2008年1月17日 (木)

(宮台真司への)絶望から始めよう――「現代の理論」発刊に寄せて

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 EU労働法政策雑記帳:現代の理論
 西野坂学園時報:2008年巻頭言 日本経団連と新自由主義に裁きの鉄槌を
 女子リベ  安原宏美--編集者のブログ:「少年法の改正と児童福祉の課題」
 今日行く審議会@はてな:流されないこと

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 「現代の理論」(明石書店)平成20年新春号に、私の書いた文章「さらば宮台真司――脱「90年代」の思想」(pp.100-109)が掲載された。今回は、この文章について、著者自身による若干の解題を書いてみることとしたい。

 まず、この文章が掲載されたいきさつであるが、実をいうと件の論考は、編集部から頼まれて執筆したものではなく、自分で書いてみた文章を売り込んだものだ。というのも、平成19年8月、このブログにおいて「俗流若者論ケースファイル85・石原慎太郎&宮台真司」という文章を書いて、そもそも我が国の若者論にとって宮台とはいかなる存在であったか、ということを考えずにはいられなかったからだ。そこで私はかつて収集していた宮台の若者論を改めて読み直し、そして分析を加えてみた。そしてそれを様々な雑誌や知り合いの編集者に売り込んだのである。

 売り込む過程で、様々な人から様々なアドバイスをいただいた。また元の原稿を見せた編集者がまた別の編集者に読ませたりということもあった。そんな中、幸運にも、売り込んだ雑誌の一つであった、「現代の理論」の編集部の方から、文章を掲載させて欲しいとの連絡があり、私は早速それに応じた。まず、私のつたない論考を掲載することを認めてくださった編集部の方に、この場を借りてお礼を申し上げたい。

 さて、本題に入ろう。本稿のタイトルは、ずばり「さらば宮台真司」である。そもそも宮台は、平成6年の、いわゆる「ブルセラ論争」によって、若年層の「味方」、あるいは「理解者」「代弁者」としての地位を築いた。宮台は当時から、若年層における「道徳観の低下」という言説を批判し、若年層の道徳は壊れているように「見える」だけで、それはむしろ世間などの「大きな物語」が消えたからだ、という論陣を張っていた。

 そのような傾向は、平成7年、オウム真理教の事件より加速する。宮台は「終わりなき日常」を連呼していた。そこで比較されたのは、「オウム信者」、すなわち強迫観念的な「さまよえる良心」を持ち、その「良心」故に大事件を起こすようなものと、「女子高生」、すなわち「オウム信者」が抱えているような大変革への願望を持たず、「終わりなき日常」を「生き抜いている」ものであった。宮台は、前者を否定し、さらにオウム事件における評論家たちの言説をも否定し、後者を肯定した。

 このような論理が展開されているのは、「オウム完全克服マニュアル」という壮大なサブタイトルがつけられた、『終わりなき日常を生きろ』(ちくま文庫)である。さらに、同書の文庫版あとがきには、宮台の「勝利」が宣言されていた。具体的にいえば、「女子高生」的なものが蔓延することによって、「オウム信者」的なものが生きづらくなり、その「救済」をしなければ大変なことになる、というものであった。

 事実宮台は、平成9年の「酒鬼薔薇聖斗」事件の直後、『まぼろしの郊外』(朝日文庫)や『透明な存在の不透明な悪意』(春秋社)、『学校を救済せよ』(尾木直樹との共著、雲母書房学陽書房)などで、「専業主婦廃止」などの「救済」プログラムを打ち出した。

 だが、宮台は、ここで若年層を見誤っていなかったか。例えば『終わりなき日常を生きろ』で採り上げられている事例も、実のところ実証性というものはなく、ただ自分の身の回りのインタヴューくらいでいろいろと妄想を構築しているものであったし、少年による凶悪犯罪も1960年代に比してはずっと少ないし、「酒鬼薔薇聖斗」事件が本当に宮台のいうような性質のものであったかということもわからない。この手の事件は、それ以降はほとんど起こっていないからだ。

 そればかりではない。宮台はのちに、平成8年頃より、いわゆる「援助交際」に関するフィールドワークを辞めた、と公言している(『制服少女たちの選択』(朝日文庫)文庫版あとがき)。宮台にとって平成8年頃は《「とてもポジティブな時代」》が《終わった》(宮台真司[2006]p.395)ものであり、さらにその時代以降の「援助交際」女子高生は《私にとってのエイリアン》(宮台真司[2006]p.397)であると公言してすらいる。

 思えばこの時期あたりから、宮台の言説は実証性をかなぐり捨て、若年層に対する突飛なイメージをひたすら煽り続けるようなものに変貌していた、といえるかも知れない。宮台が教育政策などとの忖度をろくに行なわずに、簡単に「救済」などと述べるようになったのも、宮台にとって若年層が「理解可能」な存在でなくなったことが原因といわざるを得ない。もちろん、変わったのは若年層というよりも、宮台の若年層に対する見方である。

 そうなれば、宮台が平成10年頃より連呼するようになる「脱社会的存在」なるテーゼも理解できようというもの。宮台が安易な「社会防衛」に走ったのも、結局のところ宮台が若年層をモンスターとしてしか捉えていなかったことの証左なのである。なお、「現代の理論」文中ではスペースの都合上で触れられなかったが、この部分は芹沢一也の『犯罪不安社会』(浜井浩一との共著、光文社新書)での分析に大いに触発されている。ただ私の視点が芹沢と違うのは、芹沢が少年犯罪に対して寛容さを失っていく社会を掘り下げていくのに対し、私はその後の宮台の言説がいかに実証性に欠けているものであるか、ということを証明している。

 例えば、平成19年3月に出された鼎談本である『幸福論』(鈴木弘輝、堀内進之介との共著、NHKブックス)の以下の記述を見てみよう。

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 ところがどうしたことか(笑)、偏差値七〇以上の大学でも学力はどんどん落ちているし、「人間力」にいたるとベキ乗くらいの速度で落ちている。分かりやすく言えば、「こいつはすごい」と思う人間に出会う可能性が十分の一以下に減った。それは間違いありません。(宮台真司、鈴木弘輝、堀内進之介[2007]p.35)

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 ギャグでいっているのだろうか。そもそも宮台はこのようなことを示すデータを一つも示していない。それどころか「人間力」などという(客観的な評価が不可能故に判断基準にするには極めて問題の多い)言葉を安易に用いているのだから、その言説のレヴェルはたかが知れているところだろう。結局のところ宮台のいっていることはいわゆる「ニセ科学」に他ならない。「ニセ科学」というと自然科学系のものを我々は想起しがちだが、宮台のような社会科学系のものにも注意を支払う必要がある。

 それにしても宮台の最新のインタヴューである「出でよ、新しき知識人  「KY」が突きつける日本的課題」(「現代」平成20年2月号にも掲載されている)を読むと、いかに宮台が自らのやっていたことについて反省していないかということがわかる。例えば、

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 全体性を知らないエキスパートからは「善意のマッドサイエンティスト」が多数生まれます。自分が開発したものが社会的文脈が変わったときにどう機能し得るかに鈍感なエキスパートが、条件次第では社会に否定的な帰結をもたらす技術をどんどん開発していきます。(以下、断りがないなら全て「出でよ、新しき知識人  「KY」が突きつける日本的課題」からの引用)

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 私の見る限りでは、これは明らかに宮台のことである。なぜなら宮台は、平成9年頃、それこそ全体性など無視して若年層の「救済」「サルベージ」などを語り、舌の根の乾かぬうちに「脱社会的存在」などと不安を煽ったからだ。

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 不安はマスメディアにとっての最大のエサです。潜在的な不安があれば、不安を煽って視聴率を増やす戦略をとります。その結果、犯罪が増えていなくても、人々の不安だけが膨らむことになります。その延長線上に重罰化や監視カメラを要求する世論が盛り上がります。

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 「冬枯れの街」のエントリー「恐怖、この思念凝結兵器さえあればこの先千年を経てもなお統べる事ができよう!内在する恐怖によって~宮台転向記念碑~」でも突っ込まれているとおり、平成10年頃から若年層に対する不安を散々煽ってきたのも宮台である。

 嗤うべきところは他にも多数あるので省略するけれども、我々は、宮台こそが若年層に対する不安を煽り続け、そして統計やデータ、及び科学的な検証によらない青少年言説を発信し続けてきた、ということを正しく認識すべきではないだろうか。そしてそのような言説が許されてきた「90年代」という時代の若者論についても、はっきりとノーを突きつけなければならないだろう。

 そもそも90年代の若者論とは、青少年「問題」の肥大化と、青少年をめぐる解釈合戦によってその「問題」をバブルの如く大きくしていたような議論に他ならない。その中心にいた一人が、間違いなく宮台であった。今はそのような不安を鎮静させるのが先決でないか。そうしなければ、それこそ教育基本法の「改正」や、教育再生会議、あるいは種々の青少年「対策」のような、根拠のない不安に裏付けられた政治の動きを止めることはできないだろう。

 ところで宮台は、こうも述べている。

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 ちなみに、文脈を参照して内容を割り引くことを「批判」と言います。批判というと日本では攻撃と勘違いされがちですが、違います。批判とは、隠されていた前提を明るみに出し、前提を取り替えると成り立たなくなることを証明して見せる営みのことを言うのです。

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 私の論考が、宮台の《前提を明るみに出し、前提を取り替えると成り立たなくなることを証明して見せる営み》となれば、著者としてうれしいことこの上ない(苦笑)。

 引用文献:
 宮台真司『制服少女たちの選択』朝日文庫、2006年12月
 宮台真司、鈴木弘輝、堀内進之介『幸福論』NHKブックス、2007年3月

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2007年7月15日 (日)

平成19年参院選マニフェストにおける青少年政策の評価

Sentan2007natu  (「選挙たん(仮)」は、サイト「選挙に行こう」のマスコットキャラクターです)
 (この記事においては、公職選挙法の規定に基づき、特定の候補者の名前を出すことは控えております。従って、この記事は、特定の候補者を支援、または批判する「文書図画」にはあたらないものと私は考えます)
 参考:公職選挙法について

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 フィギュア萌え族(仮)犯行説問題ブログ版・サブカル叩き報道を追う:「自虐的オタク観」を正す:6・30アキハバラ解放デモに寄せて
 冬枯れの街:【祝】13日の金曜日~人を呪わば穴いくつでも掘る覚悟を!~

 さて、参院選の公示が出され、ついに選挙戦に向けて各党が動き出すこととなったが、各党はマニフェストという形で、自らの党が進める政策を公約として広報している。また、それについて、例えば「言論NPO」などのように、総合的、あるいは各論的に評価するような動きもあり、あるいは私の所属している「POSSE」などは、どの点に注意して読むべきか、ということを提示している(「style3的マニフェストチェック」)。

 私も、前回の衆院選に引き続き、青少年言説を検討してきた立場から、青少年に関わる政策の記述(教育、若年雇用など)を検討していこうと思う。今回は、以下の政党のマニフェストを対象とする。なお、今回は、都合により、前回行なった全体の感想の比較を割愛することとする。

 自由民主党(以下:自民)
 http://www.jimin.jp/jimin/jimin/2007_seisaku/kouyaku/index.html
 公明党(以下:公明)
 http://www.komei.or.jp/election/sangiin07/policy/index.html
 民主党(以下:民主)
 http://www.dpj.or.jp/special/manifesto2007/index.html
 社会民主党(以下:社民)
 http://www5.sdp.or.jp/central/seisaku/manifesto07s.html
 日本共産党(以下:共産)
 http://www.jcp.or.jp/seisaku/2007/07saninseisaku/index_kobetsu.html
 国民新党(以下:国民)
 http://www.kokumin.or.jp/seisaku/senkykouyaku.shtml
 新党日本(以下:日本)
 http://www.love-nippon.com/manifesto.htm
 共生新党(以下:共生)
 http://www.kyoseishinto.org/p/21

 1. 教育
 1.1 総論および評価軸
 「教育」についてもう長い間とやかくやかましく言われ続けているけれども、特に政策としての教育を語る上でもっとも大事なことは、その政策が本当に(できるだけ)客観的な事実に基づいているか、あるいはそれを推し進めるための根拠は何か、ということである。従って、例えばマスコミで採り上げられるような極端な事例を、さも全体を代表する例であるかの如く取り扱って、それで政策を構築してしまう、というのは、はっきり言うが非常に度し難いこととしか言いようがない。

 ところがそれを平気でやらかしてしまう人たちがいる。それが、かつての教育改革国民会議であり、また今の教育再生会議である。特に後者に限って言うと、まず人選からして教育学の専門家を入れようとする気配はなく(準専門家といえるような人だって品川裕香くらいである。大学関係者にしても、小宮山宏と中嶋嶺雄がいるけれども、彼らが教育学に付いてある程度精通しているとは思えない)、せいぜいメディアで話題になった人たちとか、あるいは政府と結びつきの強い財界人ばかりである。こんなところに教育政策についてまともな議論を要求する方がおかしいのかもしれない。

 とはいえ、仮に政権交代が起こり、この「会議」が解散させられたとしても、また同じようなものが結成される可能性もないとは言えない。そもそも我が国の「教育」政策自体、何回も何回も「改革」の必要性が叫ばれ続けたけれども、それによって教育現場の状況が改善されたとはとても思えないし、昨今のものに関しては、一部の事例をわざと社会的な大問題にでっち上げて、自分で処理する(あるいは「処理する」という態度だけを示す)という、いわばマッチポンプのようなものさえも感じてしまう。

 さて、この項目に関する評価軸であるが、何よりもまず金銭的な問題、つまり支出や予算の量、あるいはそれを調達する手段について触れられているからである。これに関しては、既に「言論NPO」の評価が既に示しているとおり、少なくとも主要な政党(自民、公明、民主)は、一貫してそれについてほとんど触れられていない(そして、ここで評価する他の政党、つまり社民、共産、国民、日本、共生も同様であった)。というわけでこれは評価軸から除外する。次に私が必要だと考えるのは、主張する政策を推進するための理由である。これについては、民主、共産が明記している。共生はほとんど理念だけで、他の政党は政策だけ。とりわけ政権党である自民と公明が、政策を推進する「理由」から逃げているのはどういうことであろうか。

 1.2 評価
 それだけでなく、自民と公明の、教育に関する記述は、かなり通俗的な青少年言説に潤色されている。例えば自民については、《子供たちに「確かな学力」を約束するとともに、規範や礼儀を教える。学校評価を一層推進し、教育水準の向上を目指す》(自民、「008. 「確かな学力」と「規範意識」の育成」)とさらりと書いているけれども、まず子供たちの規範意識は本当に低下したのか、ということから検証されて然るべきだろうし、それについては多くの側面から疑問が突きつけられている(とりあえず、浅野智彦[2006]くらい読んでください)。また《国民の心と体の健康を守り、豊かな人間性を形成し、健全な食生活を実現するため「食育基本法」に基づき「食育」を推進する。「食事バランスガイド」を活用した「日本型食生活」の普及や「教育ファーム」等の農林業体験活動や地産地消を進め、「食育」を国民運動としてさらに展開する》(自民、「047. 「食育」-食べる・つくる・育む-」)などと書かれているけれども、まず本当に「食育」なるものの必要性が見えてこないし(食の安全に関する消費者教育ならともかく)、なぜ「日本型」に限定するのかもわからない。

 公明党だって負けていない。《すべての小学生が農山漁村で一週間以上の体験留学ができる機会を提供します。これにより、子どもの豊かな心を育み、地域コミュニティの再生に貢献します》《すべての小・中学生に少なくとも年一回、本物の文化芸術に触れさせる機会を提供します》(以上、公明、pp.22)などと書いているけれども、前者については、本当にそんな《体験留学》で《子どもの豊かな心を育み、地域コミュニティの再生》ができるのか、というよりもそもそも子供の心が貧しくなっているのか…というところが突っ込みどころであるし、同じページにおいては学生全員に奨学金を貸与する、と書いているが、どうせなら学費の全額免除くらい主張してください。というよりも、何で公明って、これほどまでに奨学金にこだわるのだろう。

 与党に負けない電波ぶりを発揮しているのが国民である。《先進国並みの教育費を確保するとともに、教員数を大幅に増やし、きめ細かな学校教育を展開する》(国民)はともかく、《ゆとり教育を抜本的に見直し、人間力を鍛える教育および基礎教育の充実を図る》(国民)などといわれた日には、正直ここに投票する気が失せてしまう。今更「人間力」はないだろう(この概念の不気味さについては、本田由紀[2005]を参照されたい)。それだけでなく《学校教育において、時代に見合った道徳教育を充実し、公共の精神の涵養を図る》《広く伝統文化に接する機会を増やすことにより、国民意識・愛郷心の育成を図る。また、「美しい日本語」の普及に取り組む》(国民)とも書かれている。「美しい日本語」をマニフェストに取り込むなんて、自民すらやっていないよ。

 民主の主張にも、自民、公明、国民に比較すればマシだけれども、それでも一部に疑問は尽きない。例えば高校や高等教育の無償化を主張しているけれども(民主、pp.24)、これについては財源が明記されていない。ただし、根拠として国際人権規約を挙げていることと、漸進的な推進とすることは明記している。高等教育については、民主はかなり明確かつ鋭い主張をしているけれども、初等教育については、「学校教育力の向上」が謳われているのみ。さらに、ここについても「コミュニティの再生」だとか、あるいは《教員の養成課程は6年制(修士)とします》(民主、pp.24)などと主張しているのが気がかりである。そもそも教員養成について、本当に修士でなければならない理由があるのだろうか(なお、いわゆる「教職大学院」の問題については、「今日行く審議会@はてな」の記事「日本に教職大学院なんていらない」と、佐久間亜紀[2007]を参照されたい)。

 もっとも評価できるのが共産であったが、やはり「政権党への批判は鋭いが、オリジナルの主張はあまり強くない」という、共産のマニフェストに特有の弱点が目立った。まず、《日本政府は国連・子どもの権利委員会から2度にわたって「高度に競争的な教育制度」の改善を勧告されています》《日本の教育予算の水準はOECD(経済開発協力機構)加盟国30カ国のなかで最低で、教育条件は欧米に比べてもたいへん貧困です》《すでに「いっせいテスト」とその公表をおこなった自治体では、「テスト対策のため文化祭や林間学校を縮小・廃止した」、「できない子どもを休ませた」、「先生が答案を書き換えた」など深刻な問題がおきています》(共産、「【14】教育問題」)という批判は実に痛快だし、また正当性もある。ところが主張については、《また「徳育」を「教科」にして特定の価値観を子どもたちに押しつけようとしています。しかも、安倍首相が押しつけようとしている価値観は、軍国主義を肯定・美化する戦前の価値観です》《憲法と教育条理に基づいた教育を追求します》(共産、「【14】教育問題」)などの「おなじみ」の文言を読んで、正直言って萎えてしまった。

 とりあえず改正後の教育関連の法令について言えることは、それらが「金は出さないが口は出す」(しかも、かなりうるさく)というものであり、それがますます教育現場の閉塞性を高めるのではないか、ということであり、それについては広田照幸や苅谷剛彦などの専門家が前々から主張してきた。この点を前面に押し出せばいいものの、残念でならない。

 なお、社民は基本的には「学校の教育力」に関する記述を除けば民主とほぼ同じで、日本は30人学級の推進を明記するにとどめている。共生の理念については、仰々しく構えているけれども、いざどのような政策をとるのか、ということについては見えてこない。あと、こういう記述があったのが笑えました。

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 又、英国の王立建築家協会が実施した調査では、すばらしいデザインの学校では不登校生は発生しにくく、教育効果は絶大であると結論づけている。(2007年国立新美術館における英国王立建築家協会会長の講演)病院でもデザインの良い病院では、患者の回復が早いことが分かっています。(共生)

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 さすがというか、なんというか…。

 2. 若年雇用
 2.1 総論および評価軸
 この分野については、平成17年の総選挙に比して、論じる環境が大きく変わった。まず、平成18年頃より積極的に採り上げられるようになった「偽装請負」「ワーキングプア」などの用語に代表されるような問題や、あるいは正社員と非正規雇用者の(賃金や待遇などの面での)格差、そして若年層における貧困の進行。期せずして起こったグッドウィル・グループやそこを牛耳る折口雅博のスキャンダル、そしてフルキャストやグッドウィルのユニオンによる運動、そしてそのほかの若年層による労働運動があったりと、本当に論じるべきことは何か、ということが少しずつ見えつつある(とりわけ派遣をめぐる問題については、奥野修司[2007]を参照されたし)。

 とはいえ、財界側も負けてはおらず(?)、「偽装請負」問題の渦中にあるキヤノンの御手洗冨士夫などは、「偽装請負」さえも合法化しようとするように働きかけているという。そしてそれをほとんど野放しにしてきたのが自民党というわけであるが、そのような状況をいかに評価するのか、という基軸が必要であろう。

 2.2 評価
 とりわけこの分野をめぐる問題について、特に私が重視されるべきであると考えるのが、いわゆる「就職氷河期」問題であるが、これについて明記していたのが、民主(pp.24)と社民であった。とはいえ両党とも、行なう施策としては主として職業教育やキャリカウンセリングが中心であり、果たしてそれが氷河期世代問題を解決するために必要なのか、という疑問が起こる。

 とはいえ、主要な野党3党(民主、社民、共産)は、待遇の格差の改善や、労働条件の向上などに積極的な姿勢が現れており、ここは評価できる。民主は、主として新しい法制度を提出することによって派遣や請負を規制し、また労働条件の向上を行なう、という姿勢である。もちろん、最低賃金の引き上げも主張している。行なうのは段階的だという(以上、民主、pp.23)。社民も、民主と方向性は同じである。ただし、長時間労働や残業代の不払い、あるいは派遣労働者を使用することができる職域の縮小などは、民主にはない主張である(社民、「なくせ 働く格差」)。共産はかなり熱心で、全ての政党で唯一「偽装請負」という言葉を使用している。また《ILO「雇用関係に関する勧告」(198号)を活用し、請負や委託で働く労働者を保護します》(共産、「【3】労働・雇用」)と、法的な根拠も明記している。国民も、正規雇用率の基準を設けることや、非正規雇用者の健康保険の加入の義務化を主張している。

 与党というと、これについてはかなり及び腰というか、従来の主張を繰り返しているだけという主張を受ける。まず自民は、「081. 働く人の公正な処遇に向けた取組みとパート労働者の待遇改善」で一応記述されているけれども、どうも時流に合わせて適当に付け足した印象しか受けない。他方で自民は、高齢者の再雇用については大変(?)熱心なようで、「077. 団塊世代を活用した「新現役チャレンジプラン」の創設」「078. 団塊世代の意欲や活力を活かし、その技能・技術を次世代に継承できる仕組みづくり」「079. 高齢者の活躍の場の一層の拡大」と3つの独立した項が設けられている(なお、就職氷河期世代問題を中心とする若年雇用の問題については、宮島理[2007]などに詳しい)。公明は、とりあえず職業教育でもやっていればいい、という感じだった。若年層の雇用を拡大する、といっているけれども、どのような手段を用いるか、ということは明記されていない(あとのほうに書いてある、中小企業の支援によって雇用を創出する、というのがそれに当たるのかもしれないが。公明、pp.19)。

 結論からすれば、とりあえず若年雇用に関わる問題を考慮に入れて投票する場合、自民や公明には絶対に入れてはいけない、ということが明らかになった。これだけでも一つの収穫だろう。

 3. メディア規制、「青少年健全育成」、少年犯罪
 3.1 総論および評価軸
 橋本健午による研究(橋本健午[2002])などに見るとおり、戦後の我が国においては、一貫して、まず何らかの青少年問題が「発見」され、それについて特定のメディアが敵視され、それに対する「善良な」市民や親たちによる規制が求められ、そして業界が自主規制に踏み込む、などというサイクルが行なわれ続けてきた(戦前にも、小説を規制せよ、という声があったようだ)。与野党問わず、一部の政治家の間には、それでもまだ足りない、もっと規制すべきだ、という声があるようだが、私はむしろ、このような不毛な歴史の流れを止める方向に行くべきだと考えている。なぜなら、感情的な対応によって規制される分野が、これ以上増えて欲しくない、と考えているからだ。昔も今も、規制を求める側の主張は変わらない。

 3.2 評価
 とりあえずこの分野については、もう電波の嵐で、笑いました。これについての記述があったのは、自民、共産、国民。まず、民主は既にマニフェストから引っ込めたメディア規制について、共産はいまだに主張している。

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 雑誌やインターネット、メディアなどには性を商品化するような写真、記事、動画などが氾濫しています。女性を蔑視し、人格をふみにじる文化的退廃を許さず、人権尊重の世論と運動をひろげます(共産、「【18】男女平等」)

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 まるで自民のマニフェストでも読んでいるかの印象である(笑)。《性を商品化するような写真、記事、動画》が何をさすのか、ということについてまず明記しなければならないだろう。とりあえず、まず実在の児童に対する性的虐待、及びそれの記録物については厳しく規制されるべきだが、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いとまでに性的なものを全面的に規制するのはよくない(それこそ、春画も規制しろ、といった「バーチャル社会のもたらす弊害から子どもを守る研究会」の某氏みたいに)。ちなみに日弁連は、児童ポルノについて、以下のような見解を示している。

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 目にあまる児童ポルノコミックは、刑法のわいせつ物陳列、頒布、販売罪の構成要件該当性が検討されるべきであり、本法の対象とすべきではない。

 児童ポルノコミックの現状には、放置できないものがあるとの指摘はもっともである。しかし本法の保護法益は、実在の子どもの権利である。児童ポルノコミック規制を本法により行うことは、本法の保護法益を、刑法のわいせつ物陳列、頒布、販売罪の保護法益である「善良なる性風俗」に対象範囲を広げることになる。これは本法の目的をかえって曖昧にし、子どもの権利保護の実施を後退させる危険をはらむ。

 また児童ポルノコミック規制により、児童の性的搾取、性的虐待が減少するという証明はない。

 ポルノコミックにおいては、被害を受けた実在の子どもがいない。芸術性の高いコミックやイラスト、小説と、規制すべきとするポルノコミックとの線引きには困難な場合も想定され、いたずらに表現の自由を侵害する危険がある。目にあまるものについては、刑法のわいせつ物陳列、頒布、販売罪の構成要件に該当するか否かの検討をする余地はあるとしても、本法の対象とすべきではない。実在の子どもがモデルとなっていると推定されるようなコミックが存在するとするなら、名誉毀損罪等、他の犯罪として処断されるべきである。

 「子どもの売買、子ども売買春および子どもポルノグラフィーに関する子どもの権利条約の選択議定書」にも、コミック規制を義務づける条項はない。

http://www.nichibenren.or.jp/ja/opinion/report/2003_09.html

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 続いては自民。

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 健全な青少年を育成する社会の構築をめざし、「青少年育成施策大綱」等に基づき、青少年の育成に係る施策を総合的・効果的に推進し、若年層の職業観・勤労観及び職業に関する知識・技能の育成等を図るためキャリア教育等を一層推進する。また、非行や犯罪被害、有害情報から子供たちを守るため、「子ども安全・安心加速化プラン」に基づく関連施策を一層推進する。(自民、「009. 青少年の健全な育成」)

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 その前に、まず犯罪統計や、労働に関する統計くらい読んでくれ。そうすれば、いかに自分のやっていることが確かな根拠に基づいていないかわかるから。

 最後に国民。

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 今日的な武士道精神や礼節を実践する個人や団体を表彰するため、日本版の「フェアプレー賞」を創設する。(国民、「5 規律とモラルを重んじる教育の実現/【健全な青少年の育成】)

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 藤原正彦か!

 4. 子育て、幼児教育
 4.1 総論および評価軸
 赤川学は、その著書『子どもが減って何が悪いか!』(ちくま新書)において、女性の雇用が進んでいる国は子供もたくさん生まれてくる、という認識を喝破している。しかしながら赤川は、それでも男女雇用機会均等などの政策は必要である、と主張している。これは子育てに置き換えても成り立つのではないか。要するに、「少子化対策」のために子育て支援を行なうのは嘲笑の的でしかないが、それでも子育てに対する支援は必要である、と。例えば育児休業などの制度の整備は、漠然とした「少子化対策」のためではなく、その家族のためにこそ必要なのではないか。ところが、この認識に立つマニフェストは、それほど多くはなかった。

 また最近においては児童虐待の問題がよく採り上げられるけれども、これについてはかつても何回か採り上げられてきた経緯があり、どちらかといえば社会的な文脈において「発見」されてきたという側面のほうが強いのではないか(事実、児童虐待「増加」「急増」の証拠として用いられるのは、児童相談所に対する相談の件数ばかりである。これについては、むしろ暗数の発掘と見たほうがいいのではないか、という見方も成り立つ)。また、虐待と貧困などの関係性も論証されており、ひとり親に対する罰則の強化や、あるいは監視の強化にとどまる問題ではないことも、認識すべきだろう(詳しくは、上野加代子[2006]に収録された論文を参照されたい。また、「女子リベ  安原宏美--編集者のブログ」の「家と貧困」)。

 4.2 評価
 これについては、多くの正当が大体足並みをそろえていたので(例えば「子育て基金」の設立など)、あまり比較して評価するようなものではないかもしれない。この分野では、公明の以下の記述の電波ぶりを紹介しておけばいいだろう。

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 児童虐待、育児放棄などを未然に防ぐため、「親学習プログラム」を推進し、親自身が育児を学ぶ環境を整えると共に、里親制度や児童養護施設の拡充を図るなど被虐待児の保護及び自立支援のための施策を拡充します。(公明、pp.8)

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 《親学習プログラム》って…。ああ、この教育万能主義、本当に笑える。第一、昨今の児童虐待「増加」というのは、それが何回も繰り返されてきた「発見」の繰り返しでしかないし、そんな「プログラム」を学んで虐待が減少するのかはなはだ疑問だし、そもそもどんな「プログラム」なのか、公明は公開する責任がある。あ、もしかして、「教育再生」を全力で訴える、自民党の某議員が落選したときの再就職支援ですか(笑)?

 5. 結語
 今回マニフェストを検討してみたのだが、どうも全体としてつまらないというか、そんな印象を受けたような気がする。どうせならもう少し力を入れて欲しかった。まあ、私が争点となっている年金や社会保障の問題について少ししか目を通していない、ということもあるのかもしれないし、また(あくまでも想像だけれども)青少年問題はあまり票にならない、という通念があるのかもしれないが。

 とはいえ、どの政党であれ、こんなことを話してどうかという気持ちはあるけれども、もしこの選挙で負けた場合、いかに敗因を読み解くか、ということが重要になってくると思う。一昨年の衆院選においては、野党が大敗を喫したとき、政党自身はともかく、その政党の考えに近い自称「知識人」たちが、「B層」などといって、若年層をバッシングした。ちなみにこの「B層」という言葉は、自民党がマーケティングのために勝手に捏造した言葉である。それに便乗して若年層をバッシングするなど、恥ずかしくはないのか。

 おそらく(信じたくはないけれども)自民党が勝つという結果となれば、またぞろ若年層に対するバッシングが起こるかもしれない。だが、自らの反省を抜きにして、問題を「叩きやすい」若年層に押しつけるなど、言語道断だ。今回も、どうせ自民が勝ったら、「左派」は、若年層の投票率が高かったら「若者が安倍晋三を支持した」とわめき、低かったら「若者が行かなかったから負けた」とわめくのだろう。

 というわけで予防線を張っておく。「B層」って言うな!

 参考文献
 浅野智彦(編)『検証・若者の変貌 』pp.191-230、勁草書房、2006年2月
 橋本健午『有害図書と青少年問題 』明石書店、2002年12月
 本田由紀『多元化する「能力」と日本社会 』NTT出版、2005年11月
 宮島理『就職氷河期世代が辛酸をなめ続ける 』洋泉社、2007年3月
 奥野修司「「悪魔のビジネス」人材派遣業」、「文藝春秋」2007年6月号、pp.275-285、2007年5月
 佐久間亜紀「誰のための「教職大学院」なのか――戦後教員養成原則の危機」、「世界」2007年6月号、pp.123-131、2007年5月
 上野加代子『児童虐待のポリティクス』明石書店、2006年2月

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2006年3月11日 (土)

罪人よ、汝の名は「若者」なり――平成18年2月15日TBS「緊急大激論SP2006!」への疑問

 この文章は、ある雑誌に投稿して、番組の性格上載せることができない(シリーズではなく単発の番組なので、定量的な検証ができない、ということ)、とその雑誌の編集部から連絡をいただいたもので、従ってここで公開することとします。この文章は、平成18年2月15日にTBS系列で放送された番組「緊急大激論SP2006!“子供たちが危ない”全国民に喝!」を批判したものです。

 公開に当たって、以下のブログにトラックバックを送っておきます。

 この番組を直接採り上げたブログ:
 あなたの子どもを加害者にしないために:「緊急大激論SP2006!“子供たちが危ない”」(TBS)(中尾英司氏)
 さびしんぼうのブログ♪:緊急大激論スペシャル@TBSテレビ
 冬枯れの街:緊急大激論SP2006!“子供たちが危ない”って危ないのはあなたたちの妄想ですから!
 アキバの王に俺はなる!:子供、若者は大人の敵といったような番組を見て
 私がお世話になっているブログで、青少年問題について触れたエントリー
 女子リベ:どう少年が包囲されていくのか?(安原宏美氏:フリー編集者)
 社会と権力 研究の余白に:生命と統計 少年法改正をめぐって(芹沢一也氏:京都造形芸術大学講師)

――――――――――――――――――――

 ※番組内の発言の文字起こしに関しては、全て筆者(後藤)に文責があるものとする

 このような番組を放映して、一体TBSは何をしたいのだろう――それが、私が平成18年2月15日に放送された、特別番組「緊急大激論SP2006!“子供たちが危ない”こんな日本に誰がした!?全国民に“喝”!!」を見ての私の感想だ。この番組は、全体的に現代の若年層に対する否定的なトーンと、「大激論」という名を冠しているにもかかわらず、一方的な意見の応酬だけで貫かれており、単に出場者の、自分の「善」のイメージの露出合戦に過ぎない番組であった。

 TBSのウェブサイトによると、この番組のコンセプトは以下のとおりであるという。

 社会、学校、家庭……。今、子供たちを取り巻く環境で、様々な問題が山積みしている日本。

 この番組では緊急大激論スペシャルと題し、子育てや教育問題を徹底的に話し合い誰がこんな日本にしてしまったのか? これから日本は子供たちにとってどうしていくべきなのか?追求していく。
http://www.tbs.co.jp/program/kodomotachi_20060215.html

 などと綴られているが、実際にこの番組で行なわれたのは、単なる若年層に対するネガティブ・キャンペーン、すなわち現代の子供たちや若年層に対する不安を煽り、彼らは怖い、社会の害悪だ、どうすれば彼らに対処して自らにとって住みやすい社会になるか、ということが延々と語られただけである。

 司会者は草野仁、えなりかずき、海保知里の3氏で、出演者は、勝俣州和(タレント)、草薙厚子(ジャーナリスト)、田嶋陽子(元国会議員)、松居一代(女優)、RIKACO(タレント)、やくみつる(漫画家)、山下真司(俳優)と、「本気の大人たち」として伴茂樹(青少年育成クラブ主宰)、菱田慶文(スクールパートナー)、吉川英治(明大前ピースメーカーズ主宰)、小嶋映治(叱る大人の会代表)、原田隆史(天理大学非常勤講師、東京・大阪教師塾塾頭)、喜入克(高校教師)、今村克彦(小学校教師、関西京都今村組代表)、杉浦昌子(NPOアイメンタルスクール主宰)、廣中邦充(浄土宗西居院僧侶)の9氏である。

 1・番組構成の各部に関する疑問
 ウェブサイトによれば、この番組の構成は次のとおりである。

 番組では公共でのマナーやルールに対する若者のモラルについての「社会秩序崩壊編」、校内暴力や不登校の増加問題についての「学校崩壊編」、親が子供を、子供が親を殺してしまうような衝撃事件の増加に象徴される現在の家庭問題についての「家庭崩壊編」と3つのテーマで話し合いを行う。(前掲TBSウェブサイト)

 と書かれているが、この番組が若年層に対する不安扇動を目的としていることを私が確認するまでは、開始から30分もかからなかった。この番組は、第1部が「社会秩序崩壊編」、第2部が「家庭崩壊編」、第3部が「学校崩壊編」となっているが、第2部と第3部はもっぱら「本気の大人たち」として出演している人々の体験談が主であり、スタジオにおける「大激論」に関しては、その時間の大半を第1部が占める。その第1部において何が議論されたのであろうか。

 オープニングの後、第1部の問題提起として映されたVTRについて説明しよう。このVTRは、平成15年に実際に起こった事件を基に構成されている。その事件が、電車に乗ってきた、ヘッドフォンから音を漏らしている若い人に対して、ある中年のサラリーマンが注意した。ところがその若年は、近くにいた警察官に「酔っ払いが絡んでくる」といって、逆に自分を正当化した、というものである。

 まずここで疑問が浮かぶはずだ。このような若年は、果たして現代の若年層に典型的なものなのだろうか、と。しかしそのような疑問をすっ飛ばして、この「大激論」は、現代の若年層がさも件の若年の如く、自分を正当化することにだけは長けているのに、他人の迷惑はちっとも顧みない、というイメージで語られる(注1、2)。

 それだけではなく、この後の「大激論」においては、若年層に対する偏ったイメージが頻出する。このVTRの直後の、勝股州和氏の発言を引いてみよう。

草野「勝股さん、目撃したりしたことはあると思うのですが、(勝股:「ハイ」)もしあの場にいたらどうします?」

勝股「ビシッ、といいたいですけれども、怖いですね」

スタジオ笑う。

勝股「今の子たちって、逆ギレで刺すじゃないですか」

 勝股氏の語っているのは、単に報道で喧伝されるイメージを超えていないのであるが、この程度のステレオタイプはまだ甘いほうで、そのほかにも若年層をあからさまに蔑視した発言が頻出する。その中でももっとも問題を多く含んでいるのが、杉浦昌子氏と草薙厚子氏の以下のような発言である。

草野「杉浦さんはどうですか?先ほどのニュース」

杉浦「うーん。私は、生徒にはね、車両の中にそういう子がいたら、避けるようにと。私は日々子供と接してて、ちょっと感覚がゲーム感覚、ちょっとリセットしてもまた生まれ変わるんだ、ってしか考えないから、言っても無駄な人には、無駄なような気もするんですよ」

