曲は皆川氏の作詞であるのだが、その中に《大人になればなるほど 大切な感情(もの)が零れてく》というフレーズがある。藤原氏は、「世間」に迎合して現在の子供たちに対する敵愾心を垂れ流す「大人」になることで、大切なこと、すなわち自分の体験を過度に一般化しないことや、巷で流れている「危機」言説を鵜呑みにしないことを忘れてしまっている。藤原氏は、社会的に責任のある大人として、自らの言説の危険性をもう一度見直していただきたい。

 参考文献・資料
 石原慎太郎[2005]
 石原慎太郎「仮想と虚妄の時代」=「文藝春秋」2005年5月号、文藝春秋
 香山リカ、森健[2004]
 香山リカ、森健『ネット王子とケータイ姫』中公新書ラクレ、2004年11月
 広田照幸[2003]
 広田照幸『教育には何ができないか』春秋社、2003年2月
 藤原智美[2005]
 藤原智美「目をつむれない子どもたち」=「文藝春秋」2005年5月号、文藝春秋

 市川伸一『考えることの科学』中公新書、1997年2月
 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 苅谷剛彦、西研『考えあう技術』ちくま新書、2005年3月
 斎藤環『心理学化する社会』PHP研究所、2003年10月
 佐々木正人『知性はどこに生まれるか』講談社現代新書、1996年12月
 日垣隆『現代日本の問題集』講談社現代新書、2004年6月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月

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2005年4月24日 (日)

俗流若者論ケースファイル16・浜田敬子&森昭雄

 どうも最近の傾向として、青少年問題を「脳」と結び付けて考えるのが流行っているらしい。特にその「脳」に対して悪影響を及ぼすのが、一様にテレビだとかゲームだとか携帯電話だとかに傾いているのもまた不思議である。このような短絡した考え方が広まったのは、過去にも何度かあるのだろうが、特に最近のものとしては、例えば北海道大学教授の澤口俊之氏が「今時の若者」の「問題行動」を前頭葉の異常と強引に結びつけたりとか、あるいは上智大学名誉教授の福島章氏が事件を起こした少年犯罪者に脳の異常が見られた、ということを喧伝してから起こったと思う。これらの議論に関しては、例えば評論家の宮崎哲弥氏や精神科医の斎藤環氏などが集中的に批判しているけれども、これらの議論が受け入れられる基盤はどうやら磐石であるようだ。また、彼らは「今時の若者」の「脳」については易々と語るのに、それ以上に問題のある人物、例えばブッシュや金正日や小泉純一郎の「脳」にはまったく触れない。そのあたりの「政治的配慮」は得意なのだろう。

 そのムーヴメントの中心にいるのが、曲学阿世の徒、日本大学教授の森昭雄氏であることには疑いはないだろう。過去に森氏を批判したときにも述べたが、森氏は平成14年に『ゲーム脳の恐怖』なる本を出版し、大々的なゲーム批判を呼び起こした。滑稽なのは、その出版にあたって一部の新聞や雑誌がそれの宣伝と見られても仕方がない記事を書いたことだ。私の記憶している限りでは、そのような行為を行なったのは毎日新聞と、朝日新聞の週刊誌「AERA」であるが、今回はその「AERA」の宣伝記事を検証してみよう。この記事の執筆者は、同誌編集部の浜田敬子氏である。記事のタイトルは「TVが子供の脳を壊す」(平成14年7月15日号掲載)。衝撃的だ。記事の内容はそれにも増して衝撃的だが。

