2007年8月26日 (日)

俗流若者論ケースファイル85・石原慎太郎&宮台真司

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 世代論が権力を免責する、という構造を、私はこのシリーズの一つ前の回(「俗流若者論ケースファイル84・河野正一郎&常井健一&福井洋平」)で述べた。要するに、例えば若年層の労働環境をめぐる問題などに関して、非正規、派遣労働者の待遇や賃金の問題であるとか、あるいは学校から労働市場への参入の問題などが取り沙汰されるべきなのに、それをぼかして「日本人の働き方に関する見方が変わりつつある」と述べて、「根本的な」解決策や、「メタ的な」議論のほうが尊重されるという傾向は、まさにそれである。客観的に観測できるような問題を無視して、個々人の内面ばかりを問題視するというのは、根本的にもっとも残酷な日和見主義に過ぎない。

 さて、ブログ開設2年9ヶ月、「俗流若者論ケースファイル」シリーズ85回目にして、ついにこの人を批判することになろうとは思わなかった。首都大学東京教授、宮台真司である。今回検証するのは、宮台と石原慎太郎(東京都知事)による対談「「守るべき日本」とは何か」(「Voice」平成19年9月号)である。この対談は、どちらかといえば、東京都の青少年政策の宣伝という側面が強いが、それを推し進めるための前提として、現代の青少年が置かれている「現実」を語る、という趣旨のように見える。

 ところが、石原も宮台も、青少年問題についての基本的な認識が欠落しているとしかいいようがない代物なのだ。本書で取り扱われている青少年問題は、「ニート」についてと、「セカンドライフ」に付いてであるが、のっけから石原と宮台は、以下のようにいってしまう。

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石原 ニートがニートとして生まれた、いちばんのゆえんは何ですか。彼らはただの穀潰しだと思うね。要するに、抱えている家庭に余裕がなかったらあんな存在なんて成立しえないでしょう。

宮台 そのとおりです。でも、ひきこもりは人から「穀潰し」といわれ、自分でそう思っても前に踏み出せず、社会に復帰できません。彼らが「反社会的」であれば「穀潰し」の批判が有効ですが、「脱社会的」なのです。問われるべきは若い世代から大規模に社会性が脱落した理由です。(石原慎太郎、宮台真司[2007](以下、断りがなければ全てここからの引用)pp.80)

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 少なくとも私は、私と宮台と宮崎哲弥、そして内藤朝雄の対談において、宮台が「ニート」は疑似問題であり、むしろ「ニート」を、それこそ穀潰しであると批判している方こそ問題であると述べていたはずだ。以下、引用する。

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宮台 (略)僕から付け加えると、まず旧来の「今時の若者は」的攻撃に加えて、昨今目立つのは、流動性不安がもたらす「多様性フォビア」としての若者フォビアです。処方箋は流動性フォビアの手当て。次に、本家英国と違い「失業者を含まない」日本版ニート概念は初期のフリーター批判と同じく怠業批判ルーツで、「こいつらが日本を滅ぼす」と言いつつ馬鹿オヤジが10年後の年金を心配する俗情がある。(略)最後に、スキル上昇(フリーター対策)から動機づけ支援(ニート対策)に自立支援策を拡げ、ポストと予算を獲得した公務員がいる。(略)(宮台真司、宮崎哲弥[2007]pp.100-101)

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 このような分析に、少なくとも私は大筋で同意する。また、宮台も『「ニート」って言うな!』を読んだはずであれば、我が国において「ニート」と呼ばれている人たちのおよそ半分が、「非求職型」すなわち就労意欲はあるものであるということも御存知であるはずだし、昨今増加した「ニート」もこの層の増加が原因であるということも知っているはずだ。

 さらに宮台は、《ひきこもりは人から「穀潰し」といわれ、自分でそう思っても前に踏み出せず、社会に復帰できません。彼らが「反社会的」であれば「穀潰し」の批判が有効ですが、「脱社会的」なのです》と述べるが、少なくとも最近の井出草平の著書などに見られるように(井出草平[2007])、「ひきこもり」=「脱社会的」と安易に断じることはできない。井出は、むしろ規範に対して敏感であるからこそ不登校から「ひきこもり」に至った事例もある、ということを示している。

 もう一つ言うと、「ニート」や「ひきこもり」について宮台の言う、「彼らは「反社会的」ではなく「脱社会的」である」という物言いは(ついでに言うと、このような物言いは、芹沢一也が指摘するとおり(浜井浩一、芹沢一也[2006])、平成10年ごろから、宮台が少年犯罪を説明するために活発に使用していたものだ)、一見すると彼らに対して「理解」を示すようなそぶりを見せながら、実際には単なる説教(それこそ「穀潰し」批判みたいに)よりも実害が大きいと私は考えている。なぜなら、第一に、少年犯罪については、過去の事例を探せば「脱社会的」と言えそうなものなどいくらでも見つかる(例えば、昭和40年10月に起こった、中学2年生の少年が、異性に対する興味から近所の主婦を殺した、というもの。詳しくは赤塚行雄[1982]を参照されたし)。第二に、そのような「定義づけ」をさせることによって、例えば統計的な状況(少年犯罪は増えていない、など)を無視する口実として使われるからである。第三に、第二の理由を引き金として、根本的に間違った政策が構築されてしまう可能性があるからだ。

 現にそのような危険性は、以下の発言にも表れている。

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石原 ニートの悪いところはそういう依存性、甘ったれた考え方だよね。それは何が醸し出したんですか。

宮台 郊外化です。第一段階の郊外化が一九六〇年代の「団地化」。「地域の空洞化」を埋め合わせる「家族への内開化」が内実です。専業主婦の過剰負担ですね。第二段階の郊外化が八〇年代の「ニェータウン化」。「家族の空洞化」を埋め合わせる「市場化&行政化」が内実です。コンビニ化ですね。これに今世紀に拡大した「ネオリベ(新自由主義)化」が加わり「貧しくても楽しいわが家」どころか「豊かでないかぎりコミュニケーションから見放された環境で子供が育つ」。脱社会化の背景です。(pp.81)

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 少なくともそのような戯れに興じているのであれば、少なくとも多くの「ニート」論の多くが的外れであることを証明したほうがいいのではないか、と思うのだが。言うまでもなく、このような物言いは、例えば労働法をめぐる問題などを隠蔽する。

 同様の危険性は、以下のような発言にも表れる。

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宮台 それをどう呼ぶかは別にして、「世間の空洞化と母子カプセル化を背景に、親に抱え込まれ、社会を生きる力を失った存在」にどう規範や価値を伝えるかです。今期青少年問題協議会の冒頭、「ニート問題は規範や道徳の伝達の問題ではなく、伝達のベースになる台がなくなる『台なし』の問題だ」と申しあげました。

 友達や家族と一緒に映画を見て、周りが「ダメな映画だ」と語り合うのを聞き、映画が再解釈される経験が年少者によくあります。そこに注目したのがクラッパーの限定効果説。「子供がもつ素因が刺激の有害性を決める」という仮説と「子供の周囲の人間関係が刺激の有害性を決める」という仮説の複合です。刺激が素因を育てるのではないとします。

 要は情報は単独で有害無害を論じられず、情報をやりとりする「社会的基盤=台」によって意味や意義が変わります。穀潰しだと非難しても、ニートが「穀潰しですが、なにか?」と非難の意味を理解できない可能性があります。道徳や価値を伝える言葉一般にいえますが、自分も相手も同じ台の上に乗っていると感じられるからこそ説教を聞く。そうした台がない「台なし」では道徳的説教は無効です。(pp.83)

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 要するに宮台は、「ニート」については、例えば若年層の過酷な労働環境を解決したり、あるいは「ニート」を問題化する方を問題化するのではなく、まず《「世間の空洞化と母子カプセル化を背景に、親に抱え込まれ、社会を生きる力を失った存在」にどう規範や価値を伝えるか》どうかの問題として考えていると言うことか。私が聞いた発言と、どちらが本音なのだ。そもそも宮台が、「ニート」について《規範や道徳の伝達の問題》と《伝達のベースになる台がなくなる『台なし』の問題》を対立軸に置いているのが気になる。また、以下のような発言もある。

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石原 やっぱり僕は親子三代で住まなくなったことが、日本の家族にとって致命的な欠陥になったと思うね。

宮台 柳田国男ですね。日本の農村では両親が生産労働に生活時間の大半を費やすので、爺ちゃん婆ちゃんが孫を育てることで社会性が伝承される、と。広田照幸のいうように、日本には親が子供を躾ける伝統がなく、世間の空洞化と母子カプセル化でむしろ躾は増大してきた。でも同時に窓意性(世間と関係ない親の勝手)も増大するから、親のいうことに従わなくなるか、従った結果かえって社会を生きられなくなる。先の依存的暴力にも関連する問題ですね。(pp.82)

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 とあるが、少なくとも広田照幸を引き合いに出すのであれば、「家庭の教育力の」低下という言説が虚構であることくらい知っていると思うのだが。

 この対談においては、宮台が石原に対して、青少年の「現実」を説明し、それを石原が解釈する、という形式で話が進んでいる。ただし、その宮台の「現実」の解釈が極めて恣意的というか、客観的、あるいは統計的な広がりや内容よりも、まず「現実」のヴィヴィッドさ、あるいは見た目の新奇性が優先するようで、それについては、以下に採り上げる「セカンドライフ」をめぐる言説にも現れている。少々長くなるが、引用しよう。

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宮台 はい。ソニーが「ホーム」という新しいメタヴァースを発表しました。こちらはユーザーの自由度が小さい配給制的空間です。こうした事例は公共性論として重大な問題を提起します。「この社会に意味があるか」にも関連します。要は「この現実が嫌なら『セカンドライフ』に出て行け」「『セカンドライフ』が嫌なら『ホーム』に出て行け」といえるのです。すると第一に、この現実を公正なものにすることや面白いものにすることへの需要が減ります。それでよいのか。第二に、そのぶんセカンドライフに「逃亡」する人が増えますが、今日の物差しでは「ひきこもり」に該当する彼らをどう評価すべきか。

 石原 感覚的にはわかるけれど、バーチャルゲームだけやっていて食べていけるの?

 宮台 彼らは「セカンドライフ」上では活動的なのです。生活保護を受けながら「セカンドライフ」で億万長者として暮らす者もいます。二十四時間中睡眠に五時間、食事に一時間使い、残りを「セカンドライフ」内の経済活動に充てて専用通貨を稼ぎ、換金してカップラーメンを買ってすするという生活です。

 石原 しかし、バーチャルな世界で味わう満足感は結局、いつか崩れて消えてしまうでしょう。

 宮台 それでもこれからはそういう人が増えます。そうした流れを認識することがニート問題に近づく一歩です。ニートには、「現実に怯えて前に踏み出せない者」と、「わざわざ訓練して社会に出ることに意味を認めない者」が含まれます。前者は、経験値を高める訓練で不安を克服すればOKです。後者は「自分が自分であるために社会や他者が必要」と感じないように育ち上がっており、簡単に引き戻せません。愛国教育や道徳教育が足りないのでもない。国にコミットする以前に、社会にコミットしないのですから。(pp.85)

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 ソースは忘却したが、少なくとも我が国の「セカンドライフ」についての評判は、広告や起業の盛り上がりばかりが先行しすぎて、我が国のユーザーはむしろ置いてけぼりにされている、という話が聞いたことがあるが、それはさておき、宮台は「セカンドライフ」を引き合いに出しておきながら、それをめぐる我が国の客観的な情報(加入率、評判など)を採り上げることは一切ない。

 いや、それは以下に挙げる問題に比べればたいした問題ではないのかもしれない。この言説における宮台の最大の問題点は、例えば《生活保護を受けながら「セカンドライフ」で億万長者として暮らす者》がいることは採り上げるけれども、そこから一気に跳躍して《それでもこれからはそういう人が増えます。そうした流れを認識することがニート問題に近づく一歩です》などと語ってしまうことだ。要するに、宮台の「社会分析」みたいなものに必要なのは、客観的、あるいは統計的なデータよりも、自分が見聞きした(見た目的に)新規な事例のほうが優るということか。内田樹とどこが違うのだ。「脱社会的存在」をめぐる言説と同様、底が知れた、というべきか。

 宮台の語る、「「ひきこもり」などに代表されるような「脱社会的」な人たちが、現実での承認に嫌気がさして「セカンドライフ」や「ホーム」に逃げ込む」という言説は、例えば香山リカの「精神的にも肉体的にも劣化した存在が、「セカンドライフ」に逃げ込む」などといった言説と同様に、利用者の社会的な属性などと照らし合わせて検証される必要がある(なお、既存のインターネット・コミュニティに関する研究については、例えば池田謙一[2005]や、宮田加久子[2005]がある)。佐藤俊樹だっただろうか、情報社会に関する未来予測というのは、それがいまだに実現していない未来を語っている故、未来に託して結局のところは自分の思想を語っているに過ぎない、という言説を述べていた人がいたが、宮台の「セカンドライフ」論はまさにそういうものだ。

 ところで、この対談の終盤において、石原は以下のように語っている。

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石原 やはり、日本文化の独自性、個性をどうやって抹消させずに維持するかという問題に繋がってくると思う。人間というのは、精神や感性、情念のある不思議な動物だから、それぞれ違った風土や文化を生み出し、それが時間と空間に撫でられることで文明がかたちづくられたわけだけれど、結局、文化までもが個性を喪失すれば、その国はキンタマを抜かれた男みたいな存在にしかならない。(pp.88)

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 このような認識は宮台にも共有されているようで、この直後に、

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宮台 三島由紀夫がそんな状況を「博物館的文化主義」と呼びました。歌舞伎や能を残しても、魂を残さなければ意味がない。魂とは入れ替え不可能性であり、大英博物館に陳列できるような文物が魂であるはずがないというわけです。統治権力としての国家はクーデターや敗戦で簡単にひっくり返る程度の存在です。国家に連なる者でなく、国家によって守られるべき「何か」に敏感な者だけが国士です。「何か」とは日本人なら思わずミメーシス(感染)してしまうもの。だから国士に不可欠な要素は「感染力」です。

 都内のホテルで石原都知事とご面会したあと一緒に歩いていたら、おばさんたちが「慎太郎知事だ!」と黄色い声で騒いでいました。私なぞに目もくれず(笑)。これぞポピュリズムと揶揄されるものとは別次元の「感染力」だと思います。そんな「感染力」をもつ人が昔は身近にたくさんいました。勉学動機も、自称保守が推奨する競争動機や、自称左翼が推奨するわかる喜びだけでなく、あの人みたいになりたいと感染して箸の上げ下ろしまで真似する感染動機こそ重要でした。そうしたコモンセンスの継承に鈍感な輩が保守を名乗る昨今は笑止です。彼らが文化から「感染力」を奪っています。「凄い奴」に感染して自分も「凄い奴」になる。これがミメーシスです。テクノロジーのネガティブ面を指摘しましたが、あえてポジティブ面をいえば「凄い奴」の数が減るなかでメディアが「凄い奴」を媒介する可能性ですね。(pp.88)

