2008年1月17日 (木)

(宮台真司への)絶望から始めよう――「現代の理論」発刊に寄せて

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 EU労働法政策雑記帳:現代の理論
 西野坂学園時報:2008年巻頭言 日本経団連と新自由主義に裁きの鉄槌を
 女子リベ  安原宏美--編集者のブログ:「少年法の改正と児童福祉の課題」
 今日行く審議会@はてな:流されないこと

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 「現代の理論」(明石書店)平成20年新春号に、私の書いた文章「さらば宮台真司――脱「90年代」の思想」(pp.100-109)が掲載された。今回は、この文章について、著者自身による若干の解題を書いてみることとしたい。

 まず、この文章が掲載されたいきさつであるが、実をいうと件の論考は、編集部から頼まれて執筆したものではなく、自分で書いてみた文章を売り込んだものだ。というのも、平成19年8月、このブログにおいて「俗流若者論ケースファイル85・石原慎太郎&宮台真司」という文章を書いて、そもそも我が国の若者論にとって宮台とはいかなる存在であったか、ということを考えずにはいられなかったからだ。そこで私はかつて収集していた宮台の若者論を改めて読み直し、そして分析を加えてみた。そしてそれを様々な雑誌や知り合いの編集者に売り込んだのである。

 売り込む過程で、様々な人から様々なアドバイスをいただいた。また元の原稿を見せた編集者がまた別の編集者に読ませたりということもあった。そんな中、幸運にも、売り込んだ雑誌の一つであった、「現代の理論」の編集部の方から、文章を掲載させて欲しいとの連絡があり、私は早速それに応じた。まず、私のつたない論考を掲載することを認めてくださった編集部の方に、この場を借りてお礼を申し上げたい。

 さて、本題に入ろう。本稿のタイトルは、ずばり「さらば宮台真司」である。そもそも宮台は、平成6年の、いわゆる「ブルセラ論争」によって、若年層の「味方」、あるいは「理解者」「代弁者」としての地位を築いた。宮台は当時から、若年層における「道徳観の低下」という言説を批判し、若年層の道徳は壊れているように「見える」だけで、それはむしろ世間などの「大きな物語」が消えたからだ、という論陣を張っていた。

 そのような傾向は、平成7年、オウム真理教の事件より加速する。宮台は「終わりなき日常」を連呼していた。そこで比較されたのは、「オウム信者」、すなわち強迫観念的な「さまよえる良心」を持ち、その「良心」故に大事件を起こすようなものと、「女子高生」、すなわち「オウム信者」が抱えているような大変革への願望を持たず、「終わりなき日常」を「生き抜いている」ものであった。宮台は、前者を否定し、さらにオウム事件における評論家たちの言説をも否定し、後者を肯定した。

 このような論理が展開されているのは、「オウム完全克服マニュアル」という壮大なサブタイトルがつけられた、『終わりなき日常を生きろ』(ちくま文庫)である。さらに、同書の文庫版あとがきには、宮台の「勝利」が宣言されていた。具体的にいえば、「女子高生」的なものが蔓延することによって、「オウム信者」的なものが生きづらくなり、その「救済」をしなければ大変なことになる、というものであった。

 事実宮台は、平成9年の「酒鬼薔薇聖斗」事件の直後、『まぼろしの郊外』(朝日文庫)や『透明な存在の不透明な悪意』(春秋社)、『学校を救済せよ』(尾木直樹との共著、雲母書房学陽書房)などで、「専業主婦廃止」などの「救済」プログラムを打ち出した。

 だが、宮台は、ここで若年層を見誤っていなかったか。例えば『終わりなき日常を生きろ』で採り上げられている事例も、実のところ実証性というものはなく、ただ自分の身の回りのインタヴューくらいでいろいろと妄想を構築しているものであったし、少年による凶悪犯罪も1960年代に比してはずっと少ないし、「酒鬼薔薇聖斗」事件が本当に宮台のいうような性質のものであったかということもわからない。この手の事件は、それ以降はほとんど起こっていないからだ。

 そればかりではない。宮台はのちに、平成8年頃より、いわゆる「援助交際」に関するフィールドワークを辞めた、と公言している(『制服少女たちの選択』(朝日文庫)文庫版あとがき)。宮台にとって平成8年頃は《「とてもポジティブな時代」》が《終わった》(宮台真司[2006]p.395)ものであり、さらにその時代以降の「援助交際」女子高生は《私にとってのエイリアン》(宮台真司[2006]p.397)であると公言してすらいる。

 思えばこの時期あたりから、宮台の言説は実証性をかなぐり捨て、若年層に対する突飛なイメージをひたすら煽り続けるようなものに変貌していた、といえるかも知れない。宮台が教育政策などとの忖度をろくに行なわずに、簡単に「救済」などと述べるようになったのも、宮台にとって若年層が「理解可能」な存在でなくなったことが原因といわざるを得ない。もちろん、変わったのは若年層というよりも、宮台の若年層に対する見方である。

 そうなれば、宮台が平成10年頃より連呼するようになる「脱社会的存在」なるテーゼも理解できようというもの。宮台が安易な「社会防衛」に走ったのも、結局のところ宮台が若年層をモンスターとしてしか捉えていなかったことの証左なのである。なお、「現代の理論」文中ではスペースの都合上で触れられなかったが、この部分は芹沢一也の『犯罪不安社会』(浜井浩一との共著、光文社新書)での分析に大いに触発されている。ただ私の視点が芹沢と違うのは、芹沢が少年犯罪に対して寛容さを失っていく社会を掘り下げていくのに対し、私はその後の宮台の言説がいかに実証性に欠けているものであるか、ということを証明している。

 例えば、平成19年3月に出された鼎談本である『幸福論』(鈴木弘輝、堀内進之介との共著、NHKブックス)の以下の記述を見てみよう。

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 ところがどうしたことか(笑)、偏差値七〇以上の大学でも学力はどんどん落ちているし、「人間力」にいたるとベキ乗くらいの速度で落ちている。分かりやすく言えば、「こいつはすごい」と思う人間に出会う可能性が十分の一以下に減った。それは間違いありません。(宮台真司、鈴木弘輝、堀内進之介[2007]p.35)

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 ギャグでいっているのだろうか。そもそも宮台はこのようなことを示すデータを一つも示していない。それどころか「人間力」などという(客観的な評価が不可能故に判断基準にするには極めて問題の多い)言葉を安易に用いているのだから、その言説のレヴェルはたかが知れているところだろう。結局のところ宮台のいっていることはいわゆる「ニセ科学」に他ならない。「ニセ科学」というと自然科学系のものを我々は想起しがちだが、宮台のような社会科学系のものにも注意を支払う必要がある。

 それにしても宮台の最新のインタヴューである「出でよ、新しき知識人  「KY」が突きつける日本的課題」(「現代」平成20年2月号にも掲載されている)を読むと、いかに宮台が自らのやっていたことについて反省していないかということがわかる。例えば、

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 全体性を知らないエキスパートからは「善意のマッドサイエンティスト」が多数生まれます。自分が開発したものが社会的文脈が変わったときにどう機能し得るかに鈍感なエキスパートが、条件次第では社会に否定的な帰結をもたらす技術をどんどん開発していきます。(以下、断りがないなら全て「出でよ、新しき知識人  「KY」が突きつける日本的課題」からの引用)

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 私の見る限りでは、これは明らかに宮台のことである。なぜなら宮台は、平成9年頃、それこそ全体性など無視して若年層の「救済」「サルベージ」などを語り、舌の根の乾かぬうちに「脱社会的存在」などと不安を煽ったからだ。

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 不安はマスメディアにとっての最大のエサです。潜在的な不安があれば、不安を煽って視聴率を増やす戦略をとります。その結果、犯罪が増えていなくても、人々の不安だけが膨らむことになります。その延長線上に重罰化や監視カメラを要求する世論が盛り上がります。

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 「冬枯れの街」のエントリー「恐怖、この思念凝結兵器さえあればこの先千年を経てもなお統べる事ができよう!内在する恐怖によって~宮台転向記念碑~」でも突っ込まれているとおり、平成10年頃から若年層に対する不安を散々煽ってきたのも宮台である。

 嗤うべきところは他にも多数あるので省略するけれども、我々は、宮台こそが若年層に対する不安を煽り続け、そして統計やデータ、及び科学的な検証によらない青少年言説を発信し続けてきた、ということを正しく認識すべきではないだろうか。そしてそのような言説が許されてきた「90年代」という時代の若者論についても、はっきりとノーを突きつけなければならないだろう。

 そもそも90年代の若者論とは、青少年「問題」の肥大化と、青少年をめぐる解釈合戦によってその「問題」をバブルの如く大きくしていたような議論に他ならない。その中心にいた一人が、間違いなく宮台であった。今はそのような不安を鎮静させるのが先決でないか。そうしなければ、それこそ教育基本法の「改正」や、教育再生会議、あるいは種々の青少年「対策」のような、根拠のない不安に裏付けられた政治の動きを止めることはできないだろう。

