2005年12月 4日 (日)

トラックバック雑記文・05年12月04日

 今回のトラックバック:「えのき」/古鳥羽護/克森淳/赤木智弘/保坂展人/「目に映る21世紀」/「性犯罪報道と『オタク叩き』検証」/本田由紀/「海邦高校鴻巣分校」/「ヤースのへんしん」/栗山光司/木村剛

 先日(平成17年12月2日)、平成18年仙台市成人式実行委員会の最後の会議が開かれたのですが…

 えのき:来年の成人式に注目
 なんと平成17年仙台市成人式実行委員会の人が来てくれたのですよ。このエントリーの書き手もその一人です。来てくれた人は、伊藤洋介・平成17年仙台市成人式実行委員会委員長他5名(1人は会議開始前に帰宅し、会議中にもう1人帰ってしまいましたが)。あー、ちなみに文中の《ごっと》とは俺のことだ。リンク貼ってくれよ(嘘)。

 それにしても世間は狭いもので、今年2月に書いた「私の体験的成人式論」で採り上げた、平成17年の成人式の第2部における、私がチーフだったブースのスタッフの内、小学校の教師と当日スタッフ1人が今回の実行委員になってしまっている(笑)。

 閑話休題、このエントリーでも書かれているのですが、平成17年仙台市成人式実行委員会は、組織としては消えておりますけれども、実行委員(「元実行委員」かな?)の繋がりはいまだに途絶えていない。今年6月の頭ごろにも飲み会を行ないました(そこで元気をもらって一気に執筆したのが「壊れる日本人と差別する柳田邦男」だったりする)。私は最初は実行委員会に参加することで成人式報道が隠蔽している部分を見てやろう、と思って実行委員会に殴りこんだのですが、終わってみると様々な出会いを経験できたり、先日の会議でもいろいろと近況を話すことができたりと、得られたものは大きかった。

 昨今の「コミュニケーション能力」だとか「人間力」だとか重視みたいな風潮とか(このような風潮に対する理論的な批判は、本田由紀『多元化する「能力」と日本社会』(NTT出版)を是非!)「コミュニケーション能力が低いと「下流」になるぞ!」みたいなレイシズムとかは嫌いなのですが、やっぱり人間関係の重要さは否定し得ない。

 さて、また幼い子供が被害者となる残酷な事件が起こってしまいました。被害者の方のご冥福をお祈りします。しかし…

 フィギュア萌え族(仮)犯行説問題ブログ版:勝谷誠彦氏、広島小1女児殺害事件の犯人が「子供をフィギュアの様に扱っている」と発言。(古鳥羽護氏)
 走れ小心者 in Disguise!:素人探偵になりたくないのに…(克森淳氏)

 私が事件の犯人と同様に腹が立つのは、事件にかこつけて好き勝手プロファイリングを行っている自称「識者」たちです。現在発売中の「週刊文春」によると、上智大学名誉教授の福島章氏によれば、岡山の事件の犯人は犯人は幼い頃から暴力的表現に慣れ親しんできた若い世代だそうで(福島氏については「俗流若者論ケースファイル」の第3回第32回も参照されたし)。そして実際につかまってみればそれとはかなり違う人物像だったし、もしかしたら冤罪の可能性もあるかもしれない。

 元来プロファイリングとは、この分野の第一人者である社会安全研究財団研究主幹の渡辺昭一氏によれば、行動科学によって《蓄積された知見に基づいて、犯罪捜査に活用可能な形で情報を提供しようとする》(渡辺昭一『犯罪者プロファイリング』角川Oneテーマ21、39ページ)ことを指すそうです。更にこの手法は《事件を解決したり、容疑者のリストを提示したりするわけでは》なく、《確率論的に可能性の高い犯人像を示すもので、捜査を効率的に進めるための捜査支援ツールの一つ》(前掲書、40ページ)に過ぎないそうです。しかしマスコミ上で行なわれる「プロファイリング」は、結局のところ自分の主義主張に合わない人をバッシングするための方便にすぎない。ついでに、これは渡辺氏の著書の19ページ周辺にも述べられていますが、暴力的な映像の視聴が直接的に暴力的な行動につながる、ということは証明されていませんからね(宮台真司『宮台真司interviews』世界書院、も参照されたし)。

 古鳥羽護氏のエントリーによれば、今度は勝谷誠彦氏が「フィギュア萌え族」的な発言をしたそうです。この手の犯罪が起こるたびに、マスコミは犯人像を「不気味な存在」とか「モンスター」だとか、あるいは事件を「現代社会の歪み」だとか捉えたがりますが、私が見る限り、ここ最近2件の殺人・死体遺棄事件、及び昨年末の女子児童誘拐殺人事件は、かなり典型的な誘拐殺人であるように思えます。もちろんこのような推理も私の勝手な「プロファイリング」には違いないのですが、少なくとも事件に対して「不気味」「不可解」だとか唱和するのではなく、典型的な事件とどこが違うのか証明してくれませんか?事件が大筋で典型的なものであるとわかれば、それらの事件の傾向を分析し、目撃証言と照合すれば、おそらく1週間くらいで犯人はつかまるのではないかと思います。

 少なくとも少女に限らず子供が誘拐される事件は昔からあったでしょうし、今の事件(誘拐に限らず!)だけが「不可解」というわけでもないでしょう。

 そう考えてみますと、「安心」を壊しているのはマスコミなのかもしれません。12月3日付読売新聞の社会面の見出しが「また幼女が被害者に」みたいなものでしたけれども、このような見出しにすることによって、「幼女しか性的対象にできない歪んだ男が増えている」みたいな世論を造りたいのではないか、と考えるのはうがち過ぎか。

 深夜のシマネコBlog:高木浩光@自宅の日記より、まず神話を作り、次に神話は崩壊した!と叫ぶマスコミ(赤木智弘氏)

 少年及び若年層による凶悪犯罪に関して言えば、我が国ではいまだに安全(少年による凶悪事件に遭遇しないという意味での「安全」)は保たれているといえます。しかしマスコミでは「少年犯罪が凶悪化している」という唱和ばかり。そもそもそのような扇動に走るマスコミは、現在のことばかりに終始して、過去にどれほど犯罪などが起こっていたかということは見ていない。ある意味、「カーニヴァル化する社会」(鈴木謙介氏)という言葉は、むしろ昨今のマスコミにも言えるのかもしれない。

 もう一つ、このような事件に対する報道は、ある意味では「子供の自由」という問題もかなりはらんでいるように見えます。

 深夜のシマネコBlog:児童虐待を本当に根絶するために。(赤木智弘氏)
 最近では保坂展人氏(衆議院議員・社民党)すら《もっとも具体的な方法は、子どもをひとりで、ないし子どもだけで登下校させないことだ。たとえ社会的コストがつきまとっても実現すべきなのかもしれない》(保坂展人のどこどこ日記:格差社会と子どもの「安全」)と言ってしまっていますが、殺人という特殊な危機のために、子供の行動を全般的に制限する必要はあるのでしょうか。

 まず、すなわち子供は一人でいると危険だから常に親が付き合うべきだ、みたいな論理が許されるのであれば、危険は何も登下校中のみに潜んでいるわけではないでしょう。その点から言えば、例えば子供が一人で友達の家に遊びに行く際も親が付き添っていなければならない、ということになりますが、それは子供にとって、あるいは親にとってプラスといえるかどうか。また、子供が常に親の監視下におかれることによって、例えば子供がどこかに寄り道したりとかいった体験を殺してしまうことにはならないか。

 ただし犯罪を防ぐための施策として、公共的な場所や街路の監視性・透明性を高めておく必要はあると思います。例えば私が東京に行って、ある住宅地を歩いたときの話ですが、その住宅地の近くには活気のある商店街があり、そこはなかなか味があってよかったのですが、商店街や大きな道路から少しでも外れると街灯が少なく、更にかなり塀に囲まれて見通しの悪い場所で、もしかしたら誰かに刺されるかもしれないと思っていました。誘拐事件の多くも路上が現場となっているようですので、路上の監視性を高めておく、という施策はやるべきでしょう。

 ついでに、保坂氏のエントリーでは、タイトルが「格差社会と子どもの「安全」」であるにもかかわらず肝心の「格差社会」については最後のほうでエクスキューズ程度に触れられているだけです。しかし「格差社会」論から犯罪予防のヒントを探るとすれば、様々な社会的階層の人が社会的に排除されているという感覚をコミュニティによってなくしていく、ということが挙げられるでしょう。そのためには、不安ではなく信頼をベースにした多くの人が参加できるコミュニティの形成、あるいは社会的に排除されている(と感じている)人とかあるいは特定の社会階層の人が帰属意識を持つことのできる副次的なコミュニティの形成が必要となります。

 ちなみに皇學館大学助教授の森真一氏の著書『日本はなぜ諍いの多い国になったのか』(中公新書ラクレ)の最終章の最後のほうで、農漁村にかつて存在していた「若者組」だとか「若者宿」みたいな若年層のコミュニティに入っていた人が散々非行をしても、いざコミュニティを脱退するとすっかり非行をやめてしまい、消防団長や懲戒議員などにやって若年層の非行に眉をひそめるようになる、ということが紹介されています。森氏は、このことについて《かつての地域社会や年長者は「限度ギリギリまで、社会的なルールを無視する行為を若者たちに許す場を提供」しました。他方、現代の年長者はそのような時代が存在したことを忘れ、「社会的なルールを無視する」若者の行動を、予定調和を乱す「リスク」「コスト」としか見なさなくなったのです》(森真一『日本はなぜ諍いの多い国になったのか』中公新書ラクレ、233ページ)と分析しておりますが、この話は、「セキュリティ・タウン」的な、あるいは「ゼロ・トレランス」的な風潮が強まる我が国の状況において批判的な視座を投げかけるかもしれません。

 話は変わって、最近の「「萌え」ブーム」なるものに関する話題ですが…

 目に映る21世紀:【キールとトーク】おたく男・女/恋愛資本主義/『下流社会』/見えない消費と、余裕のある僕ら(←「下流社会」論に関して真っ当な批判あり)
 性犯罪報道と『オタク叩き』検証:11月1日『ザ・ワイド』・リベラが「遭遇した」コスプレダンサー、『電車男』にも登場

 私は正直言って最近の「「萌え」ブーム」なるものがあまり好きではありません。基本的に「オタク文化」的なものは認めますが、それでも昨今のブームには疑問を持たざるを得ない。

 疑問点その1。「萌え関連企業が急上昇!」みたいなことを言う人が多すぎますけれども、所詮そのようなことは他の業種の売上が下がって、相対的にオタク産業が浮上してきたとしかいえない。従って「急上昇」みたいな言い方はあまり好ましくないように思える。
 疑問点その2。「目に映る21世紀」における《うぜえ・・・。結局、今回の萌えバブルやらオタクブームって差別の再生産をしただけにしか感じられん》というくだりについて、これに激しく同意。私はテレビにおいて何度か「オタク」が採り上げられた番組を見たことがありますが、それらの番組はことごとく「遠まわしな差別感」に彩られていた感触があった(例えば、平成17年11月24日のTBS系列「うたばん」)。そもそも「オタク」=「電車男」みたいな傾向も強い。「電車男」については私は本も読んでいないし映画もドラマも見ていないけれども。これを強く認識したのは「トリビアの泉」(平成17年8月24日)だったかな。人助けを笑いものにする、というのは、まさしく検証対象が「オタク」でなかったらできなかったと思う。