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 と述べている。この対談におけるコンセンサスとは、昨今の青少年問題が、我が国が国家としての「感染力」を喪失したことと、そのような状況に真剣に向きあおうとしないものたちの問題である、ということだろう(ついでに言うと、先の都知事選において、石原が当選したとはいえ前回よりも大幅に得票数及び得票率を減らしたのはどういう理由によるのでしょうね?)。然るに、冒頭でも述べたように、このような物言いなど、権力を免責するものでしかなく、大規模な文化的状況を語っているように見えて、実は何も語っていないに等しいのである。

 それにしても象徴的というか衝撃的なのは、かつて宮台は、例えば「援助交際」をめぐる言説において、そのような行動をとる少女は一部だが特別ではない、という理由で、新しい状況がきている、と言って、上の世代に退場を促していたのだ。そして、この対談においては、同様のロジックが、権力にすり寄るための口実として使われている。これは宮台の得意とする戦略的な立ち位置の転換によるものなのか、あるいは単に首都大学東京のポストが恋しいだけなのか、またあるいは権力者として政治を動かす立場になりたいのか、それとも天然なのか、それは判断しかねる。しかし、このような宮台の「転向」(?)について、宮台をカリスマとして崇め奉っていた人たち――かつての私もその一人であったことは否めないが――は、いかにして宮台を捉えるつもりなのだろうか。

 近年においては、例えば浅野智彦や本田由紀などに代表されるように、今までステレオタイプに捉えられてきた事象――例えば、若年層の道徳・規範意識や、自意識、あるいは就業、逸脱などの行動――について、できるだけ客観的に捉え、またその上でいかに若年層を社会学的に考えるか、という研究や著作が蓄積されている。そのような状況にあって、宮台などが行なってきた、何らかの新奇な「概念」をでっち上げて、そこから大上段から「現実」を語る、という行為が以下に相対化されていくのか、あるいはされるべきか、ということを考える必要があるのではないか、と思う。

 まあ、とりあえず、このエントリーで言いたいことは、以下の一言に尽きるわけで。

 「絶望した!宮台真司に絶望した!!」

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 宮台がらみで、もう一つ、おもしろい発言があったので、紹介しよう。平成17年に行なわれたという、宮台と田口ランディとの対談だという。

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 宮台 殺したいと思えば殺せるし、犯そうと思えば犯せるのに、それだけは絶対にしたくないと思う「脱社会的存在」がいるのは、なぜでしょうか。これは解かれなければいけない問題です。〈世界〉の根源的未規定性を受け入れ可能にする機能をもつ「宗教的なるもの」の真髄に関わる問題でしょう。

 (http://www.miyadai.com/index.php?itemid=541

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 《殺したいと思えば殺せるし、犯そうと思えば犯せるのに、それだけは絶対にしたくないと思う「脱社会的存在」がいるのは、なぜでしょうか》とは…。単に「脱社会的存在」なる定義付けが間違っていた、という考えには至らないのだろうか?

 文献・資料
 浜井浩一、芹沢一也『犯罪不安社会』光文社新書、2006年12月
 井出草平『ひきこもりの社会学』世界思想社、2007年8月
 池田謙一(編著)『インターネット・コミュニティと日常世界』誠信書房、2005年10月
 石原慎太郎、宮台真司「「守るべき日本」とは何か」、「Voice」2007年9月号、pp.80-89、PHP研究所、2007年8月
 宮台真司、宮崎哲弥『M2 ナショナリズムの作法』インフォバーン、2007年3月
 宮田加久子『きずなをつなぐメディア』NTT出版、2005年3月

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2007年8月13日 (月)

俗流若者論ケースファイル84・河野正一郎&常井健一&福井洋平

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 日本人は、過去を忘却することで遺恨を乗り越えてきた。ただ、「死者には、追憶される権利がある」(H・アーレント)。残った者が記憶にとどめないと、死は復讐する。上を向いて歩く顔の少ない、上っ面景気の、劣化した日本の惨状は、記憶の耐えられない軽さに御巣鷹から上がった怨嵯の声ではないのか。(河野正一郎、常井健一、福井洋平[2007](以下、断りがなければ全てここからの引用)pp.21)

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 《上を向いて歩く顔の少ない、上っ面景気の、劣化した日本の惨状は、記憶の耐えられない軽さに御巣鷹から上がった怨嵯の声ではないのか》――日本人が「劣化」していると、さしたる根拠もなく主観的に決めつける人たちは、何でこんなに傲慢なのだろう?かつて私が「想像力を喪失した似非リベラルのなれの果て ~香山リカ『なぜ日本人は劣化したか』を徹底糾弾する~」なる記事で批判した香山リカもそうであったが、彼らの脳内においては、我が国はどこもかしこも「劣化」し、その現実を直視し、それを克服することこそ我が国の「再生」につながるという思考が既に形成されている。

 今回検証するのは、「AERA」平成19年8月13日・20日合併号に掲載された、河野正一郎、常井健一、福井洋平による「劣化する日本に響く御巣鷹の声を聴け」である。本書においては、「再生」までは書かれていないけれども、少なくとも現代に対する傲慢な態度は変わらない。リードには、以下のようにある。

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あれから22年がたった。
当時、あの時が岐路だったとは気づかなかった。
最後に、上を向いて歩いたのはいつだったろう。
520人の命を思い出し、いま、足元を見る。
追憶すれば、未来が見える。そんな気がする。(pp.16)

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 などと能書きを垂れているものの、この記事の著者たちの現代社会に対する見方は極めて一面的である。というよりも、統計的に見れば、あるいは少し考えれば直ちに「劣化」なるものが虚像であることが明らかなようなものについて、日本人が「劣化」した証拠であり、そしてその根源は昭和60年(1985年)にあるものであると繰り返している。

 例を挙げてみよう。17ページ、2段目から5段目にかけて、渋谷の歯科医師宅で予備校生が妹を殺害したという今年初めの事件を採り上げて、そこには昭和60年を起点とする「家族」の崩壊があるとする。その「理由」について、河野らは以下のように記述する。曰く、

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 85年には、「8時だヨ! 全員集合」(TBS)の放送が終わっいる。ザ・ドリフターズの伸本工事は言う。
「家族そろってテレビを見る習慣があの年、終わったんでしょうね」
 同じ時間帯、フジテレビでは「オレたちひょうきん族」を放送、ドリフを追い落とす勢いだった。ドリフも低俗と批判されたが、その批判も親子が一緒にテレビの前に座っていればこそ。ひょうきん族が家族そろって見る内容には思えなかった。
 85年は「夕やけ二ャン二ャンの放送開始年でもある。当時、秋元康は番組の曲の詞を依頼される際、テレビ局から、「毒を入れて」と言われた。そこから「セーラー服を脱がさないで」が生まれた。
 毒をはらんだ女子高生ブームは93年のブルセラ/援助交際フームヘと直結していく。
 テレクラ。コードレスホン。深夜のコンビ二。若者の夜のライフスタイルを変える「三種の神器」が生まれたのが85年だったのは、だから偶然ではない。
 当時のセブンーイレブンの「いなりずし」CMはこう始まる。
「私は夜中に突然いなりずしが食べたくなったりするわけです。(中略)こんな自分を私はかわいいと思います」
 社会学者の宮台真司によると、いなりずしを買いにいった若い女性が、ついでに雑誌を買う。ページをめくると、テレクラの広告が出てくる。コードレスホン片手に、家族の目がない自分の部屋から電話すれば、見ず知らずの男女が会話を始める。
「コードレスホンと、自室のテレビが普及した頃から、家族の空洞化が始まった。血がつながった家族だけでなく、多様な人間関係を『家族』としないと、帰る場所のない不安な人たちが街にあふれかえることになる」(pp.17)

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 以下、疑問点を挙げるとするならば、第一に、このような事件が起こったのは、本当にそのようなものが原因なのか。もしそれが原因ならば、件の事件が頻発していなければならないのだが、少なくとも少年による凶悪犯罪は減少しているし、また20代の殺人率だって世界に比べれば極めて低い。この記事の筆者らは、本当に現代になって件の如き事件が増えたのか、ということを検証する必要がある。第二に、類似の事件を過去から探すようなことをしなかったのか。第三に、「偶然ではない」(これは本書において繰り返される文言である)と書かれているのだが、それは本当なのだろうか?第四に、宮台真司のいうところの「家族の空洞化」は何を指すのだろう。第五に、たった一件だけの事件をもってして、「家族の空洞化」が進行している、ということはできるのだろうか。

 ちなみに、赤塚行雄の『青少年非行・犯罪史資料』第2巻には、以下のような事件を報じた新聞記事が引用されている。昭和39年、1964年7月の話である。

 東京、三鷹市の上連雀で、慶應大附属志木高校3学年の兄が、同校2学年の弟を殺害した。この犯人は、物盗りが入ってきたのを偽装し、逃亡中には、《事件当夜三人組の賊が侵入、自分はクロロホルムをかがされて、自由を失った》(赤塚行雄[1982]pp.375)という筋書きの元、物盗りの人相や服装、特徴などをノートに細かく記述した。ちなみにこの兄弟の父親は大学教授、母親は女性検事の第一号であった。また、この兄弟は高校に入学してから中学生を集めて野球のチームを作るも、兄(犯人)の独善的な采配からチームは分裂、家庭内でも弟の発言力が重みを増した。新聞報道は、《こんな状態にいたたまれず、F(筆者注:犯人のこと)はオノを振ったのだろう》(赤塚、前掲pp.376)としている。

 さらに、この犯人は、《学校では内気で、友達もいない孤独な少年。また動物に異常な興味を持ち、ネコをハク製にしたり、生きているヘビの皮もはぐ残虐な性格も見られた》(赤塚、前掲pp.376)という。また被害者である弟もまた、チームが分裂してから、家族に対して恒常的に暴力をふるっていたというが、《E君(筆者注:被害者)を知る人たちは、E君がこのような乱暴だったとは考えられないという》(赤塚、前掲pp.375)。

 このような事件がもし現在起こっていたとするなれば、間違いなく多くの自称「識者」たちは、「家族の崩壊」だの「心の闇」だのという言葉で、事件をスペクタクル化するだろう。しかしながら、この事件は昭和39年に起こったもの。というよりも、過去の事件をたどれば、これが現代で起こったら間違いなくマスコミや「識者」たちはここぞとばかりに意味のない「分析」を繰り返すだろうという事件などいくらでもある。

 そもそもこの記事においては、そのようなスペクタクル化さえも、日本人の「劣化」の原因とされている。そしてその発端が、まさに昭和60年の「ロス疑惑」報道であった。ところで、この「疑惑」に関する報道の過熱ぶりは、その後検証され、反省されたのでしょうか(ちなみにこの事件は、最高裁において無罪が確定している)。さらに、同様にスペクタクル化された事件は、例えば平成元年の宮崎勤事件、平成7年の地下鉄サリン事件、平成9年の「酒鬼薔薇聖斗」事件があるのだが、それらについての報道も検証されて然るべきものであるが。「AERA」だって、特に少年犯罪に関して、スペクタクル化された報道を検証するという記事を掲載したのは、寡聞にして聴いたことがない。

 19~20ページでは、「格差」についても語られてはいる。だが、そのいずれも実に下らない話。一つ目が、平成19年に甲子園の常連校、PL学園が予選で敗退したことを採り上げて、以下のように語っている。曰く、

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 07年夏のPL学園野球部は大阪大会の2回戦で敗退した。3年連続で、夏の甲子園出場を果たせなかった。ある野球部関係者はこう説明した。
「大会の成範がよくなくても、進路が約束されるようになった。勝ちに対する執念に差があるんです」
 執念の有無が、上流と下流の間に「隔壁」をつくる。
 神戸女学院大の内田樹は、国立大で授業をした際に学生から「現代思想を学ぶ意味は何ですか」と開かれた。
「(この学生は)ある学術分野が学ぶに値するかについての決定権は自分に属していると表明しているこの倣慢さと無知にほとんど感動しました」
 学ぶことから逃走する学生が増えていることに、著書『下流志向』でそう驚愕している。
 確かに、現在は「努力したら必ず報われる」とは言えない。しかし「努力は報われる」ことを信じるか信じないかで、努力する執念が二極化する。
「きわめて短期間に日本社会を階層化した原因である」
 内田の指摘は重い。
 (略)
  いまだ現役を続けるKK(筆者注:PL出身の桑田真澄と清原和博)は執念に燃えられる最後の世代だ。満創痍の清原は07年夏、ひざにメスを入れて、まだバットを放さない。右ひじのけがと年齢による衰えを努力で克服した桑田は、メジャーのマウンドにしがみついている。(pp.19)

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 はいはい下流志向下流志向。それはさておき、これについてもいくらでも対案を挙げることができる。第一に、PLが甲子園の土を踏めなくなった原因として、他のチームが強くなったというという考えには至らなかったのだろうか。第二に、《ある野球部関係者》(って誰?)のいうところの《大会の成範がよくなくても、進路が約束されるようになった》時代と、そうでない時代の成績の差を、筆者らは説明する必要がある。第三に、何でPLの話から一気に学生一般の話になってしまっているのか。第四に、何も格差(ある意味では、こういう言葉を使うから、内田の如き「格差は経済問題ではない」という輩がのさばるという背景もあるが)や貧困は昨今になって突然降ってわいたものではない。

 もう一つは、昭和60年(もう飽きた)における男女雇用機会均等法の制定が、「男社会に媚びる女とそうでない女」の、いわば「女女格差」を生み出した、という話。どうせなら、昭和60年ならぬ、昭和61年に制定された労働者派遣法を説明したほうがいいと思うのだけれども(派遣法については、門倉貴史[2007]によくまとまっている)。所詮は中森明夫をして「アエラ問題」なる造語を作らせしめた「AERA」、経済や労働環境の問題はスルーなのだろう。

 これだけ我が国が「劣化」したといわれている事象を殊更に採り上げて、そしてその「原因」を探る、というこの記事は、果たして昭和60年のどのような事件に起因しているのだろうか、という皮肉はさておき、この記事において行なわれているものは、この記事の大半を構成しているような、殊更採り上げる必要のない些細なこと(本書冒頭で採り上げられているような、阪神が優勝し、また中曾根康弘が靖国に公式参拝したこの年に、W杯の予選の最終戦(韓国戦)で、多くの若い世代が「全日本」を熱心に応援するようになってから、若年層にとって「愛国心」はファッションとなった、などという議論はその最たる例だ。まあ、これにより、ここ数年で「愛国」ブームが発生した、という香山リカの妄言は否定されたけれども(笑))や、あるいは明らかに一つの原因を同定することが可能な事象(マスコミの犯罪報道の問題など)、また検証不十分な事象(家族内の殺人事件に象徴される「家族の空洞化」)について、ろくに検証せずに、日本人の心性が変化(=劣化)したからだ、と安易に決めつけるような行為である。

 このようなことは、実をいうと類似することを行なっているものが存在する。それは昨今の政権与党、特に教育再生会議に代表されるような教育政策、あるいは「若者の人間力を高めるための国民運動」に代表されるような青少年政策である。要するに、予算や(金と人の)再配分、あるいは労働環境の改善や労働法の遵守などといった次元で解決されるべき問題を、日本人の意識が変化したからだ、という理由で過度に一般化させ、「国民全員で解決しなければならない」と煽るやり方である。そしてそこで用いられるのが世代論であり、また免罪符を与えられるのは権力である。

 何もそこまで話を広げなくても、といわれるかもしれないが、問題解決の優先度を見誤り、あるいは世間の空気に便乗してエビデンスに基づいた検討を怠り、時には真に責任を問われるべき存在を免罪し、あるいは真に問題にすべき事象を隠蔽する。それこそが、昨今の政権与党における教育政策、青少年政策における特徴であると同時に、俗流若者論の特徴でもある。このような青少年問題における、権力とマスコミの共鳴こそが、青少年政策に暗い影を落としている。そのようなことに無自覚なマスコミが多数存在することこそ問題なのである。

 ところで、このような若者論の蔓延は、昭和60年の何に起因するのですか、河野さん、常井さん、福井さん?