 ところで宮台は、こうも述べている。

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 ちなみに、文脈を参照して内容を割り引くことを「批判」と言います。批判というと日本では攻撃と勘違いされがちですが、違います。批判とは、隠されていた前提を明るみに出し、前提を取り替えると成り立たなくなることを証明して見せる営みのことを言うのです。

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 私の論考が、宮台の《前提を明るみに出し、前提を取り替えると成り立たなくなることを証明して見せる営み》となれば、著者としてうれしいことこの上ない(苦笑)。

 引用文献:
 宮台真司『制服少女たちの選択』朝日文庫、2006年12月
 宮台真司、鈴木弘輝、堀内進之介『幸福論』NHKブックス、2007年3月

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2007年7月15日 (日)

平成19年参院選マニフェストにおける青少年政策の評価

Sentan2007natu  (「選挙たん(仮)」は、サイト「選挙に行こう」のマスコットキャラクターです)
 (この記事においては、公職選挙法の規定に基づき、特定の候補者の名前を出すことは控えております。従って、この記事は、特定の候補者を支援、または批判する「文書図画」にはあたらないものと私は考えます)
 参考:公職選挙法について

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 フィギュア萌え族(仮)犯行説問題ブログ版・サブカル叩き報道を追う:「自虐的オタク観」を正す:6・30アキハバラ解放デモに寄せて
 冬枯れの街:【祝】13日の金曜日~人を呪わば穴いくつでも掘る覚悟を!~

 さて、参院選の公示が出され、ついに選挙戦に向けて各党が動き出すこととなったが、各党はマニフェストという形で、自らの党が進める政策を公約として広報している。また、それについて、例えば「言論NPO」などのように、総合的、あるいは各論的に評価するような動きもあり、あるいは私の所属している「POSSE」などは、どの点に注意して読むべきか、ということを提示している(「style3的マニフェストチェック」)。

 私も、前回の衆院選に引き続き、青少年言説を検討してきた立場から、青少年に関わる政策の記述(教育、若年雇用など)を検討していこうと思う。今回は、以下の政党のマニフェストを対象とする。なお、今回は、都合により、前回行なった全体の感想の比較を割愛することとする。

 自由民主党(以下:自民)
 http://www.jimin.jp/jimin/jimin/2007_seisaku/kouyaku/index.html
 公明党(以下:公明)
 http://www.komei.or.jp/election/sangiin07/policy/index.html
 民主党(以下:民主)
 http://www.dpj.or.jp/special/manifesto2007/index.html
 社会民主党(以下:社民)
 http://www5.sdp.or.jp/central/seisaku/manifesto07s.html
 日本共産党(以下:共産)
 http://www.jcp.or.jp/seisaku/2007/07saninseisaku/index_kobetsu.html
 国民新党(以下:国民)
 http://www.kokumin.or.jp/seisaku/senkykouyaku.shtml
 新党日本(以下:日本)
 http://www.love-nippon.com/manifesto.htm
 共生新党(以下:共生)
 http://www.kyoseishinto.org/p/21

 1. 教育
 1.1 総論および評価軸
 「教育」についてもう長い間とやかくやかましく言われ続けているけれども、特に政策としての教育を語る上でもっとも大事なことは、その政策が本当に(できるだけ)客観的な事実に基づいているか、あるいはそれを推し進めるための根拠は何か、ということである。従って、例えばマスコミで採り上げられるような極端な事例を、さも全体を代表する例であるかの如く取り扱って、それで政策を構築してしまう、というのは、はっきり言うが非常に度し難いこととしか言いようがない。

 ところがそれを平気でやらかしてしまう人たちがいる。それが、かつての教育改革国民会議であり、また今の教育再生会議である。特に後者に限って言うと、まず人選からして教育学の専門家を入れようとする気配はなく(準専門家といえるような人だって品川裕香くらいである。大学関係者にしても、小宮山宏と中嶋嶺雄がいるけれども、彼らが教育学に付いてある程度精通しているとは思えない)、せいぜいメディアで話題になった人たちとか、あるいは政府と結びつきの強い財界人ばかりである。こんなところに教育政策についてまともな議論を要求する方がおかしいのかもしれない。

 とはいえ、仮に政権交代が起こり、この「会議」が解散させられたとしても、また同じようなものが結成される可能性もないとは言えない。そもそも我が国の「教育」政策自体、何回も何回も「改革」の必要性が叫ばれ続けたけれども、それによって教育現場の状況が改善されたとはとても思えないし、昨今のものに関しては、一部の事例をわざと社会的な大問題にでっち上げて、自分で処理する(あるいは「処理する」という態度だけを示す)という、いわばマッチポンプのようなものさえも感じてしまう。

 さて、この項目に関する評価軸であるが、何よりもまず金銭的な問題、つまり支出や予算の量、あるいはそれを調達する手段について触れられているからである。これに関しては、既に「言論NPO」の評価が既に示しているとおり、少なくとも主要な政党(自民、公明、民主)は、一貫してそれについてほとんど触れられていない(そして、ここで評価する他の政党、つまり社民、共産、国民、日本、共生も同様であった)。というわけでこれは評価軸から除外する。次に私が必要だと考えるのは、主張する政策を推進するための理由である。これについては、民主、共産が明記している。共生はほとんど理念だけで、他の政党は政策だけ。とりわけ政権党である自民と公明が、政策を推進する「理由」から逃げているのはどういうことであろうか。

 1.2 評価
 それだけでなく、自民と公明の、教育に関する記述は、かなり通俗的な青少年言説に潤色されている。例えば自民については、《子供たちに「確かな学力」を約束するとともに、規範や礼儀を教える。学校評価を一層推進し、教育水準の向上を目指す》(自民、「008. 「確かな学力」と「規範意識」の育成」)とさらりと書いているけれども、まず子供たちの規範意識は本当に低下したのか、ということから検証されて然るべきだろうし、それについては多くの側面から疑問が突きつけられている(とりあえず、浅野智彦[2006]くらい読んでください)。また《国民の心と体の健康を守り、豊かな人間性を形成し、健全な食生活を実現するため「食育基本法」に基づき「食育」を推進する。「食事バランスガイド」を活用した「日本型食生活」の普及や「教育ファーム」等の農林業体験活動や地産地消を進め、「食育」を国民運動としてさらに展開する》(自民、「047. 「食育」-食べる・つくる・育む-」)などと書かれているけれども、まず本当に「食育」なるものの必要性が見えてこないし(食の安全に関する消費者教育ならともかく)、なぜ「日本型」に限定するのかもわからない。

 公明党だって負けていない。《すべての小学生が農山漁村で一週間以上の体験留学ができる機会を提供します。これにより、子どもの豊かな心を育み、地域コミュニティの再生に貢献します》《すべての小・中学生に少なくとも年一回、本物の文化芸術に触れさせる機会を提供します》(以上、公明、pp.22)などと書いているけれども、前者については、本当にそんな《体験留学》で《子どもの豊かな心を育み、地域コミュニティの再生》ができるのか、というよりもそもそも子供の心が貧しくなっているのか…というところが突っ込みどころであるし、同じページにおいては学生全員に奨学金を貸与する、と書いているが、どうせなら学費の全額免除くらい主張してください。というよりも、何で公明って、これほどまでに奨学金にこだわるのだろう。

 与党に負けない電波ぶりを発揮しているのが国民である。《先進国並みの教育費を確保するとともに、教員数を大幅に増やし、きめ細かな学校教育を展開する》(国民)はともかく、《ゆとり教育を抜本的に見直し、人間力を鍛える教育および基礎教育の充実を図る》(国民)などといわれた日には、正直ここに投票する気が失せてしまう。今更「人間力」はないだろう(この概念の不気味さについては、本田由紀[2005]を参照されたい)。それだけでなく《学校教育において、時代に見合った道徳教育を充実し、公共の精神の涵養を図る》《広く伝統文化に接する機会を増やすことにより、国民意識・愛郷心の育成を図る。また、「美しい日本語」の普及に取り組む》(国民)とも書かれている。「美しい日本語」をマニフェストに取り込むなんて、自民すらやっていないよ。

 民主の主張にも、自民、公明、国民に比較すればマシだけれども、それでも一部に疑問は尽きない。例えば高校や高等教育の無償化を主張しているけれども(民主、pp.24)、これについては財源が明記されていない。ただし、根拠として国際人権規約を挙げていることと、漸進的な推進とすることは明記している。高等教育については、民主はかなり明確かつ鋭い主張をしているけれども、初等教育については、「学校教育力の向上」が謳われているのみ。さらに、ここについても「コミュニティの再生」だとか、あるいは《教員の養成課程は6年制(修士)とします》(民主、pp.24)などと主張しているのが気がかりである。そもそも教員養成について、本当に修士でなければならない理由があるのだろうか(なお、いわゆる「教職大学院」の問題については、「今日行く審議会@はてな」の記事「日本に教職大学院なんていらない」と、佐久間亜紀[2007]を参照されたい)。

