2005年7月27日 (水)

俗流若者論ケースファイル39・川村克兵&平岡妙子

 前回に続き、今回も「AERA」の若年層右傾化論の怪しさについて述べようと思う。ただし、今回は憲法が絡んでいる。検証する記事は、同誌記者の川村克兵氏と平岡妙子氏による「若者「改憲ムード」の浮遊感」(平成17年5月2日・9日合併号に掲載)である。

 まず私の憲法に対する立場を述べさせてもらうと、私は「日本一消極的な護憲派」を自称している。というのも、そもそも現在の政治や言論に憲法について語るだけの覚悟があるのか、という点から、元来改憲やむなし、という立場の私も護憲派にならざるを得ないのが実情である。

 なぜか。それは、現在語られている憲法論の多くが俗流若者論であることだ。この連載の第30回第31回でも検証したことだけれども、特に改憲派による改憲論の中でもっとも勢いが強いのが、彼らの問題にしている(彼らが勝手に問題化している?)「今時の若者」は日本国憲法下の欺瞞の上で生まれたものであり、従って彼らに対するもっとも根本的な対策は憲法を改正することだ、という飛躍した論理が平然とまかり通っている。護憲派は護憲派で、彼らは「憲法を守れ」とひたすら叫ぶけれども、他方では「今時の若者」を改憲派と同じような口調で嘆く。要するに、「今時の若者」に対することでは左右の利害が対立していないから、憲法にかこつけた俗流若者論を批判できないのである。このままでは改憲論が俗流若者論に侵食されるのも当然といえようか。従って、(俗流若者論という名の排他的ナショナリズムをしつこく検証する立場としての)私は憲法に関しては「日本一消極的な護憲派」にならざるを得ないのである。

 「AERA」の記事の検証を始めよう。私がなぜ今回この記事を採り上げるのか、というと、ここで使われているコメントの多くがむしろ俗流若者論に依拠した改憲論にこそ当てはめるべきだ、と思うからである。もちろん、この記事で引かれている俗流若者論に依拠した「反改憲論」が図式化された「今時の若者」というイメージにのっとって作られたものだということは当然として批判の対象になるとしても、彼らの問題にしている「今時の若者」とほとんど同じようなこと、あるいはもっと過激なことを政治家や右派系の言論人が語っていたとしても、なぜ批判がそちらのほうに行かないのか、という疑問もまた私は抱いている。

 さて、それぞれの言説の検証に分け入っていくことにしよう。まず、88ページの1段目から4段目のライターの荷宮和子氏から。

 ……評論家の荷宮和子さんは、「決まっちゃったことはしょうがない」と考えるのが“団塊ジュニア気質”だと見る。理想なんて夢見ないし、わからない。だから、いまあることには筋を通しておきたい…。

 「改憲派が多いのは、みんなが改憲したほうがいいって言ってるみたいだし、という時代の空気を読み取っているだけですよ。深く考えていないんです」

 空気が読めない人が、いま、一番バカにされる。他人とまったく同じはイヤだけど、みんなと違うのはもっとイヤ。そんな心理を感じるというのだ。(川村克兵、平岡妙子[2005]、以下、断りがないなら同様)

 このような記述を見ていると、つくづく川村氏と平岡氏と荷宮氏が条件反射的にしか現代の若年層を語っていないことを考えさせられる。とりわけ荷宮氏は著書や文章の中では「空気」とか「時代」とか「世代」という言葉を多用するけれども、荷宮氏はそれらの語句の魅力的な感触に囚われすぎていて、結局単なる自意識の発露でしかない(すなわち護憲派であり(荷宮氏の妄想している)「空気」に流されない自分を礼賛している)文章を量産している、というのが荷宮氏の弱点である。もちろん、このコメントも同様だ。この点において《深く考えていない》のは荷宮氏のほうであろう。記事の筆者も、《空気が読めない人が、いま、一番バカにされる》と書いているけれども、少なくとも評論家の故・山本七平氏の『空気の研究』くらいは読んでいただきたいものだ。

 次はジャーナリストの斎藤貴男氏である。

 「自分に自信のない若者が多い」

 ジャーナリストの斎藤貴男さんはそう嘆く。

 社会のさまざまな場面で「格差」が広がり、就職できない若者も増えた。少し前まではアイデンティティーを会社に重ね合わせる人もいたけれど、いまや会社と一体感は持てなくなった。

 「何者にもなれない不安。自分探しをしても、何もない。アイデンティティーを感じられるのが『日本人である』ということしかなくなった。だから日本が強くあってもらわなきゃ嫌なんですよ」(88ページ4~5段目)

 ここまで断定されると、どうも引いてしまう。そもそもこの発言は俗流若者論に依拠した改憲論もさることながら、一部は斎藤氏自身にも降りかかってくるものもある。その部分とは、《アイデンティティーを感じられるのが『日本人である』ということしかなくなった。だから日本が強くあってもらわなきゃ嫌なんですよ》という部分がそれにあたる。私は斎藤氏が、かの曲学阿世の徒・京都大学霊長類研究所の正高信男氏の著書『ケータイを持ったサル』(中公新書)を、朝日新聞と著書『人を殺せと言われれば、殺すのか』(太陽企画出版)及び『安心のファシズム』(岩波新書)で絶賛しているのを見たことがあるのだが、その文章はどう見ても《アイデンティティーを感じられるのが『日本人である』ということ》であり《だから日本が強くあってもらわなきゃ嫌》というものであった。もちろんここでの《日本》は改憲派の妄想としての日本ではないけれども、しかし斎藤氏の「想い出の美化」に基づいた「日本」であることは間違いなかった。

 次は精神科医の斎藤環氏である。斎藤氏は護憲派であり、その理由として書かれている「護憲派最大のジレンマ」という論文(斎藤環[2005]に収録)はぜひともお勧めしたいのだが、この記事におけるコメントはいただけない。前回の社会学者の北田暁大氏に続き、斎藤氏(以下、特に断りがなければ「斎藤氏」と表記した場合は斎藤環氏を表すものとする)も信頼できる論者であるだけに、落胆してしまった。

 「憲法9条を守るには、ある種の思想が必要でしょう。でも、今、思想ぐらい若い人に忌み嫌われているものはない。『問題をうじうじ考えてるヤツはうざい』『何かを主張するヤツは痛い』と、生理的、脊髄反射的な嫌悪感。そもそも改憲というテーマへの関心は低く、どーでもいい。ならば、周りに『あいつ何かありそう』と怪しまれないほうが言いし、すでにある自衛隊を否定するような憲法ではなく、現状追認でわかりやすいほうがいい、となる。でも、国民投票になったら行かないと思う」(89ページ3~4段目)

 ひどい断定である。確かに《憲法9条を守るには、ある種の思想が必要》なのは痛いほど実感している(もちろん俗流若者論に対する反駁で)。しかし、私見によれば《今、思想ぐらい》俗流若者論に《忌み嫌われいているものはない》。《問題をうじうじ考えてるヤツはうざい》と考えているのは、むしろ俗流若者論に依拠する俗流論壇人ではないか。もちろん彼らのほうが《改憲というテーマへの関心は低く、どーでもいい》(蛇足だが、このような表記もどうにかならないものか)。若年層ばかりたたく言説は、その裏で進んでいる大きくて危険な動きを見落とす、というパターンの典型を見ているようである。

 映画作家の河瀬直美氏。

 みんな、実感を持って改憲を語っているのかな?ほんとにほんとに「自分ごと」として。去年生まれた長男の遺児苦をしていて思います。このあどけない笑顔を守りたい。でも、そんな想いとはかけ離れたところで、議論は繰り返されている気がする。(河瀬氏の発言については全て89ページ別枠)

 その通りである。おそらく現行憲法が改正されて我が国が軍隊を持つようになっても、国会議員の何人が自分の子供を軍隊に行かせるか。マイケル・ムーアの「華氏911」において、ムーアが国会議員に「自分の子どもをイラクに派兵しよう!」というビラを配るのと似た事態が起こって欲しくないものだ。川瀬氏は、若年層に上のような言葉を語るより先に国会議員に言ったほうがいいだろう。河瀬氏は《「憲法を変えれば何かが変わるかも」という若者が多いのでは》とも語っているけれども、それも若年層よりもむしろ国会議員と俗流右派論壇人である。また、《子どもに絡む犯罪が多発してきた背景には……》ともっともらしく語っているけれども、そのような犯罪は全体として減少している。

 作家の雨宮処凜氏。雨宮氏のコメント(90ページ別枠)は、前半部分は説得力がある。しかし最後の段落で唐突に若年層について触れるところはやはり若年層より先に国会議員に言うべき言葉だろう。

 若者が、強い改憲論を言う気持ちは分かる。私も特攻隊には憧れたし。国家に思いきり必要とされてみたい。普段は何の影響力も持たなくて、生きづらいから。まったく社会とつながっていないからこそ、「公」といいたがる。自衛軍を持ったらどうなるんだとか具体的ではない。考えてても、戦争で大活躍する自分とか、ほとんど妄想。国家を語ることで、鬱屈を発散しているんだと思いますよ。

 まさに俗流若者論にこそ当てはまる。それよりも、自分では戦争で出向かないくせに、顔も知らぬ若年層が戦争に出向くことで「国家」を妄想する人たちのほうが危険だと思うのだが。

 それぞれのコメントの検証はこれで終わりにしよう。しかしこの記事で引かれている全てのコメントが、若年層よりもむしろ国会議員に言ったほうがいいだろう、という類のものであった。

 どうして彼らは若年層ばかりを叩きたがるのだろうか。それについて詳しいことはあまりわからない。ただ一つだけ可能性があるとすれば、若年層の事を問題化した言説のほうが、国会議員の言説を検証した言説よりも売れる、ということか。しかし、若年層ばかりを問題化し、彼らの見ていない(あえて無視している)ところにおいてもっと大きな問題が進行していることを考えれば、徒に若年層ばかり叩いている状況ではないのである。

 彼らが若年層ばかり叩くのは、彼らが我が国の未来を左右するから、と考えているからではないだろうか。しかし、そのような考え方には一理あるとしても、かえってそのような考え方が、俗流若者論における無責任、すなわち現在の状況を無視して未来にばかり期待したがる、という欺瞞として表出することが往々にしてある。

