俗流若者論ケースファイル39・川村克兵&平岡妙子
前回に続き、今回も「AERA」の若年層右傾化論の怪しさについて述べようと思う。ただし、今回は憲法が絡んでいる。検証する記事は、同誌記者の川村克兵氏と平岡妙子氏による「若者「改憲ムード」の浮遊感」(平成17年5月2日・9日合併号に掲載)である。
まず私の憲法に対する立場を述べさせてもらうと、私は「日本一消極的な護憲派」を自称している。というのも、そもそも現在の政治や言論に憲法について語るだけの覚悟があるのか、という点から、元来改憲やむなし、という立場の私も護憲派にならざるを得ないのが実情である。
なぜか。それは、現在語られている憲法論の多くが俗流若者論であることだ。この連載の第30回や第31回でも検証したことだけれども、特に改憲派による改憲論の中でもっとも勢いが強いのが、彼らの問題にしている(彼らが勝手に問題化している?)「今時の若者」は日本国憲法下の欺瞞の上で生まれたものであり、従って彼らに対するもっとも根本的な対策は憲法を改正することだ、という飛躍した論理が平然とまかり通っている。護憲派は護憲派で、彼らは「憲法を守れ」とひたすら叫ぶけれども、他方では「今時の若者」を改憲派と同じような口調で嘆く。要するに、「今時の若者」に対することでは左右の利害が対立していないから、憲法にかこつけた俗流若者論を批判できないのである。このままでは改憲論が俗流若者論に侵食されるのも当然といえようか。従って、(俗流若者論という名の排他的ナショナリズムをしつこく検証する立場としての)私は憲法に関しては「日本一消極的な護憲派」にならざるを得ないのである。
「AERA」の記事の検証を始めよう。私がなぜ今回この記事を採り上げるのか、というと、ここで使われているコメントの多くがむしろ俗流若者論に依拠した改憲論にこそ当てはめるべきだ、と思うからである。もちろん、この記事で引かれている俗流若者論に依拠した「反改憲論」が図式化された「今時の若者」というイメージにのっとって作られたものだということは当然として批判の対象になるとしても、彼らの問題にしている「今時の若者」とほとんど同じようなこと、あるいはもっと過激なことを政治家や右派系の言論人が語っていたとしても、なぜ批判がそちらのほうに行かないのか、という疑問もまた私は抱いている。
さて、それぞれの言説の検証に分け入っていくことにしよう。まず、88ページの1段目から4段目のライターの荷宮和子氏から。
……評論家の荷宮和子さんは、「決まっちゃったことはしょうがない」と考えるのが“団塊ジュニア気質”だと見る。理想なんて夢見ないし、わからない。だから、いまあることには筋を通しておきたい…。
「改憲派が多いのは、みんなが改憲したほうがいいって言ってるみたいだし、という時代の空気を読み取っているだけですよ。深く考えていないんです」
空気が読めない人が、いま、一番バカにされる。他人とまったく同じはイヤだけど、みんなと違うのはもっとイヤ。そんな心理を感じるというのだ。(川村克兵、平岡妙子[2005]、以下、断りがないなら同様)
このような記述を見ていると、つくづく川村氏と平岡氏と荷宮氏が条件反射的にしか現代の若年層を語っていないことを考えさせられる。とりわけ荷宮氏は著書や文章の中では「空気」とか「時代」とか「世代」という言葉を多用するけれども、荷宮氏はそれらの語句の魅力的な感触に囚われすぎていて、結局単なる自意識の発露でしかない(すなわち護憲派であり(荷宮氏の妄想している)「空気」に流されない自分を礼賛している)文章を量産している、というのが荷宮氏の弱点である。もちろん、このコメントも同様だ。この点において《深く考えていない》のは荷宮氏のほうであろう。記事の筆者も、《空気が読めない人が、いま、一番バカにされる》と書いているけれども、少なくとも評論家の故・山本七平氏の『空気の研究』くらいは読んでいただきたいものだ。
次はジャーナリストの斎藤貴男氏である。
「自分に自信のない若者が多い」
ジャーナリストの斎藤貴男さんはそう嘆く。
社会のさまざまな場面で「格差」が広がり、就職できない若者も増えた。少し前まではアイデンティティーを会社に重ね合わせる人もいたけれど、いまや会社と一体感は持てなくなった。
「何者にもなれない不安。自分探しをしても、何もない。アイデンティティーを感じられるのが『日本人である』ということしかなくなった。だから日本が強くあってもらわなきゃ嫌なんですよ」(88ページ4~5段目)
ここまで断定されると、どうも引いてしまう。そもそもこの発言は俗流若者論に依拠した改憲論もさることながら、一部は斎藤氏自身にも降りかかってくるものもある。その部分とは、《アイデンティティーを感じられるのが『日本人である』ということしかなくなった。だから日本が強くあってもらわなきゃ嫌なんですよ》という部分がそれにあたる。私は斎藤氏が、かの曲学阿世の徒・京都大学霊長類研究所の正高信男氏の著書『ケータイを持ったサル』(中公新書)を、朝日新聞と著書『人を殺せと言われれば、殺すのか』(太陽企画出版)及び『安心のファシズム』(岩波新書)で絶賛しているのを見たことがあるのだが、その文章はどう見ても《アイデンティティーを感じられるのが『日本人である』ということ》であり《だから日本が強くあってもらわなきゃ嫌》というものであった。もちろんここでの《日本》は改憲派の妄想としての日本ではないけれども、しかし斎藤氏の「想い出の美化」に基づいた「日本」であることは間違いなかった。
