統計学の常識、やってTRY!SPECIAL ~三浦展『下流社会 第2章』を嗤う~
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『下流社会 』(光文社新書)を平成17年9月に出して、それでベストセラーを飛ばした三浦展は、それ以降、連綿と同工異曲と言っていいような本を出し続けた。私はそれらについて、いちいちチェックして買い集めてきたわけだが、いい加減『難民世代』(NHK出版生活人新書)あたりで食傷気味になってしまった。というのも、三浦の言説においては、その根本において以下のような問題を抱えており、とてもまともな議論とは言えないからである。
1. 三浦はいつも膨大なアンケート調査などをもとにして本を書くけれども、一応全国調査もあるけれども、詳細な調査については東京都とその周辺の3県(埼玉、千葉、神奈川)だけにとどまっており、他の都市圏(大阪など)との比較もないし、地方に至っては言わずもがな。彼の地方に対する態度は『ファスト風土化する日本』(洋泉社新書)に端的に表れており、せいぜい「重大な」少年犯罪が起こった場所にタクシーで行く程度でその地方の根本的な問題がわかった気になっている。週刊誌の記者でももっと取材するだろう。
2. 三浦が「下流」と判断した人間(あるいは社会階層)に対しては、これでもかといわんばかりの罵倒を投げつけている。その態度は『仕事をしなければ、自分はみつからない。』(晶文社)と『「かまやつ女」の時代』(牧野出版)に顕著に表れている。
この2点が三浦の根本的な問題なのだが、多くの人はこれに気づかずに、ただひたすら三浦の言説をありがたがっている。2で採り上げた著書に対する批判で述べたとおり、三浦の言説は極めて差別的な色を含んでいる。
さて、このたび発売された、三浦の『下流社会 第2章』(光文社新書)を手に取ってみたわけだが、本書は間違いなく三浦がここ2年ほどの間に粗製濫造してきた著作の中でも最も悪い部類にはいるのではないかと確信した。三浦における、三浦が勝手に名付けるところの「下流」の人間に対する罵倒はもはや揺り戻しが不可能なくらいの地点まで進んでおり、それが、今回の著作における自分でとったアンケート調査の解釈の仕方に顕著に表れているのだ(というわけで、今回は「統計学の常識、やってTRY!」の特別版としてお送りします。というより、このシリーズ自体およそ2年ぶりだ)。
まず、三浦の社会調査に対する認識が、大学の学部生レヴェルどころか、新書レヴェルの領域すら達していないことは、三浦が《毎度おなじみ》(三浦展[2007](以下、断りがなければ全てここからの引用)pp.3)として前書きに書く「下流度チェック」を見れば明らかだろう。今回もいくつかの項目が上がっているけれども(莫迦莫迦しいので書く気にもなれない)、本書は、三浦の怪しげなアンケート調査が、1億歩ほど譲って正しいものであると仮定しても、それは単に階層意識が「下」と答えた人がどのような意識や行動をとっていることを立証したに過ぎないのであって、こう考えているならお前は「下流」だ、と罵るための材料にはならない。要するに三浦は、統計のイロハのイ、つまり相関関係と因果関係の区別が付いていないのである。
三浦の社会調査の知識が「この程度」であることを念頭に置いて、同書を検討していくこととしよう。本書の構成は以下の通りである(伊奈正人のブログから引用)。
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目次
第1章 すがりたい男たち
第2章 SPA!男とSMART男
第3章 上流なニート、下流な正社員
第4章 下流の自分探しを仕組んだビジネス
第5章 心が弱い男たち
第6章 危うい「下流ナショナリズム」
第7章 踊る下流女の高笑い――女30歳の勝ちパターンはどれか?