草薙「ゲームの感覚っておっしゃりましたけれども、その通りで、ゲームを長い時間やるじゃないですか。で、それがもう研究の結果出ているんですね。その世界だけなんです(えなり他「ゲーム脳」)そう、ゲーム脳と言われているんですけれども、前頭葉の前頭前野の血流が悪くなる。でその前頭前野というのが、羞恥心とか、理性とか、ここでみんなコントロールしている」

えなり「自分の感情を抑える所って言いますよね」

 「ゲーム脳」や、「前頭前野」などといった、草薙氏の振りかざしている論理は、既に学問的には論破されている点が多く(注3)、議論として成立したものではない。それにもかかわらず草薙氏がそのような理論を堂々と持ち出す、というところに、現代の我が国の青少年ジャーナリズムの暗黒面が垣間見えるし、杉浦氏の発言にもまた、「ゲーム感覚」などという、現代の青少年はゲームのせいでおかしくなったのだ、と言わんばかりの表現が出ている。だがもっとも問題なのは、草薙氏や杉浦氏の発言に対して、誰も制止する人がいないことである。特に「ゲーム脳」が疑似科学であることは、既に良心的な物書きであれば知っているはずだ。

 このような構成からもわかるとおり、この番組は、まず第1部において、現代の若年層がいかに「悪」であるか、ということが喧伝される。もちろん、先の勝股氏や草薙氏、及び杉浦氏に限らず、問題のある発言は多いし、それらの発言に対する反証も、今やかなり出揃っている状態である(注4)。しかし、それらが無視されるのは、やはりこの番組においては、定量的な議論よりも、「若年層=悪」というイメージ(あるいはこの番組の前提)を正当化するための「物語」であり、それゆえ出演者も、若年層の「悪」に立ち向かう「善」という図式が強調されるのだろう。

 更にこの番組を引き立てているのが、各部の最後に挿入される(従って合計3回挿入されたこととなる)、司会者の一人である草野仁氏と、石原慎太郎・東京都知事との対談である。草野氏の発言も、また石原氏の発言も、単に巷で流布しているイメージや自らの狭い体験だけに基づいている、空疎な「憂国」話でしかない。だが、この対談映像の中には、テレビ「ならでは」の演出が施され、この番組を盛り上げるのには絶好のものとなっている。例を示してみよう。

草野「一番知事にお伺いしたかったのは、今の若者たち、社会規範を破っても平然としている、マナーを守らない、そういう傾向の若者たちが増えている、というのは結構事実ですね。その若者たちを、知事はどういう風にご覧になっていますか?」

石原慎太郎「家庭のしつけ、学校の教育のせいだともちろん思いますがね、子供に我慢させないですね」

リピート「子供に我慢させないですね」

ナレーション「子供に我慢をさせない」

 さて、ここで、私が「リピート」と示した箇所は、石原氏の発言の注目すべき箇所に対し、まず石原氏の顔が白黒のアップになり当該箇所がもう一度繰り返され、そしてその後にその発言の趣旨のメッセージが画面に登場し、それをナレーションが読み上げるというものである。これはテレビ「ならでは」の演出で、草野・石原対談においてはこのような演出が頻出する。

 また、この種の演出が用いられた石原氏の発言には、他にも次のようなものがある(字幕として出たものを挙げることとする)。

 「子供の親そのものが、だらしなく育てられた」(1回目)

 「親が無責任までは行かないが無知」(2回目)

 「肝心なものは全部人に預けた他力本願で甘ったれな風潮」(3回目)

 現代の親や青少年に対するバッシングが含まれているのはこれくらいであるが、それ以外も単なる一般的な教育論を語っているに過ぎない。このような「お題目」で教育問題が解決される、という考え方は、結局のところ自分にとっての「当たり前」を取り戻せば教育問題は解決する、という短絡的な考え方でしかない。

 草野氏と石原氏の対談も含めて、結局のところこの番組は、「絶対善」としての自分をいかに強くアピールし、自分の教育論――単に一般的な「お題目」でしかないものが大半なのだが――の正当性をひけらかす以上のものではなかった。結局のところ、この番組で行なわれたことは、大々的な「私語り」だけだったのである。

 また、冒頭の出演者を見てもらえばわかるが、この番組が前提としている「「今時の若者」は傍若無人な振る舞いばかりをする社会の害悪だ」などという一方的な考えから、少々距離を置いて考えることができる人――内藤朝雄氏や浅野智彦氏など――は一人も出ていない(「本気の大人たち」でない出演者も、番組のストーリーに追従しているだけだった。特に、草野氏と勝股氏、草薙氏、そしてやくみつる氏の発言のひどさは特筆すべきものだ)。「大激論」などと言っておきながら、人選の狭隘さは目を見張るほどだし、彼らがバッシングの対象としている若年層は、えなり氏を除いて一人も「大激論」の場に存在していない。

 なるほど、確かに、他のスタジオでは、番組が言うところの「イマドキの若者24人」が、この「大激論」を見守っていた。しかし、彼らの発言が許されたのはたった2回、しかも1回あたりの発言時間が3分もなかったのだ。

 2・この番組全体の構成に対する疑問
 はっきり言おう。この番組は、「大激論」の名を騙った「欠席裁判」なのだ。もちろんこの「欠席裁判」で「裁かれている」のは若年層であり、裁判長は司会の3人で、判事は出席者全員、弁護人はいない。しかも裁判長も完全に判事よりである。

 この番組が「欠席裁判」であると考えれば、この番組全体の流れがわかるというものだ。まず第1部に「社会秩序崩壊編」を据えることによって、現代の若年層を「被告」として視聴者に認識させる。つまり、若い世代「全員」がこの「欠席裁判」において被告人席に立たされることの「正統性」を裏付ける。そして第1部の「大討論」において、被告人の「罪科」が――全て判事の口によって、しかも定量的な証拠もなしに!――延々と語られる。そこで以下に事実誤認が飛び出していても、なんら問題はない。先にも述べたとおり、必要なのは定量的な議論ではない、「物語」なのだ。「今時の若者」という存在がいかに「悪」であるかを証明するための。従って、以下の如く、最初から事実誤認のナレーションに彩られていても、その正当性に疑問がはさまれることはない。そもそも「キレる」やら「逆ギレ」などというのは、そのような言語が「発見」されてから、新たなプロファイリングとして定着するようになった、と考えたほうがよいのではないか。

ナレーション「世界一安全といわれたこの国が、今やモラルなき無法地帯と化している。連日飛び込んでくる衝撃的な事件。その中心には、傍若無人な若者たち。やりたい放題の彼らに、社会のルールやマナーなど存在しないのか。一方で、注意すべき立場の大人たちは…。」

街頭A「すぐ若い奴はキレるじゃない何されるかわからん、はっきり言うて」

街頭B「突発的に、何かをされるとか、そういった恐怖感はありますね」

ナレーション「そう、今時の若者たちの特徴は、「逆ギレ」。善悪の見境なしにとにかくキレる。そして、キレたら最後、もう誰にも手がつけられない。かつて世界から賞賛された、日本人のモラルは…」

 そして第2部と第3部は、まさに「犯人探し」だ。「被告」としての若年層を生み出した背景として、第2部においては家庭が、第3部においては学校が採り上げられる。だがこの2つの部分は、第1部に比して、冒頭において紹介された「本気の大人たち」の取り組みの紹介が多い。現に、第1部が1人(小嶋映治氏)だったのに対し、第2部は2人だった(杉浦昌子氏と廣中邦充氏)。第3部は1人だったが(原田隆史氏)、第3部自体の短さ、そして冒頭のVTRの長さを考慮すれば、「大激論」を行なった箇所は少ないほうである。

 ここで2つ目の疑問を提示したい。この番組において一つの重要なキーワードとなっているのは、「本気の大人たち」である。要するに、「悪」としての青少年、及び一歩間違ったら「悪」の世界に踏み込みかねない子供たちを「自分たち」の手に取り戻すための「本気の大人たち」の取り組みの礼賛である。

 だが、冷静に考えて欲しい。彼らのように、様々な条件に恵まれ、かつ能力もある「本気の大人たち」は極少数である。しかしこの番組は、そのような「本気の大人たち」を礼賛することによって、かえって彼らのような能力のない(と思いこんでいる)親たちは自信をそがれてしまうかもしれない。

 この番組のように、――元々境遇や能力に恵まれた人しか発しえず、しかもメディアによってその暗黒面が隠蔽されている――「本気」を礼賛し、子供たちに対して「本気」で接しなければ、いつ子供が「悪」(=「今時の若者」!)になってもおかしくないぞ、と煽ることは、むしろ若い親たちを追いつめることにならないだろうか。そもそも多くの子供たちは、そして青少年は、ごく普通に暮らしているのである。彼らを無視し、一部の人を採り上げて、さも世代全体が危険であるかのように煽るという行為は、それこそ青少年の価値を貶めることにならないか。それともこの番組の製作スタッフは、どうせ若い奴はこんな番組など見ないだろう、とでも高をくくっているのか。だとしたら、この番組は、日頃の鬱憤がたまっている年齢の高い人たちに対して、コメンテーターたちと自己を同一化させ、その「怒り」を若年層や若い親たちにぶつけることを提供していることとなる。

 この番組のエンディングは「翼をください」だった。私はこの曲は好きである。しかし、この番組のエンディングとして流れた「翼をください」は、私がこの曲を聴いて決して抱くことのなかった嫌悪感を、私に初めて抱かせた。散々若い世代に対して不安を抱かせて、そして自分の社会の将来に暗い気持ちを抱かせて、そこから希望を持ってください、といっても無理に決まっている。

 極めつけはこれだ。この世でもっとも不気味な「翼をください」が流れ終わった後、画面に大きく表示された文字である。

 「子供たちの笑顔がこの国の未来」

 このようなお題目がいかに空疎であるか、ということは、この番組を通して見たものならすぐにわかるはずだ。この番組は、決して「子供たちの笑顔」など望んでいない。子供たちが自分にとって都合のいいように成長してくれること、そして「悪」としての「今時の若者」たちが「私たち」の社会から排除されることだ。少なくともこの番組は、決して「子供たちの笑顔」のために作られているのではない。具体的に言えば、「大人たちの笑顔」なのだ。「今時の若者」を問題視してバッシングする大人たちのための番組としか言いようがないのである。だから、この番組に青少年の声、あるいは現在喧伝される青少年問題言説に懐疑的な人の声が反映されないのも、無理はないのかもしれない。

 しかし、これだけは言いたい。

 特定の世代を過剰に問題視し、その世代は「悪」で自分の世代は「善」であり、そして自分の子供をいかに「悪」にしてはならないか、といった半ば脅迫的な子育て言説がはびこる世の中に、誰が希望を持つことができるだろうか(そして、この番組に出席していた草薙厚子氏は、まさにこのような「半ば脅迫的な子育て言説」を喧伝している人だ)。
 堀江貴文被告がニッポン放送やフジテレビの実権を握ろうとしたとき、マスコミが堀江氏を批判する口実として用いたのが「放送の公共性」だった。だが、人々を絶望の淵に落としておいて何もしない、この番組に、果たして「公共性」を求めることができるだろうか。

 TBSは堀江貴文を笑えるのか。

――――――――――――――――――――

 注1
 現に、出演者の今村克彦氏が、「このような特異な話ばかり捉えていても無意味だ」と発言したのに対し、草野氏が、「でもこのような事件もあるのだから、今の若年層はやっぱり異常だ」と今村氏の発言を退けた部分もある。曰く、

今村「いえ、だから今言われたように、刃物持っている人間に話し込もうや、って言ったって、話になりませんやんか。特異な話ばかり捉えていたら、ほんまに怖なります」

草野「もちろんそうなんですが、現実に先ほどビデオでごらん頂いたケースもある。ただ非常に気になるのは、駅員の人を呼んで、その後の逃げ方です。口実をつけて、非情に狡猾なやり方で逃げていこう、つまり自分を正当化するということは、非情に巧みである。これは昔の子供たちには多分なかったことではないかと」

 更に、後に今村氏は、若い奴は大部分が怖いんだ、という趣旨の発言をしてしまう。

今村「僕はおかしいと思いますわ。怖ないってね、ここら辺の方って絶対に怖ないですやん。世の中の大部分、やっぱりあのわけの分からん若者がいたらやっぱり怖いですやん。……だから、怖いということは大前提、みんな共通して持たなあかんと。……」

 注2
 ちなみに、平成12年6月21日付の読売新聞によれば、JR東日本において報告された駅員や乗務員への暴力行為162件のうち、その加害者で最も多いのが50代で39人、次に多いのが40代で33人だった。

 注3
 草薙氏が持ち出している「ゲーム脳」理論は、既に多くの専門家や評論家によって疑義が提示されている。書籍では、斎藤環『心理学化する社会』(PHP研究所、平成15年)、と学会『トンデモ本の世界T』(太田出版、平成16年)、小笠原喜康『議論のウソ』(講談社現代新書、平成17年)を、雑誌の記事では、風野春樹「科学的検証はほぼゼロで疑問が残る「ゲーム脳の恐怖」の恐怖」(「ゲーム批評」平成14年11月号)、大和久将志「欲望する脳 心を造りだす」(「AERA」平成15年1月13日号)、小泉耕平、藤田知也、四本倫子「「17歳少年がおかしくなったのはゲームのせいじゃない!」」(「週刊朝日」平成17年3月4日号)、若狭毅「ゲームで脳が壊れる説に専門家はブーイング」(「サンデー毎日」平成18年2月26日号)を参照されたし。

 注4
 例えば、社会学者の浅野智彦氏らの研究グループは、平成4年と平成14年に都市部の若年層に対して行なったアンケートをもとに、若年層においては規範意識が後退(あるいは消滅)しているとはいえず、また人間関係も希薄化していない、ということを提示している(浅野智彦(編)『検証・若者の変貌』勁草書房、平成18年)。また、少年による凶悪犯罪が近年増加傾向にあるわけではない、ということも、既に多くの論者によって指摘されているし、少年による動機の不明な、あるいは短絡的な殺人事件も、今から40年ほど前の段階でも多く起こっている(赤塚行雄(編)『青少年非行・犯罪史資料』第2巻、刊々堂出版社、昭和57年)。

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2006年2月24日 (金)

トラックバック雑記文・06年02月24日

 今回のトラックバック:加野瀬未友/安原宏美/本田由紀/木村剛/「アキバの王に俺はなる!」/「冬枯れの街」/大竹文雄/「ニート・ひきこもり・失業 ポータルネット」/小林美佐/保坂展人

 始めに、このブログの右の「参考サイト」に「ジェンダーフリーとは」と、「深夜のシマネコ」を、また「おすすめブログ」に「保坂展人のどこどこ日記」と「成城トランスカレッジ!」を追加しました。

 少々考えさせられる記事が。
 ARTIFACT@ハテナ系:[個人サイト]はあちゅう氏の発言にみる「ブロガーの病」(加野瀬未友氏:オタク文化研究家)
 自戒を込めてトラックバックしておきます。というのも、加野瀬氏の問題提起が、ネット上で文章を書いているものにとっては避けて通ることのできない問題だからです。

 加野瀬氏は、以前のエントリー([個人サイト][教育]美少女革命家はあちゅう)で触れたある文章(私も「はてなブックマーク」で呆れてみせましたが)における極めて世俗的な「憂国」的な物言いに関して、「発言したい欲望」という言葉を用いて以下のように表現しております。

はあちゅう氏の発言からは、「発言したい欲望」によって、ただ単に突き動かされ、私はよく知らないんだけど何か言わなといけない!という衝動にかられているのを感じる。これも「ブログ」という場所があるからこそ加速している訳で、「ブロガーの病」だろう。

 この文章を読んで、ジャーナリストの日垣隆氏の著書『使えるレファ本150選』(ちくま新書)の、カバーに書かれてある紹介文を思い出しました。

 メールやブログなど、今やだれも「書く」時代だ。せっかく書いても、それが事実に反していたり、何の新味もなかったりしたら、説得力を失うばかりか、大恥をかきかねない。

 文章を書く以上、少なくとも相手を説得するために様々な資料を用いたり、あるいは反論に耐えうるような論理を搾り出したりと、ある程度の努力はしないといけない。少なくとも、勝ち馬に乗るような言論は控えたほうがいいのかもしれません。そのためにも、まずは多くの本や雑誌やサイトを読み、様々な言説に触れたほうがいいのでしょう。私もまだまだ修行が足りません。

 もう一つ、加野瀬氏の文章で気になったところが。

興味深いのは、使っている言葉は「国民」とか「国家」とか大文字なのに、社会問題の発生をすべて個人の内面にしてしまうところだ。だから、その内面を変える方法として「教育」が出てくるのだろう。もちろん、教育も必要だが、雇用問題などはすべてすっとばされてしまう。

 これは私が現在やっている仕事と深く関わってくるのですが(あるテーマに関する共著の本。4月か5月ごろには出版予定?)、「国民」とか「国家」という(空疎な)大文字は、ある意味では自らを高みにおいて、相手をバッシングするための方便になりえているのではないか、ということを、主として保守論壇の若者論を読んで思うわけです。私は、単なる私憤を「国家」と結び付けて、(自分の理想としての)「国家」に同一化しないからお前たちみたいなバカになるんだ!などといった具合にバッシングしてしまう行為はできるだけ避けたい。また、俗流若者論は、私憤がそのまま国家論や社会論につながっている感じが強い。

 この点でもっとも繋がりが強いのはやはりこれか。
 女子リベ:少年犯罪には先進国中一番厳しい日本(安原宏美氏:フリー編集者)
 浜井浩一氏(龍谷大学教授。過去に犯罪白書の執筆経験あり)が行なった調査に関する安原氏の感想です。

 さらに少年犯罪が注目である。
 参加先進国中、少年犯罪には厳罰をもって処すべしという態度は、堂々の1位という結果である。
 ようするに、犯罪にあう確率は少ないのに、大げさで、とくに少年が罪を犯したら、「許さ~ん!」と過剰反応してしまう国となっているのである。
 浜井教授の分析についてはとても興味深いのが、そちらは本稿をあたっていただきたい。
 しかし少年になぜそこまで厳しいのかというと、やはり90年代後半からの「少年犯罪」大ブームが大きいだろう。こちらの考察分析については、わたしが編集として関わらせていただいた芹沢一也さんの「ホラーハウス社会」に詳しいのでぜひそちらを見ていただきたい。

 とりあえず、ここで採り上げられている芹沢一也氏(京都造形芸術大学非常勤講師)の最新刊『ホラーハウス社会』(講談社+α新書)は、芹沢氏の前著『狂気と犯罪』(講談社+α新書)とあわせて必読です。

 少年犯罪の「凶悪化」が云々されるようになってから、そのような議論の高まりに比例して少年犯罪は本当は凶悪化していないのではないか、という議論も生まれました(例えば、広田照幸「メディアと「青少年凶悪化」幻想」(平成12年8月24日付朝日新聞/広田『教育には何ができないか』(春秋社)に収録)、宮崎哲弥、藤井誠二『少年の「罪と罰」論』(春秋社)、パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』(イースト・プレス)、小笠原喜康『議論のウソ』(講談社現代新書)、など)。ただ、いまだにマスコミにおいては「少年犯罪凶悪化論」が大手を振っており、「少年犯罪凶悪化幻想論」は、マスコミではせいぜいエクスキューズ程度に使われるか、あるいは専門的な雑誌や論壇誌に掲載される程度。新書でもいくらか出ているが、それらの本がベストセラーになったという声は余り聞かない(せいぜい『反社会学講座』くらい?)。「凶悪化論」が今なお平然とまかり通っているのは、「少年は自分の世代(中高年世代)よりも凶悪であって欲しい」という世論があるからではないか、とうがった見方をしてしまいたくなる。

 浜井氏に関しては、『犯罪統計入門』(日本評論社)という本が出ているので、こちらもチェックしてみる必要がありそうです。

もじれの日々:若者バッシングに抗う本(本田由紀氏:東京大学助教授)
 本田氏が採り上げている、社会学者の浅野智彦氏らによる『検証・若者の変貌』(勁草書房)という本は、平成4年と平成14年に若年層に行なったアンケートから、昨今の若年層バッシング――例えば、礼儀を知らない、とか、携帯電話に依存することで関係性が希薄化しているとか――は本当に正しいのか、ということを検証した良書です。できるだけ多くの人に買って読んで欲しいのですが、いかんせん値段が高い(税込み2520円)。ただし、買っておいて、更に座右に置いておいて決して損のない本です。
 また、最近買った本に関しては、政策研究大学院大学教授の岡本薫氏の『日本を滅ぼす教育論議』(講談社現代新書)もお勧め。本書は、我が国における教育言説の海外との比較から、なぜわが国において「教育改革」が失敗したか、ということを検証した良書です。こちらは新書なので、値段も手頃(税込み756円)。

 更に、念願だった、赤塚行雄『青少年非行・犯罪史資料』全3巻(刊々堂出版社、1・2巻昭和57年、3巻昭和58年)もやっと手に入りました。問題は収納するスペースか…。
 とはいえ、今月の講談社現代新書の新刊で『他人を見下す若者たち』なる本が出ているからなぁ…。立ち読みでチェックした限りでは、とっとと浅野氏の本を読んで出直して来い、という代物だった。本格的にチェックしてみるか…。

 以前、ある人から、「このブログはテレビのことを採り上げない」と指摘されたことがありました。理由としては、私はテレビのニュースをあまり見ない、ということがあるのですが。

 週刊!木村剛:[ゴーログ]ニュースは作られているのか?(木村剛氏:エコノミスト)

 このエントリーを読んで、次のエントリーを思い出した。

 アキバの王に俺はなる!:子供、若者は大人の敵といったような番組を見て
 冬枯れの街:緊急大激論SP2006!“子供たちが危ない”って危ないのはあなたたちの妄想ですから!

 今月15日にTBS系列で放送された番組「緊急大激論SP2006!“子供たちが危ない”こんな日本に誰がした!?全国民に“喝”!! あなたは怒れますか?キレる子供…守れますか?こわれる子供」(つくづく長えタイトルだな)に関しては、上の2つのエントリーのほか、「2ちゃんねる」の大谷昭宏スレッド(私が2chで唯一覗いているスレッドで、現在は事実上オタクバッシング批判スレッド)と「DAIのゲーマーズルーム」を読んだのですが、いずれも評価は最悪だったなあ。私はとりあえずヴィデオに撮ってあるので、あまり乗り気ではないのですが、近いうちにチェックします。余りにひどいなら雑誌に抗議文を投稿するか。

 ただ、ジャーナリストの草薙厚子氏が、テレビで堂々と「ゲーム脳」を言った(らしい)ことにはやはり戦慄した。草薙氏に関しては、私の「子育て言説は「脅迫」であるべきなのか ~草薙厚子『子どもが壊れる家』が壊しているもの」をご参照あれ。

 新たなる問題発言登場…なのかな。

 大竹文雄のブログ:待ち組(大竹文雄氏:大阪大学教授)

 ニート・ひきこもり・失業 ポータルネット:待ち組?なんだそりゃ。
 ずいぶん前の話になってしまうのですが、小泉純一郎首相やら猪口邦子氏やらが「待ち組」なる変な言葉使ったことが批判されています。私は基本的に、大竹氏の以下の記述に賛成。

 でも、フリーターやニートの中には好んでそうなっている人もいるのも事実だが、大多数の人たちは、学校卒業時点の就職活動でうまく行かなかった人たちか、うまく行きそうにないとあきらめた人たちだ。あまりにも可能性が低かったり、何度も失敗が続くとやる気を失うのは自然ではないだろうか。就職氷河期に卒業した人たちは努力不足や挑戦しなかったというよりも、運が悪かったというべきだ。そういう人たちに「反省しろ」というのは酷ではないか。

 とりあえず、フリーターや若年無業者に対する、小泉首相や猪口氏の認識の甘さは批判されて然るべきでしょう。このような認識は、所詮はマスコミが面白がって取り上げたがるような、それこそ「働いたら負けかなと思ってる」(笑)に代表されるような「ベタ」な「ニート」像でしかないわけで。責任のある立場の人なのですから、もう少し勉強してください。

 オリンピック開催中ですが。
 ☆こばみ~だす~☆:☆おめでとう☆(小林美佐氏:声優)
 トリノ五輪で、日本勢の初めてのメダルとなったフィギュアスケートの荒川静香選手ですが、私の家で購読している読売新聞の宮城県版では、地方面で荒川氏の特集や荒川氏への応援メッセージが掲載されていたことがある。なぜなのか、と考えていたところ、どうやら荒川氏は東北高校の出身らしい。仙台のメディアが沸き立つのも無理はないか。

 この問題も見逃してはならない。
 保坂展人のどこどこ日記:共謀罪、ふたたび攻防が始まった(保坂展人氏:衆議院議員・社民党)

 今のところ我が国の政治は所謂「偽造メール」事件で紛糾中です。もちろんこの問題も悪くないのですが、共謀罪とか、少年法の改正とかにも、もう少し興味を持ってもいいのではないか、と思います。

 これからの予告ですが、少々忙しくて更新が停滞していたので、雑誌が大量にたまっております。そのため、「論座」平成18年3月号、「諸君!」平成18年3月号、「世界」平成18年3月号、「中央公論」平成18年2月号と3月号、「ユリイカ」平成18年2月号の「論壇私論」をこれから逐次公開していく予定です。

 最後に、平成18年2月24日付で「この「反若者論」がすごい!02・河北新報社説」に投稿されたコメントが、明らかに荒らしだったので削除しました。

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2006年2月 4日 (土)

トラックバック雑記文・06年02月04日

 今回のトラックバック:赤木智弘/木村剛/「ニート・ひきこもり・失業 ポータルネット」/渋井哲也/芹沢一也/「S氏の時事問題」/「ヤースのへんしん」/「読売新聞の社説はどうなの・・2」/保坂展人/「topics:JournalistCourse」

 過日、『「ニート」って言うな!』(光文社新書、本田由紀氏と内藤朝雄氏との共著)という本を出したわけですが、ネット上の各所で書評がなされています。ちなみにamazon.co.jpのカスタマーレヴューなどで見られる私の文章に対する批判で、「採り上げる記事や投書の数が少ない」というものがありましたが、週刊誌の記事に関しては、大宅壮一文庫の雑誌検索CD-ROM(宮城県図書館で使用)を使って検索したのですが、本文中で採り上げた「AERA」「読売ウィークリー」「サンデー毎日」「エコノミスト」「週刊ダイヤモンド」「プレジデント」以外はめぼしい記事はほとんどなかったのが理由です。他の雑誌は、大半が平成16年末の親殺し関連の記事でした。また、「AERA」「読売ウィークリー」「サンデー毎日」の3誌に関しては、特筆すべき明確な傾向(詳しくは本を参照して欲しい)が見られたので、重点的に採り上げた次第であります。

 投書に関しては、朝日しか調べられなかったことに関しても、不満に思った方もおられましょうが、これは基本的に私の力不足です。決して各種図書館が貧弱だったからではありません。この場を借りて謝罪します。

 さて、それらの書評の中でも、私が最も重く受け止めた書評がこちら。

 深夜のシマネコblog:「ニート」って言うな! 書評(赤木智弘氏)

 赤木氏は、本の内容は評価するものの、やり方がいけない、という書評をしています。

 そういう意味では後藤さんの試みはそうした人たちを叩くことに近いのですが、本や雑誌などのメディアから抜き出すということは、結局「メディアに言説を掲載できる人」という狭い範囲でしかなく、「ニートと言う言葉を利用する一般市民」を安全圏に批難させてしまっています。
 (略)
 で、この本の場合、タイトルが『「ニート」って言うな!』で、帯書きが「なぜこの誤った概念がかくも支配力を持つようになったのか」です。これではニートが増えていることを信じて疑わない人は、絶対に手に取りません。彼らはそもそもニートという響きに侮蔑的な快楽を覚えるような捻じれた性格の人たちですから、自分が傷つくような物には決して近づきません。
 若者卑下の大きな問題は、彼らをバッシングしたところで、バッシング側はなんら痛みを感じないという点です。
 そして、ニートと言う言葉を語る時に、それがさも他者によって「この人は差別をしている」ではなく、「教育のことを語っている」という受け取り方をされる点です。
 それをひっくり返すためには、「ニートと言うことに痛みを感じない人」や「ニートを教育論だと思いこんでいる人」に手に取ってもらえる本を作ることが必要です。そういう意味で『「ニート」って言うな!』は想定すべき読者を間違えています。

 若者報道を批判しているものとして、これは深刻に受け止めざるを得ない問題です。このような問いかけは、この文章の重要な部分を、例えば「ゲーム脳」「下流社会」に変えてみても、同種の問いかけとして成り立つと思います。

 一般に「ニート」やら「ゲーム脳」やら、あるいは「脳内汚染」やら「下流社会」やらという、俗流若者論にとって格好の概念は、その概念を嬉々として使う人にとっては、自分は差別や偏見を振りまいているのではなく、自分は「教育」を語っているのだ、ということなのでしょう。しかしそれらは一皮むけば教育論ではなく単なるラベリング、更に言えば差別だったり偏見だったりするわけです。また、それらを証明するような資料は、本当にたくさんあるわけです。特に「ゲーム脳」に関しては、学術的に見れば完全に腐りきった概念といっていいでしょう。

 しかし、そのようなことが証明されたとしても、いまだに「ゲーム脳」論は妖怪の如くはびこっています。たとい「ゲーム脳」を否定する資料が出揃ったとしても、「ゲーム脳」論を嬉々として受け入れる層には少しも伝わらない。もはや量ばかり増やしても仕方がないのでしょうか。路線転換が求められているのでしょうか。ここでは「ゲーム脳」の話を使いましたが、「ニート」論だってまた同じことです。

 さて、ライブドアの堀江貴文元社長逮捕に関していくつかネタを。

 週刊!木村剛:[木村 剛のコラム] 日本は罪刑法定主義ではない?(木村剛氏:エコノミスト)
 木村氏曰く、

 ところが、逮捕の根拠である第158条違反について詳細に解説した番組はなかった。「なぜ法律違反に当たるのか」について誰も触れることなく、「ホリエモンという男あるいはライブドアという集団が如何にケシカランか」という描写にほとんどが費やされていた。
 識者らしき人々も「そもそもライブドアはマネーゲームだった」とか「ホリエモンのビジネスは虚業だ」などと自分勝手な感想を披露するだけで、事件の真相を追及しようとしない。
 具体的な犯罪内容が語られることなく、ライブドアという会社が一方的に叩かれていく。ホリエモンはいつから有罪が確定したのだろう。罪が確定するまでは「推定無罪」だと習ったような気がするが、一部の良心的な識者(「もし報道が事実ならば」という前置きをしていた)を除き、その他の出演者はホリエモンを犯罪者扱いしていた。
 この事件を語りたいなら、罪状を確定する必要がある。日本が法治国家であり、罪刑法定主義をとっているのであれば、罪状が確定できないのに、「ケシカラン罪」で犯人に仕立て上げてはならない。それが基本的人権の基本。実際、法律というものは、為政者から人々を護るために発展してきた。
 日本では、近代の智恵である「罪を憎んで人を憎まず」とか「疑わしきは罰せず」という法理が通用しないのだろうか。「人を憎んで罪を問わず」「疑わしきは叩きまくる」という現実を見ていると、中世の魔女狩りが思い起こされる。

 現在発売中の「諸君!」平成18年3月号においても、評論家の西尾幹二氏が、《ホリエモンは決して誉められるべき人物ではないが、しかし人間としてどんなに拙劣でも、人権は守られなければならない。/私は捜査が始まってから数日間、何でもかんでもライブドアを潰そうとする目に見えない大きな意思が働いているように思えて、薄気味が悪くてならなかった》(西尾幹二「誰がライブドアに石を投げられるのか」)と書いていますが、基本的にマスコミというものはある対象物が何らかの「お墨付き」を得て「叩いていい」代物になったら、急激にバッシングに走るのが常です。成人式報道を研究してきた私にはそれが痛いほどわかります。

 多くの人は報道によってしか遠隔の事象を取り扱うことはできない。従って日常的に接している報道が、そのまま受け手の現実感覚になってしまいやすい(ウォルター・リップマンの『世論』(岩波文庫)あたりが参考になります)。そして、人々の現実感覚を支配する「報道」が、果たして人々を間違った方向に誘導してはいないか。事実とは異なるのに、例えば青少年とオタクだけが凶悪化しているという報道を繰り返し、事実とは異なるステレオタイプを青少年とオタクに向けてはいないか。

 あと、堀江容疑者逮捕報道で気になるのが、「「ホリエモン」は若い世代から圧倒的な支持を受けている」というもの。私は堀江氏は余り好きではないのですが、なぜこのような報道が成されてしまうのか。そのようなことを分析したブログもいくつかありました。

 kajougenron : hiroki azuma blog:ライブドアとオウム?2(東浩紀氏:評論家)
 ニート・ひきこもり・失業 ポータルネット:ホリエモンが若者に夢を与えた?はあ?