 もっとも評価できるのが共産であったが、やはり「政権党への批判は鋭いが、オリジナルの主張はあまり強くない」という、共産のマニフェストに特有の弱点が目立った。まず、《日本政府は国連・子どもの権利委員会から2度にわたって「高度に競争的な教育制度」の改善を勧告されています》《日本の教育予算の水準はOECD(経済開発協力機構)加盟国30カ国のなかで最低で、教育条件は欧米に比べてもたいへん貧困です》《すでに「いっせいテスト」とその公表をおこなった自治体では、「テスト対策のため文化祭や林間学校を縮小・廃止した」、「できない子どもを休ませた」、「先生が答案を書き換えた」など深刻な問題がおきています》(共産、「【14】教育問題」)という批判は実に痛快だし、また正当性もある。ところが主張については、《また「徳育」を「教科」にして特定の価値観を子どもたちに押しつけようとしています。しかも、安倍首相が押しつけようとしている価値観は、軍国主義を肯定・美化する戦前の価値観です》《憲法と教育条理に基づいた教育を追求します》(共産、「【14】教育問題」)などの「おなじみ」の文言を読んで、正直言って萎えてしまった。

 とりあえず改正後の教育関連の法令について言えることは、それらが「金は出さないが口は出す」(しかも、かなりうるさく)というものであり、それがますます教育現場の閉塞性を高めるのではないか、ということであり、それについては広田照幸や苅谷剛彦などの専門家が前々から主張してきた。この点を前面に押し出せばいいものの、残念でならない。

 なお、社民は基本的には「学校の教育力」に関する記述を除けば民主とほぼ同じで、日本は30人学級の推進を明記するにとどめている。共生の理念については、仰々しく構えているけれども、いざどのような政策をとるのか、ということについては見えてこない。あと、こういう記述があったのが笑えました。

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 又、英国の王立建築家協会が実施した調査では、すばらしいデザインの学校では不登校生は発生しにくく、教育効果は絶大であると結論づけている。(2007年国立新美術館における英国王立建築家協会会長の講演)病院でもデザインの良い病院では、患者の回復が早いことが分かっています。(共生)

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 さすがというか、なんというか…。

 2. 若年雇用
 2.1 総論および評価軸
 この分野については、平成17年の総選挙に比して、論じる環境が大きく変わった。まず、平成18年頃より積極的に採り上げられるようになった「偽装請負」「ワーキングプア」などの用語に代表されるような問題や、あるいは正社員と非正規雇用者の(賃金や待遇などの面での)格差、そして若年層における貧困の進行。期せずして起こったグッドウィル・グループやそこを牛耳る折口雅博のスキャンダル、そしてフルキャストやグッドウィルのユニオンによる運動、そしてそのほかの若年層による労働運動があったりと、本当に論じるべきことは何か、ということが少しずつ見えつつある(とりわけ派遣をめぐる問題については、奥野修司[2007]を参照されたし)。

 とはいえ、財界側も負けてはおらず(?)、「偽装請負」問題の渦中にあるキヤノンの御手洗冨士夫などは、「偽装請負」さえも合法化しようとするように働きかけているという。そしてそれをほとんど野放しにしてきたのが自民党というわけであるが、そのような状況をいかに評価するのか、という基軸が必要であろう。

 2.2 評価
 とりわけこの分野をめぐる問題について、特に私が重視されるべきであると考えるのが、いわゆる「就職氷河期」問題であるが、これについて明記していたのが、民主(pp.24)と社民であった。とはいえ両党とも、行なう施策としては主として職業教育やキャリカウンセリングが中心であり、果たしてそれが氷河期世代問題を解決するために必要なのか、という疑問が起こる。

 とはいえ、主要な野党3党(民主、社民、共産)は、待遇の格差の改善や、労働条件の向上などに積極的な姿勢が現れており、ここは評価できる。民主は、主として新しい法制度を提出することによって派遣や請負を規制し、また労働条件の向上を行なう、という姿勢である。もちろん、最低賃金の引き上げも主張している。行なうのは段階的だという(以上、民主、pp.23)。社民も、民主と方向性は同じである。ただし、長時間労働や残業代の不払い、あるいは派遣労働者を使用することができる職域の縮小などは、民主にはない主張である(社民、「なくせ 働く格差」)。共産はかなり熱心で、全ての政党で唯一「偽装請負」という言葉を使用している。また《ILO「雇用関係に関する勧告」(198号)を活用し、請負や委託で働く労働者を保護します》(共産、「【3】労働・雇用」)と、法的な根拠も明記している。国民も、正規雇用率の基準を設けることや、非正規雇用者の健康保険の加入の義務化を主張している。

 与党というと、これについてはかなり及び腰というか、従来の主張を繰り返しているだけという主張を受ける。まず自民は、「081. 働く人の公正な処遇に向けた取組みとパート労働者の待遇改善」で一応記述されているけれども、どうも時流に合わせて適当に付け足した印象しか受けない。他方で自民は、高齢者の再雇用については大変(?)熱心なようで、「077. 団塊世代を活用した「新現役チャレンジプラン」の創設」「078. 団塊世代の意欲や活力を活かし、その技能・技術を次世代に継承できる仕組みづくり」「079. 高齢者の活躍の場の一層の拡大」と3つの独立した項が設けられている(なお、就職氷河期世代問題を中心とする若年雇用の問題については、宮島理[2007]などに詳しい)。公明は、とりあえず職業教育でもやっていればいい、という感じだった。若年層の雇用を拡大する、といっているけれども、どのような手段を用いるか、ということは明記されていない(あとのほうに書いてある、中小企業の支援によって雇用を創出する、というのがそれに当たるのかもしれないが。公明、pp.19)。

 結論からすれば、とりあえず若年雇用に関わる問題を考慮に入れて投票する場合、自民や公明には絶対に入れてはいけない、ということが明らかになった。これだけでも一つの収穫だろう。

 3. メディア規制、「青少年健全育成」、少年犯罪
 3.1 総論および評価軸
 橋本健午による研究(橋本健午[2002])などに見るとおり、戦後の我が国においては、一貫して、まず何らかの青少年問題が「発見」され、それについて特定のメディアが敵視され、それに対する「善良な」市民や親たちによる規制が求められ、そして業界が自主規制に踏み込む、などというサイクルが行なわれ続けてきた(戦前にも、小説を規制せよ、という声があったようだ)。与野党問わず、一部の政治家の間には、それでもまだ足りない、もっと規制すべきだ、という声があるようだが、私はむしろ、このような不毛な歴史の流れを止める方向に行くべきだと考えている。なぜなら、感情的な対応によって規制される分野が、これ以上増えて欲しくない、と考えているからだ。昔も今も、規制を求める側の主張は変わらない。

 3.2 評価
 とりあえずこの分野については、もう電波の嵐で、笑いました。これについての記述があったのは、自民、共産、国民。まず、民主は既にマニフェストから引っ込めたメディア規制について、共産はいまだに主張している。

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 雑誌やインターネット、メディアなどには性を商品化するような写真、記事、動画などが氾濫しています。女性を蔑視し、人格をふみにじる文化的退廃を許さず、人権尊重の世論と運動をひろげます(共産、「【18】男女平等」)

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 まるで自民のマニフェストでも読んでいるかの印象である(笑)。《性を商品化するような写真、記事、動画》が何をさすのか、ということについてまず明記しなければならないだろう。とりあえず、まず実在の児童に対する性的虐待、及びそれの記録物については厳しく規制されるべきだが、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いとまでに性的なものを全面的に規制するのはよくない(それこそ、春画も規制しろ、といった「バーチャル社会のもたらす弊害から子どもを守る研究会」の某氏みたいに)。ちなみに日弁連は、児童ポルノについて、以下のような見解を示している。

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 目にあまる児童ポルノコミックは、刑法のわいせつ物陳列、頒布、販売罪の構成要件該当性が検討されるべきであり、本法の対象とすべきではない。

 児童ポルノコミックの現状には、放置できないものがあるとの指摘はもっともである。しかし本法の保護法益は、実在の子どもの権利である。児童ポルノコミック規制を本法により行うことは、本法の保護法益を、刑法のわいせつ物陳列、頒布、販売罪の保護法益である「善良なる性風俗」に対象範囲を広げることになる。これは本法の目的をかえって曖昧にし、子どもの権利保護の実施を後退させる危険をはらむ。

 また児童ポルノコミック規制により、児童の性的搾取、性的虐待が減少するという証明はない。

 ポルノコミックにおいては、被害を受けた実在の子どもがいない。芸術性の高いコミックやイラスト、小説と、規制すべきとするポルノコミックとの線引きには困難な場合も想定され、いたずらに表現の自由を侵害する危険がある。目にあまるものについては、刑法のわいせつ物陳列、頒布、販売罪の構成要件に該当するか否かの検討をする余地はあるとしても、本法の対象とすべきではない。実在の子どもがモデルとなっていると推定されるようなコミックが存在するとするなら、名誉毀損罪等、他の犯罪として処断されるべきである。

 「子どもの売買、子ども売買春および子どもポルノグラフィーに関する子どもの権利条約の選択議定書」にも、コミック規制を義務づける条項はない。

http://www.nichibenren.or.jp/ja/opinion/report/2003_09.html

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 続いては自民。

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 健全な青少年を育成する社会の構築をめざし、「青少年育成施策大綱」等に基づき、青少年の育成に係る施策を総合的・効果的に推進し、若年層の職業観・勤労観及び職業に関する知識・技能の育成等を図るためキャリア教育等を一層推進する。また、非行や犯罪被害、有害情報から子供たちを守るため、「子ども安全・安心加速化プラン」に基づく関連施策を一層推進する。(自民、「009. 青少年の健全な育成」)

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 その前に、まず犯罪統計や、労働に関する統計くらい読んでくれ。そうすれば、いかに自分のやっていることが確かな根拠に基づいていないかわかるから。

 最後に国民。

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 今日的な武士道精神や礼節を実践する個人や団体を表彰するため、日本版の「フェアプレー賞」を創設する。(国民、「5 規律とモラルを重んじる教育の実現/【健全な青少年の育成】)

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 藤原正彦か!