 現在のマスコミにおいて、冷静に「オタク」を採り上げることのできるのは、朝日新聞社の「AERA」編集部の福井洋平氏と有吉由香氏くらいしかいないのではないかというのが私見です。福井氏は「AERA」平成16年12月13日号で「アキハバラ 萌えるバザール」という記事を書いている。有吉氏は同誌平成17年6月20日号で、ライターの杉浦由美子氏と共に「萌える女オタク」という記事を書いています。それらの記事はあまり「オタク」を見下した態度をとらず、筆致は熱がこもっているけれども冷静さも保っている。他方で「AERA」は「独身女に教える男の萌えポイント」(伊東武彦、平成17年8月29日号)とか「負け犬女性に贈る「ツンデレ」指南」(内山洋紀、福井洋平、平成17年10月17日号)みたいな記事も書いているからなあ…。しかし「AERA」の「オタク」報道が他の週刊誌とはかなり一線を画しているのも確か(「読売ウィークリー」に至っては、副編集長自ら「「オタク」は絶望的な男」と言っているし)。そのうち、体系的に評価してみる必要があるでしょう(とりあえず記事はそろえてあります)。

 「人間力」という名の勘違い、まだまだ続く。

 もじれの日々:独り言(本田由紀氏:東京大学助教授)
 海邦高校鴻巣分校:「人間力運動」は即刻解散せよ

 「若者の人間力を高めるための国民運動」が「応援メッセージ」を発表しました。「海邦高校鴻巣分校」はこれらの「メッセージ」について、建築評論家の渡辺豊和氏の言葉を引いて「平凡な学生の課題案よりひどい」と述べておりますが、私はこれ以上の内容は期待していなかったので、おおよそ期待通りのものが出てきた、というのが正直な感想です。
 しかし山田昌弘氏(東京学芸大学教授)の「メッセージ」には注意を喚起しておきたい。

 今後社会が不安定化していくのでそのなかでも上手く立ち回れるような能力をつけて欲しいことと、自分のことを評価してくれるようなネットワーク、人間関係を大切にして欲しいですね。

 要するに組織に波風を立てずに従順に生きていけ、ということですか?このような言説は、前出の森真一氏が著書『自己コントロールの檻』(講談社選書メチエ)でつとに批判していることですが、社会が流動化し、職場や組織の往来が活発になると、個人には慣れ親しんだ会社や組織に対する思い入れを排除し、新しい職場環境に適切に移動する能力が求められるようになる、という傾向に、山田氏も組していることになる。

 本田由紀氏も、最初のほうで採り上げた『多元化する「能力」と日本社会』という著書において、昨今の「人間力」重視的な風潮を批判しており、「コミュニケーション能力」とか、あるいはそれこそ「人間力」みたいな《「ポスト近代型能力」の重要化とは、個々人の人格全体が社会に動員されるようになることに等し》く、そのような能力を要求する社会(本田氏言うところの「ハイパー・メリトクラシー」)の下では《個々人の何もかもをむき出しにしようとする視線が社会に充満することになる》(以上、本田由紀『多元化する「能力」と日本社会』NTT出版、248ページ)。このような「人間力」重視の社会背景を注視するために、森氏と本田氏の議論は必見でしょう。

 

ヤースのへんしん:耐震対策は早急に!
 「姉歯」叩きの裏で、あまり注目されていないのが公共施設の吊り天井。平成17年12月1日付の読売新聞宮城県版によれば、地震発生時に崩落する怖れのある吊り天井の数はなんと4996。ちなみにこのことは地方面でしか報じられていない。こういうことこそ、もっと追求すべきではないかと思うのですが。

 このことに着目させたのが、平成17年8月16日で起きた宮城県沖地震でした(しかし「本命」の宮城県沖地震ではないことがわかりましたが。「本命」の30年以内に来る確立はいまだに99%)。もとよりこの地震で天井が崩落した施設「スポパーク松森」の屋根がアーチ状だったため、左右の揺れが増幅されて吊り天井が崩落した、ということが明らかになっています(東北大学工学部の源栄正人教授らによる)。ですからアーチ状の建物にも注意を向けるべきでしょう。ただ昨今の「姉歯」叩きを見ている限り、この問題が建物の耐震設計全般の問題に波及することもなければ、建築基準法改正前に建てられた建物及び既存の耐震不適格の建物の耐震補強の問題、及び本当に完全にスクラップ・アンド・ビルドでいいのか、耐震補強ではなぜ駄目なのか、という問題に波及することもないかもしれない。

千人印の歩行器:[読書編]しみじみ「内在系」、メンヘラーって?(栗山光司氏)
 このエントリーでは、共に社会学者の宮台真司氏と北田暁大氏の共著『限界の思考』が採り上げられていますけれども、宮台氏ももちろんですが、北田氏をはじめ、最近の若手論客にも注目すべき人は多い。

 さて、「論座」平成18年1月号の特集は「30代の論客たち」だそうです。執筆者のラインナップを見ても、渋谷望氏、牧原出氏、芹沢一也氏など、かなり期待できるメンバーがそろっております。「論座」は平成15年7月号から毎号購読しているのですが、編集長が薬師寺克行氏に代わってからは面白い特集がますます増えています(平成17年4月号「日本の言論」、6月号「憲法改正」、7月号「リベラルの責任」、10月号「進化するテレビ」など)。

 特に面白そうなのが、宮台真司、佐藤俊樹、北田暁大、鈴木謙介の4氏による対談。ここまですごいメンバーを集められるのもすごい。読み応えがありそうです。

週刊!木村剛:[ゴーログ]ばーちゃんが株を買い、親父がブログる?!(木村剛氏:エコノミスト)

 身内がブログをやっている、ということはないなあ。少なくとも私の家族の中で本格的にブログをやっているのは私だけですが、その理由も所詮は自分の文章を発表する場所を作りたい、という理由にすぎない。

 でも、知っている人がブログをやっていたり、あるいは始めて本格的に話す人に「ブログを見た」と言われると、少々戸惑ってしまうことがありますが。

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2005年7月 8日 (金)

俗流若者論ケースファイル34・石原慎太郎&養老孟司

 ゲーム規制を推し進めている神奈川県の松沢成文知事が、自身のブログでゲーム規制に対する反対論への再反論を掲載した。しかしその文章は、結局のところ私が「俗流若者論ケースファイル12・松沢成文」で批判したものとなんら変わらず、結局のところコメント欄は「まだ疑問だ」「答えになっていない」といったものが多数書かれていた。

 詳しい検証は避けるが、松沢氏のみならずゲーム規制論者の思考を突き詰めれば、それは「俺が有害だと言っているから有害なんだ」というトートロジー(同語反復)になる。このような論理を振りかざす人たちに「それはトートロジーだ」と指摘するのは簡単だし、またそれがもっとも正しい態度なのだが、しかしトートロジーを平然と振りかざすようになっている人たちには、いくら論理的に説明しても聞いてもらえないケースが多い。そして現在、そのようなトートロジーを持った人たちが政治を牛耳り、無意味どころか有害なメディア規制に走っている、というのが現状である。

 また、トートロジーは脳科学を犯し、脳科学を疑似科学として再構築するのにも役立っている。典型的なのは曲学阿世の徒・日本大学教授の森昭雄氏であろうし、また同じく曲学阿世の徒・京都大学教授の正高信男氏も擬似脳科学に陥りつつあるのであるが(詳しくは「正高信男という頽廃」参照)、彼らがいかに「科学」を偽装しようとも、結局のところは推測の積み重ねであり、脳機能の欠陥が社会性を奪う、ということは証明されていない。というよりも、現に脳に障害を抱えている人も、福祉工学の発達によって人並みの生活を送れるようになっており、脳機能の欠陥により社会性が失われる、というのは脳機能障害者に対する差別に他ならない。まあ、擬似脳科学の徒には、このようなことを考えることもないのだろうが。

 なぜ私がこのような物言いをするのか。

 それは、ついにトートロジーにより強大な権力を振りかざす人と、擬似脳科学の最悪の結婚を見てしまったからである。

 それが、「文藝春秋」平成17年8月号に掲載された、東京都知事の石原慎太郎氏と、北里大学教授の養老孟司氏による対談「子供は脳からおかしくなった」だ。

 先に言っておくが、私は養老氏の『涼しい脳味噌』『毒にも薬にもなる話』『「都市主義」の限界』などの本はよく読んできた。ただ『バカの壁』などの最近の本は何となく忌避してきた。それでも、私が定期購読している「中央公論」の文章で養老氏のエッセイを楽しんできたが、石原氏とのこの対談を読んでみた限り、養老氏は一体どうしたのだろう、と思った。以前からも、養老氏が若年層について書いている文章の内容には少々疑問を持ってきたが、この対談における養老氏の発言は私が抱いてきたその疑問の集大成であった。

 そして石原氏。私は、この3ヶ月前に発売された「文藝春秋」平成17年5月号の文章を検証したけれども(「俗流若者論ケースファイル11・石原慎太郎」を参照されたし)、この座談会における石原氏の発言は、5月号の文章から少しも改善されていない。

 前置きが長くなってしまったので、ここから、話の流れに沿って検証を行なうことにしよう。養老氏は130ページにおいて、《このところ、子供たちの描く絵の多くが「下手なマンガ」のようになっていた、中には絵が描けない子供も出てきているそうです》(石原慎太郎、養老孟司[2005]、以下、断りがないなら同様)ということを紹介しており(おそらく作家の藤原智美氏の本を読んだのだと思う。藤原氏の立論の問題点については「俗流若者論ケースファイル17・藤原智美」を参照されたし)、なぜそのような事態が生じてしまったのか、ということについて、養老氏は131ページにおいて自閉症の子供が疾走する馬を素晴らしくデッサンしていたが、いざ自閉症が治ると《今そこにある馬を感覚的に捉える、という、彼女がかつてもっていた豊かな世界がとたんに痩せてしまった》ことを紹介している。まず笑えるのは、その直後における石原氏の発言だ。曰く、

 石原 象徴的な話ですね。ということは今大方の子供たちも、感覚的な世界が痩せて、絵が描けなくなっている可能性は十分にありますね。それはやはりテレビなどの影響、ということになるのかな。

 《感覚的な世界が痩せて》いるのは石原氏のほうであろう。養老氏の提示した実例から《今大方の子供たちも、感覚的な世界が痩せて、絵が描けなくなっている可能性は十分にありますね》と言ってしまうのは飛躍というものである。石原氏は、今の子供たちをみんな自閉症の状態にしろ、とでも言ってしまうのだろうか。まさかそのようなことは言わないだろうが、冒頭で養老氏の提示した事例がどこまで広がりを持っているのか、そして過去はどうだったのか、ということについての検証が必要だと思うのだが。

 そして、やはり来たか、メディア悪影響論。《やはりテレビなどの影響、ということになるのかな》など、勝手に「犯人」を決め付けないでいただきたいものだ。ところがそれを受けたよう労使は、そのような石原氏の発言を諌めるどころか、むしろ肯定してしまうのである。あなたは本当に科学者なのか。

 曰く、

 養老 そうですね。よく最近はバーチャル・リアリティーなんていわれますが、テレビの中のことと、現実に起こることは違いますよね。ところが今の子供たちはそれが混乱してしまっているんです。たとえば子供が険しい道を歩いていて、崖から落ちそうになれば普通「危ないよ」と声をかける。でも、それがテレビの映像であれば、崖から落ちる設定になっていれば声をかけようがかけまいが子供は落ちる。だからどんなに深刻な映像であっても、感情移入することなく淡々と見ることができるようになります。それどころか、実際の現実世界もまるでテレビの中の出来事であるかのように捉え、「現実に対して自分は以下に無力か」とシラケきってしまう。そういう乖離が子供の頃から起きているんです。