 だから、この記事で展開されている若年層批判はかえって現在の状況に対する無関心を生み出す、とまではいかなくとも、少なくとも現在の状況に対する決定打とはなりえないのである。政治家たちの危険な言動を無視して、若年層ばかりに目を向けて、しかも益体のない、あるいは的はずれな「解説」ばかり生み出す、というのは、そのメディアはやはり政治に対する対抗意識を失っている、といわざるを得ない。

 目を覚ませ、「AERA」。今やるべきは、そのようなことではないはずだ。

 参考文献・資料
 川村克兵、平岡妙子[2005]
 川村克兵、平岡妙子「若者「改憲ムード」の浮遊感」=「AERA」2005年5月2・9日合併号、朝日新聞社
 斎藤環[2005]
 斎藤環『「負けた」教の信者たち』中公新書ラクレ、2005年4月

 鈴木謙介『カーニヴァル化する社会』講談社現代新書、2005年5月
 内藤朝雄『いじめの社会理論』柏書房、2001年7月
 山本七平『空気の研究』文春文庫、1983年10月

 杉田敦「「彼ら」とは違う「私たち」――統一地方選の民意を考える」=「世界」2003年6月号、岩波書店

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2005年7月 3日 (日)

俗流若者論ケースファイル31・細川珠生

 前回は憲法にかこつけた俗流若者論を検証したけれども、「憲法」というものに対して過剰に何らかの意味・幻想をもっているのは、保守系の政治家よりもむしろ保守系の自称「識者」のほうに多い。しかも、彼らの抱いている「幻想」は、政治家のそれよりも格段に強いものだ。憲法を変えて、憲法に「国家意識」を取り戻せば、少年犯罪も不登校もなくなる、と彼らは言う。このような奇妙な論理に接するたびに、私は彼らの「国家意識」こそ問いたくなる。所詮、彼らの言う「国家」は、俗流若者論的な懐古主義に基づくものでしかないのか、と。俗流若者論という排除の論理に基づく共同幻想に支えられた「国家」など、どこが国家だ。

 今回はそのような「国家」、すなわち自らの幻想としての「国家」を取り戻すために憲法を改正しろ、と主張する自称「識者」の文章を検証する。ジャーナリスト・細川珠生氏の「日本国憲法サン、60歳定年ですよ」(「諸君!」平成16年5月号に掲載)である。なにせこの記事、編集部がつけたものだろうが、のっけからリード文で《昨今の日本の衰弱、自己中心的な若者の増加の原因は「憲法」に起因するのではないか!?》(細川珠生[2004]、以下、断りがないなら同様)とかましているのだから情けない。そして本文を読んでいても、飛躍の連続であった。まったく、《自己中心的な》細川氏の登場の《原因は「憲法」に起因するのではないか!?》と思ってしまったほどだ。自分の不愉快に思う問題の全てを「憲法」(という幻想)に結びつけるのは、もうやめていただけまいか。

 67ページ3段目において、細川氏は《民主党幹部の言うように、「あと五年、十年改正が遅くなったって、そんなに大きなリスクはない」といえる状況下にあるとは私には思えない》と書く。このブログの愛読者であればここで笑うべきだろう。なぜなら、細川氏がなぜ《「あと五年、十年改正が遅くなったって、そんなに大きなリスクはない」といえる状況下にあるとは私には思えない》と言えるのかについての理由を述べたのが67ページ3段目から68ページ3段目までなのだが、その部分が個人的な恨み節をただ綴っているだけなのだから。

 67ページ1段目、《今、テレビでは、身近で何かトラブルが発生した場合、弁護士にその法的根拠を指導してもらい、どういう解決の方法があるかを取り上げる番組がはやりである》状況について、細川氏は68ページ1段目において《あまりにも私的なケースが多い》と指摘し、《冷静に話し合えば解決する問題》と言う。それについては私は異論を挟むつもりはないし、そもそもこの手の番組はそのような理由から見ていない。しかし細川氏は、このようなことに過剰な難癖をつけてしまう。曰く、《冷静に話し合えば解決する問題でも、裁判沙汰にする風潮が日本でも高まってきているが、これも現行憲法の悪しき「理念」――「権利の重視」と「義務の軽視」が拡大してきているからではないだろうか》と言ってしまう。正直言って呆れてしまった。まず、この手の番組で、何らかの些細な行為に法的な根拠が与えられたからといっても、実際に裁判沙汰にしてしまう人が何人いるだろうか。多くの人は、これらの番組を単なる「ネタ」として楽しんでいる程度ではないだろうか。

 私が笑ってしまったのは、68ページ2段目の投票率について述べたくだりである。このようなことさえも「憲法」のせいにできる細川氏の感性というもののほうが異常なのではないか、と思ってしまう。例えば細川氏は、《「誰が(総理大臣を)やったって、同じ」「選挙なんて、自分ひとりがマジメに行ったところで、何も変わらない」と、政治への無関心を、あたかももっともらしく語る人が多いが、本当にそうだろうか。ならば、なぜ、二十歳以上の国民全員に、選挙権が与えられているのだろうか》と述べるけれども、論点がずれていやしまいか。要するに、《ならば、なぜ、二十歳以上の国民全員に、選挙権が与えられているのだろうか》という問いかけが、政治に対して何も関心も期待も持っていない人に対して少しでも意味のあるものになりうるか、ということだ。一回、細川氏は、出馬してみたらどうか。
 さらに同じページで、《ましてや、国民が、「国のため」に命をささげるなどとは、とんでもないことだと思っている。ロシア、中国、北朝鮮、韓国、台湾、シンガポール、マレーシアなど日本の周辺国のほとんどが採用している徴兵制も、「とんでもない」という意見が大勢を占めている》と書いているけれども、恣意的な選定ではないか。どうしてアジアなのだろう?アメリカやヨーロッパはどうなのだろうか(ちなみに多くの先進国が徴兵制を廃止している傾向にあるというのは周知の通り)。また、韓国では、徴兵制に否定的な考え方を持つ若年層が増えているというデータもある(尹載善[2004])。ちなみに本筋から外れるけれども、徴兵制が決して「ひきこもり」の解決につながらないことも指摘しておきたい。

 さて、本筋に戻ろう。案の定、細川氏は、68ページ3段目において、《独断かもしれないが、私は、これらの問題は全て、今の「日本国憲法」に起因すると思うのだ》と言ってしまう。漫画やアニメでは「お約束」は許されるけれども(もちろん製作者の技量にもよる)、憲法論で「お約束」が許されるわけがない。さらに細川氏は、このように妄想を堂々と開陳するのだから、たまったものではない。

 結局のところ、他国の占領下にあった時に、他国の人の手によって作られた憲法によって治められている国というのは、そこに住む人々も、“それなりの人”にしかならないのではないだろうか。何か他人任せで主体性もなく、さまざまな矛盾にも気づかずに、九条のようにただ「戦争放棄の日本」を外に唱えればそれで世界が「日本はいい国だ」と納得してくれるものだと思いこんでいる。日本の伝統や文化が何たるかも理解できず、何よりも自己の生活、つまり自分だけが大事で大切だ、何でも自分の思い通りにすることが正しいんだと思い込む、それが今の普通の「日本人」の姿であり、ふと考えてみれば、まさに「日本国憲法」の精神に「のっとった」国民ばかりになっただけともいえるのかもしれない。

 まったく、細川氏の現在の社会に対する認識が、透けて見えるような文章ではないか。細川氏は、自分の不愉快に思う事例は全て「憲法」のせいだ、と思い込み、それらを変えれば即刻日本は良くなる(=自分の思い道理になる)とでも妄想しているのだろう。まったく、《何か他人任せで主体性も》ないのは細川氏であり、《日本の伝統や文化が何たるかも理解できず、何よりも自己の生活、つまり自分だけが大事で大切だ、何でも自分の思い通りにすることが正しいんだと思い込む、それが》細川氏なのだ。つまり細川氏の理論に従えば、細川氏こそ《「日本国憲法」の精神に「のっとった」国民》と言えるのである。何かにつけて「憲法」に責任をなすり付け、「国家」を持ち出したがるのは、自分の精神が脆弱な証拠である。

 案の定、同様の妄想を、細川氏は72ページでも開陳してしまうのである。曰く、

 この間に、「憲法」というものの、国家における重要性を説いてこなかった政治やマスコミの責任は大きい。……その結果、憲法に無関心であり無知な国民が出来上がり、その国民の代表者である国会議員が、憲法をどうするべきかということに、意見もないような国となってしまった。政治かも、国民も、自分の懐だけが潤えばいいという意識にどっぷりと漬かっている。親としての責任、子供としての務め、社会人としての自覚、仕事における使命感など、お金に換算できないことには関心をもたないという、“空っぽ”な人間ばかりがはびこる社会となってしまった。

 一体、何を基準として語っているのだろう。所詮これらの物言いは、自分こそが国家(=細川氏の幻想としての「国家」)を救うことができる存在であり、自分の不愉快に思う人々を罵倒するためだけのロジックである。それにしても、この極めてステレオタイプな細川氏の認識はなんなのだろう。保守論壇という狭い世界でしか生きていけなかったからこうなるのか。それともこの「諸君!」の読者に媚びるためなのか。いずれにせよ、細川氏の認識が極めて一方的なのは確かだ。

 これ以降の文章に対する検証は、細川氏の同様の妄想が開陳されているだけか、あるいは単なる保守論壇の俗流憲法論の受け売りでしかないので省略するけれども、この文章で問いかけたいのは、細川氏の如く「憲法」を過剰に敵視「するため」に「今時の若者」をはじめとする「今時の日本人」を批判するというのが、憲法を論じる態度として許されるべきなのか、ということである。

 立憲主義の考えに基づくのであれば、憲法とは、国民が国家に充てた命令である。それゆえ、細川氏の如き改憲派が抱きがちな妄想、すなわち「憲法が国民の義務を解いてこなかったから、日本はここまで堕落してしまった」という妄想や、護憲派が抱きがちな妄想、すなわち「憲法の理念を生活に浸透させなければいけない」という妄想の入り込む余地はない。しかし、現実において憲法は、限りなく「政治的」なものとして語られている。憲法にかこつけて俗流若者論を開陳する政治家や自称「識者」は(改憲派だけでなく護憲派にもいる。改憲派に比べれば極めて少数であるが)、憲法というものの本質を殺してしまっているのである。