 いつの間にか「堀江支持」派にされている感じが強い若い世代ですが(読売新聞や「AERA」は、今回の逮捕劇に関して「20代はどう見ているか」みたいな記事を組んでいた)、果たして特定の個人を勝手に「世代の代表」に仕立て上げ、ある世代の「気分」なるものを特定してしまう、という手法は、その非論理性において、そろそろ限界をきたしているのではないかと思うのですが、どうもそのような態度に対する検証が成される様子はない。これはひとえに既存マスメディアの受け手に若い世代が少ないから(笑)、ということで、マスコミが若い世代を除いた世代向けに記事を作って、結局「若い世代はこんな感じだ」みたいな報道ができてしまうのか、というのは、ちょっと考えすぎか。

 まあ、ここまで考えないと、明らかに若年層を病理視した報道がなぜ横行するのか、ということを考えることはできないかな、と。

 てっちゃん@jugem:有害規制をするなら、保健所のサイトも閉鎖しなければ・・・(渋井哲也氏:ジャーナリスト)
 社会と権力 研究の余白に:『ホラーハウス社会』について(芹沢一也氏:京都造形芸術大学講師)
 S氏の時事問題:門限は7時まで?
 ヤースのへんしん:改正青少年健全育成条例

 ますます閉塞感が増す青少年の社会環境。インターネットサイトの規制は進むは、夜間営業施設の青少年の入場が7時までにされるは、外出禁止に情報統制!日本は北朝鮮か!って突っ込みたくなります(ちなみにこの突っ込みは、宮台真司、宮崎哲弥『エイリアンズ』インフォバーン、の169ページに出てきた、宮崎氏の横浜の青少年政策に対する突っ込みのパクリです)。

 昨年『狂気と犯罪』(講談社+α新書)を上梓した芹沢氏ですが、その芹沢氏の新刊『ホラーハウス社会』(講談社+α新書)が発売されています。私は一応途中(第2章)まで読んだのですが、平成9年の神戸市の連続児童殺傷事件(「酒鬼薔薇聖斗」事件)を皮切りに、人々の少年犯罪に対する視線が変化していくさまに関する記述が興味深かった。特に83ページの《あくなき理解への欲望が、皮肉なことに、異常だとして少年の記述へと行き着いた》というのは「声に出して読みたい日本語」です。最近の少年犯罪報道――いや、若者報道のほぼ全般に見られる傾向として、少年犯罪者、更には現代の青少年を「理解のできない(=自分の思いのままにならない)他者」とか「自分の生活圏を脅かす存在」という風に「理解」していくパターンが見られます。それは「世代的な共感」だとかを持って犯罪者に「共感」してしまった視線とは真逆のものですが、身勝手な解釈という点では同一のものでしょう。

 青少年を「教育」に囲い込むことの問題というのは、基本的には自分の生活圏に囲い込む、ということとして解釈されるべきでしょう。であるから、犯罪をしでかした青少年に対する、「心の闇の解明」と言った形での理解は、ひとえに犯罪という行為によって「生活圏」の外に出てしまった少年をもう一度「生活圏」に取り戻そう、という欲望として働く行為として見える。しかしそれが更に進行すると、「生活圏」から出てしまった青少年に対する「理解」が、我々の「生活圏」の内に存在する青少年を「生活圏」の外に出させるな、という欲望につながり、「生活圏」の外の存在に対するバッシングが強まると共に、ひたすら「生活圏」の外に子供たちを「出させない」ための施策やら言説やらが横行するようになる(要するに、草薙厚子氏の所論ですね)。

 「生活圏」の外に子供たちを「出させない」ための施策やら言説というのは、そのような「生活圏」の主成分として存在している(と錯覚している)世代の個人的体験やイデオロギーと強く結びついている。従って「ゲーム脳」理論と、「脳を活性化させる」遊びとしての「外遊び」や「お手玉」などへの無邪気といっていい奨励(要するに森昭雄氏)や、あるいは旧来型(と勝手に思い込んでいる)の子育てに対する無邪気といっていい礼賛(「俗流若者論ケースファイル48・澤口俊之」参照)、あるいは「ファスト風土化」論と、それに付随する旧来のコミュニティ礼賛(「三浦展研究・前編 ~郊外化と少年犯罪の関係は立証されたか~」参照)等はそれらを如実に体現している。「ジェンダーフリー教育」に対するバッシングも然りでしょう。

 我々は、「教育は阿片である」(@内藤朝雄)という認識に立って、巷の教育言説を吟味しなければならないのかもしれません。

 あと、こういう規制を「教育」のためだ、あるいは青少年を何とかするために必要だ、と考えている皆様。そのうちそれを支持したツケが回ってきますよ。

読売新聞の社説はどうなの・・2:■「家庭」の“崩壊”少子化と改憲論議をどうやってつなげるの????
 まあ、最近の保守論壇は、青少年バッシングの為に「憲法」を持ち出したがるヘタレばかりですから…。こういう飛躍ももはや「想定の範囲内」(笑)。そもそも憲法というのは、立憲主義の考え方に立てば、国家の行動を統制するものであり、従って憲法が最高法規というものはこういう理由であり、一般国民が「憲法違反」として懲罰させられることはない…という説明はこういう連中にとっては野暮か。

保坂展人のどこどこ日記:放漫財政の大阪市でホームレス排除(保坂展人氏:衆議院議員・社民党)
 topics:JournalistCourse:大阪市がホームレスのテント強制撤去、一時もみ合い(読売新聞)(東京大学先端科学技術センター・ジャーナリスト養成コース)
 大阪市西区のホームレス住居撤去事件ですが、これの理由は3月と5月に行なわれるイヴェントのためだとか。ちなみに同種の騒動は平成10年にもあったようなのですが(読売新聞ウェブサイトによる)、イヴェントが行なわれると、そのような背景があったことも消されてしまうのだろうな…と思ってしまいました。確か愛知万博でも環境破壊が問題になっていましたっけ(「週刊金曜日」だったかな?)。
 ちなみに保坂氏のエントリーには《少年たちや酔った若者たちによる「ホームレス襲撃事件」は全国で頻繁に起きている。「人間以下」「汚い」と罵倒して、殴る蹴るの暴行を受け、大怪我をして亡くなった人も少なくない》と書かれていますけれども、《「人間以下」「汚い」》というのは、そもそも社会がホームレスに向けてきた視線そのものなのではないでしょうか。ちなみに本田由紀氏は、『「ニート」って言うな!』の50ページにおいて、「ニート」を「ペット以下」と罵った女子高生の例を紹介していました。

 生田岳志『「野宿者襲撃」論』(人文書院)、早く読まなきゃ…。

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2006年1月 8日 (日)

トラックバック雑記文・06年01月08日

 今回のトラックバック:「フリーターが語る渡り奉公人事情」/「海邦高校鴻巣分校」

 明けましておめでとうございます。今年も若者論の検証に精を出していくので、どうぞよろしく。あと、仙台市在住の新成人の皆様、明日は成人の日です。ぜひとも仙台市体育館まで!平成18年仙台市成人式実行委員会の用意した成人式をお楽しみくださいね。

 フリーターが語る渡り奉公人事情:黒田節
 新年早々、考えさせられるエントリーです。我が国においては、やれパラサイトだニートだ下流だとかいった「言葉」ばかりが飛び交っていますけれども、結局のところそれは所詮は「有閑階級の言葉遊び」というか、もう少し詳しく言えば、社会のある階層の人を「よりしろ」にして自分の地位の「高さ」を確認したい、という言動に過ぎない。三浦展氏の「下流社会」もまた、結局のところ自分は「上流」「中流」だと自称する人が、「人生へのモチベーションが低い」ように見える――しかし実際には、社会における「人生へのモチベーション」の文脈が変化していたり、あるいは最初からそのような機会が与えられていなかったりと、単純に本人の無気力として切り捨てることができないものも多いのだが――人を叩いているだけに過ぎない。

 私は最近ナショナリズムに関して思索をめぐらせることもあるのですが、最近喧伝されている「ナショナリズム」やら「愛国心」やらは、フリーターや、あるいは若年無業者などを「国民国家」の成員として認めない。それどころか彼らは「国家」を汚すものであるとして迫害してしまう。ある意味、それが現状におけるフリーター論の歪み――すなわち、バブル期的フリーターとは明らかに変質しているにもかかわらず、今でもフリーターを「甘え」だとか「自己責任」として片付けてしまうこと――とも関係しているかもしれない。
 社会の大部分で働いていながらも、「世間」は決して彼らを一人の人間として容認しようとせず、ひたすら卑下する。そして彼らに「自己責任」を要求したり、あるいは「下流」だと言って見下したり。そのような言説的病理を指弾するために、「嫌韓流」ならぬ「嫌下流」とかいう本を書いてみようか(笑)。
 あと、立ち読みで、スピリチュアル・カウンセラーの江原啓之氏の最新刊『江原啓之への質問状』(ライターの丸山あかね氏との共著、徳間書店)を読んだのですが、特に「ニート」に関するくだりは大いに笑えた。江原氏によれば、「ニート」は自らの守護霊の力に気がつかないから親離れできないんだとさ(笑)。実際に購入するまで詳しい論旨に関する言及は避けますが、実を言うと最近江原氏の言説に関しても興味を持っています。というのも、私がもっとも最初に出会った江原氏の著書が『子どもが危ない!』(集英社)で、そこで展開されている青少年言説が、明らかに過去の事例や件数を無視していることもさることながら、それよりも江原氏が「たましい」との結びつきを取り戻さない限り社会問題は解決できない、と言説を展開していることに危機感を覚えたからです。これは要するに、社会とか実際の人々の営みを無視して、「個人」をいきなり「たましい」――この本で展開されている江原氏の「たましい」概念が、実を言うとかなり保守論壇的な俗論に脚色されているのだが――と結び付けようとする論理であり、パトリオティズム(愛郷心)を経由しない「偽ナショナリズム」であって、それと同時に社会的問題を「内面」に還元してしまう思想に他ならない。とりあえず古本屋で、『子どもが危ない!』の続編に当たる『いのちが危ない!』(集英社)も買いましたが、江原氏は積極的に著書を出しているので、もう少し深く掘り下げていかなければならないでしょう。もちろん、江原氏以外のスピリチュアリズム関連の書籍も参照しながら。
 「論座」平成18年2月号に、ライターの横田由美子氏が「あなたはいま、幸せですか――江原啓之に魅せられた女たち」という記事を書いていますし、評論家の斎藤美奈子氏も著書『誤読日記』(朝日新聞社)で江原氏の『スピリチュアル夢百科』(主婦と生活社)を少々批判的に書評しています(107~109ページ。特に109ページの《心霊業とは、ある種のサービス産業なのである》という指摘には納得!)。ニーチェの『キリスト教は邪教です!』(適菜収:訳、講談社+α新書)も参考になるかな。
 関連記事:「反スピリチュアリズム ~江原啓之『子どもが危ない!』の虚妄を衝く~

 

海邦高校鴻巣分校:「超少子化を語る」を嘲う……
 平成18年1月5日付読売新聞に掲載された、キヤノン社長の御手洗冨士夫氏に対するインタヴューの検証です。私の家でも読売を購読しているのですが、そのインタヴューの中における、御手洗氏の《今日の若者の就業の様子を見ていても、フリーター、ニートと言われる層に果たして本当の就業意欲があるのか》というくだりは、あ、やっぱり、と思ってしまいました。要するに、「問題」といわれる「属性」を持っている人に対して、ひたすら(社会にとって)悪いほうに悪いほうに考える、という奴ね。

 せっかくだからこのエントリーから興味深い部分を引用してみる。

 電波3「個人はあれもこれも企業や社会のせいにすることなく、強い個人になることを目指していただきたい」……
 強い個人、というのはどういう意味でしょうか。経済基盤の強さでしょうか。それとも財界の要請にこたえられるだけの能力を持った人間になることをお求めでしょうか。で、あなた方はバブル期も含め史上空前の利益を挙げ、お金の力で政治に口を出し、経団連に有利な政治を要求することができますが、個人にはそれはできません。社会がどのようにまずい方向に変わろうとも、異議を申し立てることはまかりならぬ、強い個人であれという言葉はそのような意味ですか?

 このような「強い個人」を強調するのも、また「自己責任」論の一環であるということを、我々は認識しなければなりません。
 で、このエントリー、最後はお決まりの《平凡な学生の課題案よりもひどい》。

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2005年12月31日 (土)

2005年・今年の「若者論な言葉」

 「2005年・今年の1冊」「2005年・今年の1曲」に続く年末企画の締めくくりとして、今年私の印象に残った「若者論な言葉」をコメント付きで列挙していくこととしましょう。このエントリーは、平成17年内に発行された新聞・雑誌などの中で、特に俗流若者論として笑わせてもらったものを紹介します。なお、発言者1人につき1つの発言を、25人分取り扱うこととします(順不同)。

 入選(15名)
 ・大谷昭宏(ジャーナリスト)

 ただ、私が事件直後からそうした性愛を容認するどころか助長するような社会に歯止めをかけるべきだとコメントしてきたところ、その手の嗜好を持つ方たちから事務所あてに抗議の電話やメールが殺到。加えて配達証明つきの公開質問状まで送りつけられてきた。(「日刊スポーツ」大阪版2005年1月4日号)

 大谷氏は被害者意識にまみれているのかもしれませんが、このような抗議は、大谷氏がやたらと特定の嗜好を持つ人たちを敵視していること、あるいは因果関係がはっきりしていないのにすぐさま犯罪の泉源と決め付けてしまったことに対する抗議なのではないでしょうか。もはや差別主義者に堕落してしまった大谷氏、平成18年はどうなることやら。
 関連記事:「俗流若者論ケースファイル01・大谷昭宏

 ・草薙厚子(ジャーナリスト)

 「少年A」(筆者注:酒鬼薔薇聖斗)の出現以降、私たちは子育てのマニュアルを書きなおす必要に迫られています。今、日本の子育てが問われ始めているのです。(草薙厚子『子どもが壊れる家』文春新書、2005年11月、13ページ)

 少なくとも草薙氏の論説は、子供たちに対する不安や不信をベースにした「管理のすすめ」としか言いようがありません。その草薙氏が、臆面もなく「子育てのマニュアルを書き直すべき」と主張しているのですから、これは子育ての場をホッブズ的な「自然状態」にしようとする何らかの陰謀でしょう…冗談だよ。
 関連記事:「子育て言説は「脅迫」であるべきなのか ~草薙厚子『子どもが壊れる家』が壊しているもの~

 ・金子勝(慶応義塾大学教授)

 現在の生活を楽しもうとする、この若者たちの心象風景には、社会どころか家族さえ見えてこない。(2005年9月28日付朝日新聞)

 少なくとも金子氏は信頼できる書き手であっただけに(昨年の頭に、生化学者の児玉龍彦氏と出した『逆システム学』(岩波新書)は必読!)、ゲームやインターネットに熱中する青少年に対するこのような差別的な発言に、少なからず失望してしまいました。金子氏の論理は、論理的にしてかつ忌憚のない(少々暴走することもあるけれども)政府批判、小泉純一郎・竹中平蔵批判が魅力なのですが…。
 関連記事:「総選挙総括:選挙「後」におけるメディアの頽廃に着目せよ

 ・千石保(日本青少年研究所所長)

 「改革を止めるなってキャッチフレーズは若者言葉。元気がいい。ただし中身は問われていない。まさに流行だしファッションなんだが、ある意味小泉首相自身が若者化していると思う」(2005年9月13日付東京新聞)

 「元気がいい。ただし中身は問われていない。まさに流行だしファッション」という言葉は、むしろ若者論のほうに多く見られますよね。「ゲーム脳の恐怖」「フィギュア萌え族」「ケータイを持ったサル」「下流社会」「脳内汚染」云々。こういう人たちも、千石氏の手にかかれば「若者」なのでしょうね。
 関連記事:「総選挙総括:選挙「後」におけるメディアの頽廃に着目せよ

 ・福島章(上智大学名誉教授)

 安城市における乳児刺殺事件は、おそらく、冬があまりに寒かったせいであろう。寝屋川市の教職員殺傷事件では、少年は少し前のバイク事故で、エネルギーを発散する手段を失っていた。その欲求不満のはけ口が、あの殺傷ゲームだったのだろう。(2005年3月3日付読売新聞)

 「安城市における乳児刺殺事件は、おそらく、冬があまりに寒かったせいであろう」…って、もはやお笑いでしかありませんね。かつては青少年の心理や病理に関して優れた著書を書いていた福島氏ですが(『青年期の心』(講談社現代新書)は是非一読されたし)、いまやマスコミ御用達の単なる俗流コメンテーターに堕してしまったようです。まあ、今に始まったことではないのですが。
 関連記事:「俗流若者論ケースファイル03・福島章」「32・二階堂祥生&福島章&野田正彰

 ・陰山英男(尾道市立土堂小学校校長)

 では、子供の睡眠時間を奪ったものはなんだろうか。それが受験競争の低年齢化と、テレビ、ゲーム、インターネット、携帯電話である。こうしたディスプレーが一日中手放せない。子供たちに人気の「3年B組金八先生」は、昔は午後9時からの放送だったが、今では10時から。それくらい子供たちの夜更かしが進んでいる。一言でいえば、ディスプレー依存症にかかっているのだ。(「文藝春秋」2005年5月号)

 教育論においてはかなり信頼できる論者であった陰山氏ですが、「ディスプレー依存症」を言い始めたあたりから暗雲が立ち込めてきました。もはや「ゲーム脳」を支持するのも時間の問題かもしれません。
 関連記事:「俗流若者論ケースファイル18・陰山英男

 ・石堂淑朗(脚本家)

 パソコンすなわち個人専用コンピューターの本質が使用者の大脳無差別破壊につながる可能性ありということを、発明者はじめ科学者が誰も言わなかったのは不可解千万だと、今頃喚いてももう遅い。パソコン関連の諸活動は儲かるからだ。金が倫理より強いと言うことをライブドアの実践が日々示しつつある。(「正論」2005年4月号)

 おーい、だったらどうして「ゲーム脳の恐怖」だとか「脳内汚染」みたいなのが定期的に話題になるんだよ。それに、科学的検証など全く無視したアナロジーだらけの若者論ばかりが流行る状況について、それこそそのような諸活動は儲かるからとマスコミが考えているということもできるね。金が倫理や学者のノーブレス・オブリージュより強い、ということは、既に森昭雄や正高信男の実践が日々示しつつあるのです。
 関連記事:「俗流若者論ケースファイル28・石堂淑朗

 ・小原信(青山学院大学教授)

 スクリーン世代は、それ以前の世代とは違い、初めからケータイやパソコンを持ち、その世界に遊ぶことしか知らない。いまではケータイやメールの呪縛から離れることができない。……推薦状を書いてもらい入社してすぐに会社を辞めた者は、自分にあわなかったと言うが、自分への忠実しか見ていない。同じ学校の後輩が今後、採用されなくなるとは考えない。(「中央公論」2005年3月号)

 「労働政策研究・研修機構」の副統括研究員である小杉礼子氏によれば、学生や生徒をとにかく会社に押し込んでいた時代にも、高卒は約4割が早期離職していたそうです(現在は約5割で、微増程度。玄田有史、小杉礼子『子どもがニートになったなら』(NHK出版生活人新書))。小原氏は何でもかんでも「パソコナリティ」なる独自の概念に結び付けすぎです。このような「病理」を「発見」していい気になっている倫理学者を見ていると、やはりコメンテーターは気楽な稼業ときたもんだ、と思い込んでしまいます。
 関連記事:「俗流若者論ケースファイル02・小原信

 ・杉山幸丸(元京都大学霊長類研究所所長)

 社会性獲得不全とは、言い換えれば人間性はもとより、動物性の基本さえ獲得することができなかったということだ。おまけに探検精神または試行錯誤をしながら壁を乗り越えようとする心の基盤が乏しいから、内へ内へと向かってしまう。これではおとなのひきこもりと大差はない。(杉山幸丸『進化しすぎた日本人』中公新書ラクレ、2005年9月、133ページ)

 自分の育ってきた環境は、社会的のみならず、生物学的にも素晴らしい環境だったのだ!といいたいのでしょうね。でも、杉山氏の理論もまた、結局は正高信男氏の一連の疑似科学と同工異曲のものに過ぎません。そもそも杉山氏は(そして正高氏も)、単なる軽々しい「現代社会批判」のアナロジーとしてサル学を持ち出しているに過ぎない。杉山氏は優秀な霊長類学者だったはずなのに(杉山氏の『子殺しの行動学』(講談社学術文庫)はお勧め。現在品切れなので、古本屋で探してください)。我が国における霊長類研究の創始者、今西錦司氏が草葉の陰で泣いているのを肌で感じてしまいます。

 ・斉藤弘子(ノンフィクションライター)

 スッポンの話が長くなりましたが、この「噛みついたら離さないスッポン」のように、就職して社会人になっても親に鳴きついて援助してもらい、親のすねをかじる若者たちを「スッポン症候群」といいます。(斉藤弘子『器用に生きられない人たち』中公新書ラクレ、2005年1月、135ページ)

 このような心理的な「ご託宣」は、結局のところ社会的な影響を無視して「自己責任」論に収束させてしまうという問題をはらんでいますが、昨今の若者論は、そのような危険性を無視する傾向を強めている傾向にあります。「ニート」という概念を紹介した玄田有史氏(東京大学助教授)ですら、「ニート」問題を語る点において心理的な問題をかなり重点視している感じがする。このような社会の「心理学化」は、ある意味では社会的責任からの逃走といえるかもしれない。

 ・小田晋(帝塚山学院大学教授)

 異常性愛の傾向を持つ者は昔から存在した。しかし、これが連鎖し、歯止めがなくなっているように見えるのはなぜか。 一つは、犯罪や性に関する情報、とりわけ小児性愛に関する情報が、“表現の自由”の名の下に、漫画、DVD、ネットなどを通じて氾濫していることである。しかも一部の精神医学者・社会学者は「欲求不満の解消になる」と擁護してさえいる。(2005年12月10日付産経新聞)

 少なくとも、幼子が被害者となる事件は減少傾向にあります。自分の「理解できない」事件を目の前にして、その「原因」を自分が不快だと思うメディアに求めてしまう傾向は、もはや歯止めをかけることができないのでしょうか…。

 ・室井佑月(作家)

 そんな育てられ方をした子がどう育つか。最近の若い男たちは、女性にふられただけで「すべたが終わった」と落ち込む。「傷つくのが怖い」と女性に声をかけることもできない。(「サンデー毎日」2006年1月1日号)

 そもそもこの文章が掲載されている室井氏のインタヴューは、はっきり言って論理の展開が飛びすぎて困ってしまいます。そもそもこのような物言いは、室井氏が「「今時の若者」は情けない」と考えているからなのかもしれませんが、情けないのは室井氏のほうではないのですか?ステレオタイプでしかものが言えないのですから。せめて実感以上の証拠を出して欲しい。

 以下、フリーター、「ニート」論のオンパレードを。
 ・弘兼憲史(漫画家)

 「日本が裕福になり、親が養ってくれるからだろう。恵まれた時代に育ち、自立するという自覚が若者にはないからだ。日本の今後を考えると極めて不安だ。子供に良い目を見させると、ろくなことはない」(2005年7月28日付読売新聞)

 もちろん、これはかなり俗説を含んでいるのであって、就労に関することを述べたいのであれば、青少年の心理ばかりを問題化するということはあまりフェアーではないように思えるのですが。さすが「団塊の世代のトップランナー」とでも言うべきか、とにかく説教を垂れていればいいという感じがします。
 関連記事:「統計学の常識、やってTRY!第4回&俗流若者論ケースファイル42・弘兼憲史

 ・浅井宏純(株式会社海外教育コンサルタンツ代表取締役)

 しかし、ニートは、国や親の財産、年金などを食い荒らしていく存在です。まず、自分の内面的な崩壊から始まって、家庭の崩壊、親や先生を殺すのはまれとしても、犯罪を伴うこともあります。それは社会の崩壊にもつながつていくという、ある意味での爆弾といえるでしょう。(浅井宏純、森本和子『自分の子どもをニートにさせない方法』宝島社、2005年7月、15ページ)

 浅井氏の論理は、完全に危険を煽る目的でしか書かれておらず、しかも「心の健康」やらの「7つの健康」を取り戻せば直ちに「ニート」は撲滅できる、って、もう少し社会構造の問題にも想像力を広げていただきたい!

 ・荒木創造(心理カウンセラー)

 では、なぜニートや引きこもりは日本だけにしか見られないのだろうか?(荒木創造『ニートの心理学』小学館文庫、2005年11月、3ページ)

 ついに来たぜ、「ニート」を日本独自の病理だとする言説がよ!少なくとも「ニート」という概念は英国から輸入されたもので、しかも英国ではこれが「社会的排除」という意味を強くもっていた。ところがこの概念が我が国に輸入される概念で、心理的な病理が強調されるようになってしまった。「ニート」という言葉を口にするときには、そのようなことを念頭に入れなければなりません。

 佳作(6名)
 ・松沢成文(神奈川県知事)
 首都圏におけるゲーム規制を扇動し、ゲームをやる奴は犯罪者になると喧伝しました。

 やはり今の少年たち、ゲームなんかの影響でですね、バーチャルとリアリティーの区別がつかなくなってしまって、バーチャルなものに影響され過ぎて、それで犯罪に走ってしまうということが多々あるんですね。(2005年3月2日付神奈川県知事定例記者会見)

 ワイドショーで喧伝されるような《バーチャルとリアリティーの区別がつかなくなってしまって》云々という俗説が、なんと政治の場に持ち越されてしまいました。しかし少年犯罪に関して言いますと、件数に関しては昭和35年ごろに比して減少しておりますので、「ゲームの悪影響で少年犯罪が増えた」ということはあまり口出しすべきではないと思われます。従って、このゲーム規制の件は、単なるポピュリズムと捉えたほうがいいのかもしれません。
 参考記事:「俗流若者論ケースファイル12・松沢成文」「45・松沢成文

 ・藤原正彦(お茶の水女子大学教授)

 教育基本法には「個人の尊厳」とか「個人の価値」が謳い上げられているが、これが「身勝手の助長」につながった。少子化やフリーター激増もこの美辞に支えられている。(2005年5月16日付読売新聞)

 それでしたらなぜ藤原氏は、「国家の品格」といった美辞麗句に限って支持してしまうのでしょうか?藤原氏の議論にかけているのは「今・ここ」の問題に対する想像力であり、その点に関する想像力を少しでも働かせればこのような論理は展開できないはずではないでしょうか。要するに、藤原氏の支持する美辞麗句と支持しない美辞麗句の違いは、結局のところ自意識を高めてくれるものに過ぎないのではないか、という気がしてきます。
 参考記事:「俗流若者論ケースファイル44・藤原正彦

 ・森昭雄(日本大学教授)
 今なお「ゲーム脳」理論の宣教師として熱心な活動を続けておられる森氏ですが、何をトチ狂ったのか、今年4月末のJR福知山線の事故を起こした運転手を「ゲーム脳」と断定してしまいました。

 「高見運転士は過去3回も乗務員として重大なミスを犯しながら、自身で再発防止ができておらず、注意力が散漫な印象を受ける。伊丹駅でのオーバーラン後、指令の呼び出しに応答がなかったのも、故意であるとすれば、大事な場面で倫理的な行動がとれず、キレやすいというのはゲーム脳の特徴とよく似ているともいえる。JR西日本は運転士に関する情報を開示するなど、徹底検証が必要ではないか」(「ZAKZAK」平成17年4月26日更新

 もはやゲームがなくとも「ゲーム脳」とプロファイリングされる状況の誕生であります。

 ・筑紫哲也(ジャーナリスト)

 そして、その背景を考えてみると、少年の日常に仮想現実(バーチャルリアリティ)の占める比重がきわめて大きいのではないか。もっと言えば、犯行後も「殺す」ということがどういう現実なのか、わかっていないのではないか。仮想現実と現実との区別がはっきりしていないのではないか――とさまざまな推察が浮かぶ。(「週刊金曜日」2005年11月18日号)

 筑紫氏の意外な、そして驚くべき保守性が一気に露呈したのも平成17年の特徴ではないかと思います。もとよりそのような兆候は少し前からもあったのですが、平成17年になって筑紫氏は「ことばの新事典」なる連載内連載を始めて、そのコンセプトとして「今時の若者」に対する嘆きがあり、少年犯罪に分析でも、結局のところ筑紫氏もまた単なるバッシングに終始してしまった。実に嘆かわしいことであります。
 関連記事:「俗流若者論ケースファイル10・筑紫哲也」「74・筑紫哲也

 ・香山リカ(精神科医)

 犯罪や事件覚悟で「萌え」を推進するか、さもなくば大損承知で全面規制するか、とるべき道はふたつにひとつしかない。(「創」2005年7月号)

 このような暴論が生まれる原因として、まず香山氏もまた「実際の恋愛こそが素晴らしいのだ、仮想現実を経由した恋愛は危険だ」という根拠のない「実感信仰」を持っているのと同時に、「金儲けを考える奴はみんな偏狭な認識しかもっていない人だ」という差別意識――少なくとも、「萌え」を推進したがっている経済界と、実際の「オタク」の人たちの間にはかなり差異があるように思えるから、このような意識は正しくないように思える――も持っていることの帰結ということになるのでしょうか。香山氏に関しては「下流社会」論に対する過剰な肩入れも懸念されます(例えば、「サンデー毎日」2005年12月18日号)。
 関連記事:「俗流若者論ケースファイル33・香山リカ

 ・岡田尊司(精神科医)

 前頭葉の機能の低下が子どもたち全般に広がり、「発達障害」的な傾向や無気力・無関心な傾向をもった若者が平均的は存在になり、更には「サイコパス」的な特長さえ有する若者が珍しくなくなりつつあるという事実を前にするとき、暗澹たる気持ちを禁じえない。(岡田尊司『脳内汚染』文藝春秋、2005年12月、311ページ)

 岡田氏は今年の中盤から暮れにかけて、ほとんど「月刊岡田」といってもいい状態で本を出し続けましたが(半年の間に5冊!)、この『脳内汚染』はその集大成なのでしょうか。とりあえず『悲しみの子どもたち』(集英社新書)と『誇大自己症候群』(ちくま新書)は読んで、検証候補リストに加えているのですが、岡田氏の言説全体に関しては最近出された岡田氏の著書を一通り目を通すまで評価を控えさせていただきます(まだ読んでいないのが、『パーソナリティー障害』『子どもの「心の病」を知る』(以上、PHP新書)、『人格障害の時代』『自己愛型社会』(以上、平凡社新書))。

 それはさておき、この言葉ですが、「サイコパス」って差別語じゃありませんでしたっけ?それに、このような「「サイコパス」的」みたいな言葉を濫用すれば、自分の気に食わないものはみんな「「サイコパス」的」ということになりますね、というよりも岡田氏は『脳内汚染』の中で本当にそうしているのだから救いようがない。

 準グランプリ(3名)
 ・石原慎太郎(東京都知事)

 今日横溢する、安易に行なわれる凶悪犯罪も実はその根底に肥大化による人間の自己喪失がある。換言すればそれはただの自己中心主義であり、些細な想像力をすら欠いてしまった人間の抑制の効かぬ衝動がただ気にいらぬ、うるさい、わずらわしいというだけで他人の殺傷に及んでしまうのだ。(「文藝春秋」2005年5月号)

 「文藝春秋」の平成17年5月号と8月号で、石原氏はかなり過激な俗流若者論をやらかしていましたが、結局は単に「本質」を連呼しているだけで、こういう議論ってのは所詮は論壇なる「愚痴の共同体」の中で消費されるだけの、身内で囁きあうだけの言説に過ぎないのだなあと感じてしまいました。少なくとも犯罪白書ぐらい読んでくれ!
 関連記事:「俗流若者論ケースファイル11・石原慎太郎」「34・石原慎太郎&養老孟司

 ・柳田邦男(ノンフィクション作家)

 私などの目から見ると、今時の若者たちは気の毒だなと思う。ファミリー・レストランなどに入ると、あちこちの席に若い男女の二人連れが座っている。ところが、お互いに顔を見つめ合って話しにはずみをつけているカップルは、少ない。何をしているのかと思って見ると、二人がそれぞれに手許のケータイでピコピコとやっている。私はそういう若者たちを不思議な動物だなと思うのだが、若者たちはいまや総ケータイ依存症になっているから、自分たちを変だとは思わない。(柳田邦男『壊れる日本人』新潮社、2005年3月、25ページ)

 柳田邦男氏もまた、「新潮45」の「日本人の教養」なる連載によって俗流若者論の奈落に落ちてしまいました。上の文章は、おそらく『壊れる日本人』という本の中で2番目にひどい部分――1番ひどい部分は、どういうわけか片仮名と平仮名だけで書いてしまった部分なのですが、3ページにも亘っていますので引用するのは控えました――ではないかと思われます。そもそも「不思議な動物」なんて、明らかに人間と思っていないじゃないですか。「新潮45」の読者には受けるのかしら。
 関連記事:「壊れる日本人と差別する柳田邦男

 ・正高信男(京都大学教授)

 一連の推測がまったく私の見当はずれである可能性も大いにある。だが趣味でしている作業なら、的はずれであったとしてそれが益にならないとしても、またさして害になることもあるまいと、執筆した次第である。(正高信男『考えないヒト』中公新書、2005年7月、「まえがき」)

 待ってました、このような無責任発言!

 …ゲフンゲフン。

 いや、なんと言いますか、正高氏が最近振りかざしてきた疑似科学が、このように言われてしまうと、何となく萎えてしまうでしょう。しかし、こういうノリで書かれた本――前著である『ケータイを持ったサル』(中公新書)も含めて――がベストセラーとなり、多くの人が好意的に引用している様を見てしまったら、我が国の「読者層」の知的頽廃ぶりに絶望を覚えてしまいます。
 関連記事:「正高信男という斜陽

 グランプリ(1名)
 ・三浦展(民間シンクタンク研究員)
 平成17年に「下流社会」なる語句を大流行させた仕掛け人。しかしその正体は、結局のところそれまでのマーケティング常識――すなわち、ただひたすら「上」を目指すための消費を煽ること――が通用せず、身の丈に合った生き方をする人たちに対する呪詛を振りまいて「目標のあった時代はよかった」などと上の世代に嘆かせた、いわばハーメルンの笛吹きでした。その文章は、上昇意識を持たない人間などゴミも同然だなどという憎悪がこもっていたものも多かったのですが(特に『仕事をしなければ、自分はみつからない。』と『「かまやつ女」の時代』)、そんな三浦氏の発言の中でも、もっとも笑わせてもらったのがこれ!

 今日も電車に乗ると、隣に若い男が座り、早速マクドナルドをむしゃむしゃ食べ始めた。Tシャツに無精ひげのこの男は、一体何をして暮らしているのだろう?街や駅で倒れこんでいる若者を見ることも少なくない。それも夜じゃない。朝や昼だ。パチンコ屋の店先には早朝から若者が座り込んで開店を待っている。最近は、こういう人を見ると、もしかしてこれが噂のニートかと思う癖がついた。(三浦展『下流社会』光文社新書、2005年9月、262ページ)

 はっきり言いますけれども、「ニート」とは、厳密に言えば、仕事をしていなければ、求職活動もしておらず、また教育も受けていないことの総称であって、決してそのライフスタイルまでが規定されているわけではありません。にもかかわらず、三浦氏が《これが噂のニートかと思う癖がついた》理由は、結局のところマスコミが面白がってニートだニートだと騒ぎ立てたために、「ニート」=怠け者、といったイメージが結びついてしまったからではないでしょうか?このような書き飛ばしは、平成18年は、もうやめてくださいね。
 関連記事:「三浦展研究・中編 ~空疎なるマーケティング言説の行き着く先~」「後編 ~消費フェミニズムの罠にはまる三浦展~」「俗流若者論ケースファイル75・宮崎美紀子&三浦展&香山リカ」「76・三浦展

 それでは、今年の若者論の動向に想いを馳せつつ、よいお年を!

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2005年12月23日 (金)

トラックバック雑記文・05年12月23日

 今回のトラックバック:「冬枯れの街」/本田由紀/赤木智弘/田中秀臣

 ただいま、寒気が日本中を席巻しており、全国で大雪を降らせております。私の住んでいる仙台も猛吹雪が吹き荒れました。

 しかし、猛吹雪が吹き荒れているのは何も天候だけではない。我が国の青少年政策にもまた、猛吹雪が吹き荒れています。

 冬枯れの街:「竜に一人一人順に喰われていくのが嫌ならば竜を皆で殺すしかない。」
 昨日の「トラックバック雑記文」で、自民党が「「犯罪から子どもを守る」ための緊急提言」なるものを発表したことに関して少々愚痴を発してしまいました。しかし、この「緊急提言」は、あまりにも問題の大きいものであるため、批判することは十分相当性があります。この「緊急提言」と同時に、「AERA」に掲載された「漫画を規制せよ!」と高らかに叫んでいる投書も転載してしまいましたが、いまだに政治にもマスコミにもアダルトゲームやロリコンものの漫画を規制すれば子供が被害者になる犯罪は撲滅できる、と能天気に考えている人が多いようです(投書は個人の見解じゃないか、という反論もありましょうが、投書の選定に関しては編集デスクが関わってくるので、その編集デスクの意向が(記事には表れない「隠れた本音」と言い換えてもいいでしょう)反映される、という見方も十分にできます)。

 「冬枯れの街」では、「青少年問題に関する特別委員会」の平成17年12月16日付議事録が批判されていますが、このエントリーの筆鋒があまりにも鋭くて、私が検証するよりも遥かによく問題点をあぶりだしております。それにしても、「子供を守る」という大義の下、これまでの事件とは全く関係ないメディアが、しかも自民党から共産党までの大同団結の下規制されつつあるのですから、思い込みの持つ力は論理よりも勝っている、ということの証左なのでしょうか。こういうときだけ「挙国一致」かよ。もっと他に解決すべき問題があるだろーが。例えば建物の耐震補強あるいは免震・制震化とか(天野彰『地震から生き延びることは愛』文春新書、の第4章や、深堀美英『免震住宅のすすめ』講談社ブルーバックス、等の地震関連の本を参照されたし。宮城県在住の人なら、大竹政和『防災力!――宮城県沖地震に備える』創童舎、あるいは、源栄正人『宮城県沖地震の再来に備えよ』河北新報出版センター、も参照)。高度成長期に建造されたコンクリート建造物は粗悪で崩れやすい、という報告もあります(小林一輔『コンクリートが危ない』岩波新書)。これこそ国民の安全に関わる問題です。また、本当に子供を守りたい、というのであれば、極めて確率の低い(しかしマスコミは総力を挙げて騒ぎたがる)ロリコンによる性犯罪ではなく、児童虐待と感染症と交通事故と自然災害という、本当に子供が死んでしまうリスクが極めて高い部分での対策をやるべきでしょう。

 参考までに、民主党の「児童買春・児童ポルノ規制法案に関する見解」も転載しておきます。

1、児董を性的虐待から守るため、特に海外における低年齢児童への買春・ポルノ撮影等が国際的批判をあびている現状に対して、早期の立法措置が必要である。
2、しかし、今回提出された与党案は、構成要件があいまいで警察の裁量が大きくなりすぎ、表現の自由、児童の性的自己決定権などを不当に侵害するおそれもある。また、刑法など他の法制との整合性にも問題がある。さらに、守るべき法益があいまいなため、海外の低年齢児童など、緊急に保護が必要な部分への実効性も不十分である。
3、私たちは、国民の権利・義務に密接にかかわる本立法が国民的合意に基づき早期に行われるべきとの考えから、与党協議への参加、提出前の修正などについて与党と非公式に交渉してきたが、われわれの提案に一切耳を傾けず、与党が法案提出に踏み切ったことは、法案を真剣に成立させる意欲があるとすれば、まことに遺憾である。
4、以上のような観点から、与党案は抜本的に見直しの上、再提出が必要と考えるが、最低限以下の修正が必要である。
(1)「買春の定義」について
○定義があいまいな「性交類似行為」を削除し、「性交等」の定義を、「性交、若しくは自己の性的好奇心を満たす目的で、性器、肛門若しくは乳首に接触し、又は接触させること。」と明確化する。
○通常の交際との線引きを明確にするため、「代償」は、拡大解釈されないよう限定する。
(2)「ポルノの範囲」について
 絵は、保護法益が異なるため除外する。
(3)「ポルノの定義」について
 「衣服の全部又は一部を脱いだ児童の姿態であって性的好奇心をそそるもの」との表現は、範囲が広すぎかつ主観的・あいまいであり、削除する。
(4)「広告の処罰」について
 写真等の掲示があれば正犯、その他の場合も公然陳列・販売の共犯・幇助犯として処罰できるので、削除する。
(5)「児童買春の罰状」について
 他の刑法犯との整合性からも、懲役「5年以下」を周旋罪・勧誘罪と同じ「3年以下」に改める。
(6)「児童ポルノの単純所持」について
 守るべき法益がなく、削除する。
(7)「年齢の知情」について
 過失処罰の規定であり、「児童の年齢を知らないことにつき過失の存するときは、第3条乃至第7条の規定による処罰を免れることはできない。」に、改める。
5、民主党は、上記事項をふまえ、人権侵害のおそれがなく、実効性のある対案を早期にとりまとめ、次期国会に提出する所存である。

 とりあえずは及第点といっていいでしょう。《構成要件があいまいで警察の裁量が大きくなりすぎ、表現の自由、児童の性的自己決定権などを不当に侵害するおそれもある》《守るべき法益があいまいなため、海外の低年齢児童など、緊急に保護が必要な部分への実効性も不十分》《「代償」は、拡大解釈されないよう限定する》《絵は、保護法益が異なるため除外する》《写真等の掲示があれば正犯、その他の場合も公然陳列・販売の共犯・幇助犯として処罰できる》など、不当に利権を拡大させようとしている自民党の懲りない面々に声を出させて読ませたい文章です。

 しかし、このような無用な青少年「政策」は、ロリコンメディアにとどまっているわけではない。

 もじれの日々:うんざり+心から体へ+火星人(本田由紀氏:東京大学助教授)

 本田氏の問題意識に全面的に同意。

しかし思うに、小田中さん(筆者注:東北大学助教授の小田中直樹氏)が昨日のコメント欄で言及してくださっていたように、「若者の心をさわらずに何とかしたい」と内藤さん(筆者注:明治大学専任講師の内藤朝雄氏)と私がもごもご言い合っている間に、世の中の方が一足早く、「(若者の)心から体へ」とターゲットを移しつつあるのだ。もう若者の何だかよくわからない「心」などをとやかく言っていてもはかどらない、と焦れ、「早寝・早起き・朝ごはん」、「生活リズム」、「挨拶」などの外面的な、非知的なところで型にはめる方が手っ取り早い、という考えが澎湃と広がりつつあるのだろう。そういう「型」からぱこんぱこんと「健全な」若者が量産される状態に対して、私はむしろ一種のおぞましさを感じるし、そんなことはそもそも不可能だと思うのだが、それをこそ理想だとする人々がちゃんと、しかも相当の勢力をもって、存在するのだ。

 このような論理は、様々な衣をまとって我々の周りを侵蝕しつつあります。例えば、「俗流若者論ケースファイル18・陰山英男」で検証した、尾道市立土堂小学校校長の陰山英男氏は、子供たちが「ディスプレー症候群」にかかっているから少年犯罪や学力低下が起こるのだ、と言っております。これは脳科学のアナロジーを悪用した論理ですが、その分野で今トップにいるのが森昭雄氏であることは疑いえません。本田氏言うところの《外面的な、非知的なところで型にはめる方が手っ取り早い、という考え》に関して言うと、このような論理は既に眼科医学(「俗流若者論ケースファイル60・田村知則」)や、あるいは小児科学(「俗流若者論ケースファイル56・片岡直樹」)、またはスピリチュアリズム(「反スピリチュアリズム ~江原啓之『子どもが危ない!』の虚妄を衝く」)といった分野に属する人からも出ています(また、それらがことごとくゲームやインターネットを悪玉視しているのが不思議だ)。ま、みんな亜流ですけどね。

 本田氏の《そういう「型」からぱこんぱこんと「健全な」若者が量産される状態に対して、私はむしろ一種のおぞましさを感じる》という苦言は実にごもっともでありますが、彼らのやりたいことは一種の「自己実現」(笑)に過ぎない。ですから、こういう人たちを突き崩す論理は、彼らの子供じみたプライドを否定すればいい(笑)。これは自民党のメディア規制推進派にも言えます。

 さて、「冬枯れの街」では、「戦後教育が「幼女が被害者となる犯罪」を生み出したのだ!」と叫んでいる、自民党国会議員の松本洋平氏が批判されています。しかし松本氏は昭和48年(1973年)生まれ。要するに、私より11歳年上なわけです。従って松本氏が受けたのもまた「戦後教育」のはずなのですし、松本氏は戦前の教育を受けていません。受けていない教育をどうしてそんなに礼賛できるの?問題点も含めて調べたのか?単にそこらの保守論壇人の愚痴を真似ているだけではないのか?

