2005年12月 4日 (日)

トラックバック雑記文・05年12月04日

 今回のトラックバック:「えのき」/古鳥羽護/克森淳/赤木智弘/保坂展人/「目に映る21世紀」/「性犯罪報道と『オタク叩き』検証」/本田由紀/「海邦高校鴻巣分校」/「ヤースのへんしん」/栗山光司/木村剛

 先日(平成17年12月2日)、平成18年仙台市成人式実行委員会の最後の会議が開かれたのですが…

 えのき:来年の成人式に注目
 なんと平成17年仙台市成人式実行委員会の人が来てくれたのですよ。このエントリーの書き手もその一人です。来てくれた人は、伊藤洋介・平成17年仙台市成人式実行委員会委員長他5名(1人は会議開始前に帰宅し、会議中にもう1人帰ってしまいましたが)。あー、ちなみに文中の《ごっと》とは俺のことだ。リンク貼ってくれよ(嘘)。

 それにしても世間は狭いもので、今年2月に書いた「私の体験的成人式論」で採り上げた、平成17年の成人式の第2部における、私がチーフだったブースのスタッフの内、小学校の教師と当日スタッフ1人が今回の実行委員になってしまっている(笑)。

 閑話休題、このエントリーでも書かれているのですが、平成17年仙台市成人式実行委員会は、組織としては消えておりますけれども、実行委員(「元実行委員」かな?)の繋がりはいまだに途絶えていない。今年6月の頭ごろにも飲み会を行ないました(そこで元気をもらって一気に執筆したのが「壊れる日本人と差別する柳田邦男」だったりする)。私は最初は実行委員会に参加することで成人式報道が隠蔽している部分を見てやろう、と思って実行委員会に殴りこんだのですが、終わってみると様々な出会いを経験できたり、先日の会議でもいろいろと近況を話すことができたりと、得られたものは大きかった。

 昨今の「コミュニケーション能力」だとか「人間力」だとか重視みたいな風潮とか(このような風潮に対する理論的な批判は、本田由紀『多元化する「能力」と日本社会』(NTT出版)を是非!)「コミュニケーション能力が低いと「下流」になるぞ!」みたいなレイシズムとかは嫌いなのですが、やっぱり人間関係の重要さは否定し得ない。

 さて、また幼い子供が被害者となる残酷な事件が起こってしまいました。被害者の方のご冥福をお祈りします。しかし…

 フィギュア萌え族(仮)犯行説問題ブログ版:勝谷誠彦氏、広島小1女児殺害事件の犯人が「子供をフィギュアの様に扱っている」と発言。(古鳥羽護氏)
 走れ小心者 in Disguise!:素人探偵になりたくないのに…(克森淳氏)

 私が事件の犯人と同様に腹が立つのは、事件にかこつけて好き勝手プロファイリングを行っている自称「識者」たちです。現在発売中の「週刊文春」によると、上智大学名誉教授の福島章氏によれば、岡山の事件の犯人は犯人は幼い頃から暴力的表現に慣れ親しんできた若い世代だそうで(福島氏については「俗流若者論ケースファイル」の第3回第32回も参照されたし)。そして実際につかまってみればそれとはかなり違う人物像だったし、もしかしたら冤罪の可能性もあるかもしれない。

 元来プロファイリングとは、この分野の第一人者である社会安全研究財団研究主幹の渡辺昭一氏によれば、行動科学によって《蓄積された知見に基づいて、犯罪捜査に活用可能な形で情報を提供しようとする》(渡辺昭一『犯罪者プロファイリング』角川Oneテーマ21、39ページ)ことを指すそうです。更にこの手法は《事件を解決したり、容疑者のリストを提示したりするわけでは》なく、《確率論的に可能性の高い犯人像を示すもので、捜査を効率的に進めるための捜査支援ツールの一つ》(前掲書、40ページ)に過ぎないそうです。しかしマスコミ上で行なわれる「プロファイリング」は、結局のところ自分の主義主張に合わない人をバッシングするための方便にすぎない。ついでに、これは渡辺氏の著書の19ページ周辺にも述べられていますが、暴力的な映像の視聴が直接的に暴力的な行動につながる、ということは証明されていませんからね(宮台真司『宮台真司interviews』世界書院、も参照されたし)。

 古鳥羽護氏のエントリーによれば、今度は勝谷誠彦氏が「フィギュア萌え族」的な発言をしたそうです。この手の犯罪が起こるたびに、マスコミは犯人像を「不気味な存在」とか「モンスター」だとか、あるいは事件を「現代社会の歪み」だとか捉えたがりますが、私が見る限り、ここ最近2件の殺人・死体遺棄事件、及び昨年末の女子児童誘拐殺人事件は、かなり典型的な誘拐殺人であるように思えます。もちろんこのような推理も私の勝手な「プロファイリング」には違いないのですが、少なくとも事件に対して「不気味」「不可解」だとか唱和するのではなく、典型的な事件とどこが違うのか証明してくれませんか?事件が大筋で典型的なものであるとわかれば、それらの事件の傾向を分析し、目撃証言と照合すれば、おそらく1週間くらいで犯人はつかまるのではないかと思います。

 少なくとも少女に限らず子供が誘拐される事件は昔からあったでしょうし、今の事件(誘拐に限らず!)だけが「不可解」というわけでもないでしょう。

 そう考えてみますと、「安心」を壊しているのはマスコミなのかもしれません。12月3日付読売新聞の社会面の見出しが「また幼女が被害者に」みたいなものでしたけれども、このような見出しにすることによって、「幼女しか性的対象にできない歪んだ男が増えている」みたいな世論を造りたいのではないか、と考えるのはうがち過ぎか。

 深夜のシマネコBlog:高木浩光@自宅の日記より、まず神話を作り、次に神話は崩壊した!と叫ぶマスコミ(赤木智弘氏)

 少年及び若年層による凶悪犯罪に関して言えば、我が国ではいまだに安全(少年による凶悪事件に遭遇しないという意味での「安全」)は保たれているといえます。しかしマスコミでは「少年犯罪が凶悪化している」という唱和ばかり。そもそもそのような扇動に走るマスコミは、現在のことばかりに終始して、過去にどれほど犯罪などが起こっていたかということは見ていない。ある意味、「カーニヴァル化する社会」(鈴木謙介氏)という言葉は、むしろ昨今のマスコミにも言えるのかもしれない。

 もう一つ、このような事件に対する報道は、ある意味では「子供の自由」という問題もかなりはらんでいるように見えます。

 深夜のシマネコBlog:児童虐待を本当に根絶するために。(赤木智弘氏)
 最近では保坂展人氏(衆議院議員・社民党)すら《もっとも具体的な方法は、子どもをひとりで、ないし子どもだけで登下校させないことだ。たとえ社会的コストがつきまとっても実現すべきなのかもしれない》(保坂展人のどこどこ日記:格差社会と子どもの「安全」)と言ってしまっていますが、殺人という特殊な危機のために、子供の行動を全般的に制限する必要はあるのでしょうか。

 まず、すなわち子供は一人でいると危険だから常に親が付き合うべきだ、みたいな論理が許されるのであれば、危険は何も登下校中のみに潜んでいるわけではないでしょう。その点から言えば、例えば子供が一人で友達の家に遊びに行く際も親が付き添っていなければならない、ということになりますが、それは子供にとって、あるいは親にとってプラスといえるかどうか。また、子供が常に親の監視下におかれることによって、例えば子供がどこかに寄り道したりとかいった体験を殺してしまうことにはならないか。

 ただし犯罪を防ぐための施策として、公共的な場所や街路の監視性・透明性を高めておく必要はあると思います。例えば私が東京に行って、ある住宅地を歩いたときの話ですが、その住宅地の近くには活気のある商店街があり、そこはなかなか味があってよかったのですが、商店街や大きな道路から少しでも外れると街灯が少なく、更にかなり塀に囲まれて見通しの悪い場所で、もしかしたら誰かに刺されるかもしれないと思っていました。誘拐事件の多くも路上が現場となっているようですので、路上の監視性を高めておく、という施策はやるべきでしょう。

 ついでに、保坂氏のエントリーでは、タイトルが「格差社会と子どもの「安全」」であるにもかかわらず肝心の「格差社会」については最後のほうでエクスキューズ程度に触れられているだけです。しかし「格差社会」論から犯罪予防のヒントを探るとすれば、様々な社会的階層の人が社会的に排除されているという感覚をコミュニティによってなくしていく、ということが挙げられるでしょう。そのためには、不安ではなく信頼をベースにした多くの人が参加できるコミュニティの形成、あるいは社会的に排除されている(と感じている)人とかあるいは特定の社会階層の人が帰属意識を持つことのできる副次的なコミュニティの形成が必要となります。

 ちなみに皇學館大学助教授の森真一氏の著書『日本はなぜ諍いの多い国になったのか』(中公新書ラクレ)の最終章の最後のほうで、農漁村にかつて存在していた「若者組」だとか「若者宿」みたいな若年層のコミュニティに入っていた人が散々非行をしても、いざコミュニティを脱退するとすっかり非行をやめてしまい、消防団長や懲戒議員などにやって若年層の非行に眉をひそめるようになる、ということが紹介されています。森氏は、このことについて《かつての地域社会や年長者は「限度ギリギリまで、社会的なルールを無視する行為を若者たちに許す場を提供」しました。他方、現代の年長者はそのような時代が存在したことを忘れ、「社会的なルールを無視する」若者の行動を、予定調和を乱す「リスク」「コスト」としか見なさなくなったのです》(森真一『日本はなぜ諍いの多い国になったのか』中公新書ラクレ、233ページ)と分析しておりますが、この話は、「セキュリティ・タウン」的な、あるいは「ゼロ・トレランス」的な風潮が強まる我が国の状況において批判的な視座を投げかけるかもしれません。

 話は変わって、最近の「「萌え」ブーム」なるものに関する話題ですが…

 目に映る21世紀:【キールとトーク】おたく男・女/恋愛資本主義/『下流社会』/見えない消費と、余裕のある僕ら(←「下流社会」論に関して真っ当な批判あり)
 性犯罪報道と『オタク叩き』検証:11月1日『ザ・ワイド』・リベラが「遭遇した」コスプレダンサー、『電車男』にも登場

 私は正直言って最近の「「萌え」ブーム」なるものがあまり好きではありません。基本的に「オタク文化」的なものは認めますが、それでも昨今のブームには疑問を持たざるを得ない。

 疑問点その1。「萌え関連企業が急上昇!」みたいなことを言う人が多すぎますけれども、所詮そのようなことは他の業種の売上が下がって、相対的にオタク産業が浮上してきたとしかいえない。従って「急上昇」みたいな言い方はあまり好ましくないように思える。
 疑問点その2。「目に映る21世紀」における《うぜえ・・・。結局、今回の萌えバブルやらオタクブームって差別の再生産をしただけにしか感じられん》というくだりについて、これに激しく同意。私はテレビにおいて何度か「オタク」が採り上げられた番組を見たことがありますが、それらの番組はことごとく「遠まわしな差別感」に彩られていた感触があった(例えば、平成17年11月24日のTBS系列「うたばん」)。そもそも「オタク」=「電車男」みたいな傾向も強い。「電車男」については私は本も読んでいないし映画もドラマも見ていないけれども。これを強く認識したのは「トリビアの泉」(平成17年8月24日)だったかな。人助けを笑いものにする、というのは、まさしく検証対象が「オタク」でなかったらできなかったと思う。

 現在のマスコミにおいて、冷静に「オタク」を採り上げることのできるのは、朝日新聞社の「AERA」編集部の福井洋平氏と有吉由香氏くらいしかいないのではないかというのが私見です。福井氏は「AERA」平成16年12月13日号で「アキハバラ 萌えるバザール」という記事を書いている。有吉氏は同誌平成17年6月20日号で、ライターの杉浦由美子氏と共に「萌える女オタク」という記事を書いています。それらの記事はあまり「オタク」を見下した態度をとらず、筆致は熱がこもっているけれども冷静さも保っている。他方で「AERA」は「独身女に教える男の萌えポイント」(伊東武彦、平成17年8月29日号)とか「負け犬女性に贈る「ツンデレ」指南」(内山洋紀、福井洋平、平成17年10月17日号)みたいな記事も書いているからなあ…。しかし「AERA」の「オタク」報道が他の週刊誌とはかなり一線を画しているのも確か(「読売ウィークリー」に至っては、副編集長自ら「「オタク」は絶望的な男」と言っているし)。そのうち、体系的に評価してみる必要があるでしょう(とりあえず記事はそろえてあります)。

 「人間力」という名の勘違い、まだまだ続く。

 もじれの日々:独り言(本田由紀氏:東京大学助教授)
 海邦高校鴻巣分校:「人間力運動」は即刻解散せよ

 「若者の人間力を高めるための国民運動」が「応援メッセージ」を発表しました。「海邦高校鴻巣分校」はこれらの「メッセージ」について、建築評論家の渡辺豊和氏の言葉を引いて「平凡な学生の課題案よりひどい」と述べておりますが、私はこれ以上の内容は期待していなかったので、おおよそ期待通りのものが出てきた、というのが正直な感想です。
 しかし山田昌弘氏(東京学芸大学教授)の「メッセージ」には注意を喚起しておきたい。

 今後社会が不安定化していくのでそのなかでも上手く立ち回れるような能力をつけて欲しいことと、自分のことを評価してくれるようなネットワーク、人間関係を大切にして欲しいですね。

 要するに組織に波風を立てずに従順に生きていけ、ということですか?このような言説は、前出の森真一氏が著書『自己コントロールの檻』(講談社選書メチエ)でつとに批判していることですが、社会が流動化し、職場や組織の往来が活発になると、個人には慣れ親しんだ会社や組織に対する思い入れを排除し、新しい職場環境に適切に移動する能力が求められるようになる、という傾向に、山田氏も組していることになる。

 本田由紀氏も、最初のほうで採り上げた『多元化する「能力」と日本社会』という著書において、昨今の「人間力」重視的な風潮を批判しており、「コミュニケーション能力」とか、あるいはそれこそ「人間力」みたいな《「ポスト近代型能力」の重要化とは、個々人の人格全体が社会に動員されるようになることに等し》く、そのような能力を要求する社会(本田氏言うところの「ハイパー・メリトクラシー」)の下では《個々人の何もかもをむき出しにしようとする視線が社会に充満することになる》(以上、本田由紀『多元化する「能力」と日本社会』NTT出版、248ページ)。このような「人間力」重視の社会背景を注視するために、森氏と本田氏の議論は必見でしょう。

 

ヤースのへんしん:耐震対策は早急に!
 「姉歯」叩きの裏で、あまり注目されていないのが公共施設の吊り天井。平成17年12月1日付の読売新聞宮城県版によれば、地震発生時に崩落する怖れのある吊り天井の数はなんと4996。ちなみにこのことは地方面でしか報じられていない。こういうことこそ、もっと追求すべきではないかと思うのですが。

 このことに着目させたのが、平成17年8月16日で起きた宮城県沖地震でした(しかし「本命」の宮城県沖地震ではないことがわかりましたが。「本命」の30年以内に来る確立はいまだに99%)。もとよりこの地震で天井が崩落した施設「スポパーク松森」の屋根がアーチ状だったため、左右の揺れが増幅されて吊り天井が崩落した、ということが明らかになっています(東北大学工学部の源栄正人教授らによる)。ですからアーチ状の建物にも注意を向けるべきでしょう。ただ昨今の「姉歯」叩きを見ている限り、この問題が建物の耐震設計全般の問題に波及することもなければ、建築基準法改正前に建てられた建物及び既存の耐震不適格の建物の耐震補強の問題、及び本当に完全にスクラップ・アンド・ビルドでいいのか、耐震補強ではなぜ駄目なのか、という問題に波及することもないかもしれない。

千人印の歩行器:[読書編]しみじみ「内在系」、メンヘラーって?(栗山光司氏)
 このエントリーでは、共に社会学者の宮台真司氏と北田暁大氏の共著『限界の思考』が採り上げられていますけれども、宮台氏ももちろんですが、北田氏をはじめ、最近の若手論客にも注目すべき人は多い。

 さて、「論座」平成18年1月号の特集は「30代の論客たち」だそうです。執筆者のラインナップを見ても、渋谷望氏、牧原出氏、芹沢一也氏など、かなり期待できるメンバーがそろっております。「論座」は平成15年7月号から毎号購読しているのですが、編集長が薬師寺克行氏に代わってからは面白い特集がますます増えています(平成17年4月号「日本の言論」、6月号「憲法改正」、7月号「リベラルの責任」、10月号「進化するテレビ」など)。

 特に面白そうなのが、宮台真司、佐藤俊樹、北田暁大、鈴木謙介の4氏による対談。ここまですごいメンバーを集められるのもすごい。読み応えがありそうです。

週刊!木村剛:[ゴーログ]ばーちゃんが株を買い、親父がブログる?!(木村剛氏:エコノミスト)

 身内がブログをやっている、ということはないなあ。少なくとも私の家族の中で本格的にブログをやっているのは私だけですが、その理由も所詮は自分の文章を発表する場所を作りたい、という理由にすぎない。

 でも、知っている人がブログをやっていたり、あるいは始めて本格的に話す人に「ブログを見た」と言われると、少々戸惑ってしまうことがありますが。

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2005年9月25日 (日)

三浦展研究・前編 ~郊外化と少年犯罪の関係は立証されたか~

 (中編はこちら、後編はこちら

 短期集中連載「三浦展研究」を実施します。この連載では、最近精力的に執筆活動を行なっている、民間シンクタンク研究員の三浦展氏の諸著作に対する批判的検証を行ないます。検証する本は、前編が『ファスト風土化する日本』(洋泉社新書y)、中編が『仕事をしなければ、自分はみつからない。』(晶文社)、後編が『「かまやつ女」の時代』(牧野出版)です。

