2007年8月26日 (日)

俗流若者論ケースファイル85・石原慎太郎&宮台真司

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 世代論が権力を免責する、という構造を、私はこのシリーズの一つ前の回(「俗流若者論ケースファイル84・河野正一郎&常井健一&福井洋平」)で述べた。要するに、例えば若年層の労働環境をめぐる問題などに関して、非正規、派遣労働者の待遇や賃金の問題であるとか、あるいは学校から労働市場への参入の問題などが取り沙汰されるべきなのに、それをぼかして「日本人の働き方に関する見方が変わりつつある」と述べて、「根本的な」解決策や、「メタ的な」議論のほうが尊重されるという傾向は、まさにそれである。客観的に観測できるような問題を無視して、個々人の内面ばかりを問題視するというのは、根本的にもっとも残酷な日和見主義に過ぎない。

 さて、ブログ開設2年9ヶ月、「俗流若者論ケースファイル」シリーズ85回目にして、ついにこの人を批判することになろうとは思わなかった。首都大学東京教授、宮台真司である。今回検証するのは、宮台と石原慎太郎(東京都知事)による対談「「守るべき日本」とは何か」(「Voice」平成19年9月号)である。この対談は、どちらかといえば、東京都の青少年政策の宣伝という側面が強いが、それを推し進めるための前提として、現代の青少年が置かれている「現実」を語る、という趣旨のように見える。

 ところが、石原も宮台も、青少年問題についての基本的な認識が欠落しているとしかいいようがない代物なのだ。本書で取り扱われている青少年問題は、「ニート」についてと、「セカンドライフ」に付いてであるが、のっけから石原と宮台は、以下のようにいってしまう。

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石原 ニートがニートとして生まれた、いちばんのゆえんは何ですか。彼らはただの穀潰しだと思うね。要するに、抱えている家庭に余裕がなかったらあんな存在なんて成立しえないでしょう。

宮台 そのとおりです。でも、ひきこもりは人から「穀潰し」といわれ、自分でそう思っても前に踏み出せず、社会に復帰できません。彼らが「反社会的」であれば「穀潰し」の批判が有効ですが、「脱社会的」なのです。問われるべきは若い世代から大規模に社会性が脱落した理由です。(石原慎太郎、宮台真司[2007](以下、断りがなければ全てここからの引用)pp.80)

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 少なくとも私は、私と宮台と宮崎哲弥、そして内藤朝雄の対談において、宮台が「ニート」は疑似問題であり、むしろ「ニート」を、それこそ穀潰しであると批判している方こそ問題であると述べていたはずだ。以下、引用する。

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宮台 (略)僕から付け加えると、まず旧来の「今時の若者は」的攻撃に加えて、昨今目立つのは、流動性不安がもたらす「多様性フォビア」としての若者フォビアです。処方箋は流動性フォビアの手当て。次に、本家英国と違い「失業者を含まない」日本版ニート概念は初期のフリーター批判と同じく怠業批判ルーツで、「こいつらが日本を滅ぼす」と言いつつ馬鹿オヤジが10年後の年金を心配する俗情がある。(略)最後に、スキル上昇(フリーター対策)から動機づけ支援(ニート対策)に自立支援策を拡げ、ポストと予算を獲得した公務員がいる。(略)(宮台真司、宮崎哲弥[2007]pp.100-101)

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 このような分析に、少なくとも私は大筋で同意する。また、宮台も『「ニート」って言うな!』を読んだはずであれば、我が国において「ニート」と呼ばれている人たちのおよそ半分が、「非求職型」すなわち就労意欲はあるものであるということも御存知であるはずだし、昨今増加した「ニート」もこの層の増加が原因であるということも知っているはずだ。

 さらに宮台は、《ひきこもりは人から「穀潰し」といわれ、自分でそう思っても前に踏み出せず、社会に復帰できません。彼らが「反社会的」であれば「穀潰し」の批判が有効ですが、「脱社会的」なのです》と述べるが、少なくとも最近の井出草平の著書などに見られるように(井出草平[2007])、「ひきこもり」=「脱社会的」と安易に断じることはできない。井出は、むしろ規範に対して敏感であるからこそ不登校から「ひきこもり」に至った事例もある、ということを示している。

 もう一つ言うと、「ニート」や「ひきこもり」について宮台の言う、「彼らは「反社会的」ではなく「脱社会的」である」という物言いは(ついでに言うと、このような物言いは、芹沢一也が指摘するとおり(浜井浩一、芹沢一也[2006])、平成10年ごろから、宮台が少年犯罪を説明するために活発に使用していたものだ)、一見すると彼らに対して「理解」を示すようなそぶりを見せながら、実際には単なる説教(それこそ「穀潰し」批判みたいに)よりも実害が大きいと私は考えている。なぜなら、第一に、少年犯罪については、過去の事例を探せば「脱社会的」と言えそうなものなどいくらでも見つかる(例えば、昭和40年10月に起こった、中学2年生の少年が、異性に対する興味から近所の主婦を殺した、というもの。詳しくは赤塚行雄[1982]を参照されたし)。第二に、そのような「定義づけ」をさせることによって、例えば統計的な状況(少年犯罪は増えていない、など)を無視する口実として使われるからである。第三に、第二の理由を引き金として、根本的に間違った政策が構築されてしまう可能性があるからだ。

 現にそのような危険性は、以下の発言にも表れている。

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石原 ニートの悪いところはそういう依存性、甘ったれた考え方だよね。それは何が醸し出したんですか。

宮台 郊外化です。第一段階の郊外化が一九六〇年代の「団地化」。「地域の空洞化」を埋め合わせる「家族への内開化」が内実です。専業主婦の過剰負担ですね。第二段階の郊外化が八〇年代の「ニェータウン化」。「家族の空洞化」を埋め合わせる「市場化&行政化」が内実です。コンビニ化ですね。これに今世紀に拡大した「ネオリベ(新自由主義)化」が加わり「貧しくても楽しいわが家」どころか「豊かでないかぎりコミュニケーションから見放された環境で子供が育つ」。脱社会化の背景です。(pp.81)

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 少なくともそのような戯れに興じているのであれば、少なくとも多くの「ニート」論の多くが的外れであることを証明したほうがいいのではないか、と思うのだが。言うまでもなく、このような物言いは、例えば労働法をめぐる問題などを隠蔽する。

 同様の危険性は、以下のような発言にも表れる。

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宮台 それをどう呼ぶかは別にして、「世間の空洞化と母子カプセル化を背景に、親に抱え込まれ、社会を生きる力を失った存在」にどう規範や価値を伝えるかです。今期青少年問題協議会の冒頭、「ニート問題は規範や道徳の伝達の問題ではなく、伝達のベースになる台がなくなる『台なし』の問題だ」と申しあげました。

 友達や家族と一緒に映画を見て、周りが「ダメな映画だ」と語り合うのを聞き、映画が再解釈される経験が年少者によくあります。そこに注目したのがクラッパーの限定効果説。「子供がもつ素因が刺激の有害性を決める」という仮説と「子供の周囲の人間関係が刺激の有害性を決める」という仮説の複合です。刺激が素因を育てるのではないとします。

 要は情報は単独で有害無害を論じられず、情報をやりとりする「社会的基盤=台」によって意味や意義が変わります。穀潰しだと非難しても、ニートが「穀潰しですが、なにか?」と非難の意味を理解できない可能性があります。道徳や価値を伝える言葉一般にいえますが、自分も相手も同じ台の上に乗っていると感じられるからこそ説教を聞く。そうした台がない「台なし」では道徳的説教は無効です。(pp.83)

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 要するに宮台は、「ニート」については、例えば若年層の過酷な労働環境を解決したり、あるいは「ニート」を問題化する方を問題化するのではなく、まず《「世間の空洞化と母子カプセル化を背景に、親に抱え込まれ、社会を生きる力を失った存在」にどう規範や価値を伝えるか》どうかの問題として考えていると言うことか。私が聞いた発言と、どちらが本音なのだ。そもそも宮台が、「ニート」について《規範や道徳の伝達の問題》と《伝達のベースになる台がなくなる『台なし』の問題》を対立軸に置いているのが気になる。また、以下のような発言もある。

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石原 やっぱり僕は親子三代で住まなくなったことが、日本の家族にとって致命的な欠陥になったと思うね。

宮台 柳田国男ですね。日本の農村では両親が生産労働に生活時間の大半を費やすので、爺ちゃん婆ちゃんが孫を育てることで社会性が伝承される、と。広田照幸のいうように、日本には親が子供を躾ける伝統がなく、世間の空洞化と母子カプセル化でむしろ躾は増大してきた。でも同時に窓意性(世間と関係ない親の勝手)も増大するから、親のいうことに従わなくなるか、従った結果かえって社会を生きられなくなる。先の依存的暴力にも関連する問題ですね。(pp.82)

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 とあるが、少なくとも広田照幸を引き合いに出すのであれば、「家庭の教育力の」低下という言説が虚構であることくらい知っていると思うのだが。

 この対談においては、宮台が石原に対して、青少年の「現実」を説明し、それを石原が解釈する、という形式で話が進んでいる。ただし、その宮台の「現実」の解釈が極めて恣意的というか、客観的、あるいは統計的な広がりや内容よりも、まず「現実」のヴィヴィッドさ、あるいは見た目の新奇性が優先するようで、それについては、以下に採り上げる「セカンドライフ」をめぐる言説にも現れている。少々長くなるが、引用しよう。

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宮台 はい。ソニーが「ホーム」という新しいメタヴァースを発表しました。こちらはユーザーの自由度が小さい配給制的空間です。こうした事例は公共性論として重大な問題を提起します。「この社会に意味があるか」にも関連します。要は「この現実が嫌なら『セカンドライフ』に出て行け」「『セカンドライフ』が嫌なら『ホーム』に出て行け」といえるのです。すると第一に、この現実を公正なものにすることや面白いものにすることへの需要が減ります。それでよいのか。第二に、そのぶんセカンドライフに「逃亡」する人が増えますが、今日の物差しでは「ひきこもり」に該当する彼らをどう評価すべきか。

 石原 感覚的にはわかるけれど、バーチャルゲームだけやっていて食べていけるの?

 宮台 彼らは「セカンドライフ」上では活動的なのです。生活保護を受けながら「セカンドライフ」で億万長者として暮らす者もいます。二十四時間中睡眠に五時間、食事に一時間使い、残りを「セカンドライフ」内の経済活動に充てて専用通貨を稼ぎ、換金してカップラーメンを買ってすするという生活です。

 石原 しかし、バーチャルな世界で味わう満足感は結局、いつか崩れて消えてしまうでしょう。

 宮台 それでもこれからはそういう人が増えます。そうした流れを認識することがニート問題に近づく一歩です。ニートには、「現実に怯えて前に踏み出せない者」と、「わざわざ訓練して社会に出ることに意味を認めない者」が含まれます。前者は、経験値を高める訓練で不安を克服すればOKです。後者は「自分が自分であるために社会や他者が必要」と感じないように育ち上がっており、簡単に引き戻せません。愛国教育や道徳教育が足りないのでもない。国にコミットする以前に、社会にコミットしないのですから。(pp.85)

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 ソースは忘却したが、少なくとも我が国の「セカンドライフ」についての評判は、広告や起業の盛り上がりばかりが先行しすぎて、我が国のユーザーはむしろ置いてけぼりにされている、という話が聞いたことがあるが、それはさておき、宮台は「セカンドライフ」を引き合いに出しておきながら、それをめぐる我が国の客観的な情報(加入率、評判など)を採り上げることは一切ない。

 いや、それは以下に挙げる問題に比べればたいした問題ではないのかもしれない。この言説における宮台の最大の問題点は、例えば《生活保護を受けながら「セカンドライフ」で億万長者として暮らす者》がいることは採り上げるけれども、そこから一気に跳躍して《それでもこれからはそういう人が増えます。そうした流れを認識することがニート問題に近づく一歩です》などと語ってしまうことだ。要するに、宮台の「社会分析」みたいなものに必要なのは、客観的、あるいは統計的なデータよりも、自分が見聞きした(見た目的に)新規な事例のほうが優るということか。内田樹とどこが違うのだ。「脱社会的存在」をめぐる言説と同様、底が知れた、というべきか。

 宮台の語る、「「ひきこもり」などに代表されるような「脱社会的」な人たちが、現実での承認に嫌気がさして「セカンドライフ」や「ホーム」に逃げ込む」という言説は、例えば香山リカの「精神的にも肉体的にも劣化した存在が、「セカンドライフ」に逃げ込む」などといった言説と同様に、利用者の社会的な属性などと照らし合わせて検証される必要がある(なお、既存のインターネット・コミュニティに関する研究については、例えば池田謙一[2005]や、宮田加久子[2005]がある)。佐藤俊樹だっただろうか、情報社会に関する未来予測というのは、それがいまだに実現していない未来を語っている故、未来に託して結局のところは自分の思想を語っているに過ぎない、という言説を述べていた人がいたが、宮台の「セカンドライフ」論はまさにそういうものだ。

 ところで、この対談の終盤において、石原は以下のように語っている。

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石原 やはり、日本文化の独自性、個性をどうやって抹消させずに維持するかという問題に繋がってくると思う。人間というのは、精神や感性、情念のある不思議な動物だから、それぞれ違った風土や文化を生み出し、それが時間と空間に撫でられることで文明がかたちづくられたわけだけれど、結局、文化までもが個性を喪失すれば、その国はキンタマを抜かれた男みたいな存在にしかならない。(pp.88)

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 このような認識は宮台にも共有されているようで、この直後に、

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宮台 三島由紀夫がそんな状況を「博物館的文化主義」と呼びました。歌舞伎や能を残しても、魂を残さなければ意味がない。魂とは入れ替え不可能性であり、大英博物館に陳列できるような文物が魂であるはずがないというわけです。統治権力としての国家はクーデターや敗戦で簡単にひっくり返る程度の存在です。国家に連なる者でなく、国家によって守られるべき「何か」に敏感な者だけが国士です。「何か」とは日本人なら思わずミメーシス(感染)してしまうもの。だから国士に不可欠な要素は「感染力」です。

 都内のホテルで石原都知事とご面会したあと一緒に歩いていたら、おばさんたちが「慎太郎知事だ!」と黄色い声で騒いでいました。私なぞに目もくれず(笑)。これぞポピュリズムと揶揄されるものとは別次元の「感染力」だと思います。そんな「感染力」をもつ人が昔は身近にたくさんいました。勉学動機も、自称保守が推奨する競争動機や、自称左翼が推奨するわかる喜びだけでなく、あの人みたいになりたいと感染して箸の上げ下ろしまで真似する感染動機こそ重要でした。そうしたコモンセンスの継承に鈍感な輩が保守を名乗る昨今は笑止です。彼らが文化から「感染力」を奪っています。「凄い奴」に感染して自分も「凄い奴」になる。これがミメーシスです。テクノロジーのネガティブ面を指摘しましたが、あえてポジティブ面をいえば「凄い奴」の数が減るなかでメディアが「凄い奴」を媒介する可能性ですね。(pp.88)

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 と述べている。この対談におけるコンセンサスとは、昨今の青少年問題が、我が国が国家としての「感染力」を喪失したことと、そのような状況に真剣に向きあおうとしないものたちの問題である、ということだろう(ついでに言うと、先の都知事選において、石原が当選したとはいえ前回よりも大幅に得票数及び得票率を減らしたのはどういう理由によるのでしょうね?)。然るに、冒頭でも述べたように、このような物言いなど、権力を免責するものでしかなく、大規模な文化的状況を語っているように見えて、実は何も語っていないに等しいのである。

 それにしても象徴的というか衝撃的なのは、かつて宮台は、例えば「援助交際」をめぐる言説において、そのような行動をとる少女は一部だが特別ではない、という理由で、新しい状況がきている、と言って、上の世代に退場を促していたのだ。そして、この対談においては、同様のロジックが、権力にすり寄るための口実として使われている。これは宮台の得意とする戦略的な立ち位置の転換によるものなのか、あるいは単に首都大学東京のポストが恋しいだけなのか、またあるいは権力者として政治を動かす立場になりたいのか、それとも天然なのか、それは判断しかねる。しかし、このような宮台の「転向」(?)について、宮台をカリスマとして崇め奉っていた人たち――かつての私もその一人であったことは否めないが――は、いかにして宮台を捉えるつもりなのだろうか。

 近年においては、例えば浅野智彦や本田由紀などに代表されるように、今までステレオタイプに捉えられてきた事象――例えば、若年層の道徳・規範意識や、自意識、あるいは就業、逸脱などの行動――について、できるだけ客観的に捉え、またその上でいかに若年層を社会学的に考えるか、という研究や著作が蓄積されている。そのような状況にあって、宮台などが行なってきた、何らかの新奇な「概念」をでっち上げて、そこから大上段から「現実」を語る、という行為が以下に相対化されていくのか、あるいはされるべきか、ということを考える必要があるのではないか、と思う。

 まあ、とりあえず、このエントリーで言いたいことは、以下の一言に尽きるわけで。

 「絶望した!宮台真司に絶望した!!」

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 宮台がらみで、もう一つ、おもしろい発言があったので、紹介しよう。平成17年に行なわれたという、宮台と田口ランディとの対談だという。

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 宮台 殺したいと思えば殺せるし、犯そうと思えば犯せるのに、それだけは絶対にしたくないと思う「脱社会的存在」がいるのは、なぜでしょうか。これは解かれなければいけない問題です。〈世界〉の根源的未規定性を受け入れ可能にする機能をもつ「宗教的なるもの」の真髄に関わる問題でしょう。

 (http://www.miyadai.com/index.php?itemid=541

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 《殺したいと思えば殺せるし、犯そうと思えば犯せるのに、それだけは絶対にしたくないと思う「脱社会的存在」がいるのは、なぜでしょうか》とは…。単に「脱社会的存在」なる定義付けが間違っていた、という考えには至らないのだろうか?

 文献・資料
 浜井浩一、芹沢一也『犯罪不安社会』光文社新書、2006年12月
 井出草平『ひきこもりの社会学』世界思想社、2007年8月
 池田謙一(編著)『インターネット・コミュニティと日常世界』誠信書房、2005年10月
 石原慎太郎、宮台真司「「守るべき日本」とは何か」、「Voice」2007年9月号、pp.80-89、PHP研究所、2007年8月
 宮台真司、宮崎哲弥『M2 ナショナリズムの作法』インフォバーン、2007年3月
 宮田加久子『きずなをつなぐメディア』NTT出版、2005年3月

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2007年8月13日 (月)

俗流若者論ケースファイル84・河野正一郎&常井健一&福井洋平

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 日本人は、過去を忘却することで遺恨を乗り越えてきた。ただ、「死者には、追憶される権利がある」(H・アーレント)。残った者が記憶にとどめないと、死は復讐する。上を向いて歩く顔の少ない、上っ面景気の、劣化した日本の惨状は、記憶の耐えられない軽さに御巣鷹から上がった怨嵯の声ではないのか。(河野正一郎、常井健一、福井洋平[2007](以下、断りがなければ全てここからの引用)pp.21)

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 《上を向いて歩く顔の少ない、上っ面景気の、劣化した日本の惨状は、記憶の耐えられない軽さに御巣鷹から上がった怨嵯の声ではないのか》――日本人が「劣化」していると、さしたる根拠もなく主観的に決めつける人たちは、何でこんなに傲慢なのだろう?かつて私が「想像力を喪失した似非リベラルのなれの果て ~香山リカ『なぜ日本人は劣化したか』を徹底糾弾する~」なる記事で批判した香山リカもそうであったが、彼らの脳内においては、我が国はどこもかしこも「劣化」し、その現実を直視し、それを克服することこそ我が国の「再生」につながるという思考が既に形成されている。

 今回検証するのは、「AERA」平成19年8月13日・20日合併号に掲載された、河野正一郎、常井健一、福井洋平による「劣化する日本に響く御巣鷹の声を聴け」である。本書においては、「再生」までは書かれていないけれども、少なくとも現代に対する傲慢な態度は変わらない。リードには、以下のようにある。

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あれから22年がたった。
当時、あの時が岐路だったとは気づかなかった。
最後に、上を向いて歩いたのはいつだったろう。
520人の命を思い出し、いま、足元を見る。
追憶すれば、未来が見える。そんな気がする。(pp.16)

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 などと能書きを垂れているものの、この記事の著者たちの現代社会に対する見方は極めて一面的である。というよりも、統計的に見れば、あるいは少し考えれば直ちに「劣化」なるものが虚像であることが明らかなようなものについて、日本人が「劣化」した証拠であり、そしてその根源は昭和60年(1985年)にあるものであると繰り返している。

 例を挙げてみよう。17ページ、2段目から5段目にかけて、渋谷の歯科医師宅で予備校生が妹を殺害したという今年初めの事件を採り上げて、そこには昭和60年を起点とする「家族」の崩壊があるとする。その「理由」について、河野らは以下のように記述する。曰く、

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 85年には、「8時だヨ! 全員集合」(TBS)の放送が終わっいる。ザ・ドリフターズの伸本工事は言う。
「家族そろってテレビを見る習慣があの年、終わったんでしょうね」
 同じ時間帯、フジテレビでは「オレたちひょうきん族」を放送、ドリフを追い落とす勢いだった。ドリフも低俗と批判されたが、その批判も親子が一緒にテレビの前に座っていればこそ。ひょうきん族が家族そろって見る内容には思えなかった。
 85年は「夕やけ二ャン二ャンの放送開始年でもある。当時、秋元康は番組の曲の詞を依頼される際、テレビ局から、「毒を入れて」と言われた。そこから「セーラー服を脱がさないで」が生まれた。
 毒をはらんだ女子高生ブームは93年のブルセラ/援助交際フームヘと直結していく。
 テレクラ。コードレスホン。深夜のコンビ二。若者の夜のライフスタイルを変える「三種の神器」が生まれたのが85年だったのは、だから偶然ではない。
 当時のセブンーイレブンの「いなりずし」CMはこう始まる。
「私は夜中に突然いなりずしが食べたくなったりするわけです。(中略)こんな自分を私はかわいいと思います」
 社会学者の宮台真司によると、いなりずしを買いにいった若い女性が、ついでに雑誌を買う。ページをめくると、テレクラの広告が出てくる。コードレスホン片手に、家族の目がない自分の部屋から電話すれば、見ず知らずの男女が会話を始める。
「コードレスホンと、自室のテレビが普及した頃から、家族の空洞化が始まった。血がつながった家族だけでなく、多様な人間関係を『家族』としないと、帰る場所のない不安な人たちが街にあふれかえることになる」(pp.17)

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 以下、疑問点を挙げるとするならば、第一に、このような事件が起こったのは、本当にそのようなものが原因なのか。もしそれが原因ならば、件の事件が頻発していなければならないのだが、少なくとも少年による凶悪犯罪は減少しているし、また20代の殺人率だって世界に比べれば極めて低い。この記事の筆者らは、本当に現代になって件の如き事件が増えたのか、ということを検証する必要がある。第二に、類似の事件を過去から探すようなことをしなかったのか。第三に、「偶然ではない」(これは本書において繰り返される文言である)と書かれているのだが、それは本当なのだろうか?第四に、宮台真司のいうところの「家族の空洞化」は何を指すのだろう。第五に、たった一件だけの事件をもってして、「家族の空洞化」が進行している、ということはできるのだろうか。

 ちなみに、赤塚行雄の『青少年非行・犯罪史資料』第2巻には、以下のような事件を報じた新聞記事が引用されている。昭和39年、1964年7月の話である。

 東京、三鷹市の上連雀で、慶應大附属志木高校3学年の兄が、同校2学年の弟を殺害した。この犯人は、物盗りが入ってきたのを偽装し、逃亡中には、《事件当夜三人組の賊が侵入、自分はクロロホルムをかがされて、自由を失った》(赤塚行雄[1982]pp.375)という筋書きの元、物盗りの人相や服装、特徴などをノートに細かく記述した。ちなみにこの兄弟の父親は大学教授、母親は女性検事の第一号であった。また、この兄弟は高校に入学してから中学生を集めて野球のチームを作るも、兄(犯人)の独善的な采配からチームは分裂、家庭内でも弟の発言力が重みを増した。新聞報道は、《こんな状態にいたたまれず、F(筆者注:犯人のこと)はオノを振ったのだろう》(赤塚、前掲pp.376)としている。

 さらに、この犯人は、《学校では内気で、友達もいない孤独な少年。また動物に異常な興味を持ち、ネコをハク製にしたり、生きているヘビの皮もはぐ残虐な性格も見られた》(赤塚、前掲pp.376)という。また被害者である弟もまた、チームが分裂してから、家族に対して恒常的に暴力をふるっていたというが、《E君(筆者注:被害者)を知る人たちは、E君がこのような乱暴だったとは考えられないという》(赤塚、前掲pp.375)。

 このような事件がもし現在起こっていたとするなれば、間違いなく多くの自称「識者」たちは、「家族の崩壊」だの「心の闇」だのという言葉で、事件をスペクタクル化するだろう。しかしながら、この事件は昭和39年に起こったもの。というよりも、過去の事件をたどれば、これが現代で起こったら間違いなくマスコミや「識者」たちはここぞとばかりに意味のない「分析」を繰り返すだろうという事件などいくらでもある。

 そもそもこの記事においては、そのようなスペクタクル化さえも、日本人の「劣化」の原因とされている。そしてその発端が、まさに昭和60年の「ロス疑惑」報道であった。ところで、この「疑惑」に関する報道の過熱ぶりは、その後検証され、反省されたのでしょうか(ちなみにこの事件は、最高裁において無罪が確定している)。さらに、同様にスペクタクル化された事件は、例えば平成元年の宮崎勤事件、平成7年の地下鉄サリン事件、平成9年の「酒鬼薔薇聖斗」事件があるのだが、それらについての報道も検証されて然るべきものであるが。「AERA」だって、特に少年犯罪に関して、スペクタクル化された報道を検証するという記事を掲載したのは、寡聞にして聴いたことがない。

 19~20ページでは、「格差」についても語られてはいる。だが、そのいずれも実に下らない話。一つ目が、平成19年に甲子園の常連校、PL学園が予選で敗退したことを採り上げて、以下のように語っている。曰く、

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 07年夏のPL学園野球部は大阪大会の2回戦で敗退した。3年連続で、夏の甲子園出場を果たせなかった。ある野球部関係者はこう説明した。
「大会の成範がよくなくても、進路が約束されるようになった。勝ちに対する執念に差があるんです」
 執念の有無が、上流と下流の間に「隔壁」をつくる。
 神戸女学院大の内田樹は、国立大で授業をした際に学生から「現代思想を学ぶ意味は何ですか」と開かれた。
「(この学生は)ある学術分野が学ぶに値するかについての決定権は自分に属していると表明しているこの倣慢さと無知にほとんど感動しました」
 学ぶことから逃走する学生が増えていることに、著書『下流志向』でそう驚愕している。
 確かに、現在は「努力したら必ず報われる」とは言えない。しかし「努力は報われる」ことを信じるか信じないかで、努力する執念が二極化する。
「きわめて短期間に日本社会を階層化した原因である」
 内田の指摘は重い。
 (略)
  いまだ現役を続けるKK(筆者注:PL出身の桑田真澄と清原和博)は執念に燃えられる最後の世代だ。満創痍の清原は07年夏、ひざにメスを入れて、まだバットを放さない。右ひじのけがと年齢による衰えを努力で克服した桑田は、メジャーのマウンドにしがみついている。(pp.19)

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 はいはい下流志向下流志向。それはさておき、これについてもいくらでも対案を挙げることができる。第一に、PLが甲子園の土を踏めなくなった原因として、他のチームが強くなったというという考えには至らなかったのだろうか。第二に、《ある野球部関係者》(って誰?)のいうところの《大会の成範がよくなくても、進路が約束されるようになった》時代と、そうでない時代の成績の差を、筆者らは説明する必要がある。第三に、何でPLの話から一気に学生一般の話になってしまっているのか。第四に、何も格差(ある意味では、こういう言葉を使うから、内田の如き「格差は経済問題ではない」という輩がのさばるという背景もあるが)や貧困は昨今になって突然降ってわいたものではない。

 もう一つは、昭和60年(もう飽きた)における男女雇用機会均等法の制定が、「男社会に媚びる女とそうでない女」の、いわば「女女格差」を生み出した、という話。どうせなら、昭和60年ならぬ、昭和61年に制定された労働者派遣法を説明したほうがいいと思うのだけれども(派遣法については、門倉貴史[2007]によくまとまっている)。所詮は中森明夫をして「アエラ問題」なる造語を作らせしめた「AERA」、経済や労働環境の問題はスルーなのだろう。

 これだけ我が国が「劣化」したといわれている事象を殊更に採り上げて、そしてその「原因」を探る、というこの記事は、果たして昭和60年のどのような事件に起因しているのだろうか、という皮肉はさておき、この記事において行なわれているものは、この記事の大半を構成しているような、殊更採り上げる必要のない些細なこと(本書冒頭で採り上げられているような、阪神が優勝し、また中曾根康弘が靖国に公式参拝したこの年に、W杯の予選の最終戦(韓国戦)で、多くの若い世代が「全日本」を熱心に応援するようになってから、若年層にとって「愛国心」はファッションとなった、などという議論はその最たる例だ。まあ、これにより、ここ数年で「愛国」ブームが発生した、という香山リカの妄言は否定されたけれども(笑))や、あるいは明らかに一つの原因を同定することが可能な事象(マスコミの犯罪報道の問題など)、また検証不十分な事象(家族内の殺人事件に象徴される「家族の空洞化」)について、ろくに検証せずに、日本人の心性が変化(=劣化)したからだ、と安易に決めつけるような行為である。

 このようなことは、実をいうと類似することを行なっているものが存在する。それは昨今の政権与党、特に教育再生会議に代表されるような教育政策、あるいは「若者の人間力を高めるための国民運動」に代表されるような青少年政策である。要するに、予算や(金と人の)再配分、あるいは労働環境の改善や労働法の遵守などといった次元で解決されるべき問題を、日本人の意識が変化したからだ、という理由で過度に一般化させ、「国民全員で解決しなければならない」と煽るやり方である。そしてそこで用いられるのが世代論であり、また免罪符を与えられるのは権力である。

 何もそこまで話を広げなくても、といわれるかもしれないが、問題解決の優先度を見誤り、あるいは世間の空気に便乗してエビデンスに基づいた検討を怠り、時には真に責任を問われるべき存在を免罪し、あるいは真に問題にすべき事象を隠蔽する。それこそが、昨今の政権与党における教育政策、青少年政策における特徴であると同時に、俗流若者論の特徴でもある。このような青少年問題における、権力とマスコミの共鳴こそが、青少年政策に暗い影を落としている。そのようなことに無自覚なマスコミが多数存在することこそ問題なのである。

 ところで、このような若者論の蔓延は、昭和60年の何に起因するのですか、河野さん、常井さん、福井さん?

 引用文献・資料
 赤塚行雄(編)『青少年非行・犯罪史資料』第2巻、刊々堂出版社、1982年11月
 門倉貴史『派遣のリアル』宝島社新書、2007年8月
 河野正一郎、常井健一、福井洋平「劣化する日本に響く御巣鷹の声を聴け」、「AERA」2007年8月13日・20日合併号、pp.16-21、朝日新聞社、2007年8月

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2007年2月 1日 (木)

俗流若者論ケースファイル83・石原慎太郎&義家弘介

 〈読者の皆様へ〉
 このエントリーを読む前に、サイト「義家弘介研究会」をご一読されることをおすすめします。

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 今日行く審議会@はてな:それって前提が間違っていないのか
 不安症オヤジの日記:「教育を科学したことがない人がインパクト重視でつくった提言」
 冬枯れの街:第8・9回議事要旨公開を待ちながら~義家・草薙の弊害から子どもを守る委員(=ヲチャ)随時募集中~
 女子リベ  安原宏美--編集者のブログ:「モラルが下がって給食費未納」って「神話」じゃないの?
 西野坂学園時報:「ニート利権」にたかるハゲタカ・小島貴子
 保坂展人のどこどこ日記:安倍政権の焦りと教育再生会議への疑問

―――――

 安倍晋三内閣が誕生し、「教育再生」を高く掲げ、その元に教育基本法が改正(というか改悪)されたけれども、この「教育再生」の元となっている理念とは、いったい何なのだろうか。

 戦後レジームからの脱却?私はそういう大言壮語はいらないと思う。なぜなら彼らは、そもそも青少年問題に関して、定量的な議論を元にしていないからだ。つい最近発表された、教育再生会議の第1次報告を見てもそこには単なる精神論ばかりが並び、例えばいじめやそれに起因するとされる自殺に関しては昭和60年頃や平成7年頃にも問題化された(伊藤茂樹[2006])、あるいは少年犯罪は増加ではなく減少している、などという事実認識は、これらの報告からは一切抜け落ちている。

 本田由紀が指摘しているとおり(本田由紀[2007])、教育を科学したことのない人たちがインパクト重視で出した提言(インパクトすらあるかどうかわからない、という疑問もあるが)に過ぎないのである。それに関しては、執筆活動に当たって、教育社会学的なものを軽くかじっている程度の素人の私から見てもわかる。要するに、自らがもう公教育を受けないことにあぐらをかいて、教育という概念で遊んでいるだけに過ぎないのである。

 で、そういうことを推進している人がどういう考えを持っているかと言うことを象徴するかのような資料を見つけた。「諸君!」平成19年3月号に掲載された、石原慎太郎(東京都知事)と義家弘介(教育再生会議担当室長、横浜市教育委員会委員、自称「ヤンキー先生」)の対談「子供を守るための七つの提言」である。この対談は、「いじめはなくせるのか」という特集の枠組みで掲載されているのだが…。

 はっきり言おう、こいつら何もわかってない。この「提言」なるものも、大半がいじめと関係ないものばかりだし、これらが子供を守るための「提言」と本気で言うのであれば、もう子供たちを侮辱しているとしか思えない。むしろこの対談を、今の「教育再生」に賛同している人がいかに短絡的な思考でもって教育を語っているかと言うことを示す証拠として、全国の親御さんたちに読んで欲しい(言い過ぎかな)。

 何せのっけから、

 1. 新たないじめを産むジェンダーフリーの是正

 ですからね。なぜジェンダーフリーがいじめを産むかというと、なんと単に義家が聞いた事例1件だけで、そういう風に断言されてしまうのである。曰く、

―――――

 義家 (略)今のいじめの実態をみますと、これまでには考えられなかったようなケースが頻出しているんですね。たとえば、男子が女子を殴ったり、トイレで男子のズボンを脱がせて女子に見せたり、といったいじめが実際に起きている。

 石原 男が女を殴る?そんなことまで起きているんですか。それは全く論外だね。

 義家 男子による女子のいじめが起きる背景の一つには、近年進められたジェンダーフリー教育が考えられますね。(略)ジェンダーフリー論者に言わせれば「女を殴ることは男として恥ずべきことだ」というごくごく当たり前の規律さえ、男女差別につながるから教えてはならない、というわけでしょうか。

 石原 それは浅薄きわまりない言い分で反論にも値しないが、肉体の優位性を持ったものが弱者を一方的に殴ってはならない、というのは、世界のどこでも共通する超えてはいけない最低限の規律ですよ。日本だけじゃないかな、若い人の間でこんな病的な現象が起こりうるのは。(石原慎太郎, 義家弘介[2007]、以下、断りがないなら同様/125ページ)

―――――

 すいません義家さん、誰がそんなこと言ってるんですか?少なくともそのような考え方は、義家のイメージするところの「ジェンダーフリー論者」はそういっているに違いない、というのに過ぎないんじゃないの?少なくとも義家がそのように主張するのであれば、いわゆる「ジェンダーフリー教育」が蔓延する「以前」と「以後」に比して、どのようにいじめが変質したのか、なおかつそれが本当にいわゆる「ジェンダーフリー教育」が主たる原因なのか、ということを提示しなければならない。義家はそういうことをやっておらず、ただ自分が聞いて驚いた事例を「ジェンダーフリー教育」なるものと安直に結びつけて、今の子供たちと教育を嘆いてみせている。

 一兆歩ほど譲って、少なくとも義家の提示している事例においてはいわゆる「ジェンダーフリー教育」の影響が認められる、今までになかったタイプのいじめであるとしても、今度はそれが本当に全国で広がっているか、ということに関しても検証されなければならない。ましてや石原が《日本だけじゃないかな、若い人の間でこんな病的な現象が起こりうるのは》などと述べるためには、さらに世界各国に対する調査が必要となる。

 さらに石原は126ページにおいても、このように述べている。

―――――

 いまの「体・徳・知」のお話にも重なるけれど、コンラート・ローレンツという動物学者が「肉体的苦痛を左内頃に味わったことのない人間は不幸な人間になる」と説いている。(略)それが今では、冷暖房のないところではいられない、ちょっとでもおなかがすけば冷蔵庫を開けて間食、という環境に子供がおかれていますね。こうした物質的な豊穣が、人間を弱くしていることは間違いない。

―――――

 「間違いない」は長井秀和だけで十分だ。それはともかく、今更ローレンツかよ、どうせならそこで戸塚ヨットスクールを持ち出してくれるとおもしろいのに。閑話休題、ここでもステレオタイプというか、一面的な青少年認識が語られているだけである。

 2. 占領期の亡霊「体罰禁止」通達を廃止せよ

 あーあ、こいつら、歴史に無知なことをさらけ出してしまったよ(笑)。はっきり言います、体罰は、戦前から禁止されていました!現行の法律においては、体罰を禁止しているのは学校教育法の11条、及び学校教育法施行規則の13条であるが、体罰は戦前から禁止されていた。

 体罰をめぐる事例や制度に関しては、広田照幸による先行研究を参照することとしよう(広田照幸[2001]、189~224ページ)。我が国で体罰の禁止が最も早く明文化されたのは、なんと明治12年の教育令である。明治18年から数年は体罰の禁止は消えるが、明治23年の小学校令の改正で、体罰は禁止され、さらに言えばそれは昭和16年の国民学校令の制定まで持ち越される。

 さらに、大正4年1月29日、東京府のある尋常小学校において、教師が授業中にトラブルを起こし、生徒に怪我を負わせた。翌月1日、怪我をした生徒の父親が学校を相手取って訴訟を起こし、この事件は体罰「問題」として発展していくこととなる。そのあと、体罰をめぐって、新聞や教育の専門誌は侃々諤々の意見が飛び交った。裁判のほうも大審院まで持ち越され、翌年6月に被告の無罪が言い渡されるという出来事まであったりする。さらに体罰が裁判沙汰になったことは、明治30年と明治43年にもあった。

 とりあえず、これだけ挙げて、ここは終わりにする。こういう事実を提示したら、こいつらの放言と、問題の多い文部科学省の校内暴力の統計を鵜呑みにした議論なんてなんの意味もないからね。

 3. 携帯電話からの有害情報の遮断を

 少なくとも130ページにおいて、義家がフィルタリングソフトの存在について触れていることは評価できる。でも相変わらず、義家は、携帯電話に関して、悪い面を強調しているのであるが。ここで問題が見られるのは、やはり石原の発言であるが、相変わらず自分の青春を誇らしげに語っているだけなので割愛する。それにしても、石原はいい老後を過ごすことができて実にうらやましいね、自分を相対化できない酒場の愚痴程度の発言が、雑誌に載って衆目にさらされるんだから。

 4. 「親こそ教育の最高責任者」という自覚を持て

 ここも単に若い親に対する愚痴を語っているだけなので割愛。ここでは義家と石原が「ニート」に関して無知をさらけ出している発言を検証しよう。

―――――

 義家 (略)いまニートといわれる人々は、三十になっても親が生活費をくれる。それでは、「自分で生きていこう」「よし、戦ってやろう」などという気持ちにはなり小間線よ。これは、明らかに親が弱くなってしまったからだと思います。

 石原 まったくだね。動物の生態を見ていれば、あるところで子供は乳離れをして巣立っていく。つまり親が突き放すのだけど、ニートの問題をみると、親が子供に甘えていると言ったらいいか、子離れできない親の問題ですよ。(133ページ)

―――――

 何でこういう人たちって、「ニート」及びその親を批判する際には、すぐに動物のアナロジーを出したがるのかしらね。はっきり言いますけれども、青少年の就業機会は近年増加傾向にあるとはいえ低いままだし、非正規雇用が増えているから賃金も低い。こういう野生回帰に見えるような思想こそ、厄介なのである。なぜなら、このようにいかなる状況においても親が子供を突き放さなければならない、と主張することによって、それこそ人間において特有の背景にある経済システムを語ることを放棄してしまうから。ああ、もう何が何だかわからなくなってきた。こういう、いわば「「教育教」の信者たち」(岡本薫[2006])には何を言っても無駄なんだろうな。少なくとも、「ニート」に関する、本田由紀や中西新太郎や乾彰夫や田中秀臣や若田部昌澄などの言説くらい参照したらどうだ。

 5. 教師は「聖職者」たれ

 これも義家が精神論ばかりぶっているところなので割愛。少なくともここで述べられていることは、冒頭で挙げたサイト「義家弘介研究会」を読めば、眉につばをつけて読むべき部分でしかない。

 6. 職業体験を義務づける

 石原。いやあ笑えました。

―――――

 石原 (略)実際に、高校で職業体験をさせると、子供たちが見違えるように生き生きし、いろんなものを掴んできますよ。たとえばガソリンスタンドやファーストフードでもいい、店員に混じって、お客の「ありがとうございました」と挨拶をする。その声が小さいと上役に叱られて、ヤケクソでも大きな声で「ありがとうございましたっ!」と頭を下げると、それは身体的なエクスタシーを伴った体験でもあるし、お客に声が届く、という点でコミュニケーションの快感を体得するきっかけにもなる。(136ページ)

―――――

 《身体的なエクスタシー》《コミュニケーションの快感》って…行き着く先は自己啓発ですか。職業教育であるにもかかわらず、目的はこういう自己啓発的なことって、どこか間違っていないか。このあとに義家は、東京において奉仕の必修化を「大変な前進」と評価しているけれども、第一そういう政策は青少年に関する認識からして根本から間違っていて、って、もう何度も言ってきたので正直うんざりしてきた。

 7. 土曜半ドン復活でゆとり教育脱却

 えー、PISAの学力テストで成績が高かったクラスは、必ずしも授業時間が長いわけではなく…って、こういうことも無視しているんだろうな(まあそもそも、PISAのテスト自体、日本の学力概念とは違うところの学力をテストしているわけだけれども)。

 それはさておき、私が吹いたのは、やはり石原のここ。

―――――

 石原 義家さんみたいに現場の経験があり、若い人の実態を知っていると、非常に具体的に、こうした対策が講じられない限り救われないという実感をお持ちでしょう。いま、教育についてあれこれ言っている識者には、現場を見た上で言っているのか、と問いたいね。(137ページ)

―――――

 そういうことはまず教育再生会議の連中に言ってくださいよ、石原さん。そもそもあの会議に有識者として呼ばれている人自体、教育現場とはほとんど関係ない人たち、関係があったとしても、義家と陰山英男という、それこそメディアがこぞって採り上げるような人でしょ。そもそも義家自体、若年層の実態を知っているかと言うことに関しても、極めて怪しいことは、やはり秀逸なサイト「義家弘介研究会」で言われているとおりである。こういう人に対して、石原はこの対談の締めとして、《政府と横浜市はいい人を迎えたね》(138ページ)と義家を絶賛しているけれども、確かにいい人を迎えたと私は思う、ただし格好の批判材料として。

―――――

 まあ、ここまで義家と石原の対談を批判した来たけれども、正直に言おう。少なくともこの2人に、教育政策を任せられるか、といったら、私は断固として任せてはいけないと思う。なぜなら、青少年に対するネガティヴな思いこみばかりを語り、それで立派な教育論を述べた、と思いこんでいるのだから。前提からして間違っているのではないか、ということを、こういう人たちは考えないのだろうか。

 考えないのだろうな。そもそも彼らは自分にとって都合のいいように青少年の姿を構築しているだけであって、本当に子供のことを考えているわけでもなければ、リスクマネジメントをしているわけでもない。これは、教育基本法が改正(というよりも改悪)されたことにより、軍国主義的な青少年が増える、とか妄想している左側にも言えること。要するに、子供たち、若年層を、自らのイデオロギーの型に強引に当てはめて、その上で遊ぶことしか考えていないのである。この石原と義家の対談はまさにその典型だけれども、こういう右側の妄想じみた教育言説に関して、根本から揺るがすような証拠(少年犯罪の凶悪化を否定する資料の他、探せばいくらでも見つかるものだが)を提示してこなかった左側もまた問題である。

 その証拠に、「教育再生会議」には、真に教育学の専門家といえるような人が一人もいない。これは、左派に属する論壇人や編集者の罪でもある。かの悪名高き「教育改革国民会議」にさえ、専門家として藤田英典が委員となっていたのだが、今の「教育再生会議」には、藤田のような役割を果たす人間がいない。この「再生会議」に限らず、教育基本法「改正」に関する審議においても、高橋哲哉や広田照幸などが承認として発言したものの、彼らの意見は受け入れられなかった。それどころか、昨年末における「オーマイニュース」の教育に関する特別企画さえも、発言者は全て専門家ではなかった。つまり、教育学の専門家の権威が、少なくとも政治とメディアのレヴェルで低下しているのかもしれない、ということだ。

 だからこそ安倍政権の「教育改革」に反対するものは、本田由紀ではないがそれこそ教育を科学するという視点を前面に出し、そういう人がいないことこそ問題だ、というフェイズで批判していくべきである。菊池誠がNHKの「視点・論点」で「蔓延するニセ科学」という論説を発表して話題になったが、左派、特に左派メディアの編集者は、今こそ「蔓延するニセ教育学」という視点でもって、専門家をフルに活用すべきではないか。「軍国主義」だの「精神の支配を許すな」だのといった下らないイデオロギーよりも、「王様は裸だ」と叫び続けることが大事なのだ。左派メディアの受け手もまた、耳学問程度でいいから、教育社会学的な視点を学んだほうがいい。

 引用・参考文献
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』、名古屋大学出版会、2001年1月
 本田由紀「教育再生会議を批判する」、2007年1月29日付朝日新聞
 石原慎太郎、義家弘介「子供を守るための七つの提言」、「諸君!」2007年3月号、pp.124-138、文藝春秋、2007年2月
 伊藤茂樹「「死にたい」気持ちを「わかって」あげるな!」、「論座」2007年1月号、pp.86-91、朝日新聞社、2006年12月
 岡本薫『日本を滅ぼす教育論議』、講談社現代新書、2006年1月

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2006年7月15日 (土)

俗流若者論ケースファイル82・半藤一利&山根基世&常盤豊&妹尾彰&新井紀子

 読売新聞に「子供の危機」みたいなタイトルで掲載されるインタヴューやシンポジウムの記事にろくなものがあった記憶はほとんどない。今回検証するのは、平成18年7月14日付読売新聞に掲載された、「読売NIEセミナー」の第12回シンポジウム「子どもの危機」である。

 御存知の方も多いと思うが、「NIE」というのは「Newspaper In Education」の略語であり、学校などで新聞を教材として活用するという教育法である。これは新聞の利権拡大とか噂されているし、私も現在の新聞が真の意味でのNIEにふさわしいかどうかは極めて強い疑問を持っている。

 そもそも新聞の(正確には「読売新聞の」?)推進するNIEなるものがいかに疑わしいものであるかということに関しては、このシンポジウムの記事、特に半藤一利氏(作家)、山根基世氏(NHKアナウンス室長)、常盤豊氏(文部科学省初等中等教育教育課程課長)、妹尾彰氏(日本NIE研究会会長)、新井紀子氏(国立情報学研究所教授)の座談会の記事を読めばわかってくるというものだ。たとえば妹尾氏は、のっけからこんなことを言い出す。

―――――

 妹尾 子どもが起こす事件が頻繁になっている。人間性の低さ、未熟さから、利己的で自分中心の欲求を満たすことばかりを追い求めているように見える。心の豊かさを取り戻し、精神の貧しさを克服する一翼を担えるのが活字。特に新聞は、読む力、各地から、話す力を発展させる可能性を持ち、社会を知り、問題の善悪を考え、自分の将来を考えるきっかけにもなる。(半藤一利、山根基世、常盤豊、妹尾彰、新井紀子[2006]、以下、断りがないなら同様)

―――――

 あまりに莫迦莫迦しくて、突っ込む気すら失せるんですけど。いやいや、何も私が突っ込みたいところは、少年による凶悪犯罪は昭和35年頃に比して激減しているし、かつても子供による「理解できない」(正確には、もし現代に起こったら直ちにマスコミによって「理解できない」と騒がれるであろう)凶悪犯罪はたくさんある、というところではない(いや、こっちも思いっきり突っ込みたいけれどね)。

 私が本気で突っ込みたいことは、現代の青少年が「心を失っている」などと平然と言ってのけることであり、なおかつそれを取り戻すために必要なことが「活字」であるとほとんど無根拠に言っていることだ。まず、青少年に「心の豊かさ」を「与える」(つくづくパターナリズム的で嫌な表現だが、こういう風に表記するほかないんだよな)ものは果たして「活字」しかできないことなのか?アニメや漫画だって十分に感動的で、なおかつ人生訓的にも深い意味を持った漫画やアニメも結構あるだろう。そもそも「活字」/「非・活字」などという風に暴力的に分割し、「活字」だけがすばらしく、「非・活字」は暴力の泉源である、などと考えるのは芸術に対する死刑(私刑?)宣告と同じではないか?(補記:この部分について、妹尾氏は「心の豊かさを取り戻し、精神の貧困を克服することの一翼を担えるのは活字である」としか言っておらず、「暴力的に分割」ということは言っていないのではないか、と質問を受けました。もちろんその通りではあり、「暴力的に分割」というのは言い過ぎだったかもしれません。その点に関しましては妹尾氏及び読者の皆様に謝罪します。ただ、このシンポジウムの記事全体を見渡してみるに、おそらく登壇者の共通認識として「現代の子供は活字に触れることがなくなったから精神が荒廃したのだ」というものがあるように感じられます。もちろん私のスタンスとしましては「精神の荒廃」と簡単に言ってのけてしまうこと自体疑わしいことであり、また本当に活字「だけ」が「精神の貧困を克服する」とは思えません。この点を私は衝いていきたいのです)ただ表現の仕方が違うに過ぎず、活字でしか表現できないものもあれば、漫画でしか表現できないものもあるし、アニメでしか表現できないものもあれば、ゲームでしか表現できないものもあるのである。

 妹尾氏の如き、自分の時代になかった表現はみんな諸悪の根源だ!みたいな駄々っ子の如き自意識丸出しの自称「識者」たちの暴走は止められないのか。こういう人たちに、たとえば漫画やアニメのDVDを差し出して「すばらしいのでぜひ見てください」と言っても、歯牙にもかけられないんだろうなあ。

 そもそも妹尾氏の考える「心」というものの実体が開示されていないというのもまた問題である。そもそも「正しい心」とはいったい何なのか?それをうやむやにしたまま現代の青少年から「心」が失われている、と言うのは詭弁である。最初から使わないのがよろしい。

 少々筆が滑ってしまったが、この座談会は、とにかくこのような問題発言――新聞以外に、既存の青少年問題言説に懐疑的な本やインターネットの文章(これらを彼らは「活字」とは絶対に見なしたくないだろうね)でも読んでいれば笑い飛ばす程度の代物でしかないもの――が満載なのである。山根氏と半藤氏によるやりとりを見てみよう。

―――――

 山根 電車の中で携帯電話で話をしていても、なぜいけないのかわからない。仕事の話はできるのに、雑談ができない。そういう人に対して私たち大人は、ダメなものはダメ、という気迫が必要では。

 半藤 戦後の日本人から一番失われたのは「世間」。多様な情報を拒否して、目の前にある携帯の情報しか見ない。自分好みの情報、自分にとって便利な情報にしか触れようとしないから、論理も何もない。世間など「面倒くさい」ぐらいにしか考えていない。(半藤ほか、前掲)

―――――

 それなんて俗流若者論?などとあたしは思ってしまったけれども、ここまで若い世代を見下せるのは本当にすばらしいね。速水敏彦あたりに「若者を見下す大人たち」という本を書いて欲しいよ。無理かな、あの人も「若者を見下す大人」だから。

 それはさておき、このやりとりの中にも、山のような事実誤認や中傷が見られる。たとえば山根氏の発言を見てみる限り、《電車の中で携帯電話で話をして》いる人や《仕事の話はできるのに、雑談ができない》という人を「問題である」という前提で語っている直後に《私たち大人は》と語っているから、明らかにこれらのタイプの人は若い世代であると山根氏は認識している。若い世代は電車の中で、携帯電話を用いて行なっていることは電話ではなくてメールではないか?と思うけれども、その程度のことで「道徳の崩壊」みたいなことを嘆いてしまうのもどうかと思うけれども。このような発言が、自己を否定して企業側の求める姿に自分の姿を合わせる、というような「人間力」大流行の状況と見事にパラレルである…と徒に話を広げることは控えておくが(まあ、こう思わないわけでもないけれど)、大人ってそんなに立派なの?などという素朴な疑問はスルーだろう。

 半藤氏も半藤氏だ。大体社会学者による若い世代に対する調査は往々にして、若い世代はむしろ他人のことを気にするようになっている、という結果が出ているのだが(たとえば、岩田考[2006])。さらに言うと、現代の若い世代は、それこそ携帯電話の普及も相まって、むしろ「場」の空気に適応した行動を行なわなければならないと強く認識するようになっている、ともいえるのである。若い世代の行動を批判するにしても、少なくとも人はおしなべて与えられたメディア状況の下で戦略的・戦術的に振る舞わざるを得ず、そう考えれば現代の若い世代も意外としたたかなのだ、という認識ぐらいは持っておくべきだろう。

 少なくとも、携帯電話に関する個人的なイメージや偏見だけを以て現代の青少年を語ってしまう、ということはやめて欲しいし、論理を重視するのであればやめるべきだろう。その点からすれば、論理の重要性を語っている(はずの)半藤氏の発言は極めて感情的だ。

 もちろんこの直後の新井氏における《電車のマナーと世間の崩壊は関係があるが、では世間を復活させられるかと言うことなかなか難しい。ダメなものはダメ、というルールを家庭と社会がしっかり持たなければ》というのもそもそも青少年問題に関する前提自体が間違っている、ということで批判することができる。この発言を受けて発せられた、常盤氏の以下の物言いもまた同様である。

―――――

 常盤 今の若者は社会や世間、他社との関係作りが苦手だ。他人の目を気にせず自分だけの世界を築いて引きこもってしまう。……いまの国語教育は情緒一辺倒に偏りすぎ。論理性を兼ね備えつつ、コミュニケーション技術を高める国語教育の充実が必要だ。

―――――

 《コミュニケーション技術》だってさ。ここで共通の認識として問題視されている青少年のコミュニケーションは「本物」のコミュニケーションではないのだろう。そもそも《コミュニケーション技術》が喧伝されて、なおかつその過程において青少年における、特にインターネットや携帯電話でのコミュニケーションが「本物」ではない、などと喧伝されたからこそ、青少年の《コミュニケーション技術》が低いと錯覚しているのではないか?

 そしてこの座談会の真打ちが、山根氏の以下の発言である――私はこの発言を見て、私はNIEなるものの真意を悟ったように思えた。

―――――

 山根 美術番組の取材をすると、12歳までの体験が生涯を支配する、ということを痛感する。子供時代にどんな風景を見て、どんな言葉に接したかが大切。体験という根っこがあって言葉は育つのに、今の子どもたちは電子メディアの中の仮想体験ばかりで、言葉が育たない。言葉がいかに心地よいものか、人にかかわることがどんなに楽しく感動するかを知れば、その子どもは言葉に対する信頼感を持つ。新聞が社会教育をしていくのと同じに、テレビも、今まで以上に子どもの教育を意識すべきだ。

―――――

 恐ろしい。テレビ・メディアの人間であるにもかかわらず、山根氏が電子メディアを不当に見下していることが。そして、山根氏が「体験」という言葉をひどく狭くとらえている――そしてその「体験」なる言葉は、結局のところ青少年バッシングを正当化するためのロジックとしてしか使われないことが。いかに電子メディアにおいてすばらしい芸術があろうとも、それは「体験」ではない、というロジックによって否定される。

 そしてテレビもまた《子どもの教育を意識》されることを要求される。つまりは「教育的」な番組がもてはやされるということか。そして「教育的」でない――つまり、毎度おなじみのPTAのアンケートにおいて「子供に魅せたくない」番組として名指しされるような番組は排除されるのだろうか。そんなことは考えたくはないが、「教育的」なものばかりだけの環境に置かれれば心は豊かになる、と考えているのだろうか。

 そのようにメディアが「浄化」された状況においては、むしろ「教育的でない」ものに対しての誹謗・監視が強まるだけではないのか。そもそも「教育的」だとか、あるいはその逆の「青少年に有害」というものの基準は、万人にとって共通ではない。「青少年に有害」というものは、結局のところマスコミが「これが原因だ!」と騒ぎ立てられたものに過ぎないのである。たとい凶悪な少年犯罪を起こした犯人の部屋からゲームが見つからなかったとしても、その犯人は「ゲーム世代」ゆえに「ゲームが原因」だと決めつけられる。

 本来NIEとは、このような状況に対する批判意識を育てていくことではないのか。ある報道に対して、どの点に注意して読むべきかを認識し、足りないところに関しては指摘・批判する。そして可能であれば自らデータを引っ張ってくる。そのような方法論をサポートすることこそNIEの真価ではないかと私は思う。

 だが、少なくともこのシンポジウムの記事を読む限りでは、そのような思想は全く感じられない。それどころか、新聞の記事を無批判に受け入れることを奨励すらしているように思える。

 結局のところ、この新聞が理想とするNIEが目標としているものは何なのか?生物の出産のシーンを見て、生命の大切さに感動した、という感想文を書くことか?とりあえず、実際に観察するということを除けば、新聞よりもテレビの動物番組のほうが有利であろうし、一つのパターンの感想文を「正解」とし、教師が求めていないものを書くとやんわりと「不正解」であることを示唆する――「何々とは思わなかったのかな?」などと暗に間違いであることを示す指導をする――という事態は、教師の顔色をうかがって「模範解答」を書くような児童・生徒を増やすだけではないのか?

 それとも、少年犯罪の記事に触れさせて、「今の少年はどこが問題なのか」というテーマで議論させ、「今の親や教育がおかしくなっている」「いや、社会全体がおかしいのである」という議論を闘わせて、「そもそも現代の少年は本当に問題なのか?」「このような取材手法は報道被害を生み出しているのではないか?」などという答えは圧殺し、そして最終的には「今の青少年はおかしいのだ」と大団円になってしまうのか?

 そんなNIEなど願い下げだ!直ちにやめろ!!!!!

――――――――――――――――――――

 ちょうどいい「教材」が見つかったので紹介しよう。

http://newsflash.nifty.com/news/tk/tk__kyodo_20060714tk023.htm

―――――

小中学生「論理」が苦手(共同通信)
 小中学生は作文で論理を上手に組み立てたり、算数・数学で問題の解き方を説明したりするのが苦手 ―。国立教育政策研究所が小学4年~中学3年(計約3万7000人)を対象に実施した「特定課題調査」で14日、こんな結果が出た。03年の国際的な学力調査でも同様の結果が出ており、論理的・数学的思考の弱さがあらためて示された。調査は指導要領の定着状況を検証、指導法改善が目的で今回が初めて。

[共同通信社:2006年07月14日 19時50分]

―――――

 さて、この記事を読んで、「現代の青少年は論理的思考が苦手だ」と思われる人がいるかもしれない。しかし、そのように認識することは正しくない。

 なぜか。そもそもこの記事にあるとおり、国立教育政策研究所の「特定課題調査」は今回が初めてなのである。従って、時系列での調査がなければ(つまり、以前の世代との比較がない、ということだ)、他国との比較もない。また、どのような問題の正答率が低くて、あるいは無答が多いか、ということもこの記事からはわからない。そもそも国立教育政策研究所が何をもってして「読解力が低い」としているのかもわからない。

 また、ここで引用されている《国際的な学力調査》とは、OECDによる生徒の学力到達度調査(PISA)を示すのであろう。しかし、この調査結果を「読解力低下」と結びつけることに疑問を呈する向きもある。たとえば、受験国語に詳しい石原千秋氏(早稲田大学教授)は、件の調査の設問形式に関して、《PISAの「読解力」試験は、「たたき込」んだり、「漢文の素読」をしたりするような梅実の教育では、むしろ点数が下がってしまうような性質のもの》(石原千秋[2005]、42ページ)であることを立証している。そして石原氏は、図表の読解や、文章を批評的に読んでさらに記述することが不足している我が国の国語教育では正答率が低くなることは致し方ない、としている。

 共同通信の配信記事なので短いのはやむないかもしれないが、もし新聞が好んでこの記事だけを根拠に、「衝撃のデータ」などと騒ぐようであれば、地元の学校にその新聞を二度とNIEに使うな、と進言してあげましょう(笑)。

 参考文献・資料
 半藤一利、山根基世、常盤豊、妹尾彰、新井紀子「第12回読売NIEセミナー シンポジウム「子どもの危機」」(2006年7月14日付読売新聞)
 浜田寿美男『子どものリアリティ 学校のバーチャリティ』岩波書店、2005年12月
 石原千秋『国語教科書の思想』ちくま新書、2005年12月
 岩田考「若者のアイデンティティはどう変わったか」(浅野智彦(編)『検証・若者の変貌』勁草書房、2006年2月)
 岡本薫『日本を滅ぼす教育論議』講談社現代新書、2006年1月

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2006年7月14日 (金)

俗流若者論ケースファイル81・梅崎正直&吉田清久&佐藤ゆかり&青山まり&岡田尊司

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 冬枯れの街:ゴーストハント~幽霊の正体見たり枯れ尾花~
 西野坂学園時報:愛国教育に少子化の解決策を求める愚

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 朝日新聞社の「論座」においては、平成17年10月号から、かつて宮崎哲弥氏(評論家)が平成12年5月号から平成15年3月号まで行なっていた週刊誌批評に、新たに川端幹人氏(元「噂の眞相」副編集長)を加えて、対談形式とした週刊誌批評の連載が始まっている。その連載において、宮崎氏も川端氏も、週刊誌の「アエラ化」をしきりに嘆いている。とはいえ、そのような傾向は、私の知っている限りでは――そして宮崎氏も川端氏も十分熟知しているであろう――既に前々から見られていた。

 特に「読売ウィークリー」においては、平成14年頃、有名人の顔が表紙を飾るのではなく、巻頭記事をイメージした絵や写真などが表紙に据えられるようになってから、果たしてこれは「AERA」なのかと疑ってしまうような記事が巻頭に来るようになった。「35歳未婚女」とか「ニート家庭「凄絶」白書」とかいった感じに。部数アップのためかどうかは知らないが、少なくともこういう記事を巻頭に持ってくることが、果たして新聞社の週刊誌がやることか?「AERA」だってもう少しまともな記事を巻頭に持ってくるだろう(ちなみに私は今年に入ってから「AERA」を毎号購読しているが、ざっと見た限りではここ3か月は就職やビジネスの記事が巻頭に据えられることが多い)。「AERA」だって、中森明夫氏が言うところの「アエラ問題」関係の記事は雑誌の中ほどにあることが多いのに、「読売ウィークリー」は堂々と最前面に出してくるのである。本家の「AERA」さえも凌駕してしまったのかと錯覚するほどだ。

 いっそ「アエラ問題」などという言い方はやめて「ヨミィ問題」と呼ぶことにしようか。そもそも「ヨミィ問題」は「アエラ問題」に比して青少年や若い親たちに対する憎悪とか偏見が強い(まあ青少年問題に関しては「アエラ問題」もほとんど同様かもしれないけど)。従って「アエラ問題」「ヨミィ問題」記事は必然的に俗流若者論が出てくる確率が高くなる(『「ニート」って言うな!』で私が採り上げた、「AERA」平成17年4月25日号の、石臥薫子「姉御負け犬と潜在ニート男」はその典型である)。

 そしてそこで出てくる俗流若者論は実に下らないものが多い。B級テイストが実にあふれている。しかしB級テイストがあふれる俗流若者論もまた、若者論コレクターたる私の興味をそそってしまい、結果として収集しては批判したくなってしまう…ああ、コレクターの哀しき定めよ。

 なんて痛い自分をさらけ出している時間ではないので、とっとと文章の検証にはいる。今回検証するのは、梅崎正直、吉田清久(「読売ウィークリー」編集部)、佐藤ゆかり(ライター。政治家ではない)、青山まり(ライター)の各氏による、「読売ウィークリー」平成18年7月23日号の巻頭記事「40歳のセックスレス事情 「女はいらない」男たち」である。

 いや、この記事って、本当に「アエラ問題」っていうか、「ヨミィ問題」っていうか、そのような記事が抱える独特のB級テイストにあふれているんですよね。たとえば最初の1ページで、我が国において40~44歳の男性の7.9%が童貞である、という調査結果に過剰に驚いていたりとか(「第2回男女の生活と意識に関する調査報告書」という統計がソースらしい)。そしてそれについてわざわざ「専門家」にお伺いを立ててみたりとか。そんなの個人の勝手だろう、というあたしの疑問は完全にスルーしますよと言わんばかりに「解説」をつけてみるわけさ。

 そこであたしは一抹の不安感を抱いたんだ。というのもその「専門家」の中には、なんと『脳内汚染』(文藝春秋)の著者である岡田尊司氏(精神科医)が出てきているんだよ!!そしてあたしの懸念はついに現実のものとなってしまうんだが…これに関しては後で述べることとしよう。

 気を取り直して記事の検証作業を続けることとする。まあ、セックスレス、晩婚化、非婚化を過剰に嘆いてみせては何の益体もない「解説」をつけるという前半部分に関しては、はいはい大きなお世話ですよ、以外の感想を持ち得ないのでスルーすることとする。また、アダルトビデオなどがあおるような女性を満足させなければいけない、というイメージがかえってプレッシャーとなっている、という指摘もある程度は的を得ていると思う。だが15ページの最後のほうに入って、雲行きが怪しくなってくる。亀山早苗氏(ノンフィクション作家)が出てくるあたりからである。

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 男女関係の諸相を取材してきたノンフィクション作家の亀山早苗さんは、こう話す。

 「40歳代よりもっとセックスに弱くなっているのは30歳代、20歳代だと思います。彼らと話していると、仕事や趣味優先で、デートやセックスの優先順位は低い。『セックスしなくて何がいけないの』と言い換えされてしまいます」

 亀山さんによれば、30歳代男性に多いのは、女性とのコミュニケーションをいとう傾向だ。女性とのデートは面倒くさい、何を話していいのかわからない――という男性も多い。仕事やパソコンに没頭しているほうが楽。ましてやセックスなど……。(梅崎正直、吉田清久、佐藤ゆかり、青山まり[2006]15ページ)

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 文脈を無視してなぜかパソコンが出てきてしまったのは、ここで一種の複線を引いているからだろう――すなわち、パソコンなどの「ヴァーチャル」に「没頭する」青少年の精神のあり方こそが問題なのだ、という論理に展開させるための。また、ここで都合よく論じる対象を40代から30代以下にシフトさせている。

 さあさあここでやって来ましたよ、伝説の『脳内汚染』の著者、岡田尊司氏のご託宣が。それでは岡田さん、歌っていただきましょう、想いを込めて!!

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 前出の岡田さんは、「しない男性」が増える遠因として意外な指摘をする。「テレビ」だ。

 前出の日本家族計画協会調査の未経験率は、40~44歳男性が7.9%だったのに対し、すぐ上の45~39歳男はゼロだった。

 「両世代間の育ち方の何が違うのかを考えると、そこにテレビがある。40~44歳は、生まれたときから家庭にテレビがあった最初の世代なのです。家族の団欒も、皆がテレビの方を向くようになり、正面から視線を交わして話をすることが少なくなった。そのことが、対女性関係に影響しているのではないでしょうか」

 そして現代の環境に目を向けると……本誌のセックスレス男性アンケートでは、「セックスよりも楽しいこと」に、未既婚者とも「仕事」「パソコン」を多く挙げていた(18ページの囲み記事参照)。

 「パソコンの操作環境、つまり自分の意志通りに対象を操作できる環境に慣れた人は、相手に主導権を持たれると不安、不快になる。恋愛やセックスのような相互的関係は苦手で、不自由に思う傾向があります。また、仕事でストレスが大きくなると、体内でステロイドホルモンが分泌され、性欲低下の原因になります」(岡田さん)

 パソコンと仕事依存。30~40歳代の男性の生活環境に、ごく当たり前にあるものだろう。これがセックスレスを産むのか、逆に、女性と向き合うことを回避するために仕事やパソコンに向かうのか――「ニワトリと卵」のスパイラルの中で、オトコたちの性は衰え、そしてニッポンの少子化は静かに進んでいく。(梅崎ほか、前掲、16ページ)

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 うーん、いいねえ。特に最後における、「オトコ」「ニッポン」というカタカナ表記がすばらしい。このように表記することによって、本来「あるべき姿」である「男」「日本」ではなく、現状が本来「あるべき姿」からは「退化」した「オトコ」「ニッポン」であると嘆くことができ、さらに少子化の原因を全部昨今のそれこそ「オトコ」「ニッポン」のせいにすることができるのだから。

 これは俗流若者論が作るネバーランドである。要するに、経済的原因とか、あるいは脅迫的子育て言説と俗流若者論の蔓延(あたしは特にこの2つが少子化にもたらす影響を無視してはならないと思ってるんだけどね)の検証をスルーし、青少年の「内面」こそが問題であるとすることができるのだから。俺たち大人は悪くない!悪いのはみんな「あいつら」なんだ!という駄々っ子の如き叫びが聞こえてきそうだ。「大人」という無謬の殻に閉じこもる限り、「大人」たちはイノセンスの殻にこもることができる。そして現在、この無謬の殻の役割を果たしているのが、単純に言えば高度経済成長期的な価値観である。これはこの記事に限らず、たとえば「下流社会」論や「かまやつ女」論にも強く見られるものである(って、両方とも三浦展じゃん)。

 岡田氏もまた、これほどまでに単純なメディア悪影響論を信奉しているという姿がまた滑稽である。そもそもこれが精神科医の「分析」なのか、と私は疑ってしまう。そんなことはそこらの俗流保守論壇人にもいえることだ。

 それにしても岡田氏の単純すぎるパソコンに対する理解はどうにかならないものか、このインターネットやネットゲーム全盛の時代に。私はネットゲームはやったことはないけれども、ネットゲームの普及がこれまでのゲームのあり方を変えることは誰にでもわかる話だろう。

 記事の書き手の名誉のために付け加えておくと、19ページには赤川学氏(東京大学助教授)のインタヴューが掲載されており、タイトルの「恋愛至上主義こそ元凶だ!」という内容の通り、むしろ「コミュニケーション能力」重視の傾向こそが問題だ、という良心的な内容になってはいる。しかしこのインタヴューが記事の中でコラムとして引き合いに出されるのではなく、最後の最後で、しかも(統計的に極めて怪しい)セックスレス男性に対する「調査」のあとに書かれているのだから、おそらく読む人はそれほど多くはないかもしれない。第一、この記事自体が「恋愛至上主義」に染まっているし。結局のところ、「どう見てもエクスキューズです、本当にありがとうございました」としか言いようがないのである。赤川氏が気の毒である。

 いや、ここまでねちっこく批判したけれども、私がこの記事の書き手に対してもっとも言いたいことは次の一言に尽きる。

 で、あんたらはこの記事で何が言いたかったの?

 参考文献・資料
 本田透『電波男』三才ブックス、2005年3月
 堀井憲一郎『若者殺しの時代』講談社現代新書、2006年4月
 梅崎正直、吉田清久、佐藤ゆかり、青山まり「40歳のセックスレス事情 「女はいらない」男たち」(「読売ウィークリー」2006年7月23日号、読売新聞社)

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2006年5月13日 (土)

俗流若者論ケースファイル80・産経新聞社説&京都新聞社説

 成人の日と並んで、こどもの日は、新聞社説に俗流若者論が掲載される確率が高くなる日である。昨年に関して言えば、私は「俗流若者論ケースファイル41・朝日新聞社説」で、朝日新聞がこどもの日に掲載した社説を批判した。その朝日は今年、「里親」をテーマに採り上げた社説を書いた。「里親」に関しては、ジャーナリストの村田和木氏などが最近になって本を出したりするような動きがあるけれども、多くの新聞が少子化論に傾いていた中で、独自性としては朝日が全国紙の中では抜きん出ていたように思える。

 もちろん、俗流若者論を掲載した新聞もあった。産経新聞である。今回は産経新聞の平成18年5月5日付社説「こどもの日 孤は徳ならず道しるべに」に突っ込みを入れるわけであるが、最初から最後までまあ俗流若者論で反復されているような文言の繰り返しであるわけで、意外性もほとんどない。というわけで全文を引用する。

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 きょう五日は「こどもの日」、昔風にいえば「端午の節句」である。子供たちの健やかな成長を国民がこぞって祝い、子供たちの幸福を願い、併せて母に感謝する日だ。この「母に感謝する」という文言が国民の祝日法に定められた「こどもの日」の趣旨に盛られてあることを改めて考えてみたい。

 というのは最近、親が子を虐待し、子が親を殺すなどという暗いニュースが後を絶たないからだ。少し前の日本社会は漫画のサザエさんの家族のようにちょっと厳しいが曲がったことを嫌う善良な父親と、無限の優しさで励ましかばってくれる母親と、阿吽(あうん)の呼吸で互いに補完し合って子育てをしてきた家庭というものの仕組みがきちんと機能していた。

 それが急速に壊れだし、家というものが形ばかりの住みかに過ぎず、実質は同居生活に成り下がってしまったという家庭が増えているように見て取れる。新聞ダネになるような破綻(はたん)の場面はなくとも、親と子が互いに無関心で、共に食卓を囲む光景も失われつつある傾向さえ顕在化しつつある。

 戦後の価値観の中で、家というものが否定的にとらえられた反動で、個人の尊重が必要以上に強調された面が否めない。その結果、自己実現とか多様な生き方とかの美名の下、各自がそれぞれの言い分を譲らず、自分以外はみな利害の対立者というようなぎすぎすした社会をつくってしまったことは、率直にいって反省されていい。

 今の子供たちは他とのコミュニケーションが圧倒的に下手だという。友達とメールをしても、互いが自分の言いたいことを言っているだけで、実質的な対話が成り立っていない場合が多いそうだ。個人主義が実は「孤人主義」を生んでしまったのである。

 人間は一人では生きられない。この当たり前のことをもう一度確認して、児童の権利に関する条約にうたうように「家族が、社会の基礎的な集団として、並びに家族のすべての構成員特に児童の成長及び福祉のための自然な環境」であることを思い返してみたい。家庭を大事にする社会が望ましい。

 「徳は孤ならず、必ず隣あり」と論語にいう。逆もまた真だ。「孤は徳ならず」。こどもの日を機に、それを社会共有の道しるべとしたい。

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 もちろん、児童虐待自体は昔からあったわけだし、「児童虐待」という問題の構築は明治以来幾度か繰り返されてきたことである(上野加代子[2006])。最近になって急増した「かのように見える」のは、それが何度も報道されるようになったからであって、統計的には子殺しもまたここ20年の間に減少しているのが実情なのである(「スタンダード 反社会学講座」内「第24回 こどもが嫌いなオトナのための鎮魂曲」)。

 また、この記事における「伝聞」的物言い――《最近、親が子を虐待し、子が親を殺すなどという暗いニュースが後を絶たない》《実質は同居生活に成り下がってしまったという家庭が増えているように見て取れる》《今の子供たちは他とのコミュニケーションが圧倒的に下手だという》――や論証抜きの断定――《戦後の価値観の中で、家というものが否定的にとらえられた反動で、個人の尊重が必要以上に強調された面が否めない》《自己実現とか多様な生き方とかの美名の下、各自がそれぞれの言い分を譲らず、自分以外はみな利害の対立者というようなぎすぎすした社会をつくってしまった》――の多用もまた、俗流若者論においてはよく見られるものだ。青少年のコミュニケーションに関しては、いわゆる「希薄化」という一方的な視点を相対化する試みがいろいろなところで行われている(例えば、浅野智彦[2006]、岩田考、羽渕一代、菊池裕生、苫米地伸[2006]、など)。

 それらの研究が共通して指摘するものは、いずれも「希薄化」といっても、何のどのような状態をもってして「希薄」というのか、という点が問われなければならない、ということだ。青少年のコミュニケーション能力の「低下」、ならびにコミュニケーションの「希薄化」を批判する言説の多くが、結局のところはある一つの「理想」に固執している。そのような論理は空疎な「理想」の押し付けでしかない。

 それにしても本当にどうにかしてほしいのは、《戦後の価値観の中で、家というものが否定的にとらえられた反動で、個人の尊重が必要以上に強調された面が否めない。その結果、自己実現とか多様な生き方とかの美名の下、各自がそれぞれの言い分を譲らず、自分以外はみな利害の対立者というようなぎすぎすした社会をつくってしまったことは、率直にいって反省されていい》などというくだりである。

 嗤うべし。まず「個人の尊重」なる概念が、産経新聞やその主張に賛同する人にとっては「敵」であることをかんがみれば、この文章は結局のところ私憤を自分の不快に思っているものに押し付けているに過ぎない。また、治安は決して悪くなっているわけではない(河合幹雄[2004]、浜井浩一[2006]など)わけだが、マスコミは(虚像に過ぎない)「治安の悪化」を必死であおり、また社会を構成する人々もまたそのストーリイを積極的に受け入れ、かえって「不安」によって地域の結束を高める、という事態が起きている。

 結局のところこの社説は、自分の生きてきた環境を肯定して、そこから「外れてしまった」現代社会を誹謗し、そして自分の不快なものを「解決」するには自分の生きてきた環境こそが一番…などといっているようなものなのであって、きわめて空疎なものに過ぎない。いい加減、このような「憂国」のお遊びに戯れるよりも、まず現代の青少年についてもっと世の中の不安を少しでも鎮めるような記事や社説を書いたらどうですか?

