2005年6月 3日 (金)

この「反若者論」がすごい!02・河北新報社説

 社説、特に成人の日と子供の日と「理解できない」少年犯罪が起こった次の日の社説は、俗流若者論が必ずといってもいいほど出てくる。現在、新聞における俗流若者論の出現頻度が高いのは、投書欄に次ぐのは社説だろう。

 しかし、たまには社説もやるではないか、と思わせるような社説もまた存在するのも事実である。今回採り上げるのは、そのような社説だ。

 平成17年4月8日、宮城県蔵王高校に通っていた、生まれつき髪の毛が赤っぽい16歳の女子高生が、教師3人から「他の生徒がまねをする」という理由をかこつけられ、染髪スプレーを用いて髪の毛を黒く染めさせられたことを理由に、仙台地裁に提訴した。それだけではなく、この教師たちは、件の女子高生に対して、成績についても文句をつけて、ついには女子高生は自主退学に追い込まれた。

 東北のブロック紙である河北新報は、平成17年4月23日付の社説で、「人権軽視の教育現場を憂う」と打ち出し、教師側に対して批判的な姿勢を明確にした。
 まず、私はこのタイトルに違和感を覚えた。このようなところで《人権軽視》(平成17年4月23日付河北新報社説、以下、断りがないなら同様)という言葉を使ってしまうことは、思慮の浅い一部の言論人から子供に人権はない、という倒錯した理由でこの教師の狼藉が正当化させられてしまいかねないし、問題の本質も覆い隠しかねない。この事実から照らし合わせる限りでは、この教師たちは明らかに刑法における暴行罪をしでかしてしまっているので、「生徒指導」なら無法を犯してもいいのか、というところを見出しに掲げるべきだった。

 また、この社説の中には、《海外から成田空港に戻った瞬間、黒い頭ばかりの群衆に違和感を持った人は多いはずだ。狭い日本で通用する常識が、外国では非常識ということもある。そういう多様性を認め合うことが、国際社会にとってもっとも大切であることは疑いようもない》とか、《もし、生徒指導の一貫として、服装や身だしなみにも注意する必要があると主張するのなら、教師たちも自らの姿を日々、鏡に映して見たほうがいい》などといった、疑問に感じざるを得ない記述もある。

 しかし、下に掲げた4段落に関しては、最大限の賞賛を惜しまない。

 百歩譲って教師の言い分を聞けば多分、「茶髪を許すと非行を助長する」などという現場の論理を持ち出すのだろうが、理不尽としか言いようがない。
 髪の毛を染めていても、非行とは無縁の子どもがいる。宮城県内には、染髪や化粧、ピアスだって自由な公立高校もあるが、とりわけ非行生徒が多いという話は聞かない。

 たかが毛髪の色にこだわること自体、教師がプロとして自信がないことを自ら証明しているようなものではないか。

 個性重視の教育――などと言いながら、一方では「髪の毛の色は黒」と決めつけるばかばかしさに、どうして一部の教師たちは気付かないのだろう。

 よく言ってくれた。《「茶髪を許すと非行を助長する」》という《現場の論理》は、ともすれば何らかの事件が起こったとき、本当の犯人を探す努力を放棄し、犯罪に向かう「しるし」を持った(しかし、特に問題になるようなことをしていない)人が「犯人」として疑われて、一方では真に解決すべき問題がいつまでたっても解決せず、他方ではある属性を持った人に対するいわれなき差別が横行する、という事態が発生することに拍車をかける。

 また、実際に起こっている問題を解決しようとする努力を怠り、無抵抗の何もしていない、ただ生まれつき髪の毛が赤いだけの女子高生に対して、このような「見せしめ」を行なうことは、河北社説が指摘するとおり《教師がプロとして自信がないことを自ら証明しているようなもの》と言うほかないのである。このような「見せしめ」には、「自分は青少年問題に対して真剣に対処している!」という、実体のないメッセージだけを提示し、その裏では本来解決すべき問題は深刻化するのみならず、一人の女子高生の人生を台無しにしてしまう。

 また、このような行動は、自らの持っている歪んだ権力意識の発露としてもとらえられるべきだろう。自分の行動に対する信念に基づかない、単なる権力意識に浸るためだけの暴力ほど、空しいものはない。

 このような権力意識の発露としての暴力は、俗流若者論にも当てはまるものだ。俗流若者論は、現代の青少年問題について過剰なまでに反応し、それを生み出した「犯人」を血眼になって探し、その「犯人」とされるものが特定されなくても、「犯人」になるのではないか、と思われるものであれば、すぐさまそれらに対する敵愾心を煽り、そのような属性を持った人たちに対する差別的言説が世間に溢れ、「不可解な」少年犯罪、青少年問題はすぐさまそれに結び付けられる。