 と。かつて養老氏は、同様の論理を過去の著書で述べていたが(養老孟司[2002]159ページ)、私はそれを読んだときそんなわけないだろう、と苦笑したけれども、まさか今でもそのような考えを持っているとは思わなかった。

 まず《たとえば子供が険しい道を歩いていて、崖から落ちそうになれば普通「危ないよ」と声をかける。でも、それがテレビの映像であれば、崖から落ちる設定になっていれば声をかけようがかけまいが子供は落ちる。だからどんなに深刻な映像であっても、感情移入することなく淡々と見ることができるようになります》というのはどこで聞いた話なのだろうか。それとも養老氏の捏造か?また、《どんなに深刻な映像であっても、感情移入することなく淡々と見ることができるようになります》と養老氏は述べているけれども、あなたも科学者であればそのようなことを照明するデータの提示が必要だろう。ここまで無理のあるアナロジーに依拠するなど、森昭雄・正高信男並みの疑似科学者の行為である。文学者である石原氏は、そのような養老氏の無理のあるアナロジーを諌めるべきだろうが、案の定石原氏は賛同してしまう。この2人の蜜月は、最初2ページからすさまじい。

 この2ページで最も笑えるのはこの箇所であろう。

 養老 ……宮崎駿さんが、『千と千尋の神隠し』を三十回観ました、という手紙を受け取ってぞっとした、という話があって(笑)。

 石原 確かにぞっとするなあ、それは(笑)。反復可能な映像は、反復すればするほど単純に記号化されていくわけだから。そんな情報ばかりが氾濫する社会の中で、何がリアルで何がバーチャルなのか、未熟な人間である子供が一人で識別できるはずがない。

 笑いを取りたいのだろうか。特に石原氏。同じ映画を三十回も観たと聞いて、むしろぞっとしない人のほうが少ないと思うけれども。それに、《そんな情報ばかりが氾濫する社会の中で、何がリアルで何がバーチャルなのか、未熟な人間である子供が一人で識別できるはずがない》などと、勝手に決め付けないでいただきたいものだ。

 そもそもバーチャルとリアルの境界を厳密に決めることは可能なのだろうか。少し極論すれば、リアルはバーチャルによってしか成立し得ない。なぜなら、我々の見ているものそれ自体が、バーチャルであるからだ。というのも、我々の見ているものは、所詮はリアルの一部に過ぎないわけで、それ以外の世界は「推測」によってしか成立し得ない。それに、《反復可能な映像は、反復すればするほど単純に記号化されていくわけだから》などという言葉は、まずマスコミに言うべき言葉であろう。

 石原氏が132ページで採り上げている赤枝恒雄氏の例に関しては、前回検証したのでここでは触れない。しかし、132ページにおいては、養老氏の側に問題のある発言を見つけた。

 養老 ……親子関係、母子関係なんて、ヒトの脳がこんな風に発達するはるか以前、それこそ「理解」のはるか以前から成立しているんですよ。むしろ脳が関係を邪魔しているんです。昔の人はそうした「理解」以前の「実体」への信頼感があったから、「以心伝心」といっていたし、「人間てこういうものだろう」という事の順序みたいなものが長年の知恵で頭の中に入っていましたからね。そういう知恵がもはや親子間で共有できなくなってしまったところに、ちゃんとした親子関係ができるはずもありませんよ。

 《「理解」以前の「実体」》とか、《ちゃんとした親子関係》とは、一体何を指すのだろうか。結局のところ、養老氏と石原氏は、過去では親子関係が成立していたが、現在は成立していない、という共同幻想に浸っているだけだろう。なぜ私がこのように言うのかというと、同じページで石原氏が提示していた2つの事例が、それが典型的なものなのか極端なものなのかを例示しないまま、石原氏の提示した事例を典型的な現代の事例として扱っているからである。そして、過去の家族にも問題があったか、ということについては、一切触れずじまい。

 133ページでは、成人式論の研究家として怒らねばならぬ発言が石原・養老の両氏から発せられた。

 石原 ……精神科医の斎藤環さんが……日本人を分析してみて、「日本人の本当の成人は三十歳だ」ということになったそうです。確かに成人式が荒れていて、混乱が起こるから親の同伴が必要だ、なんてことになってるわけですから。

 養老 もっと遅くて、四十代でいいんじゃないかな。僕は三十代はじめにオーストラリアに留学したんですが、そのときに向こうの二十代半ばの人間と話していてちょうどよかったんです。しみじみ感じましたね。オーストラリアでさえそうなんだから、個々人の成熟は向こうの社会の方がはるかに早い。

 石原 ということは、二十代、三十代のまだまだ未熟な親に育てられている今の子供たちがおかしくなるのも、無理のない話ですな。

 もういい加減にしてもらいたい。石原氏よ、養老氏よ、ここは酒場ではないのである。養老氏は個人の成熟は早いほうがいい、と考えているのかもしれないが、石原氏が引き合いに出している斎藤環氏は、個人の成熟と社会の成熟は反比例する、という趣旨のことを述べているから(斎藤環[2005])、個人の成熟の速さが社会の質の良さを示すのか、といえばまんざらでもないのである。

 しかし、養老氏よりも問題があるのは石原氏だ。石原氏、ここ数年で加速度的にひどくなった成人式報道をそのまま真に受けているのだから救いようがない。何がひどくなったかというと、マスコミはみんな俗流若者論、若年層バッシングのために成人式を「政治利用」するようになった。私は平成17年仙台市成人式実行委員会で吹く実行委員長をしていたからわかるのであるが、我々の苦労、及び他の自治体における裏方の苦労はほとんど報道されない(かろうじてNHKで岩手県水沢市のが報道されたくらいだろう)。しかもマスコミが大好きな「荒れる成人式」がそのまま我が国の20歳の人たちが成熟していない証左として取り上げる、ということに関してはもはや莫迦莫迦しくて検証する気もないのだけれども、ただ一つだけいえることは、一部で怒っている単なる莫迦騒ぎをさも国家的・社会的な大事のように捉えるマスコミも、「今時の若者」という虚像に脅えて成人式を家族同伴にするという大愚作をしでかしてしまう自治体も、結局のところ単なる事なかれ主義者、ということだ。

 133ページから134ページにおける石原氏の発言。

 石原 ティーンエイジャーの娘をもつ親たちは、子供に携帯電話をもたせていると、たとえ子供が菅家で援助交際なんかをしていても、親子の心が通っている、つながっていると思い込もうとする。実際は互いにケータイを操作してなれ合っているだけでしょう。そんな関係、昔はありえなかった。つまり親子の関係での本質が欠落してしまっている。

 これもまた石原氏の思い込みに過ぎない。《そんな関係、昔はありえなかった》など、当たり前ではないか、昔は携帯電話など存在しなかったのだから。けれども、携帯電話の普及について、アプローチとして自然なのは、まず昔からある一定の感情があり、それが携帯電話にマッチしたから広まったとかそのようなところから入ることだと思うのだが、石原氏は最初から「昔の親子は正常で、現代の親子は異常だ」という幻想に浸っているから、現代の親子を罵ることしかできなくなってしまっているのだろう。

 さて、134ページから135ページであるが、ここで擬似脳化学が出てくる。といっても、マスコミが大好きな「キレる子供」は前頭葉が異常である、というもう聞き飽きたものなのだけれども。しかも前頭葉の以上は戦後教育が原因だ、といってしまう始末。まあ、この2人の蜜月からこのような暴論が生まれるのは、十分に想定しうるものなのだけれども。ここもあまりにも莫迦莫迦しいのでもう検証しない。そして135ページ下段において、また出てきた、脳幹が。まあ、この人にとって脳幹は国家(=石原氏の幻想としての「国家」)のメタファーなのだから仕方ないのだけれども。

 また、石原氏は、137ページでまた問題の大きい発言を行なっている。

 石原 ……最近の集団自殺というのは、インターネットなどで知り合った同士が集まって、互いに名乗りもせずに、ただ黙々と死んでいく。その間にセックスがあるわけでもない。一人で死ぬより数人で死んだほうが寂しくないということなのか。彼らは人とのつながり方において、大きな問題を抱えている。つまり、インポテンツだった、と考えるしかないのかもしれない。

 まったく、石原氏にとっては、現代の青少年は本質(=石原氏の幻想としての「本質」)が欠落した存在、「本質」を持ったものにより統制されるべき存在、としてしか捉えられていないのだから、このような暴言を吐けるのだろう。まず、我が国において、青少年の自殺よりもむしろ中高年の自殺のほうが多い。また、石原氏はインターネットによる集団自殺を、単に青少年の精神の問題として考えているけれども、実際には死にたい想いを抱えていても死に切れない人も多くいる。さらに、これは斎藤環氏の指摘なのだけれども、このような事態は韓国やアメリカでも起こっている(斎藤環[2005])。

 問題があるのは養老氏も同様だ。養老氏は、138ページにおいてこのように発言している。養老氏の発言だ、というキャプションがなければ正高信男の発言と見間違うところだった。

 養老 ……そこで、携帯電話依存の問題です。ケータイならば、ミラーニューロンが働きにくい。相手の視覚的な印象はないんですから。メールでのやり取りなら音声もないわけで、言葉以外の情報を一切シャットアウトできる。これは弱い自我を守るための貴重な方法なのではないか。だから若者が、面と向かって話をするよりケータイでコミュニケーションする方が、ずっと居心地がいい、というのも分かるような気がするんです。

 そんなに《ミラーニューロン》は重要なのだろうか。いや、少なくとも脳構造の解明にとっては重要なのは間違いないのだろうが、だからといってメールはミラーニューロンを働かせない、とか、だから弱い自我を守るだけの貴重な方法だとか、この論理には飛躍が多い。

 ついでにミラーニューロンの(本当の)意味について解説する。この対談では当てにならないので、薬学博士の池谷裕二氏の説明を引用すると、《自分であろうと、他人であろうと関係なく、ある〈しぐさ〉に対して反応する神経》だとか、《「2」という数字に反応する神経が見つかった。つまり、リンゴが2個ある、サルが2匹いる、何でもいい。とにかく「2」というものが目の前にあったときに反応する神経》(共に、池谷裕二[2004])と説明されている。とはいっても、池谷氏も言うとおり、これはサルでその存在が確認されたことだし、ミラーニューロンに関しても脳科学はまだ断片的なことしか分かっていないので、ましてやメールはミラーニューロンを発達させないだとか、ミラーニューロンを使わないから若年層にとっては快感になるとか言ってしまうのは言語道断というものだろう。

 もう一つ養老氏に関して言うけれども、養老氏は同じページにおいて《今の若い子はその「自分」がもともとあることに確信がもてないんでしょうね、だから不安になって「自分探し」をしているんです。フリーター、ニートなどといって》といっているけれども、若年層がフリーターや若年無業者になる背景には、経済構造的なところも大きいのではないか。例えば経済学者の玄田有史氏が長い間指摘していることなのだけれども、我が国では中高年雇用の既得権が強まっており、それにより若年者雇用が開拓されない、という事態が起こっている(玄田有史[2001])。さらに玄田氏は最近になって、若年無業者の問題にも経済格差が影響している、という発表をしている(平成17年4月中ごろの日経新聞の記事だったが、あいにくその記事を紛失してしまった)。雇用構造の変化ということで言うと、企業が自分に都合のいい若年労働力しか採用しなくなっている、という現状もある。安易な精神論は、現実の社会構造の問題を隠蔽する方向にしか働かない。

