2007年7月15日 (日)

平成19年参院選マニフェストにおける青少年政策の評価

Sentan2007natu  (「選挙たん(仮)」は、サイト「選挙に行こう」のマスコットキャラクターです)
 (この記事においては、公職選挙法の規定に基づき、特定の候補者の名前を出すことは控えております。従って、この記事は、特定の候補者を支援、または批判する「文書図画」にはあたらないものと私は考えます)
 参考:公職選挙法について

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 フィギュア萌え族(仮)犯行説問題ブログ版・サブカル叩き報道を追う:「自虐的オタク観」を正す:6・30アキハバラ解放デモに寄せて
 冬枯れの街:【祝】13日の金曜日~人を呪わば穴いくつでも掘る覚悟を!~

 さて、参院選の公示が出され、ついに選挙戦に向けて各党が動き出すこととなったが、各党はマニフェストという形で、自らの党が進める政策を公約として広報している。また、それについて、例えば「言論NPO」などのように、総合的、あるいは各論的に評価するような動きもあり、あるいは私の所属している「POSSE」などは、どの点に注意して読むべきか、ということを提示している(「style3的マニフェストチェック」)。

 私も、前回の衆院選に引き続き、青少年言説を検討してきた立場から、青少年に関わる政策の記述(教育、若年雇用など)を検討していこうと思う。今回は、以下の政党のマニフェストを対象とする。なお、今回は、都合により、前回行なった全体の感想の比較を割愛することとする。

 自由民主党(以下:自民)
 http://www.jimin.jp/jimin/jimin/2007_seisaku/kouyaku/index.html
 公明党(以下:公明)
 http://www.komei.or.jp/election/sangiin07/policy/index.html
 民主党(以下:民主)
 http://www.dpj.or.jp/special/manifesto2007/index.html
 社会民主党(以下:社民)
 http://www5.sdp.or.jp/central/seisaku/manifesto07s.html
 日本共産党(以下:共産)
 http://www.jcp.or.jp/seisaku/2007/07saninseisaku/index_kobetsu.html
 国民新党(以下:国民)
 http://www.kokumin.or.jp/seisaku/senkykouyaku.shtml
 新党日本(以下:日本)
 http://www.love-nippon.com/manifesto.htm
 共生新党(以下:共生)
 http://www.kyoseishinto.org/p/21

 1. 教育
 1.1 総論および評価軸
 「教育」についてもう長い間とやかくやかましく言われ続けているけれども、特に政策としての教育を語る上でもっとも大事なことは、その政策が本当に(できるだけ)客観的な事実に基づいているか、あるいはそれを推し進めるための根拠は何か、ということである。従って、例えばマスコミで採り上げられるような極端な事例を、さも全体を代表する例であるかの如く取り扱って、それで政策を構築してしまう、というのは、はっきり言うが非常に度し難いこととしか言いようがない。

 ところがそれを平気でやらかしてしまう人たちがいる。それが、かつての教育改革国民会議であり、また今の教育再生会議である。特に後者に限って言うと、まず人選からして教育学の専門家を入れようとする気配はなく(準専門家といえるような人だって品川裕香くらいである。大学関係者にしても、小宮山宏と中嶋嶺雄がいるけれども、彼らが教育学に付いてある程度精通しているとは思えない)、せいぜいメディアで話題になった人たちとか、あるいは政府と結びつきの強い財界人ばかりである。こんなところに教育政策についてまともな議論を要求する方がおかしいのかもしれない。

 とはいえ、仮に政権交代が起こり、この「会議」が解散させられたとしても、また同じようなものが結成される可能性もないとは言えない。そもそも我が国の「教育」政策自体、何回も何回も「改革」の必要性が叫ばれ続けたけれども、それによって教育現場の状況が改善されたとはとても思えないし、昨今のものに関しては、一部の事例をわざと社会的な大問題にでっち上げて、自分で処理する(あるいは「処理する」という態度だけを示す)という、いわばマッチポンプのようなものさえも感じてしまう。

 さて、この項目に関する評価軸であるが、何よりもまず金銭的な問題、つまり支出や予算の量、あるいはそれを調達する手段について触れられているからである。これに関しては、既に「言論NPO」の評価が既に示しているとおり、少なくとも主要な政党(自民、公明、民主)は、一貫してそれについてほとんど触れられていない(そして、ここで評価する他の政党、つまり社民、共産、国民、日本、共生も同様であった)。というわけでこれは評価軸から除外する。次に私が必要だと考えるのは、主張する政策を推進するための理由である。これについては、民主、共産が明記している。共生はほとんど理念だけで、他の政党は政策だけ。とりわけ政権党である自民と公明が、政策を推進する「理由」から逃げているのはどういうことであろうか。

 1.2 評価
 それだけでなく、自民と公明の、教育に関する記述は、かなり通俗的な青少年言説に潤色されている。例えば自民については、《子供たちに「確かな学力」を約束するとともに、規範や礼儀を教える。学校評価を一層推進し、教育水準の向上を目指す》(自民、「008. 「確かな学力」と「規範意識」の育成」)とさらりと書いているけれども、まず子供たちの規範意識は本当に低下したのか、ということから検証されて然るべきだろうし、それについては多くの側面から疑問が突きつけられている(とりあえず、浅野智彦[2006]くらい読んでください)。また《国民の心と体の健康を守り、豊かな人間性を形成し、健全な食生活を実現するため「食育基本法」に基づき「食育」を推進する。「食事バランスガイド」を活用した「日本型食生活」の普及や「教育ファーム」等の農林業体験活動や地産地消を進め、「食育」を国民運動としてさらに展開する》(自民、「047. 「食育」-食べる・つくる・育む-」)などと書かれているけれども、まず本当に「食育」なるものの必要性が見えてこないし(食の安全に関する消費者教育ならともかく)、なぜ「日本型」に限定するのかもわからない。

 公明党だって負けていない。《すべての小学生が農山漁村で一週間以上の体験留学ができる機会を提供します。これにより、子どもの豊かな心を育み、地域コミュニティの再生に貢献します》《すべての小・中学生に少なくとも年一回、本物の文化芸術に触れさせる機会を提供します》(以上、公明、pp.22)などと書いているけれども、前者については、本当にそんな《体験留学》で《子どもの豊かな心を育み、地域コミュニティの再生》ができるのか、というよりもそもそも子供の心が貧しくなっているのか…というところが突っ込みどころであるし、同じページにおいては学生全員に奨学金を貸与する、と書いているが、どうせなら学費の全額免除くらい主張してください。というよりも、何で公明って、これほどまでに奨学金にこだわるのだろう。

 与党に負けない電波ぶりを発揮しているのが国民である。《先進国並みの教育費を確保するとともに、教員数を大幅に増やし、きめ細かな学校教育を展開する》(国民)はともかく、《ゆとり教育を抜本的に見直し、人間力を鍛える教育および基礎教育の充実を図る》(国民)などといわれた日には、正直ここに投票する気が失せてしまう。今更「人間力」はないだろう(この概念の不気味さについては、本田由紀[2005]を参照されたい)。それだけでなく《学校教育において、時代に見合った道徳教育を充実し、公共の精神の涵養を図る》《広く伝統文化に接する機会を増やすことにより、国民意識・愛郷心の育成を図る。また、「美しい日本語」の普及に取り組む》(国民)とも書かれている。「美しい日本語」をマニフェストに取り込むなんて、自民すらやっていないよ。

 民主の主張にも、自民、公明、国民に比較すればマシだけれども、それでも一部に疑問は尽きない。例えば高校や高等教育の無償化を主張しているけれども(民主、pp.24)、これについては財源が明記されていない。ただし、根拠として国際人権規約を挙げていることと、漸進的な推進とすることは明記している。高等教育については、民主はかなり明確かつ鋭い主張をしているけれども、初等教育については、「学校教育力の向上」が謳われているのみ。さらに、ここについても「コミュニティの再生」だとか、あるいは《教員の養成課程は6年制(修士)とします》(民主、pp.24)などと主張しているのが気がかりである。そもそも教員養成について、本当に修士でなければならない理由があるのだろうか(なお、いわゆる「教職大学院」の問題については、「今日行く審議会@はてな」の記事「日本に教職大学院なんていらない」と、佐久間亜紀[2007]を参照されたい)。

 もっとも評価できるのが共産であったが、やはり「政権党への批判は鋭いが、オリジナルの主張はあまり強くない」という、共産のマニフェストに特有の弱点が目立った。まず、《日本政府は国連・子どもの権利委員会から2度にわたって「高度に競争的な教育制度」の改善を勧告されています》《日本の教育予算の水準はOECD(経済開発協力機構)加盟国30カ国のなかで最低で、教育条件は欧米に比べてもたいへん貧困です》《すでに「いっせいテスト」とその公表をおこなった自治体では、「テスト対策のため文化祭や林間学校を縮小・廃止した」、「できない子どもを休ませた」、「先生が答案を書き換えた」など深刻な問題がおきています》(共産、「【14】教育問題」)という批判は実に痛快だし、また正当性もある。ところが主張については、《また「徳育」を「教科」にして特定の価値観を子どもたちに押しつけようとしています。しかも、安倍首相が押しつけようとしている価値観は、軍国主義を肯定・美化する戦前の価値観です》《憲法と教育条理に基づいた教育を追求します》(共産、「【14】教育問題」)などの「おなじみ」の文言を読んで、正直言って萎えてしまった。

 とりあえず改正後の教育関連の法令について言えることは、それらが「金は出さないが口は出す」(しかも、かなりうるさく)というものであり、それがますます教育現場の閉塞性を高めるのではないか、ということであり、それについては広田照幸や苅谷剛彦などの専門家が前々から主張してきた。この点を前面に押し出せばいいものの、残念でならない。

 なお、社民は基本的には「学校の教育力」に関する記述を除けば民主とほぼ同じで、日本は30人学級の推進を明記するにとどめている。共生の理念については、仰々しく構えているけれども、いざどのような政策をとるのか、ということについては見えてこない。あと、こういう記述があったのが笑えました。

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 又、英国の王立建築家協会が実施した調査では、すばらしいデザインの学校では不登校生は発生しにくく、教育効果は絶大であると結論づけている。(2007年国立新美術館における英国王立建築家協会会長の講演)病院でもデザインの良い病院では、患者の回復が早いことが分かっています。(共生)

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 さすがというか、なんというか…。

 2. 若年雇用
 2.1 総論および評価軸
 この分野については、平成17年の総選挙に比して、論じる環境が大きく変わった。まず、平成18年頃より積極的に採り上げられるようになった「偽装請負」「ワーキングプア」などの用語に代表されるような問題や、あるいは正社員と非正規雇用者の(賃金や待遇などの面での)格差、そして若年層における貧困の進行。期せずして起こったグッドウィル・グループやそこを牛耳る折口雅博のスキャンダル、そしてフルキャストやグッドウィルのユニオンによる運動、そしてそのほかの若年層による労働運動があったりと、本当に論じるべきことは何か、ということが少しずつ見えつつある(とりわけ派遣をめぐる問題については、奥野修司[2007]を参照されたし)。

 とはいえ、財界側も負けてはおらず(?)、「偽装請負」問題の渦中にあるキヤノンの御手洗冨士夫などは、「偽装請負」さえも合法化しようとするように働きかけているという。そしてそれをほとんど野放しにしてきたのが自民党というわけであるが、そのような状況をいかに評価するのか、という基軸が必要であろう。

 2.2 評価
 とりわけこの分野をめぐる問題について、特に私が重視されるべきであると考えるのが、いわゆる「就職氷河期」問題であるが、これについて明記していたのが、民主(pp.24)と社民であった。とはいえ両党とも、行なう施策としては主として職業教育やキャリカウンセリングが中心であり、果たしてそれが氷河期世代問題を解決するために必要なのか、という疑問が起こる。

 とはいえ、主要な野党3党(民主、社民、共産)は、待遇の格差の改善や、労働条件の向上などに積極的な姿勢が現れており、ここは評価できる。民主は、主として新しい法制度を提出することによって派遣や請負を規制し、また労働条件の向上を行なう、という姿勢である。もちろん、最低賃金の引き上げも主張している。行なうのは段階的だという(以上、民主、pp.23)。社民も、民主と方向性は同じである。ただし、長時間労働や残業代の不払い、あるいは派遣労働者を使用することができる職域の縮小などは、民主にはない主張である(社民、「なくせ 働く格差」)。共産はかなり熱心で、全ての政党で唯一「偽装請負」という言葉を使用している。また《ILO「雇用関係に関する勧告」(198号)を活用し、請負や委託で働く労働者を保護します》(共産、「【3】労働・雇用」)と、法的な根拠も明記している。国民も、正規雇用率の基準を設けることや、非正規雇用者の健康保険の加入の義務化を主張している。

 与党というと、これについてはかなり及び腰というか、従来の主張を繰り返しているだけという主張を受ける。まず自民は、「081. 働く人の公正な処遇に向けた取組みとパート労働者の待遇改善」で一応記述されているけれども、どうも時流に合わせて適当に付け足した印象しか受けない。他方で自民は、高齢者の再雇用については大変(?)熱心なようで、「077. 団塊世代を活用した「新現役チャレンジプラン」の創設」「078. 団塊世代の意欲や活力を活かし、その技能・技術を次世代に継承できる仕組みづくり」「079. 高齢者の活躍の場の一層の拡大」と3つの独立した項が設けられている(なお、就職氷河期世代問題を中心とする若年雇用の問題については、宮島理[2007]などに詳しい)。公明は、とりあえず職業教育でもやっていればいい、という感じだった。若年層の雇用を拡大する、といっているけれども、どのような手段を用いるか、ということは明記されていない(あとのほうに書いてある、中小企業の支援によって雇用を創出する、というのがそれに当たるのかもしれないが。公明、pp.19)。

 結論からすれば、とりあえず若年雇用に関わる問題を考慮に入れて投票する場合、自民や公明には絶対に入れてはいけない、ということが明らかになった。これだけでも一つの収穫だろう。

 3. メディア規制、「青少年健全育成」、少年犯罪
 3.1 総論および評価軸
 橋本健午による研究(橋本健午[2002])などに見るとおり、戦後の我が国においては、一貫して、まず何らかの青少年問題が「発見」され、それについて特定のメディアが敵視され、それに対する「善良な」市民や親たちによる規制が求められ、そして業界が自主規制に踏み込む、などというサイクルが行なわれ続けてきた(戦前にも、小説を規制せよ、という声があったようだ)。与野党問わず、一部の政治家の間には、それでもまだ足りない、もっと規制すべきだ、という声があるようだが、私はむしろ、このような不毛な歴史の流れを止める方向に行くべきだと考えている。なぜなら、感情的な対応によって規制される分野が、これ以上増えて欲しくない、と考えているからだ。昔も今も、規制を求める側の主張は変わらない。

 3.2 評価
 とりあえずこの分野については、もう電波の嵐で、笑いました。これについての記述があったのは、自民、共産、国民。まず、民主は既にマニフェストから引っ込めたメディア規制について、共産はいまだに主張している。

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 雑誌やインターネット、メディアなどには性を商品化するような写真、記事、動画などが氾濫しています。女性を蔑視し、人格をふみにじる文化的退廃を許さず、人権尊重の世論と運動をひろげます(共産、「【18】男女平等」)

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 まるで自民のマニフェストでも読んでいるかの印象である(笑)。《性を商品化するような写真、記事、動画》が何をさすのか、ということについてまず明記しなければならないだろう。とりあえず、まず実在の児童に対する性的虐待、及びそれの記録物については厳しく規制されるべきだが、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いとまでに性的なものを全面的に規制するのはよくない(それこそ、春画も規制しろ、といった「バーチャル社会のもたらす弊害から子どもを守る研究会」の某氏みたいに)。ちなみに日弁連は、児童ポルノについて、以下のような見解を示している。

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 目にあまる児童ポルノコミックは、刑法のわいせつ物陳列、頒布、販売罪の構成要件該当性が検討されるべきであり、本法の対象とすべきではない。

 児童ポルノコミックの現状には、放置できないものがあるとの指摘はもっともである。しかし本法の保護法益は、実在の子どもの権利である。児童ポルノコミック規制を本法により行うことは、本法の保護法益を、刑法のわいせつ物陳列、頒布、販売罪の保護法益である「善良なる性風俗」に対象範囲を広げることになる。これは本法の目的をかえって曖昧にし、子どもの権利保護の実施を後退させる危険をはらむ。

 また児童ポルノコミック規制により、児童の性的搾取、性的虐待が減少するという証明はない。

 ポルノコミックにおいては、被害を受けた実在の子どもがいない。芸術性の高いコミックやイラスト、小説と、規制すべきとするポルノコミックとの線引きには困難な場合も想定され、いたずらに表現の自由を侵害する危険がある。目にあまるものについては、刑法のわいせつ物陳列、頒布、販売罪の構成要件に該当するか否かの検討をする余地はあるとしても、本法の対象とすべきではない。実在の子どもがモデルとなっていると推定されるようなコミックが存在するとするなら、名誉毀損罪等、他の犯罪として処断されるべきである。

 「子どもの売買、子ども売買春および子どもポルノグラフィーに関する子どもの権利条約の選択議定書」にも、コミック規制を義務づける条項はない。

http://www.nichibenren.or.jp/ja/opinion/report/2003_09.html

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 続いては自民。

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 健全な青少年を育成する社会の構築をめざし、「青少年育成施策大綱」等に基づき、青少年の育成に係る施策を総合的・効果的に推進し、若年層の職業観・勤労観及び職業に関する知識・技能の育成等を図るためキャリア教育等を一層推進する。また、非行や犯罪被害、有害情報から子供たちを守るため、「子ども安全・安心加速化プラン」に基づく関連施策を一層推進する。(自民、「009. 青少年の健全な育成」)

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 その前に、まず犯罪統計や、労働に関する統計くらい読んでくれ。そうすれば、いかに自分のやっていることが確かな根拠に基づいていないかわかるから。

 最後に国民。

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 今日的な武士道精神や礼節を実践する個人や団体を表彰するため、日本版の「フェアプレー賞」を創設する。(国民、「5 規律とモラルを重んじる教育の実現/【健全な青少年の育成】)

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 藤原正彦か!

 4. 子育て、幼児教育
 4.1 総論および評価軸
 赤川学は、その著書『子どもが減って何が悪いか!』(ちくま新書)において、女性の雇用が進んでいる国は子供もたくさん生まれてくる、という認識を喝破している。しかしながら赤川は、それでも男女雇用機会均等などの政策は必要である、と主張している。これは子育てに置き換えても成り立つのではないか。要するに、「少子化対策」のために子育て支援を行なうのは嘲笑の的でしかないが、それでも子育てに対する支援は必要である、と。例えば育児休業などの制度の整備は、漠然とした「少子化対策」のためではなく、その家族のためにこそ必要なのではないか。ところが、この認識に立つマニフェストは、それほど多くはなかった。

 また最近においては児童虐待の問題がよく採り上げられるけれども、これについてはかつても何回か採り上げられてきた経緯があり、どちらかといえば社会的な文脈において「発見」されてきたという側面のほうが強いのではないか(事実、児童虐待「増加」「急増」の証拠として用いられるのは、児童相談所に対する相談の件数ばかりである。これについては、むしろ暗数の発掘と見たほうがいいのではないか、という見方も成り立つ)。また、虐待と貧困などの関係性も論証されており、ひとり親に対する罰則の強化や、あるいは監視の強化にとどまる問題ではないことも、認識すべきだろう(詳しくは、上野加代子[2006]に収録された論文を参照されたい。また、「女子リベ  安原宏美--編集者のブログ」の「家と貧困」)。

 4.2 評価
 これについては、多くの正当が大体足並みをそろえていたので(例えば「子育て基金」の設立など)、あまり比較して評価するようなものではないかもしれない。この分野では、公明の以下の記述の電波ぶりを紹介しておけばいいだろう。

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 児童虐待、育児放棄などを未然に防ぐため、「親学習プログラム」を推進し、親自身が育児を学ぶ環境を整えると共に、里親制度や児童養護施設の拡充を図るなど被虐待児の保護及び自立支援のための施策を拡充します。(公明、pp.8)

―――――

 《親学習プログラム》って…。ああ、この教育万能主義、本当に笑える。第一、昨今の児童虐待「増加」というのは、それが何回も繰り返されてきた「発見」の繰り返しでしかないし、そんな「プログラム」を学んで虐待が減少するのかはなはだ疑問だし、そもそもどんな「プログラム」なのか、公明は公開する責任がある。あ、もしかして、「教育再生」を全力で訴える、自民党の某議員が落選したときの再就職支援ですか(笑)?

 5. 結語
 今回マニフェストを検討してみたのだが、どうも全体としてつまらないというか、そんな印象を受けたような気がする。どうせならもう少し力を入れて欲しかった。まあ、私が争点となっている年金や社会保障の問題について少ししか目を通していない、ということもあるのかもしれないし、また(あくまでも想像だけれども)青少年問題はあまり票にならない、という通念があるのかもしれないが。

 とはいえ、どの政党であれ、こんなことを話してどうかという気持ちはあるけれども、もしこの選挙で負けた場合、いかに敗因を読み解くか、ということが重要になってくると思う。一昨年の衆院選においては、野党が大敗を喫したとき、政党自身はともかく、その政党の考えに近い自称「知識人」たちが、「B層」などといって、若年層をバッシングした。ちなみにこの「B層」という言葉は、自民党がマーケティングのために勝手に捏造した言葉である。それに便乗して若年層をバッシングするなど、恥ずかしくはないのか。

 おそらく(信じたくはないけれども)自民党が勝つという結果となれば、またぞろ若年層に対するバッシングが起こるかもしれない。だが、自らの反省を抜きにして、問題を「叩きやすい」若年層に押しつけるなど、言語道断だ。今回も、どうせ自民が勝ったら、「左派」は、若年層の投票率が高かったら「若者が安倍晋三を支持した」とわめき、低かったら「若者が行かなかったから負けた」とわめくのだろう。

 というわけで予防線を張っておく。「B層」って言うな!

 参考文献
 浅野智彦(編)『検証・若者の変貌 』pp.191-230、勁草書房、2006年2月
 橋本健午『有害図書と青少年問題 』明石書店、2002年12月
 本田由紀『多元化する「能力」と日本社会 』NTT出版、2005年11月
 宮島理『就職氷河期世代が辛酸をなめ続ける 』洋泉社、2007年3月
 奥野修司「「悪魔のビジネス」人材派遣業」、「文藝春秋」2007年6月号、pp.275-285、2007年5月
 佐久間亜紀「誰のための「教職大学院」なのか――戦後教員養成原則の危機」、「世界」2007年6月号、pp.123-131、2007年5月
 上野加代子『児童虐待のポリティクス』明石書店、2006年2月

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2006年2月 4日 (土)

トラックバック雑記文・06年02月04日

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 過日、『「ニート」って言うな!』(光文社新書、本田由紀氏と内藤朝雄氏との共著)という本を出したわけですが、ネット上の各所で書評がなされています。ちなみにamazon.co.jpのカスタマーレヴューなどで見られる私の文章に対する批判で、「採り上げる記事や投書の数が少ない」というものがありましたが、週刊誌の記事に関しては、大宅壮一文庫の雑誌検索CD-ROM(宮城県図書館で使用)を使って検索したのですが、本文中で採り上げた「AERA」「読売ウィークリー」「サンデー毎日」「エコノミスト」「週刊ダイヤモンド」「プレジデント」以外はめぼしい記事はほとんどなかったのが理由です。他の雑誌は、大半が平成16年末の親殺し関連の記事でした。また、「AERA」「読売ウィークリー」「サンデー毎日」の3誌に関しては、特筆すべき明確な傾向(詳しくは本を参照して欲しい)が見られたので、重点的に採り上げた次第であります。

 投書に関しては、朝日しか調べられなかったことに関しても、不満に思った方もおられましょうが、これは基本的に私の力不足です。決して各種図書館が貧弱だったからではありません。この場を借りて謝罪します。

 さて、それらの書評の中でも、私が最も重く受け止めた書評がこちら。

 深夜のシマネコblog:「ニート」って言うな! 書評(赤木智弘氏)

 赤木氏は、本の内容は評価するものの、やり方がいけない、という書評をしています。

 そういう意味では後藤さんの試みはそうした人たちを叩くことに近いのですが、本や雑誌などのメディアから抜き出すということは、結局「メディアに言説を掲載できる人」という狭い範囲でしかなく、「ニートと言う言葉を利用する一般市民」を安全圏に批難させてしまっています。
 (略)
 で、この本の場合、タイトルが『「ニート」って言うな!』で、帯書きが「なぜこの誤った概念がかくも支配力を持つようになったのか」です。これではニートが増えていることを信じて疑わない人は、絶対に手に取りません。彼らはそもそもニートという響きに侮蔑的な快楽を覚えるような捻じれた性格の人たちですから、自分が傷つくような物には決して近づきません。
 若者卑下の大きな問題は、彼らをバッシングしたところで、バッシング側はなんら痛みを感じないという点です。
 そして、ニートと言う言葉を語る時に、それがさも他者によって「この人は差別をしている」ではなく、「教育のことを語っている」という受け取り方をされる点です。
 それをひっくり返すためには、「ニートと言うことに痛みを感じない人」や「ニートを教育論だと思いこんでいる人」に手に取ってもらえる本を作ることが必要です。そういう意味で『「ニート」って言うな!』は想定すべき読者を間違えています。

 若者報道を批判しているものとして、これは深刻に受け止めざるを得ない問題です。このような問いかけは、この文章の重要な部分を、例えば「ゲーム脳」「下流社会」に変えてみても、同種の問いかけとして成り立つと思います。

 一般に「ニート」やら「ゲーム脳」やら、あるいは「脳内汚染」やら「下流社会」やらという、俗流若者論にとって格好の概念は、その概念を嬉々として使う人にとっては、自分は差別や偏見を振りまいているのではなく、自分は「教育」を語っているのだ、ということなのでしょう。しかしそれらは一皮むけば教育論ではなく単なるラベリング、更に言えば差別だったり偏見だったりするわけです。また、それらを証明するような資料は、本当にたくさんあるわけです。特に「ゲーム脳」に関しては、学術的に見れば完全に腐りきった概念といっていいでしょう。

 しかし、そのようなことが証明されたとしても、いまだに「ゲーム脳」論は妖怪の如くはびこっています。たとい「ゲーム脳」を否定する資料が出揃ったとしても、「ゲーム脳」論を嬉々として受け入れる層には少しも伝わらない。もはや量ばかり増やしても仕方がないのでしょうか。路線転換が求められているのでしょうか。ここでは「ゲーム脳」の話を使いましたが、「ニート」論だってまた同じことです。

 さて、ライブドアの堀江貴文元社長逮捕に関していくつかネタを。

 週刊!木村剛:[木村 剛のコラム] 日本は罪刑法定主義ではない?(木村剛氏:エコノミスト)
 木村氏曰く、

 ところが、逮捕の根拠である第158条違反について詳細に解説した番組はなかった。「なぜ法律違反に当たるのか」について誰も触れることなく、「ホリエモンという男あるいはライブドアという集団が如何にケシカランか」という描写にほとんどが費やされていた。
 識者らしき人々も「そもそもライブドアはマネーゲームだった」とか「ホリエモンのビジネスは虚業だ」などと自分勝手な感想を披露するだけで、事件の真相を追及しようとしない。
 具体的な犯罪内容が語られることなく、ライブドアという会社が一方的に叩かれていく。ホリエモンはいつから有罪が確定したのだろう。罪が確定するまでは「推定無罪」だと習ったような気がするが、一部の良心的な識者(「もし報道が事実ならば」という前置きをしていた)を除き、その他の出演者はホリエモンを犯罪者扱いしていた。
 この事件を語りたいなら、罪状を確定する必要がある。日本が法治国家であり、罪刑法定主義をとっているのであれば、罪状が確定できないのに、「ケシカラン罪」で犯人に仕立て上げてはならない。それが基本的人権の基本。実際、法律というものは、為政者から人々を護るために発展してきた。
 日本では、近代の智恵である「罪を憎んで人を憎まず」とか「疑わしきは罰せず」という法理が通用しないのだろうか。「人を憎んで罪を問わず」「疑わしきは叩きまくる」という現実を見ていると、中世の魔女狩りが思い起こされる。

 現在発売中の「諸君!」平成18年3月号においても、評論家の西尾幹二氏が、《ホリエモンは決して誉められるべき人物ではないが、しかし人間としてどんなに拙劣でも、人権は守られなければならない。/私は捜査が始まってから数日間、何でもかんでもライブドアを潰そうとする目に見えない大きな意思が働いているように思えて、薄気味が悪くてならなかった》(西尾幹二「誰がライブドアに石を投げられるのか」)と書いていますが、基本的にマスコミというものはある対象物が何らかの「お墨付き」を得て「叩いていい」代物になったら、急激にバッシングに走るのが常です。成人式報道を研究してきた私にはそれが痛いほどわかります。

 多くの人は報道によってしか遠隔の事象を取り扱うことはできない。従って日常的に接している報道が、そのまま受け手の現実感覚になってしまいやすい(ウォルター・リップマンの『世論』(岩波文庫)あたりが参考になります)。そして、人々の現実感覚を支配する「報道」が、果たして人々を間違った方向に誘導してはいないか。事実とは異なるのに、例えば青少年とオタクだけが凶悪化しているという報道を繰り返し、事実とは異なるステレオタイプを青少年とオタクに向けてはいないか。

 あと、堀江容疑者逮捕報道で気になるのが、「「ホリエモン」は若い世代から圧倒的な支持を受けている」というもの。私は堀江氏は余り好きではないのですが、なぜこのような報道が成されてしまうのか。そのようなことを分析したブログもいくつかありました。

 kajougenron : hiroki azuma blog:ライブドアとオウム?2(東浩紀氏:評論家)
 ニート・ひきこもり・失業 ポータルネット:ホリエモンが若者に夢を与えた?はあ?

 いつの間にか「堀江支持」派にされている感じが強い若い世代ですが(読売新聞や「AERA」は、今回の逮捕劇に関して「20代はどう見ているか」みたいな記事を組んでいた)、果たして特定の個人を勝手に「世代の代表」に仕立て上げ、ある世代の「気分」なるものを特定してしまう、という手法は、その非論理性において、そろそろ限界をきたしているのではないかと思うのですが、どうもそのような態度に対する検証が成される様子はない。これはひとえに既存マスメディアの受け手に若い世代が少ないから(笑)、ということで、マスコミが若い世代を除いた世代向けに記事を作って、結局「若い世代はこんな感じだ」みたいな報道ができてしまうのか、というのは、ちょっと考えすぎか。

 まあ、ここまで考えないと、明らかに若年層を病理視した報道がなぜ横行するのか、ということを考えることはできないかな、と。

 てっちゃん@jugem:有害規制をするなら、保健所のサイトも閉鎖しなければ・・・(渋井哲也氏:ジャーナリスト)
 社会と権力 研究の余白に:『ホラーハウス社会』について(芹沢一也氏:京都造形芸術大学講師)
 S氏の時事問題:門限は7時まで?
 ヤースのへんしん:改正青少年健全育成条例

 ますます閉塞感が増す青少年の社会環境。インターネットサイトの規制は進むは、夜間営業施設の青少年の入場が7時までにされるは、外出禁止に情報統制!日本は北朝鮮か!って突っ込みたくなります(ちなみにこの突っ込みは、宮台真司、宮崎哲弥『エイリアンズ』インフォバーン、の169ページに出てきた、宮崎氏の横浜の青少年政策に対する突っ込みのパクリです)。

 昨年『狂気と犯罪』(講談社+α新書)を上梓した芹沢氏ですが、その芹沢氏の新刊『ホラーハウス社会』(講談社+α新書)が発売されています。私は一応途中(第2章)まで読んだのですが、平成9年の神戸市の連続児童殺傷事件(「酒鬼薔薇聖斗」事件)を皮切りに、人々の少年犯罪に対する視線が変化していくさまに関する記述が興味深かった。特に83ページの《あくなき理解への欲望が、皮肉なことに、異常だとして少年の記述へと行き着いた》というのは「声に出して読みたい日本語」です。最近の少年犯罪報道――いや、若者報道のほぼ全般に見られる傾向として、少年犯罪者、更には現代の青少年を「理解のできない(=自分の思いのままにならない)他者」とか「自分の生活圏を脅かす存在」という風に「理解」していくパターンが見られます。それは「世代的な共感」だとかを持って犯罪者に「共感」してしまった視線とは真逆のものですが、身勝手な解釈という点では同一のものでしょう。

 青少年を「教育」に囲い込むことの問題というのは、基本的には自分の生活圏に囲い込む、ということとして解釈されるべきでしょう。であるから、犯罪をしでかした青少年に対する、「心の闇の解明」と言った形での理解は、ひとえに犯罪という行為によって「生活圏」の外に出てしまった少年をもう一度「生活圏」に取り戻そう、という欲望として働く行為として見える。しかしそれが更に進行すると、「生活圏」から出てしまった青少年に対する「理解」が、我々の「生活圏」の内に存在する青少年を「生活圏」の外に出させるな、という欲望につながり、「生活圏」の外の存在に対するバッシングが強まると共に、ひたすら「生活圏」の外に子供たちを「出させない」ための施策やら言説やらが横行するようになる(要するに、草薙厚子氏の所論ですね)。

 「生活圏」の外に子供たちを「出させない」ための施策やら言説というのは、そのような「生活圏」の主成分として存在している(と錯覚している)世代の個人的体験やイデオロギーと強く結びついている。従って「ゲーム脳」理論と、「脳を活性化させる」遊びとしての「外遊び」や「お手玉」などへの無邪気といっていい奨励(要するに森昭雄氏)や、あるいは旧来型(と勝手に思い込んでいる)の子育てに対する無邪気といっていい礼賛(「俗流若者論ケースファイル48・澤口俊之」参照)、あるいは「ファスト風土化」論と、それに付随する旧来のコミュニティ礼賛(「三浦展研究・前編 ~郊外化と少年犯罪の関係は立証されたか~」参照)等はそれらを如実に体現している。「ジェンダーフリー教育」に対するバッシングも然りでしょう。

 我々は、「教育は阿片である」(@内藤朝雄)という認識に立って、巷の教育言説を吟味しなければならないのかもしれません。

 あと、こういう規制を「教育」のためだ、あるいは青少年を何とかするために必要だ、と考えている皆様。そのうちそれを支持したツケが回ってきますよ。

読売新聞の社説はどうなの・・2:■「家庭」の“崩壊”少子化と改憲論議をどうやってつなげるの????
 まあ、最近の保守論壇は、青少年バッシングの為に「憲法」を持ち出したがるヘタレばかりですから…。こういう飛躍ももはや「想定の範囲内」(笑)。そもそも憲法というのは、立憲主義の考え方に立てば、国家の行動を統制するものであり、従って憲法が最高法規というものはこういう理由であり、一般国民が「憲法違反」として懲罰させられることはない…という説明はこういう連中にとっては野暮か。

保坂展人のどこどこ日記:放漫財政の大阪市でホームレス排除(保坂展人氏:衆議院議員・社民党)
 topics:JournalistCourse:大阪市がホームレスのテント強制撤去、一時もみ合い(読売新聞)(東京大学先端科学技術センター・ジャーナリスト養成コース)
 大阪市西区のホームレス住居撤去事件ですが、これの理由は3月と5月に行なわれるイヴェントのためだとか。ちなみに同種の騒動は平成10年にもあったようなのですが(読売新聞ウェブサイトによる)、イヴェントが行なわれると、そのような背景があったことも消されてしまうのだろうな…と思ってしまいました。確か愛知万博でも環境破壊が問題になっていましたっけ(「週刊金曜日」だったかな?)。
 ちなみに保坂氏のエントリーには《少年たちや酔った若者たちによる「ホームレス襲撃事件」は全国で頻繁に起きている。「人間以下」「汚い」と罵倒して、殴る蹴るの暴行を受け、大怪我をして亡くなった人も少なくない》と書かれていますけれども、《「人間以下」「汚い」》というのは、そもそも社会がホームレスに向けてきた視線そのものなのではないでしょうか。ちなみに本田由紀氏は、『「ニート」って言うな!』の50ページにおいて、「ニート」を「ペット以下」と罵った女子高生の例を紹介していました。

 生田岳志『「野宿者襲撃」論』(人文書院)、早く読まなきゃ…。

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2006年1月30日 (月)

俗流若者論ケースファイル78・毎日新聞社説

 毎日新聞の社説は、なぜかくも激しくロリコン・メディアをバッシングするのだろうか?今回検証する文章は、平成17年12月3日と、平成18年1月18日両日の毎日新聞の社説である。前者のタイトルは「相次ぐ幼児殺人 社会もどこかが病んでいる」で、後者は「宮崎事件 類似犯防ぐ環境整えよう」である。タイトルが示している通り、前者は相次ぐ児童殺人事件を論じたもの、後者は平成18年1月17日に上告が棄却され死刑が確定された、所謂「宮崎勤事件」を論じたものである。

 これら2つの社説は、平成17年のほうの社説にあるとおり、この時期頻繁に報道されていた幼児殺人事件と「宮崎勤事件」をつなぐものは《幼児ポルノのはんらん、暴力を是認するような俗悪なゲームの流行などの世相》(平成17年12月3日毎日新聞社説、以下「平成17年社説」と表記)であるという。しかし、犯罪統計書によれば、幼児を狙った殺人事件、及び幼児を狙ったレイプ事件は、ここ20年くらいでほとんど増加しておらず、更に30年くらいのスパンで見れば減少が明らかである(殺人に関しては、芹沢一也[2006]を参照されたし)。そのようなデータを示したりしないで、徒に犯罪不安を煽ったり、更には自分には「理解できない」ものに対する不安を煽り、(暗に)規制を求める――要するに、自分の責任を考慮しないまま、他人のせいにする――という行為は、文章を書くものとしてのモラルが欠如しているとしかいえない。

 これら2つの社説の特徴として、自説に都合のいい「専門家の指摘」を、その正当性を検証せずに引用してしまうことだ。《精神科医や心理学者らは、幼児期に子ども同士で思いきり遊ばせることがなくなった最近の教育やしつけの影響だと指摘している》(平成17年社説)や《1、2審の審理でも犯行とビデオとの相関関係は解明されなかったが、専門家は、映像は性的欲望を刺激して性犯罪を誘発する、とポルノビデオの横行に警鐘を鳴らした》(平成18年1月18日毎日新聞社説、以下「平成18年社説」と表記)というのがそれだ。だが、少なくとも犯罪統計はそのような「指摘」なるものを支持するわけではないし、また科学的にも直接的にポルノ映像がそのまま性犯罪に結びつく、ということは支持しない。
 さらに、こと「宮崎勤事件」に関して言えば、評論家の大塚英志氏が繰り返し発言している通り(朝日新聞など)、宮崎死刑囚の部屋から押収された物品に関して、所謂「児童ポルノ」と呼ばれる代物は極めて少数に過ぎず、それ以外はごくごく普通の――つまり、世間から「有害」視されていない――雑誌やらヴィデオだった。また、平成17年11月の栃木県今市市の事件に関しては、いまだに犯人は捕まっていないのである(平成18年1月28日現在)。それにもかかわらず、犯人の「人格」を安易に決め付けて、更にそこから飛躍して「社会の病理」なるものをでっち上げてしまうという行為もまた、書き手の思い上がりでしかない。