 冒頭、浜田氏は、兵庫県朝来町立山口小学校教諭(当時)の陰山英男氏が、《授業中に視線が宙を浮遊するようにボーッとしたままの子がクラスに3、4人は残る。そういう子は、テストでたまに90点をとっても、次はガタッと落ちるし、忘れ物も多い》(浜田敬子[2002a]、以下、断りがないなら同様)ことに関して、《陰山英男さんが、彼らの共通点に気付いたのは、ある生徒を家庭訪問したときのこと。昼夜問わず、いつ訪れても大音量でテレビがつけっぱなし。効果が上がらない生徒たちは、例外なく1日2時間以上テレビを見ていた》ということを紹介し、浜田氏もそれに同調しているようだ。しかし、陰山氏及び浜田氏に問い質したいのは、効果が上がっている生徒に関してもテレビの視聴時間を計測したのだろうか、ということである。そのようなデータもなしに、陰山氏の「実感」(事実、浜田氏は、後に《「死長時間が1時間半を超えると、基礎学習のプラス効果が相殺される気がする」と影山さんは「実感」している》と書く)がさも正しいものであるかのように論ずるのは、科学的なことを記事化する者としての資質を書いている、といわれても仕方がないだろう。

 もう一つ、浜田氏は、陰山氏がらみに関して言うと、《影山さんの、「これではテレビ学校に通っている状態(筆者注:ベネッセ教育総研によると、小学5年生の平日のテレビの平均視聴時間は162分であるという。休日などの影響を考えて計算すると1年で約730時間になり――浜田氏の試算。1日2時間として計算している――学習指導要領で定められている授業時間=700時間を上回る)。その影響力に授業が勝つには時間制限しかない。テレビを見ないようにできたら、学力向上の半分は達成できたと同然」と言う言葉には説得力がある》と書く。残念ながら、説得力はない。というのも、もしそれが正しいのであれば、陰山氏が事例として出している《3、4人》どころでは済まないからだ。しかも、どこまでもテレビ視聴時間以外の実例がなく、ただ不安だけ絵を煽る文章になっている。また、これが正しいなら、子供たちは休日や長期休暇を境に一気に学力が低下してしまうはずだ。しかし陰山氏は強気ならしく、最近「ディスプレー症候群」なる珍概念を発明してしまった。そして、公明党の国会議員である池坊保子氏が平成17年3月15日の「青少年問題に関する特別委員会」でこの珍概念を使っている(ちなみに池坊氏は、同委員会の理事である)。

 閑話休題、浜田氏の記事の検証に戻ろう。浜田氏は9ページの(ちなみにこの記事は巻頭記事である)4段目から5段目にかけて、東北大学教授の川島隆太氏の《テレビが子供の能に及ぼす影響についての科学的なデータはまだ世界的にもない。子供の脳がどう発達していくかの研究もこれから》というコメントを引くけれども、そのような事実はお構いなしで、しかし科学的な実証に裏付けられたわけではなく、ただ「実感」だけで話を進めてしまっているのである。ちなみにこの記事において採り上げられている学者である、清川輝基(NHK放送文化研究所専門委員)、片岡直樹(川崎医科大学教授)、澤口俊之(北海道大学教授)、そして森昭雄(日本大学教授)の各氏は、特に「ゲーム脳」の批判者から極めて問題の多い学者であると指弾されている。

 さて、浜田氏は9ページの5段目から10ページの2段目にかけて、片岡氏が診断した子供について触れている。これらに関して、浜田氏は、《テレビ・ビデオ漬けの生活で、「新しいタイプの言葉遅れ」が増えていると感じる》という片岡氏の言葉を引くけれども、これも結局は片岡氏の「実感」に過ぎず、《新しいタイプの言葉遅れ》と《テレビ・ビデオ漬けの生活》が有意に相関関係にあるのか、ということに関する実証的な研究の有無を浜田氏は問い質すべきだろう。しかし、浜田氏はそのようなことをせず、ただただ片岡氏などに同調してしまう。

 さて、ここからが本番である。浜田氏はついに『ゲーム脳の恐怖』について語りだす。しかし面白いのは、浜田氏が「ゲーム脳」に関して語り始めたはじめのほう、10ページの最後から11ページの最初にかけて、《実験のきっかけにもなった、脳は測定器の開発担当者は全員、脳の前頭前野が活発に活動している際に出るβ波がほとんど出ていなかった。1日じゅう画面に向かって座り、だれとも口をきかず、指先だけ動かす状況はゲーム時と酷似している。相手がパソコンでも、「劣化」は起きていたのだ》と語ってしまうことである。だったら、そのような人が作った人が作った計測器自体、信用できないではないか。また、浜田氏は《ゲーム時と酷似している》状況を《1日じゅう画面に向かって座り、だれとも口をきかず、指先だけ動かす状況》と書いているけれども、よほどジャンキーなゲーマーでない限り、そのようなことは絶対無いだろう。

