2006年6月20日 (火)

論壇私論:「論座」平成18年7月号

 ベスト:特集「私と愛国心」
 それにしても今月号は「内容的には反発したい部分もあるが、メッセージとして受け取ると深いものがある」というようなものが多かったような気がする。

 この特集には「教育基本法 場外論戦」というサブタイトルがついているが、ベストにこの特集を採り上げたのは、単なる二元法を超えた鋭い意見がたくさん載っていたからである。これを読めば、俗流若者論を基盤とする「愛国心」論争がいかに脆弱なものであるかがよくわかる(まあ、この特集の中にも俗流若者論はいくつか見られたけど…)。その引用を、この特集への絶賛に代えたい。(平成18年6月21日追記:引用文の一部を修正しました。)

 《我が国はなぜ先の大戦で壊滅的敗北を喫したか。……数字を詳細に分析し、理論的にそれを口にすれば、「貴様には愛国心がないのか!大和魂を持って闘えば鬼畜米英など恐れるに足らぬ!」などと罵倒され、誰も本当のことを言わなくなってしまったことに最大の原因があったのだろう。……昨今の妙に勇ましい「保守派」の論調にこれと一脈通じるものを感じるのは私だけではあるまい》(石破茂)

 《世界中の国々がそれぞれの愛国主義を鼓吹したら、どのようなことになるのか。きわめて排他的なナショナリズムの対立を生みかねないであろう。そうではなく、すべての国の人たちを愛するという意味での愛国主義、すなわち人類愛に通ずる愛国主義というものはありえないのであろうか》(入江昭)

 《いま現に生きていて、これからもそこに生き続けるだろう、私にとっての「人の世」である「日本国」を住みよくしなければならないと思っている》(奥武則)

 《国旗や国歌に敬礼できない人々を私は気の毒だと思う。あわれである。しかし、人それぞれに独自の体験があり、「死に値する祖国はありや」という問いを圧殺してはならない》(粕谷一希)

 《「自然」の観念は、ときに、ものごとを「当然」視する規範性を帯びる》(加藤節)

 《しまつに悪いのは、こういう連中が、自らも弱き民衆も救えない「対愛国心処方箋」を出して日銭を稼いでいることである》(呉智英)

 《「愛国」主義者は、愛国をもっぱら他人に求めるだけでなく、このセンチメントをイデオロギーに昇華させようとするが、上から矯正されないほうが、むしろ素直にクニを愛せるはずだ。……だから、素直にクニを愛しながら他方で知と理の立場から、つねに暴走しがちな国家主義をチェックすることが必要になる》(篠原一)

 《ひたすら忠誠を誓うのが愛国心だと思う人たちには、考え直してほしい。馴れ合いと愛の違いを》(杉田敦)

 《「自分こそが本当の愛国者だ」「いや、俺こそが愛国心を持っている」と、愚劣な「愛国者コンテスト」だ。いやな風潮だ》(鈴木邦男)

 《何人かのニュース番組の司会者・コメンテーターが、教育基本法改正案を批判して「ナショナリズムは法律によって強制されるものではなく、自然と芽生えてくる心情の発露である」と発言していたが、これこそがナショナリズムに内包されたイデオロギー性そのものである》(中島岳志)

 《国歌に対応する「愛国心」という目で近代以前の日本を見てしまうと、私の好きな「日本の社会のあり方」や「文化」がどこかに行ってしまう》(橋本治)

 《確かに戦後教育においては、国家権力から独立した市民の育成が重視されたけれども、往々にして学校の内部にもう一つの「国歌」ができてしまうという矛盾に、私は遭遇していたといえる》(原武史)

 《最近の教育はなっていない、子どもがだらしない、親がなっていないと嘆くのは、初老の域にさしかかったオジサンたちの共通の話題である。「最近、妻が冷たい」「子どもが口もきいてくれない」などと酩酊もせずに嘆くわけにもいかず、「学校」や「教育」を俎上に載せることで、鬱憤を晴らす》(保坂展人)

 《「愛」は憤りや怒りと切り離すことができない》(本田由紀)

 《インフラを愛する気はない。でもインフラは大切だ。だから丁重に扱う。尊重もする。でもそんな僕をもしもあなたが国民にあらずと呼称するならば、仕方がない、甘んじて非国民と呼ばれよう》(森達也)

 あと、どーでもいい話だけど、吉田司氏の論考に「日本こそ最大のニート」なるタイトルをつけたのは誰ですか。小一時間問い詰めたい。

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 ベター1:芹沢一也「犯罪季評 ホラーハウス社会を読む・2 「凶悪化する少年たち」というウソ」
 通俗的な青少年問題に反論する際に語られるのは「少年犯罪は凶悪化していない」と統計や事例を引き合いに出すことである。しかし相手が「一人が異常なら若い世代はみんな異常」と思っているような人の場合は、このような論法はもはや通用しない。従って、最初にデータで相手を弱らせたあと、相手の思想的根幹を覆すような強烈な一撃を食らわすことが必要となる。

 というわけで注目の連載第2回の見所は最後の1ページにある。昨今猖獗を極めている青少年バッシングの根幹に、「生活保守主義」=ただ自分の豊かな生活を守りたいとする態度が崩されることに対する不安の表現として「凶悪化する少年たち」が取りざたされていると分析する。確かに青少年バッシングには、自分の子供の頃を懐かしむものが多いからなあ。

 ここ最近の若年層に対し私生活主義が蔓延していると嘆く諸君、最強の私生活主義の発露は若者論なのである(と、私も一発パンチを出してみる)。

 ベター2:内田樹「Book Review『憲法とは何か』長谷部恭男」
 実に深みのある書評である。この文章は長谷部恭男氏の『憲法とは何か』を下敷きにした、言論への「覚悟」を読者に問いかける文章になっている。《大きな声で時節をがなり立てる人たちがめざしているのは主に異論者に発言機会を与えないことである》《反対者の知性を信頼し、自らの行論の破綻の可能性をつねに吟味している人は必ず「静かな声で」語るようになる》などなど。

 ベター3:東浩紀「潮流06 ゲーム大国らしい研究体制を」
 我が国において、ゲーム・バッシングに血道を上げている人たちに、ゲームの社会的・文化的意義を説くことは果たして可能なのだろうか。そもそもゲームを「青少年に悪影響を与えるもの」としてしか語らない人たちと、ゲームに親しんできた人たち、及びゲームを多角的に研究する人たちの溝は著しい(何も今に始まったことではないけれども)。

 《(筆者中:我が国においては)ゲームが「研究」「批評」の対象になるという認識そのものが希薄なのだ》、けだし至言。これはゲームだけではなく、アニメや漫画にもいえることだけれども、これらのサブカルチュアが「子供のもの」と真っ先に認識される時点で、社会学的・文学的な「研究」「批評」の道をかなり閉ざされているといえるかもしれない。

 とりあえず、ゲームについて語った本を1冊読めるくらいの頭の体力ぐらい持っておきましょう、とだけ私はいっておく(あ、『ゲーム脳の恐怖』的な疑似科学本はだめ)。

 ベター4:塩川正十郎、渡部恒三「“恐れるモノがない”政界ご意見番2人の方言&放言対談」
 88ページ1段目に短絡的な青少年認識が伺えるけれども、別に気にならない。なぜなら、この対談自体が、読み物としておもしろいから。政治に関して通常の報道とは違った視点から眺めることができる。

 ベター5:藤本順一「耐震強度偽装事件の真犯人は誰なのか」
 耐震強度偽装事件の「真犯人」は規制緩和だ、という記事としてみれば割と月並みな文章だけれども、「都市再生」政策を攻撃している点に関しては斬新かな。

 ワースト1:茂利勝彦「GARRELY RONZA 「ニッポン!!ニッポン!!ニッポン!!」」
 W杯で熱心に日本チームを応援している人と、戦時中の「愛国心」に燃えた人が重なって見えるんだとさ。ああ、下らないねえ。茂利氏だけでなく、青少年の「右傾化」なるものを批判している人たちにとっては、青少年の一挙手一投足がすべて「右傾化」に見えて仕方ないんだろうなあ。もちろん、「戦後民主主義教育」で青少年が「おかしくなってしまった」と考える人にとっては、青少年の一挙手一投足がすべて「戦後教育の悪影響」となる。

 こーゆー構造にどっぷり浸かっている人たちが気がつかないのが、青少年問題におけるナショナリズムの発露だ。通俗的青少年言説が、いかに「理想の青少年」とゆー名の私生活主義ナショナリズムに基づいているか、いい加減気がついてほしいもんだぜ、ベイベ。

 ワースト2:西村正雄「次の総理に何を望むか」
 101ページの「教育の振興と道徳心の涵養」という小見出しがつけられた部分で大爆笑。《人を大切にする日本的経営の良さが変貌し、勤勉、誠実、謙虚、優しさ、和を尊ぶなど日本人の美風が失われつつある》《教育分野における学力の低下、いじめ、学級崩壊、凶悪な少年犯罪の激増などの荒廃は目を覆うばかりだ》《私は「教育改革」こそが改革の本丸と信じている。個人の権利尊重に偏りすぎた結果様々な弊害を生じた現行の教育基本法を見直し、改革案に……戦後教育で忘れられた分限を盛り込んだことは評価すべきことである。これらはいずれも、市場原理主義とは相容れないものだ》だってさ。俺はそんな文言を100回以上は聞いた。死ぬまで言ってろ。

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論壇私論:「論座」平成18年6月号

 ベスト:芹沢一也、安原宏美「増殖する「不審者情報」――個人情報保護法という呪縛」

 まず、こちらの記事を読んでいただきたい。

―――――

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060617-00000213-yom-soci

「球技大会中止しろ、子供殺す」子供心配の女を逮捕

 徳島県吉野川市の市立小学校に、PTA主催の球技大会を中止しないと子どもを殺すなどと書いたはがきを送りつけたとして、県警捜査1課と吉野川署は17日、この小学校に通う児童の母親で、同市内の無職女(43)を威力業務妨害容疑で逮捕した。調べに対し、「子どもを狙った事件があちこちで起きている時に、球技大会なんかしている場合じゃないと思った」と供述しているという。