 ※一時期、このエントリーにトラックバックができないようになってしまうというミスが生じてしまいましたことをお詫びいたします。現在は正常にトラックバックできますのでご安心ください。

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 岩手県盛岡市、東北自動車道盛岡インターチェンジの近くに、大釜という地区がある。この地区は、ここ10年ほどで大きく様変わりしてしまった。というのも、およそ10年前はあまり建物がない地域だったのだが、久しぶりに大釜を通ったのでその様子を見てみると、一つの商業地域として変貌してしまっている。そしてその中心には、ジャスコが建っている。
 また、東京に出かけた際、東北新幹線の窓から見える、福島、郡山、宇都宮などといった郊外の都市の風景は、ほとんど変わり映えするものはなかった。ほとんどの都市が均質な風景を映し出し、少なくとも私が見聞した限りではどこに行ってもほとんど同様の光景が広がっている。

 しかし、このような都市の均質化が、青少年の「心」の荒廃をもたらし、少年犯罪の温床になっているといわれたら、若者論を研究している立場からしてみると、納得するどころかむしろ首を傾げてしまう。民間シンクタンク研究員の三浦展氏は、昨今マスコミをにぎわせている「理解できない」少年犯罪が、全て東京や大阪といった大都市ではなく、むしろ中小規模の都市で起こっていることに着目し、郊外化が少年犯罪を触発する、といった「理論」を構築した。その「成果」としての本が、平成16年9月に出版された三浦氏の著書、『ファスト風土化する日本』(洋泉社新書y)である。

 まず本書全体の感想を述べるとすれば、本書は重大な問題提起を行なっているにもかかわらず、著者である三浦氏が青少年問題にこだわりすぎるあまり、また青少年に対して偏狭な認識しか持っていないばかりに、本書は単なるトンデモ本――すなわち、著者の意図したところとはまた別のところで楽しむべき本になってしまっているのである。

 はっきり言うが、本書において、都市計画論的なことが述べられている部分は、建築学科の学生としてみればそこそこ役に立つ。本書で唯一収穫があるとすれば第7章の189ページから215ページで、ここではこれからの都市計画に関していかなる思想で行なわれるべきか、ということが展開されている。これが現実を無視した机上の空論ということもできるけれども、少なくとも思想としては間違った方向ではないと思える。

 しかしそれ以外の部分では、著者の青少年に対する蔑視的な感情があからさまに見えてくるのである。具体的に言えば、地域コミュニティと大都市の安易な礼賛と、ことさら現代の青少年、特に郊外に住んでいるものを「異常」とレッテルを貼りたがること。

 第7章(209ページ)においても、三浦氏は、《ファスト風土しか知らず、リアルな生活の場を失ったまま育つ子どもは、ファストフードしか食べずに育つ子どもと同じである。そう言えば、ことの異常さが分かるだろうか》(三浦展[2004]、以下、断りがないなら同様)といったことを述べている。三浦氏が、郊外で育った子供たちをただ「異常」とみなしたいという感情がここでも見て取れるだろう。

 さて、本書のキーワードとなる《ファスト風土》とは何か。三浦氏は、27ページで、以下のように述べている。

 本来、日本の地方には、城下町など固有の歴史を持った美しい年が多数存在していた。都市の周辺には農村が広がり、やはりその地域の固有の自然と歴史の中で過ごしていた。しかし、過去20年に起きた交通網の整備と総郊外化の波は、そうした地域固有の歴史的風土を徹底的に崩壊させた。歴史的な街並を持つ地方の都市中心部はモータリゼーションに対応できず衰退し、田園地帯にショッピングセンターができた農村部もまた、それまであった生活を激変させ、コミュニティを衰退させた。日本中の地方が二重の意味で衰退し、画一化し、均質化し、「マクドナルド化」し、固有の地域性とは無縁の、全国一律の「ファスト風土」が生まれたのだ!

 《ファスト風土》の定義については、三浦氏の説明に従うほかないだろう。しかしここで苦言を述べさせてもらうと、三浦氏は「マクドナルド化」のことを都市の均質化と説明しているようだが、この概念は自助マニュアルによる社会の合理化を指す(森真一[2000]を参照されたし。ついでに言うと三浦氏は28ページで「マクドナルド化」の正しい説明を行なっている)。語感が自分の問題意識と合っているからといって、用語を誤用しないで頂きたい。しかしこのような批判は蛇足であろう。

 本書で展開されている論旨は、そのような三浦氏言うところの《ファスト風土》が、青少年を荒廃させるというものなのだが、はっきり言って著者の経験論に基づく牽強付会ばかりが展開される。更にこの著者ときたら、少年犯罪と《ファスト風土》の関係性が証明された!としきりにはしゃいでおり、私からすれば痛快というよりもむしろ痛い。

 まず三浦氏の少年犯罪に関する認識の誤謬を指摘しておきたい。三浦氏は16ページにおいて、刑法犯の認知件数が増加している、と説く。しかしここ数年の刑法犯の認知件数の増加が、警察の方針転換と深く関わっている、ということを指摘しなければならないだろう。具体的に言えば、警察は、ここ最近になって、これまで握り潰してきた被害届けを素直に受理するようになったり、警察官の増員などで犯罪の摘発に力を入れるようになったりしたことで、それまで暗数であった犯罪が統計に表面化するようになった。三浦氏は19ページにおいて検挙率の低下を単純に犯罪の増加と捉えているようだけれども、これも警察機能の限界という視点で説明できる。三浦氏が少年犯罪の「凶悪化」の理由として、東京都の青少年政策のブレーンとなっている首都大学東京の都市教養学部長・社会科学研究科長の前田雅英氏の『少年犯罪』(東京大学出版会)を挙げている限り、この手の少年犯罪凶悪化論を三浦氏は疑っていない、ということがいえるだろう。

 さて、ここから三浦氏の主張の中心、すなわち《ファスト風土》が少年犯罪を誘発する、ということについて検証を行なっていきたい。第2章は「道路整備が犯罪を助長する」というタイトルで、内容もまたこの言葉でまとめることができる。三浦氏は34ページにおいて、平成15年に起こった長崎県長崎市の12歳の少年による小児殺害事件に触発されて長崎と佐賀に行ったことが報告されている。しかしここで三浦氏が行なったことといったら、せいぜいタクシーで2・3の郊外の団地を回った程度である。その程度でフィールドワークと呼べるか。三浦氏は43ページにおいて「はなわ」こと塙尚輝氏の曲にイチャモンをつけるけれども、その前にやることがあるだろう。なぜ三浦氏は現地の人に対して聞き取り調査を行わないのか。あるいはなぜ三浦氏は何日か長い時間をかけてフィールドワークをしないのか。結局のところ、この「調査」は、「「あの事件」を起こした場所は郊外だった!」ということを書きたいが為に行なった、つまり「為にする」調査なのである。

 第3章「ジャスコ文明と流動化する地域社会」は、三浦氏が、郊外の犯罪の近くにはジャスコがある!ということを仰々しく「発見」してみせる、という内容。この著者が、「「あの事件」を起こした場所の近くにジャスコがあった!」と仰々しくはしゃいでみる様は、見ていて滑稽を通り越して痛いくらいだ。そんなにジャスコが嫌いなら、なぜジャスコのない場所に三浦氏が問題視するような犯罪が「ない」のか比較してみてはどうか。実際問題、三浦氏も認めている通り、ジャスコは郊外の結構多くの街に(泉区にあるジャスコ南中山店は徒歩圏内だし、少し原付を飛ばせば利府店や多賀城店にもいける。多賀城店はもうすぐ閉店するようだが)あり、郊外の事件を少し探せばジャスコに当たる、というのはかなり必然性があるような気がするのだが。そういう状況下にあって、ジャスコ(とそれがもたらすらしい地域コミュニティの崩壊)を唯一の原因として鬼の首を取った如く問題化するのは極めて問題の多い態度であろう。そもそもなぜジャスコが「ない」場所の犯罪が問題化されないのか?三浦氏の態度は至極アンフェアである。

 笑ったのは、70ページから72ページの「佐世保事件とジャスコの関係」について述べた文章。三浦氏は平成16年12月の佐世保の女子児童殺害事件について、母親がジャスコで働いていることを問題化している。三浦氏は99ページにおいて、この事件の犯人の父親についても《乳は病後のためにあまり仕事ができず、母はジャスコで働いていた。ゴールデンウイークもどこにもいけず、それどころか少女は朝一人でパンを食べていたという》ことを問題化しているのだが、これをもってジャスコが悪いのだ、というのはあまりにも早計であろう。

 三浦氏は佐世保から少し伸ばして大塔に行って、そこにジャスコシティがあることや、大塔駅周辺の状況を踏まえて《典型的なファスト風土的風景である》(71ページ)と言っているが、ことこの事件に関しては、ジャスコよりも行くべきところがあった気がしてならない。
 ちなみに作家の重松清氏は、この事件の犯人の住んでいた場所について、この犯人の通っていた《大久保小学校からさらに山を登ったところにある。学校まではバスで10分以上》(重松清[2004])という場所であると報告している。ちなみに大久保小学校は佐世保の中心市街地を見渡せる位置にあるという。また、重松氏は、この犯人の行動圏の狭さにも着目しており、《朝夕の通学時間帯でさえ、1時間に1本》(重松清[2004])ということを問題に挙げていた。三浦氏が問題化する大塔のジャスコシティは佐世保駅から2駅行ったところにあるため、この犯人の行動圏には当てはまらないだろう。もとより三浦氏は佐世保の事件について語っているのになぜか大塔に行ってしまっている。佐賀のバスジャック事件の犯人に関して《受験の失敗がバスジャックに関係したかどうかは知らない。そんなことはどうでもよい》(46ページ)と簡単に切り捨ててしまっている三浦氏だ、佐世保の事件の犯人がバスケットボールクラブを辞めさせられて受験勉強に邁進するように差し向けられてしまった、という報告にも《そんなことはどうでもよい》と処理してしまうのだろう。

 しかし三浦氏はなぜここまでジャスコを敵視するのか。それにはしっかりとした理由があり、その理由が述べられているのが第5章「消費天国になった地方」である。要は地方にジャスコができて、地方が《消費天国》になったことが三浦氏は気に食わないらしい。三浦氏のその意識が特に表れているのは136ページから137ページにかけてのこのくだりであろう。

 2004年に公開された『下妻物語』という映画では、ジャスコがパロディ化されて登場する。いや、パロディではなく現実そのものの戯画化といったほうが正しい。舞台は北関東、茨城県の下妻市。東京まで服を買いに行くという主人公の女性に向かって、八百屋は言う。

 「わざわざ東京まで買物に行かんくても、ジャスコがあっぺ。下妻のジャスコは東京のパルコよりでっかいぞ。ジャスコには何でもあっぺ」

 たしかにジャスコには何でもある。最新のファッションも、世界中の食品も、高級ブランドもある。……いま話題の商品と店が、これでもか、と詰め込まれている。そこにさえ行けば、ほかのどこにも行かずにすむようにできている。たとえ東京でさえも。

 その意味で、ジャスコは街である。しかも24時間、365日、全館エアコンが利いた人口の街である。これこそが人類の発明だと言いたげだ。事実、私が見た太田市のジャスコには、レオナルド・ダ・ヴィンチの飛行機を模した物が天井からぶら下げられていた。ショッピングセンターは人類の発明だといいたいのであろうか?

 ここまで妄想を展開できるのも素晴らしい。三浦氏は全てのジャスコが《24時間、365日、全館エアコンが利いた》であるかの如く書いているけれども、私の近所のジャスコ南中山店は24時間営業なのは食品売り場だけである。しかも三浦氏は《いま話題の商品と店が、これでもか、と詰め込まれている》と書いているが、それも店舗の立地によるのではないか?

 また三浦氏は各種家計調査を用いて、地方が東京よりも消費社会化していることを問題視している。しかしこの調査において、一貫して無視されているのは年収と昼間の人口である。そこを無視して《消費はこれまで都市から地方に波及した。あるいは、より所得の高い人から低い人に波及した》(146ページ)と述べられては、根拠を失っているといわざるを得ない。三浦氏は、147ページにおいて、地方で生まれたコジマ電機(宇都宮)、ヤマダ電機(前橋)、ユニクロ(山口)、ダイソーと洋服の青山(広島)といった地方で生まれた企業や商店のスタイルが全国に波及することを問題化する。しかし資本主義社会においては、より人々の消費者心理を掴むスタイルが全国に波及するのは必然だと思われるのだが。東京だけが正義ではない。

 あまつさえ三浦氏ときたら、153ページにおいて《宇都宮のパチンコ屋が実家という女子大生》の事例を引いて《「消費しかできない」子どもたちが育っているのだ!》(155ページ)などとはしゃいでいるけれども、この女子大生の状況のほうが特殊なのではないか?
 それにしてもどうして三浦氏は地方の消費社会化をここまで露骨に嘆くことができるのだろう?身の回りに何でもそろっていて、欲しいものがすぐに消費できるのであれば、東京こそが危ないといわなければならないはずなのだが。また、三浦氏は、現代の社会が脱工業化に向かっていること、そしてそれに対応した地域経済の再生策が問われていることも触れない。東京大学教授の神野直彦氏が述べている通り、情報を動かすことによって技術移転が成功すれば不必要な人間や物品の移動を抑制することができ、情報化による知識社会の創造こそ在宅勤務が進んで職住一体の地域経済を実現することができる、という見方もできる(神野直彦[2002])。しかし三浦氏はただ地方が消費社会化することをしきりに攻撃するだけだ。一体三浦氏のこの態度はどこから生まれているのであろう?

 これはあくまでも推測なのだが、三浦氏が元々パルコの発行する雑誌の編集部で働いていたことが少なからず影響しているのではないかと思う。言うまでもなく、パルコはバブル期の都市における消費ブームを煽った商店の一つであるが、おそらく三浦氏はポストバブル時代の消費の主導権を、大都市住民をターゲットにしたパルコから農村型消費社会を実現させたジャスコに奪われたことに対して苛立ちを持っているのではないか。そう考えれば三浦氏がしきりにジャスコを敵視するのも分かるような気がする。もちろんこのような考え方は一つの邪推でしかないのだが、少なくともこのようなことは言える、三浦氏は素朴なコミュニティ主義に浸かっており、そのような素朴なコミュニティを大規模小売店や学校(三浦氏が学校というファクターを完全に無視していることを我々は忘れてはならない)に引き裂かれた状態を異常としか捉えることができないことから三浦氏の牽強付会は始まっているのかもしれない。

 三浦氏の現代の若年層に対する認識がどこから来ているかということに関しては、第6章「階層化の波と地方の衰退」の以下のくだりを読めば分かる。

 昔の若者に内発的にやる気があったわけではない。30年前まで、地方の若者にはまだ東京に集団就職をしなければならない者がいた。地方の男たちは冬に出稼ぎをしなければならぬ者がいた。そういう貧しさが外圧となって人々にやる気を起こさせていただけだ。

 外圧が、つまり貧しさが解消されればやる気はいらない。こうして、いま地方の若者に生じている意欲の低下、向上心の低下が起こっているように思える。(169ページ)

 しかし三浦氏のこのような物言いに欠けているのは、人口は既に減少を始めており、また世界史的に見ても成長一辺倒の経済は限界を告げられていることである。三浦氏は人々を寄り上へ上へと突き動かす《外圧》が必要である、と考えている節があるが、そのようなただひたすら「成長」を目指すイデオロギーは、確かに終戦直後のまだまだ貧しい時期には必要だったかもしれないが、やがてそのようなイデオロギーは現在になって深刻な環境問題と都市型貧困層の増加を引き起こした。環境問題やフリーター問題は、そのような次元で捉えられるべきものであるが、それはさておき、「成長の限界」が指摘される現在は、そのような「成長」に代わる新たな概念が提示されることであろう。

 三浦氏の最大の価値観は「都市型消費」であろう。要するに、三浦氏は、都市が(パルコを中心として!)消費の享楽を味わうことができればいいのであって、地方が消費の享楽を味わうのは問題であり、犯罪を引き起こす、と考えている節がある。都市で消費することはかまわないが、地方で消費するのは駄目だ、という三浦氏の発想は、153ページから155ページにおける《宇都宮のパチンコ屋が実家という女子大生》の発言を引用していることでも分かるし、本書において一貫して都市が消費社会化することを問題と見なしていないことでも分かる。本書で納得してしまう人がいれば、かなりの確率でその人は都市型新保守主義者と見なすことができるかもしれない。

 蛇足だけれども、三浦氏の青少年に関する認識の偏狭さも第6章でよく見られる。例えば、

 これも従来的なイメージだが、体験というと東京の子どもには欠如していて、地方の子どもにはたくさんあると考えられがちだ。だが、地方でも近年都市開発が盛んに行なわれているので必ずしも自然がそのままの姿で残っているわけではないし、過疎地の子どもですら木登りはできなくなって久しい。むしろ、彼らも暇な時間はテレビゲームにハマっている。(169ページ)

 三浦氏はこの文章の直前において、《体験》をかなり幅広く捉えられていたのに対し、なぜかこの段落においては「自然の体験」に矮小化されている。

 おそらく、子どもは自分の家とジャスコの位置関係を把握していない。いえとジャスコは恬として存在するだけで、それらが線や面としてつなぎあわされていない。つまり、自分がお菓子や消しゴムを買うという行為はたんなる消費行為であり、地域と結び付けられていないのだ。

 これで地域への愛着が育つのだろうか。自立心が育つだろうか。挨拶の仕方、コミュニケーションの仕方を自然に学べるだろうか。はなはだ疑問である。地方で連れ去り事件などを起こす若者が、無職でひきこもり気味だったりするのを新聞で見ても、やはり地方でコミュニケーション力のない若者が増えているのではないかと懸念される。

