2005年12月 4日 (日)

トラックバック雑記文・05年12月04日

 今回のトラックバック:「えのき」/古鳥羽護/克森淳/赤木智弘/保坂展人/「目に映る21世紀」/「性犯罪報道と『オタク叩き』検証」/本田由紀/「海邦高校鴻巣分校」/「ヤースのへんしん」/栗山光司/木村剛

 先日(平成17年12月2日)、平成18年仙台市成人式実行委員会の最後の会議が開かれたのですが…

 えのき:来年の成人式に注目
 なんと平成17年仙台市成人式実行委員会の人が来てくれたのですよ。このエントリーの書き手もその一人です。来てくれた人は、伊藤洋介・平成17年仙台市成人式実行委員会委員長他5名(1人は会議開始前に帰宅し、会議中にもう1人帰ってしまいましたが)。あー、ちなみに文中の《ごっと》とは俺のことだ。リンク貼ってくれよ(嘘)。

 それにしても世間は狭いもので、今年2月に書いた「私の体験的成人式論」で採り上げた、平成17年の成人式の第2部における、私がチーフだったブースのスタッフの内、小学校の教師と当日スタッフ1人が今回の実行委員になってしまっている(笑)。

 閑話休題、このエントリーでも書かれているのですが、平成17年仙台市成人式実行委員会は、組織としては消えておりますけれども、実行委員(「元実行委員」かな?)の繋がりはいまだに途絶えていない。今年6月の頭ごろにも飲み会を行ないました(そこで元気をもらって一気に執筆したのが「壊れる日本人と差別する柳田邦男」だったりする)。私は最初は実行委員会に参加することで成人式報道が隠蔽している部分を見てやろう、と思って実行委員会に殴りこんだのですが、終わってみると様々な出会いを経験できたり、先日の会議でもいろいろと近況を話すことができたりと、得られたものは大きかった。

 昨今の「コミュニケーション能力」だとか「人間力」だとか重視みたいな風潮とか(このような風潮に対する理論的な批判は、本田由紀『多元化する「能力」と日本社会』(NTT出版)を是非!)「コミュニケーション能力が低いと「下流」になるぞ!」みたいなレイシズムとかは嫌いなのですが、やっぱり人間関係の重要さは否定し得ない。

 さて、また幼い子供が被害者となる残酷な事件が起こってしまいました。被害者の方のご冥福をお祈りします。しかし…

 フィギュア萌え族(仮)犯行説問題ブログ版:勝谷誠彦氏、広島小1女児殺害事件の犯人が「子供をフィギュアの様に扱っている」と発言。(古鳥羽護氏)
 走れ小心者 in Disguise!:素人探偵になりたくないのに…(克森淳氏)

 私が事件の犯人と同様に腹が立つのは、事件にかこつけて好き勝手プロファイリングを行っている自称「識者」たちです。現在発売中の「週刊文春」によると、上智大学名誉教授の福島章氏によれば、岡山の事件の犯人は犯人は幼い頃から暴力的表現に慣れ親しんできた若い世代だそうで(福島氏については「俗流若者論ケースファイル」の第3回第32回も参照されたし)。そして実際につかまってみればそれとはかなり違う人物像だったし、もしかしたら冤罪の可能性もあるかもしれない。

 元来プロファイリングとは、この分野の第一人者である社会安全研究財団研究主幹の渡辺昭一氏によれば、行動科学によって《蓄積された知見に基づいて、犯罪捜査に活用可能な形で情報を提供しようとする》(渡辺昭一『犯罪者プロファイリング』角川Oneテーマ21、39ページ)ことを指すそうです。更にこの手法は《事件を解決したり、容疑者のリストを提示したりするわけでは》なく、《確率論的に可能性の高い犯人像を示すもので、捜査を効率的に進めるための捜査支援ツールの一つ》(前掲書、40ページ)に過ぎないそうです。しかしマスコミ上で行なわれる「プロファイリング」は、結局のところ自分の主義主張に合わない人をバッシングするための方便にすぎない。ついでに、これは渡辺氏の著書の19ページ周辺にも述べられていますが、暴力的な映像の視聴が直接的に暴力的な行動につながる、ということは証明されていませんからね(宮台真司『宮台真司interviews』世界書院、も参照されたし)。

 古鳥羽護氏のエントリーによれば、今度は勝谷誠彦氏が「フィギュア萌え族」的な発言をしたそうです。この手の犯罪が起こるたびに、マスコミは犯人像を「不気味な存在」とか「モンスター」だとか、あるいは事件を「現代社会の歪み」だとか捉えたがりますが、私が見る限り、ここ最近2件の殺人・死体遺棄事件、及び昨年末の女子児童誘拐殺人事件は、かなり典型的な誘拐殺人であるように思えます。もちろんこのような推理も私の勝手な「プロファイリング」には違いないのですが、少なくとも事件に対して「不気味」「不可解」だとか唱和するのではなく、典型的な事件とどこが違うのか証明してくれませんか?事件が大筋で典型的なものであるとわかれば、それらの事件の傾向を分析し、目撃証言と照合すれば、おそらく1週間くらいで犯人はつかまるのではないかと思います。

 少なくとも少女に限らず子供が誘拐される事件は昔からあったでしょうし、今の事件(誘拐に限らず!)だけが「不可解」というわけでもないでしょう。

 そう考えてみますと、「安心」を壊しているのはマスコミなのかもしれません。12月3日付読売新聞の社会面の見出しが「また幼女が被害者に」みたいなものでしたけれども、このような見出しにすることによって、「幼女しか性的対象にできない歪んだ男が増えている」みたいな世論を造りたいのではないか、と考えるのはうがち過ぎか。

 深夜のシマネコBlog:高木浩光@自宅の日記より、まず神話を作り、次に神話は崩壊した!と叫ぶマスコミ(赤木智弘氏)

 少年及び若年層による凶悪犯罪に関して言えば、我が国ではいまだに安全(少年による凶悪事件に遭遇しないという意味での「安全」)は保たれているといえます。しかしマスコミでは「少年犯罪が凶悪化している」という唱和ばかり。そもそもそのような扇動に走るマスコミは、現在のことばかりに終始して、過去にどれほど犯罪などが起こっていたかということは見ていない。ある意味、「カーニヴァル化する社会」(鈴木謙介氏)という言葉は、むしろ昨今のマスコミにも言えるのかもしれない。

 もう一つ、このような事件に対する報道は、ある意味では「子供の自由」という問題もかなりはらんでいるように見えます。

 深夜のシマネコBlog:児童虐待を本当に根絶するために。(赤木智弘氏)
 最近では保坂展人氏(衆議院議員・社民党)すら《もっとも具体的な方法は、子どもをひとりで、ないし子どもだけで登下校させないことだ。たとえ社会的コストがつきまとっても実現すべきなのかもしれない》(保坂展人のどこどこ日記:格差社会と子どもの「安全」)と言ってしまっていますが、殺人という特殊な危機のために、子供の行動を全般的に制限する必要はあるのでしょうか。

 まず、すなわち子供は一人でいると危険だから常に親が付き合うべきだ、みたいな論理が許されるのであれば、危険は何も登下校中のみに潜んでいるわけではないでしょう。その点から言えば、例えば子供が一人で友達の家に遊びに行く際も親が付き添っていなければならない、ということになりますが、それは子供にとって、あるいは親にとってプラスといえるかどうか。また、子供が常に親の監視下におかれることによって、例えば子供がどこかに寄り道したりとかいった体験を殺してしまうことにはならないか。

 ただし犯罪を防ぐための施策として、公共的な場所や街路の監視性・透明性を高めておく必要はあると思います。例えば私が東京に行って、ある住宅地を歩いたときの話ですが、その住宅地の近くには活気のある商店街があり、そこはなかなか味があってよかったのですが、商店街や大きな道路から少しでも外れると街灯が少なく、更にかなり塀に囲まれて見通しの悪い場所で、もしかしたら誰かに刺されるかもしれないと思っていました。誘拐事件の多くも路上が現場となっているようですので、路上の監視性を高めておく、という施策はやるべきでしょう。

 ついでに、保坂氏のエントリーでは、タイトルが「格差社会と子どもの「安全」」であるにもかかわらず肝心の「格差社会」については最後のほうでエクスキューズ程度に触れられているだけです。しかし「格差社会」論から犯罪予防のヒントを探るとすれば、様々な社会的階層の人が社会的に排除されているという感覚をコミュニティによってなくしていく、ということが挙げられるでしょう。そのためには、不安ではなく信頼をベースにした多くの人が参加できるコミュニティの形成、あるいは社会的に排除されている(と感じている)人とかあるいは特定の社会階層の人が帰属意識を持つことのできる副次的なコミュニティの形成が必要となります。

 ちなみに皇學館大学助教授の森真一氏の著書『日本はなぜ諍いの多い国になったのか』(中公新書ラクレ)の最終章の最後のほうで、農漁村にかつて存在していた「若者組」だとか「若者宿」みたいな若年層のコミュニティに入っていた人が散々非行をしても、いざコミュニティを脱退するとすっかり非行をやめてしまい、消防団長や懲戒議員などにやって若年層の非行に眉をひそめるようになる、ということが紹介されています。森氏は、このことについて《かつての地域社会や年長者は「限度ギリギリまで、社会的なルールを無視する行為を若者たちに許す場を提供」しました。他方、現代の年長者はそのような時代が存在したことを忘れ、「社会的なルールを無視する」若者の行動を、予定調和を乱す「リスク」「コスト」としか見なさなくなったのです》(森真一『日本はなぜ諍いの多い国になったのか』中公新書ラクレ、233ページ)と分析しておりますが、この話は、「セキュリティ・タウン」的な、あるいは「ゼロ・トレランス」的な風潮が強まる我が国の状況において批判的な視座を投げかけるかもしれません。

 話は変わって、最近の「「萌え」ブーム」なるものに関する話題ですが…

 目に映る21世紀:【キールとトーク】おたく男・女/恋愛資本主義/『下流社会』/見えない消費と、余裕のある僕ら(←「下流社会」論に関して真っ当な批判あり)
 性犯罪報道と『オタク叩き』検証:11月1日『ザ・ワイド』・リベラが「遭遇した」コスプレダンサー、『電車男』にも登場

 私は正直言って最近の「「萌え」ブーム」なるものがあまり好きではありません。基本的に「オタク文化」的なものは認めますが、それでも昨今のブームには疑問を持たざるを得ない。

 疑問点その1。「萌え関連企業が急上昇!」みたいなことを言う人が多すぎますけれども、所詮そのようなことは他の業種の売上が下がって、相対的にオタク産業が浮上してきたとしかいえない。従って「急上昇」みたいな言い方はあまり好ましくないように思える。
 疑問点その2。「目に映る21世紀」における《うぜえ・・・。結局、今回の萌えバブルやらオタクブームって差別の再生産をしただけにしか感じられん》というくだりについて、これに激しく同意。私はテレビにおいて何度か「オタク」が採り上げられた番組を見たことがありますが、それらの番組はことごとく「遠まわしな差別感」に彩られていた感触があった(例えば、平成17年11月24日のTBS系列「うたばん」)。そもそも「オタク」=「電車男」みたいな傾向も強い。「電車男」については私は本も読んでいないし映画もドラマも見ていないけれども。これを強く認識したのは「トリビアの泉」(平成17年8月24日)だったかな。人助けを笑いものにする、というのは、まさしく検証対象が「オタク」でなかったらできなかったと思う。

 現在のマスコミにおいて、冷静に「オタク」を採り上げることのできるのは、朝日新聞社の「AERA」編集部の福井洋平氏と有吉由香氏くらいしかいないのではないかというのが私見です。福井氏は「AERA」平成16年12月13日号で「アキハバラ 萌えるバザール」という記事を書いている。有吉氏は同誌平成17年6月20日号で、ライターの杉浦由美子氏と共に「萌える女オタク」という記事を書いています。それらの記事はあまり「オタク」を見下した態度をとらず、筆致は熱がこもっているけれども冷静さも保っている。他方で「AERA」は「独身女に教える男の萌えポイント」(伊東武彦、平成17年8月29日号)とか「負け犬女性に贈る「ツンデレ」指南」(内山洋紀、福井洋平、平成17年10月17日号)みたいな記事も書いているからなあ…。しかし「AERA」の「オタク」報道が他の週刊誌とはかなり一線を画しているのも確か(「読売ウィークリー」に至っては、副編集長自ら「「オタク」は絶望的な男」と言っているし)。そのうち、体系的に評価してみる必要があるでしょう(とりあえず記事はそろえてあります)。

 「人間力」という名の勘違い、まだまだ続く。

 もじれの日々:独り言(本田由紀氏:東京大学助教授)
 海邦高校鴻巣分校:「人間力運動」は即刻解散せよ

 「若者の人間力を高めるための国民運動」が「応援メッセージ」を発表しました。「海邦高校鴻巣分校」はこれらの「メッセージ」について、建築評論家の渡辺豊和氏の言葉を引いて「平凡な学生の課題案よりひどい」と述べておりますが、私はこれ以上の内容は期待していなかったので、おおよそ期待通りのものが出てきた、というのが正直な感想です。
 しかし山田昌弘氏(東京学芸大学教授)の「メッセージ」には注意を喚起しておきたい。

 今後社会が不安定化していくのでそのなかでも上手く立ち回れるような能力をつけて欲しいことと、自分のことを評価してくれるようなネットワーク、人間関係を大切にして欲しいですね。

 要するに組織に波風を立てずに従順に生きていけ、ということですか?このような言説は、前出の森真一氏が著書『自己コントロールの檻』(講談社選書メチエ)でつとに批判していることですが、社会が流動化し、職場や組織の往来が活発になると、個人には慣れ親しんだ会社や組織に対する思い入れを排除し、新しい職場環境に適切に移動する能力が求められるようになる、という傾向に、山田氏も組していることになる。

 本田由紀氏も、最初のほうで採り上げた『多元化する「能力」と日本社会』という著書において、昨今の「人間力」重視的な風潮を批判しており、「コミュニケーション能力」とか、あるいはそれこそ「人間力」みたいな《「ポスト近代型能力」の重要化とは、個々人の人格全体が社会に動員されるようになることに等し》く、そのような能力を要求する社会(本田氏言うところの「ハイパー・メリトクラシー」)の下では《個々人の何もかもをむき出しにしようとする視線が社会に充満することになる》(以上、本田由紀『多元化する「能力」と日本社会』NTT出版、248ページ)。このような「人間力」重視の社会背景を注視するために、森氏と本田氏の議論は必見でしょう。