 主観が前面に出される《現場の論理》によって立つ俗流若者論は、人々のポピュリズム的な「人気」によってのみ成り立つ。そして、ポピュリズム的な「人気」によってのみ支えられた俗流若者論は、次第に自らの暴走を抑えることができなくなる。その結果として、蔵王のこの事件が起こっている、としたら、なんとも皮肉な話ではないか。この事件は、頭髪の色が違う女子高生という存在を、「人間」ではなく「物」としてしか認識できなくなった、俗流若者論による思考の横暴の帰結と見られるべきかもしれない。

 我々が注視すべきは、この裁判の行方である。もし、女子高生側の言い分が認められず、明らかな暴力行為が正当性を与えられてしまったら、我が国は《現場の論理》の下に粗暴な行為がまかり通ってしまう、という無法状態になりかねない。

 俗流若者論のような考え方が支配する社会は、若年層を「人間」ではなく「異物」として見なす社会に他ならない。森昭雄や正高信男によって若年層を「人間」と見なさなくなった暴論がまかり通る現状において、若年層を「人間」としてとらえる意義は、恥ずかしいことであるが、問い直されなければならない。

 参考文献・資料
 芹沢一也『狂気と犯罪』講談社+α新書、2005年1月
 内藤朝雄『いじめの社会理論』柏書房、2001年7月
 広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会、2001年1月

この記事が面白いと思ったらクリックをお願いします。→人気blogランキング

| | コメント (1) | トラックバック (2)

2005年4月11日 (月)