 調べでは、女は同小あてに今月8日、サインペンで「11日の球技大会を中止しないと子供を殺す」などと書いたはがきを送りつけ、同日に予定されていた球技大会と授業参観を中止させた疑い。
(読売新聞) - 6月17日21時8分更新

―――――

 何とすばらしいホラーハウス社会であることか!!この「母親」は、子供を狙った事件が起きているから球技大会などやるべきではない、などという義憤に駆られ、このような愚行をしてしまったのだろうか。

 おそらくこの「母親」は本気ではないかと思う。しかし、果たしてこの「母親」は、自分の行為もまた「子供を狙った事件」として消化されることを考えていないのだろうか。そしてまた自らの行為が「世間」の「不安」をさらに助長させる、という結果になることを考えていないのだろうか。

 実際問題、統計データを見れば、子供が犠牲になるような事件は増えてはいない。しかしながら、平成16年の小林薫の事件以降、「子供が犠牲者になるかもしれない」という不安はものすごい勢いで増大している。

 そして今回ベストに採り上げる文章は、「犯罪と社会」の分野の研究で注目を集める社会学者と(芹沢一也『狂気と犯罪』『ホラーハウス社会』)、その著書に関して全面的に関わったフリー編集者による、「子供が犠牲になるかもしれない」という不安に駆られて共同体を「閉鎖」していく様を如実に描いた出色の論文である。

 我が国において犯罪は増加し(たように見え)、そしてその原因が「地域コミュニティの崩壊」に求められるようになった。そしてそのような「失われた地域コミュニティ」を「取り戻そう」と、様々な「自発的」活動が行なわれるようになった。そしてこれらの「自発的」活動が、住民の間の「一体感」を生み出し、新しい連帯を生み出すようになった。ちなみに私が「自発的」とカギ括弧付きで表現したのは、この活動が実のところ警察主導で行なわれているらしいからだ。

 しかし、このような形で行なわれるコミュニティの「再生」は、人々をさらに大きな不安に陥れるという事態を生じさせている。たとえば、ある住民は、パトロール隊の格好をしているとき以外は子供に不審者扱いされて声もかけられない、と嘆く。さらには、東京都内であるにもかかわらず、滋賀県で起こった事件に関して警戒を強化せよ、という「不審者情報」までもが流れてしまうのだ。そして子供を持つ親の携帯電話には、どこで「変質者」「不審者」が出現したか、というメールが飛び交う。そして誰かが「不審者」と見られる閾値は、たとえば《バイクを押して後ろをついてきた》位のレヴェルまで下がってしまう。

 訳がわからない。しかし、このように思えてしまうのは、ひとえに私が昼間は主として地域社会から外れた場所――大学や図書館――で生活しているからだろうか。あるいは、私が子供を持っていないからだろうか。

 さらに「個人情報」に対する不安の高まりもこのような傾向を加速させる。その中でも学校は生徒・児童の個人情報に極めて強く神経をとがらし、緊急連絡網も作れない、などという事態も起こっている。そこで情報管理ビジネスが発達するわけだが、この発達した情報管理ビジネスを通じて「不審者情報」が洪水のように発信されるわけである。

 地域コミュニティが、情報管理ビジネスを通じ、洪水の如き「不審者情報」に流され、そして「安心」を得つつ外部に対しては閉じていく――。

 だが、ここでもっとも強く批判されているのは、警察でもなければ、セキュリティ企業でもない。「体感治安の悪化」なるカーニヴァルに盛り上がり、「地域社会の活性化」に血道を上げ、そしてそれが生み出す不安のスパイラルと「他社」の排除について快感すら覚えている「個人」である。カーニヴァル化する我が国のすばらしきホラーハウス社会にの中にあって、「社会参加」がそのまま「排除」になってしまう、そしてそのことを快く受け入れてしまう――そんな状況にこそ強く突きつけられる文章である。

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 ベター1:山田真一「「公」としての文化芸術活動を成功させる条件とは」
 「指定管理者制度」の実態に関するレポート。民間の力を活用してサーヴィスの質を上げるはずの制度だったが、実際には、管理者の間で、様々な亀裂が生じている。そもそも文化行政は無駄な建築物が先行しているような状況では成功しにくい。ソフトが先行することこそ成功の第一歩である。

 ソフトに関しては、菊地昭典『ヒトを呼ぶ市民の祭運営術』(学陽書房)あたりを参照してもらってもいいかな。こちらの本については、「市民活動」としての文化の創出に関して興味深い事例が書かれている……って地元じゃないですか!

 ベター2:五百旗頭真、小此木政夫、国分良成、山内昌之、李鍾元「大型座談会 日本外交を語り尽くす」
 日本外交の戦後史に関する座談会。日米同盟やアジア関係についての流れを俯瞰するにはちょうどいい。

 ベター3:茂利勝彦「GARRELY RONZA 出るか?起死回生の一発」
 後ろの犬に大爆笑させていただきました…。

 ベター4:信田さよ子「タイム・トリップの快感?――江原啓之と前世ブームが意味するもの」
 江原啓之氏の「スピリチュアリズム」が初戦は「自己責任論」に過ぎないことを証明してみせている。のみならず、江原氏独特のレトリックのおかしさや、メディア露出の効果など、江原氏の文章や言説に触れる前には是非とも読んでおきたいものである……と言いたいところだけれども、事実誤認もまた多い。本来この内容ならベター1に持ってきてもいいのだが、やはり無視できない。

 それは「アメリカン・ポップ・サイコロジーと自己責任」と小見出しのつけられた箇所における、フェミニズム・カウンセリングやいわゆる「アダルト・チルドレン」ブームに関する記述である。そもそも信田氏は、我が国における「アダルト・チルドレン」ブームの中心人物として活躍してきたはずであり、その点を矢幡洋氏は批判していた(まあ、今ではむしろ矢幡氏の要が信田氏よりもひどくなりつつあるけど…)。それと同時に、「アダルト・チルドレン」に関する誤った理解もまた広めている。この点に関してはどう説明するつもりだろう。

 ベター5:東浩紀「潮流06 情報漏洩とは共存するしかない?」
 「ウィニー」による情報漏出がなぜ今になって(そもそも平成15年には「ウィニー」を媒介したウィルスが報告され、そして改善された)注目されたのか。「情報流出」に関する倫理の構築を求めるという点において、なかなか興味深いものがある。

 ワースト:該当なし

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論壇私論:「論座」平成18年5月号

 ベスト:該当なし
 全体として面白い論考が多かったのだが、取り立ててベストに採り上げるようなものはなかった。

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 ベター1:岡本行夫「欧米知識人の間で高まる「靖国史観」への疑問と懸念」
 対中関係の言論に関して、「中道は」が出づらくなった、ということは、同じ号の宮崎哲弥氏と川端幹人氏の対談(「中吊り倶楽部 宮崎哲弥&川端幹人の週刊誌時評」)でも触れられている。このような認識は岡本氏も共有しているようだ。岡本氏は「是々非々」の立場を堅持する、というが、確かに昨今における日中関係の言説にはこのような立場も有効かもしれない。

 岡本氏の展開する話題は、それ以外にも「戦争責任」の取り方の日本とドイツの違いや、欧米の知識人の日中関係に関する日本への「助言」、いや、むしろ「批判」と呼べるような苦言の存在など、これから先の日中関係を見ていく上では参考になる発言も多く、興味深い。

 ただし…。54ページの最後から55ページのほうの、「広汎性発達障害」に関するアナロジーはどう見ても不適切であろうし、俗流若者論に結びつく可能性も高い。この点はもう少し考慮してほしかったかな。

 ベター2:山田真一「「指定管理者制度」の盲点」
 「指定管理者制度」とは、公的施設(病院、福祉施設、文化施設、さらには公園や道路、下水道まで)の管理・運営に関して、民間のノウハウを取り入れるなどして効率化し、またコスト削減にも役立てようというもの。しかしこの制度の導入に関して、理想とは逆の方向に向かっているというのが現状である。たくさんの企業が視察に来たにもかかわらず実際に管理者の公募に応募してきた会社はたった4社だったり、選定過程の不透明さに議会が紛糾したり、応募条件から「運営実績」を外したり。問題だらけのこの制度、まずなすべきことは情報公開である。

 ベター3:飯尾潤「潮流06 ポスト小泉「若さ」の実質を問おう」
 《若いというだけで評価されるのは、「敵の敵だから、味方だ」といった具合で、打ち倒すべき旧来型政治から離れているから評価されているに過ぎない》至言。そして《若さを支えるチームワークにもっと過信が向けられてもよい》というのもまた至言。単純な「若さ」礼賛と、その裏返しに過ぎぬ「若さ故の未熟さ」批判の繰り返しでは、何も生み出さないのである。

 ベター4:高木浩光「あまりにも情報流出のリスクが大きい」
 「ウィニー問題」に関する基本的な認識を得るためには打ってつけ。新聞の下手な解説記事よりわかりやすい。

 ベター5:松本健一「「アジアン・コモン・ハウス」の可能性」
 現代のナショナリズムは、まず、軍事力を主体とする「テリトリー・ゲーム」で、戦後になると経済力を主体とする「ウェルス・ゲーム」となり、現在はグローバル化する社会の中で自らの存在感を示すための「アイデンティティー・ゲーム」となった。その中においていかに「アジア的価値観」を見いだしていくか。そのためには先の大戦の反省に裏打ちされた歴史認識を持つとともに、「自分の国は自分で守る」気概を表明するために憲法を改正する必要がある、という。

 「東アジア共同体」に関していうと、名著である『中村屋のボース』(白水社)を書いた中島岳志氏(日本学術振興会特別研究員)もまた、歴史と向き合うことの重要性を主張するとともに、「思想としてのアジア」というか第二正面から向き合う必要がある、と訴えている(「その先の東アジア共同体へ」(「論座」平成18年3月号))。また中島氏はインドに関しても警鐘を鳴らしているが(http://indo.sub.jp/nakajima/?itemid=572)、松本氏はインドについてはいかなる考えを持っているのだろうか。

 ワースト1:戸矢理衣奈「潮流06 リセット力」
 戸矢氏2回目の「下流社会」論。前回(「論座」平成18年2月号)での問題点が克服されていないどころか、さらに戸矢氏の青少年に対する認識が狭隘になっているのは痛い。浅野智彦(編)『検証・若者の変貌』(勁草書房)、本田由紀、他『「ニート」って言うな!』(光文社新書)でも読んで出直していただきたい。

 ワースト2:山口二郎「右派論壇の不毛を問う」
 論旨にほとんど異論はないのだけれども、最後のほうで、速水敏彦『他人を見下す若者たち』(講談社現代新書)なる若年層バッシング本を絶賛しているのはどうよ?山口氏によれば――まあいわゆる左派が若年層を批判する場合でも同様のレトリックが用いられるけれども――、主としてネット上に右派的言論がはびこる理由は、国際的なわが国の地位の相対的な低下で失われる自己肯定感を得たいからだとさ。はっきり言う、そういうことはまず若者論に言ってくれ!