 私は最近、若年無業者(「ニート」)に関する朝日新聞の投書を集中的に調べたことがあるのですが、私と1、2歳ほど違わない大学生が、例えば《教育を語る上で昔と今が決定的に違うのは、日常の生活では「生きる力」を身につけることが困難になってしまったことでしょう》(平成17年3月18日付朝日新聞、東京本社発行)などと平然と語ってしまうことにも腹を立てております。要するに、現代の若年層を批判するために、理想化された「一昔前」とか「戦前」をいとも簡単に持ち出す。

 深夜のシマネコBlog:自虐史観に負けるな友よ(赤木智弘氏)

 「過去を美化するな、現在を軸足に据えよ、そしてその上で最善の解決策を設計せよ」という、自己中心主義者にして合理主義者にして刹那主義者(笑)の私としては、《ましてや、このようなメディア利用の上で若い人たちに、さも「昔の人たちは偉かった」と思わせるようなことをするのなら、当然徹底的に反論させてもらう。/若い人たちが、自分たちの事を卑下することのないように、それこそ若い人たちが生きた歴史を否定する本当の意味での「自虐史観」に陥らないようにしたい》という赤木氏の問題意識には強く共鳴します。

 徒に「理想化された過去」に自己を同一化し、エクスタシーを得ている人たちが多すぎます。自分の生活世界を見直そうともせず、あるいは現在喧伝されている「問題」に対して懐疑の念を持たず、ただ「日本人の精神」みたいなフィクションに陶酔することこそ、自己の否定、自我の否定であって、結局のところあんたらが毛嫌いしている「自分探し」でしかねえんだよ。

 ついでにこの話題にも触れておきますか。
 Economics Lovers Live:ニート論壇の見取り図作成中(田中秀臣氏:エコノミスト)
 最近になって、巷の「ニート」論に対する批判が次々と出ています。その急先鋒は、本田由紀、内藤朝雄、田中秀臣の3氏であるといえましょう。本田氏は、「働く意欲のない「ニート」は10年前から増えていない」というネット上のインタヴュー記事で、若年無業者自身の心理的問題を重点視する従来の「ニート」論を批判しています。内藤氏は、「図書新聞」平成17年3月18日号で「お前もニートだ」という文章を発表し、青少年ネガティヴ・キャンペーンの一つとしての「ニート」論に、社会学的な立場から反駁を行なっています。田中氏は、このエントリーとはまた別のブログ「田中秀臣の「ノーガード経済論戦」」の記事や、あるいは「SAPIO」平成17年11月23日号の記事で、「「ニート」は景気が悪化したから発生したのであり、景気が良くなれば減少するはずだ」と主張し、「ニート」が予算捻出の口実になっている、と批判しています。このような田中氏の、景気に関する説明に関しては本田氏は少し疑問を持っていますが、問題意識の点では共鳴しているといっていいでしょう。

 また、田中氏との共著もある、早稲田大学教授の若田部昌澄氏も、最新刊『改革の経済学』(ダイヤモンド社)において、「ニートの中の不安な曖昧さ」と題して玄田有史氏を批判していますし(とはいえ、若田部氏の著書に関しては、まだ立ち読み程度なのですが…)、明石書店から出ている「未来への学力と日本の教育」の第5巻である、佐藤洋作、平塚眞樹(編著)『ニート・フリーターと学力』では、法政大学助教授の児美川孝一郎氏と、横浜市立大学教授の中西新太郎氏が「ニート」論を検証しています(児美川孝一郎「フリーター・ニートとは誰か」、中西新太郎「青年層の現実に即して社会的自立像を組みかえる」)。これと、来春出る予定の、本田氏と内藤氏と私の共著である『「ニート」って言うな!』(光文社新書)で、反「「ニート」論」の議論はおおよそ出揃うでしょう。

 これに対し、従来の「ニート」論の土台を担ってきたのが玄田有史氏(東京大学助教授)と小杉礼子氏(「労働政策研究・研修機構」副統括研究員)です。特に玄田氏は、かなり初期の頃から青少年の「心」を問題化していた(「論座」平成16年8月号の文章が、一番その点の主張が強いかな)。その玄田氏と小杉氏が中心となってまとめられた本が『子どもがニートになったなら』(NHK出版生活人新書)で、この本には玄田氏と小杉氏のほか、宮本みち子(放送大学教授)、江川紹子(ジャーナリスト)、小島貴子(キャリアカウンセラー)、長須正明(東京聖栄大学専任講師)、斎藤環(精神科医)の各氏が登場しています。ここに、玄田氏が序文を寄せている『「ニート」支援マニュアル』(PHP研究所)の著者である、NPO法人「「育て上げ」ネット」代表の工藤啓氏や、更に「希望学プロジェクト」という、玄田氏が中心となって動いているプロジェクトや、玄田氏も重要なポストにいる「若者の人間力を高めるための国民運動」の両方に参加している、東京学芸大学教授の山田昌弘氏も加えて、一つの陣営として捉えることができる。また、「サイゾー」の最新号の記事を見てみる限り、自民党衆議院議員の杉村太蔵氏もこちら側に親和的かな。

 さて、この話題に関して、もう少しだけ語らせてください。というのも、「ニートサポートナビ」というウェブサイトを見つけたのですが、そこに「ニート度チェック」なるコンテンツがありました。数回やってみたのですが、出題はランダムのようです。というわけで、今回また新しく挑戦してみましょう。

 1つ目の質問:会社的な所属(居場所)が自宅以外にない
 《会社的な所属(居場所)》とは、何を指すのでしょうか。少なくとも私はまだ大学生ですから、会社には所属していないし、アルバイトも家庭教師しかしていない。成人式実行委員会が《会社的な所属》といえるかどうかも疑問。極めて曖昧な質問なので、とりあえず「自宅以外にない」のほうにチェックをつけておきます。

 2つ目の質問:グループの雰囲気に溶け込むのが苦手だ
 私は大学内にほとんど友達がいません。また、コミュニケーション能力はあまり高くなく、もし自分が自分の体質とは少しずれるグループにいたら、少々我慢して、あまり干渉せず、溶け込もうともしないでしょう。従って、これは「苦手だ」というほうにチェックしておきます。

 3つ目の質問: 自分はとても真面目なほうだと思う
 少なくとも、私は、書物を読み漁り、あるいは計算式を懸命に解いたり、文章を書いたりすることにやりがいを感じているので、これは「思う」といってもいいかな。

 4つ目の質問:アルバイト情報誌(求人誌)は「とりあえず」目を通す
 これは「目を通す」ですね。この設問は、選択肢が「目を通す」「目を通さない」ですから、「とりあえず」でなくても、目を通すなら「目を通す」に応えるべきなのでしょう。

 5つ目の質問:父親とよく会話をする
 あまりしないほうだと思いますね。「しない」。

 6つ目の質問:製造業に魅力を感じる
 当たり前じゃないですか。製造業なくして世界は成り立ちませんよ。従って「感じる」。

 7つ目の質問:何かを始める前には、自分が納得している必要がある
 「考えてから行動する」か「行動してから考える」ということを聞いているのかな。私は「考えてから行動する」タイプなので、「納得している必要がある」。

 8つ目の質問:親の目を見るのが苦手だ
 「苦手ではない」。

 9つ目の質問:好きな自分と嫌いな自分がいる
 これは、長所と短所を表しているのでしょう。従って、「当てはまる」。ちなみに「当てはまらない」に関しては、3パターンあります。一つは「好きな自分はいるが嫌いな自分はいない」。もう一つは「好きな自分はいないが嫌いな自分はいる」。最後に「好きな自分も嫌いな自分もいない」。この3つに当てはまる人は、押しなべて「当てはまらない」に答えるべきなのでしょう。

 10つ目の質問:ニートという言葉が嫌いだ
 はい、大嫌いです。私は一貫して若年無業者という言葉を使うか、あるいは「ニート」とカギカッコに入れて使ってきた。この言葉が、青少年の内面ばかりを問題視する言説ばかりをはびこらせたのは否定し得ない。
 さて、10個の質問が終わりました。私の「ニート度」はいかがか!!

あなたはニート傾向が強いようです。

もし長期に渡って就業から遠ざかっているようでしたら、「ワークセレクション」にて、様々な仕事に携わる人たちの様子やインタビューを配信していますので、ご覧になっていただければ、新たな一歩を踏み出すきっかけとなるかもしれません。
また、就労や訓練を受ける意欲があるようでしたら、「若者自立塾の紹介」にて、厚生労働省の施策として行われている全国の各若者自立塾の概要をご紹介しております。「若者自立塾のアンケート結果」「若者自立塾の口コミ情報」とともにご覧になっていただき、興味があれば各自立塾にお問い合わせしてみるのもいいかもしれません。
自分でもどうしてよいかわからない場合は、「メールカウンセリング」にて専門カウンセラーのアドバイスを受けることができますので、一度ご相談してみてはいかがでしょう。

 よくここまでわかるもんだなあ、感心。っていうか、こりゃ、一種の宣伝にしか見えないな。
 で、何が言いたいのかな、このテストは。曖昧です。まさに「ニートの中の不安な曖昧さ」(@若田部昌澄)。

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2005年12月22日 (木)

トラックバック雑記文・05年12月22日

 今回のトラックバック:「カマヤンの虚業日記」/「冬枯れの街」/古鳥羽護/「性犯罪報道と『オタク叩き』検証」/「おたくの旅路」/「海邦高校鴻巣分校」

  さて、どうしたものか…。
 カマヤンの虚業日記:[政治]自民党・規制派の謀略
 冬枯れの街:ゲーム悪影響論に下された審判
 フィギュア萌え族(仮)犯行説問題ブログ版・サブカル叩き報道を追う:大谷昭宏・勝谷誠彦「実践的な防犯よりも”変態”をやっつけろ!」(古鳥羽護氏)
 性犯罪報道と『オタク叩き』検証:2005ユーキャン新語・流行語大賞トップテン『萌え~』『ブログ』、やくみつるが授賞
 おたくの旅路:野球をやると殺人者になる!
 海邦高校鴻巣分校:暴力漫画への怒りを表明した貴方へ
 ついに自民党が、表現規制に向けて動き出したそうです。

「犯罪から子どもを守る」ための緊急提言
平成17年12月19日 自由民主党 「犯罪から子どもを守る」緊急対策本部
今後取り組むべき課題
1.青少年の健全育成環境の整備
女子児童を対象とした犯罪増加の背景には、児童ポルノや暴力的なコミック、過激なゲームソフト等の蔓延の問題が指摘される。

子どもを対象とした性犯罪を封じ込めるには、青少年のみならず、成人にも悪影響を与えるこうした児童ポルノ等が事実上野放しにされている現状を改革する必要がある。

すでにいくつかの都県や政令市はこうした児童ポルノ等を条例により規制しており、自由民主党としても「青少年健全育成推進基本法」の制定に向けた取り組みを進める。

同時に、政府においても内閣府を中心に時代を担う青少年の健全育成に対する世論の喚起に努める。

 それだけではありません。朝日新聞社の週刊誌「AERA」平成17年12月26日号にも、有吉由香「子どもを殺させるな」という記事の反響として、以下のような投書が掲載されております(ちなみに有吉氏の記事自体は表現規制には一言も触れてはいません)。

 女児に対する異常な犯罪が続いている。女児をもつ親の胸は、犯人への底知れぬ怒りとともにこんな社会を作った大人の無関心・無力さへの悔しさでいっぱいだ。

 新聞やテレビのニュースでは毎日のように、「次世代」とつく新しいモノやサービスが登場している。誰もがそれに乗り遅れまいと夢中である。

 しかし、多くの大人は現実社会で押しつぶされそうな「無力な次世代」に対しては、あまりにも無関心すぎると私には思えてならない。

 親は必死である。児童をIT機器で防護し登下校の送り迎えをする。しかし親、学校、自治体の防護にも限界はある。なぜなら犯人は入念に下調べをして防護のスキを狙っているからだ。あるいは成人男性が自暴自棄にアタックしてきたとき、大人でさえ子供を守りきれないことは過去の事件から明白である。

 親や学校や自治体だけではなく、すべての社会を構成する大人にできること、そしてその責任があること。それはこういった幼児・児童への犯罪を助長する情報を社会から一掃することである。

 私が始めていること。それは成人向け雑誌・コミックとその他の本を平然と一緒に並べている書店では買物をせず、必ず書店には「止めるべきだ」と意見を言うことである。店長に直接言うのだ。そういった声を上げ続けない限り、幼児・児童への性は「法律的に問題ない」と売り物にされるのだ。

 親が必死に子供を守っている一方で、街には幼児や児童を性の対象とした雑誌やコミックが平然と、しかも誰の目にもつくように売られている。想像して欲しい。娘と一緒に絵本を買いに行った書店で、異常な性癖を持った男が娘を観察しているかもしれないのだ。大人よ、次世代のためにも自分の責任を果たせ。(東京都日野市・柿崎○○ 43歳・会社員兼大学生)←投書のため苗字だけの公開とします

 自民党にしろ、この突っ込みどころ満載の投書を書いた柿崎某にしろ、自分の言っていることの非論理性や非科学性を理解しているのでしょうか。

 確かに最近の児童が被害者となる事件は憂うべきではありますが、だからといってそれらの事件と彼らが問題にしている性表現の相関性はほとんど認められていません。あなたはニュースを見ていないのですか?これらの事件の報道を見れば、少なくともこれらの事件とあなた方の問題視している性表現が容易に結びついているという判断を安易に下すことはできないはずです。これは過去にさかのぼっても同じことで、昨年の奈良県の事件に関しても、犯人がそのようなポルノを常に見ているわけではなかった。結局のところ、あなた方は、「自分が不可解だと思っているから、子供たちにとって有害だ」と思っているのに過ぎないのではないですか?あなた方の身勝手が、そのまま「子供を守る」という大義名分とつながっているだけではないですか?

 それにです。特に柿崎様、《幼児・児童への犯罪を助長する情報》とは言いたい何を指すのでしょうか。柿崎様の言い分であれば、おそらくそれは《幼児や児童を性の対象とした雑誌やコミック》の事を指すのでしょう。しかし、それだけを《幼児・児童への犯罪を助長する情報》と限定し、それに対して規制しろ、という態度は、果たして公平といえるのでしょうか?

 例えばです。もし誰かが「報道に触発されて幼児を襲った」とでも証言したら、あなたは報道を規制しろ、とでも言うのでしょうか?また、世の中には、かつてから児童ポルノを取り扱った作品もありますし、ドラマの世界でも殺人を取り扱ったものは数知れない。それらも規制しろ、とあなたは言うのですか?

 自民党もまた然りです。自民党は、《女子児童を対象とした犯罪増加の背景には、児童ポルノや暴力的なコミック、過激なゲームソフト等の蔓延の問題が指摘される》と書いております。その指摘が正しいかどうかにもかかわらず、それらを無条件で受け入れて《犯罪増加の背景》として、規制してしまうのですか?他の要因は無視してしまうのでしょうか。
 もう一つ、子供が殺されている事件が急増している、とあなた方はおっしゃっていますが、統計的はやぶさかでもないようです。「少年犯罪データベース」に掲載されている資料なのですが、警察庁の「犯罪統計書」によりますと、幼女レイプの認知件数は、昭和35年ごろを境に著しく減少しており、従って最近の社会が幼女強姦を誘発している、とは到底いえないことがわかるでしょう。子供が不審者によってレイプを受けるリスクは急減しています。社会不安に乗じてメディア規制を煽っている人たちには、あなたたちは児童虐待についてどう考えているのか、と問いただしたいほどです(「今の親は駄目になった」という一般論で茶を濁す人もいるかもしれませんが、児童虐待は昔から問題として根強く存在していたのですからね!)。

 最後に柿崎様へ――最後の一段落は、これは一部の男性に対する差別ではありませんか?あなたの書き方では、幼女が出てくる漫画を見ている《異常な性癖を持った男》が、子供たちを虎視眈々と狙っている、とあなたは考えている、ということになるでしょうが、少なくとも彼らが犯罪者予備軍呼ばわりされる理由はない。児童ポルノに対する摘発は、実際に作成の過程で刑法的な問題が発生したときに限られるでしょう。ましてや、漫画やゲームに関しては、あくまでも出てくるのは仮想の人物ですから、名誉毀損罪は成立しません。これらの性表現が「少女全体に対する名誉毀損」ということを言いたいのであっても、具体的な被害者がいない限り名誉毀損罪としては成立しえません。

 あなたたちは、結局のところ、自分の「理解できない」ものを犯罪の元凶だ!といいたいだけではありませんか?それは、単に想像力や論理性の欠如だけではなく、レイシズムにもつながるものです。最近は、身辺雑記レヴェルの「憂国」から一気に天下国家を語ってしまうケースが目立ちますが(「文藝春秋」平成18年1月号の特集「三つの言葉」の一部も、このケースでしょう…私は立ち読みでしか読んでいませんが)、自民党の皆様、政治までそのようなレヴェルで大丈夫なのですか?

 それにしても、誰の口から「修復的司法」という言葉が出てきませんが…。猫も杓子も「厳罰主義」「メディア規制」の大合唱、事件そのものの修復や被害者遺族の被害回復など、誰も考えていないようです。防犯という大義の下、人々の自由が、それも事実誤認にまみれた認識で奪われていく…。そしてマスコミの愚かなコメンテーター共や、投書欄にはびこる短絡的な主張を叫ぶ人たちは、ただ「世間」の不安に乗じて、自分たちの主張を押し付けるだけ。ネガティヴ・イメージばかり先行しているだけです。一体得をしているのは誰なのか?子供をダシにして自分の利権を押し通したいだけではないのか?

 というよりも、広島の事件の犯人が外国人と知ってからは、一気に「分析」とやらが沈静化してしまった感じもありますが…。

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2005年12月 4日 (日)

トラックバック雑記文・05年12月04日

 今回のトラックバック:「えのき」/古鳥羽護/克森淳/赤木智弘/保坂展人/「目に映る21世紀」/「性犯罪報道と『オタク叩き』検証」/本田由紀/「海邦高校鴻巣分校」/「ヤースのへんしん」/栗山光司/木村剛

 先日(平成17年12月2日)、平成18年仙台市成人式実行委員会の最後の会議が開かれたのですが…

 えのき:来年の成人式に注目
 なんと平成17年仙台市成人式実行委員会の人が来てくれたのですよ。このエントリーの書き手もその一人です。来てくれた人は、伊藤洋介・平成17年仙台市成人式実行委員会委員長他5名(1人は会議開始前に帰宅し、会議中にもう1人帰ってしまいましたが)。あー、ちなみに文中の《ごっと》とは俺のことだ。リンク貼ってくれよ(嘘)。

 それにしても世間は狭いもので、今年2月に書いた「私の体験的成人式論」で採り上げた、平成17年の成人式の第2部における、私がチーフだったブースのスタッフの内、小学校の教師と当日スタッフ1人が今回の実行委員になってしまっている(笑)。

 閑話休題、このエントリーでも書かれているのですが、平成17年仙台市成人式実行委員会は、組織としては消えておりますけれども、実行委員(「元実行委員」かな?)の繋がりはいまだに途絶えていない。今年6月の頭ごろにも飲み会を行ないました(そこで元気をもらって一気に執筆したのが「壊れる日本人と差別する柳田邦男」だったりする)。私は最初は実行委員会に参加することで成人式報道が隠蔽している部分を見てやろう、と思って実行委員会に殴りこんだのですが、終わってみると様々な出会いを経験できたり、先日の会議でもいろいろと近況を話すことができたりと、得られたものは大きかった。

 昨今の「コミュニケーション能力」だとか「人間力」だとか重視みたいな風潮とか(このような風潮に対する理論的な批判は、本田由紀『多元化する「能力」と日本社会』(NTT出版)を是非!)「コミュニケーション能力が低いと「下流」になるぞ!」みたいなレイシズムとかは嫌いなのですが、やっぱり人間関係の重要さは否定し得ない。

 さて、また幼い子供が被害者となる残酷な事件が起こってしまいました。被害者の方のご冥福をお祈りします。しかし…

 フィギュア萌え族(仮)犯行説問題ブログ版:勝谷誠彦氏、広島小1女児殺害事件の犯人が「子供をフィギュアの様に扱っている」と発言。(古鳥羽護氏)
 走れ小心者 in Disguise!:素人探偵になりたくないのに…(克森淳氏)

 私が事件の犯人と同様に腹が立つのは、事件にかこつけて好き勝手プロファイリングを行っている自称「識者」たちです。現在発売中の「週刊文春」によると、上智大学名誉教授の福島章氏によれば、岡山の事件の犯人は犯人は幼い頃から暴力的表現に慣れ親しんできた若い世代だそうで(福島氏については「俗流若者論ケースファイル」の第3回第32回も参照されたし)。そして実際につかまってみればそれとはかなり違う人物像だったし、もしかしたら冤罪の可能性もあるかもしれない。

 元来プロファイリングとは、この分野の第一人者である社会安全研究財団研究主幹の渡辺昭一氏によれば、行動科学によって《蓄積された知見に基づいて、犯罪捜査に活用可能な形で情報を提供しようとする》(渡辺昭一『犯罪者プロファイリング』角川Oneテーマ21、39ページ)ことを指すそうです。更にこの手法は《事件を解決したり、容疑者のリストを提示したりするわけでは》なく、《確率論的に可能性の高い犯人像を示すもので、捜査を効率的に進めるための捜査支援ツールの一つ》(前掲書、40ページ)に過ぎないそうです。しかしマスコミ上で行なわれる「プロファイリング」は、結局のところ自分の主義主張に合わない人をバッシングするための方便にすぎない。ついでに、これは渡辺氏の著書の19ページ周辺にも述べられていますが、暴力的な映像の視聴が直接的に暴力的な行動につながる、ということは証明されていませんからね(宮台真司『宮台真司interviews』世界書院、も参照されたし)。

 古鳥羽護氏のエントリーによれば、今度は勝谷誠彦氏が「フィギュア萌え族」的な発言をしたそうです。この手の犯罪が起こるたびに、マスコミは犯人像を「不気味な存在」とか「モンスター」だとか、あるいは事件を「現代社会の歪み」だとか捉えたがりますが、私が見る限り、ここ最近2件の殺人・死体遺棄事件、及び昨年末の女子児童誘拐殺人事件は、かなり典型的な誘拐殺人であるように思えます。もちろんこのような推理も私の勝手な「プロファイリング」には違いないのですが、少なくとも事件に対して「不気味」「不可解」だとか唱和するのではなく、典型的な事件とどこが違うのか証明してくれませんか?事件が大筋で典型的なものであるとわかれば、それらの事件の傾向を分析し、目撃証言と照合すれば、おそらく1週間くらいで犯人はつかまるのではないかと思います。

 少なくとも少女に限らず子供が誘拐される事件は昔からあったでしょうし、今の事件(誘拐に限らず!)だけが「不可解」というわけでもないでしょう。

 そう考えてみますと、「安心」を壊しているのはマスコミなのかもしれません。12月3日付読売新聞の社会面の見出しが「また幼女が被害者に」みたいなものでしたけれども、このような見出しにすることによって、「幼女しか性的対象にできない歪んだ男が増えている」みたいな世論を造りたいのではないか、と考えるのはうがち過ぎか。

 深夜のシマネコBlog:高木浩光@自宅の日記より、まず神話を作り、次に神話は崩壊した!と叫ぶマスコミ(赤木智弘氏)

 少年及び若年層による凶悪犯罪に関して言えば、我が国ではいまだに安全(少年による凶悪事件に遭遇しないという意味での「安全」)は保たれているといえます。しかしマスコミでは「少年犯罪が凶悪化している」という唱和ばかり。そもそもそのような扇動に走るマスコミは、現在のことばかりに終始して、過去にどれほど犯罪などが起こっていたかということは見ていない。ある意味、「カーニヴァル化する社会」(鈴木謙介氏)という言葉は、むしろ昨今のマスコミにも言えるのかもしれない。

 もう一つ、このような事件に対する報道は、ある意味では「子供の自由」という問題もかなりはらんでいるように見えます。

 深夜のシマネコBlog:児童虐待を本当に根絶するために。(赤木智弘氏)
 最近では保坂展人氏(衆議院議員・社民党)すら《もっとも具体的な方法は、子どもをひとりで、ないし子どもだけで登下校させないことだ。たとえ社会的コストがつきまとっても実現すべきなのかもしれない》(保坂展人のどこどこ日記:格差社会と子どもの「安全」)と言ってしまっていますが、殺人という特殊な危機のために、子供の行動を全般的に制限する必要はあるのでしょうか。

 まず、すなわち子供は一人でいると危険だから常に親が付き合うべきだ、みたいな論理が許されるのであれば、危険は何も登下校中のみに潜んでいるわけではないでしょう。その点から言えば、例えば子供が一人で友達の家に遊びに行く際も親が付き添っていなければならない、ということになりますが、それは子供にとって、あるいは親にとってプラスといえるかどうか。また、子供が常に親の監視下におかれることによって、例えば子供がどこかに寄り道したりとかいった体験を殺してしまうことにはならないか。

 ただし犯罪を防ぐための施策として、公共的な場所や街路の監視性・透明性を高めておく必要はあると思います。例えば私が東京に行って、ある住宅地を歩いたときの話ですが、その住宅地の近くには活気のある商店街があり、そこはなかなか味があってよかったのですが、商店街や大きな道路から少しでも外れると街灯が少なく、更にかなり塀に囲まれて見通しの悪い場所で、もしかしたら誰かに刺されるかもしれないと思っていました。誘拐事件の多くも路上が現場となっているようですので、路上の監視性を高めておく、という施策はやるべきでしょう。

 ついでに、保坂氏のエントリーでは、タイトルが「格差社会と子どもの「安全」」であるにもかかわらず肝心の「格差社会」については最後のほうでエクスキューズ程度に触れられているだけです。しかし「格差社会」論から犯罪予防のヒントを探るとすれば、様々な社会的階層の人が社会的に排除されているという感覚をコミュニティによってなくしていく、ということが挙げられるでしょう。そのためには、不安ではなく信頼をベースにした多くの人が参加できるコミュニティの形成、あるいは社会的に排除されている(と感じている)人とかあるいは特定の社会階層の人が帰属意識を持つことのできる副次的なコミュニティの形成が必要となります。

 ちなみに皇學館大学助教授の森真一氏の著書『日本はなぜ諍いの多い国になったのか』(中公新書ラクレ)の最終章の最後のほうで、農漁村にかつて存在していた「若者組」だとか「若者宿」みたいな若年層のコミュニティに入っていた人が散々非行をしても、いざコミュニティを脱退するとすっかり非行をやめてしまい、消防団長や懲戒議員などにやって若年層の非行に眉をひそめるようになる、ということが紹介されています。森氏は、このことについて《かつての地域社会や年長者は「限度ギリギリまで、社会的なルールを無視する行為を若者たちに許す場を提供」しました。他方、現代の年長者はそのような時代が存在したことを忘れ、「社会的なルールを無視する」若者の行動を、予定調和を乱す「リスク」「コスト」としか見なさなくなったのです》(森真一『日本はなぜ諍いの多い国になったのか』中公新書ラクレ、233ページ)と分析しておりますが、この話は、「セキュリティ・タウン」的な、あるいは「ゼロ・トレランス」的な風潮が強まる我が国の状況において批判的な視座を投げかけるかもしれません。

 話は変わって、最近の「「萌え」ブーム」なるものに関する話題ですが…

 目に映る21世紀:【キールとトーク】おたく男・女/恋愛資本主義/『下流社会』/見えない消費と、余裕のある僕ら(←「下流社会」論に関して真っ当な批判あり)
 性犯罪報道と『オタク叩き』検証:11月1日『ザ・ワイド』・リベラが「遭遇した」コスプレダンサー、『電車男』にも登場

 私は正直言って最近の「「萌え」ブーム」なるものがあまり好きではありません。基本的に「オタク文化」的なものは認めますが、それでも昨今のブームには疑問を持たざるを得ない。

 疑問点その1。「萌え関連企業が急上昇!」みたいなことを言う人が多すぎますけれども、所詮そのようなことは他の業種の売上が下がって、相対的にオタク産業が浮上してきたとしかいえない。従って「急上昇」みたいな言い方はあまり好ましくないように思える。
 疑問点その2。「目に映る21世紀」における《うぜえ・・・。結局、今回の萌えバブルやらオタクブームって差別の再生産をしただけにしか感じられん》というくだりについて、これに激しく同意。私はテレビにおいて何度か「オタク」が採り上げられた番組を見たことがありますが、それらの番組はことごとく「遠まわしな差別感」に彩られていた感触があった(例えば、平成17年11月24日のTBS系列「うたばん」)。そもそも「オタク」=「電車男」みたいな傾向も強い。「電車男」については私は本も読んでいないし映画もドラマも見ていないけれども。これを強く認識したのは「トリビアの泉」(平成17年8月24日)だったかな。人助けを笑いものにする、というのは、まさしく検証対象が「オタク」でなかったらできなかったと思う。

 現在のマスコミにおいて、冷静に「オタク」を採り上げることのできるのは、朝日新聞社の「AERA」編集部の福井洋平氏と有吉由香氏くらいしかいないのではないかというのが私見です。福井氏は「AERA」平成16年12月13日号で「アキハバラ 萌えるバザール」という記事を書いている。有吉氏は同誌平成17年6月20日号で、ライターの杉浦由美子氏と共に「萌える女オタク」という記事を書いています。それらの記事はあまり「オタク」を見下した態度をとらず、筆致は熱がこもっているけれども冷静さも保っている。他方で「AERA」は「独身女に教える男の萌えポイント」(伊東武彦、平成17年8月29日号)とか「負け犬女性に贈る「ツンデレ」指南」(内山洋紀、福井洋平、平成17年10月17日号)みたいな記事も書いているからなあ…。しかし「AERA」の「オタク」報道が他の週刊誌とはかなり一線を画しているのも確か(「読売ウィークリー」に至っては、副編集長自ら「「オタク」は絶望的な男」と言っているし)。そのうち、体系的に評価してみる必要があるでしょう(とりあえず記事はそろえてあります)。

 「人間力」という名の勘違い、まだまだ続く。

 もじれの日々:独り言(本田由紀氏:東京大学助教授)
 海邦高校鴻巣分校:「人間力運動」は即刻解散せよ

 「若者の人間力を高めるための国民運動」が「応援メッセージ」を発表しました。「海邦高校鴻巣分校」はこれらの「メッセージ」について、建築評論家の渡辺豊和氏の言葉を引いて「平凡な学生の課題案よりひどい」と述べておりますが、私はこれ以上の内容は期待していなかったので、おおよそ期待通りのものが出てきた、というのが正直な感想です。
 しかし山田昌弘氏(東京学芸大学教授)の「メッセージ」には注意を喚起しておきたい。

 今後社会が不安定化していくのでそのなかでも上手く立ち回れるような能力をつけて欲しいことと、自分のことを評価してくれるようなネットワーク、人間関係を大切にして欲しいですね。

 要するに組織に波風を立てずに従順に生きていけ、ということですか?このような言説は、前出の森真一氏が著書『自己コントロールの檻』(講談社選書メチエ)でつとに批判していることですが、社会が流動化し、職場や組織の往来が活発になると、個人には慣れ親しんだ会社や組織に対する思い入れを排除し、新しい職場環境に適切に移動する能力が求められるようになる、という傾向に、山田氏も組していることになる。

 本田由紀氏も、最初のほうで採り上げた『多元化する「能力」と日本社会』という著書において、昨今の「人間力」重視的な風潮を批判しており、「コミュニケーション能力」とか、あるいはそれこそ「人間力」みたいな《「ポスト近代型能力」の重要化とは、個々人の人格全体が社会に動員されるようになることに等し》く、そのような能力を要求する社会(本田氏言うところの「ハイパー・メリトクラシー」)の下では《個々人の何もかもをむき出しにしようとする視線が社会に充満することになる》(以上、本田由紀『多元化する「能力」と日本社会』NTT出版、248ページ)。このような「人間力」重視の社会背景を注視するために、森氏と本田氏の議論は必見でしょう。

 

ヤースのへんしん:耐震対策は早急に!
 「姉歯」叩きの裏で、あまり注目されていないのが公共施設の吊り天井。平成17年12月1日付の読売新聞宮城県版によれば、地震発生時に崩落する怖れのある吊り天井の数はなんと4996。ちなみにこのことは地方面でしか報じられていない。こういうことこそ、もっと追求すべきではないかと思うのですが。

 このことに着目させたのが、平成17年8月16日で起きた宮城県沖地震でした(しかし「本命」の宮城県沖地震ではないことがわかりましたが。「本命」の30年以内に来る確立はいまだに99%)。もとよりこの地震で天井が崩落した施設「スポパーク松森」の屋根がアーチ状だったため、左右の揺れが増幅されて吊り天井が崩落した、ということが明らかになっています(東北大学工学部の源栄正人教授らによる)。ですからアーチ状の建物にも注意を向けるべきでしょう。ただ昨今の「姉歯」叩きを見ている限り、この問題が建物の耐震設計全般の問題に波及することもなければ、建築基準法改正前に建てられた建物及び既存の耐震不適格の建物の耐震補強の問題、及び本当に完全にスクラップ・アンド・ビルドでいいのか、耐震補強ではなぜ駄目なのか、という問題に波及することもないかもしれない。

千人印の歩行器:[読書編]しみじみ「内在系」、メンヘラーって?(栗山光司氏)
 このエントリーでは、共に社会学者の宮台真司氏と北田暁大氏の共著『限界の思考』が採り上げられていますけれども、宮台氏ももちろんですが、北田氏をはじめ、最近の若手論客にも注目すべき人は多い。

 さて、「論座」平成18年1月号の特集は「30代の論客たち」だそうです。執筆者のラインナップを見ても、渋谷望氏、牧原出氏、芹沢一也氏など、かなり期待できるメンバーがそろっております。「論座」は平成15年7月号から毎号購読しているのですが、編集長が薬師寺克行氏に代わってからは面白い特集がますます増えています(平成17年4月号「日本の言論」、6月号「憲法改正」、7月号「リベラルの責任」、10月号「進化するテレビ」など)。

 特に面白そうなのが、宮台真司、佐藤俊樹、北田暁大、鈴木謙介の4氏による対談。ここまですごいメンバーを集められるのもすごい。読み応えがありそうです。

週刊!木村剛:[ゴーログ]ばーちゃんが株を買い、親父がブログる?!(木村剛氏:エコノミスト)

 身内がブログをやっている、ということはないなあ。少なくとも私の家族の中で本格的にブログをやっているのは私だけですが、その理由も所詮は自分の文章を発表する場所を作りたい、という理由にすぎない。

 でも、知っている人がブログをやっていたり、あるいは始めて本格的に話す人に「ブログを見た」と言われると、少々戸惑ってしまうことがありますが。

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2005年11月11日 (金)

トラックバック雑記文・05年11月11日

 今回のトラックバック:本田由紀/古鳥羽護/杉村太蔵/「ANOTHER BRICK IN THE WALL」/「目に映る21世紀」/鈴木謙介/栗山光司/「わにぞう日記」/「月よお前が悪いから」

 このブログは、今月8日で開設1周年となりました(旧ブログも含めて)。だからといって何かやる気もあまりないのですが。でも、何かやってみようかなあ。 

 もじれの日々:あっぷあっぷ(本田由紀氏:東京大学助教授)
 フィギュア萌え族(仮)犯行説問題ブログ版:情報ツウ:杉村太蔵議員の若者へのエールと、福岡政行ゼミ「ニート問題」(古鳥羽護氏)

 現在発売中の「SAPIO」(小学館)にて、エコノミストの田中秀臣氏が昨今の「ニート」論の広がりを批判する記事が掲載されているようです。もとより現在発売中の「SAPIO」に関しては、かの曲学阿世の徒・正高信男氏が登場しているので、それを斬る目的で近々買う予定なのですが(この疑似科学者の記事が掲載されていなかったら「SAPIO」なんて買わなかっただろうなあ)、最近の話題において「ニート」という言葉によって若年層の就業構造の問題や経済的な問題が隠蔽されている。

 最近ではこのような「ニート」論に対する逆襲が静かながら始まっているようです。代表的なのは田中氏と本田由紀氏、そして内藤朝雄氏(明治大学専任講師)でしょう。本田氏も、最近は「ニート」論及び玄田有史氏(東京大学助教授)への批判のエントリーが多くなっている。本田氏に関して言うと、最近ネット上で話題になっているものといえば「日本の人事部」というサイトに掲載されたインタヴュー「働く意欲のない「ニート」は10年前から増えていない」ですが、本田氏は若年の就業の研究に携わってきた立場から、主として社会構造の視点から「ニート」論を批判している。

 一方、内藤氏は、社会学的な立場から批判を加えています。内藤氏による「ニート」論批判に関しては、「図書新聞」平成17年3月18日号か、現在発売中の「10+1」(INAX出版)を読んで欲しいのですが、内藤氏による「ニート」論批判の論点は、「ニート」論が我が国においては社会構造の問題ではなく青少年の心理的な問題として受容されてしまっていること、「いい年して働かない奴」「親の金を食いつぶして遊びほうけている奴」は「金持ちの道楽息子」みたいに昔からいたのに、なぜか最近になって突然問題化されるようになったこと、そしてこのような「ニート」論の広がりが様々なことを隠蔽し、大衆の憎悪を煽り立てて国家主義的な策動が支持されてしまうことなどが挙げられます。

