2005年9月28日 (水)

三浦展研究・後編 ~消費フェミニズムの罠にはまる三浦展~

 (前編はこちら、中編はこちら
 民間シンクタンク研究員・三浦展氏の著書『「かまやつ女」の時代』(牧野出版)を読んでいて、私の頭の中で常に浮かんでいた言葉は「消費フェミニズム」である。「消費フェミニズム」とは何かというと、これは米誌「ニューズウィーク」のコラムニスト、スーザン・ファルーディが使っている言葉である。ファルーディによると、平成12年の米国において、米国の女性が米国の現状をどう思うか、というインタヴューをしたところ、経済的には豊かなはずの米国において、返ってきた答えは《「怒りを感じる」「ひどすぎる」「うんざりする」》(スーザン・ファルーディ[2001]、以下、断りがないなら同様)というものである。ファルーディはこれを《新たな「性(ジェンダー)のギャップ》だと呼んでいる。

 ファルーディは、米国において、《ここ数十年、「あればあるほどいい」が、商業化されたフェミニズムの合い言葉となってきた》ことに対して苦言を呈している。そのようなフェミニズムの状況が何を生んだか。ファルーディは以下のように述べる。曰く、

 人気テレビドラマ「セックス・アンド・ザ・シティー」のおしゃれなファッションもしかり。東芝のノートパソコンのCMでは、サイバーギャルが「自由を選べ!」と女性たちに訴えかける。いまや女性解放とは「買う」自由なのだ。

 ファルーディが嘆いているのは、フェミニズムが消費文化に屈服してしまった状況である。元来、フェミニズムとは、女性が一人の責任ある市民として自由を得るための運動だったが、大衆的フェミニズムが女性の「幸せ」を最大の目標に掲げたが為に、商業主義に屈服してしまった。こうして、フェミニズムは力を失った、とファルーディは説く。そして商業主義に屈服してしまった大衆的フェミニズムが、「消費フェミニズム」ということになる。

 さて、このコラムがいかに三浦展氏の所論と絡むかというと、私が本書を読んで思うに三浦氏こそフェミニズムを消費文化に屈服させた張本人だと思うからである。しかし、その前に三浦氏が件の著書、『「かまやつ女」の時代』で行なっている女性の分類について説明して以降と思う。三浦氏は、同署において、女性をファッションによって4分類している。その仲でも三浦氏の所論の中核となっているのが《かまやつ女》(三浦展[2005]、ここから先は断りがないなら同様)と《六條女》である。この2つについて定義を説明しておこう。三浦氏は、《かまやつ女》に以下のような定義を与えている。11ページに曰く、

 最近、20歳前後の若い女の子の中に、昔の中年男性のような帽子をかぶっている女の子がたくさんいる。髪型はどこかもっさりしていて、服はルーズフィット。全体的にゆるゆる、だぼだぼしている。スカートをはく子はほぼ皆無で、たいてい色落ちしたジーンズか何かをはいている。

 その風袋がまるでミュージシャンのかまやつひろしのようなので、私は、こういう女の子を「かまやつ女」と名付け、2003年から2004年にかけて4回調査を行なった。

 これに対し、《六條女》は以下のように定義付けられる。20ページから22ページにかけて曰く、

 最近は東大、京大の現役生の女性タレントというのも人気がある。特に、現役の東大法学部学生でありながら、週刊誌でセミヌードを発表するなどで話題になった六條華(現在楠城華子に改名)は有名。

 (略)

 「色男、金と力はなかりけり」ということわざがあるが、そのことわざとは裏腹に、色(美貌、セクシーさ)と金(所得)と力(職業的地位の高さ、それを支える学歴、知力、そして意欲)を兼ね備えた女性が不得手着ているらしいのである。こういう女性を本書では、六條華にあやかって「六條女」と名付けよう。

 そして他の2つの分類が《お嫁系》と《ギャル系》となる。ちなみにこの4分類に関して、三浦氏は以下のような特徴を挙げている。それに曰く、職業志向が高く上昇志向が高ければ《六條女》、職業志向が高く現状指向が高ければ(上昇志向が低ければ)《かまやつ女》、専業主婦指向が高く(職業志向が低く)上昇志向が高ければ《お嫁系》、そして専業主婦指向が高く現状指向が低ければ《ギャル系》となる。この分類に関しては、三浦氏の定義に従うほかないだろう。

 しかしなぜかこの本では、一貫して《かまやつ女》が一方的にバッシングされるばかりである。とくに本書の中でも、私が読んでいてもっとも恥ずかしくなった部分、第3章(75~90ページ)の「かまやつ女にいら立つ大人たち」という部分に至っては、そこらで該当インタヴューを試みた「大人の女」による《かまやつ女》に対する罵詈雑言集だ。「AERA」の女性特集ではないのだし、三浦氏は立派なシンクタンク研究員(というより所長)なのだから、こんな読んでいて恥ずかしくなるようなことをしでかすのは慎むべきだろう。
 しかし、三浦氏はなぜ《かまやつ女》をかくも一方的にバッシングしたがるのか?というのも、この連載の前編と中編で示したとおり、三浦氏は上昇志向を持たない若年層を過激なレイシズムを用いて一方的にバッシングして恥じない都市型新保守主義者である、ということが如実に示している。そして、都市型新保守主義と消費フェミニズムはコインの裏表である。

 なぜそのようなことがいえるのか?

 三浦氏は、《かまやつ女》の、そして若年層全体の「自分らしさ」指向を一貫して批判する(罵詈雑言を浴びせかける)。例えば三浦氏は、94ページから97ページにかけて、《かまやつ女》が男性の眼をあまり気にかけないことに関して、97ページにおいて《男の眼を意識するのは女々しい、こびてるという、積極的な否定異見があるほか、女らしさを気にすると、自分でなくなるという意見が二名あるのが印象的である。/かまやつ女にとっては、女らしいことと自分らしいことはしばしば矛盾し、矛盾した場合は自分らしさが優先されるということである》と書き、更にそのあと、99ページにおいて、《かまやつ女》に関して《たしかにかまやつファッションは幼児のようだ。ただ動きやすいこと、楽なことを考えている。そして少しだけかわいい要素も入れている。そんな感じだ。/どうしてこんな未成熟な女性が増えたのか》と歪んだ視線を浴びせてしまう。

 ついでに三浦氏は男性についてもこういうことを書いていることをメモ程度に採り上げておく。まず、99ページ。

 また、女性らしさを拒むかまやつ女は、そもそも大人になることを拒否しているのではないかとも思える。男性で言えばおたくに近い。

 おたくは、メディアの助けをかりて自分の世界にこもるので、実社会でのコミュニケーション力が不足しがちだ。かまやつ女もそれに似ていて、メディアに頼ってではないかもしれないが、自分の世界にややひきこもり気味という印象を受ける。

 また、106ページに曰く、

 広告代理店の博報堂のレポートに寄れば、最近の若い男女は夜二人きりで部屋にいても何ごとも起こらないのが普通らしい。……男女が恋愛やセックス抜きにして友達として付き合う傾向が強まってきたともいえるが、他方では性の意識が相当変わってきたと考えられる。