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2006年3月28日 (火)

論壇私論:「論座」平成18年4月号

 ベスト:五十嵐太郎「日本橋の首都高は醜いのか」
 小泉純一郎首相は、平成17年末、日本橋の首都高を移設し、日本橋周辺の「景観」を取り戻す、という目的での有識者懇談会を発足させた。それに呼応して、例えば朝日新聞の投書欄などでもその動きに賛同し、あるいは現在の「日本橋の首都高」を高度経済成長の「負の遺産」――つまり、戦後日本はこんなに醜いものを作ってきたのだ、という意味での――として保存すべきだ、という意見が出るようになった。とはいえ日本橋周辺の「景観」に関するアイデアコンペは平成16年から始まっていた。また、平成15年7月に国土交通省が発表した「美しい国づくり政策大綱」においては、例えば《美しさは心のあり様とも深く結びついている。私達は、社会資本の整備を目的でなく手段であることをはっきり認識していたか?、量的充足を追及するあまり、質の面でおろそかな部分がなかったか?、……国土交通省は、この国を魅力ある国にするために、……行政の方向を美しい国づくりに向けて大きく舵を切ることとした》などと高らかにうたわれている。

 しかし、このような言説を易々と受け入れていいものであろうか。五十嵐太郎氏(東北大学助教授)はそこに疑問を挟む。曰く、《なんの恥じらいもなく、「美しい」と堂々と言い切ってしまう言説に、筆者は真っ先に気持ち悪さを感じてしまう。例えば、正義を掲げて戦争を続ける国家、健康を賞賛しながら病気の概念を拡大していく医療行政、あるいは安全な社会をめざして監視と排除に向かう社会と似ていないだろうか》と。しかし五十嵐氏の疑問は、このような心情的なものに終わるものではない。

 第一に、これは隠れたハコモノ行政ではないか、ということ。また、電線さえなくなれば街が美しくなるということは一様に言えないように、日本橋をそのまま撤去しても街が美しくなるのも安易な考えに過ぎない。ある記号的な存在だけを排除しても、景観がよくなるはずはない。そもそもこの「日本橋の首都高」の撤去案は、周辺の高層ビルについて全く考慮されていない。第二に、いつの時代のどのような風景をもってして「本来の日本橋」というのか。そもそも現在の日本橋は明治46年(1911年)に竣工された、ヨーロッパの様式を模倣したものである。そして、首都高は本当に醜いのだろうか。そもそも撤去・移設論は、「日本橋の首都高は醜い」という意見ばかりが先行して、本当に醜いのか、という観点に関しては問われない。

 私は実を言うと昨年の秋頃に、日本橋を見に行ったことがある。首都高から出る騒音が気になったけれども、今思ってみれば、なるほど五十嵐氏の意見はもっともで、首都高だけを問題化しても景観が良くなるわけではない。景観というものは、単に「醜い景観」をバッシングして、「醜い景観」を生み出す(とされる)「記号」だけを排除すればいいというわけではない。この文章を読んで、私は大学2年のときに受けた環境学の授業での小さな衝撃を思い出した。「美しい景観」と「醜い景観」をテーマにレポートを書いてこい、というテーマで、「美しい景観」として電線の張り巡らされた景観を採り上げたレポートが授業担当の教授によって読まれたときである。そのレポートに曰く、このような乱雑な景観にこそ美しさが存在する可能性もある、と。当時ある種の「景観幻想」に見舞われていた私にとっては、深く考えざるを得ないものだった。

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 ベター1:芹沢一也「犯罪季評 ホラーハウス社会を読む・case1 「誰が殺したのか」から「どうやって守るか」へ――宮崎勤事件の〈前〉と〈後〉」
 『狂気と犯罪』『ホラーハウス社会』(ともに講談社+α新書)の著者、芹沢一也氏(京都造形芸術大学非常勤講師)による注目の新連載!3ヶ月に1度掲載されるようだ。

 第1回では「理解できない」犯罪を消費する社会を分析。いわゆる「宮崎勤事件」の際は、確かにその「不可解さ」が話題となり、事件が――過去にも「不可解な」事件の例はいくらでもあったにもかかわらず――時代を象徴するかのごとき語り口がなされたが、それは好奇心の領域にとどまっていた。しかし平成9年の「酒鬼薔薇聖斗」事件以降、犯罪者どころか少年全体が「怪物」であるかのように捉えられ、性犯罪者に関してもセキュリティーを強化するための脅威として用いられるようになった。

 ベター2:東浩紀「潮流06 防犯カメラは住宅地に必要なのか」
 住宅地への防犯カメラの導入に批判する論考。特に監視の目的に関する議論は必読だろう。例えば《空港や地下鉄、繁華街などで監視が必要なのは、そこが誰にでも開かれた匿名的な空間で、通行人の招待をいちいち確認できない》。つまりここでは空間の公共性を保つために監視が導入されており、またそのようになされるべきである。それに対し住宅地や通学路は、必ずしも完全に開放された公共空間とは言いがたく、そのような空間で監視を導入してしまうと、《不気味な人間を許容するどころか、むしろ逆の傾向を強めかねない》ことになる。

 《電子的な監視は、記録や検索可能性の点で、人間の監視よりもはるかに強力である。だからこそ、その導入には理念が求められる》というメッセージは重い。

 ベター3:森千香子「悪夢の「癒し」に代わるもの」
 現在ブームになっている「癒し」とは結局のところ、苦痛から一時的に逃亡するだけのもの、すなわち「問題回避」に過ぎない。著者はその象徴として「女性専用車両」を挙げる――《「女性専用車両」という発想が、女性を「潜在的に痴漢になりうる男性」から隔離しただけ》という指摘には大いに賛同できるが、著者の男性に対するいささか嫌悪的な見方が少々問題ではないか――が、それよりも最後の2ページでなされる議論のほうが興味深い。曰く、

 「消極的快諾」を通して、上から押し付けられた規範を次第に内面化し、結果的に自分のものとしてしまうこと。大メディアが発信する言説、つまり「支配者側」の言説を、知らず知らずのうちに客観的な事実や真実と同一視してしまうこと。「現状」が今の状態以外でもありうるかもしれない、つまり「もしかしたら別の可能性もある」と問いをたてること事態を封印し、「運命」として引き受け、回避不可能な「地震」のごとく受け入れてしまうこと。このように「現状」を「変更不可能である」と自明視する姿勢の根底には、社会的事象を自然的事象のように扱う社会認識がある。
 そして、痛みの原因を突きとめるのを放棄した人々は、一時的に痛みを緩和し、忘れ、慰められることをひたすら臨むようになる。すなわち日本社会に繁殖し続ける「癒し」とは、私たちの苦痛の「根源」をすっぽりと覆い隠す「優しさ」の別称なのである。この意味での「優しさ」は、支配の暴力を覆い隠し、問題の所在を見えにくくして、結果的には支配的価値観に同化する「沈黙」をうながす装置として機能するかのようだ。

 俗流若者論とか、そうだよね。

 ベター4:貴戸理恵「「生きづらい私」とつながる「生きづらい誰か」」
 『「ニート」って言うな!』の私の文章を読んだ人はわかると思うが、件の本の冒頭において私は自らの「生きづらさ」の体験――高校1年の時分、自分が犯罪者として見られているのではないか、と恐怖に脅えていたこと――を語っている。これは明らかに「当事者の語り」である。この論考においてはそのような「当事者の語り」の限界と可能性が仔細に論じられている。結論部分とそれに近い部分の、《一人称単数の「私の語り」》が《他の誰かの生きづらさ》とつながっていくことの可能性が述べられた部分は興味深い。

 ベター5:宮崎哲弥、川端幹人「中吊り倶楽部・第6談 ケンカの覚悟と真の「品格」を求む!」
 「国家の品格」論に対する批判は見事。《頭の悪い伝統主義者や事象「愛国」政治化がまたぞろ、この種の事件を悪用して言論統制や復古調教育を唱導している》(宮崎)、《彼(筆者注:藤原正彦氏)が西洋化によって失われつつあると嘆く「国柄」だって、江戸時代に本居宣長から「日本古来の思想をゆがめた」と避難された外来思想の儒教にもとづく》(川端)。あと、いわゆる「一夫多妻男」が何度も面白おかしく採り上げられる状況って、確かに嫌気がさすよね。

 ワースト:荷宮和子「「象徴」などいらない」(特集「女性のための皇室お世継ぎ問題」)
 いつも思うけれど、荷宮氏の文章というものは他人を見下すことに目的がおかれているという気がしてならない。この文章も自分を高みにおいた単なる愚痴でしかない。あと、ここは「論座」なのだから、《(藁)》みたいな2ch的表現はやめてくれ!