 この記事においては、なんと浜田氏も森氏の「診断」を受けてしまう。その結果、浜田氏の脳は、《典型的なビジュアル脳(筆者注:森氏は「ノーマル脳」「ビジュアル脳」「半ゲーム脳」「ゲーム脳」の4つの分類を用いている)》だったという。浜田氏は《テレビは見るが、ゲームはしないのに…》と嘆くけれども、《1日数時間パソコンに向かっていれば同じ》と言われて納得してしまう。ここで浜田氏は疑問を挟まなかったのだろうか。どうしてテレビやゲームよりも、パソコンの影響のほうが「弱い」のか、と。おそらく浜田氏は1日数時間パソコンに向かっているのだろうが、それによる脳の「劣化」の度合いが《ビジュアル脳》止まりだというのは、どう考えても不可解ではないか。浜田氏は、10ページの上のほうで、パソコンに関して《ゲーム時と酷似している》と述べているのに。これでは「大本営発表」ではないか。

 しかし浜田氏は止まらない。浜田氏は、「AERA」の平成14年10月7日号において、さらに「携帯メールが脳を壊す」なる記事を書いてしまい、しかもここにも森氏が登場しているのだ。

 浜田氏は、《ゲームもせず、テレビもほとんど見ないのに、なぜか「ゲーム脳」という男子大学生がいた。聞けば、1日に携帯メールを2時間以上。友達との会話のほとんどがメール、という生活だった》(これ以降は浜田敬子[2002b]、以下、断りがないなら同様)と書いている。この1例だけで、携帯電話の使いすぎが「ゲーム脳」を招く、というのは至極短絡的だろう。しかもこの後、浜田氏は《携帯メールは、文章を作るので一軒頭で考えているようですが、実際は挨拶程度や単語の羅列に近く、文章とはいえないものも多い。文字を画像として認識し、反射的にボタンを押しているから、テレビゲームに近いんです》という森氏の言葉を引いているけれども、結局のところこれは単なるステレオタイプに過ぎないのではないか。蛇足だが、森氏は同じステレオタイプを、2年半年後に「潮」の平成17年4月号で性懲りもなく書いている(森昭雄[2005])。

 しかも面白いことに、浜田氏はその直後に《1日10時間メールをするという女子高生は、ゲーム経験がないのに「半ゲーム脳」》と書いてしまう。しかし、この直前の男子大学生に関する記述と照合すれば、《2時間以上》では《ゲーム脳》になるが、《1日10時間》だと《半ゲーム脳》に過ぎない、という結果が導き出されてしまう。24時間なら《ノーマル脳》なのだろうか。しかし、浜田氏は、そのようなことに関してまったく考えていないようだ。さすが「大本営発表」、浜田氏はほとんど森氏の広告塔と化している。

 さらに浜田氏は《中には1日にテレビを1、2時間、ゲームも1時間、携帯メール1時間という電子メディア大好きの女子高生もいたのだが、以外にも「ノーマル脳」。ゲーム脳や半ゲーム脳だった子との違いは、メール以外にも友達と直接しゃべる時間が長いという点だった》という記述も持ってくる。「ゲーム脳」に関して、浜田氏は混乱しなかったのだろうか。ここまで結果に違いが見られると、むしろ浜田氏がよって立つ「ゲーム脳」理論は崩壊してしまうと考えるのが自然ではないか。浜田氏は《逆にメールやゲームをやっていても、それ以上に他人と直接会話をしていれば、その間前頭前野も働くから、影響が小さい》という森氏の言葉を引くけれども、私はそのように自信満々に語る森氏に対して気色の悪さを覚える。