 これらの議論に加えて、私は「自立」ということがなぜか絶対視されている、ということを付け加えてみたいと思います。山田昌弘氏(東京学芸大学教授)の「パラサイト・シングル」論に始まり、昨今では「自立しない」=悪、という図式がまかり通っている。正高信男に至っては、「自立しない」=サル、なんてことを言ってしまう始末です。しかし、これほど経済状況が悪化しているのであれば、「依存」というのも一つの手段、あるいはライフスタイルとして認められるべきではないかと。この「自立」を絶対視した「ニート」批判、という歪みは、元々「ニート」という言葉を輸入した玄田有史氏から始まっており、玄田氏は最近出た本(『働く過剰』NTT出版)や「中央公論」の連載コラムにおいて、「家事手伝い」をなぜ「ニート」と呼ばなくてはならないか、ということについて「家事手伝い」は家庭に縛り付けられて「自立できない」存在である、だから「ニート」であるということを言っている始末。
 ある意味では、「ニート」論の歪みは、そのまま我が国における若者論の歪みのヴィヴィッドな反映といえるかもしれない。

 参考までに、私のブログのエントリーで「ニート」について言及したものもいくつか挙げておきます。

 「統計学の常識、やってTRY!第4回&俗流若者論ケースファイル42・弘兼憲史
 「俗流若者論ケースファイル43・奥田祥子&高畑基宏

 「ニート」論がらみで少々宣伝しておきますと、本田氏と内藤氏が来年の年明けに出す本に関して、私も執筆者の末席に加わることになるかもしれません。今は原稿のやり取りの真っ最中なのですが、とりあえず私は巷の「ニート」論を分析・検証する立場、ということで。

 本田氏といえば、今月末あたりに「ハイパー・メリトクラシー社会化」(大雑把に言えば、「人間力」みたいなことを喧伝する社会のことらしい)に関して述べた本が出るそうなので、こちらも注目しておきたいところです。

 何か勘違いしている人を発見。

 杉村太蔵ブログ:「杉村太蔵が聞きたいっ!」開催のお知らせ(杉村太蔵氏:衆議院議員・自民党)

 まず書き出しにびっくり。「我こそはフリーター、我こそはニートという皆様へ」ってなんですかぁ。そこまで堂々と言える人がいるんかいな。しかも杉村氏は、このエントリーにおいて、フリーターなり「ニート」なりをどうもポジティブに捉えすぎているのではないかという気がする。そもそもこの人、自分のことを「フリーター・ニート世代の代表」みたいに吹聴しているみたいですが、そもそも自分を「ある世代」の代表に置くこと自体が間違いなのではないか。そもそもそのような宣伝は、ある意味では上昇意識の低いフリーターや「ニート」を置き去りにしてしまう、という危険性もなきにしもあらず。

 もっとも、市民の声を聞こうとする態度は評価できますが。その点において、最近公開した「総選挙総括:選挙「後」におけるメディアの頽廃に着目せよ」で紹介した、竹中平蔵氏のブログのこいつぁアホかと思わず天を見上げてしまうようなエントリーよりは遥かにマシ。杉村氏は、またある意味ではですが、今後大化けする可能性はかなり高い。一回会って話をしてみたいが、私は仙台在住だし、授業もかなり忙しいし。成人式実行委員会の仕事も詰まってきたし。

 ANOTHER BRICK IN THE WALL:国民運動に参加した芸能人について
 目に映る21世紀:「若者の人間力を高めるための国民運動」と、「若者の人間力を高めない非国民運動」

 「若者の人間力を高めるための国民運動」。これこそ「何か勘違いしてるんじゃないか」の典型例かな。こういうのを杉村氏は目指しているのかどうかは分かりませんが、少なくともこういう歪んだ「希望」を与えることによって、目の前の問題が解決するかのごとき錯覚を与えることはやめて欲しい。こういう「人間力」喧伝って言うのは、ある意味においてカルト宗教的かもしれない。「人間力」向上による「解脱」を説く点において…。

 SOUL for SALE:格差バブルと下層の論理(鈴木謙介氏:国際大学グローバル・コミュニケーション・センター研究員)
 千人印の歩行器:[ネット編]文明の背後に野蛮が潜んでいる(栗山光司氏)

 なんか最近「下流社会」みたいな議論が大流行ですが、私がどうもこの議論の後ろに胡散臭さを感じずにはいられないのは、こういう議論が、結局のところ単なるマーケティング的カテゴライズ及びそこから来る空疎な若年層バッシングにしかなりえないということ。その点においては、「下流社会」は本質的に「ゲーム脳」「ケータイを持ったサル」みたいな疑似科学的レイシズムと変わらないのかもしれない。私が何故こういうことを言えるかというと、それは本書、及び本書に対する書評(金子勝、吉田司、松原隆一郎の3氏。そしてこの3氏の「下流社会」評が掲載されているメディアが全て朝日新聞系だというのがこれまた興味深い)を読んで、結局のところ『下流社会』(光文社新書)の著者・三浦展氏と金子・吉田・松原の3氏が、最終的には若年層を危険視、あるいは蔑視していたことです。

 金子氏と松原氏は信頼できる書き手なのですが、「下流社会」論への肩入れを見てかなりがっかりしました。金子氏については、先ほどリンクを貼った総選挙総括を参照してください。

 我々は若年層を「説明」するための「便利な概念」を手に入れすぎたのではないか。「下流社会」「ゲーム脳の恐怖」「ケータイを持ったサル」はその典型ですが、我々はこのような「便利な概念」を手に入れすぎたことによって、それらに束縛されるようになった。そして、「理解できない」若年層の行動に対して、森昭雄や正高信男などといった扇動屋の言説に「癒し」を求めるようになった。このような「癒し」の行方、またはこれらの扇動言説がレイシズムにつながる可能性も見ないで。

 「文明」というのが、「自己」と「他者」の線引きを強化し、「他者」に対してなら何をやってもいい、ということにつながるなら、それこそ「文明の超克」が必要なのではないか…って、ちょっと言いすぎたか。とりあえず、インターネットやテレビゲームに「はまっている」人たちは年収が低くて、それゆえに差別的言動に走ったり自民党を熱狂的に支持したり、という論理は偏見だ、ということを言っておきたいっ!

 わにぞう日記:戦後教育のせいで子供はおかしくなったのか?
 全面的に同意します。このエントリーの議論は、戦後教育なるものを批判する人たちが、青少年・若年層を過剰に貶めることによって、現代日本人を自虐している、という論理の錯誤というものですが、私がかねてから思っていたことをうまく文章化してくれています。

 すこし飛躍するのだが、「自虐史観」をしばしば非難する論者たちが、現代日本社会に対してはきわめて自虐的な議論を好んで用いていることが気になっている。現代日本において、日本人も若者も堕落しきっていることを口を極めて指摘し、そのような彼らにかつての戦争の時代の国民や若者を非難する資格があるのか、と問いかける。多くのまじめな人がこの問いかけに影響を受け、現代日本の現状へのうしろめたさもあって、歴史への批判をみずから封じ込めているようにみえる場合がある。これは実は現代日本人の直接的自虐である。現代の日本人・少年を否定することにより、戦争中のある種の青春を天まで持ち上げるのだ。また、自虐=自己否定の焦点は何故か、自由や人権・個人の尊厳の尊重といった近代民主主義の原則、あるいは戦後民主主義そのものに向かうのである。この手の自虐の構造あるいはメカニズムも、どうも気になって仕方がない。

 もっとも私は、このような議論の錯誤は、青少年と戦後教育を口走る人が、自分は「戦後」の人間ではない、悪としての「戦後」を脱した「正しい」人間なんだ、と錯覚していることから始まっていると思うのですが。

 フィギュア萌え族(仮)犯行説問題ブログ版:板橋両親殺害事件「あんな単純な理由で殺したと思われたくない」マスコミが理由全部に触れない違和感(古鳥羽護氏)
 こういう報道が蔓延するのは、結局のところ、背景にある特殊な事情を無視して、このような突発的事件を「どこでも起こりうる事件」に仕立て上げ、不安をあおりたいだけなのかもしれませんね。そういう報道に、断固として「NO」と言っていきましょう。そもそも少年犯罪はピーク時に比べてかなり低い水準を推移しているのですから、なぜ犯罪が「起こらないか」ということを検証すべきではないでしょうか。

 月よお前が悪いから:[規制]恐れていたことが現実に
 児童ポルノを持っているだけで、犯罪を起こしていないのに犯罪者扱いですか。そもそも「何々を持っているからこいつは犯罪を起こす可能性が高い」というのは、「良質な文化」みたいなものを国家が規定してしまう可能性がある。更にそれを通り越して、国家が「理想的な日本人」を規定してしまう可能性がある。

 広田照幸『《愛国心》のゆくえ』(世織書房)という本において、国家が「正しいコドモ」を規定すると、ゆくゆくは「正しいオトナ」も国家によって規定されかねない、という議論がなされていますが、そういう点に無関心であってはいけないと思います。

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2005年10月22日 (土)

トラックバック雑記文・05年10月22日

 トラックバック:「kitanoのアレ」/「成城トランスカレッジ!」/「カマヤンの虚業日記」/本田由紀/古鳥羽護/「フリーターが語る渡り奉公人事情」/保坂展人/茅原実里
 忙しくて更新する暇がないよ…。

 kitanoのアレ:ジェンダーフリーとは/暴走する国会/憲法調査会報告書
 成城トランスカレッジ! -人文系NEWS&COLUMN-:ageまショー。
 カマヤンの虚業日記:「霊感詐欺する権利」なんか存在しない

 グーグルで「ジェンダーフリー」を検索すると、自民党のプロジェクトだとか(統一教会の機関紙である)「世界日報」の記事とかが上のほうにヒットしてしまうそうです。で、それらの記事は、徒に「ジェンダーフリー」を危険視したり、あるいは陰謀論まで持ち出して的はずれの批判をしたり、というものが多いようです。私はこの手の言説を、産経新聞社の月刊誌「正論」でよく読むのですが、こういう言説を展開する人たちの歴史観を疑いたくなりますね。結局のところ「自分が理解できない奴らが増えたのは自分が判定している政治勢力の陰謀だ!!」って言いたいだけでしょ。こういう人たちは、酒場でのさばらせておく分には害はないのですが、実際の政治に関わっているのだから無視できない。

 そこで「成城トランスカレッジ!」の管理人が発足したプロジェクトが「ジェンダーフリーとは」というウェブサイトです。このサイトは、「ジェンダーフリー」に関する論点や、それの批判に対する反駁、また混同されることの多い「男女平等」と「ジェンダーフリー」の違いなどを説明した優れたサイトです。

 しかし、「kitanoのアレ」に貼られている、自民党の「過激な性教育・ジェンダーフリー教育実態調査プロジェクトチーム」(安倍晋三座長)のバナー広告を一部改変した広告が面白い。何せ《まさかと思う訴えが父母から寄せられています。自民党は責任を持って性感染症を増やします》ですからね。ただこのようなパロディは正当性があります。というのも、性感染症など、性行為にまつわる疫病・感染症を予防するためには、適切な処置をとらなければならない。従って、それに関する知識も必要になる。ところが自民党の推し進めている性教育とは、「性行為は害悪だ」「性行為はするな」の一点張りのようです。

 社会学者の宮台真司氏が、数ヶ月前の「サイゾー」で、宮崎哲弥氏との連載対談において、「「過激な性教育」が問題だというが、それで初交年齢が上昇したり、性感染症が阻止できたら問題はないのではないか」といっていた記憶がありますが、こういう認識に照らし合わせて自民党のプロジェクトを考えてみると、「たとえ自分たちが望む結果になったとしても(社会的問題が解決されたとしても)、自分の望む手段で解決されなければ嫌だ」ということになるのでしょうか。

 これに関してもう一つ。

 成城トランスカレッジ! -人文系NEWS&COLOMN-:名コンビ。
 この「反ジェンダーフリー」の旗手である、高崎経済大学助教授で「新しい歴史教科書をつくる会」現会長の八木秀次氏と、「つくる会」初代会長の西尾幹二氏の対談本『新・国民の油断』(PHP研究所)が書店に並んだとき、私は軽く読んでもうこの手の議論には付き合いたくないや、と思ったのですが、こんなに面白い俗流若者論の本だったとは。あとで読んでみようかなあ。

 ついでに、私のブログでも八木秀次氏に関して言及したことがありますので、参考までに。

 「俗流若者論ケースファイル25・八木秀次

 さらにこの「つくる会」や、自民党の右派系の国会議員が推し進めている教育基本法改正について言うと、東京大学助教授の広田照幸氏が最近『《愛国心》のゆくえ』(世織書房)という本で、その「改正」について批判的に検証しております。お勧め。

 まだまだ教育の話。

 もじれの日々:記事群(本田由紀氏:東京大学助教授)

 本田氏が引いている調査について。

*「幼児の就寝時間早まる 積み木・泥遊び増/「遊び相手は母親」8割 首都圏対象のベネッセ調査」
 これはたぶん、ハイパー・メリトクラシー(「人間力」みたいなもん重視)下における家庭教育指南言説の蔓延の影響だ(近刊拙著第1章・第5章参照)。それにしても平日に一緒に遊ぶ人が、「きょうだい」「友達」が10年間に10%減った代わりに「母親」が55%から81%まで急増しているのはすごい。子供の「人間力」(私の言葉では「ポスト近代型能力」)育成エージェントとしての重圧を母親=女性が一身に引き受け、「パーフェクト・マザー」責任を果たそうとしているのだ。しんどいことだ。

 本田氏のコメントは、至極正鵠を衝いているものだと思います。青少年問題をめぐる言説については、どうも最近になっても依然として「本人の責任」「親の責任」を強調するのが多い。こういう「責任」、特に「親の責任」を強調するものについては、過剰に親に求めすぎるようになり、親が社会的な支援、第三者による支援を受けるチャンスを奪ってしまう。

 最近は「健全な規制の下に健全な精神が育つ」みたいな意見がはびこっていますからね。子供が「健全」に育つためには、国家や親によって適切に「指導」されなければならない、と。若年無業者対策にしても、最近なぜか強調されるのは職業能力ではなく「適切な職業観」ですからね。精神こそが大事である、という考え方には一理あるとは思いますが、それが行き過ぎると過度の教育主義にならざるを得ない。

 ついでに言うと、本田氏の言うところの《「パーフェクト・マザー」責任》については、広田照幸氏が分かりやすくまとめておりますが(広田『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書)、最近は「「パーフェクト・ファザー」責任」みたいなものも出てきているようで怖い(例えば「父親の育児参加」議論の一部とか)。

 もう少し教育の話を。

 フィギュア萌え族(仮)犯行説問題ブログ版:10月13日「どうやってゲームを規制するのか?」と、中立性を欠いたNHKの報道(古鳥羽護氏)
 この手の報道にはもう飽き飽きしました。マスコミは、早く最近のメディア規制論が政策的判断ではなく「「世間」の身勝手」「為政者の身勝手」によって推し進められていることを理解したほうがいい。

 明日の宮城県知事選挙にも、松沢“ゲーム規制”成文氏と中田“行動規制”宏氏が推薦を表明している人が出馬しているからなあ(ちなみに新仙台市長の梅原克彦氏はこの人を推薦しております)。対抗馬は現在の浅野史郎知事の路線を継承、そのほか片山善博氏なども推薦し、民主党と社民党の推薦を受ける人。ただ、浅野知事もどうやらゲーム規制には前向きのようで、いくら民主党と社民党が推薦しているとはいえ注視しなければならない。あとは共産党推薦の人。共産党もメディア規制に関しては怪しいところが多いからなあ。今回は投票はあまり乗り気ではない。まあ行きますけどね。一応私は民主党(もう少し詳しく言えば民主党左派、あるいはメディア規制反対派)支持だし(ただ党幹部に枝野幸男氏が入らなかったのが残念だけど)。

 あと、このエントリーで気になったのがコメント。ちなみにこのコメントは「フリーターが語る渡り奉公人事情」の管理人によるもの。

上の世代のなかでメデイア・リテラシーの低い人たちは、ひきこもりとニートとフリーターの区別もつかずに勝手に人をバケモノにしたてあげ、取り乱したり、攻撃したり、他人の権利を不当に制限したがったりしています。若者の自立を支援する団体のなかには、大学生の不登校まで治療の対象とみなすところもあるくらいです。

わたしが、以前マスコミ報道にかつがれて連絡した団体も、大学生不登校とフリーターと引きこもりとニートの区別もつかないまま、いまどきの若者全般が反社会的で未熟でだらしないとの前提にたって、道徳的な説教をしていました。なんと、それらは反革命だという政治的弾圧さえしていました。

 で、この書き手自身のブログにおけるエントリーが次のとおり。

 フリーターが語る渡り奉公人事情:反革命ばんざい!
 このブログの管理人が間違って参加してしまったあるセクトについての話なのですが、この文章を読んでいる限り、少なくともこのセクトは運動によって社会を変革することを目的としている、というよりも運動が自己目的化している、と言ったほうがいいでしょう。要するに、仲間と一緒につるんで運動することによって「感動」を得ることこそが究極の目的である、と。この団体に関して、重要なのはむしろ「感情を共有できる人」であり「共同幻想」である。この団体が、「ひきこもり」の人たちを過剰に排撃するのは「共同幻想」を共有できないから、ということで説明できるのではないでしょうか。

 それにしても、この「共同幻想」論、もう少し論理の展開の余地があるような気がするなあ。例えばつい最近短期集中連載という形で批判した民間コンサルタントの三浦展氏の著書『「かまやつ女」の時代』(牧野出版)や『下流社会』(光文社新書)の問題点もこれで説明できるような気がする。要するに、三浦氏の理想とする「高額のものを消費するための自己実現(としての就労)」みたいな流れにそぐわない人はみんな「下流」とか「かまやつ女」みたいに罵倒されてしまう、という感じ。

 ついでにフリーターや若年無業問題に関わる本の書評ですが、最近忙しいので、11月中ごろになってしまう予定です。一応、前回(10月12日)からの進行状況は次のとおり。

 読了し、書評も脱稿したもの:丸山俊『フリーター亡国論』ダイヤモンド社
 読了したが書評を書いていないもの:浅井宏純、森本和子『自分の子どもをニートにさせない方法』宝島社、小島貴子『我が子をニートから救う本』すばる舎、澤井繁男『「ニートな子」を持つ親へ贈る本』PHP研究所

 あと、予定していた、小林道雄『「個性」なんかいらない!』(講談社+α新書)の検証ももう少し遅れます。最近だと、「週刊文春」などで「ゲーム脳」の宣伝に努めている、ジャーナリストの草薙厚子氏が『子どもを壊す家』(文春新書)という新刊を出したそうで。こちらもチェックしておく必要がありそうです。

 保坂展人のどこどこ日記:止まれ、共謀罪(保坂展人氏:衆議院議員・社民党)
 カマヤンの虚業日記:[宣伝]「『不健全』でなにが悪い! 心の東京『反革命』」
 どうも最近、きな臭いことが多いなあ(共謀罪とか、メディア規制とか)。「心の東京「反革命」」に関しては、米沢嘉博氏(コミックマーケット準備会代表、漫画評論家)と長岡義幸氏(ジャーナリスト)が発言するそうなので、参加したいのですが、いかんせん金がない。私は仙台在住なので。

 こんなときは、河原みたいなどこか人気の少ないところに行って夕陽でも眺めながら何も考えずに座っていたい。

 minorhythm:どこまでも…(茅原実里氏:声優)
 《あまりにも綺麗で、ほんの少しだけ切なくなって…ほんの少しだけ優しい気持ちになって。》とは茅原氏の言葉。こういう感動を味わうことのできる場所があればいいのですが、最近の青少年政策を見ていると、青少年からこういう場所を奪ってしまうのだろうなあと憂鬱になる。家庭も親と青少年言説による監視の眼が日々強くなっている。青少年言説の支配する社会とは、子供から全ての逃げ場を奪い「適切な」監視の下で「適切な」道徳が育っているかのごとき幻想を「善良な」大人たちに抱かせるものに他ならないのです。で、少年犯罪やら何やらが起こると「まだまだ監視が足りない!」と言い出す。今のままの青少年政策はループです。

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2005年9月 9日 (金)

各党マニフェストにおける青少年認識/対策

sencub01  平成17年9月11日には、衆議院議員総選挙が行なわれる。ただ、この選挙に関して、与党はほとんど郵政民営化一本槍であり、野党は逆に与党に対する批判でもって票を集めようとしているので、選挙の争点のほとんどが「郵政民営化」になりつつある。しかし、各種世論調査を見ても分かるとおり、国民は選挙の争点を「郵政民営化」だと思っていないのが実情である。

 もっとも、そのような世論調査を見ていても、青少年問題が争点であると答える人はかなり少ない。しかし青少年問題対策もまた重要な政策の一つであり、争点に組み込まれるべきだろう。ただし、それも適切な認識に基づいて行われなければならないのであり、従ってマスコミで喧伝される如き扇情的な情報に基づいて行なわれてはいけないのである。

 というわけで、今回は、主要5政党(自民・公明・民主・社民・共産)マニフェストにおける青少年に対する認識と政策を、比較検証していきたい。

 なお、投票に行く前に、以下のサイト・ブログも読んでおくことを勧める。
 反ヲタク国会議員リスト
 kitanoのアレ
 カマヤンの虚業日記
 FrontPage -Game and Politic-
 選挙に行こう
 (「選挙たん(仮)」は、サイト「選挙に行こう」のマスコットキャラクターです)
 このブログのエントリーから
 俗流若者論ケースファイル13・南野知恵子&佐藤錬&水島広子
 俗流若者論ケースファイル30・森岡正宏&杉浦正健&葉梨康弘
 「後藤和智の若者報道用語集」から
 佐藤錬 南野知恵子 水島広子

 1、マニフェスト全体としての感想
 マニフェストを読んだ感想としては、まず民主党のマニフェストは、さすがにもっともマニフェスト政治を推進している政党だけあってか、細部まで作り込まれていた。冒頭に大まかな政策提言とスケジュールを表し、細かい政策を後半に盛り込み、具体的なプラン、すなわち何をするか、ということや、更に言えばどのような問題意識によって政策を構築しているか、ということについても書かれているので、批判・検証する側にとっても親切な設計になっている。

 次に面白かったのは公明党で、この党は今やほとんど自民党の傀儡政党になってしまった感があるが、少なくともマニフェストに関しては親分の自民党よりも作りこまれている。

 次は社民党か。基本的に自民・公明・民主の3党に比して社民党のマニフェストはきわめて薄い。ただ社民党に関しては、政策提言が全体を見通しているように見えるし、最後のページにおいて社民党は「もう一つの日本」を目指す、という提言をしている点では買える。

 共産党のマニフェストは、かなり作り込まれているとはいえ、あれでは「批判ばかりして対案を出していない」の領域を超えていないように思える。なお、共産党のマニフェストに関しては、インターネットの記述を用いている。

 自民党のマニフェストは、はっきり言ってデザインと見出しだけは大々的なのだけれども、中身ははっきり言って空疎。デザインばかりが先行して計画をおろそかにした建築物みたいだ。小泉政権の反映なのか。一番つまらない。

 2、少子化対策・子育て支援
 さて、ここからが本題である。1つ目は「少子化対策」「子育て支援」に着目してみたい。
 基本的にはこれに関しては、全ての政党が明記しているが、具体的に支援額などを書いているのは民主党と社民党と公明党。民主党は、月額16000円の「子ども手当」や、「出産時助成金」の設立、学童保育の充実化などを謳っている。社民党は、父親の産休制度の拡充や、18歳未満の子供に対して毎月支給される「子ども手当」の創設、及び一人親家庭への支援などを謳っている。特に一人親家庭への支援は社民党だけの主張である。公明党は「チャイルドファースト社会の構築」を重点政策の一つとして出し、児童手当の所得制限の緩和、出産育児一時金の値上げ、及び中小企業への育児休業支援を明示している(一人あたり100万円)。中小企業への育児休業支援は公明党のみの主張。

 自民党は、児童手当制度や子育て支援税制について触れてはいるけれども、具体的な数値目標を出して折らず、結局のところ威勢のいい言葉だけを振りかざしているだけ。地味な政策提言には目が向かない、これが小泉政権クオリティ?共産党も具体的な数字の提示はなし。

 それから、全ての政党が、「少子化は問題である」「少子化は子育て支援で解決できる」と考えているらしいが、子育て支援が少子化を解決するわけではないことは、信州大学助教授の赤川学氏が主張している通りだ(赤川学[2004])。また、少子化によって起こる問題を賞しか「対策」(=子育て支援)で解決すべき、という認識も、結局のところは人口増加社会を前提とした現在の社会保障制度などの焼き直しでしかないだろう。政策研究大学院大学教授の松谷明彦氏などが主張している通り(松谷明彦[2004])、少子化を前提とした社会構築が求められている、という側面もあり、そのような主張をマニフェストに取り込んだ政党が、主要5政党の中では一つもない、というのが残念だった。

 3、教育
 もっとも明快なのがやはり民主党。民主党の主張としては、校長先生の公募制度の拡大、地域住民や保護者の参画を推進、総合学習との関わりで土曜授業・放課後授業の推進、スポーツ振興など。特にここで採り上げたものは全て民主党のみの主張であり、民主党が政権交代に意欲を持っていることがここからも窺える。ただし教育基本法には触れず。社民党も教育予算の対GDP比5%達成と、20人学級、教職員を30万人増やす、奨学金制度の拡充(これに関しては民主党も主張している)という公約を掲げているが、教育基本法には触れず。

 公明党は民主党の次に充実していた。主張としては体験学習の充実、奨学金の拡充、小学校における英語教育の必修化。特に英語教育に関しては公明党だけの主張。

 自民党は「義務教育の質的向上のための教育改革」を謳っているけれども、政策立案の点で民主党に及ばず。ただし教科書検定の必要性を検討していることだけは評価に値する。

 共産党は30人学級の推進、住民の意向を反映させる、といっているが、ほとんどが自民党の推進する教育基本法の改正や特定の歴史教科書に対する対抗を強めている。

 そして民主・社民以外の政党は、全て教育基本法に触れていた。自民党はやはり改正推進。記述に曰く《教育基本法を改正し、豊かな上層と道徳心にあふれ、正義と責任を重んじ、強度や国を愛する心や公共の精神が身につく教育を実現する》(自民党マニフェスト)。と。自民党にいわれたくないよなあ。逆に反対の立場を採っているのが当然共産党で、共産党は教育基本法の改正のみならず「日の丸」「君が代」の強制の反対、侵略を正当化する歴史教科書の反対の、愛国主義教育反対の3点セットを打ち出している。公明党は慎重派で、《基本法の基本理念は堅持》《「国を愛する心」を法律で規定することについては、戦前の反省を踏まえて慎重に検討する必要があります》(公明党マニフェスト)という記述が存在する。

 共産党のマニフェストで評価できるのは、性教育の重要性を訴えているところ。曰く、《青少年の間で性感染症や望まない妊娠がふえるなか、性教育は重要な課題です。自民党などによる「性教育=過激」攻撃には道理がありません。保護者と教育関係者が連携してていねいに性教育を進められるようにします》(共産党マニフェスト)と。安倍晋三氏を中心として自民党が推進している「ジェンダーフリー教育反対」「「過激な性教育」反対」をマニフェストに盛り込まなかった自民党のヘタレぶりと比較すれば、共産党には賛辞を送りたい。

 ただ、共産党が本当に子供のことを考えているかどうかについては少々留保すべき点もあるけれど…。これに関しては第5節で。

 4、若年無業者支援及びフリーター・非正規雇用者対策
 若年無業者(ニート)については全ての政党が記述。もっとも具体的なのはやはり民主党。民主党マニフェストには、失業・無行状態の若年に個人アドヴァイザーによるマンツーマンの就労支援、就労支援手当、及び若年無業者が集まることのできる場所の設立を主張している。また民主党は《全国の中学2年生に年間5日以上の就業体験学習を実施します》(民主党マニフェスト)と、東京大学助教授の玄田有史氏の主張に基づいたと思われる記述をしているけれども、これに関してはむしろ教育改革、総合学習の支援の文脈で行なわれるべき、というのが私の主張である。若年無業者の問題に関しては、民主党は若年無業者もまた社会階層の問題が絡んでいるという点に触れられていなかったのが痛いところだ(これに関しては、玄田有史[2005]、小杉礼子[2005]、宮本みち子[2005]を参照されたし)。

 自民党はフリーター25万人常用雇用化プラン、「若者の自立・挑戦のためのアクションプラン」の推進を掲げているが、具体的な数値目標はなし。公明党もこのプランの効率化を図る、という主張。蛇足だけれども公明党のマニフェストには《教育段階からの予防的対策に重点を図ります》(公明党マニフェスト)と書いているが、若年無業者が「予防」すべきものだ、という認識では若年無業者問題は解決できないと思う。

 若年無業者対策に隠れてか、フリーターはあまり政策に上っていないような気がする。ただしフリーター及び非正規雇用者と正社員の、企業福祉などの点における格差については自民・民主・共産が触れている。一番明快なのが共産党で、共産党は「パート・有期労働者均等待遇法」「派遣労働者保険法」の成立を主張し、均等待遇のルール、解雇の規制、サーヴィス残業の規制に取り組むなど、極めて意欲的。民主党は共産党にやや劣り、パート均等待遇実現のための「パート労働法改正案」や、失業・廃業からの再出発としての手当支給・職業訓練(これについては共産党も主張している)の主張にとどまっている。自民党は、《短期間正社員制度の導入推進、パートタイム労働者の待遇の改善、正社員への転換制度の普及・定着等、パートタイム労働政策を充実・強化する》(自民党マニフェスト)と書かれている程度。

 5、メディア規制
 「青少年の健全育成」を楯に取ったメディア規制を主張しているのは自民・民主・共産。特に力を入れて記述しているのはなぜか共産。曰く《政治の腐敗、大企業のモラルハザード、戦争正当化や暴力肯定の風潮、人間の性をおとしめる傾向などとたたかい、社会のモラルと道義を確立するために努力します》《児童買春や性の商品化では、国連子どもの権利委員会からきびしい勧告がだされています。メディアでの暴力や性の表現が、子どもに野放しになっています》(共産党マニフェスト)だとさ。自民党も「青少年健全育成の推進」を謳っている。右も左も俗流若者論で結託してしまう様を見ているようだ。民主党もまた、《書籍の区分陳列や放送時間帯の配慮などによって、普通に暮らす子どもたちが有害情報に触れないですむ環境をつくります》(民主党マニフェスト)などと書いている。どうやら自民・民主・共産の各党のマニフェスト起草者は、「有害」情報と「有害でない」情報を分けることができるとか、「有害」情報は等しく青少年を堕落せしめる、とでも考えているようだけれども、まずあんたらの青少年に対する認識を改めろよ。

 ただし、民主党に関しては、《情報のもつ意味を正しく理解し、活用できる能力(メディアリテラシー)を育むような教育》(民主党マニフェスト)を打ち出しており、この点に関しては賛同できる。更に民主党は、通信傍受法(盗聴法)、住民基本台帳ネットワーク、個人情報保護法の見直しを打ち出し、社民党もまた共謀罪の新設に反対するスタンスを明確にしている。

 蛇足だけれども、メディアがらみで言うならば、民主党は「テレビの字幕化の推進」を打ち出している点でユニークである。曰く、《聴覚に障がいのある方もテレビ放送を楽しみ、情報を確保できるようにするため、2009年度までに、技術的に可能なすべてのテレビ番組の字幕化を実現します》(民主党マニフェスト)と。

 6、治安
 治安に関して、少年犯罪への対処に触れているのは自民党のみ。曰く、《組織犯罪、サイバー犯罪、少年犯罪に対処する関連法整備を推進する》(自民党マニフェスト)と。少年犯罪よりも人口当たりの発生率の高い中高年犯罪は無視ですか。

 7、まとめ
 青少年問題に関する取り組みの視点から、もっともマニフェストで評価できるのは民主党である。従って、私は民主党に投票することを勧めるのだが、ただ民主党に関してはきな臭い動きも少なくなく、特に民主党右派で「日本会議」のような右派系政治団体に関わっている人や、民主党左派の一部のフェミニスト議員(特に水島広子氏と肥田美代子氏)はメディア規制を推進しているし、マニフェストにもメディア規制が盛り込まれている。民主党には自民党より過激なメディア規制論者も存在しているようなので、投票する際にはそのようなことを一定ないかを見極める必要がある。民主党は「子ども家庭省」の設立を主張しているけれども、この最高ポスト(大臣)に水島氏や肥田氏が就いてしまったらメディア規制への流れは止めにくくなるだろう。私の願望としては民主党と社民党の連立政権が望ましいと考えている。

 参考文献・資料
 赤川学[2004]
 赤川学『子どもが減って何が悪いか!』ちくま新書、2004年12月
 玄田有史[2005]
 玄田有史「ニート、学歴・収入と関連」=2005年4月13日付日本経済新聞
 小杉礼子[2005]
 小杉礼子「就職の仕組み柔軟に」=2005年4月14日付日本経済新聞
 松谷明彦[2004]
 松谷明彦『「人口減少経済」の新しい公式』日本経済新聞社、2004年5月
 宮本みち子[2005]
 宮本みち子「包括・継続的な取り組み必要」=2005年4月16日付日本経済新聞

 玄田有史『仕事のなかの曖昧な不安』中央公論新社、2001年12月
 日垣隆『現代日本の問題集』講談社現代新書、2004年6月
 広田照幸『教育不信と教育依存の時代』紀伊國屋書店、2005年3月

 「フリーターとは誰か」=「現代思想」2005年1月号特集、青土社

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2005年9月 4日 (日)

トラックバック雑記文・05年09月04日

 最初にお知らせ。「後藤和智の若者報道用語集」というブログを作成しました。簡単に言えば、このブログに出てくる用語を紹介したものです。最近では、例えば正高信男氏や森昭雄氏なんかを「かの曲学阿世の徒」と表現しておりますが、なぜそのような表現をするのか、ということを知らない人もいるのではないかと思いますし、このブログ全体の見取り図があったほうがいいと思うので開設しました。今はまだ正高信男氏に関する語句と「俗流若者論ケースファイル」の第1~3回に関する語句だけですが、どんどん充実させていくつもりです。

 では、ここからが本番。

 ひとみの日々:いぃーやっほう!(生天目仁美氏:声優)
 この掛け声って、「仁美と有佳のどらごんデンタルクリニック」(文化放送:毎週水曜日25時~25時30分に放送)ですか。それはさておき、生天目氏の後ろにある看板が実に秀逸です。スピード違反を取り締まる看板なのですが…。

 交通違反 9000円
 佐渡するめ 500円

 要するに、お前が交通違反で支払った罰金で18個の佐渡するめが買えるんだぞ、とでも言いたいのでしょうかね。こういうユーモアに溢れた看板は好きです。しかもデザインもシンプルだし、私の周りにある種々の看板のようなけばけばしさが感じられない。世の中にこういうシンプルでユーモアに溢れた看板が多くなればいいのですが、やはり共同幻想(笑)として派手なものが受けるのだ、という傾向があるのでしょうか。でも、シンプルさだって一つの力ですよ。

 さて、今回のトラックバック雑記文は、「俺は騙されないぞ!シリーズ」でいこうかと思います。

 1、俺はオタクバッシングに騙されないぞ!
 保坂展人のどこどこ日記:オタクバッシングを考える その1その2(保坂展人氏:元衆議院議員・社民党)
 フィギュア萌え族(仮)犯行説問題ブログ版:テレビ東京、会田我路の着衣の少女写真集を、「ヌード写真集」と偽って報道。(古鳥羽護氏)
 まず、保坂展人氏のブログを読んでください。大人の対応とはこういうことを言うのですね。我が国では自分が気に入らない=犯罪の温床=規制しろ!などという自称「識者」や政治家や知事が多すぎますけれども、そのような人のやる政治というのは結局のところ弱者たたき、あるいは強権政治にしかならない。

 しかし最近の政治の流れにはきな臭いものを感じずにはいられませんね。この手の政治家が行なっていることは、「ある一つの社会的な階層や集団に対する敵愾心を煽り、それらを「敵」「悪」と規定し「正義」としての自分を強調することによって、ポピュリズム的な人気を得る」という手法に要約されるでしょう。このような所業を行なって世界を破滅に導いた政治家を知ってますか?そう、ヒットラーですよね。

 こういう、政治を単なる自己実現の場としてしか考えない阿呆どもには、ぜひともマックス・ヴェーバーの名著『職業としての政治』(脇圭平:訳、岩波文庫)の以下のくだりを読んで欲しい。

 政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である。もしこの世の中で不可能事を目指して粘り強くアタックしないようでは、およそ可能なことの達成も覚束ないというのは、まったく正しく、あらゆる歴史上の経験がこれを証明している。(105ページ)

 一点突破しか考えていない人には、こういう託宣は通用しないのでしょうね。

 マスコミも然りです。相手が「叩きやすい対象」であれば、捏造報道もありですか。これではテレビ東京は最近の朝日新聞の記事捏造事件を批判できませんよね。もっとも、このような所業を行なっているのはテレビ東京だけではありません。政治報道における捏造は即座に糾弾されるのに(これは全く正しい)、若者報道における捏造は全く糾弾されない。いつぞやかの「Yomiuri Weekly」で、渋谷では「家出少女の実態」みたいなテレビ報道を作らせるためにそこらを歩いている少女に「家出少女」をさせているのは日常茶飯事、というくだりを読んだことがありますが、若者報道というのは、まったくチェックが働かない場であるからこそ、捏造しても平気なのか。

 いいのかそれで。俺は騙されないぞ!

 2、俺はステレオタイプに騙されないぞ!

 kitanoのアレ:おたくのための選挙資料(1):喪男の小説『裏・電車男』:都内女性の20万人がHIV感染者というデマ

 一説では、都内の女性の約20万人がエイズのキャリアだという話…。だが、俺は騙されないぞ!なぜなら、一次情報に全く触れられていないからです。

 このデマの泉源は「2ちゃんねる」だそうで。「kitanoのアレ」からの孫引きになりますが、

喪「で、親父の病院や他の知り合いの病院2~3ヶ所の話を聞くと、毎年とんでもないペースで増えてるそうなんだ。それも加速度がついてる位で。特に20代~10代の女が凄いらしい。今じゃ何と2割位居るんだってさ。自分はエイズじゃないかなんて心配を全然してない、他の病気で普通に診察に来てる女の2割がHIV感染者だ。しかもその増加率は年々上がっている。

もしこの割合を、単純にそのまま都内の病院全部に当てはめたら1万2万なんて人数では済まないそうだ。都内だけで10万とか20万とか…もちろん単純計算だから、実際の正確な所は解らないけど」

 というものだそうです。

 このようなデマは、「今時の女は誰とでも性行為をするくらい堕落してしまった」というようなステレオタイプのなせる業である、と考えて間違いないと思います。どうしてステレオタイプの前では無力化してしまう人が多いのでしょうかね。これは何もこのようなデマ宣伝に限った話ではなく、俗流若者論でも同じ事。要するに「「今時の若者」はゲームなどで殺人を日常的に「学習」しているから凶悪犯罪を簡単にしでかすようになっている」というのも、我々がマスコミによって信じ込まされているデマです。このような、現代の女性や若年層のデマに踊らされる人が増えることによって、誰が得するのか。結局は現代の女性や若年層に対して敵愾心を煽ることで利権や支持率を得ている人たちですね。俺は騙されないぞ!