 4. 子育て、幼児教育
 4.1 総論および評価軸
 赤川学は、その著書『子どもが減って何が悪いか!』(ちくま新書)において、女性の雇用が進んでいる国は子供もたくさん生まれてくる、という認識を喝破している。しかしながら赤川は、それでも男女雇用機会均等などの政策は必要である、と主張している。これは子育てに置き換えても成り立つのではないか。要するに、「少子化対策」のために子育て支援を行なうのは嘲笑の的でしかないが、それでも子育てに対する支援は必要である、と。例えば育児休業などの制度の整備は、漠然とした「少子化対策」のためではなく、その家族のためにこそ必要なのではないか。ところが、この認識に立つマニフェストは、それほど多くはなかった。

 また最近においては児童虐待の問題がよく採り上げられるけれども、これについてはかつても何回か採り上げられてきた経緯があり、どちらかといえば社会的な文脈において「発見」されてきたという側面のほうが強いのではないか(事実、児童虐待「増加」「急増」の証拠として用いられるのは、児童相談所に対する相談の件数ばかりである。これについては、むしろ暗数の発掘と見たほうがいいのではないか、という見方も成り立つ)。また、虐待と貧困などの関係性も論証されており、ひとり親に対する罰則の強化や、あるいは監視の強化にとどまる問題ではないことも、認識すべきだろう(詳しくは、上野加代子[2006]に収録された論文を参照されたい。また、「女子リベ  安原宏美--編集者のブログ」の「家と貧困」)。

 4.2 評価
 これについては、多くの正当が大体足並みをそろえていたので(例えば「子育て基金」の設立など)、あまり比較して評価するようなものではないかもしれない。この分野では、公明の以下の記述の電波ぶりを紹介しておけばいいだろう。

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 児童虐待、育児放棄などを未然に防ぐため、「親学習プログラム」を推進し、親自身が育児を学ぶ環境を整えると共に、里親制度や児童養護施設の拡充を図るなど被虐待児の保護及び自立支援のための施策を拡充します。(公明、pp.8)

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 《親学習プログラム》って…。ああ、この教育万能主義、本当に笑える。第一、昨今の児童虐待「増加」というのは、それが何回も繰り返されてきた「発見」の繰り返しでしかないし、そんな「プログラム」を学んで虐待が減少するのかはなはだ疑問だし、そもそもどんな「プログラム」なのか、公明は公開する責任がある。あ、もしかして、「教育再生」を全力で訴える、自民党の某議員が落選したときの再就職支援ですか(笑)?

 5. 結語
 今回マニフェストを検討してみたのだが、どうも全体としてつまらないというか、そんな印象を受けたような気がする。どうせならもう少し力を入れて欲しかった。まあ、私が争点となっている年金や社会保障の問題について少ししか目を通していない、ということもあるのかもしれないし、また(あくまでも想像だけれども)青少年問題はあまり票にならない、という通念があるのかもしれないが。

 とはいえ、どの政党であれ、こんなことを話してどうかという気持ちはあるけれども、もしこの選挙で負けた場合、いかに敗因を読み解くか、ということが重要になってくると思う。一昨年の衆院選においては、野党が大敗を喫したとき、政党自身はともかく、その政党の考えに近い自称「知識人」たちが、「B層」などといって、若年層をバッシングした。ちなみにこの「B層」という言葉は、自民党がマーケティングのために勝手に捏造した言葉である。それに便乗して若年層をバッシングするなど、恥ずかしくはないのか。

 おそらく(信じたくはないけれども)自民党が勝つという結果となれば、またぞろ若年層に対するバッシングが起こるかもしれない。だが、自らの反省を抜きにして、問題を「叩きやすい」若年層に押しつけるなど、言語道断だ。今回も、どうせ自民が勝ったら、「左派」は、若年層の投票率が高かったら「若者が安倍晋三を支持した」とわめき、低かったら「若者が行かなかったから負けた」とわめくのだろう。

 というわけで予防線を張っておく。「B層」って言うな!

 参考文献
 浅野智彦(編)『検証・若者の変貌 』pp.191-230、勁草書房、2006年2月
 橋本健午『有害図書と青少年問題 』明石書店、2002年12月
 本田由紀『多元化する「能力」と日本社会 』NTT出版、2005年11月
 宮島理『就職氷河期世代が辛酸をなめ続ける 』洋泉社、2007年3月
 奥野修司「「悪魔のビジネス」人材派遣業」、「文藝春秋」2007年6月号、pp.275-285、2007年5月
 佐久間亜紀「誰のための「教職大学院」なのか――戦後教員養成原則の危機」、「世界」2007年6月号、pp.123-131、2007年5月
 上野加代子『児童虐待のポリティクス』明石書店、2006年2月

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2006年3月11日 (土)

罪人よ、汝の名は「若者」なり――平成18年2月15日TBS「緊急大激論SP2006!」への疑問

 この文章は、ある雑誌に投稿して、番組の性格上載せることができない(シリーズではなく単発の番組なので、定量的な検証ができない、ということ)、とその雑誌の編集部から連絡をいただいたもので、従ってここで公開することとします。この文章は、平成18年2月15日にTBS系列で放送された番組「緊急大激論SP2006!“子供たちが危ない”全国民に喝!」を批判したものです。

 公開に当たって、以下のブログにトラックバックを送っておきます。

 この番組を直接採り上げたブログ:
 あなたの子どもを加害者にしないために:「緊急大激論SP2006!“子供たちが危ない”」(TBS)(中尾英司氏)
 さびしんぼうのブログ♪:緊急大激論スペシャル@TBSテレビ
 冬枯れの街:緊急大激論SP2006!“子供たちが危ない”って危ないのはあなたたちの妄想ですから!
 アキバの王に俺はなる!:子供、若者は大人の敵といったような番組を見て
 私がお世話になっているブログで、青少年問題について触れたエントリー
 女子リベ:どう少年が包囲されていくのか?(安原宏美氏:フリー編集者)
 社会と権力 研究の余白に:生命と統計 少年法改正をめぐって(芹沢一也氏:京都造形芸術大学講師)

――――――――――――――――――――

 ※番組内の発言の文字起こしに関しては、全て筆者(後藤)に文責があるものとする

 このような番組を放映して、一体TBSは何をしたいのだろう――それが、私が平成18年2月15日に放送された、特別番組「緊急大激論SP2006!“子供たちが危ない”こんな日本に誰がした!?全国民に“喝”!!」を見ての私の感想だ。この番組は、全体的に現代の若年層に対する否定的なトーンと、「大激論」という名を冠しているにもかかわらず、一方的な意見の応酬だけで貫かれており、単に出場者の、自分の「善」のイメージの露出合戦に過ぎない番組であった。

 TBSのウェブサイトによると、この番組のコンセプトは以下のとおりであるという。

 社会、学校、家庭……。今、子供たちを取り巻く環境で、様々な問題が山積みしている日本。

 この番組では緊急大激論スペシャルと題し、子育てや教育問題を徹底的に話し合い誰がこんな日本にしてしまったのか? これから日本は子供たちにとってどうしていくべきなのか?追求していく。
http://www.tbs.co.jp/program/kodomotachi_20060215.html

 などと綴られているが、実際にこの番組で行なわれたのは、単なる若年層に対するネガティブ・キャンペーン、すなわち現代の子供たちや若年層に対する不安を煽り、彼らは怖い、社会の害悪だ、どうすれば彼らに対処して自らにとって住みやすい社会になるか、ということが延々と語られただけである。

 司会者は草野仁、えなりかずき、海保知里の3氏で、出演者は、勝俣州和(タレント)、草薙厚子(ジャーナリスト)、田嶋陽子(元国会議員)、松居一代(女優)、RIKACO(タレント)、やくみつる(漫画家)、山下真司(俳優)と、「本気の大人たち」として伴茂樹(青少年育成クラブ主宰)、菱田慶文(スクールパートナー)、吉川英治(明大前ピースメーカーズ主宰)、小嶋映治(叱る大人の会代表)、原田隆史(天理大学非常勤講師、東京・大阪教師塾塾頭)、喜入克(高校教師)、今村克彦(小学校教師、関西京都今村組代表)、杉浦昌子(NPOアイメンタルスクール主宰)、廣中邦充(浄土宗西居院僧侶)の9氏である。