 もう一つ、浜田氏は平成14年10月7日号の記事、すなわち「携帯メールが脳を壊す」の17ページ3段目において、《記憶力のテストもした。6桁の数字を1秒表示して、何人が覚えているか。100人中ほとんどの生徒が覚えられなかった》というけれども、《100人》なんてどこから出てきた数字なのだろうか。それを示す記述がまったく見当たらないのが不思議である。

 これほどまでに矛盾と誤認の多い「ゲーム脳」理論なのに、浜田氏はそれをまったく疑おうとしない。それが理由なのだろうか、浜田氏の記述には、かなりの論理的な混乱が見られる。結局のところ、このような駄文が生まれてしまう最大の背景には、浜田氏が青少年問題の「原因」を「脳」に過剰に求めている、ということが挙げられよう。しかし、「今時の若者」の「問題行動」を大々的に採り上げ、それらを「脳」の問題として処理してしまうことは、本当に脳に障害の持った人に対する差別につながらないか。

 この点においては、「TVが子供の脳を壊す」に寄せた、宮崎哲弥氏の批判的コメントが最も浜田氏の2本の記事の問題点を言い当てている。

 あのね、テレビ有害論っていうのは、私がガキの頃からあったの。いま猖獗を極めている「学力低下」不安に乗じて、ちょっとばかし有名になりたい、小金を稼ぎたい学者どもが、大昔のテレビ有害論をヴァージョンアップして持ち出しているんやろ。

 テレビを長時間視聴すると言語能力が発達しない?私は母子家庭で一人っ子だったため、物心がつく頃からテレビ漬けの幼少期を過ごした。で、いま言葉で商売しておりますが何か?

 「AERA」ってのは不安煽り産業なのかね?(宮崎哲弥[2002])

 我が国においては、もはや「脳」は人体の器官ではなくイデオロギーである。「脳」が人間性を規定し、人間の社会性を規定し、そして社会を規定する。「脳」の「健康」を脅かすもの、例えばゲームや携帯電話などは「敵」として排除され、その影響を受けた者は「ゲーム脳」などの大義名分において「廃人」扱いされる。そのような状況に、まったく異議を挟まないマスコミが百鬼夜行し、「善良な」人たちの排外的共同体の下で大々的なゲーム狩り、携帯電話狩りが行なわれる(現実にはゲーム、携帯電話そのものではなく、むしろその影響を受けた者が狩られる)。こうして、人々が「正しい」脳という幻想に駆り立てられる一方で(ダイエット幻想と同じであろう)、差別思想もまたはびこる。このような状況が収まるのを座して待つか、それとも科学と市民の良心で各個撃破していくか。

 参考文献・資料
 浜田敬子[2002a]
 浜田敬子「TVが子供の脳を壊す」=「AERA」2002年7月15日号、朝日新聞社
 浜田敬子[2002b]
 浜田敬子「携帯メールが脳を壊す」=「AERA」2002年10月7日号、朝日新聞社
 宮崎哲弥[2002]
 宮崎哲弥「網だな倶楽部 宮崎哲弥の週刊誌時評」第29回「そんなウブなガキがいるかぁ」=「論座」2002年9月号、朝日新聞社
 森昭雄[2005]
 森昭雄「“ゲーム脳”に冒される現代人」=「潮」2005年4月号、潮出版社

 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 斎藤環『心理学化する社会』PHP研究所、2003年10月
 ロルフ・デーゲン、赤根洋子:訳『フロイト先生のウソ』2003年1月、文春文庫
 広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書、1999年4月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月

 大和久将志「欲望する脳 心を造りだす」=「AERA」2003年1月13日号、朝日新聞社
 佐藤修史「バカへの恐怖 脳磨きに励む」=「AERA」2004年9月27日号、朝日新聞社
 瀬川茂子、野村昌二、宮嶋美紀「B型をいじめるな」=「AERA」2005年1月24日号、朝日新聞社
 田岡俊次「痩せ願望は現代の纏足だ」=「AERA」2002年9月9日号、朝日新聞社
 鷲田清一「「正しい声」「正しい体」の危うさ」=「中央公論」2002年11月号、中央公論新社