 引用文献・資料
 赤塚行雄(編)『青少年非行・犯罪史資料』第2巻、刊々堂出版社、1982年11月
 門倉貴史『派遣のリアル』宝島社新書、2007年8月
 河野正一郎、常井健一、福井洋平「劣化する日本に響く御巣鷹の声を聴け」、「AERA」2007年8月13日・20日合併号、pp.16-21、朝日新聞社、2007年8月

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2007年2月 1日 (木)

俗流若者論ケースファイル83・石原慎太郎&義家弘介

 〈読者の皆様へ〉
 このエントリーを読む前に、サイト「義家弘介研究会」をご一読されることをおすすめします。

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 今日行く審議会@はてな:それって前提が間違っていないのか
 不安症オヤジの日記:「教育を科学したことがない人がインパクト重視でつくった提言」
 冬枯れの街:第8・9回議事要旨公開を待ちながら~義家・草薙の弊害から子どもを守る委員(=ヲチャ)随時募集中~
 女子リベ  安原宏美--編集者のブログ:「モラルが下がって給食費未納」って「神話」じゃないの?
 西野坂学園時報:「ニート利権」にたかるハゲタカ・小島貴子
 保坂展人のどこどこ日記:安倍政権の焦りと教育再生会議への疑問

―――――

 安倍晋三内閣が誕生し、「教育再生」を高く掲げ、その元に教育基本法が改正(というか改悪)されたけれども、この「教育再生」の元となっている理念とは、いったい何なのだろうか。

 戦後レジームからの脱却?私はそういう大言壮語はいらないと思う。なぜなら彼らは、そもそも青少年問題に関して、定量的な議論を元にしていないからだ。つい最近発表された、教育再生会議の第1次報告を見てもそこには単なる精神論ばかりが並び、例えばいじめやそれに起因するとされる自殺に関しては昭和60年頃や平成7年頃にも問題化された(伊藤茂樹[2006])、あるいは少年犯罪は増加ではなく減少している、などという事実認識は、これらの報告からは一切抜け落ちている。

 本田由紀が指摘しているとおり(本田由紀[2007])、教育を科学したことのない人たちがインパクト重視で出した提言(インパクトすらあるかどうかわからない、という疑問もあるが)に過ぎないのである。それに関しては、執筆活動に当たって、教育社会学的なものを軽くかじっている程度の素人の私から見てもわかる。要するに、自らがもう公教育を受けないことにあぐらをかいて、教育という概念で遊んでいるだけに過ぎないのである。

 で、そういうことを推進している人がどういう考えを持っているかと言うことを象徴するかのような資料を見つけた。「諸君!」平成19年3月号に掲載された、石原慎太郎(東京都知事)と義家弘介(教育再生会議担当室長、横浜市教育委員会委員、自称「ヤンキー先生」)の対談「子供を守るための七つの提言」である。この対談は、「いじめはなくせるのか」という特集の枠組みで掲載されているのだが…。

 はっきり言おう、こいつら何もわかってない。この「提言」なるものも、大半がいじめと関係ないものばかりだし、これらが子供を守るための「提言」と本気で言うのであれば、もう子供たちを侮辱しているとしか思えない。むしろこの対談を、今の「教育再生」に賛同している人がいかに短絡的な思考でもって教育を語っているかと言うことを示す証拠として、全国の親御さんたちに読んで欲しい(言い過ぎかな)。

 何せのっけから、

 1. 新たないじめを産むジェンダーフリーの是正

 ですからね。なぜジェンダーフリーがいじめを産むかというと、なんと単に義家が聞いた事例1件だけで、そういう風に断言されてしまうのである。曰く、

―――――

 義家 (略)今のいじめの実態をみますと、これまでには考えられなかったようなケースが頻出しているんですね。たとえば、男子が女子を殴ったり、トイレで男子のズボンを脱がせて女子に見せたり、といったいじめが実際に起きている。

 石原 男が女を殴る?そんなことまで起きているんですか。それは全く論外だね。

 義家 男子による女子のいじめが起きる背景の一つには、近年進められたジェンダーフリー教育が考えられますね。(略)ジェンダーフリー論者に言わせれば「女を殴ることは男として恥ずべきことだ」というごくごく当たり前の規律さえ、男女差別につながるから教えてはならない、というわけでしょうか。

 石原 それは浅薄きわまりない言い分で反論にも値しないが、肉体の優位性を持ったものが弱者を一方的に殴ってはならない、というのは、世界のどこでも共通する超えてはいけない最低限の規律ですよ。日本だけじゃないかな、若い人の間でこんな病的な現象が起こりうるのは。(石原慎太郎, 義家弘介[2007]、以下、断りがないなら同様/125ページ)

―――――

 すいません義家さん、誰がそんなこと言ってるんですか?少なくともそのような考え方は、義家のイメージするところの「ジェンダーフリー論者」はそういっているに違いない、というのに過ぎないんじゃないの?少なくとも義家がそのように主張するのであれば、いわゆる「ジェンダーフリー教育」が蔓延する「以前」と「以後」に比して、どのようにいじめが変質したのか、なおかつそれが本当にいわゆる「ジェンダーフリー教育」が主たる原因なのか、ということを提示しなければならない。義家はそういうことをやっておらず、ただ自分が聞いて驚いた事例を「ジェンダーフリー教育」なるものと安直に結びつけて、今の子供たちと教育を嘆いてみせている。

 一兆歩ほど譲って、少なくとも義家の提示している事例においてはいわゆる「ジェンダーフリー教育」の影響が認められる、今までになかったタイプのいじめであるとしても、今度はそれが本当に全国で広がっているか、ということに関しても検証されなければならない。ましてや石原が《日本だけじゃないかな、若い人の間でこんな病的な現象が起こりうるのは》などと述べるためには、さらに世界各国に対する調査が必要となる。

 さらに石原は126ページにおいても、このように述べている。

―――――

 いまの「体・徳・知」のお話にも重なるけれど、コンラート・ローレンツという動物学者が「肉体的苦痛を左内頃に味わったことのない人間は不幸な人間になる」と説いている。(略)それが今では、冷暖房のないところではいられない、ちょっとでもおなかがすけば冷蔵庫を開けて間食、という環境に子供がおかれていますね。こうした物質的な豊穣が、人間を弱くしていることは間違いない。

―――――

 「間違いない」は長井秀和だけで十分だ。それはともかく、今更ローレンツかよ、どうせならそこで戸塚ヨットスクールを持ち出してくれるとおもしろいのに。閑話休題、ここでもステレオタイプというか、一面的な青少年認識が語られているだけである。

 2. 占領期の亡霊「体罰禁止」通達を廃止せよ

 あーあ、こいつら、歴史に無知なことをさらけ出してしまったよ(笑)。はっきり言います、体罰は、戦前から禁止されていました!現行の法律においては、体罰を禁止しているのは学校教育法の11条、及び学校教育法施行規則の13条であるが、体罰は戦前から禁止されていた。

 体罰をめぐる事例や制度に関しては、広田照幸による先行研究を参照することとしよう(広田照幸[2001]、189~224ページ)。我が国で体罰の禁止が最も早く明文化されたのは、なんと明治12年の教育令である。明治18年から数年は体罰の禁止は消えるが、明治23年の小学校令の改正で、体罰は禁止され、さらに言えばそれは昭和16年の国民学校令の制定まで持ち越される。

 さらに、大正4年1月29日、東京府のある尋常小学校において、教師が授業中にトラブルを起こし、生徒に怪我を負わせた。翌月1日、怪我をした生徒の父親が学校を相手取って訴訟を起こし、この事件は体罰「問題」として発展していくこととなる。そのあと、体罰をめぐって、新聞や教育の専門誌は侃々諤々の意見が飛び交った。裁判のほうも大審院まで持ち越され、翌年6月に被告の無罪が言い渡されるという出来事まであったりする。さらに体罰が裁判沙汰になったことは、明治30年と明治43年にもあった。

 とりあえず、これだけ挙げて、ここは終わりにする。こういう事実を提示したら、こいつらの放言と、問題の多い文部科学省の校内暴力の統計を鵜呑みにした議論なんてなんの意味もないからね。

 3. 携帯電話からの有害情報の遮断を

 少なくとも130ページにおいて、義家がフィルタリングソフトの存在について触れていることは評価できる。でも相変わらず、義家は、携帯電話に関して、悪い面を強調しているのであるが。ここで問題が見られるのは、やはり石原の発言であるが、相変わらず自分の青春を誇らしげに語っているだけなので割愛する。それにしても、石原はいい老後を過ごすことができて実にうらやましいね、自分を相対化できない酒場の愚痴程度の発言が、雑誌に載って衆目にさらされるんだから。

 4. 「親こそ教育の最高責任者」という自覚を持て

 ここも単に若い親に対する愚痴を語っているだけなので割愛。ここでは義家と石原が「ニート」に関して無知をさらけ出している発言を検証しよう。

―――――

 義家 (略)いまニートといわれる人々は、三十になっても親が生活費をくれる。それでは、「自分で生きていこう」「よし、戦ってやろう」などという気持ちにはなり小間線よ。これは、明らかに親が弱くなってしまったからだと思います。

 石原 まったくだね。動物の生態を見ていれば、あるところで子供は乳離れをして巣立っていく。つまり親が突き放すのだけど、ニートの問題をみると、親が子供に甘えていると言ったらいいか、子離れできない親の問題ですよ。(133ページ)

―――――

 何でこういう人たちって、「ニート」及びその親を批判する際には、すぐに動物のアナロジーを出したがるのかしらね。はっきり言いますけれども、青少年の就業機会は近年増加傾向にあるとはいえ低いままだし、非正規雇用が増えているから賃金も低い。こういう野生回帰に見えるような思想こそ、厄介なのである。なぜなら、このようにいかなる状況においても親が子供を突き放さなければならない、と主張することによって、それこそ人間において特有の背景にある経済システムを語ることを放棄してしまうから。ああ、もう何が何だかわからなくなってきた。こういう、いわば「「教育教」の信者たち」(岡本薫[2006])には何を言っても無駄なんだろうな。少なくとも、「ニート」に関する、本田由紀や中西新太郎や乾彰夫や田中秀臣や若田部昌澄などの言説くらい参照したらどうだ。

 5. 教師は「聖職者」たれ

 これも義家が精神論ばかりぶっているところなので割愛。少なくともここで述べられていることは、冒頭で挙げたサイト「義家弘介研究会」を読めば、眉につばをつけて読むべき部分でしかない。

 6. 職業体験を義務づける

 石原。いやあ笑えました。

―――――

 石原 (略)実際に、高校で職業体験をさせると、子供たちが見違えるように生き生きし、いろんなものを掴んできますよ。たとえばガソリンスタンドやファーストフードでもいい、店員に混じって、お客の「ありがとうございました」と挨拶をする。その声が小さいと上役に叱られて、ヤケクソでも大きな声で「ありがとうございましたっ!」と頭を下げると、それは身体的なエクスタシーを伴った体験でもあるし、お客に声が届く、という点でコミュニケーションの快感を体得するきっかけにもなる。(136ページ)

―――――

 《身体的なエクスタシー》《コミュニケーションの快感》って…行き着く先は自己啓発ですか。職業教育であるにもかかわらず、目的はこういう自己啓発的なことって、どこか間違っていないか。このあとに義家は、東京において奉仕の必修化を「大変な前進」と評価しているけれども、第一そういう政策は青少年に関する認識からして根本から間違っていて、って、もう何度も言ってきたので正直うんざりしてきた。

 7. 土曜半ドン復活でゆとり教育脱却

 えー、PISAの学力テストで成績が高かったクラスは、必ずしも授業時間が長いわけではなく…って、こういうことも無視しているんだろうな(まあそもそも、PISAのテスト自体、日本の学力概念とは違うところの学力をテストしているわけだけれども)。

 それはさておき、私が吹いたのは、やはり石原のここ。

―――――

 石原 義家さんみたいに現場の経験があり、若い人の実態を知っていると、非常に具体的に、こうした対策が講じられない限り救われないという実感をお持ちでしょう。いま、教育についてあれこれ言っている識者には、現場を見た上で言っているのか、と問いたいね。(137ページ)

―――――

 そういうことはまず教育再生会議の連中に言ってくださいよ、石原さん。そもそもあの会議に有識者として呼ばれている人自体、教育現場とはほとんど関係ない人たち、関係があったとしても、義家と陰山英男という、それこそメディアがこぞって採り上げるような人でしょ。そもそも義家自体、若年層の実態を知っているかと言うことに関しても、極めて怪しいことは、やはり秀逸なサイト「義家弘介研究会」で言われているとおりである。こういう人に対して、石原はこの対談の締めとして、《政府と横浜市はいい人を迎えたね》(138ページ)と義家を絶賛しているけれども、確かにいい人を迎えたと私は思う、ただし格好の批判材料として。

―――――

 まあ、ここまで義家と石原の対談を批判した来たけれども、正直に言おう。少なくともこの2人に、教育政策を任せられるか、といったら、私は断固として任せてはいけないと思う。なぜなら、青少年に対するネガティヴな思いこみばかりを語り、それで立派な教育論を述べた、と思いこんでいるのだから。前提からして間違っているのではないか、ということを、こういう人たちは考えないのだろうか。

 考えないのだろうな。そもそも彼らは自分にとって都合のいいように青少年の姿を構築しているだけであって、本当に子供のことを考えているわけでもなければ、リスクマネジメントをしているわけでもない。これは、教育基本法が改正(というよりも改悪)されたことにより、軍国主義的な青少年が増える、とか妄想している左側にも言えること。要するに、子供たち、若年層を、自らのイデオロギーの型に強引に当てはめて、その上で遊ぶことしか考えていないのである。この石原と義家の対談はまさにその典型だけれども、こういう右側の妄想じみた教育言説に関して、根本から揺るがすような証拠(少年犯罪の凶悪化を否定する資料の他、探せばいくらでも見つかるものだが)を提示してこなかった左側もまた問題である。