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2006年2月27日 (月)

論壇私論:「論座」平成18年3月号

 ベスト:鈴木邦男「愛国者はそんなに偉いのか」
 元々右翼・民族派である筆者による、現代にはびこる自称「愛国者」に対する感情的批判を今回のベストに据えることとする。

 本書は基本的には筆者が出会った感動的な師、故・葦津珍彦氏に関する回想録である。鈴木氏は、葦津氏を《情緒纏綿とした「日本精神」に逃げ込まない。また、「戦後民主主義」を頭から否定する論客が多い中にあって、先生は民主主義を認め、その上で論を進めていた》(46ページ)と評し、また論理的な文章に命を賭けることにより、右翼のみならず左翼からも評価され、《橋川文三、鶴見俊輔なども立場を超えて認め》(46ページ)る存在であったという。また、過去、葦津氏は、昭和12年に上海海戦を視察した報告書で「この日本軍を皇軍と僭称したら、天誅は必ず降りる」と報告し、昭和15年には日独伊三国同盟締結を批判した。葦津氏の他にも、右翼の中には軍部を批判し、打倒しようとした人は存在していた。

 そのほかにも鈴木氏は、自らが出会った右翼の人たちがいかに輝いていたか、ということを叙述する。それらの人たちの多くは、二・二六事件の少し前の事件(神兵隊事件)の当事者であり、戦後の右翼運動の良質な部分はこの人たちが作ったといっても過言ではない、と鈴木氏は指摘する。

 そんな鈴木氏にとって、今まさに隆盛している《「にわか右翼」の教授や若者たちの言動には関心がない》(49ページ)ようだ。かつてとは違い、今「憲法改正」だとか「愛国心」だとか叫んでいる人たちは、みな安全圏内で語っている。この鈴木氏の指摘は、私の若者論の検証と実に合致する。私の蒐集している若者論のうち、特に保守系のメディアの多くは「憲法改正」や「愛国心」などを語るが、それらは所詮「若者論」の域を超えず、結局のところ私憤を大層な論議に置き換えているだけだ。

 話を鈴木氏の文章に戻そう。鈴木氏は最後のほうで、現在「愛国者」を僭称している人たちの矜持のなさ、謙虚さの欠如、寛容の欠落、そして自らの論理を正当化するための生贄を探すための愚かさを露骨に批判する。現代の自称「愛国者」たちは、それこそ鈴木氏が指摘するように《本当は個人のウップン晴らしをしているだけなのに。本当は本を売りたいだけなのに。本当はただ目立ちたいだけなのに》(51ページ)、と謗られても仕方のない存在なのではないか。

 さすがに右翼に対する評価は甘いと思わざるを得ない。それでも、この文章で、人との出会いの重要性を痛感させられるとともに、現代の自称「愛国者」(これは右派に限らず、左派にも存在しているのである)の浅薄さを考える上で重要な提起だ、とも思った。

――――――――――――――――――――

 ベター1:茂利勝彦「GALLERY RONZA V.I.C(Very Important Child)」
 「論座」がリニューアルした平成17年10月号から、イラストレーターの茂利氏が巻頭で時事イラストを書いているのだが、今回のは個人的に大ヒットだった。構図に関しては雑誌を確認していただきたいのだが、これほど大量のSPに囲まれた子供でも、家に帰れば、あるいは学校に行けば結局無防備になるんだろうか?

 ベター2:中川一徳「堀江貴文という「鏡」が映すフジテレビの危うさ」
 私は元々堀江貴文氏は好きではなかったけれども、この記事を読んで堀江バッシングに蠢動するマスコミの不可解さを身にしみて感じるようになった。というのも、ここで採り上げられているのはフジテレビだが、堀江被告がニッポン放送株を取得したとき、フジテレビには「ライブドアの過去を洗え」という社命が飛んだ。しかし当時はフジテレビもまた、ライブドアと同様の「グレーゾーン」を歩んでいたのである。

 ベター3:アレキサンダー・エバンス「マドラサは本当に脅威なのか」(「FOREIGN AFFAIRS」)
 マドラサとはイスラーム世界の宗教教育機関であり、1980年代のソビエトのアフガニスタン侵攻以降からこのマドラサこそがテロリストの泉源だ、と糾弾された。しかし実際にはマドラサは多くの貧困な子供たちに社会サーヴィスを提供しており、「テロリストの泉源」という見方は余りに一方的だ、と批判する。

 ベター4:斎藤兆史「小学校に英語はいらない!」
 小学校における英語教育の推進派の主張は、英語教育導入の意義は「子供の成長」「国際理解教育」「子供の個の確立」等といった、抽象的な教育効果なのだそうな。小学校における英語教育を教科化すると、結局「英会話ごっこ」が増えるだけだとか、中等教育における基礎教育を充実させよとか、意欲のある若い人たちが英語学習のためだけに高い金を出して留学しなくても済むようにせよ、という主張には納得。

 ベター5:宮崎哲弥、川端幹人「中吊り倶楽部・第5談 お友達が逮捕?」
 あ、やっぱり「週刊文春」平成18年12月8日号の広島県女児殺害事件に関する記事はワースト1でしたか。あと江原啓之氏の語っていることが単なる世俗道徳でしかない、という指摘には激しく同意。

 ワースト:サラ・E・マンデルソン、セオドア・P・ガーバー「ロシアの若者の歴史認識を問う」(「FOREIGN AFFAIRS」)
 曰く、ロシアの若年層の13%は、スターリンが今甦り、大統領選挙に出馬すれば、スターリンに投票する(かもしれない)んだとさ。ただ、30代以上のロシア人は、30%がスターリンに投票する(かもしれない)ようだ。調査に関する信憑性は少々突っ込みたくなるところもあるが、このような外国の若者論が読めるというのは、米誌と提携している「論座」の強みということか。我が国において(「スターリン」を「東条英機」に置き換えて、だが)同様の結果が出たら、間違いなく扇情的な記事が出るだろうなあ。特に朝日新聞とか。

 30代以上の人のほうがスターリンに対する支持率が高いのに若年層ばかり問題化したりとか、スターリン「支持」に関しては「絶対に」「あるいは」「おそらく」を合計した値を出しているのに対し、スターリン「不支持」に関しては「絶対に」だけの値を提示する(ちなみに「絶対に」は46%、「おそらく」は21%。あわせて67%、全体の3分の2)という不公平な比較もあるし、一部の若年の考え方をさも世代の代表であるかのごとく捉えたりとか、論調は我が国の俗流若者論とあまり変わらない。特に結びのこの一文には吹いてしまった。

 モスクワ集団のある大学生は「サハロフの事をよく知っているか」という問いに、深く考え込んだ挙句、「サハロフ?それがどこの場所か分からない」と答えた。彼の反応がロシアの若者に典型的なものだとすれば、彼の国は非常に深刻な問題を抱え込んでいることになる。

 《典型的なものだとすれば》、って、あんた…。

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2006年2月 5日 (日)

論壇私論:「世界」平成18年2月号

 ベスト:二神能基、森永卓郎「一揆か、逃散か」(司会:山本賢)
 若年層を過剰に「病理」視するという態度は、果たして正しいのだろうか?もちろん、このような問いかけは、「今時の若者」は職業観を持っていなくてだらしのない連中ばかりだから徴兵制とかそれに近い形の訓練をさせるべきだ、という人たちにも当てはまるのだが、「世界」平成18年2月号の特集「現代日本の“気分”」を貫くコンセプトにも当てはまるようにも見える。

 そんな特集の中にあって、一つの光となった記事があった。NPO法人「ニュースタート事務局」代表の二神能基氏と、エコノミストの森永卓郎氏の対談「一揆か、逃散か」である。その中でも、特に二神氏の発言にはかなり挑戦的で、なおかつ若者論の無責任な言説とは一線を画した、希望に満ちた内容が目立った。

 二神氏は96ページにおいて「スローワーク」という概念を用いている。「スローワーク」とは、二神氏によれば、《自分らしく働いて自分らしい世界をつくり、スローライフを楽しむ》(96ページ)という生き方だそうだ。もちろんこれは《格差ではなく、「選択肢」の問題》(96ページ)であるが。要するに二神氏の望んでいるのは、旧来型の職業観と「スローワーク」の共存である。

 更に二神氏の構想は一つのコミュニティのレヴェルまで広がる。

二神 僕はそこで「雑居福祉村」という構想をうち出しているわけです。子どもから老人まで多世代の人たちがお互いにパラサイトし合いながら楽しく一緒に暮らす新しい街、新しい村をつくろうとしていて、いま全国で取り組みが始まっています。(略)

 お国に期待できなくなったら、お互いに支えあう自衛の仕組みをつくらざるを得ないというのがNPOとしての「ニュースタート事務局」の考え方です。団塊の世代なんかに話すと、彼らは上昇志向が強いから、何か素晴らしいユートピアをつくるのか、といった目で見られますが、そんな難しいことはできません(笑)。

 このような構想は、まさしく二神氏のこだわっている「もう一つの日本」というイメージにつながるのだろう。ある意味では、このようなコミュニティの創造こそが、グローバルな資本主義に抗う平和的な手段の一つなのかもしれない。

 しかしこのような構想が本当に身をもつのかというと微妙である。現にこの対談の中で森永氏は、例えば《どうも金の権力を振り回す人を野放しにする、いやむしろ勢いづけるような政策ばっかり国はやっているじゃないですか》(99~100ページ)などと苦言を呈している。ただ、森永氏も二神氏も、国家ではなくむしろコミュニティに可能性を見出し、希望を見出そうとしている。

 そのほかにも、この対談においては、既存の若者論に対する真っ当な批判も多くある。《おっさん連中から自立しろ、自立しろ、といわれるけれど、その発想が今の息苦しい日本をつくったんじゃないの?という疑問から発している》(二神氏、102ページ)正しい!《「君たちは問題だから再教育してあげますよ」じゃなくて「いま、日本はいろいろな問題で困っているんだ。君たちの力を借りたい」と呼びかければ、若者たちはいっぱい集まってきたと思うんです。発想の転換が必要です。なにかというと教育が悪い、家庭が悪いといいますが、そういう問題ではない。視点を逆転させれば、彼らは非情に貴重な人材なんですよ》(二神氏、102ページ)その通り!