 ここからは俗流保守論壇に限定して話を進めるけれども、憲法を批判するためだけに「今時の若者」及び「今時の日本人」を感情的に批判する、ということはすなわち、憲法とは何かという問いかけを最初から飛び越えて、「今時の若者」「今時の日本人」を「どうにかする」ためだけに憲法が持ち出されることになり、憲法の歴史や学説や性質をまったく踏まえないものになってしまう。それだけではなく、彼らは憲法の矛盾や欺瞞から「今時の若者」「今時の日本人」が生まれてくる、というけれども、では聞こう、憲法はすべからく無謬であるべきなのか。憲法が無謬であれば、「今時の若者」「今時の日本人」はどうにかできるのか。

 憲法といえど人間の作ったものであるから、いくら改正されてもそれは無謬であるはずはない。ましてや、憲法の矛盾や欺瞞から「今時の若者」「今時の日本人」が生まれてくるなど、倒錯した議論もいいところだ。結局のところ、憲法にかこつけた俗流若者論というものは、自分の不愉快に思う事は全て憲法改正が解決してくれる、というヒロイズムであり、自分の妄想を国家に反映させようとする自分勝手な政治認識であり、現実の政治問題を通り越してまず「今時の若者」を何とかすべきだ、という生活保守主義に過ぎないのである(ちなみに細川氏はこの文章の中で何度も「今時の日本人」を罵倒しているけれども、そのロジックのほとんど全てが細川氏自身に当てはまる)。

 憲法にかこつけた俗流若者論というものは、ここまで問題を持っているのである。そして、「今時の若者」「今時の日本人」を「どうにかする」ことが至上命題となり、憲法や教育基本法などの改正もそれにしたがって行われなければならない、という、社会で解決されなければならない問題、あるいはそのような考え方の基盤となっているものこそを問われなければならない問題を最大の政治問題として国家に丸投げすることこそ、最大の政治的無関心なのである。投票率ばかりが問題なのではない、そのような考え方の蔓延のほうがよほど問題である。

 参考文献・資料
 細川珠生[2004]
 細川珠生「日本国憲法サン、60歳定年ですよ」=「諸君!」2004年5月号、文藝春秋

 奥平康弘、宮台真司『憲法対論』平凡社新書、2002年12月
 橋爪大三郎『人間にとって法とは何か』PHP新書、2003年10月
 長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』ちくま新書、2004年4月
 歪、鵠『「非国民」手帖』情報センター出版局、2004年4月
 山本七平『日本はなぜ敗れるのか』角川Oneテーマ21、2004年3月
 ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』岩波文庫、上下巻、1987年2月

 井上達夫「削除して自己欺瞞を乗り越えよ」=「論座」2005年6月号、朝日新聞社
 小熊英二「改憲という名の「自分探し」」=「論座」2005年6月号、朝日新聞社
 河野勝「なぜ、憲法か」=「中央公論」2005年5月号、中央公論新社

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2005年6月28日 (火)

俗流若者論ケースファイル30・森岡正宏&杉浦正健&葉梨康弘

 編集長の薬師寺克行氏をはじめ、「論座」編集部の皆様には、よくやったと言いたい。「論座」平成17年6月号の憲法特集の中で、「論座」編集部のクレジットがついている記事「自民党議員はこんなことを言っている!」というものがあるのだが、その内容は、平成16年の自民党憲法調査会議における自民党改憲派議員の「妄言録」である。

 この「妄言録」を読んでいると、自民党で「改憲派」と称されている人の一部が、いかに自らの思い込みと妄想だけで憲法改正という国家的な大プロジェクトに取り組もうとしているかがわかる。そして、「論座」編集部の人たちは気づいているかどうかはわからないが、その中でも目立つのが、俗流若者論との結託が強いものであり、今回はそれらの言説を検証することにしよう。

 例えば、森岡正宏氏(「無痛文明論」の森岡正博氏ではない)は、

 あまりにも個人が優先しすぎで、公というものがないがしろになってきている。……私は徴兵制というところまでは申し上げませんが、少なくとも国防の義務とか奉仕活動の義務というものは若い人たちに義務付けられるような国にしていかなければいけないのではないかと。(朝日新聞社[2005]、以下、断りがないなら同様)

 《国防の義務とか奉仕活動の義務》を設けることによって若年層を「正常化」せよ、という議論は簡単に論破できる。というのも、我が国は戦後一貫して徴兵制や奉仕義務を採用してこなかったからである。それなのに、現代の若年層の「問題行動」を是正するために徴兵制を導入せよ!という議論が最近になってまかり通ってきているけれども、これは明らかに若年層バッシングによるナショナリズムの高揚以外の何物でもないのではあるまいか。

 せめて徴兵制についてある程度調べてから言っていただきたいものである。また、徴兵制が起こす悪影響についても調べておく必要があるだろう。例えば韓国の事例を紹介している翰林情報産業大学教授の尹載善氏は、韓国での軍事文化が社会に及ぼす悪影響として、徴兵制を経験した男性が暴力的になったり、あるいは大酒飲みになることなどを挙げている。また、精神科医の斎藤環氏によれば、韓国においても「ひきこもり」は進行しており(斎藤環[2003][2005])、徴兵制を敷いて「ひきこもり」を解決せよ、という議論がまったく無意味なものであることを示唆している。

 もう一つ、これはマイケル・ムーアの「華氏911」でも語られていたことであり、尹氏や斎藤氏も触れていることであるが、徴兵制を敷くと、常にそれの犠牲になるのが経済的に地位の低い層である、ということも多い。それにしても森岡氏、そして森岡氏と同様の考えを持っている議員の人たちは、もし徴兵制が敷かれたら、自分の子孫に向かって同じ事を言って、軍隊に入隊させるのだろうか。「華氏911」における、ムーアが「自分の子供を自衛隊に入隊させよう!」というビラを議員に配るような事態にならないことを祈る。

 次は杉浦正健氏である。

 日本のいまの憲法はどちらかというと西洋に引きずられてワーッと権利のほうへ傾斜した。……フィリピンでは、子どもを5人以上つくる。保険制度ありませんから、子供を5人つくると子どもが親を養ってくれる。だから子供をしっかり育てて親孝行をしてもらうといういい循環である社会です。いまの日本の子どもに親孝行という気持ちはないわけではないだろうけれども、自然に親に孝養を尽くす、親が年とったら扶助するという気持ちになるかどうかが問題。

 杉浦氏よ、これは社会保障関係の委員会ではないのである。読者の皆様にも、これがあくまでも自民党の憲法調査会で発せられた発言であることを肝に銘じていただきたい。そもそも議論が倒錯してはいまいか。この文脈から考えるのであれば、杉浦氏が最も先に主張するべきは社会保障制度の撤廃であろう(ただしこれは憲法25条に明らかに違反する)。

 さて、発言の検証に移るけれども、明らかに国柄が違う2つの国を同列に並べて考えるというのが問題であるし、またこの文章を読んだら論点が二転三転しているのもよくわかるだろう。しかも杉浦氏、《いまの日本の子どもに親孝行という気持ちはないわけではないだろうけれども》と語っているけれども、これは偏見としか言いようがないだろう。《自然に親に孝養を尽くす、親が年とったら扶助するという気持ちになるかどうかが問題》というのも。

 それにしても杉浦氏、憲法改正して少子化を解決しろ!とでも言いたいのだろうか?せめて政策研究大学院大学教授・松谷明彦氏の章しか悲観論批判でも読んで出直していただきたい。また、杉浦氏は、フィリピンの憲法がいかなるものであるか、ということについても言及するべきであろう。

 極めつけは葉梨康弘氏の発言だ。頭に来たので全文引用する。

 たくさんの青年海外協力隊の方がインドネシアで真面目に働いている。ところが、彼らが日本に帰って、家の前を掃いているかといったら、道を掃かない。つまり、なんとなく世界市民主義的なことだけが格好いいという形の教育が今なされていて、足元の同じボランティアをやらない。日本の国内もそう。神戸の震災があれば行く。ナホトカ号があれば行く。マスコミが言うときだけ行って(筆者注:原文では《言って》になっているが、明らかに誤植であろう)、私たちの意識というのが極めて偽善の社会になっているのではないか。ですから、むしろ国家意識ということでボーンと頭から説得するのではなくて、今の戦後教育の中で育ってきた私たちは極めて偽善の中に生きている。この憲法だって、だから主権在民と言った。それから、国際協力しかうたわれていない。日本国内の協力が一切うたわれていないということが、非常に中途半端な若者を育ててしまった。

 まったく、ここまで露骨な俗流若者論を堂々と開陳して恬然としている葉梨氏の心理がが知れない。また、このような飛躍した暴論を簡単に受け入れてしまう他の議員たちも、このような動機から憲法改正に同調するということが、いかに危険なものであるということを、俗流若者論を党綱領および行動原理とする政党が与党にならないとわからないのだろうか。そもそも俗流若者論とは、若年層の問題を何か単一のものになすりつけたり、あるいは彼らの精神の問題に矮小化することによって、社会構造的な問題を隠蔽するという側面を持っている。そのような無責任な言論体系に政治を任せることがどうしてできようか。

 さて、本題に入ろう。まず、葉梨氏の提示している事例が極めて恣意的であるし、しかもそれを《なんとなく世界市民主義的なことだけが格好いいという形の教育が今なされていて、足元の同じボランティアをやらない》などと結論付けてしまうのは飛躍であろう。そもそも《なんとなく世界市民主義的なことだけが格好いいという形の教育》とは、いかなるものを指すのか教えてはくれまいか。

 また、《この憲法だって、だから主権在民と言った》と葉梨氏は語っているけれども、《だから》が何をさすかわからない。葉梨氏は《今の戦後教育の中で育ってきた私たちは極めて偽善の中に生きている》というのは(これも正しいかどうかは検証する必要があろう)戦後の状況であると語っているのだから、《主権在民と言った》というのは戦前から《極めて偽善の中に生きている》状況があり、だから《主権在民》が憲法に書かれたと葉梨氏は言わなければならないはずである。この発言から、いかに葉梨氏がその場その場の思い込みによって語っているかがわかるはずだ。また、葉梨氏の幻想としての「戦後」と「戦後以外」という図式が葉梨氏のこの暴論を支えているのは明らかであろう(ちなみに葉梨氏は昭和34年(1959年)生まれであるらしい)。あともう一つ、《非常に中途半端な若者》がどのような人を指すのか教えてくれ。

