2007年9月15日 (土)

統計学の常識、やってTRY!SPECIAL ~三浦展『下流社会 第2章』を嗤う~

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 『下流社会 』(光文社新書)を平成17年9月に出して、それでベストセラーを飛ばした三浦展は、それ以降、連綿と同工異曲と言っていいような本を出し続けた。私はそれらについて、いちいちチェックして買い集めてきたわけだが、いい加減『難民世代』(NHK出版生活人新書)あたりで食傷気味になってしまった。というのも、三浦の言説においては、その根本において以下のような問題を抱えており、とてもまともな議論とは言えないからである。

 1. 三浦はいつも膨大なアンケート調査などをもとにして本を書くけれども、一応全国調査もあるけれども、詳細な調査については東京都とその周辺の3県(埼玉、千葉、神奈川)だけにとどまっており、他の都市圏(大阪など)との比較もないし、地方に至っては言わずもがな。彼の地方に対する態度は『ファスト風土化する日本』(洋泉社新書)に端的に表れており、せいぜい「重大な」少年犯罪が起こった場所にタクシーで行く程度でその地方の根本的な問題がわかった気になっている。週刊誌の記者でももっと取材するだろう。

 2. 三浦が「下流」と判断した人間(あるいは社会階層)に対しては、これでもかといわんばかりの罵倒を投げつけている。その態度は『仕事をしなければ、自分はみつからない。』(晶文社)と『「かまやつ女」の時代』(牧野出版)に顕著に表れている。

 この2点が三浦の根本的な問題なのだが、多くの人はこれに気づかずに、ただひたすら三浦の言説をありがたがっている。2で採り上げた著書に対する批判で述べたとおり、三浦の言説は極めて差別的な色を含んでいる。

 さて、このたび発売された、三浦の『下流社会 第2章』(光文社新書)を手に取ってみたわけだが、本書は間違いなく三浦がここ2年ほどの間に粗製濫造してきた著作の中でも最も悪い部類にはいるのではないかと確信した。三浦における、三浦が勝手に名付けるところの「下流」の人間に対する罵倒はもはや揺り戻しが不可能なくらいの地点まで進んでおり、それが、今回の著作における自分でとったアンケート調査の解釈の仕方に顕著に表れているのだ(というわけで、今回は「統計学の常識、やってTRY!」の特別版としてお送りします。というより、このシリーズ自体およそ2年ぶりだ)。

 まず、三浦の社会調査に対する認識が、大学の学部生レヴェルどころか、新書レヴェルの領域すら達していないことは、三浦が《毎度おなじみ》(三浦展[2007](以下、断りがなければ全てここからの引用)pp.3)として前書きに書く「下流度チェック」を見れば明らかだろう。今回もいくつかの項目が上がっているけれども(莫迦莫迦しいので書く気にもなれない)、本書は、三浦の怪しげなアンケート調査が、1億歩ほど譲って正しいものであると仮定しても、それは単に階層意識が「下」と答えた人がどのような意識や行動をとっていることを立証したに過ぎないのであって、こう考えているならお前は「下流」だ、と罵るための材料にはならない。要するに三浦は、統計のイロハのイ、つまり相関関係と因果関係の区別が付いていないのである。

 三浦の社会調査の知識が「この程度」であることを念頭に置いて、同書を検討していくこととしよう。本書の構成は以下の通りである(伊奈正人のブログから引用)。

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目次
第1章 すがりたい男たち
第2章 SPA!男とSMART男
第3章 上流なニート、下流な正社員
第4章 下流の自分探しを仕組んだビジネス
第5章 心が弱い男たち
第6章 危うい「下流ナショナリズム」
第7章 踊る下流女の高笑い――女30歳の勝ちパターンはどれか?
おわりに――あたらしい正社員像を描くべき時代

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 本書においては、主として第2,3,6章を中心に検討しておくこととする。まず、第2章については、三浦のアンケート調査の分析に対する意識が如実に表れているからである。また、三浦が、自らが「下流」と名付けたものたちに対して、これでもかと罵倒を続ける様が、後ろの2つの章にはっきりと現れているからだ。なお、採り上げないものの中でも、第1章は、延々と自慢話ばかりが続くので、採り上げるのも莫迦らしい。また、本書はあくまでも階層「意識」を中心に語られており、収入や支出などによる階層については語られていない。ちなみに当然のことながら、収入及び支出と階層「意識」の関連性も示されていない。

 まず第2章から。何せこの章は、調査結果の曲解や牽強付会が多い。例えば、こんな感じに。

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 それからおもしろいのは、『週刊プレイボーイ』で、派遣社員が11.1%と他の雑誌に比べてかなり多い。『週刊プレイボーイ』はしばしば反中国、反韓国的な記事を書くが、実際、30~34歳の派遣は61%が中国は嫌い、53.8%が韓国は嫌いと答えており、かつ同じく61.5%が反社会的な書き込みの多さで悪名高いインターネットサイトの「2ちゃんねる」を利用していると回答している。これは25~29歳のフリーターの77.3%に次ぐ高さである。30歳前後の一部の非正社員たちの抑圧された感情が、反韓・反中意識となって現れていることが推測される。(pp.43)

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 ここまで強引な解釈も珍しい。第一に、《反中国、反韓国的な記事を書く》雑誌として真っ先に「週刊プレイボーイ」を挙げているが、例えば「週刊新潮」などはどうなのだろうか。このアンケート調査でも採り上げられているが、三浦はこれについて記述していない。第二に、雑誌の購読者層については全ての年代のデータを用いているが、反韓・反中意識については就業形態の、しかも年齢別のデータを用いている。ここで必要なデータは、「週刊プレイボーイ」を読むものの反韓・反中意識と、そして「2ちゃんねる」の利用者率だろう。

 また三浦は49-51ページにかけて、購読誌別での政党の支持層を記述しているが、これの分析も強引である。ちなみに少しだけ注意しておくと、51ページでいきなり《秋葉原にいるオタク》という階層集団が出てくるけれども、この周辺の記述を見れば、《秋葉原にいるオタク》=「消費好きでパソコン好きな下流」、という『嫌オタク流』レヴェルの(笑)偏見を持っているのかもしれない。

 などとふざけるのはやめにしておいて、57ページも見てみよう。

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 また、SMART男(筆者注:雑誌「SMART」の購読者層)の居住地は埼玉県が32.3%と非常に多く(男性平均は19.1%)、買い物などでよく行く街としては新宿、地元、池袋、渋谷、原宿、お台場、表参道に次いで大宮が22.6%、そしてよく行く店として丸井、パルコに次いでルミネ、イオンが挙がっている。

 つまり、埼玉県在住で、日頃は地元のイオンか大宮のルミネか丸井でぶらぶらし、たまに渋谷、原宿に買い物に出てくるフリーターが多い読者層であることがわかる。(pp.57-58)

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 わからねえよ!

 さて、三浦の頭の悪さ(笑)を白日の下にさらした上で、本番の第3章に移行しよう。三浦は、若年層の非正規雇用者は本当は正社員になりたくない、ということを示そうと必至になっているのだが、これがとにかく笑えるのだ。

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 (筆者注:三浦は、朝日新聞が行なった、いわゆる「ロスト・ジェネレーション」に対する調査を引き合いに出している)まず、あなたは今後正社員として働きたいと思いますか。非正規雇用の社員のまま福利厚生面の待遇を上げてほしいですか」という質問に対して、「正社員として働きたい」と回答したのは男性派遣社員の53%、男性パート・アルバイト・フリーターの42%にすぎなかった。「非正規雇用の社員のまま福利厚生面の待遇を上げてほしい」と回答したのは、派遣社員の40%、パート・アルバイト・フリーターの36%だった。(女性についての記述は略)

 格差社会を批判する学者、政党、労働組合、メディア関係者は、非正社員がみな正社員になりたがっているのになれないと思っていると考えがちだ。そしてそう思ってくれた方が現政権を批判しやすい。ところが、非正社員は必ずしも正社員になりたいとは思っていないのだ。だから格差社会批判をするだけでは世論は盛り上がらないし、若者の支持は得られないのである。

 そこに「下層社会」あるいは「階級社会」とは質的に異なる「下流社会」の特徴がある。(略)(pp.70-71)

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 三浦も認めているとおり(pp.72)、この調査において、《非正規雇用の社員のまま福利厚生面の待遇を上げ》るという対案が示されている故、《「正社員として働きたい」と回答した》ものが減ったという可能性は大いにある(ちなみに三浦はいくらか留保をつけており、これは3つある内の2番目なのだが、特に3個目の留保はかなり回りくどいものである)。さらに三浦は、正社員の労働条件が、非正規よりも厳しい場合があることまで認めている。これについては、小林美希も書いているとおり(小林美希[2007]pp.34-35)、例えばキヤノンなどで大規模に非正規雇用者の正社員化を推し進めた場合に、結局のところ正社員という名の過酷な労働形態が生まれただけ、というケースもあるため、三浦の分析は正しい。

 そうすると、三浦が主張すべきことは、もし正社員が増えることを希望すれば、まず正社員の待遇をよくすることのはずだ。にもかかわらず、三浦は、こんなことを書いてしまう。

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 企業は、給料を上げること、昇進させることが正社員のメリットだと考えるが、若者は必ずしもそう考えない。給料が上がっても、束縛が増えるのは嫌なのである。残業も転勤も単身赴任もしたくないからである。(pp.76)

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 ちょっと待て、どこに《束縛が増えるのは嫌なのである。残業も転勤も単身赴任もしたくない》なんてことが書いてあるのだ?実をいうとこれは、三浦の身勝手な推論に過ぎないのである。ここに三浦の言説の特徴がある。要するに、自分が「下流」と見なした人間に対する度を超した罵倒である。

 しかも三浦は、同じ章で、「ニート」に関して大チョンボをしでかしてしまう。

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 念のためにいっておくと、この調査は学生を含んでいない。だから、無業の男性は、いわゆるニートにほぼ相当すると考えてさしつかえない。(pp.82)

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 三浦は80ページにおいて「ニート」の正しい定義を書いているのに、なぜこう考えてしまうのだろうか?第一に、一口に「無業」といっても、その中には求職中(求職型)、求職意欲はあるが求職中ではない(非求職型)、求職意欲がない(非希望型)に分けられ、なおかつ、内閣府の調査によれば、全国で、平成14年で、無業者およそ213.2万人の内、求職型がおよそ128.7万人にあたり、非求職型(42.6万人)と非希望型(42.1万人)をあわせた数、つまり「ニート」に相当する人数が84.7万人である(内閣府[2005]pp.7)。要するに、仮に三浦の調査における無業者の内、「ニート」の割合が内閣府のものと同じならば、《無業の男性は、いわゆるニートにほぼ相当すると考えてさしつかえない》などということはできず、《無業の男性》の内「ニート」に相当するものの割合は、全体のおよそ5分の2に過ぎないということになる。ちなみにこの調査において、三浦が、無業者に対して現在求職しているかどうかを問うた形跡は、少なくとも本書からは見られない。