 精神科医の斎藤環氏は、広島市における幼児殺人の犯人がペルー人だと知ってから、即座に「心の闇」を詮索することをやめてしまった、ということに関して、「心の闇」なるものが詮索されるのは「若者」だけなのか、と極めて素朴な疑問を提示していたのだが(「ゲームラボ」平成18年1月号、三才ブックス)、毎日の社説子はこのような問いかけに答えることができるのだろうか。

 それ以外にも、例えば《他方で幼児性愛をファッションとするかのような見方もはびこり》(平成18年社説)という言い方は、何をさしているのかわからない。もし「オタク」やら「萌え」やらを指している、というのであれば、そのような物言いは「幼児性愛」=犯罪者、という極めて一方的な誤解に基づいているとしか言いようがない。ついでに言うと《続発する痴漢やわいせつ事件をみても、なぜか性モラルに寛容な風潮が改められないが》(平成18年社説)という表現も見られるが、だったら一方的に少女を問題視して大人の男には問題はない、とでも言わんばかりの「援助交際」論も批判してくださいね。

 これらの社説、特に平成18年社説は、結局のところ論説委員の「憂国」エッセイに過ぎない。《衣食足りれば礼節を知るものだとの思い込みも禁物だ。人はむしろ衣食が足りて差し迫った目標を失った時に、好奇心にかられて興味本位の行動に走りがちだとも心得ていたい。豊かな時代ほど人の輪、社会のきずなで支え合って生きねばならないということだ》(平成17年社説)だとか、あるいは《幼児性愛者が人間関係を結ぶのが苦手で、年相応の女性と交際ができないと言われることを踏まえ、子供のころから遊びやスポーツ、趣味などを通じて円満な人付き合いを促す工夫も凝らさねばならない。今回の判決を機に、教育やしつけのあり方も見直したい》(平成18年社説)などという、既に多くの専門家によって論破し尽くされている(本当に論破し尽くされているので関連書をいちいち取り上げても仕方がないので、とりあえずわかりやすい関連書として、広田照幸[1999]と内藤朝雄[2006]を挙げておく)俗説がことごとく真実であるかのごとく引用されているということが、その証左となろう。

 相次ぐ毎日社説子の狼藉に読者も腹が立ったのか、平成18年1月26日付毎日新聞には、「させてはならない“悪書狩り”」という投書が掲載されたらしい。

――――――――――――――――――――

 毎日新聞社が発行している、アニメ・ゲーム・漫画専門の無料タブロイド紙「MANTANBROAD」を、私が初めて「ゲーマーズ」仙台店で手に取ったのは、平成17年5月のことだ。その号の巻頭記事は「「残虐」とゲームが有害図書に」というもので、これは毎日新聞デジタルメディア局員の河村成浩氏で(ちなみに河村氏は同紙の書評ならぬゲーム評のページにも執筆しており、そのプロフィールによれば「全国紙唯一のゲーム専門記者」らしい)、全体として「残虐」ゲーム規制に批判的なトーンであり、「松文館裁判」で被告側=出版社側の代理人である、弁護士の山口貴士氏のコメントにおいても、《ゲームが青少年の暴力的行動を誘発するという明確な根拠がないままに、規制だけを強化する動きが理解できない。一部分だけにスポットをあてて、青少年を取り巻く環境に目が届いていないのでは。規制をして効果があるかどうかも疑問だ》(河村成浩[2005])とゲーム規制が批判されている。ゲーム規制問題に関しては、平成17年の最終号にあたる平成18年1月号(平成17年12月25日発行)の特集「総まとめ!05年注目コンテンツ」のゲームに関する記述においても(これも執筆者は河村氏)、「業界揺らした有害図書指定」なる見出しでここでも「有害」ゲーム規制を批判的に書いている。

 「MANTANBROAD」の発行元である毎日新聞デジタルメディア局は、「まんがたうん」というウェブサイトを主宰しており、更に「まんがたうん」名義でコミックマーケットにも出展している。また「MANTANBROAD」においては、毎号アニメDVD・ゲーム・漫画・書籍のレヴューが掲載されている。また同紙においては、連載漫画(「魔女の妹ドッカ~ン!」(森野あるじ氏)、「ふんじゃかじゃん」(天広直人氏))も掲載されており、どちらの連載においても、明らかに一部のキャラクターのデザインが幼女を意識しているかのように見える。

 そればかりではなく、毎日新聞社は、声優の阿部玲子、南条愛乃、森嶋仁美の3氏がエンターテインメント関係のニュースを読み上げる「毎日新聞ポッドキャスト」というサーヴィスを行なっている(ちなみに阿部氏に関しては、宮崎羽衣、近江知永の2氏と阿部氏がパーソナリティを務めているラジオ番組を私はほぼ定期的に聴取しているので、名前は知っていた)。

 毎日新聞論説委員の、これらの社説を書いた人は、まず身内から潰していってはいかがだろうか?(そして個人的には、殴り込みに行ったところで河村氏あたりに返り討ちにあうことを期待しているのだが)

 参考文献・資料
 広田照幸[1999]『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書、1999年4月
 河村成浩[2005]「「残虐」とゲームが有害図書に」=「MANTANBROAD」2005年6月号、毎日新聞社
 内藤朝雄[2006]「社会の憎悪のメカニズム」=本田由紀、内藤朝雄、後藤和智『「ニート」って言うな!』光文社新書、2006年1月
 芹沢一也[2006]「「子どもを守れ」という快楽――不安にとりつかれた社会で」=「論座」2006年2月号、朝日新聞社

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2005年12月23日 (金)

トラックバック雑記文・05年12月23日

 今回のトラックバック:「冬枯れの街」/本田由紀/赤木智弘/田中秀臣

 ただいま、寒気が日本中を席巻しており、全国で大雪を降らせております。私の住んでいる仙台も猛吹雪が吹き荒れました。

 しかし、猛吹雪が吹き荒れているのは何も天候だけではない。我が国の青少年政策にもまた、猛吹雪が吹き荒れています。

 冬枯れの街:「竜に一人一人順に喰われていくのが嫌ならば竜を皆で殺すしかない。」
 昨日の「トラックバック雑記文」で、自民党が「「犯罪から子どもを守る」ための緊急提言」なるものを発表したことに関して少々愚痴を発してしまいました。しかし、この「緊急提言」は、あまりにも問題の大きいものであるため、批判することは十分相当性があります。この「緊急提言」と同時に、「AERA」に掲載された「漫画を規制せよ!」と高らかに叫んでいる投書も転載してしまいましたが、いまだに政治にもマスコミにもアダルトゲームやロリコンものの漫画を規制すれば子供が被害者になる犯罪は撲滅できる、と能天気に考えている人が多いようです(投書は個人の見解じゃないか、という反論もありましょうが、投書の選定に関しては編集デスクが関わってくるので、その編集デスクの意向が(記事には表れない「隠れた本音」と言い換えてもいいでしょう)反映される、という見方も十分にできます)。

 「冬枯れの街」では、「青少年問題に関する特別委員会」の平成17年12月16日付議事録が批判されていますが、このエントリーの筆鋒があまりにも鋭くて、私が検証するよりも遥かによく問題点をあぶりだしております。それにしても、「子供を守る」という大義の下、これまでの事件とは全く関係ないメディアが、しかも自民党から共産党までの大同団結の下規制されつつあるのですから、思い込みの持つ力は論理よりも勝っている、ということの証左なのでしょうか。こういうときだけ「挙国一致」かよ。もっと他に解決すべき問題があるだろーが。例えば建物の耐震補強あるいは免震・制震化とか(天野彰『地震から生き延びることは愛』文春新書、の第4章や、深堀美英『免震住宅のすすめ』講談社ブルーバックス、等の地震関連の本を参照されたし。宮城県在住の人なら、大竹政和『防災力!――宮城県沖地震に備える』創童舎、あるいは、源栄正人『宮城県沖地震の再来に備えよ』河北新報出版センター、も参照)。高度成長期に建造されたコンクリート建造物は粗悪で崩れやすい、という報告もあります(小林一輔『コンクリートが危ない』岩波新書)。これこそ国民の安全に関わる問題です。また、本当に子供を守りたい、というのであれば、極めて確率の低い(しかしマスコミは総力を挙げて騒ぎたがる)ロリコンによる性犯罪ではなく、児童虐待と感染症と交通事故と自然災害という、本当に子供が死んでしまうリスクが極めて高い部分での対策をやるべきでしょう。

 参考までに、民主党の「児童買春・児童ポルノ規制法案に関する見解」も転載しておきます。

1、児董を性的虐待から守るため、特に海外における低年齢児童への買春・ポルノ撮影等が国際的批判をあびている現状に対して、早期の立法措置が必要である。
2、しかし、今回提出された与党案は、構成要件があいまいで警察の裁量が大きくなりすぎ、表現の自由、児童の性的自己決定権などを不当に侵害するおそれもある。また、刑法など他の法制との整合性にも問題がある。さらに、守るべき法益があいまいなため、海外の低年齢児童など、緊急に保護が必要な部分への実効性も不十分である。
3、私たちは、国民の権利・義務に密接にかかわる本立法が国民的合意に基づき早期に行われるべきとの考えから、与党協議への参加、提出前の修正などについて与党と非公式に交渉してきたが、われわれの提案に一切耳を傾けず、与党が法案提出に踏み切ったことは、法案を真剣に成立させる意欲があるとすれば、まことに遺憾である。
4、以上のような観点から、与党案は抜本的に見直しの上、再提出が必要と考えるが、最低限以下の修正が必要である。
(1)「買春の定義」について
○定義があいまいな「性交類似行為」を削除し、「性交等」の定義を、「性交、若しくは自己の性的好奇心を満たす目的で、性器、肛門若しくは乳首に接触し、又は接触させること。」と明確化する。
○通常の交際との線引きを明確にするため、「代償」は、拡大解釈されないよう限定する。
(2)「ポルノの範囲」について
 絵は、保護法益が異なるため除外する。
(3)「ポルノの定義」について
 「衣服の全部又は一部を脱いだ児童の姿態であって性的好奇心をそそるもの」との表現は、範囲が広すぎかつ主観的・あいまいであり、削除する。
(4)「広告の処罰」について
 写真等の掲示があれば正犯、その他の場合も公然陳列・販売の共犯・幇助犯として処罰できるので、削除する。
(5)「児童買春の罰状」について
 他の刑法犯との整合性からも、懲役「5年以下」を周旋罪・勧誘罪と同じ「3年以下」に改める。
(6)「児童ポルノの単純所持」について
 守るべき法益がなく、削除する。
(7)「年齢の知情」について
 過失処罰の規定であり、「児童の年齢を知らないことにつき過失の存するときは、第3条乃至第7条の規定による処罰を免れることはできない。」に、改める。
5、民主党は、上記事項をふまえ、人権侵害のおそれがなく、実効性のある対案を早期にとりまとめ、次期国会に提出する所存である。

 とりあえずは及第点といっていいでしょう。《構成要件があいまいで警察の裁量が大きくなりすぎ、表現の自由、児童の性的自己決定権などを不当に侵害するおそれもある》《守るべき法益があいまいなため、海外の低年齢児童など、緊急に保護が必要な部分への実効性も不十分》《「代償」は、拡大解釈されないよう限定する》《絵は、保護法益が異なるため除外する》《写真等の掲示があれば正犯、その他の場合も公然陳列・販売の共犯・幇助犯として処罰できる》など、不当に利権を拡大させようとしている自民党の懲りない面々に声を出させて読ませたい文章です。

 しかし、このような無用な青少年「政策」は、ロリコンメディアにとどまっているわけではない。

 もじれの日々:うんざり+心から体へ+火星人(本田由紀氏:東京大学助教授)

 本田氏の問題意識に全面的に同意。

しかし思うに、小田中さん(筆者注:東北大学助教授の小田中直樹氏)が昨日のコメント欄で言及してくださっていたように、「若者の心をさわらずに何とかしたい」と内藤さん(筆者注:明治大学専任講師の内藤朝雄氏)と私がもごもご言い合っている間に、世の中の方が一足早く、「(若者の)心から体へ」とターゲットを移しつつあるのだ。もう若者の何だかよくわからない「心」などをとやかく言っていてもはかどらない、と焦れ、「早寝・早起き・朝ごはん」、「生活リズム」、「挨拶」などの外面的な、非知的なところで型にはめる方が手っ取り早い、という考えが澎湃と広がりつつあるのだろう。そういう「型」からぱこんぱこんと「健全な」若者が量産される状態に対して、私はむしろ一種のおぞましさを感じるし、そんなことはそもそも不可能だと思うのだが、それをこそ理想だとする人々がちゃんと、しかも相当の勢力をもって、存在するのだ。

 このような論理は、様々な衣をまとって我々の周りを侵蝕しつつあります。例えば、「俗流若者論ケースファイル18・陰山英男」で検証した、尾道市立土堂小学校校長の陰山英男氏は、子供たちが「ディスプレー症候群」にかかっているから少年犯罪や学力低下が起こるのだ、と言っております。これは脳科学のアナロジーを悪用した論理ですが、その分野で今トップにいるのが森昭雄氏であることは疑いえません。本田氏言うところの《外面的な、非知的なところで型にはめる方が手っ取り早い、という考え》に関して言うと、このような論理は既に眼科医学(「俗流若者論ケースファイル60・田村知則」)や、あるいは小児科学(「俗流若者論ケースファイル56・片岡直樹」)、またはスピリチュアリズム(「反スピリチュアリズム ~江原啓之『子どもが危ない!』の虚妄を衝く」)といった分野に属する人からも出ています(また、それらがことごとくゲームやインターネットを悪玉視しているのが不思議だ)。ま、みんな亜流ですけどね。

 本田氏の《そういう「型」からぱこんぱこんと「健全な」若者が量産される状態に対して、私はむしろ一種のおぞましさを感じる》という苦言は実にごもっともでありますが、彼らのやりたいことは一種の「自己実現」(笑)に過ぎない。ですから、こういう人たちを突き崩す論理は、彼らの子供じみたプライドを否定すればいい(笑)。これは自民党のメディア規制推進派にも言えます。

 さて、「冬枯れの街」では、「戦後教育が「幼女が被害者となる犯罪」を生み出したのだ!」と叫んでいる、自民党国会議員の松本洋平氏が批判されています。しかし松本氏は昭和48年(1973年)生まれ。要するに、私より11歳年上なわけです。従って松本氏が受けたのもまた「戦後教育」のはずなのですし、松本氏は戦前の教育を受けていません。受けていない教育をどうしてそんなに礼賛できるの?問題点も含めて調べたのか?単にそこらの保守論壇人の愚痴を真似ているだけではないのか?

 私は最近、若年無業者(「ニート」)に関する朝日新聞の投書を集中的に調べたことがあるのですが、私と1、2歳ほど違わない大学生が、例えば《教育を語る上で昔と今が決定的に違うのは、日常の生活では「生きる力」を身につけることが困難になってしまったことでしょう》(平成17年3月18日付朝日新聞、東京本社発行)などと平然と語ってしまうことにも腹を立てております。要するに、現代の若年層を批判するために、理想化された「一昔前」とか「戦前」をいとも簡単に持ち出す。

 深夜のシマネコBlog:自虐史観に負けるな友よ(赤木智弘氏)

 「過去を美化するな、現在を軸足に据えよ、そしてその上で最善の解決策を設計せよ」という、自己中心主義者にして合理主義者にして刹那主義者(笑)の私としては、《ましてや、このようなメディア利用の上で若い人たちに、さも「昔の人たちは偉かった」と思わせるようなことをするのなら、当然徹底的に反論させてもらう。/若い人たちが、自分たちの事を卑下することのないように、それこそ若い人たちが生きた歴史を否定する本当の意味での「自虐史観」に陥らないようにしたい》という赤木氏の問題意識には強く共鳴します。

 徒に「理想化された過去」に自己を同一化し、エクスタシーを得ている人たちが多すぎます。自分の生活世界を見直そうともせず、あるいは現在喧伝されている「問題」に対して懐疑の念を持たず、ただ「日本人の精神」みたいなフィクションに陶酔することこそ、自己の否定、自我の否定であって、結局のところあんたらが毛嫌いしている「自分探し」でしかねえんだよ。

 ついでにこの話題にも触れておきますか。
 Economics Lovers Live:ニート論壇の見取り図作成中(田中秀臣氏:エコノミスト)
 最近になって、巷の「ニート」論に対する批判が次々と出ています。その急先鋒は、本田由紀、内藤朝雄、田中秀臣の3氏であるといえましょう。本田氏は、「働く意欲のない「ニート」は10年前から増えていない」というネット上のインタヴュー記事で、若年無業者自身の心理的問題を重点視する従来の「ニート」論を批判しています。内藤氏は、「図書新聞」平成17年3月18日号で「お前もニートだ」という文章を発表し、青少年ネガティヴ・キャンペーンの一つとしての「ニート」論に、社会学的な立場から反駁を行なっています。田中氏は、このエントリーとはまた別のブログ「田中秀臣の「ノーガード経済論戦」」の記事や、あるいは「SAPIO」平成17年11月23日号の記事で、「「ニート」は景気が悪化したから発生したのであり、景気が良くなれば減少するはずだ」と主張し、「ニート」が予算捻出の口実になっている、と批判しています。このような田中氏の、景気に関する説明に関しては本田氏は少し疑問を持っていますが、問題意識の点では共鳴しているといっていいでしょう。

 また、田中氏との共著もある、早稲田大学教授の若田部昌澄氏も、最新刊『改革の経済学』(ダイヤモンド社)において、「ニートの中の不安な曖昧さ」と題して玄田有史氏を批判していますし(とはいえ、若田部氏の著書に関しては、まだ立ち読み程度なのですが…)、明石書店から出ている「未来への学力と日本の教育」の第5巻である、佐藤洋作、平塚眞樹(編著)『ニート・フリーターと学力』では、法政大学助教授の児美川孝一郎氏と、横浜市立大学教授の中西新太郎氏が「ニート」論を検証しています(児美川孝一郎「フリーター・ニートとは誰か」、中西新太郎「青年層の現実に即して社会的自立像を組みかえる」)。これと、来春出る予定の、本田氏と内藤氏と私の共著である『「ニート」って言うな!』(光文社新書)で、反「「ニート」論」の議論はおおよそ出揃うでしょう。

 これに対し、従来の「ニート」論の土台を担ってきたのが玄田有史氏(東京大学助教授)と小杉礼子氏(「労働政策研究・研修機構」副統括研究員)です。特に玄田氏は、かなり初期の頃から青少年の「心」を問題化していた(「論座」平成16年8月号の文章が、一番その点の主張が強いかな)。その玄田氏と小杉氏が中心となってまとめられた本が『子どもがニートになったなら』(NHK出版生活人新書)で、この本には玄田氏と小杉氏のほか、宮本みち子(放送大学教授)、江川紹子(ジャーナリスト)、小島貴子(キャリアカウンセラー)、長須正明(東京聖栄大学専任講師)、斎藤環(精神科医)の各氏が登場しています。ここに、玄田氏が序文を寄せている『「ニート」支援マニュアル』(PHP研究所)の著者である、NPO法人「「育て上げ」ネット」代表の工藤啓氏や、更に「希望学プロジェクト」という、玄田氏が中心となって動いているプロジェクトや、玄田氏も重要なポストにいる「若者の人間力を高めるための国民運動」の両方に参加している、東京学芸大学教授の山田昌弘氏も加えて、一つの陣営として捉えることができる。また、「サイゾー」の最新号の記事を見てみる限り、自民党衆議院議員の杉村太蔵氏もこちら側に親和的かな。

 さて、この話題に関して、もう少しだけ語らせてください。というのも、「ニートサポートナビ」というウェブサイトを見つけたのですが、そこに「ニート度チェック」なるコンテンツがありました。数回やってみたのですが、出題はランダムのようです。というわけで、今回また新しく挑戦してみましょう。

 1つ目の質問:会社的な所属(居場所)が自宅以外にない
 《会社的な所属(居場所)》とは、何を指すのでしょうか。少なくとも私はまだ大学生ですから、会社には所属していないし、アルバイトも家庭教師しかしていない。成人式実行委員会が《会社的な所属》といえるかどうかも疑問。極めて曖昧な質問なので、とりあえず「自宅以外にない」のほうにチェックをつけておきます。

 2つ目の質問:グループの雰囲気に溶け込むのが苦手だ
 私は大学内にほとんど友達がいません。また、コミュニケーション能力はあまり高くなく、もし自分が自分の体質とは少しずれるグループにいたら、少々我慢して、あまり干渉せず、溶け込もうともしないでしょう。従って、これは「苦手だ」というほうにチェックしておきます。

 3つ目の質問: 自分はとても真面目なほうだと思う
 少なくとも、私は、書物を読み漁り、あるいは計算式を懸命に解いたり、文章を書いたりすることにやりがいを感じているので、これは「思う」といってもいいかな。

 4つ目の質問:アルバイト情報誌(求人誌)は「とりあえず」目を通す
 これは「目を通す」ですね。この設問は、選択肢が「目を通す」「目を通さない」ですから、「とりあえず」でなくても、目を通すなら「目を通す」に応えるべきなのでしょう。

 5つ目の質問:父親とよく会話をする
 あまりしないほうだと思いますね。「しない」。

 6つ目の質問:製造業に魅力を感じる
 当たり前じゃないですか。製造業なくして世界は成り立ちませんよ。従って「感じる」。

 7つ目の質問:何かを始める前には、自分が納得している必要がある
 「考えてから行動する」か「行動してから考える」ということを聞いているのかな。私は「考えてから行動する」タイプなので、「納得している必要がある」。

 8つ目の質問:親の目を見るのが苦手だ
 「苦手ではない」。

 9つ目の質問:好きな自分と嫌いな自分がいる
 これは、長所と短所を表しているのでしょう。従って、「当てはまる」。ちなみに「当てはまらない」に関しては、3パターンあります。一つは「好きな自分はいるが嫌いな自分はいない」。もう一つは「好きな自分はいないが嫌いな自分はいる」。最後に「好きな自分も嫌いな自分もいない」。この3つに当てはまる人は、押しなべて「当てはまらない」に答えるべきなのでしょう。

 10つ目の質問:ニートという言葉が嫌いだ
 はい、大嫌いです。私は一貫して若年無業者という言葉を使うか、あるいは「ニート」とカギカッコに入れて使ってきた。この言葉が、青少年の内面ばかりを問題視する言説ばかりをはびこらせたのは否定し得ない。
 さて、10個の質問が終わりました。私の「ニート度」はいかがか!!

あなたはニート傾向が強いようです。

もし長期に渡って就業から遠ざかっているようでしたら、「ワークセレクション」にて、様々な仕事に携わる人たちの様子やインタビューを配信していますので、ご覧になっていただければ、新たな一歩を踏み出すきっかけとなるかもしれません。
また、就労や訓練を受ける意欲があるようでしたら、「若者自立塾の紹介」にて、厚生労働省の施策として行われている全国の各若者自立塾の概要をご紹介しております。「若者自立塾のアンケート結果」「若者自立塾の口コミ情報」とともにご覧になっていただき、興味があれば各自立塾にお問い合わせしてみるのもいいかもしれません。
自分でもどうしてよいかわからない場合は、「メールカウンセリング」にて専門カウンセラーのアドバイスを受けることができますので、一度ご相談してみてはいかがでしょう。

 よくここまでわかるもんだなあ、感心。っていうか、こりゃ、一種の宣伝にしか見えないな。
 で、何が言いたいのかな、このテストは。曖昧です。まさに「ニートの中の不安な曖昧さ」(@若田部昌澄)。

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2005年12月22日 (木)

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 今回のトラックバック:「カマヤンの虚業日記」/「冬枯れの街」/古鳥羽護/「性犯罪報道と『オタク叩き』検証」/「おたくの旅路」/「海邦高校鴻巣分校」

  さて、どうしたものか…。
 カマヤンの虚業日記:[政治]自民党・規制派の謀略
 冬枯れの街:ゲーム悪影響論に下された審判
 フィギュア萌え族(仮)犯行説問題ブログ版・サブカル叩き報道を追う:大谷昭宏・勝谷誠彦「実践的な防犯よりも”変態”をやっつけろ!」(古鳥羽護氏)
 性犯罪報道と『オタク叩き』検証:2005ユーキャン新語・流行語大賞トップテン『萌え~』『ブログ』、やくみつるが授賞
 おたくの旅路:野球をやると殺人者になる!
 海邦高校鴻巣分校:暴力漫画への怒りを表明した貴方へ
 ついに自民党が、表現規制に向けて動き出したそうです。

「犯罪から子どもを守る」ための緊急提言
平成17年12月19日 自由民主党 「犯罪から子どもを守る」緊急対策本部
今後取り組むべき課題
1.青少年の健全育成環境の整備
女子児童を対象とした犯罪増加の背景には、児童ポルノや暴力的なコミック、過激なゲームソフト等の蔓延の問題が指摘される。

子どもを対象とした性犯罪を封じ込めるには、青少年のみならず、成人にも悪影響を与えるこうした児童ポルノ等が事実上野放しにされている現状を改革する必要がある。

すでにいくつかの都県や政令市はこうした児童ポルノ等を条例により規制しており、自由民主党としても「青少年健全育成推進基本法」の制定に向けた取り組みを進める。

同時に、政府においても内閣府を中心に時代を担う青少年の健全育成に対する世論の喚起に努める。

 それだけではありません。朝日新聞社の週刊誌「AERA」平成17年12月26日号にも、有吉由香「子どもを殺させるな」という記事の反響として、以下のような投書が掲載されております(ちなみに有吉氏の記事自体は表現規制には一言も触れてはいません)。

 女児に対する異常な犯罪が続いている。女児をもつ親の胸は、犯人への底知れぬ怒りとともにこんな社会を作った大人の無関心・無力さへの悔しさでいっぱいだ。

 新聞やテレビのニュースでは毎日のように、「次世代」とつく新しいモノやサービスが登場している。誰もがそれに乗り遅れまいと夢中である。

 しかし、多くの大人は現実社会で押しつぶされそうな「無力な次世代」に対しては、あまりにも無関心すぎると私には思えてならない。

 親は必死である。児童をIT機器で防護し登下校の送り迎えをする。しかし親、学校、自治体の防護にも限界はある。なぜなら犯人は入念に下調べをして防護のスキを狙っているからだ。あるいは成人男性が自暴自棄にアタックしてきたとき、大人でさえ子供を守りきれないことは過去の事件から明白である。

 親や学校や自治体だけではなく、すべての社会を構成する大人にできること、そしてその責任があること。それはこういった幼児・児童への犯罪を助長する情報を社会から一掃することである。

 私が始めていること。それは成人向け雑誌・コミックとその他の本を平然と一緒に並べている書店では買物をせず、必ず書店には「止めるべきだ」と意見を言うことである。店長に直接言うのだ。そういった声を上げ続けない限り、幼児・児童への性は「法律的に問題ない」と売り物にされるのだ。

 親が必死に子供を守っている一方で、街には幼児や児童を性の対象とした雑誌やコミックが平然と、しかも誰の目にもつくように売られている。想像して欲しい。娘と一緒に絵本を買いに行った書店で、異常な性癖を持った男が娘を観察しているかもしれないのだ。大人よ、次世代のためにも自分の責任を果たせ。(東京都日野市・柿崎○○ 43歳・会社員兼大学生)←投書のため苗字だけの公開とします

 自民党にしろ、この突っ込みどころ満載の投書を書いた柿崎某にしろ、自分の言っていることの非論理性や非科学性を理解しているのでしょうか。

 確かに最近の児童が被害者となる事件は憂うべきではありますが、だからといってそれらの事件と彼らが問題にしている性表現の相関性はほとんど認められていません。あなたはニュースを見ていないのですか?これらの事件の報道を見れば、少なくともこれらの事件とあなた方の問題視している性表現が容易に結びついているという判断を安易に下すことはできないはずです。これは過去にさかのぼっても同じことで、昨年の奈良県の事件に関しても、犯人がそのようなポルノを常に見ているわけではなかった。結局のところ、あなた方は、「自分が不可解だと思っているから、子供たちにとって有害だ」と思っているのに過ぎないのではないですか?あなた方の身勝手が、そのまま「子供を守る」という大義名分とつながっているだけではないですか?

 それにです。特に柿崎様、《幼児・児童への犯罪を助長する情報》とは言いたい何を指すのでしょうか。柿崎様の言い分であれば、おそらくそれは《幼児や児童を性の対象とした雑誌やコミック》の事を指すのでしょう。しかし、それだけを《幼児・児童への犯罪を助長する情報》と限定し、それに対して規制しろ、という態度は、果たして公平といえるのでしょうか?

 例えばです。もし誰かが「報道に触発されて幼児を襲った」とでも証言したら、あなたは報道を規制しろ、とでも言うのでしょうか?また、世の中には、かつてから児童ポルノを取り扱った作品もありますし、ドラマの世界でも殺人を取り扱ったものは数知れない。それらも規制しろ、とあなたは言うのですか?

 自民党もまた然りです。自民党は、《女子児童を対象とした犯罪増加の背景には、児童ポルノや暴力的なコミック、過激なゲームソフト等の蔓延の問題が指摘される》と書いております。その指摘が正しいかどうかにもかかわらず、それらを無条件で受け入れて《犯罪増加の背景》として、規制してしまうのですか?他の要因は無視してしまうのでしょうか。
 もう一つ、子供が殺されている事件が急増している、とあなた方はおっしゃっていますが、統計的はやぶさかでもないようです。「少年犯罪データベース」に掲載されている資料なのですが、警察庁の「犯罪統計書」によりますと、幼女レイプの認知件数は、昭和35年ごろを境に著しく減少しており、従って最近の社会が幼女強姦を誘発している、とは到底いえないことがわかるでしょう。子供が不審者によってレイプを受けるリスクは急減しています。社会不安に乗じてメディア規制を煽っている人たちには、あなたたちは児童虐待についてどう考えているのか、と問いただしたいほどです(「今の親は駄目になった」という一般論で茶を濁す人もいるかもしれませんが、児童虐待は昔から問題として根強く存在していたのですからね!)。

 最後に柿崎様へ――最後の一段落は、これは一部の男性に対する差別ではありませんか?あなたの書き方では、幼女が出てくる漫画を見ている《異常な性癖を持った男》が、子供たちを虎視眈々と狙っている、とあなたは考えている、ということになるでしょうが、少なくとも彼らが犯罪者予備軍呼ばわりされる理由はない。児童ポルノに対する摘発は、実際に作成の過程で刑法的な問題が発生したときに限られるでしょう。ましてや、漫画やゲームに関しては、あくまでも出てくるのは仮想の人物ですから、名誉毀損罪は成立しません。これらの性表現が「少女全体に対する名誉毀損」ということを言いたいのであっても、具体的な被害者がいない限り名誉毀損罪としては成立しえません。

 あなたたちは、結局のところ、自分の「理解できない」ものを犯罪の元凶だ!といいたいだけではありませんか?それは、単に想像力や論理性の欠如だけではなく、レイシズムにもつながるものです。最近は、身辺雑記レヴェルの「憂国」から一気に天下国家を語ってしまうケースが目立ちますが(「文藝春秋」平成18年1月号の特集「三つの言葉」の一部も、このケースでしょう…私は立ち読みでしか読んでいませんが)、自民党の皆様、政治までそのようなレヴェルで大丈夫なのですか?

 それにしても、誰の口から「修復的司法」という言葉が出てきませんが…。猫も杓子も「厳罰主義」「メディア規制」の大合唱、事件そのものの修復や被害者遺族の被害回復など、誰も考えていないようです。防犯という大義の下、人々の自由が、それも事実誤認にまみれた認識で奪われていく…。そしてマスコミの愚かなコメンテーター共や、投書欄にはびこる短絡的な主張を叫ぶ人たちは、ただ「世間」の不安に乗じて、自分たちの主張を押し付けるだけ。ネガティヴ・イメージばかり先行しているだけです。一体得をしているのは誰なのか?子供をダシにして自分の利権を押し通したいだけではないのか?

 というよりも、広島の事件の犯人が外国人と知ってからは、一気に「分析」とやらが沈静化してしまった感じもありますが…。

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2005年11月12日 (土)

子育て言説は「脅迫」であるべきなのか ~草薙厚子『子どもが壊れる家』が壊しているもの~

 ジャーナリスト・草薙厚子氏の最新刊『子どもが壊れる家』(文春新書)、及び草薙氏が最近になって立て続けに「週刊文春」において発表している少年犯罪論を読んで、私は草薙氏が、我が国における「ジャーナリスト」と呼ばれる職種の人の中で最悪の部類に入る人なのではないか、と確信した。本書は、一番悪い意味で「ジャーナリスト的」な作品であり、単純に言えば本書は子供たちに対する危機・不信を煽る言説のみで構成されている。

 本書がいかなる本であるか、ということは、第1章「「普通の家庭」で犯罪が起きた」を読めば直ちに分かるであろう。まず、この章のタイトルが「「普通の家庭」で犯罪が起きた」。要するに、このようなあおり方は、最近の「普通の」子育てこそが犯罪者を生むのだ、という危険扇動言説そのものである。

 それだけではない。この第1章は、マスコミで喧伝されている、少年による凶悪犯罪を列挙されたのち、「今時の子供」「今時の若者」の「頽廃的な」特徴を示す(と錯覚している)アナロジーがたくさん詰まっている。私が本書を読んでいるとき、この章だけで大量に栞がついてしまった、ということをあらかじめ言っておきたい。

 《東京近郊の小学校教師によると、ここ十年くらいの間に「家ではいい子、学校ではやりたい放題」の子が男女ともに増えているそうです》(草薙厚子[2005]、以下、断りがないなら同様)24ページ。《「自分は自分のままでいい」と文化の鎧を拒否する生徒が増えていると言うのです(筆者注:だから校内暴力が増える、と草薙氏は説いている)》29ページ。《学級崩壊が叫ばれている昨今、協調性がない子どもたちが増えているのは確かです》同じく29ページ。《母親の中には、中学生だってプラダやグッチなどの高級ブランド品を持っていてもいい、と考える人がいるでしょう。それが親子の話題の中心だとしたら、コミュニケーションのとり方は本当にそれでいいのでしょうか?》32ページ。《各学校の現場教師は、生徒が友達同士のコミュニケーションを対面で取れなくなってきていることを危惧しています。今まであっていた子に言いたいことをその場で話さず、別れた後でメールを送りつける》34ページ。《確かに子どもが勝手に皮って言ったのではなく、親が変わり、その姿が鏡に映るように子どもが変わっていったのです》36ページ。《(筆者注:昨今の携帯電話を媒介したコミュニケーションは)希薄な人間関係の中で、対人的な共感性や感動もなく、その場での刹那的な快楽に支配された行動なのです》42ページ。《以前と比べてさらに同期が不明瞭な非行が増え、一体何を求めて危険を犯すのか判らない犯罪が多くなりました》43ページ。《戦後の混乱や貧しさゆえに子どもをかまう余裕を失った世代から、管理社会・競争社会を行きぬくために子どもを犠牲にした世代を経て、衣食足りて礼節を教えない世代へ》43ページから44ページにかけて。《誰もがしている「普通の行為」の中に、意外と大きな落とし穴が隠されているのではないでしょうか》44ページ。《核家族化は両親に快適な家庭生活をもたらしましたが、子どもを見る目、育てる手は確実に減りました。一方で少子化は、モノだけでなく親の関心までも過剰に子供に集中する結果を招いています》44ページから45ページにかけて。《誰もが少年犯罪を他人事とは思えない時代がこうしてやってきました》45ページ。

 24ページに~45ページにかけて、こういった言説がおよそ2ページに一つ出てくるのである。これらの言説は、特に新しい視座を開拓するわけでもなく、あるいは現在喧伝されている言説に対するアンチテーゼになることは当然なく、ただ「不安」を増長するだけである。特にこの章の最後にあたる、44ページから45ページにかけては密度が極めて高い。私が本書を、最悪の意味で「ジャーナリスト的な」本であると断定した所以である。

 草薙氏の狼藉はこればかりではない。本書第3章「過干渉とゲーム」に至っては、もはや学問的には完全に論破されたはずの「ゲーム脳」理論をはじめ、「今の子供たちはゲームのせいでおかしくなった」という俗論を「裏付ける」ための「証拠」なるものが次々と登場する。無論、それらに対する批判的な視座もなしで。もとより草薙氏は、平成15年に長崎での児童殺傷事件において犯人が「ゲーム脳」ではないか、という記事を「週刊文春」に書き、平成14年には講談社の「web現代」において「ゲーム脳」理論を喧伝していたという経歴もあるため、草薙氏がかのようにゲームを敵視する理由もわからぬでもないが。

 閑話休題、第3章においてゲームが子供たちの死生観を歪めることの「証拠」としていまや「定説」となってしまった、長崎県教育委員会の「生と死のイメージ」に関する意識調査が109ページから110ページにおいて引かれている。そして案の定、「死んだ人は生き返る」と応えたのが15.4パーセントだったという記述と、そのうち「ゲームでリセットできるから」と応えたのが7.2パーセントだったという記述が出てきている。
 私事で申し訳ないが、私はこの調査を「統計学の常識、やってTRY!第2回」という記事で検証したことがある。この調査の問題点に関してはこちらを参照していただきたいが、草薙氏は、この調査の調査票を読んだのだろうか。少なくともこの調査票は、「なぜ「死んだ人が生き返る」と考えるのか」というアンケートに関しては、全てがメディアがらみという、誘導尋問といっても仕方のないやり方が採用されていたのだが。

 111ページから136ページにかけては、「ゲームの脳に与える悪影響」なるものが紹介されているのだが、ここで出てくるのは、森昭雄(日本大学教授)、澤口俊之(北海道大学教授)、川島隆太(東北大学教授)、片岡直樹(川崎医科大学教授)といった、これまた「お決まり」の面子である。しかも川島氏以外は、「ゲーム脳」の熱心な支持者(森氏に至っては「ゲーム脳」の「教祖」)であるから、草薙氏がいかにゲームを敵視することを本書で目的としているかがわかるであろう。これらの面子に対する批判は、過去に何度も指弾しているので、改めて述べることはここではしない。(詳しくは、「俗流若者論ケースファイル」シリーズの「07・森昭雄」「08・瀧井宏臣&森昭雄」「16・浜田敬子&森昭雄」「37・宮内健&片岡直樹&澤口俊之」「48・澤口俊之」「56・片岡直樹」「64・清川輝基」「69・中村和彦&瀧井宏臣」「71・森昭雄」を参照されたし)しかし根拠の極めて疑わしい言説を平然として「子供がおかしくなった証拠」として持ち上げるのは、ジャーナリストとして、というよりも青少年言説に携わるものとしてあってはならない行為であると指摘しておきたい。

 ついでに川島氏は、「ゲームが脳に及ぼす悪影響」を実証した人と本書では扱われているが、川島氏の分析はもっとニュートラルなものだし(「ゲームは前頭葉を活性化させることはないが、「癒し」としての効果はあるかもしれない」というもの。ちなみに川島氏の「癒し効果」説については本書でも触れられているが、なぜか草薙氏は127ページで否定してしまっている)、川島氏自身も「ゲーム脳」との関与を必死に否定している状況である。

 ここまで、本書第1章と第3章における草薙氏の記述を検証してきたけれども、私がもっとも衝撃を受けた記述は、第4章139ページにある。曰く、

 しかし子どもを育てる親は、すべてが解明されるのをただ待っているわけにはいきません。子どもに悪影響を与えるものを推測し、常識で判断し、予防的に行動する必要があります。

 と。草薙氏は、13ページにおいても、《「少年A」(筆者注:酒鬼薔薇聖斗)の出現以降、私たちは子育てのマニュアルを書きなおす必要に迫られています。今、日本の子育てが問われ始めているのです》と書いている。もとより、《子どもに悪影響を与えるもの》なるものが扇動言説によって左右されるのも問題であるが、私はこのような記述を見るにつけて、次のような疑問を強く持つ。

 子育て言説は「脅迫」であるべきなのか?