 

ヤースのへんしん:耐震対策は早急に!
 「姉歯」叩きの裏で、あまり注目されていないのが公共施設の吊り天井。平成17年12月1日付の読売新聞宮城県版によれば、地震発生時に崩落する怖れのある吊り天井の数はなんと4996。ちなみにこのことは地方面でしか報じられていない。こういうことこそ、もっと追求すべきではないかと思うのですが。

 このことに着目させたのが、平成17年8月16日で起きた宮城県沖地震でした(しかし「本命」の宮城県沖地震ではないことがわかりましたが。「本命」の30年以内に来る確立はいまだに99%)。もとよりこの地震で天井が崩落した施設「スポパーク松森」の屋根がアーチ状だったため、左右の揺れが増幅されて吊り天井が崩落した、ということが明らかになっています(東北大学工学部の源栄正人教授らによる)。ですからアーチ状の建物にも注意を向けるべきでしょう。ただ昨今の「姉歯」叩きを見ている限り、この問題が建物の耐震設計全般の問題に波及することもなければ、建築基準法改正前に建てられた建物及び既存の耐震不適格の建物の耐震補強の問題、及び本当に完全にスクラップ・アンド・ビルドでいいのか、耐震補強ではなぜ駄目なのか、という問題に波及することもないかもしれない。

千人印の歩行器:[読書編]しみじみ「内在系」、メンヘラーって?(栗山光司氏)
 このエントリーでは、共に社会学者の宮台真司氏と北田暁大氏の共著『限界の思考』が採り上げられていますけれども、宮台氏ももちろんですが、北田氏をはじめ、最近の若手論客にも注目すべき人は多い。

 さて、「論座」平成18年1月号の特集は「30代の論客たち」だそうです。執筆者のラインナップを見ても、渋谷望氏、牧原出氏、芹沢一也氏など、かなり期待できるメンバーがそろっております。「論座」は平成15年7月号から毎号購読しているのですが、編集長が薬師寺克行氏に代わってからは面白い特集がますます増えています(平成17年4月号「日本の言論」、6月号「憲法改正」、7月号「リベラルの責任」、10月号「進化するテレビ」など)。

 特に面白そうなのが、宮台真司、佐藤俊樹、北田暁大、鈴木謙介の4氏による対談。ここまですごいメンバーを集められるのもすごい。読み応えがありそうです。

週刊!木村剛:[ゴーログ]ばーちゃんが株を買い、親父がブログる?!(木村剛氏:エコノミスト)

 身内がブログをやっている、ということはないなあ。少なくとも私の家族の中で本格的にブログをやっているのは私だけですが、その理由も所詮は自分の文章を発表する場所を作りたい、という理由にすぎない。

 でも、知っている人がブログをやっていたり、あるいは始めて本格的に話す人に「ブログを見た」と言われると、少々戸惑ってしまうことがありますが。

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2005年9月28日 (水)

俗流若者論ケースファイル72・読売新聞社説

 平成17年9月28日付の読売新聞は、小学生の暴力が過去最多になった、という報告(第一報は平成17年9月22日配信の共同通信。読売新聞宮城県版は平成17年9月23日に報じている)を受けて、「なぜ「キレる小学生」が増えるのか」という社説を書いているのだが、突っ込みどころが満載である。

 そもそも、読売社説子は、この調査が平成9年から行われたことを忘れているのではないか。故に、それ以前のデータが存在していないのだから、昨年になって突発的に増えた、と認識するのは筋違いというものであろう。そもそも校内暴力が問題になったのは1980年ごろであり、その頃から手を打たなかった文部省(現在の文部科学省)の方針は、私は問題化されるべきだと思っている。

 それはさておき、件の読売社説の言説分析をしていこう。例えば、以下のようなくだり。

 短絡的な動機から、突発的に手や足が出る。文科省は「忍耐力不足、人間関係がうまく作れず、感情のコントロールがきかなくなっている」と分析する。(2005年9月28日付読売新聞社説、以下、断りがないなら同様)

 このようなご託宣は、「理解できない」少年犯罪が起こるたびによく起こるものだけれども、しかし忍耐力があり、人間関係がうまく作ることができて、感情のコントロールが成り立っているはずの過去のほうが少年による凶悪犯罪は多発している。また、このような論法では感情は危険なものだからコントロールしなければならない、という論理が成り立っているのだが、そのような考え方こそが、昨今のカウンセリング・ブームを生み出したことを忘れてはいけないだろう。そもそもコミュニケーションとはそんなに薔薇色のものなのだろうか。読売社説子は平成16年に起こった佐世保の事件についても触れているが、これは読売は《暴力に対する抵抗感が薄れて来ているのではないか》という文脈で書いているけれども、これはむしろこの犯人の家庭環境(例えば、受験のためにバスケットボールクラブを無理やりやめさせられたこと)や、現実とネット上での常に監視状態にある友人とのコミュニケーションの息苦しさに起因した事件である、という分析のほうが説得力がある。
 次のようなくだりにも、読売社説子の認識の甘さが垣間見える。

 保護者にできることは何か。暴力シーンが登場するゲームやテレビ、漫画などを、子どもの好き放題にさせてはいないだろうか。親の児童虐待、配偶者間暴力などが日常的に行われているようでは、子どもへの悪影響は目に見えている。

 どうして読売は《暴力シーンが登場するゲームやテレビ、漫画など》を過度に問題化したがるのだろう?そもそもこれらのものが暴力を誘発する、ということは立証されたことがない。このようなものが問題化されるのは、単にスケープゴートにしやすいからではないか。しかもこのような論法では、読売社説子も軽く触れている、中高生の暴力行為が減っていることを説明することはできない。

 それにしても、この読売社説には示唆的な一文がある。

 1890件という数値には、疑問もある。都道府県別の報告件数(校外での暴力含む)を比べると、隣県同士で「0」と120件台と開きがあったり、300件を超す大阪府、神奈川県に比べ、東京都が43件と極端に少なかったりする。

 このようなくだりは、要するに教師がどのようなことを「校内暴力」と見なすかによって統計に表出するデータが変わってくる、ということを示している。共同通信の配信記事の中でも、文部科学省の見解として《暴力行為をする小学生がいる一方で、教員が子どもを注意深く見るようになったことも増加の要因ではないか》(2005年7月22日付共同通信配信記事)とも述べている。

 私は、この記事に限らず、青少年の非行が「増加」していると見なされる理由については、実数もさることながら、マスコミや社会を構成する大人たちが青少年に向ける視線も無関係ではないように思える。今回増加分としてカウントされた中には、そのような、今まで「校内暴力」とみなされていなかった文も含まれるはずだと私はにらんでいる。今回の事件について、またぞろ教育改革の「失敗」がこのような形で表れたのだ、とか、そもそもこれは親や教師の権威をないがしろにしてきた戦後教育の「成果」である、というふうに訳知り顔で述べている人が多いと思うが、私は、今一度我々が青少年にどのような視線を向けてきたか、ということを検証すべきではないかと思っている。

 子供の問題を自分で処理できなくなった教師が、結局は「校内暴力」としてカウントすることによって国家にすがっているのかもしれない。これは昨今における窃盗罪(万引き)統計の「増加」の理由としても説明できる。

 ちなみに、総務省統計局の人口推計によると、平成16年現在の小学生の数(7歳~12歳)はおよそ718万5千人。それに対し、今回の報告において小学生による「校内暴力」の件数は1890件。暗数と再発も考慮して、少々多めに見積もって、およそ2500人が校内暴力を起こしたことがある、と仮定しても、小学生全体から見れば0.03%、およそ3000人に一人の割合である。このことからも、校内暴力に関しては小学生の「心」の荒廃だとか、戦後教育の失敗だとか、更には大脳前頭葉の異常として捉えるよりも、辛抱強い対話による個別の問題解決に力を注いだほうが重要であろう。

 第一、「キレる」などという出自のいかがわしい言葉を平気で使う神経こそ疑わしいのだが。まして「キレル」なんて表現してしまった暁には

 参考文献・資料
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月
 森真一『自己コントロールの檻』講談社選書メチエ、2000年2月

 参考リンク
 「旅限無(りょげむ):荒れる学校の記事を考える
 「総務省統計局・平成16年10月1日推計人口

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 「反スピリチュアリズム ~江原啓之『子どもが危ない!』の虚妄を衝く~
 「俗流若者論ケースファイル03・福島章
 「俗流若者論ケースファイル13・南野知恵子&佐藤錬&水島広子
 「俗流若者論ケースファイル15・読売新聞社説
 「俗流若者論ケースファイル23・粟野仁雄
 「俗流若者論ケースファイル27・毎日新聞社説
 「俗流若者論ケースファイル36・高畑基宏&清永賢二&千石保
 「俗流若者論ケースファイル49・長谷川潤
 「俗流若者論ケースファイル51・ビートたけし
 「俗流若者論ケースファイル54・花村萬月&大和田伸也&鬼澤慶一
 「俗流若者論ケースファイル69・小林道雄

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2005年7月23日 (土)

トラックバック雑記文・05年07月23日

 お久しぶりです。最近このブログの更新が停滞していたのは、建築の課題を作っていたからですが、一応毎日アクセス確認はしていました。

 その確認をしていたときに判明したのですが、どうやら誰かがパチンコ関係のネット掲示板に私の記事へのリンクを何の文脈もなく、しかも私が投稿したものであるかのように貼っている人がいるようです。

 ここで申し上げておきたいのですが、まず私はその事実を知るまでその掲示板の存在を知りませんでした。また、たとえ掲示板に投稿する際でも、私は原則として本名でしか投稿しません。なので、その掲示板にさも私が貼ったかのごとく書かれている書き込みは、明らかに私のものではないのです(ちなみに最近「北の系」の掲示板に投稿した文章は私のものです)。

 確かにこのブログは、タイトルの近くにも書いてある通り、リンク及び転載は歓迎しております。私に提供したい情報があれば、どしどしトラックバックやコメントを投稿していただきたいものです(アダルトブログなどからのトラックバックは無条件に削除させていただく場合があります)。しかし、この場合は、明らかに私に対する誤解をあおるものであり、私はそのことで大変迷惑を被っております。

 まさかこのブログの常連の読者がそのようなことをするはずはないのだと思いますが、この文章を読んでいるのであれば、まずその行為をやめてください。

 ここからが本文です。
 フィギュア萌え族(仮)犯行説問題ブログ版:ガードレールの金属片の謎、解明される(古鳥羽護氏)

 本の2ヶ月ほど前、あれほど我が国を騒がせた「ガードレールの謎の金属片」問題も、今ではまったく聞かれなくなりましたね。で、最近になって、ようやくその「原因」がわかったらしい。ここで引用されているNHKのニュースによると、車がガードレールにこすれたときに車の金属がはがれて、あのような形の金属片が生成されてしまうとか。

 それにしても、この記事における結びの言葉が極めて秀逸ですね。

 さて、この現象を、「テレビゲーム世代」、「2ちゃんねらー」、「ひきこもり」、「ニート」による人為的なイタズラであると決め付けたコメンテーターたちは、明日からテレビに出ないで欲しいものです。

 まったくもって正しいですね。しかし、これはテレビのみならず新聞も同じでしょう。私の家では読売新聞を購読しているのですが、このことを取り扱った第1社会面の記事で、2人の自称「識者」がコメントしていましたが、そこに掲載されていた、漫画家の弘兼憲史氏の発言がひどかったことを記憶しています。曰く、「このようなことがインターネットを通じて広く行われるようになるひどい社会になってしまった」と(うろ覚えで申し訳ありません)。この現象に関して、何でもかんでも「今時の若者」のせいにしてしまった人たちは、まず最低条件として1年ほどコメンテーターとして参加するのを自粛してくださいね。

 また、先ほどの話題とかなり関係があるのでここも採り上げておきましょう。

 週刊!木村剛:[金曜日ゴーログ]さすがにマスコミは「叩く相手」を知っている!(木村剛氏:エコノミスト)

 今年のバレーボールのワールドカップは、我が街仙台で行なわれましたけれども、そこでジャニーズの某グループとフジテレビの某アナウンサーの不祥事がありましたね。まあ、この問題に関しては、多くの人が知っていると思うので改めて書く気はありません。木村氏のブログで事件の概要がおさらいされているのでそちらを読んでください。

 それにしても、木村氏のブログでも触れられているのですけれども、本来であればこの手のネタは格好のワイドショー報道の材料になるはずなのですけれども、あまり報じられていないようですね。さすが、身内には甘い、というべきか。

 身内には甘い、ということで私が真っ先に思いつくのは若年層に関する報道や言論です。例えば我が国の左派論壇において、「今時の若者」を嘆くために「戦後」を持ち出すような歴史修正主義が増えています。これでは「今時の若者」を嘆くために「戦前」を持ち出すような右派の歴史主義者となんら変わるところはありませんよ。しかし、左派論壇の人たちは、彼らを右傾化したと批判したり指摘したりしない。特に筑紫哲也氏は、筑紫氏が今や(というよりもずいぶん前からか)左派論壇のトップスターであるということもあってか、いかに「週刊金曜日」の連載で復古主義的なナショナリズムを煽っていても(「俗流若者論ケースファイル10・筑紫哲也」を参照されたし)、そのような言論を右傾化だとか指摘する人はいません。筑紫氏ほどではありませんけれども、吉田司氏や斎藤貴男氏なんかもこの傾向が現れ始めていますね。特に斎藤氏。斎藤氏は、かの曲学阿世の徒・京都大学霊長類研究所教授の正高信男氏のトンデモ本『ケータイを持ったサル』(中公新書)を、朝日新聞と、著書『人を殺せと言われれば、殺すのか』(太陽企画出版)と『安心のファシズム』(岩波新書)で絶賛していた。そのような斎藤氏の文章を読んで、私は「いったい、斎藤貴男はどうなってしまったのか!」(もちろん、斎藤氏と魚住昭氏の共著『いったい、この国はどうなってしまったのか!』(NHK出版)のパクリです)と驚いてしまいました。「サイゾー」の今月号で、例の宮台真司氏と宮崎哲弥氏の対談において、宮崎市が斎藤氏のことを「頭は左翼だが、体は半分保守オヤジに浸かってしまっている」状態であると批判していましたけれども、「頭は左翼、体は保守オヤジ」という人たちが多すぎます。左右関わらず、「体が保守オヤジ」の人々によって現在の言論界が支えられているから、このような事態が生じるのでしょうかね。