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 ただ、こどもの日の社説で私がチェックしたのは、読売、朝日、毎日、産経、東京の5紙だけである。したがって、地方紙に関してはチェックしていないのだが、どうやら地方紙にもこどもの日にかこつけた俗流若者論があったようだ。「冬枯れの街」の「警察庁による「バーチャル社会の弊害から子ども守る研究会」設置第5章~第1回議事要旨「痴愚神(義家弘介)礼賛」~」というエントリーのコメント欄で紹介されていた、同日付の京都新聞の社説「こどもの日  IT利用法をよく考えよう」である。

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 現代の子どもたちを取り巻く環境は、十年、二十年前と比べれば大きく変わった。
 子どもたちの親の世代は、生まれた時に家庭にテレビがあったから「テレビ世代」といえる。
 今の子どもたちは、幼児期からパソコンや携帯電話(ケータイ)などのIT(情報技術)機器に囲まれて育った「IT世代」と呼べるだろう。
 二十一世紀はIT革命の時代といわれるが、この波を現在と将来の子どもたちが直接受けることは間違いない。
 教育評論家の尾木直樹氏は、インターネットの普及の影響を軽視してはならないと指摘する(「思春期の危機をどう見るか」岩波新書)。
 大人とのボーダーレスな情報の受発信で子どもたちに新しい可能性をもたらす半面、複雑な思春期の発達に悪影響を及ぼすことがあるという。
 とりわけ最近の急速なケータイやインターネットの普及は、いろいろな問題を引き起こしている。
 尾木氏は東京都内の中学でのアンケート調査を基に▽寝不足による遅刻登校など生活習慣の乱れ▽友人とのトラブル▽出会い系サイトで犯罪に巻き込まれる可能性-などの問題点をあげる。
 友人との過度のメール依存や詐欺メールの被害もあり、学校や家庭で何らかのかかわりが求められる。

情報モラルが必要だ
 現実に各地の消費生活センターに寄せられた子ども(六-十七歳)の消費相談は、一九九五年度の約二千件が二〇〇四年度には約六万四千件に増えた。
 〇四年度の相談内容は九割以上が「情報通信サービス」関連である。興味本位でアダルト系サイトに入って高額の料金を請求されたことなどに関する相談が多いようだ。
 子どもたちは「情報犯罪」に対して、全く無防備の状態に放置されているといえる。それだけに、子どもたちにITのマナーや情報モラルについて早急に教える必要がある。
 どんなに便利なIT機器でも使い方を誤れば、いろんな危険性があることを知らせることが大切だ。インターネット教育では子どもが「被害者」になる場合だけでなく、「加害者」の場合も想定して実行することが肝要である。
 尾木氏は情報モラル教育の要点として▽小中学生には子どもだけでホームページを開設させない▽子どもたちが有害サイトへアクセスできないシステム(フィルタリング)を導入する▽利用時間に制限を設ける-などをあげる。いずれも妥当な対応策だ。
 文部科学省は現在、有識者などによる研究会を設置し学校での情報モラルの指導方法を検討、〇六年度内に指導用資料をまとめる計画を立てている。できるだけ速やかに指導を徹底してほしい。

ゲーム依存の予防を
 長時間にわたるゲームやインターネットの危険性を警告する、精神科医の岡田尊司氏の近著「脳内汚染」(文藝春秋)は衝撃的な内容だ。
 岡田氏はゲームには「麻薬的な依存性がある」と指摘する。ゲームができないとイライラし、ゲームを止められると暴力的になるなどの症状を示す子どもたちが多くなっているというのだ。
 さらにゲームに耽溺(たんでき)すると、何事にも無気力・無関心になり、不登校、家庭内暴力、ひきこもりの領域に入っていくと述べる。
 岡田氏の主張に対しては他の精神科医などから反論や批判が出ており、まだ定説とは認められていない。
 とはいえ従来、ゲームやインターネットにあまりにも夢中になると、家庭での勉強時間が短くなり、食事や睡眠が不規則になって生活態度が乱れがちになることは分かっている。
 それなら、ゲームなどに重度の依存にならないよう各家庭で十分に気を付けることが肝要だ。ゲームにのめり込む危険性について、子どもにきちんと話すことも必要である。
 これまで、ゲームが子どもに与える影響を調査した研究はまだ少ない。今後さらに実証的な研究が進み、その成果が発表されることを望みたい。

リアルな体験が大切
 ゲームの世界はバーチャルリアリティー(仮想現実)の世界である。ゲームにおぼれると、実際の現実と仮想現実とを混同する危険性がある。
 この混同を防止するには、子どもたちにリアルな体験をしっかりとさせておくことが必要だ。
 幼児期に自然の美しさを実感させ、小動物とふれあうことは、成長後に重要な意味を持つだろう。
 子どもにテレビやビデオを長時間見せるのではなく、親が子どもに語りかけることの大切さも見直したい。
 子どもを誘って家族や友人と一緒に戸外に出かけたり、スポーツを楽しむ機会を多く持つことを心がけよう。
 ケータイでの会話やメールだけではなく、お互いが面と向かって対話をすることが大切だ。
 若者からは「メールの方が親密にコミュニケーションできる」「メールをしていないと不安」などの声も出そうだが、メール依存症にならないよう、ITをうまく使ってほしい。
 四月一日現在の子ども(十五歳未満)は約千七百万人。二十五年連続の減少だ。一人ひとりはかけがえのない存在である。「こどもの日」にあらためて健やかな成長を願いたい。

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 これも最近多方面から批判されている、コミュニケーション「希薄化」論と、ゲーム悪影響論でしかない。

 とりあえず私の「子供たちとIT環境」というものに対する立場を述べさせてもらうと、少なくとも京都新聞の社説子が書いているような、《子どもたちは「情報犯罪」に対して、全く無防備の状態に放置されているといえる。それだけに、子どもたちにITのマナーや情報モラルについて早急に教える必要がある》などという物言いは、子供の主体性を無視した暴論と考えている。なぜなら、子供でもそれなりの常識は持ち合わせており、「見たくない」と判断したサイトは見ないことぐらいできるだろうと考えているからである。このような物言いの前提としているものは、子供たちは好奇心旺盛で何でも見たがるけれども、それの抑止力となるものはなく、残虐な性描写や暴力描写の影響を簡単に受ける、というものであろうが、まさに子供をなめているのか、としか言いようがない。

 もちろん、例えば「出会い系」やフィッシングなどの「決まり手」とか、あるいはウェブ上における個人情報の取り扱いなどは教える必要はある。しかし、子供は無垢である=なんでも見たがるし、なんにでも影響を受ける、などという見方は、繰り返すが子供の主体性を無視した暴論に過ぎない(このような物言いは、何も俺のブログがキッズgooからはじかれていることに対する逆恨みからきているんじゃないよ。大体俺のブログのどこにいわゆる「有害」情報があるの?「ある言葉」を使っているからそのブログは「有害」だ、というものは、単なる言論封殺でしかない)。

 「リアルな体験」というくだりについても――これも俗流若者論の常套文句なのだけれども――、「実際の現実と仮想現実を混同している」、だから凶悪な犯罪が起こるのだ、という認識なのだろうが、むしろ「治安の悪化」「少年犯罪の急増」こそが「仮想現実」といわれるべきものであり、またゲームを通じてさまざまな体験ができるという可能性も決して封鎖してはならない。ゲームだから「体験」ができない、というのは、表現の幅を狭めるものでしかない。

 とりわけ私が頭を抱えてしまったのは、岡田尊司氏(精神科医)の著書『脳内汚染』(文藝春秋)を《衝撃的な内容》と書いているくだりである。そりゃ衝撃的に感じますわな、だってあの本にはゲームの「悪影響」が「衝撃的」であることを強調する「ためにする」資料しか提示されていないのだから。ゲームに耽溺すると無気力になるぞ、「ひきこもり」になるぞ、家庭内暴力を起こすぞ、などという扇動は、自分の「気に食わない」ものに関して、自分の子供時代にはありえなかったものに難癖をつける、というきわめて身勝手なものでしかない。

 というよりも、青少年の「無気力化」なんて、故・小此木啓吾氏の業績を引き合いにするまでもなく、ゲームやインターネットのなかった時代から言われてきたことだ。少年犯罪にしても、過去の事例をさかのぼれば、これが現代で起これば明らかに報道洪水が起こるだろう、という事件がよく見られる(赤塚行雄[1982-1983]を参照。ただ、この赤塚氏も、最近では俗流若者論に染まりつつあるようだけど…。安原宏美氏(フリー編集者)のブログ「女子リベ」の「おじさんの見分け方」を参照されたし)。

 まあ、通俗的な青少年問題言説が、このように同じことの繰り返しで不安をあおり続けられる、言説体系であることは、ずっと前から気づいていた。我々に求められることは、むしろこのような不毛な青少年バッシングに終止符を打つことではないか――ということも何度も繰り返してきたように思う。

 とはいえ、通俗的な青少年言説は、政治の場面にもじわじわと影響を及ぼしてきている。その際たるものが教育基本法の改正案だし、メディア規制やいわゆる「活字文化推進法」などといったものもその範疇に含まれよう。青少年に対する誤ったイメージを基にして、国民の自由が剥奪されていく、という過程は、いい加減見たくないものだ。でも、見ざるを得ないのかなあ。

 参考文献・資料
 赤塚行雄『青少年飛行・犯罪史資料』全3巻、刊々堂出版社、1982年3月(1巻)、1982年11月(2巻)、1983年5月(3巻)
 浅野智彦(編)『検証・若者の変貌』勁草書房、2006年2月
 浜井浩一(編著)『犯罪統計入門』日本評論社、2006年1月
 岩田考、羽渕一代、菊池裕生、苫米地伸(編)『若者たちのコミュニケーション・サバイバル』恒星社厚生閣、2006年3月
 河合幹雄『安全神話崩壊のパラドックス』岩波書店、2004年7月
 芹沢一也、安原宏美「増殖する「不審者情報」――個人情報保護法という呪縛」
 上野加代子(編)『児童虐待のポリティクス』明石書店、2006年2月

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2006年4月14日 (金)

俗流若者論ケースファイル79・読売新聞社説

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 冬枯れの街:警察庁による「バーチャル社会の弊害から子ども守る研究会」設置~オタク表現の危機「パンを捨て剣を持て!」~
 アキバの王に俺はなる!:教育基本法改正は少年犯罪とニートの増加によるもの
 保坂展人のどこどこ日記:教育基本法と「愛国心」の行き着く先は(保坂展人氏:衆議院議員・社民党)
 西野坂学園時報:福笑い読売(1)…「子育て>>キャリア」??

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 読売新聞の、教育や青少年に関する社説の問題点については、これまで2度ほど述べてきた。連載の第15回第72回である。その中でも、特に第15回において検証した平成17年3月16日付社説のほか、年の最初のほうで掲載される社説などに見られる傾向であるが、やたらと青少年問題の「原因」を、青少年における「愛国心」の欠如に求め、教育基本法の改正を主張する、という特徴が強く見られる。第72回で検証した社説には「愛国心」に関する記述はなかったけれども、それはほとんど例外といってもいいほどだ。

 というわけで、今回検証するのは平成18年4月13日付読売新聞の社説「[教育基本法]区切りがついた「愛国心」論争」である。この社説もまた、教育や青少年問題に関する同様の社説と同様、執拗に「愛国心」を教育基本法に入れることを求めるとともに、社説における青少年問題に対する認識の乏しさもまたひけらかしている。

 問題の多い、次のくだりを見てみよう。

 そもそも、不毛な論議に終始していられるほど、日本の教育は楽観できる状態にない。

 戦後間もない1947年に制定された現行法は、「個人の尊厳を重んじ」などの表現が多い反面、公共心の育成には一言も触れていない。制定当初から、「社会的配慮を欠いた自分勝手な生き方を奨励する」と指摘する声があった。

 青少年の心の荒廃や犯罪の低年齢化、ライブドア事件に見られる自己中心の拝金主義的な考え方の蔓延(まんえん)などを見れば、懸念は現実になったとも言える。

 自公両党は、改正案に「公共の精神」を明記することでも合意している。「親こそ人生最初の教師」との考えから「家庭教育」の条文も新設し、ニート(無業者)の増加を念頭に、「勤労の精神の涵養(かんよう)」を盛り込む。

 日本社会の将来のしっかりとした基盤を作る上で、極めて重要なことだ。教育基本法の改正は時代の要請である。

 (平成18年4月13日付読売新聞社説、以下、断りがないなら同様)

 まず、基本的な間違いを指摘しておこう。まず読売の社説が好んで引き合いに出す《青少年の心の荒廃や犯罪の低年齢化》だけれども、これははっきりいって根拠が乏しい、ということに関してはこれまでも再三述べてきた。というわけで同じことの繰り返しになってしまうが、口をすっぱくして言うと、少年による凶悪犯罪はピークの昭和35年ごろに比して著しく減少しており、過去の事例にあたってみれば(赤塚行雄[1982-1983])、もしこの事件が今起こったらマスコミは喜んで「理解できない」という論調を繰り返すだろうな、という事件はかなり多く起きていることもわかる。あまつさえ《青少年の心の荒廃》なる記述は、それがほとんど常套文句と化しているゆえ、どのようなことを指すのか、ということがあいまいである。

 そもそもこの社説の書き手は青少年の心が本当に荒廃している、と考えているのかもしれないけれども、「心の荒廃」とは何か?結局のところ、マスコミが面白がって報じる若年層の「問題行動」でしかないのではないか?ちなみに社会学者の浅野智彦氏らのチームの行った調査では、青少年の道徳意識は交代しているわけではない、というデータが出ている(浅野智彦[2006])。

 また、このくだりにおいて、この社説の書き手が不満に感じていること――すなわち、いわゆる「青少年の心の荒廃」なるものやライブドア事件――の原因がすべて「教育」であるとはっきりと述べられている。青少年がらみのことに関しては先ほど批判的資料をあげたけれども、ライブドアに関しても、ひたすら「教育」を連呼して、それ以前の制度の問題や合意形成、および罰則の規定について政治の責任が問われることはないのだろうか。そもそもライブドアは経団連の求めた(!)規制緩和によりインターネット事業よりも企業買収を繰り返すことがビジネスモデルとなってしまった、という側面も確かに存在する(大鹿靖明[2006])わけであり、それに関する議論はあまり行われておらず、せいぜいライブドアがフジテレビの株を取得しようとした頃くらいであろう。

 何でもかんでも「教育」の責任にしてしまうことは、さまざまな弊害を持っており、そしてこの社説はその弊害を見事に示している。「教育」という言質を振りかざすことによって、自分が不快に思っている問題を個人の精神の問題にすることができ、制度や政策は一切不問になる。さらにこのようなことによって、同じ世代がいつホリエモンになるかわからないぞ!と脅しをかける効果が生じる、要するに一つの世代(あるいはその世代以前の世代も含む)も一緒くたに敵視することができる。

 だが、精神主義ですべてが解決できる、と思い込むのは、それこそ「大東亜戦争」的な考え方ではないだろうか。また、極端な一人をベースにして一つの世代を丸ごとバッシングしてしまう、というのは、単なる差別でしかないのではないか。

 そして、このような考え方こそが、昨今の教育基本法、さらには憲法までも変えようとしている動きを支えるものであるということに、私は一種の恐ろしさを覚えてしまう。要するに一つの世代を敵視した上で、憲法や教育基本法を変えようとしているのである。そしてこのような挙動は、マスコミが現代の青少年を怪物のごとく報じるような論調なくして成り立たなかったと見て間違いないだろう。この文章において、ライブドアが経団連ではなく「今時の若者」の延長として語られているところを見ても、その構図は浮かんでくる。

 そのようなことは「ニート」についてのくだりにも言えることで、「ニート」は本当に問題なのか、あるいは企業や政治の問題は無視なのか、という反論が直ちに浮かんでくる。

 そして読売の社説には、《教育基本法の改正は時代の要請である》などと書かれている。嗤うべし。青少年言説に対してろくな検証も行わないまま「時代」を作り上げてきたのは、ほかならぬマスコミである。

 しかしこの問題には左派にも責任がある。第一に、左派もまた青少年をイデオロギー闘争の対象にしてきたこと。左派の文言として用いられる、「教育基本法を改正して「愛国心」を押し付けると戦争を肯定するようになったり、他者への想像力が失われる」というものもまた、青少年を莫迦にした物言いでしかない。第二に、左派の少年犯罪に対する認識が、その大部分において右派と共有していることである。というのも、右派が少年犯罪の根源として「愛国心」や父性の欠如を槍玉に挙げるのに対し、左派は少年法・教育基本法の改悪に反対しながらも少年犯罪の根源を「適切な愛」なるものの欠如、あるいは「ライフハザード」などというわけのわからぬものに求め、結局のところ澤口俊之や「ゲーム脳」などといった疑似科学を肯定してしまう(小林道雄[2000-2001]、瀧井宏臣[2004]、清川輝基[2004])。

 だが、左派がとるべき行動は違う。右派の挙動に対し、左派は青少年問題言説の虚妄を指摘し、(若者論による)教育基本法や憲法の規制、及びメディア規制を支える基盤それ自体を突き崩すべきなのである。今のところそのような行動を採っている衆議院議員としては泉健太氏(民主党)や保坂展人氏(社民党)あたりを挙げることができるけれども、このような動きはもっと大きくなるべきで、相手が俗情に訴えてくるのに対し、こちらは理詰めで攻めるべきだ。「国歌の品格」とか言っている人に何を言われてもひるんではいけない(そもそもありもしない「少年犯罪の急増・凶悪化」をでっち上げて「品格を取り戻せ!」っていっている人よりも、「少年犯罪の急増・凶悪化」を酒の肴にしている人たちを批判する人のほうがよほど「品格」があるよね)。

 参考文献・資料
 赤塚行雄(編)『青少年飛行・犯罪史資料』全3巻、刊々堂出版社、1982年3月(1巻)、1982年11月(2巻)、1983年5月(3巻)
 浅野智彦(編)『検証・若者の変貌』勁草書房、2006年2月
 浜井浩一(編著)『犯罪統計入門』日本評論社、2006年1月
 本田由紀、内藤朝雄、後藤和智『「ニート」って言うな!』光文社新書、2006年1月
 広田照幸『《愛国心》のゆくえ』世織書房、2005年9月
 清川輝基「「メディア漬け」と子どもの危機」(「世界」2003年7月号、岩波書店)
 小林道雄「少年事件への視点」(「世界」2000年12月号~2001年3月号、岩波書店)
 岡本薫『日本を滅ぼす教育論議』講談社現代新書、2006年1月
 大鹿靖明「小泉と経団連が太らせた」(「AERA」2006年2月6日号、朝日新聞社)
 芹沢一也『ホラーハウス社会』講談社+α新書、2006年1月
 瀧井宏臣『こどもたちのライフハザード』岩波書店、2004年1月

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2006年1月30日 (月)

俗流若者論ケースファイル78・毎日新聞社説

 毎日新聞の社説は、なぜかくも激しくロリコン・メディアをバッシングするのだろうか?今回検証する文章は、平成17年12月3日と、平成18年1月18日両日の毎日新聞の社説である。前者のタイトルは「相次ぐ幼児殺人 社会もどこかが病んでいる」で、後者は「宮崎事件 類似犯防ぐ環境整えよう」である。タイトルが示している通り、前者は相次ぐ児童殺人事件を論じたもの、後者は平成18年1月17日に上告が棄却され死刑が確定された、所謂「宮崎勤事件」を論じたものである。

 これら2つの社説は、平成17年のほうの社説にあるとおり、この時期頻繁に報道されていた幼児殺人事件と「宮崎勤事件」をつなぐものは《幼児ポルノのはんらん、暴力を是認するような俗悪なゲームの流行などの世相》(平成17年12月3日毎日新聞社説、以下「平成17年社説」と表記)であるという。しかし、犯罪統計書によれば、幼児を狙った殺人事件、及び幼児を狙ったレイプ事件は、ここ20年くらいでほとんど増加しておらず、更に30年くらいのスパンで見れば減少が明らかである(殺人に関しては、芹沢一也[2006]を参照されたし)。そのようなデータを示したりしないで、徒に犯罪不安を煽ったり、更には自分には「理解できない」ものに対する不安を煽り、(暗に)規制を求める――要するに、自分の責任を考慮しないまま、他人のせいにする――という行為は、文章を書くものとしてのモラルが欠如しているとしかいえない。

 これら2つの社説の特徴として、自説に都合のいい「専門家の指摘」を、その正当性を検証せずに引用してしまうことだ。《精神科医や心理学者らは、幼児期に子ども同士で思いきり遊ばせることがなくなった最近の教育やしつけの影響だと指摘している》(平成17年社説)や《1、2審の審理でも犯行とビデオとの相関関係は解明されなかったが、専門家は、映像は性的欲望を刺激して性犯罪を誘発する、とポルノビデオの横行に警鐘を鳴らした》(平成18年1月18日毎日新聞社説、以下「平成18年社説」と表記)というのがそれだ。だが、少なくとも犯罪統計はそのような「指摘」なるものを支持するわけではないし、また科学的にも直接的にポルノ映像がそのまま性犯罪に結びつく、ということは支持しない。
 さらに、こと「宮崎勤事件」に関して言えば、評論家の大塚英志氏が繰り返し発言している通り(朝日新聞など)、宮崎死刑囚の部屋から押収された物品に関して、所謂「児童ポルノ」と呼ばれる代物は極めて少数に過ぎず、それ以外はごくごく普通の――つまり、世間から「有害」視されていない――雑誌やらヴィデオだった。また、平成17年11月の栃木県今市市の事件に関しては、いまだに犯人は捕まっていないのである(平成18年1月28日現在)。それにもかかわらず、犯人の「人格」を安易に決め付けて、更にそこから飛躍して「社会の病理」なるものをでっち上げてしまうという行為もまた、書き手の思い上がりでしかない。

 精神科医の斎藤環氏は、広島市における幼児殺人の犯人がペルー人だと知ってから、即座に「心の闇」を詮索することをやめてしまった、ということに関して、「心の闇」なるものが詮索されるのは「若者」だけなのか、と極めて素朴な疑問を提示していたのだが(「ゲームラボ」平成18年1月号、三才ブックス)、毎日の社説子はこのような問いかけに答えることができるのだろうか。

 それ以外にも、例えば《他方で幼児性愛をファッションとするかのような見方もはびこり》(平成18年社説)という言い方は、何をさしているのかわからない。もし「オタク」やら「萌え」やらを指している、というのであれば、そのような物言いは「幼児性愛」=犯罪者、という極めて一方的な誤解に基づいているとしか言いようがない。ついでに言うと《続発する痴漢やわいせつ事件をみても、なぜか性モラルに寛容な風潮が改められないが》(平成18年社説)という表現も見られるが、だったら一方的に少女を問題視して大人の男には問題はない、とでも言わんばかりの「援助交際」論も批判してくださいね。

 これらの社説、特に平成18年社説は、結局のところ論説委員の「憂国」エッセイに過ぎない。《衣食足りれば礼節を知るものだとの思い込みも禁物だ。人はむしろ衣食が足りて差し迫った目標を失った時に、好奇心にかられて興味本位の行動に走りがちだとも心得ていたい。豊かな時代ほど人の輪、社会のきずなで支え合って生きねばならないということだ》(平成17年社説)だとか、あるいは《幼児性愛者が人間関係を結ぶのが苦手で、年相応の女性と交際ができないと言われることを踏まえ、子供のころから遊びやスポーツ、趣味などを通じて円満な人付き合いを促す工夫も凝らさねばならない。今回の判決を機に、教育やしつけのあり方も見直したい》(平成18年社説)などという、既に多くの専門家によって論破し尽くされている(本当に論破し尽くされているので関連書をいちいち取り上げても仕方がないので、とりあえずわかりやすい関連書として、広田照幸[1999]と内藤朝雄[2006]を挙げておく)俗説がことごとく真実であるかのごとく引用されているということが、その証左となろう。

 相次ぐ毎日社説子の狼藉に読者も腹が立ったのか、平成18年1月26日付毎日新聞には、「させてはならない“悪書狩り”」という投書が掲載されたらしい。

――――――――――――――――――――

 毎日新聞社が発行している、アニメ・ゲーム・漫画専門の無料タブロイド紙「MANTANBROAD」を、私が初めて「ゲーマーズ」仙台店で手に取ったのは、平成17年5月のことだ。その号の巻頭記事は「「残虐」とゲームが有害図書に」というもので、これは毎日新聞デジタルメディア局員の河村成浩氏で(ちなみに河村氏は同紙の書評ならぬゲーム評のページにも執筆しており、そのプロフィールによれば「全国紙唯一のゲーム専門記者」らしい)、全体として「残虐」ゲーム規制に批判的なトーンであり、「松文館裁判」で被告側=出版社側の代理人である、弁護士の山口貴士氏のコメントにおいても、《ゲームが青少年の暴力的行動を誘発するという明確な根拠がないままに、規制だけを強化する動きが理解できない。一部分だけにスポットをあてて、青少年を取り巻く環境に目が届いていないのでは。規制をして効果があるかどうかも疑問だ》(河村成浩[2005])とゲーム規制が批判されている。ゲーム規制問題に関しては、平成17年の最終号にあたる平成18年1月号(平成17年12月25日発行)の特集「総まとめ!05年注目コンテンツ」のゲームに関する記述においても(これも執筆者は河村氏)、「業界揺らした有害図書指定」なる見出しでここでも「有害」ゲーム規制を批判的に書いている。

 「MANTANBROAD」の発行元である毎日新聞デジタルメディア局は、「まんがたうん」というウェブサイトを主宰しており、更に「まんがたうん」名義でコミックマーケットにも出展している。また「MANTANBROAD」においては、毎号アニメDVD・ゲーム・漫画・書籍のレヴューが掲載されている。また同紙においては、連載漫画(「魔女の妹ドッカ~ン!」(森野あるじ氏)、「ふんじゃかじゃん」(天広直人氏))も掲載されており、どちらの連載においても、明らかに一部のキャラクターのデザインが幼女を意識しているかのように見える。

 そればかりではなく、毎日新聞社は、声優の阿部玲子、南条愛乃、森嶋仁美の3氏がエンターテインメント関係のニュースを読み上げる「毎日新聞ポッドキャスト」というサーヴィスを行なっている(ちなみに阿部氏に関しては、宮崎羽衣、近江知永の2氏と阿部氏がパーソナリティを務めているラジオ番組を私はほぼ定期的に聴取しているので、名前は知っていた)。

 毎日新聞論説委員の、これらの社説を書いた人は、まず身内から潰していってはいかがだろうか?(そして個人的には、殴り込みに行ったところで河村氏あたりに返り討ちにあうことを期待しているのだが)

 参考文献・資料
 広田照幸[1999]『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書、1999年4月
 河村成浩[2005]「「残虐」とゲームが有害図書に」=「MANTANBROAD」2005年6月号、毎日新聞社
 内藤朝雄[2006]「社会の憎悪のメカニズム」=本田由紀、内藤朝雄、後藤和智『「ニート」って言うな!』光文社新書、2006年1月
 芹沢一也[2006]「「子どもを守れ」という快楽――不安にとりつかれた社会で」=「論座」2006年2月号、朝日新聞社

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2006年1月20日 (金)

俗流若者論ケースファイル77・宮嶋茂樹

 『「ニート」って言うな!』(光文社新書)発売記念として、「週刊文春」平成18年1月19日号の特集「天下の暴論2006」に掲載された、「不肖・宮嶋」こと報道カメラマンの宮嶋茂樹氏による文章「聞けタイゾー 「徴兵制」こそニート対策」を検証しよう。「タイゾー」とは、もちろん宮嶋氏が《売国政治家がりっぱに見える小泉小僧(チルドレン)、あの杉村太蔵》(「週刊文春」平成18年1月19日号、以下、断りがないなら同様)と批判してやまない、衆議院議員の杉村太蔵氏のことである。

 というわけで最初に血祭りにあげるのはこの部分である。宮嶋様どうぞ。

 それに何じゃあ、フリーターどころか、ニートまで救済するやと?税金も払わん上に、三十路になっても親がせっせと部屋にエサを運びつづけ、パソコンに向かってしか他人と会話できん奴のことをニートと呼ぶそうやないか。そんな穀潰しが何十万も生きておるんは世界広しといえども我が国だけや。

 『「ニート」って言うな!』の著者の一人として、なんとも批判したい気持ちに駆り立てられる文章である。そもそも「ニート」とは、要するに15歳から35歳までの間にある人で、かつ就業もしていなければ職業教育を含む教育を受けていない人「全般」を指す。この「全般」というのがポイントで、我が国では如何なる事情を持っていても――例えば、東京大学助教授の本田由紀氏によれば、例えば「病気・けがのため」に働けない人がおよそ10万人、「知識・能力に自信がない」ゆえに働けない人がおよそ4万人いる(本田由紀[2006])――、「ニート」という言葉で丸められることによって一様に「問題のある」存在となされてしまう。そもそも個人の事情を考慮しないまま、宮嶋氏は「ニート」を、本来の意味を調べもせず《税金も払わん上に、三十路になっても親がせっせと部屋にエサを運びつづけ、パソコンに向かってしか他人と会話できん奴のこと》などと「説明」してしまっている。そもそもこれは、最も悪いイメージの(!)「ひきこもり」を指しているようにしか見えない(そもそもこのような見方は、「ひきこもり」の人々に対する偏見でもある)。宮嶋氏は、「ニート」と(勝手に)呼ばれる80数万人の人が、みんな宮嶋氏のイメージどおりであると考えている節がある。

 さて、宮嶋氏の文章のタイトルには「「徴兵制」こそニート対策」とある。宮嶋氏が徴兵制について述べている部分を読んでみよう。

 お隣の半島南半分ではJリーガーから、大統領まで男は全員二年以上の徴兵や。我が国も二年とまで言わん。せめて一年、いや八ヶ月でもエエわ。戦後六十年、今まで学校のセンセイ方がないがしろにしてきた規律、勇気、自己犠牲、国防意識という美徳をその間、自衛隊で徹底的に教育しなおすんや。

 このような「徴兵制」に対する甘いイメージでもって徴兵制を導入せよ!などと叫ぶ人は、ではなぜ韓国では「ひきこもり」が問題化しているのか、ということに対して答えることができるのだろうか。精神科医の斎藤環氏は、韓国の事例を引いて、徴兵制が決して「ひきこもり」対策にはならないことを論じている(例えば、坪内祐三、福田和也[2004]84ページ。韓国の「ひきこもり」事情に関しては、斎藤環[2005]が詳しい)。ここで、宮嶋氏は「ひきこもり」を語っているのではない、という反論がきそうだけれども、宮嶋氏の文章を読めば、明らかに宮嶋氏が「ひきこもり」=「ニート」と捉えている――それも最も悪いイメージで――ことがわかる。

 もう一つ言えば、徴兵制をしき、《規律、勇気、自己犠牲、国防意識》が根づいている「はず」の韓国に比して、徴兵制がなく、「ニート」が急増して、《規律、勇気、自己犠牲、国防意識》が衰退している「はず」の我が国のほうが、青少年によるあらゆる凶悪犯罪の人口あたりの件数が少ない。更に、我が国は、他の先進諸国に対しても、青少年の凶悪犯罪の人口あたりの件数が少ない。宮嶋氏には、このような疑問にも解答していただく必要があろう。

 さて、宮嶋氏は、《我が国の周りで徴兵制をしいていないのはアメリカぐらいやが、大統領令で、すぐに徴兵制に移行できる。ドイツは徴兵期間の代替に奉仕活動を選択できるし、イタリアは戦時になれば徴兵制復活が可能や》といっているのだが、宮嶋氏は、我が国に徴兵制を復活させるために、テロでも起こして、我が国を「有事」状態にしてしまうのであろうか…というのはよからぬ妄想ではあるが、いずれにせよ、宮嶋氏が短絡的なイメージで「ニート」、更には若年層全体を語っているのは明らかであり、宮嶋氏の議論を支配しているのは、「健全な精神」さえあれば青少年問題は解決できる、という甘い考えである。「健全な精神」ばかり教えたところで、現実の問題、例えば景気の問題や、教育システムの問題、あるいは雇用主の問題、雇用形態の変化が解決されなければ、結局は、大東亜戦争に突き進んで負けたある時期の我が国と同じ末路をたどってしまうかもしれない。

 とにかく、「ニート」って言うな!

 参考文献・資料
 本田由紀[2006]「「ニート」論という奇妙な幻影」=本田由紀、内藤朝雄、後藤和智『「ニート」って言うな!』光文社新書、2006年1月
 内藤朝雄「社会の憎悪のメカニズム」=前掲『「ニート」って言うな!』
 岡本薫『日本を滅ぼす教育論議』講談社現代新書、2006年1月
 斎藤環[2005]『「負けた」教の信者たち』中公新書ラクレ、2005年4月
 坪内祐三、福田和也[2004]『暴論・これでいいのだ!』扶桑社、2004年11月
 尹載善『韓国の軍隊』中公新書、2004年8月

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2005年12月29日 (木)

俗流若者論ケースファイル76・三浦展

 緊急特集として、最近の児童が被害者となる犯罪を取り扱った若者論を検証しようと思ったのだが、前回採り上げた、民間シンクタンク研究員の三浦展氏がまた若者論を展開していたので、こちらを優先して採り上げることとする。三浦氏の論説が掲載されたのは平成17年12月27日付の読売新聞、「信頼喪失社会を語る」という連載の第1回として掲載されている。ここでは、三浦氏のほかに、東京大学教授の中尾政之氏の論説も掲載されていたのだが、中尾氏の理論は、「技術のブラックボックス化」という視点から所謂「姉歯問題」などを論じていて、読ませる論考であった、少なくとも最近建築環境から建築構造に興味が移りつつある私にとっては。

 閑話休題、なぜ私が三浦氏の論説を採り上げたかというと、三浦氏の論説には、飛躍した断定が多すぎるからである。はっきりいって、この文章――正確には、読売新聞生活情報部の伊藤剛寛氏が三浦氏にインタヴューした内容を文章に起こしたものなのだが――全体が推論で成り立っているようなものだ。

 例を挙げてみよう。三浦氏は昨今の「ファスト風土化」なる現象について述べているが、三浦氏の立論にはかなり疑問が多い(その点に関しては、「三浦展研究・前編 ~郊外化と少年犯罪の関係は立証されたか~」を参照されたし。誤解がないように言っておけば、私は地方が空洞化していることには問題意識を持っているが、少なくとも「今時の若者」をさも郊外化の鬼胎の如く扱う三浦氏の態度はアンフェアだと思っている)。例を挙げてみる。

 ファスト風土化は、農村や商店街といった古いコミュニティーを破壊している。しかし、ファスト風土事態は新しいコミュニティーを作っているとは言えない。流動化し、匿名化した空間では、コミュニティーの基礎である人間同士の信頼関係を築くことは難しいだろう
 こうした地域社会の流動化と匿名化が、若者の心理にも影響を与えていると思う。パソコンや携帯電話などの新しいメディアが急速に普及してきたために、情報だけは増大しているが、地域社会の崩壊とともに、実体験はどんどん減っている。そういう生活環境では、地に足の着いた現実感覚は生まれにくい。現実の世界を、まるでゲームの世界のように見る人間が増えてもおかしくない
 2年ぐらい前に、不二家の人気マスコット「ペコちゃん」の人形を幹線道路沿いの店舗から盗んで、ネットオークションで売ろうとする事件があった。いささか冗談めくが、ペコちゃんを盗むのと、幼児の連れ去りが同じような感覚で行なわれている気がしてならない
 日本人は、人形はもちろん、針のようなものであっても、あたかも命があるように大切にし、使い終われば「供養」してきた。ところが、今は、人間にさえも「命」の感覚を持ちにくい人間が増えてきたのではないかと不安になる。(三浦展[2005]、以下、断りがないなら同様、強調引用者。引用部分は2~5段目)

 ご覧の通り、最近の事件に関して、最低限の過去の事例も調べようとせず、報道で喧伝される情報と自らの立論だけで物事を語っている。しかし、警察庁の犯罪統計書によれば、小学生未満の子供が被害者となる殺人事件の件数は、少なくとも「ファスト風土」化が進展しておらず、地域コミュニティーの繋がりが強かった「はず」で、また人々が人に限らず物にも畏敬の念を抱いていた「はず」の時代に比して、地域コミュニティーが瓦解すると共に人間にさえも畏敬の念を抱かなくなった現在のほうがおよそ4分の1に減少している(「少年犯罪データベース」による)。

 そもそも三浦氏の主張の根幹には、旧来のコミュニティーに対する無根拠の信頼がある。すなわち、三浦氏の理想とするコミュニティー、すなわち《人間がただ消費だけをしているファスト風土ではなく、人間が働きながらつながりあう場としての地域社会》(8段目)こそが「人間」を育てるのであり、そうでないもの(「ファスト風土」!)は「人間」を育てない、というものである。このような認識は、端的に言えばそれこそ「若者の人間力を高めるための国民運動」的なもので、要するに自分と違った「異常な」環境で育った者たちは、必然的に――自分の自意識の反映でしかない――「人間力」が劣る、という認識である。

 三浦氏の議論の中心にあるのはどうやら「コミュニケーション能力」であるといえる(三浦氏の「下流社会」論にしろ、三浦氏の問題視している「人生への意識の低さ」の一つとして「コミュニケーション能力の低さ」が含まれている)。しかし、このような「コミュニケーション能力」を中心に据えるような議論は、むしろ「コミュニケーション能力」の低い人に対する「寛容」を失わせる、という議論も存在する。例えば東京大学助教授の佐藤俊樹氏は、昨今の「コミュニケーション能力」の重点化という現象を、「「ガリ勉」の絶滅」というコピーを用いて、「コミュニケーション能力」が前面に出てくるのと同時にサーヴィス産業の比率が高まってくると、何かに必死に追い立てられるが如く勉強をしている人は「能力がない」と評価されがちになる、と論じている(佐藤俊樹[2003])。三浦氏の言う「地域社会の再評価」は、かえって「コミュニケーション能力」に劣り、どこの共同体にもなかなか属しづらい人たちの行き場所を失わせるのではないか、という懸念が尽きない。

 三浦氏が「地域社会」を再評価せよ、というのは、結局のところ東京大学助教授の本田由紀氏の表現を用いれば《もう若者の何だかよくわからない「心」などをとやかく言っていてもはかどらない、と焦れ、「早寝・早起き・朝ごはん」、「生活リズム」、「挨拶」などの外面的な、非知的なところで型にはめる方が手っ取り早い、という考え》(本田氏のブログ「もじれの日々」のエントリー「心から体へ」)を満たしてくれる存在としての「地域社会」に期待しているからかもしれない。そこには、青少年の「逸脱」を受け入れてくれるカウンター・コミュニティーの存在など、ない。

――――――――――――――――――――

 三浦氏関連で、もう一つ採り上げたい発言がある。

 朝日新聞社の週刊誌「AERA」は、平成15年12月29日・平成16年1月5日合併号から、コンビニで売られている最新の食品を採り上げた「Go! Go! Junkie」という連載を行なっており、平成17年の初夏には「Go! Go! コンビニライフ」という増刊号も出している。「コンビニ」はは、「AERA」にとって最近の関心事の一つとして捉えることもできる。

 その絡みとして、同誌平成17年8月15・22日合併号において、ライターの吉岡秀子氏が「若者がコンビニ離れ」という記事を書いている。そこにおける三浦氏の発言に注目してみよう。

 若者の消費行動に詳しいマーケティングアナリストの三浦展さんは、コンビニよりも若者の行動の変化に注目する。
 ある研究所の調査では、一人暮らし20~25歳未満の男女約700人のうち4割近くが休日でも外へ出ず、5時間以上もパソコンに向かっている。また、フリーターの増加で可処分所得が低下し、コンビニの価格も高いと感じている。
 「パソコン、プレステ、ページャー(端末)、ペットボトル――この4Pが今の若者の“4つの神器”。メシくう時間に時間を忘れてドリンクを片手にチャットしている。コンビニに行かないのは、お金もないし、引きこもっているからでしょう」(三浦さん)
 (吉岡秀子[2005])

 笑いを取りたいのであろうか。ここまでさらっと言い切れる三浦氏の、若年層に対する偏見も、相当に問題化されるべきだと思うけれども。そもそも吉岡氏は「ある研究所の調査」なるものに関して、どのような手法を用いて行なわれたのにも着目していないが、三浦氏もパソコンでチャットをするのが退廃的だ、と捉えている節もある。そもそもフリーターの増加で可処分所得が低下しているのであれば、フリーターと正社員の格差を問題化すべきではないかと思うのだが。私の三浦氏に対する疑問は尽きない。

 参考文献・資料
 広田照幸『教育には何ができないか』春秋社、2003年2月
 本田由紀『多元化する「能力」と日本社会』NTT出版、2005年11月
 三浦展[2005]「背景に画一化、階層化」=2005年12月27日付読売新聞
 森真一『自己コントロールの檻』講談社選書メチエ、2000年2月
 佐藤俊樹[2003]「「ガリ勉」の絶滅は新たな不平等社会の象徴だ」=「エコノミスト」2003年9月30日号、毎日新聞社
 吉岡秀子[2005]「若者がコンビニ離れ」=「AERA」2005年8月15・22日号、朝日新聞社

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2005年12月25日 (日)

俗流若者論ケースファイル75・宮崎美紀子&三浦展&香山リカ

 そもそも私が、民間シンクタンク研究員の三浦展氏の最近の言説を検証した短期集中連載企画を始めたのは、三浦氏の著書『仕事をしなければ、自分はみつからない。』(晶文社)を読み、この人は結局のところ全ての人が上昇意識を持って懸命に働けば社会は良くなる、と無根拠に考えているだけではないか、と思ったからである。事実、三浦氏の昨今の著書には、「上昇意欲を持たない」若年層に対する罵詈雑言で満ち溢れており――『「かまやつ女」の時代』(牧野出版)はその最たる例であろう――、さも上昇意識だけ持てば人生がバラ色であるかのごとき幻想を振りまいていたからである。三浦氏の議論には、経済格差や社会的影響、ないし教育がもたらす影響がほとんど抜け落ちており、その議論は最終的には若年層の精神論に漂着してしまう。これは単なる仮設として聞き流していただいて結構なのだが、平成12年に「ひきこもり」問題が噴出し、しかし当事者の熱心な活動や言論により従来の「ひきこもり」論――要するに、「ひきこもり」は甘えであり、この問題を解決するためには親なり社会なりが強い姿勢でこのような怠けた奴らに対処しなければならない、というもの――が少しずつではあるが居場所を失っていった。しかし平成16年には、「ひきこもり」よりもニュートラルな表現として、「ニート」という言葉が発見され、それを語る言説の上において、従来「ひきこもり」対策として語られていたものがそのまま「ニート」対策として語られるようになった(この点については、後藤和智[2006]を参照されたし)。そして平成17年、「ひきこもり」よりも「ニート」よりもニュートラルな表現として「下流」という表現が、三浦氏によって開発された。

 なぜ私がこのような仮説を思いついたかというと、平成17年12月22日付東京新聞に掲載された、同紙記者の宮崎美紀子氏による「自閉する若者…「下流社会」の行方は 向上心なき「自分らしさ」」という記事に、「下流社会」論が「ひきこもり」論及び「ニート」論と同じ道をたどるかのごとき兆候が現れていたのである。蛇足だけれども、三浦氏よ、自分の本が売れたからといって《「やっぱり下流は存在していたことが証明された」》(宮崎美紀子[2005]、以下、断りがないなら同様)などとはしゃぐのはやめてくれ。森昭雄氏が「やはり「ゲーム脳」は存在した!」とはしゃいでいるようで見苦しい。

 閑話休題、例を挙げてみよう。

 「下流」とは、生活に困る「下層」ではなく、上へ行こうという意欲が低い人、つまり、働く意欲、学ぶ意欲、金持ちになりたいという意欲も低ければ、コミュニケーション能力も低い、同氏いわく「人生への意欲が低い」人を指す。当然、所得も低く、結婚できない可能性もある。一方で団塊世代が持つような「自分らしさ」にこだわり、「下流」生活に必ずしも不満を感じていない。

 これは「ニート」(本来であれば「若年無業者」と記述したいところであるが、マスコミで面白おかしく採り上げられる「ニート」像を念頭においているので、このように表記することとする)を語る上で用いられたレトリックと同様である。例えば《働く意欲、学ぶ意欲、金持ちになりたいという意欲も低ければ、コミュニケーション能力も低い》というのは、「ニート」論の最大の紹介者である東京大学助教授の玄田有史氏の、一般メディアにおける「ニート」論の最初期に書かれた文章における《働こうとする意思もなく、進学しようとする意思もない》だとか《ニートは自分に自信がもてない。同年代の人と比べて自分は協調性や積極性、コミュニケーション力などが劣っていると、ニートの二人に一人は感じている》(以上、玄田有史[2004])というところと合致する。

 「下流社会」論に特徴的なのは、「下流」の奴らは自分の生活に満足している、という点であろう。例えば、先ほどの引用文の最後のほか、次のような記述にも現れている。

 何百億も稼ぐIT長者がいる一方で、フリーターやニートが増えているのを見れば、「一億総中流」が崩壊していることに誰もが気付いているだろう。「下流」の若者は、それを悪いことだとは思わず、中流へのこだわりもない。親の建てた家があり、「ユニクロ」や百円ショップで買い物をして、ファストフードを食べれば、定職につかなくても十分生活できる。「なんなんだ」と、上を目指してきた大人は思いたくもなる。「下流の出現」という三浦氏の指摘は、そんな漠然とした怒りを説明してくれる。

 ただ、このくだりを検証するにあたって説明しておきたいのは、この部分は「下流社会」論は「ひきこもり」論ないし「ニート」論と認識を共有しているわけではないが、しかし「パラサイト・シングル」論とは極めて強く結びついている。「パラサイト・シングル」論においては、親の既得権に「寄生」し、家庭の一室を占拠し、また親の財産に依存して、自分は趣味と同然の仕事をしてそこそこの暮らしをする人たちが批判された(山田昌弘[1999])。「下流社会」論に特徴的なこの部分は、結局のところ「パラサイト・シングル」論の焼き直しでしかない。この記事の執筆者である宮崎氏もまた、《「なんなんだ」と、上を目指してきた大人は思いたくもなる。「下流の出現」という三浦氏の指摘は、そんな漠然とした怒りを説明してくれる》などと書いていることにも、「下流社会」論が、結局のところ――親に「規制」して、自立したがらない若年層を指弾する――「パラサイト・シングル」論と同様に受容されていることを明確に示しているだろう。

 わかりにくい、と思う人は、平成12年ごろに「自立できない若者」論として「ひきこもり」論と「パラサイト・シングル」論が存在し、それが平成16年から平成17年にかけて、そのミクスチュアとしての「ニート」論と「下流社会」論として甦った、と考えてもらうとわかりやすいだろう。ただ「ニート」論は「ひきこもり」論の影響を強く受けているのに対し、「下流社会」論は「パラサイト・シングル」論の影響を強く受けている。

 三浦氏の一連の議論――『ファスト風土化する日本』(洋泉社新書y)から『下流社会』(光文社新書)、そしてこの記事――において、決定的に欠如しているのが経済政策と教育の問題である。これに関しては、経済政策に関してはエコノミストの田中秀臣氏に(田中秀臣[2005])、教育政策に関しては東京大学助教授の本田由紀氏に譲ることとするが(本田由紀[2005])、三浦氏の議論は、若年層の精神のあり方を重点的に問題視している点において、結局のところ「自己責任」論、ないし精神論に収束してしまっている。

 さて、宮崎氏のこの文章において、もう一つ注目すべきは、精神科医の香山リカ氏の発言であろう。

 精神科医で帝塚山学院大学教授の香山リカ氏は、大学の講義の中でこの質問を学生たちにしたという。
 「こういう質問に学生たちがどう反応するかを見たかった」ためだが、意外だったのは「下流」に当てはまった学生の反応だった。
 「ショックを受けたり、憤慨することはない。『私も流行の先端を行っている』という感覚なのか、喜ぶ学生もいた。しかし下流と言われて反感を持たない抵抗力のなさこそが問題で、それが下流化をさらに促進している」
 意欲もなく、仕事もしない若者たちの問題は、今後顕在化すると山田氏(筆者注:東京学芸大学教授の山田昌弘氏)はみる。「親にパラサイト(寄生)しているからこそ、好きな生活をしていられる。しかし十-二十年先、親が弱ってきたら放り出される運命にある。現状は破綻(はたん)の先送りでしかない」からだ。
 「下流」になってしまった人が、そこから抜け出すきっかけはあるのか。香山氏は過激だ。「憲法が変わって徴兵されるとか、石原都知事から『お前たちのような人間は東京を出て行け』と言われるとか、かなり危機的な状況がないとできないかもしれない」

 香山氏の問題意識に従えば、「下流」と批判された人たちは直ちに反論し、あるいは抵抗を持って、このままではいけないと問題意識を持って「上流」を目指すしかない、ということになる。で、「下流」といわれても何の抵抗を持たない人たちは、強力な締め付けによってしか危機感を自覚できなくなる、と。しかし香山氏には問いかけるべき疑問がある。

 「下流」といわれて抵抗を持たないことを、なぜ批判されなければならないのだろう。そもそも成熟社会においては個々人が自らの「生」をまっとうできるような政策――要するに「最小不幸社会」的な政策――が必要となる。しかし香山氏の如き問題意識は、結局のところバブル期、あるいは高度経済成長期の「成長」幻想を捨てきれぬノスタルジアでしかない。蛇足だけれども、香山氏が最近になってオタクバッシング(厳密に言えば男性オタクバッシング)を始めるようになってしまった(「俗流若者論ケースファイル33・香山リカ」を参照されたし)のも、このような「成長」幻想(「消費フェミニズム」と置き換えてもいいが)を捨てきれないからではないか、と思っている。

 「ニート」にしろ「下流社会」にしろ、青少年の意識の「劣化」を理由に、青少年の「内面」を詮索する、ということがここのところ続いている。しかし、このような論理がもたらしたものは、結局のところ社会的な問題に触れるべき部分でさえ青少年の「内面」の問題として置換し、「内面」に対する介入を正当化することだろう。香山氏が《「憲法が変わって徴兵されるとか、石原都知事から『お前たちのような人間は東京を出て行け』と言われるとか、かなり危機的な状況がないとできないかもしれない」》などと絵空事を述べていることは、その象徴だ。なぜなら、青少年の「内面」を重点的に問題化すれば、青少年の「内面」を「叩き直す」ことこそが最優先事項とされ、危険な政策や排外的な論理ですら「青少年の「内面」を「叩き直す」ため」として正当化されるからである。

 蛇足であるが、この記事における山田昌弘氏の発言の中に昨今の「下流」ブームの一端を現しているものがある。《「自分の子供が下流に転落してしまうのではないかと恐れている中流の親か、自分はこれよりはマシだと確認したい人たち。本当の下流の人は新書など読まないでしょう」》というものである。山田氏の言うとおり、「下流社会」論は確かに、一般に「大人向け」と位置づけられるメディアに受けた(「週刊ポスト」の反応はその典型)。三浦氏は、「「下流」という「問題のある人格」が若年層の間に浸透している」という問題意識を煽ったほうがいい、という目論見をもって「下流社会」論を展開しているという側面があると推測される。三浦氏が《「学問は予測してはいけない。でも、マーケティングは予測しなきゃいけない。社会が向かう方向を示すとき、学問は位置まで正確でないといけないが、マーケティングは、大体でいい。素早い意思決定のためにやっているんだから。『下流』も、厳密な定義はなく、簡単に言えば『キーワード』。この言葉は、モヤモヤした世の中が、すっきり見える眼鏡であり、社会を考えるための武器」》と語っているのが極めて象徴的で、この言葉が最初から扇動を目的としていることがわかるだろう。

 参考文献・資料
 玄田有史[2004]「十四歳に「いい大人」と出会わせよう」=「中央公論」2004年2月号、中央公論新社
 後藤和智[2006]「「ニート」論を検証する」=本田由紀、内藤朝雄、後藤和智『「ニート」って言うな!』光文社新書、2006年1月(近刊)
 本田由紀[2005]『若者と仕事』東京大学出版会、2005年4月
 宮崎美紀子[2005]「自閉する若者…「下流社会」の行方は 向上心なき「自分らしさ」」=2005年12月22日付東京新聞
 大竹文雄『経済学的思考のセンス』中公新書、2005年12月
 渋谷望「ポピュリズムの最大の供給源はどこか」=「論座」2006年1月号、朝日新聞社
 田中秀臣[2005]「景気回復で半減するはずのニートを「経済失政」と「予算」の口実にするな」=「SAPIO」2005年11月22日号、小学館
 山田昌弘[1999]『パラサイト・シングルの時代』ちくま新書、1999年10月

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2005年11月23日 (水)

俗流若者論ケースファイル74・筑紫哲也

 左派と呼ばれる人たちでも、いざ若者論となると急に保守的な心情を露わにし、「一昔前の当たり前」の喪失を憂えたり、あるいは若年層の「劣化」を嘆いたりすることは決して稀ではない。今回検証するのは、左派論壇の大御所・ジャーナリストの筑紫哲也氏の、「週刊金曜日」の連載「自我作古」の第379回、「フツーの子の暗黒」である。というよりも、もう「フツーの子」などという表現を使った時点で、この記事のスタンスを疑わなければならないだろう。なぜなら、このような表現には、「あの犯人は、確かに今の基準から見れば「普通」かもしれないが、私たちから見れば明らかに「異常」である」といった意識が見られるからである。
 先に事実関係を確認しておくが、我が国においては少年による凶悪犯罪はピーク時である昭和40年ごろに比して激減している。これに関してはこの連載で再三ならず述べたので繰り返すことはしないが、多くのマスコミが「少年凶悪犯罪の急増・凶悪化」を喧伝するのは、少なくとも統計で確認しうる事実とはかけ離れていることを指摘しておきたい。
 最近の少年犯罪報道の特徴として、東京大学助教授の広田照幸氏が述べているような《ごくまれにしか起きない例外的な事件に対しても、青少年の病理を代表しているのでは、という視点から、細やかな詮索や解釈がなされるようになった》(広田照幸[2003])という傾向が挙げられよう。そして、事実誤認やあらかじめ青少年を危険視したようなシナリオによって、青少年を敵視するような世論を生み出しているのはほかならぬマスコミや言論である。
 筑紫氏はそのような構造を理解しているのだろうか。少なくとも、今回検証する文章を読む限りでは、筑紫氏もまた青少年不安扇動言説の発信源として働いているようである。
 この文章の中で、筑紫氏の事実誤認や偏見が現れている部分を引用する。今回検証する文章の、終わりの5分の2くらいにあたる。

 (筆者注:町田市で16歳の少年が15歳の同級生の少女を惨殺した事件について)犯行の翌日も普段どおりに投稿し、旧友たちと談笑していたという報道が事実だとしたら、この少年には人間的な感情が欠落している。そして、その背景を考えてみると、少年の日常に仮想現実(バーチャルリアリティ)の占める比重がきわめて大きいのではないか。もっと言えば、犯行後も「殺す」ということがどういう現実なのか、わかっていないのではないか。仮想現実と現実との区別がはっきりしていないのではないか――とさまざまな推察が浮かぶ。これは逆に女子高校生が加害者として疑われている母親に毒物を盛った事件とも共通していて、ネット上の「告白」と現実とが分かちがたく交錯する。
 この国の子どもたちは、生きもの(動物)としての人間が経験する実感から極力切り離される環境で育てられている。寒い、暑い、ひもじい、そして痛いという感覚から遠ざかるように日常が組み立てられている。何度も言うことだが、この国ほど、野に山に川にまちに子どもが遊んでいない国は世界中どこにもない。
 もうひとつ、人間関係で特徴的な現象は、この国の子ども、若者たちが傷付きやすく、ひどく傷つくことをおそれていることだ。これまた私個人は身に覚えがある感覚、「ない構成」の主因なのだが、子ども、若者の「叱られ下手」と親をふくむ大人たちの「叱り下手」が大きく関係しているように思う。「死ね!」と上司にしごかれ、反転して放火犯に至ったNHK記者はおそらく、叱られ体験がそれまでなかったのだろう。このままではフツーの子が世間を驚かす事件は止まらない。(筑紫哲也[2005]、以下、断りがないなら同様)

 どうして筑紫氏は、《このままではフツーの子が世間を驚かす事件は止まらない》などと他人事の如く語ってしまうのだろうか。少年による事件が起こったとき、個別の事情を無視し少年は危険だと喧伝し、残虐な犯行を生み出した「原因」を探すことに奔走し、親たち、大人たち、世間の危険ばかり煽るのはほかならぬマスコミである。
 また、このくだりにも注意すべき部分は多い。例えば町田市の事件に関する記述だが、筑紫氏は《その背景を考えてみると、少年の日常に仮想現実(バーチャルリアリティ)の占める比重がきわめて大きいのではないか》と述べている。このような物言いは少年犯罪に関する報道並びに(素人理論による)「分析」では定番の文句であるのだが、問題は何をもってして《仮想現実(バーチャルリアリティ)》と考えているか、である。その点について筑紫氏は見解を示すべきである。
 《仮想現実(バーチャルリアリティ)》という言葉は、もはやこの言葉自体が仮想現実(バーチャルリアリティー)になりつつある――要するに、少年犯罪報道のたびにこの言葉が喧伝されるあまり、その内実が問われぬまま、問答無用で「悪」と見なされるようになっている。このようにイメージばかり先走ってしまった言葉に対して、ただステレオタイプのイメージだけで危険視するのではなく、もう一度原点に戻って省察することが必要ではないだろうか。
 また、女子高生による毒殺事件に関しては、少なくともこの犯人は、ある毒殺犯の記録を模倣して犯行を行っていたという可能性が極めて高い。その点について筑紫氏はどのように思っているのだろうか。
 NHK記者の放火事件に関しても、《叱られ体験が少なかったのだろう》などと呑気に言って済まされるような問題ではない。そもそもこの事件は、渦中のNHKにあって、その記者が放火という凶悪犯罪(放火は間違いなく凶悪犯罪である)をしでかしたから、NHKのスキャンダルの一つとして報じられただけで、あとは典型的な放火犯である。もちろん、この犯人の罪は厳しく問われなければならないが、少なくとも怨恨を理由に放火に走った、というのは、何も現代の若い世代だけでなくとも、報道に接していれば、様々な世代が同様の事件を起こしているのがわかる(ちなみに「少年犯罪データベース」では、昭和33年に、神奈川県川崎市の中学2年生の生徒が、教師に叱られたため学校を放火した事件が報告されている)。
 多くの人が青少年の堕落は国家の堕落であるかのごとく、青少年に関して悲観的なことばかり語るけれども、勝手に時代の病理として扱われる子供たちにとっては大変迷惑な話だ。筑紫氏には申し訳ないが、筑紫氏が敵視している《仮想現実(バーチャルリアリティー)》が定着した世代ほど凶悪犯罪は起こさなくなっている。自分の理想から外れてた環境で育つ子供たちを、有無を言わさず「異常」とし、犯罪者予備軍と見なすような言動はいい加減やめたらどうか。
 ちなみに、筑紫氏は《何度も言うことだが、この国ほど、野に山に川にまちに子どもが遊んでいない国は世界中どこにもない》などと嘆いているけれども、そのような状況を作ったのもマスコミによるところが大きい。なぜなら、一つの犯罪を、さも現代の病理を代表しているかの通り仰々しく報じ、人々の安全意識を壊してきたのもマスコミだからである。
 筑紫氏は、この文章が掲載された数回前の「自我作古」で、「愛国主義は悪党の最後の隠れ家である」といった言葉を紹介している。ならばそれをまねて、我が国における状況を言おう。
 俗流若者論こそ、悪党の最後の隠れ家である、と。筑紫氏が、今回の如く、若年層をバッシングする目的で発動してしまう懐古主義を見ていると、強く感じる。この連載の第10回も参照されたし

 参考文献・資料
 筑紫哲也[2005]
 筑紫哲也「フツーの子の暗黒」=「週刊金曜日」2005年11月18日号、金曜日/「自我作古」第379回
 広田照幸[2003]
 広田照幸『教育には何ができないか』春秋社、2003年2月

 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月

 内藤朝雄「憎悪の社会空間論」=「10+1」第40号、INAX出版

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2005年10月 8日 (土)

俗流若者論ケースファイル73・別当律子

 しかし、不安便乗商法というのも怖いものだ。最近、文部科学省が発表した、小学校における校内暴力の件数が「過去最大」になった(この調査の問題点に関しては、「俗流若者論ケースファイル72・読売新聞社説」を参照されたし)という報告を受けて、そこらじゅうでまたぞろ子供たちに対する不安を煽る如き記事が乱発されている。情報ポータルサイト「All About」において、ライターの別当律子氏が書いた記事「“キレる”子どもにはワケがある? 小学校の「校内暴力」急増中!」も間違いなくその一つであろう。

 別当氏は、小学校における「校内暴力」の増加の原因を、「低血糖症」、すなわち血糖値の低さに還元している。その理由として、別当氏は、このように書いている。

 ささやかれている「ある理由」、それはズバリ「低血糖症」です。血糖値とは、血液の中のブドウ糖の濃度を表す値で、食事を摂れば上がり、空腹なら下がるといった変動があるものの、子どもも大人も80~110mg/dlが正常値です。低血糖とは、読んで字のごとく、血液中の血糖値が低下してしまうものです。ブドウ糖は脳の唯一のエネルギー源です。脳が身体の中に占める割合はわずか2%ですが、ブドウ糖の消費量は20%にもなります。
 しかも、他の臓器は糖を貯えておくことで糖の量の変動に耐えることができますが、脳はそれができません。そのため、低血糖状態が長く繰り返されると、脳にとって大きなダメージとなってしまうのです。エネルギー源であるブトウ糖が枯渇した状態が長く続くと、動機、貧血、無気力、めまい、頭痛、不安感、非社会的行動、集中力の欠如、生あくび、うつ、忘れっぽくなるとった症状が出ると言われています。さらに、脳は低血糖状態を補うために、アドレナリンというホルモンを分泌し、体内に蓄積されている糖分を血液中に出して糖をなんとか確保しようとします。
 しかしアドレナリンは、別名「攻撃ホルモン」とも呼ばれ、これが過剰に分泌されると、興奮状態になって、攻撃的になってしいます。乳幼児だけではなく、大人だって、空腹状態になるとなんとなくイライラして怒りっぽくなることはありませんか? まさにあの状態こそが脳からアドレナリンが過剰に放出されている状態というわけです。(「All About」内「“キレる”子どもにはワケがある? 小学校の「校内暴力」急増中!」、以下、断りがないなら同様)

 とりあえずこれに関してはこの説明を受け入れることとするが、この記事において問題なのは、何故子供たちが「低血糖症」ゆえに「キレる」のか、ということに関して、別当氏が採り上げるのはファストフードやスナック菓子なのだが(いい加減聞き飽きました)、どうして別当氏がそのように考えるのか、ということが、極めていい加減、というよりも疑わしいのである。

 ついでに「校内暴力の急増」と「低血糖症」の関係が本当に証明されたか、ということについては、100億歩譲って認めることとする。

 血糖値の特徴として、その値が急激に上昇すると、下がるときもまた急激であるという点があります。ご飯など、でんぷん類は血糖値をゆっくり上昇させまずが、その一方、ブドウ糖、果糖を多く含むものを摂取すると、血糖値は急激に上昇します。そしてブドウ糖、果糖を多く含むものこそ、炭酸飲料、スナック菓子類、ファストフード類だと言われているのです。
 身体の機能が未熟な子どもたちは、食事による血糖値の変化も激しいと言われています。そんな子どもたちがスナック菓子を片手に炭酸飲料を飲んで… などということを毎日続けていれば、身体が低血糖状態におかれる状態が長く続くことになります。するとアドレナリンが過剰に放出されて、興奮状態になり… もうその先の結論は言わなくてもおわかりのはずです。
 もちろん、小学校で校内暴力が増加している原因は複雑です。しかし、やれ家庭のせいだ、学校のせいだ、文部科学省が悪いと騒ぐその前に、一度、子どもたちの食生活を見直すことから始めてみませんか?

 ファストフードやスナック菓子に大量にブドウ糖や果糖が含まれているなら、血糖値はむしろ高くなるはずであろう。しかし別当氏ときたら、大量に摂取しているからこそ、低くなるのも激しいのだ、と言うのである。だが、そのようなことに関する具体的なデータを別当氏は示していないのだが。

 しかしこういう、ファストフードやスナック菓子をしきりに攻撃する人というのは、そういうものを食べる子供たちと暴力を振るう子供たちが重なって見えて仕方ないのだろうか。しかし、そもそも校内暴力が盛んになった昭和50年代後半~60年代、あるいは少年による凶悪犯罪がもっとも起こっていた昭和35年ごろと比べてどうなったのか、ということを一切示さない限り、説得力はない。この書き手は確信的にやっているのか、それとも能天気なのか。

 それにしても最近になって、こういう風に一見もっともらしい(が、内実を伴っていない)「科学的」裏づけをして青少年問題を論じる、というのが多くなった。最近では、若年層が無業状態になるのは脳内物質のひとつであるセロトニンの減少が原因だ、という論説まで見かけるようになったし(神山潤[2005]。実際の説はもう少し複雑で、コミュニケーション能力の低下はセロトニンの減少が原因であり、その結果無業となる、というもの)。

 ところで、以下のくだりをもう一度見て欲しい。

 身体の機能が未熟な子どもたちは、食事による血糖値の変化も激しいと言われています。そんな子どもたちがスナック菓子を片手に炭酸飲料を飲んで… などということを毎日続けていれば、身体が低血糖状態におかれる状態が長く続くことになります。するとアドレナリンが過剰に放出されて、興奮状態になり… もうその先の結論は言わなくてもおわかりのはずです。

 《もうその先の結論は言わなくてもおわかりのはずです》だと?そういう子供が自暴自棄になって自殺してしまう可能性は?スポーツで発散したくなる可能性は?攻撃的な小説や芸術に目覚める可能性は?

 このように、今の子供たちの現状をさも地獄絵図の如く描き、《もうその先の結論は言わなくてもおわかりのはずです》などという脅し文句を添えて、子供たちに対する不信を煽り立てる、という方法は、子供に対する侮蔑である、ということを別当氏他このような詭弁を弄して親たちを不安に陥れたがる人たちは自覚すべきである。

 蛇足だが、別当氏の如き「砂糖を大量に摂取すると血中の等分が不安定になって、精神的に不安定になる」、という論理は、専門家の間では既に俗説扱いされているようだ。「月刊現代」平成17年10月号210ページに掲載されているので、参照されたし(中村知空[2005])。

 参考文献・資料
 神山潤[2005]
 神山潤『「夜ふかし」の脳科学』中公新書ラクレ、2005年10月
 中村知空[2005]
 中村知空「巷にはびこる「健康情報」50のウソ・ホント」=「現代」2005年10月号

 髙橋久仁子『「食べもの神話」の落とし穴』講談社ブルーバックス、2003年9月

 柄本三代子「科学のワイドショー化を笑えない時代」=「中央公論」2002年10月号、中央公論新社

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2005年9月28日 (水)

俗流若者論ケースファイル72・読売新聞社説

 平成17年9月28日付の読売新聞は、小学生の暴力が過去最多になった、という報告(第一報は平成17年9月22日配信の共同通信。読売新聞宮城県版は平成17年9月23日に報じている)を受けて、「なぜ「キレる小学生」が増えるのか」という社説を書いているのだが、突っ込みどころが満載である。

 そもそも、読売社説子は、この調査が平成9年から行われたことを忘れているのではないか。故に、それ以前のデータが存在していないのだから、昨年になって突発的に増えた、と認識するのは筋違いというものであろう。そもそも校内暴力が問題になったのは1980年ごろであり、その頃から手を打たなかった文部省(現在の文部科学省)の方針は、私は問題化されるべきだと思っている。

 それはさておき、件の読売社説の言説分析をしていこう。例えば、以下のようなくだり。

 短絡的な動機から、突発的に手や足が出る。文科省は「忍耐力不足、人間関係がうまく作れず、感情のコントロールがきかなくなっている」と分析する。(2005年9月28日付読売新聞社説、以下、断りがないなら同様)

 このようなご託宣は、「理解できない」少年犯罪が起こるたびによく起こるものだけれども、しかし忍耐力があり、人間関係がうまく作ることができて、感情のコントロールが成り立っているはずの過去のほうが少年による凶悪犯罪は多発している。また、このような論法では感情は危険なものだからコントロールしなければならない、という論理が成り立っているのだが、そのような考え方こそが、昨今のカウンセリング・ブームを生み出したことを忘れてはいけないだろう。そもそもコミュニケーションとはそんなに薔薇色のものなのだろうか。読売社説子は平成16年に起こった佐世保の事件についても触れているが、これは読売は《暴力に対する抵抗感が薄れて来ているのではないか》という文脈で書いているけれども、これはむしろこの犯人の家庭環境(例えば、受験のためにバスケットボールクラブを無理やりやめさせられたこと)や、現実とネット上での常に監視状態にある友人とのコミュニケーションの息苦しさに起因した事件である、という分析のほうが説得力がある。
 次のようなくだりにも、読売社説子の認識の甘さが垣間見える。

 保護者にできることは何か。暴力シーンが登場するゲームやテレビ、漫画などを、子どもの好き放題にさせてはいないだろうか。親の児童虐待、配偶者間暴力などが日常的に行われているようでは、子どもへの悪影響は目に見えている。

 どうして読売は《暴力シーンが登場するゲームやテレビ、漫画など》を過度に問題化したがるのだろう?そもそもこれらのものが暴力を誘発する、ということは立証されたことがない。このようなものが問題化されるのは、単にスケープゴートにしやすいからではないか。しかもこのような論法では、読売社説子も軽く触れている、中高生の暴力行為が減っていることを説明することはできない。

 それにしても、この読売社説には示唆的な一文がある。

 1890件という数値には、疑問もある。都道府県別の報告件数(校外での暴力含む)を比べると、隣県同士で「0」と120件台と開きがあったり、300件を超す大阪府、神奈川県に比べ、東京都が43件と極端に少なかったりする。

 このようなくだりは、要するに教師がどのようなことを「校内暴力」と見なすかによって統計に表出するデータが変わってくる、ということを示している。共同通信の配信記事の中でも、文部科学省の見解として《暴力行為をする小学生がいる一方で、教員が子どもを注意深く見るようになったことも増加の要因ではないか》(2005年7月22日付共同通信配信記事)とも述べている。

 私は、この記事に限らず、青少年の非行が「増加」していると見なされる理由については、実数もさることながら、マスコミや社会を構成する大人たちが青少年に向ける視線も無関係ではないように思える。今回増加分としてカウントされた中には、そのような、今まで「校内暴力」とみなされていなかった文も含まれるはずだと私はにらんでいる。今回の事件について、またぞろ教育改革の「失敗」がこのような形で表れたのだ、とか、そもそもこれは親や教師の権威をないがしろにしてきた戦後教育の「成果」である、というふうに訳知り顔で述べている人が多いと思うが、私は、今一度我々が青少年にどのような視線を向けてきたか、ということを検証すべきではないかと思っている。

 子供の問題を自分で処理できなくなった教師が、結局は「校内暴力」としてカウントすることによって国家にすがっているのかもしれない。これは昨今における窃盗罪(万引き)統計の「増加」の理由としても説明できる。

 ちなみに、総務省統計局の人口推計によると、平成16年現在の小学生の数(7歳~12歳)はおよそ718万5千人。それに対し、今回の報告において小学生による「校内暴力」の件数は1890件。暗数と再発も考慮して、少々多めに見積もって、およそ2500人が校内暴力を起こしたことがある、と仮定しても、小学生全体から見れば0.03%、およそ3000人に一人の割合である。このことからも、校内暴力に関しては小学生の「心」の荒廃だとか、戦後教育の失敗だとか、更には大脳前頭葉の異常として捉えるよりも、辛抱強い対話による個別の問題解決に力を注いだほうが重要であろう。

 第一、「キレる」などという出自のいかがわしい言葉を平気で使う神経こそ疑わしいのだが。まして「キレル」なんて表現してしまった暁には

 参考文献・資料
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月
 森真一『自己コントロールの檻』講談社選書メチエ、2000年2月

 参考リンク
 「旅限無(りょげむ):荒れる学校の記事を考える
 「総務省統計局・平成16年10月1日推計人口

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2005年9月21日 (水)

俗流若者論ケースファイル71・森昭雄

 今度は産経新聞か。産経新聞のウェブ版である「ENAK」に、日本大学文理学部の曲学阿世の徒・森昭雄氏が登場している。日付は明記されていないが、記事中に《小学校で教職員3人が殺傷された大阪府寝屋川市の事件。逮捕された17歳の少年は、小学校時代から自宅に引きこもってゲームに興じていたという》(「ゲーム脳 神経回路の形成に影響」=産経web「ENAK」、以下、断りがないなら同様)、以下、断りがないなら同様)と書いてあるとおり、おそらく平成17年の2月下旬あたりであろう。この記事では、相も変わらず《事件との関連は分からないが、日本大学の森昭雄教授(脳神経科学)は「テレビゲームに没頭し、反射的な操作を繰り返していると、理性や判断など、人間らしさにかかわる脳の前頭前野の活動が低下し、キレやすく本能的な行動をとる可能性が高くなる」と独自の学説を唱えている》などと書かれているのだが、この理論がいかにデタラメかということは精神科医の斎藤環氏をはじめ多数の人に指摘されている。ただこの記事に関して言うと、《キレやすく本能的な行動をとる》と書かれているが、そもそも「キレる」という言葉の出自が極めて疑わしいものであるし、また《本能的な行動》が何をさすのかがわからない。そもそもゲームによって神経が未発達になると犯罪を起こしやすくなるとか「ひきこもり」になるだとか学力が低下するとか言うことに関する論証が立っていないのだが。このような「論理」は、所詮は彼らが腹を立てている青少年問題をゲームにかこつけたいだけのものである。

 もちろん、この記事の筆者が、脳波におけるα波の増加=脳が働いていない、日常的にゲームに親しんでいるとゲーム中にα波が減少しない、だからゲームをやりすぎると凶悪犯罪者になるぞ!という図式を少しも疑っていない。ここで我々が着目すべきは、脳波におけるα波の現象がゲーム中に限られることであろう。森氏の文章を読んでいると、どう考えても森氏は、ゲームとお手玉と10円立て以外(「メール脳」がらみなら携帯電話の使用時も)の作業時における、すなわち日常動作における脳波を計測した節がない。学者として不適切な態度であろう。少々記事から離れてしまったけれども、私が問題視したいのはこの記事の執筆者の態度で、少し読むだけでも明らかにおかしいと思える事例、例えば《β波が減少した状態》が《前頭前野に情報を伝える神経回路の働きが悪くなると考えられ、理性的な判断を伴わないまま、視覚情報から即行動に移される可能性》をもたらす、という部分に少しも疑問を持たないのがそれに当たろう。そもそも少年による凶悪犯罪(殺人・強盗・強姦・放火)は減少しているのだが。そのようなことを無視してこのようなことを語ってしまうのは、所詮は疑似科学に縋ってでも「今時の若者」を貶めたい、という未熟マスコミ人の「歪んだ欲望」(笑)なのだろう。

 また、この記事の執筆者は、《(筆者注:森氏は)「ゲーム脳」では、前頭前野の活動が低下しているため、ゲーム以外の集中力が落ちてボーッとした状態となるほか、判断力が低下してキレやすくなったり、本能的な行動をとりやすくなったりする、と述べる》と書いており、このアンチノミー(二律背反)の行動が同時に起こってしまう「ゲーム脳」とは一体何か、ということにも疑問をはさむべきだと思うが(そもそも《ゲーム以外の集中力が落ち》てしまうことは前頭葉の未発達として捉えるべきことなのだろうか?)、所詮は俗流若者論、そのような論理の上での疑問があってはいけないのだろう。

 もちろん、「ゲーム脳」理論の最大の「萌え要素」(笑)である《森教授は「ゲームだけでなくインターネットや携帯メールなどが氾濫(はんらん)する現代、友達と一緒に自然の中で体を使って遊び、創造の喜びを体感できるような遊び方も今の子供たちに必要ではないでしょうか」と話している》という物言いに代表される安易な懐古主義だって忘れてはいない。そもそもこの記事が書かれたのは少なくとも平成17年2月以降なのだから、「ゲーム脳」に対する批判は一般書のレヴェルでもかなり出ていた(例えば、斎藤環[2003]、と学会[2004]、香山リカ、森健[2004]など)。また、この記事の冒頭で触れられている《大阪府寝屋川市の事件》に関して、この記事と同様に「ゲーム脳」に強引に結びつけた報道が週刊誌を中心に行なわれたが、結局のところこのようなプロファイリングは無根拠である、ということ、そもそもこの事件における犯罪者が《自宅に引きこもってゲームに興じていた》のはせいぜい中即直後のある時期までで、それ以降は《ゲーム本には見向きもせず、昨年から若者向けのファッション誌「smart」を毎月買うように》(小泉耕平、藤田知也、四本倫子[2005])なるなどと、際立ってゲームに熱中している傾向は見られなくなったという証言すらあるほどだ。

 最後に、私が「ゲーム脳」に関して考えていることを語ろうと思う。この「ゲーム脳」理論について、この記事でも《それを防ぐため森教授は、子供たちのゲームの時間を1日あたり15分程度と決めたり、ゲームをしても読書をして感想文を書く時間をとる》と触れられている通り、「ゲーム脳」なる疑似科学が、子供を「正常化」するための監視を正当化するツールとして用いられているのが、最近の私の危惧することである。このような事態は、事実を放棄して疑似科学にすり寄る動向、または疑似科学が権力を正当化するツールとして働いていることなど、なにやらナチス・ドイツの匂いすら感じさせる我が国の社会を象徴するツールとして、私は「ゲーム脳」理論に興味を持っている。もちろん、これは「ゲーム脳」に限らず、正高信男氏の「ケータイを持ったサル」でも同様で、我が国における俗流若者論に支えられる疑似科学が、いかなる方向に我が国を導いていくのか、ということについて私は何らかの危うさを覚えずにはいられないのである。

 参考文献・資料
 と学会[2004]
 と学会『トンデモ本の世界T』太田出版、2004年5月
 香山リカ、森健[2004]
 香山リカ、森健『ネット王子とケータイ姫』中公新書ラクレ、2004年11月
 小泉耕平、藤田知也、四本倫子[2005]
 小泉耕平、藤田知也、四本倫子「「17歳少年がおかしくなったのはゲームのせいじゃない!」」=「週刊朝日」2005年3月4日号、朝日新聞社
 斎藤環[2003]
 斎藤環『心理学化する社会』PHP研究所、2003年10月

 杉田敦『権力』岩波書店、2000年10月
 森真一『自己コントロールの檻』講談社選書メチエ、2000年2月
 山本貴光、吉川浩満『心脳問題』朝日出版社、2004年6月

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2005年8月30日 (火)

俗流若者論ケースファイル70・山藤章二&「ぼけせん町内会」の皆様

 講談社から発行されている月刊誌「現代」は、全体としては面白いんだけどさ、一つだけ素晴らしくつまらない連載がある。しかもこの連載ときたら、「現代」の平成16年1月号で何と100回を突破したんだよ。そして今でも続いてる。

 それが、イラストレーターの山藤章二氏が主宰する「山藤章二のぼけせん町内会」。この連載は、もう「町内会」という表現が極めてヴィヴィッドに現している通り、そこらの「酒場の愚痴」を川柳にしただけのないように過ぎないんである。当然の如く、この連載は俗流若者論の鉱山だ。こんな内容で100回突破できるのかしら、と思っていたら、ほんとに100回突破しちゃったんだよ、これが。で、山藤氏ときたら、気をよくしたのか、100回記念だとかなんだとか言ってこの川柳でいろはカルタを作ってしまった。それが「現代」平成16年1月号に掲載された、「山藤章二のぼけせん町内会 川柳いろは歌留多」である。

 作家の山本弘氏のサイトに、「トンデモ本の世界」ならぬ「トンデモカルタの世界」なるコンテンツがある。例えばそこで採り上げられている「起動戦士ガンダム」において、「サイド7に たつ ガンダム」なる絵札では、何とコロニーの外壁面に立つガンダムが描かれているんだが、「ガンダム大地に立つ」って、コロニーの内部の地面なんだけど。というわけで、あたしも山本氏のこの企画を真似て、「山藤章二のぼけせん町内会 川柳いろは歌留多」の織りなす「トンデモカルタの世界」を皆様に堪能していただこうじゃないか。

 山藤氏は219ページにおいて《過去四年間に誌上で紹介した約九百句をもとにして、鮮度が落ちてないもので歌留多を編んでみました。傑作句秀句が星の数ほどもあるので大いに悩みましたが、新春のお遊びとおぼし召してお楽しみください》(山藤章二[2003]、以下、断りがないなら同様)と書いてる。でもさ、「ぼけせん」愛好家(笑)のあたしにしちゃ、あんなののどこが《傑作句秀句》なんだ、って言いたくなるんだけどなあ…。まあ、十分楽しませていただいたから、その点では山藤氏の思惑通りかもしれんがね。

 というわけで、チェキ!