 あるいはアニメやマンガでないと「萌えない」男性が増えているのかも知れないし、AVやインターネットで露骨な画像を見すぎたために不感症になったか、女性への幻想が消えているのかも知れない。まあ、とにかく男女が普通に相対したときに、昔のようにどきどきするとか、ムラムラすろということが減っているらしいのである。付き合い方が淡白になったというのか何なのかわからないが、そもそも相手を異性として見なくなっているのかもしれない。

 ここまで若年層を悪く言えるのも、三浦氏の差別意識のなせる業であろう。

 あまつさえ三浦氏ときたら、111ページにおいては《服装はいやでも人の目に入る。人の目にはいるからには、その人にどう思われるかを考えるのが普通の人間だ。それがかまやつ女には欠落しているように感じられるのだ。それは完全な自己満足であり、一種の自閉である》などと、もはや言いたい放題である。私にとっては、最近の三浦氏の諸著作こそ《完全な自己満足であり、一種の自閉》でしかない。最近の三浦氏の諸著作を、まともな論文として認めるには、あまりにも感情的な部分が多すぎており、客観性に著しく欠けるものも多いからだ。

 さて、私の疑問は、この部分に集約されている。三浦氏は、やけに《かまやつ女》が他人の眼線を「気にしない」ことを問題視する。なぜか?それは三浦氏が、他人の眼線を気にすることこそ自己表現であり、「自分らしさ」を実現するための最大のツールであると考えている節があるからだ。事実、三浦氏は、139ページにおいて以下のように述べている。

 ブランド志向の強いコンサバ系の洋服代が高いのは当然だ。かまやつ女系は、高級ブランドなどは身に着けないので、もっと金額が低いかと思ったが、化粧品代もファッション代もコンサバ系の半分とはいえ、それなりに高かった。あれはあれでひとつのファッションであり、こだわりであるため、お金もかかるということだろう。

 自分らしさを表現するために洋服や化粧が必要だとすれば、自分らしさがある(ほしい)と思う人ほど、それらの支出が増えるのは当然だ。逆に言えば、自分らしさをはっきり造りたいと思う人ほど洋服や化粧品を買うということである。今回の調査では、コンサバ系がもっとも自分らしさに自信をもち、ファッションにも化粧にもお金をかけるという結果になった。言い換えると、お金がないと自分らしさに自身が持ちにくいとも言える。恐い話である。

 なんとも示唆的な文章である。というのも、三浦氏は、化粧品やファッションを消費することによってしか「自分らしさ」を達成し得ないと考えているらしいことをここで示している。要するに、三浦氏にとって――冒頭で採り上げた「ニューズウィーク」のコラムの著者であるスーザン・ファルーディが喝破している通り――消費こそが女性の解放であり、自らを解放するための消費を拒否する《かまやつ女》は、上昇志向を捨てた非人間として批判されるべき存在なのだ。

 しかし、最近の世界史的な成長経済の終焉やスローライフ指向などを目の当たりにして、私はそんなに上昇志向を持つことは偉いことなのか、と考えてしまう。フェミニズムを主軸に据えて考えるのであれば、たとい《六條女》であっても《かまやつ女》であっても、自立した市民として責任をもって行動できるのであればそれでいいし、リベラリズムを主軸に据えて考えるのであればたとい上昇志向を持たぬ《かまやつ女》であっても《六條女》と比較してさげすまれる理由はない。若年無業者の自立支援を続けるNPO「ニュースタート事務局」代表の二神能基氏の言葉を借りるとすれば、《いままでの社会では効率至上主義一本やりだったから、そこにスローワーク(筆者注:年収に関わらず、仕事の中で自分の存在を確認できる働き方)を、お互いに認め合う違う生き方として並列に位置づける――わたしはそういう「もうひとつの日本」をつくりたい》(二神能基[2005]、199ページ)という考え方がリベラリズムを主軸に据えた考え方となる。

 このように考えれば、三浦氏の政治的立ち位置は、――この短期集中連載の前編と中編でも述べたが――都市型新保守主義といっていいだろう。要するに、成長を第一のイデオロギーとし、それに見合わぬもの、あるいはそれを指向しないものは過剰にバッシングを繰り返す。このような都市型新保守主義者が、消費フェミニズムの罠にはまるのも当然だろう。消費フェミニズムは、端的に言えば投票権を持つことよりも金持ちの妾になることのほうを目指す。他人の眼を気にして消費しなければ未来は開けない、所謂「自分らしさ」指向は一時しのぎの逃避行に過ぎない、と罵る三浦氏は、消費こそが自己実現であり、開放であるという思想の持ち主というべきである。

 そもそも三浦氏はバブル期に消費ブームを煽ってきた一人としてカウントされるのだから、バブル的な上昇志向を持たぬ《かまやつ女》を三浦氏が過剰にバッシングするのも一理あるだろう。「女らしさ」(消費による!)を指向しない《かまやつ女》は、成熟の拒否であり、さげすまれる存在として描かれる。これは、この短期集中連載の前編で採り上げた、上昇志向を失った地方の(郊外の)若年層に向けた視線と同じだ。要するに、現状にとどまっていることを好む人たちは、三浦氏のバブル期にターゲットしていた客層ではないから――要するに、わざわざ東京のパルコや丸井などに行って「おしゃれに」服装を決めず、せいぜい近場のジャスコやユニクロなどで済ませるから――、その客層になることを求めてひたすら尻を叩く。既存の社会情勢は無視して。ただひたすら若年層を叩けば若年層の上昇へのモチベーションは上がると思いこんでいる。悪魔の思想家とは三浦氏のことを言うのであろう。本稿では、三浦氏の最新刊『下流社会』(光文社新書)には触れなかったが、本書は、上昇へのモチベーションを失った若年層が増えることに対する危機の扇動として書かれており、ある意味では三浦氏の集大成といっていいだろう。従って特に触れなかった。

 ちなみに私は服装にはあまりこだわらないタイプで、服装は大抵近場のジャスコやユニクロで買ったもので済ませる。洋服は消費せずに、ボロが出るまで使い続ける。だから私の服飾費は極めて安く済む。事実、私が着ているシャツの中には高校1年の頃から着ているものもある。要するに私も、三浦氏のバッシングする、上昇志向を失った若年でしかなかったのである。

 参考文献・資料
 スーザン・ファルーディ[2001]
 スーザン・ファルーディ「消費フェミニズムからめざめよ」=「ニューズウィーク日本版」2001年1月24日号、TBSブリタニカ
 二神能基[2005]
 二神能基『希望のニート』東洋経済新報社、2005年6月
 三浦展[2005]
 三浦展『「かまやつ女」の時代』牧野出版、2005年3月

 広田照幸『教育』岩波書店、2004年5月
 吉見俊哉『万博幻想』ちくま新書、2005年3月

 速水由紀子「現代の肖像 押切もえ」=「AERA」2005年3月28日号
 山極寿一「成熟とは人間らしい生き方」=2003年5月2日付読売新聞

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2005年9月27日 (火)

三浦展研究・中編 ~空疎なるマーケティング言説の行き着く先~

 (前編はこちら、後編はこちら

 江戸の敵を長崎で討つ。

 桑を指して槐(えんじゅ)を罵る。

 民間シンクタンク研究員・三浦展氏の著書『仕事をしなければ、自分はみつからない。』(晶文社)を読んでいるとき、私の頭の中に常にこの2つの言葉が飛び交っていた。本書において、三浦氏は、若年層に関する統計データ(仲には信憑性の強く疑われるべきものも存在するが)を寄せ集めて、そこから飛躍して三浦氏の狭隘な道徳的基準に照らして若年層に対して罵詈雑言を浴びせている。本書における全ての言説は空疎極まりなく、また完全に空回りしているといっても過言ではない。この短期集中連載において、私は三浦氏は小さい根拠で大きく煽ることを得意としているのかもしれない、と書いたが、本書はその三浦氏の得意技が存分に現れている本だといってもいいだろう。