 たんに無職というだけでなく、毎日、家にこもってテレビゲームか何かをしているだけの若者だったりする。そういう若者は都会に多いというイメージがあったが、いまは日本中にいるし、どんな田舎にもいる。下手をすると田舎のほう多いかもしれないのだ。(172ページ)

 ここまで俗論を平然と述べることのできる三浦氏はすごい。私もここまで根拠のない断定ができるようになりたいものだ。もちろん皮肉だけれど。

 Jリーグもあって、ジャスコもあって、アウトレットもある。そういう生活に地方の人は満足している。自分の力を試しに東京に出たいという若者は減っていく。東京には買物とレジャーにたまに出かけるだけでよい。ディズニーランドと丸ビルと六本木ヒルズとお台場、それらはすべて地方からの客でもっている。そうした地方人は、豊で平和な日本の象徴だ。しかし、それは他方では、目標も意欲もなく、適当に働き、テレビを観て、漫画を読んで、ゲームをして、買い物をしているだけの、たいへん視野の狭い消費人間にも見える。(183ページ)

 このような暴論をたやすく述べている三浦氏に、青少年問題を語って欲しくない。しかし三浦氏は少ない根拠で大きく煽ることを得意としているようだ。

 だが、それは明らかにポピュリズムの兆候であり、都市型新保守主義の暗部を如実に表している。三浦展という都市型新保守主義のもっともヴィヴィッドな語り手から我々が学ぶべきは、多数の人が少なくとも最小限の幸福を得ることのできる社会の構築にとって、このような単なるポピュリストこそが障害となることかもしれない。

 参考文献・資料
 重松清[2004]
 重松清「少女と親が直面した「見えない受験」という闇」=「AERA」2004年7月19日号、朝日新聞社
 神野直彦[2002]
 神野直彦『地域再生の経済学』中公新書、2002年9月
 三浦展[2004]
 三浦展『ファスト風土化する日本』洋泉社新書y、2004年9月
 森真一[2000]
 森真一『自己コントロールの檻』講談社選書メチエ、2000年2月

 五十嵐太郎『過防備都市』中公新書ラクレ、2004年7月
 植田和弘、神野直彦、西村幸夫、間宮陽介(編)『岩波講座・都市の再生を考える』1~7巻、2004年12月~2005年7月、岩波書店
 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 玄田有史『仕事のなかの曖昧な不安』中央公論新社、2001年12月
 越澤明『復興計画』中公新書、2005年8月
 小杉礼子(編)『フリーターとニート』勁草書房、2005年4月
 望田幸男、広田照幸(編)『実業社会の教育社会史』昭和堂、2004年10月

 安藤忠雄「「美しい大阪」をつくる」=「Voice」2005年1月号、PHP研究所
 神田順「まちづくり 建築基準法見直しが先決」=2005年5月11日付朝日新聞
 野田一夫「低い仙台の都市機能 納得できる街創ろう」=2003年10月12日付河北新報

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 関連記事
 「俗流若者論ケースファイル53・佐々木知子&町沢静夫&杢尾堯

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2005年7月23日 (土)

トラックバック雑記文・05年07月23日

 お久しぶりです。最近このブログの更新が停滞していたのは、建築の課題を作っていたからですが、一応毎日アクセス確認はしていました。

 その確認をしていたときに判明したのですが、どうやら誰かがパチンコ関係のネット掲示板に私の記事へのリンクを何の文脈もなく、しかも私が投稿したものであるかのように貼っている人がいるようです。

 ここで申し上げておきたいのですが、まず私はその事実を知るまでその掲示板の存在を知りませんでした。また、たとえ掲示板に投稿する際でも、私は原則として本名でしか投稿しません。なので、その掲示板にさも私が貼ったかのごとく書かれている書き込みは、明らかに私のものではないのです(ちなみに最近「北の系」の掲示板に投稿した文章は私のものです)。

 確かにこのブログは、タイトルの近くにも書いてある通り、リンク及び転載は歓迎しております。私に提供したい情報があれば、どしどしトラックバックやコメントを投稿していただきたいものです(アダルトブログなどからのトラックバックは無条件に削除させていただく場合があります)。しかし、この場合は、明らかに私に対する誤解をあおるものであり、私はそのことで大変迷惑を被っております。

 まさかこのブログの常連の読者がそのようなことをするはずはないのだと思いますが、この文章を読んでいるのであれば、まずその行為をやめてください。

 ここからが本文です。
 フィギュア萌え族(仮)犯行説問題ブログ版:ガードレールの金属片の謎、解明される(古鳥羽護氏)

 本の2ヶ月ほど前、あれほど我が国を騒がせた「ガードレールの謎の金属片」問題も、今ではまったく聞かれなくなりましたね。で、最近になって、ようやくその「原因」がわかったらしい。ここで引用されているNHKのニュースによると、車がガードレールにこすれたときに車の金属がはがれて、あのような形の金属片が生成されてしまうとか。

 それにしても、この記事における結びの言葉が極めて秀逸ですね。

 さて、この現象を、「テレビゲーム世代」、「2ちゃんねらー」、「ひきこもり」、「ニート」による人為的なイタズラであると決め付けたコメンテーターたちは、明日からテレビに出ないで欲しいものです。

 まったくもって正しいですね。しかし、これはテレビのみならず新聞も同じでしょう。私の家では読売新聞を購読しているのですが、このことを取り扱った第1社会面の記事で、2人の自称「識者」がコメントしていましたが、そこに掲載されていた、漫画家の弘兼憲史氏の発言がひどかったことを記憶しています。曰く、「このようなことがインターネットを通じて広く行われるようになるひどい社会になってしまった」と(うろ覚えで申し訳ありません)。この現象に関して、何でもかんでも「今時の若者」のせいにしてしまった人たちは、まず最低条件として1年ほどコメンテーターとして参加するのを自粛してくださいね。

 また、先ほどの話題とかなり関係があるのでここも採り上げておきましょう。

 週刊!木村剛:[金曜日ゴーログ]さすがにマスコミは「叩く相手」を知っている!(木村剛氏:エコノミスト)

 今年のバレーボールのワールドカップは、我が街仙台で行なわれましたけれども、そこでジャニーズの某グループとフジテレビの某アナウンサーの不祥事がありましたね。まあ、この問題に関しては、多くの人が知っていると思うので改めて書く気はありません。木村氏のブログで事件の概要がおさらいされているのでそちらを読んでください。

 それにしても、木村氏のブログでも触れられているのですけれども、本来であればこの手のネタは格好のワイドショー報道の材料になるはずなのですけれども、あまり報じられていないようですね。さすが、身内には甘い、というべきか。

 身内には甘い、ということで私が真っ先に思いつくのは若年層に関する報道や言論です。例えば我が国の左派論壇において、「今時の若者」を嘆くために「戦後」を持ち出すような歴史修正主義が増えています。これでは「今時の若者」を嘆くために「戦前」を持ち出すような右派の歴史主義者となんら変わるところはありませんよ。しかし、左派論壇の人たちは、彼らを右傾化したと批判したり指摘したりしない。特に筑紫哲也氏は、筑紫氏が今や(というよりもずいぶん前からか)左派論壇のトップスターであるということもあってか、いかに「週刊金曜日」の連載で復古主義的なナショナリズムを煽っていても(「俗流若者論ケースファイル10・筑紫哲也」を参照されたし)、そのような言論を右傾化だとか指摘する人はいません。筑紫氏ほどではありませんけれども、吉田司氏や斎藤貴男氏なんかもこの傾向が現れ始めていますね。特に斎藤氏。斎藤氏は、かの曲学阿世の徒・京都大学霊長類研究所教授の正高信男氏のトンデモ本『ケータイを持ったサル』(中公新書)を、朝日新聞と、著書『人を殺せと言われれば、殺すのか』(太陽企画出版)と『安心のファシズム』(岩波新書)で絶賛していた。そのような斎藤氏の文章を読んで、私は「いったい、斎藤貴男はどうなってしまったのか!」(もちろん、斎藤氏と魚住昭氏の共著『いったい、この国はどうなってしまったのか!』(NHK出版)のパクリです)と驚いてしまいました。「サイゾー」の今月号で、例の宮台真司氏と宮崎哲弥氏の対談において、宮崎市が斎藤氏のことを「頭は左翼だが、体は半分保守オヤジに浸かってしまっている」状態であると批判していましたけれども、「頭は左翼、体は保守オヤジ」という人たちが多すぎます。左右関わらず、「体が保守オヤジ」の人々によって現在の言論界が支えられているから、このような事態が生じるのでしょうかね。

 それにしても、彼らの考える「国家」とはなんなのでしょうか。

 ン・ジュンマ(呉準磨)の備忘録:ナショナリズムとは、つまり「国民国家の虚偽意識」か
 弁護士山口貴士大いに語る:カスパルがうさんくさい要望書をエロゲー関係各社に送ったようです(山口貴士氏:弁護士)
 kitanoのアレ:反性教育の動向(6)

 なぜ、俗流若者論に寄りかかる歴史修正主義者の思考を考える上でこのような記事を持ってきたか。それは、まさに彼らの「国家」が彼らを正当化するためだけの道具に過ぎない、ということを言いたいのです。

 山口氏のブログでは、アダルトゲーム規制を推進する団体がアダルトゲーム業界に怪文書を送ったことが報告されています。しかし、なぜこの団体はアダルトゲームにこだわるのでしょうかね。アダルトゲームにこだわりすぎると、犯罪の実像はまったく見えなくなりますが、彼らにとっては見えなくてもいいのでしょうか。所詮は自分の「理解できない」ものを国家によって規制しろ、といいたいわけですね。超国家主義と生活保守主義の最悪の結婚です。

 また「kitanoのアレ」では、中教審が高校生以下の性行為を認めない、という決定をしたようです。ここで引用されている共同通信の記事を読んでいると、嗚呼、やはり我が国は「言霊の国」だ、と嘆きたくなります。中教審の皆様方は、とにかく駄目だと言っていれば解決する、と思い込んでいるのですからね。考え方が甘すぎやしませんか。
 この2つに共通するのは、「強い国家」によって「今時の若者」を「是正」することを目的としていることでしょう。彼らが「今時の若者」に対して不快感を持っているのはよくわかります。しかし、その「解決」のために国家を持ち出し、「国家」に自らの「癒し」を求める、という態度は果たして正しいのか。私はそうは思いませんね。私だって、俗流若者論を批判する立場にある身であっても、やはりメディア的な「今時の若者」に不快感を覚えることはありますよ(仙台ではあまり見かけませんが)。しかし、そんな個人的な感情を、現代の若年層における「国家」意識の喪失なる論理と無理やり結びつける、という行為は、はっきり言って良識ある大人の行為ではないでしょう。

 今や国家は、「今時の若者」に対する個人的な恨みつらみを晴らしてくれる存在でしかなくなりつつあります。真面目な国家主義者は、直ちにこの状況を批判すべきでしょう。

 ヤースのへんしん:皆の道

 日本最速の161キロを記録した横浜ベイスターズのマーク・クルーン投手にあやかって、横浜市の市議より「市道鴨志田161号」に「クルーンロード」という愛称を付けようという動きが持ち上がってるらしい。

 うわあ、莫迦莫迦しい(笑)。もちろんこの記事の筆者も莫迦莫迦しいと思っていますが。

 この文章を読んで、東北大学助教授の五十嵐太郎氏(『戦争と建築』『過防備都市』の著者です)の授業において、北朝鮮の建築のスケールや装飾の数(例えば金日成広場の正面にある「主体思想塔」の高さ)が北朝鮮の革命史とか金日成にまつわる数字とかにあわせられている、ということが語られていたことを思い出しましたよ。

 このようにセンスもなく、ただ単に人気にあやかっただけの地名や愛称が、その後においてどのように語られるか、ということを考えてみるとなんだか滑稽に思えてきます。野球の選手が日本催最速の等級速度を出した、だからこの道路にそのような愛称がついたのだ、と言われても、その知名に愛着を持つ人がいるのでしょうかね。どうも疑問に思ってしまう。

 minorhythm:夏本番っ☆(茅原実里氏:声優)
 ひとみの日々:夏バテ?(生天目仁美氏:声優)

 仙台の梅雨明けはまだですが、いよいよ本格的な夏が始まりました。私も、本日、長かった建築の課題が終わり、いよいよ夏休みに入ります(補講とか試験とか提出とかたくさんありますが)。余暇の時間が多くなるので、このブログの更新頻度も多くなるでしょう。後はアルバイトが欲しい。私は「家庭教師のトライ」に所属しているのですが、現在生徒を持っていない状況です。なので、積極的にトライのほうに電話をかけて、新しい生徒はいないかといっております。さぞかしトライの仙台支部も迷惑千万でしょう(笑)。

 アルバイトがないなら、夏休みは物書きに徹しますか。一応現在検証待ちの文章もいくつかありますが、8月初旬からは夏休み特別企画を行なうことを考えております。
 それは「俗流若者論大賞」。平成12~15年に後で挙げる雑誌に発表された俗流若者論から1年ごとに、準グランプリを3~5本、そしてグランプリを1本ノミネートしようと思います。なので、この特別企画の期間中は、カレントな俗流若者論の批判はしばらくお休みになります。

 対象となる雑誌:文藝春秋、諸君!(以上、文藝春秋)、中央公論(中央公論新社)、現代(講談社)、世界(岩波書店)、正論(産経新聞社)、Voice(PHP研究所)、論座、週刊朝日、AERA(以上、朝日新聞社)、Yomiuri Weekly(読売新聞社)、サンデー毎日(毎日新聞社)、週刊金曜日(金曜日)

 また、雑誌に投稿するために、ここでは公開しない文章も執筆するつもりです。とりあえず現在執筆予定なのが「疑似科学の潮流と俗流若者論」とか「俗流若者論が生み出す歴史修正主義」とか。というのも、先月の頭ごろに、このブログの記事「壊れる日本人と差別する柳田邦男」を「論座」編集部に投稿したときに、編集部から既に発表された文章は掲載できないと電話がかかってきましたので、雑誌投稿向けに、これまでの私の俗流若者論批判を一つのテーマにまとめて、俗流若者論という言論体系にあまり明るくない人にも読んでもらえるような文章に仕上げるつもりです。もし投稿してから1ヶ月以上反応がなければ、ここで公開するつもりです。

 それから、前回の雑記分から、以下の記事を公開したので、是非読んでください。

 「俗流若者論ケースファイル35・斎藤滋」(7月10日)
 「俗流若者論ケースファイル36・高畑基宏&清永賢二&千石保」(7月13日)
 「俗流若者論ケースファイル37・宮内健&片岡直樹&澤口俊之」(同上)
 「俗流若者論ケースファイル38・内山洋紀&福井洋平」(7月16日)

 そうそう。あさってはついに我らが仇敵(だったのか)・正高信男の新刊が発売される日ですよ。

 正高信男『考えないヒト』中公新書、2005年7月25日発売予定

 中央公論新社のウェブサイトでは、《通話、通信からデータの記憶、検索、イベントの予約まで、今や日常の煩わしい知的作業はケータイに委ねられている。IT化の極致ケータイこそ、進歩と快適さを追求してきた文明の象徴、ヒトはついに脳の外部化に成功したのだ。しかしそれによって実現したのは、思考の衰退、家族の崩壊などの退化現象だった。出あるき人間、キレるヒトは、次世代人類ではないか。霊長類研究の蓄積から生まれた画期的文明・文化論》と紹介されています。まあ、帯を見る限りでは、おそらく『人間性の進化史』(NHK人間講座テキスト)をさらに拡大したものになるのでしょうか。しかし、あのテキストだけでは新書というサイズにまとめることができないので、ある程度加筆することになるのでしょうけれども、少なくともこの本が彼の疑似科学路線を突っ走った本になることは間違いないようです。

 皆様、この機会に、正高信男という曲学阿世の徒について復習をしてみましょう。

 まず、私の正高信男批判を。

 「正高信男という病 ~正高信男『ケータイを持ったサル』の誤りを糺す~」(平成16年11月7日)
 「正高信男という堕落」(平成16年12月4日)
 「またも正高信男の事実誤認と歪曲 ~正高信男という堕落ふたたび~」(平成17年2月24日)
 「正高信男という頽廃」(平成17年3月8日)
 「正高信男は破綻した! ~正高信男という堕落みたび~」(平成17年4月5日)
 「暴走列車を止めろ ~正高信男という堕落4~」(平成17年7月3日)
 私の正高信男批判を全部読みたい方はこちら

 また、他のブログにおける正高信男批判も紹介しておきます。

 えこまの部屋:[社会]EMYさんへの返事[社会]少子化対策ぅぅ~~?(着地点はコレかよ!)