 それにしても、憲法改正の最前線に立っている人たちが、いかに幻想としての「戦前」や「戦後」を妄信していたり、あるいは「今時の若者」に対する敵愾心が改憲へのエンジンになっていたりとかいった現状が、自民党の改憲派議員集団の中で着々と進行しているというのが恐ろしいことに思えてならない。俗流若者論による政治とは、人々の「今時の若者」に対する敵愾心を回収し、それを政治に反映させることによって、「今時の若者」を「正常化」しているという幻想を持たせることはできるけれども、問題の本当の解決にはなんら影響を及ぼさない。そもそも俗流若者論は、自分を「正義」と規定し、さらに自らの過去をタブー化するという性質を持っており、若年層をバッシングするためならいかなる書き飛ばしも厭わない。俗流若者論は、「今時の若者」をバッシングすることには長けているけれども、それ以外にはまったく無能である。

 かつて、ジャーナリストの西村幸祐氏を批判したとき、西村氏が「2ちゃんねる」に対して「2chが左翼勢力によって毒された言論状況を打破してくれる!」という「物語」に陶酔している、ということを私は指摘したけれども、ここで取り上げた森岡氏、杉浦氏、そして葉梨氏に共通しているのは、「憲法改正が左翼勢力によって毒された状況を打破してくれる!」という空疎な「物語」に他ならない。このような「物語」に心酔することは、憲法をめぐる冷たい現実から目を逸らすばかりでなく、改憲が及ぼす善悪両面のファクターを無視することになる。

 私は改憲それ自体は否定しない。しかし、このように、「改憲」とか「戦後」とか「戦前」なんかに過度の幻想を抱いている人たちによる改憲は、結局のところはこれらの人たちの「自己実現」しか実現し得ないのである。そのような改憲が、どうして許せようか。
 ちなみに、「改憲」とか「戦後」「戦前」に対して過度な幻想を抱いている言論人は、政治家よりも過激な幻想を抱いていることが多い。次回は、そのような人を検証しよう。

 参考文献・資料
 朝日新聞社[2005]
 「論座」編集部「自民党議員はこんなことを言っている!」=「論座」2005年6月号、朝日新聞社
 斎藤環[2003]
 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 斎藤環[2005]
 斎藤環『「負けた」教の信者たち』中公新書ラクレ、2005年4月
 尹載善[2004]
 尹載善『韓国の軍隊』中公新書、2004年8月

 長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』ちくま新書、2004年4月
 山本七平『日本はなぜ敗れるのか』角川Oneテーマ21、2004年3月

 小熊英二「改憲という「自分探し」」=「論座」2005年6月号、朝日新聞社

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2005年6月18日 (土)

トラックバック雑記文・05年06月18日

 放置プレイにしようと思っていたのですが、リクエストが入ったので斬らせてもらいます。

 ちなみにリクエストしたのは、
 冬枯れの街:「無駄な星なんてあるわけがないだろ?」

 私は仙台在住なのですが、あいにく我が家でとっている新聞が読売新聞なので、東北の地方紙である河北新報がこんなにひどい記事を書いていたとは知りませんでした。ちなみに河北に関しては、私は4回ほど文章を掲載させていただいたことがあるのですが、そのような恩義もこの際一切無視しましょう。

 河北新報:落書き、知力低下反映? 単純な絵などばかり 仙台(Yahoo!ニュース)

 感想はただ一言。

 …河北情けないよ河北。(なぜ私がこのような言い方をするか、と疑問に思われた向きはこちらを参照)

 私も仙台市民として、中心市街地を中心に氾濫する落書きには心を痛めているのでありますが、このような落書きにかこつけて俗流若者論を書き飛ばしてしまう河北にも、正直言って心を痛めてしまいます。最近「この「反若者論」がすごい!02・河北新報社説」で社説を絶賛したばかりなのに。

 あのねえ。犯罪白書読めばわかるけどよ、暴走族(最近は「珍走団」という名称も定着しつつあるよね)の組織人員は減ってるんだよ。しかも、これは作家の重松清氏などの指摘なんだけどよ(重松清、河合幹雄、土井隆義、宮崎哲弥「日本社会はどこまで危険になったか」=「諸君!」2005年1月号)、暴走族の人員はむしろ高齢化してんだよ。背景には暴力団が牛耳ってて足を洗いづらいことが大きな理由だがよ。しかもなんだよ、この記事に出てくる自称「識者」どもは。こんな馬鹿連中の戯言にかこつけて「今時の若者」全体を語った気になってんじゃねーよ!しかも、この手の記事にとってはもはやご定番なんだが、過去との具体的な比較、一切なし!他の地域との比較、一切なし!この記事を書いた記者よ、出てきやがれ!!絞め殺すぞ!!!冗談だがよ。

 いい加減にしてほしいものです。このようなものでさえ記事になってしまう、という現在の俗流若者論、若者報道の現状には、ほとほと呆れてしまいますよ。所詮「今時の若者」は貶められてナンボなのでしょうね。

 栄枯盛衰、満つれば欠ける、とはよく言いますけれども、俗流若者論は、「酒鬼薔薇聖斗」事件以降に一気に勢いを増してから、もうとどまるところを知りませんよね。それどころか、むしろ隆盛の一途ですね。でもこれらの俗流若者論は、所詮張子のリヴァイアサンです。いつか、良心的な学者や評論家によって、少しずつ解体されるのを期待するしかないのでしょうね。

 というか、俗流若者論を解体するための本も、たくさんあるはずなのですが。売れているのは『反社会学講座』くらいなのが哀しい。まあ、俗流若者論を解体するための本は、大抵は地味か、高いか、その両方かですからね。『反社会学講座』は、易くて派手だから売れたものなのでしょうが、この本で展開されている論理が実を結ぶのは、いつの頃になるのでしょうかね。

 もう、こんな記事を読んだ私の感情を、声優の茅原実里氏が代弁していましたよ。

 minorhythm:茅原実里、本日はご立腹です(茅原実里氏:声優)

 茅原氏は傘を盗まれたことに怒っていますが、私はこんなにひどい記事でさえも不通に流通してしまう現状に激怒しております。俗流若者論系のトンデモ本や新聞・雑誌の記事も延々と出されますし。

 もう一つ、我々が怒っていいものがあります。
 弁護士山口貴士大いに語る:松文館裁判判決速報(山口貴士氏:弁護士)
 kitanoのアレ:松文館裁判:高裁でも不当判決

 「松文館裁判」。我が国ではじめて、「絵」にわいせつ罪が適用された裁判です。東京地裁の判決では、裁判で取り上げられた漫画の作者と、版元の社長に懲役刑が下ったのですが、弁護側が不服として控訴しました(ちなみに山口貴士氏は、この裁判の被告側の主任弁護士です)。で、この裁判において、宮台真司氏(社会学者)、斎藤環氏(精神科医)、奥平康弘氏(憲法学者)などが被告の立場から逮捕・告訴の不当性を主張してきましたが、それでも無罪を勝ち取ることができなかったとは…。

 弁護側は、これを不服として上告するでしょう。もしこの裁判の判決が判例として確定してしまったら、警察は好きなように「有害」コミックを摘発できるようになり、わいせつ罪の恣意的な運用が裁判において続々と行なわれるようになるでしょう。

 いささか言いすぎじゃないかって?いや、私がこのように断言するのは、この松文館裁判のいきさつを最近買った本で読んだからです(長岡義幸『「わいせつコミック」裁判』道出版、2004年1月)。

 そもそもここで取り上げられている漫画家と版元の社長が摘発されたのは、ある警察官僚出身の国会議員に寄せられた一通の投書がきっかけでした。そして、その議員が警察にリークし、漫画家と版元の社長は不当に逮捕されてしまった…。

 その「警察官僚出身の国会議員」とは…。

 平沢勝栄。

 カマヤンの虚業日記:[選挙]都議会選挙
 走れ小心者 in Disguise!:ブログ版『えらいこっちゃ!!』(20)(克森淳氏)

 都議会議員選挙ですか。私は宮城県民なので、選挙権があっても直接は関係ないものですが、ただ言論統制に断固として抵抗する立場としては、この2つのブログで取り上げられている「石原三羽烏」、すなわち古賀俊昭、田代博嗣、土屋敬之の3氏の当選は阻止しなければなりませんね。特に古賀氏と土屋氏は、産経新聞の月刊誌「正論」に出現する回数が高く、そこでも威勢がいい「だけ」の論理を飛ばしまくっていますから。

 それにしても、最近俗流保守論壇の空疎な現代日本人論や若者論が、彼らにしか理解できない共同幻想に基づいているのは、それこそが現代の論壇の行き詰まりを表しているように思えます。その点において、下のブログは必読でしょう。

 ヤースのへんしん:『バーチャル男』萌え

 非常に的確な指摘があります。

 力仕事が中心だった時代を生きてきた「男」にとって、力のいらない時代になり、多くの女性が社会参加をし、能力を発揮しだすと、中途半端な能力ではもう付いていけない、でも、どこかで「男」としての生き方はしたい。そんな気持ちの現れなのかもしれないですね。

 しかし、これらの「男」と「大人」の中身って「孤独」「個人」に集約されてませんか?結局は一人でオタクのように時間を潰すのでしょうか?「萌え」てるわけですね。

 「萌え」の使用法が違うと思いますが、少なくとも、某石原都知事をはじめ(その某都知事に対する批判はこちらを参照してください)、安易にナショナリスト的な言説を振りかざす俗流若者論者の最大の問題点を、ここまで凝縮して言い当てて見せた文章は皆無です。

 週刊!木村剛:[ゴーログ] 「なんとか審議会」は「なんとか」をやっているのか?(木村剛氏:エコノミスト)
 保坂展人のどこどこ日記:小泉語の摩訶不思議、「お互いに反省しよう」(保坂展人氏:元衆議院議員・社民党)