 最終的には、まあ完全に予想の範疇であるが、《身体的な体験をさせるしかない》(石原氏、140ページ)という方向に進んでしまう。ここから先はもう退屈なのでいちいち検証はしないけれども、気になった箇所について2点。まず、141ページにおいて、石原氏は

 石原 昨年末、小中学生を対象とした調査で、死んだ人が生き返ることがあると考える子供が五人に一人いる、という統計が発表されましたが、若い人たちにとって「死」はもはやリアリティを感じるものではないのかもしれない。

 この統計は長崎県教委のもので間違いないだろう。たくさんのところで引かれているのでうんざりする。この統計にはかなりの問題点が含まれており、その議論は「統計学の常識、やってTRY!第2回」に譲るけれども、このような調査において他の世代との比較がないのはどういうわけなのだろうか。結局のところ、このようなアンケートは、若年層を貶めることにしか使われない。そのような問題意識の低いアンケートを引用していい気になっている石原氏は、いい加減目を覚ましていただきたいものだ。

 また、142ページにおいて、石原・養老の両氏が戸塚ヨットスクールについて賛同しているのにも驚いた。まあ、石原氏が後援会の会長だということは前から分かっていたのだが、養老氏も賛同していたのには少々驚きを禁じえなかった。

 ここで検証は終わるのだけれども、私は石原・養老の両氏に問い詰めたい。

 なぜ、このように、問題の多い発言をして恬然としているのだろうか。

 はっきり言っておくけれども、この対談は、単なる「居酒屋の愚痴」異常の何物でもない。また、このような対談を平然と載せている「文藝春秋」の編集部も厳しくその責任を問われるべきだろう。

 それにしても、前回の「仮想と虚妄の時代」と同様に石原氏の暴言が炸裂している対談であった。所詮石原氏にとって青少年問題とは、国家の恥として吐き捨てるべきものでしかないのだけれども、石原氏が青少年に対してあまりにも軽い、また残酷な態度で望んでいるばかりに、安易な規制論や疑似科学に依拠して青少年を現代社会の鬼胎として語り、彼らを嘲りその「対策」こそが至上命題だとすることによって、結局は「今時の若者」に対する敵愾心の共同体を作り上げていく。

 俗流若者論は「今時の若者」に対する敵愾心の共同体を作り上げていくのに余念がない。そして彼らは、たとい言いたい放題言っているとしても、敵愾心の共同体の中で言っているのだから、外部からの検証には至極弱いだろう。それでも、俗流若者論は着々と支持を得ており、それらが作る敵愾心の共同体に入っていく人たちは後を絶たない。

 しかし、考えていただきたい。昨今推し進められている国家主義的な動き、例えば憲法や教育基本法の改正は、それらのルーツをたどっていけば俗流若者論を源流とする。そのような挙動に隠された危険な動きを、彼らは俗流若者論でもって甘い匂いをつけ、従わせようとする。しかし、我々に求められているのは、そのような俗流若者論の歪んだ欲望を見通すことであり、俗流若者論によって突き動かされる政治というものが、いかに異常なものであるかを見極めることだ。

 俗流若者論に突き動かされて、「本質」の再建こそが必要だ、と叫ぶ石原氏に、政治家としての資格があるのだろうか。マックス・ヴェーバーも言っているではないか、《政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である。もしこの世の中で不可能事を目指して粘り強くアタックしないようでは、およそ可能なことの達成も覚束ないというのは、まったく正しく、あらゆる歴史上の経験がこれを証明している》(マックス・ヴェーバー[1980])と。そして石原氏のみならず、神奈川県知事の松沢成文氏なども、問題を正面から受け止めることをせずに、俺が有害だと言っているから有害だ、というトートロジーに陥ったり、「今時の若者」を過剰に敵視したポピュリズムに陥ったりしているが、それでも彼らを政治家として信頼に足る人物である、と評価したいのであれば、もう私は勝手にしろ、と言うほかない。

 しかし、それでも、より多くの人が俗流若者論に牛耳られる政治の危険さを知って欲しいと、私は祈り続ける。

 参考文献・資料
 池谷裕二[2004]
 池谷裕二『進化しすぎた脳』朝日出版社、2004年10月
 石原慎太郎、養老孟司[2005]
 石原慎太郎、養老孟司「子供は脳からおかしくなった」=「文藝春秋」2005年8月号、文藝春秋
 マックス・ヴェーバー[1980]
 マックス・ヴェーバー、脇圭平:訳『職業としての政治』岩波文庫、1980年3月
 玄田有史[2001]
 玄田有史『仕事のなかの曖昧な不安』中央公論新社、2001年10月
 斎藤環[2005]
 斎藤環『「負けた」教の信者たち』中公新書ラクレ、2005年4月
 養老孟司[2002]
 養老孟司『異見あり』文春文庫、2002年6月

 マックス・ヴェーバー、大塚久雄:訳『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波文庫、1989年1月
 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 姜尚中『ナショナリズム』岩波書店、2001年10月
 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 ロナルド・ドーア、石塚雅彦:訳『働くということ』中公新書、2005年4月
 中西新太郎『若者たちに何が起こっているのか』花伝社、2004年7月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月
 二神能基『希望のニート』東洋経済新報社、2005年6月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 山本七平『日本はなぜ敗れるのか』角川Oneテーマ21、2004年3月
 ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』岩波文庫、上下巻、1987年2月

 大和久将志「欲望する脳 心を創りだす」=「AERA」2003年1月13日号、朝日新聞社
 齋藤純一「都市空間の再編と公共性」=植田和弘、神野直彦、西村幸夫、間宮陽介(編)『(岩波講座・都市の再生を考える・1)都市とは何か』2004年3月、岩波書店
 瀬川茂子「東京都発「正しい性教育」」=「AERA」2004年10月25日号、朝日新聞社
 内藤朝雄「お前もニートだ」=「図書新聞」2005年3月18日号、図書新聞
 藤生明「サプライズ辞任の可能性」=「AERA」2005年6月20日号、朝日新聞社

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2005年2月11日 (金)

私の体験的成人式論

 1・平成17年1月10日
 「仙台魂をー!」
 「誓います!」
 円陣を組み、平成17年仙台市成人式実行委員会長の伊藤洋介氏の掛け声の後に、伊藤氏と私を含む実行委員11名が一斉に声をあげた。その後、私が
 「出陣!!」
 と勢いよくドアを開け、一人で勝手に暴走している私をよそに実行委員全員が平成17年仙台市成人式会場の舞台袖に移動した。
 平成17年1月10日。仙台市の成人式は、太白区の仙台市体育館で行われた。この日のために、実行委員11名は、8月25日の結成から、試行錯誤を重ねてがんばってきた。そしてこの日、その真価が試されるのである。
 そのときは、あまりいい予感がしているわけではなかった。というのも、成人式開始前に、実行委員の佐藤彰芳氏が、男子トイレで人が倒れていると報告していた。その人は酒に酔ったらしく、おそらく急性アルコール中毒であろうが、このような事件が起こっているのを聞いて、多くの委員が不安に陥っていた(ちなみにこのことについては、仙台の全ての新聞が、委細漏らさず報じていた。なんだかなあ)。
 舞台袖には実行委員と、仙台市長の藤井黎氏、仙台市議会議長の鈴木繁雄氏、副議長の斎藤建雄氏および石川建治氏、仙台市教育長の吉田睦男氏、そしてこれまでお世話になった仙台市教育委員会生涯学習課の皆様が集まった。舞台に上がる前、「誓いの言葉」を述べる実行委員の高橋望美氏と一本締めを担当する蘆立恵氏、そして伊藤氏が励ましあっていた。まもなく本番である。緊張するのも致し方ないことだ。私だって緊張していた。そして他の委員も同様であった。
 本番が始まった。次々と実行委員や市長、教育長などが壇上に登っていく。
 「国賊成人式報道これ討ってよし!」
 と小さく掛け声を上げて、私は壇上に登った。私は高校2年のときから成人式報道の研究をしており、受験勉強中も成人式報道に関する論文を書き上げて投稿していたこともある。今回私が成人式実行委員会に志願したのも、2001年以降「荒れる成人式」一辺倒になってしまった俗流成人式報道ではわからない、成人式の産みの苦しみが知りたい、ということだった。だから、成人式報道に対抗する、ということは私が実行委員会に在籍しているときの一貫しているテーマであった。この掛け声を上げていたとき、ほかの委員の一部が少し笑っていた。
 壇上に上る人たちの着席が終わった。午後2時。成人式の始まりである。会場は少々ざわついていたが、5000人という出席人数を考えれば、これほどざわついていても不思議ではない。ひとまず、出だしは快調だった。
 照明が落ち、司会の黒田典子氏が自己紹介をすると、会場から一部の不逞の輩が
 「典子ー!」
 と黒田氏に対して叫び声を上げていた。私は少し腹が立ち
 「あの莫迦、どうにかならねえか?」
 と小声で愚痴をこぼしたところ、
 「まあまあ」
 と、隣にいた実行委員の榎森早紀氏に諌められた。
 国歌斉唱、藤井市長の式辞が終わったあと、いよいよ伊藤氏の挨拶である。黒田氏の紹介の後、伊藤氏がいよいよ演壇の後ろに立った。伊藤氏の挨拶が始まる。それを後ろから見ていた私は、会場が荘厳な雰囲気に包まれたように感じた。そして伊藤氏も、いつもの明るいイメージとは違い、実行委員長としての貫禄を大いに湛えていた。伊藤氏の声がスピーカーを通じて響く。会場の多くの人が、伊藤氏の挨拶を真剣に聞いていた。
 来賓や主催者の紹介が終わったあと、高橋氏による「誓いの言葉」朗読である。高橋氏は、この「誓いの言葉」を、手話を交えて朗読しようとしていたのである。高橋氏のその話を聞いたある委員が、だったら全員でやってしまおう、と提案してしまい、最初の「誓いの言葉」という台詞と、最後の「誓います」という台詞だけは、新成人であるほかの実行委員7人(伊藤氏、蘆立氏、私、榎森氏、小野寺洋美氏、佐藤氏、三浦文子氏)も手話入りでやってしまおう、という走りになった。
 無論、舞台の向かって右端のほうには、プロの手話師による手話通訳がある。しかし、高橋氏の手話は、見た目こそ拙いものの、その存在感はプロを超えるようなリアリティを持っていたように思えた。この場面が、平成17年仙台市成人式前半の最大の盛り上げ場となったことは言うまでもない。背後に立っている私を含む7名も、拙く、さらにタイミングもばらばらであったが、規定された2つの台詞を手話入りで行い、委員としての5ヶ月弱に及ぶ蓄積と、新成人としての新たな旅立ちを自らの手に込めた。会場の多くが、この「誓いの言葉」に圧倒されていたような気がした。この様子を、新成人でない委員3名(井上澄子氏、丸山愛子氏、渡邊範之氏)はどう見ていたのだろうか。
 この「誓いの言葉」の後、一本締めを行った。壇上にいる全ての人が、蘆立氏を中心に据えて横一列に並んだ。蘆立氏のかけ声は、今までの練習やリハーサルでは見られなかった、この上なく気持ちいいものであった。そのかけ声とともに、実行委員や市長、市議会議長、そして会場の全員が一本締めを行った。実行委員は、一本締めの後は拍手してはいけない、といわれていたが、感動ゆえだろう、一部の委員が拍手をしていた。私は拍手をしていなかったけれども、心の中では拍手をしたい衝動に駆られていた。
 実行委員全員が、満面の笑みを浮かべて実行委員控え室に戻ってきた。その表情はまさに、成人式が成功したことを如実に物語っていた。ある委員が「終わったね!」と言っていたので、私はそれに呼応するように「まだ終わりではない!」と声をあげた。確かに前半戦は終わったが、いよいよ後半戦が待ち受けているのである。
 「仙台魂 ~20歳の感謝祭~」というテーマを掲げた後半戦。この後半戦は、イヴェント形式で、実行委員が企画してきたさまざまなブースを新成人が自由に回る、という企画である。無論式典が終わったら帰ってもいいのだが、出席したからにはここでも参加したい、という人も多かった。我々は、ただ楽しいだけのフェスティバルにしたくなかった。仙台市民としての誇りと、自分の責任を自覚できるようなものにしたかった。そのために、8月からがんばってきたのではないか。確かに前半戦は成功した。しかし後半戦で失敗してどうする。
 消防団が出初の演技を行っている最中、委員はそれぞれの持ち場についた。持ち場には、公募で集まった19歳と20歳の運営スタッフがついていた。私の持ち場を担当する運営スタッフは全て19歳であった。私はスタッフに最後の打ち合わせと指示を行い、後半戦の開始に備えた。
 いよいよ後半戦が始まった。ブースを覆っていた紅白の垂れ幕が外されると、私のブースには多くの人が集まってきた。他のブースもそうだったであろう。私のブースに関しても、私と同じブースに常駐している井上氏、そして運営スタッフがフル稼働で整理を行なってもまだ足りないほどであった。
 「エンジンがかかってきたぞ!」
 と私が叫んだときには、もう時刻は3時を回っていた。
 途中、高校時代の友達はもとより、なんと小学校時代の友達と久方ぶりの再会を喜ぶこともできた。実行委員としてブースに常駐しているときの最大の歓びであった。そんな歓びの中、終了時刻の4時に近づくに連れて会場から人数は徐々に減っていき、ついに午後4時を回った。大団円で終了を迎えることができたのである。感無量であった。我々の成人式は成功したのだ。
 スタッフ控え室で、実行委員とボランティアスタッフ、そして教育委員会の関係者が集まったが、勝利の美酒に酔いしれる暇もなく、即座に解散となった。しかし、実行委員の多くが簡単には帰らず、しばらくの間語りあった。その表情は、さすがに疲れきっていたとはいえ、実に生き生きとしたものであった。他の何物でも味わえぬ感動が、そこにはあったと記憶する。私が控え室を去ったのは午後4時40分ごろであろうか、そのときはすでに半分ほどの委員が立ち去っていたけれども、私は一人で地下鉄の富沢駅に向かった。途中、歩きながら、声優の野川さくら氏の「Joyeux Noel ~聖なる夜の贈りもの~」や、声優の千葉紗子氏と南里侑香氏のユニット「tiaraway」の「想い出good night」が口をついて出てきた。歌っているうちに、涙がこぼれてきた。感極まって泣いてしまったのは、おそらく我が短い生涯の中でもこれが初めてかもしれない。
 ちなみに、富沢駅へ向かうときに道に迷ってしまい、結局私よりも後に出た伊藤氏と高橋氏と一緒に地下鉄に乗ることになったのは内緒だ。

