三浦展研究・後編 ~消費フェミニズムの罠にはまる三浦展~
(前編はこちら、中編はこちら)
民間シンクタンク研究員・三浦展氏の著書『「かまやつ女」の時代』(牧野出版)を読んでいて、私の頭の中で常に浮かんでいた言葉は「消費フェミニズム」である。「消費フェミニズム」とは何かというと、これは米誌「ニューズウィーク」のコラムニスト、スーザン・ファルーディが使っている言葉である。ファルーディによると、平成12年の米国において、米国の女性が米国の現状をどう思うか、というインタヴューをしたところ、経済的には豊かなはずの米国において、返ってきた答えは《「怒りを感じる」「ひどすぎる」「うんざりする」》(スーザン・ファルーディ[2001]、以下、断りがないなら同様)というものである。ファルーディはこれを《新たな「性(ジェンダー)のギャップ》だと呼んでいる。
ファルーディは、米国において、《ここ数十年、「あればあるほどいい」が、商業化されたフェミニズムの合い言葉となってきた》ことに対して苦言を呈している。そのようなフェミニズムの状況が何を生んだか。ファルーディは以下のように述べる。曰く、
人気テレビドラマ「セックス・アンド・ザ・シティー」のおしゃれなファッションもしかり。東芝のノートパソコンのCMでは、サイバーギャルが「自由を選べ!」と女性たちに訴えかける。いまや女性解放とは「買う」自由なのだ。
ファルーディが嘆いているのは、フェミニズムが消費文化に屈服してしまった状況である。元来、フェミニズムとは、女性が一人の責任ある市民として自由を得るための運動だったが、大衆的フェミニズムが女性の「幸せ」を最大の目標に掲げたが為に、商業主義に屈服してしまった。こうして、フェミニズムは力を失った、とファルーディは説く。そして商業主義に屈服してしまった大衆的フェミニズムが、「消費フェミニズム」ということになる。
さて、このコラムがいかに三浦展氏の所論と絡むかというと、私が本書を読んで思うに三浦氏こそフェミニズムを消費文化に屈服させた張本人だと思うからである。しかし、その前に三浦氏が件の著書、『「かまやつ女」の時代』で行なっている女性の分類について説明して以降と思う。三浦氏は、同署において、女性をファッションによって4分類している。その仲でも三浦氏の所論の中核となっているのが《かまやつ女》(三浦展[2005]、ここから先は断りがないなら同様)と《六條女》である。この2つについて定義を説明しておこう。三浦氏は、《かまやつ女》に以下のような定義を与えている。11ページに曰く、
最近、20歳前後の若い女の子の中に、昔の中年男性のような帽子をかぶっている女の子がたくさんいる。髪型はどこかもっさりしていて、服はルーズフィット。全体的にゆるゆる、だぼだぼしている。スカートをはく子はほぼ皆無で、たいてい色落ちしたジーンズか何かをはいている。
その風袋がまるでミュージシャンのかまやつひろしのようなので、私は、こういう女の子を「かまやつ女」と名付け、2003年から2004年にかけて4回調査を行なった。
これに対し、《六條女》は以下のように定義付けられる。20ページから22ページにかけて曰く、
最近は東大、京大の現役生の女性タレントというのも人気がある。特に、現役の東大法学部学生でありながら、週刊誌でセミヌードを発表するなどで話題になった六條華(現在楠城華子に改名)は有名。
(略)
「色男、金と力はなかりけり」ということわざがあるが、そのことわざとは裏腹に、色(美貌、セクシーさ)と金(所得)と力(職業的地位の高さ、それを支える学歴、知力、そして意欲)を兼ね備えた女性が不得手着ているらしいのである。こういう女性を本書では、六條華にあやかって「六條女」と名付けよう。
そして他の2つの分類が《お嫁系》と《ギャル系》となる。ちなみにこの4分類に関して、三浦氏は以下のような特徴を挙げている。それに曰く、職業志向が高く上昇志向が高ければ《六條女》、職業志向が高く現状指向が高ければ(上昇志向が低ければ)《かまやつ女》、専業主婦指向が高く(職業志向が低く)上昇志向が高ければ《お嫁系》、そして専業主婦指向が高く現状指向が低ければ《ギャル系》となる。この分類に関しては、三浦氏の定義に従うほかないだろう。
しかしなぜかこの本では、一貫して《かまやつ女》が一方的にバッシングされるばかりである。とくに本書の中でも、私が読んでいてもっとも恥ずかしくなった部分、第3章(75~90ページ)の「かまやつ女にいら立つ大人たち」という部分に至っては、そこらで該当インタヴューを試みた「大人の女」による《かまやつ女》に対する罵詈雑言集だ。「AERA」の女性特集ではないのだし、三浦氏は立派なシンクタンク研究員(というより所長)なのだから、こんな読んでいて恥ずかしくなるようなことをしでかすのは慎むべきだろう。
しかし、三浦氏はなぜ《かまやつ女》をかくも一方的にバッシングしたがるのか?というのも、この連載の前編と中編で示したとおり、三浦氏は上昇志向を持たない若年層を過激なレイシズムを用いて一方的にバッシングして恥じない都市型新保守主義者である、ということが如実に示している。そして、都市型新保守主義と消費フェミニズムはコインの裏表である。
なぜそのようなことがいえるのか?