 それにしても、彼らの考える「国家」とはなんなのでしょうか。

 ン・ジュンマ(呉準磨)の備忘録:ナショナリズムとは、つまり「国民国家の虚偽意識」か
 弁護士山口貴士大いに語る:カスパルがうさんくさい要望書をエロゲー関係各社に送ったようです(山口貴士氏:弁護士)
 kitanoのアレ:反性教育の動向(6)

 なぜ、俗流若者論に寄りかかる歴史修正主義者の思考を考える上でこのような記事を持ってきたか。それは、まさに彼らの「国家」が彼らを正当化するためだけの道具に過ぎない、ということを言いたいのです。

 山口氏のブログでは、アダルトゲーム規制を推進する団体がアダルトゲーム業界に怪文書を送ったことが報告されています。しかし、なぜこの団体はアダルトゲームにこだわるのでしょうかね。アダルトゲームにこだわりすぎると、犯罪の実像はまったく見えなくなりますが、彼らにとっては見えなくてもいいのでしょうか。所詮は自分の「理解できない」ものを国家によって規制しろ、といいたいわけですね。超国家主義と生活保守主義の最悪の結婚です。

 また「kitanoのアレ」では、中教審が高校生以下の性行為を認めない、という決定をしたようです。ここで引用されている共同通信の記事を読んでいると、嗚呼、やはり我が国は「言霊の国」だ、と嘆きたくなります。中教審の皆様方は、とにかく駄目だと言っていれば解決する、と思い込んでいるのですからね。考え方が甘すぎやしませんか。
 この2つに共通するのは、「強い国家」によって「今時の若者」を「是正」することを目的としていることでしょう。彼らが「今時の若者」に対して不快感を持っているのはよくわかります。しかし、その「解決」のために国家を持ち出し、「国家」に自らの「癒し」を求める、という態度は果たして正しいのか。私はそうは思いませんね。私だって、俗流若者論を批判する立場にある身であっても、やはりメディア的な「今時の若者」に不快感を覚えることはありますよ(仙台ではあまり見かけませんが)。しかし、そんな個人的な感情を、現代の若年層における「国家」意識の喪失なる論理と無理やり結びつける、という行為は、はっきり言って良識ある大人の行為ではないでしょう。

 今や国家は、「今時の若者」に対する個人的な恨みつらみを晴らしてくれる存在でしかなくなりつつあります。真面目な国家主義者は、直ちにこの状況を批判すべきでしょう。

 ヤースのへんしん:皆の道

 日本最速の161キロを記録した横浜ベイスターズのマーク・クルーン投手にあやかって、横浜市の市議より「市道鴨志田161号」に「クルーンロード」という愛称を付けようという動きが持ち上がってるらしい。

 うわあ、莫迦莫迦しい(笑)。もちろんこの記事の筆者も莫迦莫迦しいと思っていますが。

 この文章を読んで、東北大学助教授の五十嵐太郎氏(『戦争と建築』『過防備都市』の著者です)の授業において、北朝鮮の建築のスケールや装飾の数(例えば金日成広場の正面にある「主体思想塔」の高さ)が北朝鮮の革命史とか金日成にまつわる数字とかにあわせられている、ということが語られていたことを思い出しましたよ。

 このようにセンスもなく、ただ単に人気にあやかっただけの地名や愛称が、その後においてどのように語られるか、ということを考えてみるとなんだか滑稽に思えてきます。野球の選手が日本催最速の等級速度を出した、だからこの道路にそのような愛称がついたのだ、と言われても、その知名に愛着を持つ人がいるのでしょうかね。どうも疑問に思ってしまう。

 minorhythm:夏本番っ☆(茅原実里氏:声優)
 ひとみの日々:夏バテ?(生天目仁美氏:声優)

 仙台の梅雨明けはまだですが、いよいよ本格的な夏が始まりました。私も、本日、長かった建築の課題が終わり、いよいよ夏休みに入ります(補講とか試験とか提出とかたくさんありますが)。余暇の時間が多くなるので、このブログの更新頻度も多くなるでしょう。後はアルバイトが欲しい。私は「家庭教師のトライ」に所属しているのですが、現在生徒を持っていない状況です。なので、積極的にトライのほうに電話をかけて、新しい生徒はいないかといっております。さぞかしトライの仙台支部も迷惑千万でしょう(笑)。

 アルバイトがないなら、夏休みは物書きに徹しますか。一応現在検証待ちの文章もいくつかありますが、8月初旬からは夏休み特別企画を行なうことを考えております。
 それは「俗流若者論大賞」。平成12~15年に後で挙げる雑誌に発表された俗流若者論から1年ごとに、準グランプリを3~5本、そしてグランプリを1本ノミネートしようと思います。なので、この特別企画の期間中は、カレントな俗流若者論の批判はしばらくお休みになります。

 対象となる雑誌:文藝春秋、諸君!(以上、文藝春秋)、中央公論(中央公論新社)、現代(講談社)、世界(岩波書店)、正論(産経新聞社)、Voice(PHP研究所)、論座、週刊朝日、AERA(以上、朝日新聞社)、Yomiuri Weekly(読売新聞社)、サンデー毎日(毎日新聞社)、週刊金曜日(金曜日)

 また、雑誌に投稿するために、ここでは公開しない文章も執筆するつもりです。とりあえず現在執筆予定なのが「疑似科学の潮流と俗流若者論」とか「俗流若者論が生み出す歴史修正主義」とか。というのも、先月の頭ごろに、このブログの記事「壊れる日本人と差別する柳田邦男」を「論座」編集部に投稿したときに、編集部から既に発表された文章は掲載できないと電話がかかってきましたので、雑誌投稿向けに、これまでの私の俗流若者論批判を一つのテーマにまとめて、俗流若者論という言論体系にあまり明るくない人にも読んでもらえるような文章に仕上げるつもりです。もし投稿してから1ヶ月以上反応がなければ、ここで公開するつもりです。

 それから、前回の雑記分から、以下の記事を公開したので、是非読んでください。

 「俗流若者論ケースファイル35・斎藤滋」(7月10日)
 「俗流若者論ケースファイル36・高畑基宏&清永賢二&千石保」(7月13日)
 「俗流若者論ケースファイル37・宮内健&片岡直樹&澤口俊之」(同上)
 「俗流若者論ケースファイル38・内山洋紀&福井洋平」(7月16日)

 そうそう。あさってはついに我らが仇敵(だったのか)・正高信男の新刊が発売される日ですよ。

 正高信男『考えないヒト』中公新書、2005年7月25日発売予定

 中央公論新社のウェブサイトでは、《通話、通信からデータの記憶、検索、イベントの予約まで、今や日常の煩わしい知的作業はケータイに委ねられている。IT化の極致ケータイこそ、進歩と快適さを追求してきた文明の象徴、ヒトはついに脳の外部化に成功したのだ。しかしそれによって実現したのは、思考の衰退、家族の崩壊などの退化現象だった。出あるき人間、キレるヒトは、次世代人類ではないか。霊長類研究の蓄積から生まれた画期的文明・文化論》と紹介されています。まあ、帯を見る限りでは、おそらく『人間性の進化史』(NHK人間講座テキスト)をさらに拡大したものになるのでしょうか。しかし、あのテキストだけでは新書というサイズにまとめることができないので、ある程度加筆することになるのでしょうけれども、少なくともこの本が彼の疑似科学路線を突っ走った本になることは間違いないようです。

 皆様、この機会に、正高信男という曲学阿世の徒について復習をしてみましょう。

 まず、私の正高信男批判を。

 「正高信男という病 ~正高信男『ケータイを持ったサル』の誤りを糺す~」(平成16年11月7日)
 「正高信男という堕落」(平成16年12月4日)
 「またも正高信男の事実誤認と歪曲 ~正高信男という堕落ふたたび~」(平成17年2月24日)
 「正高信男という頽廃」(平成17年3月8日)
 「正高信男は破綻した! ~正高信男という堕落みたび~」(平成17年4月5日)
 「暴走列車を止めろ ~正高信男という堕落4~」(平成17年7月3日)
 私の正高信男批判を全部読みたい方はこちら

 また、他のブログにおける正高信男批判も紹介しておきます。

 えこまの部屋:[社会]EMYさんへの返事[社会]少子化対策ぅぅ~~?(着地点はコレかよ!)

 はぁ・・・?
 これケイタイを持つ者へのなんらかの批判と啓蒙の書だったのではないのですか?
 (少なくともそれを期待し彷彿させるタイトルだったんですが・・・)

 百万歩譲って「この本は本当は少子化対策の本だった」として、
 この程度の提案(少子化対策案)って・・・
 なんだか高校生の子が、もしくは家政科の短大生が明日提出で急いで仕上げた
 「私が考える少子化対策レポート」みたいに思えるんですけれど・・・。

 脱力である。

 ふたたびEMYさんのコメント再生
 >読まなくて正解と思います。

 ほ・・・ほんほひそうらね、EMYひゃん。(ほんとにそうだね、EMYさん)

 ちなみにこの記事では、このブログではおなじみの「千人印の歩行器」の栗山光司氏が私の文章を紹介しております(この記事が「堕落みたび」にトラックバックされているのもそのためでしょう)。この記事は、一般読者の立場から正高本に突っ込みを入れております。

 思考錯誤:[note] 『ケータイを持ったサル』か?(辻大介氏:社会学者)

 しかしだな、その実験の解釈や議論の組み立てかたは、やはりトンデモと言わざるをえないところがある*1。いかに優れた自然科学者であっても、生半可に社会評論に手を出してしまうと、こんなことになってしまうんかいなと愕然としてしまう。お願いだから、正高さんには、こっち方面からはとっとと手を引いて(どうせ片手間しごとなんだし)、着実に本業を進めてほしいと切に思う。優秀な人が道を誤っちゃいけない。

 本当にその通りであります。

 あと、オフラインの正高批判も挙げておきます。

 宮崎哲弥「今月の新書完全読破」2003年9月分=「諸君!」2003年12月号、文藝春秋

 私には呆れるほど杜撰で、学者としての良心すら疑いたくなる内容なのだが、新聞などの書評は押し並べて好意的だった。
 日本人が「退化」しているかもしれないという危惧にだけは同意してもよい。私の危惧は、著者を含めたインテリ層の知的能力の「退化」に対するものだけど。(280ページ)

 岸本佐知子「(ベストセラー快読)おじさんも「感動した!」」=2004年3月28日付朝日新聞

 この本の悪口を言うのは簡単だ(オヤジの主観丸出しだとかトンデモ本じゃないのかとか女になにか恨みでもあるのかとか)。が、そんなことはこの際どうでもいいのだ。著者は、学者として何より大切な客観性を投げうち、神聖な研究対象をネタに使ってまで、世の虐げられたおじさんたちを勇気づけようとしているのである。何と崇高な犠牲精神であろう。

 斎藤美奈子「(斎藤美奈子 ほんのご挨拶)サルとヒトの区別ない 印象のみの比較論」=「AERA」2003年12月8日号

 ※備考:この「ほんのご挨拶」をまとめた本が、斎藤氏の最新刊の『誤読日記』(朝日新聞社)として刊行されています。私はまだ読んでいないのですが、おそらく正高本への批判も収録されているでしょう。

 相手がサルだと社会統計学の原則に則る必要もないんですね。
 ……こんな乱暴な比較論もサルだから許されるわけです。ヒトの家族論、若者論、コミュニケーション論等がいまやこれだけ出ているのに、参照しないってのもすごい。

 皆様、来る25日に向けて、完全に論理武装をしておきましょう(笑)。

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2005年6月22日 (水)

トラックバック雑記文・05年06月22日

 冬枯れの街:「無駄な星なんてあるわけがないだろ?」
 先日の「トラックバック雑記文・05年06月18日」で「河北情けないよ河北」と私がもらした記事(河北新報:落書き、知力低下反映? 単純な絵などばかり 仙台)について、ココログで「落書き」と検索をかけてみたら、かなりの数のブログがこれに言及していたので、先日のものでは書ききれなかった論点についてもう一度書いておきます(ちなみに私は仙台在住の東北大学工学部建築学科の3年生であり、仙台に溢れる落書きには心を痛めている者であります)。

 ちなみにこれに言及していたブログを挙げておきます。

 c572 blog:落書きに知的水準が低下?
 Sleeping Sheep:知力の低下。
 トウグウタクミの書道でGO!:「国語力」って何でしょう?
 ++ zakkan ++:このニュース・・・
 週刊?コヰズ::実況中継:落書き・ミネラルウォーター・熊本深夜便
 ひとこと:落書き
 Books and Cafe:グラフィティアートのレベル低下?
 諸般の事情亭・地域面:人類の退化と・・・
 パンダの戯れ言:レベル低下
 日々是決算、親身の集金:イタズラも知的センスが必要

 この記事に関する問題点は次のとおりです。

 1、仙台に書かれていた落書きの傾向について、そこから「今時の若者」を語ることができるのでしょうか。

 2、そもそも、落書きというものは「器物損壊罪」なのではないでしょうか。たといそれが「器物損壊罪」であったとしても、それにたいして何らかの美や主張が許されるのなら、それは社会的に許されるものなのでしょうか。

 3、そもそもこのような記事に、ジャーナリズムとしての存在意義がどれほどあるのでしょうか。

 以上の3つの論点について、私が持った違和感を書いておきます。

 「1」。そもそもこのような落書きに関しては、そのほとんどが社会的に恵まれない層、あるいは社会から逸脱している層によって書かれている、ということは、本来であればその人たちに起こっている質的変容を問題視するべきではないでしょうか。また、そもそもこれらの落書きを書く人が、若年層全体から見てどれほどの割合いるのでしょうか。そして、安易に彼らが現代の若年層の知性を代表している、という考え方にも、疑問を感じずにはいられません。さらに、仙台以外の地域との比較もないのも、これまた疑問の種でありましょう。

 「2」。そもそも、落書きの美醜は誰によって決められるものなのでしょうか。これは、先日の「松文館裁判」の冤罪判決にもつながるものですけれども、ある「刑法犯のおそれのある行為」に対して、それが「美しければ」よし、「醜ければ」駄目、というのであれば、その線引きを誰が決めるのでしょうか。落書きという行為は、それ自体が「器物損壊罪」という犯罪行為なのですから、もしここで問題にされている落書きが規制されるべき、というのであれば、その美醜に関わらず、落書きという行為は全て規制されるべき、といわないと、プリンシプルというものがありません(以上の観点から、私は、明確な被害者が存在している落書きは規制すべきで、明確な被害者の存在しないアダルト漫画は規制されるべきではない、と考えます)。

 「3」。正直言って、このような記事が平然と流通してしまうことに、わたしは心を痛めております。リンク先のブログにも、「愚民化政策の結実」だとか「教育の失敗」だとか安易に語っているところが目立ちますけれども、そもそもこのような記事は、所詮は「酒場の愚痴」程度のものにしかなりえないのではないでしょうか。これらの「憂国」言説は、はっきり言って極めて政治性の強いロールシャッハ・テストでしかありません。

 結局は、みんな、「今時の若者」をバッシングすることによって、「自分は「正義」である」という幻想に浸りたいだけなのです。この記事は、そのような俗流若者論の「願望」を、見事に表している、というほかありません。

 かように志の低い記事が乱造されて、若年層全体がいわれなきバッシングに晒されてしまう、という現在の状況を、私は悲観しています。思えば、「理解できない」少年凶悪犯罪がひとたび起これば、最近はワイドショーのみならず「まともな」報道機関でさえも、安易に「原因」なるものを求める方向に走って、お決まりの如く渋谷や原宿や秋葉原に出向いて、ありもしない不安ばかり煽るようになってしまっています。要するに、目の前の「象徴的」事件と、巷で(ワイドショー趣味的に)語られている「問題」を強引に結びつけることによって、若年層に対する不信ばかりを煽る。この記事は、そんな悪しき流れに掉さしたものに過ぎないのです。

 私は河北新報に、過去4度ほど文章を掲載させてもらった恩義があり、原稿料も頂いたことがあります。しかし、そんな河北新報が、これほどの志の低い記事を書いていることに、私は怒りを隠しきれません。この記事の問題点も咀嚼せず、安易に受け入れている人たちも、これでいいのですか?