 本書は、タイトルにもあるとおり、一見すれば仕事を「したがらない」若年層に「仕事をしなければ、自分はみつからない。」と述べているような本に見える。しかし実際には、本書は若年層のほうを向いているのではなく、むしろ「今時の若者」に対して偏狭な認識しか抱いていない「善良な」人たちを向いている、しかも彼らの若年層に対する無知・偏見を高める方向に。本書においては、三浦氏はフリーターや若年無業者の問題を若年層の「気分」や「文化」という視点からアプローチしているのかもしれないが、実際には首都圏の一部の若年層に見られる「問題行動」の感情的な「分析」に基づいて若年層を不当にバッシングしている本だ。そもそも、本書における若年層の行動の分析ですら、その打倒性は極めて疑わしい。まさに、江戸の敵を長崎で討つ、桑を指して槐を罵る行為の産物であることは言うまでもない。

 三浦氏の「分析」がいかにデタラメか、ということを今回は強調したいため、本稿では収録されているいくつかの文章について、三浦氏の記述に基づいて逐語的に論証していきたいと思う。

 14~49ページ「フリーター世代の職業意識」
 そもそも「フリーター世代」というカテゴライズ自体問題はありやしないか?すなわちフリーターが若年層に対して歓迎をもって迎えられたのはバブル期であり、現在はむしろ職業選択の幅が狭いからフリーターにならざるを得ない、あるいはフリーターになるしかない人のほうが主流になりつつある。三浦氏はこの「フリーター世代」(おそらく私もその世代の中に入っているのだろう)の《のんびり派》(三浦展[2005a]、以下、断りがないなら同様)が昨今のフリーターの増加と密接に結びついていると説いているが、それはフリーター問題の一部かもしれないが全部では決してない。こういうカテゴライズをするから、三浦氏は夢を実現するためにフリーターをやっている人は許容するのか、といえば案外そうでもないようで、結局のところ若年層を叩きたいだけではないか、と思えてくる。

 余談で始まってしまったことをお詫びしたいが、25ページにおいて三浦市の暴走は始まるのだから興味深い。三浦氏は現代の若年層の向上心、及び上昇へのモチベーションが低下していることを参照して、以下のように言い出す。曰く、《のんびり派で、その日暮らし派の真性団塊ジュニア世代が、フリーターを選択するのは当然だ。せっせと就職活動をするわけはないし、就職するとしても、気楽な仕事を選ぶだろう。そして気に入らないことがあれば、すぐに辞めるに違いない。勤労意欲が低下していることは間違いない》と。「間違いない」を連発するのは長井秀和氏だけでよろしい。少なくとも三浦氏の提示したデータと三浦氏のこの結論の間には極めて広く深い溝が横たわっている。《当然だ》《選ぶだろう》《辞めるに違いない》等と、三浦氏の勝手な思い込みに基づく断定が続くこの文章を、まともな論文として評価するのは普通の論文の読み手であれば毛嫌いして当然だろう。また三浦氏は、26ページにおいて、サラリーマンを「サラリー」という女子高生(いわゆる「コギャル」である。この人種は既に絶滅したんかいな、と思っていたら平成17年9月25日のTBS系列(宮城県では東北放送)「さんまのSUPERからくりTV」で出てきて驚いた)を引いて《幾らなんでもサラリーマンをサラリーと呼ぶことはないだろと私は思った。彼女たちにとって、サラリーマンはマン(人間)ではないのだ》と仰々しく驚いて見せるけれども、面倒くさいから省略しただけではないのか、ということは三浦氏は思いつかないらしい。三浦氏にとって、全ての道は「若年層の劣化」に通ず。

 ここで三浦氏の発明した概念《真性団塊ジュニア世代》について説明及び検証をさせていただく。三浦氏は、この世代を《75年(筆者注:1975年)から79年に生まれた子どもは、団塊世代の父親が46.7%に倍増する。両親とも団塊世代は23.1%、父親が団塊で母親がその下の世代……は22.1%いる》ことからそのように読んでいるのだが、三浦氏がこの直前で述べている通り、第2次ベビーブーム世代だって母親が団塊なのは47.5%いる。この《真性団塊ジュニア世代》の定義付けでは母親が除外されているので、分析としてはフェアとはいえない。ただし、これより先は便宜の為に三浦氏の定義を受け入れることとする。

 三浦氏は31ページにおいて《夢のために何もしないフリーターも、セックスはする。おかげで最近同棲が流行っているらしい》と欠くけれども、根拠を開示していない。あまつさえ三浦氏ときたら32ページにおいて《経済のない結婚なんてあるのか?もちろん親の家があるからフリーターどうしでも結婚できるのだ。パラサイト同棲である》などと暴言を言い放つ。そんな暴言を言い放つ前に、あなたもシンクタンクの研究員なら調査しなさい。しかも同じページから33ページにかけて、所謂「できちゃった結婚」の増加さえも以下のように「分析」してしまう(33ページ)。根拠のない不安を煽り特定の社会階層に敵愾心を煽るポピュリストとは三浦氏のことを言うのだろう。

 このように、一昔前の価値観からすれば、なんだかだらしのない、ゆるーい価値観が普通になり、なんとなく同棲して、なんとなく子どもができて、じゃあ、という感じで入籍するというパターンが増えているのだろう。

 しかしそういう行動様式は、近代化以前の農民と似ているような気もする。独立心や将来の希望ももてずただ現状の中で停滞している。中流社会の固定化の中で、価値観の農民化が進んでいると言えないこともない。

 明らかに百姓を差別しているこの文章。農村は劣っていて都市は素晴らしいという妄信。まさに三浦氏は都市型新保守主義者の名を冠せられるに相応しい。そもそもこの三浦氏の「分析」を裏付ける資料を三浦氏は開示していない。三浦氏の主観的な判断でしかないのである。

 37ページから49ページに至っては、見ている私が恥ずかしくなるくらいの悪文である。要するに、三浦氏の単なる矮小な経験談から、現代の若年フリーター、更には若年層全体がいかに堕落しているか、ということを「立証」してしまうのだけれども、よくもここまで狭い経験を若年層全体に広げることができるものだ。この程度で若年層を「分析」したと言い張ることのできる三浦氏は掛け値なしで素晴らしい。おそらく俗流若者論の書き手として求められているのはこういう人であろう。

 三浦氏の文章では、《このように》、まともな社会学の《価値観からすれば、なんかだらしのない、ゆるーい価値観が普通になり、なんとなく》自分の身辺の事例を拾って、《なんとなく》妄想を膨らまして、《じゃあ、という感じで》不安と不信感と敵愾心を煽るという《パターンが増えているのだろう》。

 《しかしそういった行動様式は》、ナチス・ドイツ期のヒットラーと《似ているような気もする》。既存の不安や不信に乗じて《ただ現状の中で》何も変えようとせず不安ばかり煽る。若年層に対するイメージの《固定化の中で》、三浦氏の《価値観の》俗流保守主義化が《進んでいると言えなくもない》。