 その証拠に、「教育再生会議」には、真に教育学の専門家といえるような人が一人もいない。これは、左派に属する論壇人や編集者の罪でもある。かの悪名高き「教育改革国民会議」にさえ、専門家として藤田英典が委員となっていたのだが、今の「教育再生会議」には、藤田のような役割を果たす人間がいない。この「再生会議」に限らず、教育基本法「改正」に関する審議においても、高橋哲哉や広田照幸などが承認として発言したものの、彼らの意見は受け入れられなかった。それどころか、昨年末における「オーマイニュース」の教育に関する特別企画さえも、発言者は全て専門家ではなかった。つまり、教育学の専門家の権威が、少なくとも政治とメディアのレヴェルで低下しているのかもしれない、ということだ。

 だからこそ安倍政権の「教育改革」に反対するものは、本田由紀ではないがそれこそ教育を科学するという視点を前面に出し、そういう人がいないことこそ問題だ、というフェイズで批判していくべきである。菊池誠がNHKの「視点・論点」で「蔓延するニセ科学」という論説を発表して話題になったが、左派、特に左派メディアの編集者は、今こそ「蔓延するニセ教育学」という視点でもって、専門家をフルに活用すべきではないか。「軍国主義」だの「精神の支配を許すな」だのといった下らないイデオロギーよりも、「王様は裸だ」と叫び続けることが大事なのだ。左派メディアの受け手もまた、耳学問程度でいいから、教育社会学的な視点を学んだほうがいい。

 引用・参考文献
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』、名古屋大学出版会、2001年1月
 本田由紀「教育再生会議を批判する」、2007年1月29日付朝日新聞
 石原慎太郎、義家弘介「子供を守るための七つの提言」、「諸君!」2007年3月号、pp.124-138、文藝春秋、2007年2月
 伊藤茂樹「「死にたい」気持ちを「わかって」あげるな!」、「論座」2007年1月号、pp.86-91、朝日新聞社、2006年12月
 岡本薫『日本を滅ぼす教育論議』、講談社現代新書、2006年1月

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2006年7月15日 (土)

俗流若者論ケースファイル82・半藤一利&山根基世&常盤豊&妹尾彰&新井紀子

 読売新聞に「子供の危機」みたいなタイトルで掲載されるインタヴューやシンポジウムの記事にろくなものがあった記憶はほとんどない。今回検証するのは、平成18年7月14日付読売新聞に掲載された、「読売NIEセミナー」の第12回シンポジウム「子どもの危機」である。

 御存知の方も多いと思うが、「NIE」というのは「Newspaper In Education」の略語であり、学校などで新聞を教材として活用するという教育法である。これは新聞の利権拡大とか噂されているし、私も現在の新聞が真の意味でのNIEにふさわしいかどうかは極めて強い疑問を持っている。

 そもそも新聞の(正確には「読売新聞の」?)推進するNIEなるものがいかに疑わしいものであるかということに関しては、このシンポジウムの記事、特に半藤一利氏(作家)、山根基世氏(NHKアナウンス室長)、常盤豊氏(文部科学省初等中等教育教育課程課長)、妹尾彰氏(日本NIE研究会会長)、新井紀子氏(国立情報学研究所教授)の座談会の記事を読めばわかってくるというものだ。たとえば妹尾氏は、のっけからこんなことを言い出す。

―――――

 妹尾 子どもが起こす事件が頻繁になっている。人間性の低さ、未熟さから、利己的で自分中心の欲求を満たすことばかりを追い求めているように見える。心の豊かさを取り戻し、精神の貧しさを克服する一翼を担えるのが活字。特に新聞は、読む力、各地から、話す力を発展させる可能性を持ち、社会を知り、問題の善悪を考え、自分の将来を考えるきっかけにもなる。(半藤一利、山根基世、常盤豊、妹尾彰、新井紀子[2006]、以下、断りがないなら同様)

―――――

 あまりに莫迦莫迦しくて、突っ込む気すら失せるんですけど。いやいや、何も私が突っ込みたいところは、少年による凶悪犯罪は昭和35年頃に比して激減しているし、かつても子供による「理解できない」(正確には、もし現代に起こったら直ちにマスコミによって「理解できない」と騒がれるであろう)凶悪犯罪はたくさんある、というところではない(いや、こっちも思いっきり突っ込みたいけれどね)。

 私が本気で突っ込みたいことは、現代の青少年が「心を失っている」などと平然と言ってのけることであり、なおかつそれを取り戻すために必要なことが「活字」であるとほとんど無根拠に言っていることだ。まず、青少年に「心の豊かさ」を「与える」(つくづくパターナリズム的で嫌な表現だが、こういう風に表記するほかないんだよな)ものは果たして「活字」しかできないことなのか?アニメや漫画だって十分に感動的で、なおかつ人生訓的にも深い意味を持った漫画やアニメも結構あるだろう。そもそも「活字」/「非・活字」などという風に暴力的に分割し、「活字」だけがすばらしく、「非・活字」は暴力の泉源である、などと考えるのは芸術に対する死刑(私刑?)宣告と同じではないか?(補記:この部分について、妹尾氏は「心の豊かさを取り戻し、精神の貧困を克服することの一翼を担えるのは活字である」としか言っておらず、「暴力的に分割」ということは言っていないのではないか、と質問を受けました。もちろんその通りではあり、「暴力的に分割」というのは言い過ぎだったかもしれません。その点に関しましては妹尾氏及び読者の皆様に謝罪します。ただ、このシンポジウムの記事全体を見渡してみるに、おそらく登壇者の共通認識として「現代の子供は活字に触れることがなくなったから精神が荒廃したのだ」というものがあるように感じられます。もちろん私のスタンスとしましては「精神の荒廃」と簡単に言ってのけてしまうこと自体疑わしいことであり、また本当に活字「だけ」が「精神の貧困を克服する」とは思えません。この点を私は衝いていきたいのです)ただ表現の仕方が違うに過ぎず、活字でしか表現できないものもあれば、漫画でしか表現できないものもあるし、アニメでしか表現できないものもあれば、ゲームでしか表現できないものもあるのである。

 妹尾氏の如き、自分の時代になかった表現はみんな諸悪の根源だ!みたいな駄々っ子の如き自意識丸出しの自称「識者」たちの暴走は止められないのか。こういう人たちに、たとえば漫画やアニメのDVDを差し出して「すばらしいのでぜひ見てください」と言っても、歯牙にもかけられないんだろうなあ。

 そもそも妹尾氏の考える「心」というものの実体が開示されていないというのもまた問題である。そもそも「正しい心」とはいったい何なのか?それをうやむやにしたまま現代の青少年から「心」が失われている、と言うのは詭弁である。最初から使わないのがよろしい。

 少々筆が滑ってしまったが、この座談会は、とにかくこのような問題発言――新聞以外に、既存の青少年問題言説に懐疑的な本やインターネットの文章(これらを彼らは「活字」とは絶対に見なしたくないだろうね)でも読んでいれば笑い飛ばす程度の代物でしかないもの――が満載なのである。山根氏と半藤氏によるやりとりを見てみよう。

―――――

 山根 電車の中で携帯電話で話をしていても、なぜいけないのかわからない。仕事の話はできるのに、雑談ができない。そういう人に対して私たち大人は、ダメなものはダメ、という気迫が必要では。

 半藤 戦後の日本人から一番失われたのは「世間」。多様な情報を拒否して、目の前にある携帯の情報しか見ない。自分好みの情報、自分にとって便利な情報にしか触れようとしないから、論理も何もない。世間など「面倒くさい」ぐらいにしか考えていない。(半藤ほか、前掲)

―――――

 それなんて俗流若者論?などとあたしは思ってしまったけれども、ここまで若い世代を見下せるのは本当にすばらしいね。速水敏彦あたりに「若者を見下す大人たち」という本を書いて欲しいよ。無理かな、あの人も「若者を見下す大人」だから。

 それはさておき、このやりとりの中にも、山のような事実誤認や中傷が見られる。たとえば山根氏の発言を見てみる限り、《電車の中で携帯電話で話をして》いる人や《仕事の話はできるのに、雑談ができない》という人を「問題である」という前提で語っている直後に《私たち大人は》と語っているから、明らかにこれらのタイプの人は若い世代であると山根氏は認識している。若い世代は電車の中で、携帯電話を用いて行なっていることは電話ではなくてメールではないか?と思うけれども、その程度のことで「道徳の崩壊」みたいなことを嘆いてしまうのもどうかと思うけれども。このような発言が、自己を否定して企業側の求める姿に自分の姿を合わせる、というような「人間力」大流行の状況と見事にパラレルである…と徒に話を広げることは控えておくが(まあ、こう思わないわけでもないけれど)、大人ってそんなに立派なの?などという素朴な疑問はスルーだろう。

 半藤氏も半藤氏だ。大体社会学者による若い世代に対する調査は往々にして、若い世代はむしろ他人のことを気にするようになっている、という結果が出ているのだが(たとえば、岩田考[2006])。さらに言うと、現代の若い世代は、それこそ携帯電話の普及も相まって、むしろ「場」の空気に適応した行動を行なわなければならないと強く認識するようになっている、ともいえるのである。若い世代の行動を批判するにしても、少なくとも人はおしなべて与えられたメディア状況の下で戦略的・戦術的に振る舞わざるを得ず、そう考えれば現代の若い世代も意外としたたかなのだ、という認識ぐらいは持っておくべきだろう。

 少なくとも、携帯電話に関する個人的なイメージや偏見だけを以て現代の青少年を語ってしまう、ということはやめて欲しいし、論理を重視するのであればやめるべきだろう。その点からすれば、論理の重要性を語っている(はずの)半藤氏の発言は極めて感情的だ。

 もちろんこの直後の新井氏における《電車のマナーと世間の崩壊は関係があるが、では世間を復活させられるかと言うことなかなか難しい。ダメなものはダメ、というルールを家庭と社会がしっかり持たなければ》というのもそもそも青少年問題に関する前提自体が間違っている、ということで批判することができる。この発言を受けて発せられた、常盤氏の以下の物言いもまた同様である。

―――――

 常盤 今の若者は社会や世間、他社との関係作りが苦手だ。他人の目を気にせず自分だけの世界を築いて引きこもってしまう。……いまの国語教育は情緒一辺倒に偏りすぎ。論理性を兼ね備えつつ、コミュニケーション技術を高める国語教育の充実が必要だ。

―――――

 《コミュニケーション技術》だってさ。ここで共通の認識として問題視されている青少年のコミュニケーションは「本物」のコミュニケーションではないのだろう。そもそも《コミュニケーション技術》が喧伝されて、なおかつその過程において青少年における、特にインターネットや携帯電話でのコミュニケーションが「本物」ではない、などと喧伝されたからこそ、青少年の《コミュニケーション技術》が低いと錯覚しているのではないか?

 そしてこの座談会の真打ちが、山根氏の以下の発言である――私はこの発言を見て、私はNIEなるものの真意を悟ったように思えた。

―――――

 山根 美術番組の取材をすると、12歳までの体験が生涯を支配する、ということを痛感する。子供時代にどんな風景を見て、どんな言葉に接したかが大切。体験という根っこがあって言葉は育つのに、今の子どもたちは電子メディアの中の仮想体験ばかりで、言葉が育たない。言葉がいかに心地よいものか、人にかかわることがどんなに楽しく感動するかを知れば、その子どもは言葉に対する信頼感を持つ。新聞が社会教育をしていくのと同じに、テレビも、今まで以上に子どもの教育を意識すべきだ。

―――――

 恐ろしい。テレビ・メディアの人間であるにもかかわらず、山根氏が電子メディアを不当に見下していることが。そして、山根氏が「体験」という言葉をひどく狭くとらえている――そしてその「体験」なる言葉は、結局のところ青少年バッシングを正当化するためのロジックとしてしか使われないことが。いかに電子メディアにおいてすばらしい芸術があろうとも、それは「体験」ではない、というロジックによって否定される。

 そしてテレビもまた《子どもの教育を意識》されることを要求される。つまりは「教育的」な番組がもてはやされるということか。そして「教育的」でない――つまり、毎度おなじみのPTAのアンケートにおいて「子供に魅せたくない」番組として名指しされるような番組は排除されるのだろうか。そんなことは考えたくはないが、「教育的」なものばかりだけの環境に置かれれば心は豊かになる、と考えているのだろうか。

 そのようにメディアが「浄化」された状況においては、むしろ「教育的でない」ものに対しての誹謗・監視が強まるだけではないのか。そもそも「教育的」だとか、あるいはその逆の「青少年に有害」というものの基準は、万人にとって共通ではない。「青少年に有害」というものは、結局のところマスコミが「これが原因だ!」と騒ぎ立てられたものに過ぎないのである。たとい凶悪な少年犯罪を起こした犯人の部屋からゲームが見つからなかったとしても、その犯人は「ゲーム世代」ゆえに「ゲームが原因」だと決めつけられる。

 本来NIEとは、このような状況に対する批判意識を育てていくことではないのか。ある報道に対して、どの点に注意して読むべきかを認識し、足りないところに関しては指摘・批判する。そして可能であれば自らデータを引っ張ってくる。そのような方法論をサポートすることこそNIEの真価ではないかと私は思う。

 だが、少なくともこのシンポジウムの記事を読む限りでは、そのような思想は全く感じられない。それどころか、新聞の記事を無批判に受け入れることを奨励すらしているように思える。

 結局のところ、この新聞が理想とするNIEが目標としているものは何なのか?生物の出産のシーンを見て、生命の大切さに感動した、という感想文を書くことか?とりあえず、実際に観察するということを除けば、新聞よりもテレビの動物番組のほうが有利であろうし、一つのパターンの感想文を「正解」とし、教師が求めていないものを書くとやんわりと「不正解」であることを示唆する――「何々とは思わなかったのかな?」などと暗に間違いであることを示す指導をする――という事態は、教師の顔色をうかがって「模範解答」を書くような児童・生徒を増やすだけではないのか?

 それとも、少年犯罪の記事に触れさせて、「今の少年はどこが問題なのか」というテーマで議論させ、「今の親や教育がおかしくなっている」「いや、社会全体がおかしいのである」という議論を闘わせて、「そもそも現代の少年は本当に問題なのか?」「このような取材手法は報道被害を生み出しているのではないか?」などという答えは圧殺し、そして最終的には「今の青少年はおかしいのだ」と大団円になってしまうのか?

 そんなNIEなど願い下げだ!直ちにやめろ!!!!!