 3、俺は争点をずらしたがる小泉純一郎に騙されないぞ!

 MIYADAI.com:【アゲておきます】民主党がとるべき道とは何か(インタビュー)(宮台真司氏:社会学者)

 小泉首相は「郵政民営化」を連呼し、郵政民営化こそが改革を進める上での第一歩となる、と喧伝していますけれども、この人に「国家観」というものは果たしてあるのでしょうかね。いや、私は、何も「諸君!」の今月号の特集のようなことを言いたいのではなく、私はむしろ「国家観」よりも大きい「社会観」を問いたいのです。その点において、宮台氏のこの文章は必読だと思います。

 若者報道の研究家としての私が、特にプッシュしたい部分はこちら。

■でも、バラマキをやめるのと、弱者を放置するのとは別問題。現に社会的弱者だからこそ噴き上がる都市型ヘタレ保守は、小泉流「決然」にカタルシスを得ても、そのあと幸せになれません。そこに、都市型保守への「都市型リベラル」の対抗可能性があり、都市浮動票を取り合う二大政党制の可能性があるわけです。

■だから、民主党が示すべきは「都市型リベラル」の政党アイデンティティです。「小さな政府」が「弱者切り捨て」を伴ってはいけないと主張し、「都市型弱者」である非正規雇用者やシングルマザーや障害者の支援を徹底的に訴える。「フリーターがフリーターのままで幸せになれる社会」をアピールすればいいのです。

■「バラマキはダメだから壊す」の小泉流は明瞭です。対する民主党が「壊し方の非合理性」を訴えるのは稚拙です。郵政法案がデタラメでも、デタラメな法案を武器に使って旧経世会を葬り去ったことを、国民が賞賛しているのですからね。小泉氏を倣って「削る」「縮小」を繰返すのも稚拙です。「小泉さん、壊してくれてありがとう。壊れた後は民主党が作ります」で行くべきじゃありませんか。

■「都市型保守」のネガティビティに「都市型リベラル」のポジティビティを対置する。「不安」に「幸せ」を、「不信」に「信頼」を対置する。本当にタフでカッコイイのはどちらか。言うまでもありません。

 4、俺はこんな奴に騙されないぞ!
 bk1で、柳田邦男氏の『壊れる日本人』(新潮社)の書籍詳細ページにトラックバックされていた文章なのですが、いやあ笑えた。

 アール学派:退廃文化、絶好調!?

 いや、経済的なことを語っていることに関しては結構説得力があるのですけれども、こういうくだりを読んでいると、やっぱり俗流若者論ってのは自分こそは絶対に正しく犯罪もしないし「ひきこもり」にもならないんだぞーってはしゃいでる人たちの不満の捌け口でしかないんだよなあ、と改めて思ってしまいますよ。

 ニートチックな貧乏人は、なぜかケイタイが手離せませんね。

 「馬鹿とハサミは使いよう」ではなく、「お馬鹿な貧乏人は使いよう」ですね。

 でも、踊らされているのはあんたのほうですから!残念!!

 『ケータイを持ったサル』に群がるサル、斬り!!!

 しかもコメント欄がまた笑える。

 こないだ電車でずぶ濡れのケータイサル発見!
 どうやら、このサルはケータイは使えても傘を使う知能はなかったみたい。新たな発見なので今 秋あたりに、Journal of Mobile-phone Monky に投稿予定です!(>▽<)

 ……折りますよ?(結構前に、古本屋の立ち読みで、スクウェア・エニックスから発刊されている『ぱにぽに』という漫画の第3巻を読んで以来、この表現が結構気に入ってしまったなあ。ついでにこの『ぱにぽに』は「ぱにぽにだっしゅ!」としてアニメ化されているようです。私の地方ではテレビ東京が映らないのですが)

 ってゆうか、《Journal of Mobile-phone Monky》なんていうメディアがあるのか!ぜひとも俺に知らせてくれ!

 そもそもこの『ケータイを持ったサル』『壊れる日本人』って、現代日本のナショナリズムがいかに「愛国心」ではなく「若者論」であるか、ということを如実に示している本ですよ。詳しくは私の書いた検証記事を読んでください。正高信男氏関連はこちら。柳田氏に関してはこちら

 しかもこのブログときたら、皇學館大学助教授の森真一氏の名著『日本はなぜ諍いの多い国になったのか』へのリンクまで貼ってある!この名著を読んだら、先の2冊を簡単に信ずることはできないと思うんだがなあ。これもネタなのか。

 5、俺はこんな奴らにも騙されないぞ!
 今春に遠山敦子氏が設立した「こころを育む総合フォーラム」の設立趣旨文を検証してみます。「俗流若者論ケースファイル」の71回目としてやろうと思ったのですが、まだ資料が不十分なのでやめます。

 趣旨分において、遠山氏はこういうことを書いています。

 戦後60年、日本の経済はめざましい発展をとげました。占領期から独立期にかけて、国内的に平和の状態が保たれたことが大きかったと思います。けれどもそのことでわれわれは、いつのまにかわれわれ自身の精神的な自立、および倫理的な生き方に十分の配慮をすることなく時の経過に身をまかせてしまったきらいがないではありません。そのために噴出しはじめた綻びが、今日わが国社会のいたるところにみられることは周知の通りです。

 家庭や教育現場における人間関係の乱れ、公的機関や企業における不祥事、そして心の凍りつくような残虐な事件の発生など、いずれも日本人の精神の衰退、かつて日本人がもっていたはずの倫理性の喪失を示す兆候ではないでしょうか。物質的な豊かさにともなう心の世界の空洞化が、危機的な様相を呈しているというほかはありません。

 だからさ、なんでこういう俗流若者論や俗流社会論で、《日本人の精神の衰退、かつて日本人がもっていたはずの倫理性の喪失を示す兆候》なんて安易に語っちゃうのかな。いずれにせよ、このフォーラムはしっかりと監視しておく必要がありそうです。

 検証になってないなあ。

 6、俺は統計にも騙されないぞ!
 「統計学の常識、やってTRY!第5回」を公開しました。読んでね。しかも「AERA」平成17年9月5日号の次号予告を見てたら、また香ばしい薫りが…。

 次号のアエラは●日本を再生するファンドを作った人たち●引き込もりをつくらない間取りの家

 さて、どんな記事ができ上がるのやら。しかも私は建築学科の学生ですから、更に気になるわけですよ。建築物としての家までもが俗流若者論に政治化されてしまうのか、って。

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2005年8月30日 (火)

トラックバック雑記文・05年08月30日

 「俗流若者論ケースファイル」25連発なんて、本当に骨の折れる作業でした。おかげで、このブログのコンテンツ(これを含めて125個)の内56%(70個)が「ケースファイル」になってしまった。しかも「ケースファイル」で取り上げたい文章って、まだたくさんあります。まあ、今後の予定はさておき、まず雑記文から。

 週刊!木村剛:[ゴーログ]公職選挙法こそ、ブログの敵だ!(木村剛氏:エコノミスト)
 保坂展人のどこどこ日記:ブログ中断の不条理、公選法改正を(保坂展人氏:元衆議院議員・社民党)
 公職選挙法によれば、文書や図画の頒布について極めて厳しい基準がしかれているようです。ここ最近、政治かもウェブサイトやブログを持つようになりましたが、公選法によれば選挙期間中はホームページやブログの更新は許されていないらしい。ただし、厳密に「許されていない」というのではなく、ウェブサイトやブログが「文書図画」であるかどうかを規定されていないため、公選法に抵触する「虞がある」ということだそうです。

 私は基本的にはウェブサイトやブログによる選挙運動には賛成です。多くの人がインターネットに繋げるようになる現代、インターネットを選挙活動の道具の一つとして利用するのは大きな意味があると思います。

 さて、私は公選法の改正だけではいけないと思います。もしウェブサイトやブログが選挙活動として認められているのであれば、立候補者はポスターに自分のウェブサイトやブログのアドレスを明記すべきでしょう。携帯電話の「QRコード」を印刷してもいい。わざわざ政治家のサイトを検索して見る人は少ないでしょうから、人を呼び集めるためにはポスターにそのような工夫を施すことも必要だと思います。

 今の選挙活動は、ほとんどが「名前」を売ることにまい進していると思います。しかし、利権誘導型政治の欺瞞が明らかになった今、「名前」だけでは考える市民を取り込むことが出来ないでしょう。だからこそ、「名前」だけでなく「政策」を売り出すことが出来るようになって欲しい。インターネットを利用した選挙活動は、選挙活動に政策を「売り出す」プレゼンテーションのスキルが重視されるように変革されるでしょう。マニフェスト型政治を定着させるには、まずインターネットを政治活動として認めるべきです。

 しかし、インターネット選挙活動がみんな善であるというわけではないようで…。

 kitanoのアレ:ウヨク工作活動:民主党アンケートに大量組織票

 リンク先の記事によると、7月20日から25日にかけて民主党がネット上でモニター選挙を行なったところ、7958名のモニターの内3877名が実施期間中に新規登録した人のようです。ここまでならいいのですが、ここから先に何かきな臭い動きが…。

    Q1. 時の首相が靖国神社を参拝することについてあなたはどう思いますか?
  賛成である 1267 票 (工作後 5144 票)
  反対である 2438 票
  わからない 376 票
  Q3. 民主党の岡田代表は政権交代後、首相になった場合、自分の意思で靖国神社に参拝しないとしています。あなたはどう評価しますか?
  大いに評価する 1769 票
  多少評価する 888 票
  あまり評価しない 769 票
  全く評価しない 440 票 (工作後 4317票)
  わからない 215 票
  Q4. 首相の靖国神社への参拝問題で日本の国益に叶うのは、参拝の継続か中止どちらだと思いますか?
  参拝継続 1098 票 (工作後 4975票)
  参拝中止 2436 票
  わからない 547 票

 すごすぎますよ。いくつかの左派系のブログでは所謂「ネット右翼」によるコメント欄荒らし・トラックバック荒らしが問題化されているようですが、これだけの「工作員」がいるとは…。まあ、所謂「ネット右翼」の世界は、「世界」平成17年7月号で鈴木謙介氏が言っている通り、所謂「学級会民主主義」の世界、すなわち多数派の正義ですからね。そのような「多数派の正義」は、そのまま勝ち馬に乗ればいい、という価値観を生み出す。これは所謂「ネット右翼」だけでなく、そのまま彼らの批判するマスコミや、メディア規制派にも言えることです。すなわち…。

 フィギュア萌え族(仮)犯行説問題ブログ版:各局の報道で全国に晒されてしまった加害少年の部屋(古鳥羽護氏)
 弁護士山口貴士大いに語る:松沢知事はエコノミストの記事を読んだのでしょうか?(山口貴士氏:弁護士)
 カマヤンの虚業日記:[日本会議][勝共連合]「日本会議」の街宣車、コミケへ来る
 走れ小心者 in Disguise!: 「黙ってられるかこんな話聞いて!」(克森淳氏)
 kitanoのアレ:おたくのための選挙資料(1):自由民主党の公約
 kitanoのアレ:おたくのための選挙資料(2):民主党の公約
 「反ヲタク国会議員リスト」雑記帳:[健全育成政策] 自民党&共産党もエロゲー撲滅に必死

 我が国のマスコミや政治家には、相手がオタクであれば倫理も矜持もプリンシプルも無視してバッシングに走ってもいい、という不文律があるそうです。先日宮城県で起こった警官襲撃事件でも、加害者の部屋が全国放送によって委細もらさず報じられてしまったらしい。そして案の定アニメやゲームやモデルガンが原因である、という印象操作報道を行なってしまったようです。

 はっきり言って、これは報道加害以外の何物でもありませんね。少年法61条はもはやあってなきものと化しているようです。もちろん少年法61条には問題点が多くありますが、このような報道の行き過ぎはもはや壊滅的です。我が国の中において、どれだけの青少年がアニメやゲームやモデルガンには待っているか、マスコミの人たちは分かっているのでしょうか。その中の一人が犯罪をしでかしたからといって、アニメやゲームやモデルガンに愛着を示す人はみんな危険だ、という論理を展開してはなりません。しかし、そのような印象操作こそが受ける、とマスコミの人たちは確信しているのでしょうか。視聴者をなめているのか。少なくとも若年層をなめているのは事実でしょうね。

 山口貴士氏のブログでは、ゲーム規制を推し進める松沢成文・神奈川県知事が英国の「エコノミスト」という雑誌でゲームの有害性は実証されていない、という記事が掲載されていて、松沢氏はこれを呼んだのか、と糾弾していますけれども、自分に都合の悪い情報を封鎖するのもまたマスコミクオリティです。例えばフリーターや若年無業者の分野に関すると、書籍ではかなり優れた分析や報告が展開されているのですが、雑誌や新聞やテレビ報道のレヴェルになるとあいつらは甘えているとか親が悪いんだとかいった画一的・一方的な批判になってしまう。どうして彼らは重要なデータをひた隠すのでしょうかね。やはり自分の構築した「今時の若者」のイメージを綿密なデータによって解体されたくないからなのか。所詮マスコミは、マスコミ報道の主たる受け手となっている社会階層の人を擁護するものでしかなく、公器としての役割を期待するほうが無理なのかもしれません。

 「kitanoのアレ」では、自民党だろうが民主党だろうがメディア規制の動きをとめることは出来ない、と書かれております。私がこのことに関して思うことは、自民党も民主党も、更には共産党すら「今の子供たちは「異常」である。それは有害な情報が蔓延しているからである」という認識を共有しているということです。しかし、彼らのいうところの子どもたちの「異常」とは、一体何を指しているのか。少年犯罪の急増?凶悪な少年犯罪は現在よりも昭和40年ごろのほうが圧倒的に起こっていた。規範意識の低下?このような論理は論じる側のイデオロギーに左右されやすく、まず彼らが持ち出す「規範意識の低下」という視点が相対化されるべき問題です。更には疑似科学まで持ち出して、今の子供たちはかつての子供たちと「本質的」に違うのだ、という人たちまでいます。しかし、そのような論理が、レイシズムにつながるということに関してはどうして無頓着なのだろう?

 「カマヤンの虚業日記」では、かの有名な「コミックマーケット」に、メディア規制の急先鋒である右翼政治団体「日本会議」の街宣車が、自らの出自を偽って街宣活動を行なったようです。そしてその「日本会議」は、右派系の「人権擁護法案」反対派の肩を持っている存在ですけれども、このような人たちと一緒になって「人権擁護法案」に反対している人は、やがてこれらの人たちがメディア規制に走り出す、ということにどうして無頓着なのでしょうか。それとも長いものに巻かれていれば害はない、と考えているのか。やはり「学級会民主主義」の徒ですか。

 ついでに私も「人権擁護法案」に反対した文章を書いたことがあります。しかしその視点は、まず論壇において「人権」という言葉がいかに曲解されてきたか、ということと、立憲主義において国家・国民・憲法とはどのような位置にあるか、ということを中心に論じました。ですので、私の批判は、かなり相当性があるように思えます。まあ、その理由で、一部の人からは「近代国家礼賛なのか無政府主義なのか分からない」「電波」などと罵られているわけですが。

 本日の「産経SHOW」:「丸の中に平」は、「平蔵」ではなく「平和」
 産経新聞の「産経抄」を検証しているブログなのですが、平成17年8月23日付の「産経抄」にあったこの文章を見たとき、私の眼が止まりました。

 昔、自民党が総裁選びでもめていたときのこと。識者への談話取材を命じられた筆者は、サルの研究者に電話をかけ、当時の編集幹部に怒鳴られた。ボス猿選びと比較するとは、政治を冒涜(ぼうとく)するものだ、というのだ。

 《サルの研究者》?もしかして信男ちゃん?信男ちゃんなのかっ!?(笑)なんて、違うでしょうけどね。

 さて、8月7日から8月30日にかけて、「俗流若者論大賞」と称して、「俗流若者論ケースファイル」25連発という荒業をやり遂げてしまいました(盆休みあり)。ここで発表した文章は以下の通り。せっかくなので短評つきで。

 「俗流若者論ケースファイル46・石堂淑朗
 石堂淑朗、「正論」だけでなく「新潮45」でも活躍しております。

 「俗流若者論ケースファイル47・武田徹
 「プログラム駆動症候群」なる珍概念を批判的検証抜きで宣伝。しかし箱を開けたら暴力的なレトリックの山だった。

 「俗流若者論ケースファイル48・澤口俊之
 ついに単独で登場、澤口俊之。

 「俗流若者論ケースファイル49・長谷川潤
 教師ってなんなんだ。

 「俗流若者論ケースファイル50・工藤雪枝
 歴史ってなんなんだ。

 「俗流若者論ケースファイル51・ビートたけし
 論理が散乱しまくっています。ビートたけし=北野武氏にはこういう側面もあったのか。

 「俗流若者論ケースファイル52・佐藤貴彦
 「バトル・ロワイヤル」のトンデモ珍解釈、とでも言うべきか…。

 「俗流若者論ケースファイル53・佐々木知子&町沢静夫&杢尾堯
 治安悪化は全部少年のせいだ!とでも言いたいのかな。しかし対談者は元検事の自民党国会議員、少年犯罪報道御用達の精神科医、元警察官。

 「俗流若者論ケースファイル54・花村萬月&大和田伸也&鬼澤慶一
 中江兆民の「三酔人経綸問答」ならぬ、「三酔人俗流若者論問答」。

 「俗流若者論ケースファイル55・遠藤維大
 アクセス解析によると、この人の名前で検索したらこのページにぶち当たった、という人がいるようですが、この人、ネット上の評判悪すぎ。

 「俗流若者論ケースファイル56・片岡直樹
 片岡直樹も単独で登場。

 「俗流若者論ケースファイル57・清水義範
 元祖「フィギュア萌え族」論!?

 「俗流若者論ケースファイル58・林真理子
 この程度の「憂国」エッセイが教育「論」として認められてしまう現実。

 「俗流若者論ケースファイル59・林道義
 この時期に及んで、「環境ホルモンで動物が女性化」はないだろう…。

 「俗流若者論ケースファイル60・田村知則
 何と眼科医学から俗流若者論が飛んできた。

 「俗流若者論ケースファイル61・野田正彰
 俗流若者論で「心のノート」に反対したらまずかろう。

 「俗流若者論ケースファイル62・藤原正彦
 文化ってなんなんだ。

 「俗流若者論ケースファイル63・和田秀樹
 遅れてきた「スキゾ/パラノ」(@浅田彰)!?

 「俗流若者論ケースファイル64・清川輝基
 清川輝基まで登場。

 「俗流若者論ケースファイル65・香山リカ
 政府や右派言論人を叩かずに若年層ばかり叩く、それが若年層右傾化論クオリティ。

 「俗流若者論ケースファイル66・小林ゆうこ
 ここまで疑似科学を批判的検証抜きに紹介できるノンフィクション作家って…。

 「俗流若者論ケースファイル67・中村和彦&瀧井宏臣
 しかし瀧井宏臣は小林ゆうこよりもすごい。

 「俗流若者論ケースファイル68・瀬戸内寂聴&乃南アサ&久田恵&藤原智美
 これだけの「文化人」がそろっておきながらこの貧困。

 「俗流若者論ケースファイル69・小林道雄
 小林道雄二重人格説。要するに警察に関する仕事と青少年に関する仕事で落差ありすぎ。

 「俗流若者論ケースファイル70・山藤章二&「ぼけせん町内会」の皆様
 トンデモカルタの世界。

 今後の予定。
 ・「統計学の常識、やってTRY!第5回」を近いうちに公開します。採り上げる記事は、「AERA」平成17年9月5日号に掲載された、各務滋、坂井浩和、小田公美子「父よ母よ 園児が壊れる」です。
 ・「俗流若者論ケースファイル71・遠山敦子ほか」を近いうちに公開します。8月26日付の読売新聞で、遠山氏が識者16名を集めて結成した「こころを育む総合フォーラム」の基調報告が掲載されていますが、そこでは取り立てて俗流若者論が見られるわけではないのですけれども、この団体の動向を見極めなければならない、という目的で執筆します。
 ・三浦展『仕事をしなければ、自分はみつからない。』(晶文社)の検証記事を来月中に公開します。また、同じ著者の『ファスト風土化する日本』(洋泉社新書y)と『「かまやつ女」の時代』(牧野出版)にも問題が見られれば、短期集中連載という形で来月一遍に検証を行ないます。
 ・小林道雄『「個性」なんかいらない!』(講談社+α新書)の検証記事を再来月までに公開する予定です。
 ・9月14・15日に、愛知万博に行ってきます。そこで何か感じることがあれば、万博観覧レポートを書きます。
 ・その前日の9月13日に、東京で今年のカンヌ国際映画祭でパルムドール大賞を受賞したベルギー映画「ある子供」のマスコミ試写会に参加してきます。そこで何か感じることがあれば、映画評を書こうと思います。生まれて初めての映画評です。
 ・再来月までに、巷に出回っているフリーターや若年無業者に関する本の書評をbk1にて一気に公開します。さらに、その公開とあわせて、それらの本に関する分析を行なった記事をブログで公開します。
 ・平成18年仙台市成人式実行委員会に参加しています。それにあわせて成人式関係のコンテンツも充実させていくつもりです。その嚆矢として、近いうちに「成人式論は信用できるかSPECIAL01・大谷昭宏」を掲載します。「通販生活」2005年春号に掲載された大谷氏のインタヴューを検証します。

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2005年7月23日 (土)

トラックバック雑記文・05年07月23日

 お久しぶりです。最近このブログの更新が停滞していたのは、建築の課題を作っていたからですが、一応毎日アクセス確認はしていました。

 その確認をしていたときに判明したのですが、どうやら誰かがパチンコ関係のネット掲示板に私の記事へのリンクを何の文脈もなく、しかも私が投稿したものであるかのように貼っている人がいるようです。

 ここで申し上げておきたいのですが、まず私はその事実を知るまでその掲示板の存在を知りませんでした。また、たとえ掲示板に投稿する際でも、私は原則として本名でしか投稿しません。なので、その掲示板にさも私が貼ったかのごとく書かれている書き込みは、明らかに私のものではないのです(ちなみに最近「北の系」の掲示板に投稿した文章は私のものです)。

 確かにこのブログは、タイトルの近くにも書いてある通り、リンク及び転載は歓迎しております。私に提供したい情報があれば、どしどしトラックバックやコメントを投稿していただきたいものです(アダルトブログなどからのトラックバックは無条件に削除させていただく場合があります)。しかし、この場合は、明らかに私に対する誤解をあおるものであり、私はそのことで大変迷惑を被っております。

 まさかこのブログの常連の読者がそのようなことをするはずはないのだと思いますが、この文章を読んでいるのであれば、まずその行為をやめてください。

 ここからが本文です。
 フィギュア萌え族(仮)犯行説問題ブログ版:ガードレールの金属片の謎、解明される(古鳥羽護氏)

 本の2ヶ月ほど前、あれほど我が国を騒がせた「ガードレールの謎の金属片」問題も、今ではまったく聞かれなくなりましたね。で、最近になって、ようやくその「原因」がわかったらしい。ここで引用されているNHKのニュースによると、車がガードレールにこすれたときに車の金属がはがれて、あのような形の金属片が生成されてしまうとか。

 それにしても、この記事における結びの言葉が極めて秀逸ですね。

 さて、この現象を、「テレビゲーム世代」、「2ちゃんねらー」、「ひきこもり」、「ニート」による人為的なイタズラであると決め付けたコメンテーターたちは、明日からテレビに出ないで欲しいものです。

 まったくもって正しいですね。しかし、これはテレビのみならず新聞も同じでしょう。私の家では読売新聞を購読しているのですが、このことを取り扱った第1社会面の記事で、2人の自称「識者」がコメントしていましたが、そこに掲載されていた、漫画家の弘兼憲史氏の発言がひどかったことを記憶しています。曰く、「このようなことがインターネットを通じて広く行われるようになるひどい社会になってしまった」と(うろ覚えで申し訳ありません)。この現象に関して、何でもかんでも「今時の若者」のせいにしてしまった人たちは、まず最低条件として1年ほどコメンテーターとして参加するのを自粛してくださいね。

 また、先ほどの話題とかなり関係があるのでここも採り上げておきましょう。

 週刊!木村剛:[金曜日ゴーログ]さすがにマスコミは「叩く相手」を知っている!(木村剛氏:エコノミスト)

 今年のバレーボールのワールドカップは、我が街仙台で行なわれましたけれども、そこでジャニーズの某グループとフジテレビの某アナウンサーの不祥事がありましたね。まあ、この問題に関しては、多くの人が知っていると思うので改めて書く気はありません。木村氏のブログで事件の概要がおさらいされているのでそちらを読んでください。

 それにしても、木村氏のブログでも触れられているのですけれども、本来であればこの手のネタは格好のワイドショー報道の材料になるはずなのですけれども、あまり報じられていないようですね。さすが、身内には甘い、というべきか。

 身内には甘い、ということで私が真っ先に思いつくのは若年層に関する報道や言論です。例えば我が国の左派論壇において、「今時の若者」を嘆くために「戦後」を持ち出すような歴史修正主義が増えています。これでは「今時の若者」を嘆くために「戦前」を持ち出すような右派の歴史主義者となんら変わるところはありませんよ。しかし、左派論壇の人たちは、彼らを右傾化したと批判したり指摘したりしない。特に筑紫哲也氏は、筑紫氏が今や(というよりもずいぶん前からか)左派論壇のトップスターであるということもあってか、いかに「週刊金曜日」の連載で復古主義的なナショナリズムを煽っていても(「俗流若者論ケースファイル10・筑紫哲也」を参照されたし)、そのような言論を右傾化だとか指摘する人はいません。筑紫氏ほどではありませんけれども、吉田司氏や斎藤貴男氏なんかもこの傾向が現れ始めていますね。特に斎藤氏。斎藤氏は、かの曲学阿世の徒・京都大学霊長類研究所教授の正高信男氏のトンデモ本『ケータイを持ったサル』(中公新書)を、朝日新聞と、著書『人を殺せと言われれば、殺すのか』(太陽企画出版)と『安心のファシズム』(岩波新書)で絶賛していた。そのような斎藤氏の文章を読んで、私は「いったい、斎藤貴男はどうなってしまったのか!」(もちろん、斎藤氏と魚住昭氏の共著『いったい、この国はどうなってしまったのか!』(NHK出版)のパクリです)と驚いてしまいました。「サイゾー」の今月号で、例の宮台真司氏と宮崎哲弥氏の対談において、宮崎市が斎藤氏のことを「頭は左翼だが、体は半分保守オヤジに浸かってしまっている」状態であると批判していましたけれども、「頭は左翼、体は保守オヤジ」という人たちが多すぎます。左右関わらず、「体が保守オヤジ」の人々によって現在の言論界が支えられているから、このような事態が生じるのでしょうかね。

 それにしても、彼らの考える「国家」とはなんなのでしょうか。

 ン・ジュンマ(呉準磨)の備忘録:ナショナリズムとは、つまり「国民国家の虚偽意識」か
 弁護士山口貴士大いに語る:カスパルがうさんくさい要望書をエロゲー関係各社に送ったようです(山口貴士氏:弁護士)
 kitanoのアレ:反性教育の動向(6)

 なぜ、俗流若者論に寄りかかる歴史修正主義者の思考を考える上でこのような記事を持ってきたか。それは、まさに彼らの「国家」が彼らを正当化するためだけの道具に過ぎない、ということを言いたいのです。

 山口氏のブログでは、アダルトゲーム規制を推進する団体がアダルトゲーム業界に怪文書を送ったことが報告されています。しかし、なぜこの団体はアダルトゲームにこだわるのでしょうかね。アダルトゲームにこだわりすぎると、犯罪の実像はまったく見えなくなりますが、彼らにとっては見えなくてもいいのでしょうか。所詮は自分の「理解できない」ものを国家によって規制しろ、といいたいわけですね。超国家主義と生活保守主義の最悪の結婚です。

 また「kitanoのアレ」では、中教審が高校生以下の性行為を認めない、という決定をしたようです。ここで引用されている共同通信の記事を読んでいると、嗚呼、やはり我が国は「言霊の国」だ、と嘆きたくなります。中教審の皆様方は、とにかく駄目だと言っていれば解決する、と思い込んでいるのですからね。考え方が甘すぎやしませんか。
 この2つに共通するのは、「強い国家」によって「今時の若者」を「是正」することを目的としていることでしょう。彼らが「今時の若者」に対して不快感を持っているのはよくわかります。しかし、その「解決」のために国家を持ち出し、「国家」に自らの「癒し」を求める、という態度は果たして正しいのか。私はそうは思いませんね。私だって、俗流若者論を批判する立場にある身であっても、やはりメディア的な「今時の若者」に不快感を覚えることはありますよ(仙台ではあまり見かけませんが)。しかし、そんな個人的な感情を、現代の若年層における「国家」意識の喪失なる論理と無理やり結びつける、という行為は、はっきり言って良識ある大人の行為ではないでしょう。

 今や国家は、「今時の若者」に対する個人的な恨みつらみを晴らしてくれる存在でしかなくなりつつあります。真面目な国家主義者は、直ちにこの状況を批判すべきでしょう。

 ヤースのへんしん:皆の道

 日本最速の161キロを記録した横浜ベイスターズのマーク・クルーン投手にあやかって、横浜市の市議より「市道鴨志田161号」に「クルーンロード」という愛称を付けようという動きが持ち上がってるらしい。

 うわあ、莫迦莫迦しい(笑)。もちろんこの記事の筆者も莫迦莫迦しいと思っていますが。

 この文章を読んで、東北大学助教授の五十嵐太郎氏(『戦争と建築』『過防備都市』の著者です)の授業において、北朝鮮の建築のスケールや装飾の数(例えば金日成広場の正面にある「主体思想塔」の高さ)が北朝鮮の革命史とか金日成にまつわる数字とかにあわせられている、ということが語られていたことを思い出しましたよ。

 このようにセンスもなく、ただ単に人気にあやかっただけの地名や愛称が、その後においてどのように語られるか、ということを考えてみるとなんだか滑稽に思えてきます。野球の選手が日本催最速の等級速度を出した、だからこの道路にそのような愛称がついたのだ、と言われても、その知名に愛着を持つ人がいるのでしょうかね。どうも疑問に思ってしまう。

 minorhythm:夏本番っ☆(茅原実里氏:声優)
 ひとみの日々:夏バテ?(生天目仁美氏:声優)

 仙台の梅雨明けはまだですが、いよいよ本格的な夏が始まりました。私も、本日、長かった建築の課題が終わり、いよいよ夏休みに入ります(補講とか試験とか提出とかたくさんありますが)。余暇の時間が多くなるので、このブログの更新頻度も多くなるでしょう。後はアルバイトが欲しい。私は「家庭教師のトライ」に所属しているのですが、現在生徒を持っていない状況です。なので、積極的にトライのほうに電話をかけて、新しい生徒はいないかといっております。さぞかしトライの仙台支部も迷惑千万でしょう(笑)。

 アルバイトがないなら、夏休みは物書きに徹しますか。一応現在検証待ちの文章もいくつかありますが、8月初旬からは夏休み特別企画を行なうことを考えております。
 それは「俗流若者論大賞」。平成12~15年に後で挙げる雑誌に発表された俗流若者論から1年ごとに、準グランプリを3~5本、そしてグランプリを1本ノミネートしようと思います。なので、この特別企画の期間中は、カレントな俗流若者論の批判はしばらくお休みになります。

 対象となる雑誌:文藝春秋、諸君!(以上、文藝春秋)、中央公論(中央公論新社)、現代(講談社)、世界(岩波書店)、正論(産経新聞社)、Voice(PHP研究所)、論座、週刊朝日、AERA(以上、朝日新聞社)、Yomiuri Weekly(読売新聞社)、サンデー毎日(毎日新聞社)、週刊金曜日(金曜日)

 また、雑誌に投稿するために、ここでは公開しない文章も執筆するつもりです。とりあえず現在執筆予定なのが「疑似科学の潮流と俗流若者論」とか「俗流若者論が生み出す歴史修正主義」とか。というのも、先月の頭ごろに、このブログの記事「壊れる日本人と差別する柳田邦男」を「論座」編集部に投稿したときに、編集部から既に発表された文章は掲載できないと電話がかかってきましたので、雑誌投稿向けに、これまでの私の俗流若者論批判を一つのテーマにまとめて、俗流若者論という言論体系にあまり明るくない人にも読んでもらえるような文章に仕上げるつもりです。もし投稿してから1ヶ月以上反応がなければ、ここで公開するつもりです。

 それから、前回の雑記分から、以下の記事を公開したので、是非読んでください。

 「俗流若者論ケースファイル35・斎藤滋」(7月10日)
 「俗流若者論ケースファイル36・高畑基宏&清永賢二&千石保」(7月13日)
 「俗流若者論ケースファイル37・宮内健&片岡直樹&澤口俊之」(同上)
 「俗流若者論ケースファイル38・内山洋紀&福井洋平」(7月16日)

 そうそう。あさってはついに我らが仇敵(だったのか)・正高信男の新刊が発売される日ですよ。

 正高信男『考えないヒト』中公新書、2005年7月25日発売予定

 中央公論新社のウェブサイトでは、《通話、通信からデータの記憶、検索、イベントの予約まで、今や日常の煩わしい知的作業はケータイに委ねられている。IT化の極致ケータイこそ、進歩と快適さを追求してきた文明の象徴、ヒトはついに脳の外部化に成功したのだ。しかしそれによって実現したのは、思考の衰退、家族の崩壊などの退化現象だった。出あるき人間、キレるヒトは、次世代人類ではないか。霊長類研究の蓄積から生まれた画期的文明・文化論》と紹介されています。まあ、帯を見る限りでは、おそらく『人間性の進化史』(NHK人間講座テキスト)をさらに拡大したものになるのでしょうか。しかし、あのテキストだけでは新書というサイズにまとめることができないので、ある程度加筆することになるのでしょうけれども、少なくともこの本が彼の疑似科学路線を突っ走った本になることは間違いないようです。

 皆様、この機会に、正高信男という曲学阿世の徒について復習をしてみましょう。

 まず、私の正高信男批判を。

 「正高信男という病 ~正高信男『ケータイを持ったサル』の誤りを糺す~」(平成16年11月7日)
 「正高信男という堕落」(平成16年12月4日)
 「またも正高信男の事実誤認と歪曲 ~正高信男という堕落ふたたび~」(平成17年2月24日)
 「正高信男という頽廃」(平成17年3月8日)
 「正高信男は破綻した! ~正高信男という堕落みたび~」(平成17年4月5日)
 「暴走列車を止めろ ~正高信男という堕落4~」(平成17年7月3日)
 私の正高信男批判を全部読みたい方はこちら

 また、他のブログにおける正高信男批判も紹介しておきます。

 えこまの部屋:[社会]EMYさんへの返事[社会]少子化対策ぅぅ~~?(着地点はコレかよ!)