 以前、「俗流若者論ケースファイル13・南野知恵子&佐藤錬&水島広子」で、国会の「青少年問題に関する特別委員会」の議事録を批判したことがありますけれども、この議事録から見えることは、青少年問題に関する言説は、結局のところそれを語る人の社会観、世界観の凝縮である、という気がしてなりません。例えば佐藤錬氏(自民党)は、この特別委員会で、堂々と自己陶酔的な歴史観を述べていたのですから。それ以外にも、例えば最近ベストセラーになっている『壊れる日本人』(新潮社)の著者、柳田邦男氏(ノンフィクション作家)は、現代の青少年の行動(当然、過度に醜悪化、図式化、単純化されたものです)に「ケータイ・ネット依存症」の影を見出し(柳田氏こそが「ケータイ・ネット批判依存症」だろうが、という突っ込みは置いておいて)、曲学阿世の徒・京都大学霊長類研究所の正高信男教授は同様の青少年の行動に「ケータイを持ったサル」というレイシズムを押し付けることによって「日本人の退化」を嘆いてみせた(知性が退化しているのは正高氏ですよね)、スピリチュアル・カウンセラーの江原啓之氏は(この人は、堀江貴文氏よりも格段に「虚業家」ではないかと私は思います)これまた同様の青少年の行動に関して「たましい」(我々が普段使っている「魂」とは違います、あしからず)の劣化した存在とまたレイシズムを押し付けました。結局のところ、俗流若者論を安易に振りかざす人たちは、その社会観の貧しさを如実に表している、いわば、馬脚を現しているのです。このような人たちは、即刻退場していただきたいですね。

 それにしても、「論座」平成17年6月号に掲載された、「自民党議員はこんなことを言っている!」なる、「論座」編集部による自民党改憲派議員の「妄言録」は、読んでいてうんざりします。なぜって、編集部の人たちは気付いているかはわかりませんが、ここに出てくる発言のほとんどが、憲法にかこつけた俗流若者論だからです。近く「俗流若者論ケースファイル30・自民党改憲派議員」として、憲法にかこつけた俗流若者論の問題点を抉り出そうと考えていますが(29回はノンフィクション作家の吉田司氏を採り上げる予定です)、改憲派の中には、「今時の若者」にかこつけた改憲論を自信満々に開陳する人たちがたくさんいます(この中の一人である、ジャーナリストの細川珠生氏に関しては、「俗流若者論ケースファイル31・細川珠生」で採り上げます。「諸君!」平成16年5月号を読んで予習しておいてください)。まあ、彼らにとっては、青少年それ自体よりも、青少年に対する不信感を煽る言説に扇動される人たちのほうが得票数や部数の上昇につながるのでしょうが、私はここで、青少年の不当な「政治利用」を許すな!と言いたい。

 あと、保坂展人氏は、《小泉内閣は「自民党」は壊さなかったが、日本語はブチ壊した》と述べておりますけれども、日本語を壊したのは、小泉内閣だけではありません。俗流若者論も、です。俗流若者論は、その場しのぎのただ過激なだけの言葉を吐いて、無責任に去っていく。そして、そのような過激なだけの言葉は、人々の不安を扇動させるだけさせて、結局現実の青少年を苦しめる。

 ン・ジュンマ(呉準磨)の備忘録:使える論壇誌(笑)
 オピニオン系の雑誌は、その多くが赤字経営であるそうです。しかし、私見によれば、このような雑誌は、たとえ読む人が少数であっても、そこで実りのある言論が展開されていれば、赤字覚悟でも出し続けるという志がなければいけないような気もしています。このような雑誌の存在は、一点突破的になりがちな「世論」を諌めるために一役買う役割を負わなければならないと思います。

 それにしても、この手の雑誌で一番売れている「正論」は、この手の雑誌の中では一番面白くない雑誌です。なぜって、毎号毎号同じような見出しと内容ばかりで、最近は陰謀論まで飛び出している始末ですからね(「俗流若者論ケースファイル25・八木秀次」「俗流若者論ケースファイル28・石堂淑朗」を参照されたし)。特に「世界」や「論座」といった左翼寄りの月刊誌は、既存の枠組みを反芻するのではなく、もっと問題の本質を切り込むような――これについては、「論座」の平成16年4月号の特集における、斎藤環氏と宮崎哲弥氏(評論家)と金子勝氏(経済学者、慶應義塾大学教授)の対談で触れられていましたが――特集をやって、若年層やビジネスマンを取り込むような試みをするべきでしょう。
 ちなみに私の現在のお勧めの月刊誌は、「論座」と「中央公論」です。また、「世界」今月号は、鈴木謙介氏(国際大学グローバル・コミュニケーションセンター研究員)による「若年層の右傾化」論に対する反論と、ジャーナリストの二村真由美氏による江本勝(「水は答えを知っている」などでおなじみの人です)批判につられて、思わず購入してしまいました。月刊誌編集部の皆様、俗流若者論批判と、疑似科学批判は「買い」ですよ。

 お知らせ。以下の文章を公開しました。
 「俗流若者論ケースファイル26・三砂ちづる」(6月3日)
 「この「反若者論」がすごい!02・河北新報社説」(同上)
 「俗流若者論ケースファイル27・毎日新聞社説」(6月4日)
 「壊れる日本人と差別する柳田邦男」(6月6日)
 「俗流若者論ケースファイル28・石堂淑朗」(6月14日)

 また、久しぶりに書評を書きました。トンデモ本の書評ですが。

 柳田邦男『壊れる日本人』新潮社、2005年3月
 title:俗流若者論スタディーズVol.3 ~壊れているのは一体誰だ?~

 初めて全編会話調で書評を書きました。

 もっとも、広田照幸『教育言説の歴史社会学』(名古屋大学出版会、2001年1月)、内藤朝雄『いじめの社会理論』(柏書房、2001年7月)などといった良質な本も多く読んでいるので、そちらの書評も充実させるつもりです。

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2005年4月17日 (日)

トラックバック雑記文・05年04月17日

 走れ小心者 in Disguise!: ジョグリング仕掛けの明日(克森淳氏)
 この記事においては、『トンデモ本の世界R』(太田出版)における、作家の山本弘氏の言葉が引かれています。

 そう、彼ら(克森注:「買ってはいけない」執筆陣)が言っていることは、科学的な装いをこらしてはいるが、結局は「好き嫌い」に過ぎないのだ。

 上の文言をしっかりと踏まえた上で、下の記事をお読みください。
 変見:危機管理
 「トラックバック雑記文・05年04月09日」に、なぜかトラックバックされていた文章です。この文章において、《ため池の近くで遊ぶな・鉛筆は鉛筆削りで・木に登るなという教育で事故が減っただろうか。むしろ凶悪な事件が増えている。私たちが小さい頃は木の枝が折れて落ちたり、ナイフで手を切ったりしながら危機管理を体で覚えてきた》みたいな文章があって、本当にいい加減にしてほしいよな、と思った(事実誤認ですからね)のですが、私のこの文章に対する疑問の本質はこれではありません。

 …《セラミックチップ》?

 そこにあるウェブサイトへのリンクが貼ってありました。

 それがこちら

 …疑似科学ですね。

 これを販売しているのが、なんでも柳井魚市場で、これを使用した、という証言がもうすごいのなんの。

 アルファ波が増えるため、付けた瞬間から体がリラックスして、 頭が冴え、すばらしい発想が生まれ、反応も早くなります。集中力が増したり、意欲的になるので勉強の能率も上がります。 不登校・切れやすい子にも是非お試しを、別人のように変わる子もいます。

  風邪を引いても昼寝から目が覚めたら治ってたというような例が
たくさんありますが、使ってはじめて納得できると思います。
風呂に入れると温泉水のようになり、湯冷めしぬくいし、
石鹸やリンスもいりません。チップを入れた水で拭き掃除をすると大変きれいになります。

 愛用者の殆どが入試や資格試験に合格しています。その効果は信じ難い物があります。使えば分かります。

 チップを利用している子供達は運動能力が上がり、体も大きくなっています。

成績のことを聞き出すのは難しいのですが、確認の取れた子の殆どは成績が上がっています。

チップを手離さなくなる子が大勢います。本能的に良い物が分かるのだと思います。

オーリングテストと同じ作用でしょう。頭の働きが良くなり、集中力が増す・
精神的にも強くなります。体に吊して胃薬がいらなくなった人が大勢おられますが、

体を丈夫にする効果だけでなく、精神面の強化による影響

もかなりあるのではないかと思われます。

 すごすぎますよ。ここまで事例らしきものを提示しておきながら、実例やデータの提示がない、というのはどういうわけなのでしょうか。このような「うまい話」には必ず裏があるものです。もしかしたらこの団体の裏で、誰かが操っているとか…と言ってしまうと陰謀論になりますが、この《セラミックチップ》一つで複雑な教育問題も精神の疾患も身体的な問題も、それどころ環境問題さえも何でも解決できる、というのは、はっきり言って疑うほかありません。

 「変見」の「危機管理」という記事の中においても、《セラミックチップは冷静な判断や機敏な行動の為にも役立つ優れものだ。穴をふさぐよりこちらが普及した方が事故や事件は確実に減るが、残念ながら、殆どの人に理解してもらえない》などという妄想が書かれております。《殆どの人に理解してもらえない》というなら、まず実証に足るデータを提示するべきでしょう。もしデータもなく《セラミックチップ》のために莫大な予算を投入して、何の効果も得られなかったら、無駄なものに予算をつぎ込まれた、として納税者の怒りを買っても仕方がないでしょう。政策構築とはそういうものです(ちなみに「変見」のバックナンバーを読み通してみると、もう《セラミックチップ》は万能だと言わんばかり)。

 また、このような文章には、権力のにおいがします。現在起こっている複雑な問題を、《セラミックチップ》を用いることによって、さまざまな問題が解決できるという妄想を広めて、人々の思考力を奪う、というもの。本当に、この手の疑似科学は、市民の良識で解決しなければなりません。

 いいですか。複雑な問題もこれ一つで簡単に解決できる!という謳い文句は、まず疑うべきです。そして実証的なデータがないか探し、必要とあればその(実証的、あるいは理論的)提示を求めること。

 情報流通促進計画:吉岡忍さんらも出席~憲法改正国民投票法案を考える院内集会
 私は、基本的には憲法改正国民投票法には賛成です。しかし、現在自民党が進めている「憲法改正国民投票法」には、《何人も、国民投票の結果に影響を及ぼす目的をもって新聞紙又は雑誌に対する編集その他経営上の特殊の地位を利用して、当該新聞紙又は雑誌に国民投票に関する報道及び評論を掲載し、又は掲載させることができない》というのがあるそうです。