 114~123ページ「都市が居間になる。」
 基本的にこの文章は、おそらく三浦氏がふらふらと出かけて、都内(渋谷と吉祥寺と高円寺あたり)でたまたま目にした若年層の「問題行動」に単にけちをつけているだけの文章である。はっきりいってこの文章に問題意識というものはない。

 若年層が劣った存在であるかのごときネーミングはこの部分で頻出する。例えば118ページでは《ここ3、4年、歩きながらものを食べる人々を多く見かけるようになった。それはあたかも「ジベタリアンの直立猿人化」、つまり四速歩行から二足歩行への進化の過程をみているかのようである》と、また120ページでは《写真14は、吉祥寺の朝の八時頃。パチンコ屋の開店を待っている人の列を撮ったものである。それぞれ寝ころんだり、本を読んだり、ヘッドフォンで音楽を聴いたり、携帯電話をいじっている人など、思い思いの時間を過ごしている。まるで路上が居間になったかのようであるが、動物園の猿山のようにも見える》と(一瞬正高信男の文章かと思った)、更にこの直後では早稲田大学の《校舎の中の床で寝ている学生》についても述べているが、この一人の行動から三浦氏の捻出する結論は《こういうモラルの低下が、スーパーフリーのようなレイプサークルを生む土壌になっているのだと思った》と。立てよ早大生!このような理不尽なるレッテルを貼り付ける俗流マーケッターに、諸君らは直ちに反論すべきである!

 私が早大を受けて落ちたことがあるからか、ついつい煽ってしまった。だからといって三浦氏の罪が消えるわけではない。123ページ、これも正高信男の文章と勘違いしてしまった。曰く、《発達した文明は携帯電話をつくり出し、街中にあるコンビニからは二十四時間自由に好きな食べ物を選べる都市環境を生み出した。それはまるで南洋の楽園のようである。そして人は食べ名が荒歩き、歩きながら絵文字という象形文字でメールをするようになった。歩き食べと象形文字。まるで旧石器時代である。文明の進化が人間を旧石器時代に引き戻したのだろうか》と。少なくとも三浦氏は俗情という文明の利器(笑)によって、第二次世界大戦時代のナチス党員に引き戻されたのはいうまでもないだろう。

 124~133ページ「コンビニ文明」
 この文章は、三浦氏はやたらと現在問題化されていることをコンビニに結び付けたがる。例えば三浦氏はコンビニが晩婚化を引き起こしているという。127ページに曰く、

 新人類世代は晩婚化が進んだ世代でもあるが、晩婚化のひとつの背景には、コンビニの普及と二十四時間化があると私は思っている。一人暮らしでも、コンビニがあればいつでも食べ物を手に入れることができるようになったからだ。

 昔なら、深夜に家に帰った男たちは、奥さんにお茶漬けを作ってもらいたいと思っただろう。だから早く結婚したいと思った。しかしコンビニの二十四時間化により、男たちは夜遊びの後でも気軽に食べ物を買えるようになった。一人で食べるのは寂しいかもしれないが、とにかく食べ物にはありつけたし、コンビニの食べ物はどんどんおいしくなっていった。その文、結婚したいと思う気持ちは減ったのではなかろうか。

 男性から見た結婚の条件が女性の料理のうまさなんて、「AERA」の記事でも見たことがない。そもそもこのようなアナロジーが許されるのであれば、男性の料理のスキルが上がっても晩婚化が進むはずなのだが。そもそもこの文章は、男性にはまともな生活力がない、だから女性と結婚することによって男性は生活力を補完する、しかしコンビニができたから生活力を結婚によって生活力を補完する必要が無くなった、だから晩婚化が進むのだ、といっているようだが、これでは男性も女性も両方差別していることにならないか。すなわち男性は生活力が過度に貶められている。女性は男性に奉仕する存在としてしか見られていない。三浦氏の差別意識がここでも透けて見える。

 また三浦氏は131ページから133ページにかけて、米国の映画「ゾンビ」を引き合いに出す。その映画においてはゾンビ(生き返った死体)は生きているときにいつもそこに来ていたから死んでも郊外のショッピングモールに本能として行く、と説明される。しかし三浦氏がその直後に我が国の現状に向ける視線は極めて残酷だ。曰く、三浦氏は、《まだショッピングモールやコンビニがコミュニティだというところまでは来ていないが、あと十年もすればそういう感覚が一般化するだろう》(133ページ)といい、その後、この文章の結びとして、以下のように言う。

 消費者を本能で行動させる。これはマーケティングの常道だ。消費社会は人間を本能だけで動く動物にしようとしている。

 いずれ、死んでも夜中にコンビニに行くゾンビが日本でも増えるだろう。

 だったら、三浦氏こそ人間をゾンビ化させる張本人といわざるを得ないだろう。何故なら三浦氏はバブル期にはパルコの雑誌の編集者として消費社会を先導してきたからだ。そもそも三浦氏は、他の著書の著者略歴において(三浦展[2005b]。これがまたすさまじく恥ずかしい著者略歴だ)、三浦氏はパルコで働いていたときに、現代の宗教は消費である、としてパルコのマーケティング雑誌の編集に邁進していた、と紹介されている。三浦氏はこのような自らの行為についてどのように落とし前をつけるのか?

 134~149ページ「歩き食べの研究」
 唯一、真面目に調査したと思わせる記事だが、サンプル数は134ページに述べられている通り《年齢は15歳から29歳、内訳は15~19歳が37人、20~24歳が41人、25~29歳が5人》だという。しかも首都圏だけ、地方は無視。仙台在住の私は疎外。とりあえずここから有効な結論を引き出すのはきわめて難しい、といっておく。

 174~195ページ「『週刊自分自身』――若者と新聞」
 東北大学助教授の五十嵐太郎氏と、東北大学工学部建築学科3年の同級生1人と会食していたとき、私は月に一度は読売新聞と朝日新聞を1か月分通読する、と発言したとき、五十嵐氏とその同級生が驚いていたことがある。また、私は基本的に必要な情報は新聞とインターネットから入手しているし、平成17年9月11日~16日の東京・名古屋の長期旅行中でも、新聞を読まなければ落ち着かなかった。だからコンビニで、東京にいるときは東京新聞を、名古屋にいるときは中日新聞を買って読んだ。しかし新聞は電車の中では読まず、駅や万博のベンチやホテルの中で読んだ。電車の中で読むのは他人の迷惑になると考えたからだ。

 それはさておき、三浦氏はこの文章で若年層が新聞を読まないこと、更には本を読まないことを問題化する。しかし三浦氏の若年層の行動の「超訳」(跳躍?)はすさまじい。何がすさまじいかというと、現代の若年層にとって《感覚的にどうもこれは嫌だと思うのは何かと訊きますと、電車で新聞を読むことなのです。「あんな満員電車のなかで新聞を広げて読んでいるなんて信じられない」と言う》(176~177ページ)ということに触れて、三浦氏は《電車のなかで化粧をしたり物を食べたりしている人間、これはわれわれの世代から見れば、何ともはしたない、迷惑だと思うのですが、逆に彼らから見ると、食べるのは仕方がない、新聞読むのは邪魔くさいと思っているようです。かくのごとく世代の価値観の差は大きいのです》(177ページ)と語ってしまっている。そもそもこの前の部分で、三浦氏がアルバイトで使っている学生の、新聞を取らない理由として「ゴミが出ること」(176ページ)を挙げて、それを《ゴミとは失礼ですよね》とイチャモンをつけているのだが、若年層を散々ゴミ扱いしてきた三浦氏の言うことか。しかも三浦氏は、新聞を中流家庭の消費財と規定している。消費財ということはやがてはゴミになるということだな、三浦氏よ。若年層が新聞をゴミにしたらそれを問題にして、普通の中流家庭が新聞をゴミにしたら問題にならない、ということか。