 2・「仙台魂」の成り立ち
 平成17年1月10日、午後2時以降の私の動きをまとめると、ざっとこんな感じになる。時間にすると2時間と30分くらいであるが、さまざまな想いに彩られた極めて密度の高い時間であった。
 このような成人式になるまで、仙台市成人式実行委員及び仙台市教育委員会生涯学習課はさまざまな試行錯誤を経てきた。その始まりとなったのは、前述の通り平成16年8月25日である。
 仙台市成人式実行委員会は、自らが実行委員に志願した18歳以上の仙台市民によって構成されている。20人近く集まった前回の実行委員会とは違い、今回の実行委員は11人、うち男4名女7名、また新成人は8名(男3名、女5名)であった。私はこの委員会の存在を大学1年のときから知っていたので、自分が新成人になる暁には絶対実行委員会に入ってやる、というつもりだった。また、成人式報道の研究のためでもある。もちろんこんな私は11名の中でも特殊で、他の人たちは、例えば仙台市のホームページで実行委員会募集のお知らせを見て、面白そうだから、という理由で入ってくる人も多い。実行委員で新成人は8名、私と、蘆立恵、伊藤洋介、榎森早紀、小野寺洋美、佐藤彰芳、高橋望美、三浦文子の各氏である。
 実行委員の丸山愛子氏は、前回の成人式に20歳のボランティアスタッフとして参加しており、それが面白かったから今回は実行委員として参加したい、と語った。渡邊範之氏は、平成17年に大学を卒業して仙台を離れるので、その思い出作りのために参加したい、と自己紹介の際に発言した。成人式の案内のパンフレットで《超オーバーエイジ》と書いている井上澄子氏は、障害を持った自らの子どもが20歳になる、という理由で新成人の親として参加していた。実行委員の中で新成人でない人はこの3名だが、この3名にも、そして8名の新成人も、さまざまな想いを抱えて、成人式実行委員会に臨んだ。
 しかし、まったくの初対面、というわけではないが、一部の人以外にとっては初対面の人たちばかりである。ほとんど知り合いのいない中で、成人式をつくっていかなければならないのであるから、おそらく全員が半分期待、半分不安を抱えて実行委員会としてのスタートを切ったに違いない。とりあえず第1回は実行委員会の概要と自己紹介、そして前回の成人式のヴィデオを見て、実行委員が何をすべきか、ということを大まかに掴んだ。
 第1回の課題として、とりあえず成人式の第2部でやりたいものを考えてくる、ということを市教委のほうからかされた。私はとりあえず、下手な鉄砲数撃ちゃ当たる主義でさまざまな企画を手短にまとめてきた。他の人はそれぞれ1人1~2企画程度であったが、伊藤洋介氏だけは、企画を沢山、しかも具体的にまとめて提出してきたのである。これには私は驚いた。私がせいぜい企画書の1行程度で語っていたものを、伊藤氏は企画1枚について企画書を1枚、それも沢山作ってきたのである。活動開始初期からの伊藤氏の活躍もあってか、第3回、伊藤氏は立候補した私と蘆立恵氏を凌駕する支持を得て実行委員長に選ばれた。
 だが、実行委員長及び副委員長(私と蘆立氏)を決めたのはいいのだが、肝心の企画が一向に決まらないまま進行してしまったのである。前回の反省を踏まえて、今回は企画をなるべく速いうちに決めてしまおう、という提案が市教委からあったのだが、それがなかなか決まらず、本来隔週であるはずの実行委員会を毎週開催するという事態に陥ってしまった。
 そんな混迷の中で、まずコンセプトから決めてしまおう、という意見が出た。なるほど、確かに方向性を1つ決めてしまえば、後はそれに乗って企画を立てればやりやすい。早速コンセプトを決めようとしたのだが、やはり意見百出であった。しかし、大方で共通していたのが、「20歳になって、周りの人などに対する感謝をする」という意見である。また、私は当初から、成人式は仙台市の主催であることを前面に押し出すべきだ、と主張し、他の人たちも「仙台」ということを前面に押し出す、という意見を持っていた。
 蘆立氏だったと思うが、誰かの口から「仙台魂 ~20歳の感謝祭~」という意見が飛び出した。実行委員は、即座にそのコンセプトに絶大な賛意を示し、これがコンセプトとなった。仙台、感謝。当初からあったこの2つが見事に融合した、素晴らしい言葉であり、ここには、我々の成人式にかける想いも存分に詰まっている。
 かくして「仙台魂」は動き出したのである。

 3・企画を立てる
 さて、一つの方向性が決まったのはいいが、次にやるべきことは企画を具体的な形にすることだった。
 無論、この企画を形作るためには、第1回で課題として出され、第2回以降で発案された数々の企画案が基盤となっている。
 私が最初から主張してきたのは2つある。まずは簡易式の健康診断。前回の成人式の第2部で、体力測定というものがあったが、これではだめだ、もっと包括的なものにしなければならないと思い、アルコールパッチテストなどを含めた簡易式の健康診断にすべきだ、と提案した。これは割と受けがよく、特にアルコールパッチテストに関しては多くの人が絶対やりたい、と賛意を示してくれた。
 もう一つは社会制度に関するパネルの展示。要するに20歳になるとさまざまな権利と義務が課せられるのだから、それを成人式の場でパネル展示すべき、という主張である。ところがこれに関しては反発が大きかった。すなわち、成人式の場に選挙だとか年金だとかを張り出して何の意味があるのか、と。このような主張に対して、私は自らの意見を曲げなかった。しかし、今になって考えてみれば、現在の制度に関する批判的なものの見方や、特に選挙に関しては「投票率至上主義」の謗りを受けかねない我が態度は恥ずべきものであったように思える。パネル展示に関しては、もう1つ、仙台で実施されている祭りを採り上げて、それにいかに市民が関わっているかを紹介すべき、という丸山氏の意見があり、社会制度の関する企画展示はこちらと統合する走りとなった。
 さまざまな企画が提出され、それが成人式の場にとってふさわしいものであるか、ということを、何回も何回も企画して、最終的に当日に至るのだが、企画を決定する段階で、もう一つの大きな壁も存在した。
 それは実現可能性である。
 当初は、例えばアフガニスタンの学校に募金を送るとか、あるいは新成人がステージに立って決意を表明してもらうとか、それこそ夢にあふれた企画が飛び出していた。しかし、これらの企画に関しては実現可能性という罠が大きく横たわっていたのである。例えばアフガニスタンに募金を送る場合は、まずどこに送るか、ということを、具体的な施設名(学校や病院など)まで明らかにした上で送らなければならないのである。実行委員長の伊藤氏が「ペシャワール会」(アフガニスタンで医療活動を行なっている団体)に問い合わせたところ、そのような答えが返ってきたというのである。
 ステージに上る類の企画については、平成13年にその絡みで騒動が起こった、という。実は、私が成人式報道研究に目覚める前、この騒動があったことをテレビで見ていた。平成13年ということで、マスコミが成人式批判なる莫迦騒ぎに熱中していた、という環境の下での出来事であったから、私に植え付けた印象も相当に強烈であったのだろう。市教委の方からこのヴィデオを見るか、と問いかけてきたので、私は苦笑いしながら、夢に出そうだといって遠回しに断ったのだが、結局見てしまった。
 ヴィデオを見て仰天した。私が予想していたよりも格段に平穏に収まっているではないか。これではっきりした。私の見たニュース映像は、自体がひどかった少しの時間だけを切り取って、大々的に報じたものであったのである。これでマスコミの成人式に対する態度が少し垣間見える気がして、少し悲しい気持ちになった。