 はぁ・・・?
 これケイタイを持つ者へのなんらかの批判と啓蒙の書だったのではないのですか?
 (少なくともそれを期待し彷彿させるタイトルだったんですが・・・)

 百万歩譲って「この本は本当は少子化対策の本だった」として、
 この程度の提案(少子化対策案)って・・・
 なんだか高校生の子が、もしくは家政科の短大生が明日提出で急いで仕上げた
 「私が考える少子化対策レポート」みたいに思えるんですけれど・・・。

 脱力である。

 ふたたびEMYさんのコメント再生
 >読まなくて正解と思います。

 ほ・・・ほんほひそうらね、EMYひゃん。(ほんとにそうだね、EMYさん)

 ちなみにこの記事では、このブログではおなじみの「千人印の歩行器」の栗山光司氏が私の文章を紹介しております(この記事が「堕落みたび」にトラックバックされているのもそのためでしょう)。この記事は、一般読者の立場から正高本に突っ込みを入れております。

 思考錯誤:[note] 『ケータイを持ったサル』か?(辻大介氏:社会学者)

 しかしだな、その実験の解釈や議論の組み立てかたは、やはりトンデモと言わざるをえないところがある*1。いかに優れた自然科学者であっても、生半可に社会評論に手を出してしまうと、こんなことになってしまうんかいなと愕然としてしまう。お願いだから、正高さんには、こっち方面からはとっとと手を引いて(どうせ片手間しごとなんだし)、着実に本業を進めてほしいと切に思う。優秀な人が道を誤っちゃいけない。

 本当にその通りであります。

 あと、オフラインの正高批判も挙げておきます。

 宮崎哲弥「今月の新書完全読破」2003年9月分=「諸君!」2003年12月号、文藝春秋

 私には呆れるほど杜撰で、学者としての良心すら疑いたくなる内容なのだが、新聞などの書評は押し並べて好意的だった。
 日本人が「退化」しているかもしれないという危惧にだけは同意してもよい。私の危惧は、著者を含めたインテリ層の知的能力の「退化」に対するものだけど。(280ページ)

 岸本佐知子「(ベストセラー快読)おじさんも「感動した!」」=2004年3月28日付朝日新聞

 この本の悪口を言うのは簡単だ(オヤジの主観丸出しだとかトンデモ本じゃないのかとか女になにか恨みでもあるのかとか)。が、そんなことはこの際どうでもいいのだ。著者は、学者として何より大切な客観性を投げうち、神聖な研究対象をネタに使ってまで、世の虐げられたおじさんたちを勇気づけようとしているのである。何と崇高な犠牲精神であろう。

 斎藤美奈子「(斎藤美奈子 ほんのご挨拶)サルとヒトの区別ない 印象のみの比較論」=「AERA」2003年12月8日号

 ※備考:この「ほんのご挨拶」をまとめた本が、斎藤氏の最新刊の『誤読日記』(朝日新聞社)として刊行されています。私はまだ読んでいないのですが、おそらく正高本への批判も収録されているでしょう。

 相手がサルだと社会統計学の原則に則る必要もないんですね。
 ……こんな乱暴な比較論もサルだから許されるわけです。ヒトの家族論、若者論、コミュニケーション論等がいまやこれだけ出ているのに、参照しないってのもすごい。

 皆様、来る25日に向けて、完全に論理武装をしておきましょう(笑)。

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2005年6月22日 (水)

トラックバック雑記文・05年06月22日

 冬枯れの街:「無駄な星なんてあるわけがないだろ?」
 先日の「トラックバック雑記文・05年06月18日」で「河北情けないよ河北」と私がもらした記事(河北新報:落書き、知力低下反映? 単純な絵などばかり 仙台)について、ココログで「落書き」と検索をかけてみたら、かなりの数のブログがこれに言及していたので、先日のものでは書ききれなかった論点についてもう一度書いておきます(ちなみに私は仙台在住の東北大学工学部建築学科の3年生であり、仙台に溢れる落書きには心を痛めている者であります)。

 ちなみにこれに言及していたブログを挙げておきます。

 c572 blog:落書きに知的水準が低下?
 Sleeping Sheep:知力の低下。
 トウグウタクミの書道でGO!:「国語力」って何でしょう?
 ++ zakkan ++:このニュース・・・
 週刊?コヰズ::実況中継:落書き・ミネラルウォーター・熊本深夜便
 ひとこと:落書き
 Books and Cafe:グラフィティアートのレベル低下?
 諸般の事情亭・地域面:人類の退化と・・・
 パンダの戯れ言:レベル低下
 日々是決算、親身の集金:イタズラも知的センスが必要

 この記事に関する問題点は次のとおりです。

 1、仙台に書かれていた落書きの傾向について、そこから「今時の若者」を語ることができるのでしょうか。

 2、そもそも、落書きというものは「器物損壊罪」なのではないでしょうか。たといそれが「器物損壊罪」であったとしても、それにたいして何らかの美や主張が許されるのなら、それは社会的に許されるものなのでしょうか。

 3、そもそもこのような記事に、ジャーナリズムとしての存在意義がどれほどあるのでしょうか。

 以上の3つの論点について、私が持った違和感を書いておきます。

 「1」。そもそもこのような落書きに関しては、そのほとんどが社会的に恵まれない層、あるいは社会から逸脱している層によって書かれている、ということは、本来であればその人たちに起こっている質的変容を問題視するべきではないでしょうか。また、そもそもこれらの落書きを書く人が、若年層全体から見てどれほどの割合いるのでしょうか。そして、安易に彼らが現代の若年層の知性を代表している、という考え方にも、疑問を感じずにはいられません。さらに、仙台以外の地域との比較もないのも、これまた疑問の種でありましょう。

 「2」。そもそも、落書きの美醜は誰によって決められるものなのでしょうか。これは、先日の「松文館裁判」の冤罪判決にもつながるものですけれども、ある「刑法犯のおそれのある行為」に対して、それが「美しければ」よし、「醜ければ」駄目、というのであれば、その線引きを誰が決めるのでしょうか。落書きという行為は、それ自体が「器物損壊罪」という犯罪行為なのですから、もしここで問題にされている落書きが規制されるべき、というのであれば、その美醜に関わらず、落書きという行為は全て規制されるべき、といわないと、プリンシプルというものがありません(以上の観点から、私は、明確な被害者が存在している落書きは規制すべきで、明確な被害者の存在しないアダルト漫画は規制されるべきではない、と考えます)。

 「3」。正直言って、このような記事が平然と流通してしまうことに、わたしは心を痛めております。リンク先のブログにも、「愚民化政策の結実」だとか「教育の失敗」だとか安易に語っているところが目立ちますけれども、そもそもこのような記事は、所詮は「酒場の愚痴」程度のものにしかなりえないのではないでしょうか。これらの「憂国」言説は、はっきり言って極めて政治性の強いロールシャッハ・テストでしかありません。

 結局は、みんな、「今時の若者」をバッシングすることによって、「自分は「正義」である」という幻想に浸りたいだけなのです。この記事は、そのような俗流若者論の「願望」を、見事に表している、というほかありません。

 かように志の低い記事が乱造されて、若年層全体がいわれなきバッシングに晒されてしまう、という現在の状況を、私は悲観しています。思えば、「理解できない」少年凶悪犯罪がひとたび起これば、最近はワイドショーのみならず「まともな」報道機関でさえも、安易に「原因」なるものを求める方向に走って、お決まりの如く渋谷や原宿や秋葉原に出向いて、ありもしない不安ばかり煽るようになってしまっています。要するに、目の前の「象徴的」事件と、巷で(ワイドショー趣味的に)語られている「問題」を強引に結びつけることによって、若年層に対する不信ばかりを煽る。この記事は、そんな悪しき流れに掉さしたものに過ぎないのです。

 私は河北新報に、過去4度ほど文章を掲載させてもらった恩義があり、原稿料も頂いたことがあります。しかし、そんな河北新報が、これほどの志の低い記事を書いていることに、私は怒りを隠しきれません。この記事の問題点も咀嚼せず、安易に受け入れている人たちも、これでいいのですか?

 それにしても、いつから、過去の落書きが「アート」として許容されるようになったんだ?昔も、それらに対して、多くの市民が怒ってたのにねえ。っていうか、なんだよ、「グラフィティアート」って。

 皆様。仙台市民として、この程度の落書きよりも憂うべき事件があるのではないですか?

 kitanoのアレ:議場飲酒議員問題:「明らかに数人が酔っていた」
 日課として、「kitanoのアレ」を何気なく読んでいたら、聞き覚えのある名前が私の目に飛び込んでしまい、一気に眠気が覚めました。

 秋葉賢也!?

 そう、先日、平成15年の衆院選に関する運動員のスキャンダルによって、引責辞任した民主党の鎌田さゆり議員の補選で今年当選した、自民党の秋葉賢也氏(宮城2区:仙台市宮城野区、太白区、若林区)です。「kitanoのアレ」で引かれている日経新聞の記事によると、その内容は以下のものだそうです。

 17日夜の衆院本会議に、数人の自民党議員が「酒気帯び」で出席したことに野党が反発、会期延長の議決が予定よりも30分ほど遅れた。

 本会議は午後5時に休憩に入り、午後9時前に再開。議決反対の討論に立った社民党の阿部知子氏が赤ら顔の議員を見とがめ、「即刻、退場すべきだ。『酒気帯び国会』を延長する必要はない」と声を張り上げた。

 これを聞いた自民党の秋葉賢也氏は議場閉鎖中にもかかわらず退場。場内はさらに騒然とした。

 河野洋平議長が投票を呼びかけたが、野党はしばらく応じず、一時は徹夜かとの憶測も飛び交った。

 民主党の岡田克也代表は本会議後の党代議士会で「小泉純一郎首相と森喜朗前首相も赤い顔をして投票していた。いかにいいかげんな国会か分かる」と批判した。

 なんと、酒を飲んでいたから議事に遅れた!

 しかも、秋葉氏は、そんな行為に対する当然の批判を民主党や社民党の議員に注意されたら、議場閉鎖中にもかかわらず退場してしまった!しかも、この議会は、国会の会期延長を議論し、さらにその議決を行なう日だった!

 これでいいのでしょうか。

 そして、このような議員や、このような議員を支持した人に対して、なぜ「知力低下」のレッテルが貼られないのでしょうか。

 実に不可解です。

 以上のことからもお分かりですね。俗流若者論とは、所詮は権力に媚び、問題の論点を逸らし続け、より大きな問題や権力に対する疑問を隠蔽し、大衆の批判の方向を権力ではなく若年層に向けることによって、本当の問題を隠蔽してしまう。

 また、「醜悪な」落書きが「知力低下」の象徴としてバッシングされるのに、「醜悪な」都市計画が「知力低下」の象徴としてバッシングされないのはなぜなのでしょうか。

 目に映る21世紀:秋葉原と下北沢の再開発ってどうよ? ~キール&NINEでトークpart1
 週刊!木村剛:[週刊!尾花広報部長] ついに萌えのまち秋葉原に進出しました!(尾花典子氏:日本振興銀行広報部長)

 以前の雑記文でも何度か書きましたが、秋葉原に行ったとき、秋葉原駅前に建っている大きな再開発ビルに、とてつもない違和感を感じました。また、以前に「目に映る21世紀」や保坂展人氏のブログで、下北沢の再開発が批判されていることにも触れました。

 現在行なわれている「都市再生」によって、さまざまな箇所でその地域の地域性が破壊されている、という指摘がさまざまなところで行なわれていますが(五十嵐敬喜、小川明雄『「都市再生」を問う』岩波新書など)、私はその実態を、秋葉原に行って肌で感じ取りました。読者諸賢も御存知の通り、秋葉原はオタクの都市として有名ですが、秋葉原駅前にそびえ立つ再開発ビルは、オタク的なるものにたいする国家権力の規制の象徴として建っているように見えました。あのようなビルが秋葉原に建つことに、一体何の意義があるのか。秋葉原は雑然としたオタクの街でいいじゃないか、とここで叫んだとしても、所詮は流れを止めることができないのでしょうか。

 秋葉原におけるオタク規制と歩調を合わせてかどうかはわかりませんが、最近はさまざまなマスコミにおいてオタク・バッシングがよく見られます。この間の少女監禁事件にしても、犯人の性癖がオタク趣味に傾いていることから、いかにオタクが犯罪的であるか、ということを喧伝していたように思えます。

 しかし、この少女監禁事件の犯人・小林泰剛は、正確に言えば「オタクの皮をかぶった鬼畜」です。なぜか。それは、オタクの性的嗜好は「二次元の美少女に対して欲情する」というもので、二次元の美少女に対して欲情できず、凶悪な性犯罪に走ってしまう、というのは、オタクの性的嗜好を逸脱しているからです。

 あと、例えば「オタク」だとか「アダルトゲーム」だとかに対する印象論だけで、架空の「専門家」まで捏造していかにそれらが危険であるか、という記事を夕刊フジがウェブ上で書いていたそうですね。もちろん、その後は訂正されたようですが。それにしても、夕刊フジと言えば、JR福知山線の脱線事故に関しても、森昭雄を召還して犯人が「ゲーム脳」だと疑う記事を書いていましたね。夕刊紙だから何でも許される、ってわけじゃねえんだよ。

 皆様、お分かりになられたでしょうか。俗流若者論を容易に受け入れる人たちは、「「今時の若者」は政治にまったく関心がない」と愚痴りますけれども、政治に関心がないのは、むしろ俗流若者論のことではないですか。俗流若者論は、「今時の若者」を安易にバッシングして、若年層に対して敵愾心を煽ることには至極長けていますが、政治の動きを読み取り、その流れが正しいものであるかを判断する、ということに関しては、極めて疎い。そして、多くの人たちが、そのような俗流若者論に心酔している。そうなると、政治は「今時の若者」に対する敵愾心を回収するだけのものになってしまいます、というよりも、その萌芽が出始めています(メディア規制や教育基本法の改正など)。

 俗流若者論に心酔することは、昨今の政治の危険な流れに賛同する、ということに他なりません。それでもいいのであれば、どうぞ俗流若者論に賛同してくださいね。

 保坂展人のどこどこ日記:日韓首脳会談の不実と小泉政権(保坂展人氏:元衆議院議員・社民党)
 正々堂々blog:日韓首脳会談を憂う(川内博史氏:衆議院議員・民主党)

 日韓首脳会談が行なわれていますが、少なくとも保坂氏や川内氏の視点から見ると、どうもこの首脳会談はうまくいっていないようです。

 この首脳会談の内容にすいてはあまり存じ上げないのですが、昨今の日韓関係、あるいは日中関係について少し想うことを言わせてもらうと、私はお互いに対する「敵愾心」を排除して、真摯に向かい合わなければ解決し得ないと思います。

 中国や韓国の反日デモは言わずもがな、それに過剰に呼応する政府・自民党の人たちや俗流右派論壇人の人たちも、単なる「反・反日」に熱中しているだけで、「反日」に真摯に向かい合おうとしている人たちは、むしろ左派に多いと思います。

 日韓・日中関係に限らず、これは若年層に対する態度についても同様に言えます。マスコミの若年層に対する態度は、安易なイメージばかりが先行して、若年層の抱える問題について地味ながらも正面から向き合っている人は、むしろあまり読まれないような雑誌や書籍によく登場しています。しかし、マスコミがただ部数とかなんかの理由で派手な若年層バッシングばかりやっている状況では、社会や政治と若年層が歩み寄る、ということはまずありえないでしょうね。

 ひとみの日々:おらんうーたんとわたし(生天目仁美氏:声優)
 ここまで政治的な話をしすぎたので、ここで落ち着きましょう。

 生天目氏は動物園に行ったそうですが、たまには自分の生活空間(私の場合は、住宅地と、大学のキャンパスと、仙台の中心市街地)とは違う場所に行ってみるのもいいものです。自分の生活空間を抜け出し、環境の違う場所に行くと、心が洗われます(その場所の環境にもよりますが)。

 私は最近、1年ほど行っていなかった宮城県美術館に行ってきたのですが、東北大学写真部の展示会が行なわれておりました。また、宮城県美術館の空間的な雰囲気は、都市的な、あるいは住宅地の生活環境に慣れ親しんできた者にとっては、また違った感覚を味わうことができます。

 千人印の歩行器:[時事編]地下構造ダイビング(栗山光司氏)
 「俗流若者論ケースファイル29・吉田司」を公開しました。この文章で採り上げた吉田氏の文章に対して、私が朝鮮戦争というファクターを無視している、と書いたところ、栗山氏から朝鮮戦争時の栗山氏の生活に関する実体験が書かれている文章がトラックバックされたので、興味がある方は一読を。

 それにしても、栗山氏の次の文章は、我々が真摯に考えなければならない論点が含まれているような気がします。

 後藤氏の俗流若者論に対する批評はマットウですね。しかし、「今時の若者云々」はいつの時代にも言われてきた。床屋政談として挨拶代わりに喋るには構わないが、ちゃんと、若者達に向き合って、自分なりにデータ分析した深い思索の結果なら傾聴に値するが、そんな検証のない単に他罰の構造にのって勝手にスピークアウトする輩の言説は馬耳東風です。自虐史観がどうのこうのと言いますが、僕が一点、ぶれない定点と言えば、「自虐」です。別に歴史観だけの問題でなく、「自虐」を通さない針穴から「誇り」は生まれない。他罰を積み重ねてそれが誇りだと誤読している人がいますが、吼える犬ほど始末の悪いものはない。兎に角、何かに動員される前に自分の頭で考える癖をつけること、それは当然自己相対化の自虐に到る。痛い地帯で発言する。そこがスタートラインでしょう。安全地帯では、音楽を聴いてぼけ~とする。

 《「自虐」を通さない針穴から「誇り」は生まれない。他罰を積み重ねてそれが誇りだと誤読している人がいますが、吼える犬ほど始末の悪いものはない》とは実に的を得た指摘だと思います。俗流若者論とは、若年層に対するバッシングを繰り返すことによって、自分を正当付ける言論体系であり、「「今時の若者」は駄目だから駄目なのだ」というトートロジー(同語反復)の繰り返しでしかありません。冒頭の河北新報ではないですけれども、「批判のための批判」の繰り返しでは、何の解決にもならない。所詮は自慰。二次元の美少女で自慰するのは至って健全ですが、俗流若者論で自慰するのは極めて有害ですよ。

 最後に。このブログではおなじみの東京大学助教授の広田照幸氏の記述を紹介しましょう。ちなみに引用元は『教育には何ができないか』(春秋社、2003年2月)です。

 30年後ぐらいには、社会の中心を担うようになった今の子供たちの世代が、「俺も昔はワルで、万引きやカツあげをやってたけど、今はこんなにちゃんとやってるぜ」と誇らしげに語り、「今の非行少年は根性がない」とか「最近の子供はヘンな事件ばかり起こしやがる」と言ってたりするのではないだろうか。

 そういえば、70年代末から80年代初頭にかけて、校内暴力の嵐が全国で吹き荒れた場、つい最近、「あの校内暴力の時代にはワルにも連帯する根性があった。あいつらはそれなりにしっかりした奴らだった」といったことを書いた文章を目にした。20年前の非行少年たちのしでかしたことは、もはや免責される段階に至ったのかと、私には感慨深いものがあった。(188ページ)