 しかも190ページにおいて、若年層が新聞を読まないことについて《みんな豊かですから、非常に現状維持志向が強いのです。不況だなんだと言われてもほとんど上昇志向がありません。だから「新聞を読むと上昇できるよ」といっても、買いません》と述べている。新聞を読んだら本当に上昇できるのか、という私の疑問は三浦氏にとっては皆無なようだ。どの新聞も、特に若者報道に関しては全て同じような切り口で報道を行い、最近では捏造や虚報や不祥事まで起こしている新聞を読んで上昇できるのか。朝日新聞は捏造をしでかした。日経新聞は不祥事を起こした。毎日と読売は「ゲーム脳」を大々的に支持するほか、少年犯罪に関してはかなりひどい社説をよく書く。産経は右派政治家と右派論壇人の機関紙といっても過言ではない。こういう新聞を読んで上昇できるのか。

 194ページ、ここでやっと表題の《週刊自分自身》が出てくる。三浦氏によると、これは携帯電話のメールの事を指しているという。三浦氏曰く、

 若者が携帯のメールで何をそんなに通信しているのかと言うと、ほとんどは友達とメールの交換をしているわけです。つまり、その携帯メールのなかで行なわれていることは、自分専用の週刊誌をつくっているようなものだということで、私は携帯メールで交わされている情報を『週刊自分自身』と名づけてみました。

 つまり、もう電車の中吊り広告の『週刊女性自身』も見ないわけです。タレントのだれが何したということすら関心がない。さっき別れたばかりの友達とメールして、今何をしているのとか、知り合いの太郎と花子が別れたとか、くっついたとか、そんなことばかりやり取りしているわけです。それは自分だけの週刊誌をつくっているようなものなわけです。だから『週刊自分自身』であると思ったわけです。

 だったら友達と交わす私信や交換日記も《週刊自分自身》となるのだな、三浦氏よ。要するに三浦氏は思い込みと偏見だけで語っているに過ぎないのである。そもそも携帯電話のメールに《自分だけの週刊誌をつくっているようなもの》という比喩はかなり無理があるのだと思うのだが。だったらなぜ日記ばかりのブログに触れようとしない?いや、見方によっては、若者論や社会に関する論評を欠き続けて公開している私のブログも《週刊自分自身》と言うこともできるかもしれない(その点では、エコノミストの木村剛氏のブログのタイトルが「週刊!木村剛」となっているのは象徴的だろう)。携帯電話でのやり取りが極めて私的になることは、例えば社会学者の宮台真司氏によってポケベルの時代から指摘されており(宮台真司[2000])、宮台氏はポケベルに関して女子高生の「仲間意識」を検証している。携帯電話に関しては、同様の指摘を横浜市立大学助教授の中西新太郎氏や(中西新太郎[2004])、皇學館大学助教授の森真一氏(森真一[2005])、関西大学助教授の辻大介氏(辻大介[2005]。ついでに言うとこの辻氏の論文は正高信男『ケータイを持ったサル』(中公新書)に対する批判として書かれている)などが行なっている。三浦氏の分析では有効な結論を出すのは難しいように思える。

 最後に一つだけ言っておく。それは、現在の我が国の新聞配達というシステムこそが我が国における新聞の購読率の高さに極めて協力に結びついており、新聞社の既得権となっているといっても過言ではない状況であり、このようなことは外国にはほとんど見られないという。日本の新聞のシステムを絶対視して、新聞を読まない、あるいはコンビニで購読する若年層を「異常」と見なす行為が、いかに配達制度という牙城に触れていないか、ということを三浦氏は理解すべきだろう。

 今回は三浦氏の文章の中でも、特に問題の多い部分を検証してきたわけだが、それにしても本書における三浦氏の造語センスは非凡である。ただし、確かに量やインパクトの点においては西川りゅうじん氏が飛んで逃げるほどだが、その言葉に秘められたレイシズムや差別感覚は、むしろ石原慎太郎氏が飛んで逃げるほどである。それほど三浦氏の若年層に対する蔑視的な感情はすさまじいのである。

 このような三浦氏の態度は、結局のところこの短期集中連載の前編でも明らかにした、三浦氏の都市型新保守主義的な思想、すなわち上昇志向を持たない奴はみんな劣った奴である、という差別意識のなせる業ではないかと思っている。このような本の著者が、帯にあるような《若者カルチャー研究家》として規定されるとすれば、それほど若年層という存在が軽く、あるいは蔑まれて見られている証拠となるだろう。

 ついでにもし三浦氏がこの文章を読んで反論できないとすれば、三浦氏に私の論文を批判する隙を与えてみようと思う。私はこの文章を、ポータブルMP3プレーヤーで、声優の田村ゆかり氏や野川さくら氏などの楽曲を聞きながら執筆した。また、この文章を書いているときに、何度か台所にいって水を汲んで飲んだ。要するに私も、《ウォークマンなどの携帯音楽機器とコンビニが携帯空間願望の実現をますます可能にする。腹が減ったら二十四時間いつでも食べ物が手にはいる。音楽も二十四時間いつでも聴ける。喫茶店に入らなくても、街に座り込めば、そこが自分の快適な部屋になる。そう感じる若者》(156ページ)の一人でしかなかったのだ(深夜にコンビニに出かけたり、あるいは地面に座ったりしたことはないけれども)。

 参考文献・資料
 辻大介[2005]
 辻大介「ケータイ・コミュニケーションと「公/私」の変容」=日本放送協会放送文化研究所(編)『放送メディア研究3』丸善、2005年6月
 中西新太郎[2004]
 中西新太郎『若者たちに何が起こっているのか』花伝社、2004年7月
 三浦展[2005a]
 三浦展『仕事をしなければ、自分はみつからない。』晶文社、2005年2月
 三浦展[2005b]
 三浦展『「かまやつ女」の時代』牧野出版、2005年4月
 宮台真司[2000]
 宮台真司『世紀末の作法』角川文庫、2000年3月
 森真一[2005]
 森真一『日本はなぜ諍いの多い国になったのか』中公新書ラクレ、2005年7月

 植田和弘、神野直彦、西村幸夫、間宮陽介(編)『(岩波講座・都市の再生を考える・3)都市の個性と市民生活』岩波書店、2005年7月
 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 斎藤環『「負けた」教の信者たち』中公新書ラクレ、2005年4月
 数土直紀『自由という服従』光文社新書、2005年1月
 芹沢一也『狂気と犯罪』講談社+α新書、2005年1月
 浜口恵俊『「日本らしさ」の再発見』講談社学術文庫、1988年5月
 広田照幸『教育』岩波書店、2004年5月
 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス、2004年5月
 松原隆一郎『長期不況論』NHKブックス、2003年5月
 森岡孝二『働きすぎの時代』岩波新書、2005年8月
 ウォルター・リップマン、掛川トミ子:訳『世論』岩波文庫、上下巻、1987年2月