 1・番組構成の各部に関する疑問
 ウェブサイトによれば、この番組の構成は次のとおりである。

 番組では公共でのマナーやルールに対する若者のモラルについての「社会秩序崩壊編」、校内暴力や不登校の増加問題についての「学校崩壊編」、親が子供を、子供が親を殺してしまうような衝撃事件の増加に象徴される現在の家庭問題についての「家庭崩壊編」と3つのテーマで話し合いを行う。(前掲TBSウェブサイト)

 と書かれているが、この番組が若年層に対する不安扇動を目的としていることを私が確認するまでは、開始から30分もかからなかった。この番組は、第1部が「社会秩序崩壊編」、第2部が「家庭崩壊編」、第3部が「学校崩壊編」となっているが、第2部と第3部はもっぱら「本気の大人たち」として出演している人々の体験談が主であり、スタジオにおける「大激論」に関しては、その時間の大半を第1部が占める。その第1部において何が議論されたのであろうか。

 オープニングの後、第1部の問題提起として映されたVTRについて説明しよう。このVTRは、平成15年に実際に起こった事件を基に構成されている。その事件が、電車に乗ってきた、ヘッドフォンから音を漏らしている若い人に対して、ある中年のサラリーマンが注意した。ところがその若年は、近くにいた警察官に「酔っ払いが絡んでくる」といって、逆に自分を正当化した、というものである。

 まずここで疑問が浮かぶはずだ。このような若年は、果たして現代の若年層に典型的なものなのだろうか、と。しかしそのような疑問をすっ飛ばして、この「大激論」は、現代の若年層がさも件の若年の如く、自分を正当化することにだけは長けているのに、他人の迷惑はちっとも顧みない、というイメージで語られる(注1、2)。

 それだけではなく、この後の「大激論」においては、若年層に対する偏ったイメージが頻出する。このVTRの直後の、勝股州和氏の発言を引いてみよう。

草野「勝股さん、目撃したりしたことはあると思うのですが、(勝股:「ハイ」)もしあの場にいたらどうします?」

勝股「ビシッ、といいたいですけれども、怖いですね」

スタジオ笑う。

勝股「今の子たちって、逆ギレで刺すじゃないですか」

 勝股氏の語っているのは、単に報道で喧伝されるイメージを超えていないのであるが、この程度のステレオタイプはまだ甘いほうで、そのほかにも若年層をあからさまに蔑視した発言が頻出する。その中でももっとも問題を多く含んでいるのが、杉浦昌子氏と草薙厚子氏の以下のような発言である。

草野「杉浦さんはどうですか?先ほどのニュース」

杉浦「うーん。私は、生徒にはね、車両の中にそういう子がいたら、避けるようにと。私は日々子供と接してて、ちょっと感覚がゲーム感覚、ちょっとリセットしてもまた生まれ変わるんだ、ってしか考えないから、言っても無駄な人には、無駄なような気もするんですよ」

草薙「ゲームの感覚っておっしゃりましたけれども、その通りで、ゲームを長い時間やるじゃないですか。で、それがもう研究の結果出ているんですね。その世界だけなんです(えなり他「ゲーム脳」)そう、ゲーム脳と言われているんですけれども、前頭葉の前頭前野の血流が悪くなる。でその前頭前野というのが、羞恥心とか、理性とか、ここでみんなコントロールしている」

えなり「自分の感情を抑える所って言いますよね」

 「ゲーム脳」や、「前頭前野」などといった、草薙氏の振りかざしている論理は、既に学問的には論破されている点が多く(注3)、議論として成立したものではない。それにもかかわらず草薙氏がそのような理論を堂々と持ち出す、というところに、現代の我が国の青少年ジャーナリズムの暗黒面が垣間見えるし、杉浦氏の発言にもまた、「ゲーム感覚」などという、現代の青少年はゲームのせいでおかしくなったのだ、と言わんばかりの表現が出ている。だがもっとも問題なのは、草薙氏や杉浦氏の発言に対して、誰も制止する人がいないことである。特に「ゲーム脳」が疑似科学であることは、既に良心的な物書きであれば知っているはずだ。

 このような構成からもわかるとおり、この番組は、まず第1部において、現代の若年層がいかに「悪」であるか、ということが喧伝される。もちろん、先の勝股氏や草薙氏、及び杉浦氏に限らず、問題のある発言は多いし、それらの発言に対する反証も、今やかなり出揃っている状態である(注4)。しかし、それらが無視されるのは、やはりこの番組においては、定量的な議論よりも、「若年層=悪」というイメージ(あるいはこの番組の前提)を正当化するための「物語」であり、それゆえ出演者も、若年層の「悪」に立ち向かう「善」という図式が強調されるのだろう。

 更にこの番組を引き立てているのが、各部の最後に挿入される(従って合計3回挿入されたこととなる)、司会者の一人である草野仁氏と、石原慎太郎・東京都知事との対談である。草野氏の発言も、また石原氏の発言も、単に巷で流布しているイメージや自らの狭い体験だけに基づいている、空疎な「憂国」話でしかない。だが、この対談映像の中には、テレビ「ならでは」の演出が施され、この番組を盛り上げるのには絶好のものとなっている。例を示してみよう。

草野「一番知事にお伺いしたかったのは、今の若者たち、社会規範を破っても平然としている、マナーを守らない、そういう傾向の若者たちが増えている、というのは結構事実ですね。その若者たちを、知事はどういう風にご覧になっていますか?」

石原慎太郎「家庭のしつけ、学校の教育のせいだともちろん思いますがね、子供に我慢させないですね」

リピート「子供に我慢させないですね」

ナレーション「子供に我慢をさせない」

 さて、ここで、私が「リピート」と示した箇所は、石原氏の発言の注目すべき箇所に対し、まず石原氏の顔が白黒のアップになり当該箇所がもう一度繰り返され、そしてその後にその発言の趣旨のメッセージが画面に登場し、それをナレーションが読み上げるというものである。これはテレビ「ならでは」の演出で、草野・石原対談においてはこのような演出が頻出する。

 また、この種の演出が用いられた石原氏の発言には、他にも次のようなものがある(字幕として出たものを挙げることとする)。

 「子供の親そのものが、だらしなく育てられた」(1回目)

 「親が無責任までは行かないが無知」(2回目)

 「肝心なものは全部人に預けた他力本願で甘ったれな風潮」(3回目)

 現代の親や青少年に対するバッシングが含まれているのはこれくらいであるが、それ以外も単なる一般的な教育論を語っているに過ぎない。このような「お題目」で教育問題が解決される、という考え方は、結局のところ自分にとっての「当たり前」を取り戻せば教育問題は解決する、という短絡的な考え方でしかない。

 草野氏と石原氏の対談も含めて、結局のところこの番組は、「絶対善」としての自分をいかに強くアピールし、自分の教育論――単に一般的な「お題目」でしかないものが大半なのだが――の正当性をひけらかす以上のものではなかった。結局のところ、この番組で行なわれたことは、大々的な「私語り」だけだったのである。

 また、冒頭の出演者を見てもらえばわかるが、この番組が前提としている「「今時の若者」は傍若無人な振る舞いばかりをする社会の害悪だ」などという一方的な考えから、少々距離を置いて考えることができる人――内藤朝雄氏や浅野智彦氏など――は一人も出ていない(「本気の大人たち」でない出演者も、番組のストーリーに追従しているだけだった。特に、草野氏と勝股氏、草薙氏、そしてやくみつる氏の発言のひどさは特筆すべきものだ)。「大激論」などと言っておきながら、人選の狭隘さは目を見張るほどだし、彼らがバッシングの対象としている若年層は、えなり氏を除いて一人も「大激論」の場に存在していない。

 なるほど、確かに、他のスタジオでは、番組が言うところの「イマドキの若者24人」が、この「大激論」を見守っていた。しかし、彼らの発言が許されたのはたった2回、しかも1回あたりの発言時間が3分もなかったのだ。

 2・この番組全体の構成に対する疑問
 はっきり言おう。この番組は、「大激論」の名を騙った「欠席裁判」なのだ。もちろんこの「欠席裁判」で「裁かれている」のは若年層であり、裁判長は司会の3人で、判事は出席者全員、弁護人はいない。しかも裁判長も完全に判事よりである。

 この番組が「欠席裁判」であると考えれば、この番組全体の流れがわかるというものだ。まず第1部に「社会秩序崩壊編」を据えることによって、現代の若年層を「被告」として視聴者に認識させる。つまり、若い世代「全員」がこの「欠席裁判」において被告人席に立たされることの「正統性」を裏付ける。そして第1部の「大討論」において、被告人の「罪科」が――全て判事の口によって、しかも定量的な証拠もなしに!――延々と語られる。そこで以下に事実誤認が飛び出していても、なんら問題はない。先にも述べたとおり、必要なのは定量的な議論ではない、「物語」なのだ。「今時の若者」という存在がいかに「悪」であるかを証明するための。従って、以下の如く、最初から事実誤認のナレーションに彩られていても、その正当性に疑問がはさまれることはない。そもそも「キレる」やら「逆ギレ」などというのは、そのような言語が「発見」されてから、新たなプロファイリングとして定着するようになった、と考えたほうがよいのではないか。