――――――――――――――――――――

 ちょうどいい「教材」が見つかったので紹介しよう。

http://newsflash.nifty.com/news/tk/tk__kyodo_20060714tk023.htm

―――――

小中学生「論理」が苦手(共同通信)
 小中学生は作文で論理を上手に組み立てたり、算数・数学で問題の解き方を説明したりするのが苦手 ―。国立教育政策研究所が小学4年~中学3年(計約3万7000人)を対象に実施した「特定課題調査」で14日、こんな結果が出た。03年の国際的な学力調査でも同様の結果が出ており、論理的・数学的思考の弱さがあらためて示された。調査は指導要領の定着状況を検証、指導法改善が目的で今回が初めて。

[共同通信社:2006年07月14日 19時50分]

―――――

 さて、この記事を読んで、「現代の青少年は論理的思考が苦手だ」と思われる人がいるかもしれない。しかし、そのように認識することは正しくない。

 なぜか。そもそもこの記事にあるとおり、国立教育政策研究所の「特定課題調査」は今回が初めてなのである。従って、時系列での調査がなければ(つまり、以前の世代との比較がない、ということだ)、他国との比較もない。また、どのような問題の正答率が低くて、あるいは無答が多いか、ということもこの記事からはわからない。そもそも国立教育政策研究所が何をもってして「読解力が低い」としているのかもわからない。

 また、ここで引用されている《国際的な学力調査》とは、OECDによる生徒の学力到達度調査(PISA)を示すのであろう。しかし、この調査結果を「読解力低下」と結びつけることに疑問を呈する向きもある。たとえば、受験国語に詳しい石原千秋氏(早稲田大学教授)は、件の調査の設問形式に関して、《PISAの「読解力」試験は、「たたき込」んだり、「漢文の素読」をしたりするような梅実の教育では、むしろ点数が下がってしまうような性質のもの》(石原千秋[2005]、42ページ)であることを立証している。そして石原氏は、図表の読解や、文章を批評的に読んでさらに記述することが不足している我が国の国語教育では正答率が低くなることは致し方ない、としている。

 共同通信の配信記事なので短いのはやむないかもしれないが、もし新聞が好んでこの記事だけを根拠に、「衝撃のデータ」などと騒ぐようであれば、地元の学校にその新聞を二度とNIEに使うな、と進言してあげましょう(笑)。

 参考文献・資料
 半藤一利、山根基世、常盤豊、妹尾彰、新井紀子「第12回読売NIEセミナー シンポジウム「子どもの危機」」(2006年7月14日付読売新聞)
 浜田寿美男『子どものリアリティ 学校のバーチャリティ』岩波書店、2005年12月
 石原千秋『国語教科書の思想』ちくま新書、2005年12月
 岩田考「若者のアイデンティティはどう変わったか」(浅野智彦(編)『検証・若者の変貌』勁草書房、2006年2月)
 岡本薫『日本を滅ぼす教育論議』講談社現代新書、2006年1月

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2006年7月14日 (金)

俗流若者論ケースファイル81・梅崎正直&吉田清久&佐藤ゆかり&青山まり&岡田尊司

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 冬枯れの街:ゴーストハント~幽霊の正体見たり枯れ尾花~
 西野坂学園時報:愛国教育に少子化の解決策を求める愚

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 朝日新聞社の「論座」においては、平成17年10月号から、かつて宮崎哲弥氏(評論家)が平成12年5月号から平成15年3月号まで行なっていた週刊誌批評に、新たに川端幹人氏(元「噂の眞相」副編集長)を加えて、対談形式とした週刊誌批評の連載が始まっている。その連載において、宮崎氏も川端氏も、週刊誌の「アエラ化」をしきりに嘆いている。とはいえ、そのような傾向は、私の知っている限りでは――そして宮崎氏も川端氏も十分熟知しているであろう――既に前々から見られていた。

 特に「読売ウィークリー」においては、平成14年頃、有名人の顔が表紙を飾るのではなく、巻頭記事をイメージした絵や写真などが表紙に据えられるようになってから、果たしてこれは「AERA」なのかと疑ってしまうような記事が巻頭に来るようになった。「35歳未婚女」とか「ニート家庭「凄絶」白書」とかいった感じに。部数アップのためかどうかは知らないが、少なくともこういう記事を巻頭に持ってくることが、果たして新聞社の週刊誌がやることか?「AERA」だってもう少しまともな記事を巻頭に持ってくるだろう(ちなみに私は今年に入ってから「AERA」を毎号購読しているが、ざっと見た限りではここ3か月は就職やビジネスの記事が巻頭に据えられることが多い)。「AERA」だって、中森明夫氏が言うところの「アエラ問題」関係の記事は雑誌の中ほどにあることが多いのに、「読売ウィークリー」は堂々と最前面に出してくるのである。本家の「AERA」さえも凌駕してしまったのかと錯覚するほどだ。

 いっそ「アエラ問題」などという言い方はやめて「ヨミィ問題」と呼ぶことにしようか。そもそも「ヨミィ問題」は「アエラ問題」に比して青少年や若い親たちに対する憎悪とか偏見が強い(まあ青少年問題に関しては「アエラ問題」もほとんど同様かもしれないけど)。従って「アエラ問題」「ヨミィ問題」記事は必然的に俗流若者論が出てくる確率が高くなる(『「ニート」って言うな!』で私が採り上げた、「AERA」平成17年4月25日号の、石臥薫子「姉御負け犬と潜在ニート男」はその典型である)。

 そしてそこで出てくる俗流若者論は実に下らないものが多い。B級テイストが実にあふれている。しかしB級テイストがあふれる俗流若者論もまた、若者論コレクターたる私の興味をそそってしまい、結果として収集しては批判したくなってしまう…ああ、コレクターの哀しき定めよ。

 なんて痛い自分をさらけ出している時間ではないので、とっとと文章の検証にはいる。今回検証するのは、梅崎正直、吉田清久(「読売ウィークリー」編集部)、佐藤ゆかり(ライター。政治家ではない)、青山まり(ライター)の各氏による、「読売ウィークリー」平成18年7月23日号の巻頭記事「40歳のセックスレス事情 「女はいらない」男たち」である。

 いや、この記事って、本当に「アエラ問題」っていうか、「ヨミィ問題」っていうか、そのような記事が抱える独特のB級テイストにあふれているんですよね。たとえば最初の1ページで、我が国において40~44歳の男性の7.9%が童貞である、という調査結果に過剰に驚いていたりとか(「第2回男女の生活と意識に関する調査報告書」という統計がソースらしい)。そしてそれについてわざわざ「専門家」にお伺いを立ててみたりとか。そんなの個人の勝手だろう、というあたしの疑問は完全にスルーしますよと言わんばかりに「解説」をつけてみるわけさ。

 そこであたしは一抹の不安感を抱いたんだ。というのもその「専門家」の中には、なんと『脳内汚染』(文藝春秋)の著者である岡田尊司氏(精神科医)が出てきているんだよ!!そしてあたしの懸念はついに現実のものとなってしまうんだが…これに関しては後で述べることとしよう。

 気を取り直して記事の検証作業を続けることとする。まあ、セックスレス、晩婚化、非婚化を過剰に嘆いてみせては何の益体もない「解説」をつけるという前半部分に関しては、はいはい大きなお世話ですよ、以外の感想を持ち得ないのでスルーすることとする。また、アダルトビデオなどがあおるような女性を満足させなければいけない、というイメージがかえってプレッシャーとなっている、という指摘もある程度は的を得ていると思う。だが15ページの最後のほうに入って、雲行きが怪しくなってくる。亀山早苗氏(ノンフィクション作家)が出てくるあたりからである。

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 男女関係の諸相を取材してきたノンフィクション作家の亀山早苗さんは、こう話す。

 「40歳代よりもっとセックスに弱くなっているのは30歳代、20歳代だと思います。彼らと話していると、仕事や趣味優先で、デートやセックスの優先順位は低い。『セックスしなくて何がいけないの』と言い換えされてしまいます」

 亀山さんによれば、30歳代男性に多いのは、女性とのコミュニケーションをいとう傾向だ。女性とのデートは面倒くさい、何を話していいのかわからない――という男性も多い。仕事やパソコンに没頭しているほうが楽。ましてやセックスなど……。(梅崎正直、吉田清久、佐藤ゆかり、青山まり[2006]15ページ)

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 文脈を無視してなぜかパソコンが出てきてしまったのは、ここで一種の複線を引いているからだろう――すなわち、パソコンなどの「ヴァーチャル」に「没頭する」青少年の精神のあり方こそが問題なのだ、という論理に展開させるための。また、ここで都合よく論じる対象を40代から30代以下にシフトさせている。

 さあさあここでやって来ましたよ、伝説の『脳内汚染』の著者、岡田尊司氏のご託宣が。それでは岡田さん、歌っていただきましょう、想いを込めて!!

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 前出の岡田さんは、「しない男性」が増える遠因として意外な指摘をする。「テレビ」だ。

 前出の日本家族計画協会調査の未経験率は、40~44歳男性が7.9%だったのに対し、すぐ上の45~39歳男はゼロだった。

 「両世代間の育ち方の何が違うのかを考えると、そこにテレビがある。40~44歳は、生まれたときから家庭にテレビがあった最初の世代なのです。家族の団欒も、皆がテレビの方を向くようになり、正面から視線を交わして話をすることが少なくなった。そのことが、対女性関係に影響しているのではないでしょうか」

 そして現代の環境に目を向けると……本誌のセックスレス男性アンケートでは、「セックスよりも楽しいこと」に、未既婚者とも「仕事」「パソコン」を多く挙げていた(18ページの囲み記事参照)。

 「パソコンの操作環境、つまり自分の意志通りに対象を操作できる環境に慣れた人は、相手に主導権を持たれると不安、不快になる。恋愛やセックスのような相互的関係は苦手で、不自由に思う傾向があります。また、仕事でストレスが大きくなると、体内でステロイドホルモンが分泌され、性欲低下の原因になります」(岡田さん)

 パソコンと仕事依存。30~40歳代の男性の生活環境に、ごく当たり前にあるものだろう。これがセックスレスを産むのか、逆に、女性と向き合うことを回避するために仕事やパソコンに向かうのか――「ニワトリと卵」のスパイラルの中で、オトコたちの性は衰え、そしてニッポンの少子化は静かに進んでいく。(梅崎ほか、前掲、16ページ)

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 うーん、いいねえ。特に最後における、「オトコ」「ニッポン」というカタカナ表記がすばらしい。このように表記することによって、本来「あるべき姿」である「男」「日本」ではなく、現状が本来「あるべき姿」からは「退化」した「オトコ」「ニッポン」であると嘆くことができ、さらに少子化の原因を全部昨今のそれこそ「オトコ」「ニッポン」のせいにすることができるのだから。

 これは俗流若者論が作るネバーランドである。要するに、経済的原因とか、あるいは脅迫的子育て言説と俗流若者論の蔓延(あたしは特にこの2つが少子化にもたらす影響を無視してはならないと思ってるんだけどね)の検証をスルーし、青少年の「内面」こそが問題であるとすることができるのだから。俺たち大人は悪くない!悪いのはみんな「あいつら」なんだ!という駄々っ子の如き叫びが聞こえてきそうだ。「大人」という無謬の殻に閉じこもる限り、「大人」たちはイノセンスの殻にこもることができる。そして現在、この無謬の殻の役割を果たしているのが、単純に言えば高度経済成長期的な価値観である。これはこの記事に限らず、たとえば「下流社会」論や「かまやつ女」論にも強く見られるものである(って、両方とも三浦展じゃん)。

 岡田氏もまた、これほどまでに単純なメディア悪影響論を信奉しているという姿がまた滑稽である。そもそもこれが精神科医の「分析」なのか、と私は疑ってしまう。そんなことはそこらの俗流保守論壇人にもいえることだ。

 それにしても岡田氏の単純すぎるパソコンに対する理解はどうにかならないものか、このインターネットやネットゲーム全盛の時代に。私はネットゲームはやったことはないけれども、ネットゲームの普及がこれまでのゲームのあり方を変えることは誰にでもわかる話だろう。

 記事の書き手の名誉のために付け加えておくと、19ページには赤川学氏(東京大学助教授)のインタヴューが掲載されており、タイトルの「恋愛至上主義こそ元凶だ!」という内容の通り、むしろ「コミュニケーション能力」重視の傾向こそが問題だ、という良心的な内容になってはいる。しかしこのインタヴューが記事の中でコラムとして引き合いに出されるのではなく、最後の最後で、しかも(統計的に極めて怪しい)セックスレス男性に対する「調査」のあとに書かれているのだから、おそらく読む人はそれほど多くはないかもしれない。第一、この記事自体が「恋愛至上主義」に染まっているし。結局のところ、「どう見てもエクスキューズです、本当にありがとうございました」としか言いようがないのである。赤川氏が気の毒である。

 いや、ここまでねちっこく批判したけれども、私がこの記事の書き手に対してもっとも言いたいことは次の一言に尽きる。

 で、あんたらはこの記事で何が言いたかったの?

 参考文献・資料
 本田透『電波男』三才ブックス、2005年3月
 堀井憲一郎『若者殺しの時代』講談社現代新書、2006年4月
 梅崎正直、吉田清久、佐藤ゆかり、青山まり「40歳のセックスレス事情 「女はいらない」男たち」(「読売ウィークリー」2006年7月23日号、読売新聞社)

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2006年5月13日 (土)

俗流若者論ケースファイル80・産経新聞社説&京都新聞社説

 成人の日と並んで、こどもの日は、新聞社説に俗流若者論が掲載される確率が高くなる日である。昨年に関して言えば、私は「俗流若者論ケースファイル41・朝日新聞社説」で、朝日新聞がこどもの日に掲載した社説を批判した。その朝日は今年、「里親」をテーマに採り上げた社説を書いた。「里親」に関しては、ジャーナリストの村田和木氏などが最近になって本を出したりするような動きがあるけれども、多くの新聞が少子化論に傾いていた中で、独自性としては朝日が全国紙の中では抜きん出ていたように思える。

 もちろん、俗流若者論を掲載した新聞もあった。産経新聞である。今回は産経新聞の平成18年5月5日付社説「こどもの日 孤は徳ならず道しるべに」に突っ込みを入れるわけであるが、最初から最後までまあ俗流若者論で反復されているような文言の繰り返しであるわけで、意外性もほとんどない。というわけで全文を引用する。

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 きょう五日は「こどもの日」、昔風にいえば「端午の節句」である。子供たちの健やかな成長を国民がこぞって祝い、子供たちの幸福を願い、併せて母に感謝する日だ。この「母に感謝する」という文言が国民の祝日法に定められた「こどもの日」の趣旨に盛られてあることを改めて考えてみたい。

 というのは最近、親が子を虐待し、子が親を殺すなどという暗いニュースが後を絶たないからだ。少し前の日本社会は漫画のサザエさんの家族のようにちょっと厳しいが曲がったことを嫌う善良な父親と、無限の優しさで励ましかばってくれる母親と、阿吽(あうん)の呼吸で互いに補完し合って子育てをしてきた家庭というものの仕組みがきちんと機能していた。

 それが急速に壊れだし、家というものが形ばかりの住みかに過ぎず、実質は同居生活に成り下がってしまったという家庭が増えているように見て取れる。新聞ダネになるような破綻(はたん)の場面はなくとも、親と子が互いに無関心で、共に食卓を囲む光景も失われつつある傾向さえ顕在化しつつある。

 戦後の価値観の中で、家というものが否定的にとらえられた反動で、個人の尊重が必要以上に強調された面が否めない。その結果、自己実現とか多様な生き方とかの美名の下、各自がそれぞれの言い分を譲らず、自分以外はみな利害の対立者というようなぎすぎすした社会をつくってしまったことは、率直にいって反省されていい。

 今の子供たちは他とのコミュニケーションが圧倒的に下手だという。友達とメールをしても、互いが自分の言いたいことを言っているだけで、実質的な対話が成り立っていない場合が多いそうだ。個人主義が実は「孤人主義」を生んでしまったのである。