 それにしても、いつから、過去の落書きが「アート」として許容されるようになったんだ?昔も、それらに対して、多くの市民が怒ってたのにねえ。っていうか、なんだよ、「グラフィティアート」って。

 皆様。仙台市民として、この程度の落書きよりも憂うべき事件があるのではないですか?

 kitanoのアレ:議場飲酒議員問題:「明らかに数人が酔っていた」
 日課として、「kitanoのアレ」を何気なく読んでいたら、聞き覚えのある名前が私の目に飛び込んでしまい、一気に眠気が覚めました。

 秋葉賢也!?

 そう、先日、平成15年の衆院選に関する運動員のスキャンダルによって、引責辞任した民主党の鎌田さゆり議員の補選で今年当選した、自民党の秋葉賢也氏(宮城2区:仙台市宮城野区、太白区、若林区)です。「kitanoのアレ」で引かれている日経新聞の記事によると、その内容は以下のものだそうです。

 17日夜の衆院本会議に、数人の自民党議員が「酒気帯び」で出席したことに野党が反発、会期延長の議決が予定よりも30分ほど遅れた。

 本会議は午後5時に休憩に入り、午後9時前に再開。議決反対の討論に立った社民党の阿部知子氏が赤ら顔の議員を見とがめ、「即刻、退場すべきだ。『酒気帯び国会』を延長する必要はない」と声を張り上げた。

 これを聞いた自民党の秋葉賢也氏は議場閉鎖中にもかかわらず退場。場内はさらに騒然とした。

 河野洋平議長が投票を呼びかけたが、野党はしばらく応じず、一時は徹夜かとの憶測も飛び交った。

 民主党の岡田克也代表は本会議後の党代議士会で「小泉純一郎首相と森喜朗前首相も赤い顔をして投票していた。いかにいいかげんな国会か分かる」と批判した。

 なんと、酒を飲んでいたから議事に遅れた!

 しかも、秋葉氏は、そんな行為に対する当然の批判を民主党や社民党の議員に注意されたら、議場閉鎖中にもかかわらず退場してしまった!しかも、この議会は、国会の会期延長を議論し、さらにその議決を行なう日だった!

 これでいいのでしょうか。

 そして、このような議員や、このような議員を支持した人に対して、なぜ「知力低下」のレッテルが貼られないのでしょうか。

 実に不可解です。

 以上のことからもお分かりですね。俗流若者論とは、所詮は権力に媚び、問題の論点を逸らし続け、より大きな問題や権力に対する疑問を隠蔽し、大衆の批判の方向を権力ではなく若年層に向けることによって、本当の問題を隠蔽してしまう。

 また、「醜悪な」落書きが「知力低下」の象徴としてバッシングされるのに、「醜悪な」都市計画が「知力低下」の象徴としてバッシングされないのはなぜなのでしょうか。

 目に映る21世紀:秋葉原と下北沢の再開発ってどうよ? ~キール&NINEでトークpart1
 週刊!木村剛:[週刊!尾花広報部長] ついに萌えのまち秋葉原に進出しました!(尾花典子氏:日本振興銀行広報部長)

 以前の雑記文でも何度か書きましたが、秋葉原に行ったとき、秋葉原駅前に建っている大きな再開発ビルに、とてつもない違和感を感じました。また、以前に「目に映る21世紀」や保坂展人氏のブログで、下北沢の再開発が批判されていることにも触れました。

 現在行なわれている「都市再生」によって、さまざまな箇所でその地域の地域性が破壊されている、という指摘がさまざまなところで行なわれていますが(五十嵐敬喜、小川明雄『「都市再生」を問う』岩波新書など)、私はその実態を、秋葉原に行って肌で感じ取りました。読者諸賢も御存知の通り、秋葉原はオタクの都市として有名ですが、秋葉原駅前にそびえ立つ再開発ビルは、オタク的なるものにたいする国家権力の規制の象徴として建っているように見えました。あのようなビルが秋葉原に建つことに、一体何の意義があるのか。秋葉原は雑然としたオタクの街でいいじゃないか、とここで叫んだとしても、所詮は流れを止めることができないのでしょうか。

 秋葉原におけるオタク規制と歩調を合わせてかどうかはわかりませんが、最近はさまざまなマスコミにおいてオタク・バッシングがよく見られます。この間の少女監禁事件にしても、犯人の性癖がオタク趣味に傾いていることから、いかにオタクが犯罪的であるか、ということを喧伝していたように思えます。

 しかし、この少女監禁事件の犯人・小林泰剛は、正確に言えば「オタクの皮をかぶった鬼畜」です。なぜか。それは、オタクの性的嗜好は「二次元の美少女に対して欲情する」というもので、二次元の美少女に対して欲情できず、凶悪な性犯罪に走ってしまう、というのは、オタクの性的嗜好を逸脱しているからです。

 あと、例えば「オタク」だとか「アダルトゲーム」だとかに対する印象論だけで、架空の「専門家」まで捏造していかにそれらが危険であるか、という記事を夕刊フジがウェブ上で書いていたそうですね。もちろん、その後は訂正されたようですが。それにしても、夕刊フジと言えば、JR福知山線の脱線事故に関しても、森昭雄を召還して犯人が「ゲーム脳」だと疑う記事を書いていましたね。夕刊紙だから何でも許される、ってわけじゃねえんだよ。

 皆様、お分かりになられたでしょうか。俗流若者論を容易に受け入れる人たちは、「「今時の若者」は政治にまったく関心がない」と愚痴りますけれども、政治に関心がないのは、むしろ俗流若者論のことではないですか。俗流若者論は、「今時の若者」を安易にバッシングして、若年層に対して敵愾心を煽ることには至極長けていますが、政治の動きを読み取り、その流れが正しいものであるかを判断する、ということに関しては、極めて疎い。そして、多くの人たちが、そのような俗流若者論に心酔している。そうなると、政治は「今時の若者」に対する敵愾心を回収するだけのものになってしまいます、というよりも、その萌芽が出始めています(メディア規制や教育基本法の改正など)。

 俗流若者論に心酔することは、昨今の政治の危険な流れに賛同する、ということに他なりません。それでもいいのであれば、どうぞ俗流若者論に賛同してくださいね。

 保坂展人のどこどこ日記:日韓首脳会談の不実と小泉政権(保坂展人氏:元衆議院議員・社民党)
 正々堂々blog:日韓首脳会談を憂う(川内博史氏:衆議院議員・民主党)

 日韓首脳会談が行なわれていますが、少なくとも保坂氏や川内氏の視点から見ると、どうもこの首脳会談はうまくいっていないようです。

 この首脳会談の内容にすいてはあまり存じ上げないのですが、昨今の日韓関係、あるいは日中関係について少し想うことを言わせてもらうと、私はお互いに対する「敵愾心」を排除して、真摯に向かい合わなければ解決し得ないと思います。

 中国や韓国の反日デモは言わずもがな、それに過剰に呼応する政府・自民党の人たちや俗流右派論壇人の人たちも、単なる「反・反日」に熱中しているだけで、「反日」に真摯に向かい合おうとしている人たちは、むしろ左派に多いと思います。

 日韓・日中関係に限らず、これは若年層に対する態度についても同様に言えます。マスコミの若年層に対する態度は、安易なイメージばかりが先行して、若年層の抱える問題について地味ながらも正面から向き合っている人は、むしろあまり読まれないような雑誌や書籍によく登場しています。しかし、マスコミがただ部数とかなんかの理由で派手な若年層バッシングばかりやっている状況では、社会や政治と若年層が歩み寄る、ということはまずありえないでしょうね。

 ひとみの日々:おらんうーたんとわたし(生天目仁美氏:声優)
 ここまで政治的な話をしすぎたので、ここで落ち着きましょう。

 生天目氏は動物園に行ったそうですが、たまには自分の生活空間(私の場合は、住宅地と、大学のキャンパスと、仙台の中心市街地)とは違う場所に行ってみるのもいいものです。自分の生活空間を抜け出し、環境の違う場所に行くと、心が洗われます(その場所の環境にもよりますが)。

 私は最近、1年ほど行っていなかった宮城県美術館に行ってきたのですが、東北大学写真部の展示会が行なわれておりました。また、宮城県美術館の空間的な雰囲気は、都市的な、あるいは住宅地の生活環境に慣れ親しんできた者にとっては、また違った感覚を味わうことができます。

 千人印の歩行器:[時事編]地下構造ダイビング(栗山光司氏)
 「俗流若者論ケースファイル29・吉田司」を公開しました。この文章で採り上げた吉田氏の文章に対して、私が朝鮮戦争というファクターを無視している、と書いたところ、栗山氏から朝鮮戦争時の栗山氏の生活に関する実体験が書かれている文章がトラックバックされたので、興味がある方は一読を。

 それにしても、栗山氏の次の文章は、我々が真摯に考えなければならない論点が含まれているような気がします。

 後藤氏の俗流若者論に対する批評はマットウですね。しかし、「今時の若者云々」はいつの時代にも言われてきた。床屋政談として挨拶代わりに喋るには構わないが、ちゃんと、若者達に向き合って、自分なりにデータ分析した深い思索の結果なら傾聴に値するが、そんな検証のない単に他罰の構造にのって勝手にスピークアウトする輩の言説は馬耳東風です。自虐史観がどうのこうのと言いますが、僕が一点、ぶれない定点と言えば、「自虐」です。別に歴史観だけの問題でなく、「自虐」を通さない針穴から「誇り」は生まれない。他罰を積み重ねてそれが誇りだと誤読している人がいますが、吼える犬ほど始末の悪いものはない。兎に角、何かに動員される前に自分の頭で考える癖をつけること、それは当然自己相対化の自虐に到る。痛い地帯で発言する。そこがスタートラインでしょう。安全地帯では、音楽を聴いてぼけ~とする。

 《「自虐」を通さない針穴から「誇り」は生まれない。他罰を積み重ねてそれが誇りだと誤読している人がいますが、吼える犬ほど始末の悪いものはない》とは実に的を得た指摘だと思います。俗流若者論とは、若年層に対するバッシングを繰り返すことによって、自分を正当付ける言論体系であり、「「今時の若者」は駄目だから駄目なのだ」というトートロジー(同語反復)の繰り返しでしかありません。冒頭の河北新報ではないですけれども、「批判のための批判」の繰り返しでは、何の解決にもならない。所詮は自慰。二次元の美少女で自慰するのは至って健全ですが、俗流若者論で自慰するのは極めて有害ですよ。

 最後に。このブログではおなじみの東京大学助教授の広田照幸氏の記述を紹介しましょう。ちなみに引用元は『教育には何ができないか』(春秋社、2003年2月)です。

 30年後ぐらいには、社会の中心を担うようになった今の子供たちの世代が、「俺も昔はワルで、万引きやカツあげをやってたけど、今はこんなにちゃんとやってるぜ」と誇らしげに語り、「今の非行少年は根性がない」とか「最近の子供はヘンな事件ばかり起こしやがる」と言ってたりするのではないだろうか。

 そういえば、70年代末から80年代初頭にかけて、校内暴力の嵐が全国で吹き荒れた場、つい最近、「あの校内暴力の時代にはワルにも連帯する根性があった。あいつらはそれなりにしっかりした奴らだった」といったことを書いた文章を目にした。20年前の非行少年たちのしでかしたことは、もはや免責される段階に至ったのかと、私には感慨深いものがあった。(188ページ)

 むしろ、「今の若い者は…」と大人たちが攻撃するのは、大人の側が未来社会のビジョンを見失っているからなのかもしれない。目指すべき未来がわからなくなって、漠然とした不安を感じる大人たちが、既存の秩序のゆらぎへのいらだちを、青年たちにぶつけている部分があるように思えてならない。「今よりももっとましな社会」とか、「新たな価値規範」とかのビジョンを、いずれ青年たちが嗅ぎ当てた後は、今の大人たちの世代は、「天保の老人」ならぬ「昭和の老人」といわれるようになるにちがいない。そうした、「新しい鉱脈」を嗅ぎ当てようとする、彼らの努力をもっと容認・鼓舞していく必要がある。青年の可能性を、もっとポジティヴにみていく必要があるのではないだろうか。(197ページ)

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2005年6月18日 (土)

トラックバック雑記文・05年06月18日

 放置プレイにしようと思っていたのですが、リクエストが入ったので斬らせてもらいます。

 ちなみにリクエストしたのは、
 冬枯れの街:「無駄な星なんてあるわけがないだろ?」

 私は仙台在住なのですが、あいにく我が家でとっている新聞が読売新聞なので、東北の地方紙である河北新報がこんなにひどい記事を書いていたとは知りませんでした。ちなみに河北に関しては、私は4回ほど文章を掲載させていただいたことがあるのですが、そのような恩義もこの際一切無視しましょう。