 さらに87ページでは、三浦は「ニート」を《働く意欲がない若者》としてしまっており、また三浦は「ニート」の意識についてさんざん愚痴を述べているが、上記の指摘により、三浦の分析の全てが吹っ飛んでしまうと私は確信する。どうでもいいけれども、三浦は第4章でフリーターが増加した原因として、バブル時代に「自分探し」とやらが扇動された故、多くの若年層が自分にあった仕事をえり好みするようになったことを上げているが、それが数億歩譲って正しいとしても、三浦はそれを煽った一人として(そもそも三浦はバブル時代にパルコの雑誌に在籍しており、『「かまやつ女」の時代』に掲載されたプロフィールでは、「消費は宗教」とばかりに煽っていたと記述していたではないか!)、どう見ているのかということについては記述されていない。あくまで他人事である。

 三浦による、非正規雇用者に対する罵詈雑言集への批判はこれだけにしておいて、第6章(「危うい「下流ナショナリズム」」)の分析に移る。というのも、私は、冒頭で採り上げた伊奈正人のブログで章立てを知ったとき、ついに三浦が、いわゆる「赤木問題」にコミットする!と思ったのだ。ついでにこれをミクシィで書いたところ、ある人からは、「赤木問題」ではなく、高原基彰のいうところの「不安型ナショナリズム」(高原基彰[2006])ではないか、という意見をいただいた。まあ、どちらにしろ、もしこれらについて三浦の分析を読んでみたいものだ。

 ちなみに「赤木問題」とは、フリーターの赤木智弘が、「論座」平成19年1月号の特集で、「「丸山眞男」をひっぱたきたい――31歳フリーター。希望は、戦争。」と題する衝撃的な論考を発表したことに起因する問題であり(実際には、赤木の主張は、もっと深いもので、フリーターである自分を不可視化し、偽りの「平和」に甘んじている俗流左派への根本的な批判である。ちなみに、赤木の著書が、来月双風舎より発売されます。キャンペーンブログも展開中ですので、是非ご覧下さい)、それについて同年4月号で、佐高信、福島瑞穂、森達也などの左派の大御所が反論し、さらにそれについて、6月号で赤木が反論になっていないと再反論した。ちなみに赤木の再反論にほぼ便乗する形で、私も同号に書いている。

 さて、そのような期待を抱いて、私は本書の第6章を開いてみたのだが、なんと、赤木の名も、あるいは高原の名も、全く出てこないのである。まあ、半分の半分くらいは予想通りだったが。で、三浦がどのようなことをナショナリズムと捉えているかというと、「愛国心があるほうだ」「日本文化が好きだ」「中国は嫌いだ」「韓国は嫌いだ」「アメリカは嫌いだ」とか、さらには「オリンピックやサッカー・ワールドカップで日本を心から応援する」といったものなのである。正直言って呆れてしまった。これでは俗流左派のナショナリズム観と全く同じではないか(どうでもいいけれども、三浦が「週刊SPA!」と「SMART」の読者層を「SPA!男」「SMART男」と書いているのに、「日経ビジネス」の読者に対してはそういうネーミングをしていない、というところに、三浦の意識が見て取れると思うのだが、どうか)。また三浦は、「上」のナショナリズムは愛国心などのポジティヴなものであるのに対し、「下」のナショナリズムは、反中、反米などのネガティヴなものであるとしている。しかしながら、それについても、「日本の歴史には誇りや愛着がある」をのぞいて、各階層で、たかが数パーセントの差しかない。果たしてこれが有意な差なのだろうか?

 もう一ついうと、三浦の用いているアンケート調査においては、調査対象は20~44歳のみである。しかしながら、私が読売新聞の出口調査の分析を引用して示したとおり(平成17年9月28日付読売新聞、及び、後藤和智[2007])、あるいは朝日新聞が平成17年の総選挙の前に行なった調査にあるとおり(「朝日総研リポート AIR21」平成17年11月号、pp.146)、自民党の支持基盤は若年層よりも50代以上の高齢者であるのだ。その点についての三浦の配慮もない。

 さらにいうなら、三浦のいうところの「SMART男」の投票行動について、三浦はこんなことを言ってしまう。

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 それに対して(筆者注:格差社会を実感しつつも、仕方なく実力社会を容認する「SPA!男」に対して)SMART男は、政党支持や投票行動から新自由主義的政治を支持しているように見えるのに、自分自身は成果主義、実力主義がよいとは思っていないというのは、一見矛盾している。

 しかしそれは矛盾ではない。がんばりたい人は、どうぞがんばってください。でも僕はがんばりません。がんばらなくても、欲しいものはインターネットのオークションで安く手に入りますから、という価値観なのであろう。(pp.163)

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 まあ、これが三浦クオリティなのだろう。

 他にも、三浦が「下流」と見なした人間に対する罵倒は、特に本書の「下流コラム」と称されるコラムにおいて激しいのだが、これについては気持ちが悪くなるので特に批判しないこととする。これ以上気を悪くしたら、私の健康に関わる。しかしながら、同書を通読して気づいたことは、所詮は三浦にとっては「格差」、というより「下流社会」とは、結局のところ見世物に過ぎず、さも動物園の中の動物の如く罵倒して楽しむものなのだろう(本書、あるいは三浦の他の「格差」本における感嘆符の濫用が、まさにこれを示していると言えるかもしれない)。そして三浦が粗製濫造している本もまた、そういうものに過ぎないのだろう。同書において、「下流」と三浦が勝手に名付けた人たちは、徹頭徹尾無気力と見なされている。

 そんな三浦にとっては、例えば日雇い労働者の労働条件や、あるいは労働市場の構造変容、そして当事者による運動は見えないのだろう。事実、これらに関する記述は、全くと言っていいほど出てこない。ある言説に対して、それが語っていることと同時に、語っていないこともまた重要であると考えれば、様々な新聞やテレビが若年層の惨状を伝えているにもかかわらず(日本テレビやフジテレビだって報じているのだ)、三浦の認識は数年ほど遅れている。

 小林美希は、いわゆる「ネットカフェ難民」に関する報道について、ブログで以下のように語っている

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 社会問題ではない。これは、流行である。

 もしもネットカフェ難民という言葉が流行語大賞などをとったら、世も末だ・・・。

 この国は今、労働問題をきちんと論じていないことが多い。
 ネットカフェ難民とか、なんでも格差で、労働問題の本質を見誤っている。

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 三浦は間違いなく、「下流社会」なる言葉で若年層をめぐる格差や貧困を、ことごとく若年層の精神に押しつけ、疑似問題化、脱政治化させた張本人だ。それにもかかわらず、多くのメディアが、三浦の言説をありがたがり、そして若年層に自己責任論を浴びせかけている。

 派遣ユニオンは、グッドウィル・グループの不祥事に対して、折口雅博に対し「折口、ちょっと来い!」というデモを張った。私も「POSSE」に力を貸している以上、非正規雇用者などに関する運動の現実を伝えて、こういうしかないだろう。

 「三浦、ちょっと来い!」

 参考文献・資料
 内閣府政策統括官「青少年の就労に関する研究調査」、2005年7月

 後藤和智「左派は「若者」を見誤っていないか」、「論座」2007年6月号、pp.122-127、2007年5月
 小林美希『ルポ 正社員になりたい』影書房、2007年5月
 三浦展『下流社会 第2章』光文社新書、2007年9月
 高原基彰『不安型ナショナリズムの時代』洋泉社新書、2006年4月

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2005年9月18日 (日)

統計学の常識、やってTRY!第6回

 いい加減にしてくれ。

 この連載の第3回において、私は、日本地理学会の行なった「学力調査」を検証したが、今度は国立国語研究所か。この研究所が行なった「学力調査」が、平成17年9月18日付読売新聞に掲載されている(岩手県版、宮城県版)。

 それによると、《大学生の3人に1人は、「春はあけぼの」の意味が分からない――。国立国語研究所の島村直己主任研究員らの研究グループが17日、千葉市で開かれた日本教育社会学会でこんな調査結果を発表した》(2005年9月18日付読売新聞、以下、断りがないなら同様)ということらしい。この記事によると、《調査は今年6~7月、国立大5校と私立大3校の1~4年生までの約850人に実施。古文4、現代文2の計6問を出題し、2年前に高校生1~3年生約1500人に実施した同一問題での調査結果と比較した》とあるのだが、サンプルに偏りが生じていないだろうか。要するに、どのような大学で行なったのか、理系なのか文系なのか、学力偏差値上でのレヴェルはどれほどか、ということが全く書かれていないのである。あまつさえ《現代文は高校生より正答率が低く、研究グループは「大学生の活字離れが深刻になっているのではないか」としている》などと「分析」されたら、もはや疑いたくなるのはこの調査を行った人の学力のほうだ。他の世代との比較もない。この調査は、最初に結論ありきで行なわれたと罵られても仕方がないのではないか。
 ちなみに私は日常的に蛙を「かわず」と言っておりますが何か?

 はっきり言うけれども、このような「調査」に何の意味があるのだろうか。最近では、連載第3回で検証した日本地理学会の調査の如く、ただ「今時の若者」に対する不信感を煽るだけの「学力調査」が乱発される傾向にあるけれども、このような調査は、本来であれば長い時間をかけて、安易な「結論」を捻出するのはできるだけ慎まなければならないはずなのだが。

 もうこれ以上いうことはない。結論、このような無意味な「調査」をやめよ。

 参考文献・資料
 谷岡一郎『「社会調査」のウソ』文春新書、2000年5月

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2005年8月30日 (火)

統計学の常識、やってTRY!第5回

 たとい統計といえども、客観的な指標を表しているとはいえない統計も存在する。若者報道の非常識ぶりから統計学の常識を探る企画「統計学の常識やってTRY」の第5回は、そのような統計を検証することとしよう。

 今回検証する統計は、朝日新聞社の発行する週刊誌「AERA」の編集部と、教育評論家の尾木直樹氏が行なった統計である。そして統計の結果が、「AERA」平成17年9月5日号に「父よ母よ 園児が壊れる」なる記事として刑されている。その統計の内容は、《ここ数年の子供たちの変化について、教育評論家の尾木直樹法政大教授の協力を得て全国の保育園と幼稚園(筆者注:215箇所)にアンケートした》(各務滋、坂井浩和、小田公美子[2005]、以下、断りがないなら同様/31ページ)というものらしい。

 この時点で疑問がある。「AERA」編集部(以下、単に「編集部」と表記した場合は「AERA」の編集部を指すものとする)と尾木氏は、どうして子供の体力などに関する直接的・客観的なデータを採らずに、このような方式を採用したのだろうか。編集部や尾木氏は、幼稚園や保育園で指導に当たっている人たちは客観的に子供を見ることができる、と思っているのかもしれないが、このようなアンケート調査は結局のところ主観だけを調査しているのであって、客観的なデータを表しているとはいえない。