 むしろ、「今の若い者は…」と大人たちが攻撃するのは、大人の側が未来社会のビジョンを見失っているからなのかもしれない。目指すべき未来がわからなくなって、漠然とした不安を感じる大人たちが、既存の秩序のゆらぎへのいらだちを、青年たちにぶつけている部分があるように思えてならない。「今よりももっとましな社会」とか、「新たな価値規範」とかのビジョンを、いずれ青年たちが嗅ぎ当てた後は、今の大人たちの世代は、「天保の老人」ならぬ「昭和の老人」といわれるようになるにちがいない。そうした、「新しい鉱脈」を嗅ぎ当てようとする、彼らの努力をもっと容認・鼓舞していく必要がある。青年の可能性を、もっとポジティヴにみていく必要があるのではないだろうか。(197ページ)

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2005年5月31日 (火)

トラックバック雑記文・05年05月31日

 ブログ移転後の最初の記事がこれですみません。ブログを移転してから、私は建築設計の授業の模型や図面製作、及びそれ以外の授業の提出物の執筆に追われていて、こちらのほうにかける時間があまりなかったのです。そういうわけで、まずはこの記事から。

 *☆.Rina Diary.☆*追われて(佐藤利奈氏:声優)
 私も大量の締め切りに追われていて、次々とやらなければならない課題をこなしていったので、佐藤氏の気持ちは分からぬでもない、むしろ大いに理解できます。

 ところで、課題というと、自分で課題と期日を設定して自分でやる、という課題を設けて、そうするとやる気が出る、という人も多いと思われますが、私もその一人です。このブログにおいて文章を執筆するにあたって、何らかの文章に対して期日を決め、その日までに完成させる、ということをよくやるのですが、自分で決めたわけだからとにかくやらなければならない、という場合と(「俗流若者論ケースファイル」が多い)、自分で決めたにもかかわらず執筆を先延ばしにしてしまっているもの、あるいは長い間放置しているもの(「ケースファイル」以外が多い)という場合と、どうも両極端になってしまっているのが目立ちます。自分で決めたことなのだし、もう少しやる気を出さないと、このままでは「ケースファイル」ばかり先走って(来月中には確実に第30回を迎えるでしょうね)、他のコンテンツがおろそかになってしまうのではないか…。事実、前回の雑記文から今回の雑記文の間に書いた12本の文章の中で、11本が「ケースファイル」だったりするわけですから(第15~25回)、当初このブログの見所として掲げていた正高信男批判も頑張らないと…。

 弁護士山口貴士大いに語る:「暴力」ゲームソフト、神奈川県が全国初の販売規制へ(山口貴士氏:弁護士)
 走れ小心者 in Disguise!: ある『子供に見せたい番組』をめぐって(克森淳氏)

 「子供に見せたい番組」第1位は当然「プロジェクトX」、「見せたくない番組」は「ロンドンハーツ」「クレヨンしんちゃん」…。なんか、このようなアンケート自体が壮大な茶番劇に見えてきたなあ…。

 「子供に見せたい/見せたくない」番組というものを規定することに、何の意味があるのでしょうか。「見せたい」のは子供に「いい影響」を与えるもので、「見せたくない」ものは子供に「悪い影響」を与えるものだ、ということなのでしょうが、そこで与えられた「いい/悪い影響」が子供の人格や人間性を直接規定するわけでもないのだし、そもそもこのような議論を振りかざす人たちは現代の青少年を「政治利用」している、ということに無自覚なのでしょうか。それとも、自覚した上でやっているのか。

 彼らにとって、青少年は自分のイデオロギーの主張、そして「自己実現」(笑)の道具でしかありません。当然の如く、彼らはなんらか(といっても、ほとんどが漫画とアニメとゲームとインターネットに収束されますがね)の規制を求めているわけですが、彼らはマスコミで面白半分に報じられる「今時の若者」については至極敏感だけれども、現代の若年層を取り巻く現実に関しては果てしなく無関心です。無関心であるからこそ、漫画・アニメ・ゲーム・インターネット・携帯電話といった、自分が「理解できない」ものを容易に標的にしてしまえるのでしょう。しかも、ただ敵愾心を煽れば人を連れることができる、と高をくくっている様子で(しかも、本当についてくるから驚きですが)、それが彼らの生命を繋いでいると思うと、恐ろしい気持ちになります。

 ただ「わかりやすい」図式を大々的に掲げた者だけが生き残り、たとえ地味でも真面目に研究を積み重ねる人は、それがいくら優れたものであっても世間の喧騒においていかれる。真面目な人ばかり馬鹿を見る、というのは、まさに若年層に関する言論をめぐる状況そのものです。

 目に映る21世紀:変わる若者のシゴトと生活:5【記事】各界の知恵集めニート対策 国民会議が初開催

 著者は《すみません、この会に意見を届けるにはどうすればいいのでしょうか? ここへ参加している人々自身にも言いたいことがたくさんあるのですが・・・。オブザーバー参加ってできないのかな(笑)》と愚痴っているわけですが、現在の青少年の就労に関する問題で、いまだに精神主義的な物言いがまかり通っているのが気がかりです。この状況を見るだけで、我が国は大東亜戦争時代の精神主義をいまだに脱却できていないのか、と心配してしまいます。

 犯罪を起こす、あるいは定職につかない青少年の「心」を問題化する言説は、いくつもの問題を抱えております。まず、「心」の問題として「発見」することによって、「異常な心」を生み出した「原因」に対する弾圧が正当化されること。次に、精神主義・道徳主義的な言説に埋没することによって、社会構造の問題が置き去りにされてしまうこと。さらに、青少年全般に対して「心」の劣った存在という規定をすることによるレイシズム(人種差別)。最後に、「心」を勝手に規定することによって、青少年問題に対する本当の心理的側面に触れることができないこと。

 「心の教育」などと多くの人は叫んでおりますけれども、それが何をさしているのかはわかりませんし、そもそも、そのようなことを振りかざす人たちが「心」をどのように考えているか、ということは問い詰められて然るべきでしょう。たいていの場合、自分を正当化するだけの議論に過ぎないのではないか。

 「心の教育」といえば…。

 kitanoのアレ:反性教育の動向(3):報道2001:「つくる会」八木秀次氏が立ち往生(1)

 平成17年5月1日付フジテレビ系列「報道2001」における、反性教育の旗手、高崎経済大学助教授の八木秀次氏の必死ぶりがうかがえます。八木氏など、反性教育の立場に立つ人たちは、ジェンダーフリーについて「男らしさ」「女らしさ」を否定し、さらにこれが日本の文化を否定し、ひいては韓国や中国や北朝鮮を利する(そんな妄想を語るな、と思われる方もおられるかもしれませんが、「正論」なんか読んでいるとこのような妄想に出くわすのはざらです)などと(妄想を)語っているわけですが、八木氏や、八木氏を支援しているフジテレビのキャスター(得に黒岩祐治キャスター)が、ジェンダーフリー推進派の人たちに自らの議論の矛盾を指摘されると、何も答えられずにほとんど立ち往生状態、というのが笑えます。

 ジェンダーフリーはマルクスの陰謀だとか、日本を滅ぼすだとか大言壮語を振りかざしながらも、結局のところ中身を伴った議論をしていないとこうなるのかもしれません。私がこのレポートを読んで、ジェンダーフリー推進派の人たちにも脇の甘い部分がある、と思いましたが、それでも八木氏や山谷えり子氏(参議院議員、自民党)の脇の甘さに比べたら相当マシです。

 少なくとも、反論されたとき、一歩引いて自分の考えを相対化して考え直す、ということの大切さを、八木氏を他山の石として学びたいと思います。

 保坂展人のどこどこ日記:靖国神社参拝中止で小泉総理退陣へ(保坂展人氏:元衆議院議員・社民党)
 カマヤンの虚業日記:[雑記][政治][呪的闘争]首相の靖国参拝なんか支持しないよ。

 保坂氏は、小泉純一郎首相の公約の中で達成しえたのは「靖国神社参拝」だけだ、と指摘しております。

 この指摘は重要です。保坂氏も述べている通り、特殊法人改革も国債発行30兆円枠も現在まで達成されないまま、このままいけば小泉首相の公約で達成したものは靖国神社の参拝だけ、ということになります。郵政民営化も、このままでは怪しい(そもそもそれが必要かどうかもわからない)。もしかしたら、靖国神社は、小泉首相の政権の正当性をつないでいる唯一のものになっているのではないか、と思います。

 首相の靖国神社参拝には、当初から利権が絡んでいますから、結局のところ小泉首相もまた極めて「自民党的」な首相だった、といわざるを得ないのかもしれません。

 それにしても、最近の中国や北朝鮮に対する強硬派的な発言が俗流若者論と重なって見えるのは気のせいだろうか…。

 千人印の歩行器:[歩行編]一万歩の日常(栗山光司氏)

 街中や大学のキャンパスを歩いていると、さまざまな発見があります。例えば、私の通っている東北大学青葉山キャンパスは、現在メインストリートが爽やかな緑の木々に包まれていて、晴れの日に歩くと気持ちよくなります。これ以外にも、道端を歩いていると、自転車や原付に乗っているときは感じられなかった楽しみや喜びを見つけることができます。特に青葉通や定禅寺通といった、落葉樹の並木道を通っていると、その通りの木々の移り変わりで季節を感じることが一つの楽しみになっています。

 私は、時々都市計画について思索することがあるのですが、都市計画に関する思索の原点になっているのが、定禅寺通のような、自分が好きな場所です。新しい場所を歩く際は、この場所は自分が好きな場所に比べてどのような長所があり、またどのような短所があるのか、ということに関して考えながら歩いてみると、結構面白いかもしれません。

 前回の雑記文から、たくさんの文章を公開しました。こちらも読んでいただけると幸いです(ただし、ここにリンクを貼ってある記事が、全てブログ移転前に書いたもの。リンクは新ブログに貼ってありますが)。

 「俗流若者論ケースファイル15・読売新聞社説」(4月24日)
 「俗流若者論ケースファイル16・浜田敬子&森昭雄」(同上)
 「俗流若者論ケースファイル17・藤原智美」(4月28日)
 「俗流若者論ケースファイル18・陰山英男」(4月28日)
 「俗流若者論ケースファイル19・荷宮和子」(4月29日)
 「俗流若者論ケースファイル20・小原信」(4月30日)
 「俗流若者論ケースファイル21・樽谷賢二」(5月5日)
 「俗流若者論ケースファイル22・粟野仁雄」(5月7日)
 「俗流若者論ケースファイル23・西村幸祐」(5月9日)
 「俗流若者論ケースファイル24・小林節」(同上)
 「俗流若者論ケースファイル25・八木秀次」(5月15日)
 「反スピリチュアリズム ~江原啓之『子どもが危ない!』の虚妄を衝く~」(5月17日)

 最近、図書館に行く機会が多いのですが、そのたびに新聞や雑誌の俗流若者論を見つけてはコピーして私のコレクションにします。そのため、私の書庫には大量に検証待ちの文章があります。とりあえず今後確実に取り上げる予定のものは次のとおり。

 ・三砂ちづる「「負け犬」に警告!あなたはもう「オニババ」かもしれない」=「新潮45」2004年12月号、新潮社
 ・平成17年2月17日付毎日新聞社説
 ・石堂淑朗「褌を締めなおそう!」=「正論」2005年3月号、産経新聞社
 ・石堂淑朗「豆炭心中」=「正論」2005年4月号、産経新聞社
 ・吉田司「女と平和と経済の時代は終わった」=「AERA」2004年8月30日号
 ・「論座」編集部「自民党議員はこんなことを言っている!」=「論座」2005年6月号(憲法改正に関する自民党議員の問題発言を抜き出して構成したものですが、ここで紹介されている問題発言にやたらと俗流若者論が目立つので)
 ・樋口裕一「「困ったチャン」に対抗するための言葉の力」=「文藝春秋」2005年3月増刊号
 ・斎藤滋「人間らしさを育てる」=2003年10月31日付東京新聞
 ・宮内健「妻の携帯、子どものTV・ゲーム」=「プレジデント」2004年8月30日号、プレジデント社

 あと、第1回以来1ヶ月以上やっていなかった「この「反若者論」がすごい!」の第2回も近いうちにやります。採り上げるのは、平成17年4月23日付河北新報の社説です。

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2005年4月13日 (水)

トラックバック雑記文・05年04月13日

 週刊!木村剛:[ゴーログ]『Google八分』や『Yahoo八分』は本当に起こるのか?(木村剛氏:エコノミスト)
 このブログの横に「参考サイト」として登録されています「奈良女児誘拐殺人事件における、マスコミのオタクバッシングまとめサイト」の姉妹サイトにあたる、「「フィギュア萌え族(仮)犯行説」問題」(管理人は古鳥羽護氏)というサイトがあるのですが、このサイトが一時期Yahoo!から「利用規約違反」との理由で強制的に閉鎖されてしまいました。現在でこそ復活しておりますけれども、なぜこのサイトが閉鎖されたか、というのは私にはどうもその理由が分かりません。おそらく、件のサイトで大谷昭宏氏(この人をジャーナリストと呼ぶことは、大先輩の黒田清氏に失礼ではないかと思う)をテレビの映像つきで批判して、それが著作権法違反にあたる、という見方もできるでしょうが(これはあくまでも推測であって、古鳥羽氏のサイトが著作権法に抵触しているか、ということについては議論されるべきでしょう)、このサイトよりもテレビの映像を晒しているサイトはほかにたくさんあるような気がします(同日午後9時35分追記:サイトの閉鎖に関しては、広告が表示されていなかったのではないか、という指摘がありましたので、可能性としてはこちらのほうが高いのではないかと思いますので、訂正いたします/同月16日午後7時42分修正:実際、件のサイトが閉鎖された原因は大谷氏サイドからの苦情だった、という指摘がありましたので、再修正します)。

 木村氏のブログでは、インターネットの検索サイトから外されることに対して「表現の自由」に対する侵害だ、という主張が引用されていますけれども、インターネット時代だからこそ「言論」というものを深化させなければならないのではないか、と私は思います。現在発売中の経済週刊誌「エコノミスト」で、ジャーナリストの日垣隆氏が、ブログが普及することによって「書き手」になるための敷居が低くなったことを指摘しています。日垣氏はこのことに関して「有益なこと」と言っており、ここで正念場になるのはプロの書き手だ、と述べております。私も、ブログを開くことによってさまざまな賛同や批判を目にしてきました。中には至極まっとうな批判もあり、考えさせられる文章もあったのですが、とりわけ痛感するのは、私も「言論」の担い手になってしまっている、ということです。これはもう不可逆なことです。

 ブログが普及することによって「書き手」が増えると、既存の書き手市場も含めて言論は大淘汰の時代になるのではないか、と思います。これにより、既存の「論壇誌」はますます危機に晒されることになるでしょう。でも、この危機の炎を乗り越えてこそ、言論のプロが活躍する洗練された「論壇誌」になると、私は確信しております。

 木村氏のブログにおいては、読売新聞が発行する週刊誌「Yomiuri Weekly」に掲載された記事にリンクが張られておりますが、この記事を読んだ私の感想は、とにかく問題をブログの責任になすり付けているな、ということ。「Yomiee」の記事においては、ブログは所詮「2ちゃんねる」と変わらないのだ、と言いたいのでしょうが、ブログの可能性を狭めているのは、むしろこの「Yomiee」の記事ではないか、と思われます。私はこのブログの機能を用いて、匿名での投稿ができないようにしておりますが、悪質な「煽り」に対して、技術的な面でそれを排除できるようにするシステムも必要なのではないか、と思います。あと、注意しなければならないのは、このようなネット上の反道徳的行為を奇貨として、政治家がネット規制に走ることでしょうか。

 千人印の歩行器:[読書編]bk1投稿書評(栗山光司氏)
 オンライン書店の「bk1」がリニューアルオープンしました。栗山氏の書評において、最も多く投票されたのは『アホでマヌケなアメリカ白人』の書評だそうです。ちなみに私のもので一番多かったのは、正高信男『ケータイを持ったサル』で、次が荷宮和子『声に出して読めないネット掲示板』でした。いずれも批判書評なのですが、私の書評を読んでみると、どうも批判書評が多く読まれる傾向にあるようです。しかも私が批判するのは、たいていベストセラーとなっている俗流若者論ですから、多くの人の目に映るのでしょう。あと、斎藤美奈子氏の本に書いた書評も多くの人が投票していました。

 半分お知らせになるのですが…

 「若者論」で国家論!
 ハイ!ハイ!ハイ、ハイ、ハイ!
 あるある探検隊!あるある探検隊!あるある探検隊!!
 (「レギュラー」のお二方、ごめんなさい)

 というわけで、現東京都知事の石原慎太郎氏が、「仮想と虚妄の時代」と称して、「今時の若者」から国家の衰退を嘆いた85枚にも及ぶ文章が「文藝春秋」05年5月号に掲載されたのですが、これがまた問題ばかりで、思わずその検証として「俗流若者論ケースファイル11・石原慎太郎」という文章を書いてしまいました。ついでに、これの長さを測ってみるとなんと原稿用紙30枚分だとか。ちなみにこの文章は昨日4時間かけて書いた文章なのですが、まさかそんなに書いているとは思ってもいませんでした。

 走れ小心者 in Disguise!:「エール送っとくわ」(克森淳氏)
 目に映る21世紀:これから行くイベント:⑰「トーク・イベント『僕たちの下北沢を救え!!』」

 この文章を公開するとき、多くの人に読んでほしかったので、私がよく見るブログの中でも、石原都政や自民党政治を批判的に見ているブログ(ここにリンクを貼った「走れ小心者 in Disguise!」「目に映る21世紀」にも送りました。ちなみにこのサイトの横の「おすすめブログ」に「目に映る21世紀」を追加しました)にトラックバックを送ってみたわけですが、反響は上々でした。