 あ、言い忘れたけど、あたしのブログの趣旨どおり、ここでは俗流若者論だけ採り上げることにするよ。ついでに川柳の後に続いている文章は山藤氏のコメントね。

 ろ:老人は金持ちらしい俺若い(井上正伸)
 金と若さと、どちらの男を選ぶのか。渋谷のギャルに訊いたら五割が金と答えた。若さと答えたのは一割。後の四割は両方と抜かしやがった。馬鹿。

 どこの調査なんだ。あんたの妄想なんじゃないか。あと、あんたら俗流若者論の共通思考として、《渋谷のギャル》だけで若年層全体を論じたがる傾向があるんだが、それは明らかに思考停止っちゅーもんさ。わかんねえだろうなあ。

 は:禿頭なのに毛嫌いされている(竹内卓二)
 最近の若い男たちはスネ毛ムナ毛を毛嫌いし、金をかけてツルツルにしている。何を考えているのかとMRIで脳を見たらヒダがなくてツルツル。

 おいおい、脳が《ヒダがなくてツルツル》だったら、それは植物人間だってばよ。それにさ、そういう思考って森昭雄とか澤口俊之とか小林道雄みたいにレイシズムにつながる。それはさておき、毛の濃さっていつから男の強さの証明になったんだい?男根主義ならぬ男毛主義かよ。某大谷昭宏の「フィギュア萌え族」みたいに、我が国では「男が弱くなった」という夢想に浸って自分を肯定したいが為に大量の珍概念が捏造されている。こういう俗流若者論にはまるのはあんたみたいな人だよ。蛇足だがあたしはあたしの父親よりも毛深い(笑)。

 わ:悪ガキに効く良薬はビンボーだ(山岸眞)
 「貧乏暇なし」で、暇がなければ真面目に働くだろうとは昔の話。いまの悪ガキは貧乏に耐えられないから悪事に走る。ことわざに有効期限あり。

 この人は、《「貧乏暇なし」で、暇がなければ真面目に働くだろうとは昔の話》がつい最近になって表面化したことだと思っているようだ。でも、終戦直後は、生活の貧窮を背景にした凶悪犯罪がたくさん起こっていましたから!!残念!!!《ことわざに有効期限あり》なら、少なくとも終戦直後には消えてた、ということなのさ。ちなみにこの人には、最近になって正社員もフリーターも問わず労働時間が激増していることに気がついているのかなあ(玄田有史[2001]、森岡孝二[2005])。それでもサービス残業とフリーターは増え続ける。こういう人には見えないのかもしれないけど。

 よ:養殖の親に自然の子は出来ず(松島紀義)
 若い親の育児ぶりはなっとらん。食事はファミレスか電子レンジ。道徳も日本語も教えられない。そんなダメ親に誰が育てたんだ?ア俺たちだ。

 評論家の斎藤美奈子氏によれば、我が国が近代化されてからの時代、女学生を中心とする「今時の若者」に対する誹謗中傷が繰り広げられていたんだとさ(斎藤美奈子[2003])。それから、あんたらがそういう思考にはまるのは、はっきり言ってあんたらの自我を否定してることになる。なぜって?高度経済成長期まで、一部の中上流階級を除いて、伝統的な農村共同体においては、家庭はほとんど子育てには関与してなかった(広田照幸[1999][2001])。時代に闇に抗っている「はず」のあんたはね、家庭中心主義というもっとも大きい時代の闇にすっかりはまってるのよ。

 こ:怖いのはアメで育った子へのムチ(小泉親種)
 物がない時代の子は自然に我慢を覚え、あり余る時代の子は小さな不快にも耐えられず暴走寸前。この矛盾。学校給食にイモのツルでも食わせるか。

 はい、こんな暴力的な世代論なんてとっとと引っ込めましょーね。こうゆう認識もまた、あんたがマスコミの俗流若者論に踊らされている証拠なのよ。あんたらも暇なら過去の少年犯罪調べてみろよ。今起こったらぜーったいに「キレる」「逆ギレ」とプロファイリングされるような少年犯罪などガンガン見つかるぜ。

 さ:最後には加害者だけが残る国(伊藤友久)
 「一人くらい殺したって七年もすれば出て来られるんだよ、この国は」とよく聞く。百年たっても消えない被害者遺族の怒りはどこへぶつければいい。

 いい加減そうゆう付け焼刃の正義面はやめろよ。確かに我が国における犯罪被害者への配慮はほとんど充実してないし、その点に関しては我が国の法体系は抜本的に改正されるべきだけれども、あんたは被害者の救済についてなんか対案あるの?嘆くだけで何もしない、それが「ぼけせん」クオリティ。

 せ:洗脳というがほとんどは染脳だ(竹田登)
 なるほど、染められるんだから「染脳」。阪神の選手は「仙脳」だね。私はこの歌留多で「川脳」です。街に出れば、「銭脳」や「浅脳」がウヨウヨ…。

 《街に出れば、「銭脳」や「浅脳」がウヨウヨ…》なんていうけれども、《浅脳》はあんたたちですから、残念!!

 す:スカートを脱いでグッチを手に入れる(寺内伸弥)
 グチも言わずに女房の小春~、は昔の話。いまじゃグッチのためなら下着も売るわ~。純潔も貞操も恥ずかしいも、すべて永久死語、チーン。

 あんたらは知らないだろうが、所謂「援助交際」はアジア諸国に波及してるんだ。読売新聞解説部の永峰好美記者によれば、「国際ECPAT」の「世界の子どもの商業的性的搾取関する年次報告書」によると、《「援助交際」にかかわっている子どもの特徴は、各国とも似通っている。金銭面などで不自由のない仮定の重大で、圧倒的に少女に多い。家庭の崩壊や親とのコミュニケーションの欠如などで、非常に孤独》(永峰好美[2004])という特徴があるそうだ。もう一つ言うと、これは永峰氏も指摘してることなんだが、「援助交際」なる言葉によって、両者共に利益を得ているというニュアンスが生まれてる。この詠み手もそうゆう罠にはまって、正常なバランス感覚を取れなくなってる。つまり、たとい「援助交際」であっても少女への性的搾取であることは変わらない、ということを忘れちゃってる。あ、この人やこの人の友達とかが「援助交際」少女に金貢いでるからか。納得。調査も情報収集もプリンシプルも、《すべて永久死語。チーン》。

 以上、「山藤章二のぼけせん町内会 ぼけせんいろは歌留多」の織りなす「トンデモカルタの世界」をお送りしました。皆様お楽しみいただけたかな?ここで採り上げたのは俗流若者論だけで、他にもたくさんの思考停止や歪曲や自分勝手が見られるから、皆様もぜひとも読んで目を回して欲しい。

 それにしても、こういう俗流若者論がエンターテインメントとして成立しちゃう世界って、一体何なんだろうね。要は、人の不幸や事件を笑いものにしているわけさ。風刺とは全く違う。風刺にはユーモアがあるし、社会を明るくするけれども、この人たちのやってることは閉鎖的共同体の中で酒飲みながら愚痴ってるだけさ。要は自分だけは安全で善良で犯罪を犯さないんだ、と勝手に思ってる連中がこういう妄想を垂れ流してるわけなのよ。ここにあたしは俗流若者論の本質を見た。要は、俗流若者論っちゅうものはな、自分の大事にしているものが「今時の若者」に壊されている!!っていう陰謀論的な妄想にはまっている人たちが自らの正当性を証明するための道具なのよ。でも実際には、例えば少年による凶悪犯罪は今よりも昭和40年ごろのほうがたくさん起こっていた。でも、報道の量は今のほうが断然勝っている。高度経済成長が昔の話となった日本人ってのは、経済という妄想に頼りきれなくなったら俗流若者論という妄想にすがりたくなるのかな。そこまで考えたくはないけれども、この「ぼけせん」読んでると、そういうことを考えさせざるを得ない。

 このいろは歌留多は、俗流若者論幸う社会の一つの帰結を表してるんだと思う。その点においては、他のいかなる俗流若者論よりも、俗流若者論というものが造りだす社会というのがいかなるものになるのか、というものを如実に表してる。

 参考文献・資料
 玄田有史[2001]
 玄田有史『仕事のなかの曖昧な不安』中央公論新社、2001年10月
 斎藤美奈子[2003]
 斎藤美奈子『モダンガール論』文春文庫、2003年12月
 永峰好美[2004]
 永峰好美「アジアの援助交際」=2004年4月30日付読売新聞
 広田照幸[1999]
 広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書、1999年4月
 広田照幸[2001]
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月
 森岡孝二[2005]
 森岡孝二『働きすぎの時代』岩波新書、2005年8月
 山藤章二[2003]
 山藤章二(編)「山藤章二のぼけせん町内会 ぼけせんいろは歌留多」=「現代」2004年1月号、講談社

 原克『悪魔の発明と大衆操作』集英社新書、2003年6月
 広田照幸『教育』岩波書店、2004年5月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 松谷明彦『「人口減少経済」の新しい公式』日本経済新聞社、2004年5月
 宮崎哲弥、藤井誠二『少年の「罪と罰」論』春秋社、2001年5月
 宮台真司『宮台真司interviews』世界書院、2005年2月

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2005年8月29日 (月)

俗流若者論ケースファイル69・小林道雄

 この連載の第64回において、NHK放送文化研究所専門委員の清川輝基氏が「世界」平成15年7月号に書いた文章を批判したとき、コメント欄に「「世界」ですらこのような俗流若者論を書いているのか」というコメントを頂いた。なるほど確かに「世界」には俗流若者論が掲載される確率は低い部類に属するけれども、だからといって俗流若者論が完全に出ないわけではない。今回は2000年代に「世界」に掲載された俗流若者論の中でも真打を検証する。

 今回検証するのは、ジャーナリストの小林道雄氏が「世界」平成12年12月号から平成13年3月号まで行なっていた短期集中連載「少年事件への視点」の第3回と第4回と、「世界」平成13年4月増刊号に掲載された小林氏の文章である。小林氏の最近の仕事に関しては、警察に関するものと、青少年に関するものの二つに大別されるのだが、この二つの仕事を見比べてみると、この二つの仕事は本当に同じ小林氏によって行なわれたものなのか、ということだ。警察に関する仕事は権力の深層にもぐりこむ、という気迫が感じられるけれども、こと青少年に関する仕事を読むと小林氏は俗流若者論しか知らないのではないか、と錯覚してしまうほどそのレヴェルは落ちる。中には疑似科学に陥ることまである。ここで検証する小林氏の文章は明らかに青少年に対する小林氏の蔑視の感情を感じることができる。

 まず短期集中連載の第3回「何が子どもを歪めさせたのか」(「世界」平成13年2月号に掲載)を検証しよう。この文章のリード文において、《小児神経学の知見から、幼児期の発達と思春期の犯罪の関係をさぐる。子どもが健やかに育つための環境が損なわれている現代において、「育つ」ことがいかに難しいことか》(小林道雄[2001a]、以下、断りがないなら同様)とかかれており、このような視点でかかれる俗流若者論というものが、いかに恣意的な《小児神経学の知見》やそれ以外の「科学」の濫用で構成されているか、ということに関しては、この連載の第485660646667回を参照していただきたい。そして小林氏のこの文章もまた、そのような疑似科学の隘路にはまっているのである。

 案の定、小林氏は102ページにおいて《いびつになった脳》と称した項に入ってしまうのである。ちなみにここまでの97~102ページの記述に対しては、その全てが家裁調査官などの回想や懐古主義で埋め尽くされており、そこで聞いた事例がどこまで広がりを持っているか、ということに小林氏は行なっていないので検証しない。しかし小林氏が、そして「世界」が俗流若者論において疑似科学、そしてそこから派生するレイシズムを肯定してしまうことは何度でも批判する必要があろう。

 小林氏は103ページにおいて以下のように書く。

 取材の結果、今の子どもには他人の痛みが分からない子が多いこと、きわめて感受性の未熟な子がいること、総体として思考能力が低下していること、またかこの心の傷や不満を位置人称的に悩んで申そうかさせる子がいることなど、いくつかのことを知らされた。

 それらの問題について、私は調査官の見解と共に状況から考えられる理由を述べてきたが、果たしてそれだけだろうかという思いは常につきまとっていた。そして、その想いをもっとも強く感じさせられたのは、保護監察官I氏の話を聞いたときだった。

 「今の子どもたちの問題は規範以前、人間としてのものがトータルとして足りないという感じがします。……」

 実を言えば、私には前から話を聞きたいと願っていた人がいた。それは〈少年事件の分析には小児神経学の眼が必要です〉と書かれた朝日新聞の『ひと』欄を読んだことによる。レット症候群(筆者注:「這い這い」や手を振って歩くことができないために大脳連合野が働くなった病気とされている)国際会議を主宰した医師として紹介されていた瀬川昌也氏は、〈一定年齢でおきることには必ず発達が関係しています。十七歳の事件も、乳幼児期の発達の問題だし、廊下も発達の繁栄です〉と述べていたのである。

 しかしこの瀬川氏ときたら、この時期の少年犯罪にして疑似科学的な俗流若者論を展開して全てを語った気になっている。発達の問題で全てが解決されるのであれば、犯罪を誘発する「発達の歪み」を生み出す家庭を摘発して矯正する、という言説が生まれかねないし、このような疑似科学的な俗流若者論を展開する人は我が国において少年が凶悪犯罪をしでかす確率が諸外国に比べて著しく低いことを引こうとはしない。まあ、彼らにとって少年犯罪は格好の飯の種だからそこまで想像力が及ばないのであろうが。

 小林氏の文章の分析に戻ろう。小林氏は瀬川氏から聞いた話を基にして、104ページにおいて以下のように述べているのだが、小林氏は明らかに疑似科学の罠にはめられている。

 結論から言えば、調査官が指摘している今の子供たちの問題点、未熟さ、他人の痛みが分からないこと、妄想への傾斜、保護監察官I氏が語ったような行動のアンバランス、そして私が感じている不登校児の問題などは、いずれも生後四ヵ月までの正常な睡眠と、その後の「這い這い」がきちんと行なわれてこなかったことに起因しているようである。

 なんとも意外に感じるが、瀬川氏に寄れば生後四ヵ月までの睡眠と、十ヵ月後に始まる「這い這い」のありようが、脳の土台というべき機能を決定するということなのである。

 つまり、言語や社会的理性など人間を人間たらしめている能力は、前頭葉にある大脳連合野の働きに夜が、その土台となる脳の仕組みが間違いなく作られていなければ大脳連合野は正常に作動しない、未熟になるということなのだ。

 小林氏はこのように書いているけれども、小林氏は昨今の犯罪少年、更にいえば今の子供たちにおける「這い這い」の実態を示した定量的なデータを最後まで示していない。これはむしろ小林氏が瀬川氏に問い詰めるべきことなのであったが、しかし小林氏は小林氏の思い込みだけで子供たちについて語ってしまっているので、データ抜きのステレオタイプにはまってしまうのも理の当然だと思うが、理の当然だからといって許されるわけではない。しかもここで語られている如き大脳前頭葉の発達の歪みが社会性を失わせる、というのははっきり言って脳機能障害者に対する差別につながる。「世界」の岡本厚編集長は気づかなかったのだろうか。

 さて、瀬川氏は明らかに俗流若者論御用達の疑似科学者の振る舞いをする。瀬川氏は何と不登校の原因は睡眠障害だ、という珍説を開陳してしまうのである。もちろん、瀬川氏は最近になって不登校が急増したと思いこんだ上でこのような珍説を語る。不登校に長い間付き合ってきた奥地圭子氏の話を、小林氏も瀬川氏も正座して聞くべきだろう(最近になって不登校が急増した、ということが以下に虚偽であるかについては奥地圭子[2003]を参照されたし)。106ページ。

 「ある方が不登校というのは時差ボケの状態が続いているのと同じだと指摘していますが、その通りなんです。というのは、おきたり寝たりする時間と体温のリズムが全然合っていないんです。体温のリズムというのは明け方に近い深夜がいちばん低くて、夕方五時ごろがいちばん高いという周期になっていて、起きたときには上昇に向かっているから気合が入るんです。それが遅れていてまだ低い状態にあったら、ぜんぜんやる気は起こらない。だから行きたくないとなるんです」

 不躾ながら、私は中学から高校にかけて学校に行きたくない、と思うことは何度もあったし、授業を放棄して保健室に行っていたこともしばしばあるし、大学に入っても人付き合いがうまく行かずに困惑したことがよくある。また、私の近くには何名か不登校児がいた。そのような経験から私は不登校や「ひきこもり」は社会的要因ではなく発達の歪みから来るのだ、という論理がいかに暴力的であるか、ということについて十分熟知しているつもりである。もちろん一部には瀬川氏の述べた如き理由から不登校になる人もいるかもしれないが、不登校になる人の大抵の原因は学校内でのいじめや人間関係の悩みなどが大半である。このような社会的な影響を無視して不登校について語るのであれば、瀬川氏は不登校を語る上では明らかに能力として欠けているものがある、というほかない。小林氏も小林氏だ。小林氏が青少年に関して取材を重ねているのであれば、少しでも反証になりそうな事例を挙げて反論すべきだろう。小林氏は107ページにおいて《困ったことに不登校の子どもは、決まったように昼夜逆転の生活になる。行けないものを行かすわけにはいかないが、これではいつになっても時差ボケ状態は改善されない》と語っているけれども、原因と結果が逆転していないか。

 小林氏は108ページにおいて更に以下のように述べる。

 日中の活動が低下して深い睡眠がとれず、セロトニンが減ってドーパミンが編に活発になることは、まず他動になるということだが、それだけではなかった。小学校時代には無気力になって依頼心が強くなり、中学三年ぐらいの年代で甘えの反面の粗暴行為が出てくるようになる。また、セロトニンの減少は対人関係に問題を起こしがちで、環境への順応を難しくするということなのである。

 このような物言いは、自分は不登校とも「ひきこもり」とも、更には人間関係に支障をきたすことにすら関係ない、と思い込んでいるからこそ言えるのだろう。確かにそういう人たちはうらやましいけれども、だからといって不登校も「ひきこもり」も人間関係に支障をきたす人も病気だ、脳とか発達に障害を抱えている劣等人種だ、という論理を開陳するのを見ていると、かえって人付き合いは少ないほうがいいのかもしれない、とすら思ってしまうことがある。このような物言いを、「ひきこもり」とか不登校とかの当事者が見たらどう思うだろうか。もしこの文章を読んでいる人が「ひきこもり」とか不登校とかの経験を抱えているのであれば、あるいは人間関係で悩んでいれば考えて欲しい、あなたが悩んでいる(悩んでいた)のは脳や発達に障害があったからなのだ、といわれればあなたは納得するか?少なくとも私は納得しない。

 瀬川氏や小林氏は更に109ページにおいて以下のようにも述べてしまう。ここまで来るともはや与太話以外の何物でもない。

 「覚えるけど忘れないというのは、自閉症の子がそうなんです。最初に入ったパターンを覚えていて、決まったことはきちんとやれる。そこで最初に数が頭に入ると、算数から高等数学までどういう頭の回転でやるのかわかりませんが、ものすごい才能を発揮する。他のことは全然できませんが。で、ノーマルな子がそうなった場合も、ドリルなんかを早期教育でやらせると、答えがあることについてはどんどん伸びて、偏差値の上のほうに言ってまっすぐに一流大学に入る。だけど、そういう人は答えが出ないことにはすごく困る。それでも学歴社会ですからエリートコースに乗る。しかし、行政機関であれ学問の世界であれそういう人が指導的役割に就くと社会としてはちょっとまずいことが起こる。批判する人がいればいいけれど、修正しませんから硬直化が起きるんです。それと、答えの出ないことは分からないから、おかしなことも起こる。勉強の面で優秀な人にはときどきそういう脳の持ち主がいるということです」

 私が瀬川氏への取材で何より感じさせられたことは、臨床医としてレット症候群や自閉症という難病に取り組んで研究を深め、国際会議を主宰するほどの意思の知見が、なぜ一般に知られていないのかということだった。ことに寄れば、ノルアドレナリン障害型エリートによる硬直化がそれを阻んでいるのではないか、そんな気がしてならない。

 なるほど、この論理に従えば、いかなる社会問題でさえも《ノルアドレナリン障害型エリートによる硬直化》のせいにできる。しかし、このような問題意識は、社会や組織における人間関係がもたらす力学を無視する方向に走ってしまうのではないか、というよりも走ってしまっている。

 更に小林氏はこの直後にこのように語っている。

 とにかく、はるか昔から戦後二十年ぐらいまで、子どもたちは「遊びをせんとや生まれけむ」と詠まれた姿でそのままに戸外で遊び暮らしてきた。私たち世代は、家でぐずぐずしていると「子どもは風の子」と追い出されたものである。思えば、それはいかに正しかったかということだ。

 このような自己肯定を行い、現代の若年層を平然と貶める小林氏が、果たして「世界」という左派系のメディアに執筆する資格があるのか。いや、左派系のメディアでも、俗流若者論はどういうわけか徳移転となっており、ほとんど無法地帯であるから、このような物言いも許されるのだろう。しかし、先の引用文の如き、小林氏や小林氏が取材した人たちの話だけで、現代の若年層全体を貶めて、人間的に劣った人間だと差別する小林氏の正当性の主張は、いかに小林氏がマスコミによって捏造された「今時の若者」のイメージに踊らされているか、ということを映し出している。それに賛同する読者も然りである。

 2月号の文章だけでもこれだけ問題点があるのに、小林氏の暴走は3月号でも続いてしまう。3月号では、ついにかの曲学阿世の徒・北海道大学教授の澤口俊之氏が登場する(3月号56ページ)。

 小林氏は3月号に掲載された短期集中連載の第4回(最終回)において、以下のように述べている。57ページ。

 そうであれば、われわれが「人間性」と読んでいるものは心の理論や社会的理性そのものであるということになり、それが未発達だということは人間性を書いているということになる。そのような存在には、われわれが当然視している人間性や人間としての規範意識というものさしは通用しない。最近の少年事件に感じる「不可解さ」はそのためであって、単に未熟と受け止めては間違うこととなる。未熟や非常識と映る最近の少年や若者たちの変質は、実はそういうことのようで、……(小林道雄[2001b]、ここから先は断りがないなら同様)

 これは明らかにレイシズムであろう。「世界」はやはり俗流若者論であればレイシズムすら肯定してしまうらしい。岡本厚編集長も散々だ。このような疑似科学によって裏付けられたレイシズムが、いかに若年層に対する意識を貧困化させているか、ということは澤口氏などの疑似科学系の俗流若者論を読めばすぐにわかることだろう。また、小林氏は《最近の少年事件に感じる「不可解さ」》などと語っているけれども、私はむしろ情報が多すぎるが、しかしそれらの情報が全て「今時の若者」を文スタートして敵視するところから生まれているからこそ、たとえ情報だけ多くても全く本質を射抜くことはできない、と思っている。小林氏がさも現代の少年や若年層について当然だと思っている《変質》は、むしろ小林氏の認識の問題であろう。

 小林氏は澤口氏の疑似科学にのっとって、更に幼稚園まで敵視する。58ページ。

 私は幼稚園には行っていない。その頃いっていた子は良家の子女ばかりで、私はそうでなかったということだが、理由はそれだけではなかった。私の両親に限らず、当時の親には「幼稚園なんかに入れたら子どもがひ弱になる」という思いが強く会ったようなのだ。私はその判断は正しかったと思うのだが、戦後の経済成長とともに幼稚園にいくのは当たり前になった。それだけに抵抗のある人もいるかと思うが、やはりそれは本然の発達環境ではないのである。

 幼稚園というのは保母さんという大人を介在させた年齢輪切り社会であって、子どもたち自身が作る子ども社会とは本質的に異なる。ここでの遊びは、多くが与えられ指導されてのもので、何もない空間での自然発生的な遊びではない。しかも現在では、その保母さんは現代っ子のお姉さん先生で、「○○ちゃん、お友だちぶったらいけないんだなぁー」などといった口調での始動がもっぱらとなっている。

 いい加減にしてくれ。このような議論は一見正鵠を得ているように見えるが、しかし全くのデタラメ、というよりも小林氏の単なる思い込みをちっとも抜け出されていない。その上《しかも現在では、その保母さんは現代っ子のお姉さん先生で》などという文句が続けば、もはや小林氏は筆を折れ、などと浴びせかけたい衝動に駆られてしまう。

 その上小林氏と着たら、62ページにおいて《虐待された子どもが心に刷り込まれるのは「近い(親しい)関係は怖い」ということである。親密な関係を危険だと避けたとしたら、正常な人間関係は作れない。そうなれば、人間としての心は育たない》とまで言い出す始末。だったら何か。小林氏は、たとい子供が虐待を受けていても、《近い(親しい)関係は怖い》という感覚が生まれるのはもっと怖いから、虐待は我慢しろ、とでも言うのか!もちろん虐待は対処されて然るべきだけれども、しかしたとい近い関係であっても、その人が理不尽な暴力を振るったりするのであれば、一見距離を置くことも大切だ、と教えることもまた重要なのではないか。そもそも小林氏のこのような暴論は、親密なコミュニケーションこそ善である、という価値観につながり、コミュニケーション能力差別として現れている。

 それでも小林氏の暴走はまだ終わらない。62ページから63ページまで小林氏が述べていることもまた、現代の家庭に対する差別以外の何物でもない。小林氏は《教育中心家庭》で育った子供に《親への尊敬や長幼の序といった道徳をといたところで入るものではない》と書いているけれども、「世界」にこのような文章が載っていいのか。やはり俗流若者論は特異点なのか。蛇足だけれども、小林氏は学校教育というものをことごとく無視している。小林氏は、最近において少年による凶悪犯罪が諸外国と比して、あるいは昭和40年ごろに対して件数が極めて低い水準で推移していることをいかに説明してくれるのだろうか。

 65ページにおいて、小林氏は《現在の日本がなぜここまで政治や経済に停滞を招いているかを考えさせる。おそらくそれは、政界・財界に二世が増えたこと、つまり厳しい環境にもまれていない人間がその任に就いていることの結果にほかなるまい》とも述べるが、これも第3回の最終回と同じ問題意識だろう。ようは自分の問題意識の捌け口として疑似科学が使われているわけだが、そのような科学の濫用が、科学の氏につながる、ということに関して小林氏は極めて無頓着だ。

 3月号に掲載されている文章は、短期集中連載の最終回である。65ページには、小林氏が連載を終えるに当たってのことが書かれているのだが、そこで連載を始めたときに聞いた、横浜家庭裁判所の元調査官である野口のぶ子氏の言葉が引用されている。

 「厳罰化なんていってますが、これまで大人は子どもにどうかかわってきたんですか。子どもたちが何をしようと、どんなに苦しんでいようと見て見ぬふりをしてきただけじゃないですか。どうしてそのことが問われないんでしょうか」

 これは小林氏自身に突き返されるべき問いかけである。小林氏のやっていることは、《どんなに苦しんでいようと見て見ぬふりをしてきただけ》ということと罪の深さでは全く変わらない。小林氏のやっていることは、現代の青少年に対する差別を疑似科学でもって「正当性」を持たせ、青少年に対する不安をあおることでしかない。そのような態度が正しいとしている小林氏に、この野口氏の問いかけはどう響いたのだろうか。これが小林氏の残酷な態度を正すことになればいい、と思ったのだが、あいにくそうはならないらしい。66ページにおいて小林氏は《中には、異星人を見るような目を若者たちに向けている人もいる》とぬけぬけと語っているけれども、それは小林氏自身にも当てはまる。小林氏は自分のやっていることは全て正しい、と考えているようだが、小林氏の行為は倫理的にも誤りだ。そもそも小林氏は疑似科学によるレイシズムを肯定している。事実、小林氏は、《たとえば電車の中での化粧は、公徳心の欠如といったものではない。他人の気持が分からない、従って、他人の眼が期にならないから堂々とやれるのであって、公衆道徳という次元の問題ではないのである》と67ページにおいて語っている。このような文章が「世界」に載ることもまた大きな問題ではないのだろうか。

 一連の小林氏の狼藉から確認できることは、疑似科学がいかに小林氏の世代の正当性、つまり小林氏自身の正当性を主張することに役立っているか、ということだ。疑似科学がこのような形で役に立つためには、まず小林氏が現代の青少年に対して差別的な感情を持っていなければならないが、この短期集中連載の第3回と第4回では、その小林氏の持っている若年層に対する差別意識と、自意識の裏返しでしかない小林氏の自己肯定がことごとく繰り返されている。それは結局のところレイシズムしか生み出さず、不毛な議論にしかなりえない。

 小林氏のやっていることは、本当に「世界」という左派系のメディアに載るべきことなのだろうか。我が国の「論壇」の底の薄さ、特に左派論壇の底の薄さは、俗流若者論になったらいきなりプリンシプルを捨てて俗流右派論壇人と一緒になって若年層に罵声を浴びせかける。このような状況を、果たして放置しておいていいのだろうか。このような状況を俯瞰すると、我が国において、俗流若者論というものは自民党も公明党も民主党も社民党も共産党も諸派も無所属も無党派も巻き込んだ極めて大規模な「オール与党」というほかない。俗流若者論の名において行われる政治に争点などない。あるのはステレオタイプのみ。

 このような状況下で、若年層に対する適切な施策や救済が行なわれることを期待するほうが無理かもしれない。たとい若年層の投票率が上がったとしても、俗流若者論が多く席巻する状況を打破しない限りは、当分の間青少年にとっての暗黒時代は続くだろう。NPOなどが頑張ればいいのかもしれないが、そのような頑張りは一部のメディアで採り上げられるくらいで、国民的な理解が定着しているという状況には達していないし、フリーターや「ひきこもり」や若年無業者をめぐるバッシングにも見られるとおり、マスコミや大衆は適切な研究も参照せずに彼らに石と糞ばかり投げつける。「善良」を自称している大衆にとって、所詮は若年層は敵愾心のはけ口でしかない。若年層の政治利用は当分やみそうもない。そのような絶望的な状況に立っていることこそ、我々は自覚したほうがいいのかもしれない。そのような状況下において、それでも(ありもしない)希望を信じてやっていくことしか、我々にはもはや残されていないのかもしれない。

 最後に小林氏、「世界」平成13年4月号の増刊号に当たる「日本の選択肢」という雑誌において、小林氏は「少年犯罪」の項を書いているが、小林氏はこのサッシの211ページにおいて、以下のように書いている。

 少子化と都市化によって、そうした環境と機械は大きくうすなわれてしまいました。他人の気持ちが分からなくなったのはその結果ということなのですが、それは決して犯罪を犯すような少年に限ったことではありません。近ごろは電車の中で化粧をしている若い女性をよく見掛けますが、これも他人の気持ちが分からないから周囲の目垣に習いということで、同じことなのです。

 私たちが「人間性」と読んでいるのは社会的理性や心の理論そのもので、それが未発達だということは人間性を書いているということになります。ですから、そういう少年や若者には、私たちが人間として当然と考えているものさしは通用しません。最近の少年事件に感じる「不可解さ」はそのためで、単なる未熟ではないのです。(小林道雄[2001c])

 ……世界の辺境で叫ばせてくれ。

 助けてください!小林氏を、疑似科学の魔の手から、誰か助けてください!!

 そして私に、もうこれ以上同じことを言わせないでください!!

 参考文献・資料
 奥地圭子[2003]
 奥地圭子「新しい囲い込み――「不登校大幅減少計画」への疑問」=「世界」2003年9月号、岩波書店
 小林道雄[2001a]
 小林道雄「何が子どもを歪めさせたのか」/「少年事件への視点」第3回=「世界」2001年2月号、岩波書店
 小林道雄[2001b]
 小林道雄「「社会的理性」を育てるために必要なこと」/「少年事件への視点」最終回=「世界」2001年3月号、岩波書店
 小林道雄[2001c]
 小林道雄「Q49.少年犯罪」=「世界」2001年4月増刊号、岩波書店

 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 姜尚中『ナショナリズム』岩波書店、2001年10月
 斎藤環『心理学化する社会』PHP研究所、2003年10月
 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 杉田敦『権力』岩波書店、2000年10月
 十川幸司『精神分析』岩波書店、2003年11月
 内藤朝雄『いじめの社会理論』柏書房、2001年7月
 広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書、1999年4月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 宮崎哲弥、藤井誠二『少年の「罪と罰」論』春秋社、2001年5月
 山本貴光、吉川浩満『心脳問題』朝日出版社、2004年6月
 ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』岩波書店、上下巻、1987年2月

 大和久将志「欲望する脳 心を造りだす」=「AERA」2003年1月13日号、朝日新聞社
 瀬川茂子、野村昌二、宮嶋美紀「B型をいじめるな」=「AERA」2005年1月24日号、朝日新聞社
 内藤朝雄「お前もニートだ」=「図書新聞」2005年3月18日号、図書新聞

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 関連リンク
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2005年8月28日 (日)

俗流若者論ケースファイル68・瀬戸内寂聴&乃南アサ&久田恵&藤原智美

 俗流若者論を研究しているものにとって、過去に喧伝された「今時の若者」をめぐる事例や言論に関して、今振り返ってみると「あれはなんだったのか?」と思い返さざるを得ない。我が国において「今時の若者」をめぐる言説は、中にはそのまま(その非論理性が指摘されずに)ずっと使われ続けるものもあるし、あるいはすぐに消失してしまうものもある。「あれはなんだったのか?」と考えざるを得ないものは、もちろん後者に当たる。

 今回検証するのは、「文藝春秋」平成12年11月号に掲載された、「「なぜ人を殺してはいけないのか」と子供に聞かれたら」という特集の中におけるいくつかの論文である。このような問いかけは、今ではめっぽう聞かれなくなった。それがいい事なのか悪いことなのかは一概には言えないだろう。

 検証の前に、私なりに「なぜ人を殺してはいけないのか」ということに関して書きたいのだが、なかなかいい理由が見つからない。最大の理由としては、やはり「刑法で禁止されているから」であろう。しかしこのような解答をすると、「人を殺していい。ただし、警察権力に見つからないように最後まで隠し通せ」ということを容認してしまうことになる。ただこの答えは、法学的に突き詰めるならばある程度は正しい答えとなる。しかし「それではなぜ「人を殺してはいけない」ということが法律よって定められるようになったか」ということに関しても答えなければならないはずである。それに対する理由としては「人を殺すことが許されるならば多くの人が人を殺すようになり、社会秩序が崩壊する」というのがもっとも妥当かもしれない。要はホッブズの説明である。ホッブズは自然状態を「万人の万人に対する戦争状態」と捉え、そこから生まれる死の恐怖から回避するためには主権の確立が必要だ、という論理である。

 しかし、世の中にはたくさんの「殺人」で溢れている。もちろんここで言うところの「殺人」は人が人に対する殺人行為のみを指すのではなく、例えば国家が凶悪犯罪の被害者の代行として恩讐を行なう場合=死刑や、国家の主権の拡大のために自らの「敵」を殺す行為=戦争などといったものが溢れている。更には最近になって、脳死とかホスピスなどを巡る議論に代表されるとおり、そもそも「生」と「死」の境目に関する議論もまた存在している。このように考えれば、今ではめっぽう聴かれなくなった「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いもまた、「生」と「死」の境目が曖昧になった現代社会であるからこそ問われる問題なのかもしれない。もう一つ言えば、昨今のマスコミ、特に少年犯罪報道は、あまりにも「死」を物語化しすぎており、彼らの「死」に対する認識こそ私は疑いたくなる。

 本来ならそのような問いかけを真摯に受け止めることによって、我が国の社会にとって「死」とはいかなる意味を持っているか、ということを問い詰めなければならなかったのである。しかし我が国の自称「識者」にとって、そのようなことは許されなかったらしい。まあ、我が国の自称「識者」の役割が、ただ「今時の若者」の「問題行動」に「驚いてみせる」ことでしかないから、この特集の如くただページ数だけ多くて内容は空疎なものばかりそろってしまうのかもしれない。

 さて、検証に入ろう。

 ・瀬戸内寂聴氏(作家)「仏教第一の戒律「不殺生戒」」
 この文章において、瀬戸内氏は仏教の戒律に基づき、殺人のみならず戦争も死刑もいけない、と述べている。その一貫性は実に美しく、厳格であるのだが、どうも気になるのは瀬戸内氏が現代の若年層に対して偏狭なイメージしか持っていないのではないか、ということだ。

 例えば瀬戸内氏は、166ページにおいて、以下の如く述べている。曰く、

 最近の子供は、命の大切さ、重さを、家庭でも、学校でも教えられていないようだ。

 「なぜ人を殺してはいけないの」

 と母親に問うた子供に、その母親は何と答えて言いかわからなかったという話が、新聞に投書されて話題になった。多くの母親が投書者の困惑に共感を示した。八十近くまで生きた私は、それを聞いて心から驚愕してしまった。
 私の世代の者は、少なくとも物心つかない幼いうちに、人はもちろん、動物も鳥も殺してはならないと、誰からともなく教えられていたように思う。……(瀬戸内寂聴[2000]、この部分では断りがないなら同様)

 瀬戸内氏の如き力のある知識人ですら、この程度の「憂国」しかできないのだから哀しくなる。少なくともこのような瀬戸内氏の「憂国」エッセイレヴェルの議論が本当に論理として成立するためには、それは本当に瀬戸内氏の世代の特徴なのか、それとも瀬戸内氏の単なる思い込みなのか、ということにも検証が必要であろう。

 瀬戸内氏はまた、167ページにおいて、《青少年の自殺の増加も只ならぬものがある。彼等は、自分の命さえ軽んじているのである。自分を愛せない人間は他者を愛することも出来ない》と書いている。しかし自殺統計を見ればわかるとおり、我が国において人口10万人に対して最も自殺者が多いのは50歳代であり、青少年(未成年)の自殺は我が国において全世代と比較して低い。瀬戸内氏は、我が国でもっとも自殺している50歳代の人たちに、この文章の如き罵倒をすることが出来るのだろうか。ちなみに現在の50歳代は生涯を通じて自殺率の高かった世代であり、この世代が40歳代だったときは40歳代の自殺が急増している。瀬戸内氏の罵倒がいかに的はずれであるか、ということを証明しているだろう。

 ちなみに瀬戸内氏がらみで付け加えておくと、瀬戸内氏は日経新聞において「生少年の想像力が衰退したから、犯罪や自殺が増えた」ということを述べていたが、このことについては皇學館大学助教授の森真一氏が批判している。森氏は、瀬戸内氏の「想像力衰退説」に対し、《このような主張の裏には、「文字文化のほうが絵や映像の文化よりも高級である」という価値観、または信念が潜んでいると思われます。なぜなら、テレビや新聞で「衰退説」を唱えるのは作家や評論家、学者などのいわゆる知識人・文化人たちが圧倒的に多いからです。彼らは読書によって知識を獲得し、思考を鍛えてきた人たちです。その彼らが、テレビ・映画を観たりマンガを読んだりすることよりも、読書のほうに価値を置いても不思議ではありません》(森真一[2005])などと多方面から痛烈な批判を述べているので、参照されたし。

 ・乃南アサ氏(作家)「「なぜだと思う?」と問い返す」
 乃南氏がタイトルで掲げた如き理論もまた、大筋としては批判すべきものではないと思う。しかしやはりここでも乃南氏の若年層に対する認識の残酷さが見られる。

 乃南氏は171ページにおいて、《今の子どもたちは、特に外見の成長は早いから、ついこちらも一人前のような扱いをすることが多い。だが、その内面の成長といったら、呆れるほど遅滞している場合が珍しくない。情報の多様化、その量の豊富さと、大人が植えつけた「権利」についての強い意識によって、子どもは、言葉だけは巧みに弄するようになったし、見事なほどに物怖じしなくなったと思う。だが、そのことと精神的な成長とは別の問題であることを、大人自身が忘れている》(乃南アサ[2000]、この部分では断りがないなら同様)と書いているのだが、これはむしろ乃南氏が《内面の成長》をいかに捉えているか、ということの問題であろう。そもそも《呆れるほど遅滞している場合が珍しくない》といっているけれども、それがいかなる事象を指すのかがわからない。

 172ページにおける《想像力の欠如。生の実感の希薄化。事実、死ぬことなんて怖くないという子どもが増えているとも聞いた。長生きしようとも思わないし、未来が明るいとも思わない》という物言いもまた然り。そもそも《死ぬことなんて怖くない》《長生きしようとも思わないし、未来が明るいとも思わない》という子供が本当に増えているとしたら、それは《想像力の欠如。生の実感の希薄化》ではもはや済まされない大変な問題が起こっていると考えるべきかもしれない。そもそも我が国において、平成に入ってから一貫して自分の生活を「苦しい」と思う人の割合が増加傾向にある(厚生労働省の国民生活基礎調査より)。乃南氏の如く《想像力の欠如。生の実感の希薄化》という俗流若者論お得意のレトリックで茶を濁せば、間違いなく事態は悪化する。それでもいい、と乃南氏が考えるのであれば、乃南氏こそ《想像力の欠如。生の実感の希薄化》と罵倒されて叱るべきであろう。もっとも、この文章が書かれた時期は青少年と社会階層の問題についてまとまった本や研究がほとんど世に出回っていなかった(例えば、東京大学助教授の玄田有史氏の著書『仕事のなかの曖昧な不安』が刊行されたのは平成13年)から、一概に責めることは出来ないのかもしれないが。

 ・久田恵氏(作家)「問われてからではでは遅すぎる」
 どういうわけか作家が多いな。ついでに言うと久田氏のひとつ前に掲載されている精神科医の野田正彰氏の文章が意外とまともだったことを付け加えておく(野田氏の青少年に対する認識の支離滅裂さについてはこの連載の第32回第61回を参照されたし)。

 さて久田氏の文章に映るのだが、久田氏がこのように述べている時点でもはやアウトである。

 現代の子どもたちは、幼児期から個別に育てられ、喧嘩などで他者とまみれて心身を通して共感性を養う体験を持たずに育っている。学校では陰湿ないじめ関係を泳ぐようにしてわたり、思春期とに友と哲学を語って他者と共に思考を鍛える機会もない。

 毎日のようにバーチャルな世界でのゲームで「狩り」と称して登場するキャラクターを殺して遊び、死体ビデオなどを見てひそかに興奮しているような子どもも少なくない。この時期に至って慌ててなにかを大人が語っても、向こうなのだ。

 こういった子どもの精神生活に悪影響を及ぼすものだらけの中で、その環境に抵抗力を持ち、危険な思春期をサバイバルできるかどうかは、幼児期からどれほど豊かな対話が他者となされ、自尊の心がその子どもの内面にかっちりと形成されているか、もうその一点にかかっていると私は思う。(久田恵[2000]、この部分では断りがないなら同様)

 このように単なる自意識の発露でしかない俗流若者論を読んでいると、我が国においていかに自称「知識人」というのが現実を見極め、対峙する能力を失っているのか、ということを実感する。そもそもこのような奇麗事で社会が良くなるのであれば、誰だって苦労はしない。しかし昨今の状況と照らし合わせてみれば、このような「奇麗事」ばっかり論壇では溢れかえって統計やフィールドワークなどを中心としたリアルな論議が「奇麗事」乱発の中で霞んでしまうことによって、事態が改善されたか、と考えれば、決して改善されていない。しかしそれでも「奇麗事」を乱発できる人たちは、本当に恵まれた人たちなのだなあ、とつくづく思ってしまう。

 とりあえず本文の検証をしてみれば、特に久田氏の現代の青少年に対する認識の残酷さが現れているのが《毎日のようにバーチャルな世界でのゲームで「狩り」と称して登場するキャラクターを殺して遊び、死体ビデオなどを見てひそかに興奮しているような子どもも少なくない》《こういった子どもの精神生活に悪影響を及ぼすものだらけ》みたいなくだりであろう。しかし、こういったものがなかったはずの過去においては、例えば昭和40年代には青少年による凶悪犯罪の件数がピークを迎えている。ついでに言うと我が国において10歳代における殺人率よりも50歳代における殺人率のほうが若干多い。このような傾向は我が国独特である。久田氏はそこにも触れるべきであろう(評論家の岸田秀氏はこの点に触れていた。岸田氏は《日本では、殺人事件は欧米、とくにアメリカよりはるかに少ないとのことであるが、これは、日本人が心やさしいとかのためではなくて、人殺しに対する文化的ブレーキの違いによると思われる》(岸田秀[2000])と述べている)。

 ・藤原智美氏(作家)「また造ればいいじゃん!」
 真打登場である。藤原氏の文章は、もう全部が全部突っ込みどころといってもいいほど残酷かつ支離滅裂で、藤原氏が青少年問題について語ることは一切信用してはならぬ、といいたいくらいだ。ちなみに、藤原氏がタイトルに掲げたのは、藤原氏の答えではないのだが、これは後々触れていくこととする。

 とにかく藤原氏、一番最初にこのように語っているのだから。189ページ1段目から2段目にかけて。

 「なぜ人を殺してはいけないのか」と、面とむかって訊かれた人はむしろ幸運だと思う。そもそも「問い」を可能にする対話じたいが、ほとんど成り立っていないのが現実だからである。奇妙なことに、だれに訊かれたわけでもないのに私たちは、人を殺してはいけない「理由」を探しているのだ。それは子どもたちのもつ理解をこえた「命への感覚」に気づき、私たち自身がひどく不安になっているからにほかならない。たとえばこういう十代の「気分」が存在する。

 「いいじゃん、殺してみたくなったって。本人がつかまる覚悟でやるなら」

 この言葉をまえにしたとき、これまでの倫理、道徳観に根ざした殺してはいけない「理由」は無力だ。……私たちが、あるいはこの社会が「人の命は尊い」などと本当に信じているのかが問われているのだ。(藤原智美[2000]、以下、断りがないなら同様)

 これだけでも事実誤認なのである。そもそも《いいじゃん、殺してみたくなったって。本人がつかまる覚悟でやるなら》なる《十代の「気分」》なるものが本当に存在しているか、ということに関して疑問視されるべきなのは、昨今の殺人統計を見ても一目瞭然だろう。そもそもこの文章、そして藤原氏の青少年問題に関する記述は、そのほとんどが懐古主義という名の自意識の塊、あるいは青少年に対するステレオタイプの蒸し返しがほとんどである。それにしても藤原氏、《私たちが、あるいはこの社会が「人の命は尊い」などと本当に信じているのかが問われているのだ》としたり顔で言うけれども、そのようなことは昨今のマスコミや青少年「問題」に蠢動する政治家や自称「知識人」の醜態を見てから言うべきことだろう。少なくともこれらの人たちは、少年による凶悪犯罪を俗流若者論を垂れ流す好機、あるいは自分の政策の正当性を主張する好機としか捉えていない。このような人たちにこそ藤原氏は問いかけるべきであろう。

 藤原氏の論理はまだ暴走する。前の引用文の直後ではこのようにも述べている。

 いうまでもなく命を奪うのが殺人である。その「尊い」命はどのようにして生まれるのか。男と女の愛によってか?かもしれない。そう信じている人々にとっては、まさに命はそのように誕生するだろう。だが、こんにち命の誕生は遺伝子操作の技術、生殖技術を抜きに語られなくなっている。「尊い」命の誕生は神秘でも感動でもなく「技術」によって支えられている。生殖は愛の分野ではなく医療産業とその技術の側に移管されたのだ。

 もしかすると「かけがえのない」と信じられている命、「地球より思い」などと形容される命が一個につき○○万円でコピーされなおかつ保存される。そういう状況をむかえるかもしれない(私はそうなると革新しているが)。……簡単に作ることが出来るものは、簡単に壊すことも出来る。「殺されても同じものを造ればいいじゃん!」というセリフがきかれるのもそう遠い将来ではない気がする。

 これもまた事実誤認と歪曲に満ちた文章である。例えば藤原氏は昨今の生殖技術の発展に関して《こんにち命の誕生は遺伝子操作の技術、生殖技術を抜きに語られなくなっている》《生殖は愛の分野ではなく医療産業とその技術の側に移管されたのだ》と書いているけれども、それは事実誤認で、現実には多くの子供たちが男女の性行為(=自然受精)によって生まれている、というのは今でも変わらない。昨今行なわれている生殖技術は、例えば子供を産むことのできない体を持ちながらも子供を産みたい、という人(不妊治療)などに対して行なわれているくらいで、本格的な精子ビジネスなどが成立している状況ではない。無論そのようなことが将来的に起こる可能性が全くないとは言い切れないけれども、少なくとも現在では起こっていない。この文章が書かれた5年弱後に当たる現在でも然りである。そもそも藤原氏は出産に関する社会的な状況を無視しており、女性が陣痛などを経験しないで遺伝子操作で体外で胎児を、自然出産により生まれた胎児と同様に周囲の環境に耐えうるほどに成長できるようになるには、気の遠くなるほど時間がかかるだろう。さらに胚の状態から即時にある年齢の状態に達成させるのは生物学的に不可能だし、言語や社会性についても一瞬で身につくものではない。故に《「かけがえのない」と信じられている命、「地球より思い」などと形容される命が一個につき○○万円でコピーされなおかつ保存される》という状況が生まれたとしても《「殺されても同じものを造ればいいじゃん!」というセリフがきかれる》というのは完全に誤りである。藤原氏のアナロジーは安易な科学信仰の単なる裏返しでしかない過剰な科学敵視でしかない。

 藤原氏は先ほどの引用文の次に、以下のようにも述べている。曰く、

 第二次大戦中のアメリカ軍兵士の発砲率はわずか二割だったという。戦闘中、八割の兵士が引き金を引かなかった。人を殺せなかったのだ。が、ベトナム戦争での発砲率は九割に上昇する。シミュレーション技法を取り入れた訓練の成果である。ピンポイント爆撃の現代、それはモニター上の仮想戦の様相を呈して、発砲率という言葉がもはや意味を成さないほど無自覚に殺せるようになった。それは軍隊という特殊な分野だけにとどまらない。ゲームセンターや家庭用ゲーム機器ではその擬似的感覚であふれ返っている。殺人への衝動をゲームによって解消させるということはあるだろう。けれど群の訓練実態を見れば、反対に殺人へのアレルギーをなくすという可能性も否定しきれない。いまの十代はそんな危うい環境の中にいる。

 そもそも発砲率に関するデータの出所はどこだ。出所な不明瞭なデータは最初から疑われて叱るべきであるし、また藤原氏はヴェトナム戦争になって発砲率が上昇した理由を即座に《シミュレーション技法を取り入れた訓練の成果》と答えているけれども、例えば戦争に対する軍人のモチベーションとか、あるいは政府や軍の上層部による圧力とか(かの有名な「アイヒマン実験」の例を引くまでもないだろう)への想像力は働かなかったのか?しかも《それは軍隊という特殊な分野だけにとどまらない》いこうのレトリックは支離滅裂もいいところだ。そもそも藤原氏は《ゲームセンターや家庭用ゲーム機器ではその擬似的感覚であふれ返っている》と書いているけれども、そのようなものがなかったはずの時代のほうが青少年による凶悪犯罪は多かった。藤原氏はそれをどうやって説明してくれるのだろうか。前掲の岸田秀氏が述べている通り、殺人とは極めて文化的な状況に左右される。もし我が国において青少年が人を殺さなくなっており、逆に中高年が人を多く殺すようになっている、という状況があるとすれば(実際にある状況であるのだが)、そのような状況を生み出した「原因」に対する想像力こそ問われるべきだ。藤原氏の文章は、現代の青少年どころか社会に対する偏狭な認識の塊でしかなく、この文章は藤原氏の力量のなさを如実に表しているのである。

 問題の大きかったのはこの4つであり、他にも問題のあるものはいくつかあるのだが、検証は控えておこう。もちろんこの特集が俗流若者論ばかりで凝り固まっていたわけではなく、今日と造形芸術大学大学院長(当時)の山折哲雄氏、作家の重松清氏、ノンフィクション作家の髙山文彦氏の文章は特に読み応えがある。しかし裏を返せば、この深刻な問いかけに、「知識人」が多く集まるはずの「文藝春秋」に14人も執筆して、読むに堪えうるのが先の山折氏、重松氏、髙山氏と、あと岸田秀氏と作家の野坂昭如氏くらいしかないことは深刻な問題ではないだろうか。他の執筆者は、多かれ少なかれ俗流若者論を含んでいる。しかし人生観・自然観・文明観の根本に関わるこの問題に対して知恵を絞って答えられる人が少ないことに、私たちはもっと危機感を持っていいと思う。

 私は、ジャーナリストの櫻井よしこ氏の著書『日本の危機』に引かれている、国語作文研究所所長(当時)の宮川俊彦氏の異見に全面的に賛同する(とはいえ、この宮川氏の発言が引かれている櫻井氏の著書の第10章のこれ以外の部分に、私は全面的に賛同できないのだが)。

 「作文教室をやってますと子供たちからハッとする問いかけをされます。“人を殺してもいいじゃない”“したい事をしてなんでいけないの”という問いかけに、大人はどう答えていくか」

 宮川氏が語る。

 「こういう問いかけをする事はとても大切です。客観しできる人間はすぐには行動に移りませんから。

 子供たちは深い部分で秩序を求めている。哲学を求めていると僕は感じます。対する社会が単にこれはいけないことだというだけでは押さえきれないと感じます。

 子供たちに性の実感、展望をもって生きていく指針、自分が自分であってよいのだという安心感を与えることが出来るか否かだと思います」

 日本の母親は、そして家庭は、子供たちにその前向きの生の実感を抱かせることが出来るか。

 「現代の母親は論理や知識を見につけていても、子供の教育には失敗しています」
 と宮川氏。(櫻井よしこ[2000])

 このようにポジティブに考える人が、どうして我が国には少ないのだろう。我が国は青少年に関するネガティブな情報ばかり溢れ、それらが家庭を、社会を、学校を圧迫している。そして我が国の自称「知識人」は自らの役割を誤認し、ただひたすら「憂国」言説を繰り返してこれらの情報の主たる受け手である人たちの自意識を満たすことしか考えていない。このような状況下において、世の中を変えてくれるような先駆的な言論など生まれるはずもない。

 このような言論の貧困は、執筆者と編集者と読者の共犯関係において起こる。執筆者の認識が貧困であり、態度が甘ければその程度の言論しか算出されないし、編集者にそのおかしさを見破る能力がなければその程度の言論が平気で流通し、読者がその偏向性に気づかずに踊らされてばかりでは執筆者や編集者を助長させることにしかならない。我が国における自称「知識人」の貧困ぶりは俗流若者論にこそ現れる。我々は言論の「死」としての俗流若者論を真剣に見つめるべきかもしれない。

 人々は、疑うことを捨てて、俗流若者論に走るのだろう。

 参考文献・資料
 岸田秀[2000]
 岸田秀「仲間を殺す動物は人間だけ」=「文藝春秋」2000年11月号/「文藝春秋」2000年11月号特集「「なぜ人を殺してはいけないのか」と子供に聞かれたら」、文藝春秋
 櫻井よしこ[2000]
 櫻井よしこ『日本の危機』新潮文庫、2000年4月
 瀬戸内寂聴[2000]
 瀬戸内寂聴「仏教第一の戒律「不殺生戒」」=「文藝春秋」2000年11月号/「文藝春秋」2000年11月号特集「「なぜ人を殺してはいけないのか」と子供に聞かれたら」、文藝春秋
 乃南アサ[2000]
 乃南アサ「「なぜだと思う?」と問い返す」=「文藝春秋」2000年11月号/「文藝春秋」2000年11月号特集「「なぜ人を殺してはいけないのか」と子供に聞かれたら」、文藝春秋
 久田恵[2000]
 久田恵「問われてからではでは遅すぎる」=「文藝春秋」2000年11月号/「文藝春秋」2000年11月号特集「「なぜ人を殺してはいけないのか」と子供に聞かれたら」、文藝春秋
 藤原智美[2000]
 藤原智美「また造ればいいじゃん!」=「文藝春秋」2000年11月号/「文藝春秋」2000年11月号特集「「なぜ人を殺してはいけないのか」と子供に聞かれたら」、文藝春秋
 森真一[2005]
 森真一『日本はなぜ諍いの多い国になったのか』中公新書ラクレ、2005年7月

 B・R・アンベードカル、山際素男:訳『ブッダとそのダンマ』光文社新書、2004年8月
 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 杉田敦『権力』岩波書店、2000年6月
 エミール・デュルケーム、宮島喬:訳『自殺論』中公文庫、1985年6月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』岩波文庫、上下巻、1987年2月

 植木不等式「♪これぞ真のクローンだ節――ラエル『クローン人間にYes!』」=と学会『トンデモ本の世界T』太田出版、2004年6月
 加藤尚武「日本クローン法は欠陥品である」=「中央公論」2003年3月号、中央公論新社
 長谷川真理子、長谷川寿一「戦後日本の殺人動向」=「科学」2000年6月号、岩波書店
 根津八紘「不妊治療のためなら推進すべきだ」=「中央公論」2003年3月号、中央公論新社

 参考リンク
 「kitanoのアレ」から「小泉内閣の実現力(3):国民生活4年連続悪化の実績
 「少年犯罪データベースドア」から「養老孟司先生世代の脳は狂っている
 「自殺死亡統計の概況 人口動態統計特殊報告」(厚生労働省)

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2005年8月27日 (土)

俗流若者論ケースファイル67・中村和彦&瀧井宏臣

 岩波書店から発行されている月刊誌「世界」では、平成15年の一時期に、ライターの瀧井宏臣氏が「こどもたちのライフハザード」なる連載を平成15年11月号まで行なっていた。その内容は、これが本当に「世界」に載っていたものなのか、というくらいで、その反動性は文芸評論家の斎藤美奈子氏にも《岩波書店の『世界』は「進歩的」な雑誌ということになっているのだろうけれど、こと子どもや家庭の問題となると、驚くほど「保守的」になるのがおもしろい》(斎藤美奈子[2004])と突っ込まれているくらいである。この連載は平成16年1月に書籍としてまとめられて岩波書店から発行されており、そこに収録されている分の内容についてはそちらを検証するときに触れることにしよう。今回検証するのは、書籍版には掲載されていないこの連載の最終回となる瀧井氏と筑波大学教授の中村和彦氏の対談「育ちを奪われたこどもたち」である。蛇足だが中村氏は発達運動学専攻である。日本大学文理学部教授の森昭雄氏や、前回採り上げた日本体育大学名誉教授の正木健雄氏もそうだったけれども、つくづくメディア御用達の体育学系統の学者はこんなにも疑似科学に親和的な人が多いのだろうか。私が高校時代までに出会った、「恩師」と呼びたい教師の中に、体育教師が多いので、複雑な気分である。

 この対談は瀧井氏の連載(この連載自体が疑似科学や論理飛躍、懐古主義のオンパレードなのだが。森昭雄氏や澤口俊之氏も当然出てくる!)を瀧井氏がたびたび意見を求めてきた中村氏に報告する形になっているのだが、瀧井氏も中村氏も、子育てや子供の身体についてある種の(残酷な)「幻想」を共有し、そのような態度に少しも疑問を示さない、あるいは彼らが勝手に最近の青少年「だけ」異常になった、と決め付けているので、はっきり言ってここでも論理飛躍や疑似科学や懐古主義のオンパレードが繰り広げられる。

 まず、瀧井氏がかなり最初のほう(209ページ)で発言している内容に、私は笑ってしまった。瀧井氏が「こどもたちのライフハザード」なる連載を始めたきっかけというのは、《自分のこどもが重度のアトピーだったという非常に個人的な理由》(中村和彦、瀧井宏臣[2003]、以下、断りがないなら同様)だったというのである。まあそれだけなら問題がないのであるが、瀧井氏はそれに続いて《唯一の父親として公園デビューして地域のこどもたちに接してみると、アトピーの子が驚くほど多かっただけでなく、無表情だったり、ボーっとして不活発だったり、キレたり落ち着かなかったりする子が見られました。私自身のこどものイメージと全くかけ離れていたことに大変驚いたのです》と発言している。私はこれを読んで瀧井氏は正気の沙汰なのだろうか、と心配になった。《私自身のこどものイメージと全くかけ離れていたことに大変驚いた》からといって、今の子供たちを「異常」と決め付けていい理由はどこにもないのである。

 それにしても瀧井氏と中村氏が共に現在の子供と親を過剰に蔑視し、彼ら自身の世代と親を過剰に擁護しているのが痛いところだ。例えば中村氏は《酒鬼薔薇事件や黒磯ナイフ事件などがあって、文部省(当時)が危機感を募らせていた1998(平成10)年6月30日の中教審の答申では、地域や家庭での遊びの重要性を訴えているのですが、あくまで言葉だけで、どのような処方箋を施すかには至っていない》と発言しているのだが、このような俗流若者論に心酔する人たちは決まって《酒鬼薔薇事件や黒磯ナイフ事件》などといった最近マスコミで報じられた「衝撃的な」事件をもって今の子供たちは異常だとするけれども、例えば過去に起こっていた「杉並切り裂きジャック」みたいな異常犯罪はことごとく無視するし、そもそも少年による凶悪犯罪が昭和45年ごろから一貫して極めて低い水準で推移していることにも触れようとしない。しかも中村氏は《どのような処方箋を施すかには至っていない》といっているようだが、それは中村氏だって然りだろう。中村氏は《遊び》を復活させよ、といっているけれども、それをどのような手段でもって行えばいいのかということを中村氏は少なくともこの対談では一度も提示していない。

 あまつさえ中村氏と瀧井氏が思い込みだけで語っているようなくだりを見つけた。212ページ。

 中村 親の側に危機感がなさ過ぎます。自分が深夜番組を見るのに子どもをひきずりこんでいる。(筆者注:この文章では一貫して子供を《こども》と表現しているのに、この部分だけなぜか《子ども》となっているのはなぜだろう)。大きな社会環境の変化との関係で見ると、24時間営業のファミレスやコンビニに、夜中に赤ちゃんを抱き幼稚園くらいの子の手を引いてやってくる親がたくさんいます。便利だと渇仰がいいとか言われていた文化が、逆に私たちの生活を崩壊させ、生活パターンの乱れが生体リズムを崩しています。

 瀧井 私がこどもの時代には、親の生活とこどもの生活を峻別して、「早く寝なさい」「テレビを消しなさい」というような、こどもを尊重する文化があったと思います。それがどうしてこんなに壊れてしまったのでしょうか。

 中村 勉強して成績が上がればゲームを買ってあげるとか、試験が終わったから今日は遅くまでテレビを見てもいいよというように、大人の「知的学力」への偏向がこどもの生活を乱しています。……

 突っ込みどころ満載で、どこから突っ込んでいいのか困るのだが。とりあえず、中村氏も瀧井氏も今の子供たちを「異常」と決め付けて悦に入っていることは触れておこう。突っ込む順番がわからないので文章の最初から順番に検証することとする。中村氏は《自分が深夜番組を見るのに子どもをひきずりこんでいる》といっているけれども、これは明らかな「決めつけ」であろう。またこの直後の《夜中に赤ちゃんを抱き余地円くらいの子の手を引いてやってくる親がたくさんいます》という発言にも、具体的な数値データが出ていないし、親の職種や社会階層などにも触れられていない。おまけに中村氏がどこで「観測」を行なったのかも触れていない。都市部なのか?郊外なのか?農村部なのか?中村氏がこれが科学的に実証されたデータと言い張るのであれば、そこまで開示しなければ習いのだが。瀧井氏も同様。《親の生活とこどもの生活を峻別して、「早く寝なさい」「テレビを消しなさい」というような、こどもを尊重する文化があったと思います》と発言しているけれども、なぜこれらが《こどもを尊重する文化》と瀧井氏が考えているのかがわからない。中村氏の発言に移るけれども、中村氏は更に《大人の「知的学力」への偏向がこどもの生活を乱しています》と発言するけれども、それ以前の発言の内容がなぜ《大人の「知的学力」への偏向》へとつながるのか、私には皆目わからないのだが。おそらく私の不勉強・無学のせいだろう。

 同じ212ページで、瀧井氏は《睡眠について警鐘を鳴らす数少ない研究者のひとりが東京医科歯科大学の神山潤先生です。「これはもう人体実験だ」とかなり激しい言葉で警告していらっしゃいます》と発言している。また来たか、《人体実験》。この手の人たちはなぜこのような残酷な言葉を使うのか。これでは大人たちが「ある悪意」を持って子供たちを「異常」にさせているかのごときイメージを抱かせてしまうのではないか。これは陰謀論ではないのか?いい加減この手の学者は《人体実験》なる言葉を安易に使うのをやめたらどうか?警鐘を鳴らしたい気持ちは分かるが、もっと適切な言葉を見つけるべきだろう。ついでに言うと「人体実験」という言葉は自分の世代を免責するための言葉でもある。

 213ページでは中村氏、《テレビゲームは自分で考えているように見えるが、あくまでも仕組まれたプログラムの範囲内であり、結果的にはコミュニケーションに至っていない》と発言している。これを額面どおり受け取れば、ある程度のルールが存在した盤上のゲームやカードゲーム(将棋や双六や麻雀やトランプなど)ですら許されないことになる。これらのゲームもまた《あくまでも仕組まれたプログラムの範囲内》で行っているものに過ぎないからである。中村氏がここまで強弁するのであれば、普通のカードゲームとテレビゲームにおけるパズルゲームの、思考に関する違いを説明していただきたいのであるが。

 214ページにおける瀧井氏の発言にも大いに疑問を持つ。

 瀧井 乳幼児に母親とかかわり、兄弟や友だちと遊び、その後大人社会にかかわることによってこどもは発達するというのが「サル学」の常識であり、ヒトでも当たり前だったわけですが、それがいつのまにか忘れ去られ、軽視されている。乳幼児期から始まる人間関係の学習不足が、学童期以降、思春期のさまざまな問題行動――キレる、いじめ、ひきこもりなどといった異変の引き金になっているのではないかという疑いを、今回の取材で強く持ったわけです。

 このような発言を見る限り、「世界」もまた澤口俊之や正高信男といった疑似科学者に接近してしまうのか、と嘆きたくなる。少なくともここで瀧井氏が言っていることは、澤口氏が「諸君!」平成13年8月号の論文で、ヒトは大昔から大脳を発達させるための子育てを戦略として行なっていた、それが昨今の社会状況によって崩壊してしまった、という擬似社会生物学と全く等しいのである!しかも瀧井氏ときたら、《思春期のさまざまな問題行動――キレる、いじめ、ひきこもりなど》などと軽々しく語る。もう何度も言ってきたのではっきり言おう。《キレる》はもはや「政治」の言葉だ。「ひきこもり」は昭和55年ごろから存在した。ついでに言うとその前兆といわれている「退却神経症」や「スチューデント・アパシー」などの《問題行動》は更に前、昭和45年ごろから存在していた。いじめに関しても現在に名って急激に問題化したという事実はない。

 しかも瀧井氏と中村氏が互いに矛盾したことを言っているのになぜか同意している部分もある。214ページ。

 瀧井 自分でも子育てをしていて、非常に苦しいのです。最初は親としての力量が低いからだと思ったのですが、それだけではなく、こどもを育てるゆりかごが消失し、いつも親子が一対一でこどもと向き合わざるを得ないからではないのか。そのけっか、こどもをしばり、かつこどもにしばられています。実際に子育てをしてみて、教育評論家の尾木直樹さんが言われた「母子カプセル」の意味がわかったのです。

 中村 ゆりかごがなくなって、虫かごになった。虫かごはいつも覗けるわけです。中の虫は、どうやって気に入られるかにばかり気を使って、かごの外の世界に出られない。それがいまのこどもたちです。

 瀧井氏よ反問せよ!瀧井氏の言っていることは大筋で正しいのだが、中村氏ときたら《虫かご》なるアナロジーを用いて《どうやって気に入られるかにばかり気を使って、かごの外の世界に出られない。それがいまのこどもたちです》などと言い放っているけれども、瀧井氏の言い方が正しいのであれば《虫かご》に入っているのは親子共々ではないか?しかも中村氏が、《それがいまのこどもたちです》などといっている部分を読んでいると、中村氏の現代の子供たちに対する残酷な考え方が見て取れる。

 だから中村氏が215ページにおいて、瀧井氏の《ひきこもりという現象は、失敗の一つの例として捉えた方がいいのでしょうか》という質問に対して《その時点の現象としてみれば、失敗でしょう。けれど、ひきこもっていた子が、ひきこもらないような気持ちになれるとか、少しずつ心を開いていくところに本当の人間関係が生まれてくると思います》と答えていてももはや驚かない。このような思考もまた、中村氏が「ひきこもり」を現代の青少年に特有な病理的な現象と考えているからだろう。少しは「ひきこもり」に関する研究、特に精神科医の斎藤環氏の議論や研究でも参照してみろ、と愚痴をこぼしたくなる。しかも中村氏が金科玉条の如く掲げる《本当の人間関係》というけれども、それはなんなのか?このような言葉は、石原慎太郎氏や石堂淑朗氏が平気で振りかざす「本質」という言葉と響きも意味もまた大変似通っている。「世界」は俗流若者論なら急速に保守化化してもいいのだろう。

 あまつさえ中村氏ときたら、最後のほう(218ページ)でも《大人に危機感を持ってもらうことが大切です。たぶん育児雑誌も「きれいごと」ばかりでしょう。逆に「いまのこどもたちはこんなに追い込まれた生活をしていて、このままではあなたのお子さんにはこんなところにこういう影響が出ますよ」と危機感を煽らない限り、なかなか親は問題を直視しにくい》とまで発言してしまっている。私はもう絶望している。所詮中村氏は「この程度」だったのか、ということを(いや、大体予想はしていたが)。中村氏は、いかに我が国において青少年問題視言説ばかり売れるか、ということをもっと直視すべきではないか。中村氏はその状況に屋上屋を架することしか考えていないようだが、これだけ青少年問題視言説ばかり溢れているのに一行に状況が改善されない、というのであれば、まずやり方を変えるべきだろう。「もっと青少年危機扇動言説を!」では、もっと親たちを追いつめるだけだ。それどころか我が国にはびこっている子育て言説(中村氏はこれらも《きれいごと》として扱うのだろう)の大半が、マスコミが興味本位で採り上げる青少年問題を貴店としているのであるが。中村氏のかくのごとき態度を見ていると、故・山本七平氏のフィリピン戦論を想起してしまう。

 ちなみに山本氏は、大東亜戦争時の日本軍がフィリピンに兵を送る際、上層部が大量の兵を送ることばかり専念し、終いには老朽化した船に3000人もの兵士を詰め込んでフィリピンに送ったと述べているが、そのような船は当然の如くバシー海峡で簡単に落とされてしまう。しかも撃沈するまで15秒であるから、かのアウシュヴィッツをも上回る(!)殺戮システムが登場してしまうのである。この状況を、山本氏は以下のように述べている。

 ……バシー海峡ですべての船舶を喪失し、何十万という兵員を海底に沈め終ったとき、軍の首脳はやはり言ったであろう、「やるだけのことはやった」と。
 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探究し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方項に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するために投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして事故を正当化しているということだけであろう。(山本七平[2004])

 そして中村氏が瀧井氏が青少年問題視言説を散々振りまいても一向に状況が改善されずに、ネタが尽きてしまったら、瀧井氏や中村氏も「やるだけのことはやった」と言うのだろう。

 そして218ページ、最後の発言。

 中村 ……大学生の生活を調査したことがあるのですが、朝から一日中ひとこともしゃべらない人もいます。約800人を対象に無記名のアンケート調査をしたところ、5%、40人の学生がそうでした。食事も昼と夜は絶対に友だちと食べない。クラブ活動やサークルは一切やらない。そういう人たちは、かかわりたくないから、アルバイトもしないのです。講義が終わるとビデオ屋でビデオを借り、「ほか弁」を買って帰る。コンパも成り立たないのです。新歓コンパも合コンもなし。大学祭も出典以外は成り立たない。大学祭=休みの日(笑)。

 瀧井 卒業しても、社会生活を遅れるんでしょうかね。

 中村 まともに子育てなんかできないでしょうね。知的なマニュアルに頼っていけるところだけで生きているから、生活体験が無きに等しい。本当の意味のかかわりを知らず、自分で何かを考えたり工夫したり、総合的にものを考えたりといったこともできないのです。まさにライフハザードです。

 瀧井 ゾッとするような話です。乳幼児の次は、大学生のライフハザードを取材しなければなりませんね。今日は、どうもありがとうございました。

 私は、瀧井氏が《大学生のライフハザード》を取材する前に、まず中村氏と瀧井氏のモラルハザードについて反省すべきだと本気で考える。なぜならこの最後のやり取りは、単なる「酒場の愚痴」、更に言えば彼らが思い込みでしか青少年問題を捉えていないことを如実に示しているのだから。

 これでいいのだろうか。

 中村氏も瀧井氏も、はっきり言って子供たちをヴァーチャル・リアリティーでしか捉えていない。ここで言うところの「ヴァーチャル・リアリティー」とは、彼らが好んで用いる子供たちに対するステレオタイプであり、あるいはこの文章の中で飽きるほど出てきている《本当の意味のかかわり》だとか《本質》みたいな幻想である。瀧井氏も中村氏も、彼らは自分が青少年に対して真剣に向き合っていると考えているのかもしれないが、本当はまんざらでもないのではないか。要するに、瀧井氏も中村氏も、自分の世代と自分の親と自分の子供はみんな正しいが、今の親と子供はみんな異常である、という残酷な認識で共通しているのではないか。だからこのような疑似科学や論理飛躍や我田引水や懐古主義も平然と語れるのではないか。このような人たちが、どうして青少年問題に関して真剣に言えるといえるのだろうか?

 さて、私が、この対談のみならず、瀧井氏の連載全体を俯瞰して感じたのは、瀧井氏が極めて残酷な「自己責任論」に依拠しているということだ。ここで言うところの「自己責任論」とは、いうなれば親に対する「自己責任論」で、子供が(実際はマスコミが過剰に問題化している)ある問題を起こせば、それは全て親のせいだ、という議論である。

 今、青少年言説の大半が「自己責任論」化している。要するに、子供がこれこれの問題を起こすようになったのはこのような子育てを行なったからだ、という言説である。最近では、滝意思にも見られるとおり、この「自己責任論」に疑似科学が混入され、更にこのような議論は勢いを増している。しかし、このような言説は、子供たちは親子関係だけでなく、例えば学校や友達の関係でも成長していく。更に言えば子供たちは家庭の経済的な影響の側面、更にはマスコミや情報雑誌などが喧伝するメディア的な側面にもまた影響される。それらを一切無視して、青少年が「問題」ばかり起こすようになったのは親が無能だからだ、という議論が勢いを増しているのである。このような議論は往々にして、やがては今の親はみんな無能だ、という差別につながる。瀧井氏と中村氏のやり取りはそれを如実に表している。

 中村氏や瀧井氏の振りかざしている《本当の意味でのかかわり》みたいな幻想は、はっきり言って例えば「ひきこもり」などのコミュニケーション不全からくる状態を改善することはできないだろう。何故なら、このような《本当の意味でのかかわり》を煽るような言説が、やがては人とコミュニケーションできるような人が偉い、いつも一人でいるような人は病的だ、ということにコンセンサスを与え、コミュニケーション能力に対する差別が起こるからである。一部の「ひきこもり」の人には、そのようなコミュニケーション能力差別に苦しんでいる人が存在する。

 青少年言説がことごとく「自己責任論」化すると、全ての親子は言説によって「監視」される状況になる。現在の俗流若者論/子育て論をめぐる状況にこそ、まさしく社会が子供を、親を、そして社会を「監視」したがる状況を見ることができる。平成17年8月25日付の産経新聞社説にも、子供が犯行に向かうシグナルを親や教師や地域社会は見逃すな、という論調が掲載されていた。ここで親や教師や地域社会に求められるのは、監視カメラとしての役割である。しかしそのような状況を巻かされている親や教師や地域社会が、空疎な言説ばかりを基盤にしており、例えば暴力や不満の捌け口を許すような環境を整えていなかったら、子供たちはどこにも行き場所を見つけられなくなり、鬱屈した不満を抱えたまま暴走する、あるいは自殺するだろう(これもまた極めて深刻な「ひきこもり」の人に見られる状況である)。そのような言説状況を考慮してこそ、地域社会の再生は行なわれるべきだ。青少年問題の安易な「解決」を起点にしては、青少年にとって息苦しい社会を再生産する以外の成果はない。

 果たして瀧井氏や中村氏に、そのような覚悟、それどころかそのような認識があるか!我々が撃つべきは、瀧井氏や中村氏の如く自分を理想化して今の親たちの「自己責任」を過剰に煽り立てる、俗流若者論である。

 参考文献・資料
 斎藤美奈子[2004]
 斎藤美奈子『物は言いよう』平凡社、2004年11月
 中村和彦、瀧井宏臣[2003]
 中村和彦、瀧井宏臣「育ちを奪われたこどもたち」=「世界」2003年11月号、岩波書店
 山本七平[2004]
 山本七平『日本はなぜ敗れるのか』角川Oneテーマ21、2004年3月

 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 斎藤環『「負けた」教の信者たち』中公新書ラクレ、2005年4月
 広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書、1999年4月
 森真一『日本はなぜ諍いの多い国になったのか』中公新書ラクレ、2005年7月

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2005年8月25日 (木)

俗流若者論ケースファイル66・小林ゆうこ

 それにしても、我が国には俗流若者論が得意とする、昨今になって急激に青少年による犯罪が凶悪化したとか、あるいは青少年における規範意識が弱くなった、とかいうレトリックを平気で引いていい気になる自称ジャーナリストやノンフィクション作家がこんなにも多いのだろうか。もちろん多くのジャーナリストやノンフィクション作家は良心的だけれども、たまに俗流若者論を言いふらしては世間に媚びて自分だけは安全だ、正常だと思いこんでいる「善良な」人たちの耳目を集めていい気になる人が出てくるのだから困る。最近になってこのような悪しき傾向に乗ってしまった人には、例えばノンフィクション界の古参である柳田邦男氏が上げられようが、柳田氏は自分の経験した、あるいはマスコミが興味本位で取り上げたがる「今時の若者」の行動に関して全てを携帯電話とインターネットなどのメディアのせいにしては論理飛躍・牽強付会・狼藉を加えていて、これが柳田氏の本なのか、と驚いてしまうほどのないようだったけれども、安易に俗流若者論に依拠したがるジャーナリストやノンフィクション作家は他にも結構いる。

 今回検証するのもそのような人の一人だ。書き手はノンフィクション作家の小林ゆうこ氏(声優の小林ゆう氏ではない)、記事は「「母子密着」男の子が危ない」(「新潮45」平成15年10月号に収録)である。また「新潮45」である。つくづく「新潮45」はこのような記事が好きだ。そしてこの記事は、具体的に言えば疑似科学系の俗流若者論の検証抜きのオンパレードである。

 そもそもこの記事、書き出しの118ページにおいてこのような文章が書かれているのだから救いようがない。

 少年犯罪が年々兇悪化して、「キレる17歳」が流行語になった。一歩間違えばわが子も犯罪の被害者か加害者になってしまうのではないか。その時に槍玉に上げられるのは母親と相場が決まっている…。(小林ゆうこ[2003]、以下、断りがないなら同様)

 それは誤解、あるいは事実誤認というものだ。犯罪白書を読めばわかるが少年による凶悪犯罪は年々減少しており、昨今になって青少年による凶悪犯罪が多発するようになったかのごとき錯覚が小林氏を含めて多くの人に共有されているのは、警察の方針転換ということもあろうが、基本的にはマスコミが少年による凶悪犯罪に対して「騒ぎすぎる」ようになったことが挙げられよう。そもそも小林氏、《「キレる17歳」が流行語になった》と安易に言っているけれども、昔の少年による凶悪犯罪を見れば、今だったら絶対「キレる」とか「逆ギレ」とか言われるような事件はたくさんあるし、このような「意味付け」は普通であれば殺人事件の中ではありふれた、例えば諍いが過ぎて相手を刺殺してしまった、というような犯罪を、わざわざ「キレる」「逆ギレ」みたいな言葉で装飾することで昨今の青少年に特有の犯罪として認識されるようになった、というのが正しい認識であろう。

 小林氏は、この文章の中で安易に疑似科学系の俗流若者論を濫用するのである。まず120ページ、《テレビにやられた子ども》という節において日本体育大学名誉教授の正木健雄氏の理論を紹介するのだが、正木氏の理論がもう噴飯ものだ。

 「72年は子どもの問題を考えるときのターニングポイントです。実はその年から死んで生まれてくる男の子の割合が急に増えたのです。当時はテレビの出荷高が頭打ちの横ばいになり、リモコン式のカラーテレビが出回ったので、原因は電磁波ではないかと考えています。72年に子どもたちの“手が不器用になる”調査結果が出て、74年に“目の悪い子”が増え、中学の不登校が減少から増加に転じました。75年から“背骨グニャ”“ボールが目に当たる”“背筋力が弱い”、78年“ちゃんと座っていられない”“朝からあくび”“朝礼でバタン”。すべて脳系統の問題ですね。85年からテレビゲームが流行すると、小学生の不登校が増加しました。子どもたちはテレビやゲームにやられたと、私は思っています。メディア環境によって体の調子が狂わされたのです」

 このような思考停止や論理飛躍、牽強付会に満ちた文章を読んでいると、《メディア環境によって》頭の《調子が狂わされた》のは、むしろ正木氏ではないかと思えてくる。まず正木氏はリモコン式のカラーテレビが普及してから男子の死産が増えた、といっているけれども、まずそれより過去のデータ、そして最近のデータも示すべきだろう。もし72年だけ急増して、その後は一貫して減少しているのであれば、正木氏の論理はそこで崩壊するし、また過去のデータを示さないのもアンフェアーである。更に言えば正木氏は電磁波によって死産が増えるというけれども、電磁波が原因というならばなぜ女子の死産が増えないのだ?また堕胎についても検証したのであろうか。更に言えば正木氏はこの頃から問題化した子供たちの体にかかわる問題(しかし正木氏は「この時期に増加した」といっているだけで現在はどうなっているか、ということは全く述べていない。正木氏は最初からテレビやゲームを敵視する目的でこのようなことを言っているのではないか、と疑われても仕方あるまい)を《すべて脳系統の問題です》といっているけれども、なぜそう言い切れるのか?このような脳還元主義には、むしろ思想的な批判が必要だろう。このような脳還元主義は、この連載で何度も示したとおり、「健全な心は健全な脳に宿る」みたいな錯覚を起こさせることによって、「今時の若者」の如き「異常な脳」を生み出した「原因」を排除しなければならない、という議論につながりかねない(というよりもつながっている)し、更に言えば彼らの言うところの「脳の異常」が所詮は彼らの私憤に過ぎないこと、またそのような疑似科学という補助を得て個人の私憤がそのまま国家による「対策」につながってしまうこと、もう一つ言えばそのような説明では少年による凶悪犯罪が減少していることなど、更にしつこく言えばそのような脳還元主義によって貧困とかあるいは怨恨などといった社会的な背景がことごとく隠蔽されてしまうことなど、問題は極めて多い。名誉教授ほどのポストについている正木氏であれば、そのようなことに対する想像力を働かせることはできるはずだが。それともテレビやゲームを敵視するためなら想像力など要らぬ、ということなのか?