 編集部は、この記事において、例えば《バスのわずかなステップを、一人では降りられない》という《青森県の幼稚園で実際にあった事例》(以上、31ページ)みたいなものを立て続けに提示することで、昨今の子供たちの身体に異変が生じている、と主張している。しかし私が疑問に思うのは、そのような事例が果たして本当に一般化しているのか、ということと、また仮に増加していたとしても、都市部や郊外部や農村部の如く、あるいは社会階層の問題に関して、どのような違いが見られるのか、ということだ。そのようなさまざまな社会階層に関する差異も検討せずに、子供たちと親たちをバッシングするということは、果たして調査を行うものとして正しい行為ということが出来るのだろうか。たとい事例を引っ張ったからといって、具体的な数値での裏づけがない限り、そのような調査は決して説得力を持ったものにはならない。

 32ページでは、《疾患を持つ子が増えたと答えた園は、全体の8割を超えた》とある。だがこれに関しては原因論は一切語られていない。また疾患に関する内訳も書かれていない。こと疾患に関しては、どうしても子育て還元論にしえない要素が多いので、全体として還元論として書かれているこの記事では深くは触れたくない、ということか。

 調査に関して言うと、32ページの最後の段から34ページ1段目までに採り上げられている《こころ》に関する調査はかなり主観が入っている。ここで取り上げられている調査項目は、《友達とかかわることの苦手な子が増えている》《集団遊びをしているときに、ルールが分かっていても守れない子どもが増えている》《落ち着きのない子どもが増えている》《攻撃的な行動をする子どもが増えている》《自己中心的な子どもが増えている》《「パニック」状態になる子どもが増えている》というものなのだが、果たしてこのような調査において「増えている」と感じているという結果が多かったからといって、本当に増えているかどうかとは決していえないのである。人間は過去の記憶を美化する傾向があるから、そのようなことに関することも考慮しなければならないし、あるいはここ最近の「今時の若者」「今時の子供」をめぐる言説が過度に横行し、そのため人々が規範(《こころ》!)に関して神経質に成っているからそのような見方になっているのではないか、という可能性も否定は出来ない。いずれにせよ、客観的なデータではないということだ。

 35ページに掲載されている尾木直樹氏の談話にも疑問が残る。尾木氏はこのアンケートの結果を分析して《・生活が崩壊し身も心もボロボロ/・家庭の子育て環境は最悪/・これでは、日本の未来が危ない》などと鬼の首を取った如く書いているけれども、尾木氏も学者であれば、このようなアンケートが、決して客観的な事例を切り取ったものではない、ということぐらい理解していただきたいものだ。また尾木氏は、35ページの3段目から4段目にかけて、《虐待が「増えている」は16%、「登園拒否」も5%と少ない。が、安心は禁物。これもまた、ここ数年の「増加」が少ないというだけのこと。自由回答を見ると既に広く“定着”した感さえある》と語っているのだが、例えば児童虐待は過去何度か深刻化したことがある(例えば、立花隆[1984])。尾木氏はそのような時代とどのように違うのか、ということを具体的に挙げなければならないだろう。また、《今日の幼児にも「新しい長所がある」(40%)との回答は喜ばしい。だがそれも、多くがパソコンを操作でき、言葉が大人びているなど「情報通」ぶりを指しているだけ。回答者自身、本当に長所といえるのか判断に迷っている》と書いている。ではどうして過去から続いている長所には触れようとしないのだろうか。しかも尾木氏のこの文章は、子供が《情報通》になることを拒んでいるようにも見える。そうなることにより、親の権威が崩されていることを恐れているのか。

 そもそもこの記事も尾木氏も「親がおかしいから子供がおかしくなる」という認識に立っているようだ。確かに子育ての問題に関して子供に責任を押し付けることはできないのは事実だ。だが、過度に親のばかり責任を押し付けると、社会的な変動を見逃すことにもならないか。ここ最近になって、子育てに関して残酷な還元論が増加しているけれども、東京大学助教授の広田照幸氏によれば、これほど「親の責任」が問われる時代がない、とも言えるようだ(広田照幸[1999])。ここ最近保守系の子育て論者の間では、「「育児の社会化」を推し進めると子育てにおける父性や母性が喪失され、社会が崩壊する」という論理が広がっているようだが(例えば、松居和[2003])、広田氏によると、戦前から高度経済成長直前までの農村共同体において家庭が子育てにかかわる割合は極めて少なかった(広田照幸[2003])。その代わり地域共同体が担っていた、という話になるが、戦後の高度経済成長によりそのような図式が解体されて、子育ては親に一元的に負担されるようになった。そのような状況を無視して安易な子育て還元論に収束させるのも暴力的だろう。この問題は、「子供はどこまで「監視」されるべきか」という問題も含まれており、昨今の状況に見ると、全て監視されれば健全に育成される、という傾向があるようだ(例えば、神奈川県横浜市における、深夜徘徊を禁止する条例において、違反した子供の親の責任が問われることや、鴻池祥肇氏の「市中引き回し」発言など)。

 これだけ問題点を述べておいて難なのだが、最後にこのアンケートにおけるとてつもなく大きい問題を提示して私は去ることにしよう。このアンケートの設問14個の中で、子供の可能性をポジティブに捉える設問は一つしかない(《新しい長所を持っていると感じる点がある》)。このアンケートは、あらかじめ現代の子供たち、そして親たちを問題視する前提で設計されているのである。このようなアンフェアなアンケートが行なわれ、しかも地域差とか社会階層の差異に関するコントロールが行なわれず、ただ不安を煽り立てるだけのこのアンケートは、もはや必要性からして疑問視されるものであろう。

 まあ、編集部や尾木氏が、本当に不安を煽る目的でこのアンケートを作ったのであれば、もはや私は何も言うことはない。

 参考文献・資料
 各務滋、坂井浩和、小田公美子[2005]
 各務滋、坂井浩和、小田公美子「父よ母よ 園児が壊れる」=「AERA」2005年9月5日号、朝日新聞社
 立花隆[1984]
 立花隆『文明の逆説』講談社文庫、1984年6月
 広田照幸[1999]
 広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書、1999年4月
 広田照幸[2003]
 広田照幸『教育には何ができないか』春秋社、2003年2月
 松居和[2003]
 松居和「モラルと秩序は「親心」から生まれた――子育ての社会化は破壊の論理」=文藝春秋(編)『日本の論点2004』文藝春秋、2003年11月

 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 杉田敦『権力』岩波書店、2000年10月
 森真一『日本はなぜ諍いの多い国になったのか』中公新書ラクレ、2005年7月

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2005年7月30日 (土)

統計学の常識、やってTRY!第4回&俗流若者論ケースファイル42・弘兼憲史

 ブログ開設当初からあった企画「統計学の常識やってTRY」が5ヶ月以上も休んでしまっていたのは、ひとえに採り上げるようなネタがなかったからに過ぎない。本来ならそれが望ましいのであるが、平成17年7月28日付の読売新聞に掲載された、読売新聞社による「勤労観」に関する全国調査は、新聞社がここまで若年層たたきを目的とする調査をやっていいのか、と思い、さらにそこでは漫画家の弘兼憲史氏と慶応義塾大学教授の樋口美雄氏のコメントが引かれていたのだが、弘兼氏のコメントがまさに俗流若者論だったので、「統計学の常識やってTRY」と「俗流若者論ケースファイル」を合併して検証する次第である。

 まず読売新聞の調査から入ろう。この調査は有効回収数が1825人で、実施方法が個別訪問面接聴取法である。回答者の内訳が、男女別で言うと男48%、女52%。世代別では20歳代11%、30歳代16%、40歳代15%、50歳代22%、60歳代22%、70歳以上が14%。サンプリングの面ではまずクリアしているといってもいいだろう。問題は設問だ。下の設問を見て欲しい。(カッコ内は回答率、単位は%)

 第2問:あなたは、こうした「ニート」と呼ばれる若者が増えている原因は何だと思いますか。次の中から、あれば、いくつでもあげて下さい。

 ・雇用情勢が厳しいから(41.5)
 ・親が甘やかしているから(54.5)
 ・学校などで働くことの大切さを教えていないから(26.0)
 ・義務感や責任感のない若者が増えているから(50.4)
 ・社会とのつながりを広げようとしない若者が増えているから(28.8)
 ・人間関係をうまく築けない若者が増えているから(49.8)
 ・仕事をえり好みする若者が増えているから(29.9)
 ・その他(2.1)
 ・とくにない(1.0)
 ・答えない(0.9)

 第3問:決まった職業に就かず、多少収入は不安定でも、好きなときだけアルバイトなどをして生活する「フリーター」と呼ばれている若者も増えています。あなたは、こうしたフリーターやニートと呼ばれる若者が今後さらに増えていくと、日本の社会にどんな影響があると思いますか。次の中から、あれば、いくつでもあげて下さい。

 ・税収が減り、国や自治体の財政が悪化する(57.8)
 ・将来、生活保護を受ける人が増え、国や自治体の財政が悪化する(39.0)
 ・年金や医療などの保険料収入が減り、社会保障制度が揺らぐ(57.2)
 ・収入が不安定で結婚できない人が増え、少子化が進む(37.5)
 ・収入が不安定な人が増え、金欲しさの犯罪が起こりやすくなる(45.4)
 ・社会全体の勤労観や価値観がゆがむ(37.4)
 ・その他(0.3)
 ・とくにない(2.1)
 ・答えない(0.8)

 この調査の底流に強く流れているのは、明らかにフリーターや若年無業者の問題をリスクとしてしか見なさない考え、特に若年無業者に関しては「今時の若者」の問題としてしか考えてないことである。まず第2問、若年無業者に関する質問であるが、「その他」「とくにない」を除く選択肢7つのうち5つも「……若者が増えているから」という選択肢なのだ。これに「親が甘やかしているから」という選択肢も加えれば、まさに選択肢7つのうち6つが「今時の若者」の精神の問題としての若年無業者問題を選択させていることになる。このような俗流若者論御用達の論理を平然として選択肢に陳列させる読売の調査の設計者は、本気で若年無業者問題に取り組んでいこう、という態度があるのだろうか。所詮は他人事としてしか考えていない設計者、そして回答者の顔が浮かんでくる。だが、実際には若年無業者の問題が社会階層とは無関係でないことが東京大学助教授の玄田有史氏や「労働政策研究・研修機構」副統括研究員の小杉礼子氏によって実証されている。フリーターに関しても、東京大学助教授の本田由紀氏が、《学校経由の就職》(本田由紀[2005])の衰退が大きな原因になっている、ということを述べている。フリーターや若年無業者の問題は、社会構造の問題ともまた切り離せない問題であるのに、読売の調査の設計者はその点をほとんど覆い隠している。