この「反若者論」がすごい!01・内藤朝雄

 新シリーズ「この「反若者論」がすごい!」をスタートします。このシリーズは、俗流若者論に抗うための書籍や新聞・雑誌などの記事を紹介するシリーズです。

――――――――――――――――――――

 俗流若者論幸う我が国において、「理解できない」犯罪が起こると、すぐさまゲーム、インターネット、携帯電話といった「理解できない」ものに元凶を求めたり、あるいは自らの経験をノスタルジックに語ることによって現代に生きる親や子供を暗に叩いたりするような言論が、ほぼ日常的にはびこっている。そして、多くのメディアや言論人や政治家は犯罪者になる「兆候」が確認できると夢想し、その「兆候」を見逃さないことが現代の親に強要されている。
 しかし我が国には、このような言論状況に真っ向から異を唱える言論人が、少なからず存在することもまた事実である。このシリーズでは、そんな人たちの言論を紹介して、我が国の若者論、そして政策が真にとるべき方向性を提示していきたい。
 さて、明治大学専任講師の内藤朝雄氏は、そんな言論人の一人である。内藤氏は、現実の青少年問題に関わる議論が、どれも物事の本質を見誤るものであるとして俗流若者論を指弾している。岩波書店から発行されている「世界」平成16年12月号では、「「友だち」の地獄」という論文で、青少年を真に苦しめる現実の状況を論じている。
 この文章の冒頭では、平成16年6月に起こった佐世保野事件に関する自称「識者」の論評をテキストに、それがいかに錯誤と短絡に満ちたものであるかを批判する。例えば《「バトル・ロワイヤル」のような映像メディアが悪影響をもたらす》(内藤朝雄[2004]、以下、断りがないなら同様)という議論に対しては、《規制するにせよ放置するにせよ、政府は識者に会合を開かせて諮問するスタイルをやめて、きちんとデザインされた社会調査にもとづいて政策を遂行すべきである》と、そのデータの不備を放置しておくことを批判する。また、《少子化により社会性が失われた》というものに関しては、《殺人者の一人っ子率が突出しているなどということは聞いたことがない》、《インターネットや映像メディアのような「本物」でない仮想世界と現実との境があいまいになった》というものに関しては、《概念設定事態が混乱している》と容赦しない。佐世保の事件に関して内藤氏は、《今回の事件はきわめて珍しいケース》であると考えており、《「わからなさに耐えるしかない」と言う他ない》としている。ならば、本来問題にされるべき、構造的な問題を含んでいるような青少年問題とは何なのだろうか。また、それはどこから引き起こされるのだろうか。
 内藤氏はそれに関して、佐世保の事件の直後に起こった女子中学生の自殺を採り上げて、それの背景にあるものこそが現実の青少年を苦しめるものであると考える。
 内藤氏は、現在の学校制度が《閉鎖空間と中間集団全体主義》を生み出すものであるとして批判している。現行の学校制度は、《個人差を無視した全員一致のペースで、算数などの勉強を集団で行なう週刊をたたきこむ》ものであると内藤氏は指摘しているのだが、それがいかに現実の青少年に影響をもたらすかというと、そのような制度の下にあることによって《ありとあらゆることで「友だち」とかかわりあわずにいられず、各人の運命がいつも「友だち」の恣意的な気分や政治的思惑によって左右される状態》に青少年が置かれる、と論じている。そのような状態に置かれることによって、現実の青少年は多様な社会との接点を失い、それと同時に現実の小さな共同体の中で健気に生きることを強要される。この意味においては、現行の学校制度が青少年に求めているのは学力ではなく、閉鎖的共同体的な「世間」に適合するような「内面」を作ることに他ならない。そのような学校社会においては、《「いま・ここ」の主人は自己ではなく、受苦の共同体に沸き立つ場のノリである》。そして《ここで問題にしているローカルな秩序を規範的言明で表すとすれば、「ノリは神聖にして犯すべからず」となる》状況が発生し、《この秩序状態のもとでは、遊びであればすべてはゆるされる》という事態が発生する。このようなことに関しては、私も体験的に知っている。中学生の頃、私はトイレで用を足しているときにはしょっちゅう尻を蹴られたものだが、私がそれを指弾しても「遊び」として済ませられた。
 このような状況下において、もっとも効果的となる「いじめ」はコミュニケーション操作系の「いじめ」である。内藤氏は、現実の学校制度がつくる中間集団に関して、《このタイプの小社会には厳しい身分秩序がある。被害者が楽しそうに微笑んでいるのを見かけただけで、いじめグループは「ゆるせない!」と激昂し、そういう態度をとられた「不正」に対する正義感でいっぱいになる》と論じる。そして《いじめ被害者が楽しそうに微笑んだり、人並みの自尊感情を》持つことに関しては、《「いま・ここ・を・ともに・いきる」に対するひどい侵害》になる。我が国においては「いじめ」を見てもそれをしでかす者を注意しない、という小中学生の「意識」が発表されることに関して、多くの自称「識者」が小中学生の道徳意識の低下を嘆くけれども、実際には「いじめ」を「注意しない」ことこそが「道徳」となってしまっているのではないか、と私は考える(「チクる」という言葉はその典型であろう)。
 このような状況下から子供たちを「救済」するにはどうすればいいか。内藤氏は、当然のことながら教育システムの抜本的な見直しの必要性を唱える。曰く、《たとえば学級や学校への囲い込みを廃止、若い人たちが広い選択肢空間の元で自由に交友関係を試行錯誤できるような教育制度》を構築し、《なにやら自分を苦しめたいらしい邪悪な意志をただよわせた者には魅力を感じないので遠ざかり、より美しい別の交友関係に親密さの重点を》移していけるようにするべきである、と。そして、《少なくとも思春期以降は学級制度を廃止し、大学か単位制高校並みの個人カリキュラム制にし、生徒を学校の外を含めた広い交際圏で学ぶ若葉マークの市民として遇する制度を提案する。中長期には現行の学校制度ををチケット制による学習支援ユニットの淘汰システムにかえる抜本的な改革を提案する。すなわち、収入に対する強い逆比例で配分する教育チケット制のもとで、人々はさまざまな学習サポート団体や教材を自由に選択する》、と。