ナレーション「世界一安全といわれたこの国が、今やモラルなき無法地帯と化している。連日飛び込んでくる衝撃的な事件。その中心には、傍若無人な若者たち。やりたい放題の彼らに、社会のルールやマナーなど存在しないのか。一方で、注意すべき立場の大人たちは…。」

街頭A「すぐ若い奴はキレるじゃない何されるかわからん、はっきり言うて」

街頭B「突発的に、何かをされるとか、そういった恐怖感はありますね」

ナレーション「そう、今時の若者たちの特徴は、「逆ギレ」。善悪の見境なしにとにかくキレる。そして、キレたら最後、もう誰にも手がつけられない。かつて世界から賞賛された、日本人のモラルは…」

 そして第2部と第3部は、まさに「犯人探し」だ。「被告」としての若年層を生み出した背景として、第2部においては家庭が、第3部においては学校が採り上げられる。だがこの2つの部分は、第1部に比して、冒頭において紹介された「本気の大人たち」の取り組みの紹介が多い。現に、第1部が1人(小嶋映治氏)だったのに対し、第2部は2人だった(杉浦昌子氏と廣中邦充氏)。第3部は1人だったが(原田隆史氏)、第3部自体の短さ、そして冒頭のVTRの長さを考慮すれば、「大激論」を行なった箇所は少ないほうである。

 ここで2つ目の疑問を提示したい。この番組において一つの重要なキーワードとなっているのは、「本気の大人たち」である。要するに、「悪」としての青少年、及び一歩間違ったら「悪」の世界に踏み込みかねない子供たちを「自分たち」の手に取り戻すための「本気の大人たち」の取り組みの礼賛である。

 だが、冷静に考えて欲しい。彼らのように、様々な条件に恵まれ、かつ能力もある「本気の大人たち」は極少数である。しかしこの番組は、そのような「本気の大人たち」を礼賛することによって、かえって彼らのような能力のない(と思いこんでいる)親たちは自信をそがれてしまうかもしれない。

 この番組のように、――元々境遇や能力に恵まれた人しか発しえず、しかもメディアによってその暗黒面が隠蔽されている――「本気」を礼賛し、子供たちに対して「本気」で接しなければ、いつ子供が「悪」(=「今時の若者」!)になってもおかしくないぞ、と煽ることは、むしろ若い親たちを追いつめることにならないだろうか。そもそも多くの子供たちは、そして青少年は、ごく普通に暮らしているのである。彼らを無視し、一部の人を採り上げて、さも世代全体が危険であるかのように煽るという行為は、それこそ青少年の価値を貶めることにならないか。それともこの番組の製作スタッフは、どうせ若い奴はこんな番組など見ないだろう、とでも高をくくっているのか。だとしたら、この番組は、日頃の鬱憤がたまっている年齢の高い人たちに対して、コメンテーターたちと自己を同一化させ、その「怒り」を若年層や若い親たちにぶつけることを提供していることとなる。

 この番組のエンディングは「翼をください」だった。私はこの曲は好きである。しかし、この番組のエンディングとして流れた「翼をください」は、私がこの曲を聴いて決して抱くことのなかった嫌悪感を、私に初めて抱かせた。散々若い世代に対して不安を抱かせて、そして自分の社会の将来に暗い気持ちを抱かせて、そこから希望を持ってください、といっても無理に決まっている。

 極めつけはこれだ。この世でもっとも不気味な「翼をください」が流れ終わった後、画面に大きく表示された文字である。

 「子供たちの笑顔がこの国の未来」

 このようなお題目がいかに空疎であるか、ということは、この番組を通して見たものならすぐにわかるはずだ。この番組は、決して「子供たちの笑顔」など望んでいない。子供たちが自分にとって都合のいいように成長してくれること、そして「悪」としての「今時の若者」たちが「私たち」の社会から排除されることだ。少なくともこの番組は、決して「子供たちの笑顔」のために作られているのではない。具体的に言えば、「大人たちの笑顔」なのだ。「今時の若者」を問題視してバッシングする大人たちのための番組としか言いようがないのである。だから、この番組に青少年の声、あるいは現在喧伝される青少年問題言説に懐疑的な人の声が反映されないのも、無理はないのかもしれない。

 しかし、これだけは言いたい。

 特定の世代を過剰に問題視し、その世代は「悪」で自分の世代は「善」であり、そして自分の子供をいかに「悪」にしてはならないか、といった半ば脅迫的な子育て言説がはびこる世の中に、誰が希望を持つことができるだろうか(そして、この番組に出席していた草薙厚子氏は、まさにこのような「半ば脅迫的な子育て言説」を喧伝している人だ)。
 堀江貴文被告がニッポン放送やフジテレビの実権を握ろうとしたとき、マスコミが堀江氏を批判する口実として用いたのが「放送の公共性」だった。だが、人々を絶望の淵に落としておいて何もしない、この番組に、果たして「公共性」を求めることができるだろうか。

 TBSは堀江貴文を笑えるのか。

――――――――――――――――――――

 注1
 現に、出演者の今村克彦氏が、「このような特異な話ばかり捉えていても無意味だ」と発言したのに対し、草野氏が、「でもこのような事件もあるのだから、今の若年層はやっぱり異常だ」と今村氏の発言を退けた部分もある。曰く、

今村「いえ、だから今言われたように、刃物持っている人間に話し込もうや、って言ったって、話になりませんやんか。特異な話ばかり捉えていたら、ほんまに怖なります」

草野「もちろんそうなんですが、現実に先ほどビデオでごらん頂いたケースもある。ただ非常に気になるのは、駅員の人を呼んで、その後の逃げ方です。口実をつけて、非情に狡猾なやり方で逃げていこう、つまり自分を正当化するということは、非情に巧みである。これは昔の子供たちには多分なかったことではないかと」

 更に、後に今村氏は、若い奴は大部分が怖いんだ、という趣旨の発言をしてしまう。

今村「僕はおかしいと思いますわ。怖ないってね、ここら辺の方って絶対に怖ないですやん。世の中の大部分、やっぱりあのわけの分からん若者がいたらやっぱり怖いですやん。……だから、怖いということは大前提、みんな共通して持たなあかんと。……」

 注2
 ちなみに、平成12年6月21日付の読売新聞によれば、JR東日本において報告された駅員や乗務員への暴力行為162件のうち、その加害者で最も多いのが50代で39人、次に多いのが40代で33人だった。

 注3
 草薙氏が持ち出している「ゲーム脳」理論は、既に多くの専門家や評論家によって疑義が提示されている。書籍では、斎藤環『心理学化する社会』(PHP研究所、平成15年)、と学会『トンデモ本の世界T』(太田出版、平成16年)、小笠原喜康『議論のウソ』(講談社現代新書、平成17年)を、雑誌の記事では、風野春樹「科学的検証はほぼゼロで疑問が残る「ゲーム脳の恐怖」の恐怖」(「ゲーム批評」平成14年11月号)、大和久将志「欲望する脳 心を造りだす」(「AERA」平成15年1月13日号)、小泉耕平、藤田知也、四本倫子「「17歳少年がおかしくなったのはゲームのせいじゃない!」」(「週刊朝日」平成17年3月4日号)、若狭毅「ゲームで脳が壊れる説に専門家はブーイング」(「サンデー毎日」平成18年2月26日号)を参照されたし。

 注4
 例えば、社会学者の浅野智彦氏らの研究グループは、平成4年と平成14年に都市部の若年層に対して行なったアンケートをもとに、若年層においては規範意識が後退(あるいは消滅)しているとはいえず、また人間関係も希薄化していない、ということを提示している(浅野智彦(編)『検証・若者の変貌』勁草書房、平成18年)。また、少年による凶悪犯罪が近年増加傾向にあるわけではない、ということも、既に多くの論者によって指摘されているし、少年による動機の不明な、あるいは短絡的な殺人事件も、今から40年ほど前の段階でも多く起こっている(赤塚行雄(編)『青少年非行・犯罪史資料』第2巻、刊々堂出版社、昭和57年)。

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2006年2月24日 (金)

トラックバック雑記文・06年02月24日

 今回のトラックバック:加野瀬未友/安原宏美/本田由紀/木村剛/「アキバの王に俺はなる!」/「冬枯れの街」/大竹文雄/「ニート・ひきこもり・失業 ポータルネット」/小林美佐/保坂展人

 始めに、このブログの右の「参考サイト」に「ジェンダーフリーとは」と、「深夜のシマネコ」を、また「おすすめブログ」に「保坂展人のどこどこ日記」と「成城トランスカレッジ!」を追加しました。

 少々考えさせられる記事が。
 ARTIFACT@ハテナ系:[個人サイト]はあちゅう氏の発言にみる「ブロガーの病」(加野瀬未友氏:オタク文化研究家)
 自戒を込めてトラックバックしておきます。というのも、加野瀬氏の問題提起が、ネット上で文章を書いているものにとっては避けて通ることのできない問題だからです。