 第3問に関しては、なぜそのような問いかけをするのか、ということばかりである。もちろんこの設問で描かれていることは、フリーターや若年無業者という「今時の若者」が国を滅ぼす、というストーリイである。例えば《税収が減り、国や自治体の財政が悪化する》(2005年7月28日付読売新聞、以下、断りがないなら同様)のが問題というのであれば、なぜ公共事業のスリム化とか、人口減少社会に対応した財政運用の設計を考えないのだろうか。その点の議論については、千葉大学助教授の広井良典氏や(広井良典[2001])、政策研究大学院大学教授の松谷明彦氏(松谷明彦[2004])に譲ることとするが、少なくともフリーターや若年無業者の増加をリスクとしてしか見なさない思考からいい加減脱却するべきである。

 それにしても《収入が不安定で結婚できない人が増え、少子化が進む》よりも《収入が不安定な人が増え、金欲しさの犯罪が起こりやすくなる》が多く、《社会全体の勤労観や価値観がゆがむ》も前者に迫る、という調査結果に、私は愕然としてしまった。

 結局のところ、この調査はいかに社会がフリーターと若年無業者に関して貧困な意識しか持ち合わせていない、ということを如実に表している。しかもこの調査が、意図的にフリーターや若年無業者を問題として捉えさせるように設計されている――いや、実際に問題なのだが、しかし問題は読売の記者が想定することの彼岸にある。この調査は、むしろ読売をはじめとするマスコミがいかに若年就業の問題に関して貧困なイメージばかり垂れ流し続けてきたか、ということを示す反省材料にすべきであろう。

 しかし、この記事の問題点はここでは終わらない。ここからはこの記事における、漫画家の弘兼憲史氏の発言の検証だ。最初に言っておくけれども、ここで発言しているもう一人の専門家、慶応義塾大学教授の樋口美雄氏の発言はそれなりに分析的で、安易なバッシングに走ろうとしないことは評価できる。だが、弘兼氏の発言は、あからさまに若年層を堕落した存在としてしか捉えていない、レヴェルの低いものだ。さすが「団塊のスター」とでも言うべきか(暴言で失礼!)。

 弘兼氏は、若年無業者の増加について、《日本が裕福になり、親が養ってくれるからだろう。恵まれた時代に育ち、自立するという自覚が若者にはないからだ。日本の今後を考えると極めて不安だ。子供に良い目を見させると、ろくなことはない》と語っている。あなたも経済に関する漫画を描いているのであれば、あるいは新聞に「専門家」として登場しているのであれば、少なくともテキスト化された俗流若者論以上のことは言うべきだろう。そもそも「自立」を至高として掲げるイデオロギーも、最近の低成長によって旗色が悪くなっているのだが、その点も弘兼氏は理解していないのか。例を挙げてみると、玄田有史氏によると、子供が親に「寄生」するという所謂「パラサイト・シングル」は、決して若年層が親からの既得権に甘えているのではなく、むしろ既得権を与えられた親に子供が依存している、という構造があるという(玄田有史[2001])。まったく、弘兼氏がこのような発言しかし得ないのは、弘兼氏が《裕福になり》、マスコミが《養ってくれるからだろう。恵まれた》メディア環境に《育ち》、テキスト化された俗流若者論異常の発言をするという《自覚が》弘兼氏には《ないからだ》。まったく、弘兼氏の《今後を考えると極めて不安だ》。

 しかし弘兼氏はこれでは終わらない。社会保障に関しても弘兼氏、《若者は世代間扶養の意識もなく、そもそも年金の仕組みなども知らないのではないか》などと知った顔で語っているのだから救いようがない。もう一度言うけれども、安易にテキスト化された俗流若者論に依拠して若年層をバッシングする弘兼氏に、コメンテーターとしての存在価値はもはやないだろう。少なくとも、ここまで断定できるのであれば、何かテキスト化された俗流若者論以上のことを語るべきである。

 しかし弘兼氏はまだまだ終わらない。弘兼氏は労働意欲の変容について《勤労観は高度成長期に比べ明らかに変わっている。歴史が示すように、国力が上向きのときはみんな一生懸命に働くが、いったん豊かになると勤勉でなくなる。上り坂の日本ではないからしようがない面もあるが、若い人たちはこのまま行くと、今の豊かさが失われるという危機感をもっと持つべきだ》とも語っている。弘兼氏のこの発言を読んでいる若年層がどれほどいるのだろうか。よほど熱心な若年層(=その人は就業に対するモチベーションが高く、この手の情報にはなんだって飛びつく)か、あるいは私のようなひねくれ者(=マスコミ御用達の自称「専門家」の発言を楽しむことに対するモチベーションが高く、この手の情報にはなんだって飛びつく)くらいではあるまいか。社会格差の反映に苦しんでいる若年層が、このような弘兼氏の無責任なコメントを読んでも、あまり効果は上がらないだろう。

 弘兼氏の如き高度経済成長礼賛の言説を読むたびに、私は以下のことを思い出す。東北地方に住んでいる人であれば、平成15年5月と7月に、宮城県を中心に大きな地震が起こったのはご存知であろう。そのとき、東北新幹線の一関~新花巻の間のコンクリート高架橋のコンクリートが剥離する、ということが起きた。また、これ以前にも、山陽新幹線のコンクリート高架橋が建造して10年もたたないうちに著しい劣化を示していた、という報告もある。東京大学名誉教授の小林一輔氏によると、これらの高架橋は高度経済成長期に建造されたものであり、その時期に打設されたコンクリートは容易に中性化したり、コンクリートの劣化を促す塩化物イオンが含まれている海砂を洗わないまま骨材として使っていたり、手抜き工事をしていたりと、杜撰なものばかりである(小林一輔[1999])。ついでに言うと、高度経済成長期において、少年による凶悪犯罪は現在の数倍起こっていた。ここで礼賛されている「勤勉さ」など、所詮は札束によって暗黒面が覆い隠された幻想に過ぎないのである(ちなみに、弘兼氏などが理想とする高度経済成長期にも現在のような問題が起こっていたことが、パオロ・マッツァリーノ[2004]で指摘されている)。

 もちろん現在の低成長の時代は、社会の抱える問題を経済成長で覆い隠すことができなくなり、社会環境も激変した故に、社会問題が現在において噴出しているように見えるようになった。弘兼氏は、そのような問題の根本的な原因を突き止めようとせずに、高度経済成長期の如き経済成長でまた問題を覆い隠せ、というものではないのか?そこまでは行かなくとも、いずれにせよ、弘兼氏の議論が高度経済成長期を理想とする考え方であることは間違いないようだ。

 しかし、高度経済成長期の如く、人々を経済成長という「目標」に向かって猪突猛進させることが現在において可能であろうか。我が国は長期停滞の期間を経ることによって、労働意識が成熟してきた、という見方もある。若年無業者の就業問題に深く関わってきた、「ニュースタート事務局」代表の二神能基氏は、現代の若年層の就業意識が「効率優先」から仕事そのものの中に喜びを見出したい、という考えに変わりつつある、ということを論じている(二神能基[2005])。このような意識の変容に、特に中高年を中心に避難が上がることは多いが、しかし、人口減少が間近に迫っている我が国において、経済成長を第一としない、人々の幸福を第一とする意識、あるいは多様な趣味の共存を認める意識が深まっていくのは、ある意味では良い影響も大きいと思う。もちろん効率優先で思いっきり儲ける人もいてもよく、その点においては収入の二極化が進行するのだが、しかしこの形での二極化を一概に否定することもできないかもしれない。エコノミストの森永卓郎氏が最近になってオタクを擁護しているのも、これと関わりがある(ただ、森永氏は少々叫びすぎだと思うが)。

 話を弘兼氏に戻すけれども、結局のところ弘兼氏の一連のコメントは、自分の生きてきた時代を理想として、若年層を精神的に劣ったものとして罵倒するというものに他ならず、社会的に責任のあるコメンテーターの発言としては無責任極まりないものであると断定できるだろう。弘兼氏の想像力は自らの自意識と図式化された「今時の若者」を超えることができず、それゆえに安易なバッシングに走っている。コメンテーターに求められるのは想像力とヴィジョンであると、改めて実感した次第である。

 ついでに弘兼氏と読売新聞に関して言うと、弘兼氏には立派な「前科」がある。今年5月から6月のある時期にかけて我が国を騒がせた「ガードレールの謎の金属片」騒動に関して、弘兼氏は、平成17年6月3日付の読売新聞において、《非常に卑劣で陰湿な事件だ。インターネットの掲示板などで呼びかけている愉快犯がいるのかもしれない。集団自殺のように見知らぬ者同士がある一つの目的のために同じ行動をとる妙な社会になってしまった》(2005年6月3日付読売新聞)などと放言している。しかし、その後に国土交通省の実験によって判明したことだが、これらの金属片は、自動車がガードレールにこすれたときに発生するものだとわかった。このことについて、弘兼氏はいかに思っているのだろうか。弘兼氏には、少なくとも1年はコメンテーターとしてマスコミに顔を出さないことを要求する。

 総括すると、読売のこの調査、そしてこの記事は、明らかに若年無業者やフリーターを問題視して、彼らをリスクとしてしか見なさないという発想に基づいている。社会構造の問題や、人口減少時代にふさわしい就業のヴィジョンを欠いて、ただ徒に彼らをバッシングするだけの記事にいかなる意味合いを持つことができるか。少なくとも短期的な若年層バッシングには役に立つかもしれないが、長期的にはむしろ害悪になる。ろくに歴史も調べもせず、問題に関して真剣にあたろうともせず、ただ「今時の若者」の問題としてしか取り組まないようでは、この記事に何らかの存在意義を求めるほうが難しいだろう。

 また、若年層に関するものに限らず、意識調査の類がなぜマスコミの検証材料にならないのだろうか。すなわち、ここで論じられている問題について、マスコミがいかに報じ、そしてそれが調査にどのように現れているか、ということである。この調査は、明らかに多くのマスコミが喧伝するフリーターや若年無業者に対するステレオタイプに基づかれて設計されているものであり、従ってマスコミの検証材料として読むにはある程度、この記事で触れられていないことを読み取る努力する必要がある。このような調査が新聞に掲載されること事態、新聞が自らの正当性を喧伝する目的で行なわれているのではないか、と疑わざるを得ない。

 いや、案外そうなのかもしれない。とすると、この記事が発表されることで最も喜んでいる人は、ひょっとしたら調査した人自身ではないか…。

 参考文献・資料
 玄田有史[2001]
 玄田有史『仕事のなかの曖昧な不安』中央公論新社、2001年10月
 小林一輔[1999]
 小林一輔『コンクリートが危ない』岩波新書、1999年5月
 広井良典[2001]
 広井良典『定常化社会』岩波新書、2001年6月
 二神能基[2005]
 二神能基『希望のニート』東洋経済新報社、2005年6月
 本田由紀[2005]
 本田由紀『若者と仕事』東京大学出版会、2005年4月
 パオロ・マッツァリーノ[2004]
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 松谷明彦[2004]
 松谷明彦『「人口減少経済」の新しい公式』日本経済新聞社、2004年5月