 ただ、これほどまでに質のいい対談であるだけに、《いまの若者は、社会を見る力とか、あるいは社会は変えられるものだといった認識そのものがない。……それは核家族の中で親だけに大事に育てられた彼らの「社会力」の弱さのせいだと思います》(二神氏、98ページ)という物言いはやめて欲しかった。

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 ベター1:矢作弘、服部正弘「市場略奪型ショッピングセンターの規制を」
 昨年9月、久しぶりに盛岡に行ったとき、東北自動車道の盛岡インターチェンジの近くにジャスコがいつの間にか立っていて、似合わねえなぁと思ったのだが、一般に我が国の土地利用規制に関しては、都市の中心ほど規制が厳格で、逆に郊外は甘い。特に幹線道路沿いの土地はかなり甘く、それが種々のロードサイドビジネスの乱立を引き起こしていると考えられる。そんな中、福島県で、「福島県商業まちづくり条例」なる、郊外における大型店出典を規制した条例が制定された。

 現在までの土地利用計画が、果たして人口減少時代にふさわしいのか、という論争は、論壇においてももっとなされてもいいだろう。その点において、この論考は、一つのたたき台となる。

 蛇足だけれども、70ページにおける、《地方で多発する家族虐待/幼児虐殺などの凶悪事件と郊外型SC開発との間に、強い相関関係があることをルポルタージュした本も出ている》というくだりだが、それなんて三浦展『ファスト風土化する日本』(洋泉社新書y)?この本、取材も分析も余りに杜撰すぎて、話にならない本なんですけど…(詳しくは「三浦展研究・前編 ~郊外化と少年犯罪の関係は立証されたか~」を参照されたし)。

 ベター2:鈴木宗男、山口二郎「敗者復活の政治を!」
 それにしても最近の鈴木宗男氏の株の上がりようはすごいよなあ。それはさておき、その鈴木氏が始めた地方政党「新党大地」。対談の前半部分は、鈴木氏の「地方政党」に対する希望が述べられており、興味深い。具体的に言うと《今後はイデオロギーのぶつかり合いよりも、その地域の抱える問題や価値観、あるいは手法の違いが焦点になってくるのではないでしょうか。ですから他にも地域政党は出てきて欲しいし、出てくるべきだと思います》(48ページ)というもの。地方への求心力を失ってしまった小泉自民党の現状にあって、地方政党は果たしてどのような役割を果たすのか。

 ベター3:大澤真幸「政治的思想空間の現在〈前篇〉」
 「多文化主義」に関する論考。〈前篇〉と称されているこの論考においては、多文化主義がグローバル資本主義に極めて適合的であることや、あるいは「物語る権利」への擁護につながること、多様な宗教や生活様式の共存は「私的な趣味のようなものと見なした上で」許容されること、などといった多文化主義に対する批判的考察が成されている。後篇に期待したい。

 ベター4:安田浩一「生コン労組はなぜ弾圧されたか」
 通常に比して水の比率が多いコンクリートを「シャブコン」という。このようなコンクリートは、通常に比して極めて強度が低く、簡単に壊れてしまう。労組がこれの使用を告発したが、この連帯労組に対しては弾圧が加えられた。建設現場における生コン業者の立ち居地の低さなど、構造的な問題を浮き彫りにする。所謂「姉歯問題」と絡んで読んでおきたい。

 ベター5:五十嵐敬喜「世界の潮 耐震強度偽装事件――問われる民間建築確認」
 我が国には元から違反建築物が多く、建築行政は極めて杜撰である。阪神大震災においてもそれが浮き彫りとなった。地震によってそれが浮き彫りとなり、平成10年に建築基準法が改正されて、役所の審査と民間の審査が並立するような独特の検査制度ができる。それが所謂「姉歯事件」における手抜きを行政が確認できなかったと同時に、ここで新設され、手抜きを防止する切り札としての「昼間検査」も役割を起こすことは無かった。

 背景には建設不況があり、「姉歯事件」は「氷山の一角」に過ぎない。のみならず、これは「リフォーム詐欺」とも絡む問題である。

 ワースト:土井隆義「キャラ社会の構造」
 土井氏の『〈非行少年〉の消滅』(信山社)を読んだときは、その論理に時々反撥しながらも土井氏の展開する議論にリアリズムを感じていたのだが、今回はいただけない。分析がきわめて杜撰で表層的、なおかつ冷笑的なのである。とりわけ《若い世代を中心とする有権者たちは、大衆娯楽作品を読むのとほとんど同じ感覚で、この「小泉劇場」を味わい「萌え」ていたのではないだろうか》(114ページ)というくだりに関しては、その「小泉劇場」なるものを演出したマスコミや、あるいは政治的選択肢の乏しさは無視ですか、と疑ってしまう。《自分の人生の行方とは関係ないのだから心置きなくゲームに興じることができるし、もしそうなら権力に暴走してもらったほうがむしろ気分も盛り上がるというものである。これこそが、「下流」に位置するとされる若者たちが「小泉劇場」に期待し、セレブ候補者たちに送ったエールの意味である》(117ページ)というのもほとんど暴論。だったら若年層をひたすら病理視し、危険視する若者論という名のカーニヴァルも批判せよ。そもそも現状肯定的な傾向とはそんなに危険なのか?ベストに取り上げた二神能基氏と森永卓郎氏の対談でも読んで出直すべし。

 ただし《獲得的属性よりも生得的属性に重きを置いた宿命主義的な人生観が浸透しつつある》(115ページ)という危惧にだけは同意する。これは最近横行している(若者論としての)ナショナリズムやスピリチュアリズムを考える上で避けては通れない問題だ。

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2006年1月28日 (土)

論壇私論:「論座」平成18年2月号

 ベスト:芹沢一也「「子どもを守れ」という快楽――不安にとりつかれた社会で」
 現在の我が国の社会は、極めて犯罪に「弱い」社会なのではないか。

 そんなはずはない、我々は犯罪に対しては十分に防犯を強化している、しかし犯罪者が凶悪化しているからそう見えるだけだ、と反問されるかもしれない。

 だが、私がここで問いかけたいのは、犯罪に対する「対応」である。我が国では、例えば青少年による凶悪犯罪が起こると――いや、時には微罪であっても――マスコミが大々的に採り上げ、「「今時の若者」は危険だ」「「安全神話」は崩壊した」と煽り立てる。最近ではそのような扇動言説が政治の現場にも波及し始め、「若者の人間力を高める国民運動」(厚生労働省の管轄)やら「こころを育む総合フォーラム」(主宰者は元文相の遠山敦子氏)などという、明らかに世間で流布している――しかし多くの専門家によってとっくに論破されている――俗流若者論の政治的正当性を誇示する目的で行なわれているとしか思えないような政治的な動きが生まれている。

 また、つい先日(平成18年1月17日)、昭和63年から平成元年に起きた幼女殺害事件の上告審が棄却され、宮崎勤被告に死刑が確定された。それをめぐる言説――上告審棄却の前に行なわれたものも含めて――の中にも、徒にサブカルチュアを敵視し、規制しろだとか、我が国は「宮崎的人間」が増えてしまった、などと、我が国において幼子は見知らぬロリコンよりも親に殺されてしまうケースのほうが圧倒的に多いことを無視して、自分の「理解できない」ものに対する不安を煽っていた。とりあえず、作家の高村薫氏と、ジャーナリストの大谷昭宏氏は、1年ほど政治的発言を自粛すべきだろう。

 我が国は、かくも犯罪に対しては「弱い」のだ。犯罪が起こっても、不安にせきたてられることしか知らない。冷静に事実を検証することは決してない。いくら防犯を強化したとしても、人々の――厳密にはマスコミの、だが――不安は消えるばかりか、逆に増幅されているのだ。また、若年層やロリコンによる凶悪犯罪は過剰に煽り立てるのに、一方では親が子供を殺すケースには極めて無頓着だ。「深夜のシマネコblog」の赤木智弘氏がそのような事例を集中して採り上げようとしているが、これらの事件が、決して「我々に対する不安」として言説化されることなど、決してない。

 なぜ、このような状況が生まれているのか。それは、我が国において、不安に扇動されることが、ある種の「快楽」になっているからではないか――。

 このような状況下にあって、「論座」前号に続き、今号も、京都造形大学非常勤講師・芹沢一也氏の論考をベストに採り上げる。

 朝日新聞記者の石塚知子氏が、「過剰防犯で窮屈な人々」(「AERA」平成14年3月18日号)なる記事で、「防犯」の為にセキュリティを強化する人が、かえって不安に陥ってしまっていることを論じている。その2年後、東北大学助教授の五十嵐太郎氏は、著書『過防備都市』(中公新書ラクレ)において、昨今の都市の変遷からセキュリティ・タウン化していく我が国の姿を描き出した。そして五十嵐氏の仕事から更に1年半経った現在、そのような「恐怖と治安のスパイラル」は、社会全体のものになっている――殺害される小学生の数は、ここ30年で最低レヴェルにあるのに。

 本稿の白眉は最後の2ページだ。それまでは我が国における「恐怖と治安のスパイラル」が語られるが、44ページ3段目において、芹沢氏は以下のように問いかける。

 問題はさらにその奥にある。それでもやはり治安への意思がやまないのはなぜなのだろうか。それは、人びとのあいだにある種、「快楽」のようなものが発生しているからなのではないか。

 芹沢氏が掲げるのは、例えば《蕎麦屋や寿司屋の出前持ちがパトロール隊をつくり地域の安全に貢献しようとしている》事例である。ここから《警察的な視点でもって街を監視することの快楽》を芹沢氏は見出す。また、それ以外の種々の活動から《地域活動に参加している快楽》も見出される。これらに共通している感情は、《ひとつの敵を前にして、一体感を感じるという快楽》ということができよう。

 しかし、それらの状況が指し示すものは何か。《快楽と不安とによって、人々がもろ手を挙げて治安管理に突き進むとき、失われるものが自由だとしたならば、それは余りにも大きな代償ではないか。そして、わたしたちが手にするのが安全や安心どころか、ただ団結し恐れあう仲間たちの一体感だけだとしたら、そこに何の意味があるというのか》(45ページ)。

 我が国において進行している「排除」のメカニズム――例えばオタクバッシングや、バックラッシュ、「下流社会」論など――は、ひとえに「この社会を作り上げてきた世代」――これもまた虚妄で、実際には政治やマスコミにおいて声の大きい人――の正義のみが認められるべき正義であり、人々はその御旗の下に集わなければいけない、という一極主義において支えられているようにも見える(残念ながら、今号の「論座」にもそのような一極主義を支持するような論考があった)。そのような「正義」を共有できない人は、精神をすり減らしてまで彼らに迎合せねばならぬのか。