 本書の底流において、重低音の如く常に流れている思想は、「今の子供たちは危険だ、それは今の親たちの間に広まっている「普通の」子育てが「今時の危険な子供たち」を生み出しているからだ」というものである。これはすなわち、あなたが「普通の」子育てをしている限り、あなたの子供がいつ凶悪犯罪者になってもおかしくない、という「脅迫」に他ならない。

 何度も指摘していることだが、我が国においては少年が凶悪犯罪を起こす数は減少している。それは人口比でもいえることである。しかし昨今の我が国において、青少年の「悪化」「劣化」「凶悪化」を煽り立てる言説はバブルの如く増加し、かえってそちらのほうが、「善良な」大人たちの現実感覚、あるいは青少年に対する感覚を規定しているのかもしれない(この証左として、内閣府が平成17年1月に行なった「少年非行に関する世論調査」を挙げておこう。同調査によると、「青少年による重大な事件などが増えていると思うか」という問いに対して、「増えている」と答えた人が約93パーセントも存在したそうだ)。

 言説の増大が、やがて不安を増長させ、さらにまた不安言説を増加させる、という構造も存在しているのかもしれない。これに関しては、そのような構造を示す記述として、東京大学助教授の広田照幸氏による記述《親が子どもへの要求水準を高めれば高めるほど、また、子どもに対して時間や熱意を注げば注ぐほど、親の期待通りに子供が反応してくれないことが気になるし、自分のミスや失敗が気になる。「子育ての失敗」への不安が強まっているのは、現代の親が子どもへの要求が高すぎたり、子育てに熱心すぎることに一つの理由があるのではないだろうか》(広田照幸[2003])、及び皇學館大学助教授の森真一氏による記述《現代社会はデュルケムのいう「聖人たちから成る一社会」あるいは「僧院」のような社会である。また、「共同意識がより協力となり」人々の間のズレが金賞貸地得る社会でもある。それゆえ、人々は相互に「共同意識」からの微妙なズレも見逃さず、これを避難する》(森真一[2000])を採り上げておく程度にしておく。

 私がここで問題にしたいのは、これからの子育てマニュアルは、「教育の失敗」としての「今時の若者」「今時の子供」を設定し、あいつらは社会の「敵」だ、だから自分の子供をあいつらの如き社会の「敵」にしてはならない、というものでなければならないのだろうか、ということだ。このような子育て言説の蔓延は、草薙氏の本書に限らず、例えば最近出た、株式会社海外教育コンサルタンツ代表取締役の浅井宏純氏と、ジャーナリストの森本和子氏による共著『自分の子どもをニートにさせない方法』(宝島社)という本においては、「社会悪」としての若年無業者(=「ニート」)という姿が強調され、こいつらの如くさせないための「子育て」の手法――とはいえ、本書において展開されているのが、国に対する誇りを持たせよ、とか、生活習慣を見直せ、とかいったものなのだが――が――そのような子育てで本当に子供が「ニート」にならずに済むのか、ということを置き去りにしたまま――が展開される。

 ここで壊されているのは、「信頼」をベースにした関係性ではなく、むしろ自分の子供を「敵」にさせないという、「不信」をベースにした関係性ではないのか。草薙氏は本書において、自分の子供をペット化させてはならない、といっているが、かえってこのような不安扇動言説、並びに「敵」を設定してそれに「させてはならない」という子育て言説の増大こそ、子供をペット化させる最大の要因ではないか。

 今の時代の子育て言説は、「今時の」若年層や青少年を「敵」として規定することからはじめなければならないのか。子育て言説の変遷に関しては、もう少し深く追っていく必要があるようだ。

 ちなみに草薙氏は、「酒鬼薔薇聖斗」の更正プログラムに関して記述した本『少年A矯正2500日全記録』(文藝春秋)という本を、この「酒鬼薔薇聖斗」が仮釈放される平成16年4月という絶妙のタイミングで刊行して、更に本書は大宅壮一ノンフィクション賞の候補になるが、草薙氏に盗作疑惑が浮上して受賞は逃している。また、草薙氏に関しては、ジャーナリストの横山政起氏が「ジャーナリスト草薙厚子氏を告発する会」なるウェブサイトで、横山氏が草薙氏から受けた被害を記している。

 参考文献・資料
 草薙厚子[2005]
 草薙厚子『子どもが壊れる家』文春新書、2005年10月
 広田照幸[2003]
 広田照幸『教育には何ができないか』春秋社、2003年2月
 森真一[2000]
 森真一『自己コントロールの檻』講談社選書メチエ、2000年2月

 小笠原喜康『議論のウソ』講談社現代新書、2005年9月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月

 参考リンク
 「たこの感想文:(書評)子どもが壊れる家
 「草薙厚子,子どもが壊れる家-タカマサの気まぐれ時評

 酒井隆史「「世間」の膨張によって扇動されるパニック」=「論座」2005年9月号、朝日新聞社
 内藤朝雄「お前もニートだ」=「図書新聞」2005年3月18日号、図書新聞
 内藤朝雄「憎悪の社会空間論」=「10+1」40号、INAX出版

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 関連記事
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2005年11月11日 (金)

トラックバック雑記文・05年11月11日

 今回のトラックバック:本田由紀/古鳥羽護/杉村太蔵/「ANOTHER BRICK IN THE WALL」/「目に映る21世紀」/鈴木謙介/栗山光司/「わにぞう日記」/「月よお前が悪いから」

 このブログは、今月8日で開設1周年となりました(旧ブログも含めて)。だからといって何かやる気もあまりないのですが。でも、何かやってみようかなあ。 

 もじれの日々:あっぷあっぷ(本田由紀氏:東京大学助教授)
 フィギュア萌え族(仮)犯行説問題ブログ版:情報ツウ:杉村太蔵議員の若者へのエールと、福岡政行ゼミ「ニート問題」(古鳥羽護氏)

 現在発売中の「SAPIO」(小学館)にて、エコノミストの田中秀臣氏が昨今の「ニート」論の広がりを批判する記事が掲載されているようです。もとより現在発売中の「SAPIO」に関しては、かの曲学阿世の徒・正高信男氏が登場しているので、それを斬る目的で近々買う予定なのですが(この疑似科学者の記事が掲載されていなかったら「SAPIO」なんて買わなかっただろうなあ)、最近の話題において「ニート」という言葉によって若年層の就業構造の問題や経済的な問題が隠蔽されている。

 最近ではこのような「ニート」論に対する逆襲が静かながら始まっているようです。代表的なのは田中氏と本田由紀氏、そして内藤朝雄氏(明治大学専任講師)でしょう。本田氏も、最近は「ニート」論及び玄田有史氏(東京大学助教授)への批判のエントリーが多くなっている。本田氏に関して言うと、最近ネット上で話題になっているものといえば「日本の人事部」というサイトに掲載されたインタヴュー「働く意欲のない「ニート」は10年前から増えていない」ですが、本田氏は若年の就業の研究に携わってきた立場から、主として社会構造の視点から「ニート」論を批判している。

 一方、内藤氏は、社会学的な立場から批判を加えています。内藤氏による「ニート」論批判に関しては、「図書新聞」平成17年3月18日号か、現在発売中の「10+1」(INAX出版)を読んで欲しいのですが、内藤氏による「ニート」論批判の論点は、「ニート」論が我が国においては社会構造の問題ではなく青少年の心理的な問題として受容されてしまっていること、「いい年して働かない奴」「親の金を食いつぶして遊びほうけている奴」は「金持ちの道楽息子」みたいに昔からいたのに、なぜか最近になって突然問題化されるようになったこと、そしてこのような「ニート」論の広がりが様々なことを隠蔽し、大衆の憎悪を煽り立てて国家主義的な策動が支持されてしまうことなどが挙げられます。

 これらの議論に加えて、私は「自立」ということがなぜか絶対視されている、ということを付け加えてみたいと思います。山田昌弘氏(東京学芸大学教授)の「パラサイト・シングル」論に始まり、昨今では「自立しない」=悪、という図式がまかり通っている。正高信男に至っては、「自立しない」=サル、なんてことを言ってしまう始末です。しかし、これほど経済状況が悪化しているのであれば、「依存」というのも一つの手段、あるいはライフスタイルとして認められるべきではないかと。この「自立」を絶対視した「ニート」批判、という歪みは、元々「ニート」という言葉を輸入した玄田有史氏から始まっており、玄田氏は最近出た本(『働く過剰』NTT出版)や「中央公論」の連載コラムにおいて、「家事手伝い」をなぜ「ニート」と呼ばなくてはならないか、ということについて「家事手伝い」は家庭に縛り付けられて「自立できない」存在である、だから「ニート」であるということを言っている始末。
 ある意味では、「ニート」論の歪みは、そのまま我が国における若者論の歪みのヴィヴィッドな反映といえるかもしれない。

 参考までに、私のブログのエントリーで「ニート」について言及したものもいくつか挙げておきます。

 「統計学の常識、やってTRY!第4回&俗流若者論ケースファイル42・弘兼憲史
 「俗流若者論ケースファイル43・奥田祥子&高畑基宏

 「ニート」論がらみで少々宣伝しておきますと、本田氏と内藤氏が来年の年明けに出す本に関して、私も執筆者の末席に加わることになるかもしれません。今は原稿のやり取りの真っ最中なのですが、とりあえず私は巷の「ニート」論を分析・検証する立場、ということで。

 本田氏といえば、今月末あたりに「ハイパー・メリトクラシー社会化」(大雑把に言えば、「人間力」みたいなことを喧伝する社会のことらしい)に関して述べた本が出るそうなので、こちらも注目しておきたいところです。

 何か勘違いしている人を発見。

 杉村太蔵ブログ:「杉村太蔵が聞きたいっ!」開催のお知らせ(杉村太蔵氏:衆議院議員・自民党)

 まず書き出しにびっくり。「我こそはフリーター、我こそはニートという皆様へ」ってなんですかぁ。そこまで堂々と言える人がいるんかいな。しかも杉村氏は、このエントリーにおいて、フリーターなり「ニート」なりをどうもポジティブに捉えすぎているのではないかという気がする。そもそもこの人、自分のことを「フリーター・ニート世代の代表」みたいに吹聴しているみたいですが、そもそも自分を「ある世代」の代表に置くこと自体が間違いなのではないか。そもそもそのような宣伝は、ある意味では上昇意識の低いフリーターや「ニート」を置き去りにしてしまう、という危険性もなきにしもあらず。

 もっとも、市民の声を聞こうとする態度は評価できますが。その点において、最近公開した「総選挙総括:選挙「後」におけるメディアの頽廃に着目せよ」で紹介した、竹中平蔵氏のブログのこいつぁアホかと思わず天を見上げてしまうようなエントリーよりは遥かにマシ。杉村氏は、またある意味ではですが、今後大化けする可能性はかなり高い。一回会って話をしてみたいが、私は仙台在住だし、授業もかなり忙しいし。成人式実行委員会の仕事も詰まってきたし。

 ANOTHER BRICK IN THE WALL:国民運動に参加した芸能人について
 目に映る21世紀:「若者の人間力を高めるための国民運動」と、「若者の人間力を高めない非国民運動」

 「若者の人間力を高めるための国民運動」。これこそ「何か勘違いしてるんじゃないか」の典型例かな。こういうのを杉村氏は目指しているのかどうかは分かりませんが、少なくともこういう歪んだ「希望」を与えることによって、目の前の問題が解決するかのごとき錯覚を与えることはやめて欲しい。こういう「人間力」喧伝って言うのは、ある意味においてカルト宗教的かもしれない。「人間力」向上による「解脱」を説く点において…。

 SOUL for SALE:格差バブルと下層の論理(鈴木謙介氏:国際大学グローバル・コミュニケーション・センター研究員)
 千人印の歩行器:[ネット編]文明の背後に野蛮が潜んでいる(栗山光司氏)

 なんか最近「下流社会」みたいな議論が大流行ですが、私がどうもこの議論の後ろに胡散臭さを感じずにはいられないのは、こういう議論が、結局のところ単なるマーケティング的カテゴライズ及びそこから来る空疎な若年層バッシングにしかなりえないということ。その点においては、「下流社会」は本質的に「ゲーム脳」「ケータイを持ったサル」みたいな疑似科学的レイシズムと変わらないのかもしれない。私が何故こういうことを言えるかというと、それは本書、及び本書に対する書評(金子勝、吉田司、松原隆一郎の3氏。そしてこの3氏の「下流社会」評が掲載されているメディアが全て朝日新聞系だというのがこれまた興味深い)を読んで、結局のところ『下流社会』(光文社新書)の著者・三浦展氏と金子・吉田・松原の3氏が、最終的には若年層を危険視、あるいは蔑視していたことです。

 金子氏と松原氏は信頼できる書き手なのですが、「下流社会」論への肩入れを見てかなりがっかりしました。金子氏については、先ほどリンクを貼った総選挙総括を参照してください。

 我々は若年層を「説明」するための「便利な概念」を手に入れすぎたのではないか。「下流社会」「ゲーム脳の恐怖」「ケータイを持ったサル」はその典型ですが、我々はこのような「便利な概念」を手に入れすぎたことによって、それらに束縛されるようになった。そして、「理解できない」若年層の行動に対して、森昭雄や正高信男などといった扇動屋の言説に「癒し」を求めるようになった。このような「癒し」の行方、またはこれらの扇動言説がレイシズムにつながる可能性も見ないで。

 「文明」というのが、「自己」と「他者」の線引きを強化し、「他者」に対してなら何をやってもいい、ということにつながるなら、それこそ「文明の超克」が必要なのではないか…って、ちょっと言いすぎたか。とりあえず、インターネットやテレビゲームに「はまっている」人たちは年収が低くて、それゆえに差別的言動に走ったり自民党を熱狂的に支持したり、という論理は偏見だ、ということを言っておきたいっ!

 わにぞう日記:戦後教育のせいで子供はおかしくなったのか?
 全面的に同意します。このエントリーの議論は、戦後教育なるものを批判する人たちが、青少年・若年層を過剰に貶めることによって、現代日本人を自虐している、という論理の錯誤というものですが、私がかねてから思っていたことをうまく文章化してくれています。

 すこし飛躍するのだが、「自虐史観」をしばしば非難する論者たちが、現代日本社会に対してはきわめて自虐的な議論を好んで用いていることが気になっている。現代日本において、日本人も若者も堕落しきっていることを口を極めて指摘し、そのような彼らにかつての戦争の時代の国民や若者を非難する資格があるのか、と問いかける。多くのまじめな人がこの問いかけに影響を受け、現代日本の現状へのうしろめたさもあって、歴史への批判をみずから封じ込めているようにみえる場合がある。これは実は現代日本人の直接的自虐である。現代の日本人・少年を否定することにより、戦争中のある種の青春を天まで持ち上げるのだ。また、自虐=自己否定の焦点は何故か、自由や人権・個人の尊厳の尊重といった近代民主主義の原則、あるいは戦後民主主義そのものに向かうのである。この手の自虐の構造あるいはメカニズムも、どうも気になって仕方がない。

 もっとも私は、このような議論の錯誤は、青少年と戦後教育を口走る人が、自分は「戦後」の人間ではない、悪としての「戦後」を脱した「正しい」人間なんだ、と錯覚していることから始まっていると思うのですが。

 フィギュア萌え族(仮)犯行説問題ブログ版:板橋両親殺害事件「あんな単純な理由で殺したと思われたくない」マスコミが理由全部に触れない違和感(古鳥羽護氏)
 こういう報道が蔓延するのは、結局のところ、背景にある特殊な事情を無視して、このような突発的事件を「どこでも起こりうる事件」に仕立て上げ、不安をあおりたいだけなのかもしれませんね。そういう報道に、断固として「NO」と言っていきましょう。そもそも少年犯罪はピーク時に比べてかなり低い水準を推移しているのですから、なぜ犯罪が「起こらないか」ということを検証すべきではないでしょうか。

 月よお前が悪いから:[規制]恐れていたことが現実に
 児童ポルノを持っているだけで、犯罪を起こしていないのに犯罪者扱いですか。そもそも「何々を持っているからこいつは犯罪を起こす可能性が高い」というのは、「良質な文化」みたいなものを国家が規定してしまう可能性がある。更にそれを通り越して、国家が「理想的な日本人」を規定してしまう可能性がある。

 広田照幸『《愛国心》のゆくえ』(世織書房)という本において、国家が「正しいコドモ」を規定すると、ゆくゆくは「正しいオトナ」も国家によって規定されかねない、という議論がなされていますが、そういう点に無関心であってはいけないと思います。

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2005年10月22日 (土)

トラックバック雑記文・05年10月22日

 トラックバック:「kitanoのアレ」/「成城トランスカレッジ!」/「カマヤンの虚業日記」/本田由紀/古鳥羽護/「フリーターが語る渡り奉公人事情」/保坂展人/茅原実里
 忙しくて更新する暇がないよ…。

 kitanoのアレ:ジェンダーフリーとは/暴走する国会/憲法調査会報告書
 成城トランスカレッジ! -人文系NEWS&COLUMN-:ageまショー。
 カマヤンの虚業日記:「霊感詐欺する権利」なんか存在しない

 グーグルで「ジェンダーフリー」を検索すると、自民党のプロジェクトだとか(統一教会の機関紙である)「世界日報」の記事とかが上のほうにヒットしてしまうそうです。で、それらの記事は、徒に「ジェンダーフリー」を危険視したり、あるいは陰謀論まで持ち出して的はずれの批判をしたり、というものが多いようです。私はこの手の言説を、産経新聞社の月刊誌「正論」でよく読むのですが、こういう言説を展開する人たちの歴史観を疑いたくなりますね。結局のところ「自分が理解できない奴らが増えたのは自分が判定している政治勢力の陰謀だ!!」って言いたいだけでしょ。こういう人たちは、酒場でのさばらせておく分には害はないのですが、実際の政治に関わっているのだから無視できない。

 そこで「成城トランスカレッジ!」の管理人が発足したプロジェクトが「ジェンダーフリーとは」というウェブサイトです。このサイトは、「ジェンダーフリー」に関する論点や、それの批判に対する反駁、また混同されることの多い「男女平等」と「ジェンダーフリー」の違いなどを説明した優れたサイトです。

 しかし、「kitanoのアレ」に貼られている、自民党の「過激な性教育・ジェンダーフリー教育実態調査プロジェクトチーム」(安倍晋三座長)のバナー広告を一部改変した広告が面白い。何せ《まさかと思う訴えが父母から寄せられています。自民党は責任を持って性感染症を増やします》ですからね。ただこのようなパロディは正当性があります。というのも、性感染症など、性行為にまつわる疫病・感染症を予防するためには、適切な処置をとらなければならない。従って、それに関する知識も必要になる。ところが自民党の推し進めている性教育とは、「性行為は害悪だ」「性行為はするな」の一点張りのようです。

 社会学者の宮台真司氏が、数ヶ月前の「サイゾー」で、宮崎哲弥氏との連載対談において、「「過激な性教育」が問題だというが、それで初交年齢が上昇したり、性感染症が阻止できたら問題はないのではないか」といっていた記憶がありますが、こういう認識に照らし合わせて自民党のプロジェクトを考えてみると、「たとえ自分たちが望む結果になったとしても(社会的問題が解決されたとしても)、自分の望む手段で解決されなければ嫌だ」ということになるのでしょうか。

 これに関してもう一つ。

 成城トランスカレッジ! -人文系NEWS&COLOMN-:名コンビ。
 この「反ジェンダーフリー」の旗手である、高崎経済大学助教授で「新しい歴史教科書をつくる会」現会長の八木秀次氏と、「つくる会」初代会長の西尾幹二氏の対談本『新・国民の油断』(PHP研究所)が書店に並んだとき、私は軽く読んでもうこの手の議論には付き合いたくないや、と思ったのですが、こんなに面白い俗流若者論の本だったとは。あとで読んでみようかなあ。

 ついでに、私のブログでも八木秀次氏に関して言及したことがありますので、参考までに。

 「俗流若者論ケースファイル25・八木秀次

 さらにこの「つくる会」や、自民党の右派系の国会議員が推し進めている教育基本法改正について言うと、東京大学助教授の広田照幸氏が最近『《愛国心》のゆくえ』(世織書房)という本で、その「改正」について批判的に検証しております。お勧め。

 まだまだ教育の話。

 もじれの日々:記事群(本田由紀氏:東京大学助教授)

 本田氏が引いている調査について。

*「幼児の就寝時間早まる 積み木・泥遊び増/「遊び相手は母親」8割 首都圏対象のベネッセ調査」
 これはたぶん、ハイパー・メリトクラシー(「人間力」みたいなもん重視)下における家庭教育指南言説の蔓延の影響だ(近刊拙著第1章・第5章参照)。それにしても平日に一緒に遊ぶ人が、「きょうだい」「友達」が10年間に10%減った代わりに「母親」が55%から81%まで急増しているのはすごい。子供の「人間力」(私の言葉では「ポスト近代型能力」)育成エージェントとしての重圧を母親=女性が一身に引き受け、「パーフェクト・マザー」責任を果たそうとしているのだ。しんどいことだ。

 本田氏のコメントは、至極正鵠を衝いているものだと思います。青少年問題をめぐる言説については、どうも最近になっても依然として「本人の責任」「親の責任」を強調するのが多い。こういう「責任」、特に「親の責任」を強調するものについては、過剰に親に求めすぎるようになり、親が社会的な支援、第三者による支援を受けるチャンスを奪ってしまう。

 最近は「健全な規制の下に健全な精神が育つ」みたいな意見がはびこっていますからね。子供が「健全」に育つためには、国家や親によって適切に「指導」されなければならない、と。若年無業者対策にしても、最近なぜか強調されるのは職業能力ではなく「適切な職業観」ですからね。精神こそが大事である、という考え方には一理あるとは思いますが、それが行き過ぎると過度の教育主義にならざるを得ない。

 ついでに言うと、本田氏の言うところの《「パーフェクト・マザー」責任》については、広田照幸氏が分かりやすくまとめておりますが(広田『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書)、最近は「「パーフェクト・ファザー」責任」みたいなものも出てきているようで怖い(例えば「父親の育児参加」議論の一部とか)。

 もう少し教育の話を。

 フィギュア萌え族(仮)犯行説問題ブログ版:10月13日「どうやってゲームを規制するのか?」と、中立性を欠いたNHKの報道(古鳥羽護氏)
 この手の報道にはもう飽き飽きしました。マスコミは、早く最近のメディア規制論が政策的判断ではなく「「世間」の身勝手」「為政者の身勝手」によって推し進められていることを理解したほうがいい。

 明日の宮城県知事選挙にも、松沢“ゲーム規制”成文氏と中田“行動規制”宏氏が推薦を表明している人が出馬しているからなあ(ちなみに新仙台市長の梅原克彦氏はこの人を推薦しております)。対抗馬は現在の浅野史郎知事の路線を継承、そのほか片山善博氏なども推薦し、民主党と社民党の推薦を受ける人。ただ、浅野知事もどうやらゲーム規制には前向きのようで、いくら民主党と社民党が推薦しているとはいえ注視しなければならない。あとは共産党推薦の人。共産党もメディア規制に関しては怪しいところが多いからなあ。今回は投票はあまり乗り気ではない。まあ行きますけどね。一応私は民主党(もう少し詳しく言えば民主党左派、あるいはメディア規制反対派)支持だし(ただ党幹部に枝野幸男氏が入らなかったのが残念だけど)。

 あと、このエントリーで気になったのがコメント。ちなみにこのコメントは「フリーターが語る渡り奉公人事情」の管理人によるもの。

上の世代のなかでメデイア・リテラシーの低い人たちは、ひきこもりとニートとフリーターの区別もつかずに勝手に人をバケモノにしたてあげ、取り乱したり、攻撃したり、他人の権利を不当に制限したがったりしています。若者の自立を支援する団体のなかには、大学生の不登校まで治療の対象とみなすところもあるくらいです。

わたしが、以前マスコミ報道にかつがれて連絡した団体も、大学生不登校とフリーターと引きこもりとニートの区別もつかないまま、いまどきの若者全般が反社会的で未熟でだらしないとの前提にたって、道徳的な説教をしていました。なんと、それらは反革命だという政治的弾圧さえしていました。

 で、この書き手自身のブログにおけるエントリーが次のとおり。

 フリーターが語る渡り奉公人事情:反革命ばんざい!
 このブログの管理人が間違って参加してしまったあるセクトについての話なのですが、この文章を読んでいる限り、少なくともこのセクトは運動によって社会を変革することを目的としている、というよりも運動が自己目的化している、と言ったほうがいいでしょう。要するに、仲間と一緒につるんで運動することによって「感動」を得ることこそが究極の目的である、と。この団体に関して、重要なのはむしろ「感情を共有できる人」であり「共同幻想」である。この団体が、「ひきこもり」の人たちを過剰に排撃するのは「共同幻想」を共有できないから、ということで説明できるのではないでしょうか。

 それにしても、この「共同幻想」論、もう少し論理の展開の余地があるような気がするなあ。例えばつい最近短期集中連載という形で批判した民間コンサルタントの三浦展氏の著書『「かまやつ女」の時代』(牧野出版)や『下流社会』(光文社新書)の問題点もこれで説明できるような気がする。要するに、三浦氏の理想とする「高額のものを消費するための自己実現(としての就労)」みたいな流れにそぐわない人はみんな「下流」とか「かまやつ女」みたいに罵倒されてしまう、という感じ。

 ついでにフリーターや若年無業問題に関わる本の書評ですが、最近忙しいので、11月中ごろになってしまう予定です。一応、前回(10月12日)からの進行状況は次のとおり。

 読了し、書評も脱稿したもの:丸山俊『フリーター亡国論』ダイヤモンド社
 読了したが書評を書いていないもの:浅井宏純、森本和子『自分の子どもをニートにさせない方法』宝島社、小島貴子『我が子をニートから救う本』すばる舎、澤井繁男『「ニートな子」を持つ親へ贈る本』PHP研究所

 あと、予定していた、小林道雄『「個性」なんかいらない!』(講談社+α新書)の検証ももう少し遅れます。最近だと、「週刊文春」などで「ゲーム脳」の宣伝に努めている、ジャーナリストの草薙厚子氏が『子どもを壊す家』(文春新書)という新刊を出したそうで。こちらもチェックしておく必要がありそうです。

 保坂展人のどこどこ日記:止まれ、共謀罪(保坂展人氏:衆議院議員・社民党)
 カマヤンの虚業日記:[宣伝]「『不健全』でなにが悪い! 心の東京『反革命』」
 どうも最近、きな臭いことが多いなあ(共謀罪とか、メディア規制とか)。「心の東京「反革命」」に関しては、米沢嘉博氏(コミックマーケット準備会代表、漫画評論家)と長岡義幸氏(ジャーナリスト)が発言するそうなので、参加したいのですが、いかんせん金がない。私は仙台在住なので。

 こんなときは、河原みたいなどこか人気の少ないところに行って夕陽でも眺めながら何も考えずに座っていたい。

 minorhythm:どこまでも…(茅原実里氏:声優)
 《あまりにも綺麗で、ほんの少しだけ切なくなって…ほんの少しだけ優しい気持ちになって。》とは茅原氏の言葉。こういう感動を味わうことのできる場所があればいいのですが、最近の青少年政策を見ていると、青少年からこういう場所を奪ってしまうのだろうなあと憂鬱になる。家庭も親と青少年言説による監視の眼が日々強くなっている。青少年言説の支配する社会とは、子供から全ての逃げ場を奪い「適切な」監視の下で「適切な」道徳が育っているかのごとき幻想を「善良な」大人たちに抱かせるものに他ならないのです。で、少年犯罪やら何やらが起こると「まだまだ監視が足りない!」と言い出す。今のままの青少年政策はループです。

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2005年10月 1日 (土)

トラックバック雑記文・05年10月01日

 今回のトラックバック:「冬枯れの街」/栗山光司/「kitanoのアレ」/本田由紀/茅原実里/保坂展人

 ※トラックバック先への誤解を避けるため、今回以降、雑記文では誰の(どの)ブログにトラックバックするかを明記しておきます。

 冬枯れの街:「いつから私は人を信じることができなくなってしまったのかしら。」

 すっげえのを見つけたので紹介しておきます。

 産経新聞:「反進化論」米で台頭 渡辺久義・京大名誉教授に聞く

 反進化論、創造論とは、とっくの昔に米国でも論破されきっているのですが(詳しくは、マーティン・ガードナー『奇妙な論理』(ハヤカワ文庫)を参照されたし)、それを俗流若者論的な理由でもって再現させようというトンデモナイ人が登場してしまいました。まあ、確かに、《教科書に書くなら「ダーウィンの進化論に沿って考えるならば」と、仮説の紹介にとどめるべきです》という物言いには理解を示しますけれども(例えば進化論に関してもさまざまな学説が存在する)、これ以降の論理が本当にブッ飛んでいて、おかしい。

 ――日本の学校でも教えるべきですか?
 思考訓練として教えるべきです。でないと日本人の頭は硬直したままです。それに「生命は無生物から発生した」「人間の祖先はサルである」という唯物論的教育で「生命の根源に対する畏敬(いけい)の念」(昭和四十一年の中教審答申「期待される人間像」の文言)がはぐくまれるわけがありません。進化論偏向教育は完全に道徳教育の足を引っ張るものです。

 エエエエエエエエエエ!

 俗流若者論の恐ろしさについては私も何度も言及してきましたけれども、まさかここまで来ているなんて思わなかったでありますよ。俗流若者論に基づいたダーウィン否定なんて、私には考えもつかなかった。なんですか、《「生命は無生物から発生した」「人間の祖先はサルである」という唯物論的教育で「生命の根源に対する畏敬(いけい)の念」……がはぐくまれるわけがありません。進化論偏向教育は完全に道徳教育の足を引っ張るものです》って、ダーウィンの進化論を教えることは道徳の崩壊につながる、って、アホかあ!!!

 あのね。これはあんたの教養がいかなるものか、ということにつながっているんだけれども、もし生物を創造した「あるもの」を仮定しなければならないとするならば、それが誰によって作られたのか、ということについても考えなければならないんだよ。で、それを仮定すると、また「あるもの」を創造した「あるもの」を仮定しなければならず、更にそれを仮定すると「あるもの」を創造した「あるもの」を創造した「あるもの」を仮定しなければならず…、って、無限ループになっちまうんだよ。

 しかもダーウィンの進化論を教えたら道徳の崩壊につながる…、って、結局のところは俺の主張を認めてくれ!!って駄々をこねてる野郎が青少年問題にかこつけて言ってるだけでしょ。

 あとさ、この人たちが歴史を知らないこともこの記事は如実に表しているね。記事の中で、聞き手たる産経の渡辺浩記者は《米国では親の教育権とも関連して進化論批判の歴史がありますが、日本の教育界に持ち込もうとすれば「非科学的」と猛反発されます》などといっているけれども、米国においてなぜ進化論批判が展開されたか、というと、結局のところ原因は宗教右派なんよ。詳しくは『奇妙な論理』の上巻の109ページ~140ページを見てほしいんだけれども、例えば116ページにおいては、キリスト教のプロテスタント教会はダーウィンの進化論の発表直後から進化論を攻撃しまくっており、『奇妙な論理』が書かれた1950年ごろまでに進化論批判の著作を《数千冊にのぼる》(『奇妙な論理』上巻116ページ)ほど出しているようだ。そういうことを参照しないで、何が《親の教育権とも関連して進化論批判の歴史がありますが》だ。

 っていうか、本気で検証しようかなあ。「俗流若者論ケースファイル」のシリーズにこれが入るかもしれません。っていうか、早く東京新聞の総選挙分析の検証をやれ、俺。

 千人印の歩行器:[生活編]禁煙より禁酒?(栗山光司氏)
 所謂「禁煙ファシズム」に関しては、私は酒はほとんど飲まないし煙草は全く吸わないのですが、それでも「禁煙ファシズム」の怖さは良く分かる。ただ、これに反対するロジックとしては、例えば飲酒や自動車のほうが実害が大きいじゃないか、というものもいいのですが、もう一つ、何か抽象的な次元での話が必要だと思います。

 ここで必要なのは、公共空間に関する議論でしょうね。なぜ、喫煙はとがめられるべきなのか、と。あるいは、なぜ、分煙化による共生ではいけないのか、と。もし煙草にも少なからず健康に被害があるとすれば、煙草の煙が充満しないような部屋で喫煙できるようにすればいいのではないか、ということです。

 単なる道徳的基準(とか言っておきながら、実際は自分の好き嫌い)によって公共における行為を決めてしまう、という行為は、最終的にはポピュリズムとならざるを得ず、その先にファシズムが待っている。公共空間とは、本来、理解できない他者と共生しなければならない空間のことを言う。そこでいかに共生のための知恵をしぼれるか、ということで、空間の使い方や公共建築の設計はスタートします。要は、必要なのは「大人の対応」というわけです。つまり「私はお前の言うことは嫌いだがお前がものを言う権利は認める」というもの。自分の好き嫌いによってある行為や言論、表現に対する弾圧を認めようとするならば、それによって自分も弾圧されるかもしれない、ということに対して想像力を働かせなければならない。素朴な弾圧派は、それが全く分かっていない。

 私だって、森昭雄とか正高信男とかいった擬似科学者の言動にはうんざりしていますけれども、だからといってこいつらを青少年に有害だから弾圧せよ、とは言わない。しっかりと論理を組み立てて、その誤謬を地味に指摘していくしかない。また、過去にも何度か言ったとおり、私は過激な性描写はあまり好きではありませんが(むしろ嫌いですが)、刑法犯が発生していない範囲ではその存在を認めるほかない(また、アニメや漫画における過激な性描写に関しては、被害者となる実物が存在しないので、刑法を楯にした規制はできない)。それが戦略的に採るべき態度です。

 でも、こういう人や、それを支持する人たちは、そういう抽象的な議論に対して想像力を働かすことができないのでしょうかね。

 kitanoのアレ:石原都知事施政方針演説「ゲームを規制するため協議会を設置する」
 私は、石原氏がゲーム規制を訴えることに関しては、ある程度予測はついておりました。詳しくは「俗流若者論ケースファイル11・石原慎太郎」「俗流若者論ケースファイル34・石原慎太郎&養老孟司」を参照していただきたいのですが、石原氏がゲームを敵視しているのはこれらで取り上げた文章を読めば分かります。

 それにしても、どうしてこの手の人たちって、ゲームをやる子供たちを犯罪者予備軍に仕立て上げないと気がすまないんでしょうかね。

 もじれの日々: 反「ニート論」論+往復メール(本田由紀氏:東京大学助教授)
 おおよそ、「ひきこもり」やパラサイト・シングル、及び若年無業者に対する素朴な批判は、結局のところ「経済の論理」と「親の論理」にしか基づいていない、極めて感情的でネガティヴな論理でしかありません。「経済の論理」で言うと、これは「Yomiuri Weekly」の平成17年8月14日号の「ニート家庭「凄絶」白書」なる記事が図らずも(図っているのかも?)示している通り(この記事に関する検証は「俗流若者論ケースファイル43・奥田祥子&高畑基宏」で)、要はそういう奴を抱えている家庭は速めに経済的に破綻するから、早く追い出したほうが身のためだ、ということになる。また、「経済の論理」に関して言うならば、もう一つはこのような人たちが税金泥棒と見なされること。要するに、こいつらは税金は払っていないのに社会保障費や年金は高齢化によって減っていく一方、だからこいつらを就職させなければ財政は破綻する、あまつさえ少子化だからなおさら、という論法。どうしてここで財政のスリム化や効率化という提言が出てこないのか。

 もう一つは「親の論理」。要するに、お前は今まで親に養ってもらったんだから、就職してその恩に報いなければいけないと。しかしそういう考えが蔓延しているからこそ逆にひきこもってしまう、というパターンも多くあるのです。要するに、自分は親に迷惑をかけている、自分はなんて駄目な人間なんだ、と思いつめた上での「ひきこもり」。こういう状況が存在する中で、更に教育に「愛国心」の強制なんて入れてしまったらもっと窮屈になるのは間違いありません。解決策としては、そういう「親の論理」による圧力を少しでも和らげる手段がありますが、例えば地域通貨でそれを行なっている自治体もあるようです(川戸和史「引きこもり癒す地域通貨の力」=「AERA」2002年9月23日号、朝日新聞社)。

 更に言っておきますと、どうやら多くの人は、「ひきこもり」もフリーターもパラサイト・シングルも若年無業も、「状態」を表すのであって決して「病理」ではない、ということに対する認識があまりにも欠けているようです。そういう認識の欠如状態があるからこそ、例えば「ニート」という言葉に関して言うならば、「ニート予備軍」「社内ニート」「TEET」といった誤用がたくさん出てくるようになる。「ひきこもり」だって「ひきこもり型」だとか「ひきこもり親和型殺人」などといった変な言葉で誤用されている。

 「ひきこもり」は生物学的に言って発達を阻害する、などと主張する言説もある。しかもどういうわけ過疎のような言説の発信元はことごとく中央公論新社だったりする(笑)。ことごとく、といっても、まあ2冊なのですがね。一つは、一応我がブログの最大の仮想敵である、京都大学霊長類研究所の曲学阿世の徒・正高信男の『ケータイを持ったサル』(中公新書)。もう一つは、最近出された、元京都大学霊長類研究所所長の杉山幸丸氏の『進化しすぎた日本人』(中公新書ラクレ)。これらの「科学的」社会論(若者論)に共通しているのは、社会という視座がないこと、あるいは社会学というバランサーがないことです。単純に霊長類学のアナロジーを「今時の若者」に当てはめて安易に語ろうとすると、この2冊のようなトンデモ本になってしまう。社会という視座を喪失すると、結局擬似生物学に基づいて「親は攻撃的に自立を促せ」みたいな主張になってしまう。