三浦氏は、《かまやつ女》の、そして若年層全体の「自分らしさ」指向を一貫して批判する(罵詈雑言を浴びせかける)。例えば三浦氏は、94ページから97ページにかけて、《かまやつ女》が男性の眼をあまり気にかけないことに関して、97ページにおいて《男の眼を意識するのは女々しい、こびてるという、積極的な否定異見があるほか、女らしさを気にすると、自分でなくなるという意見が二名あるのが印象的である。/かまやつ女にとっては、女らしいことと自分らしいことはしばしば矛盾し、矛盾した場合は自分らしさが優先されるということである》と書き、更にそのあと、99ページにおいて、《かまやつ女》に関して《たしかにかまやつファッションは幼児のようだ。ただ動きやすいこと、楽なことを考えている。そして少しだけかわいい要素も入れている。そんな感じだ。/どうしてこんな未成熟な女性が増えたのか》と歪んだ視線を浴びせてしまう。
ついでに三浦氏は男性についてもこういうことを書いていることをメモ程度に採り上げておく。まず、99ページ。
また、女性らしさを拒むかまやつ女は、そもそも大人になることを拒否しているのではないかとも思える。男性で言えばおたくに近い。
おたくは、メディアの助けをかりて自分の世界にこもるので、実社会でのコミュニケーション力が不足しがちだ。かまやつ女もそれに似ていて、メディアに頼ってではないかもしれないが、自分の世界にややひきこもり気味という印象を受ける。
また、106ページに曰く、
広告代理店の博報堂のレポートに寄れば、最近の若い男女は夜二人きりで部屋にいても何ごとも起こらないのが普通らしい。……男女が恋愛やセックス抜きにして友達として付き合う傾向が強まってきたともいえるが、他方では性の意識が相当変わってきたと考えられる。
あるいはアニメやマンガでないと「萌えない」男性が増えているのかも知れないし、AVやインターネットで露骨な画像を見すぎたために不感症になったか、女性への幻想が消えているのかも知れない。まあ、とにかく男女が普通に相対したときに、昔のようにどきどきするとか、ムラムラすろということが減っているらしいのである。付き合い方が淡白になったというのか何なのかわからないが、そもそも相手を異性として見なくなっているのかもしれない。
ここまで若年層を悪く言えるのも、三浦氏の差別意識のなせる業であろう。
あまつさえ三浦氏ときたら、111ページにおいては《服装はいやでも人の目に入る。人の目にはいるからには、その人にどう思われるかを考えるのが普通の人間だ。それがかまやつ女には欠落しているように感じられるのだ。それは完全な自己満足であり、一種の自閉である》などと、もはや言いたい放題である。私にとっては、最近の三浦氏の諸著作こそ《完全な自己満足であり、一種の自閉》でしかない。最近の三浦氏の諸著作を、まともな論文として認めるには、あまりにも感情的な部分が多すぎており、客観性に著しく欠けるものも多いからだ。
さて、私の疑問は、この部分に集約されている。三浦氏は、やけに《かまやつ女》が他人の眼線を「気にしない」ことを問題視する。なぜか?それは三浦氏が、他人の眼線を気にすることこそ自己表現であり、「自分らしさ」を実現するための最大のツールであると考えている節があるからだ。事実、三浦氏は、139ページにおいて以下のように述べている。
ブランド志向の強いコンサバ系の洋服代が高いのは当然だ。かまやつ女系は、高級ブランドなどは身に着けないので、もっと金額が低いかと思ったが、化粧品代もファッション代もコンサバ系の半分とはいえ、それなりに高かった。あれはあれでひとつのファッションであり、こだわりであるため、お金もかかるということだろう。
自分らしさを表現するために洋服や化粧が必要だとすれば、自分らしさがある(ほしい)と思う人ほど、それらの支出が増えるのは当然だ。逆に言えば、自分らしさをはっきり造りたいと思う人ほど洋服や化粧品を買うということである。今回の調査では、コンサバ系がもっとも自分らしさに自信をもち、ファッションにも化粧にもお金をかけるという結果になった。言い換えると、お金がないと自分らしさに自身が持ちにくいとも言える。恐い話である。