 芹沢氏は、最近『ホラーハウス社会』(講談社+α新書)という本を出した。これもチェックすべき本であろう。

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 ベター1:東浩紀「潮流06 95年以降の日本社会論を発信せよ」
 米紙「ニューヨークタイムズ」で、「嫌韓流」がトップを飾るようになった。そんな状況下において、《アメリカでは、日本でいま、ポップカルチャー論やネットコミュニティー論や若者論が、社会学や現代思想と一体になって独特の言説空間を作り上げようとしていること、それそのものが知られていない》《日本のポップカルチャーは易々と国境を超え、言説もまたネットを通してグローバルに流通している》。今や外国に我が国の社会論を伝える試みが必要という論説には納得。ただし《嫌韓が広がったのは、若者が自信がなく、寂しいからなのだ》(24ページ2段目)というのは、ある意味では若年層に対する蔑視だよなあ。「繋がりの自己目的化」という命題は、むしろ「芹沢一也」的な文脈で捉えたほうがいいのではないかと。

 ベター2:渡邉恒雄、若宮啓文「靖国を語る、外交を語る」(司会:薬師寺克行)
 まさかこのような対談が見られるなんて思ってもいなかった。さすがは「論座」である(笑)。

 閑話休題、最近になって、読売新聞は、「戦争責任」に関する連続特集を組むようになったり、あるいは国立追悼施設の新設を主張したりと、こと戦争責任や「靖国問題」に関してはスタンスの揺らぎが見られる。そんな読売の状況を、朝日の論説主幹の若宮啓文氏が読売の主筆の渡邉恒雄氏に問いただす、という企画。渡邉氏は基本的に靖国には反対らしく、中曾根康弘氏の参拝の際にも「自分は参拝に反対だ」と明言したそうだ。戦中派である渡邉氏の、ある意味では「遺言」ともとれるこの対談は貴重である。

 ベター3:ジャン・マリー=ルペン「暴動に参加した若者に非はない。政府にこそ非があるのだ」(聞き手:及川健二)
 フランス極右政党「国民戦線」の代表に聞いたフランスの暴動について。これも貴重なインタヴューである。暴動に参加した若年層を社会の枠外におくことを許してきた政府に非がある、彼らに個人としての責任はない、普遍的な字kどう主義を優先するのではなく地域や国の特殊性にも目を向けるべき、自由な経済活動は擁護するが「鶏小屋における狼の自由」は決して認めない、など、意外にもリベラルな意見が目立った。

 ベター4:逢坂巌「首相はテレビをこう「利用」した」
 我が国における「テレポリティクス」の戦後史。首相がテレビ的だといわれたのは池田勇人時代からで、田中角栄、三木武夫、海部俊樹、宮沢喜一の各氏といった歴代首相や、平成元年の「土井ブーム」(「土井」とは当時社会党の土井たか子氏のこと)においてもテレビは「利用」されてきた。そして小泉純一郎テレポリティクスの「新しさ」は、むしろ政治状況や社会状況の変化と捉えられるべきだとする。

 ベター5:横田由美子「あなたはいま、幸せですか――江原啓之に魅せられた女たち」
 個人的に最大のツボだったのが、結び(237ページ)の《「はい。私はとっても幸せになりました」と、真っすぐに私(筆者注:横田氏)を見て答えた女性は、不思議とひとりもいなかった》というくだり。別に私はそんな「スピリチュアル・カウンセリング」如きで幸せになれるはずなどねえんだよ、と唾を吐き掛けたいわけではないが、ほとんどメディアの寵児である江原氏の「怪しさ」について触れたことは評価できる。

 ワースト1:今井隆志「日本発の性・暴力表現は通用しない」
 我が国におけるゲーム規制論議を外交問題に発展させたようなもの。具体的に言うと、「保護者の価値観とのミスマッチ」や「ヘンタイ・アニメ」の蔓延を嘆いたりとか、我が国のアニメが「見たくない・見せたくない権利」を侵害しているとか…。ほとんどが憶測と感情論で、説得力に乏しい。

 ワースト2:戸矢理衣奈「時評06 自由と規律」
 これも「何か勘違いしている人」の一例だなあ。「下流社会」論を信用して至りとか、どういうわけかスピリチュアリズムやら「日本」への回帰やらを礼賛したりとか。これらの行為が、結局のところ「ナショナリズムの「自分探し」」に過ぎないことをどうして気づこうとしないんだ…。

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2005年12月30日 (金)

論壇私論:「中央公論」平成18年1月号

 ベスト:藤原智美「時評2006 少年の「心の闇」は科学で分析できるか」

 「中央公論」の巻頭連載コラム「時評」の、平成18年の執筆者は、藤原智美(作家)、茂木健一郎(脳科学者)、池内恵(国際日本文化研究センター助教授)の3氏である。そのうち藤原氏に関しては、「俗流若者論ケースファイル」の第17回第68回で批判していたので、今後の展開が少々不安になっていたのだが、藤原氏が書く最初の「時評2006」である「少年の「心の闇」は科学で分析できるか」という文章は、素直に高く評価していい文章である。タイトルが示すとおり、この文章は、「理解できない」少年犯罪が起こるたびにマスコミにおいて喧伝される「心の闇の解明」なるものが、最近になって心理学や脳科学を巻き込んでしまっている状況を批判しているものだ。

 例えば所謂「酒鬼薔薇聖斗」事件に関して、マスコミがこの犯人の「心の闇」を描き出そうと必死になっていたのに対し、《犯人は、その闇にたいして空虚という言葉を、あたかも挑戦的に対峙させた。闇に光をあててもそこには何もない、とでもいいたかったのだろうか。彼はみずからを「空虚な存在」と規定した》。しかし社会とマスコミは、その「心」に何かしらの「意味」を求めようとする。「理解できない」犯罪が起こったときに、マスコミが必死になって「心の闇」なるものを「解明」私用とすることは、最近の犯罪報道においてよく見られる光景である。また、藤原氏が述べているように、このような傾向は、犯人が若い世代であるほど顕著である。そしてそこで「利用」されるのが、最近では精神医学や脳科学である。

 心理学や精神医学に関しては、そのいかがわしさが様々なところで取り沙汰されている。例えばかの「宮崎勤事件」の精神鑑定では、複数の専門家が人格障害と統合失調症と多重人格という異なった鑑定結果を出してしまった。また、ロルフ・デーゲン『フロイト先生のウソ』(赤根洋子:訳、文春新書)、村上宣寛『「心理テスト」はウソでした。』(日経BP社)、ローレン・スレイター『心は実験できるか』(岩坂彰:訳、紀伊國屋書店)などという、精神医学、ないし精神医学的な「解釈」に対する批判書が出版され、そこそこの人気を博している状況を見ても、心理学が少しずつではあるが退潮の兆しを見せていることがわかるかもしれない。

 しかし、社会やマスコミの「心の闇」なるものに対する欲望は、最近では脳科学に手を伸ばしつつある。藤原氏が少しだけ触れて批判している「ゲーム脳」理論は、その典型であろう。藤原氏が《数年前からゲーム脳という言葉が流通しているが、それにも専門家のあいだでは多くの疑問の声があがっている。けれど世間的には市民権を得て放置されたままだ》と書いている通り、そのいかがわしさにもかかわらず「ゲーム脳」理論、そしてそれとほぼ同工異曲の理論がまかり通っているのが現状だ。このような「欲望」は、もはや理論の誤謬を衝くことでは解体できないのであろうか。

 更に藤原氏は、自分が「正常」でなくなった瞬間の「心」を語ることに関しても批判的な視座を投げかける。曰く、《私たちにもし心のコアがあるとすれば、それは他者にはうかがい知れないものなのだろう。しかも殺人といった「正常」でない瞬間の、そのときの心を、事後にあたかも設計図を書くように繙くことはほぼ不可能ではないか》と。

 「時評2006」という2ページのコラムに、「心の闇」騒動に深くのめりこんでしまっている人の思考を脱構築させる要素が多く詰まっている。昨今の少年犯罪報道を頻繁に見ていて、それを受け止めている人も、批判的に見ている人も、是非多くの人に読んで欲しい文章である。

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 ベター1:渡邊啓貴「格差と貧困に揺れるヨーロッパ」
 フランスの暴動に関する論考。渡邊氏の論考は、主としてフランスにおける格差と貧困の問題に関して、過去の事例にも触れてフランスの暴動を論じている。フランスでイスラーム移民が社会問題化したのは1970年代のオイルショックで、それが一気に噴出したのが1980年代末の、イスラーム教徒の女子中学生がスカーフをかぶって登校したという理由で退学処分にされた、という事例。

 フランスの移民政策は、1970年ごろの高度経済成長の終焉から外国人や移民に対する管理や取締り政策が採られるようになったが、それ以降はほぼ保護政策が採られてきた。しかしフランスにおけるイスラーム移民に対する社会的排除はいまだに強く、従って今回の暴動を突発的な事例として捉えることも難しい。この論考においては、更にフランスやオランダが欧州憲法条約を批准しなかったことにも触れられており、国際問題を考える上で射程の長い論考。もちろん、我が国も静観してはいられない内容である。

 ちなみに私が少し気になったのが158ページ1段目の、《十一月八日に行われた世論調査では、暴動の原因として「親の監督の不行き届き」を挙げたものが六九%、「大都市郊外での失業・不安定・夢のないこと」は五五%という高い率を示したが、「社会のクズなどのサルコジ発言」は二九%にとどまった》というくだり。社会的な問題を十分にはらんでいる移民の暴動すら「親の監督の不行き届き」に原因を求めてしまう傾向は、決して我が国に特殊なものではないのだなあ。産経新聞の山口昌子記者によれば、シラク大統領もまた「親の責任」を明言したらしいし。

 ベター2:白石隆「東アジア共同体の構築は可能か」
 「日米同盟の強化」は日本の行動の自由を失わせる、という意見と、「東アジア共同体」は中国中心の地域秩序になるのではないか、という意見を検証しつつ、本当に目指すべき東アジア共同体とはどのようなものか、ということを論じた論考。

 最初に触れられているのは、東アジアとEUの違いで、EUが基本条約に調印することによって自国の主権的権限をEUに委譲するのに対し、東アジアのあるべき地域統合とは市場の力によって《気がついてみたら、この地域に事実上の経済統合が始まっていた、そういう地域化を基本的特徴とするもの》ということになる。また、東アジアの経済的統合の動きを加速させたのが、1997年から1998年にかけてのアジア経済危機である。