 河北新報:落書き、知力低下反映? 単純な絵などばかり 仙台(Yahoo!ニュース)

 感想はただ一言。

 …河北情けないよ河北。(なぜ私がこのような言い方をするか、と疑問に思われた向きはこちらを参照)

 私も仙台市民として、中心市街地を中心に氾濫する落書きには心を痛めているのでありますが、このような落書きにかこつけて俗流若者論を書き飛ばしてしまう河北にも、正直言って心を痛めてしまいます。最近「この「反若者論」がすごい!02・河北新報社説」で社説を絶賛したばかりなのに。

 あのねえ。犯罪白書読めばわかるけどよ、暴走族(最近は「珍走団」という名称も定着しつつあるよね)の組織人員は減ってるんだよ。しかも、これは作家の重松清氏などの指摘なんだけどよ(重松清、河合幹雄、土井隆義、宮崎哲弥「日本社会はどこまで危険になったか」=「諸君!」2005年1月号)、暴走族の人員はむしろ高齢化してんだよ。背景には暴力団が牛耳ってて足を洗いづらいことが大きな理由だがよ。しかもなんだよ、この記事に出てくる自称「識者」どもは。こんな馬鹿連中の戯言にかこつけて「今時の若者」全体を語った気になってんじゃねーよ!しかも、この手の記事にとってはもはやご定番なんだが、過去との具体的な比較、一切なし!他の地域との比較、一切なし!この記事を書いた記者よ、出てきやがれ!!絞め殺すぞ!!!冗談だがよ。

 いい加減にしてほしいものです。このようなものでさえ記事になってしまう、という現在の俗流若者論、若者報道の現状には、ほとほと呆れてしまいますよ。所詮「今時の若者」は貶められてナンボなのでしょうね。

 栄枯盛衰、満つれば欠ける、とはよく言いますけれども、俗流若者論は、「酒鬼薔薇聖斗」事件以降に一気に勢いを増してから、もうとどまるところを知りませんよね。それどころか、むしろ隆盛の一途ですね。でもこれらの俗流若者論は、所詮張子のリヴァイアサンです。いつか、良心的な学者や評論家によって、少しずつ解体されるのを期待するしかないのでしょうね。

 というか、俗流若者論を解体するための本も、たくさんあるはずなのですが。売れているのは『反社会学講座』くらいなのが哀しい。まあ、俗流若者論を解体するための本は、大抵は地味か、高いか、その両方かですからね。『反社会学講座』は、易くて派手だから売れたものなのでしょうが、この本で展開されている論理が実を結ぶのは、いつの頃になるのでしょうかね。

 もう、こんな記事を読んだ私の感情を、声優の茅原実里氏が代弁していましたよ。

 minorhythm:茅原実里、本日はご立腹です(茅原実里氏:声優)

 茅原氏は傘を盗まれたことに怒っていますが、私はこんなにひどい記事でさえも不通に流通してしまう現状に激怒しております。俗流若者論系のトンデモ本や新聞・雑誌の記事も延々と出されますし。

 もう一つ、我々が怒っていいものがあります。
 弁護士山口貴士大いに語る:松文館裁判判決速報(山口貴士氏:弁護士)
 kitanoのアレ:松文館裁判:高裁でも不当判決

 「松文館裁判」。我が国ではじめて、「絵」にわいせつ罪が適用された裁判です。東京地裁の判決では、裁判で取り上げられた漫画の作者と、版元の社長に懲役刑が下ったのですが、弁護側が不服として控訴しました(ちなみに山口貴士氏は、この裁判の被告側の主任弁護士です)。で、この裁判において、宮台真司氏(社会学者)、斎藤環氏(精神科医)、奥平康弘氏(憲法学者)などが被告の立場から逮捕・告訴の不当性を主張してきましたが、それでも無罪を勝ち取ることができなかったとは…。

 弁護側は、これを不服として上告するでしょう。もしこの裁判の判決が判例として確定してしまったら、警察は好きなように「有害」コミックを摘発できるようになり、わいせつ罪の恣意的な運用が裁判において続々と行なわれるようになるでしょう。

 いささか言いすぎじゃないかって?いや、私がこのように断言するのは、この松文館裁判のいきさつを最近買った本で読んだからです(長岡義幸『「わいせつコミック」裁判』道出版、2004年1月)。

 そもそもここで取り上げられている漫画家と版元の社長が摘発されたのは、ある警察官僚出身の国会議員に寄せられた一通の投書がきっかけでした。そして、その議員が警察にリークし、漫画家と版元の社長は不当に逮捕されてしまった…。

 その「警察官僚出身の国会議員」とは…。

 平沢勝栄。

 カマヤンの虚業日記:[選挙]都議会選挙
 走れ小心者 in Disguise!:ブログ版『えらいこっちゃ!!』(20)(克森淳氏)

 都議会議員選挙ですか。私は宮城県民なので、選挙権があっても直接は関係ないものですが、ただ言論統制に断固として抵抗する立場としては、この2つのブログで取り上げられている「石原三羽烏」、すなわち古賀俊昭、田代博嗣、土屋敬之の3氏の当選は阻止しなければなりませんね。特に古賀氏と土屋氏は、産経新聞の月刊誌「正論」に出現する回数が高く、そこでも威勢がいい「だけ」の論理を飛ばしまくっていますから。

 それにしても、最近俗流保守論壇の空疎な現代日本人論や若者論が、彼らにしか理解できない共同幻想に基づいているのは、それこそが現代の論壇の行き詰まりを表しているように思えます。その点において、下のブログは必読でしょう。

 ヤースのへんしん:『バーチャル男』萌え

 非常に的確な指摘があります。

 力仕事が中心だった時代を生きてきた「男」にとって、力のいらない時代になり、多くの女性が社会参加をし、能力を発揮しだすと、中途半端な能力ではもう付いていけない、でも、どこかで「男」としての生き方はしたい。そんな気持ちの現れなのかもしれないですね。

 しかし、これらの「男」と「大人」の中身って「孤独」「個人」に集約されてませんか?結局は一人でオタクのように時間を潰すのでしょうか?「萌え」てるわけですね。

 「萌え」の使用法が違うと思いますが、少なくとも、某石原都知事をはじめ(その某都知事に対する批判はこちらを参照してください)、安易にナショナリスト的な言説を振りかざす俗流若者論者の最大の問題点を、ここまで凝縮して言い当てて見せた文章は皆無です。

 週刊!木村剛:[ゴーログ] 「なんとか審議会」は「なんとか」をやっているのか?(木村剛氏:エコノミスト)
 保坂展人のどこどこ日記:小泉語の摩訶不思議、「お互いに反省しよう」(保坂展人氏:元衆議院議員・社民党)

 以前、「俗流若者論ケースファイル13・南野知恵子&佐藤錬&水島広子」で、国会の「青少年問題に関する特別委員会」の議事録を批判したことがありますけれども、この議事録から見えることは、青少年問題に関する言説は、結局のところそれを語る人の社会観、世界観の凝縮である、という気がしてなりません。例えば佐藤錬氏(自民党)は、この特別委員会で、堂々と自己陶酔的な歴史観を述べていたのですから。それ以外にも、例えば最近ベストセラーになっている『壊れる日本人』(新潮社)の著者、柳田邦男氏(ノンフィクション作家)は、現代の青少年の行動(当然、過度に醜悪化、図式化、単純化されたものです)に「ケータイ・ネット依存症」の影を見出し(柳田氏こそが「ケータイ・ネット批判依存症」だろうが、という突っ込みは置いておいて)、曲学阿世の徒・京都大学霊長類研究所の正高信男教授は同様の青少年の行動に「ケータイを持ったサル」というレイシズムを押し付けることによって「日本人の退化」を嘆いてみせた(知性が退化しているのは正高氏ですよね)、スピリチュアル・カウンセラーの江原啓之氏は(この人は、堀江貴文氏よりも格段に「虚業家」ではないかと私は思います)これまた同様の青少年の行動に関して「たましい」(我々が普段使っている「魂」とは違います、あしからず)の劣化した存在とまたレイシズムを押し付けました。結局のところ、俗流若者論を安易に振りかざす人たちは、その社会観の貧しさを如実に表している、いわば、馬脚を現しているのです。このような人たちは、即刻退場していただきたいですね。

 それにしても、「論座」平成17年6月号に掲載された、「自民党議員はこんなことを言っている!」なる、「論座」編集部による自民党改憲派議員の「妄言録」は、読んでいてうんざりします。なぜって、編集部の人たちは気付いているかはわかりませんが、ここに出てくる発言のほとんどが、憲法にかこつけた俗流若者論だからです。近く「俗流若者論ケースファイル30・自民党改憲派議員」として、憲法にかこつけた俗流若者論の問題点を抉り出そうと考えていますが(29回はノンフィクション作家の吉田司氏を採り上げる予定です)、改憲派の中には、「今時の若者」にかこつけた改憲論を自信満々に開陳する人たちがたくさんいます(この中の一人である、ジャーナリストの細川珠生氏に関しては、「俗流若者論ケースファイル31・細川珠生」で採り上げます。「諸君!」平成16年5月号を読んで予習しておいてください)。まあ、彼らにとっては、青少年それ自体よりも、青少年に対する不信感を煽る言説に扇動される人たちのほうが得票数や部数の上昇につながるのでしょうが、私はここで、青少年の不当な「政治利用」を許すな!と言いたい。

 あと、保坂展人氏は、《小泉内閣は「自民党」は壊さなかったが、日本語はブチ壊した》と述べておりますけれども、日本語を壊したのは、小泉内閣だけではありません。俗流若者論も、です。俗流若者論は、その場しのぎのただ過激なだけの言葉を吐いて、無責任に去っていく。そして、そのような過激なだけの言葉は、人々の不安を扇動させるだけさせて、結局現実の青少年を苦しめる。

 ン・ジュンマ(呉準磨)の備忘録:使える論壇誌(笑)
 オピニオン系の雑誌は、その多くが赤字経営であるそうです。しかし、私見によれば、このような雑誌は、たとえ読む人が少数であっても、そこで実りのある言論が展開されていれば、赤字覚悟でも出し続けるという志がなければいけないような気もしています。このような雑誌の存在は、一点突破的になりがちな「世論」を諌めるために一役買う役割を負わなければならないと思います。

 それにしても、この手の雑誌で一番売れている「正論」は、この手の雑誌の中では一番面白くない雑誌です。なぜって、毎号毎号同じような見出しと内容ばかりで、最近は陰謀論まで飛び出している始末ですからね(「俗流若者論ケースファイル25・八木秀次」「俗流若者論ケースファイル28・石堂淑朗」を参照されたし)。特に「世界」や「論座」といった左翼寄りの月刊誌は、既存の枠組みを反芻するのではなく、もっと問題の本質を切り込むような――これについては、「論座」の平成16年4月号の特集における、斎藤環氏と宮崎哲弥氏(評論家)と金子勝氏(経済学者、慶應義塾大学教授)の対談で触れられていましたが――特集をやって、若年層やビジネスマンを取り込むような試みをするべきでしょう。
 ちなみに私の現在のお勧めの月刊誌は、「論座」と「中央公論」です。また、「世界」今月号は、鈴木謙介氏(国際大学グローバル・コミュニケーションセンター研究員)による「若年層の右傾化」論に対する反論と、ジャーナリストの二村真由美氏による江本勝(「水は答えを知っている」などでおなじみの人です)批判につられて、思わず購入してしまいました。月刊誌編集部の皆様、俗流若者論批判と、疑似科学批判は「買い」ですよ。

 お知らせ。以下の文章を公開しました。
 「俗流若者論ケースファイル26・三砂ちづる」(6月3日)
 「この「反若者論」がすごい!02・河北新報社説」(同上)
 「俗流若者論ケースファイル27・毎日新聞社説」(6月4日)
 「壊れる日本人と差別する柳田邦男」(6月6日)
 「俗流若者論ケースファイル28・石堂淑朗」(6月14日)

 また、久しぶりに書評を書きました。トンデモ本の書評ですが。

 柳田邦男『壊れる日本人』新潮社、2005年3月
 title:俗流若者論スタディーズVol.3 ~壊れているのは一体誰だ?~

 初めて全編会話調で書評を書きました。

 もっとも、広田照幸『教育言説の歴史社会学』(名古屋大学出版会、2001年1月)、内藤朝雄『いじめの社会理論』(柏書房、2001年7月)などといった良質な本も多く読んでいるので、そちらの書評も充実させるつもりです。

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2005年6月 3日 (金)

この「反若者論」がすごい!02・河北新報社説

 社説、特に成人の日と子供の日と「理解できない」少年犯罪が起こった次の日の社説は、俗流若者論が必ずといってもいいほど出てくる。現在、新聞における俗流若者論の出現頻度が高いのは、投書欄に次ぐのは社説だろう。

 しかし、たまには社説もやるではないか、と思わせるような社説もまた存在するのも事実である。今回採り上げるのは、そのような社説だ。

 平成17年4月8日、宮城県蔵王高校に通っていた、生まれつき髪の毛が赤っぽい16歳の女子高生が、教師3人から「他の生徒がまねをする」という理由をかこつけられ、染髪スプレーを用いて髪の毛を黒く染めさせられたことを理由に、仙台地裁に提訴した。それだけではなく、この教師たちは、件の女子高生に対して、成績についても文句をつけて、ついには女子高生は自主退学に追い込まれた。

 東北のブロック紙である河北新報は、平成17年4月23日付の社説で、「人権軽視の教育現場を憂う」と打ち出し、教師側に対して批判的な姿勢を明確にした。
 まず、私はこのタイトルに違和感を覚えた。このようなところで《人権軽視》(平成17年4月23日付河北新報社説、以下、断りがないなら同様)という言葉を使ってしまうことは、思慮の浅い一部の言論人から子供に人権はない、という倒錯した理由でこの教師の狼藉が正当化させられてしまいかねないし、問題の本質も覆い隠しかねない。この事実から照らし合わせる限りでは、この教師たちは明らかに刑法における暴行罪をしでかしてしまっているので、「生徒指導」なら無法を犯してもいいのか、というところを見出しに掲げるべきだった。