 これでいいのでしょうか。

 憲法改正の国民投票という、国家の命運を決める一大事こそ、多様な言論を世に広げさせて、真剣に国民に考えるチャンスを与えるべきです。そもそも《国民投票の結果に影響を及ぼす目的》というのがとても曖昧です。例えば護憲派の人々は、今まで何度も憲法改正の危うさや疑問を指摘してきたわけですけれども、それらも含めて、憲法改正に関する評論は図書館とか企業とか個人とかのデータベースに存在しますので、それらを参照してから投票に臨むことも可能なわけです。ですから、これを一字一句素直に実施するならば、国民からすべての情報を遮断しなければならないはずです。また、規制の文言が曖昧な分、国家が恣意的に情報統制を行ってしまい、政権党に有利な情報ばかり流通してしまう、という懸念も拭い去れない。

 もう一度言います。憲法改正の国民投票こそ、情報を広く流通させた上での、幅広い議論が必要なのです。

 ヤースのへんしん:年収1億で維持費21億
 《年収1億で維持費21億》というのは、京都の「私のしごと館」のことですが、これの存在をはじめて知ったとき(確か、TBS系列の「噂の!東京マガジン」の「噂の現場」だったと思います)、こんなのに本当に意味があるのかよ、と思いました。確かこれの設立意思は、高校生のうちに様々な仕事に触れさせて、将来におけるフリーターの撲滅だった気がしますけれども、結局それは失敗に終わっただけです。

 蛇足ですが、特に自民党の皆さん、フリーター問題を安易に若年層の就職意識の低さに求めないでください。若年雇用の問題は、あなたたちが思っているよりも相当深刻なのですよ。つい最近の日経新聞に、経済学者の玄田有史氏や小杉礼子氏が、学歴や親の年収が、フリーターや若年無業者の出現に大きくかかわっている、というデータを提示しておりました。なし崩し的な「都市再生」だとか公共事業とかよりも、まず地域の魅力を高める都市計画と、社会福祉の拡充をやるべきです。

 お知らせ。「俗流若者論ケースファイル12・松沢成文」を公開しました。それにしても、「kitanoのアレ」とか見ていると分かるのですが、青少年問題に関して相当おかしなことを言っている政治家が多すぎます。今度は青少年育成担当大臣の南野知恵子氏ですか。いい加減にしてほしいものです。

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2005年4月 9日 (土)

トラックバック雑記文・05年04月09日

 *☆.Rina Diary.☆*:満開☆(佐藤利奈氏:声優)
 この文章の内容とはあまり関係のないのですが、佐藤氏のミニアルバム「空色のリボン」を聴きました。私の感想としては、佐藤氏の「空」というものに対する想いが存分に込められている作品になっているな、と。タイトルが「空色のリボン」であるだけに、その歌詞には「空」という言葉、およびそれに順ずる表現が頻出します。
 一番私が心惹かれたのは、第3トラックに入っている佐藤氏のフリートーク「あの空で逢えたら Part1」です。ここでは、佐藤氏が「空」に対する想いを語っているのですが、その中で「立っていると、目の前に空が見える」みたいなことを語っていたと記憶しております。
 青い空、曇り空、雨の空。いずれにせよ、空が見える、というのはとても大事なことです。空というものは、おそらくもっとも身近にある「大自然」でしょう。上を見上げるとどこまでも続いていて、思わず吸い込まれそうな、あるいは正面を向いていても、地平線の果てまで続いているような空。空を見ることが、自然に対する興味と関心を高める第一のことだと思います。
 ここで都市計画論的な話に移ってしまいますが、今年2月5日付けの読売新聞において、読売新聞編集委員の芥川喜好氏が「編集委員が読む」というコラムで「空はだれのものか 高層ビルが消した生活のにおい」という文章を書いておられます。佐藤氏のアルバムに心惹かれた人も、ぜひとも読んでほしいコラムです。
 芥川氏は、1月の下旬に新宿で行われた「脈動する超高層都市、激変記録35年」という写真展に関して、《低い建物が並ぶだだっ広い空間に、あるとき黒い塊が現れ、次第に上へ伸びる。その近くにまた同じような塊が生じ、同じように天へ向かって伸びる。その過程が百カット近い映像の早送りで壁に映しだされる。黒い塊は瞬く間に成長し増殖し群れとなって空間を圧し、意思あるもののようにうごめいている》という感想を述べています。
 芥川氏は、《このドキュメントを見て初めてわかることがある。超高層化とは、広い空が侵食される歴史でもあったということだ》と書きます。高層ビルが立ち並ぶ場所では、上を見ても無機質な侵食された空を見ることしかできず、正面を見てもほとんど空を見ることができない、という現実。大都市において広い空を見ることができるのは、超高層ビルに登るという特権を持った人だけ、という現実。空は万人に開かれている大自然の絶景です。それが巨大資本の論理によって侵食されていく。都市化=超高層化を極端に推し進めてきた政権党や巨大資本の偉い人たちが、「今時の若者」の自然に対する意識の低下を嘆く。何なのでしょうか、この矛盾は。基本的に「若者論」を安易に振りかざす人は、政権党が以下に若年層から「生活」の場を奪ってきたか、ということをことごとく無視しますが、そこに目を向けないと現在の政権党の論理を突き崩すことはできないと思います。
 芥川氏のコラムでは、最後に《芸術系大学の学生》が書いた《「超高層ビルと人間」という社会研究のリポート》について触れられております。そこで、次のようなものが引用されています。

 東京は富士を望む街だった。高さの競争などやめて、行き来の道から富士の見える街づくりをしたら、人の心も落ち着いて平和な町になるだろう。

 自然を「征服」するのではなく、自然と「共生」することが現在のパラダイムになりつつあります。最近建築の間で流行している「環境共生住宅」「古民家再生」なども、そのパラダイムシフトに適合した形でしょう。我々は、このパラダイムシフトを理解して、誰もが人間らしい生活を送れるように社会を構築しなければならない。佐藤氏のアルバムと芥川氏のコラムから見えたのは、そのようなことでした。

 ン・ジュンマ(呉準磨)の備忘録:文教政策が大きな政府主義の最後の砦?という以上に・・・
 教科書検定が始まりました。それにしても、今年は4年前とは違い、歴史教科諸問題があまり話題に取り上げられなくなりました。それだけ沈静化したのか、それとも世間の耳目を集められなくなったのか。
 「新しい歴史教科書をつくる会」といえば産経新聞ですが、昨日、その産経新聞が発行する雑誌「正論」を久しぶりに読みました。「正論」からは、もうこの雑誌自体に見切りを付けた、ということで、1年以上書店で見かけてもてにとることすらしなかった(というのも、タイトルと執筆者からどのようなことが書かれているか、ということが見え見えだったから)のですが、今回久々に一通り目を通してみて、余計にひどくなっている、という認識を持ってしまいました。
 巻頭はライブドア問題特集。どれも本質を突いていない論文ばかりでした(岩波書店の「世界」に掲載された文章や、文藝春秋の「諸君!」の特集は読み応えがある)。しかしもっとひどいと思ったのは、日本女子大学教授の林道義氏などによる「ジェンダーフリー教育」批判の文章です。この文章は、もうバリバリの陰謀論です。なんでも「ジェンダーフリー教育」を推し進める左翼は日本の崩壊を狙っており、それを裏で操っているのはマルクスだ、と。私も「ジェンダーフリー教育」には賛成できない部分もあるのですが(性教育には賛成です。あしからず)、ここまで妄想できるのはすごい、というほかありません。しかも、このような認識が、一部の保守論壇人に広く共有されている、というのだからさらに驚きです。大体、「ジェンダーフリー教育」が「どのように」我が国を崩壊させ、「どのように」韓国・中国・北朝鮮を利するか、ということに関してはまったく触れられていない。このような雑誌はある種の「共通前提」を持っている人には大人気なのだろうが、こんなことしていると新たな読者は獲得できませんよ、と言っておく。

 走れ小心者 in Disguise!:  「ブログ版『えらいこっちゃ!』(12)」(克森淳氏)
 カマヤンの虚業日記/カルトvsオタクのハルマゲドン:[資料][呪的闘争][宗教右翼][日本会議]90-91年「有害コミック」問題の発信源・和歌山の「子供を守る会」は、極右新興宗教「念法真教」
 私は基本的には改憲は必要だと思います。しかし、現在自民党を中心に議論されている改憲論には、むしろ批判的です。
 政府・自民党は改憲案に「青少年健全育成に悪影響を与える有害情報、図書の出版・販売は法律で制限されうる」ということを入れようとしていますが、まずここに反対です。第一に、青少年がある情報に関して、そこで得る感想は多様です。第二に、国家が一律に「青少年に有害」な情報を決め付ける、ということは、表現の自由に抵触する危険性があります。第三に、自民党などの皆様が問題にしたがる「有害」な情報・環境は青少年による凶悪犯罪を増やしてはいない、ということは、すでに犯罪白書や警察白書で明らかです。第四に、立憲主義の立場に立てば、憲法とは本来国家に宛てた命令であるはずです。それを理解していない政治家が多すぎます。そして最後に、このような改憲案は、自民党の右派の利権の元となっている宗教右翼や右翼政治団体に対するパフォーマンスである可能性が高い。
 先月の読売新聞において、財団法人日本青少年研究所の調査において、我が国の高校生の半数以上が自国に誇りを持っていない、という結果を嘆いていました。しかし、これのどこが問題なのでしょうか。もし自国に誇りをもてない状況があるとするなら、それを形成した社会的な影響を分析しなければならないはずですが、読売をはじめとして保守的な政治家や論者は、我が国における「左翼」による教育を真っ先に槍玉に挙げます。結局のところ、彼らは、青少年をイデオロギー闘争の道具にしか考えていないのです。憲法の改正案も、教育基本法の改正案も、まさしくこれに当てはまるのではないか、と考えております。
 私は、「大日本若者論帝国憲法」が必要である、と考えております。もちろん、現実的な改憲案ではなく、現在推し進められている改憲案がいかに滑稽なものであるか、ということを示すネタとしての改憲案です。その意図は、「こんな憲法になるんだったら護憲派のほうがよっぽどマシだ」と気づかせることです。この改憲案の骨子は次の通りです。
 ・青少年による問題行動の抑制のため、国旗・国歌・天皇に対する忠誠心を高めて、国家に帰属するための意識を養う。
 ・青少年の愛国心と社会性の涵養のため、強制的徴兵制を男女関係なく実行する。
 ・青少年の健全なる育成のため、「伝統的な」(実際には明治以降の近代化システムの中で捏造されてきた)家族のみを尊重する。それと同様に、子供を多く出産した家族は独身者よりも優遇される。
 ・親は自らが親権を持っている子供の行動を常に監視していなければならない。
 ・青少年に有害な影響を及ぼす恐れのある情報は検閲でもって規制できるようにする。
 ・青少年による凶悪犯罪の抑制のため、「有害な」環境に出入りする青少年を警察が取り締まることができる。
 ・青少年による凶悪犯罪の抑制のため、20代の若年層にのみすべての犯罪の厳罰化を行う。
 ・ひきこもりやフリーターや若年無業者を抱える家族に関しては、青少年健全育成の視点から財産を奪って強制的に就業意識を植え付けることは正当化される。
 こんなに滑稽なことが憲法に書かれるのは皆目御免だ、と思われる方も多いでしょう。しかし、これらの議論は、すべて俗流若者論にオリジナリティを見出すことができるものばかりです。そして、それらの粟粒若者論の欲望を満たす憲法を作ろうとしたら、このような憲法が出来上がるのは必然でしょう。当然、憲法学や立憲主義の歴史も一切無視し、権力に非常に甘い憲法になります。
 愛国者たるものは、常に国賊に目を光らせていなければなりません。現在我が国にはびこる国賊は、保守政治家や論壇人が問題視したがるような「左翼」ではなく、巨大資本による都市の画一化を推し進め、青少年をイデオロギー化することによって不安をあおり、それによって利権をむさぼる自称「保守」政治家・言論人です。このような国賊こそが、まさしく我が国を壊死させる張本人です。そして、俗流若者論も、国賊として糾弾されるべきです。