 五十嵐敬喜、小川明雄『「都市再生」を問う』岩波新書、2003年4月
 マックス・ヴェーバー、大塚久雄:訳『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波文庫、1989年1月
 谷岡一郎『「社会調査」のウソ』文春新書、2000年5月
 ロナルド・ドーア、石塚雅彦:訳『働くということ』中公新書、2005年4月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月

 太田匡彦「こんな親の子就職はムリ!」=「AERA」2004年2月9日号、朝日新聞社
 島耕作「団塊世代のトップランナー、大いに語る」(取材協力:弘兼憲史)=「現代」2005年4月号、講談社
 諸永裕司「一生ずっとフリーター可能なのか」=「AERA」2003年7月14日号、朝日新聞社

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2005年2月24日 (木)

統計学の常識、やってTRY!第3回

 さて、若者報道の非常識ぶりから統計学の常識を探るシリーズ「統計学の常識やってTRY」の第3回であるが、今回採り上げるものは、もうこれに類似したものを最近になってしょっちゅう目にしているので、本当にいい加減にしてほしい、という気持ちでこれを書いている。なので、もしかしたら過去2回のシリーズよりも文章が極端にゆるくなってしまうかもしれないことをご了承願いたい。
 時は平成17年2月23日。遅く起きた私が読んだ読売新聞の社会面に、ある記事があった。筆者はこの記事を読んで、ああまたこの手の記事か、本当にいい加減にしてほしいよな、と思ったのだが、読んでみて、案の定「この手の記事」だった。今回の「TRYマスコミ」はこの読売新聞の記事である。
 記事の見出しは、「「イラクってどこ?」44%」である。記事によると、《日本の大学生の約44%が世界地図上でイラクの位置を正しく示せず、アメリカについても約3%がどこにあるのか分からない》なのだそうだ。記事は以下のように続く。曰く、

 調査は昨年12月から今年2月にかけて、25大学の学生約3800人と、9高校の生徒約1000人を対象に実施。世界地図上の30か国に番号を付け、その中から、アメリカやイラク、北朝鮮など10か国の場所を選ばせた。
 その結果、最も正答率が低かったのはウクライナで、大学生が54・8%、高校生が33%。イラク戦争や自衛隊派遣でニュースに登場する機会が多いイラクは、大学生56・5%、高校生54・1%にとどまり、五輪に沸いたギリシャもそれぞれ76・5%と59・4%だった。
 最も正答率が高かったアメリカでも大学生の約3%、高校生の約7%が間違え、中にはイラクの場所としてイギリスやインドを選んだり、アメリカの位置として中国やブラジルを示した“珍答”もあった。

 まず、サンプリングの面からはクリアーしていると見做してもいいが、問題はどのような大学及び高校からサンプリングしたか、あるいはどういう方法で持ってサンプリングしたか、ということがすっぽり抜け落ちている、というところが気になる。記事には《25大学の学生約3800人と、9高校の生徒約1000人を対象に実施》と書かれているが、場所に関しては言及されていないのが気にかかるところだ。しかし、このような問いかけは枝葉末節をつくものでしかないだろう。
 この記事において中心となっている論点は、イラクの位置に関して大学生の約56.5%と高校生の約54.1%が正しく答えられなかった、ということだろう。しかし私が気になるのは、文章の中に、イラクに関して《イラク戦争や自衛隊派遣でニュースに登場する機会が多い》とあることである。ここで一つの問いかけをしてみたい。
 常日頃ニュースに接している層と、そうでない層の間で、正答率に有意差があったのだろうか。《ニュースに登場する機会が多い》と表記しているのであれば、これくらいの考察はあって然るべきであろうが。もしここで有意差がないとしたら、マスコミはイラクの位置を、度重なるイラク戦争報道にもかかわらず正確に伝えきれていない、ということになる。
 どうやらこの記事を書いた読売新聞の記者にとってすれば、半数近い高校生と大学生がイラクの位置を知らなかったことが問題であるようだ。しかし、それは本当に問題なのだろうか。つまり、「どこにあるのか」が正確に答えられなかったからといっても、「何が起こっているのか(いたのか)」あるいは「いかなる歴史を持っているか」ということのほうが重要に思われる。もちろん、大まかな文化圏や地域圏のどこに属しているか、ということが最重要だけれども、このようにただ「場所」だけ問いかけるような設問は、それこそ地理教育の本質を覆い隠すものでしかないように思うのだが。無論、米国や北朝鮮、欧州諸国に関して言えば正確な場所を知っていなければならないけれども、全ての国の場所を正確に知っていなければならない、というのは酷ではないか。「場所」だけ知っていて、そこで起こっていることに関して何も知らなかったら、それこそ仏作って魂入れず、である。
 そのようなことを少しも考えもせずに、ただ「数字」だけに右往左往するマスコミと学会は、滑稽を通り越してもはや不可解の域に入っている。もちろん《イラクの場所としてイギリスやインドを選んだり、アメリカの位置として中国やブラジルを示した“珍答”もあった》というのは問題外だけれども、このような事例を、さも鬼の首でもとったかのごとく嘲笑的に取り上げることに意味はあるのか?間違えたものの中の多くは、例えばイラクに関していえば中東のイスラーム文化圏の中にあることを知りながら、間違えてイランを指してしまった、というのが大半ではないか、と思うのだが。誤答の内容に踏み込みもせずに、安易な「今時の若者」批判をやらかすマスコミの学力は一体どうなっているのだろうか。
 「この手の記事」だから、話は当然の如く学習カリキュラムへの批判に向う。曰く、

 同学会よると、高校の「地理歴史」は1989年の学習指導要領改訂以降、「世界史」を含めた2科目が必修となり、残り1科目に「地理」を選択する生徒は半数にとどまっている。先進諸国などには地理を必修としているところも多く、同学会で地理教育専門委員会委員長を務める滝沢由美子・帝京大教授(地理学)は「最近、都道府県の場所や県庁所在地も知らない学生が増えていると話題になっていたが、実際に調べて驚いた。地理と歴史をバランス良く学ばせることが大切だ」と話している。

 だったら滝沢氏に問いたい。まず、地理履修者と非履修者の間に有意差があったのだろうか。ちなみに私は高校時代に地理は選択しなかった。しかし、スリランカ以外の全ての場所を答えることができたが何か?というのも、私は中学時代に地図帳を読むのが好きだったこともあり、これも影響しているのかもしれない。滝沢氏は、中学校の学習カリキュラムに関して何も言っていないのはどういうわけか。
 また、「この手の調査」に共通してあるのが、時系列、及び異なる世代間における差異を考慮せずに、「大人たちはイラクなどの場所を正確に答えられるはずだ」という前提でもって調査していることである。しかし、何割の大人がイラクの正確な位置がわかるだろうか。滝沢氏は調査しようとしなかったのだろうか。
 社会人や、定年などで無業者になったものに関して意識調査や学力調査の類がしにくいことには理由がある。社会人に関して言うと、その人たちは生産労働に属しており、その時間を奪うと生産性が減少する。また会社という、学校よりも統制がとりにくい組織に属しているので、調査がしにくい、ということで集団式の調査はできない。また、郵送式で調査しても、サンプルされた人は地図帳を調べるなどの余裕ができるので不公平が生じる。訪問式の場合は、無業者でもない限り訪問してもたいていいるのは専業主婦(主夫)であろうから、サンプリングが正確でなくなる。サンプリングの正確さで言えば、街頭インタヴューなど論外である。もっとも有効な方法は、サンプルされる人にとってもっとも都合のつく時間を聞いて、その時間に来てもらう、ということであろうが、この方法を用いると時間と予算(謝礼が主になるだろうが)がかさむ。
 だから必要なのは時系列での比較なのだ。この記事では、《初の「世界認識調査」》とあるけれども、第1回の時点では何も言えない。また、海外の事例も報告されないというのはどういうことか。いやしくも《先進諸国などには地理を必修としているところも多く》というのであれば、海外でも同様の調査を行なうべきであるのに、そのようなことを行なった痕跡もない。「この手の調査」にとって、「大人」と「外国」はタブーなのである。
 それにしても、このようなお手軽な「学力調査」や「意識調査」が至るところで行われ、その上っ面に過ぎぬ「数字」だけを採り上げて騒ぎ立てるマスコミは、学習の意義と、社会調査の意義を問いかけようという気概が本当にあるのだろうか。
 まず、学力を口にしたいのであれば、環境(学校のレヴェルや、専攻している科目の種類、ないし生活環境など)の差異を考慮するべきであり、調査する側はそのような変数を加えた結果を公表するべきである。また、できれば多くの比較対称(異なる世代、及び海外における事例など)を用意すべきだし、このような調査は、なるべくなら長い時間をかけて行なうべきである。そうしないと、この記事のように、安易な文部科学省批判しか生み出されないことになる。家庭・地域も含めた学習の意義や、教師としてやるべきことなど一切不問だし、調査で除外されている大人たちやマスコミ人(!)の知識も不問にされる。
 このような調査が存在する意義とは何か。このような調査を報じる記事の目的を簡単に言えば、「眉間にしわを寄せること」だ。要するに、学力が低下しており、凶悪な犯罪をいとも簡単に起こし、「問題行動」を起こしまくる「今時の若者」に対するフラストレーションを高めるだけにすぎないのである。教育の意義や本質、あるいは調査への疑念などちっとも考えていないのだろう。また、学会も、「「今時の若者」は何々がわからない!」という記事ばかりが受けるという現象をおもんばかってか、自らの地位を少しでも上げたいが為にこのような調査ばかりやるのだろう。一見カレントに見える問題の尻ばかり追いかけて、学者としての倫理は置き去りである。ここに存在するのは、「今時の若者」をダシにした利権である。
 そうか利権か。日本新聞協会の調査によると、我が国で若年層が新聞を読む時間は激減しているそうだ。そのような事実があると、新聞が中高年の読者の視線ばかり気にして「若者論」に精を出すのも、そんな傾向に二流以下の学者がただ乗りするのもやむをえないか。

 主要参考文献・資料
 潮木守一『世界の大学危機』中公新書、2004年9月
 谷岡一郎『「社会調査」のウソ』文春新書、2000年5月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 ダレル・ハフ、高木秀玄:訳『統計でウソをつく法』講談社ブルーバックス、1968年7月

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2005年2月17日 (木)

統計学の常識、やってTRY!第2回

 若者報道の非常識ぶりから統計学の常識を探る「統計学の常識やってTRY」の第2回である。今回私が採り上げる「社会調査」は、長崎県教育委員会による「児童生徒の「生と死」のイメージに関する意識調査」である(調査対象は長崎県内の小学4年1196人、小学6年1241人、中学2年1174人)。若者報道ではないが、この「調査」の結果がさまざまなところで引き合いに出されているので、今回はこの「調査」と、その取り巻きを検証することにしよう。
 長崎県教委がこのような調査に取り組んだのは、昨年6月頭に起こった児童殺傷事件、及び一昨年7月に怒った幼児殺害事件の影響があることはほとんど間違いないだろう。その意気やよし。しかし、この調査でよく引き合いに出されている「死んだ人が生き返ると思いますか」という質問では、統計的な粗が多数見つかるのである。
 この調査によると、死んだ人が「生き返る」と回答した人が、全体で15.4パーセント、小学4年で14.7パーセント(182名)、小学6年で13.1パーセント(146名)、中学2年で18.2パーセント(175名)いたというのである。また、都市部で16パーセント、その他の本土部で15.7パーセント、離島で11.6パーセントと、都市部になるにつれて高くなっているというのである。
 しかし、この後に設定されている、なぜ「死んだ人が生き返る」と考えるのか、その理由を答えさせる設問で、大いに疑問が湧く。曰く、