 人間は一人では生きられない。この当たり前のことをもう一度確認して、児童の権利に関する条約にうたうように「家族が、社会の基礎的な集団として、並びに家族のすべての構成員特に児童の成長及び福祉のための自然な環境」であることを思い返してみたい。家庭を大事にする社会が望ましい。

 「徳は孤ならず、必ず隣あり」と論語にいう。逆もまた真だ。「孤は徳ならず」。こどもの日を機に、それを社会共有の道しるべとしたい。

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 もちろん、児童虐待自体は昔からあったわけだし、「児童虐待」という問題の構築は明治以来幾度か繰り返されてきたことである(上野加代子[2006])。最近になって急増した「かのように見える」のは、それが何度も報道されるようになったからであって、統計的には子殺しもまたここ20年の間に減少しているのが実情なのである(「スタンダード 反社会学講座」内「第24回 こどもが嫌いなオトナのための鎮魂曲」)。

 また、この記事における「伝聞」的物言い――《最近、親が子を虐待し、子が親を殺すなどという暗いニュースが後を絶たない》《実質は同居生活に成り下がってしまったという家庭が増えているように見て取れる》《今の子供たちは他とのコミュニケーションが圧倒的に下手だという》――や論証抜きの断定――《戦後の価値観の中で、家というものが否定的にとらえられた反動で、個人の尊重が必要以上に強調された面が否めない》《自己実現とか多様な生き方とかの美名の下、各自がそれぞれの言い分を譲らず、自分以外はみな利害の対立者というようなぎすぎすした社会をつくってしまった》――の多用もまた、俗流若者論においてはよく見られるものだ。青少年のコミュニケーションに関しては、いわゆる「希薄化」という一方的な視点を相対化する試みがいろいろなところで行われている(例えば、浅野智彦[2006]、岩田考、羽渕一代、菊池裕生、苫米地伸[2006]、など)。

 それらの研究が共通して指摘するものは、いずれも「希薄化」といっても、何のどのような状態をもってして「希薄」というのか、という点が問われなければならない、ということだ。青少年のコミュニケーション能力の「低下」、ならびにコミュニケーションの「希薄化」を批判する言説の多くが、結局のところはある一つの「理想」に固執している。そのような論理は空疎な「理想」の押し付けでしかない。

 それにしても本当にどうにかしてほしいのは、《戦後の価値観の中で、家というものが否定的にとらえられた反動で、個人の尊重が必要以上に強調された面が否めない。その結果、自己実現とか多様な生き方とかの美名の下、各自がそれぞれの言い分を譲らず、自分以外はみな利害の対立者というようなぎすぎすした社会をつくってしまったことは、率直にいって反省されていい》などというくだりである。

 嗤うべし。まず「個人の尊重」なる概念が、産経新聞やその主張に賛同する人にとっては「敵」であることをかんがみれば、この文章は結局のところ私憤を自分の不快に思っているものに押し付けているに過ぎない。また、治安は決して悪くなっているわけではない(河合幹雄[2004]、浜井浩一[2006]など)わけだが、マスコミは(虚像に過ぎない)「治安の悪化」を必死であおり、また社会を構成する人々もまたそのストーリイを積極的に受け入れ、かえって「不安」によって地域の結束を高める、という事態が起きている。

 結局のところこの社説は、自分の生きてきた環境を肯定して、そこから「外れてしまった」現代社会を誹謗し、そして自分の不快なものを「解決」するには自分の生きてきた環境こそが一番…などといっているようなものなのであって、きわめて空疎なものに過ぎない。いい加減、このような「憂国」のお遊びに戯れるよりも、まず現代の青少年についてもっと世の中の不安を少しでも鎮めるような記事や社説を書いたらどうですか?

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 ただ、こどもの日の社説で私がチェックしたのは、読売、朝日、毎日、産経、東京の5紙だけである。したがって、地方紙に関してはチェックしていないのだが、どうやら地方紙にもこどもの日にかこつけた俗流若者論があったようだ。「冬枯れの街」の「警察庁による「バーチャル社会の弊害から子ども守る研究会」設置第5章~第1回議事要旨「痴愚神(義家弘介)礼賛」~」というエントリーのコメント欄で紹介されていた、同日付の京都新聞の社説「こどもの日  IT利用法をよく考えよう」である。

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 現代の子どもたちを取り巻く環境は、十年、二十年前と比べれば大きく変わった。
 子どもたちの親の世代は、生まれた時に家庭にテレビがあったから「テレビ世代」といえる。
 今の子どもたちは、幼児期からパソコンや携帯電話(ケータイ)などのIT(情報技術)機器に囲まれて育った「IT世代」と呼べるだろう。
 二十一世紀はIT革命の時代といわれるが、この波を現在と将来の子どもたちが直接受けることは間違いない。
 教育評論家の尾木直樹氏は、インターネットの普及の影響を軽視してはならないと指摘する(「思春期の危機をどう見るか」岩波新書)。
 大人とのボーダーレスな情報の受発信で子どもたちに新しい可能性をもたらす半面、複雑な思春期の発達に悪影響を及ぼすことがあるという。
 とりわけ最近の急速なケータイやインターネットの普及は、いろいろな問題を引き起こしている。
 尾木氏は東京都内の中学でのアンケート調査を基に▽寝不足による遅刻登校など生活習慣の乱れ▽友人とのトラブル▽出会い系サイトで犯罪に巻き込まれる可能性-などの問題点をあげる。
 友人との過度のメール依存や詐欺メールの被害もあり、学校や家庭で何らかのかかわりが求められる。

情報モラルが必要だ
 現実に各地の消費生活センターに寄せられた子ども(六-十七歳)の消費相談は、一九九五年度の約二千件が二〇〇四年度には約六万四千件に増えた。
 〇四年度の相談内容は九割以上が「情報通信サービス」関連である。興味本位でアダルト系サイトに入って高額の料金を請求されたことなどに関する相談が多いようだ。
 子どもたちは「情報犯罪」に対して、全く無防備の状態に放置されているといえる。それだけに、子どもたちにITのマナーや情報モラルについて早急に教える必要がある。
 どんなに便利なIT機器でも使い方を誤れば、いろんな危険性があることを知らせることが大切だ。インターネット教育では子どもが「被害者」になる場合だけでなく、「加害者」の場合も想定して実行することが肝要である。
 尾木氏は情報モラル教育の要点として▽小中学生には子どもだけでホームページを開設させない▽子どもたちが有害サイトへアクセスできないシステム(フィルタリング)を導入する▽利用時間に制限を設ける-などをあげる。いずれも妥当な対応策だ。
 文部科学省は現在、有識者などによる研究会を設置し学校での情報モラルの指導方法を検討、〇六年度内に指導用資料をまとめる計画を立てている。できるだけ速やかに指導を徹底してほしい。

ゲーム依存の予防を
 長時間にわたるゲームやインターネットの危険性を警告する、精神科医の岡田尊司氏の近著「脳内汚染」(文藝春秋)は衝撃的な内容だ。
 岡田氏はゲームには「麻薬的な依存性がある」と指摘する。ゲームができないとイライラし、ゲームを止められると暴力的になるなどの症状を示す子どもたちが多くなっているというのだ。
 さらにゲームに耽溺(たんでき)すると、何事にも無気力・無関心になり、不登校、家庭内暴力、ひきこもりの領域に入っていくと述べる。
 岡田氏の主張に対しては他の精神科医などから反論や批判が出ており、まだ定説とは認められていない。
 とはいえ従来、ゲームやインターネットにあまりにも夢中になると、家庭での勉強時間が短くなり、食事や睡眠が不規則になって生活態度が乱れがちになることは分かっている。
 それなら、ゲームなどに重度の依存にならないよう各家庭で十分に気を付けることが肝要だ。ゲームにのめり込む危険性について、子どもにきちんと話すことも必要である。
 これまで、ゲームが子どもに与える影響を調査した研究はまだ少ない。今後さらに実証的な研究が進み、その成果が発表されることを望みたい。

リアルな体験が大切
 ゲームの世界はバーチャルリアリティー(仮想現実)の世界である。ゲームにおぼれると、実際の現実と仮想現実とを混同する危険性がある。
 この混同を防止するには、子どもたちにリアルな体験をしっかりとさせておくことが必要だ。
 幼児期に自然の美しさを実感させ、小動物とふれあうことは、成長後に重要な意味を持つだろう。
 子どもにテレビやビデオを長時間見せるのではなく、親が子どもに語りかけることの大切さも見直したい。
 子どもを誘って家族や友人と一緒に戸外に出かけたり、スポーツを楽しむ機会を多く持つことを心がけよう。
 ケータイでの会話やメールだけではなく、お互いが面と向かって対話をすることが大切だ。
 若者からは「メールの方が親密にコミュニケーションできる」「メールをしていないと不安」などの声も出そうだが、メール依存症にならないよう、ITをうまく使ってほしい。
 四月一日現在の子ども(十五歳未満)は約千七百万人。二十五年連続の減少だ。一人ひとりはかけがえのない存在である。「こどもの日」にあらためて健やかな成長を願いたい。

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 これも最近多方面から批判されている、コミュニケーション「希薄化」論と、ゲーム悪影響論でしかない。

 とりあえず私の「子供たちとIT環境」というものに対する立場を述べさせてもらうと、少なくとも京都新聞の社説子が書いているような、《子どもたちは「情報犯罪」に対して、全く無防備の状態に放置されているといえる。それだけに、子どもたちにITのマナーや情報モラルについて早急に教える必要がある》などという物言いは、子供の主体性を無視した暴論と考えている。なぜなら、子供でもそれなりの常識は持ち合わせており、「見たくない」と判断したサイトは見ないことぐらいできるだろうと考えているからである。このような物言いの前提としているものは、子供たちは好奇心旺盛で何でも見たがるけれども、それの抑止力となるものはなく、残虐な性描写や暴力描写の影響を簡単に受ける、というものであろうが、まさに子供をなめているのか、としか言いようがない。

 もちろん、例えば「出会い系」やフィッシングなどの「決まり手」とか、あるいはウェブ上における個人情報の取り扱いなどは教える必要はある。しかし、子供は無垢である=なんでも見たがるし、なんにでも影響を受ける、などという見方は、繰り返すが子供の主体性を無視した暴論に過ぎない(このような物言いは、何も俺のブログがキッズgooからはじかれていることに対する逆恨みからきているんじゃないよ。大体俺のブログのどこにいわゆる「有害」情報があるの?「ある言葉」を使っているからそのブログは「有害」だ、というものは、単なる言論封殺でしかない)。

 「リアルな体験」というくだりについても――これも俗流若者論の常套文句なのだけれども――、「実際の現実と仮想現実を混同している」、だから凶悪な犯罪が起こるのだ、という認識なのだろうが、むしろ「治安の悪化」「少年犯罪の急増」こそが「仮想現実」といわれるべきものであり、またゲームを通じてさまざまな体験ができるという可能性も決して封鎖してはならない。ゲームだから「体験」ができない、というのは、表現の幅を狭めるものでしかない。

 とりわけ私が頭を抱えてしまったのは、岡田尊司氏(精神科医)の著書『脳内汚染』(文藝春秋)を《衝撃的な内容》と書いているくだりである。そりゃ衝撃的に感じますわな、だってあの本にはゲームの「悪影響」が「衝撃的」であることを強調する「ためにする」資料しか提示されていないのだから。ゲームに耽溺すると無気力になるぞ、「ひきこもり」になるぞ、家庭内暴力を起こすぞ、などという扇動は、自分の「気に食わない」ものに関して、自分の子供時代にはありえなかったものに難癖をつける、というきわめて身勝手なものでしかない。

 というよりも、青少年の「無気力化」なんて、故・小此木啓吾氏の業績を引き合いにするまでもなく、ゲームやインターネットのなかった時代から言われてきたことだ。少年犯罪にしても、過去の事例をさかのぼれば、これが現代で起これば明らかに報道洪水が起こるだろう、という事件がよく見られる(赤塚行雄[1982-1983]を参照。ただ、この赤塚氏も、最近では俗流若者論に染まりつつあるようだけど…。安原宏美氏(フリー編集者)のブログ「女子リベ」の「おじさんの見分け方」を参照されたし)。

 まあ、通俗的な青少年問題言説が、このように同じことの繰り返しで不安をあおり続けられる、言説体系であることは、ずっと前から気づいていた。我々に求められることは、むしろこのような不毛な青少年バッシングに終止符を打つことではないか――ということも何度も繰り返してきたように思う。

 とはいえ、通俗的な青少年言説は、政治の場面にもじわじわと影響を及ぼしてきている。その際たるものが教育基本法の改正案だし、メディア規制やいわゆる「活字文化推進法」などといったものもその範疇に含まれよう。青少年に対する誤ったイメージを基にして、国民の自由が剥奪されていく、という過程は、いい加減見たくないものだ。でも、見ざるを得ないのかなあ。

 参考文献・資料
 赤塚行雄『青少年飛行・犯罪史資料』全3巻、刊々堂出版社、1982年3月(1巻)、1982年11月(2巻)、1983年5月(3巻)
 浅野智彦(編)『検証・若者の変貌』勁草書房、2006年2月
 浜井浩一(編著)『犯罪統計入門』日本評論社、2006年1月
 岩田考、羽渕一代、菊池裕生、苫米地伸(編)『若者たちのコミュニケーション・サバイバル』恒星社厚生閣、2006年3月
 河合幹雄『安全神話崩壊のパラドックス』岩波書店、2004年7月
 芹沢一也、安原宏美「増殖する「不審者情報」――個人情報保護法という呪縛」
 上野加代子(編)『児童虐待のポリティクス』明石書店、2006年2月

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2006年4月14日 (金)

俗流若者論ケースファイル79・読売新聞社説

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 冬枯れの街:警察庁による「バーチャル社会の弊害から子ども守る研究会」設置~オタク表現の危機「パンを捨て剣を持て!」~
 アキバの王に俺はなる!:教育基本法改正は少年犯罪とニートの増加によるもの
 保坂展人のどこどこ日記:教育基本法と「愛国心」の行き着く先は(保坂展人氏:衆議院議員・社民党)
 西野坂学園時報:福笑い読売(1)…「子育て>>キャリア」??