 更に正木氏は大脳前頭葉未成熟というストーリーにも触れてしまう。この部分についても、具体的な数値データを正木氏は提示しようとしないし、小林氏もまたそれを求めるようなそぶりはしない。このような文章は、疑似科学とそれに疑いを持たないジャーナリストや編集者などの共犯関係によって生まれる。たとい疑似科学者だけいても、彼の妄想だけで社会に表出しないならば問題は生み出さないが、この手の疑似科学は最近になってニーズが高まっているので、自分こそが青少年問題の「本質」を知っているという曲学阿世の徒が続出してしまう可能性も否定できない、というよりも最近の我が国はそのような状況に陥っている。

 ここではかの曲学阿世の徒・北海道大学教授の澤口俊之氏も登場する(122ページ)。当然の如く小林氏が引くのは、《PQの障害》である。《PQ》の説明に関してはこの連載の第48回でやったのであまり詳しくは説明しないけれども、《PQ》とは「Prefrontal Quotient」すなわち「前頭前知性」の略称であり、これが障害を起こすと不登校にも家庭内暴力にもひきこもりにも「恥知らず」にもなるんだとさ(ちなみに最近《PQ》という言葉は「HQ(=Humanity Quotient;人間性指数)」という言葉に変容している。正高信男氏もそうだが、この手の疑似科学者の好きな言葉の一つに「人間性」がある)。この手の疑似科学者は、自分が不快に思う問題の全てを「脳」に還元させてしまうという態度にどうして疑いを持たないのだろうか。問題の全てを「脳」に押し付けるということは、すなわちレイシズムであって、あいつは俺たちとは違って脳が異常なんだ、だからあいつらは俺たちが不快に思う行動をとるんだ、という残酷なイメージの押し付けである。澤口氏は森昭雄氏と並んでそのパイオニアだ。要するに現代日本にはびこる俗流若者論と言う名のレイシズムを生み出した人として、澤口氏と森氏の名前を決して外すことはできまい。

 案の定、澤口氏は《それら困った若者たちに共通するのは母親に過保護に育てられたという点です。ことに母親が敏感、几帳面な性格である場合に、子どもは前頭連合野の知性PQの障害に陥る》と書いている。では澤口氏に訊きたいのだが、澤口氏は《それら困った若者たち》について、彼らが本当に《母親に過保護に育てられた》のか、ということを調査したのか?沢口氏の著書や論文などを読んでいる限り、そのようなデータは全く見当たらず、全て「「今時の若者」はみんな母子密着で育てられた」という澤口氏の思い込みで書いているような気がしてならないのである。蛇足だけれども、澤口氏は《ことに母親が敏感、几帳面な性格である場合》は危険である、としているけれども、そのような《敏感、几帳面な》母親たちを疑似科学によって煽っているのは果たして誰なのだろうか。本当は虚構である「少年犯罪の凶悪化」とか「キレる17歳」などといったイメージを垂れ流しているマスコミや自称「識者」であり、澤口氏もまさしくその中に入る。澤口氏は自分の言論に対する反省をいい加減したらどうか。

 そしてこのような疑似科学記事が往々にしてたどり着く結論が、父親の育児参加である。この文章の結論においても、以下のように書かれているのである。126ページ。

 社会が“母子密着”を防ぐシステムを持たなくては、不登校の子どもたちは100万人いるといわれる“ひきこもり”予備軍と化すかもしれない。いや、“母子密着”そのものが、すでに社会からひきこもっている状態にも見える。密着する母と娘が“一卵性母娘”と呼ばれ、通りを闊歩するのに比べ、母と息子の今日依存は家庭というカプセルで日々育まれる。父親の存在をありのままに望む時代を、私たちは初めて迎えている。

 はっきり言って私は、「母子密着の子育てをすると青少年問題が深刻化するぞ、子供がフリーターや「ひきこもり」や無業者になってしまうぞ、だから父親が子育てに参画しろ」という言説は、害悪しか生み出さないと思っている。このような言説は、子供たちを過度に政治化してしまうことによって、一人一人のリアルな現実を政治の下に取捨・希釈してしまう可能性を持つことのみならず、虚構にまみれた青少年言説に借りた垂れて、そのような青少年問題の「防止」のために父親が始めて子育てに参画する、という状況に私は不気味さ以外のなにものも覚えない。いまだ20歳、子供を持っていないどころか妻も持っていない、更には実家暮らしである私が言えることではないのかもしれないが、やはり子育ては楽しいほうがいいのではないか。

 「中央公論」平成15年5月号は、「少子化日本――男の生き方入門」という特集を組んでいるが、この特集は少子化社会における新しい父親像を模索しよう、というポジティブな感情に支えられている。詳しくは特集を読んで欲しいのだが、やはり実感することは青少年「問題」をベースにした扇動言説は人々を不安に駆り立てるだけで何も生み出さないのに対し、子育てに対してポジティブに取り組むことはやはり楽しそうだ、ということだ。自分を母親と父親の両方の役割を持った新しい親として生きることを実践している作家の川端裕人氏の文章や、育児休暇中の父親による座談会には、どこにも青少年問題に対する不安扇動言説は出てこない。しかし、これこそが子育て言説のあるべき姿ではないだろうか。

 世の中に流通している扇情的な青少年言説は、青少年のみならず多くの親たち、教師たちもまたゲットーに追いつめようとしている。そのような言説の暴走を止めるのがマスコミや知識人の役割だと思うのだが、世の中は移ろいやすいもの、なのかどうかはわからないが、少なくない良心的な知識人の働きかけも俗流若者論市場の中では無視される。このような状況を少しでも変えたいと思う人こそが、やがては日本を変えるのだと思う。青少年問題を過剰に、興味本位で採り上げている内が華であろう。そのような思考停止を繰り返していると、それこそ我が国は滅びるのである。

 参考文献・資料
 小林ゆうこ[2003]
 小林ゆうこ「「母子密着」男の子が危ない」=「新潮45」2003年10月号、新潮社

 広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書、1999年4月
 宮崎哲弥、藤井誠二『少年の「罪と罰」論』春秋社、2001年5月
 吉川浩満、山本貴光『心脳問題』朝日出版社、2004年6月

 大津和夫、重石稔、平野哲郎「子どもの笑顔と過ごす豊かな時間」=「中央公論」2003年5月号、中央公論新社
 川端裕人「マーパーの誕生」=「中央公論」2003年5月号、中央公論新社

 参考リンク
 「少年犯罪データベース

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2005年8月23日 (火)

俗流若者論ケースファイル65・香山リカ

 精神科医の香山リカ氏は、平成14年の中ごろあたりから、若年層が右傾化している、と言う仮説を大々的に発表して大きな話題の人となっている。爾来、特に朝日新聞社の「AERA」などではたびたびお手軽なコメンテーターとして登場し、単純な「憂国」言説を振りまいている。もちろんここで言うところの「憂国」は、俗流保守論壇人お得意の「憂国」ではなく、むしろ俗流左派論壇人によく見られる「憂国」である。

 私が香山氏の議論においてどうしても理解できないのは、香山氏が若年層ばかり問題視していることだ。私はこの連載において、想像力の欠片もなく、ただひたすら詳細な現実や統計データ、及びフィールドワークやNPOなどの実践などの積み重ねをことごとく無視してきた「憂国」言説を散々批判してきたし、そのような言説は探せば数知れない。この連載も少なくとも第70回までは企画が入っているし、成人式をめぐる俗流若者論も私は10本以上持っているし、書庫にはまだ検証していない書籍もまた5冊ほどある。そのほか、私の如きネット左翼には手が届かないほどの綿密な批判を既に権威ある評論家などが行っているものもある。特に「正論」や「新潮45」を読んでいると、我が国の論壇、特に保守論壇がいかに若年層に対して思考を失っているか、ということが良く分かるし、ベストセラーのリストを見てもその傾向が仄見える。

 それなのに、香山氏は若年層ばかり危険視するのである。今回検証するのは、香山氏とオーストラリア国立大学教授のテッサ・モーリス=スズキによる対談「「ニッポン大好き」のゆくえ」(「論座」平成15年9月号に収録)である。モーリス=スズキ側には特に問題のある発言は見当たらないので、香山氏の発言のみを検証することにする。この対談では、香山氏の「若年層ばかり問題視する」傾向が如実に現れている(ついでに言うとこの対談が収録されている「論座」の特集「愛国心って何だろう」は全体としては良質。特に東京工業大学教授の橋爪大三郎氏や横浜国立大学教授の齋藤純一氏の文章は読み応えがある)。

 例えば香山氏は37ページにおいて次のように述べる。曰く、

 私が「ぷちナショナリズム」を実感したもう一つは、大学教師としての体験からです。……神戸は97年に「連続児童殺傷事件」があった場所で、学生たちとほとんど同世代の少年が犯人だったので、「あの事件をどう振り返るか」といったレポートを学生たちに書いてもらったんです。……

 ところが、レポートの九割以上は、……「そんな少年は死刑にするしかない」とか、あるいは「仮出所をして彼がまた神戸に戻ってくるから、もう怖くて神戸には住めない」とか「どっかへ言って欲しい」といった具合でした。……「もし自分が彼だったら」というふうにイマジネーションを働かせることができない若者たちが多いということに気がつきました。(香山リカ、テッサ・モーリス=スズキ[2003]、以下、断りがないなら同様)

 さて、ここで疑問の種になる最大の事象は、香山氏はそもそも何人にこのようなアンケートをとったのだろうか、ということだ。もし人数が数十人程度であるならば、《「もし自分が彼だったら」というふうにイマジネーションを働かせることができない若者たちが多い》と簡単に言い切ることはできまい。また香山氏は、犯罪をしでかした犯罪者の同世代の人たちは押し並べて「世代的な共感」をしなければならない、あるいは犯罪の言説に接する際には《もし自分が彼だったら》とイマジネーションを働かせなければならない、と考えている節があるが、なぜ層でなければいけないか、ということを香山氏は開示していない。もちろん犯罪者に対して簡単に「死刑にしろ」と言い放つことは私もあまり快くは思わないが、所詮は自ら勝手な解釈に過ぎぬ「世代的な共感」みたいなもので茶を濁すことは、本質的に(!)犯罪者と同世代はみんな危険な思想の持ち主である、という誤解を招きかねないし、もう少しうがった見方をすればたとい《自分が彼だったら》とイマジネーションを働かせたとしても「俺は壮大な犯罪をしでかしたから死刑になっても全く悔いはない!」みたく考えている人もいるかもしれない。さすがにそれはいないか。

 いずれにせよ香山氏が見落としているのは、これ以降良識も想像力もあるとされる高い年齢の人たちがデータを参照することを放棄して安易に「今時の若者」を「憂国」するような言説があふれ出したことであろう。なぜ香山氏はそれらの言説を見ようとしないのか?そもそもこの「酒鬼薔薇聖斗」事件の直後にもさまざまな自称「識者」による益体のない「憂国」が溢れかえった。

 もう一例引用しておこう。40ページ。

 いま、大学でメディアと人間の関係の授業をしているんです。で、映画がプロパガンダに使われる危険性がある例として、レニ・リーフェンシュタールの『意思の勝利』というナチの党大会の映画を見せたんです。そうしたら、反応の中で一番多かったのが「かっこいい」。あの映画は政治的な主張のために作られたというよりも、美しさという観点から作られた映画だから、それは映像的にはものすごくかっこいいし、きれいだというふうにだけ見ることもできる。

 でも、学生たちに「この後に六百万人のユダヤ人が殺された」と言葉で説明しても、「それはこの映画には出てこないから関係ない」と言う。その“割り切り”が大人のスマートな態度だと勘違いしている若者さえいます。……テッサさんも本の中に書かれていますが、いままでの知の体系の中で使われてきた専門用語とか説明は、彼らに対してはもはや使えないなという感じですね。……想像力が欠如しているからなのか、そうやってクールに振舞うのがトレンドなのかうよくわからないんですけど、彼らに対しては専門的、歴史的な説明が説得力を持たない。

 俗流若者論において、自らの矮小な体験を簡単に一般化して世の中を語った気になるのはもはや日常茶飯事であり、そのような態度に対する思想的な検証こそ行なわれるべきなのに香山氏はそれを行なおうとしない。そもそも香山氏はここでも若年層ばかり問題化しているけれども、彼らよりも高い年齢層の人はどうなのだろうか。少なくとも俗流若者論を検証していく限りでは、俗流若者論を言いふらす「善良な」人たちに専門的・歴史的な説明が説得力を持つとは到底思えない。これはあくまでも私の推測でしかないのだけれども、香山氏は同様の調査を高い年齢の人たちにやってみてはどうか。

 香山氏がナショナリズム関連の仕事においてやっていることは、全てがマスコミや言論において多く深く流通している俗流若者論における想像力やクリエイティビティの欠如を完全に棚において、若年層ばかり敵視しているということにまとめることができよう。香山氏が若年層ばかり問題化するのは、香山氏がこれまで精神科医として若年層のことやカルチュアを中心に取り扱ってきたことのアイデンティティを保つためなのか、それとも若年層に対する批判は売れるからあえて既存の言論の問題を取り扱わないからなのか。どちらにしろ、香山氏の若年層ばかり問題化して、既存の政治や言論の危険な動きを無視するのは、極めて恣意的な活動、といわざるを得ない。

 香山氏はナショナリズムなどに関する執筆を精力的に行なった理由として、「論座」編集部の取材に対して、サッカーのワールドカップにおける若年層の熱狂に違和感を持ったことを挙げている(朝日新聞社[2004])。もちろん世の中のさまざまな問題に関して疑問を持つことは否定しないが、香山氏はもう少し物事を大々的に採り上げるのに慎重になったほうがいいのではないか。最近の香山氏の文章はどうも全て上滑りの感じがしてならない。私の如き素人の眼から見ても、香山氏の「分析」は所詮は「今時の若者」の受けいかなるものについて考えているつもりの自分を理想化した議論に過ぎない。あるいは時流や左派論壇に迎合した当たり障りのない「解説」でしかない。最近の香山氏は評論家の宮崎哲弥氏などから社会科学や現代思想に関する無知に関して批判されているけれども、それも理の当然かもしれない。

 ついでに言うと香山氏の「ぷちナショナリズム症候群」という表現は、明らかに心理学主義的な傾向、要するに「症候群」みたいな心理学用語の濫用が見られる。

 参考文献・資料
 朝日新聞社[2004]
 「論座」編集部「ニッポンの論客:香山リカ」=「論座」2004年6月号、朝日新聞社
 香山リカ、テッサ・モーリス=スズキ[2003]
 香山リカ、テッサ・モーリズ=スズキ「「ニッポン大好き」のゆくえ」=「論座」2003年9月尾久、朝日新聞社

 姜尚中『ナショナリズム』岩波書店、2001年11月

 齋藤純一「愛国心「再定義」の可能性を探る」=「論座」2003年9月号、朝日新聞社
 酒井隆史「「世間」の膨張によって扇動されるパニック」=「論座」2005年9月号、朝日新聞社
 橋爪大三郎「愛国心の根拠は何か」=「論座」2003年9月号、朝日新聞社

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2005年8月22日 (月)

俗流若者論ケースファイル64・清川輝基

 今回検証するのは、NHK放送文化研究所専門委員の清川輝基氏による「“メディア漬け”と子どもの危機」(「世界」平成15年7月号に収録)である。この連載の中で何度か示したとおり、清川氏もまた森昭雄氏や澤口俊之氏や片岡直樹氏などと並び、青少年問題において疑似科学を安易に用いる人である。結論から言えば、清川氏のこの論文も、疑似科学の検証抜きの濫用と安易な懐古主義に満ち満ちた文章であった。ちなみに清川氏は出だしのほうの206ページにおいて《この40年間、日本という国は、子どもたちにとってきわめて残酷な環境の変化をさせてしまった》(清川輝基[2003]、以下、断りがないなら同様)と書き、この文章の入っている段落の次の段落において清川氏は《60年代以降の40年間に日本の大人たちのやってきたことの結果が、現在の「人体実験」状態をつくり出し、それがいま明確に子どもの心とからだにあらわれている》と書いている。清川氏を含め、疑似科学系の自称「識者」は《人体実験》という言葉が好きだ。このような言葉は最初から彼らが現在の青少年に関して偏狭な認識しか持っていないことの証左なのだと思うがどうか。

 この以降に並べられる疑似科学のオンパレードの前に、いきなり私が噴き出してしまった部分がある。207ページ上段。

 NHKが1941年に実施した調査では、当時国民学校五~六年生の男子の一日の生活時間の中で「外遊び」の時間が一時間四六分、「癒えの手伝い」の時間が一時間二一分あった。「外遊び」は、子ども集団のなかにある、子ども自身の文化である。それはたとえば、缶蹴りや鬼ごっこやかくれんぼという集団の遊びが、緊張と弛緩の繰り返しによって心臓や肺、筋肉の機能をきわめて安全に有効に高めるように、子どもの文化は、文字通り豊かな子どもの心とからだを育てる時間でもあった。

 1941年とは、大東亜戦争の最中ではないか。しかも現在から見てかなり昔の話だ。そのような極端な時点の統計を持ち出して一体どうなるというのか。しかもこの文章を字面そのままで捉えるのであれば、清川氏は戦前に戻るべきだ、戦前はもっと子供が人間らしく生きていた、とでも主張することになる。「世界」の岡本厚編集長は疑問を持たなかったのだろうか。あるいはこのような主張であっても疑似科学系の俗流若者論なら許していい、という規定でもあるのだろうか。しかもこの文章においては、頻繁に《子どもの心とからだ》という表現が出てくるけれども、清川氏はこの言葉を明らかにイデオロギーとして用いている。すなわち、過去の《子どもの心とからだ》はいたって健全だが、今の《子どもの心とからだ》は病んでいる、それは《メディア漬け》が原因であって、直ちにその状況を「撲滅」しなければならない、というイデオロギーに、清川氏は染まっているのである。そのような態度を疑うことを捨てて清川氏は現在の青少年に対する偏見を振りまいているのである、しかも月刊誌の中ではもっとも「左寄り」とされている「世界」で。まあ、俗流若者論においては右も左も大同団結してしまうから、ある意味ではこのようなことが生まれるのも「正常」なのだが。悲しい話だ。

 少し筆が滑ってしまった。本題に戻ろう。さて清川氏は、208ページにおいて以下の通り述べる。曰く、

 当時(筆者注:1970年代後半)すでに「警告」という番組タイトルをつけなければならないほど子どもたちの発達の遅れや歪みは深刻だったが、その子どもたちは、生まれたときに既に茶の間にテレビがあった「テレビ第一世代」である。電子映像、テレビ画面にほとんど抵抗感がなく、テレビ画面は環境そのものである。

 その世代がいま親となり、子育てをしている。……

 要は、今は親が既に異常だから、子供も異常になるのは当たり前だ、というストーリーであるな。しかしこのようなストーリーの暴力性は指摘しておかねばなるまい。そもそも清川氏は今の親世代が「異常」である、という証拠を一つも提示していないし、子供に関するデータすら209ページから210ページにかけての《家ではほとんど勉強しない子の比率》だけだ。当然、これも《メディア漬け》が犯人とされているわけだが、このような調査は東京大学教授の苅谷剛彦氏がかなり前から調査しており、かなり蓄積されたデータがあるのだが、そこには触れようとしなかったのだろうか。

 清川氏のこの文章は、読者が現在の子供たちは「異常」である、という認識を持たなければ納得できないだろう。何せ清川氏は何が「異常」であるか、そして本当に「異常」と呼べるのか、というデータはほとんど示しておらず、あらかじめ「今の子供たちは異常である。その原因は《メディア漬け》である」ということを最初から設定して、それにかなうデータしか持ってこないのだから。少年による凶悪犯罪が減少している、というデータを示しても清川氏は馬耳東風だろう。

 だから清川氏が、210ページにおいて、かの曲学阿世の徒・日本大学教授の森昭雄氏の「ゲーム脳」理論を好意的に紹介していても何の不思議はないのである。当然のことながら清川氏、この「ゲーム脳」を紹介する文脈において《人間としての心をコントロールし表現する大脳の前頭前野とよばれる部分が、ゲームをやっている子どもの脳ではほとんど働いていないことを示している。自分を制御できないとは、切れやすいと言い換えてもいいが、そういう人間らしい心の欠如も、メディア接触ときわめて強い関係があることがわかってきたのである》と書いているのだが、これもまた現在の若い親たちと子供たちに対するステレオタイプが固定化されている清川氏であれば当然の振る舞いであろう。更に、明治大学の三沢直子教授による調査における《ゲームを長時間している子どもの方が現実と非現実を混同する率が高い》という結果も清川氏は引いているのだが、果たして清川氏は三沢氏のデータを引用する段階で《現実と非現実を混同する》ということがいかなる事を指しているのか、ということを検証しなかったのだろうか。ついでに前出の三沢氏もまた「ゲーム脳」を信奉していることを書き加えておく。

 これ以上は検証しない。これ以降も、安易なアナロジーの濫用、牽強付会、我田引水の連続だからである。そして結論が「テレビを消そう」。やはり安直な結論になったか。
 それにしても、清川氏の如き専門家として高い地位を得ている人が、その辺のワイドショーとかテレビ報道とか誰かの愚痴で語られているだけの内容と自分の狭い経験だけで、現在の青少年を「異常」と言い切ってしまうという態度をとっていていいのだろうか。これは清川氏に限らず、疑似科学系の俗流若者論を振りかざす、あるいはそれに何の疑問も持たず好意的に引用する人たちに言える。結局のところこのような策動は、自分の「理解できない」ものに責任を押し付けることによって自分だけは安全で正義なのだ、という錯覚に陥りたいだけなのだろう。このような態度が、専門家の、そして科学の死を意味する。

 清川氏らにとって、青少年とは単なる「自己実現」の道具でしかないのだろう。この論文において頻出する《子どもの心とからだ》は、それ自体がイデオロギーの言葉として作用している。現在の我が国において、このような言葉にこそ反動的なイデオロギーが宿る。要は「子供」を生け贄にしたナショナリズムが台頭しているのである。彼らにとって青少年問題とは自分の立場を上げてくれる格好の舞台装置でしかない。このような人たちに青少年問題を語らせるのは、もうやめにしないか。

 参考文献・資料
 清川輝基[2003]
 清川輝基「“メディア漬け”と子どもの危機」=「世界」2003年7月号、岩波書店

 斎藤環『心理学化する社会』PHP研究所、2003年10月
 広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書、1999年4月
 山本貴光、吉川浩満『心脳問題』朝日出版社、2004年6月

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2005年8月21日 (日)

俗流若者論ケースファイル63・和田秀樹

 この連載の第47回で武田徹氏の文章を批判したときにも少し触れたけれども、俗流若者論において精神科医とか心理学者の「ご託宣」もまた期待されている。彼らによる「ご託宣」は、自らは善良であると思い込んでいる人たちが一方的に排撃している「今時の若者」に対するフラストレーションを正当付けるためにしか働かず、例えば具体的な検証や反証とか、あるいは精密な分析は最初から放棄される。俗流若者論における心理学主義プロファイリングは、もはや「言った者勝ち」の状況であり、いかに刺激的な(=一見刺激的に聞こえるけれども内容が空疎な)プロファイリング概念を出した人が勝者となる。あるいはそのようなプロファイリングをして「善良な」大衆に「癒し」を与えることで自らの私腹を肥やすことができる。故に我が国には「~~症候群」とか「~~人間」とか「~~シンドローム」みたいなプロファイリングが続出する(武田氏の文章における「プログラム起動症候群」もその典型)。若年層は言説によって一方的に売り飛ばされる存在である。もっとも「善良な」大衆にとっては若年層とは言説によって売り飛ばされる存在でしかないのであるが。

 さて、連載第47回における武田徹氏の文章の検証では、精神科医による安易なアナロジーの捏造を無批判に紹介しているジャーナリスト(=武田氏)のことを検証したが、今回検証するのは本職の精神科医による心理学主義的なプロファイリングである。とはいえ、その文章の書き手が、最近までは主要な守備範囲の教育問題のみならず経済問題や北朝鮮問題にまでさまざまな問題に首を突っ込んでいる精神科医の和田秀樹氏であるから、このようなプロファイリング合戦に参加するのもまあ理解できないことではあるまい。

 その和田氏が「中央公論」の平成15年6月号の論文「日本はメランコの総中流社会に回帰せよ」で発明しているのが「シゾフレ人間/メランコ人間」である。このような分類は、昭和59年の流行語対象にもノミネートされた、浅田彰氏の「スキゾ/パラノ」を想起する人もいるだろうが、浅田氏の分類に関してはあまり知らないけれども、少なくとも和田氏のプロファイリングと浅田氏の分類において徹底的に違うのは、和田氏のプロファイリングは最初から最後まで青少年問題=「今時の若者」を意識していることだ。和田氏はこの文章の最初のほう、206ページにおいて《七〇年代後半に若者文化を支えていた世代から、日本人の主流となるパーソナリティは大きく変わり始め、さらにいえば、1985年以降に生まれた日本人から、決定的に別のタイプに変化を遂げたと私は考える。そして私は彼らを「シゾフレ人間」と名づけた》(和田秀樹[2003]、以下、断りがないなら同様)と書いている。そして和田氏は208ページにおいて、「シゾフレ人間/メランコ人間」の特徴を表にしているけれども、この表を見て私は一気にこの論文のからくりが解けてしまった。

 ・メランコ(鬱)人間とシゾフレ(分裂)人間の特徴(読み方:メランコ人間の特徴/シゾフレ人間の特徴)
 心の世界の主役:自分/他者(周囲)
 対人関係:特定他者への献身/不特定他者への同調
 周囲の世界の認知:理論的・現実的/魔術的・被害的
 自己・アイデンティティ:堅固なアイデンティティ/自分がない
 常識・価値観:内在/外在
 時間軸:過去へのこだわり・首尾一貫/周囲との同調・過去との不連続
 世代(日本):1955年以前生まれに多い/1965年以降生まれに多い

 要は和田氏は、巷で囁かれる「今時の若者」に対する不満に「わかりやすい」用語を与えただけだろう。和田氏はこのような分類をさも自分が始めて発見したかの如き説明をしているけれども(206ページの《若者が個性化しているという諸説はウソではないか》みたいな書き方など)、「今時の若者」に対するこのような批判はもはや噴出しているのだが。

 案の定、この論文には《シゾフレ人間は》とか《彼ら(筆者注:《シゾフレ人間》)は》といった言葉が頻出する。和田氏は最初から現代の若年層を《シゾフレ人間》と規定して、彼らを危険視することしか考えていないのだから、この文章全体がないよう空疎なものになるのももはやわかっている。その証左として、和田氏が《シゾフレ人間》の対等に関する検証を行なっていると思える部分が207ページ3段目の次のくだりしか見当たらないことが挙げられよう。

 なぜ、日本にシゾフレ主流の時代が訪れるようになったのだろうか。その最大の要因は、何はともあれ日本が経済的な豊かさを享受したことであろう。戦後、だれもが努力次第で豊かになれる社会になり、「運命を自分で切り開いていけるからこそ頑張る」メランコ人間が増え、受験や出世競争に勝ち抜くことに没頭した。やがて生活がある程度豊になると、今度は「みんなと同じだったら十分苦っていける。目立たずにみんなと一緒が大切」なシゾフレ人間が台頭する時代に移行してきた。

 本当にこれだけなのだ。しかもこれが全体6ページの中の2ページ目で、後はいかに《シゾフレ人間》が危険な存在であるかを喧伝しているだけなのである。このような文章に関してはもはやどうでもいい話なので検証は差し控えるけれども、少しだけ和田氏の事実誤認や歪曲が見られるので指摘したい。例えば208ページにおいて《先般の都知事選の結果(筆者注:平成15年4月12日に行なわれた東京都知事選挙。石原慎太郎氏が再選した)に、庶民のシゾフレ化を後列に感じたのは私だけではあるまい。石原慎太郎氏はシゾフレ人間たちからすれば崇め奉る対象。七割超の大量得票は、みんなと一緒でいたいのだという圧倒的な大衆が神様を求めている証しである》と述べている。ちなみにこの都知事選挙の投票率は約45パーセントで、確かにそのうち七割以上は石原氏に入れていたけれども、有権者全体からすれば約33パーセント半強に過ぎない。だったら和田氏は投票しなかった人を問題視すべきではないか?

 それにしても、和田氏の立論に従えば、和田氏が(勝手に)問題化している《メランコ人間》を生み出さないためには、たくさん競争をして、ひたすら成長しなければならない、ということになろうけれども、果たしてそれが我が国の採用すべき戦略なのだろうか。経済的な成長だけを重視する時代は、やがては格差の拡大、地球環境の破壊、資源の枯渇などにつながっていく。更に我が国は人口減少社会に突入する。そのような状況を考えたとき、我が国が採るべき社会システムは、むしろ経済成長「しないこと」を前提にしたシステムであり、全ての人がそこそこの豊かさを享受できるような社会である。和田氏の如く、ひたすら経済成長せよ、そうしないと「今時の若者」の如き無能な人間が量産されてしまうぞ、とひたすら大衆の尻を叩くのは、結局のところ自分を肯定して若年層を否定したい人たちの残酷な願いをかなえるだけではないのか。

 また、精神分析に関する倫理の面からも和田氏を批判してみたい。和田氏はこの文章では明らかに個々人を診断しないで専門用語を弄して若年層をバッシングしている。直接の臨床を抜きにして診断する、ということに関しては例えば「ひきこもり」の人に対する精神分析などではありえることらしいし、精神分析の概念に安易に自分が診断していない個人を当てはめてタイプを規定すること、例えば精神科医の斎藤環氏が「諸君!」平成14年4月号でやったような(斎藤環[2002])政治家の「精神分析」などのように、明らかにネタと認識できるものであれば許容できるが、和田氏は本気(ベタ)だ。明らかに現在の青少年について「警鐘」を鳴らす目的でやっているが、そのような安易なレトリックの濫用に熱中するのであれば、まず自らさまざまな臨床事例の積み重ねやアプローチの変更などを繰り返す必要があるのではないか。これは和田氏に限らず、安易に心理学主義的なプロファイリングを安易に振りかざす人たちにも言えることだ。

 ちなみに和田氏のプロファイリングと同様の分類に、斎藤環氏の「ひきこもり型/自分探し型」という分類がある(「ひきこもり型」は《メランコ人間》に、「自分探し型」は《シゾフレ人間》に近い)が、こちらの分類は和田氏のプロファイリングよりもより説得力がある。斎藤氏もまた「今時の若者」に対する思い込みの安易な類型化という点では和田氏と同様の問題点を持っているけれども、少なくとも斎藤氏はある程度のフィールドワークを行なっているし、このような分類が和田氏のような「日本が経済的に豊かになって、努力する必要がなくなった」みたいな安易なアプローチではなく、コミュニケーションに対する指向性に目をつけていることもまた興味深い。

 これは蛇足なのだが、「中央公論」の平成15年7月号に、和田氏の立論を絶賛する投書が掲載されていたのだが、この投書を読むと、すくな事もこの投書子にとっていかに和田氏の文章が自分の世代(=自分)の肯定と若年層の否定の役に立ったか、ということがよく分かる。

 参考文献・資料
 斎藤環[2002]
 斎藤環「気になるあの人たちの「精神分析」報告」=「諸君!」2002年4月号、文藝春秋
 和田秀樹[2003]
 和田秀樹「日本はメランコの総中流社会に回帰せよ」=「中央公論」2003年6月号、中央公論新社

 小此木啓吾『モラトリアム人間の時代』中公文庫、1981年11月
 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 十川幸司『精神分析』岩波新書、2003年11月

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俗流若者論ケースファイル62・藤原正彦

 現代の我が国におけるナショナリズムを支えている最大の基盤は俗流若者論である。俗流若者論において、マスコミが問題にしたがる「今時の若者」の「問題行動」を鬼の首でもとったの如き採り上げては、彼らを「国家」の喪失した存在とかいったレトリックで罵り、教育で愛国心を教えよ、とか日本人の歴史や言葉を取り戻せ、といった飛躍した論理が見られるのは最近ではもはや日常茶飯事である。とりわけ数学者の藤原正彦氏はその典型であろう。というわけで、今回検証するのは、藤原氏の文章「数学者の国語教育絶対論」(「文藝春秋」平成15年3月号に収録)である。藤原氏のこの文章を検証することは、現代の我が国、特に俗流若者論において「日本語」がどのようなスタンスでもって用いられているか、ということを検証するためにも大変重要だと私は思うが、それに関してはこの文章の終盤で述べていこう。

 まずは藤原氏の事実認識から検証していきたい。この部分にも、藤原氏のナショナリズム的に潤色された事実誤認がいろいろあふれ出しているのである。例えば藤原氏は最初のほう(179ページ上段)において《世界一といわれた治安のよさも失われた。正業につかず勝手気儘に生きる若者が増加し、恐るべき援助交際や少年非行に加え、金銭にからむ不正が政官財民に蔓延するなど、国民一般の道徳も地に堕ちた》(藤原正彦[2003]、以下、断りがないなら同様)と言って、《教育を立て直すこと意外に、この国を立て直すことは無理である》《教育の質はそれを受けた者の質を見ればたちどころにわかる。大学生を見れば質の低下は著しい》(共に179ページ後半)と書く。しかし、例えば《世界一といわれた治安のよさ》=所謂「安全神話」に関しては、例えば少年による凶悪犯罪は昭和35年ごろと比して大幅に減少しているとか、また検挙率に関しても最近になって警察の被害届けの取り扱いが変わったことによるものが大きいし、諸外国に比べれば我が国の犯罪率は極めて低い水準を保っている。特に諸外国に比して我が国の20代が殺人をしでかす割合は極めて低く、総体として見れば「治安が悪化している」という言説がかえって人々の治安に対する不安を更に高めているということが見抜ける。更に藤原氏は《正業につかず勝手気儘に生きる若者が増加》と語っているけれども、これはフリーターを指しているのだろうが、あくまでフリーターは社会構造の問題から切り離せなくなっているし、《国民一般の道徳も地に堕ちた》とは言われているけれども、そう見えるのはそれまで経済成長が全てを隠蔽してくれたからであろう。さらに《大学生を見れば質の低下は著しい》と藤原氏は書いているけれども、このような主観から安易に教育の「劣化」を語らないというのが物書きとしての良心であろう。

 また藤原氏は《国語が思考そのものと深く関わっている》(180ページ)と語っているけれども、これに関しては別段異論はないどころか、大いに賛同する。しかし藤原氏のこの文章は、藤原氏の思考力が「それほどのものでしかない」ことを如実に表しているかのごとき表現もまた頻出する。例えば藤原氏は183ページ下段において、《高次の情緒には、なつかしさ、という情緒もある。人口の都市集中が進み、故郷をもたない人々が増える中で、この情緒も教えにくくなっている》と藤原氏は書くけれども、では《なつかしさ、という情緒》は藤原氏の言うところの《故郷》でしか育たないのだろうか。この文章を読んでみる限り、藤原氏の言うところの《故郷》とは、都市とはまた対比されるべきものであると捉えられるかもしれないが、例えば私は物心ついてから2回ほど引越しをしたことがあるけれども、全て郊外の団地であった。しかし今では小学生や中学生の頃の想い出、更には高校生の頃、更に最近では成人式実行委員会として活動したときの想い出が今でも懐かしく思い出される。藤原氏の論理に従えば私はずっと《なつかしさ、という情緒》を持つことができない、ということになるはずだが。藤原氏はもうちょっと広義の「故郷」というものに眼を向けるべきではないか。また藤原氏は185ページ下段において《脳の九割の内容を利害得失で閉められるのは止むを得ないとして、残りの一割の内容でスケールが決まる。ここまで利害損失では救われない。/ここを美しい情緒で埋めるのである。……もし官僚のう脳の一部に、もののあはれが農耕にあれば、その判断は時に利害を離れることもありうる》と書いている。しかしそのような文章の直後にこのような文章が続いていると一気に落胆してしまう。曰く、

 たとえば日本の農業を考えるとき、経済的には外国から安い農産物を自由に輸入することが最善としてもすぐにそういう決断しないかも知れない。農業の疲弊は田園の疲弊であり、美しい自然の喪失である。もののあはれは、四季の変化にめぐまれた日本の繊細で美しい自然によりはぐくまれるものだから、この情緒も衰退するであろう。世界に誇るこの情緒は日本文化の淵源であり、経済上の理由で大きく傷つけてよいものだろうか、と反問するに違いない。……

 一般的な解釈では、これもまた《利害損失》というべきものではないのだろうか。藤原氏が《利害損失》=経済的な利害損失としか考えていないとしたら、それこそ藤原氏の思考の貧困さが出ている文章といえよう、先ほどの《故郷》と同じように。

 さて、藤原氏は《祖国とは国語である》(186頁下段)と考えているらしい。これは確かに正しいのであるが、もう少し踏み込んだ説明するならば国語(言語)とは自分の所属している共同体に対する帰属意識を確認するための記号である。何も所謂「ギャル文字」「2ch言葉」みたいな極端な例を表さなくとも、例えば声優の野川さくら氏と野川氏のファンのやり取りを見てもそれを垣間見ることができる。基本的にこの場におけるやり取りはごく普通の日本語によって行なわれるけれども、例えばその中でさりげなく野川氏を中心とするコミュニティを象徴する言葉、すなわち「おはよう」とか「こんにちは」を意味する「にゃっほ~♪」などという言葉が入ったとき、そこにおけるコミュニティが野川氏を中心とするコミュニティであることが表される。他にも声優のラジオ番組などを聴いていれば、このような日常とは違う言語表現が少しだけ入ることによってそのコミュニティの特徴が表されるような言葉は時々見かけることができる(堀江由衣氏のラジオにおける「こんばんてん」という挨拶なども然り)。数学には数学の言語が、建築学には建築学の言語が日常言語と並立して置かれ、日常言語とは違ったコミュニティ独特の言語が日常言語の中にさりげなく組み込まれることによってコミュニティの特性が表される、ということは少し探せばたくさん見つかる。

 さて、このあたりで藤原氏流の《祖国とは国語である》という論理の危うさについて触れてみよう。明治維新以降の過程において、日本の近代化のために、「日本人」とか「日本民族」が最初から一体のものであるというフィクションを捏造する必要があった。それに大きく役割を買ったのはもちろん教育であった。更に明治時代から現在にかけての都市政策や教育政策によって、地域のコミュニティ、そして地域言語としての方言が破壊され、都市居住者は(もう少し広く言えば都市から独立していないコミュニティの居住者は)標準語によってコミュニケーションしなければならぬ状況が生じた。藤原氏の立論の危うさは、国家が「正しい日本語」「美しい日本語」を規定し、それにかなわぬ言葉は全て「乱れている」とか蔑視されることによって、言葉の持つ柔軟性が失われるのではないか、ということだ。「今時の若者」における「言葉の乱れ」をしきりに嘆く自称「知識人」が、同時に「方言を大切にしよう」と喧伝するのはなんとも皮肉なことだ。

 藤原氏がこの論文において国際的なパワー・ゲームとしての「日本語」の一体性を重視していたり、あるいは藤原氏のこの文章が収録されている「文藝春秋」の特集「日本語大切」におけるおそらく編集者によるものであろうリード文における《言語の衰退は国家の衰退。巷にはびこる珍妙な日本語を見直し、今こそ「私たちの言葉」を手に入れよう》という表現にも見られるとおり、日本人全員が教育によって「正しい日本語」「美しい日本語」を習得しなければ国際社会で勝ち残ることができない、という認識に立っていることを見るにつけて更に私の疑問は深くなる。そもそも彼らはなぜ国際社会で勝ち残ることや生き残ることを絶対視するのだろうか。いや、私は何も我が国が米国の51番目の衆になってもいい、と言っているわけではない。そうではなく、私はそのための「手段」を問題化している。すなわち、国際社会で生き残るための手段が、「内なる他者」というよりむしろ「内なる汚物」としての言葉の「乱れ」をしきりに攻撃することで、「日本人」「日本文化」という同一性を保つことにより、国際的な力を得ようとする行為が、果たして本当に正統の行為であるか、と私は問いたいのである。そもそも我が国の文化は彼らの認識の外で着々と広がっている。我が国の伝統文化から、更には我が国におけるアニメや漫画といった最近のサブカルチュアが「クール・ジャパン」として認識されつつある。このような(広義での)日本文化の広まりは、彼らの妄想する「強い国家」とは別のところで動いている。

 俗流若者論の恐ろしさは、個人的な「今時の若者」に対する憤慨がそのまま国家とか歴史とかに短絡されてしまうことである。俗流若者論に依拠する人たちは、「国家」や「歴史」みたいな幻想をバックにつけることによって「今時の若者」を「国家を喪失した存在」とかいったレトリックで批判するのだが、これを「虎の威を借る狐」という。そして国家という「虎」の威厳を借りることによって「今時の若者」をゲットーに囲い込む人たちは、さも駝鳥が穴の中に首を突っ込んで世界は平和である、と認識する如き錯覚に陥る。殊この藤原氏の文章や藤原氏の文章が収録されている特集には、かくのごとき「駝鳥の平和」の思想が底流として流れている。このような「駝鳥の平和」がやがてレイシズムにつながった例が、曲学阿世の徒・京都大学霊長類研究所教授の正高信男氏による「ギャル文字」への評価、すなわち「ギャル文字」はもはや言語的な認知を超えたものであり、このような文字の蔓延は日本人の言語能力の対価を意味する、というわけのわからぬアナロジーであろう。我々が最も撃つべきはこのような「駝鳥の平和」の如き錯覚であって、他者に対する攻撃でなく寛容をベースとした真の平和を築かなければならない。

 最後に藤原氏についても述べておこう。藤原氏は「祖国は国語」だとは言うけれども、藤原氏のこの文章における「日本語」や「日本文化」や「故郷」などの言葉を観察するにつけ、藤原氏にとっての「祖国」とはその程度のものなのか、と嘆かざるを得ない。すなわち、藤原氏の言うところの「祖国」とは、所詮藤原氏の利害や自意識の範囲を出ることがなく、他の人が自分とは違う形で「祖国」や「故郷」を構築していったり、あるいは「日本語」や「日本文化」がさまざまな変化と分化と同一化を経て形成されたものであるということに対する想像力もない。藤原氏は、もっと「故郷」とか「文化」とかいった言葉に対する広い視野を持つことが必要であろう。

 ついでに、この特集に収録されている、ジャーナリストの日垣隆氏の「判決文は悪文の見本市」は面白いから一読をお勧めする。

 参考文献・資料
 藤原正彦[2003]
 藤原正彦「数学者の国語教育絶対論」=「文藝春秋」2003年3月号、文藝春秋

 姜尚中『ナショナリズム』岩波書店、2001年10月
 芹沢一也『狂気と犯罪』講談社+α新書、2005年1月
 歪、鵠『「非国民」手帖』情報センター出版局、2004年4月
 堀田純司『萌え萌えジャパン』講談社、2005年3月

 多和田葉子、田中克彦「ことばを知る、ことばを語る」=「論座」2004年12月号、朝日新聞社

 参考リンク
 「野川さくらオフィシャルサイト「さくらメロディ♪」

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 参考記事
 「正高信男という頽廃
 「壊れる日本人と差別する柳田邦男
 「俗流若者論ケースファイル02・小原信
 「俗流若者論ケースファイル10・筑紫哲也
 「俗流若者論ケースファイル20・小原信
 「俗流若者論ケースファイル44・藤原正彦

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2005年8月20日 (土)

俗流若者論ケースファイル61・野田正彰

 このブログにおいて、私は一貫して「心の教育」なるものに反対してきた。私がこれに反対するロジックとしては、青少年問題を「心」の問題として捉える現在の傾向は、それが「ひきこもり」やフリーターや若年無業者問題に関して用いられるならばそれらを生み出した社会的・経済的背景を無視して「心」の問題として処理することによって不当な「自己責任」をそれらに苦しんでいる人たちに押し付けてしまうこと、また少年犯罪も含めてこのようなロジックは正常な「心」と異常な「心」という図式が前提としてあり、「今時の若者」の異常な「心」を「正常化」しなければならない、そのためには異常な「心」を生み出したものを撲滅しなければならない、というロジックにつながり、その代替物として安易に愛国心とか情操教育とかいったロジックが持ち出されることに対する疑問である。

 その点からすれば、関西学院大学教授の野田正彰氏が「世界」平成14年10月号に寄稿した「「心の教育」が学校を押し潰す」という論文は、本来であれば私の味方となる論文なのかもしれない(ちなみにこの論文が発表されたときの野田氏の肩書きは京都女子大学教授)。野田氏はこの論文の冒頭において、平成11年6月の中教審の答申「新しい時代を拓く心を育てるために――次世代を育てる心を失う危機」を以下のように批判する(88ページ)。曰く、

 続いて答申を説明していくのだが、その前に文部省(筆者注:中教審の答申が発表された当時は文部科学省ではなく文部省だった)の文章は表題から日本語の体をなしていないことを理解しておこう。副題の「次世代を育てる心を失う危機」とは何を意味するのか。「次世代を育てる心」とは大人たちの心のことか。「育てる心」という表現はありえない。「心を失う危機」とは何か。精神的危機という概念はあるが、心を失うとは失神することなのか。ましてや「心を失う危機」とはどんな危機なのか、想像すらできない。通して「次世代を育てる心を失う危機」と読み直すと、頭がおかしくなってくる。「次世代の心を貧しくする危機状況」とでも言いたいのだろう。さらに「新しい時代を拓く心を育てるため」の答申なのに、なぜ副題は「心を失う危機」なのか。もう少し正常な日本語を書ける人はいないのか。(野田正彰[2002]、以下、断りがないなら同様)

 この批判に関しては異存はない、むしろ大いに賛同する。

 しかし野田氏のこの論文において問題なのは、所謂「心の教育」が青少年の「病理」を加速させる、という視点に野田氏が立っていることだ。これは、野田氏は中教審の答申のタイトルにある「新しい時代を拓く心を育てるために」とか「次世代を育てる心を失う危機」といった美辞麗句を批判しているけれども、しかし野田氏もまた現代の青少年が精神的な病理状況に陥っている、と認識しており、結局のところ「心の教育」推進派と同じ認識を共有しているのであって、そのような野田氏が「心の教育」推進派を撃っても所詮は俗流若者論の中の内ゲバにしかなりえないのである。もっとも、野田氏がこのような認識を持っているのは、この連載の第32回で紹介したのだが、そのときは週刊誌の記事のコメント程度だったので、まとまった論文として野田氏の立論を批判するのは今回が始めてである。

 さて、野田氏のこの論文において問題が出ているのは95ページから98ページの4ページである。野田氏は95ページ1段目から2段目にかけて、「心のノート」が次のように記述していることを問題視する。曰く、

 「街中で 大きな硝子窓に映った自分に気づいた。いつもまっすぐに胸を張って歩いているつもりなのに なんだか 自信なさげにうつむきかげんに歩く私がいた。上方や服装、スタイルばかり気になっていたけれど 自分の中身は、ぜんぜん気にもしなかった。――でも、この硝子窓には、わたしの心が映っているよう」といったふうに。一方では「心を形に表して以降」、「T.P.O.を考えた行動ができているか?」、「礼儀には脈々と受け継がれている伝統がある」と畳み掛ける。

 野田氏はこのように紹介するのだが、しかしこのあとに続く野田氏の立論は、あらかじめ現代の青少年が精神的な病理的状況に陥っている、あるいは現代の青少年は自分たちとは違う「異常な「心」」を持っている、と読者が認識していなければ意味を持たない文章が来るのである。

 そこで子どもは何を求められているか、すぐ察知するであろう。自分を見つめ、良い自分と悪い自分を分割し、場面に応じて良い自分を装うこと。これが学校の先生の要求する「こころ」であることを、心から、知るであろう。何のことはない、これでは、現代の若者が得意とする、自分のなかに別の自分がいるといった、ファッションとなった解離体験を推奨しているようなものである。

 私が疑問を持ったのは《何のことはない、これでは、》以下の文章である。野田氏は《現代の若者が徳意図する、自分のなかに別の自分がいるといった、ファッションとなった解離体験を推奨しているようなものである》と書いているけれども、野田氏が何をもって《ファッションとなった乖離体験》を指しているのかがわからないし、そもそも《現代の若者が得意とする》といったくだりに、野田氏の若年層に対する認識が表れているように見える。野田氏はこの文章において、《ファッションとなった解離体験》を推奨することは現代の病理状況を広めるかのごとき説明をしているけれども、それが本当に問題なのか、あるいは本当に現代の病理状況として捉えるべきなのか、という議論を野田氏は最初から放棄している。読者に「今時の若者」は精神的な病理を持っている、という前提が共有されない限り意味を成さない。もう一つ言うと、野田氏は96ページにおいても《精神障害としての解離――解離性健忘、遁走、昏迷、憑依などと違った、若者ファッションとしての解離の言い訳は枚挙にいとまがない》とも述べている。

 野田氏は更に、この段落の直後に、更に《八〇年代より、日本の子どもは他の子どもと深い交流を避け、表層の情報の交換を好み、周囲のT.P.O.に応じた行動を取る適応力を高めてきた。……ただ(筆者注:現代の子供たちが)自分ら勝手な言動をとっていると見えるのは、大人たちのT.P.O.とズレがあるからである》と述べている。だったら、例えば製造年月日や生産地を偽装して、店舗では何の操作もしてなかったかのごとく売る店員とか、トラブルが生じてもひたすらひた隠しにしてさも何の問題も起こっていないかのごとく装う人たちとか、またあるいは大銀行や大企業に対しては甘いのに民衆にはいまだに極めて低い金利を押し付ける経済政策などは野田氏の理論では説明することができるのだろうか。それとも野田氏は、「田中均は右翼に爆弾を仕掛けられて当たり前」と言った石原慎太郎氏や「少年犯罪の加害者の親は市中引き回しにして打ち首にしろ」と言った鴻池祥肇氏や「少女がカッターで頚動脈を切る事件が発生したのは女性が元気になった証拠だ」と言った井上喜一氏や「公約が達成できなかったからといって大したことはない」と言った小泉純一郎氏は「今時の若者」よりもマシと考えているのか?いずれにせよ、野田氏が現代の若年層を過剰に危険視していることは明らかであろう。

 更に野田氏は、以下のようにも述べる。96ページ。

 このような切りかえ(筆者注:《過剰反応する自分》=周囲に対して敏感になりひたすら事故を抑えることと《自閉思考に安らぐ自分》=ビデオや漫画やアニメや情報雑誌などの接触を通じて自分だけの世界を構築すること。このような図式化は野田氏もまた漫画やアニメなどを病的な青少年が部屋の中で自分の殻に閉じこもって一人でやるもの、と認識していることが窺える)のの敏速さを表現した若者言葉に「切れる」がある。「切れる」とはどういうことか。中学生たちは、「副が切れて、髪の毛が逆立って、威嚇して、エラ呼吸しはじめてジャンプ」、「澄んだ眼をしていて、口をきかない」、「ちょっと肘が当たっただけで、一発殴って叫びだした」、「先生に怒られて、その先生の強化のノートをビリビリにしたり、黒板で“死ね”と大きく書いていた」と説明している(深谷昌志教授らによる調査、「モノグラフ・中学生の世界」、98年12月、「キレる、ムカつく」)。明らかに現代日本の子ども文化として定着した「解離」が述べられている。

 解離(あるいは転換性)障害とは、困難な葛藤に直面したとき、自己同一性と直接感覚の意識、身体運動のコントロールに関する東郷が、部分的あるいは全面的に失われることを言う。子どもたちの「切れる」は解離に似ているが、異なるのは極めて意識的な行為であることだ。「それは誤っている」、「いやだ」と言葉で表せないので、替わりに「切れる」事が定型表現として許容されている。現代日本の子ども文化としての「解離」が「切れる」である。

 野田氏は何を血迷ったのか。この引用文から読み取れることは、明らかに「キレる」なる表現が極めて政治的に脚色・潤色・希釈・拡大解釈されることによって、現代の青少年の病理的状況を表しているかのごとく使われていることである。しかし、このような状況が、果たして現代の青少年に特有のものなのか、ということに関する検証は、この調査者たる深谷昌志氏はは一切していない。その点を野田氏は指摘しないのだから、野田氏が「キレる」なる表現の政治性に見事にすくい取られていることがわかるだろう。そもそものだしが引いている部分からも、「キレる」という言葉が至極広く希釈されていることを垣間見ることができる。

 とりわけ野田氏が「キレる」という表現がもたらす青少年幻想に酔っていることは後半の段落にこそ見ることができるだろう。野田氏は《子どもたちの「切れる」は解離に似ているが、異なるのは極めて意識的な行為であることだ》と書いているけれども、前出の深谷氏の(狭小なる)事例からどこをどうすればこのように解釈できるのだろうか。このように、野田氏はあらかじめ青少年は精神的な病理を持っている、と認識しているので、たとい野田氏が「心の教育」に関して反対の論陣を張っていても、「心の教育」推進派はそもそも野田氏と同様に現代の青少年は精神的な病理を持っている、というパターンから始まっているので、その反対論は空疎に響くだけであろう。

 改めて指摘しておくけれども、野田氏は「「心の教育」は現代の青少年における病理的状況を加速させる」という理由に基づいて「心の教育」に反対している。しかしこのような論理は、「青少年における病理的状況」というものが至極イデオロギー的なものであることに対する注意を少しでも払っていれば展開できないものであろう。「心の教育」を撃つのであれば、まず推進派が共有している「青少年における病理的状況」という認識それ自体を撃ったほうが戦略的には有効である。要するに、例えば彼らは少年による凶悪犯罪の増加、不登校や「ひきこもり」の増加、及び青少年による「問題行動」の増加をもってして「青少年における病理的状況」としている。しかし、少年による凶悪犯罪は昭和35年ごろに比して大幅に減少しているし、不登校や「ひきこもり」にしても最近になって爆発的に増大したわけではない。青少年による「問題行動」にしろ、まず青少年に対する社会の認識、及びその認識を構築するマスコミ報道から疑う必要があろう。「心の教育」の推進派と反推進派が「青少年における病理的状況」という、例えば地球環境の悪化や経済成長の低下といったものとは違って定量化や数値化が不可能であり、イデオロギーによって大きく左右されやすい認識を共有している限り、議論は果てしなく不毛な俗流若者論の応酬にしかならない。野田氏の文章は、それを見事に表しているのである。

 参考文献・資料
 野田正彰[2002]
 野田正彰「「心の教育」が学校を押し潰す」=「世界」2002年10月号、岩波書店

 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 斎藤環『心理学化する社会』PHP研究所、2003年10月
 斎藤美奈子『物は言いよう』平凡社、2004年11月
 十川幸司『精神分析』岩波書店、2003年11月
 保阪正康『戦後政治家暴言録』中公新書ラクレ、2005年4月
 森真一『日本はなぜ諍いの多い国になったのか』中公新書ラクレ、2005年7月

 内藤朝雄「お前もニートだ」=「図書新聞」2005年3月18日号、図書新聞

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2005年8月19日 (金)

俗流若者論ケースファイル60・田村知則

 これまで私はさまざまな俗流若者論を相手にしてきたけれども、敵は思わぬ方向から飛んでくるものである。今回は、何と眼科医学の視点からの俗流若者論だ。執筆者は視覚情報センター代表の田村知則氏で、タイトルは「警告!子どもの「眼」がおかしい」である。ついでに言うと掲載誌は「新潮45」平成14年10月号。澤口俊之氏や片岡直樹氏のときもそうだったが、つくづく「新潮45」は擬似医学系の俗流若者論が好きだ。

 田村氏は最初のほうである206ページにおいて、《最近の子ども達の目を見ていて気になることがあります。それは立体視能力の低下です》(田村知則[2002]、以下、断りがないなら同様)と書く。その理由として田村氏は、207ページにおいて、《空間を認知する能力が多いはずの集団(筆者注:高校生から大学生を中心としたスポーツ選手)にもかかわらず、近年この能力の低い子ども達が非常に目立つようになっています》と書いているのだが、まず過去との比較がない。この手の擬似医学系の俗流若者論は、データも出さずにただ不安だけ煽るのが好きだ。田村氏はこの直後に《数年前はこの検査で、こちらが何も言わなくても「立体的に見える」と瞬時に答えてくれる人がほとんどでした。しかし近年は、「立体的に見えませんか?」と誘導して「ああ…見えました」と答える人や、それでもわからない人が目立っています》とも書いているけれども、具体的なデータの提示はまだない。そして最後までない。

 そしてこの手の擬似医学系の俗流若者論ではお決まりの展開、テレビゲーム有害論である。田村氏は208ページにおいて、いきなり《あくまで推測ですが、視覚能力が構築されるよう時期から、テレビやテレビゲームに没頭し、平面の世界を見続けた弊害ではないかと考えます》とでっち上げるのである。田村氏が他の要因を無視しているのを見る限り、田村氏は森昭雄氏や片岡直樹氏などと同じような思考回路、すなわち「今時の若者」が異常なのは体の部位のどこかが以上なのであり、そしてその「以上」を作り出したのはテレビやテレビゲームだ、という思考回路を持っているのは間違いないだろう。そしてこのような仮説は、この次の段落を読んで確信に変わる。

 たとえば実際に野球場に野球を見に行ったとしましょう。ファウルボールが飛んできたら、自分の目で見て、判断して避ける必要があります。しかし、テレビで野球を見ていたとしたらどうでしょう?仮にボールが飛んで来たとしても、視線を移動させながらピントを合わせ続ける調節運動をする必要は全くありません。何故ならボールは飛んでくるように見えるだけで、実際は人とボールの映像の距離はいつも同じなのですから。テレビゲームはテレビよりもやっかいかもしれません。身体は本来とは違う形でゲームに参加し、眼も筋肉運動による調節力を活動させる必要はあるません。つまり、現実と違った身体運動と意識の奥行き感だけになります。

 私はどこか壮大なデ・ジャ・ヴュを感じずにはいられなかった。つまりこの文章の趣旨の一部を変えると、テレビやテレビゲームは実際の感覚運動とは違う運動しかしないので、大脳前頭葉が異常になるのだ、とすれば、森昭雄氏とか片岡直樹氏のような論理と化してしまうだろう。違うのは脳が異常になる、というのと眼が異常になる、という部分くらいで、あとはほとんど同じだ。つくづく擬似医学系の俗流若者論というのは曲学阿世の縮小再生産の繰り返しであるよ。

 しかも田村氏、210ページから俗流若者論において使い古された論理に固執する。例えば「活字離れ」。田村氏は《活字を媒介にしながら、外の眼(筆者注:光学的な役割としての眼球の働き)と内の眼(筆者注:学習によって獲得される眼球の働き)をつなげたり、離したりしていくというのが、本を読む行為です。ところが、いまの子どもは、こうしたことが非常に苦手なために、本が読めなくなっている。それが活字離れの一つの要因ではないかとも思っています》と飛躍した論理を展開するのだが、田村氏の論理に従えば、読書は動きすらないため、眼球のどこも発達されない、という論理になりかねないのだが。読書はオーケーで、テレビやテレビゲームはだめだということか。それでは田村氏の認識そのものを疑わざるを得ない。これは田村氏に限ったことではないのだけれども、読書を擁護しテレビやテレビゲームを非難する論理というのは、読書は健全な青少年が豊富なコミュニケーションのもとに行われるもので、逆にテレビやテレビゲームの視聴は病的な青少年が一人で部屋に閉じこもって黙々と自分の世界に閉じこもってやるもの、と最初からステレオタイプで規定されているからではないか。このような妄想でもって最初から善悪が決定されることに、私は憤りを感じ得ない。ちなみに田村氏は、同じページで《本を読む際には、外の眼と内の眼を絶えず情報を交互にやりとりしながら読む必要があります。ところが、テレビは観たままですから、イメージを膨らませ、想像する必要がない。内の眼を使う必要がないのです》とも書いている。田村氏がゲームを最初から眼球の機能に悪影響を及ぼすものと規定する態度がここでも見えてくる。

 ちなみに田村氏は最近の子供たちが急速に本を読まなくなった、と規定しているけれども、国民生活時間調査によると、確かに活字一般に接している時間は青少年・若年層よりも中高年や高齢者のほうが多いけれども、中高年や高齢者に関して言うとそのほとんどが新聞であり、新聞を読んでいる時間を減ずるとむしろ青少年・若年層のほうが本を読んでいる計算になる(パオロ・マッツァリーノ[2004])。

 もちろん田村氏は、《人と接するときも、相手の変化を刻々と捉えながら、こちらの反応を変化させていかないといけない。……テレビゲームだと、こうしたシステムは作られにくく、自分ではゲームの中で判断しているつもりであっても、ゲームを作成した誰かの意図の範囲の中で判断しているに過ぎません。そこには主体性貼りません》(210ページ3段目~211ページ1段目)とか書くのもやぶさかではない。田村氏は208ページにおいて《あくまで推測ですが》とエクスキューズしているけれども、いつの間にかテレビやゲームが「悪玉」として糾弾されているのは確かであろう。

 更に田村氏は211ページ3段目においても、《私は検眼の実務家ですから、推測でしかありませんが、活字離れ、ひきこもり、友だちとのつきあい方がわからない――こうした子どもが多くなっているのも、目の働きから見れば、以上のように説明できるのではないでしょうか》と書いているのだが、これもまた俗流若者論のお決まりのレトリックであろう。そもそも《私は検眼の実務家ですから》と前置きすることで問題を深く考えたり調べたりすることを放棄して、単なる自分の思い込みだけでさも最近になって青少年問題が急速に深刻化した、とマスコミ報道の受け売りだけで済ませてしまう態度というものが、田村氏がこのような雑誌において発言する資格を問われかねないものであろう(いや、「新潮45」だから許されるのかな?)。何度も言うけれども、所謂《友だちとのつきあい方がわからない》青少年に関わる問題など、70年代安保の頃から現在名古屋大学名誉教授の笠原嘉氏とか、精神科医の故・小此木啓吾氏などによって論じられてきた。「ひきこもり」にしても精神科医の斎藤環氏が20代の頃、すなわち80年代から斎藤氏の研究テーマとなっていたし、不登校にしろこれもまた最近になって急増したものと喧伝されているけれども、そのような宣伝には統計の取り方によるバイアスがあり、実際には昭和50年ごろから増加の一途を辿っている(奥地圭子[2002])。田村氏のこのような態度を見るにつけ、たとい社会科学の専門家でなくとも最低限のことは調べるべきだろう、と私は憤りを感じずにはいられない。

 あまつさえ田村氏ときたら、212ページ1段目から2段目にかけて、《内の眼タイプ》と《外の眼タイプ》という2種類の人間を規定し、《深夜、物音がした時に、いったい何だろうといろいろと考え想像を広げていくのは内の眼タイプです。すぐに起き上がって確かめに行く人は外の眼タイプです》などと俗流健康番組の真似事までやってのける。他の真面目な眼科医が田村氏のこの文章を読んだらどのように考えるのだろうか、と私は心配でならない。

 また、田村氏は212ページ2段目において、《私のところへ検眼や目のトレーニングに凝られる肩は、基本的には一般の方が主体です。……子どもの場合にはLD(学習障害)や引きこもりといった症状の人もいます(筆者注:「ひきこもり」は病気ではない!故に《症状》という表現は不適切・不謹慎極まりない!まあ、このような人にとっては、「ひきこもり」もフリーターも若年無業者も病気として取り扱われるのだからいまさらこのようなことを言っても徒労だろうが)。こうした子どもたちが眼のトレーニングをすることで変わっていくのです》と書いているのだが、このような文章を読んでいると、つくづく森昭雄氏や片岡直樹氏の自分礼賛を思い出してしまう。

 カール・マルクスは、「歴史は繰り返す。1度目は悲劇として、2度目は喜劇として」という言葉を残した。しかし擬似医学系の俗流若者論の歴史は、2度と言わず3度も4度も、そして何度も繰り返し、その全てが喜劇の歴史である。要するに、多くの「善良な」民衆が憤っている「今時の若者」の問題に対し、「本質的な問題があるのだ!」と喧伝する曲学阿世の徒が現れ、その「本質的な問題」を身体の機関や脳の異常から引き起こされる問題として喧伝し、それが多くの支持を集める。そしてそのような状況がやがて日常として定着すると、次から次へとこの疑似科学市場に参画するものが続出し、疑似科学・曲学阿世の拡大/縮小再生産が繰り返され、この市場に参画するものは「今時の若者」に対する敵愾心だけで結束し、そして支持を集める。そして、次々と「若者論」というカーニヴァル的な状況が作り出され、大衆は偽りの「安心」「癒し」に狂奔し、やがて認識は堕落の一途を辿る。

 それら疑似科学に対する科学的・論理的・倫理的な検証は最初から放棄される。これは明らかに我が国における科学の死を意味する。要するに、一部の跳ね上がりの異端によって、大衆の科学に対する認識が俗流若者論に屈服してしまうのである。今回検証した田村氏の文章により、眼科医学にすら俗流若者論の要請を受ける医師の登場を許してしまった状況がまた一つ明らかになった。他にも俗流若者論の要請を受け、それに唯々諾々としてしまった分野はあるのか?少なくとも脳神経科学や発達心理学、及び小児科学と動物行動学は世間では俗流若者論ばかりが横行する事態になっている。かように実証性を大事にするはずの科学分野に論理飛躍や概念の押し付けを酒とする俗流若者論が侵入してしまうことに、私は俗流若者論というローレライの歌声の恐ろしさを感じずにはいられない。

 ところで、1度目は一体誰なのだろう?