 この話題に関してもう一つ。

 minorhythm:図書館(茅原実里氏:声優)
 現在、フリーターや若年無業の問題を取り扱った本を読んでいるのですが、あまり金のない私にとって図書館はこの研究をする上で非常に役に立ちました。茅原氏は《今はパソコンで何でも調べることができちゃうけど、こうやって実際手にとって調べていると、手に入れた情報になんだか重みがあるというか》と書いていますけれども、この問題に関する言説は、ネット上の情報ではほとんど当てにならない。ブログの日記を検索しても、大半は若年無業者やフリーターを「甘え」だとか言って「親に問題がある」みたいな結論になってしまうのがほとんど常です。「2ちゃんねる」みたいな掲示板に至っては「プライドだけ高くて実際に働いたことのないニート必死だなw」みたいな書き込みは結構見られるし。

 少々出足が遅かったので、書評を公開するのは今月末になりそうです。今のところの進捗状況は以下の通り。ちなみに書評に関しては終了次第一斉に公開する予定です(既に書評を公開している、二神能基『希望のニート』は除く)。

 書評を脱稿した本
 橘木俊詔『脱フリーター社会』東洋経済新報社/二神能基『希望のニート』東洋経済新報社
 読んだが書評していない本
 玄田有史『仕事のなかの曖昧な不安』中央公論新社/宮本みち子『若者が《社会的弱者》に転落する』洋泉社新書y/三浦展『仕事をしなければ、自分はみつからない。』晶文社/斎藤環『「負けた」教の信者たち』中公新書ラクレ/小杉礼子(編)『フリーターとニート』勁草書房/本田由紀『若者と仕事』東京大学出版会
 「積ん読」状態の本
 小杉礼子『フリーターという生き方』勁草書房/玄田有史、曲沼美恵『ニート』幻冬舎/玄田有史、小杉礼子『子どもがニートになったなら』NHK出版生活人新書
 図書館で借りてきてまだ読んでいない本
 小杉礼子『自由の代償/フリーター』日本労働研究機構/矢幡洋『働こうとしない人たち』中公新書ラクレ
 宮城県図書館で注文した本
 丸山俊『フリーター亡国論』ダイヤモンド社/和田秀樹『ニート脱出』扶桑社/居神浩『大卒フリーター問題を考える』ミネルヴァ書房/澤井繁男『「ニートな子」をもつ親へ贈る本』PHP研究所
 若林図書館で注文した本(せんだいメディアテークが館内整理のため図書館を2週間ほど休館にするため)
 学研(編)『フリーターなぜ?どうする?』学研/浅井宏純『自分の子供をニートにさせない方法』宝島社/小島貴子『我が子をニートから救う本』すばる舎
 読む予定ではあるが注文していない本
 大久保幸夫『新卒無業』東洋経済新報社/安田雪『働きたいのに…高校生就職難の社会構造』勁草書房/香山リカ『就職がこわい』講談社
 現在検討中の本
 長山靖生『若者はなぜ「決められない」か』ちくま新書/波頭亮『若者のリアル』日本実業出版社/喜入克『叱らない教師、逃げる生徒』扶桑社

 保坂展人のどこどこ日記:郵政民営化法案の不思議(保坂展人氏:衆議院議員・社民党)
 保坂氏はかつて「国会の質問王」として名を馳せた人であり、利権政治家、官僚任せの政治家ばかりの昨今にあって、数少ない実力派なのですが、郵政民営化の不思議をこのようにブログで公開して閲覧者に議論させようとする覚悟は素晴らしいと思います。とりあえず、こういう重要なことを隠してきて選挙を煽ってきたマスコミはなんなのか、と。

 お知らせ。まず以下の記事を公開しました。
 「統計学の常識、やってTRY!第6回」(9月18日)
 「俗流若者論ケースファイル71・森昭雄」(9月21日)
 「三浦展研究・前編 ~郊外化と少年犯罪の関係は立証されたか~」(9月25日)
 「三浦展研究・中編 ~空疎なるマーケティング言説の行き着く先~」(9月27日)
 「三浦展研究・後編 ~消費フェミニズムの罠にはまる三浦展~」(9月28日)
 「俗流若者論ケースファイル72・読売新聞社説」(同上)

 また、bk1で以下の書評を公開しました。
 堀田純司『萌え萌えジャパン』講談社、2005年3月
 title:世界に想像する余地を
 内藤朝雄『いじめの社会理論』柏書房、2001年7月
 title:安易な共同体主義からの訣別
 越澤明『復興計画』中公新書、2005年8月
 title:現代の美観と先人の苦悩
 森真一『自己コントロールの檻』講談社選書メチエ、2000年2月
 title:心理学主義という妖怪が徘徊している
 斉藤弘子『器用に生きられない人たち』中公新書ラクレ、2005年1月
 title:俗流若者論スタディーズVol.5 ~症候群、症候群、症候群、症候群…~

 あと、「2005年7~9月の1冊」も近いうちに公開します。今回はワーストがたくさん出てきます。
 参考までに、私が今まで書いた書評&音楽評の記事も。
 「2004年・今年の1冊
 「2005年1~3月の1冊
 「2005年4~6月の1冊
 「2004年・今年の1曲
 「2005年上半期の1曲

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2005年9月11日 (日)

トラックバック雑記文・05年09月11日

 ひとみの日々:うた(生天目仁美氏:声優)
 生天目氏は、カラオケでアニメのキャラクターソングを歌ったそうですが、最近の音楽のヒットの動向において、確かにアニメ関係の楽曲は台頭しつつあります。最近では、生天目氏のケースもそうですが、カラオケでアニメや声優関連の楽曲を取り扱うところも増えているようで。

 さて、このブログの読者で、アニメのキャラクターソングをよく聴く人は、それをキャラクターの歌として楽しんでおりますか?それとも声優の歌として楽しんでおりますか?私は声優の歌として楽しんでおりますが、キャラクターソングというのはそういったインタラクティヴな楽しみ方ができるという独特の魅力があります。もちろんキャラクターの歌として楽しむ場合はそのキャラクターについて知っていなければなりませんけれども。

 ただ、我が国におけるアニメなどのインタラクティヴ・カルチュアに関して、堀田純司『萌え萌えジャパン』(講談社)にもあるとおり《キャラクター表現について国家レベルでは振興、地方自治体レベルではむしろ規制、とねじれが存在するように感じる》(堀田前掲書、319ページ)という現実があるのですけれども、所詮国家や財界がキャラクター表現について振興しているのはただ「カネ」と「チカラ」が欲しいだけ。その2つがなくなると大抵は規制派になる。その証拠がこれだ。

 kitanoのアレ:おたくのための選挙資料(3):コミック撲滅法制化請願参加議員(1)
 「各党マニフェストにおける青少年認識/対策」という文章を公開しましたが、その中で自民党と民主党と共産党はマニフェストに「青少年の健全育成」または「有害情報の規制」を明記している(特に力を記述しているのはなぜか共産党)ということを紹介しました。で、「kitanoのアレ」で紹介されているのは、ポルノコミック規制の法制化を求める署名に参加した人たちです。まあ、自民党の偉い人たち(河村建夫とか町村信孝とか村田吉隆とか中山成彬とか森善朗とか)は予想通りですが(蛇足ですが、東北ブロックの自民党比例代表候補に関しては、表現規制推進で、知的財産政策を財界の立場だけから推進する高村派議員が多いから気をつけましょう!)、何で鳩山由紀夫(自民党)とか土井たか子(社民党)までいるんだ!!!

 所詮は、誰が政権についても所詮最強の政権維持装置は「若者論」なのでしょうか。結局は自分の「理解できない」ものに対する敵愾心を煽り立てることによって票を獲得し、ポピュリズム的な人気の下で規制を推し進める…、って、いつも言っていることですけれども、とりあえず言えることは、「今時の若者」を「消費」する社会構造が存在する限り、たとい若年層の投票率が上がったとしても、若年層を敵視するような政策が行なわれる行なわれないようになる(9月11日0時56分訂正)のは難しい。

 故に、このような考え方は、極めて楽観的に私には見えるのです。

 もじれの日々:フリーター・ニートは投票を(2)(本田由紀氏:東京大学助教授)
 本田氏曰く、

もちろん、フリーター・ニートを含む若者にとって、現在提示されている選択肢はいずれも満足のゆかないものだろう。政党政治という集団主義そのものへの拒否反応もあるだろう。しかし、それらについては何とか妥協してもらいたい。政治が若者やその中での経済的弱者にこびざるをえなくなるような流れを作り出すためには、まず彼らに「どっこらしょ、仕方ねえな」と動き出してもらうしかないのだ。

 果たしてそうなのでしょうか?本田氏は、結局のところ若年層の社会的な地位が向上しないのは、やはり若年層が主張しないからだ、といっているようにしか見えないのですが。しかしこれには異見があります。というのも、我が国にとって、もはや若年層は、既得権を持っている層(中高年)に比して、マスコミにとっても政治にとっても取るに足らない存在です。たとい若年層が投票行動に出ても、やはり若年層よりも数的に多い既得権層を向いた政策を採用したほうが票になるでしょう。

 私は、青少年に関わる問題の解決のためには、まず中高年層の意識を変えるべきだ、と考えております。現在の、中高年層を中心とする政治や言論の構造は、若年層を「理解できない他者」=「敵」と見なし、それに対する敵愾心を煽ることによって若年層を「消費」する、いわばカーニヴァル的な構造ですが、若者論という言論体系がそのようなカーニヴァル的な構造にどっぷりと浸かっている限り、若年層に対する手厚い政策は「甘え」と見なされてしまう、それがいかに適切であっても。それは新聞や雑誌におけるフリーターや若年無業者の記事を読めば明らかでしょう。これらの記事は(特に「Yomiuri Weekly」平成17年8月14日号の巻頭特集の論調が典型的です。詳しくは「俗流若者論ケースファイル43・奥田祥子&高畑基宏」を参照されたし)書籍や研究で展開されている論調は、全てフリーターだろうが「ひきこもり」だろうが若年無業者だろうが全ては「甘え」であり、そいつらをたたき出さなければならない、という論調、あるいはそいつらは戦後民主主義の鬼子である、みたいな論調ばかり。かつての我が国が、国家的な一体感から「鬼畜米英」を叫んだのと同様、現在の我が国は「鬼畜青少年」と叫んでおります。山本七平氏がこの状況を見たら、さぞかし墓の中で身もだえするのは間違いなかろう。

 「今時の若者」が憎い権力者の皆様、だったら我が国、あるいは自分の自治体をニュージーランドに併合してみてはいかがですか?

 性犯罪報道と『オタク叩き』検証:神奈川県ニュージーランド化計画(悪い意味で)
 松沢成文・神奈川県知事に朗報。神奈川県をニュージーランドと併合したら、これほどいいことがありますよ!

 ・ラグビーが盛ん(筆者注:松沢氏は個人的にラグビーが好きなので)
 ・『残虐ゲーム』や、直接的な描写がなくても『ロリエロ』とみなされたアニメは発禁処分

 でも、ニュージーランドにおける性犯罪の発生率は我が国に比して格段に高い。どういうわけだろう。

 こういう文章を読んでいると、近頃喧伝されている「安全神話の崩壊」なる神話が、特定の階層による凶悪犯罪の喧伝に過ぎないことがよくわかってきますね。特に少年犯罪に関して言うと、「酒鬼薔薇聖斗」事件以降から少年犯罪の発生件数に比して報道の数のほうが多くなってしまった、ということも聞きますし(「潮」平成16年12月号)。社会の「現実」を冷静に見つめることのできる人は決して少なくないのですが、そのような人たちは学問の狭い領域でひっそりと書いているだけになってしまうのでしょうか。我が国の若者論という名のカーニヴァル、病理は極めて深し。

 千人印の歩行器:[時事編]赤であれ青であれみんなで渡れば怖い!(栗山光司氏)
 「みんなで渡れば怖い」、そういう感覚を大事にしていきたい。物事はできるだけ自分の判断で突き進んでいきたい。たといそれが「善行」であったとしても、暴走すれば直ちに「悪行」に転じてしまう恐れがある。この文章は、現在の政治状況・社会状況を考える上で、もっとも示唆に富んでいる文章であります。

 ところで、また新書の棚からきな臭い匂いがしてきました。中公新書ラクレから、『進化しすぎた日本人』なる本が最新刊として出ているのですが(ちなみに著者は「サル学の権威」だそうですよ…。出版事情から言って、正高信男の所論に反することはまず書けないだろうね)、帯にまたぞろ「ひきこもる若者」「子離れできない親」なんて書いてやがる。ふざけんな。

 オイコラ中公!おまえら、この2つを帯に書いた本はこれで何冊目だと思ってるんだよ!俺の知ってる限りでは、いずれも俺がトンデモ本と認定した、正高信男『ケータイを持ったサル』(中公新書)と、矢幡洋『自分で決められない人たち』(中公新書ラクレ)の、少なくとも2冊の帯にこの文句が使われている(詳しくはbk1を。正高本に関してはこちら、矢幡本に関してはこちら)。そうゆう、「今時の若者」=「甘え」みたいな俗情に媚びた本ばかり出すのはいい加減にしろよ!

 とまあ怒ってしまったのですけれども、実は私はこの本をある程度立ち読みしたのですが、こと子育ての部分に関しては、生物学的に考えて現代の子育ては「異常」である、見たいな書き方を連ねていましたので、こういう言い方をさせてもらいました。特に社会学的な考え方に対する無知が痛かった。でもしっかりと読んだわけではないので、近いうちに読み込んでみます。

 そういえば、マガジンハウスの「ダ・ヴィンチ」という雑誌で見たのですが、精神科医の香山リカ氏も『いまどきの「常識」』という本を岩波新書の新刊として出すらしいです。これも少々注視しなければならない。香山氏は最近になって、例えば『ぷちナショナリズム症候群』(中公新書ラクレ)に代表されるような心理学主義的な俗流若者論にも手を染めており、果たしてその路線を引き継ぐものになるのか、動向が注目されるところ。

 たとい自然科学や心理学の分野で優れた研究者が自分の専攻している学問でもって社会を「分析」しようとしても社会学的なセンスがなければ適切なバランス感覚を失って安易なアナロジー、更に言えばレイシズムに陥ってしまう。理系のものにとっての社会学というのは、自分の学問領域に閉じこもらないで社会との接点やバランスを確保していく上で貴重なものであると私は考えます。これは私が大学で学んでいる建築という分野が(土木もそうですけど)他の工学に比して社会学を支えにしなければならない分野が大きい、ということも関連しているかもしれません。

 保坂展人のどこどこ日記:劇場(バーチャル)から現実(リアル)へ(保坂展人氏:元衆議院議員・社民党)
 週刊!木村剛:[ゴーログ]山本一太議員は公職選挙法違反か?(木村剛氏:エコノミスト)

 さて、総選挙が迫ってきました。しかし木村剛氏のブログを始め、ネットの一部で話題になっているのが選挙期間中におけるブログ更新の是非。一応、一般的な公職選挙法の解釈によれば、ウェブサイトやブログも公選法における「文書図画」に該当するようなのでいけないようなのですが…。インターネット時代だから、こういうことをきっちりと議論してもいいのではないかと思いますがね。

 とりあえず私の主張としては、ポスターで「政策」を売り込むためには、ポスターにウェブサイトのアドレスを掲載することに尽きると思います。でもそのためには、選挙期間中のウェブサイトでの政治行動が許されなければならないのですが。

 カマヤンの虚業日記:[選挙]「オタクちゃんねる2」停止の件、その他
 kitanoのアレ:テレビ局上層部から民主党攻撃命令?
 とりあえず、マスコミやプロバイダに圧力をかけない限り維持できない、あるいはマスコミやプロバイダが媚びなければ維持できない政権党というのは、終わったな、と。

 選挙に際して、以下の文章を読んでおくことをお勧めします。
 「kitanoのアレ
 「FrontPage -Game and Politic-
 このブログから「各党マニフェストにおける青少年認識/対策

 さて、読者の皆様にお知らせですが、私は、今月11日の夜から16日の午前にかけて、東京と名古屋に行ってまいります。そのため、ブログの更新ができなくなります。ご了承ください。

 ただ、旅行期間中に、映画のマスコミ試写会に参加してきたり、あるいは万博を見てきたりと、いろいろ動きますので、何か思うところがあれば文章を書こうかと思います(ただし、17日から18日にかけて、親戚の結婚式に参加するため盛岡に行ってくるので、その期間中も更新できませんが)。

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2005年9月 9日 (金)

各党マニフェストにおける青少年認識/対策

sencub01  平成17年9月11日には、衆議院議員総選挙が行なわれる。ただ、この選挙に関して、与党はほとんど郵政民営化一本槍であり、野党は逆に与党に対する批判でもって票を集めようとしているので、選挙の争点のほとんどが「郵政民営化」になりつつある。しかし、各種世論調査を見ても分かるとおり、国民は選挙の争点を「郵政民営化」だと思っていないのが実情である。

 もっとも、そのような世論調査を見ていても、青少年問題が争点であると答える人はかなり少ない。しかし青少年問題対策もまた重要な政策の一つであり、争点に組み込まれるべきだろう。ただし、それも適切な認識に基づいて行われなければならないのであり、従ってマスコミで喧伝される如き扇情的な情報に基づいて行なわれてはいけないのである。

 というわけで、今回は、主要5政党(自民・公明・民主・社民・共産)マニフェストにおける青少年に対する認識と政策を、比較検証していきたい。

 なお、投票に行く前に、以下のサイト・ブログも読んでおくことを勧める。
 反ヲタク国会議員リスト
 kitanoのアレ
 カマヤンの虚業日記
 FrontPage -Game and Politic-
 選挙に行こう
 (「選挙たん(仮)」は、サイト「選挙に行こう」のマスコットキャラクターです)
 このブログのエントリーから
 俗流若者論ケースファイル13・南野知恵子&佐藤錬&水島広子
 俗流若者論ケースファイル30・森岡正宏&杉浦正健&葉梨康弘
 「後藤和智の若者報道用語集」から
 佐藤錬 南野知恵子 水島広子

 1、マニフェスト全体としての感想
 マニフェストを読んだ感想としては、まず民主党のマニフェストは、さすがにもっともマニフェスト政治を推進している政党だけあってか、細部まで作り込まれていた。冒頭に大まかな政策提言とスケジュールを表し、細かい政策を後半に盛り込み、具体的なプラン、すなわち何をするか、ということや、更に言えばどのような問題意識によって政策を構築しているか、ということについても書かれているので、批判・検証する側にとっても親切な設計になっている。

 次に面白かったのは公明党で、この党は今やほとんど自民党の傀儡政党になってしまった感があるが、少なくともマニフェストに関しては親分の自民党よりも作りこまれている。

 次は社民党か。基本的に自民・公明・民主の3党に比して社民党のマニフェストはきわめて薄い。ただ社民党に関しては、政策提言が全体を見通しているように見えるし、最後のページにおいて社民党は「もう一つの日本」を目指す、という提言をしている点では買える。

 共産党のマニフェストは、かなり作り込まれているとはいえ、あれでは「批判ばかりして対案を出していない」の領域を超えていないように思える。なお、共産党のマニフェストに関しては、インターネットの記述を用いている。

 自民党のマニフェストは、はっきり言ってデザインと見出しだけは大々的なのだけれども、中身ははっきり言って空疎。デザインばかりが先行して計画をおろそかにした建築物みたいだ。小泉政権の反映なのか。一番つまらない。

 2、少子化対策・子育て支援
 さて、ここからが本題である。1つ目は「少子化対策」「子育て支援」に着目してみたい。
 基本的にはこれに関しては、全ての政党が明記しているが、具体的に支援額などを書いているのは民主党と社民党と公明党。民主党は、月額16000円の「子ども手当」や、「出産時助成金」の設立、学童保育の充実化などを謳っている。社民党は、父親の産休制度の拡充や、18歳未満の子供に対して毎月支給される「子ども手当」の創設、及び一人親家庭への支援などを謳っている。特に一人親家庭への支援は社民党だけの主張である。公明党は「チャイルドファースト社会の構築」を重点政策の一つとして出し、児童手当の所得制限の緩和、出産育児一時金の値上げ、及び中小企業への育児休業支援を明示している(一人あたり100万円)。中小企業への育児休業支援は公明党のみの主張。

 自民党は、児童手当制度や子育て支援税制について触れてはいるけれども、具体的な数値目標を出して折らず、結局のところ威勢のいい言葉だけを振りかざしているだけ。地味な政策提言には目が向かない、これが小泉政権クオリティ?共産党も具体的な数字の提示はなし。

 それから、全ての政党が、「少子化は問題である」「少子化は子育て支援で解決できる」と考えているらしいが、子育て支援が少子化を解決するわけではないことは、信州大学助教授の赤川学氏が主張している通りだ(赤川学[2004])。また、少子化によって起こる問題を賞しか「対策」(=子育て支援)で解決すべき、という認識も、結局のところは人口増加社会を前提とした現在の社会保障制度などの焼き直しでしかないだろう。政策研究大学院大学教授の松谷明彦氏などが主張している通り(松谷明彦[2004])、少子化を前提とした社会構築が求められている、という側面もあり、そのような主張をマニフェストに取り込んだ政党が、主要5政党の中では一つもない、というのが残念だった。

 3、教育
 もっとも明快なのがやはり民主党。民主党の主張としては、校長先生の公募制度の拡大、地域住民や保護者の参画を推進、総合学習との関わりで土曜授業・放課後授業の推進、スポーツ振興など。特にここで採り上げたものは全て民主党のみの主張であり、民主党が政権交代に意欲を持っていることがここからも窺える。ただし教育基本法には触れず。社民党も教育予算の対GDP比5%達成と、20人学級、教職員を30万人増やす、奨学金制度の拡充(これに関しては民主党も主張している)という公約を掲げているが、教育基本法には触れず。

 公明党は民主党の次に充実していた。主張としては体験学習の充実、奨学金の拡充、小学校における英語教育の必修化。特に英語教育に関しては公明党だけの主張。

 自民党は「義務教育の質的向上のための教育改革」を謳っているけれども、政策立案の点で民主党に及ばず。ただし教科書検定の必要性を検討していることだけは評価に値する。

 共産党は30人学級の推進、住民の意向を反映させる、といっているが、ほとんどが自民党の推進する教育基本法の改正や特定の歴史教科書に対する対抗を強めている。

 そして民主・社民以外の政党は、全て教育基本法に触れていた。自民党はやはり改正推進。記述に曰く《教育基本法を改正し、豊かな上層と道徳心にあふれ、正義と責任を重んじ、強度や国を愛する心や公共の精神が身につく教育を実現する》(自民党マニフェスト)。と。自民党にいわれたくないよなあ。逆に反対の立場を採っているのが当然共産党で、共産党は教育基本法の改正のみならず「日の丸」「君が代」の強制の反対、侵略を正当化する歴史教科書の反対の、愛国主義教育反対の3点セットを打ち出している。公明党は慎重派で、《基本法の基本理念は堅持》《「国を愛する心」を法律で規定することについては、戦前の反省を踏まえて慎重に検討する必要があります》(公明党マニフェスト)という記述が存在する。

 共産党のマニフェストで評価できるのは、性教育の重要性を訴えているところ。曰く、《青少年の間で性感染症や望まない妊娠がふえるなか、性教育は重要な課題です。自民党などによる「性教育=過激」攻撃には道理がありません。保護者と教育関係者が連携してていねいに性教育を進められるようにします》(共産党マニフェスト)と。安倍晋三氏を中心として自民党が推進している「ジェンダーフリー教育反対」「「過激な性教育」反対」をマニフェストに盛り込まなかった自民党のヘタレぶりと比較すれば、共産党には賛辞を送りたい。

 ただ、共産党が本当に子供のことを考えているかどうかについては少々留保すべき点もあるけれど…。これに関しては第5節で。

 4、若年無業者支援及びフリーター・非正規雇用者対策
 若年無業者(ニート)については全ての政党が記述。もっとも具体的なのはやはり民主党。民主党マニフェストには、失業・無行状態の若年に個人アドヴァイザーによるマンツーマンの就労支援、就労支援手当、及び若年無業者が集まることのできる場所の設立を主張している。また民主党は《全国の中学2年生に年間5日以上の就業体験学習を実施します》(民主党マニフェスト)と、東京大学助教授の玄田有史氏の主張に基づいたと思われる記述をしているけれども、これに関してはむしろ教育改革、総合学習の支援の文脈で行なわれるべき、というのが私の主張である。若年無業者の問題に関しては、民主党は若年無業者もまた社会階層の問題が絡んでいるという点に触れられていなかったのが痛いところだ(これに関しては、玄田有史[2005]、小杉礼子[2005]、宮本みち子[2005]を参照されたし)。

 自民党はフリーター25万人常用雇用化プラン、「若者の自立・挑戦のためのアクションプラン」の推進を掲げているが、具体的な数値目標はなし。公明党もこのプランの効率化を図る、という主張。蛇足だけれども公明党のマニフェストには《教育段階からの予防的対策に重点を図ります》(公明党マニフェスト)と書いているが、若年無業者が「予防」すべきものだ、という認識では若年無業者問題は解決できないと思う。

 若年無業者対策に隠れてか、フリーターはあまり政策に上っていないような気がする。ただしフリーター及び非正規雇用者と正社員の、企業福祉などの点における格差については自民・民主・共産が触れている。一番明快なのが共産党で、共産党は「パート・有期労働者均等待遇法」「派遣労働者保険法」の成立を主張し、均等待遇のルール、解雇の規制、サーヴィス残業の規制に取り組むなど、極めて意欲的。民主党は共産党にやや劣り、パート均等待遇実現のための「パート労働法改正案」や、失業・廃業からの再出発としての手当支給・職業訓練(これについては共産党も主張している)の主張にとどまっている。自民党は、《短期間正社員制度の導入推進、パートタイム労働者の待遇の改善、正社員への転換制度の普及・定着等、パートタイム労働政策を充実・強化する》(自民党マニフェスト)と書かれている程度。

 5、メディア規制
 「青少年の健全育成」を楯に取ったメディア規制を主張しているのは自民・民主・共産。特に力を入れて記述しているのはなぜか共産。曰く《政治の腐敗、大企業のモラルハザード、戦争正当化や暴力肯定の風潮、人間の性をおとしめる傾向などとたたかい、社会のモラルと道義を確立するために努力します》《児童買春や性の商品化では、国連子どもの権利委員会からきびしい勧告がだされています。メディアでの暴力や性の表現が、子どもに野放しになっています》(共産党マニフェスト)だとさ。自民党も「青少年健全育成の推進」を謳っている。右も左も俗流若者論で結託してしまう様を見ているようだ。民主党もまた、《書籍の区分陳列や放送時間帯の配慮などによって、普通に暮らす子どもたちが有害情報に触れないですむ環境をつくります》(民主党マニフェスト)などと書いている。どうやら自民・民主・共産の各党のマニフェスト起草者は、「有害」情報と「有害でない」情報を分けることができるとか、「有害」情報は等しく青少年を堕落せしめる、とでも考えているようだけれども、まずあんたらの青少年に対する認識を改めろよ。

 ただし、民主党に関しては、《情報のもつ意味を正しく理解し、活用できる能力(メディアリテラシー)を育むような教育》(民主党マニフェスト)を打ち出しており、この点に関しては賛同できる。更に民主党は、通信傍受法(盗聴法)、住民基本台帳ネットワーク、個人情報保護法の見直しを打ち出し、社民党もまた共謀罪の新設に反対するスタンスを明確にしている。

 蛇足だけれども、メディアがらみで言うならば、民主党は「テレビの字幕化の推進」を打ち出している点でユニークである。曰く、《聴覚に障がいのある方もテレビ放送を楽しみ、情報を確保できるようにするため、2009年度までに、技術的に可能なすべてのテレビ番組の字幕化を実現します》(民主党マニフェスト)と。

 6、治安
 治安に関して、少年犯罪への対処に触れているのは自民党のみ。曰く、《組織犯罪、サイバー犯罪、少年犯罪に対処する関連法整備を推進する》(自民党マニフェスト)と。少年犯罪よりも人口当たりの発生率の高い中高年犯罪は無視ですか。

 7、まとめ
 青少年問題に関する取り組みの視点から、もっともマニフェストで評価できるのは民主党である。従って、私は民主党に投票することを勧めるのだが、ただ民主党に関してはきな臭い動きも少なくなく、特に民主党右派で「日本会議」のような右派系政治団体に関わっている人や、民主党左派の一部のフェミニスト議員(特に水島広子氏と肥田美代子氏)はメディア規制を推進しているし、マニフェストにもメディア規制が盛り込まれている。民主党には自民党より過激なメディア規制論者も存在しているようなので、投票する際にはそのようなことを一定ないかを見極める必要がある。民主党は「子ども家庭省」の設立を主張しているけれども、この最高ポスト(大臣)に水島氏や肥田氏が就いてしまったらメディア規制への流れは止めにくくなるだろう。私の願望としては民主党と社民党の連立政権が望ましいと考えている。

 参考文献・資料
 赤川学[2004]
 赤川学『子どもが減って何が悪いか!』ちくま新書、2004年12月
 玄田有史[2005]
 玄田有史「ニート、学歴・収入と関連」=2005年4月13日付日本経済新聞
 小杉礼子[2005]
 小杉礼子「就職の仕組み柔軟に」=2005年4月14日付日本経済新聞
 松谷明彦[2004]
 松谷明彦『「人口減少経済」の新しい公式』日本経済新聞社、2004年5月
 宮本みち子[2005]
 宮本みち子「包括・継続的な取り組み必要」=2005年4月16日付日本経済新聞

 玄田有史『仕事のなかの曖昧な不安』中央公論新社、2001年12月
 日垣隆『現代日本の問題集』講談社現代新書、2004年6月
 広田照幸『教育不信と教育依存の時代』紀伊國屋書店、2005年3月

 「フリーターとは誰か」=「現代思想」2005年1月号特集、青土社

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2005年9月 4日 (日)

トラックバック雑記文・05年09月04日

 最初にお知らせ。「後藤和智の若者報道用語集」というブログを作成しました。簡単に言えば、このブログに出てくる用語を紹介したものです。最近では、例えば正高信男氏や森昭雄氏なんかを「かの曲学阿世の徒」と表現しておりますが、なぜそのような表現をするのか、ということを知らない人もいるのではないかと思いますし、このブログ全体の見取り図があったほうがいいと思うので開設しました。今はまだ正高信男氏に関する語句と「俗流若者論ケースファイル」の第1~3回に関する語句だけですが、どんどん充実させていくつもりです。

 では、ここからが本番。

 ひとみの日々:いぃーやっほう!(生天目仁美氏:声優)
 この掛け声って、「仁美と有佳のどらごんデンタルクリニック」(文化放送:毎週水曜日25時~25時30分に放送)ですか。それはさておき、生天目氏の後ろにある看板が実に秀逸です。スピード違反を取り締まる看板なのですが…。

 交通違反 9000円
 佐渡するめ 500円

 要するに、お前が交通違反で支払った罰金で18個の佐渡するめが買えるんだぞ、とでも言いたいのでしょうかね。こういうユーモアに溢れた看板は好きです。しかもデザインもシンプルだし、私の周りにある種々の看板のようなけばけばしさが感じられない。世の中にこういうシンプルでユーモアに溢れた看板が多くなればいいのですが、やはり共同幻想(笑)として派手なものが受けるのだ、という傾向があるのでしょうか。でも、シンプルさだって一つの力ですよ。

 さて、今回のトラックバック雑記文は、「俺は騙されないぞ!シリーズ」でいこうかと思います。

 1、俺はオタクバッシングに騙されないぞ!
 保坂展人のどこどこ日記:オタクバッシングを考える その1その2(保坂展人氏:元衆議院議員・社民党)
 フィギュア萌え族(仮)犯行説問題ブログ版:テレビ東京、会田我路の着衣の少女写真集を、「ヌード写真集」と偽って報道。(古鳥羽護氏)
 まず、保坂展人氏のブログを読んでください。大人の対応とはこういうことを言うのですね。我が国では自分が気に入らない=犯罪の温床=規制しろ!などという自称「識者」や政治家や知事が多すぎますけれども、そのような人のやる政治というのは結局のところ弱者たたき、あるいは強権政治にしかならない。

 しかし最近の政治の流れにはきな臭いものを感じずにはいられませんね。この手の政治家が行なっていることは、「ある一つの社会的な階層や集団に対する敵愾心を煽り、それらを「敵」「悪」と規定し「正義」としての自分を強調することによって、ポピュリズム的な人気を得る」という手法に要約されるでしょう。このような所業を行なって世界を破滅に導いた政治家を知ってますか?そう、ヒットラーですよね。

 こういう、政治を単なる自己実現の場としてしか考えない阿呆どもには、ぜひともマックス・ヴェーバーの名著『職業としての政治』(脇圭平:訳、岩波文庫)の以下のくだりを読んで欲しい。

 政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である。もしこの世の中で不可能事を目指して粘り強くアタックしないようでは、およそ可能なことの達成も覚束ないというのは、まったく正しく、あらゆる歴史上の経験がこれを証明している。(105ページ)

 一点突破しか考えていない人には、こういう託宣は通用しないのでしょうね。

 マスコミも然りです。相手が「叩きやすい対象」であれば、捏造報道もありですか。これではテレビ東京は最近の朝日新聞の記事捏造事件を批判できませんよね。もっとも、このような所業を行なっているのはテレビ東京だけではありません。政治報道における捏造は即座に糾弾されるのに(これは全く正しい)、若者報道における捏造は全く糾弾されない。いつぞやかの「Yomiuri Weekly」で、渋谷では「家出少女の実態」みたいなテレビ報道を作らせるためにそこらを歩いている少女に「家出少女」をさせているのは日常茶飯事、というくだりを読んだことがありますが、若者報道というのは、まったくチェックが働かない場であるからこそ、捏造しても平気なのか。

 いいのかそれで。俺は騙されないぞ!

 2、俺はステレオタイプに騙されないぞ!

 kitanoのアレ:おたくのための選挙資料(1):喪男の小説『裏・電車男』:都内女性の20万人がHIV感染者というデマ

 一説では、都内の女性の約20万人がエイズのキャリアだという話…。だが、俺は騙されないぞ!なぜなら、一次情報に全く触れられていないからです。

 このデマの泉源は「2ちゃんねる」だそうで。「kitanoのアレ」からの孫引きになりますが、

喪「で、親父の病院や他の知り合いの病院2~3ヶ所の話を聞くと、毎年とんでもないペースで増えてるそうなんだ。それも加速度がついてる位で。特に20代~10代の女が凄いらしい。今じゃ何と2割位居るんだってさ。自分はエイズじゃないかなんて心配を全然してない、他の病気で普通に診察に来てる女の2割がHIV感染者だ。しかもその増加率は年々上がっている。

もしこの割合を、単純にそのまま都内の病院全部に当てはめたら1万2万なんて人数では済まないそうだ。都内だけで10万とか20万とか…もちろん単純計算だから、実際の正確な所は解らないけど」

 というものだそうです。

 このようなデマは、「今時の女は誰とでも性行為をするくらい堕落してしまった」というようなステレオタイプのなせる業である、と考えて間違いないと思います。どうしてステレオタイプの前では無力化してしまう人が多いのでしょうかね。これは何もこのようなデマ宣伝に限った話ではなく、俗流若者論でも同じ事。要するに「「今時の若者」はゲームなどで殺人を日常的に「学習」しているから凶悪犯罪を簡単にしでかすようになっている」というのも、我々がマスコミによって信じ込まされているデマです。このような、現代の女性や若年層のデマに踊らされる人が増えることによって、誰が得するのか。結局は現代の女性や若年層に対して敵愾心を煽ることで利権や支持率を得ている人たちですね。俺は騙されないぞ!

 3、俺は争点をずらしたがる小泉純一郎に騙されないぞ!

 MIYADAI.com:【アゲておきます】民主党がとるべき道とは何か(インタビュー)(宮台真司氏:社会学者)

 小泉首相は「郵政民営化」を連呼し、郵政民営化こそが改革を進める上での第一歩となる、と喧伝していますけれども、この人に「国家観」というものは果たしてあるのでしょうかね。いや、私は、何も「諸君!」の今月号の特集のようなことを言いたいのではなく、私はむしろ「国家観」よりも大きい「社会観」を問いたいのです。その点において、宮台氏のこの文章は必読だと思います。

 若者報道の研究家としての私が、特にプッシュしたい部分はこちら。

■でも、バラマキをやめるのと、弱者を放置するのとは別問題。現に社会的弱者だからこそ噴き上がる都市型ヘタレ保守は、小泉流「決然」にカタルシスを得ても、そのあと幸せになれません。そこに、都市型保守への「都市型リベラル」の対抗可能性があり、都市浮動票を取り合う二大政党制の可能性があるわけです。

■だから、民主党が示すべきは「都市型リベラル」の政党アイデンティティです。「小さな政府」が「弱者切り捨て」を伴ってはいけないと主張し、「都市型弱者」である非正規雇用者やシングルマザーや障害者の支援を徹底的に訴える。「フリーターがフリーターのままで幸せになれる社会」をアピールすればいいのです。

■「バラマキはダメだから壊す」の小泉流は明瞭です。対する民主党が「壊し方の非合理性」を訴えるのは稚拙です。郵政法案がデタラメでも、デタラメな法案を武器に使って旧経世会を葬り去ったことを、国民が賞賛しているのですからね。小泉氏を倣って「削る」「縮小」を繰返すのも稚拙です。「小泉さん、壊してくれてありがとう。壊れた後は民主党が作ります」で行くべきじゃありませんか。

■「都市型保守」のネガティビティに「都市型リベラル」のポジティビティを対置する。「不安」に「幸せ」を、「不信」に「信頼」を対置する。本当にタフでカッコイイのはどちらか。言うまでもありません。

 4、俺はこんな奴に騙されないぞ!
 bk1で、柳田邦男氏の『壊れる日本人』(新潮社)の書籍詳細ページにトラックバックされていた文章なのですが、いやあ笑えた。

 アール学派:退廃文化、絶好調!?

 いや、経済的なことを語っていることに関しては結構説得力があるのですけれども、こういうくだりを読んでいると、やっぱり俗流若者論ってのは自分こそは絶対に正しく犯罪もしないし「ひきこもり」にもならないんだぞーってはしゃいでる人たちの不満の捌け口でしかないんだよなあ、と改めて思ってしまいますよ。

 ニートチックな貧乏人は、なぜかケイタイが手離せませんね。

 「馬鹿とハサミは使いよう」ではなく、「お馬鹿な貧乏人は使いよう」ですね。

 でも、踊らされているのはあんたのほうですから!残念!!

 『ケータイを持ったサル』に群がるサル、斬り!!!

 しかもコメント欄がまた笑える。

 こないだ電車でずぶ濡れのケータイサル発見!
 どうやら、このサルはケータイは使えても傘を使う知能はなかったみたい。新たな発見なので今 秋あたりに、Journal of Mobile-phone Monky に投稿予定です!(>▽<)

 ……折りますよ?(結構前に、古本屋の立ち読みで、スクウェア・エニックスから発刊されている『ぱにぽに』という漫画の第3巻を読んで以来、この表現が結構気に入ってしまったなあ。ついでにこの『ぱにぽに』は「ぱにぽにだっしゅ!」としてアニメ化されているようです。私の地方ではテレビ東京が映らないのですが)

 ってゆうか、《Journal of Mobile-phone Monky》なんていうメディアがあるのか!ぜひとも俺に知らせてくれ!