 お知らせ。このブログの右側に表示されております「参考サイト」を、「参考サイト」と「おすすめブログ」に分割しました。
 「参考サイト」として追加したもの
 「グリーントライアングル
 「「有害」規制監視隊
 「少年犯罪データベース
 「「ゲーム脳」関連記事 - [ゲーム業界ニュース]All About
 「おすすめブログ」として追加したもの
 「kitanoのアレ
 「カマヤンの虚業日記/カルトvsオタクのハルマゲドン
 「読売新聞の社説はどうなの・・

 また、次の文章を公開しました。
 「俗流若者論ケースファイル09・各務滋」(4月4日)
 「2005年1~3月の1冊」(4月4日)
 「正高信男は破綻した! ~正高信男という堕落みたび~」(4月5日)

 今後の予定としましては、まず「俗流若者論ケースファイル10・○○○○」を近いうちに公開します。また、『ケータイを持ったサル』批判の「再論・正高信男という病」もできれば来月中には公開したい。正高信男批判では、「犬山をどり ~正高信男を語り継ぐ人たち~」と題して、『ケータイを持ったサル』の書評を検証する予定です。これの公開は「再論・正高信男という病」を公開したあとなので、おそらく8月頭ごろになるでしょう。また、仙台の都市計画と「東北楽天ゴールデンイーグルス」について論じた文章や、治安維持法制定80周年に関する文章、雑記文で触れた「大日本若者論憲法」の実体化など、いろいろ企画しておりますが、大学の授業も始まったので、予定は未定です。
 曲学阿世の徒・正高信男といったら、「正高信男という頽廃」において、このようなコメントをいただきました。

この人、統計のトの字も知りません。t検定もよくわかってなかった。ついでに実験してないので、なぜか論文書きます。内輪でもデータはどこから来ているのか疑問視している人は多いですよ。さらに、気に入らない研究者や学生を徹底的に攻撃(ある意味、いじめ)するので、敵は多いですね。挨拶そいても応えない、目を合わせなければ、口もきかないあたり、彼の社会性を疑ってしまいます。かれが世の中のいじめや引きこもりについての著書を書くたびに、その自分の行動はどううなんだ・・・と言いたくなります。

 休刊した「噂の眞相」みたいに「『ケータイを持ったサル』の京大教授は論文捏造の常習者」と「一行情報」を書きたくなってしまいますけれども、これが本当ならばすごいことですよ。こんな人を教授にしている京都大学とは、いったい何なのでしょうか。誰か止めてあげられる友人はいないのか。

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2005年3月17日 (木)

人権擁護法案反対の倫理を問う

 人権という概念こそ、我が国において最もその意図するところと違う形で国民に理解されているものである。現在国会で議論されている「人権擁護法案」は、その誤解・曲解の帰結として出ている、と私は見ている。
 その前に人権の本来の意味とは何か、ということを突き詰めて考えてみると、それは国家権力の横暴に対抗するための理念である。現在の日本国憲法を読んでみると、例えば国家による思想や言論の統制を許さないために21条が存在し、あるいは不当に理由をでっち上げられて不当に逮捕されることがないように33条が存在するのである。人権が(正当に)侵害されるのは、侵害される対象の者が他人の権利を侵害した場合のみであり(例えば刑法犯など)、もう一つ言えば人権を侵害する主体は、基本的に国家しかないのである。また、憲法とは国家に対する命令であり、人権を保障しなければならないものである。
 ところがある時期の我が国において、この「人権」概念が不当に拡大解釈される時期があった。私が中学時代をすごした90年代後半(平成8~12年ごろ)、私は「子供の人権」ということが大量に出回ったことを記憶している。平成9年に発生した神戸市の児童殺傷事件において、一部の雑誌がこの犯罪者の顔写真を掲載したことについて、一部の「左翼」的な人々が「人権侵害だ」と喧伝した。さらに、「左翼」的な人々は、親と子供の関係についても「人権」概念を超拡大解釈して半ば暴力的に「適用」していた。親が子供の暴力を振るうことどころか、親が自分の優位性を子供に示すことさえもが「人権侵害」だといわれていたのである。しかし前者に関しては明確な刑法犯であり、後者に関してはもはや法律的な概念を適用することさえいかがなものか、というレヴェルである。彼らは言葉の上では子供を尊重しているのかもしれないが、実のところ決して子供を尊重しているのではない、いわば「子供」を過度にイデオロギー化しているのである。
 また、少年法に関して言うと、この法律は決して少年犯罪者の人権を尊重したものではないどころか、むしろその人権を制限したものでしかない、というべきである。例えば、日本国憲法によると、《何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない》(第32条)のであるが、少年法においては、少年を一人前ではないと規定する故に第32条をはじめとする憲法上のさまざまな諸権利に関して制限をつけているのである。「少年犯罪者の人権保護」として少年法を挙げるのであれば、むしろ少年法を批判しなければならないのであるが、「子供の人権」を過度に唱える人はなぜか少年法も絶賛していた。彼らにとって「子供」は飯の種でしかないのだろう。
 このような倒錯した議論が「左翼」の側に起こっていた。当然、このような暴論に対してバックラッシュが起こるのだが、このバックラッシュもまた暴論であった。しかもそのような暴論が噴出したのが、また青少年問題だったのである。
 「人権」を貶める「右翼」的な人は言う、戦後の教育が「権利」ばかりを教えてきて「義務」を教えてこなかったから、現在のような青少年問題が頻発するようになったのだ、と。しかし、そのような議論の帰結は決まってあの犯人を晒し首にしろ的な感情論であり、そうすることによって青少年問題を解消したいのであろうが、そのような「教育効果」に期待を持ってしまうことは、それこそ本当の意味での人権侵害を肯定する羽目になってしまうのではないか。彼らはマスメディアが好んで喧伝したがる「今時の若者」という虚像にただ乗りしたがっているだけで、「人権」はそれを盛り立ててくれる単なる道具でしかない。
 このように、我が国において「人権」概念は本来の意味とはかけ離れて受容されてきた。なので、今回「人権擁護法案」として提出されている法案は、まさに「人権擁護」の名の下に人権侵害を平然と行なうことができるようになる法案になってしまっているのである。
 「人権擁護法案」において、《人権侵害》とは、《この法律において「人権侵害」とは、不当な差別、虐待その他の人権を侵害する行為》と規定されている。しかし、その定義は依然曖昧なままだ。さらに、この法律を全文読んでみても、この起草者における「人権」概念に対する誤解・曲解は明らかであろう。冒頭でも説明したとおり、「人権」概念とは国家と国民の力関係のことを指すのであるが、この法案においては、何が「人権」であるかは曖昧なまま、左派論壇的で通俗的な「人権」概念がそのまま適用されている。さらに、この法案では、「人権擁護委員会」が政府から独立した組織ではなく法務省の管轄となっており、さらに同法案によると、委員会に申し出があったら調査をすることができるとあるが、それを判断するのは裁判所ではなく委員会であり、ここでは明確な人権侵害が正当化されている。さらに、同法案43条によると、差別を「助長」する行為でさえもこの法案の罰則の範疇になってしまうという。これではますますその規定があいまいであり、マスコミの調査報道や、(左右の自称「識者」が問題にしたがるような)漫画やアニメやゲームが処罰を受ける可能性もある。このような悪法を生み出した最大の原因は、「人権」概念を過度に拡大解釈、あるいは矮小化してきた論壇にある。論壇の皆様には、このような事実を深く受け止めていただきたいものである(そしてこの曲解をはびこらせたのが「若者論」だということも)。
 本来の意味での人権擁護法案とは、国家による不当な人権侵害に対する被害の回復を目的にしなければならず、当然、それを執行する委員会は国権、特に行政権からは独立しているものでなければならない(そしてそれこそが、本来国連人権委員会が求めていたものである)。このような形でないと、本来の人権保護は達成できるものではない。現在の法案は、むしろ差別利権を加速するものでしかないのではないか。
 無論、この法案の起草者が人権という概念の本来の意味に極めて無頓着なのも大問題なのだが、この法案におけるもう一つの大問題は、「何が差別か」ということに関して国民的なコンセンサスが得られないまま、国家が「これが差別である」と規定してしまうことである。しかし、「何が差別か」ということを決めるのは、まさしく国民、市民、共同体の総意であって、国家が一方的に決めることではないはずである。この法案の問題点は、まさしく「何が差別か」ということを国民の間で規定することを国家に丸投げしてしまうということにあって、自ら問題を解決することの放棄を意味しているのである。これはあまりにも重大な問題とはいえまいか。
 精神科医の斎藤環氏は、東京都の「有害図書指定」に関して、このような条例の制定は本来家族や社会が行うべきことを条例=行政が行なう事によって、共同体による問題解決機能の低下を危惧していた(斎藤環[2003])が、私が「人権擁護法案」に対して危惧しているのもまさしくそれで、自らが複雑だと思う問題を全て行政に任せてしまうことによって、国家の果てしない肥大化と同時に社会の思考停止が起こってしまうことを危惧している。
 このような動きは、何も「人権擁護法案」だとか「有害図書指定」だとかにとどまるものではない。例えば教育基本法の改正案において、「国を愛する心」を法律に入れろ、などといっている人がいるけれども、何が愛国心なのか、という厳密な定義がないまま、ただ国旗や国家にひざまずくことが愛国心だといわれている。しかし、それは厳密には愛国心とは言えず、むしろ国粋主義ではないのか(平成16年に起こったイラクでの人質への政府関係者の暴言が意味したところは、教育基本法の改正をもくろむ者にとって「愛国」とは「政府に従うこと」であることが明らかになったことである)。愛国心とは、昭和天皇陛下がおっしゃるところの《子々孫々の反映のために身を粉にすることを厭わない》(奥平康弘、宮台真司[2002])であるという社会学者の宮台真司氏の指摘が正統であろう。
 「人権擁護法案」に関して、確かにネット上では批判が渦巻いているし、多くの批判が実に正当な理由に裏付けられている。しかし、一部の、特に「2ちゃんねる」的な批判論者が、例えば「この法律が思考されると「人権擁護委員会」に外国人が入って北朝鮮に対する制裁論を言ったら即刻検挙される!」みたいな(ちょっと暴力的に要約しすぎか)、いわば「俺たちに好き勝手やらせろ」的な、あるいは2chにありがちな「反サヨ」的な「批判」をいっているのが残念でならない。彼らは、「売国的な言動を禁じる」といったないようの「愛国者法」みたいなものが審議されたら、反対するのだろうか。この法案の最大の問題点は、国家が「人権擁護」のもと人権侵害を公然と行なえることにあり、また、この法案は、日本国民の市民としての矜持を軽視する法案なのである。私は、市民としての矜持を守るために、この法案に反対する。それが愛国心というものだ。