 参考文献・資料
 奥地圭子[2003]
 奥地圭子「新しい囲い込み――「不登校大幅減少計画」への疑問」=「世界」2003年9月号、岩波書店
 田村知則[2002]
 田村知則「警告!子どもの「眼」がおかしい」=「新潮45」2002年10月号、新潮社
 パオロ・マッツァリーノ[2004]
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月

 小此木啓吾『モラトリアム人間の時代』中公文庫、1981年11月
 カール・セーガン、青木薫:訳『人はなぜエセ科学に騙されるのか』新潮文庫、2000年11月
 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 十川幸司『精神分析』岩波書店、2003年11月

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2005年8月18日 (木)

俗流若者論ケースファイル59・林道義

 それにしても、最近の保守論壇における、特に「男女共同参画社会」とか「ジェンダー・フリー」に対するバックラッシュというものは、既に陰謀論と化しているような気がする。もちろん私もこれらの論理を手放しに礼賛していい、と考えているわけではないけれども、少なくとも俗流保守論壇人が行なっているこれらの概念に対する批判は、あまりにも感情的であり、中には自らの被害妄想に埋もれているものすら存在するくらいだ。

 その代表格が、東京女子大学教授の林道義氏であろうが、どうやら林氏の暴走は平成13年ごろから始まっていたようだ。というわけで、今回検証するのは、「諸君!」平成14年2月号の特集「日本を襲う「怪しい言葉」群22」に掲載されている、林氏の文章「子どもの自己決定権――暴走する「個人」」である。この文章の特徴を一言で言うなら「羊頭狗肉」であり、一見「子どもの自己決定権」なる言葉を批判していると思ったら、結局この文章は「子どもの自己決定権」という言葉にかこつけて自分の不満を垂れ流しているだけの文章である。

 とりあえず、冒頭における《「子どもの権利条約」にさえ、「子どもの人格の成熟に従い」という条件が明示されている。その前提条件を削除してしまったのが、川崎市の「子どもの権利条例」である》(林道義[2002]、以下、断りがないなら同様)という文章には私は賛意を示すけれども、私が敢えてこの文章を採り上げた最大の理由は以下の文章にある。181ページ2段目。

 では人格が成熟しているはずの大人ならば、なんでも「自己決定」していいのか。たとえば、女性は自分だけで「子供を産む産まない、育てる育てない」を決めてもいいのか。いいはずがないのである。周囲に及ぼす影響、子供の心への作用など、考えなければならないことは多い。

 たとえばピル。「女性の選択肢を増やす」という理由で正当化されているが、じつは環境ホルモンとして垂れ流され拡散し、人間の男性を含めたオスのメス化を促進する重大な影響を与えている。ピル先進国のイギリスでは、たとえばテムズ川の魚のオスの精巣の中には精子がなくなり、かわって卵子がみられるという。

 もう、この2段落だけでも俗流「男女共同参画社会」批判として読む価値があるというものだ。特に後半の段落における「環境ホルモン」をめぐる与太話など、かつて「諸君!」と同じ版元の雑誌である「文藝春秋」において、ジャーナリストの日垣隆氏がダイオキシンや環境ホルモンに関する「神話」のトリックを暴いていた時代(といっても平成10年から11年にかけての話だが)を懐かしく思う。それはさておき、なぜこの2段落、特に後半が「与太話」と私が断定したのかというと、それに関する理由が第2段落のほぼ全体にわたっている。

 まず、《テムズ川の魚のオスの精巣の中には精子がなくなり、かわって卵子がみられるという》という記述であるが、これはどのような種類の魚なのだろうか。少なくともサンゴ礁に生息する魚の中では性転換を行なう種類の存在が確認されているけれども(桑村哲生[2004])、とりあえずそのような魚はテムズ川では確認されないだろうが、しかしどのような種類の魚にそのような事態が生じたのかということを紹介すべきであろう。また、環境ホルモンが身体に与える影響に関しては、魚類と人類では全くといっていいほど違う。たとえば魚類に関しては大量に環境ホルモンを浴びると性転換することはあるが、人類に関してはそのようなことは生物学的に見てありえない。人間の性転換手術において、たといこれに関する技術が発達してもいまだに生殖器の機能を変えることはできない、というのがその証左となろう。更に言えば、テムズ川における環境ホルモンの量の増加が本当にピルの影響なのか、そもそも本当に増加しているのか、ということに関しても林氏は検証するべきである。ちなみに、多摩川のコイのメス化に関して、をれを促しているのが、人工的に排出されたものではなくむしろ天然の環境ホルモンによるものであるという報告がある(西川洋三[2003])。以上の理由から、《人間の男性を含めたオスのメス化を促進する重大な影響を与えている》というアナロジーが全く意味を成さないことも証明しうる。そもそも林氏のこの認識においては、ピルというものが社会をメス化することによって社会を衰亡させしめるものとして描かれているけれども、そのような与太話は環境ホルモンとしてのピルが人体に及ぼす影響を勘案してから言うことだろう。「環境ホルモン」という誇大宣伝によるイメージ(環境ホルモンそれ自体ではない)によって心が「撹乱」されてしまった人はもうこの時点で滅亡したと思っていたが、まだいたとは。しかも「環境ホルモン」不安扇動者とは全く対極の政治的スタンスにいる人に。

 それ以外にも、林氏のこの文章には、安易な被害妄想が多い。《ピルや生殖技術……を利用し、女性が性を自己管理し、男性の意思ぬきで子供を産み育てることができるようになることは、人類の未来を女性だけで決定することになりかねない》(181ページ2~3段目)とか、《シングルマザーという形態も、女性の自己決定の結果である》(181ページ3段目)とか、「子どもの自己決定権」はどこに行ったのか、という罵倒が多いし、やっとそこに戻ってきたとしても《たとえば宮台真司は「自己決定権」を「迷惑をかけなければ何をしてもいい権利」と定義している。しかし「迷惑」とは何かを定義していないし、たとえ定義できたとしても現実に何が迷惑かを決めることは不可能である。だとしたら、それはなんの拘束力も持たない条件であり、結局は無限定に「何をしてもいい」といっているに等しいのである》(181ページ3段目~182ページ1段目)というような飛躍した論理だし、《こういう屁理屈を弄して、利己主義やわがままを広め、社会の基本となる型や枠を崩そうというのが、反体制派の隠された意図である。この勢力は、日本文化の基本型をやっきになって崩そうとしている》(182ページ1段目)という、最近ではもはや林氏他俗流右派論壇人のお家芸と化した、《反体制派の隠された意図》みたいなものを過剰に見出そうとする陰謀論になっている。

 私とて「自己決定権」なるものを無批判に礼賛することははばかれるけれども、林氏の立論において深刻なのは、自分の被害妄想や個人的な私怨がそのまま《反体制派の隠された意図》みたいに国家や社会を揺るがす深刻な問題と勝手に結び付けられて、林氏の誇大妄想が展開されてしまうことである。最近の林氏の文章は、ほとんどが「マルクス主義勢力や反体制派が「男女共同参画社会」や「ジェンダー・フリー」を推進することによって女性が男性と同等の権力を持つようになって、権力を持った女性が男性社会を脅かし、我が国の伝統と社会を脅かす」、という内容に収束されるものとなっており、もはや最初から一つの「物語」に沿って林氏の思考全体が動いているように見える。そしてこのような思考形式は右派論壇人や右派政治家にも広まっており、「女性に権力を持たせるな」という言説は、女性のみならず子供やオタクでもまた然りとなっている。

 一体なぜ彼らは、女性や子供やオタクをかようにも敵視するのだろうか。所詮彼らは自分の利害や世間体にしか想像力が働かないのではないか、と私は見ている。彼らの眼には自分と利害を共有してくれる人しか見えていないから、いくら科学的に間違った論理や、更には陰謀論が展開されていてもそのような論理はせいぜい蛸壺の中でしか消費されないから、そこで展開される論理も全て「身内向け」になってしまうのだろう。

 これは蛇足なのだが、「男女共同参画社会」もまた表現規制につながる危険性があるらしい。まあ、「週刊金曜日」の記事など読んでいると、一部の跳ね上がりのフェミニストやそれに追従する人(大谷昭宏氏など)が表現規制を求めるのはよく分かるけれども、まず成年漫画やアダルトゲームにおける性表現がフィクションであることをいい加減認めるべきだろう。人権擁護法案のときもそうだったけれども(この法案は廃案となったが)、「男女共同参画社会」とか「人権擁護」といった概念が曲解されるなり暴走することによって表現規制が生まれてしまうという事態も注視しなければならないだろう。

 参考文献・資料
 桑村哲生[2004]
 桑村哲生『性転換する魚たち』岩波新書、2004年9月
 西川洋三[2003]
 西川洋三『環境ホルモン』日本評論社、2003年7月
 林道義[2002]
 林道義「子どもの自己決定権――暴走する「個人」」=「諸君!」2002年2月号/特集「日本を覆う「怪しい言葉」群22」、文藝春秋

 斎藤環『心理学化する社会』PHP研究所、2003年10月
 日垣隆『それは違う!』文春文庫、2001年12月

 粥川準二「こうして疑似科学になった『環境ホルモン入門』」=別冊宝島編集部(編)『立花隆「嘘八百」の研究』宝島社文庫、2002年7月

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2005年8月17日 (水)

俗流若者論ケースファイル58・林真理子

 どういうわけか、我が国の所謂「知識人」の間において、「教育」について語る=「今時の若者」を批判する、という変な図式が成り立っているらしい。我が国において教育の問題を社会経済構造および階層化の問題として長い間語っているのはせいぜい苅谷剛彦氏くらいしか見つからないし、社会学や社会システム学などの学説を駆使して抜本的な教育改革論を語っているのもせいぜい宮台真司氏や内藤朝雄氏、自らの実践を元に授業論を語っているのも陰山英男氏や藤原和博氏くらいしかいなく、我が国において信頼できる教育論者というのはせいぜい20人弱(これだけいれば十分、という見方もできるが)、あとはほとんどの自称「知識人」が「今時の若者」を反面教師とした教育改革を断行しなければ我が国の未来は危ない、という論調でまとまっているようだ。むしろこのような動機付けで「教育」という大きなテーマについて語っている人を反面教師としなければ我が国の未来は危ない、と私は言っておこう。

 今回検証するのは、「文藝春秋」平成13年12月号の特集「教育、教育、そして教育」の特集の中にある、作家の林真理子氏の「この国の子どもたちは」という文章なのだが、はっきりいってこの文章は最初から最後まで「私語り」に過ぎない。要するに、自分は素晴らしい親に育てられてきたから自分はこんなに素晴らしく育ってきたが、今の親はみんな無能だから、巷で見かけるような無気力な「今時の若者」を大量に生み出してしまった、そして「今時の若者」が国を滅ぼす、というお決まりの展開であり、はっきり言ってこれだけの内容なのである。従って、まともに評価するに値しない文章といってもいいだろう。蛇足だが、この林氏の論考(と言っていいのかどうかすらわからないのだが)が掲載されている特集のタイトルとなっている「教育、教育、そして教育」というのは、英国のトニー・ブレア首相の就任演説における発言を基にしている。

 さて、本来ならば単なる「私語り」でしかないから検証するに値しない、と取り扱った林氏の文章であるが、ではなぜ私がここで改めて林氏の文章を採り上げるかというと、それは林氏の文章の不毛さがそのまま我が国における教育「論」の不毛さを映し出しているからである。

 林氏は冒頭において、《私はこの原稿を引き受けたことを、かなり後悔している》(林真理子[2001]、以下、断りがないなら同様)と書いている。私としては、その意志を断固として最後まで貫き、できればこの文章自体を書かない、あるいはもっと考えを練った上で書いたほうがいいのではないか、と思う。なぜなら、先ほども述べたとおり、林氏のこの文章が最初から最後まで「私語り」に終始しているからである。例えば183ページの次の文章を見てみよう。

 電車や街中で多くの少年少女や若者を見るたび、私はこの国の子どもたちがどうやらあまりよくない方向に行くことを感じていた。彼らの顔つきから、知的なものや真摯なものがまるで感じられないのだ。……

 ……戦争というものは、指導者が愚かな民衆を操ることによって起こる。戦争を拒否するためには、実に多大なエネルギーが必要だ。本当に強い意志と行動力を持っている人だけが、平和を持続させることが出来るということを、今回のことで実感した。

 そうした視点から見れば、本当にこの国の子どもは大丈夫なのだろうか。ケイタイをぼんやりと押し続けている間に、国民番号制と同じように、徴兵制が法案化されても気づかないような気がする。

 まったくどうしてこの国の子どもは、これほど悪くなったのだろうか。あたり前だ。親が悪いからである。またここで私の筆がにぶる。教育を語ることは、自分の親、自分、そして自分の子どもと三代にわたって肯定することに他ならない。……

 この程度の文章で原稿料がもらえてしまうのだから、青少年問題に関してあれこれ考えてついでに新聞・雑誌の記事も文献も見たくない思想的現実(=俗流若者論)も読んで更にあれこれ考えて金にならない文章を殴り書きしている私はうらやましい限りである。それはさておき、この程度の文章でさえ、「教育」を語っている論考として、すなわち教育「論」として許容されることに、我が国の論壇における「教育」というものの位置づけを見取ることができるだろう。そもそも林氏は、この程度の自分の体験談と単なる強引かつ恣意的なアナロジーによって教育「論」を展開しているのであれば、最初から教育「論」など書くべきではない。この文章は明らかに低レヴェルな「憂国」エッセイであって、最初から「論考」として期待すべき質の文章ではないのである。

 しかし――我が国の論壇においては、このような文章こそが「教育論」として受け入れられる。論壇にとって、「今時の若者」とは財政赤字や北朝鮮などと同様に深刻な問題であり、かつもっとも身近な問題であり、故にファースト・プライオリティーとして「解決せねばならない」問題として捉えられる。従って「今時の若者」に対する「対策」としての最も手っ取り早い政策として「提言」(現実には「提言」ということが憚れるほど下らない次元の議論なのだが)として「教育」が持ち出される。我が国の論壇において、「教育」とはまず「今時の若者」に対する「対策」として語られるのである。だが教育の問題というのは「今時の若者」に対する敵愾心では語れない場所に本来はあり、例えば社会構造の問題などに対する幅広い関心が必要となるのだが、自称「知識人」は俗情に媚びた短絡的な「提言」しかしないので、我が国の論壇において教育とは限りなく上滑りなだけの議論となりがちである。

 我が国において求められている教育論とは、そのような教育「論」ばかりが跋扈する状況に一石を投じるものであるはずだ。しかし我が国において、かような教育「論」はますます力を強め、ついにはプロフェッショナルであるべき人たちですら、最初から「今時の若者」を貶めることを目的とした「調査」までを行ってしまうほどである(これについては「統計学の常識やってTRY」の第2回第3回を参照されたし)。

 林氏の文章の紹介(検証とは言わない)に戻るが、林氏の文章は、ただ自分を肯定して現代の親と若年層と青少年を貶める文言がただ続くだけの文章なので、これ以上いちいち検証する気にはなれない。なので紹介だけにとどめておくと、例えば《こういう私にとって、現代の「友だちのような親子」というのは、本当に薄気味悪い》(185ページ)とか、《これだけ長いこと日教組に子どもたちを任せ、これだけ子どもたちが悪くなっているのに、よく変革が起こらないということだ》(186ページ)とかいった、いかにも思い込みと反射神経だけでしか語っていないことが良く分かる文言ばかりが並んでいる。そして最後に林氏が言うのが《クスリさえしなければ、売春さえしなければ、自殺しなければ、というマイナスの期待からは何も生まれないだろう。世の中のためになる人間になって欲しい。強く正しい人になって欲しい。この素朴な思いを、いったいいつ頃から私たちは口にしなくなったのだろうか》(168ページ)などという誰でも言えるような空疎な文言であるのが痛い。林氏は《マイナスの期待からは何も生まれないだろう》と書いているけれども、実際に子供に対する《マイナスの期待》ばかり親に、そして社会に押し付けているのは一体誰だ?青少年「問題」を針小棒大に採り上げ、「今時の若者」というイメージばかり肥大化させているマスコミや自称「知識人」ではないか。林氏はなぜこのような残酷なる言論体系を撃たないのか。

 しかし、このような実にないよう空疎な林氏の「憂国」エッセイに、一つだけ意味を見出すことにしよう。それは、この文章が、「文藝春秋」平成13年12月号の教育特集の一番最初に据えられていることである。これはすなわち、林氏のこの文章が、この教育特集の柱として据えられている、ということを意味するのではないか。林氏の、この程度の「憂国」エッセイが、一つの大きなオピニオン雑誌の教育特集の巻頭論文として据えられているのだから、我が国における、少なくとも「文藝春秋」における「教育」というものがいかなる位置づけを持っているのか、ということがわかる。林氏の文章の不毛さは、そのまま我が国の教育「論壇」の不毛さとして映るのが、ここで明らかになろう。

 参考文献・資料
 林真理子[2001]
 林真理子「この国の子どもたちは」=「文藝春秋」2001年12月号、文藝春秋

 苅谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ』中公新書、1995年6月
 広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書、1999年4月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月

 玄田有史「ニート、学歴・収入と関連」=2005年4月13日付日本経済新聞
 内藤朝雄「お前もニートだ」=「図書新聞」2005年3月18日号、図書新聞

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2005年8月13日 (土)

俗流若者論ケースファイル57・清水義範

 奇妙な話がある。ここ最近、少女を狙った犯罪者がロリコンなどの倒錯した性的嗜好を持っていることが判明するたびに、マスコミは「少女が犯罪者に狙われやすくなる時代が来た」などとほざくことである。

 おかしくはないか。

 もしその論理が正しければ、まず我が国において父親という存在が許されてはならない、ということになる。なぜなら我が国において、性犯罪の加害者/被害者の関係の中で、最も多いのは父親などの肉親/家庭内の女性であるからだ。ロリコンまたはペドファイル/見ず知らずの幼女、という関係は肉親/家庭内の女性に比べて格段に少ない。しかも我が国においては児童虐待で殺されている子供が諸外国に比べて多く(それも今に始まったことではないのだから恐ろしい)、特に母親に殺されているケースが多いため、母親という存在も許されてはならない、ということになろう。更に言えば、我が国では毎年自動車による交通死亡事故=自動車を凶器とした殺人が毎年数千件起こっており、その中には幼女が被害者となるのも少なくないから、歩行者通行止めの道路以外に自動車を走らせるな、という論理も組み立てられよう(何せ未成年の最大の死因が「不慮の事故」だ)。

 マスコミは、例えばロリコンやオタクやゲーマーといった「叩きやすい対象」が浮上すると、事件や犯人に対する検証など即刻放棄して、それらに対する敵愾心を煽る。自動車が叩かれないのは、彼らがひとえにその利益を被っているからであり、結局のところ彼らは自分の利益になることしか考えていないのである。だから、自分が理解できないだけで国家崩壊、社会崩壊のシンボルと勝手に位置付けることもやぶさかではないし、そのように煽ってメディア規制を盛り上げると自分にもやがてはその影響が降りかかってくる、ということも知らずに「排除」に与する。

 今回検証するのは、そのような「憂国」エッセイである。著者は教育問題にも詳しい作家の清水義範氏、記事のタイトルは「あたり前が崩れている恐ろしさを考える」(「現代」平成13年11月号に掲載)である。この論文は、最初になぜ児童買春がいけないか、ということに対する清水氏の答えが出てくるの。というのも、この文章では、この論文が発表される少し前に起こった、教師による少女売春事件に触れられているからである。先の質問に関して、清水氏の答えは至極単純で、法律で禁じられているからである、と。少なくとも法治国家である我が国において、そのように答えることは全く正しい。しかし、清水氏は、ここでやめておけばよいものの、以下のように述べることによって、事態を乱暴に一般化してしまう。217ページにおいて曰く、

 そして教師たちも、そういうあるはずのない愚行に走る者が増えているらしい、99年度一年間に、全国の公立小中学校などの教員で、問題行動によって処分を受けた者が4930人あまりだそうだ。そしてその中に、わいせつ行為で処分されたのが115人で、これは前年度の約1.5倍で過去最多なのだそうである。

 つまり、その職業(筆者注:ここでは教師)についているからには、絶対にしないことがある(筆者注:ここでは「問題行動」によって処分を受けること)、というあたり前の前提が崩れかけているということであろう。

 我々の社会の危機なのだと思う。

 自分の仕事への誇り、というものが失われかけているのだ。私たちのすべてに、そういう誇りの喪失が忍び寄っているのだ、とまで考えてみるべきだと思う。

 まともな社会なら、人間は自分の職業に誇りを持っているのではないか。……それが社会秩序である。

 どうもそれが壊れかけているらしい。自分のしている仕事に、何の誇りも持てず、ただやむなくやっているだけの人間が出てきているのだ。ただ、教員の採用試験に通ったからという理由だけで教師をし、子供をよいほうに導いてやりたい、ということは少しも考えていない教師というのは、そういう誇りのない社会だから出てくるのだろう。(清水義範[2001]、以下、断りがないなら同様)

 まず、清水氏が親の教師や学校に対する目線の変化について触れないのはどうしてだろうか。我が国において、昭和55年ごろを境に市井の学校に対する視線は変化し、管理教育などが告発されるようになり、子供の教育に対して「学校の責任」が強く問われるようになると同時に、校内暴力などもこの時期から問題化し始める(広田照幸[1999])。更に最近、学校をめぐるさまざまな事件に関する報道が溢れるようになって、市井の学校に対する目線はますます険悪化した。「問題行動」によって処分を受ける教師の増加には、このような背景によるものも少なからず含まれていると思われる。さらに清水氏は、一番最後の段落において、《そういう誇りのない社会だから出てくるのだろう》などと述べることによって、比較的若い教師がそれらの「問題行動」を起こしているのだ、ということを示唆しているようだ。しかし、このような物言いは、教員採用をめぐる現実を全く無視した文言といわざるを得ない。というのも、我が国において教員の年齢は高齢化の一途を辿っており、公立小学校教員の年齢構成としては、平成10年現在では43~46歳が一番多く(18000人弱)、特に大阪府では年齢が40歳の教師から、その数が飛躍的に増加し、およそ47~53歳で最高の水準(1600人弱)となる。他方若い教師はというと、国立の教員養成系の大学や学部の新規卒業者の教員への就職率は平成11年まで一貫して低下の一途を辿っており、昭和55年ごろが80%に迫る勢いだったのに対し平成12年は40%にも満たない(丹羽健夫[2002])。教員養成系のトップクラスである東京学芸大学でさえ、たとい補欠となっても正式採用となる教師は極めて少ないという事態が起こっているようだ(太田啓之[2001])。「デモ・シカ教師」(=「教師にでもなるか」「教師にしかなれない」という理由で教師になった人)と揶揄されたのも今は昔、教師になるのは極めて厳しい状況に現在はある。

 翻って、清水氏は「問題行動」を起こす教師の年齢構成を調べたことがあるのだろうか。これに関しては私も具体的なデータがないのでなんとも言えないけれども、この側面に関する検証を怠って、ただ《そういう誇りのない社会だから出てくるのだろう》などと簡単に述べてもらっては困る。例えば、ストレスゆえ手を出してしまったとか、教師というものに絶望して手を出してしまったとかいうこともあるわけで、その点に関しても検証すべきだろう。もちろん、「問題行動」を起こした教師にはそれ相応の罰が必要だけれども、ここで述べたファクターを無視して安易に「憂国」する、という態度は望ましくない。この点について清水氏が隠蔽するのは、清水氏と同世代の人が「問題行動」を起こしていることを隠蔽したいからではないか…という邪推はやめておこう。

 更に清水氏は、218ページから最後の220ページにおいて「性の虚弱化」について述べるけれども、特に219ページにおいて述べられている清水氏の文言は、はっきり言って今大谷昭宏氏などが喧伝しているイメージと完全に重なる。

 ところが、その方向で女性が元気になってきたせいで、一部の男性が、女性とうまく性関係を築けなくなっているのだ。人間として当然性欲はあるが、ちゃんと女性とそのつきあいとするのが、こわくて、面倒で、どうもうまくいかない、というような傾向が出てくるのである。その面を捕らえて、私は、性が虚弱化しているなあ、と思う。

 そういうわけで、昨今の世の中はフェティシズムだらけである。女性そのものにかかわるのがおっくうなので、その周辺の物質で性欲をかなえようとするわけだ。女性に触れるのはいやで、その下着や靴に欲情したり、ということになる。

 アニメのキャラクターに惚れ込んで、フィギュアと証するお人形を何体も集めることが性の活動だ、というような青年も出てくる。

 いや、私はそのことを非難はしない。性なんてものは個々人の自由であればいいからである。どんな人だって少しずつは変態なのであって、犯罪につながるのでなければ、自分の性の楽しみ方でやっていればいいのだから。

 ただ、私が言いたいのは、ちゃんと女性に性欲が向けられず、虚弱な性を別のものに向けていく蛍光からは、児童ポルノとか、幼児姦というような、弱い子供に性欲が向けられるケースが(もちろん、まれにだが)出てきて、それがこわいな、ということである。……

 児童ポルノ禁止法や、少女売春を禁じる法律はそういう時代性の中で出てきたのだが、まだそのことの恐ろしさにあまり気づいていない人が多いような気がする。今、小中学生の女児というのは、かなり弱い世の中に生きているのだ。子供にしか手を出せない変な大人の、性の餌食にされるかもしれない危険性の中に生きているのだから。

 ここまでの問題発言を、自らの言説の政治性も考慮せずに語れる清水氏というのはどうかと思う。まず、例えばアニメのキャラクターやフィギュアに対する性欲を何の根拠もなしに「性の虚弱化」だとか《児童ポルノとか、幼児姦というような、弱い子供に性欲が向けられるケース》などと短絡してしまうのは、我が国における性犯罪の現実を調べていないからこそいえるのだろう。そもそも清水氏は《性なんてものは個々人の自由であればいいからである。どんな人だって少しずつは変態なのであって、犯罪につながるのでなければ、自分の性の楽しみ方でやっていればいいのだから》と述べているけれども、例えばアニメのキャラクターやフィギュアに対する性欲はここから除外されているのは言うまでもないだろう。

 さらに、清水氏は最後の段落において《児童ポルノ禁止法や、少女売春を禁じる法律》に関して述べているけれども、例えば社会学者の宮台真司氏のように、その危険性や、特に児童ポルノ禁止法に関して「表現の自由」への抵触という観点、更には児童ポルノの視聴が性犯罪と関連しているというデータがない、という観点から批判も多かった。もちろん児童ポルノ禁止法を批判する人たちは、ただ自分たちに児童ポルノを見させろ、という歪んだ動機から反対しているのではなく、根拠もなしに権力がトートロジーによって一方的に規制することがおかしいから反対しているのであって、これは昨今盛り上がっているゲーム規制論に対する批判論も同様である。

 清水氏は、《児童ポルノ禁止法や、少女売春を禁じる法律はそういう時代性の中で出てきたのだが、まだそのことの恐ろしさにあまり気づいていない人が多いような気がする》と述べているけれども、むしろ一つのメディアに対する規制が更に他のメディアや表現に対する規制につながってしまうことの恐ろしさを多くの人々が気がついていないことのほうがもっと怖い。もちろん、児童ポルノや児童買春に関しては、ひどいものは刑法で処罰すればいい話で、特別法を作ったからこそ責任の所在が曖昧になったり、あるいは罪が軽くなったりするという側面も現れている。

 そして清水氏は《今、小中学生の女児というのは、かなり弱い世の中に生きているのだ。子供にしか手を出せない変な大人の、性の餌食にされるかもしれない危険性の中に生きているのだから》と述べる。このようなレトリックがおかしな話であることは、冒頭で述べたとおりだ。もう一度言う、それなら清水氏は父親と母親を撲滅せよ、子供を産んだら直ちに政府に預けよ、となぜ言えないのだろうか。我が国において性犯罪の温床となっているのは肉親だし、我が国の母親は歴史的に児童虐待を起こすものが諸外国に比して極めて多い。清水氏はこの点にも着目して言わなければならないだろう。清水氏が児童ポルノやアニメやフィギュアを叩くのは、所詮それらが「叩きやすい対象」だから、という理由に過ぎないのではないか。

 「叩きやすい対象」さえ叩けば犯罪は撲滅できる、というのは過激な共産主義者の考えである。現在盛り上がっているオタクメディア規制論は、所詮自分がそれを嫌いだから、という理由以上のものはない。表現の自由に対する抵触とか、我が国において性犯罪の発生率が低いこととか、更に我が国において性犯罪や強制わいせつ罪の被害者の中でも未成年者が被害者となる数は減っているということとか、それらに対する言及は一切ない。

 いつぞやかの選挙の中で、田中眞紀子氏が「主婦感覚の政治」などと語っていた記憶がある。しかし私は、我が国において軽々しく語られる「主婦感覚」「市民感覚」という言葉を疑っている。我が国において、政治哲学的な意味においての市民(シチズン)、すなわち一人の責任ある市民として、あるいは政治への責任ある参画者としての市民という態度を貫ける人が、果たしてどれほどいようか。同調圧力が強く、その場その場の「空気」において流される我が国において、大衆は自分が「理解できない」少年犯罪・若年犯罪の「犯人」を血眼になって追い求め、青少年を貶める小気味良い言説が登場したらすぐにそれに飛びつき、そのような行為に対する責任をとる人など誰もいない。所詮そのような人にとって、大切なのは自分の「生活」だけ、守るべきものは自分の価値観と利益だけである。

 そしてそのような悪しき傾向を、短絡的な情報ばかり流して大衆をそれに溺れさせ、そして自分もまたそれに溺れるマスコミや、自分の言説に責任を持たずにただ不安を煽る言説ばかり垂れ流す俗流言論人が最も強めているのである。まあ、彼らにとって「責任」という言葉は鴻毛よりも軽いから、このような物言いも通用しないだろう。

 参考文献・資料
 太田啓之[2001]
 太田啓之「教師になれない卵たち」=「AERA」2001年2月5日号、朝日新聞社
 清水義範[2001]
 清水義範「あたり前が崩れている恐ろしさを考える」=「現代」2001年11月号、講談社
 丹羽健夫[2002]
 丹羽健夫「教員養成系大学再編私案」=「論座」2002年5月号、朝日新聞社
 広田照幸[1999]
 広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書、1999年4月

 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 宮台真司『宮台真司interviews』世界書院、2005年2月
 ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』岩波文庫、上下巻、1987年2月
 ジャン・ジャック・ルソー、桑原武夫:訳、前川貞次郎:訳『社会契約論』岩波文庫、1954年12月
 ジョン・ロック、鵜飼信成:訳『市民政府論』岩波文庫、1968年11月

 長谷川真理子、長谷川寿一「戦後日本の殺人動向」=「科学」2000年6月号、岩波書店

 参考ウェブサイト
 「厚生労働省統計表データベースシステム」から「第2章 人口動態
 「少年犯罪データベース」から「幼女レイプ被害者統計
 「メディアリテラシーの視点で見た子供を性犯罪から守る方法

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 ※8月13~16日は盆休みに入るので、一時更新を中断させていただきます。

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2005年8月12日 (金)

俗流若者論ケースファイル56・片岡直樹

 さて、川崎医科大学教授・片岡直樹氏の登場である。片岡氏に関しては、この連載の37回目で検証したが、片岡氏単独の論文の検証は始めてである。検証する論文は、「テレビを観ると子どもがしゃべれなくなる」(「新潮45」平成13年11月号)である。片岡氏が、テレビの視聴により所謂「新しいタイプの言葉遅れ」が生じる、という説を発表しているのは、丁度この時期からだと推測される。この記事が発表される数ヶ月前に、片岡氏は『テレビ・ビデオが子どもの心を破壊している!』なる著書を発表しているので、この推測はおそらく正しいだろう。

 しかしこの文章において、片岡氏の自閉症というものに対する認識はこの時期から現在まで変わっていない、という気がするのである。また、片岡氏の、現代の子育てや若年層に対する認識に関しても同様である。例えば片岡氏は、133ページにおいて、《先に示した症状(筆者注:所謂「新しいタイプの言葉遅れ」)がある子どもの普段の生活などを細かく聞きますと、共通点があるのです。生まれながらにしてテレビが付いている環境で育っている、または生まれた時にはテレビがなくても生後半年や一年ぐらいからテレビ漬けになっており、母親など生身の人間との情緒的なかかわりが非常に乏しい》(片岡直樹[2001]、以下、断りがないなら同様)と書いている。ならば片岡氏は、テレビ以外のファクターをコントロールした(影響を排除した)のだろうか。もちろん、排除することは無視することとは違う。「排除」とはさまざまな影響を考慮した上で取り除くのに対し、「無視」は最初からないものとして扱うことを言う。

 そのほか、このような問題発言もある。135ページから136ページにかけて。

 言葉が遅れて出てきた子は、大人とは会話が出来ます。それは大人が子どものことを配慮しながら、応答してあげるからです。ところが同世代の子どもとは無理。周りに上手に反応することが出来ないので、一緒に遊べない。ここで強い子だと、友だちがワーッと寄って来たときに、逆にボンと叩いたり、突き飛ばしたりする。弱い子だと、逃げて独りぼっちになる。こうした状態は、ADHDと言われているものと酷似しています。

 そのまま大きくなると、学童期に入って、LD(学習障害。知的な遅れはないが、聞く、話す、読む、読む、書く、計算するなどの特定の能力の習得や使用に著しい困難を示す)と言われるものにつながる可能性もあります。
 今年になって、私が診た中学1年の男の子C君が、そのような症例に当たるでしょう。

 この子は、毎日、家でテレビゲームばかりしているので、親がゲームを取り上げたところ、学校で先生に「死にたい」などと言い出し、先生が驚いて親に連絡しました。それで、親が近くの病院に相談しに行き、そこから、私のところへ紹介があったのです。

 まずこれのどこに問題があるかというと、まず片岡氏のADHD(注意欠陥/多動性障害)に関する認識である。片岡氏は、どうもADHDという言葉だけを乱発して、その不安を煽ろうとしているのではないか。実際問題、ADHDに深く関わってきた医者からは、このような傾向に対して不安の声も少なくないようだ。ADHDに深く関わってきたライターの品川裕香氏は、現状を《児童がADHD的な行動を取るからといって、必ずしもADHDとは限らないのに、DSM-Ⅳ(筆者注:アメリカ精神医学会が定めた、「精神疾患の分類と診断の手引き」の第4版)の診断基準などに照らすだけで「チェック項目がいくつですから、あなたのお子さんはADHDの○○型です」などと「コンビニ診断」している医療現場がある》(品川裕香[2002])と批判する。片岡氏の行動は、DSMこそ出てこないものの、まさしくこれに当てはまる。

 しかも、この引用部分の後半2段落に関しては、かつて「潮」平成17年4月号に掲載された曲学阿世の徒・日本大学教授の森昭雄氏の文章(この連載の第7回にあたる)における、《「この子は覚えることや考えることが苦手なんです。どうしたらいいでしょうか」と、小学生の子どもをつれて相談にきたお母さん》(森昭雄[2005])と同様の危なさを覚える。この《中学1年の男の子C君》の親もまた、自分の子供が問題のあると思われる行動(ここでは《先生に「死にたい」などと》言い出すこと)を病気だと短絡させ、病院に相談にいく、という態度をとっているのである。もしこの親が『ゲーム脳の恐怖』を読んでいたら(とはいえ、この論文が掲載されたのは『ゲーム脳の恐怖』が出版される遥かに前だが)、間違いなく森氏のもとに駆けつけるだろう、という邪推はここで終わりにしておくが、少なくとも我が国の子育て言説の一部において「親の思うとおりに育たなければ子供は病気である」という思考が蔓延しつつある、ということに関して我々はもっと危機感を持ったほうがいい。

 また、片岡氏は136ページにおいて《現在も精神安定の薬をもらいに通院している30歳になるDさん》の事例も紹介しているけれども、片岡氏は《彼も白黒テレビのコマーシャルが大好き。3歳になっても多動であり意味のある言葉が話せないので、ここへ診察を受けに来たわけです》という理由だけをもって《テレビがなければ、普通の子だったのではないかと思っています》などと短絡している。

 また、片岡氏は、138ページにおいて曲学阿世の徒・北海道大学教授の澤口俊之氏の「PQ」概念という問題の大きい珍概念(これについてはこの連載の第48回を参照されたし)を好意的に紹介しているほか、信憑性の極めて低い《オオカミ少女》の話も真に受けている(この連載の第37回を参照されたし)。当然の如く、他の曲学阿世の徒の論法がそうであるとおり、片岡氏もまた、他の曲学阿世の徒の論理を自分の曲学阿世の都合のいいように歪曲して用いる。その証左として、片岡氏は、《テレビや早期教育はPQの発達を阻害するものです。先に症例で示したように、言葉が出ないだけではなく、周りとコミュニケーションが取れなくなり、ADHDになってしまうのも、PQが育たないためだと思われます》(138ページ)と述べている。疑似科学市場とは所詮曲学阿世の縮小再生産なのである。

 片岡氏は最後の139ページにおいて、特に高学歴の親に警鐘を鳴らしている。曰く、《高学歴で神経質な方だと、お母さん自身がノイローゼになるし、子どもも良くならない》《高学歴なお母さんは他の子どもがどんどん賢くなるのを見ていられなくて、無理やり言葉を教え込もうとする》と。しかし、テレビの視聴が子供を自閉症にする、という自閉症に関する誤解をまき散らし、この手の言説に至極敏感な高学歴の親たちを脅しているのは一体誰なのか?親の「自閉症かもしれない」「ADHDかもしれない」という不安をそのまま「自閉症である」「ADHDである」と短絡的に昇華しているのは一体誰なのか?

 自らの言動に無責任で無頓着なのもまた、曲学阿世の徒の一つの特徴である。

 参考文献・資料
 片岡直樹[2001]
 片岡直樹「テレビを観ると子どもがしゃべれなくなる」=「新潮45」2001年11月号、新潮社
 品川裕香[2002]
 品川裕香「「ADHD」にとまどう教育現場」=「論座」2002年11月号、朝日新聞社
 森昭雄[2005]
 森昭雄「“ゲーム脳”に冒される現代人」=「潮」2005年4月号、潮出版社

 斎藤環『心理学化する社会』PHP研究所、2003年10月
 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 十川幸司『精神分析』岩波書店、2003年11月
 日垣隆『現代日本の問題集』講談社現代新書、2004年6月
 広田照幸『教育には何ができないか』春秋社、2001年1月

 品川裕香「大人のADHDにも理解と支援を」=「論座」2002年12月号、朝日新聞社
 村田和木「「片づけられない女」と片づけないで」=「中央公論」2002年11月号、中央公論新社

 参考ウェブサイト
 「こどものおいしゃさん日記 おおきくなりたいね」から「「テレビ・ビデオの長時間視聴が幼児の言語発達に及ぼす影響」
 日本自閉症協会東京都支部ウェブサイトから「繰り返される「テレビ視聴=自閉症」の発言

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2005年8月11日 (木)

俗流若者論ケースファイル55・遠藤維大

 高校時代、NHKで現在もやっている「真剣10代しゃべり場」という番組は、私の周りでは極めて評判が悪かった。私は2年生の頃から若者論の研究を始めていたのだが、そのことを知っていた私のクラスメイトはこの番組を私に見るように勧めた。といっても、批判的材料としてで、「あれを見てみろ。絶対お前は怒るから」などといった具合で勧められていたのである。しかし私はこの番組をずっと見ていない。

 実を言うと今回検証するのは、この「真剣10代しゃべり場」なる番組で保守の立場から論陣を張って話題になった(らしい)人、予備校生(当時)の遠藤維大氏による文章「自傷行為「リスカ」と日教組」(「正論」平成13年9月号)である。遠藤氏は1982年生まれで、私は1984年生まれであるから、私よりも2歳ほどしか年齢が違わず、またこの連載で採り上げる人としては最も若い(次に若いのは、おそらく「AERA」編集部の福井洋平氏(第39回で採り上げた)と推測される。福井洋平[2005]における《本誌記者(27歳独身)》という記述が福井氏のものであれば、福井氏は1978年または1977年生まれということになる)。この文章を一読して、保守とはここまで軽いものなのか、と頭が痛くなった。なんというか、俗流保守論壇人が若年層に抱いている妄想をただ列挙した感じなのである。

 当然如く、この文章のタイトルとなっている「リスカ」というのはリストカット(手首切断)のことなのだが、遠藤氏はこの行為のほか、《集団暴走行為への非行化や、定職につかないフリーター、または不登校・引きこもり等の現代の若者だけに見られるさまざまな悪しき現象》(遠藤維大[2001]、以下、断りがないなら同様、276ページ)の原因を、《「所属意識」の実感の仕方》(277ページ)に求める。ちなみに暴走族だのフリーターだの不登校だのひきこもりだのが《現代の若者だけに見られるさまざまな悪しき現象》などというのは完璧に事実誤認であると指摘しておく。少なくとも暴走族はずいぶん前からあり、犯罪白書によればその人数は減少している。不登校にしろひきこもりにしろ、笠原嘉氏(名古屋大学名誉教授)や斎藤環氏(精神科医)などの長年の研究の蓄積がある。フリーターもまた経済社会構造の問題として捉えたほうが本質がつかめる。

 それはさておき、遠藤氏は277ページから278ページにかけて2つの事例を挙げる。一つは《高校生のときは頻繁にリスカをしていたが、最近就職をして社会人になったとたんにリスカをする必要性が全く無くなった》というケースであり、遠藤氏はここから飛躍して、以下のように述べる。曰く、

 これは全てに置き換えることができる。生まれてこの方、公的空間において国歌も国旗も実感する機会が全く無かった子供たちは、「自分が日本人である」という意識を持ち合わせていないのだ。……それでいて、しっかりと国民としての権利は受け取っているのでなんともいえない。今の子供は自分が病気になった時に国民健康保険で補助をしてくれるのは日本国だという事を知らない。自分の持つ生命や人権を保障してくれているのは、酷いのになると「子供の権利条約」だと勘違いし、国民の生命財産を守ってくれている日本国を「当たり前」とまで錯覚している。……

 しかし、問題の本質はそういった甘えている子供達ではなく、その子供の甘えを助長している大人達にあるのではないか。よく、制服を撤廃して私服登校に切り替えている高校に見られる現象だが、高校としての制服は無い癖して、部活動では統一されたユニフォームを部員が購入し「全体としての団結心」を孝養させた上でスポーツに励むといった現象が見られる。自分はこれに露骨な矛盾を感じられずにはいられない。単純な話、「全て個人として」という前提の上に高校の制服を無くしているのにも拘わらず、部活動だけに制服を導入すると言うことは、高校という組織はどうでも良いが、自分の好きな事だけはみんなで団結してやっていきたいので、そのためには制服を導入して意識の団結と高揚を図りたいんだという子供たちのとてつもない「甘え」の現われなのだ。……

 少々引用が長くなってしまったことをお詫びしたいが、なんともデ・ジャ・ヴュに満ちた文章ではないか。しかも高校の部活動の話に関しては、全くアナロジーとして不適切極まりない。私の母校(宮城県仙台第二高校)は、私が入学した頃には既に制服は廃止されていたが、その立場から見てもこのアナロジーにはやはり強い疑問を感じざるを得ない。我が国において、左翼思考に染まった大人を批判するために「今時の若者」を批判するというスタイルを演じることが保守である、というのであれば、何と我が国において保守という立場の脆弱なことか。少なくともこのような安易なアナロジーに賛成してしまう人の思考力を疑わざるを得ない。

 遠藤氏は278ページにおいて、もう一つの事例、《高校入学と同時にテニス部に参加》し、《先輩たちの勝ち取った勝利の栄典の数々と、先輩達の優れた技術による試合》に感銘してからリストカットをしなくなった、という例も挙げ、先ほどのアナロジーに更に正当性を加えるのだが、遠藤氏に問いかけたい、果たしてその高校に制服はあったのか?もし制服がなかったとすれば、先に引用したアナロジーの後半部分はすぐに潰えてしまうことになるのだが。当然の如く、他の俗流保守論壇人と同様に、遠藤氏も「本質」という言葉が好きだ。279ページ、《こうも現代の若者達の精神基盤が虚弱となっているのは、本質の理由が必ずある。それは、現代の少年少女達は「自分」以外の全ての心の基盤となるものを剥ぎ取られ、「一人で生きる事」を強制されているからであると自分は考える》、と遠藤氏は述べる。《こうも現代の若者達の精神基盤が虚弱となっているのは》などと遠藤氏は言っているけれども、あなたはそこには含まれないわけか。なんとも無責任な。

 そして当然の如く、《今の子供達の心の空白感と今の公教育は非常に強い関連性を持っている。歪曲した歴史教育を思考能力が未熟である児童へ押し付けて子供達の憧れをかき消し、一切の所属意識を否定した「個性の」「個人として」といったような教育を、彼ら組合構成員は半年にわたって布教してきた》と述べる。当然《組合構成員》とは日教組の構成員だ。今日教組の影響が強い学校がどれほどあるのだろうか。更に280ページでもまた、《そんな子供達にもしも「日本」という集団に所属している意識があったのならばどうだろうか。日本の為に生きよう、日本の為にがんばろうという目的意識によって向上できるかもしれないのではないだろうか。実際、この私がそうなのだ》と述べる。

 ここで遠藤氏の国家意識に関して検証してみるのだが、遠藤氏の国家意識というものは、あまりにも牧歌的過ぎまいか。遠藤氏は国家に所属している、という意識を涵養することによって青少年問題の全てが解決する、と言っているけれども、現代はそのような「国家意識」の涵養だけによって解決できる問題などない。例えば「ひきこもり」に関して言うと、斎藤環氏他多くの報告により、「ひきこもり」の人の多くは家族に対して自分は迷惑をかけている、という意識を強く持っていることから「ひきこもり」が更に深刻化する傾向がある、ということが明らかになっている。もしここに「国家」という「家族」よりも更に大きなものを設定したら、それに対する責任感も強くなるわけで、遠藤氏が夢想する《日本の為に生きよう、日本の為にがんばろうという目的意識によって向上できる》どころか、むしろ更に「ひきこもり」の人たちを追いつめるのではないか、と私には思えてならない。

 しかし、遠藤氏にとって、国家というものは何と軽いことか。このように言うと遠藤氏は怒るかもしれないが、しかし遠藤氏のこの文章において国家というものは所詮は遠藤氏の不快に思う現象を簡単に解決してくれるものとしてしか取り扱われていないのである。そして遠藤氏における国家の「軽さ」は、そのまま俗流保守論壇における国家の「軽さ」に当てはまる。遠藤氏他、俗流保守論壇人は「自分の信奉している「国家」に「今時の若者」も所属させれば、青少年問題など簡単に解決できる!」などと簡単に述べる。しかし、果たして現在の状況がそれだけで解決できるものであろうか?世の中には若年層をバッシングする言説ばかり溢れ、フリーターも若年無行も「ひきこもり」も全て「心」の問題として「自己責任」の美名の下で処理される。自分だけは善良だと思い込んでいる多くの人たちが既得権にしがみつき、その既得権の傘の下で若年層ばかりバッシングする。若年層バッシングは自分を傷つけず自分の鬱憤を晴らす最高の方法である。しかしそれゆえに危険度はきわめて高い。彼らがしがみついている既得権にしがみつくためには、現実を無視しても彼らに媚びるしかない。俗流若者論は甘い甘い奈落への歌声である。

 しかし遠藤氏の文章を読んで私がもっとも実感したのは、俗流保守論壇は縮小再生産だけで成り立つ、クリエイティビティのない場所である、ということだ。

 参考文献・資料
 遠藤維大[2001]
 遠藤維大「自傷行為「リスカ」と日教組」=「正論」2001年9月号、産経新聞社
 福井洋平[2005]
 福井洋平「メイド掃除でモテ部屋に」=「AERA」2005年5月30日号、朝日新聞社

 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 斎藤環(監修)『ひきこもり』NHK出版、2004年1月

 酒井隆史「「世間」の膨張によって扇動されるパニック」=「論座」2005年9月号、朝日新聞社
 内藤朝雄「お前もニートだ」=「図書新聞」2005年3月18日号、図書新聞

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俗流若者論ケースファイル54・花村萬月&大和田伸也&鬼澤慶一

 平成13年、この時期は、少年犯罪のほか、電車内における若年層による暴力事件が話題になった時期でもある。著名人では評論家の坪内祐三氏も被害にあったようだ。今回検証する、「文藝春秋」平成13年7月号に掲載された「電車で殴り殺されないために」という鼎談で出席している鬼澤慶一氏(芸能レポーター)も同様の被害にあったらしい。私は、それらの事件の被害者には、強い同情を禁じえない。

 だが、それらの被害者が、公のメディアでそれらの事件を元に若年層に対する敵愾心を煽っていたら、やはり批判せざるを得ないだろう。この鼎談は、鬼澤氏のほか、青少年による暴行事件の被害者となった花村萬月氏(作家)と大和田伸也氏(俳優)も出席している。まず、この対談は、全体としては単なる「世間話」なので、取り立てて検証すべき箇所は少ない。

 まず、鬼澤氏の発言から。131ページから132ページにかけて。

 鬼澤 ……実際に暴走族の若者とあって話をしてる中で「君だったらどうしてた?」という質問をした。すると「そんなのかったるいや」って、こう言うんですよ。

 「なんでかったるいんだ?」と聞きましたらね、つまり、「駅を降りて、尾行して、途中に建築現場が二つあったからそこから鉄棒拾って、人気のないところで殴る。そんなかったるいことするかい」って言う。「じゃ、どうするんだ?」と聞いたら、「駅を降りたら刺すよ」と、そのひと言でしたね。いまの若い人たちは人の命を何だと思ってるのか。(花村萬月、大和田伸也、鬼澤慶一[2001]、以下、断りがないなら同様)

 とりあえず最後の一つ前の文章までは鬼澤氏の体験した事実なので批判すべきところはないが、ここで鬼澤氏に問いただしたいのは、なぜたった一つのことだけで《いまの若い人たちは人の命を何だと思ってるのか》などと飛躍してしまうのだろうか。少なくとも鬼澤氏が話していた暴走族(このような言い方もどうかと思うが。最近は「珍走団」なる言い方が定着しているようだけれども、私はこれには賛成する。とはいえ、ここでは便宜のため「暴走族」と表記することにする)が、現代の若年層の心理を代表していないことぐらいすぐにわかろう。ちなみに同様のことに関しては、これの数ヶ月前に朝日新聞に掲載された鬼澤氏とタレントの遙洋子氏との対談でも述べられていた(あいにくその記事は紛失した)。

 次は、大和田氏と花村氏のやり取り。133ページ。

 大和田 それにしても花村さんの話で怖いのは、携帯電話という新しい武器が登場してきたことですね。

 花村 子供たちの世界には、俺達の世代では思いもつかないような新しいネットワークができてるんですよね。あいつら、一人じゃないんですよ。形態があることによって全部繋がってるんです。

 大和田 確かに、いま会ってきた友達とでも、すぐに携帯で話してるものね。
 花村 俺、ほんとに怖かったんですよ。俺が彼らにケリ入れたのも、二人なら喧嘩しても何とかなるという発想があった。けど、一人は逃げて携帯でみんなに連絡してるんですよ。

 大和田 ああ、そうか。

 花村 いまの子供たちが居丈高なのは、背後にそういうネットワークがあるからということを、すごく実感しました。あ、こいつら単純にツッパッてるんじゃねえやと。俺らは一人だけど、あいつらはいざとなりゃ仲間呼べるんですよ。

 これも一つの事件の過剰な一般化であろう。花村氏も大和田氏もこのような場所で発言するのであれば、まず具体的な事例を調べてから行なうべきである。この程度の「世間話」であれば、とりあえず自分の経験が元になっているのでリアリティはあるが、だからといって公の言論として載せるほどの価値があるのだろうか。そもそも花村氏も大和田氏も、青少年を過度に敵視しているのが気になる。その点鬼澤氏は青少年に対する敵愾心というものが比較的低いように思えた。ついでに言うと《いまの子供たちが居丈高なのは》と言っているけれども、本当にそうなのか検証してみるべきである。

 しかし、この鼎談の最後における花村氏と大和田氏と鬼澤氏のやり取りは、完全に事実を無視した問題発言であった。137ページ、この鼎談の結びである。

 鬼澤 いまの若い人たちに、ある一定の時期、共同生活できるような場があるといいのかなあって感じはします。

 花村 俺も前から、軍隊が必要なんじゃないかと思ってます。戦争するためではなくて。

 鬼澤 そうそうそう。

 花村 若者のエネルギーを吸収するためにもね。軍隊という言い方が悪ければ、何らかのシステムが必要じゃないかと思う。

 鬼澤 共同生活をすると、そこに憎しみや軽蔑が生まれますが、逆にほんとに好きな同士でも会話も弾む。清濁、いろんなものが存在するわけですよ。その中を経験しながら抜け出してくると、ちょっと違うかなってかんじがします。いまの人たちはちやほやされてばかりで、そういう強制的な枠組みがありませんからね。

 大和田 ただ彼らが、そういうところに参加するかしら。

 花村 強制ですよ。

 大和田 強制?そんなバカな。

 花村 当然です。徴兵ですよ。

 大和田 で、その強制に従わなかったらどうなるんだろう。

 花村 刑務所にでも入ってもらえばいいんです。とにかく、俺たちがたとえば電車に乗ってムッとしたときに、若造に何か言えるのは、日本という国家では銃の所持が禁止されているからです。これがアメリカだったらどうか。これからは自分のみを守るためには、相手が銃を持っていると仮定しちゃったほうが早いんじゃないか。いまの日本は共通言語をもたぬ世代間の内戦状態なんですから。

 ここまで断言できるのも、やはり若年層に対する敵愾心なのか、それとも自分たちが社旗正義であると錯覚しているからか。いずれにせよ、なんとも安直、というほかないだろう。

 まず、この3氏は徴兵制を敷けば青少年の犯罪は減少する、と安易に考えているようだが、実際にはそうでもないようだ。韓国の例を引くと、韓国においては徴兵制がしかれているのは常識であるが、そのような軍事文化の影響により軍隊経験者の暴行事件が増えるなど、暴力的な指向を示す傾向があるようだ(尹載善[2004])。また、徴兵制は「ひきこもり」を解決する力は持ち合わせていないようであるし、同様に韓国では上流階級の親は子供を外国に住まわせることによって子供がその結果徴兵を逃れる、という事態も起こっている(斎藤環[2003])。現在の若年層が理解できないからといって、安易に徴兵制の導入を叫ばないで頂きたい。徴兵制によるリスクを検証せずに、また明確な信念もなしに、ただ若年層に対する敵愾心を煽る言説により、国家的な一大事である徴兵制が導入されたら、それこそ我が国は俗流若者論によって動かされる国となってしまう…と書いて、私はこの連載の第30回で検証した、自民党の憲法調査会における森岡正宏氏の発言を思い出してしまった。

 あまりにも個人が優先しすぎで、公というものがないがしろになってきている。……私は徴兵制というところまでは申し上げませんが、少なくとも国防の義務とか奉仕活動の義務というものは若い人たちに義務付けられるような国にしていかなければいけないのではないかと。(朝日新聞社[2005])

 少なくとも森岡氏の徴兵制、あるいはそれに近いものの導入論が、先に引いた花村氏や鬼澤氏の発言とほとんど同レヴェルであることは指摘するにたやすいであろう。更に、戦後の憲法が米国に押し付けられたもので、その欺瞞の上で戦後の我が国が存在してきたのだから青少年問題が深刻化するのも当然だ、という論調まである(伊藤貫[2003])。徴兵制にしろ戦後憲法体制の悪影響論にしろ、いまや「強い国家」が「今時の若者」の問題を「解決」する、という言説が一部で吹き上がっているのである。

 また、花村氏は《いまの日本は共通言語をもたぬ世代間の内戦状態なんですから》などと簡単に述べている。ならば、《世代間の内戦状態》を演出しているのは果たして誰か。花村氏や鬼澤氏は青少年だ、と答えるかもしれないが、私はむしろ青少年を過剰に敵視するマスコミや言論の動きも無視できないのではないかと思う。また、青少年をビジネスチャンスとしか認識せず、徒に消費を煽る言説ばかり煽ってきた人たちも同罪であろう。少なくともこの鼎談は、読んでみる限りでは単なる「世間話」の領域を超えておらず、散々若年層を敵視して終わり、という構成になっている。このレヴェルの話は、同業者の中の話し合いであれば大いにやってもいいが、だからといって一つの大きなメディアで若年層に対する過剰な危機感を煽る目的で行なわれていいのだろうか。

 ちなみに平成12年6月21日付の読売新聞では、駅構内における暴力事件に関して、平成11年度においては162件発生したが、その中で20代はもっとも少なくて25人、逆にもっとも多いのは50代で39人であった、という報告がなされている。ちなみに30代は29人、40代は33人であった。同様の内容の記事を、平成15年の朝日新聞で見た記憶があるが、記事を紛失している。それ以外にも、凶悪犯罪に関しては、青少年と「ひきこもり」の人とオタクによるものばかり報じられているが、実際に我が国においてもっとも殺人事件を起こしているのはむしろ50歳代である。青少年を徒に敵視する報道ばかりが溢れる背景には、もしかしたら自分の世代を免責したい、という中高年の感情が表れているのかもしれない。いささか穿ちすぎたか。

 参考文献・資料
 朝日新聞社[2005]
 「論座」編集部「自民党議員はこんなことを言っている!」=「論座」2005年6月号、朝日新聞社
 伊藤貫[2003]
 伊藤貫「「NO」とは言わないアメリカ」=「諸君!」2003年8月号、文藝春秋
 斎藤環[2003]
 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 花村萬月、大和田伸也、鬼澤慶一[2001]
 花村萬月、大和田伸也、鬼澤慶一「電車で殴り殺されないために」=「文藝春秋」2001年7月、文藝春秋
 尹載善[2004]
 尹載善『韓国の軍隊』中公新書、2004年8月

 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 宮崎哲弥、藤井誠二『少年の「罪と罰」論』春秋社、2001年5月
 宮台真司、宮崎哲弥『M2 われらの時代に』朝日新聞社、2002年3月

 歌代幸子「キレるサラリーマン、急増中」=「THE21」2000年11月号、PHP研究所
 長谷川真理子、長谷川寿一「戦後日本の殺人動向」=「科学」2000年6月号、岩波書店

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2005年8月10日 (水)

俗流若者論ケースファイル53・佐々木知子&町沢静夫&杢尾堯

 今回検証する、佐々木知子氏(参議院議員・自民党、元検事)、町沢静夫氏(精神科医)、杢尾堯氏(元警視庁捜査一課課長)の対談「検挙率はなぜ急落したのか」は、「中央公論」平成13年7月号の特集「「安全な国・日本」の崩壊」という特集の一つの記事として収録されている。要するに、今喧伝されている「治安の崩壊」という問題は、この時期から起こっていたことになる。犯罪白書や警察白書においては、平成12年ごろから「体感治安」の悪化、要するに実際の検挙件数や検挙率とはまた違ったところにおける、人々の「体感」としての治安の悪化が取り沙汰されていたようだ(酒井隆史[2005])。

 ただ、この対談において気になるのは、検挙率の低落や治安の悪化が、一貫して青少年が原因とされていることである。現実には青少年だけのせいにできないほど治安の悪化というものは複雑であり、例えば外国人犯罪や、更には青少年以外の世代にも触れなければならないのである。更には、我が国におけるスペクタクル的状況が、実際はマスコミが少年犯罪に関して過剰なまでに取材して、さも少年による犯罪だけが急増しているかのごとき錯覚に世間が陥っている疑いがある、という面からも検証されなければならないだろう。青少年ばかり治安悪化の「原因」としてつるし上げるのは、はっきり言ってポピュリズムにしかなりえない。少なくとも戦後の我が国の社会が若年層の「封じ込め」に成功して来た社会である、ということに関する認識は持つべきだろう。

 さて、ここから検証に入る。まず町沢氏の発言から。ついでに言うと町沢氏は平成12年5月に起こった佐賀県のバスジャック事件の際、朝日新聞社の「論座」平成12年7月号において、この事件の原因を、自らこの犯罪者の母親にアドヴァイスした経験から母子関係の歪みに求めているが(町沢静夫[2000])、そのような論証立ては後に「論座」同年10月号で臨床心理士の矢幡洋氏に論破される運びとなる(矢幡洋[2000])。話を戻して、この鼎談における町沢氏の最初の発言を見てみよう。100ページから101ページにかけて。

 町沢 従来の少年犯罪というのは「非行少年型」でした。……彼らは友達を作って徒党を組む傾向がある。また計画性がなく、ちょっとしたいたずらを契機に、そのときの集団真理で、殺すことが兵器になっていくという段階を踏みます。これは家庭崩壊を背景としていることが多いんです。

 ところが、1990年を過ぎた頃から、「単独犯行型」とでも言うべき新しい犯罪が増え始めた。このタイプの犯罪者は、過保護な環境で暮らしてきて、対人関係がうまく取り結べない。非常に内向的なんですね。……

 このように、従来の、徒党を組んで犯罪を起こす非行少年型ではなく、非行歴もない少年が被害妄想的になって、計画的にバッサリ犯行に及んでしまうというのは、従来の精神医学から分断された特殊な傾向をもっています。日本独特といってもいいでしょう。(佐々木知子、町沢静夫、杢尾堯[2001]、以下、断りがないなら同様)

 残念ながら、町沢氏のこの発言は事実誤認を含んでいる。なぜなら、我が国の少年による殺人・強盗殺人・強盗致死事件において、被害者の数に対する加害者の数は増加傾向にあるからだ。東京大学助教授の広田照幸氏の分析では、少年による凶悪犯罪のピークであった昭和40年ごろは被害者の数に対して加害者の数がおよそ1.3倍程度だったのに対し、近年(平成元年以降)はおよそ2~2.5倍くらいで推移している(広田照幸[2003])。つまり、過去のほうが単独による殺人・致死事件が多かったのである。加えてこの時期に取り沙汰されていた所謂「オヤジ狩り」などの凶悪犯罪は、集団によるものが多かった。すなわち、加害者数から見れば、この時期の少年犯罪の傾向としてはむしろ町沢氏の主張とは逆の事態が生じていることになる。また、町沢氏の現状認識を認めるとしても、なぜ《従来の精神医学から分断された特殊な傾向》さらには《日本独特》といえるのか説明が必要であろう。ちなみにこのあと(102ページ)において展開される佐々木氏の発言はおおむね正鵠を付いているのだが、やはり《一般にはりかいしがたい凶悪な少年犯罪が増えてきました》と安易に言っていることに関しては警鐘を鳴らしておく。また、103ページにおける杢尾氏の発言は、自らの警視庁時代の実体験を元にした発言であるが、ここにも目立った間違いは見られない。
 104ページにおいて、佐々木氏が問題のある発言をしている。

 佐々木 いま日本は非常に画一化していると思います。地方も都市も。ようするに情報は全部同等に流れていきますし、地方の片田舎でもみんな携帯は持っています。ネットでチャッティングというのはどこでもやっています。だから私は、地方も都市も関係なく、画一的に犯罪は増えていると認識しています。

 まず、佐々木氏は《日本は非常に画一化していると思います》と書いているけれども、では佐々木氏はその責任を何に求めているのだろうか。戦後になって、我が国の社会は公共事業をあまねく全国に広めるような公共投資の乱発が起こった。これによって我が国全体の経済水準が上がったことは間違いないが、しかしそれに伴う問題点もまた生み出してきた。そのような田中角栄的な状況に対する精算を自民党は怠ってきた。佐々木氏も自民党であればまずその点を反省すべきであろう。また、そのような状況が起こると同時に、特にバブル期においては消費社会的なものを礼賛する如き言説もまた溢れた。今となってはそのような言説を乱発してきた人がそれに対する反省もなしに都市の画一化を嘆き、それが青少年の心の荒廃をもたらしている、と訳知り顔で語っているという倒錯が起こっているらしいが、そのような状況に関する検証がまず必要になろう。また、佐々木氏は《画一的に犯罪は増えていると認識しています》と言ってのけるが、その程度の《認識》ではなくまず数値的なデータをそろえるべきだろう。

 更に町沢氏の問題発言、105ページ。

 町沢 いまの青少年を見ていますと、「殺す」という言葉を非常に簡単に使います。そこにナイフを持っているから、障害も起こる。中高生の男の子はいま、二割はナイフを持っています。だからあまり強く叱ることができない。

 しかも殺すということが非常に簡単になってきているから、死ぬということも簡単になる。子供たちを見ていると、死ぬというのは隣の部屋に行くようなものなんです。ものすごく軽いし、生きることと、死ぬことに落差がない。

 ほとんど全部が問題発言といっていい箇所であろう。まず俗流若者論における詐術としての《いまの青少年を見ていますと》だとか《子供たちを見ていますと》といった表現はいかにも青少年の現実を的確に写実しているように感じられるが、しかしこのような「観測」には過度に主観が入る可能性が極めて高いので、客観的な分析ということはできない。従って《「殺す」という言葉を非常に簡単に使います》とか《死ぬということも簡単になる》などといった町沢氏の「分析」にはまったく信憑性を持つことができない。更に町沢氏は《中高生の男の子はいま、二割はナイフを持っています》と述べているが、果たしてこれはどのような調査から導き出された結果なのか。調査を読む際には、いつ、どこで、誰が、どのような目的で調査を行ったか、ということを意識して読まなければならないが、少なくとも町沢氏はそのような調査の情報源を示すべきである。更に町沢氏は青少年において自殺が急増していることを示唆する如き発言をしているけれども、我が国においては青少年の自殺よりもむしろ中高年の自殺のほうがはるかに多い(厚生労働省の調査による)。しかも青少年による自殺は、戦後になって一貫して減少傾向にある。しかも諸外国に比して、我が国において青少年の自殺は極めて少ない。町沢氏はこれらの事実をいかに受け止めているのだろうか。佐々木氏もまた、106ページにおいて、

 佐々木 正しい言葉かどうかわからないんですけど、閾値というんですか、低くなっているという感じがするんですよ。たとえば、すごく腹が立ったからといって、普通はここで抑えたりとか、コミュニケーションをとって互いに納得したりとか、せいぜい手を出して終わるというのが常識でしたけど、いまはもうすぐに沸点まで上っちゃって、パッと殺しちゃうとかですね。

 それっていうのは、コミュニケーションをとる訓練ができていないんですよ、小さいときから。だって家に帰っても遊ぶところがないですよね。自分でゲームやったりと課して、少子化で、周りに兄弟もいないし、生と死、と言ったって、おじいちゃんもおばあちゃんも近くにいないし、死ぬということも実感できない。

 と発言しているのだから、その安易な図式化をまず疑うべきであろう。
 そして、杢尾氏もまた問題のある発言をする。107ページ。

 杢尾 確かに過去のデータから比べると、検挙率はもう右肩下がりです。たとえば、過去五年間の凶悪事件を見ると毎年千件ずつ増えている。限られた捜査員で、いくら犯人を検挙していっても、発生件数に追いついていかないというパターンですね。

 検挙率が低下した最大の原因としては、各種凶悪犯罪よりも格段に件数の高い軽微な窃盗罪などの検挙率における著しい低下に求めることができる。検挙率というものは、検挙件数を認知件数で割った数を100倍して求めるのだが、検挙率が低下した、というのであれば、検挙件数が減少したか、それとも認知件数が増加したか、という二つのファクターが考えられるのだが、事実認識として正しいのは認知件数が急増したからである。

 しかしここ最近の認知件数の急増というものは、単に犯罪そのものが急増したから、とはいえない。なぜなら(本当は虚像である)少年犯罪の多発化・凶悪化を見越して警察は少年犯罪に関する捜査を強化した。その結果として検挙率が低下する。ついでに検挙率の低下は平成元年あたりにもあったことなのだが、その理由としては警察が自転車泥棒を重点的に取り締まっていたのを昭和末期から平成元年あたりにかけてやめた、ということが影響している(浜井浩一[2005])。さらに最近の傾向として、平成11年に起こった桶川のストーカー殺人事件における警察の態度、すなわち被害が出ているにもかかわらず警察が被害届けの受理を拒否する態度が批判されたことをきっかけに、警察は被害届けを素直に受理するようになった。しかし検挙人数は変わらないから、故に検挙率は更に低下する。近年の検挙率低下には、このようなからくりが存在する。

 この鼎談の終盤、108ページにおいては、外国人犯罪について述べられているが、これに関する言及はせいぜい1ページ程度なので、この鼎談においては少年犯罪こそが治安悪化の原因である、と考えられているのだろう。しかし、このような認識は、実際にはそれほど影響の大きくない事象を過度に過大視することによって、間違った「治安政策」が行なわれることになる。近年の警察の態度や刑事政策の変化が現在の如き状況を引き起こしている、というのは警察も認めていることなのだが、しかしマスコミではそのようなことは報じられず、ただ扇情的な情報だけが溢れることになる。マスコミは警察の広報係どころか、もう完全に不安扇動装置と化してしまっているようだ。

 しかし、青少年のせいで治安が悪化している、という認識はもはやかなりのコンセンサスを得ているようだ。例えば、東北大学助教授の五十嵐太郎氏は、平成13年10月の衆議院議員総選挙の近くに、東京新聞で発表された、著名人による、もし自分が選挙に出馬したらどのような公約を抱えるか、ということについて、その一つである作家の室井佑月氏の「公約」を挙げる。曰く、

 作家の室井佑月は、「バーチャル総選挙」という新聞のコーナーにおいて、自らが立候補した場合の公約を次のように要約している。「1、国会議員の財産は一代限りに。2、十代のボランティアを義務化。3、警察官を大幅に増員します」。第一の公約は、治安のいい場所が高級住宅街になっていることへの疑問から導かれたものだ。第二の公約は、潜在的な犯罪者であるティーンエージャーを災害救助や老人介護などのボランティア活動で働かせること。……おそらく彼女は一般人の感覚を代表しており、治安への強い関心がうかがえる。国民にとって、今、セキュリティが最大の問題なのだ。(五十嵐太郎[2004])

 要するに、五十嵐氏が引いている室井氏の認識は、悪いのは自分ではなく、自分にとって「外部」のものなのである、というものなのだろう。そしてこのような認識は、あまねく全てのマスコミを覆っているように見える。もちろん五十嵐氏は室井氏に対して批判的な立場で書いているのだけれども、自分だけは犯罪を起こさない、犯罪を起こすのは「あいつら」だと思いこんでいる「被害者の共同体」を強化するために我が国のセキュリティや政策は動員されている。言論もまたこれに動員されており、近年高まっているオタク・バッシングもこれと同種のものとして見なせよう。また、「させてはならない目標」(=「ゲーム脳」「ケータイを持ったサル」「フィギュア萌え族」など)としての俗流若者論が蔓延するのも同様の傾向であろう。明治大学専任講師の内藤朝雄氏は、現在の状況をこのように批判する。

 全体主義とは、教育が社会を埋め尽くす事態をいうのではないか。あるグループの人々が社会解体の「しるし」としてターゲットにされ、「憂慮すべき未曾有の事態」がくりかえし指摘される。生まれてからの年数が短い人、置いた人、所属しない人、交わらない人、理解や共感ができずに不安を与える人は、そういう「しるし」にされやすい。そして人々の不安と被害者感と憎悪が動員され、社会防衛のキャンペーンが起こる。問題は「困った人たち」のこころや生活態度であるとされ、彼らが内側から変わるように、社会に教育網が張り巡らされる。人権や経済や社会的公正の問題は、いつの間にか教育の問題にすりかわり、公論のスポットライトから外される。(内藤朝雄[2005])

 「全体主義」に関する説明には大いに疑問が残るけれども、それを除けば現在の我が国の状況を極めて的確に言い当てている。我が国は、言説によって規定された恐怖に多くの人が脅えており、それらの恐怖の元は実感というよりは言説に由来する。そして自らの見聞きした経験もまた言説によってある種の傾向に方向付けられてしまう。大阪府立大学専任講師の酒井隆史氏は、現在の状況に関して《一方で個性をもて、とたえず命令しながら、他方で「個性をもつ」ための条件である「寛容」という土壌を取り除き続けている》(酒井隆史[2005])と指摘しているが、まさにその通り。我が国において「個性」というのは、「世間」の許容する範囲での「個性」、あるいは「世間」に利益をもたらす範囲での「個性」のみが許容される。我が国においてオタク産業が脚光を浴びているのは、その多くの場合においてそれがビジネスの創出や対外的なソフト・パワーとなっているからに過ぎないのであって、経済という枠を取り除いた上でのオタクへの「寛容」など最初からない。同様に、わが国においては若年層が一つの大きなビジネスのターゲットとなっている。しかし、そのようなビジネスは、若年層の費用が携帯電話の使用量に偏っていることや、少子化によってビジネスが縮小することから、まもなく成り立たなくなるであろう。近年において若年層バッシング、特に「ケータイを持ったサル」なる疑似科学の蔓延は、そのような状況を反映しているのかもしれない。我が国には若年層に対する「寛容」などない。

 我が国において俗流若者論、あるいは若年層を敵視する言説ばかりが蔓延する背景には、若年層はもはや「世間」の人間ではない、子供を「世間」の人間ではない「今時の若者」にしてはならない、という認識の広まりがあるのかもしれない。徒に若年層ばかり敵視する治安言説も、無関係ではないだろう。

 蛇足だが、中央公論新社のウェブサイトでは、早くも正高信男『ケータイを持ったサル』(中公新書)の続編にあたる『考えないヒト』(中公新書)をトップページで宣伝していた。中公新書にはたくさんの名著があるのだが、今では中公新書のトンデモ本メーカーとなっている正高信男氏の著作を喧伝することは、我が国において社会や科学が危機に瀕していることを助長しかねないのではないか?

 参考文献・資料
 五十嵐太郎[2004]
 五十嵐太郎『過防備都市』中公新書ラクレ、2004年7月
 酒井隆史[2005]
 酒井隆史「「世間」の膨張によって扇動されるパニック」=「論座」2005年9月号、朝日新聞社
 佐々木知子、町沢静夫、杢尾堯[2001]
 佐々木知子、町沢静夫、杢尾堯「検挙率はなぜ急落したのか」=「中央公論」2001年7月号、中央公論新社
 内藤朝雄[2005]
 内藤朝雄「お前もニートだ」=「図書新聞」2005年3月18日号、図書新聞
 浜井浩一[2005]
 浜井浩一「「治安悪化」と刑事政策の転換」=「世界」2005年3月号
 広田照幸[2003]
 広田照幸『教育には何ができないか』春秋社、2003年2月
 町沢静夫[2000]
 町沢静夫「佐賀バスジャック事件は防げた」=「論座」2000年7月号、朝日新聞社
 矢幡洋[2000]
 矢幡洋「佐賀バスジャック事件を検証する」=「論座」2000年10月号、朝日新聞社

 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 宮崎哲弥、藤井誠二『少年の「罪と罰」論』春秋社、2001年5月
 ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』岩波文庫、上下巻、1987年2月

 河合幹雄、杉田敦、土井隆義「犯罪不安社会の実相」=「世界」2004年7月号、岩波書店
 齋藤純一「都市空間の再編と公共性」=植田和弘、神野直彦、西村幸夫、間宮陽介(編)『(岩波講座・都市の再生を考える・1)都市とは何か』
 杉田敦「「彼ら」とは違う「私たち」――統一地方選の民意を考える」=「世界」2003年6月号、岩波書店
 長谷川真理子、長谷川寿一「戦後日本の殺人動向」=「科学」2000年6月号、岩波書店

 参考ウェブサイト
 「「NO!監視」ニュース第6号

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俗流若者論ケースファイル52・佐藤貴彦

 連載第19回の荷宮和子批判において、私は深作欣二監督の「バトル・ロワイヤル」という作品に触れた。この時点ではまだ件の作品を見ていなかったが、残念ながら今も観ていない。なぜここで「バトル・ロワイヤル」を持ち出したかというと、今回検証する評論家の佐藤貴彦氏の文章「残虐なのは誰か?」(「正論」平成13年4月号に掲載)が、この「バトル・ロワイヤル」にかこつけた俗流若者論だからである。ちなみにタイトルとなっている「残虐なのは誰か?」という問いかけは、果たして映画の登場人物なのか、それとも観客なのか、ということに関してである。佐藤氏はそれは観客である、と結論付ける。しかし、この部分に関しては俗流若者論とは特に関係がないし、例えば《大人がコドモに人殺しを強制するという、この設定が、これまたズレまくっている。殺し合いは上から下へ強制するものだという設定》(佐藤貴彦[2001]、以下、断りがないなら同様)という記述は、一般論としては一応正しい。ただしこの文章における佐藤氏の「バトル・ロワイヤル」に対する認識が、例えばこのような設定を《左翼思考にはまった設定》《全共闘時代の左翼知識人がもっとも好んで用いた図式》と評している通り、どうも佐藤氏はある種の党派的な認識に囚われているようである。

 しかし、この文章における問題点は、54ページと55ページにおいて集中している。まず、54ページの文章を引用してみよう。

 現実を見てみよう。現在起こっている数々の少年による凶悪事件は、まさしく少年地震の意思によるものなのである。「人を殺してみたかった」、「人間がバラバラになって、悲鳴を上げるのを聞きたかった」などなど、明らかな殺意を抱いているのは少年自身である。彼らは強制されて殺すのではない、彼ら自身の快楽として自発的に殺しているのである。すなわち、そういういみで『バトル・ロワイヤル』は完全にズレており、現実をちっとも反映していないのである。大人がコドモに殺しを強制するのではなく、逆にコドモが大人を殺しまくるという設定にしたほうが、今の世の中、はるかにリアリティーがあるのである。

 作品に関してこのような批判をするということが、創作物の幅を狭めてしまう、ということに佐藤氏はなぜ気がつかないのだろうか。また、監督である深作氏がいかなる主張をこの映画にメッセージとして入れたのか、ということを無視して、このように罵ってしまうのも、佐藤氏が評論家として適材であるか、という点での疑問になろう。そもそも、この連載で何度も述べている通り、少年による凶悪犯罪は昭和35年ごろに比べて大幅に減少している。もう一つ言えば、《明らかな殺意を抱いているのは少年自身である》ことを現代の少年犯罪に特有の現象として扱っている節があるが、犯罪者が殺意を抱くのはいつの時代にもある話である。

 この直後に来ている文章もまた、佐藤氏の少年犯罪に対する思考停止を象徴するような文章である。

 異常な少年犯罪が多発する以前では、この世の悪はもっぱら「悪い大人のせい」とするのが決まり文句だった。そしてまた、そうした発想こそが戦後日本の平和主義・民主主義を支えていたのである。つまり、従来の日本の戦後民主主義はある種の性善説に基づいていて、「我々は善人なんだけれども、なのに世の中がなかなか良くならないのは、ぜーんぶ一部の悪い政治家のせいなんだよ」とか「一部の悪い政治家が戦争を企んでいるんだよ」とかいっておけばよかったのだ。

 ところが、昨今ではコドモ自身が積極的に自身の内部の悪を臆面もなく主張してくるので、これまでのそうした図式がだんだん通用しなくなってきたのである。そこで我々は、我々のこの現実をもう一度考え直さなければならないという重大な局面にさしかかっていたのだ。

 まず最近になって異常な少年犯罪が多発している、というのは間違いで、過去の事例をたどっていけば現在とは比べ物にならないほど残虐な犯罪も存在する(宮崎哲弥、藤井誠二[2001])。また、この時期からの傾向として、というよりも「酒鬼薔薇聖斗」異常の傾向として、少年犯罪の「原因」を犯罪者の、更には若年層全体の「心」の問題として捉える傾向が強くなった。これ以降、少年犯罪報道、そして若者報道全体が「《我々は善人なんだけれども、なのに世の中がなかなか良くならないのは、ぜーんぶ》若年層と若年層が熱狂している文化の《せいなんだよ》」、と言わんばかりの報道が目立つようになった。

 要するに、この文章は「バトル・ロワイヤル」にかこつけた俗流若者論なのであり、更には「今時の若者」にかこつけた左翼批判に過ぎないのである。要するに佐藤氏が最終的に批判したかったのは我が国を覆っている(と佐藤氏が勝手に規定している)左翼思考、すなわち「権力者=悪」という思考である。しかし現状においてそのような図式を貫き通している人がどれほどいるのだろうか。現実には、自分の生活が良くならないのは政治のせいだ、と愚痴をこぼしながらも、例えばゲーム規制の問題になると権力に規制を求める人が多くなる。要するにここでは「権力者=悪」という図式が崩壊しているのである。

 佐藤氏のこの文章が虚しいのは、結局のところこの文章が極めてテキスト化された「正論」による左翼批判に過ぎないのである。このような文章ばかり載せている雑誌が最も売れる、というのは、ある意味では我が国の言論における危機的状況を映し出しているのではあるまいか。

 参考文献・資料
 佐藤貴彦[2001]
 佐藤貴彦「残虐なのは誰か?」=「正論」2001年4月号、産経新聞社
 宮崎哲弥、藤井誠二[2001]
 宮崎哲弥、藤井誠二『少年の「罪と罰」論』春秋社、2001年5月

 広田照幸『教育には何ができないか』春秋社、2003年2月
 宮台真司、宮崎哲弥『M2 われらの時代に』朝日新聞社、2002年3月

 長谷川真理子、長谷川寿一「戦後日本の殺人動向」=「科学」2000年6月号、岩波書店

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俗流若者論ケースファイル51・ビートたけし

 ビートたけしこと北野武氏は、映画監督やコメディアンなどといった顔のほかに、一人の論客としての顔も持っているらしい。北野氏を論客として特に重用しているのは、新潮社の月刊誌「新潮45」だが、私が平成12年から15年の「新潮45」を検証している中で、特に平成12年中ごろから平成13年の終わりごろにかけて、北野氏はこれでもかと俗流若者論を連発していた。ただし、北野氏の俗流若者論の根底を支えるのは、要するに自分の世代(=自分)は正しくて、それより下の世代はみんな「異常」である、という安易な図式化である。今回検証するのは、一連の北野氏の俗流若者論の中でも最もひどかった、「新潮45」平成13年4月号に掲載された「バカ母世代」という文章である。

 北野氏は、冒頭(34~35ページ)において、この時期に立て続けに起こった、子供が被害者となる事件に関して述べている。この2ページにおいて北野氏が触れているのは、愛知県小牧氏で37歳の母親が2歳の娘を死なせて、クーラーボックスに入れて半年間ベランダに放置した事件であるが、北野氏はこの事件から更に北の死が伝聞した和解母親をめぐる事象に関して、《何を考えてるんだって。おいらにはとうてい理解できないよ。/これはほとんど犬を連れて歩くのと同じ感覚だと思うね》(ビートたけし[2001]、以下、断りがないなら同様)などと感想を述べるのだが、少なくとも一人の論客として文章を書く場を与えれているのであれば、まずその程度の感想で茶を濁すのではなく、もう少し事実を深く掘り下げるべきであろう。

 さて、私は先ほど「もう少し事実を深く掘り下げるべきであろう」と書いたが、これはこの部分のみならず北野氏の文章全体に関して言えることである。北野氏はこのような事態が生じてしまったこと(1億歩譲って北野氏の状況認識を受け入れることにする)の「犯人」探しをするのだけれども、どれも単なる表層的な罵倒にとどまっているのが痛いところだ。まず、北野氏は35ページから37ページにおいて所謂「真人類」が大人になって子供を育てていることを「犯人」とする。37ページ終わりごろから39ページ半ばまではテレビが「犯人」、39ページ後半から41ページ半ばごろまでは食べ物が「犯人」、そして41ページでは日教組も少し触れる。まったく、限りなくテキスト化された俗流若者論のオンパレードである。少なくともそれらの一方的な「決めつけ」が本当に正当なのか、ということに関しては議論の余地が大有りなのだが、所詮は「新潮45」なのだから諦めるしかないのだろうか。

 諦めている暇はないので検証に移ろう。まず35ページから37ページの暴力的な世代論に関する検証だが、これは結局のところ自分の世代は正しくてそれ以降の世代は全部間違い、という俗流若者論にありがちな妄想を振りまいているだけなので、検証するに値しない。そこまで自分を理想化できる神経こそ、私は北野氏の論客としての技量を疑いたくなる部分である。北野氏は38ページにおいて《要するに、今の母親ってのは、みんな自分のことしか考えていない。欲望前回で自分勝手なだけなんだ》と述べているけれども、これは北野氏にそのままお返しする。

 次に37ページから39ページまでのテレビ有害論である。これも検証するに値しない単なる「私語り」である。

 39ページから41ページの食事有害論に関しては、ここには極めて重大な事実誤認があるので指摘したい。とはいえこの部分以外はみんな「私語り」なので検証する気も失せるのだが。40ページ。

 ここまでヘンなことが続いて起こると、これはもう、日本人の脳がイカれてるんじゃないかと思うね。

 狂牛病だって、脳の病気だよ。あれと同じで、現代人は脳がおかしくなってるんじゃないか。

 原因はやっぱり食い物だよ。

 昔と今と何が一番違ってしまったといったら、やっぱり食生活だもの。

 インスタントラーメンとかポテトチップスみたいなスナック食品を、これほど食っている時代は今までない。

 インスタント食品を食べ過ぎると、アドレナリンの分泌が異常になるって言ってる学者もいる。

 そう考えると、キレる子供が増えるものわかる気がする。

 事実誤認が多すぎる文章である。例えば、我が国においてインスタント食品が普及する前の時代のほうが少年による凶悪犯罪は多い。平成12年には所謂「17歳の犯罪」も含めて多数の少年による凶悪犯罪が報じられて、ほとんど狂騒状態といってもいい状況であったが、岩波書店の「科学」平成12年6月号において、早稲田大学教授の長谷川真理子氏と東京大学教授の長谷川寿一氏が、戦後において一貫して少年による殺人が減少し続け、また諸外国に比べて我が国では母親による子殺しが極めて多いことなどを実証して話題に上ったことがある(長谷川真理子、長谷川寿一[2000])。北野氏の言うとおり、現代人の脳が異常になっているならば、まず少年による殺人の現象を説明することは出来まい。殺人をめぐる状況は、優れて文化的なものである。また、自分の気に入らない問題を、社会構造の問題などを通り越してそのまま「脳の問題」としてしまうのは、科学倫理の面からしても問題が大きいだろう。また、北野氏は安易に《キレる》なる言葉を使うけれども、少しはこのような言葉の出自のいかがわしさを疑っていただきたい。また、北野氏は《インスタント食品を食べ過ぎると、アドレナリンの分泌が異常になるって言ってる学者もいる》と書いているが、誰なのだろうか。もし『買ってはいけない』みたいな不安扇動本の著者なら、北野氏の科学リテラシーも疑わざるを得ない。

 北野氏は40ページにおいて《実際、おかしな奴が増えてる》として、例えば外務省の機密費使い込み事件や、森善朗首相(当時)、名古屋の《主婦を拳銃で撃ち殺して自分も自殺したオッサン》とか《児童虐待を疑われて児童相談所に子供を取られちゃった母親の記者会見》などを採り上げてその証左としている。そのような事例ばかり並べられたら確かに日本が異常になっている、と思いこみたくなるのは痛いほどわかるが、少なくともそのような自体がどこまで広がっているかということを少しは検証すべきであろう。

 そして最後はお決まりの「憂国」。もう読むのも嫌になる文章である。この程度の駄文を書き飛ばしている北野氏が、本当に論客としての力量を兼ね備えているのか、と言われれば否としか答えようがない。北野氏は結び(42ページ)において《やっぱり日本の明日は真っ暗闇だよ》と平然と言ってのけるが、少なくとも《日本の明日は真っ暗闇》だというイメージを事実誤認と偏見によって植えつけようとしているのは北野氏であって、北野氏の文章は、若年層に対する偏見にまみれた俗流若者論に過ぎないのである。

 しかし、このような文章ばかり受ける背景というものには、やはり国民が若年層の現状に関する思考を停止しているというのがあるのだろうか、と私は疑わざるを得ない。確かに戦後の少年犯罪に関する歴史を紐解いて、現在の少年犯罪が果たして「異常」なものか、ということに関して検証することよりも、今ここで報じられている少年犯罪の異常性を喧伝し、更に自分の矮小な体験を一般化して若年層に対する敵愾心を煽ったほうが手間がかからないことは大いにわかる。しかし、若年層に関する状況を分析するという、少々地味で面倒でも大事な行為を省略して、安易に扇動に走ってしまうと、現実に苦しんでいる青少年を救済することは不可能にならないか。

 現状において、青少年を過剰に貶める珍概念ばかりが量産されているが、それも思考停止の反映なのだろうか。少なくとも我々が安易に使っている概念、この文章なら《キレる》なる言葉を安易に使うことは控えて、更にそれらの言葉がいかにして生成されたか、また以下にして利用されているか、ということに関する想像力を働かせたほうがよほど重要であろう。現在の我が国の青少年をめぐる言論状況は、青少年に対する不安を不当に煽る言説の蔓延が、更にそのような言説を生み出しているという状況になる。安易な「犯人探し」よりも、まず自らが信奉している俗流若者論を疑うことから始めてみてはどうか。

 参考文献・資料
 ビートたけし[2001]
 ビートたけし「バカ母世代」=「新潮45」2001年4月号、新潮社
 長谷川真理子、長谷川寿一[2000]
 長谷川真理子、長谷川寿一「戦後日本の殺人動向」=「科学」2000年6月号、岩波書店

 日垣隆『それは違う!』文春文庫、2001年12月
 広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書、1999年4月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月

 斎藤環「知の超訳にファック!もうやめようよ「なんでも前頭葉」」=別冊宝島編集部(編)『立花隆「嘘八百」の研究』宝島社文庫、2002年7月
 髙橋久仁子「こんなにおかしい!テレビの健康情報娯楽番組」=「論座」2005年9月号、朝日新聞社
 山本弘「ジハイドロジェン・モノキサイドの恐怖――『週刊金曜日』別冊ブックレット2『買ってはいけない』」=と学会『トンデモ本の世界R』太田出版、2001年10月

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2005年8月 9日 (火)

俗流若者論ケースファイル50・工藤雪枝

 歴史とはなんなのだろうか。いや、私の問いかけをもう少し正確に表すならば、俗流論壇人の自意識にとって歴史とはどのような意味を持つのだろうか、ということになる。現在において、歴史修正主義に基づく俗流若者論が左右を問わず増殖していることを、私はこの連載の第29回におけるノンフィクション作家の吉田司氏に対する批判において触れた。この手の歴史修正主義者は、過去のある時代に憧憬し、その時代はよかったとして現在を嘆く。しかしそこで引き合いに出される時代の時代背景というものは、その多くが過度に美化されたもので、陰陽が入り混じったリアルとしては決して描き出されない。

 今回検証するのは右派系の歴史修正主義的俗流若者論である。ジャーナリストの工藤雪枝氏による「平成“美顔男”たちへの憂鬱」(「正論」平成12年9月号に掲載)は、前半、すなわち314ページから320ページにおいて特攻隊への憧憬が描かれる。まあ、過去に対する純愛なら幾らでもやってください、というほかないのであるが、320ページから俗流若者論が登場する。曰く、

 ……「特攻」を知ることは、我々一人一人が生きることの意味、平和の意味、そして国家の意味を考えることに他ならない。特攻隊員達が、そのような大きな問いかけを後世に残したという意味において、彼らの死は決して犬死ではないと思う。

 しかし、現実に今の日本国民がそのような彼らの魂にどう答えているかということを考えると、私は暗澹とせざるを得ない。……

 また最近、街を歩くたびに多く見かける、若者達の公衆道徳のなさ、眼の輝きのなさ、背筋を曲げてだらだらと歩く様子。そのくせ化粧などに注ぐ情熱には驚くべきものがある。こうした彼らを見るにつけても、美しい、凛とした日本人はどこにいってしまったのだろうと思う。少なくとも、かつての特攻隊員達の遺影の美しさとは比べ物にならない。

 加えて、最近増え続けている若者による犯罪。……最近の若者には、ミーイズムが横行し、権利と義務という民主主義国家が持つべき二つの概念の中で、権利の主張のみが強調、正当化されている。(工藤雪枝[2000a]、以下、断りがないなら同様)

 このような文章を見るにつけ、何か病理的なものを感じてしまうのはなぜだろう。俗流精神分析家の真似事をさせてもらうと、工藤氏のこのような物言いは間違いなく特攻隊員の遺影を自らの恋愛対象としているのであり、その恋愛対象が工藤氏の中で絶対化され、その絶対像に見合わないものは全て劣ったものとしてみなされるといえよう。

 そして工藤氏の文章では、特攻隊が極度に美化されると同時に、現在の社会が極度に醜悪化される。特攻隊の話についてはここでは触れないで置くけれども、気になるのは工藤氏の国家に対する、そして若年層に対する態度である。例えば工藤氏は次のように述べる。323ページ。

 ……今実現されている平和と繁栄は、過去からの流れの中で常に意識されるべきである。日本人が自ら大東亜戦争を侵略戦争と卑下し、戦犯が祭られているという理由で靖国神社の背を向け、特攻隊員達の死を「無駄死」と考えることは、国家の歴史の連続性を否定し、また民主主義国家の国民としての過去と未来に対しての自分の義務の放棄につながる。

 今の日本はどうだろう。国家の庇護を当然のことと見なし、有り難さを感じていないのみならず、国旗や国歌に関する態度を見る限りでは「国家」という概念でさえ否定しようとする国民も少なくない。国民を啓蒙していく役割を持つマスメディアの多くは、戦後一貫して「国」を否定し続けてきた。民主主義においては、国民が国家をつくり、国家が国民を守るという国家と国民の弁証法的関係がある。自らの義務に向って努力しない「国民」には、それ相応の「国家」しか与えられないという現実的危機感を、日本人はもっと持つべきだろう。

 この論文全体が工藤氏の特攻隊員への純愛物語として構成されているのだから、このようにもっともらしい言われ方をしてもただ虚しいだけだ。そもそも工藤氏は、この論文において、「国家に尽くす自分」を過度に理想化していないか。すなわち工藤氏にとって国家とは単なる憧憬と純愛の対象に過ぎないのであり、従って工藤氏の目に映る「国家の存在を否定するような行為」は自らの恋愛対象に対する否定として映るのであろう。

 そして工藤氏の国家に対する意識は、「中央公論」平成12年10月号に掲載された「ミーイズム日本の迷走」でも引き継がれている。この文章は総理府(当時)によって行なわれた「社会意識に関する世論調査」の結果を読み解く、という内容なのだが、この文章は特攻隊に対する純愛がないことを除けば全て「正論」の論文と内容が同じ、すなわち現代の日本人における「国家」意識の喪失を嘆く、というものだ。しかもその「国家」意識の喪失というものが若年層において強まっている、と工藤氏は調査から読み取っている。例えば工藤氏によると、平成3年において「国民全体の利益を大切にすべきだ」と答えた人が45%、「個人の利益が大切だ」と答えた人が24%だったのに対し、平成10年では前者は37%、後者は30%となったという。しかし、社会が成熟していくと何が国民全体の利益であるか、ということの判断が難しくなってくるので、そんなに唐突に問われても困るような気が駿河。しかも工藤氏は、年齢層が低くなるにつれて「国民全体の利益を大切にすべきだ」と回答する人が減るといっているけれども、具体的な数値を示していないのでどのように減少しているかはわからない。同様に、工藤氏は防衛意識に関する世論調査においても、自衛隊や防衛問題への関心について年齢層が低くなるほど「日本の平和と独立に関わる問題」から「災害派遣への対応」に移行していることについても触れているけれども、工藤氏はそこでも具体的な数値を出していない(工藤雪枝[2000b])。

 あまつさえ、工藤氏は以下のように書いてしまうのだから滑稽である。

 最近の若者向けの雑誌や、街を歩いている大半の若者から得る印象というのは、自分の外見やファッションといったことには大きな関心があるものの公や国といったものには、いかに関心がないかということがしっかりと実証されている。(工藤雪枝[2000b])

 その程度で《実証》としてしまっていいのだろうか。

 今回検証した工藤氏の2つの論文から言えることは、工藤氏は少なくとも「国家」というものに対しては強い帰属意識を持っているけれども、しかしその帰属意識がなんとも漠然としたものに過ぎない、ということだ。工藤氏は「国家に対して忠誠を尽くすことは素晴らしいことだ」と考えていることはよく分かる。しかし、その先がまったく見えないのである。すなわち、なぜ素晴らしいのか、そしてなぜ工藤氏はそこに素晴らしさを感じるのか、ということはまったくわからないのである。

 このような態度は、確かに「今時の若者」における「国家」意識の喪失を嘆く人には受けるかもしれない。しかし、このような文章で若年層に「国家」に対する意識を植え付けられるのか、と問われたら大変疑問である。なぜか。それは、この論文における「国家」というものが単なる工藤氏の妄想を超えていない、もう少し言えば人々の営みや風土、国土としての国家がすっぽりと抜け落ちているからである。これらの一連の論文において、現在のことに関しては、ただ過度に醜悪化されているだけの話で、果たしてそのような文章で若年層を「説得」できるか、ということに関しては大いに疑問が残るのである。

 このような現象が生じているのは、ひとえに工藤氏にとって国家というものが、あるいは歴史というものがいかなる位置を占めているか、ということに関する疑問を紐解いていく必要があろう。工藤氏の国家や歴史に対する態度は、これまで何度か述べてきたとおり、工藤氏は国家に対して純愛をしている、という表現がもっとも適切であろう。確かに国家に対する純愛、というスタイルを私は否定するつもりはないが、だからといって自らの崇拝している偶像としての国家を過度に絶対視し、自らの気に食わないものは全て「国家」を喪失したものとして攻撃するという態度はやめていただきたい。それにしても、この文章を読んでいると、(幻想としての)国家に対する後ろ向きの屈折した態度のないナショナリズムというものが、いかに自分の個人的な不快感と国家を結び付けてしまうか、ということがわかる。確かに今の日本にはたくさんの問題があるが、それでも私はこの国を愛する、というのが愛国心だと私は思うのだが。余計なお節介かもしれないが。

 工藤氏が妄想の「国家」しか抱けない、というのであれば、それは愛国心でも国家意識でもないのではないか?