 そもそもこの『ケータイを持ったサル』『壊れる日本人』って、現代日本のナショナリズムがいかに「愛国心」ではなく「若者論」であるか、ということを如実に示している本ですよ。詳しくは私の書いた検証記事を読んでください。正高信男氏関連はこちら。柳田氏に関してはこちら

 しかもこのブログときたら、皇學館大学助教授の森真一氏の名著『日本はなぜ諍いの多い国になったのか』へのリンクまで貼ってある!この名著を読んだら、先の2冊を簡単に信ずることはできないと思うんだがなあ。これもネタなのか。

 5、俺はこんな奴らにも騙されないぞ!
 今春に遠山敦子氏が設立した「こころを育む総合フォーラム」の設立趣旨文を検証してみます。「俗流若者論ケースファイル」の71回目としてやろうと思ったのですが、まだ資料が不十分なのでやめます。

 趣旨分において、遠山氏はこういうことを書いています。

 戦後60年、日本の経済はめざましい発展をとげました。占領期から独立期にかけて、国内的に平和の状態が保たれたことが大きかったと思います。けれどもそのことでわれわれは、いつのまにかわれわれ自身の精神的な自立、および倫理的な生き方に十分の配慮をすることなく時の経過に身をまかせてしまったきらいがないではありません。そのために噴出しはじめた綻びが、今日わが国社会のいたるところにみられることは周知の通りです。

 家庭や教育現場における人間関係の乱れ、公的機関や企業における不祥事、そして心の凍りつくような残虐な事件の発生など、いずれも日本人の精神の衰退、かつて日本人がもっていたはずの倫理性の喪失を示す兆候ではないでしょうか。物質的な豊かさにともなう心の世界の空洞化が、危機的な様相を呈しているというほかはありません。

 だからさ、なんでこういう俗流若者論や俗流社会論で、《日本人の精神の衰退、かつて日本人がもっていたはずの倫理性の喪失を示す兆候》なんて安易に語っちゃうのかな。いずれにせよ、このフォーラムはしっかりと監視しておく必要がありそうです。

 検証になってないなあ。

 6、俺は統計にも騙されないぞ!
 「統計学の常識、やってTRY!第5回」を公開しました。読んでね。しかも「AERA」平成17年9月5日号の次号予告を見てたら、また香ばしい薫りが…。

 次号のアエラは●日本を再生するファンドを作った人たち●引き込もりをつくらない間取りの家

 さて、どんな記事ができ上がるのやら。しかも私は建築学科の学生ですから、更に気になるわけですよ。建築物としての家までもが俗流若者論に政治化されてしまうのか、って。

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2005年8月30日 (火)

トラックバック雑記文・05年08月30日

 「俗流若者論ケースファイル」25連発なんて、本当に骨の折れる作業でした。おかげで、このブログのコンテンツ(これを含めて125個)の内56%(70個)が「ケースファイル」になってしまった。しかも「ケースファイル」で取り上げたい文章って、まだたくさんあります。まあ、今後の予定はさておき、まず雑記文から。

 週刊!木村剛:[ゴーログ]公職選挙法こそ、ブログの敵だ!(木村剛氏:エコノミスト)
 保坂展人のどこどこ日記:ブログ中断の不条理、公選法改正を(保坂展人氏:元衆議院議員・社民党)
 公職選挙法によれば、文書や図画の頒布について極めて厳しい基準がしかれているようです。ここ最近、政治かもウェブサイトやブログを持つようになりましたが、公選法によれば選挙期間中はホームページやブログの更新は許されていないらしい。ただし、厳密に「許されていない」というのではなく、ウェブサイトやブログが「文書図画」であるかどうかを規定されていないため、公選法に抵触する「虞がある」ということだそうです。

 私は基本的にはウェブサイトやブログによる選挙運動には賛成です。多くの人がインターネットに繋げるようになる現代、インターネットを選挙活動の道具の一つとして利用するのは大きな意味があると思います。

 さて、私は公選法の改正だけではいけないと思います。もしウェブサイトやブログが選挙活動として認められているのであれば、立候補者はポスターに自分のウェブサイトやブログのアドレスを明記すべきでしょう。携帯電話の「QRコード」を印刷してもいい。わざわざ政治家のサイトを検索して見る人は少ないでしょうから、人を呼び集めるためにはポスターにそのような工夫を施すことも必要だと思います。

 今の選挙活動は、ほとんどが「名前」を売ることにまい進していると思います。しかし、利権誘導型政治の欺瞞が明らかになった今、「名前」だけでは考える市民を取り込むことが出来ないでしょう。だからこそ、「名前」だけでなく「政策」を売り出すことが出来るようになって欲しい。インターネットを利用した選挙活動は、選挙活動に政策を「売り出す」プレゼンテーションのスキルが重視されるように変革されるでしょう。マニフェスト型政治を定着させるには、まずインターネットを政治活動として認めるべきです。

 しかし、インターネット選挙活動がみんな善であるというわけではないようで…。

 kitanoのアレ:ウヨク工作活動:民主党アンケートに大量組織票

 リンク先の記事によると、7月20日から25日にかけて民主党がネット上でモニター選挙を行なったところ、7958名のモニターの内3877名が実施期間中に新規登録した人のようです。ここまでならいいのですが、ここから先に何かきな臭い動きが…。

    Q1. 時の首相が靖国神社を参拝することについてあなたはどう思いますか?
  賛成である 1267 票 (工作後 5144 票)
  反対である 2438 票
  わからない 376 票
  Q3. 民主党の岡田代表は政権交代後、首相になった場合、自分の意思で靖国神社に参拝しないとしています。あなたはどう評価しますか?
  大いに評価する 1769 票
  多少評価する 888 票
  あまり評価しない 769 票
  全く評価しない 440 票 (工作後 4317票)
  わからない 215 票
  Q4. 首相の靖国神社への参拝問題で日本の国益に叶うのは、参拝の継続か中止どちらだと思いますか?
  参拝継続 1098 票 (工作後 4975票)
  参拝中止 2436 票
  わからない 547 票

 すごすぎますよ。いくつかの左派系のブログでは所謂「ネット右翼」によるコメント欄荒らし・トラックバック荒らしが問題化されているようですが、これだけの「工作員」がいるとは…。まあ、所謂「ネット右翼」の世界は、「世界」平成17年7月号で鈴木謙介氏が言っている通り、所謂「学級会民主主義」の世界、すなわち多数派の正義ですからね。そのような「多数派の正義」は、そのまま勝ち馬に乗ればいい、という価値観を生み出す。これは所謂「ネット右翼」だけでなく、そのまま彼らの批判するマスコミや、メディア規制派にも言えることです。すなわち…。

 フィギュア萌え族(仮)犯行説問題ブログ版:各局の報道で全国に晒されてしまった加害少年の部屋(古鳥羽護氏)
 弁護士山口貴士大いに語る:松沢知事はエコノミストの記事を読んだのでしょうか?(山口貴士氏:弁護士)
 カマヤンの虚業日記:[日本会議][勝共連合]「日本会議」の街宣車、コミケへ来る
 走れ小心者 in Disguise!: 「黙ってられるかこんな話聞いて!」(克森淳氏)
 kitanoのアレ:おたくのための選挙資料(1):自由民主党の公約
 kitanoのアレ:おたくのための選挙資料(2):民主党の公約
 「反ヲタク国会議員リスト」雑記帳:[健全育成政策] 自民党&共産党もエロゲー撲滅に必死

 我が国のマスコミや政治家には、相手がオタクであれば倫理も矜持もプリンシプルも無視してバッシングに走ってもいい、という不文律があるそうです。先日宮城県で起こった警官襲撃事件でも、加害者の部屋が全国放送によって委細もらさず報じられてしまったらしい。そして案の定アニメやゲームやモデルガンが原因である、という印象操作報道を行なってしまったようです。

 はっきり言って、これは報道加害以外の何物でもありませんね。少年法61条はもはやあってなきものと化しているようです。もちろん少年法61条には問題点が多くありますが、このような報道の行き過ぎはもはや壊滅的です。我が国の中において、どれだけの青少年がアニメやゲームやモデルガンには待っているか、マスコミの人たちは分かっているのでしょうか。その中の一人が犯罪をしでかしたからといって、アニメやゲームやモデルガンに愛着を示す人はみんな危険だ、という論理を展開してはなりません。しかし、そのような印象操作こそが受ける、とマスコミの人たちは確信しているのでしょうか。視聴者をなめているのか。少なくとも若年層をなめているのは事実でしょうね。

 山口貴士氏のブログでは、ゲーム規制を推し進める松沢成文・神奈川県知事が英国の「エコノミスト」という雑誌でゲームの有害性は実証されていない、という記事が掲載されていて、松沢氏はこれを呼んだのか、と糾弾していますけれども、自分に都合の悪い情報を封鎖するのもまたマスコミクオリティです。例えばフリーターや若年無業者の分野に関すると、書籍ではかなり優れた分析や報告が展開されているのですが、雑誌や新聞やテレビ報道のレヴェルになるとあいつらは甘えているとか親が悪いんだとかいった画一的・一方的な批判になってしまう。どうして彼らは重要なデータをひた隠すのでしょうかね。やはり自分の構築した「今時の若者」のイメージを綿密なデータによって解体されたくないからなのか。所詮マスコミは、マスコミ報道の主たる受け手となっている社会階層の人を擁護するものでしかなく、公器としての役割を期待するほうが無理なのかもしれません。

 「kitanoのアレ」では、自民党だろうが民主党だろうがメディア規制の動きをとめることは出来ない、と書かれております。私がこのことに関して思うことは、自民党も民主党も、更には共産党すら「今の子供たちは「異常」である。それは有害な情報が蔓延しているからである」という認識を共有しているということです。しかし、彼らのいうところの子どもたちの「異常」とは、一体何を指しているのか。少年犯罪の急増?凶悪な少年犯罪は現在よりも昭和40年ごろのほうが圧倒的に起こっていた。規範意識の低下?このような論理は論じる側のイデオロギーに左右されやすく、まず彼らが持ち出す「規範意識の低下」という視点が相対化されるべき問題です。更には疑似科学まで持ち出して、今の子供たちはかつての子供たちと「本質的」に違うのだ、という人たちまでいます。しかし、そのような論理が、レイシズムにつながるということに関してはどうして無頓着なのだろう?

 「カマヤンの虚業日記」では、かの有名な「コミックマーケット」に、メディア規制の急先鋒である右翼政治団体「日本会議」の街宣車が、自らの出自を偽って街宣活動を行なったようです。そしてその「日本会議」は、右派系の「人権擁護法案」反対派の肩を持っている存在ですけれども、このような人たちと一緒になって「人権擁護法案」に反対している人は、やがてこれらの人たちがメディア規制に走り出す、ということにどうして無頓着なのでしょうか。それとも長いものに巻かれていれば害はない、と考えているのか。やはり「学級会民主主義」の徒ですか。

 ついでに私も「人権擁護法案」に反対した文章を書いたことがあります。しかしその視点は、まず論壇において「人権」という言葉がいかに曲解されてきたか、ということと、立憲主義において国家・国民・憲法とはどのような位置にあるか、ということを中心に論じました。ですので、私の批判は、かなり相当性があるように思えます。まあ、その理由で、一部の人からは「近代国家礼賛なのか無政府主義なのか分からない」「電波」などと罵られているわけですが。

 本日の「産経SHOW」:「丸の中に平」は、「平蔵」ではなく「平和」
 産経新聞の「産経抄」を検証しているブログなのですが、平成17年8月23日付の「産経抄」にあったこの文章を見たとき、私の眼が止まりました。

 昔、自民党が総裁選びでもめていたときのこと。識者への談話取材を命じられた筆者は、サルの研究者に電話をかけ、当時の編集幹部に怒鳴られた。ボス猿選びと比較するとは、政治を冒涜(ぼうとく)するものだ、というのだ。

 《サルの研究者》?もしかして信男ちゃん?信男ちゃんなのかっ!?(笑)なんて、違うでしょうけどね。

 さて、8月7日から8月30日にかけて、「俗流若者論大賞」と称して、「俗流若者論ケースファイル」25連発という荒業をやり遂げてしまいました(盆休みあり)。ここで発表した文章は以下の通り。せっかくなので短評つきで。

 「俗流若者論ケースファイル46・石堂淑朗
 石堂淑朗、「正論」だけでなく「新潮45」でも活躍しております。

 「俗流若者論ケースファイル47・武田徹
 「プログラム駆動症候群」なる珍概念を批判的検証抜きで宣伝。しかし箱を開けたら暴力的なレトリックの山だった。

 「俗流若者論ケースファイル48・澤口俊之
 ついに単独で登場、澤口俊之。

 「俗流若者論ケースファイル49・長谷川潤
 教師ってなんなんだ。

 「俗流若者論ケースファイル50・工藤雪枝
 歴史ってなんなんだ。

 「俗流若者論ケースファイル51・ビートたけし
 論理が散乱しまくっています。ビートたけし=北野武氏にはこういう側面もあったのか。

 「俗流若者論ケースファイル52・佐藤貴彦
 「バトル・ロワイヤル」のトンデモ珍解釈、とでも言うべきか…。

 「俗流若者論ケースファイル53・佐々木知子&町沢静夫&杢尾堯
 治安悪化は全部少年のせいだ!とでも言いたいのかな。しかし対談者は元検事の自民党国会議員、少年犯罪報道御用達の精神科医、元警察官。

 「俗流若者論ケースファイル54・花村萬月&大和田伸也&鬼澤慶一
 中江兆民の「三酔人経綸問答」ならぬ、「三酔人俗流若者論問答」。

 「俗流若者論ケースファイル55・遠藤維大
 アクセス解析によると、この人の名前で検索したらこのページにぶち当たった、という人がいるようですが、この人、ネット上の評判悪すぎ。

 「俗流若者論ケースファイル56・片岡直樹
 片岡直樹も単独で登場。

 「俗流若者論ケースファイル57・清水義範
 元祖「フィギュア萌え族」論!?

 「俗流若者論ケースファイル58・林真理子
 この程度の「憂国」エッセイが教育「論」として認められてしまう現実。

 「俗流若者論ケースファイル59・林道義
 この時期に及んで、「環境ホルモンで動物が女性化」はないだろう…。

 「俗流若者論ケースファイル60・田村知則
 何と眼科医学から俗流若者論が飛んできた。

 「俗流若者論ケースファイル61・野田正彰
 俗流若者論で「心のノート」に反対したらまずかろう。

 「俗流若者論ケースファイル62・藤原正彦
 文化ってなんなんだ。

 「俗流若者論ケースファイル63・和田秀樹
 遅れてきた「スキゾ/パラノ」(@浅田彰)!?

 「俗流若者論ケースファイル64・清川輝基
 清川輝基まで登場。

 「俗流若者論ケースファイル65・香山リカ
 政府や右派言論人を叩かずに若年層ばかり叩く、それが若年層右傾化論クオリティ。

 「俗流若者論ケースファイル66・小林ゆうこ
 ここまで疑似科学を批判的検証抜きに紹介できるノンフィクション作家って…。

 「俗流若者論ケースファイル67・中村和彦&瀧井宏臣
 しかし瀧井宏臣は小林ゆうこよりもすごい。

 「俗流若者論ケースファイル68・瀬戸内寂聴&乃南アサ&久田恵&藤原智美
 これだけの「文化人」がそろっておきながらこの貧困。

 「俗流若者論ケースファイル69・小林道雄
 小林道雄二重人格説。要するに警察に関する仕事と青少年に関する仕事で落差ありすぎ。

 「俗流若者論ケースファイル70・山藤章二&「ぼけせん町内会」の皆様
 トンデモカルタの世界。

 今後の予定。
 ・「統計学の常識、やってTRY!第5回」を近いうちに公開します。採り上げる記事は、「AERA」平成17年9月5日号に掲載された、各務滋、坂井浩和、小田公美子「父よ母よ 園児が壊れる」です。
 ・「俗流若者論ケースファイル71・遠山敦子ほか」を近いうちに公開します。8月26日付の読売新聞で、遠山氏が識者16名を集めて結成した「こころを育む総合フォーラム」の基調報告が掲載されていますが、そこでは取り立てて俗流若者論が見られるわけではないのですけれども、この団体の動向を見極めなければならない、という目的で執筆します。
 ・三浦展『仕事をしなければ、自分はみつからない。』(晶文社)の検証記事を来月中に公開します。また、同じ著者の『ファスト風土化する日本』(洋泉社新書y)と『「かまやつ女」の時代』(牧野出版)にも問題が見られれば、短期集中連載という形で来月一遍に検証を行ないます。
 ・小林道雄『「個性」なんかいらない!』(講談社+α新書)の検証記事を再来月までに公開する予定です。
 ・9月14・15日に、愛知万博に行ってきます。そこで何か感じることがあれば、万博観覧レポートを書きます。
 ・その前日の9月13日に、東京で今年のカンヌ国際映画祭でパルムドール大賞を受賞したベルギー映画「ある子供」のマスコミ試写会に参加してきます。そこで何か感じることがあれば、映画評を書こうと思います。生まれて初めての映画評です。
 ・再来月までに、巷に出回っているフリーターや若年無業者に関する本の書評をbk1にて一気に公開します。さらに、その公開とあわせて、それらの本に関する分析を行なった記事をブログで公開します。
 ・平成18年仙台市成人式実行委員会に参加しています。それにあわせて成人式関係のコンテンツも充実させていくつもりです。その嚆矢として、近いうちに「成人式論は信用できるかSPECIAL01・大谷昭宏」を掲載します。「通販生活」2005年春号に掲載された大谷氏のインタヴューを検証します。

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2005年8月28日 (日)

俗流若者論ケースファイル68・瀬戸内寂聴&乃南アサ&久田恵&藤原智美

 俗流若者論を研究しているものにとって、過去に喧伝された「今時の若者」をめぐる事例や言論に関して、今振り返ってみると「あれはなんだったのか?」と思い返さざるを得ない。我が国において「今時の若者」をめぐる言説は、中にはそのまま(その非論理性が指摘されずに)ずっと使われ続けるものもあるし、あるいはすぐに消失してしまうものもある。「あれはなんだったのか?」と考えざるを得ないものは、もちろん後者に当たる。

 今回検証するのは、「文藝春秋」平成12年11月号に掲載された、「「なぜ人を殺してはいけないのか」と子供に聞かれたら」という特集の中におけるいくつかの論文である。このような問いかけは、今ではめっぽう聞かれなくなった。それがいい事なのか悪いことなのかは一概には言えないだろう。

 検証の前に、私なりに「なぜ人を殺してはいけないのか」ということに関して書きたいのだが、なかなかいい理由が見つからない。最大の理由としては、やはり「刑法で禁止されているから」であろう。しかしこのような解答をすると、「人を殺していい。ただし、警察権力に見つからないように最後まで隠し通せ」ということを容認してしまうことになる。ただこの答えは、法学的に突き詰めるならばある程度は正しい答えとなる。しかし「それではなぜ「人を殺してはいけない」ということが法律よって定められるようになったか」ということに関しても答えなければならないはずである。それに対する理由としては「人を殺すことが許されるならば多くの人が人を殺すようになり、社会秩序が崩壊する」というのがもっとも妥当かもしれない。要はホッブズの説明である。ホッブズは自然状態を「万人の万人に対する戦争状態」と捉え、そこから生まれる死の恐怖から回避するためには主権の確立が必要だ、という論理である。

 しかし、世の中にはたくさんの「殺人」で溢れている。もちろんここで言うところの「殺人」は人が人に対する殺人行為のみを指すのではなく、例えば国家が凶悪犯罪の被害者の代行として恩讐を行なう場合=死刑や、国家の主権の拡大のために自らの「敵」を殺す行為=戦争などといったものが溢れている。更には最近になって、脳死とかホスピスなどを巡る議論に代表されるとおり、そもそも「生」と「死」の境目に関する議論もまた存在している。このように考えれば、今ではめっぽう聴かれなくなった「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いもまた、「生」と「死」の境目が曖昧になった現代社会であるからこそ問われる問題なのかもしれない。もう一つ言えば、昨今のマスコミ、特に少年犯罪報道は、あまりにも「死」を物語化しすぎており、彼らの「死」に対する認識こそ私は疑いたくなる。

 本来ならそのような問いかけを真摯に受け止めることによって、我が国の社会にとって「死」とはいかなる意味を持っているか、ということを問い詰めなければならなかったのである。しかし我が国の自称「識者」にとって、そのようなことは許されなかったらしい。まあ、我が国の自称「識者」の役割が、ただ「今時の若者」の「問題行動」に「驚いてみせる」ことでしかないから、この特集の如くただページ数だけ多くて内容は空疎なものばかりそろってしまうのかもしれない。

 さて、検証に入ろう。

 ・瀬戸内寂聴氏(作家)「仏教第一の戒律「不殺生戒」」
 この文章において、瀬戸内氏は仏教の戒律に基づき、殺人のみならず戦争も死刑もいけない、と述べている。その一貫性は実に美しく、厳格であるのだが、どうも気になるのは瀬戸内氏が現代の若年層に対して偏狭なイメージしか持っていないのではないか、ということだ。

 例えば瀬戸内氏は、166ページにおいて、以下の如く述べている。曰く、

 最近の子供は、命の大切さ、重さを、家庭でも、学校でも教えられていないようだ。

 「なぜ人を殺してはいけないの」

 と母親に問うた子供に、その母親は何と答えて言いかわからなかったという話が、新聞に投書されて話題になった。多くの母親が投書者の困惑に共感を示した。八十近くまで生きた私は、それを聞いて心から驚愕してしまった。
 私の世代の者は、少なくとも物心つかない幼いうちに、人はもちろん、動物も鳥も殺してはならないと、誰からともなく教えられていたように思う。……(瀬戸内寂聴[2000]、この部分では断りがないなら同様)

 瀬戸内氏の如き力のある知識人ですら、この程度の「憂国」しかできないのだから哀しくなる。少なくともこのような瀬戸内氏の「憂国」エッセイレヴェルの議論が本当に論理として成立するためには、それは本当に瀬戸内氏の世代の特徴なのか、それとも瀬戸内氏の単なる思い込みなのか、ということにも検証が必要であろう。

 瀬戸内氏はまた、167ページにおいて、《青少年の自殺の増加も只ならぬものがある。彼等は、自分の命さえ軽んじているのである。自分を愛せない人間は他者を愛することも出来ない》と書いている。しかし自殺統計を見ればわかるとおり、我が国において人口10万人に対して最も自殺者が多いのは50歳代であり、青少年(未成年)の自殺は我が国において全世代と比較して低い。瀬戸内氏は、我が国でもっとも自殺している50歳代の人たちに、この文章の如き罵倒をすることが出来るのだろうか。ちなみに現在の50歳代は生涯を通じて自殺率の高かった世代であり、この世代が40歳代だったときは40歳代の自殺が急増している。瀬戸内氏の罵倒がいかに的はずれであるか、ということを証明しているだろう。

 ちなみに瀬戸内氏がらみで付け加えておくと、瀬戸内氏は日経新聞において「生少年の想像力が衰退したから、犯罪や自殺が増えた」ということを述べていたが、このことについては皇學館大学助教授の森真一氏が批判している。森氏は、瀬戸内氏の「想像力衰退説」に対し、《このような主張の裏には、「文字文化のほうが絵や映像の文化よりも高級である」という価値観、または信念が潜んでいると思われます。なぜなら、テレビや新聞で「衰退説」を唱えるのは作家や評論家、学者などのいわゆる知識人・文化人たちが圧倒的に多いからです。彼らは読書によって知識を獲得し、思考を鍛えてきた人たちです。その彼らが、テレビ・映画を観たりマンガを読んだりすることよりも、読書のほうに価値を置いても不思議ではありません》(森真一[2005])などと多方面から痛烈な批判を述べているので、参照されたし。

 ・乃南アサ氏(作家)「「なぜだと思う?」と問い返す」
 乃南氏がタイトルで掲げた如き理論もまた、大筋としては批判すべきものではないと思う。しかしやはりここでも乃南氏の若年層に対する認識の残酷さが見られる。

 乃南氏は171ページにおいて、《今の子どもたちは、特に外見の成長は早いから、ついこちらも一人前のような扱いをすることが多い。だが、その内面の成長といったら、呆れるほど遅滞している場合が珍しくない。情報の多様化、その量の豊富さと、大人が植えつけた「権利」についての強い意識によって、子どもは、言葉だけは巧みに弄するようになったし、見事なほどに物怖じしなくなったと思う。だが、そのことと精神的な成長とは別の問題であることを、大人自身が忘れている》(乃南アサ[2000]、この部分では断りがないなら同様)と書いているのだが、これはむしろ乃南氏が《内面の成長》をいかに捉えているか、ということの問題であろう。そもそも《呆れるほど遅滞している場合が珍しくない》といっているけれども、それがいかなる事象を指すのかがわからない。

 172ページにおける《想像力の欠如。生の実感の希薄化。事実、死ぬことなんて怖くないという子どもが増えているとも聞いた。長生きしようとも思わないし、未来が明るいとも思わない》という物言いもまた然り。そもそも《死ぬことなんて怖くない》《長生きしようとも思わないし、未来が明るいとも思わない》という子供が本当に増えているとしたら、それは《想像力の欠如。生の実感の希薄化》ではもはや済まされない大変な問題が起こっていると考えるべきかもしれない。そもそも我が国において、平成に入ってから一貫して自分の生活を「苦しい」と思う人の割合が増加傾向にある(厚生労働省の国民生活基礎調査より)。乃南氏の如く《想像力の欠如。生の実感の希薄化》という俗流若者論お得意のレトリックで茶を濁せば、間違いなく事態は悪化する。それでもいい、と乃南氏が考えるのであれば、乃南氏こそ《想像力の欠如。生の実感の希薄化》と罵倒されて叱るべきであろう。もっとも、この文章が書かれた時期は青少年と社会階層の問題についてまとまった本や研究がほとんど世に出回っていなかった(例えば、東京大学助教授の玄田有史氏の著書『仕事のなかの曖昧な不安』が刊行されたのは平成13年)から、一概に責めることは出来ないのかもしれないが。

 ・久田恵氏(作家)「問われてからではでは遅すぎる」
 どういうわけか作家が多いな。ついでに言うと久田氏のひとつ前に掲載されている精神科医の野田正彰氏の文章が意外とまともだったことを付け加えておく(野田氏の青少年に対する認識の支離滅裂さについてはこの連載の第32回第61回を参照されたし)。

 さて久田氏の文章に映るのだが、久田氏がこのように述べている時点でもはやアウトである。

 現代の子どもたちは、幼児期から個別に育てられ、喧嘩などで他者とまみれて心身を通して共感性を養う体験を持たずに育っている。学校では陰湿ないじめ関係を泳ぐようにしてわたり、思春期とに友と哲学を語って他者と共に思考を鍛える機会もない。

 毎日のようにバーチャルな世界でのゲームで「狩り」と称して登場するキャラクターを殺して遊び、死体ビデオなどを見てひそかに興奮しているような子どもも少なくない。この時期に至って慌ててなにかを大人が語っても、向こうなのだ。

 こういった子どもの精神生活に悪影響を及ぼすものだらけの中で、その環境に抵抗力を持ち、危険な思春期をサバイバルできるかどうかは、幼児期からどれほど豊かな対話が他者となされ、自尊の心がその子どもの内面にかっちりと形成されているか、もうその一点にかかっていると私は思う。(久田恵[2000]、この部分では断りがないなら同様)

 このように単なる自意識の発露でしかない俗流若者論を読んでいると、我が国においていかに自称「知識人」というのが現実を見極め、対峙する能力を失っているのか、ということを実感する。そもそもこのような奇麗事で社会が良くなるのであれば、誰だって苦労はしない。しかし昨今の状況と照らし合わせてみれば、このような「奇麗事」ばっかり論壇では溢れかえって統計やフィールドワークなどを中心としたリアルな論議が「奇麗事」乱発の中で霞んでしまうことによって、事態が改善されたか、と考えれば、決して改善されていない。しかしそれでも「奇麗事」を乱発できる人たちは、本当に恵まれた人たちなのだなあ、とつくづく思ってしまう。

 とりあえず本文の検証をしてみれば、特に久田氏の現代の青少年に対する認識の残酷さが現れているのが《毎日のようにバーチャルな世界でのゲームで「狩り」と称して登場するキャラクターを殺して遊び、死体ビデオなどを見てひそかに興奮しているような子どもも少なくない》《こういった子どもの精神生活に悪影響を及ぼすものだらけ》みたいなくだりであろう。しかし、こういったものがなかったはずの過去においては、例えば昭和40年代には青少年による凶悪犯罪の件数がピークを迎えている。ついでに言うと我が国において10歳代における殺人率よりも50歳代における殺人率のほうが若干多い。このような傾向は我が国独特である。久田氏はそこにも触れるべきであろう(評論家の岸田秀氏はこの点に触れていた。岸田氏は《日本では、殺人事件は欧米、とくにアメリカよりはるかに少ないとのことであるが、これは、日本人が心やさしいとかのためではなくて、人殺しに対する文化的ブレーキの違いによると思われる》(岸田秀[2000])と述べている)。

 ・藤原智美氏(作家)「また造ればいいじゃん!」
 真打登場である。藤原氏の文章は、もう全部が全部突っ込みどころといってもいいほど残酷かつ支離滅裂で、藤原氏が青少年問題について語ることは一切信用してはならぬ、といいたいくらいだ。ちなみに、藤原氏がタイトルに掲げたのは、藤原氏の答えではないのだが、これは後々触れていくこととする。

 とにかく藤原氏、一番最初にこのように語っているのだから。189ページ1段目から2段目にかけて。

 「なぜ人を殺してはいけないのか」と、面とむかって訊かれた人はむしろ幸運だと思う。そもそも「問い」を可能にする対話じたいが、ほとんど成り立っていないのが現実だからである。奇妙なことに、だれに訊かれたわけでもないのに私たちは、人を殺してはいけない「理由」を探しているのだ。それは子どもたちのもつ理解をこえた「命への感覚」に気づき、私たち自身がひどく不安になっているからにほかならない。たとえばこういう十代の「気分」が存在する。

 「いいじゃん、殺してみたくなったって。本人がつかまる覚悟でやるなら」

 この言葉をまえにしたとき、これまでの倫理、道徳観に根ざした殺してはいけない「理由」は無力だ。……私たちが、あるいはこの社会が「人の命は尊い」などと本当に信じているのかが問われているのだ。(藤原智美[2000]、以下、断りがないなら同様)

 これだけでも事実誤認なのである。そもそも《いいじゃん、殺してみたくなったって。本人がつかまる覚悟でやるなら》なる《十代の「気分」》なるものが本当に存在しているか、ということに関して疑問視されるべきなのは、昨今の殺人統計を見ても一目瞭然だろう。そもそもこの文章、そして藤原氏の青少年問題に関する記述は、そのほとんどが懐古主義という名の自意識の塊、あるいは青少年に対するステレオタイプの蒸し返しがほとんどである。それにしても藤原氏、《私たちが、あるいはこの社会が「人の命は尊い」などと本当に信じているのかが問われているのだ》としたり顔で言うけれども、そのようなことは昨今のマスコミや青少年「問題」に蠢動する政治家や自称「知識人」の醜態を見てから言うべきことだろう。少なくともこれらの人たちは、少年による凶悪犯罪を俗流若者論を垂れ流す好機、あるいは自分の政策の正当性を主張する好機としか捉えていない。このような人たちにこそ藤原氏は問いかけるべきであろう。

 藤原氏の論理はまだ暴走する。前の引用文の直後ではこのようにも述べている。

 いうまでもなく命を奪うのが殺人である。その「尊い」命はどのようにして生まれるのか。男と女の愛によってか?かもしれない。そう信じている人々にとっては、まさに命はそのように誕生するだろう。だが、こんにち命の誕生は遺伝子操作の技術、生殖技術を抜きに語られなくなっている。「尊い」命の誕生は神秘でも感動でもなく「技術」によって支えられている。生殖は愛の分野ではなく医療産業とその技術の側に移管されたのだ。

 もしかすると「かけがえのない」と信じられている命、「地球より思い」などと形容される命が一個につき○○万円でコピーされなおかつ保存される。そういう状況をむかえるかもしれない(私はそうなると革新しているが)。……簡単に作ることが出来るものは、簡単に壊すことも出来る。「殺されても同じものを造ればいいじゃん!」というセリフがきかれるのもそう遠い将来ではない気がする。

 これもまた事実誤認と歪曲に満ちた文章である。例えば藤原氏は昨今の生殖技術の発展に関して《こんにち命の誕生は遺伝子操作の技術、生殖技術を抜きに語られなくなっている》《生殖は愛の分野ではなく医療産業とその技術の側に移管されたのだ》と書いているけれども、それは事実誤認で、現実には多くの子供たちが男女の性行為(=自然受精)によって生まれている、というのは今でも変わらない。昨今行なわれている生殖技術は、例えば子供を産むことのできない体を持ちながらも子供を産みたい、という人(不妊治療)などに対して行なわれているくらいで、本格的な精子ビジネスなどが成立している状況ではない。無論そのようなことが将来的に起こる可能性が全くないとは言い切れないけれども、少なくとも現在では起こっていない。この文章が書かれた5年弱後に当たる現在でも然りである。そもそも藤原氏は出産に関する社会的な状況を無視しており、女性が陣痛などを経験しないで遺伝子操作で体外で胎児を、自然出産により生まれた胎児と同様に周囲の環境に耐えうるほどに成長できるようになるには、気の遠くなるほど時間がかかるだろう。さらに胚の状態から即時にある年齢の状態に達成させるのは生物学的に不可能だし、言語や社会性についても一瞬で身につくものではない。故に《「かけがえのない」と信じられている命、「地球より思い」などと形容される命が一個につき○○万円でコピーされなおかつ保存される》という状況が生まれたとしても《「殺されても同じものを造ればいいじゃん!」というセリフがきかれる》というのは完全に誤りである。藤原氏のアナロジーは安易な科学信仰の単なる裏返しでしかない過剰な科学敵視でしかない。

 藤原氏は先ほどの引用文の次に、以下のようにも述べている。曰く、

 第二次大戦中のアメリカ軍兵士の発砲率はわずか二割だったという。戦闘中、八割の兵士が引き金を引かなかった。人を殺せなかったのだ。が、ベトナム戦争での発砲率は九割に上昇する。シミュレーション技法を取り入れた訓練の成果である。ピンポイント爆撃の現代、それはモニター上の仮想戦の様相を呈して、発砲率という言葉がもはや意味を成さないほど無自覚に殺せるようになった。それは軍隊という特殊な分野だけにとどまらない。ゲームセンターや家庭用ゲーム機器ではその擬似的感覚であふれ返っている。殺人への衝動をゲームによって解消させるということはあるだろう。けれど群の訓練実態を見れば、反対に殺人へのアレルギーをなくすという可能性も否定しきれない。いまの十代はそんな危うい環境の中にいる。

 そもそも発砲率に関するデータの出所はどこだ。出所な不明瞭なデータは最初から疑われて叱るべきであるし、また藤原氏はヴェトナム戦争になって発砲率が上昇した理由を即座に《シミュレーション技法を取り入れた訓練の成果》と答えているけれども、例えば戦争に対する軍人のモチベーションとか、あるいは政府や軍の上層部による圧力とか(かの有名な「アイヒマン実験」の例を引くまでもないだろう)への想像力は働かなかったのか?しかも《それは軍隊という特殊な分野だけにとどまらない》いこうのレトリックは支離滅裂もいいところだ。そもそも藤原氏は《ゲームセンターや家庭用ゲーム機器ではその擬似的感覚であふれ返っている》と書いているけれども、そのようなものがなかったはずの時代のほうが青少年による凶悪犯罪は多かった。藤原氏はそれをどうやって説明してくれるのだろうか。前掲の岸田秀氏が述べている通り、殺人とは極めて文化的な状況に左右される。もし我が国において青少年が人を殺さなくなっており、逆に中高年が人を多く殺すようになっている、という状況があるとすれば(実際にある状況であるのだが)、そのような状況を生み出した「原因」に対する想像力こそ問われるべきだ。藤原氏の文章は、現代の青少年どころか社会に対する偏狭な認識の塊でしかなく、この文章は藤原氏の力量のなさを如実に表しているのである。

 問題の大きかったのはこの4つであり、他にも問題のあるものはいくつかあるのだが、検証は控えておこう。もちろんこの特集が俗流若者論ばかりで凝り固まっていたわけではなく、今日と造形芸術大学大学院長(当時)の山折哲雄氏、作家の重松清氏、ノンフィクション作家の髙山文彦氏の文章は特に読み応えがある。しかし裏を返せば、この深刻な問いかけに、「知識人」が多く集まるはずの「文藝春秋」に14人も執筆して、読むに堪えうるのが先の山折氏、重松氏、髙山氏と、あと岸田秀氏と作家の野坂昭如氏くらいしかないことは深刻な問題ではないだろうか。他の執筆者は、多かれ少なかれ俗流若者論を含んでいる。しかし人生観・自然観・文明観の根本に関わるこの問題に対して知恵を絞って答えられる人が少ないことに、私たちはもっと危機感を持っていいと思う。

 私は、ジャーナリストの櫻井よしこ氏の著書『日本の危機』に引かれている、国語作文研究所所長(当時)の宮川俊彦氏の異見に全面的に賛同する(とはいえ、この宮川氏の発言が引かれている櫻井氏の著書の第10章のこれ以外の部分に、私は全面的に賛同できないのだが)。

 「作文教室をやってますと子供たちからハッとする問いかけをされます。“人を殺してもいいじゃない”“したい事をしてなんでいけないの”という問いかけに、大人はどう答えていくか」

 宮川氏が語る。

 「こういう問いかけをする事はとても大切です。客観しできる人間はすぐには行動に移りませんから。

 子供たちは深い部分で秩序を求めている。哲学を求めていると僕は感じます。対する社会が単にこれはいけないことだというだけでは押さえきれないと感じます。

 子供たちに性の実感、展望をもって生きていく指針、自分が自分であってよいのだという安心感を与えることが出来るか否かだと思います」

 日本の母親は、そして家庭は、子供たちにその前向きの生の実感を抱かせることが出来るか。

 「現代の母親は論理や知識を見につけていても、子供の教育には失敗しています」
 と宮川氏。(櫻井よしこ[2000])

 このようにポジティブに考える人が、どうして我が国には少ないのだろう。我が国は青少年に関するネガティブな情報ばかり溢れ、それらが家庭を、社会を、学校を圧迫している。そして我が国の自称「知識人」は自らの役割を誤認し、ただひたすら「憂国」言説を繰り返してこれらの情報の主たる受け手である人たちの自意識を満たすことしか考えていない。このような状況下において、世の中を変えてくれるような先駆的な言論など生まれるはずもない。