 また、この社説の中には、《海外から成田空港に戻った瞬間、黒い頭ばかりの群衆に違和感を持った人は多いはずだ。狭い日本で通用する常識が、外国では非常識ということもある。そういう多様性を認め合うことが、国際社会にとってもっとも大切であることは疑いようもない》とか、《もし、生徒指導の一貫として、服装や身だしなみにも注意する必要があると主張するのなら、教師たちも自らの姿を日々、鏡に映して見たほうがいい》などといった、疑問に感じざるを得ない記述もある。

 しかし、下に掲げた4段落に関しては、最大限の賞賛を惜しまない。

 百歩譲って教師の言い分を聞けば多分、「茶髪を許すと非行を助長する」などという現場の論理を持ち出すのだろうが、理不尽としか言いようがない。
 髪の毛を染めていても、非行とは無縁の子どもがいる。宮城県内には、染髪や化粧、ピアスだって自由な公立高校もあるが、とりわけ非行生徒が多いという話は聞かない。

 たかが毛髪の色にこだわること自体、教師がプロとして自信がないことを自ら証明しているようなものではないか。

 個性重視の教育――などと言いながら、一方では「髪の毛の色は黒」と決めつけるばかばかしさに、どうして一部の教師たちは気付かないのだろう。

 よく言ってくれた。《「茶髪を許すと非行を助長する」》という《現場の論理》は、ともすれば何らかの事件が起こったとき、本当の犯人を探す努力を放棄し、犯罪に向かう「しるし」を持った(しかし、特に問題になるようなことをしていない)人が「犯人」として疑われて、一方では真に解決すべき問題がいつまでたっても解決せず、他方ではある属性を持った人に対するいわれなき差別が横行する、という事態が発生することに拍車をかける。

 また、実際に起こっている問題を解決しようとする努力を怠り、無抵抗の何もしていない、ただ生まれつき髪の毛が赤いだけの女子高生に対して、このような「見せしめ」を行なうことは、河北社説が指摘するとおり《教師がプロとして自信がないことを自ら証明しているようなもの》と言うほかないのである。このような「見せしめ」には、「自分は青少年問題に対して真剣に対処している!」という、実体のないメッセージだけを提示し、その裏では本来解決すべき問題は深刻化するのみならず、一人の女子高生の人生を台無しにしてしまう。

 また、このような行動は、自らの持っている歪んだ権力意識の発露としてもとらえられるべきだろう。自分の行動に対する信念に基づかない、単なる権力意識に浸るためだけの暴力ほど、空しいものはない。

 このような権力意識の発露としての暴力は、俗流若者論にも当てはまるものだ。俗流若者論は、現代の青少年問題について過剰なまでに反応し、それを生み出した「犯人」を血眼になって探し、その「犯人」とされるものが特定されなくても、「犯人」になるのではないか、と思われるものであれば、すぐさまそれらに対する敵愾心を煽り、そのような属性を持った人たちに対する差別的言説が世間に溢れ、「不可解な」少年犯罪、青少年問題はすぐさまそれに結び付けられる。

 主観が前面に出される《現場の論理》によって立つ俗流若者論は、人々のポピュリズム的な「人気」によってのみ成り立つ。そして、ポピュリズム的な「人気」によってのみ支えられた俗流若者論は、次第に自らの暴走を抑えることができなくなる。その結果として、蔵王のこの事件が起こっている、としたら、なんとも皮肉な話ではないか。この事件は、頭髪の色が違う女子高生という存在を、「人間」ではなく「物」としてしか認識できなくなった、俗流若者論による思考の横暴の帰結と見られるべきかもしれない。

 我々が注視すべきは、この裁判の行方である。もし、女子高生側の言い分が認められず、明らかな暴力行為が正当性を与えられてしまったら、我が国は《現場の論理》の下に粗暴な行為がまかり通ってしまう、という無法状態になりかねない。

 俗流若者論のような考え方が支配する社会は、若年層を「人間」ではなく「異物」として見なす社会に他ならない。森昭雄や正高信男によって若年層を「人間」と見なさなくなった暴論がまかり通る現状において、若年層を「人間」としてとらえる意義は、恥ずかしいことであるが、問い直されなければならない。

 参考文献・資料
 芹沢一也『狂気と犯罪』講談社+α新書、2005年1月
 内藤朝雄『いじめの社会理論』柏書房、2001年7月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月

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2005年4月 9日 (土)

トラックバック雑記文・05年04月09日

 *☆.Rina Diary.☆*:満開☆(佐藤利奈氏:声優)
 この文章の内容とはあまり関係のないのですが、佐藤氏のミニアルバム「空色のリボン」を聴きました。私の感想としては、佐藤氏の「空」というものに対する想いが存分に込められている作品になっているな、と。タイトルが「空色のリボン」であるだけに、その歌詞には「空」という言葉、およびそれに順ずる表現が頻出します。
 一番私が心惹かれたのは、第3トラックに入っている佐藤氏のフリートーク「あの空で逢えたら Part1」です。ここでは、佐藤氏が「空」に対する想いを語っているのですが、その中で「立っていると、目の前に空が見える」みたいなことを語っていたと記憶しております。
 青い空、曇り空、雨の空。いずれにせよ、空が見える、というのはとても大事なことです。空というものは、おそらくもっとも身近にある「大自然」でしょう。上を見上げるとどこまでも続いていて、思わず吸い込まれそうな、あるいは正面を向いていても、地平線の果てまで続いているような空。空を見ることが、自然に対する興味と関心を高める第一のことだと思います。
 ここで都市計画論的な話に移ってしまいますが、今年2月5日付けの読売新聞において、読売新聞編集委員の芥川喜好氏が「編集委員が読む」というコラムで「空はだれのものか 高層ビルが消した生活のにおい」という文章を書いておられます。佐藤氏のアルバムに心惹かれた人も、ぜひとも読んでほしいコラムです。
 芥川氏は、1月の下旬に新宿で行われた「脈動する超高層都市、激変記録35年」という写真展に関して、《低い建物が並ぶだだっ広い空間に、あるとき黒い塊が現れ、次第に上へ伸びる。その近くにまた同じような塊が生じ、同じように天へ向かって伸びる。その過程が百カット近い映像の早送りで壁に映しだされる。黒い塊は瞬く間に成長し増殖し群れとなって空間を圧し、意思あるもののようにうごめいている》という感想を述べています。
 芥川氏は、《このドキュメントを見て初めてわかることがある。超高層化とは、広い空が侵食される歴史でもあったということだ》と書きます。高層ビルが立ち並ぶ場所では、上を見ても無機質な侵食された空を見ることしかできず、正面を見てもほとんど空を見ることができない、という現実。大都市において広い空を見ることができるのは、超高層ビルに登るという特権を持った人だけ、という現実。空は万人に開かれている大自然の絶景です。それが巨大資本の論理によって侵食されていく。都市化=超高層化を極端に推し進めてきた政権党や巨大資本の偉い人たちが、「今時の若者」の自然に対する意識の低下を嘆く。何なのでしょうか、この矛盾は。基本的に「若者論」を安易に振りかざす人は、政権党が以下に若年層から「生活」の場を奪ってきたか、ということをことごとく無視しますが、そこに目を向けないと現在の政権党の論理を突き崩すことはできないと思います。
 芥川氏のコラムでは、最後に《芸術系大学の学生》が書いた《「超高層ビルと人間」という社会研究のリポート》について触れられております。そこで、次のようなものが引用されています。

 東京は富士を望む街だった。高さの競争などやめて、行き来の道から富士の見える街づくりをしたら、人の心も落ち着いて平和な町になるだろう。

 自然を「征服」するのではなく、自然と「共生」することが現在のパラダイムになりつつあります。最近建築の間で流行している「環境共生住宅」「古民家再生」なども、そのパラダイムシフトに適合した形でしょう。我々は、このパラダイムシフトを理解して、誰もが人間らしい生活を送れるように社会を構築しなければならない。佐藤氏のアルバムと芥川氏のコラムから見えたのは、そのようなことでした。

 ン・ジュンマ(呉準磨)の備忘録:文教政策が大きな政府主義の最後の砦?という以上に・・・
 教科書検定が始まりました。それにしても、今年は4年前とは違い、歴史教科諸問題があまり話題に取り上げられなくなりました。それだけ沈静化したのか、それとも世間の耳目を集められなくなったのか。
 「新しい歴史教科書をつくる会」といえば産経新聞ですが、昨日、その産経新聞が発行する雑誌「正論」を久しぶりに読みました。「正論」からは、もうこの雑誌自体に見切りを付けた、ということで、1年以上書店で見かけてもてにとることすらしなかった(というのも、タイトルと執筆者からどのようなことが書かれているか、ということが見え見えだったから)のですが、今回久々に一通り目を通してみて、余計にひどくなっている、という認識を持ってしまいました。
 巻頭はライブドア問題特集。どれも本質を突いていない論文ばかりでした(岩波書店の「世界」に掲載された文章や、文藝春秋の「諸君!」の特集は読み応えがある)。しかしもっとひどいと思ったのは、日本女子大学教授の林道義氏などによる「ジェンダーフリー教育」批判の文章です。この文章は、もうバリバリの陰謀論です。なんでも「ジェンダーフリー教育」を推し進める左翼は日本の崩壊を狙っており、それを裏で操っているのはマルクスだ、と。私も「ジェンダーフリー教育」には賛成できない部分もあるのですが(性教育には賛成です。あしからず)、ここまで妄想できるのはすごい、というほかありません。しかも、このような認識が、一部の保守論壇人に広く共有されている、というのだからさらに驚きです。大体、「ジェンダーフリー教育」が「どのように」我が国を崩壊させ、「どのように」韓国・中国・北朝鮮を利するか、ということに関してはまったく触れられていない。このような雑誌はある種の「共通前提」を持っている人には大人気なのだろうが、こんなことしていると新たな読者は獲得できませんよ、と言っておく。

 走れ小心者 in Disguise!:  「ブログ版『えらいこっちゃ!』(12)」(克森淳氏)
 カマヤンの虚業日記/カルトvsオタクのハルマゲドン:[資料][呪的闘争][宗教右翼][日本会議]90-91年「有害コミック」問題の発信源・和歌山の「子供を守る会」は、極右新興宗教「念法真教」
 私は基本的には改憲は必要だと思います。しかし、現在自民党を中心に議論されている改憲論には、むしろ批判的です。
 政府・自民党は改憲案に「青少年健全育成に悪影響を与える有害情報、図書の出版・販売は法律で制限されうる」ということを入れようとしていますが、まずここに反対です。第一に、青少年がある情報に関して、そこで得る感想は多様です。第二に、国家が一律に「青少年に有害」な情報を決め付ける、ということは、表現の自由に抵触する危険性があります。第三に、自民党などの皆様が問題にしたがる「有害」な情報・環境は青少年による凶悪犯罪を増やしてはいない、ということは、すでに犯罪白書や警察白書で明らかです。第四に、立憲主義の立場に立てば、憲法とは本来国家に宛てた命令であるはずです。それを理解していない政治家が多すぎます。そして最後に、このような改憲案は、自民党の右派の利権の元となっている宗教右翼や右翼政治団体に対するパフォーマンスである可能性が高い。
 先月の読売新聞において、財団法人日本青少年研究所の調査において、我が国の高校生の半数以上が自国に誇りを持っていない、という結果を嘆いていました。しかし、これのどこが問題なのでしょうか。もし自国に誇りをもてない状況があるとするなら、それを形成した社会的な影響を分析しなければならないはずですが、読売をはじめとして保守的な政治家や論者は、我が国における「左翼」による教育を真っ先に槍玉に挙げます。結局のところ、彼らは、青少年をイデオロギー闘争の道具にしか考えていないのです。憲法の改正案も、教育基本法の改正案も、まさしくこれに当てはまるのではないか、と考えております。
 私は、「大日本若者論帝国憲法」が必要である、と考えております。もちろん、現実的な改憲案ではなく、現在推し進められている改憲案がいかに滑稽なものであるか、ということを示すネタとしての改憲案です。その意図は、「こんな憲法になるんだったら護憲派のほうがよっぽどマシだ」と気づかせることです。この改憲案の骨子は次の通りです。
 ・青少年による問題行動の抑制のため、国旗・国歌・天皇に対する忠誠心を高めて、国家に帰属するための意識を養う。
 ・青少年の愛国心と社会性の涵養のため、強制的徴兵制を男女関係なく実行する。
 ・青少年の健全なる育成のため、「伝統的な」(実際には明治以降の近代化システムの中で捏造されてきた)家族のみを尊重する。それと同様に、子供を多く出産した家族は独身者よりも優遇される。
 ・親は自らが親権を持っている子供の行動を常に監視していなければならない。
 ・青少年に有害な影響を及ぼす恐れのある情報は検閲でもって規制できるようにする。
 ・青少年による凶悪犯罪の抑制のため、「有害な」環境に出入りする青少年を警察が取り締まることができる。
 ・青少年による凶悪犯罪の抑制のため、20代の若年層にのみすべての犯罪の厳罰化を行う。
 ・ひきこもりやフリーターや若年無業者を抱える家族に関しては、青少年健全育成の視点から財産を奪って強制的に就業意識を植え付けることは正当化される。
 こんなに滑稽なことが憲法に書かれるのは皆目御免だ、と思われる方も多いでしょう。しかし、これらの議論は、すべて俗流若者論にオリジナリティを見出すことができるものばかりです。そして、それらの粟粒若者論の欲望を満たす憲法を作ろうとしたら、このような憲法が出来上がるのは必然でしょう。当然、憲法学や立憲主義の歴史も一切無視し、権力に非常に甘い憲法になります。
 愛国者たるものは、常に国賊に目を光らせていなければなりません。現在我が国にはびこる国賊は、保守政治家や論壇人が問題視したがるような「左翼」ではなく、巨大資本による都市の画一化を推し進め、青少年をイデオロギー化することによって不安をあおり、それによって利権をむさぼる自称「保守」政治家・言論人です。このような国賊こそが、まさしく我が国を壊死させる張本人です。そして、俗流若者論も、国賊として糾弾されるべきです。

 お知らせ。このブログの右側に表示されております「参考サイト」を、「参考サイト」と「おすすめブログ」に分割しました。
 「参考サイト」として追加したもの
 「グリーントライアングル
 「「有害」規制監視隊
 「少年犯罪データベース
 「「ゲーム脳」関連記事 - [ゲーム業界ニュース]All About
 「おすすめブログ」として追加したもの
 「kitanoのアレ
 「カマヤンの虚業日記/カルトvsオタクのハルマゲドン
 「読売新聞の社説はどうなの・・