 伊藤隆太郎「新リーズナブル主義 ~ワタシの中の「消費の二極化」~」=「AERA」2003年11月24日号、朝日新聞社
 藤生明「早稲田再生はあるか」=「AERA」2004年7月14日号、朝日新聞社

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2005年9月25日 (日)

三浦展研究・前編 ~郊外化と少年犯罪の関係は立証されたか~

 (中編はこちら、後編はこちら

 短期集中連載「三浦展研究」を実施します。この連載では、最近精力的に執筆活動を行なっている、民間シンクタンク研究員の三浦展氏の諸著作に対する批判的検証を行ないます。検証する本は、前編が『ファスト風土化する日本』(洋泉社新書y)、中編が『仕事をしなければ、自分はみつからない。』(晶文社)、後編が『「かまやつ女」の時代』(牧野出版)です。

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――――――――――――――――――――

 岩手県盛岡市、東北自動車道盛岡インターチェンジの近くに、大釜という地区がある。この地区は、ここ10年ほどで大きく様変わりしてしまった。というのも、およそ10年前はあまり建物がない地域だったのだが、久しぶりに大釜を通ったのでその様子を見てみると、一つの商業地域として変貌してしまっている。そしてその中心には、ジャスコが建っている。
 また、東京に出かけた際、東北新幹線の窓から見える、福島、郡山、宇都宮などといった郊外の都市の風景は、ほとんど変わり映えするものはなかった。ほとんどの都市が均質な風景を映し出し、少なくとも私が見聞した限りではどこに行ってもほとんど同様の光景が広がっている。

 しかし、このような都市の均質化が、青少年の「心」の荒廃をもたらし、少年犯罪の温床になっているといわれたら、若者論を研究している立場からしてみると、納得するどころかむしろ首を傾げてしまう。民間シンクタンク研究員の三浦展氏は、昨今マスコミをにぎわせている「理解できない」少年犯罪が、全て東京や大阪といった大都市ではなく、むしろ中小規模の都市で起こっていることに着目し、郊外化が少年犯罪を触発する、といった「理論」を構築した。その「成果」としての本が、平成16年9月に出版された三浦氏の著書、『ファスト風土化する日本』(洋泉社新書y)である。

 まず本書全体の感想を述べるとすれば、本書は重大な問題提起を行なっているにもかかわらず、著者である三浦氏が青少年問題にこだわりすぎるあまり、また青少年に対して偏狭な認識しか持っていないばかりに、本書は単なるトンデモ本――すなわち、著者の意図したところとはまた別のところで楽しむべき本になってしまっているのである。

 はっきり言うが、本書において、都市計画論的なことが述べられている部分は、建築学科の学生としてみればそこそこ役に立つ。本書で唯一収穫があるとすれば第7章の189ページから215ページで、ここではこれからの都市計画に関していかなる思想で行なわれるべきか、ということが展開されている。これが現実を無視した机上の空論ということもできるけれども、少なくとも思想としては間違った方向ではないと思える。

 しかしそれ以外の部分では、著者の青少年に対する蔑視的な感情があからさまに見えてくるのである。具体的に言えば、地域コミュニティと大都市の安易な礼賛と、ことさら現代の青少年、特に郊外に住んでいるものを「異常」とレッテルを貼りたがること。

 第7章(209ページ)においても、三浦氏は、《ファスト風土しか知らず、リアルな生活の場を失ったまま育つ子どもは、ファストフードしか食べずに育つ子どもと同じである。そう言えば、ことの異常さが分かるだろうか》(三浦展[2004]、以下、断りがないなら同様)といったことを述べている。三浦氏が、郊外で育った子供たちをただ「異常」とみなしたいという感情がここでも見て取れるだろう。

 さて、本書のキーワードとなる《ファスト風土》とは何か。三浦氏は、27ページで、以下のように述べている。

 本来、日本の地方には、城下町など固有の歴史を持った美しい年が多数存在していた。都市の周辺には農村が広がり、やはりその地域の固有の自然と歴史の中で過ごしていた。しかし、過去20年に起きた交通網の整備と総郊外化の波は、そうした地域固有の歴史的風土を徹底的に崩壊させた。歴史的な街並を持つ地方の都市中心部はモータリゼーションに対応できず衰退し、田園地帯にショッピングセンターができた農村部もまた、それまであった生活を激変させ、コミュニティを衰退させた。日本中の地方が二重の意味で衰退し、画一化し、均質化し、「マクドナルド化」し、固有の地域性とは無縁の、全国一律の「ファスト風土」が生まれたのだ!

 《ファスト風土》の定義については、三浦氏の説明に従うほかないだろう。しかしここで苦言を述べさせてもらうと、三浦氏は「マクドナルド化」のことを都市の均質化と説明しているようだが、この概念は自助マニュアルによる社会の合理化を指す(森真一[2000]を参照されたし。ついでに言うと三浦氏は28ページで「マクドナルド化」の正しい説明を行なっている)。語感が自分の問題意識と合っているからといって、用語を誤用しないで頂きたい。しかしこのような批判は蛇足であろう。

 本書で展開されている論旨は、そのような三浦氏言うところの《ファスト風土》が、青少年を荒廃させるというものなのだが、はっきり言って著者の経験論に基づく牽強付会ばかりが展開される。更にこの著者ときたら、少年犯罪と《ファスト風土》の関係性が証明された!としきりにはしゃいでおり、私からすれば痛快というよりもむしろ痛い。

 まず三浦氏の少年犯罪に関する認識の誤謬を指摘しておきたい。三浦氏は16ページにおいて、刑法犯の認知件数が増加している、と説く。しかしここ数年の刑法犯の認知件数の増加が、警察の方針転換と深く関わっている、ということを指摘しなければならないだろう。具体的に言えば、警察は、ここ最近になって、これまで握り潰してきた被害届けを素直に受理するようになったり、警察官の増員などで犯罪の摘発に力を入れるようになったりしたことで、それまで暗数であった犯罪が統計に表面化するようになった。三浦氏は19ページにおいて検挙率の低下を単純に犯罪の増加と捉えているようだけれども、これも警察機能の限界という視点で説明できる。三浦氏が少年犯罪の「凶悪化」の理由として、東京都の青少年政策のブレーンとなっている首都大学東京の都市教養学部長・社会科学研究科長の前田雅英氏の『少年犯罪』(東京大学出版会)を挙げている限り、この手の少年犯罪凶悪化論を三浦氏は疑っていない、ということがいえるだろう。

 さて、ここから三浦氏の主張の中心、すなわち《ファスト風土》が少年犯罪を誘発する、ということについて検証を行なっていきたい。第2章は「道路整備が犯罪を助長する」というタイトルで、内容もまたこの言葉でまとめることができる。三浦氏は34ページにおいて、平成15年に起こった長崎県長崎市の12歳の少年による小児殺害事件に触発されて長崎と佐賀に行ったことが報告されている。しかしここで三浦氏が行なったことといったら、せいぜいタクシーで2・3の郊外の団地を回った程度である。その程度でフィールドワークと呼べるか。三浦氏は43ページにおいて「はなわ」こと塙尚輝氏の曲にイチャモンをつけるけれども、その前にやることがあるだろう。なぜ三浦氏は現地の人に対して聞き取り調査を行わないのか。あるいはなぜ三浦氏は何日か長い時間をかけてフィールドワークをしないのか。結局のところ、この「調査」は、「「あの事件」を起こした場所は郊外だった!」ということを書きたいが為に行なった、つまり「為にする」調査なのである。