①テレビや映画等で生き返るところを見たことがあるから
②生き返る話を聞いたことがあるから(テレビ等を見て、本を読んで、人の話を聞いて)
③ゲームでリセットできるから
④その他

 これを誘導尋問といわずして何というのか。「その他」以外の全ての答えがメディアがらみではないか。この調査を引用する人は、どうしてこの調査の恣意性を疑うことをしないのだろうか。この設問を見る限り、設問の設計者が「今時の小中学生は死生観が麻痺している。それはメディアの悪影響が原因である」という偏った考え方をしているとしか思えない。麻痺しているのは、この設計者の良心であろう。この中から選べ、といわれる長崎県の子供たちに、私は同情を禁じえない。
 話を「生き返る」と回答した人の割合に戻そう。「生き返る」と回答した人の割合は15.4パーセントだったことについて、多くの人は「ゲームの悪影響」を引き合いに出した。これらの人たちは、この後の設問への回答をよく見たのであろうか。「死んだ人が生き返る」と考える理由を問うた設問において「ゲームでリセットできるから」(こういう表現も大いに問題があるというが同化)と応えたのが、全体でたったの7.2パーセント、小学4年で11パーセント、小学6年で3.4パーセント、中学2年で6.3パーセントなのである。従って、「死んだ人が生き返る」しかもその理由は「ゲームでリセットできるから」と回答した者の数は、全体で1.1パーセント、小学4年で1.6パーセント、小学6年で0.44パーセント、中学2年で1.1パーセントである。こんなことをちっとも考慮せず、今回の調査結果で、長崎県教委の人は臆面もなくこう書いている。曰く、

 ゲームの影響も確認してみたが、「ゲームでリセットできるから」という理由を挙げた児童生徒は比較的少数(7.2%)だった。しかし、たとえ少数であっても、子どもたちを仮想と現実の区別をつかない状況に陥らせるものであり、今日的な課題としてとらえておく必要がある。

 いい加減気付いてもらいたい。7.2パーセントというのは、極めて恣意的な質問の誘導によって導き出された結論であると同時に、それは全体の1.5割に過ぎぬ「死んだ人が生き返る」と回答したものの中における割合、いわば「条件付確率」なのであって、実際の確率は全体で1.1パーセントに過ぎないのである。条件付確率(割合)と実際の確率(割合)の区別もつかないで、よく教育委員会をやっていられるものだ。しかも《たとえ少数であっても、子どもたちを仮想と現実の区別をつかない状況に陥らせるものであり》という文章には主語がない(この執筆者の意図から考える限り「ゲーム」であるのは明らかなのだが)、まさに悪文である。しかも論理飛躍ではないか。やはりこの設計者が教育委員会にふさわしいものであるか、疑いたくなってしまう。長崎県教委は、ゲームの悪影響よりも、他のメディアの影響と、自分たちの統計が適切であるかをまず疑ったらどうか。
 ちなみに「その他」と答えたものの自由記述欄を見てみよう。この理由は大きく3つに分かれ、《祈れば人は生き返ると思うから》《霊が出てくるから》《肉体はなくなっても心は残っていて、別のものとして生まれ変わると思うから》(以上、小学生)《幽霊が生き返ると思うから》《人の魂は死んでいないと思うから》(以上、中学生)と言った宗教的な、あるいはスピリチュアル(霊的)な理由が多く、それ以外は《医学や科学の進歩によって、死んでも生き返と思うから》(小学生)《医学が発展すれば人は死んでも生き返ると思うから》《人が生き返るというのとは違うと思うが、技術が発達すれば、血液や細胞からクローンできると思うから》(以上、中学生)と言った、医学の進歩を過信したもの、そして《人は死んでも生き返ると信じたいから》《人は死んだら終わりだとすると悲しいから》(以上、小学生)《人は死んでも心の中に生きていると思うから》《亡くなった人に似ている赤ちゃんが生まれてくるから》(以上、中学生)と言った、「生き返る」と言う言葉の範疇に入らないと思われるものに大別される。
 おそらく、設問に、例えば「人の心(魂)が残るから」だとか、あるいは「医学が発達すれば蘇生できるから」みたいなものを加えたら、調査結果は大きく変動していただろう。
 また、設問の中でも、特に《生き返る話を聞いたことがあるから(テレビ等を見て、本を読んで、人の話を聞いて)》は至極曖昧である。例えば、母親が「私はよいことをすれば人はいつか生まれ変われると思う」と言ったとして、それが原因で子どもが「よいことをすれば人は生き返れる」と考えた場合でも、この回答をするだろう。要するに、回答の余地が大きすぎるのである。さらに《テレビ等を見て》とあるのは、第1番目の回答である《テレビや映画等で生き返るところを見たことがあるから》と重複しないだろうか。心配だ。
 長崎市教委によるこの「調査」の考察には、意地でも「今時の子供たちは死生観が希薄である」と言いたい欲望が見え見えである。唯一確実性が高いのは《子どもたちは、自らの経験によるのではなく、周囲からのさまざまな情報の影響を受けて、死を認識していることが明らかになった》(変数に医学の発達による寿命の長期化が除かれているのは大目に見よう)という分析くらいで、それ以外は、この考察の執筆者は強引に「教育的」な提言をしたいのか、と言いたくなる。
 はっきり言うが、この調査には、例えば高校生や大学生、そして社会人といった、異なる世代との比較がないのである(調査しづらい、という理由もあるだろうが)。だから、何をもって「今時の子どもたちは死生観が希薄である」と考えることができるのだろうか、という点からもこの調査に疑問を投げかけなければならないのである。そんなことも知らないで、《学校教育においては、飼育や栽培などの体験活動を一層重視するとともに、…子どもたちに命の尊さを語り、「生と死」について共に考えることが求められる》だとか、《今の子どもたちには、命はただ一つ、かけがえのないものであること、一度失われると決して取り戻すことができないことを…教えていかなければならないことを改めて痛感した》などと書き飛ばす。この調査から見る限り、「今時の」子供たちにおける「生と死」に対する考えが希薄である、ということは証明できないのである。
 また、「命の尊さ」を教えれば残虐な少年犯罪は阻止できる、というのは、論理のすり替えであると同時に、たいへん甘い考え方である、ということを指摘しなければならないだろう。そもそも超圧倒的大多数の青少年が(たとえ他人のことをいくら憎んでも!)人を殺していないのだから、たとえ100歩ほど譲って「今時の」子供たちの「生と死」に関する考え方が希薄化しているとしても、その多くが実際の行動(殺人事件!)につながっていないのである。そもそも我が国において、青少年による殺人の件数は昭和40年ごろをピークに一貫して減少傾向にあるのだから、「命の尊さ」を教えることが抑止力になりえないこと、少なくとも抑止力になりえるのか疑問が投げかけられるべきであることは明らかであろう。そんなに「命の尊さ」が大事なのであれば、世界中で大量虐殺を行なっているジョージ・W・ブッシュや、自国民が大量に餓死していても恬然としている金正日に言っていただきたい。
 また、この調査の設計者は「ゲームをやることによって仮想と現実の区別が曖昧になり、簡単に殺人を犯すようになったり、あるいは人が死んでもリセットして生き返ると考えるようになっている」などと臆面もなく考えているようだ。しかし、調査された青少年の何割がゲームをやったことがあるのだろうか。実際、かなりの割合ではないかと思われるのだが、それでも「人は死んだら生き返る」しかも「リセットできるから」と考えるものが全体の1.1パーセントしかいないというのであれば、むしろ少ないということもできる。しかも、長崎における凶悪殺人事件の少年犯罪者がゲーマーだったという事実はどこにもないのだから、このような仮定には最初から疑問が投げかけられて然るべきだ。我が国の俗流若者論は、青少年と若年には一貫して性悪説で向き合い、それ以外の世代には性善説で向き合う。私が朝日新聞社の雑誌「論座」の2004年2月号に、マスコミは少年犯罪が激増していると嘆いているが統計を見る限りではそんな事実はない、という投書を投稿したところ、同年3月号で、《検挙率の低迷を考慮すればむしろ少年犯罪は数字以上に深刻化しているであろうことは容易に推測できる》などという野暮な批判を受けた。しかし、検挙率低迷の最大の理由は、軽微な犯罪の認知件数が増加したことと、これまで警察が無視してきた、あるいは握りつぶしてきた被害届けを素直に受理するようになったことにあるのであって、凶悪犯罪の検挙率は現在でも90~70パーセント台の高水準を推移している。だから、この批判者が《容易に推測》した結果は明らかに間違いだった、ということである。ゲームに関しても然り。この統計によって明らかになったのは、設計者が「容易に推測」してみせた結論は、あまり有効性を持ち得ない、ということである。

 長崎県教育委員会には、調査において恣意的な設問を作らないという真実はただ一つ、かけがえのないものであるということ、一度作って公表してしまうと決して撤回することができないことを本稿でしっかりと教えていかなければならないことを改めて痛感した。
 このことを踏まえ、俗流若者報道における「社会調査」の在り方について総点検を行い、その充実を図るとともに、統計学・論理学・社会学が一体となった取組の推進に努めていきたい。
 私は、現在、「統計の疑い方」や「有効正答率の計算の仕方」など、読者の理解に応じた「「善良な大人」たちの心に響く統計学教材」を作成中であるが、統計学からの逸脱行為を行なうと、学術的な制裁を受けるだけでなく、現実の子供たちに大変な誤解を与えることや、調査の行い手、及び報じ手に対しても多大な心配や迷惑をかけ、名誉を失うという悲しい思いをさせることを含めて「善良な大人」たちにしっかりと伝えるための参考資料も準備しているところである。これをブログで公開し、計画的かつ効果的な学習機会の設定を図っていきたいと考えている、まる。
 (この結語のネタ元はこちら

 参考文献・資料
 東京大学教養学部統計学教室・編『基礎統計学Ⅰ 統計学入門』東京大学出版会、1991年7月
 小島寛之『文系のための数学教室』講談社現代新書、2004年10月
 谷岡一郎『「社会調査」のウソ』文春新書、2000年5月
 ダレル・ハフ、高木秀玄:訳『統計でウソをつく方法』講談社ブルーバックス、1968年7月
 日垣隆『世間のウソ』新潮新書、2005年1月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月

 内藤朝雄「「友だち」の地獄」=「世界」2004年12月号、岩波書店

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2004年11月18日 (木)

統計学の常識、やってTRY!