 蛇足だけれども、工藤氏の「国家」意識は、この連載の第31回で検証したジャーナリストの細川珠生氏の「国家」意識と似ているような気がした。

 参考文献・資料
 工藤雪枝[2000a]
 工藤雪枝「平成“美顔男”たちへの憂鬱」=「正論」2000年9月号、産経新聞社
 工藤雪枝[2000b]
 工藤雪枝「ミーイズム日本の迷走」=「中央公論」2000年10月号

 姜尚中『ナショナリズム』岩波書店、2001年10月

 齋藤純一「愛国心「再定義」の可能性を探る」=「論座」2003年9月号、朝日新聞社

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2005年8月 8日 (月)

俗流若者論ケースファイル49・長谷川潤

 教師とはなんなのだろうか。いや、私の問いかけをもう少し正確な言葉で表すなら、論壇において教師とはなんなのか、ということになる。少なくとも我が国のマスコミにおいて教師とは実践者として捉えられている。陰山英男氏や藤原和博氏を思い出していただければよい。この2人の教師(といっても藤原氏に関しては正式な教員免許を持っているわけではないが)の実践に基づく教育理論は、多くのマスコミで採り上げられている。この2人の名前を知らなくとも、「100ます計算」(陰山氏)や「[よのなか]科」(藤原氏)といった言葉を聞いた人は少なくなかろう(ただ、陰山氏は制度論や授業論に関しては秀逸なのだが、「ディスプレー依存症」なる概念について語りだすと限りなく疑似科学に接近してしまうから困ったもの)。

 ところが我が国の論壇において一人の論客として教師が登場する場合は、実践者というよりは、むしろ「告発者」としての側面が強い。例えば都立高教諭の池ノ谷泰氏は、現在東京都において行なわれている教育政策が以下に教師を追いつめるか、ということを告発している(池ノ谷泰[2005])。この場合において告発されるのは東京都政であり、このようなスタイルの「告発」は、岩波書店の「世界」においてよく見られる。しかし、「新潮45」や「正論」における、教師による「告発」は「世界」の「告発」とは内容が全面的に違う。

 「新潮45」や「正論」において教師が「告発」する場合、そこにおいて告発されるのは日教組か文部科学省のどれかである。それだけなら「世界」と同じだろう、と思われるかもしれないが、私が全面的に違う、と述べる所以は、それらが推し進めている教育政策によって青少年が「異常」になっている、という内容になっているからである。「新潮45」ではもっぱら樽谷賢二氏がこの手の文章を書いているけれども、この手の執筆者は現在の青少年や社会状況を「異常」と断定し、そしてその状況を作り出した「張本人」としての文部科学省や日教組を告発する。このような姿勢で書かれているわけだから、この手の文章に俗流若者論が多くなる。

 「新潮45」においては執筆者は樽谷氏ばかりなのだが、「正論」では執筆者は多様だ。しかしそれぞれの論旨に関してはほとんどワンパターンといってもいい。今回検証するのは、そんな論文の一つである、大阪府枚方市立桜丘中学校社会科教諭・長谷川潤氏による「「ワガママ・テロル」の時代が始まった」(「正論」平成12年7月号に掲載)である。

 残念ながらこの論文の執筆者たる長谷川氏は、少年犯罪がここ最近になって多発化・凶悪化したと思い込んでいるのが痛いところだ。まず、長谷川氏は95ページにおいて、上智大学名誉教授の福島章氏の分析に文句をつける。福島氏は、この時期に多発した所謂「17歳の殺人」について、特に豊川における、所謂「人を殺してみたかった」殺人事件に関して、福島氏は《「純粋殺人」と規定し、サカキバラ(筆者注:酒鬼薔薇聖斗。平成9年の神戸市児童殺傷事件の犯人。ただ、この「酒鬼薔薇聖斗」なる殺人鬼が本当にそこで逮捕された14歳の少年なのか、という疑問の声が、弁護士の後藤昌次郎氏などから提示されている)の快楽殺人と異質なものと結論づけた》(長谷川潤[2000]、以下、断りがないなら同様)と分析していた。しかし長谷川氏はこの事件に関して、《豊川の「経験しようと思って」は「したかった」と動議である。神戸事件と同様に、「殺したいから殺した」のである》と述べている。しかしここで疑問が残る。確かに豊川の事件のほうは「殺したいから殺した」という解釈ができそうだが、「酒鬼薔薇聖斗」事件のほうは「殺したいから」というロジックは成り立たないのではないか。少なくとも犯行声明文や調書など(マスコミで公開された範囲で)を読んでみる限りでは、単純に「殺したいから」という理由で割り切ることはできないのではないかと思われるのである。長谷川氏は、「酒鬼薔薇聖斗」事件の記憶が薄れているのを見計らってこのような的はずれな比較を行なっているのではないか。

 さて、長谷川氏は豊川の事件のような殺人を《ワガママ殺人》とプロファイリングする。そして長谷川氏は95ページから96ページにかけて、このような犯罪は現在では例外ではない、とぶち上げる。しかし疑問なのは、過去との比較がないことだ。だが、長谷川氏はそのような行為を放棄して突き進んでしまう。例えば長谷川氏は96ページにおいて《筆者の授業中、余談の中で、ある生徒が「戦争になってほしい」と発言した》事例を紹介する。その生徒の発言の理由は《人が殺せるから》ということだそうだ。長谷川氏はこれにショックを受けたらしい。確かにこれにショックを受ける感覚は私にもよく分かる。しかし長谷川氏は更に妄想を強めてしまうのだから滑稽だ。96ページ2段目。

 その筆者の体験は、決して極端な例外とは言えない。平成9年の神戸事件(筆者注:「酒鬼薔薇聖斗」事件)発覚後一週間たって生徒に実施したアンケートでは、サカキバラの「きもちがわかりますか」との設問に「よくわかる」と答えた生徒が実に7%もいたのである。

 しかし、たといその7%が「酒鬼薔薇聖斗」の気持ちが「よくわかる」と答えたからといっても、その理由が「人を殺したい」ということに結びついているか、ということは疑問になろう。そもそもこの手の「共感」において最もよく聴かれたのはむしろ「酒鬼薔薇聖斗」の「犯行声明文」における「透明な存在」なる文句だったと私は記憶しているのだが。それを逆手にとって教育改革論を喧伝したのは社会学者の宮台真司氏であるけれども、少なくとも長谷川氏の決めつけがいかに暴力的であるか、ということを認識していただければ十分である。

 97ページでは長谷川氏が、当時大流行りだった(しかし今ではすっかり聴かれなくなった)「人を殺してなぜ悪いか」という質問に応えられない人たちを罵倒する。しかしアメリカがアフガンやイラクに対して行なった惨状を目の当たりにしている現在の私は、長谷川氏にこれらの状況を以下に捉えているのか、と問いただしたくなる。

 長谷川氏は99ページにおいて、長谷川氏が生徒に対して行なったアンケートを紹介している。とはいえそこにおけるサンプル数は188人、決して多い数ではない。しかし長谷川氏はこの程度のアンケートから現代の青少年の心理に関して述べたがるのだから救いようがない。長谷川氏は100ページにおいて以下のように述べる。

 このアンケートで理解、再確認されたことは、少数とはいえ今回の二人の十七歳に共感を抱く者が少なからず存在するという事実である。すなわち「ワガママ殺人」の潜在的予備軍が全国に展開している事実を、私たちは認識しなければならないのである。

 まったく、この程度のアンケートで《理解、再確認》理解していただきたくないものだ。
 しかし長谷川氏はこの先から本格的に暴走してしまう。長谷川氏は広辞苑の初版におけるテロルという語句の説明《あらゆる暴力手段に訴えて敵方を威嚇すること》を引き、《「バスのっとり事件」こそ、まさに「テロル」そのものではないか》と書いている。しかし、なぜ初版なのだろうか。ちなみに私の電子辞書に収録されている広辞苑の第5版には《あらゆる暴力手段に訴えて政治的敵対者を威嚇すること》と書かれている。

 長谷川氏は101ページにおいて、現在において「テロル」が激増していると書いてしまう。曰く、

 これ以外にも、「京都小学二年生殺害事件」(筆者注:所謂「てるくはのる」事件)や「新潟少女監禁事件」、あるいは少し年月をたどれば宮崎被告(筆者注:宮崎勤)による「連続幼女殺害事件」などの青少年による凶悪事件が相次いでいるが、その社会的影響力の大きさを考慮すれば、それらはすべて社会への「テロル」であると考えられる。

 このようなプロファイリングが許されるのであれば、全ての犯罪を《テロル》ということができそうである。長谷川氏はこの直前において、件のバスジャック事件に関して《五月十三日になって、内閣、文部省などへよく声明を事前に送付していたことが判明》していたことを引き合いに出し、その点から見れば京都小学二年生殺害事件も1億歩ほど譲って《テロル》ということができる。しかしそれ以外の2つの事件は、1000兆歩譲っても《テロル》ということは到底できない。そもそも新潟少女監禁事件があれだけ耳目を集めたのは犯人が「ひきこもり」状態に近い状態にあったからで、それが後に「ひきこもり」=犯罪、という歪んだイメージを結びつける走りとなってしまい、精神科医の斎藤環氏が必死になってその誤解を解消しようといそしんだ。また宮崎勤事件に関しても、その犯人たる宮崎勤がホラービデオやロリコンビデオなどに過剰なまでに嗜好性を示していたという理由であれだけ話題になっており、これもまたオタク=犯罪、という歪んだイメージを結びつける走りとなってしまった。少なくとも言えることは、長谷川氏が自らの勝手な定義に縛られていることであろう。

 101ページから102ページにかけて長谷川氏はこのような状況を生み出した原因(そもそも長谷川氏の状況設定が間違いだらけなのだが、この際1兆歩譲って認めることにしよう)について述べるのだけれども、私にとってはデ・ジャ・ヴュの連続であった。何せ長谷川氏、その「原因」なるものを「児童の権利に関する条約」(所謂「子供の権利条約」)に求めてしまうのだから。で、その条約が、管理教育を否定し、その結果学級崩壊や援助交際が激化して…どこかで聞いたことのあるストーリーだ。少なくともこのような手垢にまみれたストーリの正当性を一度は長谷川氏自身で検証してみてはどうか。私はもう検証・批判することすら面倒である。そして結びの104ページで訴えるのは少年法の厳罰化である。

 この論文の結びは次のとおり。

 今回、スペースの都合で教育問題は割愛させていただいた。当然ながら社会を正常化させるための最大のそして最も基本的要素は、正しい教育、就中朝日新聞のお嫌いな道徳教育の徹底が必要不可欠である点を最後に強調しておく。

 まず、この論文で教育問題は割愛されていないと思う。ただし、これは私と長谷川氏が何を「教育問題」として捉えるか、ということの差異に起因していると思うので、これに関する突っ込みは避けておこう。だが散々不安を煽っておいて、結局この程度のことしか言えないのであれば、この文章全体が砂上の楼閣のようなものである、と罵られても仕方がないであろう。

 この文章を読んで、私は改めて教師とは何か、ということについて深く考えさせられた。少なくともこの論文における長谷川氏は、自らの目の前の状況をまず解決しようとする意欲はまったく感じられず、単純にして短絡的な「憂国」を唱えることによって偽りの危機感や敵愾心を煽っているだけである。このような文章は、単純に現場をよく知っている中学校の教師が言っているのだから間違いない、という文脈で受容されるのかもしれないけれども、私にとってすれば長谷川氏の「理解」は偽りの理解であり、長谷川氏自身のイデオロギーに現代の青少年を当てはめているだけの話である。

 目の前の問題を解決しようとせずに、徒に自らのイデオロギーに生徒たちを当てはめてその危険性を喧伝している長谷川氏の如き教師は、私は不要だと思った。仮にこの論文の執筆者が教師であることを意識しなくても、この文章は容易に読めてしまう。要するに、この論文は「正論」によく登場する俗流右派論壇人が書いたものとなんら変わらないのである。この論文が、執筆者が教師ということだけで権威を持っているとすれば、私はもう一度、教師とはなんなのか、ということを問いかけざるを得ない。

 参考文献・資料
 池ノ谷泰[2005]
 池ノ谷泰「際限なき都教委版「日勤教育」」=「世界」2005年7月号、岩波書店
 長谷川潤[2000]
 長谷川潤「「ワガママ・テロル」の時代が始まった」=「正論」2000年7月号、産経新聞社

 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 歪、鵠『「非国民」手帖』情報センター出版局、2004年4月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 宮崎哲弥、藤井誠二『少年の「罪と罰」論』春秋社、2001年5月
 宮台真司『宮台真司interviews』世界書院、2005年2月
 森川嘉一郎、他『おたく:人格=空間=都市』幻冬舎、2004年9月

 佐保美恵子「現代の肖像 藤原和博」=「AERA」2004年3月29日号、朝日新聞社

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俗流若者論ケースファイル48・澤口俊之

 曲学阿世の徒・北海道大学教授の澤口俊之氏の登場である。澤口氏に関しては、この連載の第37回で一回登場したが、澤口氏単独の論文の検証は今回が始めてである。検証する文章は、「新潮45」平成13年1月号に発表された「若者の「脳」は狂っている――脳科学が教える「正しい子育て」」と、「諸君!」平成13年8月号に発表された「「スポック博士」で育った子はヘンだ」で、特に前者を中心に検証することにしよう。前者の論文が発表された数ヶ月前に、澤口氏はイラストレーターの南伸坊氏との共著で『平然と車内で化粧する脳』(扶桑社文庫)を出し、「今時の若者」は脳が異常だから恥知らずになるのだ、という、現在流通しているさまざまな擬似脳科学の基盤となるような論理をでっち上げた。これはマスコミには大きな喝采をもって迎えられたが、斎藤環氏(精神科医)や宮崎哲弥氏(評論家)や山形浩生氏(シンクタンク研究員・翻訳家)といった専門家や評論家からは冷淡な目で見られている。

 そんな澤口氏の思想を、「新潮45」の論文をテキストに検証してみよう。澤口氏は論文の冒頭、92ページにおいていきなり《昨今の若者たちの脳は機能障害に陥っているといわなければならない。早急になんとかしなければ、わが国の将来は危うい》(澤口俊之[2000]、以下、断りがないなら同様)とぶち上げる。そして澤口氏は以下のように述べる。

 近頃の若者たちで目立つのは、周りの目を気にしない行動だ。ひと目を気にしないで路上でキスする、駅で着替えをする。あるいは車内で平然と化粧し、携帯電話で私生活を暴露する。さらには、授業中に悠々とパンをかじったり、携帯電話を受けたりする。

 こうした恥知らずな行動」を「周りの目は気にしているけれどもあえてしている」というのであれば、問題は、まあ、それほど深刻ではない。ところが、事実はそうではない。周りの目を気にできない、のである。

 なぜか?脳科学からみれば、非常にシンプルな答えが返ってくる。彼らは、脳機能に傷害を負っているということだ。こうした「不可解な若者たち」の全てで、脳に具体的な傷や腫瘍があるわけではあるまい。そうではなく、「ある事情」で脳機能障害に陥ってしまったとみなせるのだ。

 このような論理が学者のものとして捉えられるのだから、我が国の論壇において科学というものがいかに軽視されているか、ということがわかるだろう。まず、澤口氏が「今時の若者」の行動に脳機能障害を見出す、というのであれば、この程度の単なる印象論ではなく、もっと具体的に数値化されたデータを提示するべきであろうし、安易に脳科学の知見を「今時の若者」にて起用することが倫理的に正統であるかどうかも検証すべきであろう。なお、澤口氏は、93ページにおいて、大脳前頭葉の傷害が人間性の欠落を引き起こす、ということに関する事例をあげているが、ここで採り上げられている事例の怪しさはこの連載の第37回において既に検証済みであるので、ここで触れることはしない。また、95ページで、澤口氏は所謂「狼少女」の事例にも触れているけれども、これも極めて信頼性の低い事例であり、第37回で検証済みなのでここでは触れない。

 さて、澤口氏の擬似脳科学の根本を支える(珍)概念とは何か。それは《PQ》と《ネオテニー》だ。いずれも澤口氏独自の概念である。《PQ》とは澤口氏の説明によると《前頭知性、Prefrontal Quotient》であり、《将来への展望・計画、自分の行動や感情のコントロール、他人の心の理解》という大脳前頭葉の基本的な働きの能力を示すらしい。また《ネオテニー》に関しては、この語句に関しては以前から存在するけれども、澤口氏の使い方では語句は同じでも本来の「幼形成熟」の意味からはかけ離れている、というよりは《PQ》概念に都合のいい形に換骨奪胎されている(ちなみに最近になって《PQ》は「HQ」(Humanity Quality;人間性指数)なる語句に変貌している)。当然の如く、澤口氏の説明によると、「今時の若者」は《PQ》が不足しているから《この観点からいえば、彼らは「周りの目を着にできない」という症状に加えて、「他人の気持ちがわからない」「欲望を抑えられない」「夢をもてない」「目標に向かって努力できない」といった症状も併発しているはずである》(94ページ)ということになる。ちなみに澤口氏は「今時の若者」における《PQ》障害という捉え方を《脳科学の観点からは当然》としているけれども、このような捕らえ方は澤口氏の独自のやり方であり、当然どころか異端である。

 しかし澤口氏は容赦しないようだ。澤口氏は「今時の若者」において《PQ》が不足している(と澤口氏が勝手に見なしている)原因を、母子密着型の子育てに求める。澤口氏は以下のように述べる。

 幼少期での不適切な環境によってPQは傷害されてしまうわけだが、このことをさらに議論する前にぜひとも抑えておくべき点がある。「ネオテニー」である。「日本人の幼少期」を議論する際にはこの点は避けて通れないからだ。(97ページ)

 近代の日本、とくに戦後の日本の状況をみると、「複雑で厳しい社会関係」とはまさに層反する環境が「普通」になっているといわなければならない。少子化が進んで兄弟姉妹の数は少ない。少ない子どもを(とくに母親が)大事に大事に(過保護に)育てる。母親による過保護がPQの障害をもたらすことは多くのデータからはっきりしていることだ。家の作りも問題で、LDKという欧米流の住居が蔓延してしまっている。……

 「モンゴロイド流幼少期環境」とは相反するこうした「単純で甘い社会関係」の中で育ったらどうなるか、答えははっきりしている。長じてもPQは未熟のままで、夢も希望もなく、その日暮らしで、努力知らず、恥知らずな若者ができあがる。(98~99ページ)

 このような物言いを見ていると、以下に俗流若者論における擬似脳科学というものが単なるロールシャッハ・テストに過ぎないか、ということがわかるだろう。ここで澤口氏が採り上げている事例は、どう考えてもマスコミの俗流若者論において散々取り上げられ、既に手垢が付きまくったイメージでしかない。また澤口氏は《母親による過保護がPQの障害をもたらすことは多くのデータからはっきりしていることだ》と自信満々に語っているけれども、あなたも科学者ならそのデータの情報源を提示するべきだろう。そして澤口氏、99ページにおいて《不可解な若者たちが激増しているのは、日本の現状からみればいわば当然のことなのだ》と書いている。しかし《不可解な若者たち》の《激増》というものが、極めて政治的なものである、ということに澤口氏は無頓着すぎる。

 そして、澤口氏のこの論文がどこに着地するか、というと、何と戸塚ヨットスクールを礼賛するのである。まあ、「戸塚ヨットスクール」というのは結局のところたとえ話に過ぎず、澤口氏は《子どもをたくさん作って大家族にし、LDKを壊して長屋を復活させ、学校教育を根本から見直し……ということになる》(100ページ)のが理想だと考えているようだ。もっともそれが無理難題であることは澤口氏も認めるところであるが。

 しかしここで我々が衝くべきは、澤口氏がここまで安易なアナロジーの濫用の問題点に無頓着である、ということだろう。そして澤口氏はその点に関してはなんら反省せずに「諸君!」の論文でも同様の論理飛躍を展開する。

 ただ「新潮45」の論文と違うのが、我が国において《PQ》を欠如させる(と澤口氏が勝手に規定している)子育てを『スポック博士の育児書』に求めていることである。ここでも澤口氏の安易な前頭葉信仰は変わらず、《進化生物学や脳科学を総合して考えると、私たち人類にとっての子育ての機軸は「前頭連合野を豊に育てること」にある》(澤口俊之[2001]、この段落に関しては断りがないなら同様)書いている他、ここで提示されている「子育ての失敗」の例もまた、マスコミで採り上げられている程度のもの、例えば《今の日本人がおかしいことは誰でも画漢字、指摘していることである。……若者たちでなく、我が国では首相さえこのことができていないようで、状況にふさわしくない発言(失言)を繰り返す始末だ。「状況に不適切に欲望を発露する」ということなど、有名人、一般人を問わず頻繁に見聞きする》というもので、根源的な問題点は「新潮45」の論文と変わらない。このように自分を無垢な場所に置ける人を、私は極めてうらやましく思う。

 澤口氏は「諸君!」の論文において、育児書の氾濫を批判している。しかし、澤口氏の如き安易な「憂国」言説こそ、育児書の氾濫という状況を生み出している真犯人ではないか。澤口氏が幾ら育児書など不要だ、生物学的伝統に従った子育てをしさえすればいいと叫んでいても、所詮は育児書の氾濫という状況を助長しているに過ぎないのである。

 それにしても俗流若者論がらみの澤口氏の言動で目立つのは、安易に科学の知見を換骨奪胎して「今時の若者」を批判したがる「善良な」人々に都合のいいように再構築して「今時の若者」に対する蔑視を煽る行為である。これはもはや科学者の行為ではなく御用学者の行為ではないか。このような俗流若者論の書き手により科学がないがしろにされ、科学の知見が歪められるのは、澤口氏のこれらの論文が発表された時期よりももっと深刻化している。それはマスメディアにおける「今時の若者」に対する敵愾心の高まりと動きを一つにしている。我々には、巷で「科学的」として語られている論理が、本当に科学的なものであるか、それとも科学ではないかを見極める能力が求められているのである。

 参考文献・資料
 澤口俊之[2000]
 澤口俊之「若者の「脳」は狂っている――脳科学が教える「正しい子育て」」=「新潮45」2001年1月号、新潮社
 澤口俊之[2001]
 澤口俊之「「スポック博士」で育った子はヘンだ」=「諸君!」2001年8月号、文藝春秋

 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 斎藤環『心理学化する社会』PHP研究所、2003年10月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月

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2005年8月 7日 (日)

俗流若者論ケースファイル47・武田徹

 私が俗流若者論の研究で培ったものの中でもっとも大きいものの一つは、物事をさも安易に説明するかのごときアナロジーを濫用してはならぬ、という精神である。巷には「今時の若者」を「説明」するための(=彼らの行動を過度に図式化し、彼らの精神の問題として捉えることによって、彼らを「劣等」と見なすための)珍概念が溢れている。「ゲーム脳」「ケータイを持ったサル」「フィギュア萌え族」さまざまだ。そしてそのような概念を用いる際は、その概念によって世界が簡単に説明されることに関する危機感を常に持たなければならない。少なくとも世界も人間の行動も単一の概念で説明できないほど複雑であり、俗流若者論は人間の、というよりも「今時の若者」の行動は簡単に説明できる、という錯誤に陥っているから、最終的にはいかなるアプローチでもレイシズムに辿り着く。森昭雄、正高信男、大谷昭宏など、採り上げると切りがない。

 たとい若者論であっても、そのような安易な概念に依拠して簡単に若年層を説明することを疑うことは、良識ある書き手であれば必然だ。もし誰かの発明した概念をそのまま批判的検証もなしに広めてしまったら、それは言論でもジャーナリズムでもなく大本営発表になる。そのような事態をもっとも避けるべきはジャーナリストであろう――。

 ここから本題に入る。今回検証する記事は、ジャーナリストの武田徹氏による「プログラム人間に「心」を」(「Voice」平成12年11月号)、である。この《プログラム人間》という表現は、心理学者の三森創氏による概念であり、武田氏は三森氏のこの概念を《何かを自分で感じて、それをきっかけとして行動を動機づけてゆくメカニズムを、彼(筆者注:三森氏)は「心」と読んでおり、最近の若い世代はそうしたメカニズムを形成させることなく育ってしまっているのが、三森の指摘だ》(武田徹[2000]、以下、断りがないなら同様)と紹介している。

 なぜ武田氏がこの概念に惹かれたのか。そのことについて、武田氏は、104ページから105ページにかけて、当時テレビで大流行りだった「片づけができない若者」なるものを紹介している。武田氏によると、それらの人は《たしかに大学や会社から帰宅した部屋の主は、服装などもこざっぱりしている。つまり社会的にはごく「まとも」な普通の若者なのだが、ただ片づけをする意欲だけが欠けていた》という。それが武田氏には、《ごくまともな若者の唯一の奇行》として片付けることができなかったらしく、武田氏は105ページの最後で、

 たしかに先にあげた例では、乱雑な部屋を不快に感じる「心」、不快感を動機として掃除という行動を選択する「心」が存在しなくなっていると考えれば、常軌を逸した散らかりぶりをうまく説明できる。

 と述べている。武田氏がジャーナリストであれば、まずそのように安易なアナロジーをテレビで見た程度の「今時の若者」のイメージに重ね合わせる前に、まずそのような事態がどこまで広がっているか、ということを取材すべきであろう。しかし武田氏は最後までこのアナロジーに依拠してしまう。ちなみに106ページにおいて、この三森氏の著書の一説が紹介されているのだが、その著書のタイトルが「プログラム駆動症候群」ときた。つくづく心理学主義系の俗流若者論は「症候群」が好きだ。

 武田氏のこの文章は、単純な概念に依拠すると、多面的な見方を拒絶するようになる、という格好の事例として見ることができる。例えば107ページの記述を見てみよう。

 そこで、まず注意すべきなのは、彼らが全面的に無責任なのかということだ。なぜ避妊しないのかと尋ねられた若い女性の多くは、それが最愛の恋人への忠誠の証なのだと答えるだろう。なぜ中絶しないで産んだのかと尋ねられたら、せっかく授かった生命を殺すなんて人道的に許されないことだと主張するのではないか。育児を放棄して遊びに行くことは、友人をなにより大事にしたいからだと述べるかもしれない。つまり、大人の眼からは一様に無責任だと移る行動は、彼らにしてみればそれぞれに「スジを通した」結果なのであり、彼らなりに責任を取ろうとしているのだ。

 ……

 若い世代の場合は、そうしたすべての行為に責任をとる個人であろうとはしない。部分的に筋が通れば突進して行ってしまう。それもまた「心」ではなく、「プログラム」で駆動されているということと関係している。動機づけがすべて「心」に統合されていれば、行動のすべてを統一的に見渡し、取捨選択をすることが可能となるが、若い世代は「心」を育んでいないからそれができない。読み込んだ「プログラム」どおりに行動する彼らの選択は、大人から見るとあまりに唐突で配慮に欠けており、無責任に映る。

 まず中絶に関する記述なのだが、ここで採り上げられている(武田氏の図式化による)若い女性の考え方は、ある意味極めて正統的だと言えるかもしれないし、あるいは相手である男性を傷つけたくないから自分で責任を取らなければいけない、と思いこんでいるのかもしれない。これは極めて文化的な状況の問題であり、決して武田氏=三森氏の如き安易なアナロジーで説明すべき問題ではない。また、前半の段落の途中において、武田氏は唐突に《育児を放棄して遊びに行くこと》を採り上げているけれども、これが若い世代で広まっているのか否かを武田氏は説明しようとしない。これは問題ではあるまいか。武田氏は「今時の若者」だからそういうこともしているだろう、と安易に思い込んでいるのではないか。

 それにしても後半の段落において、安易な断定が目立つのが気になるところだ。武田氏がこのような安易なアナロジーの使用に疑問を持たないのもまた、武田氏がこの文章を書く際《「心」ではなく、「プログラム」で駆動されている》からではないか。もちろんこのような表現は単なる冗談でしかないのだが、少なくとも武田氏が安易なアナロジーの使用に疑問を持たずに突き進んでいるのは確かであろう。

 この文章において、例えば近代以前からの刑罰の取り方に関する説明は特に間違っていると思われる部分はない。ただ、武田氏のこの文章において、問題は110ページにおいて再燃する。

 武田氏が安易なアナロジーの使用から脱却できていないことは、110ページの記述からも確認できる。武田氏は110ページにおいて、(武田氏=三森氏の勝手な規定による)現代の若年層の精神(無)状況の原因として、以下のように述べている。

 産業化の進展で一応は衣食足りた日本社会で、商品やサービスは欲望の対象となる異常の徒歩を求められるようになる。それは次官をこのように使えばいいという手順を示すという付加価値である。……

 これは多くの商品やサービスが「プログラム」内蔵型になったということだ。こうした状況が若い世代の生活様式に変化を及ぼす。

 たとえば冒頭に引いた散らかされたモノが積み上げられた部屋は、そこに内蔵されていた「プログラム」の作動が終了してしまい、もはやどういう手順で扱えばよいのかわからないまま、使い手によってモノが放置されていた光景だった(散らかった空間に住む不快感を感じる「心」をもたない彼らは、インテリア雑誌などで部屋ははくあるべしという新しい「プログラム」を読み込まないかぎり、いかに、そこが散らかっていようと片づけようとしない)。

 論理飛躍の目立つ文章である。そして、そのような論理飛躍の根源は、武田氏が単一の安易なアナロジーに依拠し、それによって全体のバランスを顧みずに、見かけだけの整合性に満足して文章を進めていることであることはもはや明らかであろう。そもそも武田氏が現代の若年層の病理的状況の典型として書いている「片付けられない若者」は、ある意味では掃除しようと思っているがなかなかできない、という状況としても読み取ることができるし、少なくとも《散らかった空間に住む不快感を感じる「心」をもたない彼らは、インテリア雑誌などで部屋ははくあるべしという新しい「プログラム」を読み込まないかぎり、いかに、そこが散らかっていようと片づけようとしない》などという若年層を蔑視したことを言うにはかなりの留保が必要となるだろう。

 そして武田氏はこの文章全体の結びにあたる111ペーにおいてこれまた問題の多い文章を書いてしまう。

 それぞれの文脈の限定された範囲内ではスジが通っているのかもしれないが、そうした作業にいかなる建設性があるのか。そして断片的にスジを通す姿勢は、統合された責任主体の目配りによって制御されることがないので、時にコミュニケーション不全の段階を飛び越えて具体的な暴力にまでいたることもなる。キレるというのは往々にしてそうした事態を意味するのだろう。

 そのような事態を望ましいと思わないのなら、責任主体を解体させているいまの社会状況をもう一度冷静に見直し、適度な「心」の再・仮構化に重点を置いた教育システムの構築など、現実的に対応可能な改善策を打ち出していくべきなのではないか。

 残念ながら、これもまた飛躍の目立つ文章だ。この文章を読んできた人であれば、ここでも武田氏がこれまで用いてきたアナロジーに批判的な視座を加えていないことが結局のところ最後まで改善されていないのがわかるだろう。武田氏は前半の段落の結びで《キレるというのは往々にしてそうした事態を意味するのだろう》と書いているけれども、《キレる》という表現が、極めて政治的に捏造された語句であるということを少しは気に留めておくべきだろう。まあ、このような主張は、この表現が恐ろしいまでに定着してしまった現状においては虚しく響くだけかもしれないが。

 武田氏は最後において《適度な「心」の再・仮構化に重点を置いた教育システムの構築など、現実的に対応可能な改善策を打ち出していくべきなのではないか》と書いている。しかしこのような物言いに関して、まず武田氏は散々安易なアナロジーに依拠し、そのアナロジーに対する批判的な視座を書いた論理を展開してきて、そして最後にこれまた安易で抽象的な「提言」を持ってくるということは、私から見れば明らかに無責任としか言いようがないのだが。もう一つ、ここで武田氏は唐突に《教育システムの構築》と書いているけれども、そもそも武田氏はこの文章において教育について少しも触れていない。おそらく教育について触れたらこの文章が崩壊するか、あるいは大幅に膨張するからだろうが、唐突に教育を持ち出されても困る。

 安易なアナロジーに依拠した俗流若者論は、「今時の若者」に対するフラストレーションを簡単に説明してもらえる、という点ではきわめて強い魅力を持っているようだ。しかし、そのような論理の蔓延が人々の思考停止や、あるいはレイシズムを招くことになりはしまいか。武田氏はその点に関して最後まで無頓着であった。武田氏はいくつかいい仕事を残しているだけに残念である。

 また、ここで用いられた「プログラム駆動症候群」なる珍概念は、心理学主義的なプロファイリングであるが、これに限らず我が国においてこのような心理学主義的なプロファイリングが増加している。このようなプロファイリングは、「今時の若者」の内面をその提唱者の中で勝手に構築し、若年層全体の内面を彼らの都合のいいように構成して「世間」に説明する。若年層の内面が、一人の心理学主義者(心理学者ではない)によって規定され、それがイメージとして定着してしまう。このような状況を思想的に批判する視座が、蔓延する心理学主義に対する批判には必要になる。

 まあ、このような心理学的なプロファイリングが大量に流通されると、かえって各々のプロファイリングの価値が薄まるかもしれないが、現実はそうでもないのが哀しいところだ。

 参考文献・資料
 武田徹[2000]
 武田徹「プログラム人間に「心」を」=「Voice」2000年11月号、PHP研究所

 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 芹沢一也『狂気と犯罪』講談社+α新書、2005年1月
 十川幸司『精神分析』岩波書店、2003年11月

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俗流若者論ケースファイル46・石堂淑朗

 平成12年5月は、所謂「17歳の犯罪」が多発した時期であった。平成12年から13年にかけての月刊誌において俗流若者論が多かったのは、このことから来るのかもしれないが、かといって益体にもならぬ「憂国」言説を垂れ流して、過去の事例に触れようともせず、また青少年を取り巻く現実をまったく無視することが許されるはずはない。これは少年犯罪に限らず、青少年に関する論考を書くものであれば、全ての人がわきまえなければならないことであるし、そのようなことをわきまえて書く人は秀逸な論考を書くことが多い。

 その点からかんがみると、脚本家の石堂淑朗氏は、青少年に関する論考を書くものとしては最も質の悪い分類に入る。石堂氏は、「正論」で「平成餓鬼草子」なる俗流若者論ばかり飛び出す連載で、自らの思い込みに基づく思考停止を遺憾なく発揮するほか(「俗流若者論ケースファイル28・石堂淑朗」ではこの連載の第86回と87回を検証した)、「新潮45」ではことあるごとに箸にも棒にもかからぬ単なる「憂国」言説ばかり書き飛ばしている。

 故に、石堂氏が平成12年5月に起こった一連の「17歳の犯罪」に関して、俗流若者論を書き飛ばすことは想像に難くないことだろう。そして、本当に書いていた。「新潮45」平成12年6月号に掲載された「こんな「十七歳」に誰がした」である。何せ石堂氏、冒頭から《一人逃げたら一人殺すという言い方は正しくゲーム感覚のものである》(石堂淑朗[2000]、以下、断りがないなら同様)などと勝手に定義をでっち上げているのだから。このように、この石堂氏の文章においては、石堂氏自身の思い込みに過ぎぬ論理飛躍が華麗に展開される。

 とはいえ、この文章は、はっきり言って現在の青少年を最初から「異常である」と決め付けた上での暴論でしかないのだけれども。この文章では過度に「私語り」、要するに自分のことを語り、それを素晴らしいとして、今は(石堂氏の自意識のよりどころとなっている)それらが失われたからこのような犯罪がたくさん起こるようになってしまったのだ、という口調が目立つ。いい加減やめてくれないか。そのことで青少年問題が解決するとしたらもはやお笑いである。

 例を挙げてみる。45ページの1段目から2段目。

 ……それが叔父(筆者注:石堂氏)も甥(筆者注:石堂氏の甥)も大過なく人生を送ってこれたのは(筆者注:「今時の若者」を不当に嘆く文章で「ら抜き言葉」はまずかろう)、ヴァーチャルリアリティー…なぞは幾ら人の心を奪っても所詮は絵空事ということをチャンと弁えていたからである。これこそが本当の人生という、あるときは嬉しい、別の時には鬱陶しいまでに細々示威事柄がいっぱい詰まった日常生活の仕組みこそが本当の世界という認識から逸脱するようなことは絶えてなかったのである。この日常があらゆる面で滅んでしまった。

 カー付き、ババ抜きの核家族がその犯人である。老人がいないのが建前のこの生活の特徴は、人間関係の希薄化にある。祖父母と孫、嫁姑、婿舅の関係が消え、それは必然に叔父叔母、甥、姪の来訪といった現象の消滅を伴う。今日は従兄弟が遊びに来るといった嬉しい日は消えた。何と言う淋しいことになたのだろう、にぎやかな一族集合の情景は幼い私の記憶に強く、懐かしく残っているというのに。

 面白い。何が面白いかというと、石堂氏がここまで自分を絶対化できることが。まず、核家族化が進行したからといって、それが《祖父母と孫、嫁姑、婿舅の関係が消え、それは必然に叔父叔母、甥、姪の来訪といった現象の消滅を伴う》などということを引き起こすか、ということに関しては相当に留保が必要であろう。また、石堂氏は前半の段落において、ヴァーチャルリアリティは《所詮は絵空事》であるからこそ犯罪を起こさない、と言っているのだろうが、我が国にはヴァーチャルリアリティを「絵空事」以上のものとして認識する人がたくさんいるのに、だからといって我が国において青少年による凶悪犯罪が増えているわけでは決してない。ぜひとも、このような物言いを、ライターの本田透氏はどのように考えているか聞いてみたいところ。

 ちなみに本田氏は、著書『電波男』(三才ブックス)において、ヴァーチャルリアリティへ性的欲望を持つことの正当性を訴えている(本田透[2005])。この本は傾聴に値する部分も多いが論理飛躍も多いので評価としては微妙な部類に入るけれども、この本を読んで少なくともわかることはヴァーチャルリアリティを「絵空事」以上のものと認識することによって、かえってヴァーチャルリアリティが「絵空事」であることが強調されるという逆説である。45ページ2段目において石堂氏は《現実とゲームの世界を同一化させてしまうのは、ゲームに吸い込まれてしまうほどに現実が現実としての迫力を喪失しているからである。子供は短くて髭根のない青首大根と化して、核家族という名の畑からいとも簡単に抜けるのである》と書いているが、あまりにも単純すぎる図式化だし、このような幻想に取り付かれている限り本田氏の著書における逆説を理解することはできるだろうか。

 それにしても、どうも石堂氏はテキスト化した俗流若者論しか書くことができないようだ。結局のところそれは石堂氏の俗流保守論壇に対する媚びであり、またそのような行為によって脆弱な自意識を埋め合わせることにしか過ぎないのではないか。

 46ページ1段目から2段目を紐解いてみよう。

 戦後五十五年を閲してついに日本は十七歳のバスジャック犯一人に振り回される情けない、国ともいえない国に変貌堕落したのである。

 最大の犯人はオンナである。専業主婦を馬鹿呼ばわりして止まぬフェミニストと、小刀は狂気であり、武器であるという訳の分からぬ屁理屈で小学校工作の時間から小刀を奪った、平和教育主義者左派社会党系列のオンナとそれに迎合する日教組連中であった。こういう手合いが黴のように増殖したのが戦後民主主義という名のシャーレに他ならないのである。

 さてフェミニストに相当する勢力を別の角度から見るとそれはさしずめ人権主義者たちと言うことになるだろう。

 石堂氏のこのような過剰な被害者意識は、そのまま俗流保守論壇における被害者意識につながる。要するに、この社会を悪くしたのは自分たちではない、自分とは反対の意見を持った《平和主義者左派社会党系列のオンナとそれに迎合する日教組連中》だ、ということである。こういう人たちが好んで青少年に「責任」を押し付けるのだからもはや状況はお笑いを通り越して凍土である。もちろん、犯罪者になったからには法の下に行為相当の責任を取らなければならないが、少なくとも被害者意識にまみれた石堂氏の如き「国粋主義者右派自民党系列のオトコとそれに迎合する俗流右派論壇連中」(笑)に「責任」を語る資格はないのである。ちなみに私は「反俗流若者論主義者左派民主党系列のオトコ」である。

 このような石堂氏が、《少年法改正の声が高くなっている今、かれら悪党ショーネンどもの間で、やるんなら今のうちだぜという声が飛び交っていることを知っているのは、更に一層の常識と言うものだ》(46ページ)などと妄想を語っていることは、もはや驚くに値しないであろう。

 石堂氏のこの文章は、我が国の一部の雑誌においていかに短絡的で即発的で差別的な「憂国」が好まれるか、ということを如実に示している。このことは、石堂氏のこの文章のみならず、そのまま石堂氏の執筆活動全体に当てはまることかもしれぬ。石堂氏はこのような下らないことばかりしているなら本業の脚本家に戻れ、と私は言いたいけれども、このような状況ははっきりいって執筆者、編集者、読者の共犯関係の上に成り立っているので、まず編集者と読者の良識によりこのような下らない文章ばかり量産する執筆者が文章を書けないようにするのが望ましいのだが、少なくとも論壇、特に俗流保守論壇は石堂氏の如き「下らないこと」で儲けている人が多い。金と俗流若者論の魅力には勝てないということか。

 だが、文章で金を得る人は、その金相応の仕事をしているか、ということを意識しなければならない。それが文筆家の誇りというものだろう。その誇りを失って単なる空疎な金儲けに走ってしまったら、堕落の一途を辿るだろう。まあ、石堂氏に「誇り」があるのかどうか疑問だが。

 石堂氏のこの文章の結び(47ページ)はこの通り。

 ……それがこういう想像を絶する自己中心主義を生むに至ったのは、度の過ぎた人権主義同様にこれまた戦後民主主義の泥沼の故なのである。

 かくしてバスジャック事件は日本の大人とショーネンが同時に、世界相手に恥を晒した滑稽にして悲惨なテレビショーであったことが知れるのである。

 《それがこういう想像を絶する自己中心主義を生むに至ったのは、度の過ぎた》拝金主義《同様にこれまた》俗流若者論主義の《泥沼の故なのである》。

 《かくして》石堂氏の仕事は日本の俗流保守論壇と読者が《同時に、世界相手に恥を晒した滑稽にして悲惨な》論壇ショーであったことが知れるのである、まる。

 参考文献・資料
 石堂淑朗[2000]
 石堂淑朗「こんな「十七歳」に誰がした」=「新潮45」2000年6月号、新潮社
 本田透[2005]
 本田透『電波男』三才ブックス、2005年3月

 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月
 宮崎哲弥、藤井誠二『少年の「罪と罰」論』春秋社、2001年5月

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2005年8月 6日 (土)

俗流若者論ケースファイル45・松沢成文

 また頭が痛くなってきそうだ。

 ゲーム規制を推し進める神奈川県知事の松沢成文氏が、平成17年8月3日付朝日新聞の「私の視点」欄に、「ゲームソフト 有害図書指定の輪を全国に」なる文章を寄せている。はっきりいってこの文章は、松沢氏のブログに寄せられた多数の批判にまったく答えていない。結局のところ、いつもどおりの論理飛躍とトートロジーを繰り返しているだけである。

 松沢氏はこのコラムの3段目において、《ゲームを有害図書に指定した、この先駆的な取り組みは、大きな反響を呼び、多くの意見が寄せられている》(松沢成文[2005]、以下、断りがないなら同様)と松沢氏が書いている。ここで《先駆的》という言葉を使って、いかに松沢氏が自分の行動が正しいことであるか、ということを証明したいかのようだ。しかしこのような松沢氏の行為は、はっきり言って基礎から腐っている、としか言いようがない。それに関しては、松沢氏の文章を検証する過程で明らかにすることにしよう。

 松沢氏は4段目において《その大半は批判的なものだ》と書いている。ならばそれらの批判に答えてくれるのか、と思ったが、冒頭で述べたとおり、答えていない。松沢氏はこの直後で《青少年の健全育成のために、はんらんする情報をどのように扱ったらよいのか。奥深い課題であり、これを機会に大いに議論をし、対策を考えるべきだ》と書いているのだが、果たして《健全育成》とはなんなのだろうか。松沢氏の議論に従えば、子供を「有害」な情報のない環境に置けば子供たちは健全に育成される、と考えているのだろうが、それは青少年の健全育成なる美辞麗句を楯に取った言論統制ではないか。

 私が笑ったのは以下の文章だ。5段目から6段目である。

 このゲーム(筆者注:神奈川県が「有害図書」としている米国のゲームソフト「グランド・セフト・オート3」。以下、「GTA3」と表記)の主人公はプレーヤー自身である。つまり、たとえ仮想空間だとはいえ、ゲームを操作する青少年が、こうした殺傷に主体的にかかわるのだ。精巧な技術開発によりリアリティーが増した画面に向かい、プレーヤーが一人で仮想経験を繰り返す。

 こうした体験を続けることが、青少年にどのような影響を与えるのか。私は、ゲームソフトには、自らが操作するという特徴があるが故に、雑誌やビデオと比べ青少年への心理的影響はかえって深刻であり、対策は急を要すると考える。

 青少年の健全育成に向けた取り組みは、社会全体の責務である。保護者の方々は、これを機会にゲームソフトに対する関心を高めていただきたい。……

 笑いを取っているのだろうか。もし松沢氏がそのようなつもりで書いていないのであれば、これは相当に深刻な問題である。松沢氏は《たとえ仮想空間だとは言え、ゲームを操作する青少年が、こうした殺傷に主体的にかかわるのだ》といっている。松沢氏は、故にこのようなゲームが青少年に悪影響を与え、そして青少年が凶悪犯罪に走る、と考えているようだ。

 世の中の青少年諸君、松沢氏に怒りをぶつけるべきだろう。要するに松沢氏の考える青少年、そしてゲーム規制に賛成する人たちの考える青少年は、悪い意味で極めて無垢な存在、すなわち「有害な」ゲームソフトなどによって、この世において暴力が正当化されている、と思いこむ存在である。もちろん、このような青少年などごく少数であろう。限りなくゼロに近いかもしれない。私が理解してもらいたいのは松沢氏をはじめとする規制論者の青少年認識、すなわち彼らが青少年を前に述べた存在であると見なしていることの残酷さである。

 松沢氏よ、あなたが県知事として責任ある立場に立っているのであれば、まず多くの論理的な批判、例えば少年による凶悪犯罪は減少しているとか、「ゲームの悪影響」が科学的に証明された例はない、とかいうことに対する反論をまず書くべきだろう。相変わらず松沢氏が「自分が悪影響があるといっているから規制する」という態度を貫くのであれば、まず松沢氏は禊を行なうべきである。

 そもそもこの規制自体が怪しいのである。朝日新聞記者の中上貴博氏によると、このGTA3の「有害図書」規定の内容は以下のようなものだったようだ。

 そこで、県が編み出した要件は「殺傷または暴力の対象が現存の生命体と認められる」「手段が現実に取り得る」「場面設定が限りなく現実の社会に近い」の三つ。殺す相手がゾンビではなく人、殺す場所が地下要塞(ようさい)ではなく町や路上という具合だ。

 有害図書類の指定の答申を決めた30日の県児童福祉審議会社会環境部会では、ゲームの録画が上映され、「親としては子どもに見せたくない」などの意見が出された後、出席した6人の委員全員が「規制が必要」と結論づけた。審議はわずか1時間で終わった。

 傍聴者から会合後に「暴力的な映像だけ見せたのでは、誰だって反対する。『まず指定ありき』という感じだった」などと不満も漏れた。(中上貴博[2005])

 壮大な茶番劇、というほかない。しかも、毎日新聞社が発行しているアニメ・ゲーム・漫画専門の無料タブロイド紙「MANTANBROAD」平成17年6月号の、この「有害図書」規制を取り扱った特集記事において、毎日新聞記者の河村成浩氏が、この映像審査に用いられた審査映像の長さが10分という短さだったと報じている(河村成浩[2005]。河村氏も中上氏と同様、この審査の時間がわずか1時間だったことに触れている)。もう一つ、河村氏の記事であるが、神奈川県の青少年課副課長の林敬人氏は、《表現の自由はもちろん重視しているが、公共の福祉も重要だ。GTA3はあまりにも現実に近すぎるし、県民の指摘もあり、見過ごすことはできない》(河村成浩[2005])と言っているようだ。ならば林氏に問いたい、世の中には殺人事件を取り扱ったテレビドラマ(もちろん実写)がたくさんあるけれども、それに関してはどのように考えているのだろうか。また、我が国において、報道で報じられた内容を模倣して行なわれた事件は、はっきり言ってゲームを模倣したものよりも多い、少なくとも報道される範囲では(ただ、報道に触発された犯罪に比して、ゲームに触発された犯罪のほうが数倍センセーショナルに報じられるので、注意して読まないとわからないが)。

 河村氏の記事では「松文館裁判」(出版社である松文館の発行した青年コミックが刑法のわいせつ罪に問われた事件。この裁判には、国会議員の平沢勝栄氏が大きく関わっている。詳しくは長岡義幸[2004]を参照されたし)の被告側(出版社側)主任弁護人である山口貴士氏がコメントを寄せている。曰く、

 ゲームが青少年の暴力的行動を誘発するという明確な根拠がないままに、規制だけを強化する動きが理解できない。一部分にだけスポットをあてて、青少年を取り巻く環境に目が届いていないのでは。規制をして効果があるかどうかも疑問だ。だがゲームに限らず有害図書などの規制の流れは全国的に進んでおり、今回の事例が前例となって第2、第3のケースが生じることもあるだろう。(河村成浩[2005])

 山口氏の危惧は現実になりつつある。というのも、河村氏の記事では、東京都の石原慎太郎知事が今年3月の定例議会で松沢氏の方針に賛同したことが書かれている(もとより石原氏は最近「文藝春秋」で発表している俗流若者論において、ゲームは有害である、ということを書き散らしている。石原慎太郎[2005]、石原慎太郎、養老孟司[2005]を参照されたし)。また、愛知県や大阪府においても同様の規制が敷かれるようだ。

 さらに松沢氏は、このように書いている。

 今回の指定の効果は、現状では県内にしか及ばない。そのため、先日、全国知事会議の機会をとらえて、各都道府県に有害図書への共通理解を検討するようお願いした。

 そして、松沢氏のブログでは、この全国知事会議において、宮城県の浅野史郎知事(!)が松沢氏の要請に答え、具体的な検討に入ることが表明されたという。松沢氏の所論には、福岡県知事で知事会の会長である麻生渡氏も賛同していたそうだ。

 もはや全国的な規制の動きをとめることはできないのだろうか。しかし松沢氏の規制策動を批判する我々も、ひとり松沢氏のみを批判するだけでは、同様の動きをとめることはできないだろう。なぜならこのような規制論の根底には俗流若者論が付きまとっているからである。要するに、「今時の若者」は自分とは違う社会環境で育ったから「異常」になったのだ、ということで、そこでもっぱら槍玉に上げられるのがゲーム、漫画、テレビ、携帯電話、インターネットである。ここではまさにゲームが槍玉に上がっている。だから我々は、松沢氏の立論が以下に歪んでいるものであるかを衝くと同時に、巷に流布している「今時の若者」のイメージの虚構性もまた衝かなければならない。このゲーム規制の件は、行政が俗流若者論に屈服した例として私は見ている。

 参考文献・資料
 石原慎太郎[2005]
 石原慎太郎「仮想と虚妄の時代」=「文藝春秋」2005年5月号、文藝春秋
 石原慎太郎、養老孟司[2005]
 石原慎太郎、養老孟司「子供は脳からおかしくなった」=「文藝春秋」2005年8月号、文藝春秋
 河村成浩[2005]
 河村成浩「「残虐」とゲームが有害図書に 神奈川県、条例で指定」=「MANTANBROAD」2005年6月号、毎日新聞社
 長岡義幸[2004]
 長岡義幸『「わいせつコミック」裁判』道出版、2004年1月
 中上貴博[2005]
 中上貴博「県、「残虐ゲーム」を有害図書指定へ」=2005年6月1日付朝日新聞神奈川県版(この記事は朝日新聞社ウェブサイトの文章を基にしています)
 松沢成文[2005]
 松沢成文「ゲームソフト 有害図書指定の輪を全国に」=2005年8月3日付朝日新聞

 斎藤環『「負けた」教の信者たち』中公新書ラクレ、2005年4月
 ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』岩波文庫、上下巻、1987年2月

 酒井隆史「「世間」の膨張によって扇動されるパニック」=「論座」2005年9月号、朝日新聞社
 杉田敦「「彼ら」とは違う「私たち」――統一地方選の民意を考える」=「世界」2003年6月号、岩波書店

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 関連記事
 「俗流若者論ケースファイル11・石原慎太郎
 「俗流若者論ケースファイル12・松沢成文
 「俗流若者論ケースファイル34・石原慎太郎&養老孟司

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2005年8月 5日 (金)

俗流若者論ケースファイル44・藤原正彦

 頭が痛くなりそうだ。

 この連載の42回と43回では、読売新聞社のメディアによるフリーター・若年無業者バッシングを採り上げてきた。そこで感じたのは、読売がいかに彼らを「今時の若者」として扱うことに必死であるか、ということだ。要するに、彼らは自分勝手な理由でフリーターや若年無業者になったのであり、あいつらの精神をどうにかしないと日本は滅びる、というアプローチによるフリーター・若年無業者批判である。

 当然の如く、執筆者やコメンテーターには、そのような意見を補強する人たちばかり採用され(弘兼憲史氏がいい例だろう。詳しくは「統計学の常識、やってTRY!第4回&俗流若者論ケースファイル42・弘兼憲史」を参照されたし)、彼らを取り巻く経済的な要因は無視され、ただこれらの優れて経済的な問題が彼らの「心」の問題として処理される。

 日本経済新聞は、平成17年4月13日から15日にかけて、日経の長文コラム欄である「経済教室」で「若年雇用への視点」という連載企画を行なった。そこで執筆者として登場していたのが、玄田有史(東京大学助教授)、小杉礼子(「労働政策研究・研修機構」副統括研究員)、宮本みち子(放送大学教授)の3氏という豪華メンバーである。この連載企画で明らかにされているのは、若年無業者の中でも、定職につくことを求めることすらしない人の大多数が高等教育を受けていない(玄田有史[2005])、たとい新卒採用が増加しても、やはり若年層の多くがフリーター化する状況は改善されない(小杉礼子[2005])、それにもかかわらずそのような若年層に対する支援策が遅すぎた(宮本みち子[2005])ということだ。もはや単純な精神論で語れる問題ではないことは、少し調査すれば明らかになっていることである(他にも、本田由紀[2005]も参照されたし)。

 そのような枠組みを無視した読売のフリーター・若年無業者批判は、結局のところ若年層が受けるべきパイをさらに減少させる役割しか果たさないのである。それなのに、いまだなおそのような若年層に対して精神論的な暴論ばかり浴びせかける言説があとを絶たない。

 さて、ここから本題に入る。このブログでは京都大学教授の正高信男氏に対する批判を一つのカテゴリーにしているのだが、正高氏は読売新聞の教育面の連載コラム「学びの時評」にて再三にわたって俗流若者論を書いており、その都度私が批判している。しかし、同じ「学びの時評」における問題のある執筆者に関して言うと、数学者の藤原正彦氏だって負けてはいない。今回検証するのは、そんな藤原氏が平成17年5月16日付読売新聞に「学びの時評」で書いた「美辞麗句に酔うことなかれ」である。

 はっきり言って、このタイトルを藤原氏に投げ返したいくらいだ。藤原氏はこのコラムの第1段落の最後で《美辞に酔った国民は、それを達成するためなら何をしてもよい気持ちになる》(藤原正彦[2005]、以下、断りがないなら同様)と書いている。しかしそれは藤原氏にこそ見事に当てはまる。特に、このコラムの第2段落が。

 教育基本法には「個人の尊厳」とか「個人の価値」が謳い上げられているが、これが「身勝手の助長」につながった。少子化やフリーター激増もこの美辞に支えられている。心地のよい響きを持つ「ゆとり教育」は「愚民化教育」に過ぎない。現在進行中の「中央から地方へ」はいかにも地方への思いやりに満ちているが、現実は地方切り捨てに近い。この方針の言われ始めた頃から、地方の駅前商店街はさびれ田畑は荒れてきている。今は義務教育まで地方まかせにする勢いである。「私の県の小学校では国語より英語」「私の県では算数よりパソコン教育」などとなったら日本は崩壊してしまう。

 妄想と言っても差し支えないだろう。まず、教育基本法が《身勝手の助長》を生み出した、と藤原氏は言っている。しかし藤原氏にとって《身勝手の助長》とはなんなのだろうか。藤原氏は《少子化やフリーター激増》をその《身勝手の助長》の結果として見なしているようであるが、そのような見方こそはっきり言って藤原氏が美辞麗句に酔っている証拠である。現実は、藤原氏が考えているほど甘くはないのは、前掲の玄田、小杉、宮本の3氏の調査・立論の通り。また少子化に関して言うと、ここまで若年層の危険を煽る言説が溢れている状況において、いざ若い女性に子供を産め、といってもはっきり言ってどれほど効果が上がるかは疑問であるし、藤原氏もまた過去の言説においてそのような言説の炎に油を注いでいる(これに関しては後に検証する)。

 また、義務教育の地方委託に関する記述も、単なる藤原氏の妄想でしかなかろう。もちろん、私とて義務教育は少なくとも最低基準だけは国が保障すべき、という考え方なので、その点は藤原氏には近いのかもしれないけれども、だからといって藤原氏の飛躍した立論には首肯できかねる部分が多い。

 藤原氏がこのように若年層に関する現実とはかけ離れた妄想を構築することができるのも、全ては藤原氏が美辞に酔っている故だろう。そもそも藤原氏は冒頭で《美辞に酔った国民は、それを達成するためなら何をしてもよい気持ちになる》と書いていた。しかし、はっきり言ってこれは藤原氏の妄想とはまた別のところで問題を起こしている。例えば、最近になって神奈川県を中心に「性少年の健全育成」という美辞の元に言論統制が行なわれている。例えば最近になってあるゲームが「有害図書」指定されているけれども、神奈川県知事の松沢成文氏がその根拠として記者会見やウェブ上や朝日新聞などで展開している論理は、はっきり言って論理飛躍またはトートロジーのどちらかである。また、「青少年の健全育成」という美辞の元に、教育基本法の改正だとか、さらにはその美辞の元に憲法さえ変えられようとしている。また、「治安の向上」という美辞の元に、街は「異物」を排除するデザインやシステムなどで溢れ(五十嵐太郎[2004]、高橋純子[2005])、秋葉原ではオタクに対する職務質問が増加し、事実とは明らかにかけ離れた偏向報道も増殖している。「今時の若者」という美辞の元に疑似科学と歴史修正主義(右も左も)が蔓延しているのはこのブログで批判している通り。

 藤原氏がこのコラムの結びでこのように書いていることが痛い。

 美辞は人間の思考を停止させ冷静な検討吟味を妨げるから、政官財はもちろんマスコミにあおられた国民も突っ走る。ヨーロッパやアジアのどの国をも圧倒する経済力を実現した。極東の小さな島国日本の至宝ともいえる国柄が、美辞麗句とともにあっけなく壊されている。

 結局のところ経済か。そもそも《国柄》とは何か。それは単なる藤原氏の幻想に過ぎないのではないか。もちろん、戦後の我が国が世界を圧倒する経済力を実現してきたのは事実だけれども、しかし最近になってその限界性も見え始めている。藤原氏はその限界を知っているのか。我が国はまもなく人口減少社会に突入するわけだが、それでも安定した経済を構築できるような社会システムの設計こそ、我が国が国際的に生き残る唯一の道だと私は考える。また、経済一辺倒主義は環境破壊や、(藤原氏も触れている)地方の荒廃をもたらした。

 また、我が国において、若年層に比して知識も見識もあるとされている大人たちが、いかに疑似科学や妄想、そしてそれを支える俗流若者論に陶酔しているか。これらの議論は、少しでも論理を膨らませれば疑問点が見つかるものだけれども、多くの人たちがそのような疑似科学や妄想に心酔している。藤原氏は《美辞は人間の思考を停止させ冷静な吟味検討を妨げる》と書いているが、けだし至言。「ゲーム脳」や「ケータイを持ったサル」という美辞麗句は、若年層に対する《冷静な吟味検討を》妨げている。

 藤原氏の想像力がそこまで及んでいないのだとしたら、藤原氏の立論は、単に藤原氏の妄想を復活させるための議論にしかならないのである。

 参考文献・資料
 五十嵐太郎[2004]
 五十嵐太郎『過防備都市』中公新書ラクレ、2004年7月
 玄田有史[2005]
 玄田有史「ニート、学歴・収入と関連」=2005年4月13日付日本経済新聞
 小杉礼子[2005]
 小杉礼子「就職の仕組み柔軟に」=2005年4月14日付日本経済新聞
 高橋純子[2005]
 高橋純子「セキュリティータウンを歩く」=「論座」2005年9月号、朝日新聞社
 藤原正彦[2005]
 藤原正彦「美辞麗句に酔うことなかれ」=2005年5月16日付読売新聞
 本田由紀[2005]
 本田由紀『若者と仕事』東京大学出版会、2005年4月
 宮本みち子[2005]
 宮本みち子「包括・継続的な支援必要」2005年4月15日付日本経済新聞

 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月

 酒井隆史「「世間」の膨張によって扇動されるパニック」=「論座」2005年9月号、朝日新聞社
 杉田敦「「彼ら」とは違う「私たち」――統一地方選の民意を考える」=「世界」2003年6月号、岩波書店

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2005年8月 2日 (火)

俗流若者論ケースファイル43・奥田祥子&高畑基宏

 前回は「統計学の常識やってTRY」と「俗流若者論ケースファイル」の2つの企画を合併させる、という離れ業を行なってしまった。そのときに私は、読売新聞が行なった「就職観」に関する社会調査と、それについての漫画家の弘兼憲史氏のコメントを批判したのだけれども、今回批判するのもまた読売新聞社系のメディアの若年無業者バッシングである。記事は、「Yomiuri Weekly」平成17年8月14日号の「ニート家庭「凄絶」白書」で、執筆者は同誌編集部の奥田祥子氏と高畑基宏氏。そういえば高畑氏は同誌平成17年7月24日号でも「狂いだした日本人の“体感距離”」なる俗流若者論を書いていた。それはさておき、今回の記事も、また若年無業者となる若年層を不当にバッシングする内容である。この記事を、そのまま「ニート報道「凄絶」白書」として紹介したいくらいである。

 この記事のリード文には、以下の通り書かれている。この文章に、この記事の執筆姿勢と問題点が集約されていると言ってもいいだろう。

 「親思う心にまさる親心」とは、よく言ったもの。子どもの行く末を案じる親の庇護の下に、いまやニート、フリーター300万人。働かない若者についてはこれまで、年金財政や経済への悪影響ばかりが論じられもっぱら子どのも就職支援のあり方に関心が向けられてきた。だが、そうした自立しない子どもを持った家庭がどれほど過酷かは、あまり知られていない。憂慮すべきは、共倒れの危機にさらされる親たちなのだ。(奥田祥子、高畑基宏[2005]、以下、断りがないなら同様)

 はっきり言って、この記事に書かれていることはこの5行に書かれた内容だけで終わるのである。要するに、いかに若年無業者が親に迷惑をかけているか、ということを喧伝し、そいつらを家からつまみ出すことこそが親にとって楽になる最大の道なのだ、というもの。それが延々8ページ。結局のところ、この記事は「親の視点」なるものから若年無業者を頭ごなしに叱りつける「だけ」の記事なのだ。そんなことが無意味なのは、とっくの昔に玄田有史氏や小杉礼子氏が指摘しているのに!

 少々筆が滑ってしまったけれども、もう一つ指摘しておくと、特に「ひきこもり」と親和性の強い性格を持つ若年無業者に関して言うことができることなのだが、このような物言いは帰って若年無業者を追い込んでしまうということになりかねない。もう一つ奥田氏と高畑氏が無視していることは、結局のところ現在の雇用情勢が厳しい故に若年無業者にならざるを獲ない人も中には少なからずいる、ということ。この記事の執筆者や、ここで引かれている自称「識者」がいくら理想論を述べたといっても、果たして現実が彼らの理想をかなえてくれるほどのものか。彼らが「とにかく就職活動しろ、それでも駄目なら帰って来い」と考えているならこの問いかけは無意味なのだが、この記事の執筆者や自称「識者」がそのように考えている節は見当たらない。

 さらにこのリード文に突っ込みを入れさせてもらうが、《いまやニート、フリーター300万人》と書いているけれども、若年無業者とフリーターを混同するな。このように書くことによって、フリーターも若年無業者も親の甘やかしから生まれた、だからこいつらをどうにかするには親が権威を持たなければならない、という暴論が生まれてしまうのだろう。この記事が「ニート報道「凄絶」白書」として読める、と私が言う所以である。

 結局のところこの記事は、若年無業者をリスクとしてしか見なさない人たちの理想論ばかりの記事であることに疑いはない。内容に関しては、シャレではないが内容がないので、深く触れることはしない。ついでに言うと、写真の使い方も極めて恣意的。

 それでも少々触れることにするが、例えば、ここで引かれている、若年無業者問題に関する団体が、「子どもにかけるお金を考える会」(畠中雅子代表)だけだ。例えば「ニュースタート事務局」(二神能基代表)などのほかの民間団体や、自治体の試みなどには触れられていない。

 執筆中に資料を読み返しているときに思いついた仮説なのだが、フリーターや若年無業者を単にリスクとしてのみ扱い、彼らを家から追い出せ、という暴論は、もしかしたら自分の子供と積極的に向かい合うことを拒絶する親の論理なのではないか、と思ってしまった。要するに、フリーターや若年無業者をリスクとして見なすことで、彼らに対する長期的な支援という選択を拒絶し、突き放すことによって「安心」する、という考え方である。もちろん、このような考え方が存在しうることは大いに認めるけれども、しかしこのような考え方で果たして若年無業者問題が解決するか。正直、解決しないのではないか、というのが私の考えだ。

 この記事において、評論家の吉武輝子氏が、《子どもというのは、親の期待や夢を一つひとつ裏切りながら、親元を巣立っていくものなのです》と発言している。さて、親の期待や夢を裏切らせないことこそ至上という価値観を振りまいてきたのは誰でしょう?