次は精神科医の斎藤環氏である。斎藤氏は護憲派であり、その理由として書かれている「護憲派最大のジレンマ」という論文(斎藤環[2005]に収録)はぜひともお勧めしたいのだが、この記事におけるコメントはいただけない。前回の社会学者の北田暁大氏に続き、斎藤氏(以下、特に断りがなければ「斎藤氏」と表記した場合は斎藤環氏を表すものとする)も信頼できる論者であるだけに、落胆してしまった。
「憲法9条を守るには、ある種の思想が必要でしょう。でも、今、思想ぐらい若い人に忌み嫌われているものはない。『問題をうじうじ考えてるヤツはうざい』『何かを主張するヤツは痛い』と、生理的、脊髄反射的な嫌悪感。そもそも改憲というテーマへの関心は低く、どーでもいい。ならば、周りに『あいつ何かありそう』と怪しまれないほうが言いし、すでにある自衛隊を否定するような憲法ではなく、現状追認でわかりやすいほうがいい、となる。でも、国民投票になったら行かないと思う」(89ページ3~4段目)
ひどい断定である。確かに《憲法9条を守るには、ある種の思想が必要》なのは痛いほど実感している(もちろん俗流若者論に対する反駁で)。しかし、私見によれば《今、思想ぐらい》俗流若者論に《忌み嫌われいているものはない》。《問題をうじうじ考えてるヤツはうざい》と考えているのは、むしろ俗流若者論に依拠する俗流論壇人ではないか。もちろん彼らのほうが《改憲というテーマへの関心は低く、どーでもいい》(蛇足だが、このような表記もどうにかならないものか)。若年層ばかりたたく言説は、その裏で進んでいる大きくて危険な動きを見落とす、というパターンの典型を見ているようである。
映画作家の河瀬直美氏。
みんな、実感を持って改憲を語っているのかな?ほんとにほんとに「自分ごと」として。去年生まれた長男の遺児苦をしていて思います。このあどけない笑顔を守りたい。でも、そんな想いとはかけ離れたところで、議論は繰り返されている気がする。(河瀬氏の発言については全て89ページ別枠)
その通りである。おそらく現行憲法が改正されて我が国が軍隊を持つようになっても、国会議員の何人が自分の子供を軍隊に行かせるか。マイケル・ムーアの「華氏911」において、ムーアが国会議員に「自分の子どもをイラクに派兵しよう!」というビラを配るのと似た事態が起こって欲しくないものだ。川瀬氏は、若年層に上のような言葉を語るより先に国会議員に言ったほうがいいだろう。河瀬氏は《「憲法を変えれば何かが変わるかも」という若者が多いのでは》とも語っているけれども、それも若年層よりもむしろ国会議員と俗流右派論壇人である。また、《子どもに絡む犯罪が多発してきた背景には……》ともっともらしく語っているけれども、そのような犯罪は全体として減少している。
作家の雨宮処凜氏。雨宮氏のコメント(90ページ別枠)は、前半部分は説得力がある。しかし最後の段落で唐突に若年層について触れるところはやはり若年層より先に国会議員に言うべき言葉だろう。
若者が、強い改憲論を言う気持ちは分かる。私も特攻隊には憧れたし。国家に思いきり必要とされてみたい。普段は何の影響力も持たなくて、生きづらいから。まったく社会とつながっていないからこそ、「公」といいたがる。自衛軍を持ったらどうなるんだとか具体的ではない。考えてても、戦争で大活躍する自分とか、ほとんど妄想。国家を語ることで、鬱屈を発散しているんだと思いますよ。
まさに俗流若者論にこそ当てはまる。それよりも、自分では戦争で出向かないくせに、顔も知らぬ若年層が戦争に出向くことで「国家」を妄想する人たちのほうが危険だと思うのだが。
それぞれのコメントの検証はこれで終わりにしよう。しかしこの記事で引かれている全てのコメントが、若年層よりもむしろ国会議員に言ったほうがいいだろう、という類のものであった。
どうして彼らは若年層ばかりを叩きたがるのだろうか。それについて詳しいことはあまりわからない。ただ一つだけ可能性があるとすれば、若年層の事を問題化した言説のほうが、国会議員の言説を検証した言説よりも売れる、ということか。しかし、若年層ばかりを問題化し、彼らの見ていない(あえて無視している)ところにおいてもっと大きな問題が進行していることを考えれば、徒に若年層ばかり叩いている状況ではないのである。
彼らが若年層ばかり叩くのは、彼らが我が国の未来を左右するから、と考えているからではないだろうか。しかし、そのような考え方には一理あるとしても、かえってそのような考え方が、俗流若者論における無責任、すなわち現在の状況を無視して未来にばかり期待したがる、という欺瞞として表出することが往々にしてある。
だから、この記事で展開されている若年層批判はかえって現在の状況に対する無関心を生み出す、とまではいかなくとも、少なくとも現在の状況に対する決定打とはなりえないのである。政治家たちの危険な言動を無視して、若年層ばかりに目を向けて、しかも益体のない、あるいは的はずれな「解説」ばかり生み出す、というのは、そのメディアはやはり政治に対する対抗意識を失っている、といわざるを得ない。
目を覚ませ、「AERA」。今やるべきは、そのようなことではないはずだ。
参考文献・資料
川村克兵、平岡妙子[2005]
川村克兵、平岡妙子「若者「改憲ムード」の浮遊感」=「AERA」2005年5月2・9日合併号、朝日新聞社
斎藤環[2005]
斎藤環『「負けた」教の信者たち』中公新書ラクレ、2005年4月
鈴木謙介『カーニヴァル化する社会』講談社現代新書、2005年5月
内藤朝雄『いじめの社会理論』柏書房、2001年7月
山本七平『空気の研究』文春文庫、1983年10月
杉田敦「「彼ら」とは違う「私たち」――統一地方選の民意を考える」=「世界」2003年6月号、岩波書店
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