 それにしても、現在の石原都政を宮城県民の目から見ていると、この人はこれから先の人口減少社会に適合した政策を構築できるのか、と思ってしまいます。たとえば、五十嵐敬喜、小川明雄『「都市再生」を問う』(岩波新書)という本があり、この本では主に東京都で推し進められている「都市再生」がいかに地域を圧迫しているか、ということが告発されています。そしてこれを推し進めているのが、小泉純一郎首相、日本経団連、そして石原知事であるわけです。しかし、人口は確実に減少するのですから、いずれビルは過剰供給の事態に陥ってしまうのは見え見えです。小泉首相、石原知事、経団連は、このような「都市再生」を起こすことによって土地の値段を高騰させて、バブルの夢再び、といきたいようですが、この低成長時代において、経済的な成長が全てを叶えてくれる、という幻想はとっくに潰えているはずなのですが。

 「有害環境」規制だってそう。結局このような政策が起こる背景には、「今時の若者」をそのまま「悪」だとか「エイリアン」「モンスター」だとか決め付けており、その「原因」を「有害メディア」「有害環境」に求めたがる、という思惑があるからでしょう。しかし、このような規制は、青少年が多様なメディアに触れる自由と、親がそれを判断させる自由を奪うものに間違いありません。こういう人たちは、自分が「気に入らない」ものなら国家権力を使って排除してもいい、と思っているのかもしれませんが(「人権擁護法案」への質の低い反論もこの類でしょう。ちなみに私は、現在の「人権擁護法案」は真の人権擁護たりえない、という立場から反対です)、あんたらの身勝手な発想を国政に反映させないでいただきたい。
 しかも「有害メディア」「有害環境」規制には、なにも石原知事だけではなく、神奈川県の松沢成文知事や横浜市の中田宏市長も賛成しているのです。今年の初めのほうで、千葉県知事選がありましたけれども、ここで堂本暁子氏が当選したのが唯一の救いだった。対抗馬として立候補していた森田健作氏が当選したら、「有害メディア」「有害環境」規制の首都圏連合が完成するところだったのですよ。千葉県民に私は最大の敬意を示したい。もし東京・神奈川・千葉が「有害」対策の首都圏連合を実施したら、そのようなことをしてもいい、という「空気」が生まれてしまい、全国の保守的な首長が一斉に規制に乗り出すことも考えられなくもない。今、「言論の自由」は正念場を迎えているのではないかと思います。東京都民・神奈川県民の皆様にも、それを理解して、石原・松沢の両知事に憲法理念を守らせていただきたいです。東京・神奈川・千葉の人たちを、私は応援します。

 私が最近書いた文章はもう一つあり、赤子にかこつけ国家論を書いたジャーナリストの筑紫哲也氏の文章を批判した「俗流若者論ケースファイル10・筑紫哲也」も公開しております。それにしても、筑紫氏にもこんな保守反動的な側面があったとは。
 いいですか。少子化の時代においてもっとも大切なことの一つに、「子供」をイデオロギー化しない、ということが挙げられます。「子供」やその「親」を過度に敵視するのではなく、それらに「寛容」であること。もし「寛容」でいられないならば、せめて「子供」に歪んだ「関心」を持つことをやめてくれませんか。

 それにしても、
 minorhythm:★HappyなNews★(茅原実里氏:声優)
 このような文章を読んでいると、「子供」をイデオロギー化することがなんと愚かなことか、と思ってしまいますよね。

 あと、「この「反若者論」がすごい!01・内藤朝雄」もよろしくお願いします。これからは「若者論」に限らず、それに抗うための「反若者論」も随時紹介していく予定です。

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2005年4月 9日 (土)

トラックバック雑記文・05年04月09日

 *☆.Rina Diary.☆*:満開☆(佐藤利奈氏:声優)
 この文章の内容とはあまり関係のないのですが、佐藤氏のミニアルバム「空色のリボン」を聴きました。私の感想としては、佐藤氏の「空」というものに対する想いが存分に込められている作品になっているな、と。タイトルが「空色のリボン」であるだけに、その歌詞には「空」という言葉、およびそれに順ずる表現が頻出します。
 一番私が心惹かれたのは、第3トラックに入っている佐藤氏のフリートーク「あの空で逢えたら Part1」です。ここでは、佐藤氏が「空」に対する想いを語っているのですが、その中で「立っていると、目の前に空が見える」みたいなことを語っていたと記憶しております。
 青い空、曇り空、雨の空。いずれにせよ、空が見える、というのはとても大事なことです。空というものは、おそらくもっとも身近にある「大自然」でしょう。上を見上げるとどこまでも続いていて、思わず吸い込まれそうな、あるいは正面を向いていても、地平線の果てまで続いているような空。空を見ることが、自然に対する興味と関心を高める第一のことだと思います。
 ここで都市計画論的な話に移ってしまいますが、今年2月5日付けの読売新聞において、読売新聞編集委員の芥川喜好氏が「編集委員が読む」というコラムで「空はだれのものか 高層ビルが消した生活のにおい」という文章を書いておられます。佐藤氏のアルバムに心惹かれた人も、ぜひとも読んでほしいコラムです。
 芥川氏は、1月の下旬に新宿で行われた「脈動する超高層都市、激変記録35年」という写真展に関して、《低い建物が並ぶだだっ広い空間に、あるとき黒い塊が現れ、次第に上へ伸びる。その近くにまた同じような塊が生じ、同じように天へ向かって伸びる。その過程が百カット近い映像の早送りで壁に映しだされる。黒い塊は瞬く間に成長し増殖し群れとなって空間を圧し、意思あるもののようにうごめいている》という感想を述べています。
 芥川氏は、《このドキュメントを見て初めてわかることがある。超高層化とは、広い空が侵食される歴史でもあったということだ》と書きます。高層ビルが立ち並ぶ場所では、上を見ても無機質な侵食された空を見ることしかできず、正面を見てもほとんど空を見ることができない、という現実。大都市において広い空を見ることができるのは、超高層ビルに登るという特権を持った人だけ、という現実。空は万人に開かれている大自然の絶景です。それが巨大資本の論理によって侵食されていく。都市化=超高層化を極端に推し進めてきた政権党や巨大資本の偉い人たちが、「今時の若者」の自然に対する意識の低下を嘆く。何なのでしょうか、この矛盾は。基本的に「若者論」を安易に振りかざす人は、政権党が以下に若年層から「生活」の場を奪ってきたか、ということをことごとく無視しますが、そこに目を向けないと現在の政権党の論理を突き崩すことはできないと思います。
 芥川氏のコラムでは、最後に《芸術系大学の学生》が書いた《「超高層ビルと人間」という社会研究のリポート》について触れられております。そこで、次のようなものが引用されています。

 東京は富士を望む街だった。高さの競争などやめて、行き来の道から富士の見える街づくりをしたら、人の心も落ち着いて平和な町になるだろう。

 自然を「征服」するのではなく、自然と「共生」することが現在のパラダイムになりつつあります。最近建築の間で流行している「環境共生住宅」「古民家再生」なども、そのパラダイムシフトに適合した形でしょう。我々は、このパラダイムシフトを理解して、誰もが人間らしい生活を送れるように社会を構築しなければならない。佐藤氏のアルバムと芥川氏のコラムから見えたのは、そのようなことでした。

 ン・ジュンマ(呉準磨)の備忘録:文教政策が大きな政府主義の最後の砦?という以上に・・・
 教科書検定が始まりました。それにしても、今年は4年前とは違い、歴史教科諸問題があまり話題に取り上げられなくなりました。それだけ沈静化したのか、それとも世間の耳目を集められなくなったのか。
 「新しい歴史教科書をつくる会」といえば産経新聞ですが、昨日、その産経新聞が発行する雑誌「正論」を久しぶりに読みました。「正論」からは、もうこの雑誌自体に見切りを付けた、ということで、1年以上書店で見かけてもてにとることすらしなかった(というのも、タイトルと執筆者からどのようなことが書かれているか、ということが見え見えだったから)のですが、今回久々に一通り目を通してみて、余計にひどくなっている、という認識を持ってしまいました。
 巻頭はライブドア問題特集。どれも本質を突いていない論文ばかりでした(岩波書店の「世界」に掲載された文章や、文藝春秋の「諸君!」の特集は読み応えがある)。しかしもっとひどいと思ったのは、日本女子大学教授の林道義氏などによる「ジェンダーフリー教育」批判の文章です。この文章は、もうバリバリの陰謀論です。なんでも「ジェンダーフリー教育」を推し進める左翼は日本の崩壊を狙っており、それを裏で操っているのはマルクスだ、と。私も「ジェンダーフリー教育」には賛成できない部分もあるのですが(性教育には賛成です。あしからず)、ここまで妄想できるのはすごい、というほかありません。しかも、このような認識が、一部の保守論壇人に広く共有されている、というのだからさらに驚きです。大体、「ジェンダーフリー教育」が「どのように」我が国を崩壊させ、「どのように」韓国・中国・北朝鮮を利するか、ということに関してはまったく触れられていない。このような雑誌はある種の「共通前提」を持っている人には大人気なのだろうが、こんなことしていると新たな読者は獲得できませんよ、と言っておく。

 走れ小心者 in Disguise!:  「ブログ版『えらいこっちゃ!』(12)」(克森淳氏)
 カマヤンの虚業日記/カルトvsオタクのハルマゲドン:[資料][呪的闘争][宗教右翼][日本会議]90-91年「有害コミック」問題の発信源・和歌山の「子供を守る会」は、極右新興宗教「念法真教」
 私は基本的には改憲は必要だと思います。しかし、現在自民党を中心に議論されている改憲論には、むしろ批判的です。
 政府・自民党は改憲案に「青少年健全育成に悪影響を与える有害情報、図書の出版・販売は法律で制限されうる」ということを入れようとしていますが、まずここに反対です。第一に、青少年がある情報に関して、そこで得る感想は多様です。第二に、国家が一律に「青少年に有害」な情報を決め付ける、ということは、表現の自由に抵触する危険性があります。第三に、自民党などの皆様が問題にしたがる「有害」な情報・環境は青少年による凶悪犯罪を増やしてはいない、ということは、すでに犯罪白書や警察白書で明らかです。第四に、立憲主義の立場に立てば、憲法とは本来国家に宛てた命令であるはずです。それを理解していない政治家が多すぎます。そして最後に、このような改憲案は、自民党の右派の利権の元となっている宗教右翼や右翼政治団体に対するパフォーマンスである可能性が高い。
 先月の読売新聞において、財団法人日本青少年研究所の調査において、我が国の高校生の半数以上が自国に誇りを持っていない、という結果を嘆いていました。しかし、これのどこが問題なのでしょうか。もし自国に誇りをもてない状況があるとするなら、それを形成した社会的な影響を分析しなければならないはずですが、読売をはじめとして保守的な政治家や論者は、我が国における「左翼」による教育を真っ先に槍玉に挙げます。結局のところ、彼らは、青少年をイデオロギー闘争の道具にしか考えていないのです。憲法の改正案も、教育基本法の改正案も、まさしくこれに当てはまるのではないか、と考えております。
 私は、「大日本若者論帝国憲法」が必要である、と考えております。もちろん、現実的な改憲案ではなく、現在推し進められている改憲案がいかに滑稽なものであるか、ということを示すネタとしての改憲案です。その意図は、「こんな憲法になるんだったら護憲派のほうがよっぽどマシだ」と気づかせることです。この改憲案の骨子は次の通りです。
 ・青少年による問題行動の抑制のため、国旗・国歌・天皇に対する忠誠心を高めて、国家に帰属するための意識を養う。
 ・青少年の愛国心と社会性の涵養のため、強制的徴兵制を男女関係なく実行する。
 ・青少年の健全なる育成のため、「伝統的な」(実際には明治以降の近代化システムの中で捏造されてきた)家族のみを尊重する。それと同様に、子供を多く出産した家族は独身者よりも優遇される。
 ・親は自らが親権を持っている子供の行動を常に監視していなければならない。
 ・青少年に有害な影響を及ぼす恐れのある情報は検閲でもって規制できるようにする。
 ・青少年による凶悪犯罪の抑制のため、「有害な」環境に出入りする青少年を警察が取り締まることができる。
 ・青少年による凶悪犯罪の抑制のため、20代の若年層にのみすべての犯罪の厳罰化を行う。
 ・ひきこもりやフリーターや若年無業者を抱える家族に関しては、青少年健全育成の視点から財産を奪って強制的に就業意識を植え付けることは正当化される。
 こんなに滑稽なことが憲法に書かれるのは皆目御免だ、と思われる方も多いでしょう。しかし、これらの議論は、すべて俗流若者論にオリジナリティを見出すことができるものばかりです。そして、それらの粟粒若者論の欲望を満たす憲法を作ろうとしたら、このような憲法が出来上がるのは必然でしょう。当然、憲法学や立憲主義の歴史も一切無視し、権力に非常に甘い憲法になります。
 愛国者たるものは、常に国賊に目を光らせていなければなりません。現在我が国にはびこる国賊は、保守政治家や論壇人が問題視したがるような「左翼」ではなく、巨大資本による都市の画一化を推し進め、青少年をイデオロギー化することによって不安をあおり、それによって利権をむさぼる自称「保守」政治家・言論人です。このような国賊こそが、まさしく我が国を壊死させる張本人です。そして、俗流若者論も、国賊として糾弾されるべきです。

 お知らせ。このブログの右側に表示されております「参考サイト」を、「参考サイト」と「おすすめブログ」に分割しました。
 「参考サイト」として追加したもの
 「グリーントライアングル
 「「有害」規制監視隊
 「少年犯罪データベース
 「「ゲーム脳」関連記事 - [ゲーム業界ニュース]All About
 「おすすめブログ」として追加したもの
 「kitanoのアレ
 「カマヤンの虚業日記/カルトvsオタクのハルマゲドン
 「読売新聞の社説はどうなの・・

 また、次の文章を公開しました。
 「俗流若者論ケースファイル09・各務滋」(4月4日)
 「2005年1~3月の1冊」(4月4日)
 「正高信男は破綻した! ~正高信男という堕落みたび~」(4月5日)

 今後の予定としましては、まず「俗流若者論ケースファイル10・○○○○」を近いうちに公開します。また、『ケータイを持ったサル』批判の「再論・正高信男という病」もできれば来月中には公開したい。正高信男批判では、「犬山をどり ~正高信男を語り継ぐ人たち~」と題して、『ケータイを持ったサル』の書評を検証する予定です。これの公開は「再論・正高信男という病」を公開したあとなので、おそらく8月頭ごろになるでしょう。また、仙台の都市計画と「東北楽天ゴールデンイーグルス」について論じた文章や、治安維持法制定80周年に関する文章、雑記文で触れた「大日本若者論憲法」の実体化など、いろいろ企画しておりますが、大学の授業も始まったので、予定は未定です。
 曲学阿世の徒・正高信男といったら、「正高信男という頽廃」において、このようなコメントをいただきました。

この人、統計のトの字も知りません。t検定もよくわかってなかった。ついでに実験してないので、なぜか論文書きます。内輪でもデータはどこから来ているのか疑問視している人は多いですよ。さらに、気に入らない研究者や学生を徹底的に攻撃(ある意味、いじめ)するので、敵は多いですね。挨拶そいても応えない、目を合わせなければ、口もきかないあたり、彼の社会性を疑ってしまいます。かれが世の中のいじめや引きこもりについての著書を書くたびに、その自分の行動はどううなんだ・・・と言いたくなります。

 休刊した「噂の眞相」みたいに「『ケータイを持ったサル』の京大教授は論文捏造の常習者」と「一行情報」を書きたくなってしまいますけれども、これが本当ならばすごいことですよ。こんな人を教授にしている京都大学とは、いったい何なのでしょうか。誰か止めてあげられる友人はいないのか。

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2005年3月27日 (日)

トラックバック雑記文・05年03月27日

 春休み特別企画、無事終了しました。この企画が進行している間は、毎日文章を書いていたので、自分の頭も少々整理できた気がします。やはり、文章を書くことは、自分の考え方をまとめたり、あるいは眠っていた資料を復活させたり、または新しく資料を集めたりと、自分を活性化するきっかけになると思います。
 特別企画で書いた文章へのリンクを貼っておきます。
 「俗流若者論ケースファイル04・荷宮和子」(3月21日)
 「俗流若者論ケースファイル05・牧太郎」(3月22日)
 「俗流若者論ケースファイル06・若狭毅」(3月23日)
 「俗流若者論ケースファイル07・森昭雄」(3月24日)
 「俗流若者論ケースファイル08・瀧井宏臣&森昭雄」(3月25日)
 また、この企画の進行中に、私がこのブログで書いた文章(トラックバック雑記文とお知らせは除く)が「ウェブログ図書館」に登録されていました。木村剛氏とか「極東ブログ」とかいったブログ界のビッグネームと同列で、昨年11月に始まったばかりの私のブログが並んでいるのは、少々恥ずかしい気もします。