 第3章「ジャスコ文明と流動化する地域社会」は、三浦氏が、郊外の犯罪の近くにはジャスコがある!ということを仰々しく「発見」してみせる、という内容。この著者が、「「あの事件」を起こした場所の近くにジャスコがあった!」と仰々しくはしゃいでみる様は、見ていて滑稽を通り越して痛いくらいだ。そんなにジャスコが嫌いなら、なぜジャスコのない場所に三浦氏が問題視するような犯罪が「ない」のか比較してみてはどうか。実際問題、三浦氏も認めている通り、ジャスコは郊外の結構多くの街に(泉区にあるジャスコ南中山店は徒歩圏内だし、少し原付を飛ばせば利府店や多賀城店にもいける。多賀城店はもうすぐ閉店するようだが)あり、郊外の事件を少し探せばジャスコに当たる、というのはかなり必然性があるような気がするのだが。そういう状況下にあって、ジャスコ(とそれがもたらすらしい地域コミュニティの崩壊)を唯一の原因として鬼の首を取った如く問題化するのは極めて問題の多い態度であろう。そもそもなぜジャスコが「ない」場所の犯罪が問題化されないのか?三浦氏の態度は至極アンフェアである。

 笑ったのは、70ページから72ページの「佐世保事件とジャスコの関係」について述べた文章。三浦氏は平成16年12月の佐世保の女子児童殺害事件について、母親がジャスコで働いていることを問題化している。三浦氏は99ページにおいて、この事件の犯人の父親についても《乳は病後のためにあまり仕事ができず、母はジャスコで働いていた。ゴールデンウイークもどこにもいけず、それどころか少女は朝一人でパンを食べていたという》ことを問題化しているのだが、これをもってジャスコが悪いのだ、というのはあまりにも早計であろう。

 三浦氏は佐世保から少し伸ばして大塔に行って、そこにジャスコシティがあることや、大塔駅周辺の状況を踏まえて《典型的なファスト風土的風景である》(71ページ)と言っているが、ことこの事件に関しては、ジャスコよりも行くべきところがあった気がしてならない。
 ちなみに作家の重松清氏は、この事件の犯人の住んでいた場所について、この犯人の通っていた《大久保小学校からさらに山を登ったところにある。学校まではバスで10分以上》(重松清[2004])という場所であると報告している。ちなみに大久保小学校は佐世保の中心市街地を見渡せる位置にあるという。また、重松氏は、この犯人の行動圏の狭さにも着目しており、《朝夕の通学時間帯でさえ、1時間に1本》(重松清[2004])ということを問題に挙げていた。三浦氏が問題化する大塔のジャスコシティは佐世保駅から2駅行ったところにあるため、この犯人の行動圏には当てはまらないだろう。もとより三浦氏は佐世保の事件について語っているのになぜか大塔に行ってしまっている。佐賀のバスジャック事件の犯人に関して《受験の失敗がバスジャックに関係したかどうかは知らない。そんなことはどうでもよい》(46ページ)と簡単に切り捨ててしまっている三浦氏だ、佐世保の事件の犯人がバスケットボールクラブを辞めさせられて受験勉強に邁進するように差し向けられてしまった、という報告にも《そんなことはどうでもよい》と処理してしまうのだろう。

 しかし三浦氏はなぜここまでジャスコを敵視するのか。それにはしっかりとした理由があり、その理由が述べられているのが第5章「消費天国になった地方」である。要は地方にジャスコができて、地方が《消費天国》になったことが三浦氏は気に食わないらしい。三浦氏のその意識が特に表れているのは136ページから137ページにかけてのこのくだりであろう。

 2004年に公開された『下妻物語』という映画では、ジャスコがパロディ化されて登場する。いや、パロディではなく現実そのものの戯画化といったほうが正しい。舞台は北関東、茨城県の下妻市。東京まで服を買いに行くという主人公の女性に向かって、八百屋は言う。

 「わざわざ東京まで買物に行かんくても、ジャスコがあっぺ。下妻のジャスコは東京のパルコよりでっかいぞ。ジャスコには何でもあっぺ」

 たしかにジャスコには何でもある。最新のファッションも、世界中の食品も、高級ブランドもある。……いま話題の商品と店が、これでもか、と詰め込まれている。そこにさえ行けば、ほかのどこにも行かずにすむようにできている。たとえ東京でさえも。

 その意味で、ジャスコは街である。しかも24時間、365日、全館エアコンが利いた人口の街である。これこそが人類の発明だと言いたげだ。事実、私が見た太田市のジャスコには、レオナルド・ダ・ヴィンチの飛行機を模した物が天井からぶら下げられていた。ショッピングセンターは人類の発明だといいたいのであろうか?

 ここまで妄想を展開できるのも素晴らしい。三浦氏は全てのジャスコが《24時間、365日、全館エアコンが利いた》であるかの如く書いているけれども、私の近所のジャスコ南中山店は24時間営業なのは食品売り場だけである。しかも三浦氏は《いま話題の商品と店が、これでもか、と詰め込まれている》と書いているが、それも店舗の立地によるのではないか?

 また三浦氏は各種家計調査を用いて、地方が東京よりも消費社会化していることを問題視している。しかしこの調査において、一貫して無視されているのは年収と昼間の人口である。そこを無視して《消費はこれまで都市から地方に波及した。あるいは、より所得の高い人から低い人に波及した》(146ページ)と述べられては、根拠を失っているといわざるを得ない。三浦氏は、147ページにおいて、地方で生まれたコジマ電機(宇都宮)、ヤマダ電機(前橋)、ユニクロ(山口)、ダイソーと洋服の青山(広島)といった地方で生まれた企業や商店のスタイルが全国に波及することを問題化する。しかし資本主義社会においては、より人々の消費者心理を掴むスタイルが全国に波及するのは必然だと思われるのだが。東京だけが正義ではない。

 あまつさえ三浦氏ときたら、153ページにおいて《宇都宮のパチンコ屋が実家という女子大生》の事例を引いて《「消費しかできない」子どもたちが育っているのだ!》(155ページ)などとはしゃいでいるけれども、この女子大生の状況のほうが特殊なのではないか?
 それにしてもどうして三浦氏は地方の消費社会化をここまで露骨に嘆くことができるのだろう?身の回りに何でもそろっていて、欲しいものがすぐに消費できるのであれば、東京こそが危ないといわなければならないはずなのだが。また、三浦氏は、現代の社会が脱工業化に向かっていること、そしてそれに対応した地域経済の再生策が問われていることも触れない。東京大学教授の神野直彦氏が述べている通り、情報を動かすことによって技術移転が成功すれば不必要な人間や物品の移動を抑制することができ、情報化による知識社会の創造こそ在宅勤務が進んで職住一体の地域経済を実現することができる、という見方もできる(神野直彦[2002])。しかし三浦氏はただ地方が消費社会化することをしきりに攻撃するだけだ。一体三浦氏のこの態度はどこから生まれているのであろう?