 また、次の文章を公開しました。
 「俗流若者論ケースファイル09・各務滋」(4月4日)
 「2005年1~3月の1冊」(4月4日)
 「正高信男は破綻した! ~正高信男という堕落みたび~」(4月5日)

 今後の予定としましては、まず「俗流若者論ケースファイル10・○○○○」を近いうちに公開します。また、『ケータイを持ったサル』批判の「再論・正高信男という病」もできれば来月中には公開したい。正高信男批判では、「犬山をどり ~正高信男を語り継ぐ人たち~」と題して、『ケータイを持ったサル』の書評を検証する予定です。これの公開は「再論・正高信男という病」を公開したあとなので、おそらく8月頭ごろになるでしょう。また、仙台の都市計画と「東北楽天ゴールデンイーグルス」について論じた文章や、治安維持法制定80周年に関する文章、雑記文で触れた「大日本若者論憲法」の実体化など、いろいろ企画しておりますが、大学の授業も始まったので、予定は未定です。
 曲学阿世の徒・正高信男といったら、「正高信男という頽廃」において、このようなコメントをいただきました。

この人、統計のトの字も知りません。t検定もよくわかってなかった。ついでに実験してないので、なぜか論文書きます。内輪でもデータはどこから来ているのか疑問視している人は多いですよ。さらに、気に入らない研究者や学生を徹底的に攻撃(ある意味、いじめ)するので、敵は多いですね。挨拶そいても応えない、目を合わせなければ、口もきかないあたり、彼の社会性を疑ってしまいます。かれが世の中のいじめや引きこもりについての著書を書くたびに、その自分の行動はどううなんだ・・・と言いたくなります。

 休刊した「噂の眞相」みたいに「『ケータイを持ったサル』の京大教授は論文捏造の常習者」と「一行情報」を書きたくなってしまいますけれども、これが本当ならばすごいことですよ。こんな人を教授にしている京都大学とは、いったい何なのでしょうか。誰か止めてあげられる友人はいないのか。

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2005年4月 5日 (火)

正高信男は破綻した! ~正高信男という堕落みたび~

 科学者に限らず、評論や分析のプロというのは本来、時流や世間体に流されず、学問や経験によって蓄積された深い見識を持って物事の本質を見抜く論評が求められている。そしてそれを求めるマスコミも、本来であれば、そこで得られた識見が公に発表するに足るものか、ということを見極めなければならないはずである。
 ところが、いつの時代にも、そのような原理原則をかなぐり捨て、一見俗耳には聞こえがいいが、そこで大変な過ちを犯していたりとか、あるいは特定の人種に対する偏見、誹謗中傷が紛れ込んでいたりしようがまったく気にしないでステレオタイプを恬然と垂れ流してしまう「識者」が現れるのもまた事実である。マスコミもまた、その人がもてはやされているからといい、安易にその分野の第一人者として持ち上げてしまう。そうして、本来であれば優秀な学者でさえ、華やかな頽廃の道を歩んでいってしまう。気がついたときには、すでにその人の言動は思い込みと差別に溢れ、大衆に不要な恐怖と偏見を植え付けてしまうような暴論を垂れ流し続けるようになってしまう。
 曲学阿世の徒、京都大学霊長類研究所教授の正高信男氏も、このパターンに見事に当てはまる。正高氏は平成12年周辺から青少年問題について語り始め、読売新聞などに社会時評を連載してからは少しずつその言説に論理飛躍が表れ始め、その第一の帰結が『ケータイを持ったサル』(中公新書)として表れた。当然、マスコミは大絶賛したが、真面目な学者・評論家からは警戒され始めた。その本が飛ぶように売れてから、正高氏は飛躍的にマスコミに登場するようになり、読売新聞なんかはその本の書評を2度も掲載したり、記事中のコメントに積極的に登場させているばかりではなく、平成16年1月からは教育面の交代執筆のコラムで連載を始めた(このコラムの書き手は、正高氏と、藤原正彦、堀田力、市川伸一、平野啓子の各氏)。正高氏の文章は回を追うごとに論理飛躍と差別を増し、ついに当たり障りのない(しかし細かく検証すれば問題が大有りの)若年層批判を垂れ流し続ける、お手軽な「憂国」の人に成り下がった。そうして生まれたのが「NHK人間講座」のテキスト、『人間性の進化史』である。
 平成17年4月4日付読売新聞に掲載された正高氏の文章、「「ごくせん」に共感、元ヤンキー」を見て、嗚呼、ついに正高氏はここまで来てしまったのか、と嘆息せざるを得なかった。いや、そうなるのは必然か。
 最初に断っておくが、正高氏がここで採り上げている「ごくせん」に関しては、漫画もドラマもアニメも見たことがないので、その内容について論評することはできない。しかし、この文章に表れている正高氏の若年層に対する差別意識は、批判しておかねばなるまい。
 正高氏は1段目で、ドラマの内容を紹介した後、1行目から2行目にかけて、このドラマに共感する30~40代の人たちの深層心理を書く。曰く、《もっとも実際には「ごくせん」のような教師はいるはずもないのでで、みんな早く一人前と認められることを願った。それゆえ彼らの代表格の暴走族は、おおむね早婚だし、子どもを持つし、しかも子だくさんだったりする。次世代の気持ちの分かる人間を目指していた》(正高信男[2005]、以下、断りがないなら同様)と。どのような理由でもって《みんな早く一人前と認められることを願った》というのか、具体的な論証立てをすべきである。また、暴走族を《彼らの代表格》とするのは、簡単に言えば「暴走族的な」人がその世代全体に分布していて、真に《代表格》といえるかどうかを検証しなければならない。さらに、《それゆえ彼らの代表格の暴走族は、おおむね早婚だし、子どもを持つし、しかも子だくさんだったりする》というけれども、その統計的なデータもないし、その世代は上の世代に関して出生率が少ない(というより、我が国の出生率は戦後一貫して減少している)。私は出生率を無理に上げることは徒労だと考えているし、少子化に対しても楽観的なので、この点では正高氏とは明らかに立場を分かつのだが、正高氏が現代の人口に対して間違った認識を述べていること、さらにその認識が余りにも図式化しすぎた世代認識から来ていることは指摘しておきたい。
 本番はここからだ。正高氏は、その下の世代に当たる現代の若年層に関して、こういった暴言を吐いてしまう。曰く、《けれども願ったことが、そのまま現実にかなうとは限らない。ビデオ、CD、DVDのレンタルとテレビゲームに浸って育った連中は、そもそも自分のことの理解を周囲に求めようとすら思わない》だと。これは単なる正高氏のステレオタイプでしかない。自らの思い込みを、それがさも事実であるかのように語る正高氏は、下の世代というものに差別的な感情しか抱いていない、といわれても、仕方ないであろう。はっきり言っておくが、正高氏のこの文章中における《ビデオ、CD、DVDのレンタルとテレビゲーム》は、はっきり言ってシンボルでしかないのであり、本質の一部ではあるかもしれないが決して全部ではない。正高氏が本気で《ビデオ、CD、DVDのレンタルとテレビゲーム》が世代間断絶、親子間断絶の原因になっている、と考えているとしたら、それは他の要因を無視した架空の論証立て、と判断せざるを得ない。また、《そもそも自分のことの理解を周囲に求めようとす思わない》というものが、いかなる状態を指しているのかも分からない。まあ、考えられるとしたら、マスコミ的な若年層へのパブリック・イメージを過度に簡素化して述べているのだろう。それにしても《連中》とは…。
 正高氏は《改めて顧みた時、日本では子どもに対しまわりが幼少期より……気持ちを察してやる傾向が途方もなく強いことに気づく。結果として、分かってもらうことには慣れ親しんでいても、自分から相手に分からせるための労力を払うという訓練を受けずに成長していく》と一般論を述べた後、《時代の流れが速くない頃には、それでも支障はなかった。だが高度成長期以降、状況は変わってくる。それがまず、今となっては古典化したヤンキーの反乱を生んだ。そして今日、子を持つ年代に達した彼らは、次世代からなんらきたい(筆者注:おそらく誤植。正しくは「期待」だろう)をかけられないことに当惑し、「ごくせん」にただただ共感する》と書く。《次世代からなんらきたいをかけられない》というのはあるにしても、それはむしろ経済的な原因によるものが大きいのではないか。また、一般論の正しさや暴力性についても正高氏は考慮した形跡はない。自らの思い込みだけが全てになってしまっている。
 正高氏の図式は極めて明快だ。曰く、今日のような青少年による「理解できない」犯罪や「問題行動」を生み出したのは、携帯電話、インターネット、及びテレビゲームなどといったデジタル機器であり、それがかつてない世代間の断絶を引き起こし、社会を危機にさらしている。正高氏の最近の言動をまとめるとこのような図式になろう。正高氏がこのような思考に凝り固まっているため、最初から何かを「敵」と決め付ける、という学者としてはあるまじき行為、いうなれば陰謀論に走っている。そのため、若年層に対してそれをテレビやゲームや携帯電話などに侵食されて人間性が退化したそうであるという烙印を押すことも、そしてそれを過剰に敵視することもまったくいとわない。自らの言論に責任を負わないので、当然社会構築、制度構築という視座はことごとく欠落し、目先の事象を捕まえて「憂国」してみせる、というスタイルで自己完結する。
 世代論それ自体が問題なのではない。真に問題なのは、世代論を自らの優位性を誇示するために乱暴に振りかざすことである。正高氏はその隘路に見事にはまっている。信頼とか共生とか安心ではなく、若年層などの「理解できない」シンボルを持った人種に対して敵愾心をあおることにより、閉鎖的共同体的な「安全」ばかりを増幅させる売国奴を、正高氏は明らかに利している。
 正高氏は完全にアジテーターである。我々はそこに気付くべきだ。
 そしてこう言うべきだろう。
 「正高信男は破綻した!」と。

 引用・参考文献
 正高信男[2005]
 正高信男「「ごくせん」に共感、元ヤンキー」=2005年4月4日付読売新聞

 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 広田照幸『教育不信と教育依存の時代』紀伊國屋書店、2005年3月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 松谷明彦『「人口減少経済」の新しい公式』日本経済新聞社、2004年5月
 山本七平『日本はなぜ敗れるのか』角川Oneテーマ21、2004年3月

 内藤朝雄「「友だち」の地獄」=「世界」2004年12月号、岩波書店
 内藤朝雄「お前もニートだ」=「図書新聞」2005年3月19日号、図書新聞

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2005年3月 7日 (月)

トラックバック雑記文・05年03月07日

 MIYADAI.com:つまらなさ一段と深刻~地下鉄サリン事件から十年~(宮台真司氏:社会学者)
 今月20日で、かの地下鉄サリン事件からちょうど10年になります。宮台氏とは懇意の評論家、宮崎哲弥氏の著書『正義の見方』(新潮OH!文庫)で、宮崎氏はサリン事件の背景に五島勉『ノストラダムスの大予言』がある、と指摘していました。そして当時の30代以下の人がなぜこのような「教示」に惹かれたか、ということについては、宮崎氏は「内なる近代の終焉」が「終末」のムードに傾倒するきっかけになっている、と論じています。
 宮台氏は《退屈ゆえにハルマゲドン幻想を持ち出して不安を消費する──それがオウムでした》と書いています。そしてその前には《この十年で気になるのは、監視と排除を求める気分の増大です。人々は客観的安全より主観的安心を過剰に求め、実効性の疑わしい施策に群がります》と書いていますが、私はこのような構造を、昨今噴出している「若者論」に見出します。すなわち、「今時の若者」を反社会的属性として過剰に敵視し、「あいつらは俺たちとは違うんだ」ということを身内(「善良な」人たち)の中で「納得」するためにさまざまな論理飛躍や疑似科学的決定論をふんだんに用いて自らのステレオタイプが「正しい」ことを「証明」することの横行です。しかし、必要なのはそのような「切り離し」ではなく、宮台氏などが主張している通りそのような人たちも含めて自分と同じ社会に生きている、という態度、簡単に言えば「信頼」とか「寛容」とかいった言葉に集約されるのかもしれません。
 このようなことに関して、多くの良心的な人たちはすでに気づいており、実行している人も少なからずいます。たとえば「ひきこもり」に関して積極的に発言や活動を続けている斎藤環氏はその一例です。斎藤氏は2003年末に『ひきこもり文化論』(紀伊國屋書店)という名著を書いており、その中で「ひきこもり」に対する支援策についてまとめております。斎藤氏も書かれていますが、やはり肝心なのは、宮台氏が示唆しているように、安直な共同体主義を持ってくるのではなく、まず「生き方」のモデルの提示なのではないか、と思います。「若者論」に没頭する人たちは、これをどこまで理解できるのでしょうか。

 千人印の歩行器:[本屋編]地球人の見た出版(栗山光司氏)
 週刊!木村剛:[ゴーログ]西武鉄道とニッポン放送の類似点:絶望感のゆくえ(木村剛氏:エコノミスト)
 署名で書く記者の「ニュース日記」:公共性(小池新氏:共同通信記者)
 栗山氏の文章では、栗山氏が現役の書店員だったころ、再販制度の撤廃を主張するレポートを取次ぎに提出したところ、まったく無視された、というエピソードが書かれております。栗山氏はそのエピソードを紹介したあと、さらにこう続けます。曰く、

何十年前に現役の書店員の頃、簡単なレポートを大取次ぎに提出したことがありますが、完全に無視されました。テーマは『再販維持制度の検討』です。原則は再販維持制度撤廃が正常なのです。あくまでこの法制度は特例にすぎない。面白いことに営業、書店の現場では、撤廃されることで仕入れの目を磨き仕事が面白くなるのではないかと言う期待があるのですが、既得権の旨味を知った管理職、何故か、再販制が撤廃されると、本のコンテンツの劣化を招き、ひいてはこの国の活字文化の劣化を招くと、憶測で編集権、言論の自由と再販制度を結びつけて撤廃に反対するのです。何やらフジテレビとライブドアの対立構図に似たものがある。