 週刊!木村剛:[ゴーログ]なんやねん!その「クラウンなんとやら」ちゅうんは!(木村剛氏:エコノミスト)
 ヤースのへんしん:井戸端会議
 木村氏がなぜか大阪弁だ(笑)。それにしても、マスコミにしろそこに登場する人にしろ、わけの分からないような概念で虚飾して自らを飾り立てるのが好きですね。実を言うと、私はこの文章にケースファイルの若狭毅論をトラックバックしておいたのですが、この若狭氏の文章においては、「セロトニン欠乏症」という珍概念(この概念は、東邦大学医学部の有田秀穂教授による)が使われているのですが、どう考えてもセロトニンだけを重大視して、たとえば同様に重要な脳内物質であるノルアドレナリンやドーパミンについては無視しているのです。
 「わけが分からないけれども響きが「かっこいい」表現」とか、あるいは「問題を重大視させるためにほかの要素を無視したでっち上げ」が多すぎます。もちろん、そのような概念のでっち上げは、マスコミ的には受けがいいかもしれませんが、かえって物事の本質から目をそらしたり、あるいは社会に無用な混乱を及ぼすだけになりかねません。肝心なのは、多くの人に分かってもらえるように、虚飾ではなく理詰めでわかりやすく説明することです。虚飾に満ちた概念で自らを着飾っている人は、そのうち良心的な人から「裸の王様」と罵られることでしょう。分かりにくいのも問題ですが、過度に分かりやすいのもまた問題です。新聞や雑誌には問題を分かりやすく解説した記事が多く載るのですが(それでも新聞社・雑誌社の思惑が入ることはある)、テレビではどうも時間の制約があるのか、そのようなものは少ない気がします。しかし、ワイドショー的な煽り合戦ではなく、視聴者を「説得」するような議論が求められているのです。できるところからはじめましょう。まず、「今時の若者」に関する扇情的な報道をやめるとか(笑)。
 「今時の若者」に関する扇情的な報道といったら、ちょっと目を放している間にまた「奈良女児誘拐殺人事件における、マスコミのオタクバッシングまとめサイト」に急展開が。3月12日付東海テレビ「スーパーサタデー」が、なんと本格的な報道加害をやらかしてしまったそうです。取材許可を得ないで、自宅に押しかけて取材!しかもその隣の家の表札にモザイクはかけない(これこそ報道加害ですよ)!そしていつもどおりの印象操作、事実誤認、さらに大谷昭宏(笑)!!「若者論」(私の言う「若者論」は、「理解できない「今時の若者」」に関する過度に扇情的な報道をさしているので、オタクバッシングも含まれます)のためならルールを破ってもいい、と考えてしまったマスコミは、いったいどこへ行くのでしょうか。

 週刊!木村剛:[ゴーログ]また、年金討論会でも企画しましょうか?(木村剛氏:エコノミスト)
 天木直人・マスメディアの裏を読む:3月25日 05年48号 ◆ 外交はオセロゲームか ◆ 先送りと言う名の拒否 ◆  「タクシーで逃げればよかった」という与謝野発言(天木直人氏:元外務省レバノン大使)
 年金に関して、私が言いたいことはただ一つ、まず人口減少を認めるべし。人口は確実に減少するのですから、なし崩し的な男女共同参画という名の戦時体制的人口増加政策よりも(斎藤美奈子『モダンガール論』(文春文庫)によれば、戦時中にも「働く女性」が美化されたようです)、人口が減少してもいいから、誰もが人間らしい生活を謳歌できるようにする政策に転換すべきでしょう。今のままでの男女共同参画社会論は、結局性別役割分担に帰結してしまうと思います。
 年金よりも必要なのはたくさんあります。その一つが都市計画です。現在、さまざまなところで超高層ビルの乱立が報じられ、その荒廃が嘆かれていますけれども、人口が減少するのだから、経済が縮小する(「縮小」と「衰退」は決して同義ではない)はずなのに、巨大資本は一度消えたはずの土地バブルを、超高層ビルを建てることによって復活させようとします。これで、ある意味では洗練された町並みができるものの、地域は荒廃します。高安秀樹『経済物理学の発見』(光文社新書)によると、我が国の1970年代以降の経済は土地の値段と軌を一にしています。だから、政府とか経団連とか東京都とかは、土地の値段を上げてバブルの夢再び、といきたいのでしょう。しかし、多くの先進諸国は日本ほど早くはありませんが人口減少に転じます。ですから、人口減少社会のパイオニアになるであろう日本が、人口減少社会に適合した政策モデルと経済モデルを提示することこそ、我が国の信頼を世界に広める最大の手段だと思います。都市計画も、先送りは許されないのです。
 ちなみに、環境問題の解決、という点から見ても、人口減少は望ましいものといえます。

 都市計画といえば。
 繪文録ことのは:丹下健三――代々木競技場、フジテレビ、新宿新都庁……コンクリートの威圧感(松永英明氏)
 保坂展人のどこどこ日記:下北沢の街は道路に引き裂かれるか(保坂展人氏:元衆議院議員・社民党)
 目に映る21世紀:新宿南口再開発のカンバン
 近代日本を代表する建築家、丹下健三氏が亡くなられました。91歳でした。
 先日(3月12・13日)東京に行った際、様々な都市・建築を見てきましたが、丹下氏のものも多く見てきました。新宿新都心のメガロポリスは、都庁をはじめとして丹下氏の設計した建物が多くあり、代々木国立競技場、フジテレビ本社も、丹下氏の設計によるものです。さらに、現在は愛知万博が行われていますけれども、大阪万博など、時代を象徴する建築を、丹下氏はたくさん設計してきました。
 東京都庁を見たときの雑感ですが、新宿の新都心が都庁を中心に回っている、という感じを受けました。そして、都庁それ自体が一つの都市を形作っており、また都庁の権力を象徴しているようにも見えました。ここには明らかにコンセプトがあり、形というものがありました。そして、代々木競技場にしろフジテレビにしろ、それ自体が非常に大きな建物でありながら、その建物がその土地にある意味を十分に表していたと思います。私は中には入ったことがないので、中にいる者としての感想は述べることはできませんけれども、少なくとも外側からはその建物の意味を感じることができました。丹下氏に限らず、都市計画や建築というものは、作ったら終わり、というものではありえません。作って使う人がいて始めて、都市や建築というものは意味を持ってくるのです。
 東京都庁とは対照的に思えたのが、秋葉原の再開発でした。現在、JRの秋葉原駅の電気街口には、ガラス張りの巨大なビルが建っているのですが、どう考えても秋葉原とは合わない、という感じがしました。秋葉原には様々なオタクが集まる、ということで有名で、そういうことを考えてみれば秋葉原に雑多な看板が並んでいるのもその地域の特色と思えます。東京都の思惑は、秋葉原をIT産業の拠点にする、というものらしいですけれども、その思惑とシンクロしてか、警察による職務質問が激増しているらしいです。朝日新聞社の「AERA」平成17年3月5日号によると、路上ライヴに対する締め付けは渋谷や原宿よりも強い、という嘆きがあるようです。
 建築というものは、その地域の地域性を踏まえて、そこから新たなものを創出しなければなりません。地域性を無視して、ただハコ物を作ってしまうだけでは、帰ってその地域の特色を壊すことになりかねません。秋葉原で痛感したのは、そのことでした。
 保坂氏のブログでは、下北沢の再開発問題が採り上げられています。保坂氏によると、なんと60年間も眠っていた道路計画がいまさら復活してしまった、というものです。しかも、下北沢を南北に横断する環七並みの太さの道路というですから、異常というほかありません。この計画が眠っている60年の間に、下北沢はさまざまな変化を遂げてきたことでしょう。保坂氏はこの復活劇の意図を《左右が開通していない250メートルの道路もどきでも建設すれば、駅前再開発が大々的に出来る――これが、下北沢再開発の隠れた狙いだ》と推測しています。これが完成すると、《演劇も、音楽も、若者風俗も、ゴチャゴチャした飲み屋もなくなる。ベットタウンの郊外駅のようなビル群が立ち並び、繁華街は壊死してしまう》と保坂氏は嘆いています。「再開発」という美名の下に、繁華街や地域が崩壊してしまったら、それこそ本末転倒というものでしょう。
 「目に映る21世紀」で俎上に上げられている新宿南口再開発の看板もすさまじい。美辞麗句だけがあって、ヴィジョンがありません。この筆者は、《いつまでも広告代理店やコンサルに頼らずに、『場』を開放しろよ、ボケが。そしたら俺もやりたいことはたくさんあるから(口汚くてごめんね)》と書いています。都市や建築を単なる金儲けの手段としてしか考えていない人は、この先確実に来るであろう人口減少社会に取り残されてしまうのは間違いないと思います。現在求められているのは、人口減少社会に対応して、かつ人を引き留める力があるような都市計画です。多くの建築家はそれを自覚しているのですが、政治は自覚しているのでしょうか。丹下氏の逝去を機会に、政治家の皆様には考えてほしいものです。

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2005年3月22日 (火)

俗流若者論ケースファイル05・牧太郎

 ある象徴的事件が、ある特徴を持った人々や世代に対する(間違った認識としての)ステレオタイプを生み出す、というケースを、毎日新聞社会部の牧太郎氏が「サンデー毎日」に連載しているコラム「青い空 白い雲」の第8回、「「コスプレ男」は最弱国のシンボルにして…」(平成16年12月5日号掲載)を参考に見ていこう。
 牧氏は冒頭で、昨年から今年にかけてベストセラーとなった『電車男』(新潮社)を引き合いに出し、それについて《劇的であるかと言われると…?役に立ったかといえば…?ただ、こんな前近代の遺物のような「ウブな男」がこの世にいる。その「ウブ」を共有する(見ず知らずの)仲間たちがいる。これが新鮮で、買ってしまった》(牧太郎[2004a]、以下、断りがないなら同様)と書く。《前近代の遺物のような「ウブな男」がこの世にいる。その「ウブ」を共有する(見ず知らずの)仲間たちがいる》というのが、また牧氏の差別感覚が透けて見える文章なのであるが、これについては問題はまだ小さいし、そもそも私は『電車男』を読んでいない(というより、読んだが途中で投げ出した)ので、この本の内容についても言及することができないので、ここでは触れないでおこう。
 問題はこの文章の後半部分にある。牧氏は、『電車男』を構成する「ウブな男」を求めて、秋葉原を歩くことにした。牧氏はJRの秋葉原駅から降りてくる人に関してこのような特徴を記している。曰く、《JR秋葉原駅から「ウブな男」が後から後から降りてくる。地方からやってきたのか。バックパックにスニーカー。服装は粗末。気のせいかメガネが多い。気のせいか顔色も白い。オタク?》と。秋葉原に向う人々をそのまま《ウブな男》と規定してしまうのがこれまたすさまじいのではあるが、《バックパックにスニーカー。服装は粗末。気のせいかメガネが多い。気のせいか顔色も白い》というのは、一般的に言われている「オタク」のイメージにかなり重なるので、牧氏の特徴記述はあながち間違ったものではないのかもしれない。
 53ページ2段目において、《何人かは黙々と、しかし、一途に「お目当ての店」に向かった》とある。秋葉原においては、アニメ、美少女ゲーム、家電、パソコンなどの店がある通り沿いに集中しており、ある種の「棲み分け」が成立しているので(福井洋平[2004])、《一途に「お目当ての店」に向かった》というのは牧氏の偏見ということはできない。
 しかし牧氏はここから一気に暴走する。同じページの2段目から3段目にかけて、牧氏は《なにやら普通の店ではないカフェ》の中の様子を記述する。おそらくメイド喫茶であろう。牧氏はその店内の記述において、相当な矛盾をしでかす。曰く、《これをコスチュームプレー。略してコスプレと言うのだそうだ。誰とも話すこともなく、ノートパソコンで店内を映像中継する。どうして、こんなの流行るの?街の評論家は「セーラー服、女性警官、看護婦……規則正しい、道徳的なイメージ、エッチを否定する制服が犯される。その矛盾が堪らない」》と。この文章の後半における《街の評論家》(このような記述も牧氏の感覚が透けて見えると思うのだが)のコメントは、どうも明らかにメイド喫茶の様子を表したものではないような気がしてならない。また、このメイド喫茶に来ていた全ての人が《誰とも話すこともなく、ノートパソコンで店内を映像中継する》という行動をしているのか、また《「セーラー服、女性警官、看護婦……規則正しい、道徳的なイメージ、エッチを否定する制服が犯される。その矛盾が堪らない」》という「意見」が、メイド喫茶に来る人の意見を代表したものであるかもわからない。「萌え」を目的に来る人も多いはずではないか。
 にもかかわらず、牧氏はこう断罪してしまう。曰く、《恐ろしい。誰とも話さない(話せない)20~40代のオタクが、あの「手鏡の大学教授」と同じように「犯す行為」を夢想する》と。恐ろしくなるのは私のほうだ。明らかにメイド喫茶の客の代表とは思えないコメントを引き合いに出し、そこから秋葉原に来る人、さらにはオタク全体のイメージを構築してしまい、それらの人に《誰とも話さない(話せない)20~40代のオタク》とレッテルを貼り付け、さらには彼らをかの《手鏡の大学教授》(誰とは言わない)と強引に結びつけ、彼らを犯罪的だと罵るのである。牧氏は本当に新聞記者なのだろうか。自らの不快に思う事例を強引に自らの体験した、あるいは巷で(ワイドショー趣味的に)報じられている象徴的事例と結びつけ、それに反社会的という烙印を押し付けることによって、あいつらは自分とは違う、あいつらみたいな奴が犯罪を起こしたり社会に混乱をもたらす、と勝手に決め付けてしまう、という行為は、ジャーナリストにとってあるまじき行為、いうなれば「御用学者」的な行為ではないか(もっとも、このような行為こそ、新聞の社会部的な行為、と言うこともできるかもしれないが)。
 牧氏は、この直後(53ページ3~4段目)で、《嗚呼、ウブより怖いものはない。この「ウブ」の奇形。多分、哲学を失い、某国大統領のペットに成り下がった「最弱ウブ国家」のシンボル?気持ち悪~い!》とまで言ってしまう。正気の沙汰だろうか。《気持ち悪~い!》のは私のほうである。牧氏は3段目で《「ウブな男」もイロイロだ》と言っておきながらも、《嗚呼、ウブより怖いものはない》と断定し、さらに《某国大統領のペットに成り下がった「最弱ウブ国家」のシンボル》と断罪しているわけだ。どう考えても、牧氏は自らのステレオタイプを検証もせずに徒に膨らませ、さらに「憂国」してみせる、というスタイルに没頭してしまっている。こういった思考は、それこそ牧氏が《某国大統領》と表記している米帝ブッシュの、イラク戦争を正当化した論理に他ならないではないか。
 しかし、牧氏はここでは終わらない。同じ連載の、「サンデー毎日」平成16年12月19日号のコラムで、牧氏は「サン毎」平成16年12月12日号において毎日新聞特別顧問で牧氏の大先輩にあたる岩見隆夫氏が《ヨン様見たさに、日本女性が大挙して韓国になだれ込む現象だけは、理解を超える》(この段落に関しては、全て牧太郎[2004b]からの引用)と書いたことに関する反論として書いているのだが、同誌54ページ1段目の最後のほうで、《だが、待てよ。彼女たち(筆者注:「ヨン様」こと裵勇俊氏などの韓国のスターに熱中する熱狂的な女性ファンたち)は理解されえぬ存在なのだろうか。違うと思う。むしろ「おバカさん」は日本人男性の方ではないか》と書くのだが、牧氏は同じページの2段目でまたもや《そんな指導者(筆者注:小泉純一郎首相)を見ているからか、ある種の成年は東京・秋葉原の電気街で「かわいらしい制服姿の女の子が犯されるアダルトビデオ」を買いあさり、引きこもる。凶悪な犯罪に結びつく》と書き飛ばしている。いい加減にしてほしいものだ。大体、性犯罪者とアダルトビデオに関する有意な統計的な相関関係、さらにそれを裏付ける因果関係をまったく証明せずに、「「ひきこもり」のアダルトビデオオタクは犯罪者だ」みたいな「思い込み」を平然と書いてしまう牧氏は、本当にジャーナリストなのか。このような姿勢は、「サンデー毎日」における奈良県女子児童有害事件に対する異常なまでの(そして、その論理は本当に暴走していた)報道体制と歩調を合わせている気がしてならない。まあ、ここまで考えるのは少々考えすぎかもしれないが。
 閑話休題、牧氏の一連のオタクに関する偏見は、牧氏の実際に見聞きした、あるいは巷で報道されているような象徴的事件と、自らの違和感を強引にミクスチャーさせ、その犯罪性を喧伝することによって自らのステレオタイプを正当化するのみならず、そのような人々を反社会的だとして囲い込むという行動に疑いはない。そしてそれは、牧氏のみならず俗流若者論全体の欲望でもある。ジャーナリストの大谷昭宏氏を批判したときにも書いたが、自らの「理解できない」状況を即刻現代社会の病理と断じ、さらにそれを反社会的、犯罪的とレッテルを貼るのは、俗流若者論にとってはもはや当たり前のことである。だから、牧氏だけの問題ではない、ということもできるが、牧氏は新聞記者であり、さらに新聞社系の週刊誌に連載コラムを持っているのだから、本来なら、俗流若者論の暴走を抑える立場にあるはずである。しかし、牧氏がこの2本のコラムで行なったのは、明らかに火に油を注ぐ行為であり、俗流若者論の暴走を正当化するものでしかない。
 ちなみに秋葉原に関しても触れておこう。秋葉原は、1990年代、秋葉原においてパソコンの売上が急増する2000年ごろまで、電器店が次々と閉店する代わりに、パソコンショップが台頭して、さらにそれ以降はその後を継ぐようにオタクビジネスが発生した。このように秋葉原がオタクの都市として変貌し、建築学者の森川嘉一郎氏などが「趣都」と呼ぶような都市になった理由としては、森川氏は《パソコンを愛好する人は、ゲームやアニメなども好む》(森川嘉一郎[2003b])と指摘した上で、パソコンショップが台頭している秋葉原にオタク趣味の偏在が起こったことを論じている(森川嘉一郎[2003a][2003b]、福井洋平[2004])。このような秋葉原の変貌は、都市論の分野においても注目を集め、ベネチア・ビエンナーレ国際建築展に出展されるほどである(玉重佐知子[2004])。森川氏などが指摘するとおり、秋葉原の形成は明らかに渋谷とは異なり、従って秋葉原を渋谷と同列に「若者の街」になってしまったとして嘆いている読売新聞の某記者(いつぞやかの「編集委員が読む」欄だったと記憶している。「某記者」と表記しているのは、それが今手元にないからである)の如きは、自分の「理解できない」ものをそのまま「今時の若者」の病理とする若者論的思考から早く脱却していただきたい。
 しかし、最近は秋葉原にも翳りが見え始めている。というのも、東京都知事の石原慎太郎氏が秋葉原をITビジネスの拠点にするという政策を打ち出し、秋葉原の再開発が進められている。これに伴い、秋葉原のオタク系店舗が駅前から撤退したのみならず、最近ではオタクを狙った職務質問が急増しているのである。朝日新聞社の「AERA」編集部の福井洋平氏は、オタクの職務質問が急増しているにもかかわらず、秋葉原で違法ソフトを売りさばいている外国人は「言葉が通じないから」といって警察から無視されていると指摘している(福井洋平[2004][2005])。私は今年3月12日から13日にかけて、東京に旅行した。そのとき、秋葉原にも寄ったのだが、秋葉原駅前に秋葉原を見下ろす権力のように建っている高層ビルに、とてつもない違和感を覚えた。東京都庁も権力のようだったが、その建築的な目的が何となく見えていた。しかし、秋葉原の高層ビルは、その構想もないままただ建っているような気がしてならなかった。
 警察権力と巨大資本によって(あえてこういう言い方をさせてもらう)秋葉原が「浄化」され、どこにでもあるような単なる都市になってしまったら、牧氏をはじめオタクを嫌悪したがる人たちには朗報かもしれないが、オタクにとっては安住の地がなくなるだろう。牧氏の如く、オタクを最低国のシンボルとみなす人は、ある意味では、自らの理想の中にしか存在しない「強い国家」を取り戻したいという歪んだ男根主義、国粋主義的なイデオローグに加担しているのである(牧氏は「ウブな男」を《「最弱ウブ国家」のシンボル》としていたのだから、男根主義、という言い方もあながち間違いではなかろう)。