 参考文献資料
 奥平康弘、宮台真司[2002]
 奥平康弘、宮台真司『憲法対論』平凡社新書、2002年12月18日
 斎藤環[2003]
 斎藤環「条例強化というお節介には断固反対する」=「中央公論」2004年1月号、中央公論新社

 岡留安則『『噂の眞相』25年戦記』集英社新書、2005年1月
 芹沢一也『狂気と犯罪』講談社+α新書、2005年1月
 長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』ちくま新書、2004年4月
 日垣隆『現代日本の問題集』講談社現代新書、2004年6月
 宮台真司『亜細亜主義の顛末に学べ』実践社、2004年9月
 宮台真司『宮台真司interviews』世界書房、2005年2月

 参考リンク
 「すべてを疑え!! MAMO's Site」(坂本衛氏:ジャーナリスト)
 「このまま通してはいけない! 「人権擁護法案」 -緊急記者会見とアピール-」(アジアプレス)
 「【主張】人権擁護法案 問題多く廃案にすべきだ」(産経新聞・05年03月10日付)
 「言論表現の規制が問題」(しんぶん赤旗・05年03月13日付)

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2005年1月21日 (金)

トラックバック雑記文・05年01月21日

 阪神大震災10年の夜は、故・岡崎律子氏の最新アルバム(「最終」アルバムとは思いたくない)「for RITZ」(キングレコード・2004年12月)を静かに聴いていました。

 千人印の歩行器(05年01月21日付/栗山光司氏)
 ン・ジュンマ(呉準磨)の備忘録:例のNHK問題・・・こう整理
 NHKvs.朝日新聞の対立がいよいよ激化してきました。ただ、私はこの対立については深く言うことができませんが、とりあえず苦言を言わせてもらうと、この対立はあまりにも不毛な対立といわれてもおかしくないような気がします。それこそ朝日(に限らずわが国のマスコミ)が常日頃非難している「言った/言わない」の対立がここでも現れていると思うからです。おそらくこの対立は、朝日もNHKも共に大幅に信頼を落として終わり、というのが結末になるような気がしてなりません。
 NHKが、阿部晋三氏や中川昭一氏に内容を確認したということは、ここで「政治介入」が成立しているのではないか、という見方もありえないものではないと思います。私は件の番組を見ていないのですが、件の番組の中で「女性国際戦犯法廷」という法廷モドキ(何せ、すでに死んでいる人物を「被告」にでっち上げて、反論権も保障せず「有罪」にしてしまうのですからね。法治国家ではまずありえない形式でしょう)が採り上げられているのは、ちょっと違和感を覚えました(ちなみに読売はこの一点張りでNHK側についているような気がします)。
 しかし、番組の内容について対立する側の政治家に意見を求めるというのは、しかもそれが政権党の政治家であるので、「政治介入」と見られても(それがたとえ誤解であっても)仕方ない、という一面もあると思うのです。確かに朝日新聞の一部の記者には、特定の極左的な運動に加担しているような記者もいるかもしれません(2年前に逝去したY・M記者は、この「女性国際戦犯法廷」に積極的に加担していました。と、面罵に近い批判をしてしまいましたが、私にとって朝日新聞は好きな新聞の一つです)。というわけで、NHKにも一定の落ち度があったし、朝日も少し騒ぎすぎではないか、というのが私の見解です。
 それにしても、読売をはじめ、ほかのマスコミがこの事件について何でもっと大きく採り上げないのか、不思議でなりません。
 この問題については、ジャーナリストの武田徹氏の記事と、同じくジャーナリストの坂本衛氏の記事も参考になります。

 週刊!木村剛:[週刊!神部プロデューサー]いよいよ「改憲」なのだろうか?!
 「週刊!木村剛」に掲載された文章ですが、木村氏の文章ではありません。
 今日付けの読売によると、中曽根康弘元首相が主催する「世界平和研究所」が憲法改正案を出したそうです。見た限りでは、中心は天皇陛下の元首化、首相の権威の強化にすえられていると思います。
 憲法に関して私が気になっているのが、現行憲法99条、中曽根改正案の116条です。

 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。(現行憲法。中曽根改正案は新仮名に改められると同時に、憲法を尊重し擁護するべき人物として「内閣総理大臣」の名前が付け加えられている)

 左派系文化人の一部は、この条文を、憲法改正を禁じた条文とみなしている向きがありますが、しかしそれは間違いだと思います。《憲法を尊重し擁護する》ということは、憲法を寄りよい方向に変えていく、というのも含んでいるのではないでしょうか。
 現在の護憲派の衰退の原因の一つとして、「何が何でも護憲」という態度にこだわり続けていることがあると思います。それで、なぜ護憲なのか、護憲のどこがいいのか、また、護憲をすることによってこの国の政策はどうなるのか、という戦略的な目標を提示することがかけている、という気がするのです。
 最近の一部の護憲派の焦りは滑稽です。国民投票法を実施する、というと、それは必ず改憲に繋がる、という主張がありますが、それは選挙民をあまりにも莫迦にした態度ではないでしょうか。
 私はかつて「2004年・今年の1冊」で、今井一『「憲法九条」国民投票』(集英社新書、2003年10月)という本を紹介しましたが、これは、特に護憲派の人たちには必読の文献でしょう。改憲派が勢いを増していく中で、護憲派はいかにして生きていくか、ということについて、本書は大いに示唆的です。

 走れ小心者 in Disguise!:「し、しっかりしろ警察……」
 同: 「あら。もう、もちついているみたいね…」(克森淳氏)
 奈良の女子児童殺害事件の後日談であります。前者の記事によると、《奈良の事件の容疑者には事件当日、新聞購読代金横領の容疑で逮捕状が出ていたにも関わらず、警察は行方をつかめなかった》というのです。さらに、ジャーナリストの日垣隆氏によると、小林薫容疑者は20歳のときに少女に暴力を振るっていて、逮捕されたのですが、判決はなんと執行猶予つきだったそうです。「日本版メーガン法」を主張する人は、このような警察や司法の体たらくを看過してはいけないのではないでしょうか。
 この事件における大谷昭宏氏、および「サンデー毎日」の騒ぎっぷりは異常でした。「サンデー毎日」なんて、小林容疑者のことを一貫して、しかも執拗に「ロリコン殺人鬼」と表現しているのです。「週刊文春」「週刊新潮」もここまでやっていないのに、ですよ。小林容疑者が毎日新聞の販売員だった、という事実と照らし合わせると、さらに以上というほかなくなってしまいます。いや、毎日の販売員だったから、か。
 今週の「サンデー毎日」を開いて驚きました。脳科学に関する連載で、「ロリコン殺人鬼」小林容疑者が、なんと「セロトニン欠乏症」なのではないか、というのが大々的に書いてあったのです。この記事には、かの曲学阿世の徒、北海道大学教授・澤口俊之氏も登場するし、この記事の結びが「理解できない犯罪が増えている。社会的観点ではなく、生物学的な観点からも検証しなければならない」といった内容の文章です。ああ、「サンデー毎日」はついに疑似科学まで持ち出してしまったか。
 いいですか。確かに小林容疑者はロリコンでした。これは事実です。しかし、ロリコンがみんな残虐な性犯罪を起こすわけではないのです。これもれっきとした事実なのです。一つの凶悪犯罪を取り上げて、ロリコンおよびロリコンメディアを敵視する必要がどこにあるのですか。特に、大谷氏と「サン毎」、そしてこれらの報道や言論に踊らされている人は、この事実を深く胸に刻み込んでおく必要があります。
 日垣氏の最新刊『世間のウソ』(新潮新書・2005年1月)には、「性善説のウソ」と題して、昨年6月に起こった佐世保の女子児童殺害事件におけるマスコミの体たらくを批判しています。この文章は、奈良の事件にも共通する問題提起を含んでいるので、ぜひ一度読んでください。日垣氏がらみでは、精神障害犯罪者を扱った『そして殺人者は野に放たれる』(新潮社・2004年3月)も読んでおく必要があるでしょう。

 蛇足。現在発売中の「通販生活」で、成人式に関する特集が組まれているのですが、ここにも大谷氏が登場し、トンデモ若者論を振りまいています。大谷氏は、わが国で少子化が進んでいることと、わが国において青少年による強姦罪の検挙件数が1965年ごろに比べて約20分の1に減少していることをご存知なのでしょうか。いったい大谷氏は、本当にジャーナリストなのでしょうか。デマゴーグでしかないのではないか?
 大谷氏の暴言の隣に、われらが平成17年仙台市成人式実行委員会実行委員長、伊藤洋介氏の至極まっとうなインタビューが掲載されているのが泣ける。

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