 加野瀬氏は、以前のエントリー([個人サイト][教育]美少女革命家はあちゅう)で触れたある文章(私も「はてなブックマーク」で呆れてみせましたが)における極めて世俗的な「憂国」的な物言いに関して、「発言したい欲望」という言葉を用いて以下のように表現しております。

はあちゅう氏の発言からは、「発言したい欲望」によって、ただ単に突き動かされ、私はよく知らないんだけど何か言わなといけない!という衝動にかられているのを感じる。これも「ブログ」という場所があるからこそ加速している訳で、「ブロガーの病」だろう。

 この文章を読んで、ジャーナリストの日垣隆氏の著書『使えるレファ本150選』(ちくま新書)の、カバーに書かれてある紹介文を思い出しました。

 メールやブログなど、今やだれも「書く」時代だ。せっかく書いても、それが事実に反していたり、何の新味もなかったりしたら、説得力を失うばかりか、大恥をかきかねない。

 文章を書く以上、少なくとも相手を説得するために様々な資料を用いたり、あるいは反論に耐えうるような論理を搾り出したりと、ある程度の努力はしないといけない。少なくとも、勝ち馬に乗るような言論は控えたほうがいいのかもしれません。そのためにも、まずは多くの本や雑誌やサイトを読み、様々な言説に触れたほうがいいのでしょう。私もまだまだ修行が足りません。

 もう一つ、加野瀬氏の文章で気になったところが。

興味深いのは、使っている言葉は「国民」とか「国家」とか大文字なのに、社会問題の発生をすべて個人の内面にしてしまうところだ。だから、その内面を変える方法として「教育」が出てくるのだろう。もちろん、教育も必要だが、雇用問題などはすべてすっとばされてしまう。

 これは私が現在やっている仕事と深く関わってくるのですが(あるテーマに関する共著の本。4月か5月ごろには出版予定?)、「国民」とか「国家」という(空疎な)大文字は、ある意味では自らを高みにおいて、相手をバッシングするための方便になりえているのではないか、ということを、主として保守論壇の若者論を読んで思うわけです。私は、単なる私憤を「国家」と結び付けて、(自分の理想としての)「国家」に同一化しないからお前たちみたいなバカになるんだ!などといった具合にバッシングしてしまう行為はできるだけ避けたい。また、俗流若者論は、私憤がそのまま国家論や社会論につながっている感じが強い。

 この点でもっとも繋がりが強いのはやはりこれか。
 女子リベ:少年犯罪には先進国中一番厳しい日本(安原宏美氏:フリー編集者)
 浜井浩一氏(龍谷大学教授。過去に犯罪白書の執筆経験あり)が行なった調査に関する安原氏の感想です。

 さらに少年犯罪が注目である。
 参加先進国中、少年犯罪には厳罰をもって処すべしという態度は、堂々の1位という結果である。
 ようするに、犯罪にあう確率は少ないのに、大げさで、とくに少年が罪を犯したら、「許さ~ん!」と過剰反応してしまう国となっているのである。
 浜井教授の分析についてはとても興味深いのが、そちらは本稿をあたっていただきたい。
 しかし少年になぜそこまで厳しいのかというと、やはり90年代後半からの「少年犯罪」大ブームが大きいだろう。こちらの考察分析については、わたしが編集として関わらせていただいた芹沢一也さんの「ホラーハウス社会」に詳しいのでぜひそちらを見ていただきたい。

 とりあえず、ここで採り上げられている芹沢一也氏(京都造形芸術大学非常勤講師)の最新刊『ホラーハウス社会』(講談社+α新書)は、芹沢氏の前著『狂気と犯罪』(講談社+α新書)とあわせて必読です。

 少年犯罪の「凶悪化」が云々されるようになってから、そのような議論の高まりに比例して少年犯罪は本当は凶悪化していないのではないか、という議論も生まれました(例えば、広田照幸「メディアと「青少年凶悪化」幻想」(平成12年8月24日付朝日新聞/広田『教育には何ができないか』(春秋社)に収録)、宮崎哲弥、藤井誠二『少年の「罪と罰」論』(春秋社)、パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』(イースト・プレス)、小笠原喜康『議論のウソ』(講談社現代新書)、など)。ただ、いまだにマスコミにおいては「少年犯罪凶悪化論」が大手を振っており、「少年犯罪凶悪化幻想論」は、マスコミではせいぜいエクスキューズ程度に使われるか、あるいは専門的な雑誌や論壇誌に掲載される程度。新書でもいくらか出ているが、それらの本がベストセラーになったという声は余り聞かない(せいぜい『反社会学講座』くらい?)。「凶悪化論」が今なお平然とまかり通っているのは、「少年は自分の世代(中高年世代)よりも凶悪であって欲しい」という世論があるからではないか、とうがった見方をしてしまいたくなる。

 浜井氏に関しては、『犯罪統計入門』(日本評論社)という本が出ているので、こちらもチェックしてみる必要がありそうです。

もじれの日々:若者バッシングに抗う本(本田由紀氏:東京大学助教授)
 本田氏が採り上げている、社会学者の浅野智彦氏らによる『検証・若者の変貌』(勁草書房)という本は、平成4年と平成14年に若年層に行なったアンケートから、昨今の若年層バッシング――例えば、礼儀を知らない、とか、携帯電話に依存することで関係性が希薄化しているとか――は本当に正しいのか、ということを検証した良書です。できるだけ多くの人に買って読んで欲しいのですが、いかんせん値段が高い(税込み2520円)。ただし、買っておいて、更に座右に置いておいて決して損のない本です。
 また、最近買った本に関しては、政策研究大学院大学教授の岡本薫氏の『日本を滅ぼす教育論議』(講談社現代新書)もお勧め。本書は、我が国における教育言説の海外との比較から、なぜわが国において「教育改革」が失敗したか、ということを検証した良書です。こちらは新書なので、値段も手頃(税込み756円)。

 更に、念願だった、赤塚行雄『青少年非行・犯罪史資料』全3巻(刊々堂出版社、1・2巻昭和57年、3巻昭和58年)もやっと手に入りました。問題は収納するスペースか…。
 とはいえ、今月の講談社現代新書の新刊で『他人を見下す若者たち』なる本が出ているからなぁ…。立ち読みでチェックした限りでは、とっとと浅野氏の本を読んで出直して来い、という代物だった。本格的にチェックしてみるか…。

 以前、ある人から、「このブログはテレビのことを採り上げない」と指摘されたことがありました。理由としては、私はテレビのニュースをあまり見ない、ということがあるのですが。

 週刊!木村剛:[ゴーログ]ニュースは作られているのか?(木村剛氏:エコノミスト)

 このエントリーを読んで、次のエントリーを思い出した。

 アキバの王に俺はなる!:子供、若者は大人の敵といったような番組を見て
 冬枯れの街:緊急大激論SP2006!“子供たちが危ない”って危ないのはあなたたちの妄想ですから!

 今月15日にTBS系列で放送された番組「緊急大激論SP2006!“子供たちが危ない”こんな日本に誰がした!?全国民に“喝”!! あなたは怒れますか?キレる子供…守れますか?こわれる子供」(つくづく長えタイトルだな)に関しては、上の2つのエントリーのほか、「2ちゃんねる」の大谷昭宏スレッド(私が2chで唯一覗いているスレッドで、現在は事実上オタクバッシング批判スレッド)と「DAIのゲーマーズルーム」を読んだのですが、いずれも評価は最悪だったなあ。私はとりあえずヴィデオに撮ってあるので、あまり乗り気ではないのですが、近いうちにチェックします。余りにひどいなら雑誌に抗議文を投稿するか。

 ただ、ジャーナリストの草薙厚子氏が、テレビで堂々と「ゲーム脳」を言った(らしい)ことにはやはり戦慄した。草薙氏に関しては、私の「子育て言説は「脅迫」であるべきなのか ~草薙厚子『子どもが壊れる家』が壊しているもの」をご参照あれ。

 新たなる問題発言登場…なのかな。

 大竹文雄のブログ:待ち組(大竹文雄氏:大阪大学教授)

 ニート・ひきこもり・失業 ポータルネット:待ち組?なんだそりゃ。
 ずいぶん前の話になってしまうのですが、小泉純一郎首相やら猪口邦子氏やらが「待ち組」なる変な言葉使ったことが批判されています。私は基本的に、大竹氏の以下の記述に賛成。

 でも、フリーターやニートの中には好んでそうなっている人もいるのも事実だが、大多数の人たちは、学校卒業時点の就職活動でうまく行かなかった人たちか、うまく行きそうにないとあきらめた人たちだ。あまりにも可能性が低かったり、何度も失敗が続くとやる気を失うのは自然ではないだろうか。就職氷河期に卒業した人たちは努力不足や挑戦しなかったというよりも、運が悪かったというべきだ。そういう人たちに「反省しろ」というのは酷ではないか。

 とりあえず、フリーターや若年無業者に対する、小泉首相や猪口氏の認識の甘さは批判されて然るべきでしょう。このような認識は、所詮はマスコミが面白がって取り上げたがるような、それこそ「働いたら負けかなと思ってる」(笑)に代表されるような「ベタ」な「ニート」像でしかないわけで。責任のある立場の人なのですから、もう少し勉強してください。