 これはあくまでも推測なのだが、三浦氏が元々パルコの発行する雑誌の編集部で働いていたことが少なからず影響しているのではないかと思う。言うまでもなく、パルコはバブル期の都市における消費ブームを煽った商店の一つであるが、おそらく三浦氏はポストバブル時代の消費の主導権を、大都市住民をターゲットにしたパルコから農村型消費社会を実現させたジャスコに奪われたことに対して苛立ちを持っているのではないか。そう考えれば三浦氏がしきりにジャスコを敵視するのも分かるような気がする。もちろんこのような考え方は一つの邪推でしかないのだが、少なくともこのようなことは言える、三浦氏は素朴なコミュニティ主義に浸かっており、そのような素朴なコミュニティを大規模小売店や学校(三浦氏が学校というファクターを完全に無視していることを我々は忘れてはならない)に引き裂かれた状態を異常としか捉えることができないことから三浦氏の牽強付会は始まっているのかもしれない。

 三浦氏の現代の若年層に対する認識がどこから来ているかということに関しては、第6章「階層化の波と地方の衰退」の以下のくだりを読めば分かる。

 昔の若者に内発的にやる気があったわけではない。30年前まで、地方の若者にはまだ東京に集団就職をしなければならない者がいた。地方の男たちは冬に出稼ぎをしなければならぬ者がいた。そういう貧しさが外圧となって人々にやる気を起こさせていただけだ。

 外圧が、つまり貧しさが解消されればやる気はいらない。こうして、いま地方の若者に生じている意欲の低下、向上心の低下が起こっているように思える。(169ページ)

 しかし三浦氏のこのような物言いに欠けているのは、人口は既に減少を始めており、また世界史的に見ても成長一辺倒の経済は限界を告げられていることである。三浦氏は人々を寄り上へ上へと突き動かす《外圧》が必要である、と考えている節があるが、そのようなただひたすら「成長」を目指すイデオロギーは、確かに終戦直後のまだまだ貧しい時期には必要だったかもしれないが、やがてそのようなイデオロギーは現在になって深刻な環境問題と都市型貧困層の増加を引き起こした。環境問題やフリーター問題は、そのような次元で捉えられるべきものであるが、それはさておき、「成長の限界」が指摘される現在は、そのような「成長」に代わる新たな概念が提示されることであろう。

 三浦氏の最大の価値観は「都市型消費」であろう。要するに、三浦氏は、都市が(パルコを中心として!)消費の享楽を味わうことができればいいのであって、地方が消費の享楽を味わうのは問題であり、犯罪を引き起こす、と考えている節がある。都市で消費することはかまわないが、地方で消費するのは駄目だ、という三浦氏の発想は、153ページから155ページにおける《宇都宮のパチンコ屋が実家という女子大生》の発言を引用していることでも分かるし、本書において一貫して都市が消費社会化することを問題と見なしていないことでも分かる。本書で納得してしまう人がいれば、かなりの確率でその人は都市型新保守主義者と見なすことができるかもしれない。

 蛇足だけれども、三浦氏の青少年に関する認識の偏狭さも第6章でよく見られる。例えば、

 これも従来的なイメージだが、体験というと東京の子どもには欠如していて、地方の子どもにはたくさんあると考えられがちだ。だが、地方でも近年都市開発が盛んに行なわれているので必ずしも自然がそのままの姿で残っているわけではないし、過疎地の子どもですら木登りはできなくなって久しい。むしろ、彼らも暇な時間はテレビゲームにハマっている。(169ページ)

 三浦氏はこの文章の直前において、《体験》をかなり幅広く捉えられていたのに対し、なぜかこの段落においては「自然の体験」に矮小化されている。

 おそらく、子どもは自分の家とジャスコの位置関係を把握していない。いえとジャスコは恬として存在するだけで、それらが線や面としてつなぎあわされていない。つまり、自分がお菓子や消しゴムを買うという行為はたんなる消費行為であり、地域と結び付けられていないのだ。

 これで地域への愛着が育つのだろうか。自立心が育つだろうか。挨拶の仕方、コミュニケーションの仕方を自然に学べるだろうか。はなはだ疑問である。地方で連れ去り事件などを起こす若者が、無職でひきこもり気味だったりするのを新聞で見ても、やはり地方でコミュニケーション力のない若者が増えているのではないかと懸念される。

 たんに無職というだけでなく、毎日、家にこもってテレビゲームか何かをしているだけの若者だったりする。そういう若者は都会に多いというイメージがあったが、いまは日本中にいるし、どんな田舎にもいる。下手をすると田舎のほう多いかもしれないのだ。(172ページ)

 ここまで俗論を平然と述べることのできる三浦氏はすごい。私もここまで根拠のない断定ができるようになりたいものだ。もちろん皮肉だけれど。

 Jリーグもあって、ジャスコもあって、アウトレットもある。そういう生活に地方の人は満足している。自分の力を試しに東京に出たいという若者は減っていく。東京には買物とレジャーにたまに出かけるだけでよい。ディズニーランドと丸ビルと六本木ヒルズとお台場、それらはすべて地方からの客でもっている。そうした地方人は、豊で平和な日本の象徴だ。しかし、それは他方では、目標も意欲もなく、適当に働き、テレビを観て、漫画を読んで、ゲームをして、買い物をしているだけの、たいへん視野の狭い消費人間にも見える。(183ページ)

 このような暴論をたやすく述べている三浦氏に、青少年問題を語って欲しくない。しかし三浦氏は少ない根拠で大きく煽ることを得意としているようだ。

 だが、それは明らかにポピュリズムの兆候であり、都市型新保守主義の暗部を如実に表している。三浦展という都市型新保守主義のもっともヴィヴィッドな語り手から我々が学ぶべきは、多数の人が少なくとも最小限の幸福を得ることのできる社会の構築にとって、このような単なるポピュリストこそが障害となることかもしれない。

 参考文献・資料
 重松清[2004]
 重松清「少女と親が直面した「見えない受験」という闇」=「AERA」2004年7月19日号、朝日新聞社
 神野直彦[2002]
 神野直彦『地域再生の経済学』中公新書、2002年9月
 三浦展[2004]
 三浦展『ファスト風土化する日本』洋泉社新書y、2004年9月
 森真一[2000]
 森真一『自己コントロールの檻』講談社選書メチエ、2000年2月

 五十嵐太郎『過防備都市』中公新書ラクレ、2004年7月
 植田和弘、神野直彦、西村幸夫、間宮陽介(編)『岩波講座・都市の再生を考える』1~7巻、2004年12月~2005年7月、岩波書店
 笠原嘉『アパシー・シンドローム』岩波現代文庫、2002年12月
 玄田有史『仕事のなかの曖昧な不安』中央公論新社、2001年12月
 越澤明『復興計画』中公新書、2005年8月
 小杉礼子(編)『フリーターとニート』勁草書房、2005年4月
 望田幸男、広田照幸(編)『実業社会の教育社会史』昭和堂、2004年10月

 安藤忠雄「「美しい大阪」をつくる」=「Voice」2005年1月号、PHP研究所
 神田順「まちづくり 建築基準法見直しが先決」=2005年5月11日付朝日新聞
 野田一夫「低い仙台の都市機能 納得できる街創ろう」=2003年10月12日付河北新報

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