 4・広がる可能性
 しかし、企画立案の段階では、何も実現可能性という足枷の下で可能性が狭まっていくことばかりではなかった。逆に、実現可能性が、成人式の企画を大きく飛翔させた、という一面もある。
 例えば、企画の中に、仙台七夕を意識して、自らの決意を短冊に書いて笹につるす、という企画があった。そこで使われている短冊は、仙台の伝統工芸品の1つである「柳生和紙」である。企画をまとめる段階で、ある委員が「柳生和紙」という和紙がある、という発言をした。この和紙に関しては、現在ではそれを作る職人が極めて少ないため、この和紙の存在を広めることができないものか、ということで使用が提唱されたのだが、この発案は実行委員の間では極めて評判がよく、即座に採用された。
 また、募金を送る企画に関しては、アフガニスタンは無理だとしても、仙台に最近できた「県立こども病院」という、我が国では数少ない小児科専門の大病院があるのだが、そこに贈るのかどうか、という発案があった。これは、実現可能性の視点から見ても、十分に実現可能なものであった。新成人の心を込めた募金などが「こども病院」に贈られるのを考えると、それだけでも気持ちが昂ってくる。
 私の発案である健康診断に関しても、ある委員がストレスチェッカーという機械の存在を教えてくれて、それを使うには機械のレンタル費と、常駐する機械のメーカーの職員の人件費がかかるのだが、その費用も予算を圧迫するようなものではなかったので、導入される運びとなった。結果的にこの企画は、素足にならなければならないので女子はあまり来なかったが、それでも評判としては上々であった。
 偶然が思わぬ結果をもたらすこともある。平成16年11月2日、インターネット関連企業の「楽天」が仙台に新球団「東北楽天ゴールデンイーグルス」を設立した。成人式の中には、小野寺氏のデザインによる成人式の案内パンフレットの表紙絵や、仙台のサッカーチーム「ベガルタ仙台」の団旗などをバックに写真を撮る、という企画があったのだが、その中に東北楽天のフラッグを入れてみてはどうか、という発案があった。そのためには成人式までに東北楽天のフラッグのデザインが決定する必要があったのだが、決定が間に合い、成人式の会場に東北楽天のフラッグが掲示された。
 かくして我々の成人式の企画はその可能性を次々と膨らまして、実行委員は当日までさまざまな準備をする運びとなった。
 今一度、平成17年成人式第2部の企画と、担当者を紹介しよう。(◎は当日のブース責任者)

 ・写真撮影
 担当:◎高橋望美、丸山愛子
 無地背景やデザイン背景、及びベガルタや東北楽天の団旗をバックに写真を撮ることができる。
 ・250/1000000人のメッセージ
 担当:◎井上澄子、小野寺洋美
 市民の皆様からいただいた写真によるメッセージの掲示をする。写真は実行委員が撮影した。
 ・健康&体力ステージ
 担当:◎後藤和智、三浦文子、井上澄子、小野寺洋美
 肺活量、握力、背筋力の体力測定、及びアルコールパッチテストとストレス測定による簡易式の健康診断。臓器提供意思表示カードなどの配布も行なう。
 ・祭りだわっしょい!
 担当:◎丸山愛子、榎森早紀、後藤和智、佐藤彰芳
 仙台で行なわれている主要な祭り4つ(青葉まつり、仙台七夕、ストリートジャズフェスティバル、光のページェント)を紹介。
 ・「仙台魂」を刻もう!
 担当:◎蘆立恵、佐藤彰芳、三浦文子、高橋望美
 短冊やオリジナルのうちわに自らの決意を書く。
 ・感謝の気持ちを手紙にのせて
 担当:◎渡邊範之、榎森早紀
 渡邊氏のデザインによる葉書きで、家族や友達などに感謝の気持ちを伝える。ここで回収箱に提出すれば送料は無料である。
 ・チャリティ・ホスピタル
 担当:◎伊藤洋介、渡邊範之
 県立こども病院に入院している子供達への千羽鶴と励ましのメッセージを書く。これをこども病院に送ったことに関しては、河北新報が報道した。
 ・ワンコインでベストショット!
 担当:◎小野寺洋美、伊藤洋介、蘆立恵
 古いタイプの「プリント倶楽部」で記念写真を撮る。ここで回収されたお金は県立こども病院に寄付される。

 5・当日の反省、そして大団円
 平成17年仙台市成人式は、冒頭でも述べたとおり、無事に結末を迎えることができた。しかし、それでも問題が山積している。例えば写真撮影のブースにおいて、前回はポラロイドカメラを設置していたのだが、今回は設置していない。それが原因で、成人式の会場で写真を撮りたい、という人たちから苦情を受ける羽目になった。また、あまりにも人数が多く、伊藤氏や私は自分が責任者として担当するブース以外のところをまわることができなかった、という反省もあった。
 今回の反省点を活かしつつ、いかに来年につなげていくか。「仙台魂」なる秀逸なコンセプトが生まれた今回の熱気を、いかに来年に伝えていくか。おそらく市教委の人も何人かは来年も成人式を担当するだろうし、今回実行委員になった人たちの中にも来年何らかの形で成人式に再び参加する人もいるかもしれない。
 成人式は、沢山の人の想いによって支えられている。今回の成人式に関わったのは何も市教委と実行委員会だけではなく、公募によって集まった、19歳と20歳の人だけで構成されるヴォランティアスタッフや、同じくヴォランティアで働く小学校や中学校の先生、そして会場設営に関わる業者の人々や、司会を務めた黒田典子氏、仙台市長・藤井黎氏他仙台市の主要なポストの方々、そして参加者、あるいは参加しなかった新成人。成人式にはそれぞれの物語があり、受け止める想いもそれぞれによって違う。
 平成17年1月28日、最後の成人式実行委員会と打ち上げが行なわれた。そこで各々の委員が自らの感想と反省を語り、これで平成17年仙台市成人式は完全に幕を下ろした。広瀬通近くのしゃぶしゃぶ屋で行なわれた打ち上げでは、実行委員会が大いに食べて、飲んで、実行委員としての最後のひと時を語りあった。ここでサプライズがあった。市教委の人が、実行委員それぞれに「修了証書」を手渡してくれたのである。市教委の人々が我々実行委員に与えてくれた評価は、全て満点であった。
 思えば、ここに、「仙台魂」のほかにも「実行委員魂」があったのかもしれない。
 ここで酌み交わした酒は、勝利の美酒の味がした。しかしこの「勝利」は何を意味するものであったか。それは自らの不安や、そのほか自らの足を引っ張るもの、成人式の意図を後退させるものに対する勝利であったのかもしれない。
 2次会はカラオケだった。ここで私はtiarawayの「Your Shade」を歌ったのだが、またしてもここで感極まって泣いてしまった。この曲は、実行委員の中では私以外誰も知らなかったのだが、みんな知らないにもかかわらず大いに盛り上がってくれた。他の委員も、ヒット曲を中心に制限時間の許す限り歌い続けた。
 そして最後は、「仙台魂」ということもあってか、仙台出身のシンガーソングライター、さとう宗幸氏の「青葉城恋歌」をみんなで歌った。残念ながらこの曲に関しては、私は「歌詞を見てやっとサビの部分だけ歌える」というお寒い状況なのだが、実行委員それぞれが自らの心に仙台魂と実行委員魂を刻み付けた。
 平成17年仙台市成人式実行委員会は幕を閉じた。実行委員のうち、渡邊氏は就職のため仙台を離れる。打ち上げの席の中で、伊藤氏は「とりあえずYMCAに戻る」と発言し(「通販生活」2005年1月号のインタヴューにもあるとおり、伊藤氏は「仙台YMCA」で活動している)、私も「とりあえず勉強と執筆だな」といった。現在、実行委員として苦楽を共にした人たちが何をしているのかはわからない。しかし、実行委員として苦楽を共にした経験は、全ての実行委員の中にある。
 2次会で私が歌った、tiarawayの「Your Shade」に、《『偶然』に動き出した全てを/『運命』と呼べる日まで…》というフレーズがある。平成16年8月25日、実行委員として集まった11人の組み合わせは確かに《偶然》であった。しかし、成人式という1つの形となったとき、この組み合わせは《運命》と呼べるくらいのものに変わっていた。この11人(毎回委員会に出席していた井上氏の子供も含めると12人になるが)の中で、誰かが欠けていてもこのような成人式にはならなかったのだから…。

 6・成人式をいかに肯定すべきか
 最後に、成人式のあり方について、私見を述べさせていただきたい。
 2001年1月28日付朝日新聞や、「通販生活」2005年1月号の特集が示すとおり、現在の成人式の走りは、昭和21年、埼玉県蕨市で敗戦直後に絶望感に打ちひしがれていた若年を励ますために行なわれたこととなっている。無論、昭和31年に経済白書に「もはや戦後ではない」と書かれて49年が経過した現在において、そのような状況があるはずもない。
 しかし、《雄化・雌化した今の若者たちを、一定の時間ある場所に押し込めておいて、「暴れるな」「行儀よくしろ」といっても、「動物生理学的」に不可能な話》(「通販生活」2005年1月号)などと極めて根拠薄弱な暴言を吐く大谷昭宏(わけあって敬称略)の如きはそこらに放っておくとして(そもそも《動物生理学的》って何なのさ)、早稲田大学教授・吉村作治氏の《20歳になったというだけの若者を励ますために、わざわざ税金を使って成人式をする必要があるのでしょうか》(「通販生活」2005年1月号)の如き批判には、大いに疑問が湧く。
 私は、平成17年仙台市成人式のパンフレットにおいて、《これからの時代にとって、「市民」あるいは「国民」としての自分の生き方を見直す、という意味での成人式があってもいいのではないか。そう思いこの委員会に臨んだ所存である。ここに参加することで自分を見つめ直す人が少しでもいれば幸いである》と書いた。また、自ら勝手にスポークスマンを買って出て、2004年12月24日付河北新報に投稿した文章でも、《私は「市民」または「国民」としての自分を見直すための成人式、という在り方重視している》と書いた(ちなみに、私の書いた文章の一部が、藤井黎氏の式辞で引用された。私の名前は出されなかったが)。
 私が成人式のあり方として一番賛成しているのは、町田市教育委員会社会教育課長補佐・松本司氏の所論である。松本氏は、2002年2月15日付朝日新聞「私の視点ウイークエンド」欄で、以下のように書いている。曰く、

 成人式は社会に出て行く若者に大人の自覚を促し、励ますためのひとつの手段にすぎなかったはずである。しかし、多くの自治体では、手段と目的が転倒し、ともかくも成人式を平穏に終わらせることに汲々としてきたのではないか。(松本司[2002])

 まったきその通り、というほかない。「荒れる成人式」への不安がマスコミによって煽られ、多くの自治体が、成人式の存在意義を疑わずにただひたすら成功させることのみに終始してきた。これでは「成人式」によって成人式が殺されている、といっても過言ではないではないか。
 政治や社会に対して参加する方法は何も選挙だけではないはずである。本来なら社会参加に関すれば多くの手段が約束されているはずである。だから、成人式は、そんな多様な社会参加へのあり方を提示する場として用意されるべきである、と私は考えている。それと同時に、自らの20年を振り返る節目としての成人式というものも重視すべきであり(「通販生活」2005年1月号のインタヴューで、伊藤洋介氏が述べていることであるが)、この2つを両立しない限り、現在の時代における成人式は成立し得ない、と私は考えている。平成17年仙台市成人式において、この目的が達成しえたと思われるのが、丸山愛子氏が提案した仙台の祭りに関するブースと、渡邊範之氏が提案した自分の親や友達に感謝の手紙を送る、という企画である。特に仙台市では、季節ごとに行なわれる祭りに関して、市民が主体的になって運営し、定禅寺ストリートジャズフェスティバルにおいては、一般市民が入ることのできる実行委員会を設けている(菊地昭典[2004])。
 また、成人式においてイヴェント的な企画をやることと、成人式の「本来の」目的を果たすことは、決して相反することではない。成人式におけるイヴェント的な企画は、例えば2002年1月14日付産経新聞に掲載されていた罵詈雑言的な社説における文章の如く、《後半は自由気ままにふるまう時間を与える代わりに、前半の式典だけは静かにしてほしい"お願い"である》と認識されることが多いが、新成人に多様な社会参加を提示したり、あるいは自分を見直すための機会を与えるというのであれば、むしろイヴェントを行なうべきなのである。
 これらのイヴェントの企画、そして式典には、より多く、しかし問題意識の高い市民の知恵をたくさん導入すべきであり、NGOやNPO、市民団体の参加も視野に入れなければならない。この意味において、成人式に関して市民による実行委員会を設置するにはそれ相応の意義があるように思える。平成17年仙台市成人式において、障害の持った方にも多く参加してもらえるように配慮したところもあるが、これは障害を持った子どもを持つ井上澄子氏の活躍がなければ実現し得なかったことである。
 ついでにマスコミに関しても言っておく。平成13年以降の成人式報道が果たしてきた役割は皆無に等しいのだが、もしあるとすれば、それは成人式に関する議論の論点をずらし続け、成人式のあり方を疑わずに無意味な成人式批判に奔走する連中を大量に生み出したことだろうか。若年層に対して社会参加の多様な選択肢を提示する、という責務を怠って、そのくせ若年批判しかつむげぬマスコミは、まさにその存在を疑われても仕方がない。マスコミの腐敗が生じるところに言論の堕落が生じる。そのことを何よりも証明してくれたのが、成人式報道なのである。