おわりに――あたらしい正社員像を描くべき時代
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本書においては、主として第2,3,6章を中心に検討しておくこととする。まず、第2章については、三浦のアンケート調査の分析に対する意識が如実に表れているからである。また、三浦が、自らが「下流」と名付けたものたちに対して、これでもかと罵倒を続ける様が、後ろの2つの章にはっきりと現れているからだ。なお、採り上げないものの中でも、第1章は、延々と自慢話ばかりが続くので、採り上げるのも莫迦らしい。また、本書はあくまでも階層「意識」を中心に語られており、収入や支出などによる階層については語られていない。ちなみに当然のことながら、収入及び支出と階層「意識」の関連性も示されていない。
まず第2章から。何せこの章は、調査結果の曲解や牽強付会が多い。例えば、こんな感じに。
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それからおもしろいのは、『週刊プレイボーイ』で、派遣社員が11.1%と他の雑誌に比べてかなり多い。『週刊プレイボーイ』はしばしば反中国、反韓国的な記事を書くが、実際、30~34歳の派遣は61%が中国は嫌い、53.8%が韓国は嫌いと答えており、かつ同じく61.5%が反社会的な書き込みの多さで悪名高いインターネットサイトの「2ちゃんねる」を利用していると回答している。これは25~29歳のフリーターの77.3%に次ぐ高さである。30歳前後の一部の非正社員たちの抑圧された感情が、反韓・反中意識となって現れていることが推測される。(pp.43)
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ここまで強引な解釈も珍しい。第一に、《反中国、反韓国的な記事を書く》雑誌として真っ先に「週刊プレイボーイ」を挙げているが、例えば「週刊新潮」などはどうなのだろうか。このアンケート調査でも採り上げられているが、三浦はこれについて記述していない。第二に、雑誌の購読者層については全ての年代のデータを用いているが、反韓・反中意識については就業形態の、しかも年齢別のデータを用いている。ここで必要なデータは、「週刊プレイボーイ」を読むものの反韓・反中意識と、そして「2ちゃんねる」の利用者率だろう。
また三浦は49-51ページにかけて、購読誌別での政党の支持層を記述しているが、これの分析も強引である。ちなみに少しだけ注意しておくと、51ページでいきなり《秋葉原にいるオタク》という階層集団が出てくるけれども、この周辺の記述を見れば、《秋葉原にいるオタク》=「消費好きでパソコン好きな下流」、という『嫌オタク流』レヴェルの(笑)偏見を持っているのかもしれない。
などとふざけるのはやめにしておいて、57ページも見てみよう。
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また、SMART男(筆者注:雑誌「SMART」の購読者層)の居住地は埼玉県が32.3%と非常に多く(男性平均は19.1%)、買い物などでよく行く街としては新宿、地元、池袋、渋谷、原宿、お台場、表参道に次いで大宮が22.6%、そしてよく行く店として丸井、パルコに次いでルミネ、イオンが挙がっている。
つまり、埼玉県在住で、日頃は地元のイオンか大宮のルミネか丸井でぶらぶらし、たまに渋谷、原宿に買い物に出てくるフリーターが多い読者層であることがわかる。(pp.57-58)
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わからねえよ!
さて、三浦の頭の悪さ(笑)を白日の下にさらした上で、本番の第3章に移行しよう。三浦は、若年層の非正規雇用者は本当は正社員になりたくない、ということを示そうと必至になっているのだが、これがとにかく笑えるのだ。
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(筆者注:三浦は、朝日新聞が行なった、いわゆる「ロスト・ジェネレーション」に対する調査を引き合いに出している)まず、あなたは今後正社員として働きたいと思いますか。非正規雇用の社員のまま福利厚生面の待遇を上げてほしいですか」という質問に対して、「正社員として働きたい」と回答したのは男性派遣社員の53%、男性パート・アルバイト・フリーターの42%にすぎなかった。「非正規雇用の社員のまま福利厚生面の待遇を上げてほしい」と回答したのは、派遣社員の40%、パート・アルバイト・フリーターの36%だった。(女性についての記述は略)
格差社会を批判する学者、政党、労働組合、メディア関係者は、非正社員がみな正社員になりたがっているのになれないと思っていると考えがちだ。そしてそう思ってくれた方が現政権を批判しやすい。ところが、非正社員は必ずしも正社員になりたいとは思っていないのだ。だから格差社会批判をするだけでは世論は盛り上がらないし、若者の支持は得られないのである。
そこに「下層社会」あるいは「階級社会」とは質的に異なる「下流社会」の特徴がある。(略)(pp.70-71)
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三浦も認めているとおり(pp.72)、この調査において、《非正規雇用の社員のまま福利厚生面の待遇を上げ》るという対案が示されている故、《「正社員として働きたい」と回答した》ものが減ったという可能性は大いにある(ちなみに三浦はいくらか留保をつけており、これは3つある内の2番目なのだが、特に3個目の留保はかなり回りくどいものである)。さらに三浦は、正社員の労働条件が、非正規よりも厳しい場合があることまで認めている。これについては、小林美希も書いているとおり(小林美希[2007]pp.34-35)、例えばキヤノンなどで大規模に非正規雇用者の正社員化を推し進めた場合に、結局のところ正社員という名の過酷な労働形態が生まれただけ、というケースもあるため、三浦の分析は正しい。