 このような制度改革に対しては、強く共感すると同時に、違和感も大きい。確かに思春期以降(おそらく義務教育終了以後のことを示しているのだろう)の青少年に対して、多様な社会に触れることによって、社会性を涵養する、ということは一理ある。
 しかし、このような議論によって、現在勢いを増している「学力低下」批判を説得できるのだろうか。内藤氏はかつて、平成15年7月4日付の読売新聞で、《「勉強は厳しく、人間関係は緩く」という第三の道》(この段落に関しては全て、内藤朝雄[2003])を主張した。読売に掲載されたこの小文の中で、内藤氏は、現行の教育改革が《「ゆとり」の意味をはきちがえ》たもの、すなわち《保守的批判派(筆者注:「学力低下」を主張する人)の「なんでも厳しく」に反発して、「勉強も人間関係も緩く」と》主張した者であると糾弾している。そして、《班活動などで集団主義を推進してきたのは、進歩的「ゆとり」派の日教組だった。かつての大会記録には、同調しない生徒に対する「仲間はずし実践」が奨励された例さえある》と、現行の教育改革路線が抜本的な解決には決してならないことを指摘する。内藤氏は、オーストリアでの実例を引き合いに出して、《ピアスや茶髪を犯罪であるかのように「摘発」する教員が、分数もできない中学生を卒業させてしまうような、日本のでたらめな「甘さ」とは好対照である》と、現行の教育体制を批判する。要するに内藤氏は、本来学校に求められている知識の習得には「厳しさ」を、そしてそれ以外の場には「緩さ」を求めているわけだ。「世界」における内藤氏の議論には、内藤氏のこのような主張が不足しているように思える。
 もう一つ。内藤氏の議論には、歴史性への視座が欠落している。簡単に言えば、そのような制度が延々と続きながらも、なぜ今になってその問題が噴出したのだろうか、という議論である。端的に言って、今になって現行の学校制度の問題点が噴出したのは、社会が変わったから(具体的にいえば、情報化や消費社会化などの「第二の近代」へのパラダイムシフト)ではないか。内藤氏は、おそらくそういうことをわかっているからこそ、現行の学校社会を「風通しのいい」ものに改革すべきだ、と主張しているのだろうが、この点にも触れない限り誤解は解けない。また、このような議論に関しては、実例が出されていない、ということも疑問の素になりうる。
 しかし、内藤氏の議論は、学問的・論理的に洗練されており、説得力がある。また、内藤氏の社会認識は現実の青少年に対して、徒に「敵」あるいは「エイリアン」「モンスター」として敵視するのではなく、社会の一員として考えていることだ。このような認識が、内藤氏(そして、俗流若者論よりもはるかに洗練された議論をする人たち)と俗流若者論の語り手を分かつ。例えば、俗流若者論を振りまいている一人である、青山学院大学教授の小原信氏は、情報化が人格の分化を促して「速さ=善」という価値観を生み出したとして、そこから青少年問題を論じたけれども(小原信[2005])、小原氏の議論では絶対に「ひきこもり」を説明することができない。現在の若年層の間に「速さ=善」という思想が蔓延しているのだとしたら、なぜ多くの青少年が現実への耐えられなさから「ひきこもり」に陥っているのだろう。そもそも小原氏は「ひきこもり」を知らない、あるいはそこらを歩いている「今時の若者」と同根だ、と無根拠に考えているからではないか。しかし、内藤氏の議論を用いれば、「ひきこもり」をある程度説明できるだけでなく、それを救済するためのフリースクールなどの存在も正当化しうる。
 今求められているのは、既存の社会変容のパラダイムをとらえた、射程の長い若者論である。内藤氏に限らず、この要請に応えている人は数多くいる。しかしこのような人が一般的な言論の場に出るのは稀で、特に、産経新聞の月刊誌である「正論」などといった保守系のメディアにはまったく出ないと言っても過言ではない(逆に多いのは、岩波書店の「世界」である)。保守系のメディアが好むような、中身のない「辛辣な議論」は、むしろ高度な社会構築にとって邪魔になる。評論家の櫻田淳氏は、現在の論壇の低迷を打破するために《言論家は、「強く辛辣な言辞」を排したうえで自らの論考を準備し、メディアは、そうした「論拠の弱さ」を免れた論考を迎え入れる》(櫻田淳[2005])ことを提案しているけれども、私は若者論にそれを求める。自らの責任を全うし、下手な扇動に走らないことこそ、言論人の「真・善・美」ではなかったか。
 もちろん、内藤氏のみならず、立場は違えど、「若者論」の解体を目指す人は多くいる。そんな人たちを、私は紹介していきたいし、皆様も是非探してほしい。

 参考文献・資料
 小原信[2005]
 小原信「幻実に翻弄される若者の時間と空間」=「中央公論」2005年3月号、中央公論新社
 櫻田淳[2005]
 櫻田淳「「強く辛辣な言辞」が質を下げる」=「論座」2005年4月号、朝日新聞社
 内藤朝雄[2003]
 内藤朝雄「“風通しいい”学校目指せ」=2003年7月3日付読売新聞
 内藤朝雄[2004]
 内藤朝雄「「友だち」の地獄」=「世界」2004年12月号、岩波書店

 斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店、2003年12月
 林原めぐみ『明日があるさ』角川スニーカー文庫、2002年12月
 宮台真司『宮台真司interviews』世界書院、2005年2月
 山本七平『日本はなぜ敗れるのか』角川Oneテーマ21、2004年3月

 内藤朝雄「お前もニートだ」=「図書新聞」2005年3月18日号、図書新聞

この記事が面白いと思ったらクリックをお願いします。→人気blogランキング

| | コメント (0) | トラックバック (0)