 平成17年仙台市成人式実行委員会のその他の役割
 バス・地下鉄記念乗車カード、及びパンフレット表紙デザイン:小野寺洋美
 「誓いの言葉」作成:高橋望美
 1本締めの言葉作成:蘆立恵
 ミヤギテレビ・仙台市の広報番組「みちのく亭仙台寄席」に出演(2004年1月8日放送):伊藤洋介、後藤和智、丸山愛子
 ミヤギテレビ「OH!バンデス」に出演(2004年1月7日放送):伊藤洋介、後藤和智、高橋望美、丸山愛子、三浦文子
 「OH!バンデス」の出演を交渉:井上澄子

 参考文献・資料
 菊地昭典[2004]
 菊地昭典『ヒトを呼ぶ市民の祭運営術』(学陽書房・2004年11月)
 松本司[2002]
 松本司「若者の社会デビュー事業に」=2002年2月15日付朝日新聞

 斎藤環『ひきこもり文化論』(紀伊國屋書房・2003年12月)
 篠原一『市民の政治学』(岩波新書・2004年1月)
 歪、鵠『「非国民」手帖』(情報センター出版局・2004年4月)

 Special Thanks(敬称略)
 伊藤洋介、蘆立恵、井上澄子、榎森早紀、小野寺洋美、佐藤彰芳、高橋望美、丸山愛子、三浦文子、渡邊範之(以上、平成17年仙台市成人式実行委員会)、内海雅彦、伊藤仁、冨田直美、鈴木一彦、齋藤浩一(以上、仙台市教育委員会)、藤井黎(仙台市長)、河北新報整理部、ミヤギテレビ、そして私の両親

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2005年2月 2日 (水)

トラックバック雑記文・05年02月02日

 *☆.Rina Diary.☆*:焼き焼き!(佐藤利奈氏:声優)
 佐藤氏と、声優仲間の木村まどか氏、山川琴美氏によるお好み焼きパーティーに関する文章です。
 私事になりますが、私は、先月(05年1月)28日、平成17年仙台市成人式実行委員会の打ち上げに行ってきました。実を言うとこの打ち上げは私にとって、生まれてはじめて仲間と酒を酌み交わした体験でありました。私は酒に慣れていないので赤ワインをワイングラス3杯ほど飲んだのですが、ほかの人はもう出来上がっているのではないかと思うぐらいはしゃいでいました。実行委員の榎森早紀氏や小野寺洋美氏、市教委の齋藤浩一氏や鈴木一彦氏などと語り合い、罵り合い(笑)、楽しい時間はあっという間に過ぎていました。こういうのもいいものです。またやりたいですね。
 この打ち上げには2次会もありました。2次会は打ち上げをやった焼肉屋のすぐ上にあるカラオケ屋に行ってカラオケをしました。私は、声優の千葉紗子氏と南里侑香氏のユニット「tiaraway」の「Your Shade」を熱唱してしまいました。まあ、この曲は私以外知らなかったのですが。でも、皆様知らないなりに盛り上がってくれました。
 成人式実行委員会の皆様、また会えるといいですね。

 だいちゃんぜよ:去りゆくドンたち(橋本大二郎氏:高知県知事)
 そういえば橋本大二郎氏は、もともとはNHKの記者でした。このたび、海老沢勝二氏が辞任したわけですけれども、橋本氏が現役の記者のとき、橋本氏の目に海老沢氏がどう映っていたか、そして今の海老沢氏は、という思い出話をつづったエッセイです。海老沢氏以外にも、堤義明氏や鈴木宗男氏にも触れられていますが、これらの人はさまざまな分野でドンとして君臨しつつ、そして散っていった人たちでした。橋本氏の

 面識のある方々が表舞台から姿を消すことに、いちまつのさみしさを感じます。

 という言葉には、橋本氏の想いが詰まっているように思えます。

 週刊!木村剛:[木村剛のコラム]並大抵の覚悟では日本は再建されない(木村剛氏:エコノミスト)
 MIYADAI.com:戦略なき対米協調で足元を見られる日本──三層の知恵で巻き直せ(宮台真司氏:社会学者)
 国家戦略を語ることは、まず徹底したリアリズムと、歴史的な深み、そしてできるだけ感情的にならずに、説得的になるようにすることが求められていると思います。そこらの自称「右翼」「保守」の人たちが、感情に任せて教条主義的に同じような台詞を発しているような駄文は「国家論」たりえるのでしょうか。また、自称「左翼」「リベラル」の人たちは、「国家」について語ること自体がナショナリズムだといっています。嗤うべしですよ。彼らの振りかざす「空想的平和主義」も、十分に国家戦略的なことを語っているのですから(でも「国家論」とは言えないなあ)。
 いずれ中国も台頭するでしょうし、中国を除くアジア諸国も中国に対抗すべく日本に同盟を求めているくらいですから、政治にしろ経済にしろアジア戦略の軸となるのはまず中国、そして北朝鮮なのかもしれません。米国に対する戦略を考えるにしても、対米追従を批判するならばそれに関する対案、それも感情的な対米追従論よりも説得的な対案を提案するべきだと思います。そのためにも、まず考えること。できるだけ他人の主張の受け売りを避けるようにしなければならないと思います。
 国内問題にしても、たかが「今時の若者」の「問題行動」に右往左往して、そこから「国家意識の喪失」だとか「偏狭なナショナリズムに踊らされる若者の激増」なんて罵倒してる場合じゃないのよ。ここで明らかにしておきますけれども、たとえば教育基本法の改正論や、宗教教育の是非に関して、熱心な賛成派と熱心な反対派の「青少年観」は驚くほど接近しているのですね。賛成派の論理は「「今時の若者」は国家意識や宗教観を喪失しているから、「問題行動」を起こす。これを阻止するためには国家意識や宗教観を涵養しなければならない」、反対派の論理は「「今時の若者」に国家意識や宗教観を涵養させる教育をすると、「問題行動」が激化し、偏狭なナショナリズムにつながる」。似てるでしょ。少なくとも「今時の若者」に関する偏った見方、という点においては。こんな「内戦」に反対する論理は、「今時の若者」という虚構それ自体を批判する問い方にしなければならないと思います。

 ン・ジュンマ(呉準磨)の備忘録:ローレンス・レッシグ「CODE」を読もうと思う(まだ読んでなかったのか!?)
 面白そうな団体のリンクがはってありました。今後の動向が注目されます。
 新政策機構「チームニッポン」
 代表は長野県知事の田中康夫氏だそうです。

 弁護士山口貴士大いに語る:ネット有害情報を阻止 都が青少年条例改正へ(弁護士:山口貴士氏)
 りゅうちゃんの日記:日本版ミーガン法をすぐには賛成できない理由
 先日(04年1月21日)のトラックバック雑記文において、私はメーガン法の制定に反対の立場を示しました。理由は、この事件は警察の初動が早かったか、あるいは犯罪者の更生システムが充実していれば十分に防げたから、と思っているからです。
 メーガン法を求める人も、メーガン法に反対しつつポルノメディア規制を求める人も、国家あるいは社会が強い態度で臨まなければ凶悪犯罪は防げない、というハードランディング的な考え方で共通しています。ならば、凶悪犯罪対策のソフトランディングとは何なのか、といえば、私は更生システムの充実化、そして社会政策の充実化だと思います。凶悪犯罪者が逮捕されて、その生い立ちを執拗に求めるのは、確かに必要かもしれませんが、たいていは枝葉末節をつくようなものでしかないのです。しかも、その「物語」構築において求められる「物語」が、今回の奈良女子児童誘拐殺人事件の如く「ロリコン」「フィギュア萌え族」(蛇足だが、小林薫容疑者が「オタク」だったという証拠、少なくとも秋葉原に出入りしていたという証拠はまったくない!)という、「あいつは俺たちとは違うんだ」というシナリオ、そうでなければ究極の呪文「心の闇」に傾きがちになるのですから、このように構築された「物語」が信用に足るものではない、ということは想像がつくでしょう。
 凶悪な性犯罪を防ぐための「第3の道」はソフトランディング的な主張になるべきでしょう。そのために、まず、更生システムの見直し(その文脈で厳罰化が議論されるのであればそれもかまわない)、警察の初動が早くなるような警察機構改革を私は求めます。
 そういえば、奈良女児誘拐殺人事件における、マスコミのオタクバッシングまとめサイトが、私の知らない間にずいぶん増えています。やはりオタクバッシングの中心となったのは大谷昭宏氏なのですね。
 しかし大谷氏の問題発言が見られるのは、何もオタクバッシングだけではありません。たとえば、最近公開した「成人式論は信用できるか・01」で、「通販生活」2005年1月号の成人式特集における大谷氏の発言を採り上げたのですが、ひどすぎます。そもそもこのような大谷氏の「若者論」における「歪み」に気づいたのが、「日本の論点2004」(文藝春秋)の「データファイル」で、「ネット心中」について採り上げられた部分において、大谷氏の主張が「強硬派」の主張として紹介されていましたが、その主張の骨子は「自殺系サイトを法規制しろ」というものでした。
 あれ?大谷氏は、黒田清(作家・故人)、本田靖春(作家・故人)両氏につながる、読売新聞OBのリベラル系ジャーナリストとして有名な人ではありませんでしたっけ?そんな大谷氏が、なんで「若者論」のときは国家に擦り寄って強硬派的な主張をするんだ?私のなぞは深まるばかりです。先日、「大谷昭宏は信用できるか」という文章を入稿しました。公開は今月末になると思います。

 蛇足。

 拙者、ギター侍じゃ…
 俺は大谷昭宏。メーガン法には反対だ。なぜなら…

 だけどみなさん、よく考えてみてくれませんか。性犯罪者の所在公表ということであれば、いまの日本でまず、まっ先にやらなければならないことは、この1月1日に社会復帰した神戸・須磨の連続児童殺傷事件の少年Aの住所氏名の公開ではないのか。
 いまの日本でそんなことをしたらどうなるか。近くに住む子どもを持つ親たちはパニックになるはずだ。近隣の幼稚園や保育園は間違いなく閉鎖になってしまう。
 あのオウム真理教(アーレフに改称)事件のときを思い出してほしい。直接、事件と関係ない幹部の娘が小学校に入学手続きをするというだけで地元はどんな騒ぎになったか。オウム信者らしい若者がマンションを借りたというだけで、地元の人は不寝番まで置いたではないか。
 いま少年Aの所在が公表されたら、おそらくこの男性の転入届けを受け付けた市長はリコールに発展するはずである。そんな日本の土壌、風土を考えたとき、やれ、メーガン法だなんて訴えるのがいかに空論かわかるというものである。
(日刊スポーツ・大阪エリア版「大谷昭宏フラッシュアップ」平成17年1月18日掲載)

 …って、言うじゃな~い…。

 でもアンタ、《そんな日本の土壌、風土》を乱用・悪用してオタクへの敵愾心を煽りまくりましたから!残念!!
 「青少年社会環境対策基本法は青少年を救わずメディアを殺す」斬り!!