そうすると、三浦が主張すべきことは、もし正社員が増えることを希望すれば、まず正社員の待遇をよくすることのはずだ。にもかかわらず、三浦は、こんなことを書いてしまう。
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企業は、給料を上げること、昇進させることが正社員のメリットだと考えるが、若者は必ずしもそう考えない。給料が上がっても、束縛が増えるのは嫌なのである。残業も転勤も単身赴任もしたくないからである。(pp.76)
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ちょっと待て、どこに《束縛が増えるのは嫌なのである。残業も転勤も単身赴任もしたくない》なんてことが書いてあるのだ?実をいうとこれは、三浦の身勝手な推論に過ぎないのである。ここに三浦の言説の特徴がある。要するに、自分が「下流」と見なした人間に対する度を超した罵倒である。
しかも三浦は、同じ章で、「ニート」に関して大チョンボをしでかしてしまう。
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念のためにいっておくと、この調査は学生を含んでいない。だから、無業の男性は、いわゆるニートにほぼ相当すると考えてさしつかえない。(pp.82)
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三浦は80ページにおいて「ニート」の正しい定義を書いているのに、なぜこう考えてしまうのだろうか?第一に、一口に「無業」といっても、その中には求職中(求職型)、求職意欲はあるが求職中ではない(非求職型)、求職意欲がない(非希望型)に分けられ、なおかつ、内閣府の調査によれば、全国で、平成14年で、無業者およそ213.2万人の内、求職型がおよそ128.7万人にあたり、非求職型(42.6万人)と非希望型(42.1万人)をあわせた数、つまり「ニート」に相当する人数が84.7万人である(内閣府[2005]pp.7)。要するに、仮に三浦の調査における無業者の内、「ニート」の割合が内閣府のものと同じならば、《無業の男性は、いわゆるニートにほぼ相当すると考えてさしつかえない》などということはできず、《無業の男性》の内「ニート」に相当するものの割合は、全体のおよそ5分の2に過ぎないということになる。ちなみにこの調査において、三浦が、無業者に対して現在求職しているかどうかを問うた形跡は、少なくとも本書からは見られない。
さらに87ページでは、三浦は「ニート」を《働く意欲がない若者》としてしまっており、また三浦は「ニート」の意識についてさんざん愚痴を述べているが、上記の指摘により、三浦の分析の全てが吹っ飛んでしまうと私は確信する。どうでもいいけれども、三浦は第4章でフリーターが増加した原因として、バブル時代に「自分探し」とやらが扇動された故、多くの若年層が自分にあった仕事をえり好みするようになったことを上げているが、それが数億歩譲って正しいとしても、三浦はそれを煽った一人として(そもそも三浦はバブル時代にパルコの雑誌に在籍しており、『「かまやつ女」の時代』に掲載されたプロフィールでは、「消費は宗教」とばかりに煽っていたと記述していたではないか!)、どう見ているのかということについては記述されていない。あくまで他人事である。
三浦による、非正規雇用者に対する罵詈雑言集への批判はこれだけにしておいて、第6章(「危うい「下流ナショナリズム」」)の分析に移る。というのも、私は、冒頭で採り上げた伊奈正人のブログで章立てを知ったとき、ついに三浦が、いわゆる「赤木問題」にコミットする!と思ったのだ。ついでにこれをミクシィで書いたところ、ある人からは、「赤木問題」ではなく、高原基彰のいうところの「不安型ナショナリズム」(高原基彰[2006])ではないか、という意見をいただいた。まあ、どちらにしろ、もしこれらについて三浦の分析を読んでみたいものだ。
ちなみに「赤木問題」とは、フリーターの赤木智弘が、「論座」平成19年1月号の特集で、「「丸山眞男」をひっぱたきたい――31歳フリーター。希望は、戦争。」と題する衝撃的な論考を発表したことに起因する問題であり(実際には、赤木の主張は、もっと深いもので、フリーターである自分を不可視化し、偽りの「平和」に甘んじている俗流左派への根本的な批判である。ちなみに、赤木の著書が、来月双風舎より発売されます。キャンペーンブログも展開中ですので、是非ご覧下さい)、それについて同年4月号で、佐高信、福島瑞穂、森達也などの左派の大御所が反論し、さらにそれについて、6月号で赤木が反論になっていないと再反論した。ちなみに赤木の再反論にほぼ便乗する形で、私も同号に書いている。
さて、そのような期待を抱いて、私は本書の第6章を開いてみたのだが、なんと、赤木の名も、あるいは高原の名も、全く出てこないのである。まあ、半分の半分くらいは予想通りだったが。で、三浦がどのようなことをナショナリズムと捉えているかというと、「愛国心があるほうだ」「日本文化が好きだ」「中国は嫌いだ」「韓国は嫌いだ」「アメリカは嫌いだ」とか、さらには「オリンピックやサッカー・ワールドカップで日本を心から応援する」といったものなのである。正直言って呆れてしまった。これでは俗流左派のナショナリズム観と全く同じではないか(どうでもいいけれども、三浦が「週刊SPA!」と「SMART」の読者層を「SPA!男」「SMART男」と書いているのに、「日経ビジネス」の読者に対してはそういうネーミングをしていない、というところに、三浦の意識が見て取れると思うのだが、どうか)。また三浦は、「上」のナショナリズムは愛国心などのポジティヴなものであるのに対し、「下」のナショナリズムは、反中、反米などのネガティヴなものであるとしている。しかしながら、それについても、「日本の歴史には誇りや愛着がある」をのぞいて、各階層で、たかが数パーセントの差しかない。果たしてこれが有意な差なのだろうか?