 はぁ・・・?
 これケイタイを持つ者へのなんらかの批判と啓蒙の書だったのではないのですか?
 (少なくともそれを期待し彷彿させるタイトルだったんですが・・・)

 百万歩譲って「この本は本当は少子化対策の本だった」として、
 この程度の提案(少子化対策案)って・・・
 なんだか高校生の子が、もしくは家政科の短大生が明日提出で急いで仕上げた
 「私が考える少子化対策レポート」みたいに思えるんですけれど・・・。

 脱力である。

 ふたたびEMYさんのコメント再生
 >読まなくて正解と思います。

 ほ・・・ほんほひそうらね、EMYひゃん。(ほんとにそうだね、EMYさん)

 ちなみにこの記事では、このブログではおなじみの「千人印の歩行器」の栗山光司氏が私の文章を紹介しております(この記事が「堕落みたび」にトラックバックされているのもそのためでしょう)。この記事は、一般読者の立場から正高本に突っ込みを入れております。

 思考錯誤:[note] 『ケータイを持ったサル』か?(辻大介氏:社会学者)

 しかしだな、その実験の解釈や議論の組み立てかたは、やはりトンデモと言わざるをえないところがある*1。いかに優れた自然科学者であっても、生半可に社会評論に手を出してしまうと、こんなことになってしまうんかいなと愕然としてしまう。お願いだから、正高さんには、こっち方面からはとっとと手を引いて(どうせ片手間しごとなんだし)、着実に本業を進めてほしいと切に思う。優秀な人が道を誤っちゃいけない。

 本当にその通りであります。

 あと、オフラインの正高批判も挙げておきます。

 宮崎哲弥「今月の新書完全読破」2003年9月分=「諸君!」2003年12月号、文藝春秋

 私には呆れるほど杜撰で、学者としての良心すら疑いたくなる内容なのだが、新聞などの書評は押し並べて好意的だった。
 日本人が「退化」しているかもしれないという危惧にだけは同意してもよい。私の危惧は、著者を含めたインテリ層の知的能力の「退化」に対するものだけど。(280ページ)

 岸本佐知子「(ベストセラー快読)おじさんも「感動した!」」=2004年3月28日付朝日新聞

 この本の悪口を言うのは簡単だ(オヤジの主観丸出しだとかトンデモ本じゃないのかとか女になにか恨みでもあるのかとか)。が、そんなことはこの際どうでもいいのだ。著者は、学者として何より大切な客観性を投げうち、神聖な研究対象をネタに使ってまで、世の虐げられたおじさんたちを勇気づけようとしているのである。何と崇高な犠牲精神であろう。

 斎藤美奈子「(斎藤美奈子 ほんのご挨拶)サルとヒトの区別ない 印象のみの比較論」=「AERA」2003年12月8日号

 ※備考:この「ほんのご挨拶」をまとめた本が、斎藤氏の最新刊の『誤読日記』(朝日新聞社)として刊行されています。私はまだ読んでいないのですが、おそらく正高本への批判も収録されているでしょう。

 相手がサルだと社会統計学の原則に則る必要もないんですね。
 ……こんな乱暴な比較論もサルだから許されるわけです。ヒトの家族論、若者論、コミュニケーション論等がいまやこれだけ出ているのに、参照しないってのもすごい。

 皆様、来る25日に向けて、完全に論理武装をしておきましょう(笑)。

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2005年6月22日 (水)

トラックバック雑記文・05年06月22日

 冬枯れの街:「無駄な星なんてあるわけがないだろ?」
 先日の「トラックバック雑記文・05年06月18日」で「河北情けないよ河北」と私がもらした記事(河北新報:落書き、知力低下反映? 単純な絵などばかり 仙台)について、ココログで「落書き」と検索をかけてみたら、かなりの数のブログがこれに言及していたので、先日のものでは書ききれなかった論点についてもう一度書いておきます(ちなみに私は仙台在住の東北大学工学部建築学科の3年生であり、仙台に溢れる落書きには心を痛めている者であります)。

 ちなみにこれに言及していたブログを挙げておきます。

 c572 blog:落書きに知的水準が低下?
 Sleeping Sheep:知力の低下。
 トウグウタクミの書道でGO!:「国語力」って何でしょう?
 ++ zakkan ++:このニュース・・・
 週刊?コヰズ::実況中継:落書き・ミネラルウォーター・熊本深夜便
 ひとこと:落書き
 Books and Cafe:グラフィティアートのレベル低下?
 諸般の事情亭・地域面:人類の退化と・・・
 パンダの戯れ言:レベル低下
 日々是決算、親身の集金:イタズラも知的センスが必要

 この記事に関する問題点は次のとおりです。

 1、仙台に書かれていた落書きの傾向について、そこから「今時の若者」を語ることができるのでしょうか。

 2、そもそも、落書きというものは「器物損壊罪」なのではないでしょうか。たといそれが「器物損壊罪」であったとしても、それにたいして何らかの美や主張が許されるのなら、それは社会的に許されるものなのでしょうか。

 3、そもそもこのような記事に、ジャーナリズムとしての存在意義がどれほどあるのでしょうか。

 以上の3つの論点について、私が持った違和感を書いておきます。

 「1」。そもそもこのような落書きに関しては、そのほとんどが社会的に恵まれない層、あるいは社会から逸脱している層によって書かれている、ということは、本来であればその人たちに起こっている質的変容を問題視するべきではないでしょうか。また、そもそもこれらの落書きを書く人が、若年層全体から見てどれほどの割合いるのでしょうか。そして、安易に彼らが現代の若年層の知性を代表している、という考え方にも、疑問を感じずにはいられません。さらに、仙台以外の地域との比較もないのも、これまた疑問の種でありましょう。

 「2」。そもそも、落書きの美醜は誰によって決められるものなのでしょうか。これは、先日の「松文館裁判」の冤罪判決にもつながるものですけれども、ある「刑法犯のおそれのある行為」に対して、それが「美しければ」よし、「醜ければ」駄目、というのであれば、その線引きを誰が決めるのでしょうか。落書きという行為は、それ自体が「器物損壊罪」という犯罪行為なのですから、もしここで問題にされている落書きが規制されるべき、というのであれば、その美醜に関わらず、落書きという行為は全て規制されるべき、といわないと、プリンシプルというものがありません(以上の観点から、私は、明確な被害者が存在している落書きは規制すべきで、明確な被害者の存在しないアダルト漫画は規制されるべきではない、と考えます)。

 「3」。正直言って、このような記事が平然と流通してしまうことに、わたしは心を痛めております。リンク先のブログにも、「愚民化政策の結実」だとか「教育の失敗」だとか安易に語っているところが目立ちますけれども、そもそもこのような記事は、所詮は「酒場の愚痴」程度のものにしかなりえないのではないでしょうか。これらの「憂国」言説は、はっきり言って極めて政治性の強いロールシャッハ・テストでしかありません。

 結局は、みんな、「今時の若者」をバッシングすることによって、「自分は「正義」である」という幻想に浸りたいだけなのです。この記事は、そのような俗流若者論の「願望」を、見事に表している、というほかありません。

 かように志の低い記事が乱造されて、若年層全体がいわれなきバッシングに晒されてしまう、という現在の状況を、私は悲観しています。思えば、「理解できない」少年凶悪犯罪がひとたび起これば、最近はワイドショーのみならず「まともな」報道機関でさえも、安易に「原因」なるものを求める方向に走って、お決まりの如く渋谷や原宿や秋葉原に出向いて、ありもしない不安ばかり煽るようになってしまっています。要するに、目の前の「象徴的」事件と、巷で(ワイドショー趣味的に)語られている「問題」を強引に結びつけることによって、若年層に対する不信ばかりを煽る。この記事は、そんな悪しき流れに掉さしたものに過ぎないのです。

 私は河北新報に、過去4度ほど文章を掲載させてもらった恩義があり、原稿料も頂いたことがあります。しかし、そんな河北新報が、これほどの志の低い記事を書いていることに、私は怒りを隠しきれません。この記事の問題点も咀嚼せず、安易に受け入れている人たちも、これでいいのですか?

 それにしても、いつから、過去の落書きが「アート」として許容されるようになったんだ?昔も、それらに対して、多くの市民が怒ってたのにねえ。っていうか、なんだよ、「グラフィティアート」って。

 皆様。仙台市民として、この程度の落書きよりも憂うべき事件があるのではないですか?

 kitanoのアレ:議場飲酒議員問題:「明らかに数人が酔っていた」
 日課として、「kitanoのアレ」を何気なく読んでいたら、聞き覚えのある名前が私の目に飛び込んでしまい、一気に眠気が覚めました。

 秋葉賢也!?

 そう、先日、平成15年の衆院選に関する運動員のスキャンダルによって、引責辞任した民主党の鎌田さゆり議員の補選で今年当選した、自民党の秋葉賢也氏(宮城2区:仙台市宮城野区、太白区、若林区)です。「kitanoのアレ」で引かれている日経新聞の記事によると、その内容は以下のものだそうです。

 17日夜の衆院本会議に、数人の自民党議員が「酒気帯び」で出席したことに野党が反発、会期延長の議決が予定よりも30分ほど遅れた。

 本会議は午後5時に休憩に入り、午後9時前に再開。議決反対の討論に立った社民党の阿部知子氏が赤ら顔の議員を見とがめ、「即刻、退場すべきだ。『酒気帯び国会』を延長する必要はない」と声を張り上げた。

 これを聞いた自民党の秋葉賢也氏は議場閉鎖中にもかかわらず退場。場内はさらに騒然とした。

 河野洋平議長が投票を呼びかけたが、野党はしばらく応じず、一時は徹夜かとの憶測も飛び交った。

 民主党の岡田克也代表は本会議後の党代議士会で「小泉純一郎首相と森喜朗前首相も赤い顔をして投票していた。いかにいいかげんな国会か分かる」と批判した。

 なんと、酒を飲んでいたから議事に遅れた!

 しかも、秋葉氏は、そんな行為に対する当然の批判を民主党や社民党の議員に注意されたら、議場閉鎖中にもかかわらず退場してしまった!しかも、この議会は、国会の会期延長を議論し、さらにその議決を行なう日だった!

 これでいいのでしょうか。

 そして、このような議員や、このような議員を支持した人に対して、なぜ「知力低下」のレッテルが貼られないのでしょうか。

 実に不可解です。

 以上のことからもお分かりですね。俗流若者論とは、所詮は権力に媚び、問題の論点を逸らし続け、より大きな問題や権力に対する疑問を隠蔽し、大衆の批判の方向を権力ではなく若年層に向けることによって、本当の問題を隠蔽してしまう。

 また、「醜悪な」落書きが「知力低下」の象徴としてバッシングされるのに、「醜悪な」都市計画が「知力低下」の象徴としてバッシングされないのはなぜなのでしょうか。

 目に映る21世紀:秋葉原と下北沢の再開発ってどうよ? ~キール&NINEでトークpart1
 週刊!木村剛:[週刊!尾花広報部長] ついに萌えのまち秋葉原に進出しました!(尾花典子氏:日本振興銀行広報部長)

 以前の雑記文でも何度か書きましたが、秋葉原に行ったとき、秋葉原駅前に建っている大きな再開発ビルに、とてつもない違和感を感じました。また、以前に「目に映る21世紀」や保坂展人氏のブログで、下北沢の再開発が批判されていることにも触れました。

 現在行なわれている「都市再生」によって、さまざまな箇所でその地域の地域性が破壊されている、という指摘がさまざまなところで行なわれていますが(五十嵐敬喜、小川明雄『「都市再生」を問う』岩波新書など)、私はその実態を、秋葉原に行って肌で感じ取りました。読者諸賢も御存知の通り、秋葉原はオタクの都市として有名ですが、秋葉原駅前にそびえ立つ再開発ビルは、オタク的なるものにたいする国家権力の規制の象徴として建っているように見えました。あのようなビルが秋葉原に建つことに、一体何の意義があるのか。秋葉原は雑然としたオタクの街でいいじゃないか、とここで叫んだとしても、所詮は流れを止めることができないのでしょうか。

 秋葉原におけるオタク規制と歩調を合わせてかどうかはわかりませんが、最近はさまざまなマスコミにおいてオタク・バッシングがよく見られます。この間の少女監禁事件にしても、犯人の性癖がオタク趣味に傾いていることから、いかにオタクが犯罪的であるか、ということを喧伝していたように思えます。

 しかし、この少女監禁事件の犯人・小林泰剛は、正確に言えば「オタクの皮をかぶった鬼畜」です。なぜか。それは、オタクの性的嗜好は「二次元の美少女に対して欲情する」というもので、二次元の美少女に対して欲情できず、凶悪な性犯罪に走ってしまう、というのは、オタクの性的嗜好を逸脱しているからです。

 あと、例えば「オタク」だとか「アダルトゲーム」だとかに対する印象論だけで、架空の「専門家」まで捏造していかにそれらが危険であるか、という記事を夕刊フジがウェブ上で書いていたそうですね。もちろん、その後は訂正されたようですが。それにしても、夕刊フジと言えば、JR福知山線の脱線事故に関しても、森昭雄を召還して犯人が「ゲーム脳」だと疑う記事を書いていましたね。夕刊紙だから何でも許される、ってわけじゃねえんだよ。

 皆様、お分かりになられたでしょうか。俗流若者論を容易に受け入れる人たちは、「「今時の若者」は政治にまったく関心がない」と愚痴りますけれども、政治に関心がないのは、むしろ俗流若者論のことではないですか。俗流若者論は、「今時の若者」を安易にバッシングして、若年層に対して敵愾心を煽ることには至極長けていますが、政治の動きを読み取り、その流れが正しいものであるかを判断する、ということに関しては、極めて疎い。そして、多くの人たちが、そのような俗流若者論に心酔している。そうなると、政治は「今時の若者」に対する敵愾心を回収するだけのものになってしまいます、というよりも、その萌芽が出始めています(メディア規制や教育基本法の改正など)。

 俗流若者論に心酔することは、昨今の政治の危険な流れに賛同する、ということに他なりません。それでもいいのであれば、どうぞ俗流若者論に賛同してくださいね。

 保坂展人のどこどこ日記:日韓首脳会談の不実と小泉政権(保坂展人氏:元衆議院議員・社民党)
 正々堂々blog:日韓首脳会談を憂う(川内博史氏:衆議院議員・民主党)

 日韓首脳会談が行なわれていますが、少なくとも保坂氏や川内氏の視点から見ると、どうもこの首脳会談はうまくいっていないようです。

 この首脳会談の内容にすいてはあまり存じ上げないのですが、昨今の日韓関係、あるいは日中関係について少し想うことを言わせてもらうと、私はお互いに対する「敵愾心」を排除して、真摯に向かい合わなければ解決し得ないと思います。

 中国や韓国の反日デモは言わずもがな、それに過剰に呼応する政府・自民党の人たちや俗流右派論壇人の人たちも、単なる「反・反日」に熱中しているだけで、「反日」に真摯に向かい合おうとしている人たちは、むしろ左派に多いと思います。

 日韓・日中関係に限らず、これは若年層に対する態度についても同様に言えます。マスコミの若年層に対する態度は、安易なイメージばかりが先行して、若年層の抱える問題について地味ながらも正面から向き合っている人は、むしろあまり読まれないような雑誌や書籍によく登場しています。しかし、マスコミがただ部数とかなんかの理由で派手な若年層バッシングばかりやっている状況では、社会や政治と若年層が歩み寄る、ということはまずありえないでしょうね。

 ひとみの日々:おらんうーたんとわたし(生天目仁美氏:声優)
 ここまで政治的な話をしすぎたので、ここで落ち着きましょう。

 生天目氏は動物園に行ったそうですが、たまには自分の生活空間(私の場合は、住宅地と、大学のキャンパスと、仙台の中心市街地)とは違う場所に行ってみるのもいいものです。自分の生活空間を抜け出し、環境の違う場所に行くと、心が洗われます(その場所の環境にもよりますが)。

 私は最近、1年ほど行っていなかった宮城県美術館に行ってきたのですが、東北大学写真部の展示会が行なわれておりました。また、宮城県美術館の空間的な雰囲気は、都市的な、あるいは住宅地の生活環境に慣れ親しんできた者にとっては、また違った感覚を味わうことができます。

 千人印の歩行器:[時事編]地下構造ダイビング(栗山光司氏)
 「俗流若者論ケースファイル29・吉田司」を公開しました。この文章で採り上げた吉田氏の文章に対して、私が朝鮮戦争というファクターを無視している、と書いたところ、栗山氏から朝鮮戦争時の栗山氏の生活に関する実体験が書かれている文章がトラックバックされたので、興味がある方は一読を。

 それにしても、栗山氏の次の文章は、我々が真摯に考えなければならない論点が含まれているような気がします。

 後藤氏の俗流若者論に対する批評はマットウですね。しかし、「今時の若者云々」はいつの時代にも言われてきた。床屋政談として挨拶代わりに喋るには構わないが、ちゃんと、若者達に向き合って、自分なりにデータ分析した深い思索の結果なら傾聴に値するが、そんな検証のない単に他罰の構造にのって勝手にスピークアウトする輩の言説は馬耳東風です。自虐史観がどうのこうのと言いますが、僕が一点、ぶれない定点と言えば、「自虐」です。別に歴史観だけの問題でなく、「自虐」を通さない針穴から「誇り」は生まれない。他罰を積み重ねてそれが誇りだと誤読している人がいますが、吼える犬ほど始末の悪いものはない。兎に角、何かに動員される前に自分の頭で考える癖をつけること、それは当然自己相対化の自虐に到る。痛い地帯で発言する。そこがスタートラインでしょう。安全地帯では、音楽を聴いてぼけ~とする。

 《「自虐」を通さない針穴から「誇り」は生まれない。他罰を積み重ねてそれが誇りだと誤読している人がいますが、吼える犬ほど始末の悪いものはない》とは実に的を得た指摘だと思います。俗流若者論とは、若年層に対するバッシングを繰り返すことによって、自分を正当付ける言論体系であり、「「今時の若者」は駄目だから駄目なのだ」というトートロジー(同語反復)の繰り返しでしかありません。冒頭の河北新報ではないですけれども、「批判のための批判」の繰り返しでは、何の解決にもならない。所詮は自慰。二次元の美少女で自慰するのは至って健全ですが、俗流若者論で自慰するのは極めて有害ですよ。

 最後に。このブログではおなじみの東京大学助教授の広田照幸氏の記述を紹介しましょう。ちなみに引用元は『教育には何ができないか』(春秋社、2003年2月)です。

 30年後ぐらいには、社会の中心を担うようになった今の子供たちの世代が、「俺も昔はワルで、万引きやカツあげをやってたけど、今はこんなにちゃんとやってるぜ」と誇らしげに語り、「今の非行少年は根性がない」とか「最近の子供はヘンな事件ばかり起こしやがる」と言ってたりするのではないだろうか。

 そういえば、70年代末から80年代初頭にかけて、校内暴力の嵐が全国で吹き荒れた場、つい最近、「あの校内暴力の時代にはワルにも連帯する根性があった。あいつらはそれなりにしっかりした奴らだった」といったことを書いた文章を目にした。20年前の非行少年たちのしでかしたことは、もはや免責される段階に至ったのかと、私には感慨深いものがあった。(188ページ)

 むしろ、「今の若い者は…」と大人たちが攻撃するのは、大人の側が未来社会のビジョンを見失っているからなのかもしれない。目指すべき未来がわからなくなって、漠然とした不安を感じる大人たちが、既存の秩序のゆらぎへのいらだちを、青年たちにぶつけている部分があるように思えてならない。「今よりももっとましな社会」とか、「新たな価値規範」とかのビジョンを、いずれ青年たちが嗅ぎ当てた後は、今の大人たちの世代は、「天保の老人」ならぬ「昭和の老人」といわれるようになるにちがいない。そうした、「新しい鉱脈」を嗅ぎ当てようとする、彼らの努力をもっと容認・鼓舞していく必要がある。青年の可能性を、もっとポジティヴにみていく必要があるのではないだろうか。(197ページ)

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2005年6月18日 (土)

トラックバック雑記文・05年06月18日

 放置プレイにしようと思っていたのですが、リクエストが入ったので斬らせてもらいます。

 ちなみにリクエストしたのは、
 冬枯れの街:「無駄な星なんてあるわけがないだろ?」

 私は仙台在住なのですが、あいにく我が家でとっている新聞が読売新聞なので、東北の地方紙である河北新報がこんなにひどい記事を書いていたとは知りませんでした。ちなみに河北に関しては、私は4回ほど文章を掲載させていただいたことがあるのですが、そのような恩義もこの際一切無視しましょう。

 河北新報:落書き、知力低下反映? 単純な絵などばかり 仙台(Yahoo!ニュース)

 感想はただ一言。

 …河北情けないよ河北。(なぜ私がこのような言い方をするか、と疑問に思われた向きはこちらを参照)

 私も仙台市民として、中心市街地を中心に氾濫する落書きには心を痛めているのでありますが、このような落書きにかこつけて俗流若者論を書き飛ばしてしまう河北にも、正直言って心を痛めてしまいます。最近「この「反若者論」がすごい!02・河北新報社説」で社説を絶賛したばかりなのに。

 あのねえ。犯罪白書読めばわかるけどよ、暴走族(最近は「珍走団」という名称も定着しつつあるよね)の組織人員は減ってるんだよ。しかも、これは作家の重松清氏などの指摘なんだけどよ(重松清、河合幹雄、土井隆義、宮崎哲弥「日本社会はどこまで危険になったか」=「諸君!」2005年1月号)、暴走族の人員はむしろ高齢化してんだよ。背景には暴力団が牛耳ってて足を洗いづらいことが大きな理由だがよ。しかもなんだよ、この記事に出てくる自称「識者」どもは。こんな馬鹿連中の戯言にかこつけて「今時の若者」全体を語った気になってんじゃねーよ!しかも、この手の記事にとってはもはやご定番なんだが、過去との具体的な比較、一切なし!他の地域との比較、一切なし!この記事を書いた記者よ、出てきやがれ!!絞め殺すぞ!!!冗談だがよ。

 いい加減にしてほしいものです。このようなものでさえ記事になってしまう、という現在の俗流若者論、若者報道の現状には、ほとほと呆れてしまいますよ。所詮「今時の若者」は貶められてナンボなのでしょうね。

 栄枯盛衰、満つれば欠ける、とはよく言いますけれども、俗流若者論は、「酒鬼薔薇聖斗」事件以降に一気に勢いを増してから、もうとどまるところを知りませんよね。それどころか、むしろ隆盛の一途ですね。でもこれらの俗流若者論は、所詮張子のリヴァイアサンです。いつか、良心的な学者や評論家によって、少しずつ解体されるのを期待するしかないのでしょうね。

 というか、俗流若者論を解体するための本も、たくさんあるはずなのですが。売れているのは『反社会学講座』くらいなのが哀しい。まあ、俗流若者論を解体するための本は、大抵は地味か、高いか、その両方かですからね。『反社会学講座』は、易くて派手だから売れたものなのでしょうが、この本で展開されている論理が実を結ぶのは、いつの頃になるのでしょうかね。

 もう、こんな記事を読んだ私の感情を、声優の茅原実里氏が代弁していましたよ。

 minorhythm:茅原実里、本日はご立腹です(茅原実里氏:声優)

 茅原氏は傘を盗まれたことに怒っていますが、私はこんなにひどい記事でさえも不通に流通してしまう現状に激怒しております。俗流若者論系のトンデモ本や新聞・雑誌の記事も延々と出されますし。

 もう一つ、我々が怒っていいものがあります。
 弁護士山口貴士大いに語る:松文館裁判判決速報(山口貴士氏:弁護士)
 kitanoのアレ:松文館裁判:高裁でも不当判決

 「松文館裁判」。我が国ではじめて、「絵」にわいせつ罪が適用された裁判です。東京地裁の判決では、裁判で取り上げられた漫画の作者と、版元の社長に懲役刑が下ったのですが、弁護側が不服として控訴しました(ちなみに山口貴士氏は、この裁判の被告側の主任弁護士です)。で、この裁判において、宮台真司氏(社会学者)、斎藤環氏(精神科医)、奥平康弘氏(憲法学者)などが被告の立場から逮捕・告訴の不当性を主張してきましたが、それでも無罪を勝ち取ることができなかったとは…。

 弁護側は、これを不服として上告するでしょう。もしこの裁判の判決が判例として確定してしまったら、警察は好きなように「有害」コミックを摘発できるようになり、わいせつ罪の恣意的な運用が裁判において続々と行なわれるようになるでしょう。

 いささか言いすぎじゃないかって?いや、私がこのように断言するのは、この松文館裁判のいきさつを最近買った本で読んだからです(長岡義幸『「わいせつコミック」裁判』道出版、2004年1月)。

 そもそもここで取り上げられている漫画家と版元の社長が摘発されたのは、ある警察官僚出身の国会議員に寄せられた一通の投書がきっかけでした。そして、その議員が警察にリークし、漫画家と版元の社長は不当に逮捕されてしまった…。

 その「警察官僚出身の国会議員」とは…。

 平沢勝栄。

 カマヤンの虚業日記:[選挙]都議会選挙
 走れ小心者 in Disguise!:ブログ版『えらいこっちゃ!!』(20)(克森淳氏)

 都議会議員選挙ですか。私は宮城県民なので、選挙権があっても直接は関係ないものですが、ただ言論統制に断固として抵抗する立場としては、この2つのブログで取り上げられている「石原三羽烏」、すなわち古賀俊昭、田代博嗣、土屋敬之の3氏の当選は阻止しなければなりませんね。特に古賀氏と土屋氏は、産経新聞の月刊誌「正論」に出現する回数が高く、そこでも威勢がいい「だけ」の論理を飛ばしまくっていますから。

 それにしても、最近俗流保守論壇の空疎な現代日本人論や若者論が、彼らにしか理解できない共同幻想に基づいているのは、それこそが現代の論壇の行き詰まりを表しているように思えます。その点において、下のブログは必読でしょう。

 ヤースのへんしん:『バーチャル男』萌え

 非常に的確な指摘があります。

 力仕事が中心だった時代を生きてきた「男」にとって、力のいらない時代になり、多くの女性が社会参加をし、能力を発揮しだすと、中途半端な能力ではもう付いていけない、でも、どこかで「男」としての生き方はしたい。そんな気持ちの現れなのかもしれないですね。

 しかし、これらの「男」と「大人」の中身って「孤独」「個人」に集約されてませんか?結局は一人でオタクのように時間を潰すのでしょうか?「萌え」てるわけですね。

 「萌え」の使用法が違うと思いますが、少なくとも、某石原都知事をはじめ(その某都知事に対する批判はこちらを参照してください)、安易にナショナリスト的な言説を振りかざす俗流若者論者の最大の問題点を、ここまで凝縮して言い当てて見せた文章は皆無です。

 週刊!木村剛:[ゴーログ] 「なんとか審議会」は「なんとか」をやっているのか?(木村剛氏:エコノミスト)
 保坂展人のどこどこ日記:小泉語の摩訶不思議、「お互いに反省しよう」(保坂展人氏:元衆議院議員・社民党)

 以前、「俗流若者論ケースファイル13・南野知恵子&佐藤錬&水島広子」で、国会の「青少年問題に関する特別委員会」の議事録を批判したことがありますけれども、この議事録から見えることは、青少年問題に関する言説は、結局のところそれを語る人の社会観、世界観の凝縮である、という気がしてなりません。例えば佐藤錬氏(自民党)は、この特別委員会で、堂々と自己陶酔的な歴史観を述べていたのですから。それ以外にも、例えば最近ベストセラーになっている『壊れる日本人』(新潮社)の著者、柳田邦男氏(ノンフィクション作家)は、現代の青少年の行動(当然、過度に醜悪化、図式化、単純化されたものです)に「ケータイ・ネット依存症」の影を見出し(柳田氏こそが「ケータイ・ネット批判依存症」だろうが、という突っ込みは置いておいて)、曲学阿世の徒・京都大学霊長類研究所の正高信男教授は同様の青少年の行動に「ケータイを持ったサル」というレイシズムを押し付けることによって「日本人の退化」を嘆いてみせた(知性が退化しているのは正高氏ですよね)、スピリチュアル・カウンセラーの江原啓之氏は(この人は、堀江貴文氏よりも格段に「虚業家」ではないかと私は思います)これまた同様の青少年の行動に関して「たましい」(我々が普段使っている「魂」とは違います、あしからず)の劣化した存在とまたレイシズムを押し付けました。結局のところ、俗流若者論を安易に振りかざす人たちは、その社会観の貧しさを如実に表している、いわば、馬脚を現しているのです。このような人たちは、即刻退場していただきたいですね。

 それにしても、「論座」平成17年6月号に掲載された、「自民党議員はこんなことを言っている!」なる、「論座」編集部による自民党改憲派議員の「妄言録」は、読んでいてうんざりします。なぜって、編集部の人たちは気付いているかはわかりませんが、ここに出てくる発言のほとんどが、憲法にかこつけた俗流若者論だからです。近く「俗流若者論ケースファイル30・自民党改憲派議員」として、憲法にかこつけた俗流若者論の問題点を抉り出そうと考えていますが(29回はノンフィクション作家の吉田司氏を採り上げる予定です)、改憲派の中には、「今時の若者」にかこつけた改憲論を自信満々に開陳する人たちがたくさんいます(この中の一人である、ジャーナリストの細川珠生氏に関しては、「俗流若者論ケースファイル31・細川珠生」で採り上げます。「諸君!」平成16年5月号を読んで予習しておいてください)。まあ、彼らにとっては、青少年それ自体よりも、青少年に対する不信感を煽る言説に扇動される人たちのほうが得票数や部数の上昇につながるのでしょうが、私はここで、青少年の不当な「政治利用」を許すな!と言いたい。

 あと、保坂展人氏は、《小泉内閣は「自民党」は壊さなかったが、日本語はブチ壊した》と述べておりますけれども、日本語を壊したのは、小泉内閣だけではありません。俗流若者論も、です。俗流若者論は、その場しのぎのただ過激なだけの言葉を吐いて、無責任に去っていく。そして、そのような過激なだけの言葉は、人々の不安を扇動させるだけさせて、結局現実の青少年を苦しめる。

 ン・ジュンマ(呉準磨)の備忘録:使える論壇誌(笑)
 オピニオン系の雑誌は、その多くが赤字経営であるそうです。しかし、私見によれば、このような雑誌は、たとえ読む人が少数であっても、そこで実りのある言論が展開されていれば、赤字覚悟でも出し続けるという志がなければいけないような気もしています。このような雑誌の存在は、一点突破的になりがちな「世論」を諌めるために一役買う役割を負わなければならないと思います。

 それにしても、この手の雑誌で一番売れている「正論」は、この手の雑誌の中では一番面白くない雑誌です。なぜって、毎号毎号同じような見出しと内容ばかりで、最近は陰謀論まで飛び出している始末ですからね(「俗流若者論ケースファイル25・八木秀次」「俗流若者論ケースファイル28・石堂淑朗」を参照されたし)。特に「世界」や「論座」といった左翼寄りの月刊誌は、既存の枠組みを反芻するのではなく、もっと問題の本質を切り込むような――これについては、「論座」の平成16年4月号の特集における、斎藤環氏と宮崎哲弥氏(評論家)と金子勝氏(経済学者、慶應義塾大学教授)の対談で触れられていましたが――特集をやって、若年層やビジネスマンを取り込むような試みをするべきでしょう。
 ちなみに私の現在のお勧めの月刊誌は、「論座」と「中央公論」です。また、「世界」今月号は、鈴木謙介氏(国際大学グローバル・コミュニケーションセンター研究員)による「若年層の右傾化」論に対する反論と、ジャーナリストの二村真由美氏による江本勝(「水は答えを知っている」などでおなじみの人です)批判につられて、思わず購入してしまいました。月刊誌編集部の皆様、俗流若者論批判と、疑似科学批判は「買い」ですよ。

 お知らせ。以下の文章を公開しました。
 「俗流若者論ケースファイル26・三砂ちづる」(6月3日)
 「この「反若者論」がすごい!02・河北新報社説」(同上)
 「俗流若者論ケースファイル27・毎日新聞社説」(6月4日)
 「壊れる日本人と差別する柳田邦男」(6月6日)
 「俗流若者論ケースファイル28・石堂淑朗」(6月14日)

 また、久しぶりに書評を書きました。トンデモ本の書評ですが。

 柳田邦男『壊れる日本人』新潮社、2005年3月
 title:俗流若者論スタディーズVol.3 ~壊れているのは一体誰だ?~

 初めて全編会話調で書評を書きました。

 もっとも、広田照幸『教育言説の歴史社会学』(名古屋大学出版会、2001年1月)、内藤朝雄『いじめの社会理論』(柏書房、2001年7月)などといった良質な本も多く読んでいるので、そちらの書評も充実させるつもりです。

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2005年5月31日 (火)

トラックバック雑記文・05年05月31日

 ブログ移転後の最初の記事がこれですみません。ブログを移転してから、私は建築設計の授業の模型や図面製作、及びそれ以外の授業の提出物の執筆に追われていて、こちらのほうにかける時間があまりなかったのです。そういうわけで、まずはこの記事から。

 *☆.Rina Diary.☆*追われて(佐藤利奈氏:声優)
 私も大量の締め切りに追われていて、次々とやらなければならない課題をこなしていったので、佐藤氏の気持ちは分からぬでもない、むしろ大いに理解できます。

 ところで、課題というと、自分で課題と期日を設定して自分でやる、という課題を設けて、そうするとやる気が出る、という人も多いと思われますが、私もその一人です。このブログにおいて文章を執筆するにあたって、何らかの文章に対して期日を決め、その日までに完成させる、ということをよくやるのですが、自分で決めたわけだからとにかくやらなければならない、という場合と(「俗流若者論ケースファイル」が多い)、自分で決めたにもかかわらず執筆を先延ばしにしてしまっているもの、あるいは長い間放置しているもの(「ケースファイル」以外が多い)という場合と、どうも両極端になってしまっているのが目立ちます。自分で決めたことなのだし、もう少しやる気を出さないと、このままでは「ケースファイル」ばかり先走って(来月中には確実に第30回を迎えるでしょうね)、他のコンテンツがおろそかになってしまうのではないか…。事実、前回の雑記文から今回の雑記文の間に書いた12本の文章の中で、11本が「ケースファイル」だったりするわけですから(第15~25回)、当初このブログの見所として掲げていた正高信男批判も頑張らないと…。

 弁護士山口貴士大いに語る:「暴力」ゲームソフト、神奈川県が全国初の販売規制へ(山口貴士氏:弁護士)
 走れ小心者 in Disguise!: ある『子供に見せたい番組』をめぐって(克森淳氏)

 「子供に見せたい番組」第1位は当然「プロジェクトX」、「見せたくない番組」は「ロンドンハーツ」「クレヨンしんちゃん」…。なんか、このようなアンケート自体が壮大な茶番劇に見えてきたなあ…。

 「子供に見せたい/見せたくない」番組というものを規定することに、何の意味があるのでしょうか。「見せたい」のは子供に「いい影響」を与えるもので、「見せたくない」ものは子供に「悪い影響」を与えるものだ、ということなのでしょうが、そこで与えられた「いい/悪い影響」が子供の人格や人間性を直接規定するわけでもないのだし、そもそもこのような議論を振りかざす人たちは現代の青少年を「政治利用」している、ということに無自覚なのでしょうか。それとも、自覚した上でやっているのか。

 彼らにとって、青少年は自分のイデオロギーの主張、そして「自己実現」(笑)の道具でしかありません。当然の如く、彼らはなんらか(といっても、ほとんどが漫画とアニメとゲームとインターネットに収束されますがね)の規制を求めているわけですが、彼らはマスコミで面白半分に報じられる「今時の若者」については至極敏感だけれども、現代の若年層を取り巻く現実に関しては果てしなく無関心です。無関心であるからこそ、漫画・アニメ・ゲーム・インターネット・携帯電話といった、自分が「理解できない」ものを容易に標的にしてしまえるのでしょう。しかも、ただ敵愾心を煽れば人を連れることができる、と高をくくっている様子で(しかも、本当についてくるから驚きですが)、それが彼らの生命を繋いでいると思うと、恐ろしい気持ちになります。

 ただ「わかりやすい」図式を大々的に掲げた者だけが生き残り、たとえ地味でも真面目に研究を積み重ねる人は、それがいくら優れたものであっても世間の喧騒においていかれる。真面目な人ばかり馬鹿を見る、というのは、まさに若年層に関する言論をめぐる状況そのものです。

 目に映る21世紀:変わる若者のシゴトと生活:5【記事】各界の知恵集めニート対策 国民会議が初開催

 著者は《すみません、この会に意見を届けるにはどうすればいいのでしょうか? ここへ参加している人々自身にも言いたいことがたくさんあるのですが・・・。オブザーバー参加ってできないのかな(笑)》と愚痴っているわけですが、現在の青少年の就労に関する問題で、いまだに精神主義的な物言いがまかり通っているのが気がかりです。この状況を見るだけで、我が国は大東亜戦争時代の精神主義をいまだに脱却できていないのか、と心配してしまいます。

 犯罪を起こす、あるいは定職につかない青少年の「心」を問題化する言説は、いくつもの問題を抱えております。まず、「心」の問題として「発見」することによって、「異常な心」を生み出した「原因」に対する弾圧が正当化されること。次に、精神主義・道徳主義的な言説に埋没することによって、社会構造の問題が置き去りにされてしまうこと。さらに、青少年全般に対して「心」の劣った存在という規定をすることによるレイシズム(人種差別)。最後に、「心」を勝手に規定することによって、青少年問題に対する本当の心理的側面に触れることができないこと。

 「心の教育」などと多くの人は叫んでおりますけれども、それが何をさしているのかはわかりませんし、そもそも、そのようなことを振りかざす人たちが「心」をどのように考えているか、ということは問い詰められて然るべきでしょう。たいていの場合、自分を正当化するだけの議論に過ぎないのではないか。

 「心の教育」といえば…。

 kitanoのアレ:反性教育の動向(3):報道2001:「つくる会」八木秀次氏が立ち往生(1)

 平成17年5月1日付フジテレビ系列「報道2001」における、反性教育の旗手、高崎経済大学助教授の八木秀次氏の必死ぶりがうかがえます。八木氏など、反性教育の立場に立つ人たちは、ジェンダーフリーについて「男らしさ」「女らしさ」を否定し、さらにこれが日本の文化を否定し、ひいては韓国や中国や北朝鮮を利する(そんな妄想を語るな、と思われる方もおられるかもしれませんが、「正論」なんか読んでいるとこのような妄想に出くわすのはざらです)などと(妄想を)語っているわけですが、八木氏や、八木氏を支援しているフジテレビのキャスター(得に黒岩祐治キャスター)が、ジェンダーフリー推進派の人たちに自らの議論の矛盾を指摘されると、何も答えられずにほとんど立ち往生状態、というのが笑えます。

 ジェンダーフリーはマルクスの陰謀だとか、日本を滅ぼすだとか大言壮語を振りかざしながらも、結局のところ中身を伴った議論をしていないとこうなるのかもしれません。私がこのレポートを読んで、ジェンダーフリー推進派の人たちにも脇の甘い部分がある、と思いましたが、それでも八木氏や山谷えり子氏(参議院議員、自民党)の脇の甘さに比べたら相当マシです。

 少なくとも、反論されたとき、一歩引いて自分の考えを相対化して考え直す、ということの大切さを、八木氏を他山の石として学びたいと思います。

 保坂展人のどこどこ日記:靖国神社参拝中止で小泉総理退陣へ(保坂展人氏:元衆議院議員・社民党)
 カマヤンの虚業日記:[雑記][政治][呪的闘争]首相の靖国参拝なんか支持しないよ。

 保坂氏は、小泉純一郎首相の公約の中で達成しえたのは「靖国神社参拝」だけだ、と指摘しております。

 この指摘は重要です。保坂氏も述べている通り、特殊法人改革も国債発行30兆円枠も現在まで達成されないまま、このままいけば小泉首相の公約で達成したものは靖国神社の参拝だけ、ということになります。郵政民営化も、このままでは怪しい(そもそもそれが必要かどうかもわからない)。もしかしたら、靖国神社は、小泉首相の政権の正当性をつないでいる唯一のものになっているのではないか、と思います。

 首相の靖国神社参拝には、当初から利権が絡んでいますから、結局のところ小泉首相もまた極めて「自民党的」な首相だった、といわざるを得ないのかもしれません。

 それにしても、最近の中国や北朝鮮に対する強硬派的な発言が俗流若者論と重なって見えるのは気のせいだろうか…。

 千人印の歩行器:[歩行編]一万歩の日常(栗山光司氏)

 街中や大学のキャンパスを歩いていると、さまざまな発見があります。例えば、私の通っている東北大学青葉山キャンパスは、現在メインストリートが爽やかな緑の木々に包まれていて、晴れの日に歩くと気持ちよくなります。これ以外にも、道端を歩いていると、自転車や原付に乗っているときは感じられなかった楽しみや喜びを見つけることができます。特に青葉通や定禅寺通といった、落葉樹の並木道を通っていると、その通りの木々の移り変わりで季節を感じることが一つの楽しみになっています。

 私は、時々都市計画について思索することがあるのですが、都市計画に関する思索の原点になっているのが、定禅寺通のような、自分が好きな場所です。新しい場所を歩く際は、この場所は自分が好きな場所に比べてどのような長所があり、またどのような短所があるのか、ということに関して考えながら歩いてみると、結構面白いかもしれません。

 前回の雑記文から、たくさんの文章を公開しました。こちらも読んでいただけると幸いです(ただし、ここにリンクを貼ってある記事が、全てブログ移転前に書いたもの。リンクは新ブログに貼ってありますが)。

 「俗流若者論ケースファイル15・読売新聞社説」(4月24日)
 「俗流若者論ケースファイル16・浜田敬子&森昭雄」(同上)
 「俗流若者論ケースファイル17・藤原智美」(4月28日)
 「俗流若者論ケースファイル18・陰山英男」(4月28日)
 「俗流若者論ケースファイル19・荷宮和子」(4月29日)
 「俗流若者論ケースファイル20・小原信」(4月30日)
 「俗流若者論ケースファイル21・樽谷賢二」(5月5日)
 「俗流若者論ケースファイル22・粟野仁雄」(5月7日)
 「俗流若者論ケースファイル23・西村幸祐」(5月9日)
 「俗流若者論ケースファイル24・小林節」(同上)
 「俗流若者論ケースファイル25・八木秀次」(5月15日)
 「反スピリチュアリズム ~江原啓之『子どもが危ない!』の虚妄を衝く~」(5月17日)

 最近、図書館に行く機会が多いのですが、そのたびに新聞や雑誌の俗流若者論を見つけてはコピーして私のコレクションにします。そのため、私の書庫には大量に検証待ちの文章があります。とりあえず今後確実に取り上げる予定のものは次のとおり。

 ・三砂ちづる「「負け犬」に警告!あなたはもう「オニババ」かもしれない」=「新潮45」2004年12月号、新潮社
 ・平成17年2月17日付毎日新聞社説
 ・石堂淑朗「褌を締めなおそう!」=「正論」2005年3月号、産経新聞社
 ・石堂淑朗「豆炭心中」=「正論」2005年4月号、産経新聞社
 ・吉田司「女と平和と経済の時代は終わった」=「AERA」2004年8月30日号
 ・「論座」編集部「自民党議員はこんなことを言っている!」=「論座」2005年6月号(憲法改正に関する自民党議員の問題発言を抜き出して構成したものですが、ここで紹介されている問題発言にやたらと俗流若者論が目立つので)
 ・樋口裕一「「困ったチャン」に対抗するための言葉の力」=「文藝春秋」2005年3月増刊号
 ・斎藤滋「人間らしさを育てる」=2003年10月31日付東京新聞
 ・宮内健「妻の携帯、子どものTV・ゲーム」=「プレジデント」2004年8月30日号、プレジデント社

 あと、第1回以来1ヶ月以上やっていなかった「この「反若者論」がすごい!」の第2回も近いうちにやります。採り上げるのは、平成17年4月23日付河北新報の社説です。

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2005年4月17日 (日)

トラックバック雑記文・05年04月17日

 走れ小心者 in Disguise!: ジョグリング仕掛けの明日(克森淳氏)
 この記事においては、『トンデモ本の世界R』(太田出版)における、作家の山本弘氏の言葉が引かれています。

 そう、彼ら(克森注:「買ってはいけない」執筆陣)が言っていることは、科学的な装いをこらしてはいるが、結局は「好き嫌い」に過ぎないのだ。

 上の文言をしっかりと踏まえた上で、下の記事をお読みください。
 変見:危機管理
 「トラックバック雑記文・05年04月09日」に、なぜかトラックバックされていた文章です。この文章において、《ため池の近くで遊ぶな・鉛筆は鉛筆削りで・木に登るなという教育で事故が減っただろうか。むしろ凶悪な事件が増えている。私たちが小さい頃は木の枝が折れて落ちたり、ナイフで手を切ったりしながら危機管理を体で覚えてきた》みたいな文章があって、本当にいい加減にしてほしいよな、と思った(事実誤認ですからね)のですが、私のこの文章に対する疑問の本質はこれではありません。

 …《セラミックチップ》?