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2005年4月19日 (火)

俗流若者論ケースファイル13・南野知恵子&佐藤錬&水島広子

 それにしても、最近活躍している、特に保守系の人々による青少年問題に関する言論とか、あるいは現在進められている青少年政策に関する議事録や記者会見の文章を読んでいると面白い。例えば、この2回前で採り上げた、東京都知事の石原慎太郎氏が「文藝春秋」平成17年5月号に書いた「衝撃の現代若者論」は、社会を覆う現実にはまったく触れず、それを「本質が崩壊した状態」と易々と語ってしまい(そもそも「本質」というのが何なのかわからない。結局は自意識の問題ではないのか)、挙句の果てには北朝鮮拉致事件の被害者家族に極めて失礼な暴言を吐いたり(北朝鮮に拉致された同胞はもはや生きていない、と考えるのが常識なのだそうな)とか、あるいは擬似脳科学に走ってしまったりと(この人にとって脳幹は国家である)、もうそこらじゅうに突っ込みどころが満載であった。無論、読んでいる内は笑ったのだが、読んで検証したあとは薄ら寒い気持ちが私の中を走った。この人に青少年政策をさせておいて、本当にいいのだろうか、国益には反しないのだろうか、と。前回採り上げた、神奈川県の松沢成文知事に関しても、まあ石原氏よりは問題は小さいものの、それでも現在の少年犯罪の実情やゲームに関する無理解、そしてゲームの規制に強引に結び付けてしまう、という姿勢には、やはり疑問を感じ得なかった。

 今回はそれらを追及するシリーズ(だったのか)の第3回である。今回検証するのは、平成17年3月15日に行なわれた、「青少年問題に関する特別委員会」における、法務大臣にして青少年育成及び少子化担当大臣の南野知恵子氏と、自民党の佐藤錬議員のやり取り、そして南野氏と民主党の水島広子議員のやり取りである。この2つのやり取りに関しては、この委員会における全てのやり取りの冒頭の2つである。南野氏と佐藤氏のやり取りは、一部ではメディア規制に関して触れているものの、メインとなるのは佐藤氏の現在の青少年や教育に関する、もはや笑うしかない認識である。ここでは、主に佐藤氏の発言がメインであるが、南野氏もまた佐藤氏の論理矛盾を指摘しない。後者の南野氏と水島氏のやり取りは南野氏はこれに関しては特に問題のある発言をしていないが、水島氏が問題のある節をさも当たり前であるかのように語っている。なので、後半に関しては、水島氏の発言の検証を行なう。

 まず、佐藤氏と南野氏のやり取りから見ていこう。

 佐藤氏は、冒頭いきなり、《我が国はことし、さきの大戦、すなわち大東亜戦争、太平洋戦争に敗れてから六十年。まさに戦後還暦。重要な時代の節目であり、原点に返る年であります》と発言する。これに関しては異存はない。我が国は今年戦後60年を迎え、改めて大東亜戦争や戦後に関して振り返ってみる必要があろう。それ自体は否定しない。