 我が国において、ここ10年ほど、自分の子どもに関する「リスク」が喧伝されてきた。犯罪を起こさないか、非行に走らないか、学力が低下しないか、「ひきこもり」にならないか、オタクにならないか、フリーターにならないか、あるいは髪の色を染めないか、奇抜な服装をしないか…。「子供がこうなったら注意しろ」という言説は、いまや巷に溢れている。そして最近になって加わったのが、自分の子どもがニートにならないか、というものだ。すなわち、若年無業者というのは、親にとって「させてはいけない」ものなのである。だから親は腫れ物を扱うように我が子を扱うようになる。当然の如く、それの旗を振ったのがマスコミである。故に「ゲーム脳」とか「ケータイを持ったサル」という疑似科学の網が張り巡らされ、若年層に関する調査であれば、たとえ調査方法や設問に問題のあるものだとしても(詳しくは、このブログの連載シリーズ「統計学の常識やってTRY」を参照されたし)「今時の若者」の世代的病理を示す調査としてその問題点の検証抜きに報じられる。小学校で「愛国心」を評価する通知表が表れるほどだ(山田明宏[2003])。このような状況を作っている張本人としてのマスコミが、なぜ今になって親の甘やかしがフリーターや若年無業者をつくる、などと喧伝しているのか。これをマッチポンプとは言わないか。読売はNHK問題における朝日新聞の対応を笑えるのか。

 読売の記事は、このような言説がかえって自分の子供に対する、さらには子供・若年層全体に対する敵愾心を高め、それが自分の子供さらには子供・若年層全体を「虎の子」というよりも腫れ物として扱う状況を加熱させる、という逆説に極めて無頓着だ。河北新報か何かで平成16年1月15日付の朝日新聞で、たぶん高校生あたりが「矛盾する大人の言葉「夢を持て」 持ったところで「現実を見ろ」」といった秀逸な短歌を書いた、というものを読んだことがあるが紹介されていたけれども(平成16年8月6日訂正)、この短歌は、巷に溢れる俗流若者論の問題点をもっとも端的に表している(特にそれがこの記事においてよく表れているのが、東京学芸大学教授の山田昌弘氏の発言。《もしわが子が過大な夢を追い続けているような場合は、夢から覚めさせることが必要です。現実に目を向けさせ、就業意欲を起こさせ、仕事につくことができたら、しっかり突き放す、という手段です》と。「希望格差社会」理論はどこに消えた)。もう一つ言うと、この記事は親に過剰に求めすぎ。すくな事もこの記事の執筆者には、親と子供の精神の歪みが若年無業者問題を生み出す、ということが間違いであることを学んで欲しいものだ。こんな愚痴だらけの記事を書いている暇があれば、もっと自治体や民間団体の取り組みを紹介するべきだ。

 でも敵愾心を高めるだけ高めれば、それなりに効果があるかもしれない。そうすれば、「善良な大人」たちが彼らだけでゲーテッド・コミュニティ(閉鎖的共同体)を作り出し、子供はゲットーに押し込められ、彼らは彼らだけで悠々自適な生活を送ることができるのだから。ゲットーの中の子供たちは飢えに苦しむが、彼らにとってもっとも大事なのは子供ではなく自分なのだから、別に子供が苦しんでいても我関せずだろう。

 などと書いていたら、またもや「政治的に」利用されそうな言葉を見つけてしまった。エコノミストの木村剛氏のブログで、「フィナンシャルジャパン」平成17年7月号の、マーケティングコンサルタントの西川りゅうじん氏が書いた「NEETより厄介なTEET」なる記事が紹介されている。西川氏によると、《TEET》(木村剛氏のブログの平成17年7月31日のエントリーから、これ意向は断りがないなら同様)の定義は《Tentatively in Education, Employment or Training の略で、Tentatively(一応、とりあえず)、学び、働き、職業訓練している人たちだ。どの企業でもこの「TEET」に手を焼いている。どこに行っても常に腰掛け意識の、言わば“NEET以上プロ未満”の連中》なんだそうな。で、この記事において、西川氏はこの人たちのことを以下のように書いている。私はこれを読んでのけぞった。

 そんな「TEET」の口癖は「こんなはずじゃなかった」である。やるべきことをやらずにやりたいことだけをやって生きて行けると勘違いしている、飽きっぽく打たれ弱い夢見る夢子ちゃんだ。簡単に言えば、子供なのである。子供の心を持った大人ではなく大人の外見をした子供。暦の上の年令は大人でも精神年令は子供のまま。私の別の造語で言えば、“こどものおとな”を略して「ことな」である。

 こういった「ことな」に振り回されてはたまったものではない。「ことな」が入って来ない、「ことな」をのさばらせない、企業文化を育んで行くより他に方策はない。

 若年就業問題に関する新しい問題が発生、とでも西川氏は言いたいのだろうか。しかし西川氏よ、あなたも責任ある言論人であるならば、徒に珍奇な概念を乱造しない、というのが良心であり、もし提唱したいのであれば、まずデータをそろえるべきだろう。安易に自分の矮小な経験を勝手に天下国家の問題として取り上げてはならない。結局のところ、この言葉は単なる「酒場の愚痴」から生まれたもので、その意味では「ニート」という言葉よりも厄介なものである。いくらマーケティングが大事だからといっても、言論にかかわるものとしてはそればかりではいけない、ということを自覚すべきだろう。このような言説を濫造する西川氏こそ《暦の上の年令は大人でも精神年令は子供のまま。私の別の造語で言えば、“こどものおとな”を略して「ことな」である》。

 それにしても、どうして俗流若者論の責任が問われることがないのだろうか。

 参考文献・資料
 奥田祥子、高畑基宏[2005]
 奥田祥子、高畑基宏「ニート家庭「凄絶」白書」=「Yomiuri Weekly」2005年8月14日号、読売新聞社
 山田明宏[2003]
 山田明宏「通知表で評価する小学校」=「論座」2003年9月号、朝日新聞社

 斎藤環『「負けた」教の信者たち』中公新書ラクレ、2005年4月
 二神能基『希望のニート』東洋経済新報社、2005年6月

 杉田敦「「彼ら」とは違う「私たち」――統一地方選の民意を考える」=「世界」2003年6月号、岩波書店

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2005年7月30日 (土)

統計学の常識、やってTRY!第4回&俗流若者論ケースファイル42・弘兼憲史

 ブログ開設当初からあった企画「統計学の常識やってTRY」が5ヶ月以上も休んでしまっていたのは、ひとえに採り上げるようなネタがなかったからに過ぎない。本来ならそれが望ましいのであるが、平成17年7月28日付の読売新聞に掲載された、読売新聞社による「勤労観」に関する全国調査は、新聞社がここまで若年層たたきを目的とする調査をやっていいのか、と思い、さらにそこでは漫画家の弘兼憲史氏と慶応義塾大学教授の樋口美雄氏のコメントが引かれていたのだが、弘兼氏のコメントがまさに俗流若者論だったので、「統計学の常識やってTRY」と「俗流若者論ケースファイル」を合併して検証する次第である。

 まず読売新聞の調査から入ろう。この調査は有効回収数が1825人で、実施方法が個別訪問面接聴取法である。回答者の内訳が、男女別で言うと男48%、女52%。世代別では20歳代11%、30歳代16%、40歳代15%、50歳代22%、60歳代22%、70歳以上が14%。サンプリングの面ではまずクリアしているといってもいいだろう。問題は設問だ。下の設問を見て欲しい。(カッコ内は回答率、単位は%)

 第2問:あなたは、こうした「ニート」と呼ばれる若者が増えている原因は何だと思いますか。次の中から、あれば、いくつでもあげて下さい。

 ・雇用情勢が厳しいから(41.5)
 ・親が甘やかしているから(54.5)
 ・学校などで働くことの大切さを教えていないから(26.0)
 ・義務感や責任感のない若者が増えているから(50.4)
 ・社会とのつながりを広げようとしない若者が増えているから(28.8)
 ・人間関係をうまく築けない若者が増えているから(49.8)
 ・仕事をえり好みする若者が増えているから(29.9)
 ・その他(2.1)
 ・とくにない(1.0)
 ・答えない(0.9)

 第3問:決まった職業に就かず、多少収入は不安定でも、好きなときだけアルバイトなどをして生活する「フリーター」と呼ばれている若者も増えています。あなたは、こうしたフリーターやニートと呼ばれる若者が今後さらに増えていくと、日本の社会にどんな影響があると思いますか。次の中から、あれば、いくつでもあげて下さい。

 ・税収が減り、国や自治体の財政が悪化する(57.8)
 ・将来、生活保護を受ける人が増え、国や自治体の財政が悪化する(39.0)
 ・年金や医療などの保険料収入が減り、社会保障制度が揺らぐ(57.2)
 ・収入が不安定で結婚できない人が増え、少子化が進む(37.5)
 ・収入が不安定な人が増え、金欲しさの犯罪が起こりやすくなる(45.4)
 ・社会全体の勤労観や価値観がゆがむ(37.4)
 ・その他(0.3)
 ・とくにない(2.1)
 ・答えない(0.8)

 この調査の底流に強く流れているのは、明らかにフリーターや若年無業者の問題をリスクとしてしか見なさない考え、特に若年無業者に関しては「今時の若者」の問題としてしか考えてないことである。まず第2問、若年無業者に関する質問であるが、「その他」「とくにない」を除く選択肢7つのうち5つも「……若者が増えているから」という選択肢なのだ。これに「親が甘やかしているから」という選択肢も加えれば、まさに選択肢7つのうち6つが「今時の若者」の精神の問題としての若年無業者問題を選択させていることになる。このような俗流若者論御用達の論理を平然として選択肢に陳列させる読売の調査の設計者は、本気で若年無業者問題に取り組んでいこう、という態度があるのだろうか。所詮は他人事としてしか考えていない設計者、そして回答者の顔が浮かんでくる。だが、実際には若年無業者の問題が社会階層とは無関係でないことが東京大学助教授の玄田有史氏や「労働政策研究・研修機構」副統括研究員の小杉礼子氏によって実証されている。フリーターに関しても、東京大学助教授の本田由紀氏が、《学校経由の就職》(本田由紀[2005])の衰退が大きな原因になっている、ということを述べている。フリーターや若年無業者の問題は、社会構造の問題ともまた切り離せない問題であるのに、読売の調査の設計者はその点をほとんど覆い隠している。

 第3問に関しては、なぜそのような問いかけをするのか、ということばかりである。もちろんこの設問で描かれていることは、フリーターや若年無業者という「今時の若者」が国を滅ぼす、というストーリイである。例えば《税収が減り、国や自治体の財政が悪化する》(2005年7月28日付読売新聞、以下、断りがないなら同様)のが問題というのであれば、なぜ公共事業のスリム化とか、人口減少社会に対応した財政運用の設計を考えないのだろうか。その点の議論については、千葉大学助教授の広井良典氏や(広井良典[2001])、政策研究大学院大学教授の松谷明彦氏(松谷明彦[2004])に譲ることとするが、少なくともフリーターや若年無業者の増加をリスクとしてしか見なさない思考からいい加減脱却するべきである。

 それにしても《収入が不安定で結婚できない人が増え、少子化が進む》よりも《収入が不安定な人が増え、金欲しさの犯罪が起こりやすくなる》が多く、《社会全体の勤労観や価値観がゆがむ》も前者に迫る、という調査結果に、私は愕然としてしまった。

 結局のところ、この調査はいかに社会がフリーターと若年無業者に関して貧困な意識しか持ち合わせていない、ということを如実に表している。しかもこの調査が、意図的にフリーターや若年無業者を問題として捉えさせるように設計されている――いや、実際に問題なのだが、しかし問題は読売の記者が想定することの彼岸にある。この調査は、むしろ読売をはじめとするマスコミがいかに若年就業の問題に関して貧困なイメージばかり垂れ流し続けてきたか、ということを示す反省材料にすべきであろう。

 しかし、この記事の問題点はここでは終わらない。ここからはこの記事における、漫画家の弘兼憲史氏の発言の検証だ。最初に言っておくけれども、ここで発言しているもう一人の専門家、慶応義塾大学教授の樋口美雄氏の発言はそれなりに分析的で、安易なバッシングに走ろうとしないことは評価できる。だが、弘兼氏の発言は、あからさまに若年層を堕落した存在としてしか捉えていない、レヴェルの低いものだ。さすが「団塊のスター」とでも言うべきか(暴言で失礼!)。

 弘兼氏は、若年無業者の増加について、《日本が裕福になり、親が養ってくれるからだろう。恵まれた時代に育ち、自立するという自覚が若者にはないからだ。日本の今後を考えると極めて不安だ。子供に良い目を見させると、ろくなことはない》と語っている。あなたも経済に関する漫画を描いているのであれば、あるいは新聞に「専門家」として登場しているのであれば、少なくともテキスト化された俗流若者論以上のことは言うべきだろう。そもそも「自立」を至高として掲げるイデオロギーも、最近の低成長によって旗色が悪くなっているのだが、その点も弘兼氏は理解していないのか。例を挙げてみると、玄田有史氏によると、子供が親に「寄生」するという所謂「パラサイト・シングル」は、決して若年層が親からの既得権に甘えているのではなく、むしろ既得権を与えられた親に子供が依存している、という構造があるという(玄田有史[2001])。まったく、弘兼氏がこのような発言しかし得ないのは、弘兼氏が《裕福になり》、マスコミが《養ってくれるからだろう。恵まれた》メディア環境に《育ち》、テキスト化された俗流若者論異常の発言をするという《自覚が》弘兼氏には《ないからだ》。まったく、弘兼氏の《今後を考えると極めて不安だ》。

 しかし弘兼氏はこれでは終わらない。社会保障に関しても弘兼氏、《若者は世代間扶養の意識もなく、そもそも年金の仕組みなども知らないのではないか》などと知った顔で語っているのだから救いようがない。もう一度言うけれども、安易にテキスト化された俗流若者論に依拠して若年層をバッシングする弘兼氏に、コメンテーターとしての存在価値はもはやないだろう。少なくとも、ここまで断定できるのであれば、何かテキスト化された俗流若者論以上のことを語るべきである。

 しかし弘兼氏はまだまだ終わらない。弘兼氏は労働意欲の変容について《勤労観は高度成長期に比べ明らかに変わっている。歴史が示すように、国力が上向きのときはみんな一生懸命に働くが、いったん豊かになると勤勉でなくなる。上り坂の日本ではないからしようがない面もあるが、若い人たちはこのまま行くと、今の豊かさが失われるという危機感をもっと持つべきだ》とも語っている。弘兼氏のこの発言を読んでいる若年層がどれほどいるのだろうか。よほど熱心な若年層(=その人は就業に対するモチベーションが高く、この手の情報にはなんだって飛びつく)か、あるいは私のようなひねくれ者(=マスコミ御用達の自称「専門家」の発言を楽しむことに対するモチベーションが高く、この手の情報にはなんだって飛びつく)くらいではあるまいか。社会格差の反映に苦しんでいる若年層が、このような弘兼氏の無責任なコメントを読んでも、あまり効果は上がらないだろう。

 弘兼氏の如き高度経済成長礼賛の言説を読むたびに、私は以下のことを思い出す。東北地方に住んでいる人であれば、平成15年5月と7月に、宮城県を中心に大きな地震が起こったのはご存知であろう。そのとき、東北新幹線の一関~新花巻の間のコンクリート高架橋のコンクリートが剥離する、ということが起きた。また、これ以前にも、山陽新幹線のコンクリート高架橋が建造して10年もたたないうちに著しい劣化を示していた、という報告もある。東京大学名誉教授の小林一輔氏によると、これらの高架橋は高度経済成長期に建造されたものであり、その時期に打設されたコンクリートは容易に中性化したり、コンクリートの劣化を促す塩化物イオンが含まれている海砂を洗わないまま骨材として使っていたり、手抜き工事をしていたりと、杜撰なものばかりである(小林一輔[1999])。ついでに言うと、高度経済成長期において、少年による凶悪犯罪は現在の数倍起こっていた。ここで礼賛されている「勤勉さ」など、所詮は札束によって暗黒面が覆い隠された幻想に過ぎないのである(ちなみに、弘兼氏などが理想とする高度経済成長期にも現在のような問題が起こっていたことが、パオロ・マッツァリーノ[2004]で指摘されている)。

 もちろん現在の低成長の時代は、社会の抱える問題を経済成長で覆い隠すことができなくなり、社会環境も激変した故に、社会問題が現在において噴出しているように見えるようになった。弘兼氏は、そのような問題の根本的な原因を突き止めようとせずに、高度経済成長期の如き経済成長でまた問題を覆い隠せ、というものではないのか?そこまでは行かなくとも、いずれにせよ、弘兼氏の議論が高度経済成長期を理想とする考え方であることは間違いないようだ。

 しかし、高度経済成長期の如く、人々を経済成長という「目標」に向かって猪突猛進させることが現在において可能であろうか。我が国は長期停滞の期間を経ることによって、労働意識が成熟してきた、という見方もある。若年無業者の就業問題に深く関わってきた、「ニュースタート事務局」代表の二神能基氏は、現代の若年層の就業意識が「効率優先」から仕事そのものの中に喜びを見出したい、という考えに変わりつつある、ということを論じている(二神能基[2005])。このような意識の変容に、特に中高年を中心に避難が上がることは多いが、しかし、人口減少が間近に迫っている我が国において、経済成長を第一としない、人々の幸福を第一とする意識、あるいは多様な趣味の共存を認める意識が深まっていくのは、ある意味では良い影響も大きいと思う。もちろん効率優先で思いっきり儲ける人もいてもよく、その点においては収入の二極化が進行するのだが、しかしこの形での二極化を一概に否定することもできないかもしれない。エコノミストの森永卓郎氏が最近になってオタクを擁護しているのも、これと関わりがある(ただ、森永氏は少々叫びすぎだと思うが)。

 話を弘兼氏に戻すけれども、結局のところ弘兼氏の一連のコメントは、自分の生きてきた時代を理想として、若年層を精神的に劣ったものとして罵倒するというものに他ならず、社会的に責任のあるコメンテーターの発言としては無責任極まりないものであると断定できるだろう。弘兼氏の想像力は自らの自意識と図式化された「今時の若者」を超えることができず、それゆえに安易なバッシングに走っている。コメンテーターに求められるのは想像力とヴィジョンであると、改めて実感した次第である。

 ついでに弘兼氏と読売新聞に関して言うと、弘兼氏には立派な「前科」がある。今年5月から6月のある時期にかけて我が国を騒がせた「ガードレールの謎の金属片」騒動に関して、弘兼氏は、平成17年6月3日付の読売新聞において、《非常に卑劣で陰湿な事件だ。インターネットの掲示板などで呼びかけている愉快犯がいるのかもしれない。集団自殺のように見知らぬ者同士がある一つの目的のために同じ行動をとる妙な社会になってしまった》(2005年6月3日付読売新聞)などと放言している。しかし、その後に国土交通省の実験によって判明したことだが、これらの金属片は、自動車がガードレールにこすれたときに発生するものだとわかった。このことについて、弘兼氏はいかに思っているのだろうか。弘兼氏には、少なくとも1年はコメンテーターとしてマスコミに顔を出さないことを要求する。

 総括すると、読売のこの調査、そしてこの記事は、明らかに若年無業者やフリーターを問題視して、彼らをリスクとしてしか見なさないという発想に基づいている。社会構造の問題や、人口減少時代にふさわしい就業のヴィジョンを欠いて、ただ徒に彼らをバッシングするだけの記事にいかなる意味合いを持つことができるか。少なくとも短期的な若年層バッシングには役に立つかもしれないが、長期的にはむしろ害悪になる。ろくに歴史も調べもせず、問題に関して真剣にあたろうともせず、ただ「今時の若者」の問題としてしか取り組まないようでは、この記事に何らかの存在意義を求めるほうが難しいだろう。

 また、若年層に関するものに限らず、意識調査の類がなぜマスコミの検証材料にならないのだろうか。すなわち、ここで論じられている問題について、マスコミがいかに報じ、そしてそれが調査にどのように現れているか、ということである。この調査は、明らかに多くのマスコミが喧伝するフリーターや若年無業者に対するステレオタイプに基づかれて設計されているものであり、従ってマスコミの検証材料として読むにはある程度、この記事で触れられていないことを読み取る努力する必要がある。このような調査が新聞に掲載されること事態、新聞が自らの正当性を喧伝する目的で行なわれているのではないか、と疑わざるを得ない。

 いや、案外そうなのかもしれない。とすると、この記事が発表されることで最も喜んでいる人は、ひょっとしたら調査した人自身ではないか…。

 参考文献・資料
 玄田有史[2001]
 玄田有史『仕事のなかの曖昧な不安』中央公論新社、2001年10月
 小林一輔[1999]
 小林一輔『コンクリートが危ない』岩波新書、1999年5月
 広井良典[2001]
 広井良典『定常化社会』岩波新書、2001年6月
 二神能基[2005]
 二神能基『希望のニート』東洋経済新報社、2005年6月
 本田由紀[2005]
 本田由紀『若者と仕事』東京大学出版会、2005年4月
 パオロ・マッツァリーノ[2004]
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 松谷明彦[2004]
 松谷明彦『「人口減少経済」の新しい公式』日本経済新聞社、2004年5月

 五十嵐敬喜、小川明雄『「都市再生」を問う』岩波新書、2003年4月
 マックス・ヴェーバー、大塚久雄:訳『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波文庫、1989年1月
 谷岡一郎『「社会調査」のウソ』文春新書、2000年5月
 ロナルド・ドーア、石塚雅彦:訳『働くということ』中公新書、2005年4月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月

 太田匡彦「こんな親の子就職はムリ!」=「AERA」2004年2月9日号、朝日新聞社
 島耕作「団塊世代のトップランナー、大いに語る」(取材協力:弘兼憲史)=「現代」2005年4月号、講談社
 諸永裕司「一生ずっとフリーター可能なのか」=「AERA」2003年7月14日号、朝日新聞社

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俗流若者論ケースファイル41・朝日新聞社説

 朝日新聞は、平成16年の4月初頭の社説において、同紙と産経新聞の間で国旗・国歌に関する論争が起こったことに触れて、「社説は読み比べてこそ魅力がある」という文章を掲げたことがある。また、朝日の社説は、これ以降も「論争」を求めるような社説を多く書いてきた。朝日新聞論説副主幹の桐村英一郎氏によると、このような姿勢を打ち出してからは、朝日の購読者において社説を読む人の比率が上がったという(桐村英一郎[2004])。なるほど、確かに社説はその新聞社の「姿勢」を打ち出しているものだから、他の新聞の社説=他の新聞社の「姿勢」と読み比べて情報を取捨選択するということは、メディア・リテラシーの育成にもつながるのかもしれない。

 しかし我が国のマスコミにおいて、そのような「読み比べ」が成立しない特異点が存在する。それが若者報道だ。若者報道においては、どのメディアも版を押したような空疎な「憂国」言説ばかりがまかり通り、どれを読んでもほとんど同じである。教育基本法の改正などについての差異はあろうが、少なくとも「今時の若者」に対する利害や考え方という点では新聞はほとんど対立していないので、論争が起こることはまずない。故に、若者報道、及び若年層を論評した社説を読む際には、新聞以外の情報を豊富に取り入れる必要がある。

 若者報道において、右と左は糾合される。その典型を見るような社説が、平成17年5月5日付の朝日新聞に書かれた。5月5日といえば当然「子供の日」で、各紙が「子供の日」に関連して社説を打ち出すのだが、この日の社説は成人の日と並び、俗流若者論が出てくる可能性が高い。各紙を読み比べてみたところ、もっとも醜悪なのが朝日だったと記憶する。

 その朝日の社説のタイトルは「親の汗で遊びを教えよう」。この社説の論旨というのは基本的に不明、いうなればゲーム害悪論であった。何せこの社説、最初に《かけっこをすると、まっすぐ50メートルを走ることができない。ソフトボールは片手で投げられない。つまずくと、そのまま倒れてしまって、歯を折ったり、頭を打って気を失ったりする。小学校の先生に聞くと、そんなこどもが珍しくなくなったそうだ。/こどもの体が、いよいよおかしくなっている。》(平成17年5月5日付社説、以下、断りがないなら同様)と書いているのだから。《珍しくなくなったそうだ》とか言う前に、まず取材せよ。取材して確証づけないと、これが都市伝説とそしられてもおかしくはあるまい。

 それにしてもこの社説の極めて牧歌的な社会観が気になるのはなぜだろう。一部を少し引用してみる。

 こうした基礎的な体づくりは、かつては家の外で遊ぶことで培われてきた。よく見かけた鬼ごっこや木登り、縄とび、石投げといった遊びだ。外遊びの集団には年齢の幅があり、年上のこどもの動きを年下がまねて、自然と上達した。
 いま、こどもたちが外で遊んでいる姿を探すのは難しい。家の中でテレビを見たり、ゲームをしたりするのでは、体にいいことは何もない。(2段目)

 ここまで書けるのも呑気としか言いようがない。まず、記者は子供の遊びの現状に関してしっかりと取材したのか。「昔は外遊び、今はゲーム」みたいな陳腐な図式に囚われすぎていやしまいか。数千歩譲って、そのような図式があるとしても、例えば人口が集中していると考えられる郊外の団地に、果たして道路以外に遊べる環境があるだろうか。また、以前も述べたとおり、小学生がキャッチボールで暴投して子供を殺してしまった、ということに関して、仙台地裁は「親の監督責任」を求めた。私はこれを暴論だと思っているのだが、朝日社説子はこのことについていかなる評価を持っているのだろうか。

 それにしてもこの社説の安易な外遊びの礼賛には辟易してしまう。子供はゲームをせず外で遊んでいれば安泰、ということか。朝日の社説子がここまで「外遊び」に固執するのは、そのような「外遊び」が自らをつくってきた、と言いたいからであろうか。ならば、筆者名を公開した上で、社説とは別のところでエッセイを書くがいい。また、安易に「今時の子供」を嘆くのをやめるがいい。自意識の発露でしかない「憂国」エッセイなど願い下げである。もう一つ、朝日社説子は《体力や運動能力が下がっているのは、こどもの体を育む環境が壊れかけていることを意味している》と書いているけれども、それならばそれを検証するがいい。

 安易な図式化と、自意識の発露でしかない牧歌的な社会観を社説という場で表現することが許されるということは、それだけ若者報道というものが貧困であることを表しているのである。

 参考文献・資料
 桐村英一郎[2004]
 桐村英一郎「社説を変えた200日――「陣地」は広がったか」=「論座」2004年12月号、朝日新聞社

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2005年7月29日 (金)

俗流若者論ケースファイル40・竹花豊

 平成15年6月、東京都の治安担当副知事に抜擢された竹花豊氏が、最近『子供たちを救おう』なる本を出したそうだ。私はこの本を読んでいないのだけれども、竹花氏が《現在の治安悪化の要因として、外国人の組織犯罪とともに、日本社会の病理的な側面の表れでもある少年犯罪への対策が必要だと申し上げました》(福井洋平[2004])と語っている通り、少年犯罪を重点的に考えていることは確かなようだ。

 その竹花氏のインタヴューが、平成17年5月3日付読売新聞に掲載されていた。このインタヴューが掲載されたのは、読売新聞が平成17年に入ってから現在まで連載している大型連載「教育ルネッサンス」のシリーズの一つである「学校の安全」の第5回(全体では第68回)に掲載されているのだが、竹花氏の青少年「対策」の一部が良く表れているような内容だったのでここで検証しておく。

 例えば竹花氏は、子供が犯罪に遭う可能性のあるものとして、携帯電話を採り上げている。曰く、《援助交際という名の売春も含めて、あらゆる情報に接することができる。大人と同じ圧倒的な情報量の中に、子供を無防備のまま放置していいのだろうか》(竹花豊[2005]、以下、断りがないなら同様)と。このような文句は規制派の常套句である、ということを我々はまず覚えておくべきだろう。そもそも子供が竹花氏などの心配する「有害」な情報に接する可能性はいかばかりであるか。少なくとも、携帯電話会社が設定しているリンクサイト(「iモード」なら「iMenu」)からたどっていく限りでは、そのような「有害」なサイトに辿り着くことはまずない。おそらく「有害」なサイトに辿り着く確率が最も高いのは迷惑メールであろうが、そのようなメールは常識的なリテラシーをつけておく程度で対策しうるものであるし、そのような情報もまた溢れかえっているから、子供が《無防備のまま放置》されている、という状況はまずない。

 その直後、これはこの記事を執筆した読売の記者の書いた文なのだが、竹花氏は《たかが子供の万引きと大目に見る風潮が、犯罪への抵抗感を弱め、もっと大きな犯罪を犯す下地になる》と考えているらしい。そのような事実が存在するかどうか、というのは怪しいのだが、ここではそのことについては触れないでおこう。だが、《たかが子供の万引きと大目に見る風潮》なるものが現在において本当に存在するかどうか、ということは検証してみる必要があるだろう。

 平成9年になって、我が国において少年による強盗が件数の面で急増した。件数の面で、と私が言ったのは、この件数の急増が、それまでは窃盗+傷害で捉えられていた事件が強盗として捉えられるようになったので急増した、というだけの話だからである。そしてこの中には、万引きが店員にばれて窃盗犯が店員を殴った、というものも含まれる(具体的に言うと、CDショップでCDを盗んだ19歳の少女がそれを見つかって店員を突き飛ばした、ということが強盗傷害としてカウントされている)。もう一つ万引きについて言わせてもらうと、これは昨今の検挙率の急落と関連しているのだが、これまでは警察が軽微な犯罪の被害届けを握りつぶしていたものを、最近になって素直に受理するようになって、犯罪の認知件数が急増した(検挙率が急落した)。その中には万引きも含まれる。要するに私が言いたいことは、ここ数年の間に高まっているのは、《たかが子供の万引きと大目に見る風潮》などではなく、むしろ子供の非行をリスクとして過大視する風潮である、ということである。その異常なまでの高まりが、かえって昨今になって《たかが子供の万引きと大目に見る風潮》が強まったと錯覚させる、という構造となっている。

 そして、案の定出てきたのがこのような論理。《ゲームのような仮想空間を離れ、生命の大切さを知ってもらうためにも、林間学校のような中途半端なものでなく、みっちりと自然の中で生活させたい》と語っているのだけれども、このような言い草に中国の文化大革命における下放政策やポル・ポトの独裁を想起してしまう私はやはり異常なのだろうか。しかも林間学校が《中途半端》と語っているのだが、何をさせたいのだろうか。キャンプでも中途半端なのだろうから、山籠りか。狩猟生活か。富士の樹海で遭難するのか。そして《ゲームのような仮想空間》に対する敵視が案の定出てきた。

 まあ、このインタヴューで、竹花氏がいかなる気持ちで青少年問題に取り組んでいるか、ということの一面が理解できるだけでも検証する価値があったか。しかしながら、徒に少年犯罪ばかり危険視するのもどうかと思う。これは、少年犯罪、特に少年による凶悪犯罪が人口比でも昭和のある時期に比べて減少している、ということだけでなく、現在の政治状況において、青少年よりも青少年「対策」が支持率を集める、ということも関連している。青少年を「歪めた」原因を「特定」し(それは限りなく10割に近い確率で漫画とゲームとインターネットと携帯電話と「戦後教育」と「戦後家庭」と教育基本法のどれかである)、それに対する「対策」を打ち出すことで、ポピュリズム的な人気を得る構造の最先端が東京都の石原慎太郎知事と神奈川県の松沢成文知事であるが、少なくともそのような構造を解体しない限り、政治をよりましな状況にすることは困難であろう。先に検証したとおり、今や憲法論すら俗流若者論に犯されている事態である以上、我々は俗流若者論に対するリテラシーをもっと持たなければならないし、科学に関しても科学と疑似科学を見分けられるだけのリテラシーが必要となる。少なくともこれらは、俗流若者論がポピュリズムとなる時代に生きている我々に課せられた使命なのである。

 ついでに竹花氏はこうも語っている。曰く、《奈良市の女児誘拐殺人事件のように、子供が犯罪の対象になる現象が深刻化しているのも、自分より弱い者になら目的を果たせるという病理の現れ》と。マスコミと石原知事に真っ先に言うべき言葉だろう。

 参考文献・資料
 竹花豊[2005]
 竹花豊「地域のリーダー養成」=2005年5月3日付読売新聞
 福井洋平[2004]
 福井洋平「東京・犯罪増えた街はここ」=「AERA」2004年3月22日号、朝日新聞社

 森真一『日本はなぜ諍いの多い国になったのか』中公新書ラクレ、2005年7月

 河合幹雄、杉田敦、土井隆義「犯罪不安社会の実相」=「世界」2004年7月号、岩波書店
 浜井浩一「「治安悪化」と刑事政策の転換」=「世界」2005年3月号、岩波書店

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2005年7月27日 (水)

俗流若者論ケースファイル39・川村克兵&平岡妙子

 前回に続き、今回も「AERA」の若年層右傾化論の怪しさについて述べようと思う。ただし、今回は憲法が絡んでいる。検証する記事は、同誌記者の川村克兵氏と平岡妙子氏による「若者「改憲ムード」の浮遊感」(平成17年5月2日・9日合併号に掲載)である。

 まず私の憲法に対する立場を述べさせてもらうと、私は「日本一消極的な護憲派」を自称している。というのも、そもそも現在の政治や言論に憲法について語るだけの覚悟があるのか、という点から、元来改憲やむなし、という立場の私も護憲派にならざるを得ないのが実情である。

 なぜか。それは、現在語られている憲法論の多くが俗流若者論であることだ。この連載の第30回第31回でも検証したことだけれども、特に改憲派による改憲論の中でもっとも勢いが強いのが、彼らの問題にしている(彼らが勝手に問題化している?)「今時の若者」は日本国憲法下の欺瞞の上で生まれたものであり、従って彼らに対するもっとも根本的な対策は憲法を改正することだ、という飛躍した論理が平然とまかり通っている。護憲派は護憲派で、彼らは「憲法を守れ」とひたすら叫ぶけれども、他方では「今時の若者」を改憲派と同じような口調で嘆く。要するに、「今時の若者」に対することでは左右の利害が対立していないから、憲法にかこつけた俗流若者論を批判できないのである。このままでは改憲論が俗流若者論に侵食されるのも当然といえようか。従って、(俗流若者論という名の排他的ナショナリズムをしつこく検証する立場としての)私は憲法に関しては「日本一消極的な護憲派」にならざるを得ないのである。

 「AERA」の記事の検証を始めよう。私がなぜ今回この記事を採り上げるのか、というと、ここで使われているコメントの多くがむしろ俗流若者論に依拠した改憲論にこそ当てはめるべきだ、と思うからである。もちろん、この記事で引かれている俗流若者論に依拠した「反改憲論」が図式化された「今時の若者」というイメージにのっとって作られたものだということは当然として批判の対象になるとしても、彼らの問題にしている「今時の若者」とほとんど同じようなこと、あるいはもっと過激なことを政治家や右派系の言論人が語っていたとしても、なぜ批判がそちらのほうに行かないのか、という疑問もまた私は抱いている。

 さて、それぞれの言説の検証に分け入っていくことにしよう。まず、88ページの1段目から4段目のライターの荷宮和子氏から。

 ……評論家の荷宮和子さんは、「決まっちゃったことはしょうがない」と考えるのが“団塊ジュニア気質”だと見る。理想なんて夢見ないし、わからない。だから、いまあることには筋を通しておきたい…。

 「改憲派が多いのは、みんなが改憲したほうがいいって言ってるみたいだし、という時代の空気を読み取っているだけですよ。深く考えていないんです」

 空気が読めない人が、いま、一番バカにされる。他人とまったく同じはイヤだけど、みんなと違うのはもっとイヤ。そんな心理を感じるというのだ。(川村克兵、平岡妙子[2005]、以下、断りがないなら同様)

 このような記述を見ていると、つくづく川村氏と平岡氏と荷宮氏が条件反射的にしか現代の若年層を語っていないことを考えさせられる。とりわけ荷宮氏は著書や文章の中では「空気」とか「時代」とか「世代」という言葉を多用するけれども、荷宮氏はそれらの語句の魅力的な感触に囚われすぎていて、結局単なる自意識の発露でしかない(すなわち護憲派であり(荷宮氏の妄想している)「空気」に流されない自分を礼賛している)文章を量産している、というのが荷宮氏の弱点である。もちろん、このコメントも同様だ。この点において《深く考えていない》のは荷宮氏のほうであろう。記事の筆者も、《空気が読めない人が、いま、一番バカにされる》と書いているけれども、少なくとも評論家の故・山本七平氏の『空気の研究』くらいは読んでいただきたいものだ。

 次はジャーナリストの斎藤貴男氏である。

 「自分に自信のない若者が多い」

 ジャーナリストの斎藤貴男さんはそう嘆く。

 社会のさまざまな場面で「格差」が広がり、就職できない若者も増えた。少し前まではアイデンティティーを会社に重ね合わせる人もいたけれど、いまや会社と一体感は持てなくなった。

 「何者にもなれない不安。自分探しをしても、何もない。アイデンティティーを感じられるのが『日本人である』ということしかなくなった。だから日本が強くあってもらわなきゃ嫌なんですよ」(88ページ4~5段目)

 ここまで断定されると、どうも引いてしまう。そもそもこの発言は俗流若者論に依拠した改憲論もさることながら、一部は斎藤氏自身にも降りかかってくるものもある。その部分とは、《アイデンティティーを感じられるのが『日本人である』ということしかなくなった。だから日本が強くあってもらわなきゃ嫌なんですよ》という部分がそれにあたる。私は斎藤氏が、かの曲学阿世の徒・京都大学霊長類研究所の正高信男氏の著書『ケータイを持ったサル』(中公新書)を、朝日新聞と著書『人を殺せと言われれば、殺すのか』(太陽企画出版)及び『安心のファシズム』(岩波新書)で絶賛しているのを見たことがあるのだが、その文章はどう見ても《アイデンティティーを感じられるのが『日本人である』ということ》であり《だから日本が強くあってもらわなきゃ嫌》というものであった。もちろんここでの《日本》は改憲派の妄想としての日本ではないけれども、しかし斎藤氏の「想い出の美化」に基づいた「日本」であることは間違いなかった。

 次は精神科医の斎藤環氏である。斎藤氏は護憲派であり、その理由として書かれている「護憲派最大のジレンマ」という論文(斎藤環[2005]に収録)はぜひともお勧めしたいのだが、この記事におけるコメントはいただけない。前回の社会学者の北田暁大氏に続き、斎藤氏(以下、特に断りがなければ「斎藤氏」と表記した場合は斎藤環氏を表すものとする)も信頼できる論者であるだけに、落胆してしまった。

 「憲法9条を守るには、ある種の思想が必要でしょう。でも、今、思想ぐらい若い人に忌み嫌われているものはない。『問題をうじうじ考えてるヤツはうざい』『何かを主張するヤツは痛い』と、生理的、脊髄反射的な嫌悪感。そもそも改憲というテーマへの関心は低く、どーでもいい。ならば、周りに『あいつ何かありそう』と怪しまれないほうが言いし、すでにある自衛隊を否定するような憲法ではなく、現状追認でわかりやすいほうがいい、となる。でも、国民投票になったら行かないと思う」(89ページ3~4段目)

 ひどい断定である。確かに《憲法9条を守るには、ある種の思想が必要》なのは痛いほど実感している(もちろん俗流若者論に対する反駁で)。しかし、私見によれば《今、思想ぐらい》俗流若者論に《忌み嫌われいているものはない》。《問題をうじうじ考えてるヤツはうざい》と考えているのは、むしろ俗流若者論に依拠する俗流論壇人ではないか。もちろん彼らのほうが《改憲というテーマへの関心は低く、どーでもいい》(蛇足だが、このような表記もどうにかならないものか)。若年層ばかりたたく言説は、その裏で進んでいる大きくて危険な動きを見落とす、というパターンの典型を見ているようである。

 映画作家の河瀬直美氏。

 みんな、実感を持って改憲を語っているのかな?ほんとにほんとに「自分ごと」として。去年生まれた長男の遺児苦をしていて思います。このあどけない笑顔を守りたい。でも、そんな想いとはかけ離れたところで、議論は繰り返されている気がする。(河瀬氏の発言については全て89ページ別枠)

 その通りである。おそらく現行憲法が改正されて我が国が軍隊を持つようになっても、国会議員の何人が自分の子供を軍隊に行かせるか。マイケル・ムーアの「華氏911」において、ムーアが国会議員に「自分の子どもをイラクに派兵しよう!」というビラを配るのと似た事態が起こって欲しくないものだ。川瀬氏は、若年層に上のような言葉を語るより先に国会議員に言ったほうがいいだろう。河瀬氏は《「憲法を変えれば何かが変わるかも」という若者が多いのでは》とも語っているけれども、それも若年層よりもむしろ国会議員と俗流右派論壇人である。また、《子どもに絡む犯罪が多発してきた背景には……》ともっともらしく語っているけれども、そのような犯罪は全体として減少している。

 作家の雨宮処凜氏。雨宮氏のコメント(90ページ別枠)は、前半部分は説得力がある。しかし最後の段落で唐突に若年層について触れるところはやはり若年層より先に国会議員に言うべき言葉だろう。

 若者が、強い改憲論を言う気持ちは分かる。私も特攻隊には憧れたし。国家に思いきり必要とされてみたい。普段は何の影響力も持たなくて、生きづらいから。まったく社会とつながっていないからこそ、「公」といいたがる。自衛軍を持ったらどうなるんだとか具体的ではない。考えてても、戦争で大活躍する自分とか、ほとんど妄想。国家を語ることで、鬱屈を発散しているんだと思いますよ。

 まさに俗流若者論にこそ当てはまる。それよりも、自分では戦争で出向かないくせに、顔も知らぬ若年層が戦争に出向くことで「国家」を妄想する人たちのほうが危険だと思うのだが。

 それぞれのコメントの検証はこれで終わりにしよう。しかしこの記事で引かれている全てのコメントが、若年層よりもむしろ国会議員に言ったほうがいいだろう、という類のものであった。

 どうして彼らは若年層ばかりを叩きたがるのだろうか。それについて詳しいことはあまりわからない。ただ一つだけ可能性があるとすれば、若年層の事を問題化した言説のほうが、国会議員の言説を検証した言説よりも売れる、ということか。しかし、若年層ばかりを問題化し、彼らの見ていない(あえて無視している)ところにおいてもっと大きな問題が進行していることを考えれば、徒に若年層ばかり叩いている状況ではないのである。

 彼らが若年層ばかり叩くのは、彼らが我が国の未来を左右するから、と考えているからではないだろうか。しかし、そのような考え方には一理あるとしても、かえってそのような考え方が、俗流若者論における無責任、すなわち現在の状況を無視して未来にばかり期待したがる、という欺瞞として表出することが往々にしてある。

 だから、この記事で展開されている若年層批判はかえって現在の状況に対する無関心を生み出す、とまではいかなくとも、少なくとも現在の状況に対する決定打とはなりえないのである。政治家たちの危険な言動を無視して、若年層ばかりに目を向けて、しかも益体のない、あるいは的はずれな「解説」ばかり生み出す、というのは、そのメディアはやはり政治に対する対抗意識を失っている、といわざるを得ない。

 目を覚ませ、「AERA」。今やるべきは、そのようなことではないはずだ。

 参考文献・資料
 川村克兵、平岡妙子[2005]
 川村克兵、平岡妙子「若者「改憲ムード」の浮遊感」=「AERA」2005年5月2・9日合併号、朝日新聞社
 斎藤環[2005]
 斎藤環『「負けた」教の信者たち』中公新書ラクレ、2005年4月

 鈴木謙介『カーニヴァル化する社会』講談社現代新書、2005年5月
 内藤朝雄『いじめの社会理論』柏書房、2001年7月
 山本七平『空気の研究』文春文庫、1983年10月

 杉田敦「「彼ら」とは違う「私たち」――統一地方選の民意を考える」=「世界」2003年6月号、岩波書店

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2005年7月16日 (土)

俗流若者論ケースファイル38・内山洋紀&福井洋平

 左右に関わらず、俗流若者論であればなんだって斬るという作業を続けている私にとって、左派系のメディアで最近になってよく目にする「若年層が右傾化している」という理論は、はっきり言って左派系の俗流若者論の中ではもっとも厄介なものである。これは決して私が左派である(正確に言えば、妄想としての「国家」「社会」を取り戻せ、と主張する「若者論」に反対する立場から反ナショナリズムにならざるを得ない)から、という感情的な理由だけではなく、そこには、同様の論理を批判している首都大学東京の非常勤講師である鈴木謙介氏が指摘している通り(鈴木謙介[2005])、「右傾化」という言葉に関する論理や認識の倒錯が生じているからであり、さらに鈴木氏の議論に付け加えるならば、このような議論が結局のところ(俗流右翼が目的としている)「内面」への介入を正当化しうる、ということを含んでいるからである。思えば、この手の議論の嚆矢となる香山リカ氏の肩書きは精神科医だった。

 今回検証するのは、「AERA」平成16年8月30日号に掲載された、同誌編集部の内山洋紀、福井洋平の2氏による「20代の「ガチ」ナショナリズム」という記事である。ちなみに付け加えておくと、この記事は、かつて私が批判したノンフィクション作家の吉田司氏の記事も含めて(「俗流若者論ケースファイル29・吉田司」を参照されたし)、「日本の行方」について論じた一連の特集記事の一つになっている。

 ここから記事の検証に入ることにするが、この記事を読んでいて退屈になるのは、いかにも俗流若者論にありがちな印象操作をしていることだ。具体的に言うと、靖国神社に行った人たちとか(ついでに言うと私も靖国に行ったことがあるが、明治神宮ほどの感動は覚えなかった)、《夜中に外国人と一緒にいると……「俺たちがこうして平和に暮らしているのは、国のために死んだ人がいたからなのに、こいつらはそういうことを考えたこともないんだろうな」》(内山洋紀、福井洋平[2004]、以下、断りがないなら同様)と考えてしまう人たちという風に、若年層の「右傾化」なるものを主張するかの人ばかりを出してしまうのだから。

 また、これは鈴木謙介氏も指摘していることなのだが、著者は(この文章には内山氏と福井氏のクレジットがついているが、どの部分をどちらが書いたものか明確ではないので、こう表現することとする)《そんな彼らが一部の特殊な若者とはいえないデータがある》として、朝日新聞社が平成16年3月と4月にかけて行った調査を引き合いに出し、その証拠から若年層全体が「右傾化」していると断定するところにある。各種アンケートの結果を提示しておこう(単位は%。左から、20代/30代/40代/50代/60代/70代以上)。

 ・小泉首相の靖国神社への参拝は良いことだ
 46/39/32/39/47/52
 ・今の憲法は改正する必要があると思う
 63/62/58/55/46/40
 ・イラクへの自衛隊派遣に賛成する
 51/40/37/41/43/37
 ・今の日本は、自分によってよい国だと思う
 50/41/50/46/49/58
 ・今秋のアメリカの大統領選挙でブッシュ大統領の再選を望む
 27/15/18/23/26/25
 ・沖縄のアメリカ軍基地は今までどおりでよい
 26/15/17/17/22/33
 ・世界の安全を保つために、アメリカが中心的な役割を果たしていると思う
 50/41/47/46/43/38

 以上である。なるほど、この結果を見ると、確かに「若年層が「右傾化」している」と騒ぎ立てたくなる気持ちも分からぬでもない。しかし、これは明らかに「選択された」結果といわざるを得ないのではないだろうか。この著者が「右傾化」をいかに捉えているか、ということに対する疑問については鈴木氏に譲ることとして、ここでは私が持った疑念を羅列的に表していくことにする。

 まず、もしこの調査が、同じ年に起こった沖縄の大学に米軍機が墜落する、という許しがたい事故の後に行なわれたらどうなるか、ということだ。期せずしてこの記事が載った「AERA」が発売されたのはその事故の後なのだから、それについて編集部は調査を行うべきだろう。また、過去との比較が行われていないことも疑問の種になる。新聞社が行った調査であるからサンプリングもある程度は達成されているだろうし、従って誤差も数パーセントにしかならないだろうけれども、だからといって結果の恣意的な選択は許されない。
 しかもこの記事、些細なところに突っ込みどころがある。例えば14ページ3段目、《過去の日本や戦争を懐かしんでいるわけではない。中国や韓国への戦後補償はちゃんとするべきだし、天皇制へも固執しない。新憲法を制定して、軍隊を持つ「普通の国」になったときには、「君が代」も変えなくては、と思う》人のどこが「右傾化」しているのだろうか。
 とりわけこの記事において頭が痛くなるのは、社会学者の北田暁大氏の発言である。北田氏は信頼できる人だと思うのだが、この文章の発言は明らかにおかしい。例えば14ページ4段目、《「イデオロギー的な対立がみられなくなった今、若者の間では、現実主義の一人勝ち状態。議論をしていても、現実と会わないものは『それは理想』で片付けられてしまう」》というのは、少なくとも北田氏の周りではそうなのかもしれないけれども、それがどこまで広がりを持っているか、ということに関しては北田氏は語らずじまいだ。同じ段の《「学生の気質も変わりました。……いま30前後の世代では、授業なんて出なくて当たり前だったのに」》なんて、単なる「私語り」以外の何物でもなかろう。

 また、著者は、14ページ5段目においてナショナリズムを歌い上げるヒップホップユニットの歌詞を採り上げるのだが、このユニットを、私はオリコンチャートで名前を見たことがない。もちろんチャートがその歌手及びユニットの人気を直接に表しているわけではないのだろうけれども、このユニットの人気はいかばかりのものか、あるいは音楽業界内での評価はどうか、などは、少なくとも仙台在住でアニメソング愛好者の私にはわからない。

 また、著者は、15ページの1段目において、《今回取材した20代男性の愛読書で断トツに多かったのが、この『坂の上の雲』(筆者注:文春文庫。作家の故・司馬遼太郎氏の有名な著作)だった》と書いている。「AERA」が後に「30代女性のための司馬遼太郎入門」(平成17年5月2・9日合併号に掲載。著者は編集部の石川雅彦氏)という記事で、この『坂の上の雲』を好意的に採り上げたことを知っている私は思わず吹いた。私が吹いた理由はこれだけではなく、同じ雑誌の同じ号に、明らかにナショナリズムを煽り立てるオリンピック関連記事が載っていたという理由もある(残念ながら今は手許にない)。ダブルスタンダードが許されるのは、俗流若者論ゆえだろう。

 あまり揚げ足取りをしたくはないので、細かい部分に対する突っ込みはこれくらいにしよう。しかし、この記事は、左派の俗流若者論の大きな問題点をそのまま体現しているのである。

 著者は、巨大ネット掲示板の「2ちゃんねる」において《世間の誰もが「たたかれる」対象になりうる中で、なぜか「政府」や「官僚」が俎上にあがることは少ない》と書いている(ついでに私の名前もたびたび挙がる2chの大谷昭宏氏を取り扱ったスレッド(掲示板)では、少なくとも政府は表現規制がらみで何回か批判されている)が、そういう左派は、「今時の若者」はしきりに嘆くけれども、たとい「週刊金曜日」という左派の牙城とでも言うべき雑誌で、筑紫哲也氏や本多勝一氏といった大御所があからさまな言語ナショナリズム(+俗流若者論)をその連載で開陳していても(実際に開陳している。筑紫氏については、「俗流若者論ケースファイル10・筑紫哲也」を参照されたし)、彼らはそれを右傾化と批判しない。逆に、例えば東京大学教授の藤原帰一氏がイラク戦争に関わる左派の議論に対して、もっとリアリズムの視点から反戦平和を語ったらどうか、と苦言を呈したところ、藤原氏は右傾化したと糾弾されたという(金子勝、アンドリュー・デウィット、藤原帰一、宮台真司[2004]332ページ)。

 要するに、左派自身が強烈な「学級会民主主義」、要するに逸脱を許さず、その頂点に立つもの(ここでは筑紫氏と本多氏)は許すが、「村の掟」を少しでも逸脱した下部構造のもの(ここでは藤原氏)には強烈な制裁を与えるという思考停止に陥っているのだ。そしてこの「学級会民主主義」的傾向こそ、(鈴木謙介氏も指摘していることだが)まさしく、この記事で著者が難じた「「ガチ」ナショナリズム」の正体なのである。私は、他人の欠点は自分の欠点の投影なのだという俗流心理学者の言葉は信じたくはないけれども、少なくとも2ch同様の「学級会民主主義」に陥っている左派が若年層の「右傾化」を嘆く、というのは、結局のところ目糞鼻糞を笑うものでしかないのである。

 そしてこれは、現代の言論状況の一端でもある。要するに、「学級会民主主義」の蛸壺がまた別の蛸壺を攻撃している、という状況である。この蛸壺化の傾向は、特に右派に強く、その傾向が特に先鋭的に見える産経新聞社の月刊誌「正論」は、もはや正視するに堪えないほどの質の低下が目立つ。また、我が国の言論の場に参加するためには、その「蛸壺」の住人として認められることが第一となる(朝日新聞社の「論座」あたりには、その「蛸壺化」を解体しようとする試みが見られるが、あまり成功していないように思える。やはり俗流論壇人は「蛸壺」のほうが楽なのだろう)。

 少し話がそれてしまったが、左派の「若年層の「右傾化」」批判は、結局のところこのごろ力を失っている蛸壺を、若年層に対する敵愾心でもって強化しようという試みでしかないのである。かつて敵愾心によって蛸壺を強化して我が国を破滅に導いた国家的運動があったが、結局のところ左派はそれとまったく同じ構造を繰り返しているに過ぎないのである。結局のところ、我が国の論壇において「論争」と称するものの大半は、「蛸壺」同士の不毛な戦いでしかない。

 この記事には《日本を愛する気持ちや大国への憧れをあまりにもストレートに表現する彼らは、裏返せば「自分」という存在への不安感があるのかもしれない。だからこそ、せめて国=日本には強烈な存在感を示してほしいと思うのだろうか》というくだりがある。しかし、この構造は、左右を問わず全ての俗流若者論に見事に当てはまるだろう。今や左派にも俗流若者論のための歴史修正主義者が出現し、過去を美化する、という点においてはもはや五十歩百歩になってしまっている。私が冒頭で「反若者論」の立場から反ナショナリズムにならざるを得ない、と書いたのは、まさにこの構造に対するアンチテーゼである。

 参考文献・資料
 内山洋紀、福井洋平[2004]
 内山洋紀、福井洋平「20代の「ガチ」ナショナリズム」=「AERA」2004年8月30日号、朝日新聞社
 金子勝、アンドリュー・デウィット、藤原帰一、宮台真司[2004]
 金子勝、アンドリュー・デウィット、藤原帰一、宮台真司『不安の正体!』筑摩書房、2004年10月
 鈴木謙介[2005]
 鈴木謙介「若者は「右傾化」しているか」=「世界」2005年7月号、岩波書店

 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 谷岡一郎『「社会調査」のウソ』文春新書、2000年5月
 歪、鵠『「非国民」手帖』情報センター出版局、2004年4月
 山本七平『日本はなぜ敗れるのか』角川Oneテーマ21、2004年3月

 姜尚中「「こころ主義」蔓延した1年」=2000年12月29日付朝日新聞
 杉田敦「「彼ら」とは違う「私達」――統一地方選の民意を考える」=「世界」2003年6月号、岩波書店
 増田聡「軽やかに歌われる君が代ポップ」=「論座」2005年5月号

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2005年7月13日 (水)

俗流若者論ケースファイル37・宮内健&片岡直樹&澤口俊之

 擬似脳科学が俗流若者論においてもてはやされている最大の理由は、やはり「「今時の若者」は俺たちとは違う環境で育ってきたから脳が異常になり、従って犯罪や「問題行動」を起こす」と多くの人が考えたいからであろう。我が国において脳科学はもはや政治の道具であり、真面目な学問の徒はマスコミを中心とする世間の喧騒からは疎外される。脳の専門家としてマスコミに登場するのは大体10名くらいで、しかもそのほとんどがその論理に問題を持っているのだが、私はその中でも森昭雄、澤口俊之、片岡直樹、清川輝基の4氏を問題の多い「脳の専門家」の四天王だと規定したことがある(「俗流若者論ケースファイル16・浜田敬子&森昭雄」を参照されたし)(7月14日追記:コメントで「清川氏は脳の専門家ではない」という指摘があったので追記。確かに清川氏は本当の意味での脳の専門家ではないが、さらに言うと、この4氏の中で、本当に脳の専門家なのは澤口氏のみ。しかし、片岡氏と清川氏に関しては、「ゲーム脳」に親和的であることと、それ以外にも育児などに関わる疑似科学を好意的に紹介しているので、カギカッコつきで「脳の専門家」と言わせていただく。また、森氏に関しては、「ゲーム脳」を開陳してから、いつの間にか「脳の専門家」として見なされるようになった)。

 本題に入る。経営者や会社の高いポストの人を読者層に設定している雑誌「プレジデント」が、俗流脳科学に親和的だ、といわれたら皆様はどう思われるだろうか。というのもこの雑誌は、最近になって、平成16年から現在にかけて、擬似脳科学に関わる記事を少なくとも3本も掲載しているのである(その中には、この連載の第17回で採り上げた藤原智美氏によるものもある)。今回は、平成16年8月30日号に掲載された、ジャーナリストの宮内健氏による「脳科学者が警鐘「妻の携帯、子どものTV・ゲーム」」という記事である。しかもこの記事には、先ほど提示した四天王のうち、澤口俊之氏と片岡直樹氏が登場しているのである。

 案の定というべきだろうか、澤口氏も、片岡氏も、結局のところそこらじゅうで喧伝している自説を性懲りもなく開陳しているだけだった。

 片岡氏は、案の定、38ページの一番最初で《新しいタイプの言葉遅れの幼児が増えている》(宮内健[2004]、以下、断りがないなら同様)とし、その原因はこれまた案の定《その原因はテレビ・ビデオの長時間視聴と関係があると私は考えています》と言ってしまう。そのように片岡氏が主張するのが片岡氏も名を連ねている日本小児科学会の調査で、それによると《1歳6ヶ月の子ども1900人を対象に調査を行ったところ、一日の視聴時間が「子ども4時間以上、家庭にテレビがついている時間8時間以上」のグループは、意味ある言葉を話し始めるのが遅れる子どもの割合が二倍にも上ると報告している》。片岡氏は、だからテレビが「新しいタイプの言葉遅れ」を生み出す、と考えるのだが、片岡氏はテレビ以外の影響を排除した上でこのように語っているのだろうか。もしそうでないのだとしたら、テレビを「悪玉」に仕立て上げるためにこの調査を行った、と謗られても弁明できまい。
 また、38ページ2段目から39ページの1段目にかけて、《ところがいまの母親は朝起きてから寝るまでテレビをつけっぱなしの人が多い》だとか《子どもの世話をテレビに任せるだけでなく、メールに熱中する母親も多い》と、やけに今の子育てが「異常」であるかを喧伝するのだけれども、これをステレオタイプといい、かように安易なアナロジーに頼ってしまうのはジャーナリストとしての力量不足を疑わざるを得ない。このような書き方は読み手の「感情」に訴えかける性質のもので、単なる「世代論」でしかないだろう。

 39ページには澤口俊之氏が登場する。案の定、澤口氏は、下のような根拠不明確なことを言う。また、宮内氏も賛同する。

 (筆者注:澤口氏曰く)「さまざまな環境に適応することができるように、人の脳は未熟な状態で生まれます。幼少期に周囲の環境から刺激を受けることで、脳は育つわけです。そんな時期に、テレビばかり見ていてあまり他人と接していないとしたら、取り返しのつかないことになります。……友達と仲良くする、悪いことをしたら謝る、といった当たり前のことができない子どもが増えていますが、そういう子の脳波、人間関係に関する能力が未発達なのです」

 澤口教授によると、すぐにキレる子ども、陰湿ないじめ、子どもの自殺、凶悪な少年犯罪、家庭内暴力、無気力症候群など、子どもにまつわる多くの社会病理なども、脳の未発達に起因するという。……(39ページ2~4段目)

 これで納得してしまう読者がいたら、まず「プレジデント」など捨てて大学に入り直すべきだろう。それにしても、《友達と仲良くする、悪いことをしたら謝る、といった当たり前のことができない子どもが増えていますが》と書いているけれども、本当に増えているのだろうか。澤口氏の思い込みでしかないのではないか?

 しかしもっと醜悪なのは、澤口氏の暴論をそのまま受け入れてしまう宮内氏である。宮内氏は、《すぐにキレる子ども、陰湿ないじめ、子どもの自殺、凶悪な少年犯罪、家庭内暴力、無気力症候群など、子どもにまつわる多くの社会病理》を挙げているけれども、これはマスコミの大好きな「今時の若者」の「記号」である。まず、《すぐにキレる子ども》と言うけれども、犯罪白書によれば我が国において少年による凶悪事件は昭和35年ごろに比べて激減している。このような事実があっても、擬似農家学者は昭和35年ごろの青少年の「脳」には口を閉ざす。擬似脳科学の浅はかさが現れているだろう。《無気力症候群》に至っては、現在名古屋大学名誉教授の笠原嘉氏がつとに長い間指摘してきた(笠原嘉[1977][1988][2002])。俗流若者論というのは、青年期病理学を少しもかじっていなくともかけるのだから気楽な稼業だ。

 宮内氏は、大脳前頭葉の異常が「問題行動」を引き起こす事例として、1848年に米国で起こった事例を紹介している。かいつまんで言えば、事故により前頭葉の連合野が損傷した技術者のフィニアス・ゲージが、《粗暴で野卑な振る舞いを見せた》(39ページ4段目)というもの。なるほど、これは確かに歴史的な事実としてある。しかし、この例だけをもってして、前頭葉の損傷が「問題行動」を引き起こすと言えるのだろうか。

 これに対する疑問は二つ。第一に、これが外部からの損傷によるもので、澤口氏が問題にしている(問題にしたがっている)「未発達」とは根本的に違う。第二に、神経治療の分野では長い間「ロボトミー」という治療法があり、これはメスでもって精神障害者の大脳前頭葉を切断してしまうものであるが、このような治療法が受け入れられていたということは、前頭葉を切断すれば人間はおとなしくなる、と信じられていたことを証明する。しかしこれに関する結果はまちまちであり、一概に前頭葉を損傷すると粗暴になったり逆におとなしくなったりするとはいえないらしい。この2点に気づかずに、宮内氏は、39ページから40ページにかけて《他人への思いやりを失ったゲージと、昨今のすぐキレる子どもの行動。両者には重なる部分があるように見える》と書き飛ばしてしまう。あなたがそう見えるだけだろうが。

 以下、特に41ページに集中的に、「今時の子育て」がいかに「異常」であるかということを喧伝するが、これに対する検証は行なわない。単なる「想い出話」だからである。ちなみに片岡氏は41ページ3段目において《狼に育てられた少女》の話をしているけれども、この話の証拠は極めて乏しく(藤永保[1990])、残念ながら都市伝説の領域に属する。

 結局のところこの記事は、テレビやゲームや携帯電話を否定したい「善良な」人たちに対する「警鐘」であって、同時にテレビやゲームや携帯電話に時間と空間が占領されている(と彼らが勝手に思いこんでいる)若い母親たちや子供たちに対する差別を煽り立てるほどの効果しか期待できないだろう。しかも掲載誌が「プレジデント」で、さらにこの記事が掲載された特集の名前が「「不機嫌」女房、「無気力」わが子」であるから、この雑誌の読者に「父性」を子育てに復活させよ、と説いているわけであるな。

 それにしても、我が国において「新しいタイプの言葉遅れ」なる言葉がかくも流行してしまうほど、発達の遅滞は社会性の発達の遅れであり、さらにそれが凶悪犯罪や「問題行動」につながる、という論理がコンセンサスを得ている状況を我々はいかに見るべきか。悲観的に見れば、これらの誤った認識が、自閉症や発達障害に対する差別として噴出し始めているのかもしれない。杞憂であることを願いたいが。

 特に片岡氏に言いたいことがある。というのも、片岡氏が小児科医だからだ。小児科医であるにもかかわらず、安易なアナロジーと飛躍でもって「新しいタイプの言葉遅れ」なる概念を捏造し、子育てに対する不安を煽る片岡氏に、小児科医としての資格があるのだろうか。子供と正面から向き合わずに、「今時の子育て」を過度に図式化して、それらに対する不安を煽る、というのがあなたの仕事であるというのであれば、あなたは即刻小児科医をやめるべきだろう。澤口氏も然りである。あなたは、あなたの道徳的感覚を無理やり脳科学に当てはめることによって、脳科学を殺しているのである。

 マスコミも、このように問題のある自称科学者をこれ以上もてはやすのをやめていただきたい。そうしないと、彼らはますますつけ上がるだけだ。

 参考文献・資料
 笠原嘉[1977]
 笠原嘉『青年期』中公新書、1977年2月
 笠原嘉[1988]
 笠原嘉『退却神経症』講談社現代新書、1988年5月
 笠原嘉[2002]
 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 藤永保[1990]
 藤永保『幼児教育を考える』岩波新書、1990年5月
 宮内健[2004]
 宮内健「脳科学者が警鐘「妻の携帯・子どものTV・ゲーム」」=「プレジデント」2004年8月30日号、プレジデント社

 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書、1999年4月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月

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俗流若者論ケースファイル36・高畑基宏&清永賢二&千石保

 あってはならないことであるが、俗流若者論を書き飛ばしている人を見るとうらやましくなるときがある。なぜか。それは、彼らは自らの言質に対して一切の責任を取らなくてもいいからだ。彼らは「今時の若者」に対する敵愾心を煽りさえすれば、そのためにさまざまな狼藉を働いていたとしても、「今時の若者」に対する批判という大義名分の下に全てが許容され、「善良な」人たちに受け入れられる。検証のためにいちいち論証を考えている私としては、ここまでうらやましいことはない(もちろん、論証を考えることのほうが遥かに大事なのだが)。

 俗流若者論とは政治の論理である。ここで言う政治の論理とは、検証の繰り返しによって事実に肉薄していく、というのではなく、自らの思い込みをそのまま他者に押し付けようとする論理のことだ。つい最近、皇學館大学助教授の森真一氏が『日本はなぜ諍いの多い国となったのか』(中公新書ラクレ、2005年7月)という面白い本を出したが、本書で語られていることは結局のところ、みんな「今時の若者」「今時の日本人」のマナー低下を嘆くけれども、それは単なる利害対立の問題でしかないし、若年層の行動をリスクとしてしか見なさない社会も問題である、ということだ。俗流若者論が政治の論理であるということは、俗流若者論によって立つ人と「利害」を共有する人たちの発言力を高める方向にしか俗流若者論は働かない。

 それを証明するような記事が、森氏の著書とほぼ同時期に発売された読売新聞社の週刊誌「Yomiuri Weekly」平成17年7月24日号に掲載されていた。筆者は同誌記者の高畑基宏氏で、タイトルは「狂いだした日本人の“体感距離”」である。要はこの記事は、「俺以外の人は駅でぶつかっても謝らない!それは、俺を除く日本人の“体感距離”が狂いだしたせいだ!!」という極めて「政治的な」記事なのである。

 何せ高畑氏、書き出し(86ページ1~2段目)からいきなり高畑氏と「利害」を共有することを勧めるような書き方をしているのだから。

 最近、似たような経験をしていないのだろうか。

 地下街の壁際を歩いてくると、女性が斜め前方から、こちらへ歩いてくる。そのままでは、自分に接触しかねないが、相手はこちらを見ているから「まさか」と思う。しかし、彼女は気にせず近づいてくる。そして、逃げ場がなく立ち止まった自分に右腕をぶつけて、地上へ通じる出口に消えた。もちろん無言のままだ。

 駅のホームで電車を待っていると、前後を通る人のカバンや紙袋が次々と自分の身体に当たる。ホームは混雑しているわけでもなく、邪魔なところに立っているとも思えない。にもかかわらず、こちらを気にせず、ガサッと大きな音がするほど強くぶつかることもある。誰も謝る気配がない。(高畑基宏[2005]、以下、断りがないなら同様)

 端から見たら被害者意識に満ちた人にしか見えないのだが。しかも、他の人が経験している「はずだ」として書いているのはどういうわけだろうか。また、このような行動が増えた、と結論付けたいのであれば、あなたは新聞記者なのだから調査・取材をすべきだし、無根拠に断定してしまうのは、俗流若者論の常套手段である。

 しかし、この記事はあらかじめある「物語」、すなわち「日本人の「劣化」」という物語に高畑氏、そして「善良な」読者が浸るために書かれた記事であるから、この手の手抜きは許容されるのだろう。案の定、高畑氏は、日本女子大学教授の清永賢二氏(この人は犯罪行動生態学の権威らしい)の《日本人の体感距離が狂ってきた》というこれまた無根拠な断定を引く。

 清永氏の学説、というより妄想はこの記事の最後のほうになって爆発するので、今は触れないで置こう。ちなみに清永氏が先のように考える理由として、

 「家族や住空間の変化が生み出した自己中心型の人間社会と、他家や他者を無視する社会が重なり、他者に見られることによる自己行動規範が崩壊しています。そこへ、一見矛盾する、他者への甘えが当然化した社会が重なった」(86ページ4段目)

 ということを挙げている。高畑氏は《なにやら、難しそうな論理展開》と書いているけれども、幾多の俗流若者論を検証してきた歴戦の戦士(笑)の私としては、このような論理展開は極めて典型的な俗流若者論である。ちなみに私は建築学科に在籍しているから言っておくけれども、このようなことに対する反省が最近になって都市計画や都市論や集合住宅の設計に表れてき始めているのだけれども。清永氏はテキスト化された俗流若者論しか語ることができないのであろうか。

 この記事では、日本青少年研究所所長の千石保氏も登場するのだが、まず87ページ1段目における発言は問題が多すぎる。

 ……(筆者注:千石氏は)若い世代の変わりように注目している。
 「このころから、親友と見なす人間にさえ、プライベートなことや自分の悩みをまるで話さなくなるという非常に大きな変化が起きました。親友でさえ、そこまで疎遠になれば、通りがかりの見ず知らずの人など、遠く関係のない人であり、ましてや謝罪などしなければならない対象ではなくなっているのです」

 千石氏にとって、現在を生きる若年層など、いくら暴論を発したとしても、《遠く関係のない人であり、ましてや謝罪などしなければならない対象ではなくなっている》、まる。このような論証立てに極めて飛躍が多いのは千石氏も承知しているのだろうか。千石氏は《親友と見なす人間にさえ、プライベートなことや自分の悩みをまるで話さなくなる》ことにさえ、現代の若年層にとって親友と見なす人間ですら疎遠になっている証拠として捉えられているけれども、自分のプライヴェートな悩みを友達に打ち明けて友達を傷つけてしまうよりも、自分の中でしまいこんでおいたほうがリスクが小さいと考えているから、と考えたほうが適切ではないか?しかも現在の「友達」関係の、千石氏は想定していないような大きな問題点は、詳しくは明治学院大学講師の内藤朝雄氏(内藤朝雄[2004])や横浜市立大学教授の中西新太郎氏(中西新太郎[2004]) 、首都大学東京非常勤講師の鈴木謙介氏(鈴木謙介[2005])、そして前掲の森真一氏(森真一[2005])に譲るけれども、これは携帯電話も深く関わっているのだが、簡単に言えば「友達」関係が戦時中の「隣組」みたいになりつつある、さらにその「隣組」の中において逸脱した行動をすることは許されない、というものがある。千石氏にはむしろこちらのほうを検証していただきたいのだが。

 そのような問題点を検証せずに、高畑氏、《どうやら、間違っているから正そう、という次元ではないようだ》(87ページ2段目)と書いてしまっているのだから、大本営発表とはこのことであろう。そして千石氏は87ページ2段目で現在のような状況が起こってしまった原因についてこのように述べている。私は読んでいて欠伸が出た。

 千石所長は、

 「物質的な豊かさによって、他人との実質的なコミュニケーションがなくても生きていけるようになったこともあります。しかし、少子化で親に大切に育てられる家庭で、親から叱られることが極めて少なくなり、憎んだり、ざんげしたり、許したりするという親子間の葛藤がなくなってしまったことが大きい。他人を思いやる心は、こうした葛藤を乗り越えて生まれるものです」

 と話す。

 私はこのくだりを読んで、もう日本青少年研究所に期待することはやめよう、と思った。千石氏に関わる黒い噂は幾つか明らかになっているのだが、少なくとも長期的に青少年を研究している研究所の所長である千石氏が、このようにテキスト化された俗流若者論しか語れないのであるから、もうこの研究所に期待するものは、所長が交代しない限り何もない。千石氏のものよりももっと優れた若者論はたくさんある。

 この記事自体が、自らの被害者意識と、清永賢二、千石保という格好の俳優を用いた高畑基宏というトリックスターの憂国劇と言っていいだろう。その憂国劇のフィナーレは、清永氏の妄想爆発の妄言(87ページ3段目)である。

 「見えていても他者が存在しない人が、他人にぶつかっても誤らないのは、相手を対等で生身の人間とは意識していないために、『私はぶつかるつもりはなかったのに、あんたがぶつかったのだ』と、自分の責任を一方的に中和するからです。そういう人は、本人が意識しない罪を犯す可能性があります。つまり、自分では悪いことをするつもりなどないまま他人を殺傷するような、本人も説明できない犯罪です」

 少なくとも、このような森昭雄・正高信男レヴェルの妄言を発している清永氏が、自分以外の人間、広げても自分と「利害」を共有しない人間を《対等で生身の人間とは意識していない》のは明らかであろう。こういう人が《『私はぶつかるつもりはなかったのに、あんたがぶつかったのだ』と、自分の責任を一方的に中和するからです》などといっているのを読んでいると哀しくなる。しかも《本人が意識しない罪》とは何を指すのだろうか。清永氏は《自分では悪いことをするつもりなどないまま他人を殺傷するような、本人も説明できない犯罪》のことを言っているのだろうが、それは最近マスコミが好き好んで採り上げている「理解不能な」犯罪のことを言っているのだろうか?清永氏よ、あなたはただ自らの妄想と俗流若者論に踊らされているだけ、ということを理解したほうがいい。

 そして案の定、高畑氏が採り上げるのが最近マスコミをにぎわした少年犯罪である。「お約束」は俗流若者論ではもはや常識だ。

 高知・明徳義塾高校の生徒が旧友をいきなり刺した事件や、山口・光高校の生徒による爆発事件だけではない。最近は、中高年も含め、希薄な動機に首を傾げたくなるような短絡的な事件が頻発し、多くの場合、犯人から反省や謝罪の言葉が聞かれない。その根底に、体感距離の狂いが横たわっていると見るのは、考えすぎだろうか。(87ページ3段目)

 《考えすぎだろうか》と言う以前に、こういうのをマッチポンプと言うのだろう。要するに、少年犯罪をセンセーショナルに取り上げまくって、その「原因」をもっともらしくでっち上げる、というまさに高畑氏の行為を、マッチポンプと呼ばずして何と呼べばいいのか。俗流若者論、俗流日本人論は、極めて歴史に疎いから(10年スパンの歴史ですら!)、最近の事例については生々しく採り上げるのに、以前の事例に関しては自分の自意識を肯定してくれるものしか採り上げないのだから、この手のダブルスタンダードを解消するには、もはや俗流若者論という言論体系を撃つ論理を用意しなければならないのかもしれない。

 それにしても、少数の猟奇的な凶悪犯罪と、身近で不満に感じたことを容易に結びつけるのが「体感距離」という擬似行動学的な概念であるということにも不満を感じる。自らの些細な経験と、マスコミによる偏向報道と、自らの道徳観(=自らの不満を逸らしてくれる「素晴らしいもの」)と、そして国家が、疑似科学によって結び付けられてしまうという状況を、我々はいかに批判すべきであるか。前掲の森真一氏は、現在の如く人々が「マナー神経症」(私の言い方だと「若年層批判依存症」)に陥っているのはマナーをめぐる過渡期的状況の先鋭化として捉えているけれども(森真一[2005])、本来、マスコミの役目は、このような状況をうまく操作することであろう。現在の我が国において、というよりも大衆社会において、マスコミの果たす役目は政治家や建築家や計画家のそれよりも多大な影響を及ぼす。そのようなマスコミが、疑似科学を持ち出し、過去に対するノスタルジー、あるいは「劣化」という物語を元に若年層、さらには同時代バッシングをしているようでは、新時代のコミュニティーなど生まれまい。

 狂いだしたのは、高畑、清永、千石の各氏の言論感覚だ。

 参考文献・資料
 鈴木謙介[2005]
 鈴木謙介『カーニヴァル化する社会』講談社現代新書、2005年5月
 高畑基宏[2005]
 高畑基宏「狂いだした日本人の“体感距離”」=「Yomiuri Weekly」2005年7月24日号、読売新聞社
 内藤朝雄[2004]
 内藤朝雄「「友だち」の地獄」=「世界」2004年12月号、岩波書店
 中西新太郎[2005]
 中西新太郎『若者たちに何が起こっているのか』花伝社、2004年7月
 森真一[2005]
 森真一『日本はなぜ諍いの多い国になったのか』中公新書ラクレ、2005年7月

 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 山本七平『日本はなぜ敗れるのか』角川Oneテーマ21、2004年3月
 ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』岩波文庫、上下巻、1987年2月

 齋藤純一「都市空間の再編と公共性」=植田和弘、神野直彦、西村幸夫、間宮陽介(編)『(岩波講座・都市の再生を考える・1)都市とは何か』
 渋谷望「万国のミドルクラス諸君、団結せよ!?」=「現代思想」2005年1月号、青土社
 杉田敦「「彼ら」とは違う「私たち」――統一地方選の民意を考える」=「世界」2003年6月号、岩波書店

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2005年7月10日 (日)

俗流若者論ケースファイル35・斎藤滋

 相変わらず、曲学阿世の徒・日本大学教授の森昭雄氏の「ゲーム脳」理論という疑似科学に対する支持者は後を絶たないが、今回はちょっと面白いのを見つけたので紹介したい。

 宮城県図書館で東京新聞のマイクロフィルムを見ていたとき、斎藤滋という人物が書いているコラムを見つけた。斎藤氏の肩書きについては、ここでは少し伏せておこう。今回検証するのは平成15年10月31日付東京新聞に掲載された斎藤氏の「人間らしさを育てる」というコラムなのだが、この人、いきなりこのように書き出してしまうのだから救いようがない。

 いつもイライラしている、すぐ頭に来る、食卓や机をたたいて怒る。まさか、みなさんの周辺にはこんな光景はありませんよね!

 最近、テレビゲームや携帯電話でのゲームに熱中する子どもや若者が増えています。これらのゲームは瞬発的な判断が必要ですが、知、情、意といった人間としての判断力が育ちません。脳神経科学の専門家である日大医学部・森昭雄教授(ゲーム脳の恐怖:NHK出版・生活人新書)は、これらのゲームに長時間熱中していると、前頭前野(脳の前方部分で、脳に入った情報を総合的に統合している)がうまく機能しなくなり、痴ほう症の人と類似した状態(若年痴ほう)になると警告しています。(斎藤滋[2003]、以下、断りがないなら同様)

 ついでに言っておくと、このコラムが掲載されたのは、精神科医の斎藤環氏(以下、この文章において単に「斎藤氏」と表記したときは、斎藤滋氏を表すものとする)による「ゲーム脳」理論への徹底批判が掲載された著書『心理学化する社会』(PHP研究所)が発行されたおよそ1ヶ月後であり、一般書に「ゲーム脳」理論への批判が載り始めた頃であるから、今更このような「ゲーム脳」礼賛記事が載るのはいかがなものか、と思った人も少なくないかもしれない。とりあえず、《これらのゲームは瞬発的な判断が必要ですが、知、情、意といった人間としての判断力が育ちません》という物言いは、ゲームに対する無理解の裏返しでしかないことは言っておきたい。例えばロールプレイングゲームやシミュレーションゲーム、アドヴェンチャーゲームなどは熟考を必要とする。また、斎藤氏は《ゲームに長時間熱中していると、前頭前野(脳の前方部分で、脳に入った情報を総合的に統合している)がうまく機能しなくなり、痴ほう症の人と類似した状態(若年痴ほう)になる》と言っているけれども、森氏がその根拠としたのはただ痴呆症患者と「ゲーム脳」の人の脳波が類似していた、ということだけ。このような疑似科学の論法を批判できなくて、コラムを書く資格があるのか。

 しかも、斎藤氏は(森氏の受け売りで)このようなことを言い出すのだからますます救いようがない。

 なんと、テレビゲームを始めて約一分後に脳波的には痴ほう症状態になります。通常はゲームを止めて20~30秒で元の状態に回復します。しかし、ゲーム常習者は、止めても痴呆症と同じような脳波が持続するという衝撃的なデータを森教授は例示しています。

 《なんと》とか《衝撃的なデータ》なんて、冗談も休み休み言っていただきたいものだ。ゲームのような単純作業の熟練者は、熟練した作業をやっていても脳波にさして変化が見られなくなる、というのは脳科学の常識なのだが。

 ちなみに、ドイツのジャーナリストであるロルフ・デーゲンの著書『フロイト先生のウソ』の349ページでは、米国の実験で、単語の記憶テストを行なったところ、成績の低い人は前頭葉や海馬が活発に活動していた、という事例が紹介されている(ロルフ・デーゲン[2003])。ということは、成績の高い人は暗記テストをやっても脳が活性化されない!これは問題だ!まさに「暗記脳の恐怖」(笑)!!まあ、森氏と斎藤氏はこう言っているのに等しい、ということを認識されていただければ十分である。森氏や斎藤氏、及び他の「ゲーム脳」賛同者は、ゲームなら、さらに踏み込むなら若年層なら何を言っても許される、と思い込んでいる節がある。

 このコラム自体が斎藤氏の妄想爆発コラムなのであるのだが、しかしこれでは私が冒頭で言った「ちょっと面白い」コラムではないだろう。そこらの「ゲーム脳」礼賛記事と大差ない。ではここで種明かしをしよう。斎藤氏は、この妄想コラムを、このような文章で締めくくっている。

 現在、日常の社会・学校生活でも、前頭前野をはぐくむ環境づくりの必要性が指摘されています。最近、食物やガムを噛むことで、若者・中年・高齢者の前頭前野が顕著に活性化されることを世界で岐阜大医学部・藤田雅文講師らのMRI(磁気共鳴機能画像)で証明されました。……

 食物やガムをよく噛んで、人間らしい感性・情緒感を育てましょう!