 中国との付き合い方や東アジア共同体における日米同盟のあり方など、超えなければならない問題にも触れられており、示唆に富む内容なのだが、東アジア共同体の構築が我が国の経済や雇用・労働・社会にもたらす影響が完全に欠落しているのが少々心残りである。

 ベター3:福田ますみ「稀代の鬼教師か、冤罪か」
 平成15年6月に起こった「とされる」、福岡の小学生体罰事件は冤罪ではないか、ということを問いかけるルポルタージュ。そもそもこの体罰事件が大きく知られるようになったのは平成15年6月27日付朝日新聞の報道で、そこから一気に報道が過熱し、「週刊文春」に至っては実名、顔写真、教諭の自宅まで突き止めてしまう報道をしでかした。しかし取材してみると事態はそれほどでもなく、また「目撃証言」とされる児童の発言に関しても、その内容がかなり矛盾しているようである。

 客観的な証拠がほとんどないことにもかかわらず、またそのことがしっかりとわかっているにもかかわらず、体罰が「あったこと」と見なされたことは、マスコミの過剰報道も無縁ではあるまい。象徴的なのは、この記事における、ある児童の発言で、《「あの頃、毎日テレビの中継者が学校に来てたけど、それを教室の窓から同級生と見ていて、『テレビはうそ言ってるね』『大人はうそついてるね』って話してたんだ」》というもの。この文章を見てみる限り、「体罰」という言葉に過剰反応してしまった学校やマスコミの姿が見て取れる。

 ベター4:熊野英生「素人トレーダーの危うい投資生活」
 最近、ネットを利用した新しい投資のスタイルが流行しているらしい。それが「デイトレード」と呼ばれるもので、一日で売買を完結させる、というもの。また、周囲には「デイトレード」の成功例が喧伝し、それもまた多くの人々を「デイトレード」に向かわせる要因となっている。結果として、平成17年9月現在、インターネット取引の口座数は800万口座に迫らんとする勢いで増えている。

 しかし実際に「デイトレード」で成功しているのは極少数だし、トレーダーの用いている手法もまたほとんどがネット掲示板の書き込みやブログの記事などの「口コミ」である。筆者は《伝統的な証券会社からネット証券に不可逆的に顧客が流れる現象だ》《堅いベテラン投資家が若い時期にした失敗の経験を糧にして投資のスキルを磨いた時代とは違うことが起こっている》などと結論付けている。

 しかしどうしても承服できないのが、最後のほうでの「下流社会」論に対する唐突としか言いようのない肩入れである。個人的な懸念を表明するよりも、たとい凡庸でもいいから「成功するのは極少数で、それを夢見て安易に参加するのは危険だし、「絶対に儲かる話」なんてのも眉唾だ」と結論付けたほうが説得力がある気がするのだが…。

 ベター5:松本健一「昭和天皇は「戦争責任」をどうとらえたか」
 題名の通り、昭和天皇が「戦争責任」をどのように捉えていたのか、ということを、発言録から検証したもの。終戦時の「人間宣言」と呼ばれるものは、社会的に定着している考え方が「天皇の神格性の否定」であるのに対し、昭和天皇自身は、政治を自らの手に取り戻そうと意識していたようで、その際に明治維新の「五箇条の御誓文」をわざわざ引き合いに出したことにも現れている。

 また、昭和天皇が靖国神社への参拝をやめた理由として、松本氏は《戦争で死んでいった人びととその戦争で国民に死ぬことを命じたA級戦犯とを、等しく「神」として祀ることへの国民のわだかまり》に対して敏感であったことではないかと結論付けている。

 ワースト:藤原正彦、櫻井よしこ「秀才殺しの教育はもうやめよ」
 単なる言葉遊びだけで複雑な教育問題が解決できるなどという甘い考えが貫き通されているとしか思えない対談。はっきり言ってここで展開されているほとんどが、単なる理想論と使い古された「憂国」でしかない。とりあえず家庭教育を大事にせよ!と喧伝することに関しては、今の状況だと余計に親を追いつめることにしかならないし、また藤原氏と櫻井氏が理想化している家庭教育なるものは一部の上流階級のものなのではないのかという疑念も生まれる。少なくとも「昔は素晴らしいが、今はこんなに駄目だ」という、イメージばかりの議論は単なる言葉遊び、そうでなければ自分は万能だと思っている人の大上段からの押し付けでしかない。

 もちろん、憲法が個人の自立や権利ばかり強調してきたから現在の如き深刻な教育問題が生まれたのだ(櫻井氏、42ページから43ページにかけて)、という俗論や、子供たちの語彙力の不足がひどいといってその証左が近くで聞いたような話だけだったりとか(両氏、45ページ)、「美の存在」やら「何かに跪く心」やら「精神性を尊ぶ風土」やらが失われているから日本は駄目になったのだとか(両氏、46ページ)、香ばしい発言も満載。近く「俗流若者論ケースファイル」で検証してみようか。

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2005年12月10日 (土)

論壇私論:「論座」平成18年1月号

 新シリーズ「論壇私論」を始めます。この企画は、私が購入した総合雑誌及び論壇誌の記事に対して評価(ベスト、ベター1~5、ワースト)及びコメントをつける企画です。

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 ベスト:芹沢一也「なぜ社会は治安を欲望するのか」
 「週刊文春」平成17年12月15日号は、「幼児レイプ本がバカ売れする最新「ロリコン事情」」なる記事を書き、このようなロリコン雑誌が続発する少女を狙った犯罪の温床となっているから規制しろ、と打ち出した。この記事がある特集で採り上げられている、栃木県の女子児童殺傷事件と小児性愛の関係、更には小児性愛とロリコン雑誌の横行の関係が全く明らかになっていないにもかかわらず、だ。

 いつの日からか、我々の社会においては「犯罪から社会を守る」だとか「犯罪から子供を守る」だとかの大義名分の下において、特定の社会階層、あるいは特定の文化階層に所属する人々に対して敵愾心を煽る言説を見かけることが当たり前になってしまった。思えば、平成17年5月から6月にかけて相次いで見られた「ガードレールの金属片」に関する騒動においても、発見当初から多くのコメンテーター――福岡政行氏や弘兼憲史氏など――が、例えばネットを利用した悪質ないたずらであるとか、または「ニート」(若年無業者)の問題と関わっている、だとか、多くの人が思い思いの「プロファイリング」を行なっていた。実際は自動車がガードレールにぶつかったときに車体の一部が剥離してガードレールに残ってしまうことが原因だったのだが…。

 今、我々が目にしているのは、このような「社会的排除」、いや、「村八分」といってもいい事態である。京都造形芸術大学非常勤講師の芹沢一也氏は、「なぜ社会は治安を欲望するのか」という文章において、《「いま排除をめぐって、どのような事態が進行しているのか」》ということを《現在、立てられるべき問い》と掲げている。

 芹沢氏が「排除」の形の一つとして採り上げるのが、平成15年7月に制定し、平成17年7月から施行されている「心神喪失者等医療観察法」である。この法律の施行から早くも4日後に、初めて適用がなされた。ちなみに適用された事件は傷害事件で、東北新幹線の車内で、前の席に座っていた乗客がシートを下げたのに腹を立てて全治1週間程度の怪我を負わせた、というもの。芹沢氏はこの事件の対応に《新しい排除の営み》を見出す。

 なぜか。この事件は傷害事件としては起訴猶予となったが、代わりにこの事件の加害者が前出の「心神喪失者等医療観察法」の適応になったからである。この加害者は、《2カ月ほどの鑑定入院をへて、専門の精神病院に強制入院となった》。要するに、この加害者に、将来犯罪を起こすかもしれない「性格」を有する、という理由で、精神病院に入院することによる「矯正」が行われる運びとなったのである。

 この事件の処理から、芹沢氏は《精神障害者の犯罪は「法」の対象とはならない》こと、さらにこのような、個人の「危険性」を見極めるという判断が犯罪精神医学という学問を基底としており、そのような学問が一つの社会的なステイタスを得たことを問題視している。
 更に、芹沢氏は青少年問題に視野を広げる。ここで問題にされるのは、今年提出されて、8月の衆議院解散で廃案となったが、来年の国会で再提出される予定の改正少年法である。ここで芹沢氏は「虞犯少年」に関して警察に調査権限を与えることを問題視する。改正少年法においては、ある少年に関して虞犯の疑いがある場合は、警察は学校を含む団体への照会ができるようになる。このことが、《些細な不良行為をする少年が警察の監視下におかれ、迅速に家裁なり児童相談所也に送り込めるシステム》を創出する。触法精神障害者の犯罪だけでなく、少年犯罪もまた、法の外部で処理される、という自体が生じようとしているのである。ちなみにこのような事態を支持する学問として環境犯罪学が槍玉に上がっている(ちなみに私の環境犯罪学に関する立場は、建築や街路の監視性と領域性を高めることが犯罪を少なくする、ということに関しては支持している)。

 現実の法律において、このような事態が生じた、あるいは生じようとしていることの背景には、90年代以降、少年や精神障害者が社会全体の「敵」としてみなされるようになったことがある。このような構図を決定付けたのが、平成9年の「酒鬼薔薇聖斗」事件、及び平成13年の大阪教育大学付属池田小学校事件である。しかし客観的には少年及び精神障害者による犯罪は多発しているわけではない。にもかかわらず多くのマスコミは少年や精神障害者を敵視する報道を強めている。更に、特に精神障害者に関しては、憲法で規定されている「裁判を受ける権利」が剥奪されてしまっている。そのような歪んだ仕法の表出として、殺人でも「心神喪失」を理由に無罪放免になる犯罪者がいる一方で、軽微な窃盗でも「心神喪失」を理由に長きに亘って精神病院に強制入院させられる人がいる。

 私が「治安権力の横暴」と聞いて真っ先に思い出すのが、秋葉原における職務質問の急増に関する報道である。「AERA」平成17年3月7日号によると、秋葉原ではまだ何も罪を犯していない人が多く職務質問され、更には検挙までされてしまう人まで存在する(その「検挙」というのが、たとえば梱包を明けるためのカッターナイフの所持が「銃刀法違反」とされてしまうというもの)。他方で明らかな犯罪行為を行なっている人――例えば、コピーソフトを路上で売っている人――は検挙すらされない。平成16年末の奈良県の女子児童誘拐殺人事件以降、「オタク」が性犯罪予備軍の1カテゴリーとして――ちなみにこの事件の犯人に関して言えば、「オタク」と呼べる要素が何ひとつ備わっていない――見なされるようになった。警察のこのような行為も、そのうち法によって正当化されるのだろう。