 単純に言えば、栗山氏の関わった取次ぎの場合は、再販制度という既得権益を手放したくないために《再販制が撤廃されると、本のコンテンツの劣化を招き、ひいてはこの国の活字文化の劣化を招くと、憶測で編集権、言論の自由と再販制度を結びつけて撤廃に反対する》ということになるのでしょう。しかし、そのような論理の反対基準があくまでも《憶測》であることに私は抵抗感を覚えるのです。政治家の論理かもしれませんが、もしある提言に対して対案を持ち出すのであれば、私は徹底的に理詰めで攻めるべきだと思います。このケースで言いますと、なぜ再販制度が撤廃されると《本のコンテンツの劣化を招き、ひいてはこの国の活字文化の劣化を招く》が生じるのか、さらに言えば《本のコンテンツの劣化》や《この国の活字文化の劣化》が何をさすのか、ということも明確にしておかなければならないはずです。そもそもこのような物言いは、本のコンテンツや活字文化の「劣化」を嘆く人たちには有効かもしれませんが、アウトサイダーには理解できません。理詰めで攻める、ということは、できるだけアウトサイダーにも分かるようにする、ということです。そうでないと、このような論理が、本当は活字文化や表現の自由ではなく、自分の既得権益を守るために過ぎない、どこを向いた議論なのか、という誤解がまかり通ってしまうことを許容する羽目になりかねません。
 それにしてもライブドアvs.ニッポン放送の買収劇には、ニッポン放送の社員よりも見放されている人がいるような気がしてなりません。それはニッポン放送の番組のリスナーです。
 ニッポン放送の社員が、「私たちニッポン放送社員一同」として声明文を出していますが、あまりにも滑稽です。
 なぜか。それは冒頭で真っ先に「リスナーの皆様」と書いているにもかかわらず、この文章にはリスナーのことが少しも触れられていないからです。触れられているとしたら、

 一方、ライブドア堀江貴文社長の発言には「リスナーに対する愛情」が全く感じられません。ラジオというメディアの経営に参画するというよりは、その資本構造を利用したいだけ、としか私たちの目には映りません。

 といったくだりくらいですが、《「リスナーに対する愛情」》とは、いったい何を指すのでしょうか。また、堀江氏の発言といっても、どのような発言を元にそう言っているのか分かりませんし、この声明文を読んでみる限り、これは完全にリスナー無視、しいて言えば自社の社員とスポンサーを守るためだけに声明文が発せられた、という気がしてなりません。
 これでいいのでしょうか。
 ニッポン放送の社員が「リスナーのためを」思って発したこの声明文も、結局はスポンサーに対する権益なくしてリスナーへの配慮は存在しない、といっているのに等しい。自らの既得権益の保護が「リスナーのため」という美辞麗句にすりかえられている、というのが正直な印象であります。本当に「リスナーのため」を思ってやっているというのであれば、その姿勢は自社の経営基盤(現在ならフジサンケイグループ)が変わっても変わらないものであるのか、ということを示すべきです。
 結局のところ、この論争にはリスナーは最後まで不在です。ラジオ局にとって最も重要なものが抜け落ちているのです。

 情報紙「ストレイ・ドッグ」(山岡俊介取材メモ):「NYから眺めたフジヤマ」byマイク・アキオステリス(日本通米ジャーナリスト)③「カリスマ経営者」(堤義明)逮捕で思う日本のマスコミの「幼稚さ」(山岡俊介氏:ジャーナリスト)
 マスコミの話です。山岡氏は、堤氏を紹介するときに「カリスマ経営者」という「枕詞」を付して報道することに関して憤っております。無責任な「レッテル貼り」は、私は特に俗流若者論においてたくさん見出しております。「心の闇」「キレる」「ゲーム脳」「サル化」「フィギュア萌え族」……。皆様も一度は目にしたものばかりでしょう。特に「○○症候群」みたいな物言いは、若年層の「病理」、さらには「時代の病理」を手軽に映し出してくれる言葉としてとりわけもてはやされております。これを列挙した『器用に生きられない人たち』(中公新書ラクレ)なる本が出ているのですが、今月の「諸君!」(文藝春秋)の「今月の新書完全読破」というコーナーにおいてこの本が宮崎哲弥氏によって「今月のワースト」に大抜擢されております。宮崎氏はこの本の著者に対して「なんでも症候群にしたい症候群」なる「病名」を下しております…。

 *☆.Rina Diary.☆*:ぽつり。(佐藤利奈氏:声優)
 独り言の話です。佐藤氏は一人暮らしを始めてから、独り言が多くなった、というそうです。ちなみに私は実家住まいなのですが、独り言は結構多いと自覚しております(ただし一人でいるときだけ。一人でいるなら、自室でも街中でも容赦なく言ってしまう)。その内容としては、主に私が本などを読んで面白いと思った表現や、自分で思いついて今後の論文に使おうと思う表現ばかりです。
 ある意味、独り言は退屈さを紛らわす上でも有効かもしれませんが、周囲には気をつけて。

 保坂展人のどこどこ日記:イタリア記者 人質解放直後のまさかの銃撃 そして日本の選択(保坂展人氏:元衆議院議員・社民党)
 保坂氏の文章では、拘束されたイタリア人が泣きながら「イタリア軍撤退」を訴える文章をインターネットで見て、多くのイタリア人がその無事を祈った、と書かれています。また、イタリア情報当局は人質解放に向けて水面下で努力をしたそうです。
 昨年、日本人がイラクの武装勢力に拘束されるという事件が何度かおきましたけれども、その時々のマスコミや政府(得に小泉首相)の対応ぶりとはまったく対照的です。保坂氏も指摘するとおり、自国民が武装市民に拘束されて人質に取られても《小泉総理は「テロリストには屈しない」と藪から棒に言うだけ》で、そのような言葉がいかに武装勢力を刺激するか、ということに関してはてんで無関心です。そのことは多くの人が指摘しているのですが、小泉首相、ないしそれに近い立場の人たちはそのような意見の戦略的意味を理解できているのでしょうか。
 マスコミも然りです。マスコミは人質になった人々の特徴について、彼らがイラクに行った動機を「自分探し」だと書き飛ばしていましたが、そんなことは枝葉末節なのです。肝心なのは、日本人がイラクで武装市民に人質にされた、というリアルな事実だけなのです。このような報道をすることで、「自分探し」に没頭している(と勝手に規定されている)「今時の若者」を戒めたい、と思ったのかもしれませんが、一番大事なことを忘れています。このような政府やマスコミの体たらくは、ネット上で斬首の映像が流布してしまうというこれまた痛い現実よりもさらに痛い現実のように思えてなりません。
 「理解できない」少年犯罪が起こると、すぐさま多くの「識者」たちは「「今時の若者」は他人の痛みが理解できないからすぐに殺人に走る」などといいます(実際は少年による凶悪犯罪は減っているのに)。しかし我が国においては、「他人の痛みが理解できない」ひとたちが政治を牛耳っているのが現実なのです。
 このことについて、ジャーナリストの江川紹子氏が書いた文章「「被害者叩き」の前に検証を」も一読に値します。

 お知らせ。長い間放置していた「正高信男という頽廃」ですが、現在急ピッチで執筆を進めております。今週中には絶対に発表できますので、もう少しお待ちください。

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2005年2月24日 (木)

またも正高信男の事実誤認と歪曲 ~正高信男という堕落ふたたび~

 曲学阿世の徒、京都大学霊長類研究所教授・正高信男氏にとって、「社会的ひきこもり」、さらには不登校は現代に突如として生じた現象であり、なおかつ暴力性、犯罪性の高いものでないと気が済まないのだろう。私がそれを痛感したのが、平成17年1月10日付読売新聞「学びの時評」欄に掲載された正高氏の文章「教育の本質は「攻撃性の転換」」である。この文章もまた、論理の飛躍といわれなき中傷に満ちていた。
 まず、冒頭で《とりわけ思春期以降の子どもが、親に向って攻撃衝動を向ける事件が、昨年の下半期に頻発した》(正高信男[2005]、以下同じ)というのであれば、その統計データぐらい見せてほしい。また、《こうした現象が顕著化する一因としては、若年層で社会的自立ができないまま成人するものの割合が急増していることも無視できないだろう》と正高氏は書いているのだが、《思春期以降の子どもが、親に向って攻撃衝動を向ける事件》と《若年層で社会的自立ができないまま成人するものの割合》に関して有効な相関関係が見出せるかどうか、という検討もすべきであろう。無論、統計学の常識として、相関関係は因果関係にあらず、というのがあるが、少なくともそのような議論を抜きにして安易に《それ(筆者注:社会的自立ができない人)がいつまでたってもできない人》の暴力性なるものについて語らないでいただきたい。
 この後、正高氏は、「攻撃性」と「社会性」について語る。しかし、正高氏の議論において欠如しているのが、子供が初めて「家族」以外の世界(いわば「家の外」)に踏み出すのは、幼稚園や保育園、遅くとも小学校であり、そのことについてまったく考慮していないのは解せない。もう少し言えば、子供が何らかの習い事をやっていたとしても、それはそれでそこに別の世界が登場するはずである。正高氏は、近代において教育というシステムが、社会へ自立を促すために段階的に子供を育てるというものであることを知っているのだろうか。子供は就職(ないしアルバイト)していきなり社会に出るわけではないのである。
 正高氏は、最後近くになって《ところが昨今、いつまでたっても家の外が、未知でおそれに満ちた世界のままでいる者が、その数を増しつつあるらしい》と言ってしまう。しかし、《その数を増しつつあるらしい》というのであれば、その定義と、統計的なデータを示すべきであり、《らしい》のままでは何も進まない、ということを正高氏は知るべきであろう。あなたも学者であれば、まず実証的なデータを示すべきであろうが。
 この文章において、正高氏は暗に「ひきこもり」や不登校、ないし若年無業者の犯罪率が高く、それらが急増している昨今において青少年による凶悪犯罪が急増するのは当たり前だ、といいたいらしい。しかし、まず青少年の凶悪犯罪それ自体に関して言うと、昭和40年ごろに比べて激減している。確かに強盗罪に関しては平成9年ごろに急増しているが、その最大の理由は強盗罪の水準が極めて低くなったことであり、全体的に見れば凶悪犯罪は急増しているという事実はない(浜井浩一[2005])。また、精神科医の斎藤環氏によると、「ひきこもり」による親族に対する殺人事件は、「ひきこもり」の中においても極めて少数であり、また、殺人事件を起こしてしまう場合も、さまざまな不安のファクター(当事者や両親の高齢化・衰弱、経済的困窮、周囲の無理解)が重なり、そこに就労のプレッシャーなどの「一押し」が重なることによって起こってしまう、という場合が多いという(斎藤環[2004])。そもそも正高氏は、多くの「ひきこもり」の青少年が、その多さにもかかわらず凶悪犯罪を起こしていない、ということをわかっているのだろうか。
 正高氏のこの議論において置き去りなのは、本当に不登校や「ひきこもり」の暴力性が、そうでない人に比べて暴力性が高いのか、ということである。正高氏は、動物行動学(多分)の理論を用いて、この答えにイエスと答えているが、正高氏の議論はあくまでもアナロジーの域を超えず、実証的なデータを示してこそはじめてそのアナロジーが成立する、というものである。確かに、教育論に動物行動学の視点を導入することは必要かもしれないが、だからといってデータや臨床事例がないと、その有効性は疑われて然るべきだろう。
 正高氏にとって、青少年による凶悪な犯罪は動物行動学的に潤色したお手軽なエッセイのネタに過ぎない、ということが、本書でも明らかになっている。正高氏は自らの専門性に陶酔して、信頼性の高い実証的なデータにあたろうとしない。こんな正高氏にコメントをいただいて、青少年問題を「わかった」気になっている「善良な」人たちに、私は危機感を禁じえない。
 さらにこの連載における正高氏のスタイルは「憂国して」終わり、というものである。特に「ひきこもり」や不登校といった、過分に社会問題や青少年問題とつながっている問題に関しては、その対応策についても、余裕があればでいいが語るべきだろう。しかし、「ひきこもり」や不登校に関して正高氏の述べることは、この文章のように、同じことばかりである。同じことばかり言って、その対応策はまったく語らない、語ったとしても曖昧な一般論に終始している。そう、一般論を「善良な」人たちに都合の言いように潤色し、実際に「ひきこもり」に苦しんでいる人たちは自らとは「本質的に」(「動物行動学的」に?)違う者(サル!)として阻害するのが、最近の正高氏の理論に他ならない。
 最近、玄田有史『仕事の中の曖昧な不安』(中央公論新社)、宮本みち子『若者が《社会的弱者》に転落する』(洋泉社新書)みたいに、青少年問題に関して、社会学的な視点から真剣に取り組んだ本が話題を呼んでおり、「ひきこもり」や不登校や無業者を過度に犯罪者予備軍と見做すような風潮は時代遅れになりつつあるように見える。しかし、それでも正高氏のような「若者論」が幅を利かし、歴史的な文脈を無視した(現在見られるような青少年問題に関しては、それらと強く関連しているような事例が、現在名古屋大学名誉教授の笠原嘉氏によって昭和50年ごろから指摘されてきた。詳しくは笠原嘉[1977][2002]を参照されたし)安易な「憂国」言説が受け入れられるような土壌は、確かに根強くある。このような状況を打破するには、「得体の知れない」=「共同体の「善」を犯す」という、「若者論」の元になっている思考を解体するしかないのかもしれないが、そのために要する時間は長く険しいかもしれない。しかし、そのために深く考えることは、決して無益ではないのである。
 それが、正高氏、及びその信奉者に理解できるのだろうか?かえって正高氏の議論は、「ひきこもり」の人たちをさらに囲い込むような者になる可能性のほうが極めて高いのではないか、と思えてならない。
 蛇足だが、正高氏は本文の最後で、奈良の女子児童誘拐殺人事件について触れて、その《背景にもこれと共通するものがあると思えてならない》と書いているけれども、この事件と、正高氏がここまで取り上げてきた事件は明らかに異質であり、もし共通する背景があるとするならば別に検証すべきだろう。あまりにも唐突過ぎる。

 引用・参考文献
 笠原嘉[1977]
 笠原嘉『青年期』中公新書、1977年2月
 笠原嘉[2002]
 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 斎藤環[2004]
 斎藤環「「ひきこもり」がもたらす構造的悲劇」=「中央公論」2004年12月号、中央公論新社
 浜井浩一[2005]
 浜井浩一「「治安悪化」と刑事政策の転換」=「世界」2005年3月号、岩波書店
 正高信男[2005]
 正高信男「教育の本質は「攻撃性の転換」=2005年1月10日付読売新聞

 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 広田照幸『教育に何ができないか』春秋社、2003年2月
 広田照幸『教育』岩波書店、2004年5月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月

 斎藤環「ひきこもり対策は「予防」から「対応」へ」=「中央公論」2003年10月号、中央公論新社
 諸永裕司「大学生の自殺 急増の今なぜ」=「AERA」2001年1月29日号、朝日新聞社

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