もう一ついうと、三浦の用いているアンケート調査においては、調査対象は20~44歳のみである。しかしながら、私が読売新聞の出口調査の分析を引用して示したとおり(平成17年9月28日付読売新聞、及び、後藤和智[2007])、あるいは朝日新聞が平成17年の総選挙の前に行なった調査にあるとおり(「朝日総研リポート AIR21」平成17年11月号、pp.146)、自民党の支持基盤は若年層よりも50代以上の高齢者であるのだ。その点についての三浦の配慮もない。
さらにいうなら、三浦のいうところの「SMART男」の投票行動について、三浦はこんなことを言ってしまう。
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それに対して(筆者注:格差社会を実感しつつも、仕方なく実力社会を容認する「SPA!男」に対して)SMART男は、政党支持や投票行動から新自由主義的政治を支持しているように見えるのに、自分自身は成果主義、実力主義がよいとは思っていないというのは、一見矛盾している。
しかしそれは矛盾ではない。がんばりたい人は、どうぞがんばってください。でも僕はがんばりません。がんばらなくても、欲しいものはインターネットのオークションで安く手に入りますから、という価値観なのであろう。(pp.163)
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まあ、これが三浦クオリティなのだろう。
他にも、三浦が「下流」と見なした人間に対する罵倒は、特に本書の「下流コラム」と称されるコラムにおいて激しいのだが、これについては気持ちが悪くなるので特に批判しないこととする。これ以上気を悪くしたら、私の健康に関わる。しかしながら、同書を通読して気づいたことは、所詮は三浦にとっては「格差」、というより「下流社会」とは、結局のところ見世物に過ぎず、さも動物園の中の動物の如く罵倒して楽しむものなのだろう(本書、あるいは三浦の他の「格差」本における感嘆符の濫用が、まさにこれを示していると言えるかもしれない)。そして三浦が粗製濫造している本もまた、そういうものに過ぎないのだろう。同書において、「下流」と三浦が勝手に名付けた人たちは、徹頭徹尾無気力と見なされている。
そんな三浦にとっては、例えば日雇い労働者の労働条件や、あるいは労働市場の構造変容、そして当事者による運動は見えないのだろう。事実、これらに関する記述は、全くと言っていいほど出てこない。ある言説に対して、それが語っていることと同時に、語っていないこともまた重要であると考えれば、様々な新聞やテレビが若年層の惨状を伝えているにもかかわらず(日本テレビやフジテレビだって報じているのだ)、三浦の認識は数年ほど遅れている。
小林美希は、いわゆる「ネットカフェ難民」に関する報道について、ブログで以下のように語っている。
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社会問題ではない。これは、流行である。
もしもネットカフェ難民という言葉が流行語大賞などをとったら、世も末だ・・・。
この国は今、労働問題をきちんと論じていないことが多い。
ネットカフェ難民とか、なんでも格差で、労働問題の本質を見誤っている。
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三浦は間違いなく、「下流社会」なる言葉で若年層をめぐる格差や貧困を、ことごとく若年層の精神に押しつけ、疑似問題化、脱政治化させた張本人だ。それにもかかわらず、多くのメディアが、三浦の言説をありがたがり、そして若年層に自己責任論を浴びせかけている。
派遣ユニオンは、グッドウィル・グループの不祥事に対して、折口雅博に対し「折口、ちょっと来い!」というデモを張った。私も「POSSE」に力を貸している以上、非正規雇用者などに関する運動の現実を伝えて、こういうしかないだろう。
「三浦、ちょっと来い!」
参考文献・資料
内閣府政策統括官「青少年の就労に関する研究調査」、2005年7月
後藤和智「左派は「若者」を見誤っていないか」、「論座」2007年6月号、pp.122-127、2007年5月
小林美希『ルポ 正社員になりたい』影書房、2007年5月
三浦展『下流社会 第2章』光文社新書、2007年9月
高原基彰『不安型ナショナリズムの時代』洋泉社新書、2006年4月
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