 いまや、少なくともマスコミにとっては、犯罪そのものの被害を回復することよりも、「犯罪を起こす」カテゴリーを見つけて、それによって規定された人たちに対する排除行為を煽る――たといその人たちが統計的に一般人と大差ない犯罪リスクを持っていたとしても――ことのほうが関心事になっているようだ。社会が要求する「道徳」の水準が高まり、「僧院」のような社会が実現すると、共同意識が協力になり、少々の離脱でもすぐさま「道徳違反」として糾弾される、とはデュルケームの言葉であるが、我々はマスコミと「世間の目」と治安権力の共振による治安権力の限りなき拡大を目の当たりにしている。芹沢氏はこのように結論付ける。曰く、

 たとえば、あなたは言葉の通じない外国にいる。酒を飲んで自分の国の言葉で大声を出したとしよう。周りの人間に、あなたの声の意味はわからない。また、あなたの声を理解しようとする姿勢もない。ただ無作法な振る舞いに眉をひそめるだけだ。そして、「わけのわからないことを大声で叫んだ」と、あなたはどこかに拘束されてしまう。排除の現在が指し示すのは、こうした架空の話がリアリティーを持ちかねない未来だ。このような未来を現実のものとしないためにも、わたしたちはいまこそ社会的な想像力を多様なものに開いていかねばならない。多様性の中にこそ、自由の未来があるからだ。

 と。

 ただし、本稿では、司法と精神医療の関わりの歴史が省略されているので、その点について理解を深めたい方は、芹沢氏の『狂気と犯罪』(講談社+α新書)を(「2005年1~3月の1冊」も参照されたし)。

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 ベター1:渋谷望「ポピュリズムの最大の供給源はどこか」
 「現代思想」平成17年1月号の文章「万国のミドルクラス諸君、団結せよ!?」を、論旨をあまり変えずにわかりやすくしたもの。ここでは近年の社会階層論=「中流崩壊」に関する議論が見落としてきたものを問題視する。とりわけ冒頭における、《「勝ち負け」言説は「負け」状態をネガティブに捉える反面、「勝ち」状態を無条件にポジティブなものと見なす傾向がある》という指摘は重要だ。

 最初のほうにおいては「総中流社会」論が「日本的経営」論と合わせ鏡になっていることを指摘。そのような「総中流社会」論は、企業中心社会としての日本の共同体を肯定するというイデオロギー的側面を持っていたが、平成不況により経済が後退すると、日経連の平成7年のレポートに代表されるような、正社員の数を絞り込んでフリーターなどからなるフレキシブルな雇用を増やすことが提言されるようになり、結果として「総サラリーマン化」としての「総中流社会」論はリアリティを失う。また、90年代以降の雇用理論は、「成果」と「競争」というイデオロギー的メッセージを伴っている。

 そのような中で、「中流」以上の階級意識を持っている人の総体において、その「結果」に至る排除のプロセスを誇ることができないため、彼らが「勝ち組」である自己を論理的に正当化する理論を持ち得ず、「中流」以上の人にとってはまた別の「気恥ずかしさ」が存在する。しかしそのような「気恥ずかしさ」を打ち消すのが敵愾心であり、ある種の「敵」を設定してそれを叩くことにより自己を正当化する。これがポピュリズムである。

 昨今の「下流社会」論まで斬り込めていないのが少々心残りであるが、「ゲーム脳」やら「ケータイを持ったサル」やら「フィギュア萌え族」やら「下流社会」やらといった、やたらと都市中流的なステイタスを基盤に若年層をバッシングする言論がなぜ流行するのか、ということに関して何かしらのヒントを得たい人にとってはこれで十分であろう。ベストで採り上げた芹沢一也氏の論考と併読するとなおさら得るものは大きい。

 ベター2:中島岳志「窪塚洋介と平成ネオ・ナショナリズムはどこへ行くのか」
 団塊ジュニア以降の世代にとっての「国家意識」を問題化する論考。ポスト団塊世代が、例えば宮崎哲弥氏や福田和也氏などに代表されるように、もっぱらこの世代の「保守」の立場はいわば「アイロニーとしてのナショナリズム」で、ナショナリズムを不適切なものと見なす視線が確立していることを自覚した上でナショナリストを自称することにより、ある種のアイデンティティを持つようになる。

 しかし団塊ジュニア以降の「ゆるくて熱い」心理は、ポスト団塊世代とはまた異質なナショナリズムを生み出す。中島氏はその典型例として俳優の窪塚洋介氏の言動を挙げる。窪塚氏は高校時代はアイデンティティの問題にぶつかり、自分の個性とは何か、ということに関して深い疑念を抱くようになるが、行定勲監督による映画「GO」で在日コリアンの青年の役を演じることにより、自分のアイデンティティが「日本人」であることを強く認識するようになる。その表出が、窪塚氏が全面的に企画に関わったとされる映画「凶気の桜」である。更に、このような、《不純物を一掃し、「真正の日本」を求める》心性が、窪塚氏をニューエイジへと誘導する。

 このような《ニューエイジ的世界観と結合したナショナリズム》、すなわち《ニューエイジ的生命主義からオルタナティブな世界のあり方を志向し、エコロジー、反戦平和、メディテーション、有機農業などへの関心が、縄文的アニミズムの称揚や「母なる大地」との一体感を唱えるナショナリズム》こそが、20代を中心に台頭し始めている《平成ネオ・ナショナリズム》であると中島氏は説く。説得力のある議論であるが、私は、ニューエイジ的な思想を俗流若者論と結びつけ若年層を批判し、更にナショナリズムに走っていった江原啓之という前例や(「反スピリチュアリズム ~江原啓之『子どもが危ない!』の虚妄を衝く~」)、それ以外にも「戦後における自然との繋がりの否定が若年層を駄目にした」という言論をいくらか知っているので、中島氏の言うところの《平成ネオ・ナショナリズム》は、ある種のアノミー的な状態で台頭しているナショナリズム、スローフード運動と同様のナショナリズムであるようにも見える。

 ベター3:櫻田淳「自民党の〈変貌〉と保守・右翼層の〈分裂〉」
 平成17年9月14日付の産経新聞は、ある閣僚経験者の観測として「自民党は保守政党ではなくなっているのではないか」という発言を採り上げた。昨今における自民党の人事の背景には、我が国における「保守・右翼層」の変質がある、ということを述べた論考。

 近代の我が国における保守勢力には、明治以降の近代化・産業化の流れを汲む《明治体制「正統」層》と、経済停滞や社会不安、及び戦争に伴う国家総動員体制に応ずる形で、経済活動に対する国家統制や国民生活の平準化を進める「1940年体制」を戦後も推し進めた《「1940年体制」寄生層》、そして国民の「安定」や「福祉」よりも、国家や民族の「維新」「自立」を重視する《「民族主義者」層》に分かれる。

 戦後の経済発展は《「1940年体制」寄生層》によって推し進められたものといえる。また、この3つの層は、ソビエト共産主義体制に対する敵愾心によって一つにまとめられたが、その体制の崩壊後は3つの層の差異が露骨に現れてしまう。そして平成17年9月11日の総選挙で浮き彫りになったのが、《「1940年体制」寄生層》の敗退であり、「活力」や「独立自尊」といった用件が「平等」や「弱者救済」などよりも優先するという、《明治体制「正統」層》の政治理念における復活といえる。

 文中で若年層を問題化しているのが少々気がかりであるが、保守政治の変容を考えるには示唆に富む論考といえる。

 ベター4:東浩紀「大塚英志の苛立ちを受け止めよ」
 連載コラムの場所を借りた、大塚英志、大澤信亮『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるのか』(角川Oneテーマ21)の書評。この本に関しては私は未読なのだが、アニメが文化である以上、現在政府が推進しているありきたりな「コンテンツ・ビジネス推進」ではむしろアニメ文化を後退させる、という主張は大いに納得できる。

 ベター5:宮崎哲弥、川端幹人「中吊り倶楽部 宮崎哲弥&川端幹人の週刊誌時評 第4回・「下流」人間が読む雑誌は?」
 現在大流行の「下流社会」論の欠点を冒頭で鋭く指摘。現在の「下流社会」論が、ただ大衆の不安ばかりをあおるものとなっている、という川端氏の危惧に対し、宮崎氏はむしろ週刊誌こそが「下流社会」の見方をすべきだ、と主張する。でも、ここで俎上に上がっている「週刊ポスト」は、ターゲットとしている年齢層が高めだし、宮崎氏の主張どおりの報道(週刊誌は「下流社会」の悲痛な叫びを取り上げるか、あるいは「「下流社会」で何が悪い」と主張すべきというもの)は期待できないのでは?これは他の多くの週刊誌でも然り。ちなみに宮崎氏は、「諸君!」平成17年12月号で、三浦展『下流社会』(光文社新書)を「今月のベター」で採り上げている。

 最後のほうでは「少年犯罪と脳」の話に触れる。宮崎氏は、脳科学で犯罪の原因を突き止めることに期待しているようだ。対して川端氏は少々批判的。このことに関する宮崎氏と川端氏のやり取りは参考になる。関連情報として、宮崎氏は「諸君!」平成18年1月号で、草薙厚子『子どもが壊れる家』(文春新書)を、「犯罪は「心の問題」ではなく「脳の問題」なのでは、という問題意識はうなずけるが、だからといって「ゲーム脳」などという疑似科学なんて引くな」という理由で「今月のワースト」として批判していることを採り上げておく。

 ワースト:該当なし

 番外編:中瀬ゆかり「今月の5冊 神林広恵『噂の女』」
 中瀬氏が書評している本の著者・神林氏は現在休刊の雑誌「噂の眞相」で文壇のスクープを報じ続けた人。また、中瀬氏は常に「噂の眞相」の標的になっていた人物であるが、そのような人物にこのような本の書評をさせる「論座」はある意味すごい。神林氏の本に関しては私は未読だが。

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