 このような言論の貧困は、執筆者と編集者と読者の共犯関係において起こる。執筆者の認識が貧困であり、態度が甘ければその程度の言論しか算出されないし、編集者にそのおかしさを見破る能力がなければその程度の言論が平気で流通し、読者がその偏向性に気づかずに踊らされてばかりでは執筆者や編集者を助長させることにしかならない。我が国における自称「知識人」の貧困ぶりは俗流若者論にこそ現れる。我々は言論の「死」としての俗流若者論を真剣に見つめるべきかもしれない。

 人々は、疑うことを捨てて、俗流若者論に走るのだろう。

 参考文献・資料
 岸田秀[2000]
 岸田秀「仲間を殺す動物は人間だけ」=「文藝春秋」2000年11月号/「文藝春秋」2000年11月号特集「「なぜ人を殺してはいけないのか」と子供に聞かれたら」、文藝春秋
 櫻井よしこ[2000]
 櫻井よしこ『日本の危機』新潮文庫、2000年4月
 瀬戸内寂聴[2000]
 瀬戸内寂聴「仏教第一の戒律「不殺生戒」」=「文藝春秋」2000年11月号/「文藝春秋」2000年11月号特集「「なぜ人を殺してはいけないのか」と子供に聞かれたら」、文藝春秋
 乃南アサ[2000]
 乃南アサ「「なぜだと思う?」と問い返す」=「文藝春秋」2000年11月号/「文藝春秋」2000年11月号特集「「なぜ人を殺してはいけないのか」と子供に聞かれたら」、文藝春秋
 久田恵[2000]
 久田恵「問われてからではでは遅すぎる」=「文藝春秋」2000年11月号/「文藝春秋」2000年11月号特集「「なぜ人を殺してはいけないのか」と子供に聞かれたら」、文藝春秋
 藤原智美[2000]
 藤原智美「また造ればいいじゃん!」=「文藝春秋」2000年11月号/「文藝春秋」2000年11月号特集「「なぜ人を殺してはいけないのか」と子供に聞かれたら」、文藝春秋
 森真一[2005]
 森真一『日本はなぜ諍いの多い国になったのか』中公新書ラクレ、2005年7月

 B・R・アンベードカル、山際素男:訳『ブッダとそのダンマ』光文社新書、2004年8月
 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 杉田敦『権力』岩波書店、2000年6月
 エミール・デュルケーム、宮島喬:訳『自殺論』中公文庫、1985年6月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』岩波文庫、上下巻、1987年2月

 植木不等式「♪これぞ真のクローンだ節――ラエル『クローン人間にYes!』」=と学会『トンデモ本の世界T』太田出版、2004年6月
 加藤尚武「日本クローン法は欠陥品である」=「中央公論」2003年3月号、中央公論新社
 長谷川真理子、長谷川寿一「戦後日本の殺人動向」=「科学」2000年6月号、岩波書店
 根津八紘「不妊治療のためなら推進すべきだ」=「中央公論」2003年3月号、中央公論新社

 参考リンク
 「kitanoのアレ」から「小泉内閣の実現力(3):国民生活4年連続悪化の実績
 「少年犯罪データベースドア」から「養老孟司先生世代の脳は狂っている
 「自殺死亡統計の概況 人口動態統計特殊報告」(厚生労働省)

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 関連記事
 「俗流若者論ケースファイル11・石原慎太郎
 「俗流若者論ケースファイル17・藤原智美
 「俗流若者論ケースファイル27・毎日新聞社説
 「俗流若者論ケースファイル34・石原慎太郎&養老孟司
 「俗流若者論ケースファイル49・長谷川潤
 「俗流若者論ケースファイル52・佐藤貴彦
 「俗流若者論ケースファイル54・花村萬月&大和田伸也&鬼澤慶一
 「俗流若者論ケースファイル55・遠藤維大

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2005年8月13日 (土)

俗流若者論ケースファイル57・清水義範

 奇妙な話がある。ここ最近、少女を狙った犯罪者がロリコンなどの倒錯した性的嗜好を持っていることが判明するたびに、マスコミは「少女が犯罪者に狙われやすくなる時代が来た」などとほざくことである。

 おかしくはないか。

 もしその論理が正しければ、まず我が国において父親という存在が許されてはならない、ということになる。なぜなら我が国において、性犯罪の加害者/被害者の関係の中で、最も多いのは父親などの肉親/家庭内の女性であるからだ。ロリコンまたはペドファイル/見ず知らずの幼女、という関係は肉親/家庭内の女性に比べて格段に少ない。しかも我が国においては児童虐待で殺されている子供が諸外国に比べて多く(それも今に始まったことではないのだから恐ろしい)、特に母親に殺されているケースが多いため、母親という存在も許されてはならない、ということになろう。更に言えば、我が国では毎年自動車による交通死亡事故=自動車を凶器とした殺人が毎年数千件起こっており、その中には幼女が被害者となるのも少なくないから、歩行者通行止めの道路以外に自動車を走らせるな、という論理も組み立てられよう(何せ未成年の最大の死因が「不慮の事故」だ)。

 マスコミは、例えばロリコンやオタクやゲーマーといった「叩きやすい対象」が浮上すると、事件や犯人に対する検証など即刻放棄して、それらに対する敵愾心を煽る。自動車が叩かれないのは、彼らがひとえにその利益を被っているからであり、結局のところ彼らは自分の利益になることしか考えていないのである。だから、自分が理解できないだけで国家崩壊、社会崩壊のシンボルと勝手に位置付けることもやぶさかではないし、そのように煽ってメディア規制を盛り上げると自分にもやがてはその影響が降りかかってくる、ということも知らずに「排除」に与する。

 今回検証するのは、そのような「憂国」エッセイである。著者は教育問題にも詳しい作家の清水義範氏、記事のタイトルは「あたり前が崩れている恐ろしさを考える」(「現代」平成13年11月号に掲載)である。この論文は、最初になぜ児童買春がいけないか、ということに対する清水氏の答えが出てくるの。というのも、この文章では、この論文が発表される少し前に起こった、教師による少女売春事件に触れられているからである。先の質問に関して、清水氏の答えは至極単純で、法律で禁じられているからである、と。少なくとも法治国家である我が国において、そのように答えることは全く正しい。しかし、清水氏は、ここでやめておけばよいものの、以下のように述べることによって、事態を乱暴に一般化してしまう。217ページにおいて曰く、

 そして教師たちも、そういうあるはずのない愚行に走る者が増えているらしい、99年度一年間に、全国の公立小中学校などの教員で、問題行動によって処分を受けた者が4930人あまりだそうだ。そしてその中に、わいせつ行為で処分されたのが115人で、これは前年度の約1.5倍で過去最多なのだそうである。

 つまり、その職業(筆者注:ここでは教師)についているからには、絶対にしないことがある(筆者注:ここでは「問題行動」によって処分を受けること)、というあたり前の前提が崩れかけているということであろう。

 我々の社会の危機なのだと思う。

 自分の仕事への誇り、というものが失われかけているのだ。私たちのすべてに、そういう誇りの喪失が忍び寄っているのだ、とまで考えてみるべきだと思う。

 まともな社会なら、人間は自分の職業に誇りを持っているのではないか。……それが社会秩序である。

 どうもそれが壊れかけているらしい。自分のしている仕事に、何の誇りも持てず、ただやむなくやっているだけの人間が出てきているのだ。ただ、教員の採用試験に通ったからという理由だけで教師をし、子供をよいほうに導いてやりたい、ということは少しも考えていない教師というのは、そういう誇りのない社会だから出てくるのだろう。(清水義範[2001]、以下、断りがないなら同様)

 まず、清水氏が親の教師や学校に対する目線の変化について触れないのはどうしてだろうか。我が国において、昭和55年ごろを境に市井の学校に対する視線は変化し、管理教育などが告発されるようになり、子供の教育に対して「学校の責任」が強く問われるようになると同時に、校内暴力などもこの時期から問題化し始める(広田照幸[1999])。更に最近、学校をめぐるさまざまな事件に関する報道が溢れるようになって、市井の学校に対する目線はますます険悪化した。「問題行動」によって処分を受ける教師の増加には、このような背景によるものも少なからず含まれていると思われる。さらに清水氏は、一番最後の段落において、《そういう誇りのない社会だから出てくるのだろう》などと述べることによって、比較的若い教師がそれらの「問題行動」を起こしているのだ、ということを示唆しているようだ。しかし、このような物言いは、教員採用をめぐる現実を全く無視した文言といわざるを得ない。というのも、我が国において教員の年齢は高齢化の一途を辿っており、公立小学校教員の年齢構成としては、平成10年現在では43~46歳が一番多く(18000人弱)、特に大阪府では年齢が40歳の教師から、その数が飛躍的に増加し、およそ47~53歳で最高の水準(1600人弱)となる。他方若い教師はというと、国立の教員養成系の大学や学部の新規卒業者の教員への就職率は平成11年まで一貫して低下の一途を辿っており、昭和55年ごろが80%に迫る勢いだったのに対し平成12年は40%にも満たない(丹羽健夫[2002])。教員養成系のトップクラスである東京学芸大学でさえ、たとい補欠となっても正式採用となる教師は極めて少ないという事態が起こっているようだ(太田啓之[2001])。「デモ・シカ教師」(=「教師にでもなるか」「教師にしかなれない」という理由で教師になった人)と揶揄されたのも今は昔、教師になるのは極めて厳しい状況に現在はある。

 翻って、清水氏は「問題行動」を起こす教師の年齢構成を調べたことがあるのだろうか。これに関しては私も具体的なデータがないのでなんとも言えないけれども、この側面に関する検証を怠って、ただ《そういう誇りのない社会だから出てくるのだろう》などと簡単に述べてもらっては困る。例えば、ストレスゆえ手を出してしまったとか、教師というものに絶望して手を出してしまったとかいうこともあるわけで、その点に関しても検証すべきだろう。もちろん、「問題行動」を起こした教師にはそれ相応の罰が必要だけれども、ここで述べたファクターを無視して安易に「憂国」する、という態度は望ましくない。この点について清水氏が隠蔽するのは、清水氏と同世代の人が「問題行動」を起こしていることを隠蔽したいからではないか…という邪推はやめておこう。

 更に清水氏は、218ページから最後の220ページにおいて「性の虚弱化」について述べるけれども、特に219ページにおいて述べられている清水氏の文言は、はっきり言って今大谷昭宏氏などが喧伝しているイメージと完全に重なる。

 ところが、その方向で女性が元気になってきたせいで、一部の男性が、女性とうまく性関係を築けなくなっているのだ。人間として当然性欲はあるが、ちゃんと女性とそのつきあいとするのが、こわくて、面倒で、どうもうまくいかない、というような傾向が出てくるのである。その面を捕らえて、私は、性が虚弱化しているなあ、と思う。

 そういうわけで、昨今の世の中はフェティシズムだらけである。女性そのものにかかわるのがおっくうなので、その周辺の物質で性欲をかなえようとするわけだ。女性に触れるのはいやで、その下着や靴に欲情したり、ということになる。

 アニメのキャラクターに惚れ込んで、フィギュアと証するお人形を何体も集めることが性の活動だ、というような青年も出てくる。

 いや、私はそのことを非難はしない。性なんてものは個々人の自由であればいいからである。どんな人だって少しずつは変態なのであって、犯罪につながるのでなければ、自分の性の楽しみ方でやっていればいいのだから。

 ただ、私が言いたいのは、ちゃんと女性に性欲が向けられず、虚弱な性を別のものに向けていく蛍光からは、児童ポルノとか、幼児姦というような、弱い子供に性欲が向けられるケースが(もちろん、まれにだが)出てきて、それがこわいな、ということである。……

 児童ポルノ禁止法や、少女売春を禁じる法律はそういう時代性の中で出てきたのだが、まだそのことの恐ろしさにあまり気づいていない人が多いような気がする。今、小中学生の女児というのは、かなり弱い世の中に生きているのだ。子供にしか手を出せない変な大人の、性の餌食にされるかもしれない危険性の中に生きているのだから。

 ここまでの問題発言を、自らの言説の政治性も考慮せずに語れる清水氏というのはどうかと思う。まず、例えばアニメのキャラクターやフィギュアに対する性欲を何の根拠もなしに「性の虚弱化」だとか《児童ポルノとか、幼児姦というような、弱い子供に性欲が向けられるケース》などと短絡してしまうのは、我が国における性犯罪の現実を調べていないからこそいえるのだろう。そもそも清水氏は《性なんてものは個々人の自由であればいいからである。どんな人だって少しずつは変態なのであって、犯罪につながるのでなければ、自分の性の楽しみ方でやっていればいいのだから》と述べているけれども、例えばアニメのキャラクターやフィギュアに対する性欲はここから除外されているのは言うまでもないだろう。

 さらに、清水氏は最後の段落において《児童ポルノ禁止法や、少女売春を禁じる法律》に関して述べているけれども、例えば社会学者の宮台真司氏のように、その危険性や、特に児童ポルノ禁止法に関して「表現の自由」への抵触という観点、更には児童ポルノの視聴が性犯罪と関連しているというデータがない、という観点から批判も多かった。もちろん児童ポルノ禁止法を批判する人たちは、ただ自分たちに児童ポルノを見させろ、という歪んだ動機から反対しているのではなく、根拠もなしに権力がトートロジーによって一方的に規制することがおかしいから反対しているのであって、これは昨今盛り上がっているゲーム規制論に対する批判論も同様である。

 清水氏は、《児童ポルノ禁止法や、少女売春を禁じる法律はそういう時代性の中で出てきたのだが、まだそのことの恐ろしさにあまり気づいていない人が多いような気がする》と述べているけれども、むしろ一つのメディアに対する規制が更に他のメディアや表現に対する規制につながってしまうことの恐ろしさを多くの人々が気がついていないことのほうがもっと怖い。もちろん、児童ポルノや児童買春に関しては、ひどいものは刑法で処罰すればいい話で、特別法を作ったからこそ責任の所在が曖昧になったり、あるいは罪が軽くなったりするという側面も現れている。

 そして清水氏は《今、小中学生の女児というのは、かなり弱い世の中に生きているのだ。子供にしか手を出せない変な大人の、性の餌食にされるかもしれない危険性の中に生きているのだから》と述べる。このようなレトリックがおかしな話であることは、冒頭で述べたとおりだ。もう一度言う、それなら清水氏は父親と母親を撲滅せよ、子供を産んだら直ちに政府に預けよ、となぜ言えないのだろうか。我が国において性犯罪の温床となっているのは肉親だし、我が国の母親は歴史的に児童虐待を起こすものが諸外国に比して極めて多い。清水氏はこの点にも着目して言わなければならないだろう。清水氏が児童ポルノやアニメやフィギュアを叩くのは、所詮それらが「叩きやすい対象」だから、という理由に過ぎないのではないか。

 「叩きやすい対象」さえ叩けば犯罪は撲滅できる、というのは過激な共産主義者の考えである。現在盛り上がっているオタクメディア規制論は、所詮自分がそれを嫌いだから、という理由以上のものはない。表現の自由に対する抵触とか、我が国において性犯罪の発生率が低いこととか、更に我が国において性犯罪や強制わいせつ罪の被害者の中でも未成年者が被害者となる数は減っているということとか、それらに対する言及は一切ない。

 いつぞやかの選挙の中で、田中眞紀子氏が「主婦感覚の政治」などと語っていた記憶がある。しかし私は、我が国において軽々しく語られる「主婦感覚」「市民感覚」という言葉を疑っている。我が国において、政治哲学的な意味においての市民(シチズン)、すなわち一人の責任ある市民として、あるいは政治への責任ある参画者としての市民という態度を貫ける人が、果たしてどれほどいようか。同調圧力が強く、その場その場の「空気」において流される我が国において、大衆は自分が「理解できない」少年犯罪・若年犯罪の「犯人」を血眼になって追い求め、青少年を貶める小気味良い言説が登場したらすぐにそれに飛びつき、そのような行為に対する責任をとる人など誰もいない。所詮そのような人にとって、大切なのは自分の「生活」だけ、守るべきものは自分の価値観と利益だけである。

 そしてそのような悪しき傾向を、短絡的な情報ばかり流して大衆をそれに溺れさせ、そして自分もまたそれに溺れるマスコミや、自分の言説に責任を持たずにただ不安を煽る言説ばかり垂れ流す俗流言論人が最も強めているのである。まあ、彼らにとって「責任」という言葉は鴻毛よりも軽いから、このような物言いも通用しないだろう。

 参考文献・資料
 太田啓之[2001]
 太田啓之「教師になれない卵たち」=「AERA」2001年2月5日号、朝日新聞社
 清水義範[2001]
 清水義範「あたり前が崩れている恐ろしさを考える」=「現代」2001年11月号、講談社
 丹羽健夫[2002]
 丹羽健夫「教員養成系大学再編私案」=「論座」2002年5月号、朝日新聞社
 広田照幸[1999]
 広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書、1999年4月

 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 宮台真司『宮台真司interviews』世界書院、2005年2月
 ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』岩波文庫、上下巻、1987年2月
 ジャン・ジャック・ルソー、桑原武夫:訳、前川貞次郎:訳『社会契約論』岩波文庫、1954年12月
 ジョン・ロック、鵜飼信成:訳『市民政府論』岩波文庫、1968年11月

 長谷川真理子、長谷川寿一「戦後日本の殺人動向」=「科学」2000年6月号、岩波書店

 参考ウェブサイト
 「厚生労働省統計表データベースシステム」から「第2章 人口動態
 「少年犯罪データベース」から「幼女レイプ被害者統計
 「メディアリテラシーの視点で見た子供を性犯罪から守る方法

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 「俗流若者論ケースファイル05・牧太郎
 「俗流若者論ケースファイル24・小林節
 「俗流若者論ケースファイル32・二階堂祥生&福島章&野田正彰
 「俗流若者論ケースファイル33・香山リカ

 ※8月13~16日は盆休みに入るので、一時更新を中断させていただきます。

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2005年8月 7日 (日)

トラックバック雑記文・05年08月07日

 夏本番というか、なんというか…。暑すぎる!

 仙台ではいよいよ七夕が始まりました。東北三大祭の一つで、商店街の各店舗や各企業の努力による色とりどりの吹流しがアーケードに並びます。機会があればどうぞ。

 東京脱力新聞:ブログの実力 きょう発売の「論座」で(上杉隆氏:ジャーナリスト)
 えこまの部屋:kuriyama爺からTB届いた(黒ヤギさんの節で♪)

 現在発売中の「論座」平成17年9月号の特集の一つに「ブログの実力」があります。タイトルに違わぬ濃い内容で、一読をお勧めします。
 この特集における、ライターの横田由美子氏の論文において、「東京脱力新聞」の上杉隆氏も紹介されています。そこで、上杉氏がブログを始めたきっかけとして、上杉氏が書いた週刊誌の記事に関して国会議員の平沢勝栄氏が上杉氏を提訴し、平沢氏が上杉氏に対する批判キャンペーンを張ったので、それに対する保身の為にブログを作ったとか。
 以前にも書きましたけれども、ブログの台頭によって「書き手」になる敷居は低くなっています。もちろんインターネットの登場により、個人がサイトを持てるようになって、その時点で「書き手」への敷居は低くなっていますが、それでもある程度の知識か道具が必要だった。それが、企業がテンプレートを提供するブログの台頭により、誰でも掲示板感覚で自らのサイトを作れるようになった。つまり現在は、インターネットにつなげられる環境さえあれば自分のサイトが持てるようになっているのです。

 しかし、ブログと鋏は使いようです。もちろん日記形式のブログ、というあり方も私は否定しませんけれども、だからといって個人情報を過剰にばらしてしまうと、自分、あるいは他人が多大な迷惑を被ってしまうこともある。ですから、ブログにおいて(もちろん普通のサイトを利用する場合もそうですが)個人情報の取り扱いには注意しなければならない。

 それだけではありません。文章や写真をインターネット上に公開する、ということは、世界中の人がそれを見ることになる、ということに他ならないのです。ですから、インターネットで文章を書くには、それなりの覚悟が必要になります。

 ブログの方向性を決めておくことも必要ですね。私はこのブログの方向性を「巷に溢れる「今時の若者」をめぐる言説を斬る」(旧ブログ)「俗流若者論から日本社会の一面をのぞく」(新ブログ)としており、基本的にこのブログを若者論を扱うサイトとしています。で、余興としてその他の時事問題、読書、建築、都市計画、音楽、声優の話題を入れる。

 なぜ私がこのようなことを言おうと思ったかというと、もちろん「論座」のブログ特集とか上杉氏の記事を読んだこともそうなのですが、もう一つ、「えこまの部屋」に以下のような疑問が書いてあったからです。

 それにしてもkuriyamaさん(筆者注:「千人印の歩行器」の栗山光司氏)にご紹介いただいた後藤さんによる俗流若者論批判テクストの「追求度」には頭が下がりますが、そのテクスト内容よりも、何がそこまで彼を執拗に俗流若者論で若者批判する著名人斬りに駆り立てるのか、個人的にはそちらのほうが興味があります。(苦笑)

 私は高校時代から趣味で社会時評を書いていました。当然、社会に関して何か不満を持っており、どうにかしたいという殊勝な動機で。雑誌にも投稿せずに日記形式で書いていて社会を変えられるわけがない(苦笑)。そもそも私が若者論というものの存在を意識するようになったのは、平成12年(私が高校1年のときです)に、所謂「17歳の犯罪」が多く報じられていた。そのような情報環境において、私は世間から犯罪者として見られているのではないか、という強い強迫観念に囚われており、17歳には絶対になりたくない、その前に死にたいとも思っていたのです。ただ、それでも(惰性で)17歳まで生きてきた。私が若者論の分析を本格的に始めたのは、朝日新聞社の週刊誌「AERA」の成人式報道(後田竜衛「成人式なんかやめよう」=「AERA」2001年1月22日号)を読んだとき、あまりにもひどい、批判するしかない、と思ったので、批判に着手した。これが17歳になる1ヶ月前です。そして平成15年3月に卒業するまで、高校時代は(大学受験期でも)成人式報道の研究ばかりやっていた(それでも東北大学には現役で合格しました)。大学に入ってからは「論座」の読者投稿に積極的に投稿するようになり(成人式報道に関する苦言が「論座」平成14年12月号に掲載されたことがあるので「論座」を選定しました)、批判の範囲を成人式報道から若者論全般に広げていった。最初はその辺の若者論に感情的に反論していた程度ですが、大学2年の後半あたりから社会における青少年の捉えられ方、及び若者論が生み出すナショナリズムや歴史修正主義、疑似科学、メディア規制を気にかけるようになり、我が国の思想的状況における若者論というものを意識して書くようになった。

 ちなみに「俗流若者論」というのは、ただ単に「俗流~~論」という呼び方の「~~」に「若者」を代入しただけの話です。他に適切な呼び方がなかったので、「俗流」というのがわかりやすいかな、と思ったわけです。

 ついでに「論座」の今月号についても触れておきますと、ブログ特集以外でも戦後60年特集とか、群馬大学教授の髙橋久仁子氏による「こんなにおかしい!テレビの健康情報娯楽番組」や、大阪府立大学専任講師の酒井隆史氏による「「世間」の膨張によって扇動されるパニック」は特に読ませます。しかも、編集長の薬師寺克行氏が、来月号からリニューアルすると公言しております(329ページ)。リニューアル後の「論座」がどうなるか、楽しみです。

千人印の歩行器:[働く編]おたく/フィギュア/ペット(栗山光司氏)
 堀田純司『萌え萌えジャパン』(講談社)という本を買いました。この本では、いまや2兆円市場となっている「萌え産業」の現状をルポルタージュしたもの。一応私はこの本は声優の項から先に読みました。声優の清水愛氏とか、大手声優プロダクションの一つである「アーツビジョン」社長の松田咲實氏や、漫画家の赤松健氏などのインタヴューも掲載されています。あと、ベネチア・ビエンナーレ国際建築展の「おたく:人格=空間=都市」のパンフレットも借りて読んでいます。

 ところで、マスコミが「萌え」を発見するときは、大きく分けて2つの場合があります。一つが、「萌え」が一大市場と判断されたとき。もう一つは、残虐な犯罪(特に少女が被害者となる性犯罪)においてその犯人がアニメやゲームや漫画に異常な嗜好を示していたとされるとき。しかし私は、どちらの見方に組しても理解(それが無理でなければ許容)には辿り着けないかと思います。

 なぜか。これは特に後者の形で「萌え」が発見されるときにいえることですが、よほどオタク的なものに理解のある記者(例えば、朝日新聞社「AERA」編集部の福井洋平氏や有吉由香氏など)が書いていない限り(大半のマスコミ人がそうですね)「オタクの世界は仮想現実で、それに没頭する人は異常であり、現実に生きることこそが至上である」と考えている節が大きいからでしょう。故に凶悪犯罪を起こすのは現実と空想の区別がついていない「異常な」奴であるから、という論理が形成される。

 まあ、確かに「萌え」で腹が膨れないことは誰にでもわかる。しかし、「萌え」というのは相手(キャラクターでもアイドルでも声優でもいいです)のある部分あるいは全体がその人にとって「萌える」と認識しているからこそ起こる。さらには虚構に対して欲望を持つことができるので、精神科医の斎藤環氏が指摘するとおり、こういう人たちこそ虚構と現実の区別が厳格である、とも言えるでしょう。マスコミは、そういう人たちが現にかなりの割合で存在するということをまず理解する、そこまでできないなら少なくとも許容する、という態度を持つべきです。もし誰かが現実の少女に対して政敵にか害してしまったら、その犯人は少なくともオタク的な性的嗜好からは逸脱している、と考えるほかないのです。

 石原慎太郎氏や日本経団連などは、オタク経済効果は認めていますけれども、オタクメディア規制も推進すべきだ、という考えの持ち主です。結局のところこのような人たちは、国民は経済的な成長だけにまい進していればよろしい、と考えているのでしょうね。しかしオタクの先駆性は経済とは別なところにあります。そもそも規制論の根本は自分が気に食わないから、という単純な理由でしょう。

 ちなみに「AERA」に関しても触れておきますけれども、「AERA」は平成17年5月30日号において、他の週刊誌が今年5月に起こった少女監禁事件に関してオタク・バッシングを書いていたのに、「AERA」はそれに関する記事はなしで、編集部の福井洋平氏が「メイド掃除でモテ部屋に」なる記事を書いていた。まあ、メイド喫茶ならぬメイド掃除サーヴィスの体験記ですが、ここまでやってしまう「AERA」はある意味すごい。

性犯罪報道と『オタク叩き』検証:フィンランド憲法・『may be』、アイルランド憲法・『shall be』
 海外のメディア規制の例が紹介されています。例えばフィンランドでは、憲法では青少年に有害だと思われる情報の規制は法律で可能である、としておりますが、実際には規制の対象になるのは映画やテレビだけで、また法律で規制できるといっても現状は業界の自主規制に任せていたり、さらには厳格な情報公開制度が整っていたりとか。あと、アイルランドがイギリスから独立した国であることを知らないでいる人とか。

保坂展人のどこどこ日記:佐世保事件から1年、長崎の教育は異常事態に(保坂展人氏:元国会議員・社民党)
 「心の教育」とは一体なんなのでしょうか。そもそも彼らの考えている「心」とはなんなのか。「心の教育」を推進すべきだ、という人たちは、現在の青少年の「心」は異常であり、彼らに正常な「心」を涵養しなければならない、といいます。しかし、正常な「心」とはなんなのでしょうか。殺人を犯さない?少年による凶悪犯罪(殺人・強盗・強姦・放火)は、昭和35年ごろのほうが現在に比して数倍深刻です。

 「心の教育」を推進すべき人たちは、結局のところ人々の心と現在を生きる青少年をイデオロギー化しているに過ぎないのです。彼らにとって青少年とは単なる人気取りの道具に過ぎない。そして俗流若者論の蔓延により、青少年をイデオロギー化する傾向が高まり、政治がそれと結託すると、青少年に対する敵愾心を煽ることがそのまま政治的な人気の高さになる。政治から実態としての青少年が消えるとき、我々は政治に何を見出すのか。青少年の意見を代弁する政治家よ現れよ、とは私は言わない。「青少年の意見」なるものを代弁できる人などいない。しかし、せめて「今時の若者」を冷静に見ることのできるような政治家は、ぜひとも現れて欲しい。

 お知らせ。まず、ブログで以下の文章を公開しました。

 「正高信男という斜陽」(7月25日)
 「俗流若者論ケースファイル39・川村克兵&平岡妙子」(7月27日)
 「俗流若者論ケースファイル40・竹花豊」(7月29日)
 「俗流若者論ケースファイル41・朝日新聞社説」(7月30日)
 「統計学の常識、やってTRY!第4回&俗流若者論ケースファイル42・弘兼憲史」(同上)
 「俗流若者論ケースファイル43・奥田祥子&高畑基宏」(8月2日)
 「俗流若者論ケースファイル44・藤原正彦」(8月5日)
 「俗流若者論ケースファイル45・松沢成文」(8月6日)

 また、bk1で以下の書評を公開しました。

 正高信男『考えないヒト』中公新書、2005年7月
 title:俗流若者論スタディーズVol.4 ~これは科学に対する侮辱である~
 岡留安則『『噂の眞相』25年戦記』集英社新書、2005年1月
 title:雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケズ
 斎藤美奈子『誤読日記』朝日新聞社、2005年7月
 title:皮肉に満ちた「書評欄の裏番組」
 赤川学『子どもが減って何が悪いか!』ちくま新書、2004年12月
 title:少子化を「イデオロギー」にするな
 二神能基『希望のニート』東洋経済新報社、2005年7月
 title:「希望」としての若年無業者問題

 さて、前から喧伝していた夏休み特別企画を次回更新からスタートします。企画の内容は、「俗流若者論大賞・月刊誌部門」です。要するに、平成12年から平成15年にかけて、月刊誌で発表された俗流若者論の中でも、特にひどいものに関する論評です。

 対象となる雑誌:文藝春秋、諸君!(以上、文藝春秋)、中央公論(中央公論新社)、現代(講談社)、世界(岩波書店)、論座(朝日新聞社)、正論(産経新聞社)、Voice(PHP研究所)、潮(潮出版社)、新潮45(新潮社)

 今日、以上の全ての雑誌のチェックが終わったのですが、平成12年・13年は大豊作(笑)でした。逆に平成14年は不作だった。厳選した結果、グランプリと準グランプリは以下の通りに決定しました。

 ・グランプリ
 平成12年
 「文藝春秋」平成12年11月号特集「「なぜ人を殺してはいけないのか」と子供に聞かれたら」、文藝春秋

 平成13年
 小林道雄「少年事件への視点」第3回・4回=「世界」2001年2・3月号、岩波書店
 小林道雄「Q49.少年犯罪」=「世界」2001年4月増刊号、岩波書店

 平成14年
 該当作なし

 平成15年
 山藤章二(編)「山藤章二の「ぼけせん町内会」いろは歌留多」=「現代」2004年1月号、講談社

 ・準グランプリ
 平成12年
 石堂淑朗「こんな「十七歳」に誰がした」=「新潮45」2000年6月号、新潮社
 武田徹「プログラム人間に「心」を」=「Voice」2000年11月号、PHP研究所
 澤口俊之「若者の「脳」は狂っている――脳科学が教える「正しい子育て」」=「新潮45」2001年1月号、新潮社
 長谷川潤「「ワガママ・テロル」の時代が始まった」=「正論」2000年7月号、産経新聞社
 工藤雪枝「平成“美顔男”たちへの憂鬱」=「正論」2000年9月号、産経新聞社
 工藤雪枝「ミーイズム日本の迷走」=「中央公論」2000年10月号、中央公論新社

 平成13年
 澤口俊之「「スポック博士」で育った子はヘンだ」=「諸君!」2001年8月号、文藝春秋
 ビートたけし「バカ母世代」=「身長45」2001年4月号、新潮社
 佐藤貴彦「残虐なのは誰か?」=「正論」2001年4月号、産経新聞社
 佐々木知子、町沢静夫、杢尾堯「検挙率はなぜ急落したのか」=「中央公論」2001年7月号、中央公論新社
 花村萬月、大和田伸也、鬼澤慶一「電車で殴り殺されないために」=「文藝春秋」2001年7月号、文藝春秋
 遠藤維大「自傷行為「リスカ」と日教組」=「正論」2001年9月号、産経新聞社
 片岡直樹「テレビを観ると子どもがしゃべれなくなる」=「新潮45」2001年11月号、新潮社
 清水義範「あたり前が崩れている恐ろしさを考える」=「現代」2001年11月号、講談社
 林真理子「この国の子どもたちは」=「文藝春秋」2001年12月号、文藝春秋

 平成14年
 「諸君!」平成14年2月号特集「日本を覆う「怪しい言葉」群22」から、林道義「子どもの自己決定権」、文藝春秋
 正高信男「日本語の「乱れ」とルーズソックス」=「文藝春秋」2002年9月臨時増刊号、文藝春秋
 田村知則「警告!子どもの「眼」がおかしい」=「新潮45」2002年10月号、新潮社
 野田正彰「「心の教育」が学校を押しつぶす」=「世界」2002年10月号、岩波書店

 平成15年
 藤原正彦「数学者の国語教育絶対論」=「文藝春秋」2003年3月号、文藝春秋
 和田秀樹「日本はメランコの中流社会に回帰せよ」=「中央公論」2003年6月号、中央公論新社
 清川輝基「“メディア漬け”と子どもの危機」=「世界」2003年7月号、岩波書店
 香山リカ、テッサ・モーリス=スズキ「「ニッポン大好き」のゆくえ」=「論座」2003年9月号、朝日新聞社
 小林ゆうこ「「母子密着」男の子が危ない」=「新潮45」2003年10月号、新潮社
 中村和彦「育ちを奪われた子どもたち」(聞き手:瀧井宏臣)=「世界」2003年11月号、岩波書店

 以上の記事を次回から論評します。ちなみに同じ著者のものは一つの論文にまとめて検証します。平成14年準グランプリの正高信男氏の記事は、この企画とは別のところ(正高信男批判の企画で検証します)で検証しますので、夏休み特別企画は「俗流若者論ケースファイル」25連発(!)になります。なお、論評の順番に関しては、まず各年の準グランプリを一通り検証したあと、最後に各年のグランプリを検証します。

 ちなみに、石堂淑朗氏の連載「平成餓鬼草子」(「正論」)は、相変わらず俗流若者論連発でしたが、別のところで検証するので採り上げませんでした。また、「世界」で連載されていた、瀧井宏臣氏の「こどもたちのライフハザード」も問題が大きかったのですが、これも既に書籍化されているので、そちらを批判するときに検証します(ただし書籍版では、事実上連載の最終回となる中村和彦氏へのインタヴューが掲載されていないので、こちらで採り上げました)。

 そういえば次回の更新でもって丁度このブログの100本目の記事になるので、このブログの新たなるスタートを飾るにふさわしい企画になるように極力努力します。

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2005年8月 6日 (土)

俗流若者論ケースファイル45・松沢成文

 また頭が痛くなってきそうだ。

 ゲーム規制を推し進める神奈川県知事の松沢成文氏が、平成17年8月3日付朝日新聞の「私の視点」欄に、「ゲームソフト 有害図書指定の輪を全国に」なる文章を寄せている。はっきりいってこの文章は、松沢氏のブログに寄せられた多数の批判にまったく答えていない。結局のところ、いつもどおりの論理飛躍とトートロジーを繰り返しているだけである。

 松沢氏はこのコラムの3段目において、《ゲームを有害図書に指定した、この先駆的な取り組みは、大きな反響を呼び、多くの意見が寄せられている》(松沢成文[2005]、以下、断りがないなら同様)と松沢氏が書いている。ここで《先駆的》という言葉を使って、いかに松沢氏が自分の行動が正しいことであるか、ということを証明したいかのようだ。しかしこのような松沢氏の行為は、はっきり言って基礎から腐っている、としか言いようがない。それに関しては、松沢氏の文章を検証する過程で明らかにすることにしよう。

 松沢氏は4段目において《その大半は批判的なものだ》と書いている。ならばそれらの批判に答えてくれるのか、と思ったが、冒頭で述べたとおり、答えていない。松沢氏はこの直後で《青少年の健全育成のために、はんらんする情報をどのように扱ったらよいのか。奥深い課題であり、これを機会に大いに議論をし、対策を考えるべきだ》と書いているのだが、果たして《健全育成》とはなんなのだろうか。松沢氏の議論に従えば、子供を「有害」な情報のない環境に置けば子供たちは健全に育成される、と考えているのだろうが、それは青少年の健全育成なる美辞麗句を楯に取った言論統制ではないか。

 私が笑ったのは以下の文章だ。5段目から6段目である。

 このゲーム(筆者注:神奈川県が「有害図書」としている米国のゲームソフト「グランド・セフト・オート3」。以下、「GTA3」と表記)の主人公はプレーヤー自身である。つまり、たとえ仮想空間だとはいえ、ゲームを操作する青少年が、こうした殺傷に主体的にかかわるのだ。精巧な技術開発によりリアリティーが増した画面に向かい、プレーヤーが一人で仮想経験を繰り返す。

 こうした体験を続けることが、青少年にどのような影響を与えるのか。私は、ゲームソフトには、自らが操作するという特徴があるが故に、雑誌やビデオと比べ青少年への心理的影響はかえって深刻であり、対策は急を要すると考える。

 青少年の健全育成に向けた取り組みは、社会全体の責務である。保護者の方々は、これを機会にゲームソフトに対する関心を高めていただきたい。……

 笑いを取っているのだろうか。もし松沢氏がそのようなつもりで書いていないのであれば、これは相当に深刻な問題である。松沢氏は《たとえ仮想空間だとは言え、ゲームを操作する青少年が、こうした殺傷に主体的にかかわるのだ》といっている。松沢氏は、故にこのようなゲームが青少年に悪影響を与え、そして青少年が凶悪犯罪に走る、と考えているようだ。

 世の中の青少年諸君、松沢氏に怒りをぶつけるべきだろう。要するに松沢氏の考える青少年、そしてゲーム規制に賛成する人たちの考える青少年は、悪い意味で極めて無垢な存在、すなわち「有害な」ゲームソフトなどによって、この世において暴力が正当化されている、と思いこむ存在である。もちろん、このような青少年などごく少数であろう。限りなくゼロに近いかもしれない。私が理解してもらいたいのは松沢氏をはじめとする規制論者の青少年認識、すなわち彼らが青少年を前に述べた存在であると見なしていることの残酷さである。

 松沢氏よ、あなたが県知事として責任ある立場に立っているのであれば、まず多くの論理的な批判、例えば少年による凶悪犯罪は減少しているとか、「ゲームの悪影響」が科学的に証明された例はない、とかいうことに対する反論をまず書くべきだろう。相変わらず松沢氏が「自分が悪影響があるといっているから規制する」という態度を貫くのであれば、まず松沢氏は禊を行なうべきである。

 そもそもこの規制自体が怪しいのである。朝日新聞記者の中上貴博氏によると、このGTA3の「有害図書」規定の内容は以下のようなものだったようだ。

 そこで、県が編み出した要件は「殺傷または暴力の対象が現存の生命体と認められる」「手段が現実に取り得る」「場面設定が限りなく現実の社会に近い」の三つ。殺す相手がゾンビではなく人、殺す場所が地下要塞(ようさい)ではなく町や路上という具合だ。