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 読売新聞の、教育や青少年に関する社説の問題点については、これまで2度ほど述べてきた。連載の第15回第72回である。その中でも、特に第15回において検証した平成17年3月16日付社説のほか、年の最初のほうで掲載される社説などに見られる傾向であるが、やたらと青少年問題の「原因」を、青少年における「愛国心」の欠如に求め、教育基本法の改正を主張する、という特徴が強く見られる。第72回で検証した社説には「愛国心」に関する記述はなかったけれども、それはほとんど例外といってもいいほどだ。

 というわけで、今回検証するのは平成18年4月13日付読売新聞の社説「[教育基本法]区切りがついた「愛国心」論争」である。この社説もまた、教育や青少年問題に関する同様の社説と同様、執拗に「愛国心」を教育基本法に入れることを求めるとともに、社説における青少年問題に対する認識の乏しさもまたひけらかしている。

 問題の多い、次のくだりを見てみよう。

 そもそも、不毛な論議に終始していられるほど、日本の教育は楽観できる状態にない。

 戦後間もない1947年に制定された現行法は、「個人の尊厳を重んじ」などの表現が多い反面、公共心の育成には一言も触れていない。制定当初から、「社会的配慮を欠いた自分勝手な生き方を奨励する」と指摘する声があった。

 青少年の心の荒廃や犯罪の低年齢化、ライブドア事件に見られる自己中心の拝金主義的な考え方の蔓延(まんえん)などを見れば、懸念は現実になったとも言える。

 自公両党は、改正案に「公共の精神」を明記することでも合意している。「親こそ人生最初の教師」との考えから「家庭教育」の条文も新設し、ニート(無業者)の増加を念頭に、「勤労の精神の涵養(かんよう)」を盛り込む。

 日本社会の将来のしっかりとした基盤を作る上で、極めて重要なことだ。教育基本法の改正は時代の要請である。

 (平成18年4月13日付読売新聞社説、以下、断りがないなら同様)

 まず、基本的な間違いを指摘しておこう。まず読売の社説が好んで引き合いに出す《青少年の心の荒廃や犯罪の低年齢化》だけれども、これははっきりいって根拠が乏しい、ということに関してはこれまでも再三述べてきた。というわけで同じことの繰り返しになってしまうが、口をすっぱくして言うと、少年による凶悪犯罪はピークの昭和35年ごろに比して著しく減少しており、過去の事例にあたってみれば(赤塚行雄[1982-1983])、もしこの事件が今起こったらマスコミは喜んで「理解できない」という論調を繰り返すだろうな、という事件はかなり多く起きていることもわかる。あまつさえ《青少年の心の荒廃》なる記述は、それがほとんど常套文句と化しているゆえ、どのようなことを指すのか、ということがあいまいである。

 そもそもこの社説の書き手は青少年の心が本当に荒廃している、と考えているのかもしれないけれども、「心の荒廃」とは何か?結局のところ、マスコミが面白がって報じる若年層の「問題行動」でしかないのではないか?ちなみに社会学者の浅野智彦氏らのチームの行った調査では、青少年の道徳意識は交代しているわけではない、というデータが出ている(浅野智彦[2006])。

 また、このくだりにおいて、この社説の書き手が不満に感じていること――すなわち、いわゆる「青少年の心の荒廃」なるものやライブドア事件――の原因がすべて「教育」であるとはっきりと述べられている。青少年がらみのことに関しては先ほど批判的資料をあげたけれども、ライブドアに関しても、ひたすら「教育」を連呼して、それ以前の制度の問題や合意形成、および罰則の規定について政治の責任が問われることはないのだろうか。そもそもライブドアは経団連の求めた(!)規制緩和によりインターネット事業よりも企業買収を繰り返すことがビジネスモデルとなってしまった、という側面も確かに存在する(大鹿靖明[2006])わけであり、それに関する議論はあまり行われておらず、せいぜいライブドアがフジテレビの株を取得しようとした頃くらいであろう。

 何でもかんでも「教育」の責任にしてしまうことは、さまざまな弊害を持っており、そしてこの社説はその弊害を見事に示している。「教育」という言質を振りかざすことによって、自分が不快に思っている問題を個人の精神の問題にすることができ、制度や政策は一切不問になる。さらにこのようなことによって、同じ世代がいつホリエモンになるかわからないぞ!と脅しをかける効果が生じる、要するに一つの世代(あるいはその世代以前の世代も含む)も一緒くたに敵視することができる。

 だが、精神主義ですべてが解決できる、と思い込むのは、それこそ「大東亜戦争」的な考え方ではないだろうか。また、極端な一人をベースにして一つの世代を丸ごとバッシングしてしまう、というのは、単なる差別でしかないのではないか。

 そして、このような考え方こそが、昨今の教育基本法、さらには憲法までも変えようとしている動きを支えるものであるということに、私は一種の恐ろしさを覚えてしまう。要するに一つの世代を敵視した上で、憲法や教育基本法を変えようとしているのである。そしてこのような挙動は、マスコミが現代の青少年を怪物のごとく報じるような論調なくして成り立たなかったと見て間違いないだろう。この文章において、ライブドアが経団連ではなく「今時の若者」の延長として語られているところを見ても、その構図は浮かんでくる。

 そのようなことは「ニート」についてのくだりにも言えることで、「ニート」は本当に問題なのか、あるいは企業や政治の問題は無視なのか、という反論が直ちに浮かんでくる。

 そして読売の社説には、《教育基本法の改正は時代の要請である》などと書かれている。嗤うべし。青少年言説に対してろくな検証も行わないまま「時代」を作り上げてきたのは、ほかならぬマスコミである。

 しかしこの問題には左派にも責任がある。第一に、左派もまた青少年をイデオロギー闘争の対象にしてきたこと。左派の文言として用いられる、「教育基本法を改正して「愛国心」を押し付けると戦争を肯定するようになったり、他者への想像力が失われる」というものもまた、青少年を莫迦にした物言いでしかない。第二に、左派の少年犯罪に対する認識が、その大部分において右派と共有していることである。というのも、右派が少年犯罪の根源として「愛国心」や父性の欠如を槍玉に挙げるのに対し、左派は少年法・教育基本法の改悪に反対しながらも少年犯罪の根源を「適切な愛」なるものの欠如、あるいは「ライフハザード」などというわけのわからぬものに求め、結局のところ澤口俊之や「ゲーム脳」などといった疑似科学を肯定してしまう(小林道雄[2000-2001]、瀧井宏臣[2004]、清川輝基[2004])。

 だが、左派がとるべき行動は違う。右派の挙動に対し、左派は青少年問題言説の虚妄を指摘し、(若者論による)教育基本法や憲法の規制、及びメディア規制を支える基盤それ自体を突き崩すべきなのである。今のところそのような行動を採っている衆議院議員としては泉健太氏(民主党)や保坂展人氏(社民党)あたりを挙げることができるけれども、このような動きはもっと大きくなるべきで、相手が俗情に訴えてくるのに対し、こちらは理詰めで攻めるべきだ。「国歌の品格」とか言っている人に何を言われてもひるんではいけない(そもそもありもしない「少年犯罪の急増・凶悪化」をでっち上げて「品格を取り戻せ!」っていっている人よりも、「少年犯罪の急増・凶悪化」を酒の肴にしている人たちを批判する人のほうがよほど「品格」があるよね)。

 参考文献・資料
 赤塚行雄(編)『青少年飛行・犯罪史資料』全3巻、刊々堂出版社、1982年3月(1巻)、1982年11月(2巻)、1983年5月(3巻)
 浅野智彦(編)『検証・若者の変貌』勁草書房、2006年2月
 浜井浩一(編著)『犯罪統計入門』日本評論社、2006年1月
 本田由紀、内藤朝雄、後藤和智『「ニート」って言うな!』光文社新書、2006年1月
 広田照幸『《愛国心》のゆくえ』世織書房、2005年9月
 清川輝基「「メディア漬け」と子どもの危機」(「世界」2003年7月号、岩波書店)
 小林道雄「少年事件への視点」(「世界」2000年12月号~2001年3月号、岩波書店)
 岡本薫『日本を滅ぼす教育論議』講談社現代新書、2006年1月
 大鹿靖明「小泉と経団連が太らせた」(「AERA」2006年2月6日号、朝日新聞社)
 芹沢一也『ホラーハウス社会』講談社+α新書、2006年1月
 瀧井宏臣『こどもたちのライフハザード』岩波書店、2004年1月

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2006年1月30日 (月)

俗流若者論ケースファイル78・毎日新聞社説

 毎日新聞の社説は、なぜかくも激しくロリコン・メディアをバッシングするのだろうか?今回検証する文章は、平成17年12月3日と、平成18年1月18日両日の毎日新聞の社説である。前者のタイトルは「相次ぐ幼児殺人 社会もどこかが病んでいる」で、後者は「宮崎事件 類似犯防ぐ環境整えよう」である。タイトルが示している通り、前者は相次ぐ児童殺人事件を論じたもの、後者は平成18年1月17日に上告が棄却され死刑が確定された、所謂「宮崎勤事件」を論じたものである。

 これら2つの社説は、平成17年のほうの社説にあるとおり、この時期頻繁に報道されていた幼児殺人事件と「宮崎勤事件」をつなぐものは《幼児ポルノのはんらん、暴力を是認するような俗悪なゲームの流行などの世相》(平成17年12月3日毎日新聞社説、以下「平成17年社説」と表記)であるという。しかし、犯罪統計書によれば、幼児を狙った殺人事件、及び幼児を狙ったレイプ事件は、ここ20年くらいでほとんど増加しておらず、更に30年くらいのスパンで見れば減少が明らかである(殺人に関しては、芹沢一也[2006]を参照されたし)。そのようなデータを示したりしないで、徒に犯罪不安を煽ったり、更には自分には「理解できない」ものに対する不安を煽り、(暗に)規制を求める――要するに、自分の責任を考慮しないまま、他人のせいにする――という行為は、文章を書くものとしてのモラルが欠如しているとしかいえない。

 これら2つの社説の特徴として、自説に都合のいい「専門家の指摘」を、その正当性を検証せずに引用してしまうことだ。《精神科医や心理学者らは、幼児期に子ども同士で思いきり遊ばせることがなくなった最近の教育やしつけの影響だと指摘している》(平成17年社説)や《1、2審の審理でも犯行とビデオとの相関関係は解明されなかったが、専門家は、映像は性的欲望を刺激して性犯罪を誘発する、とポルノビデオの横行に警鐘を鳴らした》(平成18年1月18日毎日新聞社説、以下「平成18年社説」と表記)というのがそれだ。だが、少なくとも犯罪統計はそのような「指摘」なるものを支持するわけではないし、また科学的にも直接的にポルノ映像がそのまま性犯罪に結びつく、ということは支持しない。
 さらに、こと「宮崎勤事件」に関して言えば、評論家の大塚英志氏が繰り返し発言している通り(朝日新聞など)、宮崎死刑囚の部屋から押収された物品に関して、所謂「児童ポルノ」と呼ばれる代物は極めて少数に過ぎず、それ以外はごくごく普通の――つまり、世間から「有害」視されていない――雑誌やらヴィデオだった。また、平成17年11月の栃木県今市市の事件に関しては、いまだに犯人は捕まっていないのである(平成18年1月28日現在)。それにもかかわらず、犯人の「人格」を安易に決め付けて、更にそこから飛躍して「社会の病理」なるものをでっち上げてしまうという行為もまた、書き手の思い上がりでしかない。

 精神科医の斎藤環氏は、広島市における幼児殺人の犯人がペルー人だと知ってから、即座に「心の闇」を詮索することをやめてしまった、ということに関して、「心の闇」なるものが詮索されるのは「若者」だけなのか、と極めて素朴な疑問を提示していたのだが(「ゲームラボ」平成18年1月号、三才ブックス)、毎日の社説子はこのような問いかけに答えることができるのだろうか。

 それ以外にも、例えば《他方で幼児性愛をファッションとするかのような見方もはびこり》(平成18年社説)という言い方は、何をさしているのかわからない。もし「オタク」やら「萌え」やらを指している、というのであれば、そのような物言いは「幼児性愛」=犯罪者、という極めて一方的な誤解に基づいているとしか言いようがない。ついでに言うと《続発する痴漢やわいせつ事件をみても、なぜか性モラルに寛容な風潮が改められないが》(平成18年社説)という表現も見られるが、だったら一方的に少女を問題視して大人の男には問題はない、とでも言わんばかりの「援助交際」論も批判してくださいね。

 これらの社説、特に平成18年社説は、結局のところ論説委員の「憂国」エッセイに過ぎない。《衣食足りれば礼節を知るものだとの思い込みも禁物だ。人はむしろ衣食が足りて差し迫った目標を失った時に、好奇心にかられて興味本位の行動に走りがちだとも心得ていたい。豊かな時代ほど人の輪、社会のきずなで支え合って生きねばならないということだ》(平成17年社説)だとか、あるいは《幼児性愛者が人間関係を結ぶのが苦手で、年相応の女性と交際ができないと言われることを踏まえ、子供のころから遊びやスポーツ、趣味などを通じて円満な人付き合いを促す工夫も凝らさねばならない。今回の判決を機に、教育やしつけのあり方も見直したい》(平成18年社説)などという、既に多くの専門家によって論破し尽くされている(本当に論破し尽くされているので関連書をいちいち取り上げても仕方がないので、とりあえずわかりやすい関連書として、広田照幸[1999]と内藤朝雄[2006]を挙げておく)俗説がことごとく真実であるかのごとく引用されているということが、その証左となろう。

 相次ぐ毎日社説子の狼藉に読者も腹が立ったのか、平成18年1月26日付毎日新聞には、「させてはならない“悪書狩り”」という投書が掲載されたらしい。

――――――――――――――――――――

 毎日新聞社が発行している、アニメ・ゲーム・漫画専門の無料タブロイド紙「MANTANBROAD」を、私が初めて「ゲーマーズ」仙台店で手に取ったのは、平成17年5月のことだ。その号の巻頭記事は「「残虐」とゲームが有害図書に」というもので、これは毎日新聞デジタルメディア局員の河村成浩氏で(ちなみに河村氏は同紙の書評ならぬゲーム評のページにも執筆しており、そのプロフィールによれば「全国紙唯一のゲーム専門記者」らしい)、全体として「残虐」ゲーム規制に批判的なトーンであり、「松文館裁判」で被告側=出版社側の代理人である、弁護士の山口貴士氏のコメントにおいても、《ゲームが青少年の暴力的行動を誘発するという明確な根拠がないままに、規制だけを強化する動きが理解できない。一部分だけにスポットをあてて、青少年を取り巻く環境に目が届いていないのでは。規制をして効果があるかどうかも疑問だ》(河村成浩[2005])とゲーム規制が批判されている。ゲーム規制問題に関しては、平成17年の最終号にあたる平成18年1月号(平成17年12月25日発行)の特集「総まとめ!05年注目コンテンツ」のゲームに関する記述においても(これも執筆者は河村氏)、「業界揺らした有害図書指定」なる見出しでここでも「有害」ゲーム規制を批判的に書いている。

 「MANTANBROAD」の発行元である毎日新聞デジタルメディア局は、「まんがたうん」というウェブサイトを主宰しており、更に「まんがたうん」名義でコミックマーケットにも出展している。また「MANTANBROAD」においては、毎号アニメDVD・ゲーム・漫画・書籍のレヴューが掲載されている。また同紙においては、連載漫画(「魔女の妹ドッカ~ン!」(森野あるじ氏)、「ふんじゃかじゃん」(天広直人氏))も掲載されており、どちらの連載においても、明らかに一部のキャラクターのデザインが幼女を意識しているかのように見える。

 そればかりではなく、毎日新聞社は、声優の阿部玲子、南条愛乃、森嶋仁美の3氏がエンターテインメント関係のニュースを読み上げる「毎日新聞ポッドキャスト」というサーヴィスを行なっている(ちなみに阿部氏に関しては、宮崎羽衣、近江知永の2氏と阿部氏がパーソナリティを務めているラジオ番組を私はほぼ定期的に聴取しているので、名前は知っていた)。