 1・平成の常識?
 TBS系列、日曜昼1時からの番組「噂の!東京マガジン」の中に、「平成の常識やってTRY!」(以下、「平成の常識」)なるコーナーがある。司会の森本毅郎氏の前口上によると、「若者の非常識ぶりから平成の常識を探る」というコーナーらしい。
 このコーナーに趣旨というものがあるとすれば、それは、アポなしで出演する、いかにも「今時の」若い女性が、この番組の主たる視聴者である中高年の間で「常識」とされていることができないことを嘆き、笑い飛ばすことだろう。
 だから、このコーナーは、エンタテインメントでしかないのである。
 ところが、このコーナーの結果を真面目に受け止めてしまう人もいるのである。例えば、評論家の佐高信氏と、コラムニストの中野翠氏である。佐高氏は、このコーナーに出てくる若年と引っ掛けて、「新しい歴史教科書をつくる会」への賛同を表明した林真理子氏や阿川佐和子氏の「頭の悪さ」を批判し(佐高信[1998])、中野氏に至っては、番組によって意図的に「選別」させられた若年を批判して、なんと「日本人の美徳」の喪失を嘆いてみせる、というものなのだ。
 中野氏曰く、
 《毎回、あまりのメチャクチャさに呆然となるのだが、一番ショッキングだったのは、ただの四角い箱を作るときの、ある男の子の釘の打ち方だった。(略)突如、「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ」という芭蕉の言葉が、数十年ぶりに(略)鋭く浮上してきた。「自然に従う」心性は日本人の美点で、そこからすぐれた文化(略)が生まれてきたと思うのだが……もう駄目なのか》(養老孟司[1998]の解説)
 一人の「今時の若者」を嘆いてみせて、そこから飛躍して天下国家を論じてみせる、というのはまさしく俗流若者論の典型的パターンなのだが、それにしても明らかに「お遊び」のコーナーの結果をここまで本気にしてしまう感性も、凄い、というより呆れてしまう。「今時の若者」が関わっていれば、中野氏にとっては何だって「憂国」の材料になってしまうのだろう。「サンデー毎日」の中野氏の連載にも、このような姿勢が垣間見える。

 2・「平成の常識」の統計学的分析
 このコーナーが単なるエンタテインメントでしかないこと、すなわち、結果に信頼を置くことができないことは、次の点に留意すれば容易にわかる。
 ・サンプリングが雑(いかにも、という感じの人選ばかりしている)
 ・母集団がわからない(「若者の非常識ぶり」と森本氏は言っているが、「若者」って誰?)
 ・サンプル数が少なすぎる(たいてい10~20人である)
 ・比較の対象がない(若い女性以外をまるで考慮していない)
 ・映像とナレーションの効果
 第1、第2のの論点について。ある社会調査の結果が信頼を置けるものであるためには、まずサンプリングが適切であることが最低条件となる。例えば、新聞社が行う社会調査は、多くの場合、層化2段階抽出という方法を使っている。また、青少年に対する意識調査の場合、その多くが学校のクラス単位で行われる。これらの方法は、母集団が定まっており、またその母集団に属する全てのものが等しく調査の対象になる。
 ところが「平成の常識」の場合、テレビカメラが大型のショッピングモールやテーマパーク、あるいは江ノ島などに赴いて、アポなしで行ううえ、調査地点が1箇所しかないので、サンプリングが適切であるとは言いがたい。例えばチャーハンを作る場合、その取材場所で15人を取材し4人の人が正しく作れたとしても、全国的にチャーハンを作れる若年層と作れないそれが4対11の割合で存在しているとは到底言えない。
 母集団に関しても、冒頭で採り上げた森本氏の発言から、このコーナーが視聴者に想定してほしい母集団は若年層全体なのかもしれないが、このコーナーを見ている限りでは、どう考えても取材地における若年で、しかも女性限定である。
 まあ、50万歩ほど譲って、「平成の常識」におけるサンプリングが、現代の若年層を代表したサンプリングであると仮定しよう。しかしここで第3の論点にぶち当たる。例えば、先ほどのモデルケースで、チャーハンを作れるかどうか、ということを15人に取材して4人が正しく作れた、と書いたが、現代の若年層の人数に比べ、15人というのはあまりにも少なすぎる。そこで、この回答における有効正答率を統計学的手法を用いて算出してみると、信頼係数95パーセントで55.1~7.1パーセントの若年層がチャーハンを正しく作れる、という結果が出た。このように結果に開きがあるのも、サンプル数が少ないからである。
 さらに第4の論点についても注視する必要がある。このコーナーは若い女性の「非常識ぶり」を嘆いているけれど、それでは若くない(失礼!)女性や、男性全般に関してはどうなのだろうか。仮に中高年の女性に、「平成の常識」と同じ方法でインタヴューを試みて、このコーナーが問題にしたい若い女性よりも正答率が低かったらどうなるのだ。本書で血祭りにされる若い女性と比較されるのは「記憶」または「思い込み」であり、比較という観点から見るとまったく不公平としかいえない。
 第5の論点については、実際に番組を見てもらわないとわからないが、特にナレーションが「被験者」である若い女性の非常識振りを際立たせている。
 結局、統計学的に見れば、この種の番組は単なる「お遊び」でしかないのである。「平成の常識」は、統計学の非常識なのだろうか。
 然るにわが国ではこのような企画が後を絶たない。「若者の意識を調査する」とかいった名目で渋谷とか原宿に「突撃インタヴュー」を試み、ことに政治や社会問題についてはその「意識の低さ」を嘆き、若年層が得意である(とされている)ファッションなどに関しては、その「博識ぶり」を遠まわしに賞賛しつつも、やはり自分(中高年層)からかけ離れた世界の「不可解さ」を嘆いてみせる。情報の受け手である我々に必要なのは、このような企画や記事はエンタテインメントと割り切り、その統計学的誤りを突っ込み、「この企画(記事)は決して若年層全体の姿を現しているのではない」と自分に言い聞かせることである。
 それでは、これから読者の皆様を、若者報道の非常識振りから統計学の常識を探る「統計学の常識やってTRY」のコーナーへ誘おう。
 統計学の常識、やってトーーーーライ!

 3・若者の7割が小泉首相を支持?
 平成16年4月。イラクで日本の民間人3人が拉致された。政府とイスラーム指導者の努力で何とか救出されたものの、帰国した3人を出迎えたのはいわゆる「自己責任論」であった。私はこの動きを見て胡散臭いものを感じていて、結局これは「若者論」なのではないか、と思った(これが「若者論」であったことは、「正論」2004年6月号のあまりにも低俗な読者投稿特集が示している)。
 そんな面持ちで、朝日新聞社の発行している週刊誌「AERA」の04年4月26日号を読んでいると、「「自己責任」噴出のココロ」なる記事が掲載されてみた。「自己責任バッシング」を多く読んでいた私にとって、このような記事に出会えることは一種の喜びであった。しかし、この記事をよく読んでみると、タイトルからして「自己責任」を「AERA」お得意の「ココロ問題」として矮小化させているし、内容も空疎。「週刊金曜日」04年5月14日号に載った、アンドリュー・デウィット立教大学教授の「自己責任」批判でも読んで出直していただきたい。
 さて、私の目に止まったのは19ページに載っていたコラムである。見出しは「政府支持若者男性で7割」。どうやら「AERA」編集部は、この記事のためにネットでアンケートしたらしい。今回1つ目の「TRYマスコミ」(「平成の常識」では、サンプルである若い女性を「TRY娘」と呼ぶ)はこの記事である。
 記事によると、男性153人、女性154人に、「イラクで日本人3人が武装勢力に誘拐され、人質にとられた事件で、「誘拐犯グループの要求に応じて自衛隊を撤退することはあり得ない」という政府方針を支持しますか?」というアンケートをしたそうだ。結果は以下の通り。

 ※「「支持する」/「わからない、どちらとも言えない」/「支持しない」」で表示、単位%
 全体:56.4/22.1/21.5
 男性
 20代:67.7/19.4/12.9
 30代:74.2/12.9/12.9
 40代:61.3/12.9/25.8
 50代:60.7/3.6/35.7
 60代:59.4/25.0/15.6
 女性
 20代:50.0/34.4/15.6
 30代:35.5/29.0/35.5
 40代:38.7/35.5/25.8
 50代:56.7/23.3/20.0
 60代:60.0/23.3/16.7

 第一に注目すべきは、世代ごとのサンプル数及び回答者数であろう。ここでは男性153人、女性154人にアンケートしたというが、世代ごとの回答者数が公表されていない。仕方ないので、ここでの回答率から世代ごとの回答者数を割り出すしかないだろう。
 そこで、それぞれの回答率から世代ごとのサンプル数と、それぞれの答えの回答者数の中で最も信頼性の高いであろう物を割り出してみた。ただし、年齢の「~代」は省略する。
 ※「「支持する」/「わからない、どちらとも言えない」/「支持しない」/合計」で表示

 男性
 20代:21/6/4/31
 30代:23/4/4/31
 40代:19/4/8/31
 50代:17/1/10/28
 60代:19/8/5/32
 女性
 20代:16/11/5/32
 30代:11/9/11/31
 40代:12/11/8/31
 50代:17/7/6/30
 60代:18/7/5/30

 さて、世代ごとのサンプル数が決定したところで、いよいよ有効回答率を求めよう。各回答ごとの有効回答率を求めるのは少し面倒なので、ここでは小泉首相の決定に「賛成」した人の有効分布を求める。
 ただし、サンプル数が31人前後と中途半端に少ないため、これを大標本とみなすか小標本とみなすかは微妙なところである。なので、両方について検定してみよう。

 ※「統計回答率/小標本とみなしたときの有効回答率/大標本とみなしたときの有効回答率」で表示、単位%、信頼係数95%

 男性
 20代:67.7/78.7~54.8/81.5~53.9
 30代:74.2/83.9~61.7/87.1~61.2
 40代:61.3/73.1~48.1/75.7~46.9
 50代:60.7/73.1~47.0/75.9~45.5
 60代:59.4/71.3~46.4/73.7~45.1
 女性
 20代:50.0/62.7~37.3/64.5~35.5
 30代:35.5/48.5~24.0/49.6~21.3
 40代:38.7/51.8~26.9/24.3~53.1
 50代:56.7/69.1~43.4/41.8~71.5
 60代:60.0/72.1~46.7/74.7~45.3

 ご覧の通り、この統計では誤差がなんと10~15パーセントになってしまうので、この記事から簡単に小泉首相の態度に対する日本人の見方を示すことはできないのだ。さらに、世代別で見てみると、たった1人の回答が全体に約3パーセントの影響を及ぼしてしまう。はっきり言って、サンプル数が少なすぎる、というほかない。然るにこの記事の執筆者は、思わせぶりな見出しをつけて、さも若年層が政府の「自己責任」バッシングに加担しているかのように書いてしまう。記者の感覚を疑わざるを得ない。