 有害図書類の指定の答申を決めた30日の県児童福祉審議会社会環境部会では、ゲームの録画が上映され、「親としては子どもに見せたくない」などの意見が出された後、出席した6人の委員全員が「規制が必要」と結論づけた。審議はわずか1時間で終わった。

 傍聴者から会合後に「暴力的な映像だけ見せたのでは、誰だって反対する。『まず指定ありき』という感じだった」などと不満も漏れた。(中上貴博[2005])

 壮大な茶番劇、というほかない。しかも、毎日新聞社が発行しているアニメ・ゲーム・漫画専門の無料タブロイド紙「MANTANBROAD」平成17年6月号の、この「有害図書」規制を取り扱った特集記事において、毎日新聞記者の河村成浩氏が、この映像審査に用いられた審査映像の長さが10分という短さだったと報じている(河村成浩[2005]。河村氏も中上氏と同様、この審査の時間がわずか1時間だったことに触れている)。もう一つ、河村氏の記事であるが、神奈川県の青少年課副課長の林敬人氏は、《表現の自由はもちろん重視しているが、公共の福祉も重要だ。GTA3はあまりにも現実に近すぎるし、県民の指摘もあり、見過ごすことはできない》(河村成浩[2005])と言っているようだ。ならば林氏に問いたい、世の中には殺人事件を取り扱ったテレビドラマ(もちろん実写)がたくさんあるけれども、それに関してはどのように考えているのだろうか。また、我が国において、報道で報じられた内容を模倣して行なわれた事件は、はっきり言ってゲームを模倣したものよりも多い、少なくとも報道される範囲では(ただ、報道に触発された犯罪に比して、ゲームに触発された犯罪のほうが数倍センセーショナルに報じられるので、注意して読まないとわからないが)。

 河村氏の記事では「松文館裁判」(出版社である松文館の発行した青年コミックが刑法のわいせつ罪に問われた事件。この裁判には、国会議員の平沢勝栄氏が大きく関わっている。詳しくは長岡義幸[2004]を参照されたし)の被告側(出版社側)主任弁護人である山口貴士氏がコメントを寄せている。曰く、

 ゲームが青少年の暴力的行動を誘発するという明確な根拠がないままに、規制だけを強化する動きが理解できない。一部分にだけスポットをあてて、青少年を取り巻く環境に目が届いていないのでは。規制をして効果があるかどうかも疑問だ。だがゲームに限らず有害図書などの規制の流れは全国的に進んでおり、今回の事例が前例となって第2、第3のケースが生じることもあるだろう。(河村成浩[2005])

 山口氏の危惧は現実になりつつある。というのも、河村氏の記事では、東京都の石原慎太郎知事が今年3月の定例議会で松沢氏の方針に賛同したことが書かれている(もとより石原氏は最近「文藝春秋」で発表している俗流若者論において、ゲームは有害である、ということを書き散らしている。石原慎太郎[2005]、石原慎太郎、養老孟司[2005]を参照されたし)。また、愛知県や大阪府においても同様の規制が敷かれるようだ。

 さらに松沢氏は、このように書いている。

 今回の指定の効果は、現状では県内にしか及ばない。そのため、先日、全国知事会議の機会をとらえて、各都道府県に有害図書への共通理解を検討するようお願いした。

 そして、松沢氏のブログでは、この全国知事会議において、宮城県の浅野史郎知事(!)が松沢氏の要請に答え、具体的な検討に入ることが表明されたという。松沢氏の所論には、福岡県知事で知事会の会長である麻生渡氏も賛同していたそうだ。

 もはや全国的な規制の動きをとめることはできないのだろうか。しかし松沢氏の規制策動を批判する我々も、ひとり松沢氏のみを批判するだけでは、同様の動きをとめることはできないだろう。なぜならこのような規制論の根底には俗流若者論が付きまとっているからである。要するに、「今時の若者」は自分とは違う社会環境で育ったから「異常」になったのだ、ということで、そこでもっぱら槍玉に上げられるのがゲーム、漫画、テレビ、携帯電話、インターネットである。ここではまさにゲームが槍玉に上がっている。だから我々は、松沢氏の立論が以下に歪んでいるものであるかを衝くと同時に、巷に流布している「今時の若者」のイメージの虚構性もまた衝かなければならない。このゲーム規制の件は、行政が俗流若者論に屈服した例として私は見ている。

 参考文献・資料
 石原慎太郎[2005]
 石原慎太郎「仮想と虚妄の時代」=「文藝春秋」2005年5月号、文藝春秋
 石原慎太郎、養老孟司[2005]
 石原慎太郎、養老孟司「子供は脳からおかしくなった」=「文藝春秋」2005年8月号、文藝春秋
 河村成浩[2005]
 河村成浩「「残虐」とゲームが有害図書に 神奈川県、条例で指定」=「MANTANBROAD」2005年6月号、毎日新聞社
 長岡義幸[2004]
 長岡義幸『「わいせつコミック」裁判』道出版、2004年1月
 中上貴博[2005]
 中上貴博「県、「残虐ゲーム」を有害図書指定へ」=2005年6月1日付朝日新聞神奈川県版(この記事は朝日新聞社ウェブサイトの文章を基にしています)
 松沢成文[2005]
 松沢成文「ゲームソフト 有害図書指定の輪を全国に」=2005年8月3日付朝日新聞

 斎藤環『「負けた」教の信者たち』中公新書ラクレ、2005年4月
 ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』岩波文庫、上下巻、1987年2月

 酒井隆史「「世間」の膨張によって扇動されるパニック」=「論座」2005年9月号、朝日新聞社
 杉田敦「「彼ら」とは違う「私たち」――統一地方選の民意を考える」=「世界」2003年6月号、岩波書店

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 関連記事
 「俗流若者論ケースファイル11・石原慎太郎
 「俗流若者論ケースファイル12・松沢成文
 「俗流若者論ケースファイル34・石原慎太郎&養老孟司

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2005年7月23日 (土)

トラックバック雑記文・05年07月23日

 お久しぶりです。最近このブログの更新が停滞していたのは、建築の課題を作っていたからですが、一応毎日アクセス確認はしていました。

 その確認をしていたときに判明したのですが、どうやら誰かがパチンコ関係のネット掲示板に私の記事へのリンクを何の文脈もなく、しかも私が投稿したものであるかのように貼っている人がいるようです。

 ここで申し上げておきたいのですが、まず私はその事実を知るまでその掲示板の存在を知りませんでした。また、たとえ掲示板に投稿する際でも、私は原則として本名でしか投稿しません。なので、その掲示板にさも私が貼ったかのごとく書かれている書き込みは、明らかに私のものではないのです(ちなみに最近「北の系」の掲示板に投稿した文章は私のものです)。

 確かにこのブログは、タイトルの近くにも書いてある通り、リンク及び転載は歓迎しております。私に提供したい情報があれば、どしどしトラックバックやコメントを投稿していただきたいものです(アダルトブログなどからのトラックバックは無条件に削除させていただく場合があります)。しかし、この場合は、明らかに私に対する誤解をあおるものであり、私はそのことで大変迷惑を被っております。

 まさかこのブログの常連の読者がそのようなことをするはずはないのだと思いますが、この文章を読んでいるのであれば、まずその行為をやめてください。

 ここからが本文です。
 フィギュア萌え族(仮)犯行説問題ブログ版:ガードレールの金属片の謎、解明される(古鳥羽護氏)

 本の2ヶ月ほど前、あれほど我が国を騒がせた「ガードレールの謎の金属片」問題も、今ではまったく聞かれなくなりましたね。で、最近になって、ようやくその「原因」がわかったらしい。ここで引用されているNHKのニュースによると、車がガードレールにこすれたときに車の金属がはがれて、あのような形の金属片が生成されてしまうとか。

 それにしても、この記事における結びの言葉が極めて秀逸ですね。

 さて、この現象を、「テレビゲーム世代」、「2ちゃんねらー」、「ひきこもり」、「ニート」による人為的なイタズラであると決め付けたコメンテーターたちは、明日からテレビに出ないで欲しいものです。

 まったくもって正しいですね。しかし、これはテレビのみならず新聞も同じでしょう。私の家では読売新聞を購読しているのですが、このことを取り扱った第1社会面の記事で、2人の自称「識者」がコメントしていましたが、そこに掲載されていた、漫画家の弘兼憲史氏の発言がひどかったことを記憶しています。曰く、「このようなことがインターネットを通じて広く行われるようになるひどい社会になってしまった」と(うろ覚えで申し訳ありません)。この現象に関して、何でもかんでも「今時の若者」のせいにしてしまった人たちは、まず最低条件として1年ほどコメンテーターとして参加するのを自粛してくださいね。

 また、先ほどの話題とかなり関係があるのでここも採り上げておきましょう。

 週刊!木村剛:[金曜日ゴーログ]さすがにマスコミは「叩く相手」を知っている!(木村剛氏:エコノミスト)

 今年のバレーボールのワールドカップは、我が街仙台で行なわれましたけれども、そこでジャニーズの某グループとフジテレビの某アナウンサーの不祥事がありましたね。まあ、この問題に関しては、多くの人が知っていると思うので改めて書く気はありません。木村氏のブログで事件の概要がおさらいされているのでそちらを読んでください。

 それにしても、木村氏のブログでも触れられているのですけれども、本来であればこの手のネタは格好のワイドショー報道の材料になるはずなのですけれども、あまり報じられていないようですね。さすが、身内には甘い、というべきか。

 身内には甘い、ということで私が真っ先に思いつくのは若年層に関する報道や言論です。例えば我が国の左派論壇において、「今時の若者」を嘆くために「戦後」を持ち出すような歴史修正主義が増えています。これでは「今時の若者」を嘆くために「戦前」を持ち出すような右派の歴史主義者となんら変わるところはありませんよ。しかし、左派論壇の人たちは、彼らを右傾化したと批判したり指摘したりしない。特に筑紫哲也氏は、筑紫氏が今や(というよりもずいぶん前からか)左派論壇のトップスターであるということもあってか、いかに「週刊金曜日」の連載で復古主義的なナショナリズムを煽っていても(「俗流若者論ケースファイル10・筑紫哲也」を参照されたし)、そのような言論を右傾化だとか指摘する人はいません。筑紫氏ほどではありませんけれども、吉田司氏や斎藤貴男氏なんかもこの傾向が現れ始めていますね。特に斎藤氏。斎藤氏は、かの曲学阿世の徒・京都大学霊長類研究所教授の正高信男氏のトンデモ本『ケータイを持ったサル』(中公新書)を、朝日新聞と、著書『人を殺せと言われれば、殺すのか』(太陽企画出版)と『安心のファシズム』(岩波新書)で絶賛していた。そのような斎藤氏の文章を読んで、私は「いったい、斎藤貴男はどうなってしまったのか!」(もちろん、斎藤氏と魚住昭氏の共著『いったい、この国はどうなってしまったのか!』(NHK出版)のパクリです)と驚いてしまいました。「サイゾー」の今月号で、例の宮台真司氏と宮崎哲弥氏の対談において、宮崎市が斎藤氏のことを「頭は左翼だが、体は半分保守オヤジに浸かってしまっている」状態であると批判していましたけれども、「頭は左翼、体は保守オヤジ」という人たちが多すぎます。左右関わらず、「体が保守オヤジ」の人々によって現在の言論界が支えられているから、このような事態が生じるのでしょうかね。

 それにしても、彼らの考える「国家」とはなんなのでしょうか。

 ン・ジュンマ(呉準磨)の備忘録:ナショナリズムとは、つまり「国民国家の虚偽意識」か
 弁護士山口貴士大いに語る:カスパルがうさんくさい要望書をエロゲー関係各社に送ったようです(山口貴士氏:弁護士)
 kitanoのアレ:反性教育の動向(6)

 なぜ、俗流若者論に寄りかかる歴史修正主義者の思考を考える上でこのような記事を持ってきたか。それは、まさに彼らの「国家」が彼らを正当化するためだけの道具に過ぎない、ということを言いたいのです。

 山口氏のブログでは、アダルトゲーム規制を推進する団体がアダルトゲーム業界に怪文書を送ったことが報告されています。しかし、なぜこの団体はアダルトゲームにこだわるのでしょうかね。アダルトゲームにこだわりすぎると、犯罪の実像はまったく見えなくなりますが、彼らにとっては見えなくてもいいのでしょうか。所詮は自分の「理解できない」ものを国家によって規制しろ、といいたいわけですね。超国家主義と生活保守主義の最悪の結婚です。

 また「kitanoのアレ」では、中教審が高校生以下の性行為を認めない、という決定をしたようです。ここで引用されている共同通信の記事を読んでいると、嗚呼、やはり我が国は「言霊の国」だ、と嘆きたくなります。中教審の皆様方は、とにかく駄目だと言っていれば解決する、と思い込んでいるのですからね。考え方が甘すぎやしませんか。
 この2つに共通するのは、「強い国家」によって「今時の若者」を「是正」することを目的としていることでしょう。彼らが「今時の若者」に対して不快感を持っているのはよくわかります。しかし、その「解決」のために国家を持ち出し、「国家」に自らの「癒し」を求める、という態度は果たして正しいのか。私はそうは思いませんね。私だって、俗流若者論を批判する立場にある身であっても、やはりメディア的な「今時の若者」に不快感を覚えることはありますよ(仙台ではあまり見かけませんが)。しかし、そんな個人的な感情を、現代の若年層における「国家」意識の喪失なる論理と無理やり結びつける、という行為は、はっきり言って良識ある大人の行為ではないでしょう。

 今や国家は、「今時の若者」に対する個人的な恨みつらみを晴らしてくれる存在でしかなくなりつつあります。真面目な国家主義者は、直ちにこの状況を批判すべきでしょう。

 ヤースのへんしん:皆の道

 日本最速の161キロを記録した横浜ベイスターズのマーク・クルーン投手にあやかって、横浜市の市議より「市道鴨志田161号」に「クルーンロード」という愛称を付けようという動きが持ち上がってるらしい。

 うわあ、莫迦莫迦しい(笑)。もちろんこの記事の筆者も莫迦莫迦しいと思っていますが。

 この文章を読んで、東北大学助教授の五十嵐太郎氏(『戦争と建築』『過防備都市』の著者です)の授業において、北朝鮮の建築のスケールや装飾の数(例えば金日成広場の正面にある「主体思想塔」の高さ)が北朝鮮の革命史とか金日成にまつわる数字とかにあわせられている、ということが語られていたことを思い出しましたよ。

 このようにセンスもなく、ただ単に人気にあやかっただけの地名や愛称が、その後においてどのように語られるか、ということを考えてみるとなんだか滑稽に思えてきます。野球の選手が日本催最速の等級速度を出した、だからこの道路にそのような愛称がついたのだ、と言われても、その知名に愛着を持つ人がいるのでしょうかね。どうも疑問に思ってしまう。

 minorhythm:夏本番っ☆(茅原実里氏:声優)
 ひとみの日々:夏バテ?(生天目仁美氏:声優)

 仙台の梅雨明けはまだですが、いよいよ本格的な夏が始まりました。私も、本日、長かった建築の課題が終わり、いよいよ夏休みに入ります(補講とか試験とか提出とかたくさんありますが)。余暇の時間が多くなるので、このブログの更新頻度も多くなるでしょう。後はアルバイトが欲しい。私は「家庭教師のトライ」に所属しているのですが、現在生徒を持っていない状況です。なので、積極的にトライのほうに電話をかけて、新しい生徒はいないかといっております。さぞかしトライの仙台支部も迷惑千万でしょう(笑)。

 アルバイトがないなら、夏休みは物書きに徹しますか。一応現在検証待ちの文章もいくつかありますが、8月初旬からは夏休み特別企画を行なうことを考えております。
 それは「俗流若者論大賞」。平成12~15年に後で挙げる雑誌に発表された俗流若者論から1年ごとに、準グランプリを3~5本、そしてグランプリを1本ノミネートしようと思います。なので、この特別企画の期間中は、カレントな俗流若者論の批判はしばらくお休みになります。

 対象となる雑誌:文藝春秋、諸君!(以上、文藝春秋)、中央公論(中央公論新社)、現代(講談社)、世界(岩波書店)、正論(産経新聞社)、Voice(PHP研究所)、論座、週刊朝日、AERA(以上、朝日新聞社)、Yomiuri Weekly(読売新聞社)、サンデー毎日(毎日新聞社)、週刊金曜日(金曜日)

 また、雑誌に投稿するために、ここでは公開しない文章も執筆するつもりです。とりあえず現在執筆予定なのが「疑似科学の潮流と俗流若者論」とか「俗流若者論が生み出す歴史修正主義」とか。というのも、先月の頭ごろに、このブログの記事「壊れる日本人と差別する柳田邦男」を「論座」編集部に投稿したときに、編集部から既に発表された文章は掲載できないと電話がかかってきましたので、雑誌投稿向けに、これまでの私の俗流若者論批判を一つのテーマにまとめて、俗流若者論という言論体系にあまり明るくない人にも読んでもらえるような文章に仕上げるつもりです。もし投稿してから1ヶ月以上反応がなければ、ここで公開するつもりです。

 それから、前回の雑記分から、以下の記事を公開したので、是非読んでください。

 「俗流若者論ケースファイル35・斎藤滋」(7月10日)
 「俗流若者論ケースファイル36・高畑基宏&清永賢二&千石保」(7月13日)
 「俗流若者論ケースファイル37・宮内健&片岡直樹&澤口俊之」(同上)
 「俗流若者論ケースファイル38・内山洋紀&福井洋平」(7月16日)

 そうそう。あさってはついに我らが仇敵(だったのか)・正高信男の新刊が発売される日ですよ。

 正高信男『考えないヒト』中公新書、2005年7月25日発売予定

 中央公論新社のウェブサイトでは、《通話、通信からデータの記憶、検索、イベントの予約まで、今や日常の煩わしい知的作業はケータイに委ねられている。IT化の極致ケータイこそ、進歩と快適さを追求してきた文明の象徴、ヒトはついに脳の外部化に成功したのだ。しかしそれによって実現したのは、思考の衰退、家族の崩壊などの退化現象だった。出あるき人間、キレるヒトは、次世代人類ではないか。霊長類研究の蓄積から生まれた画期的文明・文化論》と紹介されています。まあ、帯を見る限りでは、おそらく『人間性の進化史』(NHK人間講座テキスト)をさらに拡大したものになるのでしょうか。しかし、あのテキストだけでは新書というサイズにまとめることができないので、ある程度加筆することになるのでしょうけれども、少なくともこの本が彼の疑似科学路線を突っ走った本になることは間違いないようです。

 皆様、この機会に、正高信男という曲学阿世の徒について復習をしてみましょう。

 まず、私の正高信男批判を。

 「正高信男という病 ~正高信男『ケータイを持ったサル』の誤りを糺す~」(平成16年11月7日)
 「正高信男という堕落」(平成16年12月4日)
 「またも正高信男の事実誤認と歪曲 ~正高信男という堕落ふたたび~」(平成17年2月24日)
 「正高信男という頽廃」(平成17年3月8日)
 「正高信男は破綻した! ~正高信男という堕落みたび~」(平成17年4月5日)
 「暴走列車を止めろ ~正高信男という堕落4~」(平成17年7月3日)
 私の正高信男批判を全部読みたい方はこちら

 また、他のブログにおける正高信男批判も紹介しておきます。

 えこまの部屋:[社会]EMYさんへの返事[社会]少子化対策ぅぅ~~?(着地点はコレかよ!)

 はぁ・・・?
 これケイタイを持つ者へのなんらかの批判と啓蒙の書だったのではないのですか?
 (少なくともそれを期待し彷彿させるタイトルだったんですが・・・)

 百万歩譲って「この本は本当は少子化対策の本だった」として、
 この程度の提案(少子化対策案)って・・・
 なんだか高校生の子が、もしくは家政科の短大生が明日提出で急いで仕上げた
 「私が考える少子化対策レポート」みたいに思えるんですけれど・・・。

 脱力である。

 ふたたびEMYさんのコメント再生
 >読まなくて正解と思います。

 ほ・・・ほんほひそうらね、EMYひゃん。(ほんとにそうだね、EMYさん)

 ちなみにこの記事では、このブログではおなじみの「千人印の歩行器」の栗山光司氏が私の文章を紹介しております(この記事が「堕落みたび」にトラックバックされているのもそのためでしょう)。この記事は、一般読者の立場から正高本に突っ込みを入れております。

 思考錯誤:[note] 『ケータイを持ったサル』か?(辻大介氏:社会学者)

 しかしだな、その実験の解釈や議論の組み立てかたは、やはりトンデモと言わざるをえないところがある*1。いかに優れた自然科学者であっても、生半可に社会評論に手を出してしまうと、こんなことになってしまうんかいなと愕然としてしまう。お願いだから、正高さんには、こっち方面からはとっとと手を引いて(どうせ片手間しごとなんだし)、着実に本業を進めてほしいと切に思う。優秀な人が道を誤っちゃいけない。

 本当にその通りであります。

 あと、オフラインの正高批判も挙げておきます。

 宮崎哲弥「今月の新書完全読破」2003年9月分=「諸君!」2003年12月号、文藝春秋

 私には呆れるほど杜撰で、学者としての良心すら疑いたくなる内容なのだが、新聞などの書評は押し並べて好意的だった。
 日本人が「退化」しているかもしれないという危惧にだけは同意してもよい。私の危惧は、著者を含めたインテリ層の知的能力の「退化」に対するものだけど。(280ページ)

 岸本佐知子「(ベストセラー快読)おじさんも「感動した!」」=2004年3月28日付朝日新聞

 この本の悪口を言うのは簡単だ(オヤジの主観丸出しだとかトンデモ本じゃないのかとか女になにか恨みでもあるのかとか)。が、そんなことはこの際どうでもいいのだ。著者は、学者として何より大切な客観性を投げうち、神聖な研究対象をネタに使ってまで、世の虐げられたおじさんたちを勇気づけようとしているのである。何と崇高な犠牲精神であろう。

 斎藤美奈子「(斎藤美奈子 ほんのご挨拶)サルとヒトの区別ない 印象のみの比較論」=「AERA」2003年12月8日号

 ※備考:この「ほんのご挨拶」をまとめた本が、斎藤氏の最新刊の『誤読日記』(朝日新聞社)として刊行されています。私はまだ読んでいないのですが、おそらく正高本への批判も収録されているでしょう。

 相手がサルだと社会統計学の原則に則る必要もないんですね。
 ……こんな乱暴な比較論もサルだから許されるわけです。ヒトの家族論、若者論、コミュニケーション論等がいまやこれだけ出ているのに、参照しないってのもすごい。

 皆様、来る25日に向けて、完全に論理武装をしておきましょう(笑)。

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2005年7月10日 (日)

トラックバック雑記文・05年07月10日

 大きな文章を立て続けに公開して、最近はかなり力が抜けています。建築の課題もあるのに。いいのか俺(「コンパクト建築設計資料集成」は熟読していますが)。

 というわけで、平成17年下半期に入っての初めての雑記文ですよ。と、アンニュイなモードで行こうとと思ったのですが、そうは問屋が卸さないようで…。

 週刊!木村剛:[ゴーログ] 「有害情報判定委員会」は創設されるのか?(木村剛氏:エコノミスト)
 kitanoのアレ:村田吉隆公安委員長「インターネットを規制すべきだ」
 やれやれ、またインターネット規制論ですか。この手のメディア悪影響論って、どうしてかくも支持を得てしまうのでしょうかね。

 なるほど、確かに最近の事件に関してインターネットがある程度関わっていた、ということは確実に言えるでしょう。しかし、だからといって、世の中にはインターネットを使う人がたくさんいて、それでも彼らの大半は犯罪を起こさない。事実、我が国において少年凶悪犯罪の件数は昭和35年ごろに比べれば激減しています。インターネットも今のようなポルノもなかった時代に、少年による凶悪犯罪が約3倍起こっていた。また、「少年犯罪データベース」という熱心なサイトがあるのですが、そのサイトを見る限りでは、「質の凶悪化」もまったくのうそだということがわかります。

 所詮、俗流若者論とは、自分をタブーにすることによって自らをまったく傷付かない場所に置くための武器なのですね。自分は「想い出」というイデオロギーに浸ることによって自らの世代が少年だった頃の凶悪犯罪を不問にして、今の青少年に対して強権的な政策を正当化するための方便なのですよ。

 「有害である」「有害ではない」なんて、どうでもいい話じゃないですか。もちろん既存の法律に反するようなもの(個人情報の暴露とか)はその人の良心によって規制されるべきですが。でも、さまざまな表現が混在している社会こそ健全な社会なんですよね。政府によって何らかの基準が決められて、それが「青少年に有害」という理由で規制されてしまう、というのはまさに言論統制ですよね。

 そもそも彼らの脳内において「青少年」とはどういう存在なんでしょうかね。私が思うに、それは限りなく無垢な存在です。当然悪い意味でですよ。要するに、暴力的な画像を見たら、すぐさま暴力は許されると思い、そしてすぐ暴力行為に走る。少女が陵辱されるゲームの画像を見たら、すぐさま少女への陵辱が許されると思い、そしてすぐ陵辱行為に走る。こういう存在です。彼らの想定している脳内青少年には、常識的な判断力がない。善悪の判断がつかない。全てが映像によって決められる。そういう存在として見られているのですよ、今を生きる青少年諸君!

 これが偏った青少年観と言わずして何というのでしょうかね。これこそ彼らの中でヴァーチャルが現実を凌駕してしまった、というよりも陵辱してしまった事態ですよ。もちろん、ここで言うヴァーチャルとは俗流若者論によって構成された「今時の若者」という虚像のこと。俗流若者論というフィルターによってのみ現代の青少年を見られなくなっているのだとしたら、それは極めて悲しいことです。

 minorhythm:赤(茅原実里氏:声優)
 茅原氏曰く、

 赤いラグマットに、赤いゴミ箱…。
 最近やけに“赤”にこだわる私。何かと赤が気になる私。
 なんなんだ?(笑)

 色彩の指向というものは、その人の精神状態などを表す指標となり、また、色彩はインテリアにも大きな影響を及ぼします。例えばあなたが赤ばかりの部屋で過ごしたらどうなるでしょうか。心が温かくなる?情熱的になる?感じ方は人それぞれでしょうが、少なくとも何らかの影響を及ぼすのは確かだと思います。

 まあ、赤ばかりの部屋にしてしまうのもいかがなものか、と思いますが。でも、その時々の気分をインテリアに反映させるというのは、さして悪いことではないのだと思います。
 余談ですけれども、俗流若者論を色で表すとどうなるでしょうね。黒?いや、そんな統一感のあるものではないでしょう。さしずめ言うならば、色なんてありません。さまざまな色が汚く交じり合って、結局色とはいえない色が形成されたグロテスクな空間ですよ。

 だいずのイソフラボンジュール:宙:七夕なくして・・・(水島大宙氏:声優)
 世間では七夕の季節ですね(もうちょっとだけ過ぎましたが)。でも、仙台では七夕は8月7日ですから!残念!!

 私が仙台市成人式実行委員をやっていた頃、仙台の七夕の歴史について調べていました。そのときに仙台の七夕にはいろいろな物語があることを改めて感じて、感慨深くなりました。もちろん、さまざまな商店や企業による豪華絢爛な七夕飾りも見ものですが、例えば飾りには全て和紙を使っているとか、時代の変遷に対応しつつ伝統を守り続ける姿にも目を向けるべきでしょう。それもまた、七夕の楽しみ方です。

 いずれにせよ、七夕を逃してしまった万国のプロレタリアート諸君、まだ仙台がある!是非見に来てください。

 お知らせ。以下の文章を公開しました。
 「俗流若者論ケースファイル30・森岡正宏&杉浦正健&葉梨康弘」(6月28日)
 「2005年4~6月の1冊」(7月1日)
 「2005年上半期の1曲」(7月2日)
 「俗流若者論ケースファイル31・細川珠生」(7月3日)
 「暴走列車を止めろ ~正高信男という堕落4~」(同上)
 「俗流若者論ケースファイル32・二階堂祥生&福島章&野田正彰」(7月6日)
 「俗流若者論ケースファイル33・香山リカ」(7月7日)
 「俗流若者論ケースファイル34・石原慎太郎&養老孟司」(7月9日)

 それにしても、石原慎太郎氏の暴走はどこまで続くのでしょうかね。「俗流若者論ケースファイル11・石原慎太郎」も参照してほしいのですが、このような人が都政を預かっているということ自体が疑問の種になろうというもの。

 メディア規制首都圏連合の形成も、もう目前なのでしょうかね。松沢成文氏も、もはやトートロジー(同語反復)に陥っているし。

 最近古典をよく読んでいます。丁度最近ニーチェの『アンチクリスト』が『キリスト教は邪教です!』となって講談社+α新書(適菜収:訳)から出ていますけれども、他にもマックス・ヴェーバーの『職業としての政治』(脇圭平:訳、岩波文庫)なんかも読みました。今読んでいるのはヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(大塚久雄:訳、岩波文庫)ですけれども、この本を読んでいると、いかに俗流論壇人のフリーター・若年無業者たたきが低俗で非歴史的なものであるか、ということがわかりますね。現代の良識ある学者や実践者の文章を読んでも俗流論壇人の低俗ヘタレぶりがわかるのですから、いわんや古典をや、です。

 あと、このブログの右側にある「おすすめブログ」に、以下のブログへのリンクを追加しました。いずれもよくできているブログですので、是非読んでください。

 「本日の「産経SHOW」
 「弁護士山口貴士大いに語る
 「森昭雄研究所

 もう一つ。マガジンハウスが発行している月刊誌「ダ・ヴィンチ」の新書新刊のページを読んでいたら、中公新書のところで目が止まりました。そう、あの曲学阿世の徒が中公新書から新刊を出す!

 正高信男『考えないヒト』中公新書、2005年7月25日発売予定

 この男の最近の仕事のひどさに関してはもうここで散々批判している通りですが、この本もまた疑似科学路線まっしぐらのトンデモ本になるのでしょうか。内容によっては、「正高信男という斜陽」(仮題)で、なるべく早く検証します。ですので、皆様も今のうち警戒しておいてください!

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2005年7月 8日 (金)

俗流若者論ケースファイル34・石原慎太郎&養老孟司

 ゲーム規制を推し進めている神奈川県の松沢成文知事が、自身のブログでゲーム規制に対する反対論への再反論を掲載した。しかしその文章は、結局のところ私が「俗流若者論ケースファイル12・松沢成文」で批判したものとなんら変わらず、結局のところコメント欄は「まだ疑問だ」「答えになっていない」といったものが多数書かれていた。

 詳しい検証は避けるが、松沢氏のみならずゲーム規制論者の思考を突き詰めれば、それは「俺が有害だと言っているから有害なんだ」というトートロジー(同語反復)になる。このような論理を振りかざす人たちに「それはトートロジーだ」と指摘するのは簡単だし、またそれがもっとも正しい態度なのだが、しかしトートロジーを平然と振りかざすようになっている人たちには、いくら論理的に説明しても聞いてもらえないケースが多い。そして現在、そのようなトートロジーを持った人たちが政治を牛耳り、無意味どころか有害なメディア規制に走っている、というのが現状である。

 また、トートロジーは脳科学を犯し、脳科学を疑似科学として再構築するのにも役立っている。典型的なのは曲学阿世の徒・日本大学教授の森昭雄氏であろうし、また同じく曲学阿世の徒・京都大学教授の正高信男氏も擬似脳科学に陥りつつあるのであるが(詳しくは「正高信男という頽廃」参照)、彼らがいかに「科学」を偽装しようとも、結局のところは推測の積み重ねであり、脳機能の欠陥が社会性を奪う、ということは証明されていない。というよりも、現に脳に障害を抱えている人も、福祉工学の発達によって人並みの生活を送れるようになっており、脳機能の欠陥により社会性が失われる、というのは脳機能障害者に対する差別に他ならない。まあ、擬似脳科学の徒には、このようなことを考えることもないのだろうが。

 なぜ私がこのような物言いをするのか。

 それは、ついにトートロジーにより強大な権力を振りかざす人と、擬似脳科学の最悪の結婚を見てしまったからである。

 それが、「文藝春秋」平成17年8月号に掲載された、東京都知事の石原慎太郎氏と、北里大学教授の養老孟司氏による対談「子供は脳からおかしくなった」だ。

 先に言っておくが、私は養老氏の『涼しい脳味噌』『毒にも薬にもなる話』『「都市主義」の限界』などの本はよく読んできた。ただ『バカの壁』などの最近の本は何となく忌避してきた。それでも、私が定期購読している「中央公論」の文章で養老氏のエッセイを楽しんできたが、石原氏とのこの対談を読んでみた限り、養老氏は一体どうしたのだろう、と思った。以前からも、養老氏が若年層について書いている文章の内容には少々疑問を持ってきたが、この対談における養老氏の発言は私が抱いてきたその疑問の集大成であった。

 そして石原氏。私は、この3ヶ月前に発売された「文藝春秋」平成17年5月号の文章を検証したけれども(「俗流若者論ケースファイル11・石原慎太郎」を参照されたし)、この座談会における石原氏の発言は、5月号の文章から少しも改善されていない。

 前置きが長くなってしまったので、ここから、話の流れに沿って検証を行なうことにしよう。養老氏は130ページにおいて、《このところ、子供たちの描く絵の多くが「下手なマンガ」のようになっていた、中には絵が描けない子供も出てきているそうです》(石原慎太郎、養老孟司[2005]、以下、断りがないなら同様)ということを紹介しており(おそらく作家の藤原智美氏の本を読んだのだと思う。藤原氏の立論の問題点については「俗流若者論ケースファイル17・藤原智美」を参照されたし)、なぜそのような事態が生じてしまったのか、ということについて、養老氏は131ページにおいて自閉症の子供が疾走する馬を素晴らしくデッサンしていたが、いざ自閉症が治ると《今そこにある馬を感覚的に捉える、という、彼女がかつてもっていた豊かな世界がとたんに痩せてしまった》ことを紹介している。まず笑えるのは、その直後における石原氏の発言だ。曰く、

 石原 象徴的な話ですね。ということは今大方の子供たちも、感覚的な世界が痩せて、絵が描けなくなっている可能性は十分にありますね。それはやはりテレビなどの影響、ということになるのかな。

 《感覚的な世界が痩せて》いるのは石原氏のほうであろう。養老氏の提示した実例から《今大方の子供たちも、感覚的な世界が痩せて、絵が描けなくなっている可能性は十分にありますね》と言ってしまうのは飛躍というものである。石原氏は、今の子供たちをみんな自閉症の状態にしろ、とでも言ってしまうのだろうか。まさかそのようなことは言わないだろうが、冒頭で養老氏の提示した事例がどこまで広がりを持っているのか、そして過去はどうだったのか、ということについての検証が必要だと思うのだが。

 そして、やはり来たか、メディア悪影響論。《やはりテレビなどの影響、ということになるのかな》など、勝手に「犯人」を決め付けないでいただきたいものだ。ところがそれを受けたよう労使は、そのような石原氏の発言を諌めるどころか、むしろ肯定してしまうのである。あなたは本当に科学者なのか。

 曰く、

 養老 そうですね。よく最近はバーチャル・リアリティーなんていわれますが、テレビの中のことと、現実に起こることは違いますよね。ところが今の子供たちはそれが混乱してしまっているんです。たとえば子供が険しい道を歩いていて、崖から落ちそうになれば普通「危ないよ」と声をかける。でも、それがテレビの映像であれば、崖から落ちる設定になっていれば声をかけようがかけまいが子供は落ちる。だからどんなに深刻な映像であっても、感情移入することなく淡々と見ることができるようになります。それどころか、実際の現実世界もまるでテレビの中の出来事であるかのように捉え、「現実に対して自分は以下に無力か」とシラケきってしまう。そういう乖離が子供の頃から起きているんです。

 と。かつて養老氏は、同様の論理を過去の著書で述べていたが(養老孟司[2002]159ページ)、私はそれを読んだときそんなわけないだろう、と苦笑したけれども、まさか今でもそのような考えを持っているとは思わなかった。

 まず《たとえば子供が険しい道を歩いていて、崖から落ちそうになれば普通「危ないよ」と声をかける。でも、それがテレビの映像であれば、崖から落ちる設定になっていれば声をかけようがかけまいが子供は落ちる。だからどんなに深刻な映像であっても、感情移入することなく淡々と見ることができるようになります》というのはどこで聞いた話なのだろうか。それとも養老氏の捏造か?また、《どんなに深刻な映像であっても、感情移入することなく淡々と見ることができるようになります》と養老氏は述べているけれども、あなたも科学者であればそのようなことを照明するデータの提示が必要だろう。ここまで無理のあるアナロジーに依拠するなど、森昭雄・正高信男並みの疑似科学者の行為である。文学者である石原氏は、そのような養老氏の無理のあるアナロジーを諌めるべきだろうが、案の定石原氏は賛同してしまう。この2人の蜜月は、最初2ページからすさまじい。

 この2ページで最も笑えるのはこの箇所であろう。

 養老 ……宮崎駿さんが、『千と千尋の神隠し』を三十回観ました、という手紙を受け取ってぞっとした、という話があって(笑)。

 石原 確かにぞっとするなあ、それは(笑)。反復可能な映像は、反復すればするほど単純に記号化されていくわけだから。そんな情報ばかりが氾濫する社会の中で、何がリアルで何がバーチャルなのか、未熟な人間である子供が一人で識別できるはずがない。

 笑いを取りたいのだろうか。特に石原氏。同じ映画を三十回も観たと聞いて、むしろぞっとしない人のほうが少ないと思うけれども。それに、《そんな情報ばかりが氾濫する社会の中で、何がリアルで何がバーチャルなのか、未熟な人間である子供が一人で識別できるはずがない》などと、勝手に決め付けないでいただきたいものだ。

 そもそもバーチャルとリアルの境界を厳密に決めることは可能なのだろうか。少し極論すれば、リアルはバーチャルによってしか成立し得ない。なぜなら、我々の見ているものそれ自体が、バーチャルであるからだ。というのも、我々の見ているものは、所詮はリアルの一部に過ぎないわけで、それ以外の世界は「推測」によってしか成立し得ない。それに、《反復可能な映像は、反復すればするほど単純に記号化されていくわけだから》などという言葉は、まずマスコミに言うべき言葉であろう。

 石原氏が132ページで採り上げている赤枝恒雄氏の例に関しては、前回検証したのでここでは触れない。しかし、132ページにおいては、養老氏の側に問題のある発言を見つけた。

 養老 ……親子関係、母子関係なんて、ヒトの脳がこんな風に発達するはるか以前、それこそ「理解」のはるか以前から成立しているんですよ。むしろ脳が関係を邪魔しているんです。昔の人はそうした「理解」以前の「実体」への信頼感があったから、「以心伝心」といっていたし、「人間てこういうものだろう」という事の順序みたいなものが長年の知恵で頭の中に入っていましたからね。そういう知恵がもはや親子間で共有できなくなってしまったところに、ちゃんとした親子関係ができるはずもありませんよ。