 上のリンク先は、ジャーナリスト・坂本衛氏のサイトですから…。切腹!!!

 お知らせ。オンライン書店「bk1」で私の新作書評が公開されています。
 山室信一『キメラ 満洲国の肖像 増補版』(中公新書・2004年7月)
 title:建国のロマンと挫折
 宮台真司、宮崎哲弥『エイリアンズ』(インフォバーン・2004年11月)
 title:「よそ者」であるということ

 このサイトの右側の表示しております「参考サイト」に「奈良女児誘拐殺人事件における、マスコミのオタクバッシングまとめサイト」を追加しました。

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2005年2月 1日 (火)

成人式論は信用できるか・01

 評価
 90点台:時流に阿らず、正論を貫いた大論説
 80点台:多くの人が肝に銘じるべき名論説
 70点台:論説としての責任を十分に果たした好論説
 60点台:害よりも益のほうが大きい論説
 50点台:益・害が同じくらいの論説
 40点台:益よりも害のほうが大きい論説
 30点台:ほとんど害ばかりの論説モドキ
 20点台:益まったくなしの論説モドキ
 10点台:論説としての最低限の資格すら大いに疑われるべき論説モドキ
 1桁:論説モドキと呼ぶことさえいかがなものか
 0点:もはや論外

 特集:「通販生活」2005年1月号

 吉村作治(早稲田大学教授)
 評価:53点
 成人式批判の立場だが、「税金の無駄遣い」という理由で批判するのは腰が甘すぎやしないか。ただ、新成人が予算まで出してやっている成人式の事例を紹介しているのは興味深いので、この点では高く評価するべきだろう。

 鈴木藤一郎(伊東市長)
 評価:70点
 ほとんどが「成人式で暴行を起こした不逞の輩を告訴すべきか」というところに裂かれていたのが残念だった。成人式の改革という実務に取り組む立場であれば、その点をもっと強調すべきだったと思う。ここでは伊東市の取り組みが一部紹介されていたのだが、少なくとも求心力は十分だと思うので、ぜひ文章でまとまった意見を聞きたいものだ。

 大谷昭宏(ジャーナリスト)
 評価:0点
 出ました!トンデモ若者論!まず「今の若者は「雄化」「雌化」している」というけれども、そんな印象をどこで受けたのさ。自分の思い込みでしかないんじゃないの?おまけに成人式で一部の不逞の輩が暴れるのを阻止するのは「動物生理学的」に無理なんだってさ。じゃあ、何で我が国における青少年の強姦犯罪の検挙件数が1965年あたりの約20分の1になってるのさ(人口比で見ても約15分の1だ)。何で少子化が進んでるのさ。大谷氏よ、応えてみろよ!
 来賓たちも「選挙で票がほしいだけ」なんだと。とにかくこの大谷氏のインタヴューは、そこらの俗流成人式批判の欠片を集めたものに過ぎないのよ。あんた、ほんとにジャーナリスト?
 ちなみにこの大谷氏、昨年暮れに我が国を震撼させた奈良女子児童誘拐殺人事件に関しても「フィギュア萌え族」なるヘンな概念を振りまいて世のオタクたちにいわれのないバッシングを浴びせかけた(この概念の問題点については、「週刊SPA!」(扶桑社)2005年2月1日号の特集記事を読んでいただきたい)。ねえ、あんた、ホントーにジャーナリストなの?デマゴーグだろ!正体見せろよ!!!

 伊藤洋介(平成17年仙台市成人式実行委員会実行委員長)
 評価:77点
 我々の主張をしっかりと要約していた。仙台市の成人式にかける思いが伝わってくる、好感が持てるインタヴューであった。成人式に実務でかかわる立場であり、かつ成人式に新成人として参加する立場として、このインタヴューは貴重であろう。ただ、求心力に欠ける印象を受けた。

 トニー・ラズロ(文筆家)
 評価:90点
 成人式のあり方は住民投票によって決めよ、という立場。このインタヴューはリベラルからの成人式への疑問としてもっとも上質、かつ貴重である。最後の「成人式を「公式的」なものから「公共的」なものにせよ」という主張には感銘を受けた。

 佐藤藍子(女優)
 評価:50点
 成人式廃止は時期尚早、という立場で、とりあえず両論併記だが、当たり障りのない一般論に終始している印象を受けた。

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2005年1月10日 (月)

トラックバック雑記文・05年01月10日

 仙台市成人式におこしになった皆様、そして関係者の皆様、本当にありがとうございました。皆様の暖かい支持のおかげで、仙台市成人式は無事に成功を収めました!我々仙台市成人式実行委員会は、昨年8月25日の発足から、さまざまな試行錯誤を続けて、ついにこのような形にすることができたのです。実行委員会、そして当日のボランティアスタッフ(19歳と20歳の仙台市民のみで構成されている)の皆様は、今日の成人式を大成功に収めようと、精一杯がんばってくれました。そして私もがんばりました。大声で「これが仙台の成人式だ!」と誇りを持っていえるような結果となりました。
 私は、帰るとき、tiaraway(声優の千葉紗子氏と南里侑香氏のユニット)の「想い出good night」を歌っていたのですが、知らず知らずのうちに涙が出てきました。ここまで来ることができたのだ、と。
 最後に、皆様、本当にありがとうございました!

 週刊!木村剛:立ち上がりませんか、団塊の世代!(木村剛氏・エコノミスト)
 私が今回の成人式における市長や市議会議長の式辞で最も言ってほしかった言葉が「俺たちについて来い!」という思い切った言葉でした。市議会議長がこれに近いような言葉をおっしゃっていたので、感激してしまいました。
 ここからは20歳の莫迦の独り言ですが、「団塊の世代」の皆様には、ぜひともがんばってほしいと思います。上の世代が奮い立たないと、下の世代もどうすればいいか分からない、という面は確かにある。現在のマスコミに若い世代を奮い立たせようという気概はほとんどないと思います。マスコミが扱う若い世代のトピックといったら、たいていは「愚痴」か「若者論」でしょう。しかし、このような行為は「若者論」という自らが傷つくことのないシステムの上で惰眠することしか意味しないのであって、本当に若い世代について知りたい、というのであれば、さまざまなところに出て、行動することが必要なのだと思います。若年層は渋谷や原宿にしかいるのではないのですし、若年層の行動全体を渋谷とか原宿に結びつけることは、「善良な」中高年層に残酷なカタルシスを与えることにしかならないのだと思います。今こそ、現場が声を上げるときではないでしょうか。
 ついでに言っておきますと、今回の成人式で、我々仙台市成人式実行委員会の中でも、20歳の実行委員長に負けず劣らず活躍したのが、55歳の、障害を持った自らの子供が新成人になる女性でした。この人は私なんかよりも何倍も知恵を絞ってくださり、今回の成人式の大成功にも大いに影響を与えてくれた存在であります。先日放送された「OH!バンデス」(ミヤギテレビ)出場のアポイントメントを取ってくれたのもこの人ですし。
 蛇足。木村氏のブログにリンクされていた某サイト(名前は挙げません。自分で探してください。木村氏のブログを探せば簡単に見つかります)で、

 若者にも選択権があることを、ここ数年の行動で知らせてくれましたよね。 アルバイターやニート、パラサイトに至るまで、拒否することも自分だけの利益に繋げることも、自由気ままに生きることも、若者には選択できる。

 なんてことを言っていた人がいました。経済的不公平から失業やフリーターになるのは無視されているので、どうも違和感ばかり残る文章であります。「世間」が若年層に「自立」を強要することが、かえって「自立しない若者」を生み出しているという指摘も斎藤氏などから指摘されています(「Voice」2004年12月号)。成人の日に、「自立」というイデオロギーを至上のものとして捉えることを、一度考え直してみてはいかがでしょうか。
 「スタンダード 反社会学講座」の「第4回 パラサイトシングルが日本を救う」「第8回 フリーターのおかげなのです」「第12回~14回 本当にイギリス人は立派で日本人はふにゃふにゃなのか」PARTには、「世間」のフリーターやパラサイトシングルに対する偏見を見事に斬ってみせています。
 たとえば…

 すでに述べたように、多くの場合、若者の収入は低いので、支出の中に占める家賃の割合は高いのです。20%以上になります。それがさらに搾り取られる結果になります。パラサイトシングルが減れば、たしかに若者の間の格差は縮まるかもしれません。ただし、若者全員がいまより苦しい経済状態に陥って、ですが。  それより捨て置けない問題は、彼らが払った家賃の行く先です。若者が苦労して稼いだ収入が、家賃として「お金持ち」である大家の懐に収まってしまうのです。ひとり暮らしの若者が増加することによって、得をするのは大家だけです。そして今回の検証でおわかりになったと思いますが、大家というのは、少数の富裕層に属する人たちなのです。ひとり暮らしの若者が増えれば増えるほど、若者はより貧乏に、お金持ちはより贅沢な暮らしができるようになるだけのことです。これのどこが、公平な社会なのでしょうか。 (第4回)

 企業が使える人件費は無限ではありません。ひとつのパイを分け合っているのです。フリーターが安月給な分、正社員の給料が多くなる。ということは、全員が正社員になった場合、正社員一人当たりの給与は現行水準より大幅に下がるのです。自分の給料が下がるという犠牲を払ってまでフリーターをやめさせる覚悟が、みなさんにはありますか?(第8回)

 また、現在発売中の「現代思想」2005年1月号(青土社)は、「フリーターとは誰か」という特集を組んでおりますが、特に渋谷望氏の「万国のミドルクラス諸君、団結せよ!? アブジェクションと階級無意識」という論文は、ネオリベラリズム批判の観点からフリーター論を批判しております。渋谷氏には『魂の労働』(青土社)という著書があるのですが、これは未読です。近いうちに読もうと思います。

 千人印の歩行器:引きこもり者に語る言葉は何?(栗山光司氏)
 「ひきこもり」について。「ひきこもり」を語る言説には「若者論」ばかりが集まるのですが、以前の雑記文でも言ったとおり、「ひきこもり」を「若者論」で語るのは徒労です。栗山氏のブログでも紹介されているのですが、斎藤環氏の一連の仕事、特に『ひきこもり文化論』(紀伊國屋書店)はこの問題を考える上で参考になります。
 あと、斎藤氏によれば、「ひきこもり」と似た問題は韓国にも存在するらしいです(「中央公論」2004年3月号)。
 もう一つ。かの曲学阿世の徒、京都大学霊長類研究所教授・正高信男氏が今日の読売新聞で「ひきこもり」に関して相当ひどいことを書いています。正高氏は「ひきこもり」に関する本を本当に読んでいるのでしょうか。近く「またも正高信男の事実誤認と歪曲 ~正高信男という堕落ふたたび~」を公開します。

 お知らせ:「私の体験的成人式論」を、来月頭ごろに公開します。お楽しみに。

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