 噛むことが「ゲーム脳」の「治療」になる?森氏はお手玉が「ゲーム脳」の「治療」になると言っていたはずなのだが。

 実を言うと斎藤氏、日本咀嚼学会の前理事長(現在は監事)なのだ。このコラムも実は斎藤氏の連載コラム「噛んで元気」の第18回なのである。そう考えれば、斎藤氏が「噛むこと」をここまで重要視するのも納得がいくだろう。しかし、ここで「ゲーム脳」など持ち出してくる必要などあったのだろうか。

 岐阜大の藤田講師らによってガムを噛むことで前頭葉が活性化されることが証明された、というのは事実である。私も大学受験期、ガムを噛みながら勉強していたことがあるので、「噛むこと」の有意性については否定するつもりはない。しかし、それを(諸悪の根源とされている)「ゲーム脳」と結び付けて、ゲームは人間性を奪い、そこで奪われた人間性を「噛むこと」が取り戻してくれる、と書いてしまうのは、結局のところ「ゲーム脳」は自分の営利のための道具でしかないのではないか、と言われても仕方ないのではないか。斎藤氏よ、少なくともあなたは日本咀嚼学会の理事長まで上り詰めた身分なのだから、「ゲーム脳」の如き疑似科学に踊らされてはまずいと思うのだが。

 しかし、青少年問題言説を自分の営利に結び付けてしまうのは、悪しき商業主義ここに極まれり、である。そういえば私がかつてネットを巡回していた頃、ある空手の道場が「青少年問題の解決の成果」をサイトに掲げて、その道場がいかに「ひきこもり」を解決したか、ということを喧伝していたものがあった。どことは言わないけれども、とりあえず現在の状況に関して言えることは、政治や俗流論壇に限らず、一般社会でも青少年問題を「自己実現」の為に利用するという事態が蔓延している、ということだろう。

 参考文献・資料
 斎藤滋[2003]
 斎藤滋「人間らしさを育てる」=2003年10月31日付東京新聞
 ロルフ・デーゲン[2003]
 ロルフ・デーゲン、赤根洋子:訳『フロイト先生のウソ』文春文庫、2003年1月

 池谷裕二『進化しすぎた脳』朝日出版社、2004年10月
 斎藤環『心理学化する社会』PHP研究所、2003年10月

 柄本三代子「科学のワイドショー化を笑えない時代」=「中央公論」2002年11月号

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2005年7月 8日 (金)

俗流若者論ケースファイル34・石原慎太郎&養老孟司

 ゲーム規制を推し進めている神奈川県の松沢成文知事が、自身のブログでゲーム規制に対する反対論への再反論を掲載した。しかしその文章は、結局のところ私が「俗流若者論ケースファイル12・松沢成文」で批判したものとなんら変わらず、結局のところコメント欄は「まだ疑問だ」「答えになっていない」といったものが多数書かれていた。

 詳しい検証は避けるが、松沢氏のみならずゲーム規制論者の思考を突き詰めれば、それは「俺が有害だと言っているから有害なんだ」というトートロジー(同語反復)になる。このような論理を振りかざす人たちに「それはトートロジーだ」と指摘するのは簡単だし、またそれがもっとも正しい態度なのだが、しかしトートロジーを平然と振りかざすようになっている人たちには、いくら論理的に説明しても聞いてもらえないケースが多い。そして現在、そのようなトートロジーを持った人たちが政治を牛耳り、無意味どころか有害なメディア規制に走っている、というのが現状である。

 また、トートロジーは脳科学を犯し、脳科学を疑似科学として再構築するのにも役立っている。典型的なのは曲学阿世の徒・日本大学教授の森昭雄氏であろうし、また同じく曲学阿世の徒・京都大学教授の正高信男氏も擬似脳科学に陥りつつあるのであるが(詳しくは「正高信男という頽廃」参照)、彼らがいかに「科学」を偽装しようとも、結局のところは推測の積み重ねであり、脳機能の欠陥が社会性を奪う、ということは証明されていない。というよりも、現に脳に障害を抱えている人も、福祉工学の発達によって人並みの生活を送れるようになっており、脳機能の欠陥により社会性が失われる、というのは脳機能障害者に対する差別に他ならない。まあ、擬似脳科学の徒には、このようなことを考えることもないのだろうが。

 なぜ私がこのような物言いをするのか。

 それは、ついにトートロジーにより強大な権力を振りかざす人と、擬似脳科学の最悪の結婚を見てしまったからである。

 それが、「文藝春秋」平成17年8月号に掲載された、東京都知事の石原慎太郎氏と、北里大学教授の養老孟司氏による対談「子供は脳からおかしくなった」だ。

 先に言っておくが、私は養老氏の『涼しい脳味噌』『毒にも薬にもなる話』『「都市主義」の限界』などの本はよく読んできた。ただ『バカの壁』などの最近の本は何となく忌避してきた。それでも、私が定期購読している「中央公論」の文章で養老氏のエッセイを楽しんできたが、石原氏とのこの対談を読んでみた限り、養老氏は一体どうしたのだろう、と思った。以前からも、養老氏が若年層について書いている文章の内容には少々疑問を持ってきたが、この対談における養老氏の発言は私が抱いてきたその疑問の集大成であった。

 そして石原氏。私は、この3ヶ月前に発売された「文藝春秋」平成17年5月号の文章を検証したけれども(「俗流若者論ケースファイル11・石原慎太郎」を参照されたし)、この座談会における石原氏の発言は、5月号の文章から少しも改善されていない。

 前置きが長くなってしまったので、ここから、話の流れに沿って検証を行なうことにしよう。養老氏は130ページにおいて、《このところ、子供たちの描く絵の多くが「下手なマンガ」のようになっていた、中には絵が描けない子供も出てきているそうです》(石原慎太郎、養老孟司[2005]、以下、断りがないなら同様)ということを紹介しており(おそらく作家の藤原智美氏の本を読んだのだと思う。藤原氏の立論の問題点については「俗流若者論ケースファイル17・藤原智美」を参照されたし)、なぜそのような事態が生じてしまったのか、ということについて、養老氏は131ページにおいて自閉症の子供が疾走する馬を素晴らしくデッサンしていたが、いざ自閉症が治ると《今そこにある馬を感覚的に捉える、という、彼女がかつてもっていた豊かな世界がとたんに痩せてしまった》ことを紹介している。まず笑えるのは、その直後における石原氏の発言だ。曰く、

 石原 象徴的な話ですね。ということは今大方の子供たちも、感覚的な世界が痩せて、絵が描けなくなっている可能性は十分にありますね。それはやはりテレビなどの影響、ということになるのかな。

 《感覚的な世界が痩せて》いるのは石原氏のほうであろう。養老氏の提示した実例から《今大方の子供たちも、感覚的な世界が痩せて、絵が描けなくなっている可能性は十分にありますね》と言ってしまうのは飛躍というものである。石原氏は、今の子供たちをみんな自閉症の状態にしろ、とでも言ってしまうのだろうか。まさかそのようなことは言わないだろうが、冒頭で養老氏の提示した事例がどこまで広がりを持っているのか、そして過去はどうだったのか、ということについての検証が必要だと思うのだが。

 そして、やはり来たか、メディア悪影響論。《やはりテレビなどの影響、ということになるのかな》など、勝手に「犯人」を決め付けないでいただきたいものだ。ところがそれを受けたよう労使は、そのような石原氏の発言を諌めるどころか、むしろ肯定してしまうのである。あなたは本当に科学者なのか。

 曰く、

 養老 そうですね。よく最近はバーチャル・リアリティーなんていわれますが、テレビの中のことと、現実に起こることは違いますよね。ところが今の子供たちはそれが混乱してしまっているんです。たとえば子供が険しい道を歩いていて、崖から落ちそうになれば普通「危ないよ」と声をかける。でも、それがテレビの映像であれば、崖から落ちる設定になっていれば声をかけようがかけまいが子供は落ちる。だからどんなに深刻な映像であっても、感情移入することなく淡々と見ることができるようになります。それどころか、実際の現実世界もまるでテレビの中の出来事であるかのように捉え、「現実に対して自分は以下に無力か」とシラケきってしまう。そういう乖離が子供の頃から起きているんです。

 と。かつて養老氏は、同様の論理を過去の著書で述べていたが(養老孟司[2002]159ページ)、私はそれを読んだときそんなわけないだろう、と苦笑したけれども、まさか今でもそのような考えを持っているとは思わなかった。

 まず《たとえば子供が険しい道を歩いていて、崖から落ちそうになれば普通「危ないよ」と声をかける。でも、それがテレビの映像であれば、崖から落ちる設定になっていれば声をかけようがかけまいが子供は落ちる。だからどんなに深刻な映像であっても、感情移入することなく淡々と見ることができるようになります》というのはどこで聞いた話なのだろうか。それとも養老氏の捏造か?また、《どんなに深刻な映像であっても、感情移入することなく淡々と見ることができるようになります》と養老氏は述べているけれども、あなたも科学者であればそのようなことを照明するデータの提示が必要だろう。ここまで無理のあるアナロジーに依拠するなど、森昭雄・正高信男並みの疑似科学者の行為である。文学者である石原氏は、そのような養老氏の無理のあるアナロジーを諌めるべきだろうが、案の定石原氏は賛同してしまう。この2人の蜜月は、最初2ページからすさまじい。

 この2ページで最も笑えるのはこの箇所であろう。

 養老 ……宮崎駿さんが、『千と千尋の神隠し』を三十回観ました、という手紙を受け取ってぞっとした、という話があって(笑)。

 石原 確かにぞっとするなあ、それは(笑)。反復可能な映像は、反復すればするほど単純に記号化されていくわけだから。そんな情報ばかりが氾濫する社会の中で、何がリアルで何がバーチャルなのか、未熟な人間である子供が一人で識別できるはずがない。

 笑いを取りたいのだろうか。特に石原氏。同じ映画を三十回も観たと聞いて、むしろぞっとしない人のほうが少ないと思うけれども。それに、《そんな情報ばかりが氾濫する社会の中で、何がリアルで何がバーチャルなのか、未熟な人間である子供が一人で識別できるはずがない》などと、勝手に決め付けないでいただきたいものだ。

 そもそもバーチャルとリアルの境界を厳密に決めることは可能なのだろうか。少し極論すれば、リアルはバーチャルによってしか成立し得ない。なぜなら、我々の見ているものそれ自体が、バーチャルであるからだ。というのも、我々の見ているものは、所詮はリアルの一部に過ぎないわけで、それ以外の世界は「推測」によってしか成立し得ない。それに、《反復可能な映像は、反復すればするほど単純に記号化されていくわけだから》などという言葉は、まずマスコミに言うべき言葉であろう。

 石原氏が132ページで採り上げている赤枝恒雄氏の例に関しては、前回検証したのでここでは触れない。しかし、132ページにおいては、養老氏の側に問題のある発言を見つけた。

 養老 ……親子関係、母子関係なんて、ヒトの脳がこんな風に発達するはるか以前、それこそ「理解」のはるか以前から成立しているんですよ。むしろ脳が関係を邪魔しているんです。昔の人はそうした「理解」以前の「実体」への信頼感があったから、「以心伝心」といっていたし、「人間てこういうものだろう」という事の順序みたいなものが長年の知恵で頭の中に入っていましたからね。そういう知恵がもはや親子間で共有できなくなってしまったところに、ちゃんとした親子関係ができるはずもありませんよ。

 《「理解」以前の「実体」》とか、《ちゃんとした親子関係》とは、一体何を指すのだろうか。結局のところ、養老氏と石原氏は、過去では親子関係が成立していたが、現在は成立していない、という共同幻想に浸っているだけだろう。なぜ私がこのように言うのかというと、同じページで石原氏が提示していた2つの事例が、それが典型的なものなのか極端なものなのかを例示しないまま、石原氏の提示した事例を典型的な現代の事例として扱っているからである。そして、過去の家族にも問題があったか、ということについては、一切触れずじまい。

 133ページでは、成人式論の研究家として怒らねばならぬ発言が石原・養老の両氏から発せられた。

 石原 ……精神科医の斎藤環さんが……日本人を分析してみて、「日本人の本当の成人は三十歳だ」ということになったそうです。確かに成人式が荒れていて、混乱が起こるから親の同伴が必要だ、なんてことになってるわけですから。

 養老 もっと遅くて、四十代でいいんじゃないかな。僕は三十代はじめにオーストラリアに留学したんですが、そのときに向こうの二十代半ばの人間と話していてちょうどよかったんです。しみじみ感じましたね。オーストラリアでさえそうなんだから、個々人の成熟は向こうの社会の方がはるかに早い。

 石原 ということは、二十代、三十代のまだまだ未熟な親に育てられている今の子供たちがおかしくなるのも、無理のない話ですな。

 もういい加減にしてもらいたい。石原氏よ、養老氏よ、ここは酒場ではないのである。養老氏は個人の成熟は早いほうがいい、と考えているのかもしれないが、石原氏が引き合いに出している斎藤環氏は、個人の成熟と社会の成熟は反比例する、という趣旨のことを述べているから(斎藤環[2005])、個人の成熟の速さが社会の質の良さを示すのか、といえばまんざらでもないのである。

 しかし、養老氏よりも問題があるのは石原氏だ。石原氏、ここ数年で加速度的にひどくなった成人式報道をそのまま真に受けているのだから救いようがない。何がひどくなったかというと、マスコミはみんな俗流若者論、若年層バッシングのために成人式を「政治利用」するようになった。私は平成17年仙台市成人式実行委員会で吹く実行委員長をしていたからわかるのであるが、我々の苦労、及び他の自治体における裏方の苦労はほとんど報道されない(かろうじてNHKで岩手県水沢市のが報道されたくらいだろう)。しかもマスコミが大好きな「荒れる成人式」がそのまま我が国の20歳の人たちが成熟していない証左として取り上げる、ということに関してはもはや莫迦莫迦しくて検証する気もないのだけれども、ただ一つだけいえることは、一部で怒っている単なる莫迦騒ぎをさも国家的・社会的な大事のように捉えるマスコミも、「今時の若者」という虚像に脅えて成人式を家族同伴にするという大愚作をしでかしてしまう自治体も、結局のところ単なる事なかれ主義者、ということだ。

 133ページから134ページにおける石原氏の発言。

 石原 ティーンエイジャーの娘をもつ親たちは、子供に携帯電話をもたせていると、たとえ子供が菅家で援助交際なんかをしていても、親子の心が通っている、つながっていると思い込もうとする。実際は互いにケータイを操作してなれ合っているだけでしょう。そんな関係、昔はありえなかった。つまり親子の関係での本質が欠落してしまっている。

 これもまた石原氏の思い込みに過ぎない。《そんな関係、昔はありえなかった》など、当たり前ではないか、昔は携帯電話など存在しなかったのだから。けれども、携帯電話の普及について、アプローチとして自然なのは、まず昔からある一定の感情があり、それが携帯電話にマッチしたから広まったとかそのようなところから入ることだと思うのだが、石原氏は最初から「昔の親子は正常で、現代の親子は異常だ」という幻想に浸っているから、現代の親子を罵ることしかできなくなってしまっているのだろう。

 さて、134ページから135ページであるが、ここで擬似脳化学が出てくる。といっても、マスコミが大好きな「キレる子供」は前頭葉が異常である、というもう聞き飽きたものなのだけれども。しかも前頭葉の以上は戦後教育が原因だ、といってしまう始末。まあ、この2人の蜜月からこのような暴論が生まれるのは、十分に想定しうるものなのだけれども。ここもあまりにも莫迦莫迦しいのでもう検証しない。そして135ページ下段において、また出てきた、脳幹が。まあ、この人にとって脳幹は国家(=石原氏の幻想としての「国家」)のメタファーなのだから仕方ないのだけれども。

 また、石原氏は、137ページでまた問題の大きい発言を行なっている。

 石原 ……最近の集団自殺というのは、インターネットなどで知り合った同士が集まって、互いに名乗りもせずに、ただ黙々と死んでいく。その間にセックスがあるわけでもない。一人で死ぬより数人で死んだほうが寂しくないということなのか。彼らは人とのつながり方において、大きな問題を抱えている。つまり、インポテンツだった、と考えるしかないのかもしれない。

 まったく、石原氏にとっては、現代の青少年は本質(=石原氏の幻想としての「本質」)が欠落した存在、「本質」を持ったものにより統制されるべき存在、としてしか捉えられていないのだから、このような暴言を吐けるのだろう。まず、我が国において、青少年の自殺よりもむしろ中高年の自殺のほうが多い。また、石原氏はインターネットによる集団自殺を、単に青少年の精神の問題として考えているけれども、実際には死にたい想いを抱えていても死に切れない人も多くいる。さらに、これは斎藤環氏の指摘なのだけれども、このような事態は韓国やアメリカでも起こっている(斎藤環[2005])。

 問題があるのは養老氏も同様だ。養老氏は、138ページにおいてこのように発言している。養老氏の発言だ、というキャプションがなければ正高信男の発言と見間違うところだった。

 養老 ……そこで、携帯電話依存の問題です。ケータイならば、ミラーニューロンが働きにくい。相手の視覚的な印象はないんですから。メールでのやり取りなら音声もないわけで、言葉以外の情報を一切シャットアウトできる。これは弱い自我を守るための貴重な方法なのではないか。だから若者が、面と向かって話をするよりケータイでコミュニケーションする方が、ずっと居心地がいい、というのも分かるような気がするんです。

 そんなに《ミラーニューロン》は重要なのだろうか。いや、少なくとも脳構造の解明にとっては重要なのは間違いないのだろうが、だからといってメールはミラーニューロンを働かせない、とか、だから弱い自我を守るだけの貴重な方法だとか、この論理には飛躍が多い。

 ついでにミラーニューロンの(本当の)意味について解説する。この対談では当てにならないので、薬学博士の池谷裕二氏の説明を引用すると、《自分であろうと、他人であろうと関係なく、ある〈しぐさ〉に対して反応する神経》だとか、《「2」という数字に反応する神経が見つかった。つまり、リンゴが2個ある、サルが2匹いる、何でもいい。とにかく「2」というものが目の前にあったときに反応する神経》(共に、池谷裕二[2004])と説明されている。とはいっても、池谷氏も言うとおり、これはサルでその存在が確認されたことだし、ミラーニューロンに関しても脳科学はまだ断片的なことしか分かっていないので、ましてやメールはミラーニューロンを発達させないだとか、ミラーニューロンを使わないから若年層にとっては快感になるとか言ってしまうのは言語道断というものだろう。

 もう一つ養老氏に関して言うけれども、養老氏は同じページにおいて《今の若い子はその「自分」がもともとあることに確信がもてないんでしょうね、だから不安になって「自分探し」をしているんです。フリーター、ニートなどといって》といっているけれども、若年層がフリーターや若年無業者になる背景には、経済構造的なところも大きいのではないか。例えば経済学者の玄田有史氏が長い間指摘していることなのだけれども、我が国では中高年雇用の既得権が強まっており、それにより若年者雇用が開拓されない、という事態が起こっている(玄田有史[2001])。さらに玄田氏は最近になって、若年無業者の問題にも経済格差が影響している、という発表をしている(平成17年4月中ごろの日経新聞の記事だったが、あいにくその記事を紛失してしまった)。雇用構造の変化ということで言うと、企業が自分に都合のいい若年労働力しか採用しなくなっている、という現状もある。安易な精神論は、現実の社会構造の問題を隠蔽する方向にしか働かない。

 最終的には、まあ完全に予想の範疇であるが、《身体的な体験をさせるしかない》(石原氏、140ページ)という方向に進んでしまう。ここから先はもう退屈なのでいちいち検証はしないけれども、気になった箇所について2点。まず、141ページにおいて、石原氏は

 石原 昨年末、小中学生を対象とした調査で、死んだ人が生き返ることがあると考える子供が五人に一人いる、という統計が発表されましたが、若い人たちにとって「死」はもはやリアリティを感じるものではないのかもしれない。

 この統計は長崎県教委のもので間違いないだろう。たくさんのところで引かれているのでうんざりする。この統計にはかなりの問題点が含まれており、その議論は「統計学の常識、やってTRY!第2回」に譲るけれども、このような調査において他の世代との比較がないのはどういうわけなのだろうか。結局のところ、このようなアンケートは、若年層を貶めることにしか使われない。そのような問題意識の低いアンケートを引用していい気になっている石原氏は、いい加減目を覚ましていただきたいものだ。

 また、142ページにおいて、石原・養老の両氏が戸塚ヨットスクールについて賛同しているのにも驚いた。まあ、石原氏が後援会の会長だということは前から分かっていたのだが、養老氏も賛同していたのには少々驚きを禁じえなかった。

 ここで検証は終わるのだけれども、私は石原・養老の両氏に問い詰めたい。

 なぜ、このように、問題の多い発言をして恬然としているのだろうか。

 はっきり言っておくけれども、この対談は、単なる「居酒屋の愚痴」異常の何物でもない。また、このような対談を平然と載せている「文藝春秋」の編集部も厳しくその責任を問われるべきだろう。

 それにしても、前回の「仮想と虚妄の時代」と同様に石原氏の暴言が炸裂している対談であった。所詮石原氏にとって青少年問題とは、国家の恥として吐き捨てるべきものでしかないのだけれども、石原氏が青少年に対してあまりにも軽い、また残酷な態度で望んでいるばかりに、安易な規制論や疑似科学に依拠して青少年を現代社会の鬼胎として語り、彼らを嘲りその「対策」こそが至上命題だとすることによって、結局は「今時の若者」に対する敵愾心の共同体を作り上げていく。

 俗流若者論は「今時の若者」に対する敵愾心の共同体を作り上げていくのに余念がない。そして彼らは、たとい言いたい放題言っているとしても、敵愾心の共同体の中で言っているのだから、外部からの検証には至極弱いだろう。それでも、俗流若者論は着々と支持を得ており、それらが作る敵愾心の共同体に入っていく人たちは後を絶たない。

 しかし、考えていただきたい。昨今推し進められている国家主義的な動き、例えば憲法や教育基本法の改正は、それらのルーツをたどっていけば俗流若者論を源流とする。そのような挙動に隠された危険な動きを、彼らは俗流若者論でもって甘い匂いをつけ、従わせようとする。しかし、我々に求められているのは、そのような俗流若者論の歪んだ欲望を見通すことであり、俗流若者論によって突き動かされる政治というものが、いかに異常なものであるかを見極めることだ。

 俗流若者論に突き動かされて、「本質」の再建こそが必要だ、と叫ぶ石原氏に、政治家としての資格があるのだろうか。マックス・ヴェーバーも言っているではないか、《政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である。もしこの世の中で不可能事を目指して粘り強くアタックしないようでは、およそ可能なことの達成も覚束ないというのは、まったく正しく、あらゆる歴史上の経験がこれを証明している》(マックス・ヴェーバー[1980])と。そして石原氏のみならず、神奈川県知事の松沢成文氏なども、問題を正面から受け止めることをせずに、俺が有害だと言っているから有害だ、というトートロジーに陥ったり、「今時の若者」を過剰に敵視したポピュリズムに陥ったりしているが、それでも彼らを政治家として信頼に足る人物である、と評価したいのであれば、もう私は勝手にしろ、と言うほかない。

 しかし、それでも、より多くの人が俗流若者論に牛耳られる政治の危険さを知って欲しいと、私は祈り続ける。

 参考文献・資料
 池谷裕二[2004]
 池谷裕二『進化しすぎた脳』朝日出版社、2004年10月
 石原慎太郎、養老孟司[2005]
 石原慎太郎、養老孟司「子供は脳からおかしくなった」=「文藝春秋」2005年8月号、文藝春秋
 マックス・ヴェーバー[1980]
 マックス・ヴェーバー、脇圭平:訳『職業としての政治』岩波文庫、1980年3月
 玄田有史[2001]
 玄田有史『仕事のなかの曖昧な不安』中央公論新社、2001年10月
 斎藤環[2005]
 斎藤環『「負けた」教の信者たち』中公新書ラクレ、2005年4月
 養老孟司[2002]
 養老孟司『異見あり』文春文庫、2002年6月

 マックス・ヴェーバー、大塚久雄:訳『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波文庫、1989年1月
 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 姜尚中『ナショナリズム』岩波書店、2001年10月
 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 ロナルド・ドーア、石塚雅彦:訳『働くということ』中公新書、2005年4月
 中西新太郎『若者たちに何が起こっているのか』花伝社、2004年7月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月
 二神能基『希望のニート』東洋経済新報社、2005年6月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 山本七平『日本はなぜ敗れるのか』角川Oneテーマ21、2004年3月
 ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』岩波文庫、上下巻、1987年2月

 大和久将志「欲望する脳 心を創りだす」=「AERA」2003年1月13日号、朝日新聞社
 齋藤純一「都市空間の再編と公共性」=植田和弘、神野直彦、西村幸夫、間宮陽介(編)『(岩波講座・都市の再生を考える・1)都市とは何か』2004年3月、岩波書店
 瀬川茂子「東京都発「正しい性教育」」=「AERA」2004年10月25日号、朝日新聞社
 内藤朝雄「お前もニートだ」=「図書新聞」2005年3月18日号、図書新聞
 藤生明「サプライズ辞任の可能性」=「AERA」2005年6月20日号、朝日新聞社

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2005年7月 7日 (木)

俗流若者論ケースファイル33・香山リカ

 昨今のCDの売り上げにおいて、アニメのキャラクターの名義で出されるCD(キャラクターソング)の売上がすさまじい。平成14年ごろからアニメ「テニスの王子様」のキャラクターCDがオリコンで高い順位を記録するようになり、さらに平成16年から発売が始まり、現在のアニメ放送につながる「魔法先生ネギま!」は、所期の2枚を除いて(それでも初登場15位以上であったが)全てが初登場10位以上にランクインするようになっている。

 かく言う筆者も、この論文を書いた前日(平成17年7月6日)に、能登麻美子、相沢舞、皆川純子、井ノ上ナオミ、猪口有佳の各氏が歌う「魔法先生ネギま!」の平成17年6月分のオープニングテーマ「ハッピー☆マテリアル」を購入している。この論文の執筆時点ではオリコンの週間順位はわからないが、高い順位をマークするのはほとんど間違いないと思われる。これ以外にも、最近ではアニメ・声優関係の楽曲の売上が上昇している。私はアニメは見ないけれどもアニメ・声優関係の楽曲はよく購入している。

 このような新しいカルチュアのムーヴメントの一つになっているのが「萌え」である。一般に認知されている限り、「萌え」とはアニメや漫画のキャラクターに愛情を持つことであるといわれている。ポイントは「萌え」がアニメや漫画のキャラクターを志向している、ということだ。一般の人から見ればこのような行為は「妄想に欲情する気持ち悪いオタクの行為」と認知されるかもしれないが、個人的にそれを嫌うのは勝手だけれども、それに対して誤解と曲解を重ねて、猟奇犯罪と結びつけて過剰に危険視するのは許されざる行為であり、排他的ナショナリズムの発露にしかならないだろう。

 私がこのように前置きしたのも、この論文が前回の「俗流若者論ケースファイル32・二階堂祥生&福島章&野田正彰」の続編であり、前回に引き続いて今年5月に起こった少女監禁事件にかこつけた俗流若者論を検証するものだからである。

 多くの人の期待(?)を裏切って申し訳ないが、あまりにもひどい俗流若者論なので、「ブルータスよお前もか!」といわなければならない。というのも、今回検証するのが、精神科医であり、オタク・カルチュアにある程度の理解を示していると見られてきた香山リカ氏の文章だからである。香山氏は、硬派なメディア批評で有名な月刊誌「創」の平成17年7月号において、香山氏の連載「「こころの時代」解体新書」で「監禁事件と「萌え」文化」としてこの事件を採り上げているからだ。一読して、香山氏はいったいどうしてしまったのか、と不安になった。

 冒頭で述べたとおり、我が国のカルチュア・ステージにおいて「萌え」が一つの大きなムーヴメントになっている。香山氏は冒頭において平成17年4月23日付毎日小学生新聞における「萌え」の説明を引用しつつ、このように批判している。曰く、

 ここで「萌え」は、全面的に“よいもの”“もうかるもの”として扱われており、“危険なもの”“警戒が必要なもの”といった視点はまったくない。また、「萌え」の中核は「愛情」とされており、そこに「性的な欲望」がからんでいるかどうかについては、触れられていない。(香山リカ[2005]、以下、断りがないなら同様)

 と。もちろん、香山氏が一般論として、物事を認識する際には《“危険なもの”“警戒が必要なもの”といった視点》もまた必要である、と言っているのであれば私は大いに共感を示す。しかし、本文を読んでみる限り、香山氏はどうも一般論としてこのような物言いをしているわけではないようだ。

 なぜか。

 ここで少女監禁事件の登場である。香山氏はこの文章の中で、一連の少女監禁事件事件と「萌え」を強引に結び付けようとしている、というのがこの答えだ。香山氏は犯人・小林泰剛の特徴を述べた上で、79ページ2段目においてこのように述べている。曰く、

 小林容疑者が、小学生新聞の「アニメ、マンガ、ゲームの登場人物に愛情を覚える」という定義によるところの「萌え」の要素を濃く持っていたことは、間違いないだろう。

 と。確かにそうかもしれないけれども、精神科医の斎藤環氏や(太田啓之、太田サトル[2001])ライターの本田透氏(本田透[2005])が言っている通り、「萌え」とはあくまでも虚構=アニメやゲームや漫画の中で完結できる性的志向であり、実際に少女監禁とか強姦とかを起こしてしまったら、もうその時点で「萌え」ではなくなる。であるから、たとい小林がアニメやゲームなどに欲情していても、実際に現実の女性に犯罪をしでかしてしまったら、小林は「萌え」という感情を本質的に持っていないということになり、また「萌え」が犯罪に結びつくと断言することはできない。

 香山氏は79ページ末尾において《「女性を自分の思うがままにしたい」「女性を性的に開発したい」という男性の欲望そのものが異常というわけでは》ない、と前置きをし、さらにこの事件の報道において集中的に採り上げられている「調教ゲーム」に関しても80ページ1段目から2段目にかけて《「現実はこの正反対なのだ」とよく知っているからこそ、ゲームでファンタジーを満たしている》と書いている。しかし、香山氏が、それでも「萌え」が犯罪につながる、と強弁する所以とは何か。

 それはインターネットである。香山氏は80ページ2段目から3段目にかけて、インターネットのチャットにおいては《百にひとつ、千にひとつの確率でもファンタジーが現実になるチャンスがある》として、《男性が調教ゲームで抱いた歪んだ女性観は、「ネットだから」と気軽に相手の期待にこたえる女性たちによってかえってより強化されてしまうこともある》と、チャットによる性犯罪の危険性を書いている。しかしこのようなアナロジーには問題が多い。そもそも《調教ゲーム》が女性観をゆがめるものであるのか、ゆがめるものであるとしたらどれほどか、ということについての検証が必要であるし、小林の事件がこのような仮定で起こった典型的なものである、と証明するに足る証拠が必要であるだろう。

 しかし、香山氏の偏見はむしろ81ページにおいて噴出する。まず香山氏は81ページの冒頭、1段目において、このように述べる。

 よく考えれば、モニター上で調教ゲームをやり続け、その同じモニター上でゲームと同じノリで実際の女性とチャットをしている人が、いつの間にか「やっぱり現実の女性もゲームのキャラと同じなんだ」と思い込んだとしても、それほど不思議はないような気がする。

 と。相当に無理のあるアナロジーの後に《それほど不思議はないような気がする》などと憶測し、それだけであるひとつのもののついて敵愾心を煽るのは俗流若者論の常套手段である。そして香山氏は、81ページの1段目終わりから最後にかけて、相当にひどいことを言い出してしまう。全文を引用しよう。

 では、どうすればいいのか。いつものようにアダルトゲーム規制の話も出ているが、ネットや携帯電話がこれほど普及し、誰もが“なりすまし”で見知らぬ相手とコミュニケーションすることが可能になった今、ゲームやコミックの一部を規制してみても問題は解決しないだろう。「インタラクティブ性の高いシミュレーションゲームはすべて禁止」「チャットはすべて実名で」くらいの徹底的な措置をとれば、もしかしたら少しは効果があるかもしれないが、小学生新聞にもあるように「萌え」はいまや巨大市場となっていること、「稼ぐが勝ち」という市場原理主義がここまで浸透していることを考えると、そんな思い切った措置を提案できる人がいるとはとても思えない。

 これからもおそらく、「萌え」は日本を代表する産業として、文化として発展の一途をたどり、そして時おり今回のような犯罪や事件が起き、世間は「とは言っても、これからのにほんは『萌え』に頼るしかないわけだし……」と事態を静観しつつ、記憶が薄れるのを待つしかないのだろう。

 しかし、せめて「『萌え』は侘び・寂びに並ぶ日本特有の美意識」「『萌え』こそ今後の日本の主力産業」とその興隆を肯定、礼賛する人たちは、実はほとんどの「萌え」を支えているのは性的な欲望であり、そうであるからには明るく清潔なことばかりは期待できない、ということをきちんと自覚しておくことが必要だ。「小学生にも安全な『萌え』」などといったイメージは、「お金だけもうけたいがリスクは背負いたくない」というおとなの無責任きわまりない発想に基づいていると思う。犯罪や事件覚悟で「萌え」を推進するか、さもなくば大損承知で全面規制するか、とるべき道はふたつにひとつしかない。

 事実誤認、情報操作、恫喝。問題を列挙すれば切りがない。無数の問題点の中から得の重要と思われる部分を抜き出して検証することにしよう。

 まず、《「インタラクティブ性の高いシミュレーションゲームはすべて禁止」「チャットはすべて実名で」くらいの徹底的な措置をとれば、もしかしたら少しは効果があるかもしれないが》という部分。例えばインターネット上の相談に代表されるとおり、匿名であるからこそ言うことができるものもあり、インターネット上のコミュニケーションでさえも全て実名でやらなければならないとしたら、かえって「世間」の息苦しさがインターネット上に持ち越される、という結果にしかならないだろう。また、香山氏が《「インタラクティブ性の高いシミュレーションゲームはすべて禁止」「チャットはすべて実名で」》と主張しているのであれば(香山氏はこれ以外の案を示していないので、香山氏はそう主張したいと判断せざるを得ない)、それによるリスクも勘案しなければならないはずだし、リスク教育も考えなければならない。そもそもこのようなことが実を結ぶためには、北朝鮮並みの情報統制ができないと、可能性として限りなく0に近い(ちなみに「後藤和智」は実名である。あしからず)。

 また、香山氏は《「稼ぐが勝ち」という市場原理主義がここまで浸透していることを考えると》と述べている。香山氏がこのように述べている根拠は、同名の著書があるライブドア社長の堀江貴文氏が絶大な人気を持っていることなのかもしれないが(ついでに私は堀江氏があまり好きではない。あしからず)、多くの人は堀江氏を時代を変えてくれる風雲児として、いわば「キャラ」としてみているのではないか、というのが私の印象であり、どうも堀江氏の経営哲学(あるのかどうかもわからないが)そのものに対する人気はあまり見られない。要するに、堀江氏の考え方全体に賛同している人はあまり多くないのではないか。
 もう一つ、香山氏は《そして時おり今回のような犯罪や事件が起き》と書いているが、香山氏はこの事件が明らかに「萌え」が引き起こしたものとしてとらえているようだ。しかし、香山氏は、多くの「萌え」の感情を持つ人たちがなぜ犯罪を起こさないのか、ということに対する考察を欠いてはいまいか。

 そして最後に――。香山氏は、この文章の中で、明らかに「「萌え」を推進して経済的に発展しつつ犯罪も増加する道を選ぶか、それとも「萌え」を全面規制して犯罪も経済発展も抑制するか」という二項対立を煽っている。香山氏にとっては、「萌え」とは経済ナショナリズム、文化ナショナリズムのためのものと認知されているのだろうか。しかし、「萌え」による経済ナショナリズム及び文化ナショナリズム(そのようなものが生じるかどうかもわからないけれども)の大綱として香山氏が提示している全面規制もまた、ナショナリズムなのだ。簡単に言えば「現実」という名の。もっと具体的に言うと、「現実こそが至上であり、アニメやゲームの美少女に欲情する「萌え」は退廃的なものだ」というイデオロギーである。香山氏は明らかにこの「現実」ナショナリズムの隘路に嵌っており、そこらの俗流経済学者が提示しそうな「経済か、安全か」という二項対立は、所詮は「現実」ナショナリズムによる狼藉でしかない。そもそも《とるべき道はふたつにひとつしかない》などと、勝手に選択肢を狭めないで頂きたい。

 そもそも香山氏のみならず規制論者(この文章を読む限り、香山氏は「隠れ規制論者」と見なせるかもしれない)に共通していることだが、この手の人たちは「ゲームが犯罪を起こした。たといゲームをやって犯罪を犯す確率が極めて少ないとしても、現実に起こってしまったのだから規制するしかない」という人たちは、なぜ他のファクターに関しても同様のことを言わないのだろうか。彼らは、明らかに「ゲーム」なら何を言っても許される、と思っている。「ゲームの登場人物にも人権を認めよ」という似非人権論者を批判する人にも、このように「ゲームの犯罪性」という虚構を振りかざす人たちが多い。彼らこそ、(彼らの常套句を引けば)「現実と虚構の区別がつかない」人たちではないか。

 彼らは、「ゲームという虚構が我々の生きる現実を犯す」という「物語」を共通して持っている。しかし、そのような「物語」に仮託して自らの優位性を正当付ける論理は、ナショナリズムとしてしか析出しないし、現実に「現実」ナショナリズムが(こういう言い方も少々変だけれども)青少年を苦しめる規制を生み出している。それを象徴するのが、神奈川県であろう。

 「現実」ナショナリズムの横行が、やがては青少年を苦しめる。我が国で現在怪物の如く横行しているナショナリズムは、多分に俗流若者論を含んでいる。要するに「今時の若者」に対する敵愾心の共同体としてのナショナリズムである。これが現在、メディア規制や秋葉原の再開発として表れているのである。インターネットにも、ゲームにも逃避できなくなる社会が登場したら、我々はどこに逃避すればいいのだろう?これが、ここ数年横行しているオタクバッシングから私が得た疑問である。これは多くの人に考えて欲しい問題だ。

 参考文献・資料
 太田啓之、太田サトル[2001]
 太田啓之、太田サトル「「オタクの風上にも置けない」」=「AERA」2001年9月3日号、朝日新聞社
 香山リカ[2005]
 香山リカ「監禁事件と「萌え」文化」=「創」2005年7月号、創出版社
 本田透[2005]
 本田透『電波男』三才ブックス、2005年3月

 東浩紀『動物化するポストモダン』講談社現代新書、2001年10月
 五十嵐太郎『過防備都市』中公新書ラクレ、2004年7月
 マックス・ヴェーバー、脇圭平:訳『職業としての政治』1980年3月
 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 姜尚中『ナショナリズム』岩波書店、2001年10月
 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 斎藤環『「負けた」教の信者たち』中公新書ラクレ、2005年4月
 長岡義幸『「わいせつコミック」裁判』道出版、2004年1月
 原克『悪魔の発明と大衆操作』集英社新書、2003年6月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月
 森川嘉一郎『趣都の誕生』幻冬社、2003年2月
 山本七平『日本はなぜ敗れるのか』角川Oneテーマ21、2004年3月
 ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』岩波文庫、上下巻、1987年2月
 ジュディス・レヴァイン、藤田真利子:訳『青少年に有害!』河出書房新社、2004年6月

 石田衣良、森川嘉一郎「秋葉原は「萌え」ているか」=「Voice」2005年4月号、PHP研究所
 石田英敬「「象徴的貧困」の時代」=「世界」2004年6月号、岩波書店
 大沢千秋「アホっぽい超になってると指摘されて、「あっ、しまった」って(笑)」=「hm3 SPECIAL」2005年7月号、音楽専科社
 河村成浩「「残虐」とゲームが有害図書に 神奈川県、条例で指定」=「MANTANBROAD」2005年6月号、毎日新聞社
 小林ゆう「今度は木乃香お嬢さまとデュエットをしてみたいです(照)」=「hm3 SPECIAL」2005年6月号、音楽専科社
 齋藤純一「都市空間の再編と公共性」=植田和弘、神野直彦、西村幸夫、間宮陽介(編)『(岩波講座・都市の再生を考える・1)都市とは何か』
 斎藤環「診断名は「社交的ひきこもり」」=「文藝春秋」2005年5月号、文藝春秋
 渋谷望「万国のミドルクラス諸君、団結せよ!?」=「現代思想」2005年1月号、青土社
 志村由美、門脇舞「2-Aのメンバーとは長い間一緒にやってきたのでもうどんな組み合わせでもすんなりやれます(笑)」=「hm3 SPECIAL」2005年8月号、音楽専科社
 杉田敦「「彼ら」とは違う「私たち」――統一地方選の民意を考える」=「世界」2003年6月号、岩波書店
 内藤朝雄「お前もニートだ」=「図書新聞」2005年3月18日号、図書新聞
 福井洋平「アキハバラ萌えるバザール」=「AERA」2004年12月13日号、朝日新聞社
 福井洋平「オタク狩り?警察の狙い」=「AERA」2005年3月7日号、朝日新聞社
 渡辺明乃「主題歌では茶々丸っぽくするならむしろ音を消して録ってくださいって(笑)」=「hm3 SPECIAL」2005年5月号、音楽専科社

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2005年7月 6日 (水)

俗流若者論ケースファイル32・二階堂祥生&福島章&野田正彰

 いまだにはびこる「ゲーム脳」信者とか、「AERA」の俗流若者論とか、採り上げたいネタは山ほどあるのだが、連載第32回と33回は緊急特集として今年5月に起こった少女監禁事件にかこつけた俗流若者論の検証を行なう。第33回はサプライズを予定しているのでお楽しみに。

 さて、ジャーナリストの大谷昭宏氏の「フィギュア萌え族」なるプロファイリング騒動から幾多の昼夜が過ぎ、またも少女が被害者となる残忍な事件が起こってしまった。しかし、この事件に関するマスコミ報道もまた残忍であった。しかも今回は、昨年の奈良県女子児童誘拐殺人事件における犯人・小林薫(当時36歳)とは違い、犯人・小林泰剛が若年層(当時24歳)であったことと、警察の欧州物件としてパソコンのゲームなどが押収されたことから、俗流若者論とオタクバッシングが相乗効果でオーバーラップした報道・論評が相次いだ。この状況を見てほくそえんでいるのは松沢成文氏とか野田聖子氏とかいった規制論者だけだろう。

 今回は、読売新聞社の週刊誌「Yomiuri Weekly」において、同誌記者の二階堂祥生氏が書いた記事「未熟男たちの「歪んだ欲望」」(平成17年6月5日号掲載)を検証する。何せこの記事の書き始めが、事件のことではなく、《事件が起こる2か月前、発売されたばかりのアダルトゲームが、ゲームマニアの間で話題を呼んでいた》(二階堂祥生[2005]、以下、断りがないなら同様)と、事件を引き起こした「と思われる」アダルトゲームの話題から始まっているのだから。事件のことを後回しにして、いきなりこのように書き始めるのだから、二階堂氏が事件とゲームを結び付けようとしているのは明らかであろう。

 ここではっきり言っておくけれども、秋葉原などでは多くの人がアダルトゲームを買っているだろうに、なぜそれらの人が性犯罪を「起こさないか」ということを検証する人がマスコミに一人もいないのはどういうわけなのだろうか。小林(以下、単に「小林」と表記した場合は、5月の事件の小林泰剛を表すこととする)の起こした事件は、特異的な事件なのか、それとも典型的な事件なのか、検証が必要になるだろう。それなのに、二階堂氏をはじめとする多くのマスコミは、さもゲームがなかったら犯罪を起こさなかったかのように印象操作・捏造報道・報道加害を繰り返し、ゲーム、及び若年層に敵愾心を煽ることばかりするのであろうか。このようなあおり方は、オタクどころか若年層全体に対する理解を遮断し、彼らを社会的な「異物」と見なして、ただ単に排除すべき対象としてしかみなさなくなるということしか生み出さないのではないか、というより、既にそのような状況に陥りつつある。何も、ライターの本田透氏の如く「萌え」は世界を救う!と主張するつもりはないけれども(本田氏の主張が知りたいならば本田透[2005]を参照されたし)、それでもマスコミの煽り方は以上であり、緻密な検証を怠った短絡的なやり方、といわざるを得ない。

 話を二階堂氏の記事に戻そう。二階堂氏は、22ページ4段目においてこのような誤報を行なう。曰く、

 警視庁捜査1課は札幌市内の小林容疑者の自宅から、アダルトゲームソフトのCD-ROM100点以上、セーラー服などの衣装、アダルト系少女漫画などを押収している。……

 この《アダルトゲームソフトのCD-ROM1000点以上》というのは誤報で、実際には「アダルトゲームを含むゲームソフトのCD-ROM1000点以上」と書かなければならないはずなのだが、二階堂氏はこの周辺に起こった小林の事件にかこつけたゲーム・若年層敵視報道を真に受けてこのように書いてしまったのだろう。しかし、二階堂氏の記事の問題の本質は、ここにあるのではない。それよりも23ページに問題のある文章が続く。

 まず23ページ中段。これは二階堂氏の偏見なのだろうか。

 恋愛という人間関係。その基本的な対人関係を築く能力が壊れた男たちが少なからずいる。こうしたコミュニケーション不全の遠因を、育った家庭環境にみる向きもある。30歳代を中心とした男性の母親は微妙な世代だ。戦後の男女平等教育を受けたが、女性進出を阻む社会構造がまだ色濃く残る時代に生きた。多くは専業主婦として、その関心は子供へ向かった。教育ママに走ったり、息子を溺愛する傾向も他の世代に比べて多いとされる。

 もちろん二階堂氏が小林の世代にこのような影響が見られる傾向についてその証左として出しているのは、小林自身の生い立ちだけで、それ以外の具体的なデータや学説の引用がない。故に《その基本的な対人関係を築く能力が壊れた男たちが少なからずいる》と二階堂氏が書いているのは、単に若年層に対する二階堂氏の蔑視的な意識の表れであろう。

 そして二階堂氏はこの記事において、上智大学名誉教授の福島章氏と関西学院大学教授の野田正彰氏のコメントを引いているけれども、福島氏も、野田氏も、共に問題の多い発言をしている。

 まずは福島氏から。

 上智大学の福島章名誉教授(犯罪心理学)は1979年から11年間、東京と神奈川の公立中学校の生徒計900を対象に心理調査を行ったことがある。
 調査では、心の発達のゆがみを示唆する絵を描く生徒の割合は、調査開始当初は1~2%だったのが、調査を終えるころには5%に上がっていた。
 「その後、インターネットやテレビゲームといったバーチャルな世界がますます広がった。社会的な関係がより希薄になる社会で育ったせいで、ごく普通の恋愛ができない若者が増えている」

 と福島教授は言う。

 「小林容疑者の場合、極端に甘やかされて、人間として未熟なまま大人になり、きちんとした人間関係を気付けなくなったのが本質的な原因。母親の死で自分の言うことを聞いてくれる人間がいなくなり、母の代わりを探すなかで、調教ものゲームに出会ったのでは(筆者注:二階堂氏の記事ではこの部分は《出合ったのでは》になっているが、語句の意味からして誤植であろう)」

 まず、《心の発達のゆがみを示唆する絵》というのがポイントである。《示唆する》ということは、少なくともそこから心の歪みが「ある」と断定することができないのではないか。また、絵画による診断が診断者の主観が入るものであるということに関しても疑ってみるべきだし、そもそもそれがある程度規格化された方法によって行なわれたのか、ということも突っ込むべきだろう。もう一つ、福島氏は、この調査を行った生徒に関して現在も追跡調査をやっているのだろうか。

 また、福島氏のこの調査は、二階堂氏も書いている通り《1979年から11年間》行なわれたものなのだから、単純に1991年以降のデータはないはずである。それなのに福島氏は、《その後、インターネットやテレビゲームといったバーチャルな世界がますます広がった。社会的な関係がより希薄になる社会で育ったせいで、ごく普通の恋愛ができない若者が増えている》などといって、若年層の社会性の衰退とか心の歪みが広まっている、と無根拠に断定してしまう。いつから我が国の犯罪心理学者は、印象論だけで現代の若年層に対する敵愾心を煽ることができるようになったのか。また、これは二階堂氏にも言えることなのだけれども、《ごく普通の恋愛ができない若者が増えている》とは何を根拠にして言っているのかも疑問であるし、そもそも《ごく普通の恋愛》とは何を指しているのか。

 福島氏の発言の後半部分は、半分は事実を言い当てていると思えるのだが、やはり《極端に甘やかされて、人間として未熟なまま大人に》なった人たちの大半が事件を「起こさないのか」ということに対する認識がないのは無視できない。

 続いて野田正彰氏。

 関西学院大学の野田正彰教授(精神病理学)は、こう付け加える。
 「彼らの世代は、母親や社会からテストでいい点を取ることを要求され、多様な価値観があることを十分に理解できないまま大人になった。そうした場合、落ちこぼれたと感じた人は、鬱積した思いのはけ口を自分より力の弱い人間に向けてしまう傾向にある」

 このように、一つの衝撃的な事件と若年層全体を結びつけるようなお手軽なコメントを見るたびに、病理学者とは気楽な稼業ときたもんだ、と思ってしまう。私も建築学から足を洗って病理学に転向しようか。これは冗談であるが、野田氏のコンテクストに従って二階堂氏の記事を分析してみると、「二階堂氏の如きマスコミ人は、上層部や社会から衝撃的な記事を書くことを要求され、《多様な価値観があることを十分に理解できないまま》記者となった。そうした場合、《落ちこぼれたと感じた人は、鬱積した思いのはけ口を自分より弱い人間に向けてしまう傾向にある》」ということになろうか。

 野田氏もまた、《彼らの世代》がいかに犯罪を「起こさないか」ということに対する視点が欠落している。二階堂氏によれば、略取誘拐事件で検挙された男158人のうち30歳代が52人、20歳代が41人と多かったのだが、30歳代あるいは20歳代全員から見ればこの数はごく少数に過ぎない。また、野田氏は、過去との比較もないままにこのように語ってしまっているのだから、やはり病理学者とは気楽な稼業ときたもんだ。このような事件にコメントする精神科医や社会学者は、過去との比較も行わなければならないとも思うのだが、そのような態度を持っている学者は我が国では少ない、というより多いのだけれどもマスコミでは重宝されないという悪しき傾向がある。しかし、過去との比較を行なわないお気軽な精神病理学的コメントは、単なる俗流若者論の中の「茶番」ととらえるのがよろしかろう。

 ちなみに野田氏が知っているかどうかはわからないが、《母親や社会からテストでいい点を取ることを要求され》ることに対する悪影響は、むしろ「ひきこもり」の青少年や若年無業者に傾向として表れている(川戸和史[2002]、斎藤環[2003]、二神能基[2005])。しかし、このような影響は、むしろ「自立しなければならない、それなのに自分は自立していない」という過剰な自責から自分が今ある状況から脱却できない、という方向に働いている。これは若年層自身というよりも社会が「ひきこもり」や若年無業者であること=「世間」の認めない行動をとることを断固として認めない状況からきていると言ったほうが適切だろう。オタクバッシングも含めて、社会(というよりも「世間」)の狭隘さを論じずに若年層の精神状態を語らないほうがいい。

 残念ながらこの記事は、若年層に対する敵愾心を煽るために書かれた記事、と言うほかないのである。このように偏った印象操作を繰り返して、事件について詳しく述べることはほとんどしていないのだから、不安を煽るために書いたといわれてもおかしくないだろう。事実、二階堂氏は、この記事の結びにおいて《事件を引き起こす予備軍は多いかもしれない》と書いているのだから、《多いかもしれない》と思わせる方向に二階堂氏は記事を書いた、ということが見えてくる。

 しかし、もう私は口を酸っぱくして言ってきたことなのであるが、特定の「属性」を持った人に対する敵愾心を煽ることに、何の意味があるのだろうか。そのような報道や論評は、結局のところ排他的なナショナリズムを煽る結果にしかならない。というよりも、マスコミがそのように偏向した報道を行なってきたばかりに、二階堂氏の記事のように現実よりも「世代」だとか「オタク」だとかいったヴァーチャルが俗流若者論によって優先されるべきものとなり、過剰な印象操作も正義の名の下に断罪されなくなっている。そしてそのような状況が、とうとう現実の表現規制、行動規制につながっているのである。このような状況を作ってきた未熟マスコミたちの「歪んだ欲望」をマスコミが持ち続ける限り、マスコミに表現規制批判を行なう資格があるのか。私が問いかけたいのは、まさにこの点である。

 参考文献・資料
 川戸和史[2002]
 川戸和史「引きこもり癒やす地域通貨の力」=「AERA」2002年9月23日号、朝日新聞社
 斎藤環[2003]
 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 二階堂祥生[2005]
 二階堂祥生「未熟男たちの「歪んだ欲望」」=「Yomiuri Weekly」2005年6月5日号、読売新聞社
 二神能基[2005]
 二神能基『希望のニート』東洋経済新報社、2005年6月
 本田透[2005]
 本田透『電波男』三才ブックス、2005年3月

 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書、1999年4月
 ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』岩波文庫、上下巻、1987年2月

 河村成浩「「残虐」とゲームが有害図書に 神奈川県、条例で指定」=「MANTANBROAD」2005年6月号、毎日新聞社
 福井洋平「オタク狩り?警察の狙い」=「AERA」2005年3月7日号、朝日新聞社

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2005年7月 3日 (日)

俗流若者論ケースファイル31・細川珠生

 前回は憲法にかこつけた俗流若者論を検証したけれども、「憲法」というものに対して過剰に何らかの意味・幻想をもっているのは、保守系の政治家よりもむしろ保守系の自称「識者」のほうに多い。しかも、彼らの抱いている「幻想」は、政治家のそれよりも格段に強いものだ。憲法を変えて、憲法に「国家意識」を取り戻せば、少年犯罪も不登校もなくなる、と彼らは言う。このような奇妙な論理に接するたびに、私は彼らの「国家意識」こそ問いたくなる。所詮、彼らの言う「国家」は、俗流若者論的な懐古主義に基づくものでしかないのか、と。俗流若者論という排除の論理に基づく共同幻想に支えられた「国家」など、どこが国家だ。

 今回はそのような「国家」、すなわち自らの幻想としての「国家」を取り戻すために憲法を改正しろ、と主張する自称「識者」の文章を検証する。ジャーナリスト・細川珠生氏の「日本国憲法サン、60歳定年ですよ」(「諸君!」平成16年5月号に掲載)である。なにせこの記事、編集部がつけたものだろうが、のっけからリード文で《昨今の日本の衰弱、自己中心的な若者の増加の原因は「憲法」に起因するのではないか!?》(細川珠生[2004]、以下、断りがないなら同様)とかましているのだから情けない。そして本文を読んでいても、飛躍の連続であった。まったく、《自己中心的な》細川氏の登場の《原因は「憲法」に起因するのではないか!?》と思ってしまったほどだ。自分の不愉快に思う問題の全てを「憲法」(という幻想)に結びつけるのは、もうやめていただけまいか。

 67ページ3段目において、細川氏は《民主党幹部の言うように、「あと五年、十年改正が遅くなったって、そんなに大きなリスクはない」といえる状況下にあるとは私には思えない》と書く。このブログの愛読者であればここで笑うべきだろう。なぜなら、細川氏がなぜ《「あと五年、十年改正が遅くなったって、そんなに大きなリスクはない」といえる状況下にあるとは私には思えない》と言えるのかについての理由を述べたのが67ページ3段目から68ページ3段目までなのだが、その部分が個人的な恨み節をただ綴っているだけなのだから。

 67ページ1段目、《今、テレビでは、身近で何かトラブルが発生した場合、弁護士にその法的根拠を指導してもらい、どういう解決の方法があるかを取り上げる番組がはやりである》状況について、細川氏は68ページ1段目において《あまりにも私的なケースが多い》と指摘し、《冷静に話し合えば解決する問題》と言う。それについては私は異論を挟むつもりはないし、そもそもこの手の番組はそのような理由から見ていない。しかし細川氏は、このようなことに過剰な難癖をつけてしまう。曰く、《冷静に話し合えば解決する問題でも、裁判沙汰にする風潮が日本でも高まってきているが、これも現行憲法の悪しき「理念」――「権利の重視」と「義務の軽視」が拡大してきているからではないだろうか》と言ってしまう。正直言って呆れてしまった。まず、この手の番組で、何らかの些細な行為に法的な根拠が与えられたからといっても、実際に裁判沙汰にしてしまう人が何人いるだろうか。多くの人は、これらの番組を単なる「ネタ」として楽しんでいる程度ではないだろうか。

 私が笑ってしまったのは、68ページ2段目の投票率について述べたくだりである。このようなことさえも「憲法」のせいにできる細川氏の感性というもののほうが異常なのではないか、と思ってしまう。例えば細川氏は、《「誰が(総理大臣を)やったって、同じ」「選挙なんて、自分ひとりがマジメに行ったところで、何も変わらない」と、政治への無関心を、あたかももっともらしく語る人が多いが、本当にそうだろうか。ならば、なぜ、二十歳以上の国民全員に、選挙権が与えられているのだろうか》と述べるけれども、論点がずれていやしまいか。要するに、《ならば、なぜ、二十歳以上の国民全員に、選挙権が与えられているのだろうか》という問いかけが、政治に対して何も関心も期待も持っていない人に対して少しでも意味のあるものになりうるか、ということだ。一回、細川氏は、出馬してみたらどうか。
 さらに同じページで、《ましてや、国民が、「国のため」に命をささげるなどとは、とんでもないことだと思っている。ロシア、中国、北朝鮮、韓国、台湾、シンガポール、マレーシアなど日本の周辺国のほとんどが採用している徴兵制も、「とんでもない」という意見が大勢を占めている》と書いているけれども、恣意的な選定ではないか。どうしてアジアなのだろう?アメリカやヨーロッパはどうなのだろうか(ちなみに多くの先進国が徴兵制を廃止している傾向にあるというのは周知の通り)。また、韓国では、徴兵制に否定的な考え方を持つ若年層が増えているというデータもある(尹載善[2004])。ちなみに本筋から外れるけれども、徴兵制が決して「ひきこもり」の解決につながらないことも指摘しておきたい。

 さて、本筋に戻ろう。案の定、細川氏は、68ページ3段目において、《独断かもしれないが、私は、これらの問題は全て、今の「日本国憲法」に起因すると思うのだ》と言ってしまう。漫画やアニメでは「お約束」は許されるけれども(もちろん製作者の技量にもよる)、憲法論で「お約束」が許されるわけがない。さらに細川氏は、このように妄想を堂々と開陳するのだから、たまったものではない。

 結局のところ、他国の占領下にあった時に、他国の人の手によって作られた憲法によって治められている国というのは、そこに住む人々も、“それなりの人”にしかならないのではないだろうか。何か他人任せで主体性もなく、さまざまな矛盾にも気づかずに、九条のようにただ「戦争放棄の日本」を外に唱えればそれで世界が「日本はいい国だ」と納得してくれるものだと思いこんでいる。日本の伝統や文化が何たるかも理解できず、何よりも自己の生活、つまり自分だけが大事で大切だ、何でも自分の思い通りにすることが正しいんだと思い込む、それが今の普通の「日本人」の姿であり、ふと考えてみれば、まさに「日本国憲法」の精神に「のっとった」国民ばかりになっただけともいえるのかもしれない。

 まったく、細川氏の現在の社会に対する認識が、透けて見えるような文章ではないか。細川氏は、自分の不愉快に思う事例は全て「憲法」のせいだ、と思い込み、それらを変えれば即刻日本は良くなる(=自分の思い道理になる)とでも妄想しているのだろう。まったく、《何か他人任せで主体性も》ないのは細川氏であり、《日本の伝統や文化が何たるかも理解できず、何よりも自己の生活、つまり自分だけが大事で大切だ、何でも自分の思い通りにすることが正しいんだと思い込む、それが》細川氏なのだ。つまり細川氏の理論に従えば、細川氏こそ《「日本国憲法」の精神に「のっとった」国民》と言えるのである。何かにつけて「憲法」に責任をなすり付け、「国家」を持ち出したがるのは、自分の精神が脆弱な証拠である。

 案の定、同様の妄想を、細川氏は72ページでも開陳してしまうのである。曰く、

 この間に、「憲法」というものの、国家における重要性を説いてこなかった政治やマスコミの責任は大きい。……その結果、憲法に無関心であり無知な国民が出来上がり、その国民の代表者である国会議員が、憲法をどうするべきかということに、意見もないような国となってしまった。政治かも、国民も、自分の懐だけが潤えばいいという意識にどっぷりと漬かっている。親としての責任、子供としての務め、社会人としての自覚、仕事における使命感など、お金に換算できないことには関心をもたないという、“空っぽ”な人間ばかりがはびこる社会となってしまった。

 一体、何を基準として語っているのだろう。所詮これらの物言いは、自分こそが国家(=細川氏の幻想としての「国家」)を救うことができる存在であり、自分の不愉快に思う人々を罵倒するためだけのロジックである。それにしても、この極めてステレオタイプな細川氏の認識はなんなのだろう。保守論壇という狭い世界でしか生きていけなかったからこうなるのか。それともこの「諸君!」の読者に媚びるためなのか。いずれにせよ、細川氏の認識が極めて一方的なのは確かだ。

 これ以降の文章に対する検証は、細川氏の同様の妄想が開陳されているだけか、あるいは単なる保守論壇の俗流憲法論の受け売りでしかないので省略するけれども、この文章で問いかけたいのは、細川氏の如く「憲法」を過剰に敵視「するため」に「今時の若者」をはじめとする「今時の日本人」を批判するというのが、憲法を論じる態度として許されるべきなのか、ということである。

 立憲主義の考えに基づくのであれば、憲法とは、国民が国家に充てた命令である。それゆえ、細川氏の如き改憲派が抱きがちな妄想、すなわち「憲法が国民の義務を解いてこなかったから、日本はここまで堕落してしまった」という妄想や、護憲派が抱きがちな妄想、すなわち「憲法の理念を生活に浸透させなければいけない」という妄想の入り込む余地はない。しかし、現実において憲法は、限りなく「政治的」なものとして語られている。憲法にかこつけて俗流若者論を開陳する政治家や自称「識者」は(改憲派だけでなく護憲派にもいる。改憲派に比べれば極めて少数であるが)、憲法というものの本質を殺してしまっているのである。

 ここからは俗流保守論壇に限定して話を進めるけれども、憲法を批判するためだけに「今時の若者」及び「今時の日本人」を感情的に批判する、ということはすなわち、憲法とは何かという問いかけを最初から飛び越えて、「今時の若者」「今時の日本人」を「どうにかする」ためだけに憲法が持ち出されることになり、憲法の歴史や学説や性質をまったく踏まえないものになってしまう。それだけではなく、彼らは憲法の矛盾や欺瞞から「今時の若者」「今時の日本人」が生まれてくる、というけれども、では聞こう、憲法はすべからく無謬であるべきなのか。憲法が無謬であれば、「今時の若者」「今時の日本人」はどうにかできるのか。

 憲法といえど人間の作ったものであるから、いくら改正されてもそれは無謬であるはずはない。ましてや、憲法の矛盾や欺瞞から「今時の若者」「今時の日本人」が生まれてくるなど、倒錯した議論もいいところだ。結局のところ、憲法にかこつけた俗流若者論というものは、自分の不愉快に思う事は全て憲法改正が解決してくれる、というヒロイズムであり、自分の妄想を国家に反映させようとする自分勝手な政治認識であり、現実の政治問題を通り越してまず「今時の若者」を何とかすべきだ、という生活保守主義に過ぎないのである(ちなみに細川氏はこの文章の中で何度も「今時の日本人」を罵倒しているけれども、そのロジックのほとんど全てが細川氏自身に当てはまる)。

 憲法にかこつけた俗流若者論というものは、ここまで問題を持っているのである。そして、「今時の若者」「今時の日本人」を「どうにかする」ことが至上命題となり、憲法や教育基本法などの改正もそれにしたがって行われなければならない、という、社会で解決されなければならない問題、あるいはそのような考え方の基盤となっているものこそを問われなければならない問題を最大の政治問題として国家に丸投げすることこそ、最大の政治的無関心なのである。投票率ばかりが問題なのではない、そのような考え方の蔓延のほうがよほど問題である。

 参考文献・資料
 細川珠生[2004]
 細川珠生「日本国憲法サン、60歳定年ですよ」=「諸君!」2004年5月号、文藝春秋

 奥平康弘、宮台真司『憲法対論』平凡社新書、2002年12月
 橋爪大三郎『人間にとって法とは何か』PHP新書、2003年10月
 長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』ちくま新書、2004年4月
 歪、鵠『「非国民」手帖』情報センター出版局、2004年4月
 山本七平『日本はなぜ敗れるのか』角川Oneテーマ21、2004年3月
 ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』岩波文庫、上下巻、1987年2月

 井上達夫「削除して自己欺瞞を乗り越えよ」=「論座」2005年6月号、朝日新聞社
 小熊英二「改憲という名の「自分探し」」=「論座」2005年6月号、朝日新聞社
 河野勝「なぜ、憲法か」=「中央公論」2005年5月号、中央公論新社

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2005年6月28日 (火)

俗流若者論ケースファイル30・森岡正宏&杉浦正健&葉梨康弘

 編集長の薬師寺克行氏をはじめ、「論座」編集部の皆様には、よくやったと言いたい。「論座」平成17年6月号の憲法特集の中で、「論座」編集部のクレジットがついている記事「自民党議員はこんなことを言っている!」というものがあるのだが、その内容は、平成16年の自民党憲法調査会議における自民党改憲派議員の「妄言録」である。

 この「妄言録」を読んでいると、自民党で「改憲派」と称されている人の一部が、いかに自らの思い込みと妄想だけで憲法改正という国家的な大プロジェクトに取り組もうとしているかがわかる。そして、「論座」編集部の人たちは気づいているかどうかはわからないが、その中でも目立つのが、俗流若者論との結託が強いものであり、今回はそれらの言説を検証することにしよう。

 例えば、森岡正宏氏(「無痛文明論」の森岡正博氏ではない)は、

 あまりにも個人が優先しすぎで、公というものがないがしろになってきている。……私は徴兵制というところまでは申し上げませんが、少なくとも国防の義務とか奉仕活動の義務というものは若い人たちに義務付けられるような国にしていかなければいけないのではないかと。(朝日新聞社[2005]、以下、断りがないなら同様)

 《国防の義務とか奉仕活動の義務》を設けることによって若年層を「正常化」せよ、という議論は簡単に論破できる。というのも、我が国は戦後一貫して徴兵制や奉仕義務を採用してこなかったからである。それなのに、現代の若年層の「問題行動」を是正するために徴兵制を導入せよ!という議論が最近になってまかり通ってきているけれども、これは明らかに若年層バッシングによるナショナリズムの高揚以外の何物でもないのではあるまいか。

 せめて徴兵制についてある程度調べてから言っていただきたいものである。また、徴兵制が起こす悪影響についても調べておく必要があるだろう。例えば韓国の事例を紹介している翰林情報産業大学教授の尹載善氏は、韓国での軍事文化が社会に及ぼす悪影響として、徴兵制を経験した男性が暴力的になったり、あるいは大酒飲みになることなどを挙げている。また、精神科医の斎藤環氏によれば、韓国においても「ひきこもり」は進行しており(斎藤環[2003][2005])、徴兵制を敷いて「ひきこもり」を解決せよ、という議論がまったく無意味なものであることを示唆している。

 もう一つ、これはマイケル・ムーアの「華氏911」でも語られていたことであり、尹氏や斎藤氏も触れていることであるが、徴兵制を敷くと、常にそれの犠牲になるのが経済的に地位の低い層である、ということも多い。それにしても森岡氏、そして森岡氏と同様の考えを持っている議員の人たちは、もし徴兵制が敷かれたら、自分の子孫に向かって同じ事を言って、軍隊に入隊させるのだろうか。「華氏911」における、ムーアが「自分の子供を自衛隊に入隊させよう!」というビラを議員に配るような事態にならないことを祈る。

 次は杉浦正健氏である。

 日本のいまの憲法はどちらかというと西洋に引きずられてワーッと権利のほうへ傾斜した。……フィリピンでは、子どもを5人以上つくる。保険制度ありませんから、子供を5人つくると子どもが親を養ってくれる。だから子供をしっかり育てて親孝行をしてもらうといういい循環である社会です。いまの日本の子どもに親孝行という気持ちはないわけではないだろうけれども、自然に親に孝養を尽くす、親が年とったら扶助するという気持ちになるかどうかが問題。

 杉浦氏よ、これは社会保障関係の委員会ではないのである。読者の皆様にも、これがあくまでも自民党の憲法調査会で発せられた発言であることを肝に銘じていただきたい。そもそも議論が倒錯してはいまいか。この文脈から考えるのであれば、杉浦氏が最も先に主張するべきは社会保障制度の撤廃であろう(ただしこれは憲法25条に明らかに違反する)。

 さて、発言の検証に移るけれども、明らかに国柄が違う2つの国を同列に並べて考えるというのが問題であるし、またこの文章を読んだら論点が二転三転しているのもよくわかるだろう。しかも杉浦氏、《いまの日本の子どもに親孝行という気持ちはないわけではないだろうけれども》と語っているけれども、これは偏見としか言いようがないだろう。《自然に親に孝養を尽くす、親が年とったら扶助するという気持ちになるかどうかが問題》というのも。

 それにしても杉浦氏、憲法改正して少子化を解決しろ!とでも言いたいのだろうか?せめて政策研究大学院大学教授・松谷明彦氏の章しか悲観論批判でも読んで出直していただきたい。また、杉浦氏は、フィリピンの憲法がいかなるものであるか、ということについても言及するべきであろう。

 極めつけは葉梨康弘氏の発言だ。頭に来たので全文引用する。

 たくさんの青年海外協力隊の方がインドネシアで真面目に働いている。ところが、彼らが日本に帰って、家の前を掃いているかといったら、道を掃かない。つまり、なんとなく世界市民主義的なことだけが格好いいという形の教育が今なされていて、足元の同じボランティアをやらない。日本の国内もそう。神戸の震災があれば行く。ナホトカ号があれば行く。マスコミが言うときだけ行って(筆者注:原文では《言って》になっているが、明らかに誤植であろう)、私たちの意識というのが極めて偽善の社会になっているのではないか。ですから、むしろ国家意識ということでボーンと頭から説得するのではなくて、今の戦後教育の中で育ってきた私たちは極めて偽善の中に生きている。この憲法だって、だから主権在民と言った。それから、国際協力しかうたわれていない。日本国内の協力が一切うたわれていないということが、非常に中途半端な若者を育ててしまった。

 まったく、ここまで露骨な俗流若者論を堂々と開陳して恬然としている葉梨氏の心理がが知れない。また、このような飛躍した暴論を簡単に受け入れてしまう他の議員たちも、このような動機から憲法改正に同調するということが、いかに危険なものであるということを、俗流若者論を党綱領および行動原理とする政党が与党にならないとわからないのだろうか。そもそも俗流若者論とは、若年層の問題を何か単一のものになすりつけたり、あるいは彼らの精神の問題に矮小化することによって、社会構造的な問題を隠蔽するという側面を持っている。そのような無責任な言論体系に政治を任せることがどうしてできようか。

 さて、本題に入ろう。まず、葉梨氏の提示している事例が極めて恣意的であるし、しかもそれを《なんとなく世界市民主義的なことだけが格好いいという形の教育が今なされていて、足元の同じボランティアをやらない》などと結論付けてしまうのは飛躍であろう。そもそも《なんとなく世界市民主義的なことだけが格好いいという形の教育》とは、いかなるものを指すのか教えてはくれまいか。

 また、《この憲法だって、だから主権在民と言った》と葉梨氏は語っているけれども、《だから》が何をさすかわからない。葉梨氏は《今の戦後教育の中で育ってきた私たちは極めて偽善の中に生きている》というのは(これも正しいかどうかは検証する必要があろう)戦後の状況であると語っているのだから、《主権在民と言った》というのは戦前から《極めて偽善の中に生きている》状況があり、だから《主権在民》が憲法に書かれたと葉梨氏は言わなければならないはずである。この発言から、いかに葉梨氏がその場その場の思い込みによって語っているかがわかるはずだ。また、葉梨氏の幻想としての「戦後」と「戦後以外」という図式が葉梨氏のこの暴論を支えているのは明らかであろう(ちなみに葉梨氏は昭和34年(1959年)生まれであるらしい)。あともう一つ、《非常に中途半端な若者》がどのような人を指すのか教えてくれ。

 それにしても、憲法改正の最前線に立っている人たちが、いかに幻想としての「戦前」や「戦後」を妄信していたり、あるいは「今時の若者」に対する敵愾心が改憲へのエンジンになっていたりとかいった現状が、自民党の改憲派議員集団の中で着々と進行しているというのが恐ろしいことに思えてならない。俗流若者論による政治とは、人々の「今時の若者」に対する敵愾心を回収し、それを政治に反映させることによって、「今時の若者」を「正常化」しているという幻想を持たせることはできるけれども、問題の本当の解決にはなんら影響を及ぼさない。そもそも俗流若者論は、自分を「正義」と規定し、さらに自らの過去をタブー化するという性質を持っており、若年層をバッシングするためならいかなる書き飛ばしも厭わない。俗流若者論は、「今時の若者」をバッシングすることには長けているけれども、それ以外にはまったく無能である。

 かつて、ジャーナリストの西村幸祐氏を批判したとき、西村氏が「2ちゃんねる」に対して「2chが左翼勢力によって毒された言論状況を打破してくれる!」という「物語」に陶酔している、ということを私は指摘したけれども、ここで取り上げた森岡氏、杉浦氏、そして葉梨氏に共通しているのは、「憲法改正が左翼勢力によって毒された状況を打破してくれる!」という空疎な「物語」に他ならない。このような「物語」に心酔することは、憲法をめぐる冷たい現実から目を逸らすばかりでなく、改憲が及ぼす善悪両面のファクターを無視することになる。

 私は改憲それ自体は否定しない。しかし、このように、「改憲」とか「戦後」とか「戦前」なんかに過度の幻想を抱いている人たちによる改憲は、結局のところはこれらの人たちの「自己実現」しか実現し得ないのである。そのような改憲が、どうして許せようか。
 ちなみに、「改憲」とか「戦後」「戦前」に対して過度な幻想を抱いている言論人は、政治家よりも過激な幻想を抱いていることが多い。次回は、そのような人を検証しよう。

 参考文献・資料
 朝日新聞社[2005]
 「論座」編集部「自民党議員はこんなことを言っている!」=「論座」2005年6月号、朝日新聞社
 斎藤環[2003]
 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 斎藤環[2005]
 斎藤環『「負けた」教の信者たち』中公新書ラクレ、2005年4月
 尹載善[2004]
 尹載善『韓国の軍隊』中公新書、2004年8月

 長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』ちくま新書、2004年4月
 山本七平『日本はなぜ敗れるのか』角川Oneテーマ21、2004年3月

 小熊英二「改憲という「自分探し」」=「論座」2005年6月号、朝日新聞社

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2005年6月18日 (土)

俗流若者論ケースファイル29・吉田司

 私はこれまで、俗流若者論のために歴史修正を行なうのは、俗流右派論壇人の専売特許と思ってきた。しかし、その認識は、即刻改めなければならないようだ。もしこの文章の読者に、そう思っている人がいたら、この文章を読んで、即刻その認識を改めてほしい。

 今回検証するのは、ノンフィクション作家の吉田司氏による文章、「女と平和と経済の時代は終わった」(「AERA」平成16年8月30日号掲載)だ。吉田氏は、まあ最近では主要なオピニオン系の月刊誌にはほとんど顔を出していないが、基本的に左派、反権力の人と見なしていいジャーナリストである。しかし、この文章を読んで、吉田氏もまた俗流若者論限定で歴史修正主義ナショナリストになってしまうような人だったのか、と思った。ちなみに言っておくと、朝日新聞や、講談社の月刊誌「現代」にたびたび掲載される吉田氏の書評は、はっきり言って粗雑の極みだと思う(ちなみに私は、オンライン書店の「bk1」で評論家・斎藤美奈子氏の『男性誌探訪』(朝日新聞社)を書評したとき、吉田氏を批判したことがある)。

 吉田氏は、戦後の我が国の平和と発展が何によって支えられてきたか、ということについて、以下のように以下の視点に基づいて述べる。曰く、《《戦後》がどんなものであったか?そのはじまりを「過ちは繰返しませぬから」(原爆慰霊碑)という非戦・反戦平和の“誓いの言葉”に置くことは、たやすいことだ》《戦後の母たちは、芸能であれ教育であれ、自分の人生と財産を子どもに独占的に透視する=父親の手から子どもを奪い、己の人質にすることで、戦前家父長制(天皇「父性」国家からの離脱や「女の自立」を開始したのである》(吉田司[2004]、以下、断りがないなら同様)と。しかし、このような「物語」の裏には、一つの決定的な事実が欠落している。

 それは朝鮮戦争である。皆様もご存知の通り、戦後の我が国の爆発的な経済回復の起爆剤となったのは朝鮮戦争による特需だった(ちなみに最近の右派系の歴史修正主義者は、朝鮮戦争の特需さえも否定したがっているらしいが)。その結果がどうあれ、非戦・反戦主義の立場に立てば、我々が今立っている「戦後」が、他人の不幸に乗じたものを基盤とする、ということを考えると、それに対する検証もしなければならないだろうが、吉田氏にはそのような認識があるのだろうか。

 吉田氏に限らず、最近の左派論壇には、「戦前」を否定しながらも、「戦後」を美化することによって若年層をバッシングする、いわば左派系の歴史修正主義者が出始めている。その典型例がライターの荷宮和子氏であろうが、右派系であっても左派系であっても、我が国の歴史修正主義者の理論が、ここ十数年、特に「酒鬼薔薇聖斗」事件以降に喧伝された「今時の若者」というイメージに対する敵愾心によって成り立っているのだから、彼らの社会認識・歴史認識がいかに自分の自意識のために歪曲されたものであるか、ということは我々は認識して然るべきだろう。

 そして吉田氏もまた、「今時の若者」を、戦後の「崩壊」の象徴として提示するのだから、吉田氏が左派系の歴史修正主義者になってしまっているのは明らかであろう。問題のある箇所を引用する。

 もっともその“幸せな結合”は、また別の大きな国内的不幸と引き換えだった。子供たちの後輩と批判だ。少年少女は激化する受験「選別」戦争や教育ママゴン、いじめの連鎖の中で傷つき、脱落する「不登校」者が続出した。彼らは社会から引きこもり、親たちに「誰が(こんな世の中に)産んでくれと頼んだか!」と呪詛を浴びせかけ、多くが家庭内「暴力の王」や「女王」に姿を変えていった――それは80年代バブル天国ナショナリズムが生産し続けた、耐え難い“地獄”だった。
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 少年たちはどうしたか?2000年「われ革命を決行す」のHP宣言をした佐賀バス・ジャック事件を先頭に、いくつ物少年殺人・暴力事件が連発した。――こうして「失われた10年」のハチャメチャな《性と生》をめぐる秩序紊乱、それを育て、甘やかしてきた〈平和〉と〈女〉と〈経済〉の三位一体システム=いわゆる「母原病」社会の無力と退廃が誰の目にも明らかになり、やがてそれらを変革する希望のシステムとして、その反対物=《軍事》と《父性》をキーワードとする男権的な「国民保護」体制が呼び出されて