なんとも示唆的な文章である。というのも、三浦氏は、化粧品やファッションを消費することによってしか「自分らしさ」を達成し得ないと考えているらしいことをここで示している。要するに、三浦氏にとって――冒頭で採り上げた「ニューズウィーク」のコラムの著者であるスーザン・ファルーディが喝破している通り――消費こそが女性の解放であり、自らを解放するための消費を拒否する《かまやつ女》は、上昇志向を捨てた非人間として批判されるべき存在なのだ。
しかし、最近の世界史的な成長経済の終焉やスローライフ指向などを目の当たりにして、私はそんなに上昇志向を持つことは偉いことなのか、と考えてしまう。フェミニズムを主軸に据えて考えるのであれば、たとい《六條女》であっても《かまやつ女》であっても、自立した市民として責任をもって行動できるのであればそれでいいし、リベラリズムを主軸に据えて考えるのであればたとい上昇志向を持たぬ《かまやつ女》であっても《六條女》と比較してさげすまれる理由はない。若年無業者の自立支援を続けるNPO「ニュースタート事務局」代表の二神能基氏の言葉を借りるとすれば、《いままでの社会では効率至上主義一本やりだったから、そこにスローワーク(筆者注:年収に関わらず、仕事の中で自分の存在を確認できる働き方)を、お互いに認め合う違う生き方として並列に位置づける――わたしはそういう「もうひとつの日本」をつくりたい》(二神能基[2005]、199ページ)という考え方がリベラリズムを主軸に据えた考え方となる。
このように考えれば、三浦氏の政治的立ち位置は、――この短期集中連載の前編と中編でも述べたが――都市型新保守主義といっていいだろう。要するに、成長を第一のイデオロギーとし、それに見合わぬもの、あるいはそれを指向しないものは過剰にバッシングを繰り返す。このような都市型新保守主義者が、消費フェミニズムの罠にはまるのも当然だろう。消費フェミニズムは、端的に言えば投票権を持つことよりも金持ちの妾になることのほうを目指す。他人の眼を気にして消費しなければ未来は開けない、所謂「自分らしさ」指向は一時しのぎの逃避行に過ぎない、と罵る三浦氏は、消費こそが自己実現であり、開放であるという思想の持ち主というべきである。
そもそも三浦氏はバブル期に消費ブームを煽ってきた一人としてカウントされるのだから、バブル的な上昇志向を持たぬ《かまやつ女》を三浦氏が過剰にバッシングするのも一理あるだろう。「女らしさ」(消費による!)を指向しない《かまやつ女》は、成熟の拒否であり、さげすまれる存在として描かれる。これは、この短期集中連載の前編で採り上げた、上昇志向を失った地方の(郊外の)若年層に向けた視線と同じだ。要するに、現状にとどまっていることを好む人たちは、三浦氏のバブル期にターゲットしていた客層ではないから――要するに、わざわざ東京のパルコや丸井などに行って「おしゃれに」服装を決めず、せいぜい近場のジャスコやユニクロなどで済ませるから――、その客層になることを求めてひたすら尻を叩く。既存の社会情勢は無視して。ただひたすら若年層を叩けば若年層の上昇へのモチベーションは上がると思いこんでいる。悪魔の思想家とは三浦氏のことを言うのであろう。本稿では、三浦氏の最新刊『下流社会』(光文社新書)には触れなかったが、本書は、上昇へのモチベーションを失った若年層が増えることに対する危機の扇動として書かれており、ある意味では三浦氏の集大成といっていいだろう。従って特に触れなかった。
ちなみに私は服装にはあまりこだわらないタイプで、服装は大抵近場のジャスコやユニクロで買ったもので済ませる。洋服は消費せずに、ボロが出るまで使い続ける。だから私の服飾費は極めて安く済む。事実、私が着ているシャツの中には高校1年の頃から着ているものもある。要するに私も、三浦氏のバッシングする、上昇志向を失った若年でしかなかったのである。
参考文献・資料
スーザン・ファルーディ[2001]
スーザン・ファルーディ「消費フェミニズムからめざめよ」=「ニューズウィーク日本版」2001年1月24日号、TBSブリタニカ
二神能基[2005]
二神能基『希望のニート』東洋経済新報社、2005年6月
三浦展[2005]
三浦展『「かまやつ女」の時代』牧野出版、2005年3月
広田照幸『教育』岩波書店、2004年5月
吉見俊哉『万博幻想』ちくま新書、2005年3月
速水由紀子「現代の肖像 押切もえ」=「AERA」2005年3月28日号
山極寿一「成熟とは人間らしい生き方」=2003年5月2日付読売新聞
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