 参考文献・資料
 玉重佐知子[2004]
 玉重佐知子「「おたく」ベネチアへ」=「AERA」2004年11月8日号、朝日新聞社
 福井洋平[2004]
 福井洋平「アキハバラ萌えるバザール」=「AERA」2004年12月13日号、朝日新聞社
 福井洋平[2005]
 福井洋平「オタク狩り?警察の狙い」=「AERA」2005年3月7日号
 牧太郎[2004a]
 牧太郎「「コスプレ男」は最弱国のシンボルにして…」=「サンデー毎日」2004年12月5日号、毎日新聞社
 牧太郎[2004b]
 牧太郎「ヨンジュンシー サランヘヨ~!が、なぜ悪い」=「サンデー毎日」2004年12月19日号、毎日新聞社
 森川嘉一郎[2003a]
 森川嘉一郎『趣都の誕生』幻冬社、2003年2月
 森川嘉一郎[2003b]
 森川嘉一郎「趣都 人格の偏在が都市風景を変える」=「中央公論」2004年1月号、中央公論新社

 東浩紀『動物化するポストモダン』講談社現代新書、2001年11月
 五十嵐太郎『過防備都市』中公新書ラクレ、2004年7月
 植田和弘、神野直彦、西村幸夫、間宮陽介・編『(岩波講座・都市の再生を考える・4)都市経済と産業再生』岩波書店、2004年12月
 植田和弘、神野直彦、西村幸夫、間宮陽介・編『(岩波講座・都市の再生を考える・7)公共空間としての都市』岩波書店、2005年1月
 姜尚中『ナショナリズム』岩波書店、2001年10月
 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 斎藤美奈子『物は言いよう』平凡社、2004年11月
 芹沢一也『狂気と犯罪』講談社+α新書、2005年1月
 橋本健午『有害図書と青少年問題』明石書店、2002年12月
 歪、鵠『「非国民」手帖』情報センター出版局、2004年4月
 宮台真司『宮台真司interviews』世界書院、2005年2月
 山本七平『日本はなぜ敗れるのか』角川Oneテーマ21、2004年3月
 ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』岩波文庫、上下巻、1987年2月

 小林道雄「警察腐敗の根源はどこにあるか」=「世界」2005年3月号、岩波書店
 杉田敦「「彼ら」とは違う「私たち」――統一地方選の民意を考える」=「世界」2003年6月号、岩波書店
 中原麻衣、千葉紗子、清水愛「Monthly People:中原麻衣&千葉紗子&清水愛」=「声優グランプリ」2004年8月号、主婦の友社
 浜井浩一「「治安悪化」と刑事政策の転換」=「世界」2005年3月号
 藤生明「第4次首都改造計画」=「AERA」2002年1月14日号、朝日新聞社
 宮崎羽衣「hm3 Interview FLASH:宮崎羽衣」=「hm3 SPECIAL」2005年3月号、音楽専科社

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2005年3月16日 (水)

トラックバック雑記文・05年03月16日

 今月12日から13日にかけて、東京に行ってきました。JRの土日きっぷ(宮城県古川市より南の東北、関東全域、中部地方の東部におけるJRの電車賃が指定した土日はすべて無料になる。新幹線も含む)を使って、ひたすら山手線などに乗り続け、いろいろ歩いてきました。私が足を運んだのは池袋、渋谷、原宿、お台場、新宿、代々木、神保町、秋葉原、汐留(シオサイト)です。
 そこで私が思ったことをあげておくと、まず、渋谷(渋谷センター街)と原宿(表参道)ではぜんぜん違う、ということです。私がいいと思ったのは原宿(表参道)でした。表参道は、原宿駅から東向きに通っている大通りのことですが、大通りだけに風通しがよく、通りの両脇に大きなビルが建っていてもあまり圧迫感を覚えないし、植栽もあって、散歩にはちょうどいい場所かもしれない、と思いました。表参道では、現在同潤会代官山アパートの建て替え工事が安藤忠雄建築事務所などの主導で行われていますが、この新生代官山アパートが原宿の景観と社会環境にいかに影響を及ぼすか、楽しみになってきました。
 一方、渋谷はとても窮屈でした。通りにけばけばしい看板が目立ち、建物が高い上に路地も狭いので圧迫感がありすぎます。これはセンター街だけでなく、渋谷駅周辺の商店街全般に言えることです。唯一開放的なスペースは渋谷駅のハチ公口前の広場、およびその近くにあるスクランブル交差点くらいで、できればこの町には近寄りたくはないな、というのが正直な感想でした。で、渋谷を抜け出して松濤に出たのですが、ここは住宅地ということもあって静かな感じを受けました。
 期待はずれだったのが秋葉原です。私は思いっきり「萌え」の街をイメージしていたのですが、秋葉原駅前には巨大なガラス張りのビルが建ち、アニメショップなどの店は駅前から離れたところに位置しておりました(アニメイトの秋葉原店を探すのに30分かかった)。東京都は、秋葉原をIT産業の拠点にしたい、と目論んでいるのでしょうが、あのビルは秋葉原には絶対似合わない、と感じた次第であります。最近の秋葉原では、警察によるオタクを狙った職務質問が増えているという記事を「週刊SPA!」や「AERA」で見たことがありますが(現在、どちらも手元にないので詳しい内容の確認はできません)、これも東京都の思惑の表出なのでしょうか。
 追記しておくと、私が秋葉原で入った店はアニメイトの秋葉原店の1階だけです。

 週刊!木村剛:[ゴーログ]経営者が果たすべき3つの職責(木村剛氏:エコノミスト)
 木村氏は、「経営者が果たすべき3つの職責」として、次のように述べておられます。

 経営者の大きな仕事は3つ。
 そのうちの2つは、方向を決めることと、日々判断することです。
 それらが、組織のメカニズムとして、自動的に動くようになってくると、その会社は自ら浄化作用を働かせ、力強く復活していくようになります。その過程においては、方向性の違う人々と袂を分かたなければならないこともありますし、自浄のために凛として排除しなければならないケースもあります。
 それぞれの局面では厳しい決断を迫られる場合もあるわけですが、それが経営者の職責ですから逃げるわけにも行きません。事前にあらゆるケースを想定して思い悩みつつ、現実的にそのケースが発生したら、即時に判断を下す ――それが経営者の仕事です。
 おかげさまで、日々24時間悩み抜いていますので、これまでのところ、日本振興銀行において現実の課題が発生して判断を迫られた場合に5分以上悩んだことはありません。その場その場で結論を出すように心掛けてきましたし、今後もそうでありたいと思っています。
 そして、残ったもう1つ経営者の職責は、結果としての数字を残すこと、です。

 これは、木村氏が経営者として座右に置いている心掛けでしょうが、自らの社会的責務を自覚した上で行動する、というのはとても大切なことであると思います。私が主に研究している俗流若者論の分野では、自らの学者としての責務を自覚しない曲学阿世の徒が自らの暴論をさもそれが当然の公理であるように言い張っているのですが、学者としての責任は世にはびこる差別や都市伝説や短絡的思考をナチス的に「正当化」するのではなく、自らの深い教養と考察に基づいて、そこで生まれた結果を社会に広めていく、ということだと思います。あるいは、世の中の人々が自分の研究分野に関して興味や関心を抱くようにすることも、責務だと思います(ゆえに、最近になって「世界で一番受けたい授業」や「笑っていいとも!」などのテレビ番組で行われている科学実験企画は、私は絶賛に値するものだと考えています)。
 社会的責務、ということでもう2つほどしゃべらせてください。

 署名で書く記者の「ニュース日記」:霞む国会(相馬芳勝氏:共同通信記者)
 私は現時点では一応民主党を支持しているだけに、民主党代表・岡田克也氏の「野党ではなく政権準備党」という言葉には少し困っています。「政権準備党」ということは、民主党には具体的な政治ヴィジョンがある、ということを言いたいのかもしれませんが、少なくとも現在の民主党からは政権のヴィジョンが見えてこない気がします。本当に政権の準備をしているのであれば、そのヴィジョンを広く国民に示し、現在の小泉政権、自民党政権よりもいかにマシであるか、ということを主張してほしい。岡田氏は、「政権準備党」ということを、与党と闘うのではなく与党と調整する、という意味で用いているのであれば、岡田氏には民主党が野党である意味を考え直してもらいたい。

 弁護士山口貴士大いに語る:人権擁護法案に異議あり!(山口貴士氏:弁護士)
 さて、人権擁護法案が本格的に国会で審議され始めました。この法案を読んでみる限り、我が国の政府は「人権」という概念を本当に理解していない、と呆れ返ってしまいます。しかし、人権概念の度し難い無知は、その原因を求めると左右の「論壇」にこそあるのです。
 人権とは何か。それは国家権力の横暴から国民を守るための論理です。簡単に言えば、自らの発言を国家によって制限されない権利=表現の自由、国家によって不当に逮捕されて不当に裁判にかけられて不当に処刑されない権利などであり、それを定めたものが憲法なのです。すなわち、憲法とは基本的に人権を規定したものであり、また、憲法とは国家に宛てた命令と捉えられるべきです。
 その点から考えれば現在審議中の人権擁護法案なるものがいかに矛盾しているものなのか分かります。すなわち、人権擁護法案とは、「人権擁護」のもとに国家が平然と人権侵害ができるようになる法案なのです!!!ああ恐ろしい。
 人権擁護法案においては、個人や組織(国家ではない)が個人に対する差別的な言動や待遇を《人権侵害》と規定しているようですが、どこが人権侵害なのでしょうか。こういうのを法学的には私人間効力といい、人権侵害にはまったく当てはまりません(倫理的には大問題ですが)。また、個人による別の個人への暴力も《人権侵害》とみなされているのですが、すでに我が国には刑法があります。刑法で処罰してください。
 このような悪法が生まれる背景には、我が国のある時期の論壇における「人権」概念の超拡大解釈があります。ある時期、「左翼」的な人が、親が子供に振るう暴力はもとより、親が自分の優位性を示す言動さえも「人権侵害」と喧伝していたのですが、これは「人権」概念を極度に貶めると同時に、「人権」概念を単なる運動家の論理に格下げしてしまいます。で、「左翼」的な人がこのようなことばかりを主張しているのですから、低俗には低俗で対抗したがる一部の「右翼」が、「子供に人権はない!」などと変なことを主張したがる。このような低俗のスパイラルが、やがて人権という概念の国民的無知を生み出し、このような法案が現れる羽目になってしまったのです。このことについて、我が国の論壇はどのように思っているのでしょうか。「論壇」が社会的責務よりも身内の理論に埋没してしまったからこそ、このような悪法が現れたのです。
 憲法学の基礎から見て、この法案は度し難いまでの形容矛盾を含んでいるのです。だから、この法案は即刻破棄されるべきです。
 もう一つこの法案の問題点は、「何が差別か」という、社会的に重大な問題を、国家が決めてしまう、ということでもあります。これは複雑なことはすべて国家に任せてしまおうという、国民による市民としての役割の放棄以外の何物でもありません。「何が差別か」ということを決めるのは国民であり、市民です。この法案は、それを国家に決めてもらうことによって、下手をすれば国家による横暴と圧制を許しかねないものであるのです。これは国家による思想統制にほかなりません。この法案は「左翼」的なものと捉えられているようですが、たとえば教育基本法の改正案に見られるような、「何が愛国心か」ということに関して国民にその信を問うということを通り越して国家がそれを決めてしまうことや、「心のノート」などに見られるような「何が道徳か」ということを国家に決めてもらう、ということと本質的に同じものなので、この法案はかなり「右翼」的なものであると私は踏んでおります(人権擁護法案に反対する「右翼」の人たちは、もし「国辱・売国的な言動を処罰する」といった「愛国者法」みたいな法律が作られたら、反対するのでしょうか)。
 これらの法案の先にあるのは、「何が「善きもの」か」ということをすべて国家が決めてしまう、という思考停止社会です…と言ってしまうのは言いすぎかな。

 ン・ジュンマ(呉準磨)の備忘録:現在枕元に置かれている、「ネットに文章を書いてる人に推奨したい本たち」
 私は、ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』(岩波文庫、全2巻)をお勧めします。この本では、「ステレオタイプ」という概念を中心に、第1次世界大戦後の世論の混乱を説き明かしているのですが、現在にも通じる問題は非常に多く含まれております。ネットのみならず、文章を多く読む人には、自分の考えを整理するきっかけとしてぜひとも読んでほしいものです。

 伊藤剛のトカトントニズム:「おたく:人格=空間=都市」展に対する「嫌悪」の表明/「萌えフォビア」の実例(伊藤剛氏:漫画評論家)
 伊藤氏は、《「ヌード写真など実写のポルノグラフィは(条件つきでも)OK、売買春も同様。しかし、キャラを用いた性的な表現は気持ち悪いから絶対に認められない」という強い感情》という《萌えフォビア》の実例を、「「おたく:人格=空間=都市」展」のポスターに嫌悪感を示した人を例にとって挙げています。
 さて、この問題に関して私が最も最初に思い出すのは、ジャーナリストの大谷昭宏氏の例です。私は、「俗流若者論ケースファイル01・大谷昭宏」において、大谷氏にとって「萌え」概念は《「萌え」とは「今時の若者」の「病理」、ここでは《パソコンの中に出てくる美少女たちとだけ》の《架空の恋愛》しかできないという病理を照射するための概念》でしかない、と指摘しました。大谷氏は、「2次元の世界でしか恋愛できない「今時の若者」が、絶対現実の世界で恋愛なんてできるはずはない。だから「萌え」る「今時の若者」に社会性なんてあるはずはない、だからそこから犯罪者が生まれるはずだ」と考えているのではないか、と要約できます。「はてなダイアリー」のキーワードに「萌えフォビア」という概念が追加されていたのですが、そこには伊藤氏の定義、すなわち《「キャラ」という表現制度が「シンボル/イメージ」つまり「文字/絵」の分割と、「大人/子供」の分割という、近代の大きな枠組みを二つも侵犯していることに起因するもの》に加えて《さらに「2次元/現実」の分割という枠組みの侵犯も加えてもよいと思われる》ということが書かれていましたが、一般の人がオタクバッシングに用いる論理の中で一番大きいのはまさしく《「2次元/現実」の分割という枠組みの侵犯》だと思われます。
 蛇足ですが、伊藤氏のブログにこのような記述がありました。

 リンク先のブログ、タイトルに添えて「05年1月1日【少子高齢化と、「結婚」より気楽な「事実婚の子育て」】ブログタイトルを変更しました。いざ、少子を守らん! 」という記述がある。「少子」という言葉は、「現在、数が少なくなっている貴重な子ども」という意味にも使われるものだろうか。ぼくが知らないだけかもしれないが、少なくともきいたことはない。このような用い方が普通にされる業界や界隈があるということだろうか?

 《いざ、少子を守らん!》だと。この人は少子化肯定論者なのでしょうか。そう捉えられてもおかしくないでしょう。しかし、伊藤氏は《ぼくが知らないだけかもしれないが、少なくともきいたことはない。このような用い方が普通にされる業界や界隈があるということだろうか?》と疑問を呈しておられますが、私も聞いたことはない。それにしても伊藤氏のブログのリンク先のブログのタイトルが、「愛する子どもの守り方」というのは、どうもいただけない。伊藤氏も指摘しておりますが、「子供」をダシにして自分の気に食わないものを批判するのは、論点をずらすだけではないでしょうか。

 お知らせ。bk1で私の新作書評が掲載されています。今回採り上げた本はぜひ一度皆様に読んでほしいほどの名著です。
 芹沢一也『狂気と犯罪』(講談社+α新書・2005年1月)
 title:「狂気」を囲い込む社会

 「正高信男という頽廃」も公開中です。ここで採り上げた『人間性の進化史』(NHK人間講座テキスト)は、前後矛盾と論理飛躍にあふれ、文学作品のトンデモ解釈もあり、生粋のトンデモ本マニアの人々にも笑って楽しめるような内容でしょう。

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