 オリンピック開催中ですが。
 ☆こばみ~だす~☆:☆おめでとう☆(小林美佐氏:声優)
 トリノ五輪で、日本勢の初めてのメダルとなったフィギュアスケートの荒川静香選手ですが、私の家で購読している読売新聞の宮城県版では、地方面で荒川氏の特集や荒川氏への応援メッセージが掲載されていたことがある。なぜなのか、と考えていたところ、どうやら荒川氏は東北高校の出身らしい。仙台のメディアが沸き立つのも無理はないか。

 この問題も見逃してはならない。
 保坂展人のどこどこ日記:共謀罪、ふたたび攻防が始まった(保坂展人氏:衆議院議員・社民党)

 今のところ我が国の政治は所謂「偽造メール」事件で紛糾中です。もちろんこの問題も悪くないのですが、共謀罪とか、少年法の改正とかにも、もう少し興味を持ってもいいのではないか、と思います。

 これからの予告ですが、少々忙しくて更新が停滞していたので、雑誌が大量にたまっております。そのため、「論座」平成18年3月号、「諸君!」平成18年3月号、「世界」平成18年3月号、「中央公論」平成18年2月号と3月号、「ユリイカ」平成18年2月号の「論壇私論」をこれから逐次公開していく予定です。

 最後に、平成18年2月24日付で「この「反若者論」がすごい!02・河北新報社説」に投稿されたコメントが、明らかに荒らしだったので削除しました。

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2006年2月 4日 (土)

トラックバック雑記文・06年02月04日

 今回のトラックバック:赤木智弘/木村剛/「ニート・ひきこもり・失業 ポータルネット」/渋井哲也/芹沢一也/「S氏の時事問題」/「ヤースのへんしん」/「読売新聞の社説はどうなの・・2」/保坂展人/「topics:JournalistCourse」

 過日、『「ニート」って言うな!』(光文社新書、本田由紀氏と内藤朝雄氏との共著)という本を出したわけですが、ネット上の各所で書評がなされています。ちなみにamazon.co.jpのカスタマーレヴューなどで見られる私の文章に対する批判で、「採り上げる記事や投書の数が少ない」というものがありましたが、週刊誌の記事に関しては、大宅壮一文庫の雑誌検索CD-ROM(宮城県図書館で使用)を使って検索したのですが、本文中で採り上げた「AERA」「読売ウィークリー」「サンデー毎日」「エコノミスト」「週刊ダイヤモンド」「プレジデント」以外はめぼしい記事はほとんどなかったのが理由です。他の雑誌は、大半が平成16年末の親殺し関連の記事でした。また、「AERA」「読売ウィークリー」「サンデー毎日」の3誌に関しては、特筆すべき明確な傾向(詳しくは本を参照して欲しい)が見られたので、重点的に採り上げた次第であります。

 投書に関しては、朝日しか調べられなかったことに関しても、不満に思った方もおられましょうが、これは基本的に私の力不足です。決して各種図書館が貧弱だったからではありません。この場を借りて謝罪します。

 さて、それらの書評の中でも、私が最も重く受け止めた書評がこちら。

 深夜のシマネコblog:「ニート」って言うな! 書評(赤木智弘氏)

 赤木氏は、本の内容は評価するものの、やり方がいけない、という書評をしています。

 そういう意味では後藤さんの試みはそうした人たちを叩くことに近いのですが、本や雑誌などのメディアから抜き出すということは、結局「メディアに言説を掲載できる人」という狭い範囲でしかなく、「ニートと言う言葉を利用する一般市民」を安全圏に批難させてしまっています。
 (略)
 で、この本の場合、タイトルが『「ニート」って言うな!』で、帯書きが「なぜこの誤った概念がかくも支配力を持つようになったのか」です。これではニートが増えていることを信じて疑わない人は、絶対に手に取りません。彼らはそもそもニートという響きに侮蔑的な快楽を覚えるような捻じれた性格の人たちですから、自分が傷つくような物には決して近づきません。
 若者卑下の大きな問題は、彼らをバッシングしたところで、バッシング側はなんら痛みを感じないという点です。
 そして、ニートと言う言葉を語る時に、それがさも他者によって「この人は差別をしている」ではなく、「教育のことを語っている」という受け取り方をされる点です。
 それをひっくり返すためには、「ニートと言うことに痛みを感じない人」や「ニートを教育論だと思いこんでいる人」に手に取ってもらえる本を作ることが必要です。そういう意味で『「ニート」って言うな!』は想定すべき読者を間違えています。

 若者報道を批判しているものとして、これは深刻に受け止めざるを得ない問題です。このような問いかけは、この文章の重要な部分を、例えば「ゲーム脳」「下流社会」に変えてみても、同種の問いかけとして成り立つと思います。

 一般に「ニート」やら「ゲーム脳」やら、あるいは「脳内汚染」やら「下流社会」やらという、俗流若者論にとって格好の概念は、その概念を嬉々として使う人にとっては、自分は差別や偏見を振りまいているのではなく、自分は「教育」を語っているのだ、ということなのでしょう。しかしそれらは一皮むけば教育論ではなく単なるラベリング、更に言えば差別だったり偏見だったりするわけです。また、それらを証明するような資料は、本当にたくさんあるわけです。特に「ゲーム脳」に関しては、学術的に見れば完全に腐りきった概念といっていいでしょう。

 しかし、そのようなことが証明されたとしても、いまだに「ゲーム脳」論は妖怪の如くはびこっています。たとい「ゲーム脳」を否定する資料が出揃ったとしても、「ゲーム脳」論を嬉々として受け入れる層には少しも伝わらない。もはや量ばかり増やしても仕方がないのでしょうか。路線転換が求められているのでしょうか。ここでは「ゲーム脳」の話を使いましたが、「ニート」論だってまた同じことです。

 さて、ライブドアの堀江貴文元社長逮捕に関していくつかネタを。

 週刊!木村剛:[木村 剛のコラム] 日本は罪刑法定主義ではない?(木村剛氏:エコノミスト)
 木村氏曰く、

 ところが、逮捕の根拠である第158条違反について詳細に解説した番組はなかった。「なぜ法律違反に当たるのか」について誰も触れることなく、「ホリエモンという男あるいはライブドアという集団が如何にケシカランか」という描写にほとんどが費やされていた。
 識者らしき人々も「そもそもライブドアはマネーゲームだった」とか「ホリエモンのビジネスは虚業だ」などと自分勝手な感想を披露するだけで、事件の真相を追及しようとしない。
 具体的な犯罪内容が語られることなく、ライブドアという会社が一方的に叩かれていく。ホリエモンはいつから有罪が確定したのだろう。罪が確定するまでは「推定無罪」だと習ったような気がするが、一部の良心的な識者(「もし報道が事実ならば」という前置きをしていた)を除き、その他の出演者はホリエモンを犯罪者扱いしていた。
 この事件を語りたいなら、罪状を確定する必要がある。日本が法治国家であり、罪刑法定主義をとっているのであれば、罪状が確定できないのに、「ケシカラン罪」で犯人に仕立て上げてはならない。それが基本的人権の基本。実際、法律というものは、為政者から人々を護るために発展してきた。
 日本では、近代の智恵である「罪を憎んで人を憎まず」とか「疑わしきは罰せず」という法理が通用しないのだろうか。「人を憎んで罪を問わず」「疑わしきは叩きまくる」という現実を見ていると、中世の魔女狩りが思い起こされる。

 現在発売中の「諸君!」平成18年3月号においても、評論家の西尾幹二氏が、《ホリエモンは決して誉められるべき人物ではないが、しかし人間としてどんなに拙劣でも、人権は守られなければならない。/私は捜査が始まってから数日間、何でもかんでもライブドアを潰そうとする目に見えない大きな意思が働いているように思えて、薄気味が悪くてならなかった》(西尾幹二「誰がライブドアに石を投げられるのか」)と書いていますが、基本的にマスコミというものはある対象物が何らかの「お墨付き」を得て「叩いていい」代物になったら、急激にバッシングに走るのが常です。成人式報道を研究してきた私にはそれが痛いほどわかります。

 多くの人は報道によってしか遠隔の事象を取り扱うことはできない。従って日常的に接している報道が、そのまま受け手の現実感覚になってしまいやすい(ウォルター・リップマンの『世論』(岩波文庫)あたりが参考になります)。そして、人々の現実感覚を支配する「報道」が、果たして人々を間違った方向に誘導してはいないか。事実とは異なるのに、例えば青少年とオタクだけが凶悪化しているという報道を繰り返し、事実とは異なるステレオタイプを青少年とオタクに向けてはいないか。

 あと、堀江容疑者逮捕報道で気になるのが、「「ホリエモン」は若い世代から圧倒的な支持を受けている」というもの。私は堀江氏は余り好きではないのですが、なぜこのような報道が成されてしまうのか。そのようなことを分析したブログもいくつかありました。

 kajougenron : hiroki azuma blog:ライブドアとオウム?2(東