 毎日新聞論説委員の、これらの社説を書いた人は、まず身内から潰していってはいかがだろうか?(そして個人的には、殴り込みに行ったところで河村氏あたりに返り討ちにあうことを期待しているのだが)

 参考文献・資料
 広田照幸[1999]『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書、1999年4月
 河村成浩[2005]「「残虐」とゲームが有害図書に」=「MANTANBROAD」2005年6月号、毎日新聞社
 内藤朝雄[2006]「社会の憎悪のメカニズム」=本田由紀、内藤朝雄、後藤和智『「ニート」って言うな!』光文社新書、2006年1月
 芹沢一也[2006]「「子どもを守れ」という快楽――不安にとりつかれた社会で」=「論座」2006年2月号、朝日新聞社

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2006年1月20日 (金)

俗流若者論ケースファイル77・宮嶋茂樹

 『「ニート」って言うな!』(光文社新書)発売記念として、「週刊文春」平成18年1月19日号の特集「天下の暴論2006」に掲載された、「不肖・宮嶋」こと報道カメラマンの宮嶋茂樹氏による文章「聞けタイゾー 「徴兵制」こそニート対策」を検証しよう。「タイゾー」とは、もちろん宮嶋氏が《売国政治家がりっぱに見える小泉小僧(チルドレン)、あの杉村太蔵》(「週刊文春」平成18年1月19日号、以下、断りがないなら同様)と批判してやまない、衆議院議員の杉村太蔵氏のことである。

 というわけで最初に血祭りにあげるのはこの部分である。宮嶋様どうぞ。

 それに何じゃあ、フリーターどころか、ニートまで救済するやと?税金も払わん上に、三十路になっても親がせっせと部屋にエサを運びつづけ、パソコンに向かってしか他人と会話できん奴のことをニートと呼ぶそうやないか。そんな穀潰しが何十万も生きておるんは世界広しといえども我が国だけや。

 『「ニート」って言うな!』の著者の一人として、なんとも批判したい気持ちに駆り立てられる文章である。そもそも「ニート」とは、要するに15歳から35歳までの間にある人で、かつ就業もしていなければ職業教育を含む教育を受けていない人「全般」を指す。この「全般」というのがポイントで、我が国では如何なる事情を持っていても――例えば、東京大学助教授の本田由紀氏によれば、例えば「病気・けがのため」に働けない人がおよそ10万人、「知識・能力に自信がない」ゆえに働けない人がおよそ4万人いる(本田由紀[2006])――、「ニート」という言葉で丸められることによって一様に「問題のある」存在となされてしまう。そもそも個人の事情を考慮しないまま、宮嶋氏は「ニート」を、本来の意味を調べもせず《税金も払わん上に、三十路になっても親がせっせと部屋にエサを運びつづけ、パソコンに向かってしか他人と会話できん奴のこと》などと「説明」してしまっている。そもそもこれは、最も悪いイメージの(!)「ひきこもり」を指しているようにしか見えない(そもそもこのような見方は、「ひきこもり」の人々に対する偏見でもある)。宮嶋氏は、「ニート」と(勝手に)呼ばれる80数万人の人が、みんな宮嶋氏のイメージどおりであると考えている節がある。

 さて、宮嶋氏の文章のタイトルには「「徴兵制」こそニート対策」とある。宮嶋氏が徴兵制について述べている部分を読んでみよう。

 お隣の半島南半分ではJリーガーから、大統領まで男は全員二年以上の徴兵や。我が国も二年とまで言わん。せめて一年、いや八ヶ月でもエエわ。戦後六十年、今まで学校のセンセイ方がないがしろにしてきた規律、勇気、自己犠牲、国防意識という美徳をその間、自衛隊で徹底的に教育しなおすんや。

 このような「徴兵制」に対する甘いイメージでもって徴兵制を導入せよ!などと叫ぶ人は、ではなぜ韓国では「ひきこもり」が問題化しているのか、ということに対して答えることができるのだろうか。精神科医の斎藤環氏は、韓国の事例を引いて、徴兵制が決して「ひきこもり」対策にはならないことを論じている(例えば、坪内祐三、福田和也[2004]84ページ。韓国の「ひきこもり」事情に関しては、斎藤環[2005]が詳しい)。ここで、宮嶋氏は「ひきこもり」を語っているのではない、という反論がきそうだけれども、宮嶋氏の文章を読めば、明らかに宮嶋氏が「ひきこもり」=「ニート」と捉えている――それも最も悪いイメージで――ことがわかる。

 もう一つ言えば、徴兵制をしき、《規律、勇気、自己犠牲、国防意識》が根づいている「はず」の韓国に比して、徴兵制がなく、「ニート」が急増して、《規律、勇気、自己犠牲、国防意識》が衰退している「はず」の我が国のほうが、青少年によるあらゆる凶悪犯罪の人口あたりの件数が少ない。更に、我が国は、他の先進諸国に対しても、青少年の凶悪犯罪の人口あたりの件数が少ない。宮嶋氏には、このような疑問にも解答していただく必要があろう。

 さて、宮嶋氏は、《我が国の周りで徴兵制をしいていないのはアメリカぐらいやが、大統領令で、すぐに徴兵制に移行できる。ドイツは徴兵期間の代替に奉仕活動を選択できるし、イタリアは戦時になれば徴兵制復活が可能や》といっているのだが、宮嶋氏は、我が国に徴兵制を復活させるために、テロでも起こして、我が国を「有事」状態にしてしまうのであろうか…というのはよからぬ妄想ではあるが、いずれにせよ、宮嶋氏が短絡的なイメージで「ニート」、更には若年層全体を語っているのは明らかであり、宮嶋氏の議論を支配しているのは、「健全な精神」さえあれば青少年問題は解決できる、という甘い考えである。「健全な精神」ばかり教えたところで、現実の問題、例えば景気の問題や、教育システムの問題、あるいは雇用主の問題、雇用形態の変化が解決されなければ、結局は、大東亜戦争に突き進んで負けたある時期の我が国と同じ末路をたどってしまうかもしれない。

 とにかく、「ニート」って言うな!

 参考文献・資料
 本田由紀[2006]「「ニート」論という奇妙な幻影」=本田由紀、内藤朝雄、後藤和智『「ニート」って言うな!』光文社新書、2006年1月
 内藤朝雄「社会の憎悪のメカニズム」=前掲『「ニート」って言うな!』
 岡本薫『日本を滅ぼす教育論議』講談社現代新書、2006年1月
 斎藤環[2005]『「負けた」教の信者たち』中公新書ラクレ、2005年4月
 坪内祐三、福田和也[2004]『暴論・これでいいのだ!』扶桑社、2004年11月
 尹載善『韓国の軍隊』中公新書、2004年8月

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2005年12月29日 (木)

俗流若者論ケースファイル76・三浦展

 緊急特集として、最近の児童が被害者となる犯罪を取り扱った若者論を検証しようと思ったのだが、前回採り上げた、民間シンクタンク研究員の三浦展氏がまた若者論を展開していたので、こちらを優先して採り上げることとする。三浦氏の論説が掲載されたのは平成17年12月27日付の読売新聞、「信頼喪失社会を語る」という連載の第1回として掲載されている。ここでは、三浦氏のほかに、東京大学教授の中尾政之氏の論説も掲載されていたのだが、中尾氏の理論は、「技術のブラックボックス化」という視点から所謂「姉歯問題」などを論じていて、読ませる論考であった、少なくとも最近建築環境から建築構造に興味が移りつつある私にとっては。

 閑話休題、なぜ私が三浦氏の論説を採り上げたかというと、三浦氏の論説には、飛躍した断定が多すぎるからである。はっきりいって、この文章――正確には、読売新聞生活情報部の伊藤剛寛氏が三浦氏にインタヴューした内容を文章に起こしたものなのだが――全体が推論で成り立っているようなものだ。

 例を挙げてみよう。三浦氏は昨今の「ファスト風土化」なる現象について述べているが、三浦氏の立論にはかなり疑問が多い(その点に関しては、「三浦展研究・前編 ~郊外化と少年犯罪の関係は立証されたか~」を参照されたし。誤解がないように言っておけば、私は地方が空洞化していることには問題意識を持っているが、少なくとも「今時の若者」をさも郊外化の鬼胎の如く扱う三浦氏の態度はアンフェアだと思っている)。例を挙げてみる。

 ファスト風土化は、農村や商店街といった古いコミュニティーを破壊している。しかし、ファスト風土事態は新しいコミュニティーを作っているとは言えない。流動化し、匿名化した空間では、コミュニティーの基礎である人間同士の信頼関係を築くことは難しいだろう
 こうした地域社会の流動化と匿名化が、若者の心理にも影響を与えていると思う。パソコンや携帯電話などの新しいメディアが急速に普及してきたために、情報だけは増大しているが、地域社会の崩壊とともに、実体験はどんどん減っている。そういう生活環境では、地に足の着いた現実感覚は生まれにくい。現実の世界を、まるでゲームの世界のように見る人間が増えてもおかしくない
 2年ぐらい前に、不二家の人気マスコット「ペコちゃん」の人形を幹線道路沿いの店舗から盗んで、ネットオークションで売ろうとする事件があった。いささか冗談めくが、ペコちゃんを盗むのと、幼児の連れ去りが同じような感覚で行なわれている気がしてならない
 日本人は、人形はもちろん、針のようなものであっても、あたかも命があるように大切にし、使い終われば「供養」してきた。ところが、今は、人間にさえも「命」の感覚を持ちにくい人間が増えてきたのではないかと不安になる。(三浦展[2005]、以下、断りがないなら同様、強調引用者。引用部分は2~5段目)

 ご覧の通り、最近の事件に関して、最低限の過去の事例も調べようとせず、報道で喧伝される情報と自らの立論だけで物事を語っている。しかし、警察庁の犯罪統計書によれば、小学生未満の子供が被害者となる殺人事件の件数は、少なくとも「ファスト風土」化が進展しておらず、地域コミュニティーの繋がりが強かった「はず」で、また人々が人に限らず物にも畏敬の念を抱いていた「はず」の時代に比して、地域コミュニティーが瓦解すると共に人間にさえも畏敬の念を抱かなくなった現在のほうがおよそ4分の1に減少している(「少年犯罪データベース」による)。

 そもそも三浦氏の主張の根幹には、旧来のコミュニティーに対する無根拠の信頼がある。すなわち、三浦氏の理想とするコミュニティー、すなわち《人間がただ消費だけをしているファスト風土ではなく、人間が働きながらつながりあう場としての地域社会》(8段目)こそが「人間」を育てるのであり、そうでないもの(「ファスト風土」!)は「人間」を育てない、というものである。このような認識は、端的に言えばそれこそ「若者の人間力を高めるための国民運動」的なもので、要するに自分と違った「異常な」環境で育った者たちは、必然的に――自分の自意識の反映でしかない――「人間力」が劣る、という認識である。

 三浦氏の議論の中心にあるのはどうやら「コミュニケーション能力」であるといえる(三浦氏の「下流社会」論にしろ、三浦氏の問題視している「人生への意識の低さ」の一つとして「コミュニケーション能力の低さ」が含まれている)。しかし、このような「コミュニケーション能力」を中心に据えるような議論は、むしろ「コミュニケーション能力」の低い人に対する「寛容」を失わせる、という議論も存在する。例えば東京大学助教授の佐藤俊樹氏は、昨今の「コミュニケーション能力」の重点化という現象を、「「ガリ勉」の絶滅」というコピーを用いて、「コミュニケーション能力」が前面に出てくるのと同時にサーヴィス産業の比率が高まってくると、何かに必死に追い立てられるが如く勉強をしている人は「能力がない」と評価されがちになる、と論じている(佐藤俊樹[2003])。三浦氏の言う「地域社会の再評価」は、かえって「コミュニケーション能力」に劣り、どこの共同体にもなかなか属しづらい人たちの行き場所を失わせるのではないか、という懸念が尽きない。

 三浦氏が「地域社会」を再評価せよ、というのは、結局のところ東京大学助教授の本田由紀氏の表現を用いれば《もう若者の何だかよくわからない「心」などをとやかく言っていてもはかどらない、と焦れ、「早寝・早起き・朝ごはん」、「生活リズム」、「挨拶」などの外面的な、非知的なところで型にはめる方が手っ取り早い、という考え》(本田氏のブログ「もじれの日々」のエントリー「心から体へ」)を満たしてくれる存在としての「地域社会」に期待しているからかもしれない。そこには、青少年の「逸脱」を受け入れてくれるカウンター・コミュニティーの存在など、ない。

――――――――――――――――――――

 三浦氏関連で、もう一つ採り上げたい発言がある。

 朝日新聞社の週刊誌「AERA」は、平成15年12月29日・平成16年1月5日合併号から、コンビニで売られている最新の食品を採り上げた「Go! Go! Junkie」という連載を行なっており、平成17年の初夏には「Go! Go! コンビニライフ」という増刊号も出している。「コンビニ」はは、「AERA」にとって最近の関心事の一つとして捉えることもできる。

 その絡みとして、同誌平成17年8月15・22日合併号において、ライターの吉岡秀子氏が「若者がコンビニ離れ」という記事を書いている。そこにおける三浦氏の発言に注目してみよう。

 若者の消費行動に詳しいマーケティングアナリストの三浦展さんは、コンビニよりも若者の行動の変化に注目する。
 ある研究所の調査では、一人暮らし20~25歳未満の男女約700人のうち4割近くが休日でも外へ出ず、5時間以上もパソコンに向かっている。また、フリーターの増加で可処分所得が低下し、コンビニの価格も高いと感じている。
 「パソコン、プレステ、ページャー(端末)、ペットボトル――この4Pが今の若者の“4つの神器”。メシくう時間に時間を忘れてドリンクを片手にチャットしている。コンビニに行かないのは、お金もないし、引きこもっているからでしょう」(三浦さん)
 (吉岡秀子[2005])

 笑いを取りたいのであろうか。ここまでさらっと言い切れる三浦氏の、若年層に対する偏見も、相当に問題化されるべきだと思うけれども。そもそも吉岡氏は「ある研究所の調査」なるものに関して、どのような手法を用いて行なわれたのにも着目していないが、三浦氏もパソコンでチャットをするのが退廃的だ、と捉えている節もある。そもそもフリーターの増加で可処分所得が低下しているのであれば、フリーターと正社員の格差を問題化すべきではないかと思うのだが。私の三浦氏に対する疑問は尽きない。

 参考文献・資料
 広田照幸『教育には何ができないか』春秋社、2003年2月
 本田由紀『多元化する「能力」と日本社会』NTT出版、2005年11月
 三浦展[2005]「背景に画一化、階層化」=2005年12月27日付読売新聞
 森真一『自己コントロールの檻』講談社選書メチエ、2000年2月
 佐藤俊樹[2003]「「ガリ勉」の絶滅は新たな不平等社会の象徴だ」=「エコノミスト」2003年9月30日号、毎日新聞社
 吉岡秀子[2005]「若者がコンビニ離れ」=「AERA」2005年8月15・22日号、朝日新聞社

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