 《「理解」以前の「実体」》とか、《ちゃんとした親子関係》とは、一体何を指すのだろうか。結局のところ、養老氏と石原氏は、過去では親子関係が成立していたが、現在は成立していない、という共同幻想に浸っているだけだろう。なぜ私がこのように言うのかというと、同じページで石原氏が提示していた2つの事例が、それが典型的なものなのか極端なものなのかを例示しないまま、石原氏の提示した事例を典型的な現代の事例として扱っているからである。そして、過去の家族にも問題があったか、ということについては、一切触れずじまい。

 133ページでは、成人式論の研究家として怒らねばならぬ発言が石原・養老の両氏から発せられた。

 石原 ……精神科医の斎藤環さんが……日本人を分析してみて、「日本人の本当の成人は三十歳だ」ということになったそうです。確かに成人式が荒れていて、混乱が起こるから親の同伴が必要だ、なんてことになってるわけですから。

 養老 もっと遅くて、四十代でいいんじゃないかな。僕は三十代はじめにオーストラリアに留学したんですが、そのときに向こうの二十代半ばの人間と話していてちょうどよかったんです。しみじみ感じましたね。オーストラリアでさえそうなんだから、個々人の成熟は向こうの社会の方がはるかに早い。

 石原 ということは、二十代、三十代のまだまだ未熟な親に育てられている今の子供たちがおかしくなるのも、無理のない話ですな。

 もういい加減にしてもらいたい。石原氏よ、養老氏よ、ここは酒場ではないのである。養老氏は個人の成熟は早いほうがいい、と考えているのかもしれないが、石原氏が引き合いに出している斎藤環氏は、個人の成熟と社会の成熟は反比例する、という趣旨のことを述べているから(斎藤環[2005])、個人の成熟の速さが社会の質の良さを示すのか、といえばまんざらでもないのである。

 しかし、養老氏よりも問題があるのは石原氏だ。石原氏、ここ数年で加速度的にひどくなった成人式報道をそのまま真に受けているのだから救いようがない。何がひどくなったかというと、マスコミはみんな俗流若者論、若年層バッシングのために成人式を「政治利用」するようになった。私は平成17年仙台市成人式実行委員会で吹く実行委員長をしていたからわかるのであるが、我々の苦労、及び他の自治体における裏方の苦労はほとんど報道されない(かろうじてNHKで岩手県水沢市のが報道されたくらいだろう)。しかもマスコミが大好きな「荒れる成人式」がそのまま我が国の20歳の人たちが成熟していない証左として取り上げる、ということに関してはもはや莫迦莫迦しくて検証する気もないのだけれども、ただ一つだけいえることは、一部で怒っている単なる莫迦騒ぎをさも国家的・社会的な大事のように捉えるマスコミも、「今時の若者」という虚像に脅えて成人式を家族同伴にするという大愚作をしでかしてしまう自治体も、結局のところ単なる事なかれ主義者、ということだ。

 133ページから134ページにおける石原氏の発言。

 石原 ティーンエイジャーの娘をもつ親たちは、子供に携帯電話をもたせていると、たとえ子供が菅家で援助交際なんかをしていても、親子の心が通っている、つながっていると思い込もうとする。実際は互いにケータイを操作してなれ合っているだけでしょう。そんな関係、昔はありえなかった。つまり親子の関係での本質が欠落してしまっている。

 これもまた石原氏の思い込みに過ぎない。《そんな関係、昔はありえなかった》など、当たり前ではないか、昔は携帯電話など存在しなかったのだから。けれども、携帯電話の普及について、アプローチとして自然なのは、まず昔からある一定の感情があり、それが携帯電話にマッチしたから広まったとかそのようなところから入ることだと思うのだが、石原氏は最初から「昔の親子は正常で、現代の親子は異常だ」という幻想に浸っているから、現代の親子を罵ることしかできなくなってしまっているのだろう。

 さて、134ページから135ページであるが、ここで擬似脳化学が出てくる。といっても、マスコミが大好きな「キレる子供」は前頭葉が異常である、というもう聞き飽きたものなのだけれども。しかも前頭葉の以上は戦後教育が原因だ、といってしまう始末。まあ、この2人の蜜月からこのような暴論が生まれるのは、十分に想定しうるものなのだけれども。ここもあまりにも莫迦莫迦しいのでもう検証しない。そして135ページ下段において、また出てきた、脳幹が。まあ、この人にとって脳幹は国家(=石原氏の幻想としての「国家」)のメタファーなのだから仕方ないのだけれども。

 また、石原氏は、137ページでまた問題の大きい発言を行なっている。

 石原 ……最近の集団自殺というのは、インターネットなどで知り合った同士が集まって、互いに名乗りもせずに、ただ黙々と死んでいく。その間にセックスがあるわけでもない。一人で死ぬより数人で死んだほうが寂しくないということなのか。彼らは人とのつながり方において、大きな問題を抱えている。つまり、インポテンツだった、と考えるしかないのかもしれない。

 まったく、石原氏にとっては、現代の青少年は本質(=石原氏の幻想としての「本質」)が欠落した存在、「本質」を持ったものにより統制されるべき存在、としてしか捉えられていないのだから、このような暴言を吐けるのだろう。まず、我が国において、青少年の自殺よりもむしろ中高年の自殺のほうが多い。また、石原氏はインターネットによる集団自殺を、単に青少年の精神の問題として考えているけれども、実際には死にたい想いを抱えていても死に切れない人も多くいる。さらに、これは斎藤環氏の指摘なのだけれども、このような事態は韓国やアメリカでも起こっている(斎藤環[2005])。

 問題があるのは養老氏も同様だ。養老氏は、138ページにおいてこのように発言している。養老氏の発言だ、というキャプションがなければ正高信男の発言と見間違うところだった。

 養老 ……そこで、携帯電話依存の問題です。ケータイならば、ミラーニューロンが働きにくい。相手の視覚的な印象はないんですから。メールでのやり取りなら音声もないわけで、言葉以外の情報を一切シャットアウトできる。これは弱い自我を守るための貴重な方法なのではないか。だから若者が、面と向かって話をするよりケータイでコミュニケーションする方が、ずっと居心地がいい、というのも分かるような気がするんです。

 そんなに《ミラーニューロン》は重要なのだろうか。いや、少なくとも脳構造の解明にとっては重要なのは間違いないのだろうが、だからといってメールはミラーニューロンを働かせない、とか、だから弱い自我を守るだけの貴重な方法だとか、この論理には飛躍が多い。

 ついでにミラーニューロンの(本当の)意味について解説する。この対談では当てにならないので、薬学博士の池谷裕二氏の説明を引用すると、《自分であろうと、他人であろうと関係なく、ある〈しぐさ〉に対して反応する神経》だとか、《「2」という数字に反応する神経が見つかった。つまり、リンゴが2個ある、サルが2匹いる、何でもいい。とにかく「2」というものが目の前にあったときに反応する神経》(共に、池谷裕二[2004])と説明されている。とはいっても、池谷氏も言うとおり、これはサルでその存在が確認されたことだし、ミラーニューロンに関しても脳科学はまだ断片的なことしか分かっていないので、ましてやメールはミラーニューロンを発達させないだとか、ミラーニューロンを使わないから若年層にとっては快感になるとか言ってしまうのは言語道断というものだろう。

 もう一つ養老氏に関して言うけれども、養老氏は同じページにおいて《今の若い子はその「自分」がもともとあることに確信がもてないんでしょうね、だから不安になって「自分探し」をしているんです。フリーター、ニートなどといって》といっているけれども、若年層がフリーターや若年無業者になる背景には、経済構造的なところも大きいのではないか。例えば経済学者の玄田有史氏が長い間指摘していることなのだけれども、我が国では中高年雇用の既得権が強まっており、それにより若年者雇用が開拓されない、という事態が起こっている(玄田有史[2001])。さらに玄田氏は最近になって、若年無業者の問題にも経済格差が影響している、という発表をしている(平成17年4月中ごろの日経新聞の記事だったが、あいにくその記事を紛失してしまった)。雇用構造の変化ということで言うと、企業が自分に都合のいい若年労働力しか採用しなくなっている、という現状もある。安易な精神論は、現実の社会構造の問題を隠蔽する方向にしか働かない。

 最終的には、まあ完全に予想の範疇であるが、《身体的な体験をさせるしかない》(石原氏、140ページ)という方向に進んでしまう。ここから先はもう退屈なのでいちいち検証はしないけれども、気になった箇所について2点。まず、141ページにおいて、石原氏は

 石原 昨年末、小中学生を対象とした調査で、死んだ人が生き返ることがあると考える子供が五人に一人いる、という統計が発表されましたが、若い人たちにとって「死」はもはやリアリティを感じるものではないのかもしれない。

 この統計は長崎県教委のもので間違いないだろう。たくさんのところで引かれているのでうんざりする。この統計にはかなりの問題点が含まれており、その議論は「統計学の常識、やってTRY!第2回」に譲るけれども、このような調査において他の世代との比較がないのはどういうわけなのだろうか。結局のところ、このようなアンケートは、若年層を貶めることにしか使われない。そのような問題意識の低いアンケートを引用していい気になっている石原氏は、いい加減目を覚ましていただきたいものだ。

 また、142ページにおいて、石原・養老の両氏が戸塚ヨットスクールについて賛同しているのにも驚いた。まあ、石原氏が後援会の会長だということは前から分かっていたのだが、養老氏も賛同していたのには少々驚きを禁じえなかった。

 ここで検証は終わるのだけれども、私は石原・養老の両氏に問い詰めたい。

 なぜ、このように、問題の多い発言をして恬然としているのだろうか。

 はっきり言っておくけれども、この対談は、単なる「居酒屋の愚痴」異常の何物でもない。また、このような対談を平然と載せている「文藝春秋」の編集部も厳しくその責任を問われるべきだろう。

 それにしても、前回の「仮想と虚妄の時代」と同様に石原氏の暴言が炸裂している対談であった。所詮石原氏にとって青少年問題とは、国家の恥として吐き捨てるべきものでしかないのだけれども、石原氏が青少年に対してあまりにも軽い、また残酷な態度で望んでいるばかりに、安易な規制論や疑似科学に依拠して青少年を現代社会の鬼胎として語り、彼らを嘲りその「対策」こそが至上命題だとすることによって、結局は「今時の若者」に対する敵愾心の共同体を作り上げていく。

 俗流若者論は「今時の若者」に対する敵愾心の共同体を作り上げていくのに余念がない。そして彼らは、たとい言いたい放題言っているとしても、敵愾心の共同体の中で言っているのだから、外部からの検証には至極弱いだろう。それでも、俗流若者論は着々と支持を得ており、それらが作る敵愾心の共同体に入っていく人たちは後を絶たない。

 しかし、考えていただきたい。昨今推し進められている国家主義的な動き、例えば憲法や教育基本法の改正は、それらのルーツをたどっていけば俗流若者論を源流とする。そのような挙動に隠された危険な動きを、彼らは俗流若者論でもって甘い匂いをつけ、従わせようとする。しかし、我々に求められているのは、そのような俗流若者論の歪んだ欲望を見通すことであり、俗流若者論によって突き動かされる政治というものが、いかに異常なものであるかを見極めることだ。

 俗流若者論に突き動かされて、「本質」の再建こそが必要だ、と叫ぶ石原氏に、政治家としての資格があるのだろうか。マックス・ヴェーバーも言っているではないか、《政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である。もしこの世の中で不可能事を目指して粘り強くアタックしないようでは、およそ可能なことの達成も覚束ないというのは、まったく正しく、あらゆる歴史上の経験がこれを証明している》(マックス・ヴェーバー[1980])と。そして石原氏のみならず、神奈川県知事の松沢成文氏なども、問題を正面から受け止めることをせずに、俺が有害だと言っているから有害だ、というトートロジーに陥ったり、「今時の若者」を過剰に敵視したポピュリズムに陥ったりしているが、それでも彼らを政治家として信頼に足る人物である、と評価したいのであれば、もう私は勝手にしろ、と言うほかない。

 しかし、それでも、より多くの人が俗流若者論に牛耳られる政治の危険さを知って欲しいと、私は祈り続ける。

 参考文献・資料
 池谷裕二[2004]
 池谷裕二『進化しすぎた脳』朝日出版社、2004年10月
 石原慎太郎、養老孟司[2005]
 石原慎太郎、養老孟司「子供は脳からおかしくなった」=「文藝春秋」2005年8月号、文藝春秋
 マックス・ヴェーバー[1980]
 マックス・ヴェーバー、脇圭平:訳『職業としての政治』岩波文庫、1980年3月
 玄田有史[2001]
 玄田有史『仕事のなかの曖昧な不安』中央公論新社、2001年10月
 斎藤環[2005]
 斎藤環『「負けた」教の信者たち』中公新書ラクレ、2005年4月
 養老孟司[2002]
 養老孟司『異見あり』文春文庫、2002年6月

 マックス・ヴェーバー、大塚久雄:訳『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波文庫、1989年1月
 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 姜尚中『ナショナリズム』岩波書店、2001年10月
 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 ロナルド・ドーア、石塚雅彦:訳『働くということ』中公新書、2005年4月
 中西新太郎『若者たちに何が起こっているのか』花伝社、2004年7月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月
 二神能基『希望のニート』東洋経済新報社、2005年6月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 山本七平『日本はなぜ敗れるのか』角川Oneテーマ21、2004年3月
 ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』岩波文庫、上下巻、1987年2月

 大和久将志「欲望する脳 心を創りだす」=「AERA」2003年1月13日号、朝日新聞社
 齋藤純一「都市空間の再編と公共性」=植田和弘、神野直彦、西村幸夫、間宮陽介(編)『(岩波講座・都市の再生を考える・1)都市とは何か』2004年3月、岩波書店
 瀬川茂子「東京都発「正しい性教育」」=「AERA」2004年10月25日号、朝日新聞社
 内藤朝雄「お前もニートだ」=「図書新聞」2005年3月18日号、図書新聞
 藤生明「サプライズ辞任の可能性」=「AERA」2005年6月20日号、朝日新聞社

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2005年6月18日 (土)

トラックバック雑記文・05年06月18日

 放置プレイにしようと思っていたのですが、リクエストが入ったので斬らせてもらいます。

 ちなみにリクエストしたのは、
 冬枯れの街:「無駄な星なんてあるわけがないだろ?」

 私は仙台在住なのですが、あいにく我が家でとっている新聞が読売新聞なので、東北の地方紙である河北新報がこんなにひどい記事を書いていたとは知りませんでした。ちなみに河北に関しては、私は4回ほど文章を掲載させていただいたことがあるのですが、そのような恩義もこの際一切無視しましょう。

 河北新報:落書き、知力低下反映? 単純な絵などばかり 仙台(Yahoo!ニュース)

 感想はただ一言。

 …河北情けないよ河北。(なぜ私がこのような言い方をするか、と疑問に思われた向きはこちらを参照)

 私も仙台市民として、中心市街地を中心に氾濫する落書きには心を痛めているのでありますが、このような落書きにかこつけて俗流若者論を書き飛ばしてしまう河北にも、正直言って心を痛めてしまいます。最近「この「反若者論」がすごい!02・河北新報社説」で社説を絶賛したばかりなのに。

 あのねえ。犯罪白書読めばわかるけどよ、暴走族(最近は「珍走団」という名称も定着しつつあるよね)の組織人員は減ってるんだよ。しかも、これは作家の重松清氏などの指摘なんだけどよ(重松清、河合幹雄、土井隆義、宮崎哲弥「日本社会はどこまで危険になったか」=「諸君!」2005年1月号)、暴走族の人員はむしろ高齢化してんだよ。背景には暴力団が牛耳ってて足を洗いづらいことが大きな理由だがよ。しかもなんだよ、この記事に出てくる自称「識者」どもは。こんな馬鹿連中の戯言にかこつけて「今時の若者」全体を語った気になってんじゃねーよ!しかも、この手の記事にとってはもはやご定番なんだが、過去との具体的な比較、一切なし!他の地域との比較、一切なし!この記事を書いた記者よ、出てきやがれ!!絞め殺すぞ!!!冗談だがよ。

 いい加減にしてほしいものです。このようなものでさえ記事になってしまう、という現在の俗流若者論、若者報道の現状には、ほとほと呆れてしまいますよ。所詮「今時の若者」は貶められてナンボなのでしょうね。

 栄枯盛衰、満つれば欠ける、とはよく言いますけれども、俗流若者論は、「酒鬼薔薇聖斗」事件以降に一気に勢いを増してから、もうとどまるところを知りませんよね。それどころか、むしろ隆盛の一途ですね。でもこれらの俗流若者論は、所詮張子のリヴァイアサンです。いつか、良心的な学者や評論家によって、少しずつ解体されるのを期待するしかないのでしょうね。

 というか、俗流若者論を解体するための本も、たくさんあるはずなのですが。売れているのは『反社会学講座』くらいなのが哀しい。まあ、俗流若者論を解体するための本は、大抵は地味か、高いか、その両方かですからね。『反社会学講座』は、易くて派手だから売れたものなのでしょうが、この本で展開されている論理が実を結ぶのは、いつの頃になるのでしょうかね。

 もう、こんな記事を読んだ私の感情を、声優の茅原実里氏が代弁していましたよ。

 minorhythm:茅原実里、本日はご立腹です(茅原実里氏:声優)

 茅原氏は傘を盗まれたことに怒っていますが、私はこんなにひどい記事でさえも不通に流通してしまう現状に激怒しております。俗流若者論系のトンデモ本や新聞・雑誌の記事も延々と出されますし。

 もう一つ、我々が怒っていいものがあります。
 弁護士山口貴士大いに語る:松文館裁判判決速報(山口貴士氏:弁護士)
 kitanoのアレ:松文館裁判:高裁でも不当判決

 「松文館裁判」。我が国ではじめて、「絵」にわいせつ罪が適用された裁判です。東京地裁の判決では、裁判で取り上げられた漫画の作者と、版元の社長に懲役刑が下ったのですが、弁護側が不服として控訴しました(ちなみに山口貴士氏は、この裁判の被告側の主任弁護士です)。で、この裁判において、宮台真司氏(社会学者)、斎藤環氏(精神科医)、奥平康弘氏(憲法学者)などが被告の立場から逮捕・告訴の不当性を主張してきましたが、それでも無罪を勝ち取ることができなかったとは…。

 弁護側は、これを不服として上告するでしょう。もしこの裁判の判決が判例として確定してしまったら、警察は好きなように「有害」コミックを摘発できるようになり、わいせつ罪の恣意的な運用が裁判において続々と行なわれるようになるでしょう。

 いささか言いすぎじゃないかって?いや、私がこのように断言するのは、この松文館裁判のいきさつを最近買った本で読んだからです(長岡義幸『「わいせつコミック」裁判』道出版、2004年1月)。

 そもそもここで取り上げられている漫画家と版元の社長が摘発されたのは、ある警察官僚出身の国会議員に寄せられた一通の投書がきっかけでした。そして、その議員が警察にリークし、漫画家と版元の社長は不当に逮捕されてしまった…。

 その「警察官僚出身の国会議員」とは…。

 平沢勝栄。

 カマヤンの虚業日記:[選挙]都議会選挙
 走れ小心者 in Disguise!:ブログ版『えらいこっちゃ!!』(20)(克森淳氏)

 都議会議員選挙ですか。私は宮城県民なので、選挙権があっても直接は関係ないものですが、ただ言論統制に断固として抵抗する立場としては、この2つのブログで取り上げられている「石原三羽烏」、すなわち古賀俊昭、田代博嗣、土屋敬之の3氏の当選は阻止しなければなりませんね。特に古賀氏と土屋氏は、産経新聞の月刊誌「正論」に出現する回数が高く、そこでも威勢がいい「だけ」の論理を飛ばしまくっていますから。

 それにしても、最近俗流保守論壇の空疎な現代日本人論や若者論が、彼らにしか理解できない共同幻想に基づいているのは、それこそが現代の論壇の行き詰まりを表しているように思えます。その点において、下のブログは必読でしょう。

 ヤースのへんしん:『バーチャル男』萌え

 非常に的確な指摘があります。

 力仕事が中心だった時代を生きてきた「男」にとって、力のいらない時代になり、多くの女性が社会参加をし、能力を発揮しだすと、中途半端な能力ではもう付いていけない、でも、どこかで「男」としての生き方はしたい。そんな気持ちの現れなのかもしれないですね。

 しかし、これらの「男」と「大人」の中身って「孤独」「個人」に集約されてませんか?結局は一人でオタクのように時間を潰すのでしょうか?「萌え」てるわけですね。

 「萌え」の使用法が違うと思いますが、少なくとも、某石原都知事をはじめ(その某都知事に対する批判はこちらを参照してください)、安易にナショナリスト的な言説を振りかざす俗流若者論者の最大の問題点を、ここまで凝縮して言い当てて見せた文章は皆無です。

 週刊!木村剛:[ゴーログ] 「なんとか審議会」は「なんとか」をやっているのか?(木村剛氏:エコノミスト)
 保坂展人のどこどこ日記:小泉語の摩訶不思議、「お互いに反省しよう」(保坂展人氏:元衆議院議員・社民党)

 以前、「俗流若者論ケースファイル13・南野知恵子&佐藤錬&水島広子」で、国会の「青少年問題に関する特別委員会」の議事録を批判したことがありますけれども、この議事録から見えることは、青少年問題に関する言説は、結局のところそれを語る人の社会観、世界観の凝縮である、という気がしてなりません。例えば佐藤錬氏(自民党)は、この特別委員会で、堂々と自己陶酔的な歴史観を述べていたのですから。それ以外にも、例えば最近ベストセラーになっている『壊れる日本人』(新潮社)の著者、柳田邦男氏(ノンフィクション作家)は、現代の青少年の行動(当然、過度に醜悪化、図式化、単純化されたものです)に「ケータイ・ネット依存症」の影を見出し(柳田氏こそが「ケータイ・ネット批判依存症」だろうが、という突っ込みは置いておいて)、曲学阿世の徒・京都大学霊長類研究所の正高信男教授は同様の青少年の行動に「ケータイを持ったサル」というレイシズムを押し付けることによって「日本人の退化」を嘆いてみせた(知性が退化しているのは正高氏ですよね)、スピリチュアル・カウンセラーの江原啓之氏は(この人は、堀江貴文氏よりも格段に「虚業家」ではないかと私は思います)これまた同様の青少年の行動に関して「たましい」(我々が普段使っている「魂」とは違います、あしからず)の劣化した存在とまたレイシズムを押し付けました。結局のところ、俗流若者論を安易に振りかざす人たちは、その社会観の貧しさを如実に表している、いわば、馬脚を現しているのです。このような人たちは、即刻退場していただきたいですね。

 それにしても、「論座」平成17年6月号に掲載された、「自民党議員はこんなことを言っている!」なる、「論座」編集部による自民党改憲派議員の「妄言録」は、読んでいてうんざりします。なぜって、編集部の人たちは気付いているかはわかりませんが、ここに出てくる発言のほとんどが、憲法にかこつけた俗流若者論だからです。近く「俗流若者論ケースファイル30・自民党改憲派議員」として、憲法にかこつけた俗流若者論の問題点を抉り出そうと考えていますが(29回はノンフィクション作家の吉田司氏を採り上げる予定です)、改憲派の中には、「今時の若者」にかこつけた改憲論を自信満々に開陳する人たちがたくさんいます(この中の一人である、ジャーナリストの細川珠生氏に関しては、「俗流若者論ケースファイル31・細川珠生」で採り上げます。「諸君!」平成16年5月号を読んで予習しておいてください)。まあ、彼らにとっては、青少年それ自体よりも、青少年に対する不信感を煽る言説に扇動される人たちのほうが得票数や部数の上昇につながるのでしょうが、私はここで、青少年の不当な「政治利用」を許すな!と言いたい。

 あと、保坂展人氏は、《小泉内閣は「自民党」は壊さなかったが、日本語はブチ壊した》と述べておりますけれども、日本語を壊したのは、小泉内閣だけではありません。俗流若者論も、です。俗流若者論は、その場しのぎのただ過激なだけの言葉を吐いて、無責任に去っていく。そして、そのような過激なだけの言葉は、人々の不安を扇動させるだけさせて、結局現実の青少年を苦しめる。

 ン・ジュンマ(呉準磨)の備忘録:使える論壇誌(笑)
 オピニオン系の雑誌は、その多くが赤字経営であるそうです。しかし、私見によれば、このような雑誌は、たとえ読む人が少数であっても、そこで実りのある言論が展開されていれば、赤字覚悟でも出し続けるという志がなければいけないような気もしています。このような雑誌の存在は、一点突破的になりがちな「世論」を諌めるために一役買う役割を負わなければならないと思います。

 それにしても、この手の雑誌で一番売れている「正論」は、この手の雑誌の中では一番面白くない雑誌です。なぜって、毎号毎号同じような見出しと内容ばかりで、最近は陰謀論まで飛び出している始末ですからね(「俗流若者論ケースファイル25・八木秀次」「俗流若者論ケースファイル28・石堂淑朗」を参照されたし)。特に「世界」や「論座」といった左翼寄りの月刊誌は、既存の枠組みを反芻するのではなく、もっと問題の本質を切り込むような――これについては、「論座」の平成16年4月号の特集における、斎藤環氏と宮崎哲弥氏(評論家)と金子勝氏(経済学者、慶應義塾大学教授)の対談で触れられていましたが――特集をやって、若年層やビジネスマンを取り込むような試みをするべきでしょう。
 ちなみに私の現在のお勧めの月刊誌は、「論座」と「中央公論」です。また、「世界」今月号は、鈴木謙介氏(国際大学グローバル・コミュニケーションセンター研究員)による「若年層の右傾化」論に対する反論と、ジャーナリストの二村真由美氏による江本勝(「水は答えを知っている」などでおなじみの人です)批判につられて、思わず購入してしまいました。月刊誌編集部の皆様、俗流若者論批判と、疑似科学批判は「買い」ですよ。

 お知らせ。以下の文章を公開しました。
 「俗流若者論ケースファイル26・三砂ちづる」(6月3日)
 「この「反若者論」がすごい!02・河北新報社説」(同上)
 「俗流若者論ケースファイル27・毎日新聞社説」(6月4日)
 「壊れる日本人と差別する柳田邦男」(6月6日)
 「俗流若者論ケースファイル28・石堂淑朗」(6月14日)

 また、久しぶりに書評を書きました。トンデモ本の書評ですが。

 柳田邦男『壊れる日本人』新潮社、2005年3月
 title:俗流若者論スタディーズVol.3 ~壊れているのは一体誰だ?~

 初めて全編会話調で書評を書きました。

 もっとも、広田照幸『教育言説の歴史社会学』(名古屋大学出版会、2001年1月)、内藤朝雄『いじめの社会理論』(柏書房、2001年7月)などといった良質な本も多く読んでいるので、そちらの書評も充実させるつもりです。

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2005年6月 6日 (月)

壊れる日本人と差別する柳田邦男

 私が俗流若者論に対して違和感を持つようになったのは高校1年の頃だ。私が高校1年だった平成12年5月、マスコミで「17歳の殺人」が喧伝され、私が世間から殺人者として見られているのではないか、という恐怖心に駆られていた。そして、私が俗流若者論に対して本格的に批判的検証を行うようになったのは、高校2年のとき、17歳になる数ヶ月前であった。最初の頃は、感情論的な「反論」ばかりであったが、大学生になってからは疑似科学批判や俗流若者論が生み出すナショナリズムやレイシズム(人種差別)に対して批判を行なうようになった。

 俗流若者論を読んでいると、吐き気を催すほどの空疎な言葉ばかりが飛び交う。国家、愛国心、日本人、心、伝統、文化、道徳、本質、堕落、失敗、そして崩壊。これらの言葉は、単なる自らの自意識の発露でしかなく、そこから読み取れるのはただ自分だけを肯定した上で若年層をしきりにバッシングしようとする残酷な意識である。

 もちろん、彼らにとっては「正義」なのかもしれない。しかし、その「正義」が現実に生きる青少年にいわれなき誤解をかぶせられ、彼らが亡国の鬼胎として不当に「政治利用」されることを正当化しているのであるから、当の青少年にとっては迷惑千万であろう。

 彼らが「日本の崩壊」を好んで語るとき、限りなく10割に近い人たちが「今時の若者」をしきりに嘆く。しかし、彼らの「憂国」は、所詮はマスコミで興味本位に報じられているような表層的なものでしかなく、マスコミの報道に対して疑ったり、あるいはマスコミが報じないような青少年の「現実」を探り当てようとする人は、この分野においては皆無である。なぜか。そのような試みは地味であるから、たとえ実りのある結果が出たとしても、人々はマスコミの喧伝する「今時の若者」なるバーチャルリアリティーに踊らされている。なので、ほとんどの人が気づかない。

 作家の柳田邦男氏の最新刊、『壊れる日本人』(新潮社)も、所詮はマスコミの「憂国」にただ乗りしたものでしかないのである。なぜ私がそう考えるのかといえば、柳田氏の問題意識が同書のあとがき(217ページ)にこのように記されているからである。

 超一流企業のエリート経営者がなぜあのようなおろかな判断を下したのかと理解に苦しむような企業不祥事が続発する。若者たちが見ず知らずの相手とネットで交信して、ある日あるとき、集合して集団自殺をする。少年や少女による残忍な殺人事件が相次いで起こる。

 この国が変になっている。この国の人々がおかしくなっている。それは確かなことだ。だが、日本人のどこがどのようにおかしくなっているのか。なぜそうなったのか。そう問いかけても、根源にあるものは見えにくく、答を見出すのは難しい。(柳田邦男[2005]、以下、断りがないなら同様)

 極めてデ・ジャ・ヴュに満ちた文言である。この程度の「憂国」言説において、問題視されるのが《超一流企業のエリート経営者》と《若者たち》と《少年や少女》であることはもはや定番としか言いようがない。しかも《なぜあのようなおろかな判断を下したのかと理解に苦しむような企業不祥事》と《集合して集団自殺》にはかなりの飛躍があると思うのだが、柳田氏にとっては同列のものなのであろう。

 なぜか。それは、柳田氏が《この国が変になっている。この国の人々がおかしくなっている。それは確かなことだ。だが、日本人のどこがどのようにおかしくなっているのか。なぜそうなったのか》と語っている通り、これらの問題は柳田氏にとっては日本人の根源において精神構造が崩壊していることの証左だからである。個人や企業構造の問題を解決する前に、一足飛びに「日本人」全体の精神病理として批判してしまうことは、短絡的なナショナリストの常套手段である。

 そして、柳田氏は、このような日本人の精神構造の崩壊をもたらしたものが、《「人間を壊す見えない魔手」「二十一世紀の『負の遺産』は心と言葉にかかわる見えないもの」「IT時代がかかえこむ見えないジレンマ」》であると推測する。もちろん、他のファクターは無視されている。柳田氏は、218ページから219ページにかけてこのように書いている。曰く、

 IT革命による情報化は、言葉の世界に直接的に影響をおよぼす。同時にIT機器とりわけメディアへの長時間の接触と依存は、心の影響を与えないわけがない。とくに子どもの場合は、心の発達と人格形成に影響をおよぼす危険性が高い。いずれにせよ、IT革命という二十一世紀型の科学技術の担い手の「負の側面」は、情報処理やコミュニケーションという見えにくいものによってもたらされ、その結果も、心と見えない世界に生じる現象なのだ。

 極めて興味深い指摘である。特に、柳田氏が《言葉の世界に直接的に影響をおよぼす》だとか《心の影響を与えないわけがない》だとか《心と見えない世界に生じる現象なのだ》だとか、定量化が難しい事例に対してただ憶測だけを重ねて警鐘を乱打していることが(しかし空回りしてばかり)。これは現代における「非社会的な若者」への不安を扇動する言論に共通して言えるもので、「反社会的な若者」が既存の「世間」によって与えられた境界線の枠組みにのっとって反社会的行動をしているのに対し、「非社会的な若者」は既存の境界線の枠組みに関わる行動をしているので、「世間」の境界線を死守するだけの俗流若者論は、彼らを「世間」の枠組みの中に再び囲い込め、としか言うことができない。「非社会的な若者」は、「反社会的な若者」とは違い、不可視的であるから、好きなように不安を扇動することが可能だ。柳田氏は、まさに「不可視的なものに対する過剰な不安扇動」をやってのけている。

 そして、詳しくはこの後の議論に譲るが、柳田氏にとっての「言葉」だとか「心」だとかいった文言は、所詮は「想い出の美化」イデオロギーに満ちたものでしかなく、それが現実の青少年をいかに苦しめるものであるか、ということに対する柳田氏の想像力は、完全に放棄されている。これは、昨今の憲法や教育基本法の改正論にも共通するものでもある。柳田氏は、いつから御用ジャーナリストになったのか。

 以下、柳田氏の著書における、特に問題の多い箇所を検証していくことにしよう。

 ・7~22ページ「見えざる手が人間を壊す時代」…見えざる手が柳田邦男を壊す時代
 7ページにおいて、柳田氏はテレビで見た《東京の山の手の住宅街にある有名幼稚園の話題》について述べる。そのとき、柳田氏は、その幼稚園の多くの子供が高級車で一人一人送られる、という事実に驚愕した。確かに、柳田氏が驚いた理由もわからぬでもない。しかし、柳田氏は8ページにおいて、《子育てに関して、何か凄いことが、この国を覆いつつあるように思えた》と、一つの特殊な事情を持った(柳田氏は8ページにおいて《所得水準の高い過程であるのは確かだ》と言っていたはずだが)幼稚園における情景を元に、日本全体に関して論じてしまうのである。おかしくはないか。

 しかも11ページにおいて、柳田氏は、そのような状況にある現代の子供たちに関して(もちろん、柳田氏の誇大妄想だろうが)《今の子どもはそういう状況の中にあっても、なぜか気が変にならない。いや、実際には変になっているにちがいないのだが、みんなが同じように変になっているので、変であることに気づかないだけのことなのだろう。最近変な事件が頻発しているではないか》とさらに妄想を深化させてしまう。はっきりいって、この短い文章の中に《変》という言葉が繰り返し、しかもなんの躊躇もなく使われていることが、私にとっては恐ろしいことである。しかも《最近変な事件が頻発しているではないか》と書いて、読者の感情に訴える形をとっているけれども、柳田氏はいかなる事件を指してそういっているのか、開示を望む。

 また、柳田氏は、14ページにおいてある疑似科学について好意的に触れる。もちろん、ゲームをやると脳が異常になって、子供たちの社会性の発達を阻害する、という「ゲーム脳」理論だ。この理論に対する論理的検証、さらに思想的な検証は、精神科医の風野春樹氏が行なっているのでそちらを参照してもらうとして(風野春樹[2002])、柳田氏が、「最近の子供たちは異常だ」という一点張りでこの問題の多い「ゲーム脳」理論を信奉していることが恐ろしい。しかも、15ページから16ページにかけて、科学的検証など無用だ、と開き直っているのだからさらに戦慄する。

 その上17ページにおいて、柳田氏は、次のように述べている。

 そこで私は情報環境の変化に焦点をあてて考察しているのだが、テレビやゲームはバーチャルリアリティ(仮想現実)の世界だ。ところが、社会生活の経験が少なく、情報への批判力もない子どもが、毎日長時間テレビを見たりゲームにふけったりしていると、その子にとっては、仮想現実の世界と現実の世界の区別がつかなくなるばかりか、やがて仮想現実の世界のほうに現実味を感じるという逆転現象が起きてくる。そういう点で“先駆的”と言える世代が、すでに二十代になっている。

 で、柳田氏がその証左として17ページから18ページにかけて述べているのが、結局のところ《若い女の子》の行動。当然、私は腰が抜けた。柳田氏にとっては、その行動が《脳が仮想現実の世界から抜け出していない、つまり自宅のソファーでテレビを見ているのと同じ感覚で電車に乗っているからだととらえたほうが納得できる》のだそうだ。柳田氏は、ここまでわけわからずのアナロジーでも、相手が「今時の若者」ならば通用するとでも高を括っているのか。いい加減、マスコミが興味本位で採り上げたがる「今時の若者」の「問題行動」から、空疎な「時代の病理」を読み取って悦に入ることをやめてはくれないか。

 当然の如く、柳田氏は、20ページから21ページにかけて、平成12年の佐賀のバスジャック事件にかこつけて、《本来なら心の中だけの幻想で終わってしまうこういう想いを、仮想現実で終わらせないでそのまま現実世界に持ち込んでいく。「バーチャルな多重人格」においては、仮想現実が現実世界を圧倒してしまうのだ》と平気で論じてしまう。マスコミと俗流若者論によって意図的に捏造された仮想現実が、現実世界を圧倒しているのは、柳田氏のほうであろう。

 ・23~39ページ「広がるケータイ・ネット依存症」…「敵」はどこにいる?
 この章において、柳田氏は明確に携帯電話とインターネットを「敵」として「発見」する。柳田氏は、25ページにおいて、壮大な差別言説を開陳してしまっているのである。

 私などの目から見ると、今時の若者たちは気の毒だなと思う。ファミリー・レストランなどに入ると、あちこちの席に若い男女の二人連れが座っている。ところが、お互いに顔を見つめ合って話しにはずみをつけているカップルは、少ない。何をしているのかと思って見ると、二人がそれぞれに手許のケータイでピコピコとやっている。私はそういう若者たちを不思議な動物だなと思うのだが、若者たちはいまや総ケータイ依存症になっているから、自分たちを変だとは思わない。

 ここまでひどい差別はあるまい。何せ、柳田氏にとっては現代の若年層は《不思議な動物》、すなわち人間以外のものとして認識されているのだから。これは明白なレイシズムであろう。いつから柳田氏はレイシズムを許容するようになったのか。しかも《若者たちはいまや総ケータイ依存症になっているから、自分たちを変だとは思わない》と、検証もなしに自らの思い込みだけでものを語ってしまっているのだから、救いようがない。もう一つ、このようなことが、どこまで広がっているのか、ということについて、柳田氏は検証したのだろうか。

 このような態度だから、柳田氏は《ビジネス界の「人の砂漠」》(26ページ)だとか《患者の顔を見ない医師》(28ページ)も、全て携帯電話とインターネットのせいにしてしまえるのである。

 笑ってしまったのは32ページで紹介されている「事例」だ。曰く、聴診器と間違えてパソコンのマウスを患者の胸に当てようとしたという。このような事例は、患者にとっては「しっかりしてくださいよ」と言いたくなるような単純なミスであるし、単にこの医者がおっちょこちょいだった、という可能性もある。しかし柳田氏にとって、こんな些細なことですらも《コンピュータ化時代ならではの問題点が見えている》のだそうだ。では聞こう。もし、ここで間違って患者の胸に当ててしまったのがメモ帳とか文鎮だったら?柳田氏は口が裂けても《コンピュータ化時代ならではの問題点》などとは言うまい。結局、柳田氏の問題意識は、この程度のものでしかないのだ。それ以外にも、柳田氏は、36ページにお