 そこにあるウェブサイトへのリンクが貼ってありました。

 それがこちら

 …疑似科学ですね。

 これを販売しているのが、なんでも柳井魚市場で、これを使用した、という証言がもうすごいのなんの。

 アルファ波が増えるため、付けた瞬間から体がリラックスして、 頭が冴え、すばらしい発想が生まれ、反応も早くなります。集中力が増したり、意欲的になるので勉強の能率も上がります。 不登校・切れやすい子にも是非お試しを、別人のように変わる子もいます。

  風邪を引いても昼寝から目が覚めたら治ってたというような例が
たくさんありますが、使ってはじめて納得できると思います。
風呂に入れると温泉水のようになり、湯冷めしぬくいし、
石鹸やリンスもいりません。チップを入れた水で拭き掃除をすると大変きれいになります。

 愛用者の殆どが入試や資格試験に合格しています。その効果は信じ難い物があります。使えば分かります。

 チップを利用している子供達は運動能力が上がり、体も大きくなっています。

成績のことを聞き出すのは難しいのですが、確認の取れた子の殆どは成績が上がっています。

チップを手離さなくなる子が大勢います。本能的に良い物が分かるのだと思います。

オーリングテストと同じ作用でしょう。頭の働きが良くなり、集中力が増す・
精神的にも強くなります。体に吊して胃薬がいらなくなった人が大勢おられますが、

体を丈夫にする効果だけでなく、精神面の強化による影響

もかなりあるのではないかと思われます。

 すごすぎますよ。ここまで事例らしきものを提示しておきながら、実例やデータの提示がない、というのはどういうわけなのでしょうか。このような「うまい話」には必ず裏があるものです。もしかしたらこの団体の裏で、誰かが操っているとか…と言ってしまうと陰謀論になりますが、この《セラミックチップ》一つで複雑な教育問題も精神の疾患も身体的な問題も、それどころ環境問題さえも何でも解決できる、というのは、はっきり言って疑うほかありません。

 「変見」の「危機管理」という記事の中においても、《セラミックチップは冷静な判断や機敏な行動の為にも役立つ優れものだ。穴をふさぐよりこちらが普及した方が事故や事件は確実に減るが、残念ながら、殆どの人に理解してもらえない》などという妄想が書かれております。《殆どの人に理解してもらえない》というなら、まず実証に足るデータを提示するべきでしょう。もしデータもなく《セラミックチップ》のために莫大な予算を投入して、何の効果も得られなかったら、無駄なものに予算をつぎ込まれた、として納税者の怒りを買っても仕方がないでしょう。政策構築とはそういうものです(ちなみに「変見」のバックナンバーを読み通してみると、もう《セラミックチップ》は万能だと言わんばかり)。

 また、このような文章には、権力のにおいがします。現在起こっている複雑な問題を、《セラミックチップ》を用いることによって、さまざまな問題が解決できるという妄想を広めて、人々の思考力を奪う、というもの。本当に、この手の疑似科学は、市民の良識で解決しなければなりません。

 いいですか。複雑な問題もこれ一つで簡単に解決できる!という謳い文句は、まず疑うべきです。そして実証的なデータがないか探し、必要とあればその(実証的、あるいは理論的)提示を求めること。

 情報流通促進計画:吉岡忍さんらも出席~憲法改正国民投票法案を考える院内集会
 私は、基本的には憲法改正国民投票法には賛成です。しかし、現在自民党が進めている「憲法改正国民投票法」には、《何人も、国民投票の結果に影響を及ぼす目的をもって新聞紙又は雑誌に対する編集その他経営上の特殊の地位を利用して、当該新聞紙又は雑誌に国民投票に関する報道及び評論を掲載し、又は掲載させることができない》というのがあるそうです。

 これでいいのでしょうか。

 憲法改正の国民投票という、国家の命運を決める一大事こそ、多様な言論を世に広げさせて、真剣に国民に考えるチャンスを与えるべきです。そもそも《国民投票の結果に影響を及ぼす目的》というのがとても曖昧です。例えば護憲派の人々は、今まで何度も憲法改正の危うさや疑問を指摘してきたわけですけれども、それらも含めて、憲法改正に関する評論は図書館とか企業とか個人とかのデータベースに存在しますので、それらを参照してから投票に臨むことも可能なわけです。ですから、これを一字一句素直に実施するならば、国民からすべての情報を遮断しなければならないはずです。また、規制の文言が曖昧な分、国家が恣意的に情報統制を行ってしまい、政権党に有利な情報ばかり流通してしまう、という懸念も拭い去れない。

 もう一度言います。憲法改正の国民投票こそ、情報を広く流通させた上での、幅広い議論が必要なのです。

 ヤースのへんしん:年収1億で維持費21億
 《年収1億で維持費21億》というのは、京都の「私のしごと館」のことですが、これの存在をはじめて知ったとき(確か、TBS系列の「噂の!東京マガジン」の「噂の現場」だったと思います)、こんなのに本当に意味があるのかよ、と思いました。確かこれの設立意思は、高校生のうちに様々な仕事に触れさせて、将来におけるフリーターの撲滅だった気がしますけれども、結局それは失敗に終わっただけです。

 蛇足ですが、特に自民党の皆さん、フリーター問題を安易に若年層の就職意識の低さに求めないでください。若年雇用の問題は、あなたたちが思っているよりも相当深刻なのですよ。つい最近の日経新聞に、経済学者の玄田有史氏や小杉礼子氏が、学歴や親の年収が、フリーターや若年無業者の出現に大きくかかわっている、というデータを提示しておりました。なし崩し的な「都市再生」だとか公共事業とかよりも、まず地域の魅力を高める都市計画と、社会福祉の拡充をやるべきです。

 お知らせ。「俗流若者論ケースファイル12・松沢成文」を公開しました。それにしても、「kitanoのアレ」とか見ていると分かるのですが、青少年問題に関して相当おかしなことを言っている政治家が多すぎます。今度は青少年育成担当大臣の南野知恵子氏ですか。いい加減にしてほしいものです。

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2005年4月 9日 (土)

トラックバック雑記文・05年04月09日

 *☆.Rina Diary.☆*:満開☆(佐藤利奈氏:声優)
 この文章の内容とはあまり関係のないのですが、佐藤氏のミニアルバム「空色のリボン」を聴きました。私の感想としては、佐藤氏の「空」というものに対する想いが存分に込められている作品になっているな、と。タイトルが「空色のリボン」であるだけに、その歌詞には「空」という言葉、およびそれに順ずる表現が頻出します。
 一番私が心惹かれたのは、第3トラックに入っている佐藤氏のフリートーク「あの空で逢えたら Part1」です。ここでは、佐藤氏が「空」に対する想いを語っているのですが、その中で「立っていると、目の前に空が見える」みたいなことを語っていたと記憶しております。
 青い空、曇り空、雨の空。いずれにせよ、空が見える、というのはとても大事なことです。空というものは、おそらくもっとも身近にある「大自然」でしょう。上を見上げるとどこまでも続いていて、思わず吸い込まれそうな、あるいは正面を向いていても、地平線の果てまで続いているような空。空を見ることが、自然に対する興味と関心を高める第一のことだと思います。
 ここで都市計画論的な話に移ってしまいますが、今年2月5日付けの読売新聞において、読売新聞編集委員の芥川喜好氏が「編集委員が読む」というコラムで「空はだれのものか 高層ビルが消した生活のにおい」という文章を書いておられます。佐藤氏のアルバムに心惹かれた人も、ぜひとも読んでほしいコラムです。
 芥川氏は、1月の下旬に新宿で行われた「脈動する超高層都市、激変記録35年」という写真展に関して、《低い建物が並ぶだだっ広い空間に、あるとき黒い塊が現れ、次第に上へ伸びる。その近くにまた同じような塊が生じ、同じように天へ向かって伸びる。その過程が百カット近い映像の早送りで壁に映しだされる。黒い塊は瞬く間に成長し増殖し群れとなって空間を圧し、意思あるもののようにうごめいている》という感想を述べています。
 芥川氏は、《このドキュメントを見て初めてわかることがある。超高層化とは、広い空が侵食される歴史でもあったということだ》と書きます。高層ビルが立ち並ぶ場所では、上を見ても無機質な侵食された空を見ることしかできず、正面を見てもほとんど空を見ることができない、という現実。大都市において広い空を見ることができるのは、超高層ビルに登るという特権を持った人だけ、という現実。空は万人に開かれている大自然の絶景です。それが巨大資本の論理によって侵食されていく。都市化=超高層化を極端に推し進めてきた政権党や巨大資本の偉い人たちが、「今時の若者」の自然に対する意識の低下を嘆く。何なのでしょうか、この矛盾は。基本的に「若者論」を安易に振りかざす人は、政権党が以下に若年層から「生活」の場を奪ってきたか、ということをことごとく無視しますが、そこに目を向けないと現在の政権党の論理を突き崩すことはできないと思います。
 芥川氏のコラムでは、最後に《芸術系大学の学生》が書いた《「超高層ビルと人間」という社会研究のリポート》について触れられております。そこで、次のようなものが引用されています。

 東京は富士を望む街だった。高さの競争などやめて、行き来の道から富士の見える街づくりをしたら、人の心も落ち着いて平和な町になるだろう。

 自然を「征服」するのではなく、自然と「共生」することが現在のパラダイムになりつつあります。最近建築の間で流行している「環境共生住宅」「古民家再生」なども、そのパラダイムシフトに適合した形でしょう。我々は、このパラダイムシフトを理解して、誰もが人間らしい生活を送れるように社会を構築しなければならない。佐藤氏のアルバムと芥川氏のコラムから見えたのは、そのようなことでした。

 ン・ジュンマ(呉準磨)の備忘録:文教政策が大きな政府主義の最後の砦?という以上に・・・
 教科書検定が始まりました。それにしても、今年は4年前とは違い、歴史教科諸問題があまり話題に取り上げられなくなりました。それだけ沈静化したのか、それとも世間の耳目を集められなくなったのか。
 「新しい歴史教科書をつくる会」といえば産経新聞ですが、昨日、その産経新聞が発行する雑誌「正論」を久しぶりに読みました。「正論」からは、もうこの雑誌自体に見切りを付けた、ということで、1年以上書店で見かけてもてにとることすらしなかった(というのも、タイトルと執筆者からどのようなことが書かれているか、ということが見え見えだったから)のですが、今回久々に一通り目を通してみて、余計にひどくなっている、という認識を持ってしまいました。
 巻頭はライブドア問題特集。どれも本質を突いていない論文ばかりでした(岩波書店の「世界」に掲載された文章や、文藝春秋の「諸君!」の特集は読み応えがある)。しかしもっとひどいと思ったのは、日本女子大学教授の林道義氏などによる「ジェンダーフリー教育」批判の文章です。この文章は、もうバリバリの陰謀論です。なんでも「ジェンダーフリー教育」を推し進める左翼は日本の崩壊を狙っており、それを裏で操っているのはマルクスだ、と。私も「ジェンダーフリー教育」には賛成できない部分もあるのですが(性教育には賛成です。あしからず)、ここまで妄想できるのはすごい、というほかありません。しかも、このような認識が、一部の保守論壇人に広く共有されている、というのだからさらに驚きです。大体、「ジェンダーフリー教育」が「どのように」我が国を崩壊させ、「どのように」韓国・中国・北朝鮮を利するか、ということに関してはまったく触れられていない。このような雑誌はある種の「共通前提」を持っている人には大人気なのだろうが、こんなことしていると新たな読者は獲得できませんよ、と言っておく。

 走れ小心者 in Disguise!:  「ブログ版『えらいこっちゃ!』(12)」(克森淳氏)
 カマヤンの虚業日記/カルトvsオタクのハルマゲドン:[資料][呪的闘争][宗教右翼][日本会議]90-91年「有害コミック」問題の発信源・和歌山の「子供を守る会」は、極右新興宗教「念法真教」
 私は基本的には改憲は必要だと思います。しかし、現在自民党を中心に議論されている改憲論には、むしろ批判的です。
 政府・自民党は改憲案に「青少年健全育成に悪影響を与える有害情報、図書の出版・販売は法律で制限されうる」ということを入れようとしていますが、まずここに反対です。第一に、青少年がある情報に関して、そこで得る感想は多様です。第二に、国家が一律に「青少年に有害」な情報を決め付ける、ということは、表現の自由に抵触する危険性があります。第三に、自民党などの皆様が問題にしたがる「有害」な情報・環境は青少年による凶悪犯罪を増やしてはいない、ということは、すでに犯罪白書や警察白書で明らかです。第四に、立憲主義の立場に立てば、憲法とは本来国家に宛てた命令であるはずです。それを理解していない政治家が多すぎます。そして最後に、このような改憲案は、自民党の右派の利権の元となっている宗教右翼や右翼政治団体に対するパフォーマンスである可能性が高い。
 先月の読売新聞において、財団法人日本青少年研究所の調査において、我が国の高校生の半数以上が自国に誇りを持っていない、という結果を嘆いていました。しかし、これのどこが問題なのでしょうか。もし自国に誇りをもてない状況があるとするなら、それを形成した社会的な影響を分析しなければならないはずですが、読売をはじめとして保守的な政治家や論者は、我が国における「左翼」による教育を真っ先に槍玉に挙げます。結局のところ、彼らは、青少年をイデオロギー闘争の道具にしか考えていないのです。憲法の改正案も、教育基本法の改正案も、まさしくこれに当てはまるのではないか、と考えております。
 私は、「大日本若者論帝国憲法」が必要である、と考えております。もちろん、現実的な改憲案ではなく、現在推し進められている改憲案がいかに滑稽なものであるか、ということを示すネタとしての改憲案です。その意図は、「こんな憲法になるんだったら護憲派のほうがよっぽどマシだ」と気づかせることです。この改憲案の骨子は次の通りです。
 ・青少年による問題行動の抑制のため、国旗・国歌・天皇に対する忠誠心を高めて、国家に帰属するための意識を養う。
 ・青少年の愛国心と社会性の涵養のため、強制的徴兵制を男女関係なく実行する。
 ・青少年の健全なる育成のため、「伝統的な」(実際には明治以降の近代化システムの中で捏造されてきた)家族のみを尊重する。それと同様に、子供を多く出産した家族は独身者よりも優遇される。
 ・親は自らが親権を持っている子供の行動を常に監視していなければならない。
 ・青少年に有害な影響を及ぼす恐れのある情報は検閲でもって規制できるようにする。
 ・青少年による凶悪犯罪の抑制のため、「有害な」環境に出入りする青少年を警察が取り締まることができる。
 ・青少年による凶悪犯罪の抑制のため、20代の若年層にのみすべての犯罪の厳罰化を行う。
 ・ひきこもりやフリーターや若年無業者を抱える家族に関しては、青少年健全育成の視点から財産を奪って強制的に就業意識を植え付けることは正当化される。
 こんなに滑稽なことが憲法に書かれるのは皆目御免だ、と思われる方も多いでしょう。しかし、これらの議論は、すべて俗流若者論にオリジナリティを見出すことができるものばかりです。そして、それらの粟粒若者論の欲望を満たす憲法を作ろうとしたら、このような憲法が出来上がるのは必然でしょう。当然、憲法学や立憲主義の歴史も一切無視し、権力に非常に甘い憲法になります。
 愛国者たるものは、常に国賊に目を光らせていなければなりません。現在我が国にはびこる国賊は、保守政治家や論壇人が問題視したがるような「左翼」ではなく、巨大資本による都市の画一化を推し進め、青少年をイデオロギー化することによって不安をあおり、それによって利権をむさぼる自称「保守」政治家・言論人です。このような国賊こそが、まさしく我が国を壊死させる張本人です。そして、俗流若者論も、国賊として糾弾されるべきです。

 お知らせ。このブログの右側に表示されております「参考サイト」を、「参考サイト」と「おすすめブログ」に分割しました。
 「参考サイト」として追加したもの
 「グリーントライアングル
 「「有害」規制監視隊
 「少年犯罪データベース
 「「ゲーム脳」関連記事 - [ゲーム業界ニュース]All About
 「おすすめブログ」として追加したもの
 「kitanoのアレ
 「カマヤンの虚業日記/カルトvsオタクのハルマゲドン
 「読売新聞の社説はどうなの・・

 また、次の文章を公開しました。
 「俗流若者論ケースファイル09・各務滋」(4月4日)
 「2005年1~3月の1冊」(4月4日)
 「正高信男は破綻した! ~正高信男という堕落みたび~」(4月5日)

 今後の予定としましては、まず「俗流若者論ケースファイル10・○○○○」を近いうちに公開します。また、『ケータイを持ったサル』批判の「再論・正高信男という病」もできれば来月中には公開したい。正高信男批判では、「犬山をどり ~正高信男を語り継ぐ人たち~」と題して、『ケータイを持ったサル』の書評を検証する予定です。これの公開は「再論・正高信男という病」を公開したあとなので、おそらく8月頭ごろになるでしょう。また、仙台の都市計画と「東北楽天ゴールデンイーグルス」について論じた文章や、治安維持法制定80周年に関する文章、雑記文で触れた「大日本若者論憲法」の実体化など、いろいろ企画しておりますが、大学の授業も始まったので、予定は未定です。
 曲学阿世の徒・正高信男といったら、「正高信男という頽廃」において、このようなコメントをいただきました。

この人、統計のトの字も知りません。t検定もよくわかってなかった。ついでに実験してないので、なぜか論文書きます。内輪でもデータはどこから来ているのか疑問視している人は多いですよ。さらに、気に入らない研究者や学生を徹底的に攻撃(ある意味、いじめ)するので、敵は多いですね。挨拶そいても応えない、目を合わせなければ、口もきかないあたり、彼の社会性を疑ってしまいます。かれが世の中のいじめや引きこもりについての著書を書くたびに、その自分の行動はどううなんだ・・・と言いたくなります。

 休刊した「噂の眞相」みたいに「『ケータイを持ったサル』の京大教授は論文捏造の常習者」と「一行情報」を書きたくなってしまいますけれども、これが本当ならばすごいことですよ。こんな人を教授にしている京都大学とは、いったい何なのでしょうか。誰か止めてあげられる友人はいないのか。

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2005年2月15日 (火)

トラックバック雑記文・05年02月15日

 MIYADAI.com:第二回 TEPCOインターカレッジデザイン選手権を終えて(宮台真司氏:社会学者)
 *☆.Rina Diary.☆*:持病が。(佐藤利奈氏:声優)
 宮台氏の文章は、建築に関する話です。私は現在大学の建築学科に通っているので、短文ながらも興味深い指摘があります。

■第一に、透明に見通せることを「コミュニケーションの触媒」だと勘違いする作品が多過ぎた。それではコミュニケーションに必要な最低限の感情的安全が得られないだろう。
■第二に、家や町が公私と上下の組合せから成り立つことを見抜いてほしい。洞窟の奥の見えにくい所が私。出口近くが公。私的な場に居て良いのは、上(強者)か下(弱者)か。
■第三に、時間/空間的に視角が限定され過ぎだ。時間的には「今」を相対化し、住居史に知恵を探りたい。空間的には「ここ」を相対化し、立地場所に想像力を働かせたい。

 私も、大学の課題で住宅を設計したことがありますが、住宅を設計するには、自らのやりたいようにやるだけではなく、たとえば社会学的な視座も必要なわけです。何せ、住宅を設計することは、単に何かを作るだけでなく、住宅と社会のかかわりも真剣に考えなければいけないわけで。だから、建築家と社会学者はどんどん関わりを深める必要があると思います。授業がらみで「住宅建築」「新建築」などといった建築雑誌を読むことが多くなりましたが、建築家の作品や論考のみならず、もっと社会学的な論考を載せてほしいと思います。どこかの新聞やオピニオン雑誌が「建築と社会」を取り扱った対談や特集をやってくれないものでしょうか。
 ちなみに佐藤氏のサイトにある《持病》とは、《「お引越ししたい病」》なんだそうな。引越しすると、自らの住環境や、周囲の人間関係も変わります。「引越ししたい」という「病」にかかってしまうことは、常に新しい環境を求めることなのかもしれません。これがいいことなのか、悪いことなのかは、もう少し深く考えてみる必要がありそうです。

 週刊!木村剛:[ゴーログ]国民総背番号制にあなたは賛成ですか?(木村剛氏:エコノミスト)
 ヤースのへんしん:公務員からドーゾ
 「国民総背番号制」に関する文章ですが、私としては、導入は慎重にやるべきだと思います。もちろん、この制度には利点も多数あるでしょう。しかし、制度を導入することによって新たなリスク、たとえば、予算、セキュリティ、偽造される可能性をあらかじめ勘案・予測しておく必要もあることは明らかです。これでリスクが少なく、利点が大きいというのであれば、私は導入してもいいと思いますが、不安要素が多すぎます。まず、国民が理解を示しているか。次に、管理とセキュリティは万全か。特に後者については、省庁のホームページが簡単にセキュリティを破られて進入されるという報道が多くなされていることからも分かるとおり、我が国の政治におけるセキュリティに関する知識が足りないことも不安要素たりえます。「ヤースのへんしん」では、

 結局は「指紋」などの、個人を特定できる体の一部を判定基準とするしかないと思うのです。
 それなら、背番号は必要ないわけですよね。

 と、番号を振る以外にも(偽造されにくい?)やり方があることを示唆しています。しかし、たとえば指紋を用いる場合にも、指紋データの漏出が問題になるでしょうから、サイバー政治戦略とは複雑なものです。
 ちなみに、「ヤースのへんしん」には、こんな面白い案もあります。

 まずは、公務員だけ先に背番号を付けて見たらどうでしょうか?
 保険証も免許証、ETC、定期券、クレジットカード、各種メンバーカードなどを一元的にオンラインで管理するわけです。
 東京に出張してるはずなのに、大阪の居酒屋でカードを使い、定期券で家まで電車で帰ってるとか、残業してるはずなのに役所の最寄の駅から5時15分に電車に乗ってるとか。
 「カラ出張」もできなくなるし、「カラ残業」もできなくなる。
 公務員の事件では、個人が特定できずにうやむやにされることが多いわけですから、背番号はいいかもしれませんよね。
 国が導入したいなら、まずは公務員だけ3年ほど導入してみたらどう?
 国民から給料を貰ってるんだから、国民を代表してやってみればいいんじゃない。

 まあ、公務員の不透明なカネの使い方を明らかにする、ということはできるのかもしれません。
 しかし、木村氏のブログで奇妙に思えるのは、「国民総背番号制」の導入の議論が、なんと偽造通貨の横行から始まっているのです(実際には他のブログからの引用で、木村氏が制度導入による犯罪の抑止効果を論じているわけではありませんが)。
 これでいいのでしょうか。
 《個人の認証の問題》というのであれば、なぜ国民総背番号制でなければいけないのでしょうか。「ヤースのへんしん」のような指紋認証システムとか、あるいはNシステム(自動車のナンバープレートの認証システム)のようなシステムでもいいはずです。このブログの筆者は、なぜ国民に番号を振る必要があるのか、という根本的な疑問に答えきれていない気がします。
 あまつさえ、このようなことを言っているブログさえありました(ブログ名は挙げません。木村氏のブログから探してください)。

 近年、凶悪な事件が連続して起こっており何か悲しい状態になっています。そして、もし国民総背番号制と登録制度があったら、犯罪に対して抑止効果があるのでは、と思わざるを得ません。

 正気の沙汰か、と思ってしまいます。《凶悪な事件》が何を指すのか分かりませんし、《国民総背番号制や登録制度》がどのような犯罪にどのように抑止力として働くのか、ということに関してはまったくあいまいなままです。はっきり言いますが、国民総背番号制度を導入して抑止力になりうるのは、私が考える限り脱税ぐらいではないか(これに関しても、木村氏が言うとおり、同時に所得税を申告制にすれば、所得税に関しては抑止力を失う)。国民総背番号制や登録制度を導入したところで、マスコミを騒がせるような凶悪事件を防げると考えるのは、まったくお門違いもいいところでしょう。
 それにしても、最近、「強い〈国家〉が自分の不愉快なものを癒してくれる!」という考えが出てきているのが気になります。具体例を挙げれば、憲法および教育基本法改正に奔走する一部の議論。これらを改正すれば、国家が自立することによって、国民にも自立心が生まれ、少子化も少年犯罪もみんな解決できる!って言っている改正論者は、まともな社会学者や経済学者を莫迦にしていますね。憲法に関する視座については、長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書・2004年4月)を推薦します。少なくとも憲法と青少年問題を強引に結び付けて考えることのアホらしさが分かります。
 それから、ここでも何度か採り上げた「有害情報規制」。言っておきますけれども、この規制を導入する人にとっての「有害情報」とは、単に「自分の道徳的観念に照らし合わせて気に入らない情報」であり、それ以上のものではないのでしょうか。実を言うと私も、このブログで散々オタクメディア規制を批判してきましたけれども、露骨な性描写はむしろ嫌いです。しかし、嫌いなら見なければいいのではないでしょうか。いうなれば「見たくないものを見ないですむ権利」ですね。それを無視して国家による規制を求めるのは、国家と国民が自分と同じ価値観を持ってくれないと困る、ということに過ぎないのではないでしょうか。同じ論理で、いわゆる「禁煙ファシズム」も批判できます。私だってタバコは「大」を10回繰り返したくなるぐらいに嫌いです。しかし、嫌いであれば遠ざかればいい、あるいは分煙を主張するべきでしょう。自分の志向にあわないものは国家が規制しろ、という言論を、私は「生活保守主義的プチナショナリズム」と名づけます。どっかの俗流精神科医の「ぷちナショナリズム症候群」なる空疎な「若者論」とは一味違うぞ!これに関しては、また稿を改めて論じる必要がありそうです。

 山崎宏之のウェブログ:【大阪寝屋川中央小侵入事件】「ゲーム大好き」「ひきこもり」無職・17歳卒業生(山崎宏之氏)
 凄惨な事件がおきてしまいました。犠牲者のかたがたには、心から同情を禁じえません。
 しかし、この事件の報道(山崎氏のブログでは朝日新聞の記事が引用されていましたが、読売新聞も同じようなことを報じていました)が、またぞろ「ゲーム」「ひきこもり」を強調しているのは、なぜなのでしょうか。どうしてほかの要因を見ようとしないのでしょうか。「動機」(これが信用に足りうるものである保証はない)すら明らかにされていないのに、すぐさま「ゲームの影響で凶悪な犯罪を起こしてしまった」と思わせてしまうような報道、あるいは「「ひきこもり」は凶悪犯罪と親和性が高い」と思わせてしまうような報道をしてしまうのでしょうか。結局のところ、このような報じ方をする記者は、「自分とは関係ないところから凶悪事件が起こったのだ!自分の生き方は正しい!」という考え方に染まっているのではないか、と思えてなりません。ここから「生活保守主義的プチナショナリズム」が生まれてしまうのですね。ちょっと議論が飛躍してしまいましたが。
 話を戻しましょう。なぜ「ゲームの影響」「ひきこもり」を強調することはいけないことか。その原因として真っ先に投げかけられるべき疑問は、「ゲームが大好きな青少年はいっぱいいるし、「ひきこもり」の青少年もたくさんいると聞く。しかし、それではなぜ彼らは犯罪を起こさないのか」というものです。多くのゲーマーや「ひきこもり」の青少年が凶悪犯罪を起こさないのだから、この凶悪犯罪者を犯罪に駆り立てたものは、ゲームや「ひきこもり」以外の何か、と考えざるを得ません。安直なプロファイリングは、ある属性の人を凶悪犯罪者予備軍に仕立て上げることによってのみ成立するものですから、慎重でなければならないのは明らかでしょう。むしろ大事なことは、このような事件の再発を防ぐためには何が必要か(更生システムの見直しなど)、被害者遺族の心理的なショックを癒すためには、そしてこの犯罪者の処遇は、ということに他ならないはずです。特定の属性を持った人々や特定の世代に対する敵愾心を煽ったところで、何も変わらないのです。
 それにしても猟奇的な少年犯罪報道の「不変ぶり」にも、驚かされるところがありますね。

 もう少し「ゲームの影響」について語らせてください。
 最近になって、いろいろなところで長崎県教委による、小中学生の「死生観」をめぐるアンケートが話題になっていますね。なんでも、小中学生の約1.5割が「死んだ人が生き返る」と考えているのだとか。このような結果に関して、多くの人が「ゲームの影響」を疑っているようです。しかし、長崎県教委のアンケートを見ると、「リセットできるから」と考えたのは、なんと「生き返る」と答えた者の中のたった7パーセント!全体で見ると、0.07×0.15×100=0.85[%]となり、「ゲームの影響で死生観が麻痺している」のは全体の0.85パーセントに過ぎないのです。
 ついでにこの統計も疑ってみましょう。「死んだ人が生き返る」と答えた者への、その「理由」を尋ねる項目があるのですが、

 ①テレビや映画等で生き返るところを見たことがあるから
 ②生き返る話を聞いたことがあるから(テレビ等を見て、本を読んで、人の話を聞いて)
 ③ゲームでリセットできるから
 ④その他

 これでは誘導尋問ですよ。このアンケートの設計者は、何が何でも「メディアの悪影響」を捻出したいようですね。しかし、こんな杜撰な調査では、少なくとも統計学的な知識を持った社会学者には相手にされないでしょうね。近く、これを題材にして、久々の「統計学の常識やってTRY」をやろうと思います。
 ゲームに関しては、「コンピュータエンターテインメントレーティング機構(CERO)」という良心的な団体がありますので、こちらのウェブサイトもチェックしてみる必要があるでしょう。

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2005年2月11日 (金)

私の体験的成人式論

 1・平成17年1月10日
 「仙台魂をー!」
 「誓います!」
 円陣を組み、平成17年仙台市成人式実行委員会長の伊藤洋介氏の掛け声の後に、伊藤氏と私を含む実行委員11名が一斉に声をあげた。その後、私が
 「出陣!!」
 と勢いよくドアを開け、一人で勝手に暴走している私をよそに実行委員全員が平成17年仙台市成人式会場の舞台袖に移動した。
 平成17年1月10日。仙台市の成人式は、太白区の仙台市体育館で行われた。この日のために、実行委員11名は、8月25日の結成から、試行錯誤を重ねてがんばってきた。そしてこの日、その真価が試されるのである。
 そのときは、あまりいい予感がしているわけではなかった。というのも、成人式開始前に、実行委員の佐藤彰芳氏が、男子トイレで人が倒れていると報告していた。その人は酒に酔ったらしく、おそらく急性アルコール中毒であろうが、このような事件が起こっているのを聞いて、多くの委員が不安に陥っていた(ちなみにこのことについては、仙台の全ての新聞が、委細漏らさず報じていた。なんだかなあ)。
 舞台袖には実行委員と、仙台市長の藤井黎氏、仙台市議会議長の鈴木繁雄氏、副議長の斎藤建雄氏および石川建治氏、仙台市教育長の吉田睦男氏、そしてこれまでお世話になった仙台市教育委員会生涯学習課の皆様が集まった。舞台に上がる前、「誓いの言葉」を述べる実行委員の高橋望美氏と一本締めを担当する蘆立恵氏、そして伊藤氏が励ましあっていた。まもなく本番である。緊張するのも致し方ないことだ。私だって緊張していた。そして他の委員も同様であった。
 本番が始まった。次々と実行委員や市長、教育長などが壇上に登っていく。
 「国賊成人式報道これ討ってよし!」
 と小さく掛け声を上げて、私は壇上に登った。私は高校2年のときから成人式報道の研究をしており、受験勉強中も成人式報道に関する論文を書き上げて投稿していたこともある。今回私が成人式実行委員会に志願したのも、2001年以降「荒れる成人式」一辺倒になってしまった俗流成人式報道ではわからない、成人式の産みの苦しみが知りたい、ということだった。だから、成人式報道に対抗する、ということは私が実行委員会に在籍しているときの一貫しているテーマであった。この掛け声を上げていたとき、ほかの委員の一部が少し笑っていた。
 壇上に上る人たちの着席が終わった。午後2時。成人式の始まりである。会場は少々ざわついていたが、5000人という出席人数を考えれば、これほどざわついていても不思議ではない。ひとまず、出だしは快調だった。
 照明が落ち、司会の黒田典子氏が自己紹介をすると、会場から一部の不逞の輩が
 「典子ー!」
 と黒田氏に対して叫び声を上げていた。私は少し腹が立ち
 「あの莫迦、どうにかならねえか?」
 と小声で愚痴をこぼしたところ、
 「まあまあ」
 と、隣にいた実行委員の榎森早紀氏に諌められた。
 国歌斉唱、藤井市長の式辞が終わったあと、いよいよ伊藤氏の挨拶である。黒田氏の紹介の後、伊藤氏がいよいよ演壇の後ろに立った。伊藤氏の挨拶が始まる。それを後ろから見ていた私は、会場が荘厳な雰囲気に包まれたように感じた。そして伊藤氏も、いつもの明るいイメージとは違い、実行委員長としての貫禄を大いに湛えていた。伊藤氏の声がスピーカーを通じて響く。会場の多くの人が、伊藤氏の挨拶を真剣に聞いていた。
 来賓や主催者の紹介が終わったあと、高橋氏による「誓いの言葉」朗読である。高橋氏は、この「誓いの言葉」を、手話を交えて朗読しようとしていたのである。高橋氏のその話を聞いたある委員が、だったら全員でやってしまおう、と提案してしまい、最初の「誓いの言葉」という台詞と、最後の「誓います」という台詞だけは、新成人であるほかの実行委員7人(伊藤氏、蘆立氏、私、榎森氏、小野寺洋美氏、佐藤氏、三浦文子氏)も手話入りでやってしまおう、という走りになった。
 無論、舞台の向かって右端のほうには、プロの手話師による手話通訳がある。しかし、高橋氏の手話は、見た目こそ拙いものの、その存在感はプロを超えるようなリアリティを持っていたように思えた。この場面が、平成17年仙台市成人式前半の最大の盛り上げ場となったことは言うまでもない。背後に立っている私を含む7名も、拙く、さらにタイミングもばらばらであったが、規定された2つの台詞を手話入りで行い、委員としての5ヶ月弱に及ぶ蓄積と、新成人としての新たな旅立ちを自らの手に込めた。会場の多くが、この「誓いの言葉」に圧倒されていたような気がした。この様子を、新成人でない委員3名(井上澄子氏、丸山愛子氏、渡邊範之氏)はどう見ていたのだろうか。
 この「誓いの言葉」の後、一本締めを行った。壇上にいる全ての人が、蘆立氏を中心に据えて横一列に並んだ。蘆立氏のかけ声は、今までの練習やリハーサルでは見られなかった、この上なく気持ちいいものであった。そのかけ声とともに、実行委員や市長、市議会議長、そして会場の全員が一本締めを行った。実行委員は、一本締めの後は