 しかし、佐藤氏は、東京大空襲の惨状や米国の戦争責任に関して述べた後、こう言ってしまう。曰く、《今日に至るも、あの東京裁判史観の呪縛が、靖国神社参拝問題や歴史教科書問題を初め、いかに強く日本社会の歴史認識をゆがめているか。日本の未来を担う青少年に余りにも過度な自虐史観を教えてきた戦後、日本民族の歴史、伝統、文化に自信と誇りを持たせないように教えてきた戦後、先祖、先達に感謝と敬意を持たせないように教えてきた戦後、もうそろそろ、ことしこそ、戦後の終わり、そして日本再生のきっかけをつかみたいものだ、本当にそう思っております》と。このような認識を持つ人は、青少年問題を本気で考えているのではなく、むしろイデオロギー闘争の道具としてしか考えていない、ということを、もう我々は広く知っておいたほうが良いのではないか。佐藤氏、そして佐藤氏と同じような考えを持つ人たちにとって、現実に起こっている青少年問題は、《過度な自虐史観を教えてきた戦後、日本民族の歴史、伝統、文化に自信と誇りを持たせないように教えてきた戦後、先祖、先達に感謝と敬意を持たせないように教えてきた戦後》に責任を押し付けるための責任転換の論理であり、それを取り除くことは、《あの東京裁判史観の呪縛》からの克服を意味し、そして《戦後の終わり、そして日本再生のきっかけ》をもたらしてくれる、というヒロイックな幻想をもたらしてくれる単なる舞台装置に過ぎない。

 ちなみに私見によれば、「新しい歴史教科書をつくる会」をめぐる騒擾や、教育基本法の改正論の最大の功績は、歴史教育を巡る問題のほとんど全てが、それを論じる側の自意識の問題として還元しうる、という明確な事実を白日の下に晒したことである。これは「つくる会」や教育基本法の改正案に賛同する側にしろ反対する側にしろ、変わらないことである。彼らは自分の持つ「正義」を信じて疑わず、彼らの持つ共同幻想に子供たちを従わせることによって、自分の信奉するイデオロギーの「勝利」を確信することを目的としていることに疑いはない、多分。歴史認識(あるいは歴史教育論)と自意識の問題に関しては、東北大学助教授の小田中直樹氏が、いわゆる従軍慰安婦問題に引き寄せて詳しく語っているのでそちらを参照していただきたいのだが(小田中直樹[2004])、歴史教育が国民の自意識やアイデンティティの問題と切り離すことができない以上、それを語る言説もまた自意識の問題からのアプローチが必要なのではないか、と私は思っている。

 閑話休題、佐藤氏の言説の検証を続けよう。佐藤氏曰く、《我が国民は、多くの戦没者の犠牲の上に、平和で豊かな繁栄を築き上げました。復興から高度成長へと経済至上主義、モノ・カネ文明の開化、そして経済大国からバブルへと続いた時代に、何か大切なものを、すなわち私たちの祖先がはぐくんできた大切な伝統や価値観、これを失ってきたのではないでしょうか。それは、武士道などの日本精神の崩壊であり、損得そろばん勘定を超える価値や生きざまの軽視なのだろうと思います。さらに、家族のきずなや地域社会の触れ合い、祖先を敬う心や郷土と国を愛する気持ち、そして、その愛するものを守るために自分は戦うという気概と覚悟などであります》と。このような発言の欺瞞性に関しては、都市計画や国土計画に関して、耳学問程度でも知っていれば簡単に論駁できる。なぜなら、佐藤氏言うところの《経済至上主義、モノ・カネ文明の開化、そして経済大国からバブルへと続いた時代》を主導してきたのは、ほかならぬ自民党、例えば池田勇人「所得倍増計画」や、田中角栄「日本列島改造論」、そして中曾根康弘首相の規制緩和策であるからだ。その主導の下で、地域を破壊し、郊外に均質的な空間ばかりもたらし、誤った食料政策によって農村から仕事を奪ってきた自民党政権が、その反省をせずに易々とこんなことを言えるようになってしまっていることにこそ、私は歴史を学ぶことの重要性を痛烈に感じる。また、《武士道などの日本精神の崩壊》だとか、《損得そろばん勘定を超える価値や生きざまの軽視》だとか言われても、佐藤氏がその実例を出さないから、何を言っているのかわからない、極めて「論壇的」な言説になっている。このような言説によって、現実の青少年の行動が規定されることのほうが、私にとってはよほど恐ろしいことに思えてならない。

 青少年問題を「伝統精神の崩壊」みたいな文脈で語ることは、二つの問題をはらんでいる。第一に、社会構造の問題から目をそらさせてしまうことである。これに関しては、戦後自民党が利権の下に推し進めてき