 4・クロス集計
 この記事の問題点はまだある。質問を再録してみよう。曰く、「イラクで日本人3人が武装勢力に誘拐され、人質にとられた事件で、「誘拐犯グループの要求に応じて自衛隊を撤退することはあり得ない」という政府方針を支持しますか?」である。
 ここで我々が注意すべきなのは、この質問が「政府方針を支持するか」というところで止まっていることである。しかし本来ならば、この質問に加えて、例えば「イラクに自衛隊を派遣した首相の責任を問うべきか」という項目を加えるべきだろう。さもないと、この記事のように、政府の方針を支持したものはみんな自衛隊の派遣に肯定的である、といった誤解を読者に植え付けかねない。
 この質問には、「救出費用を被害者が負担すべきか」という最も大切であるはずの質問がない。首相の方針を支持した人のうち、何人が「自己責任」バッシングに加担したか、ということこそ、物事の本質であって、本来なら爆弾の質問とこの質問の2つでクロス集計を行うべきだったのだ。首相の方針を支持=「自己責任」バッシングという図式がいかに杜撰であるかは、明確である。
 ちなみに私はこのとき、政府の方針を支持した。「テロに屈してはいけない」という短絡した理由からではない。この事件と自衛隊の撤退はあくまでも別個のものだからである。自衛隊を撤退させるならば、この事件の背景を深く読み取って、いかなる条件の下で撤退すべきか、ということを鑑定しなければならない。撤退すれば全てが解決する、というのは何も考えていないのと同様だ。もちろん、人質は一方的な被害者なのだから、政府は人質の救出に全力を尽くすべきである。ましてや、被害者に救出費用を負担させるなど、もってのほかである。
 閑話休題、この記事は、小泉首相の方針を支持=自衛隊のイラク派遣を肯定=「自己責任」バッシング、という論法や、若年層が「自己責任」バッシングに加担している、という虚妄の問題設定を振りかざして、肝心の検証を怠った、デタラメな記事というほかない。このような記事が簡単にまかり通ってしまうようでは、編集部における記事のチェック機能も麻痺している、といわれても仕方ないのではないか。安易な「憂国」(何も「憂国」をやるのは自称「右翼」「保守」だけではない)を先立たせた、まさに「若者報道」の帰結の一つとして明記されるべきだろう。

 5・意識調査の問題点
 二つ目の「TRYマスコミ」は、01年1月26日付の朝日新聞夕刊(首都圏版)第1面である。見出しは「いまどきの17歳 他人に厳しく自分に甘く」であるが、この記事を見ると、《他人に厳しく自分に甘く》はまさにこの記事を書いた朝日の記者というべきだろう。
 記事を全文引用する。

《飲酒や朝帰りは当然オッケー、映画館で鳴るケータイは絶対に許せない。親が子を殴るのは半数以上が許すけれど、子が親を殴るのはダメ――。少年事件の多発で注目を集めているいまどきの「十七歳」はどんな道徳感を持っているのか、東京都の高校教諭(37)が生徒にアンケートを取ったところ、こんな結果が出た。更に生徒自身に分析させると、他人の迷惑好意は不快に感じるのに、自分がする時はむとんちゃく、という若者像が浮かび上がる。二十七日に東京で開幕する日本教職員組合(日教組)の教育研究全国集会で報告される。
 アンケートは、教諭が勤務する全日制都立高校生で三年生(十七、十八歳)の四クラス計百五十人を対象に実施。大人が問題にしがちなマナーやモラルに関する二十六種類の行為について「許す」か「許さない」かをきき、結果を生徒自身に評価してもらった。
 主な行為を「許す」割合が高い順に並べたのが表だ。常識的な結果と見ることも出来る。
 教諭が注目するのは生徒たち自身の受け止め方だ。「自分や友達がやっていそうなことは許す」「許せない行為の中には、自分がやる文には構わないが、他人がやると腹が立つものが多い」という傾向を読み取ったという。「利己的だ。情報化で他人の影響を受ける機会が減ったせいだろう」と分析する生徒もいた。
 学級崩壊や少年事件の続発を受けて、教育改革国民会議派奉仕活動を若者の全員が行うようにすることを提案。東京都は「他人の子どもにがまんさせよう」などと呼びかけて「心の東京ルール」と読んでいる。教諭はアンケートとは別に、三年生全員、約二百五十人にこれらへの意見を書いてもらった。
 「東京ルール」には、過半数が積極的に評価するか「いいのではないか」と理解を示した。一方、奉仕活動については、七割以上が否定的だったという。》
 表は以下の通り。
《高校生のバイト 100%
 高校生の茶髪 93%
 未成年の飲酒 88%
 高校生の朝帰り 87%
 電車の中の化粧 59%
 親が子を殴る 55%
 電車の中でいちゃつくカップル 47%
 ヤマンバギャル 46%
 電車の床に座る若者 40%
 不倫 26%
 援助交際 21%
 子が親を殴る 19%
 万引き 10%
 映画館で鳴る携帯電話 0%》

 この記事も、自己検証を怠った典型的な「若者報道」というほかない。まず、サンプルを取った地点が1地点しかないことだ。これでは、正確なサンプリングとは到底いえない。また、虚心坦懐にこの記事を読んだ限りでは、この「意識調査」は《教諭が勤務する全日制都立高校生で三年生(十七、十八歳)の四クラス計百五十人を対象に実施》であるから、記事はあたかもこの調査が「標本調査」であるかのように書いているが、本来は「全数調査」というべきである。
 「全数調査」なのだから母集団は必然的にこの教師が勤務していた全日制都立高校の3年生になる。この教師とこの記事を書いた記者は、全数調査と標本調査の違いを知らないのだろうか。この二つの調査の違いは中学校の数学で習う範囲であって、それを知らないとは言わせまい。
 1億歩ほど譲って、この調査が「標本調査」であると仮定しよう。しかし、ここでサンプルとされている全日制都立高校生の回答を一般化するためには、大幅な留保が必要になる。第一に、この全日制高校が、都立高校の中でどのような位置にあるか、ということだ。例えば、都内全体の偏差値的に見て高い学校と低い学校の格差や、あるいは普通科が中心の学校か専攻科が中心かということで生まれる格差など、判断すべき格差はいろいろある。どちらが正しい答えを得られるかはわからないが、少なくとも一つの高校における判断を一般化すれば、間違う可能性のほうが格段に高いことだけは言える。さらに言えば、この調査では東京以外の地方の状況を判断することができないので、この点から見てもこのアンケートの結果を《いまどきの17歳》全体に適用できない。
 もっとも、マスコミ的な《いまどきの17歳》のイメージを満足させるためにこの記事を書いたのであれば、私も納得できるが。
 ここから先は、わが国に怪物の如く横行している「意識調査」全般に関して言えることだが、この種の「意識調査」の目的は、高々マスコミで流されているような「今時の若者」のイメージを確認する、すなわち自らの色眼鏡の色の正しさを確認する行為に他ならない。第一に、他の国との比較がない。場合によっては、渋谷とか原宿とか東京都内だけで満足し、日本のほかの地方との比較がない。ちなみに、朝日新聞の近藤康太郎記者によると、米国内においてはトイレで飲食するのは珍しくないという(近藤康太郎[2004])。近藤氏によれば、米国ではある雑誌社が、電車内での行為をどこまで許すか、という特集記事を組んだところ、なんと電車内でスネ毛をそることまで許された、という。また、「世界まる見えテレビ特捜部」などの番組を見ていると、自分の親のあまりの莫迦ぶりに平行してしまう、という若い子供の証言を採り上げるイギリスの番組が紹介されたりもする。わが国のマスコミは、米英のマスコミのユーモアと寛容性を少しは見習ったらどうだ。
 話がそれた。ちょっと感情論に走ってしまったようだ。申し訳ない。
 第二に、時系列での比較がない。または、世代間の比較がない。前掲の朝日新聞の記事は、「大人たち」が「当然として」「問題に思っている」ことを集めたのだが、実際にどれほどの大人が問題に思っているのか、という数値的なデータは出てこない。わが国の「若者報道」では肝心なこの部分が省略されることが少なくないけれども、それでいいのか。
 昔は駅の中でしゃがむのは日常茶飯事だった、という証言もある。そして、「若者論」にうつつを抜かしているマスコミは、評論家の斎藤美奈子氏の以下の文を声に出して読むべきだろう。声に出して読みたい日本語である。
《露出過多の服装を「下着のようだ」「娼婦のようだ」と評するのは自由だが、昔の日本人は本物の下着姿(おばさんのシュミーズ、おっさんのステテコ)で外を歩いていたんだぜ。》(斎藤美奈子[2004])
 蛇足。ここで採り上げた朝日新聞の記事の中に、《教諭が注目するのは生徒たち自身の受け止め方だ。「自分や友達がやっていそうなことは許す」「許せない行為の中には、自分がやる文には構わないが、他人がやると腹が立つものが多い」という傾向を読み取ったという。「利己的だ。情報化で他人の影響を受ける機会が減ったせいだろう」と分析する生徒もいた》というくだりがある。この高校生たちは、「優等生」なのだろう。然るに、これらの証言、特に最後のものに関しては、懐疑的なものも多い、ということを肝に銘じてほしい。最後のものについては、「世界」2004年12月号で、明治大学教授の内藤朝雄氏が批判しているので、参照されたし。

 6・マスコミへの要望
 今回の「統計学の常識やってTRY」は、これでおしまいである。しかし、最後に、マスコミに言っておきたいことがある。
 それは、「今時の若者に特有の病理」みたいな表現を極力使うな、ということだ。このような問題設定をすることは、冷静な検証から自らのみを遠ざけて、「安全地帯」に逃げ込む行為であり、「善良な」読者の支持は得られても、問題の本質には迫れない。また、「今時の若者」を嘆く前に、まず古今東西の新聞記事や文献などを参照するべきだし、あるいは、過去の犯罪統計も読んでおくべきである。安易な「憂国」言説の氾濫は、国益を失う。国民が豊富な知識と冷静な判断力を持ち、本質を見極める能力を持ち、なおかつ自由に発言できることこそが国益であって、「若者論」の大盛況は国益と正反対の位置にある。
 それでは、次回の「統計学の常識やってTRY」をお楽しみに。面白そうなネタがあったらコメントかトラックバックで。

 参考文献・資料
 近藤康太郎[2004]
 近藤康太郎『朝日新聞記者が書いたアメリカ人「アホ・マヌケ」論』講談社+α新書、2004年7月
 斎藤美奈子[2004]
 斎藤美奈子『物は言いよう』平凡社、2004年11月
 佐高信[1998]
 佐高信『タレント文化人100人斬り』現代教養文庫、1998年7月
 養老孟司[1998]
 養老孟司『続・涼しい脳味噌』文春文庫、1998年10月

 谷岡一郎『「社会調査」のウソ』文春新書、2000年5月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 ダレル・ハフ『統計でウソをつく法』高木秀玄:訳、講談社ブルーバックス、1968年7月
 広田照幸『教育には何ができないか』春秋社、2003年2月

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